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■■■■■ 対談・鎌倉の頼朝・文覚
服部 明子 「今日は犀川 武廣さんをお迎えして鎌倉の頼朝と文覚についてお話を伺います」
犀川 武廣 「鎌倉市のはずれ、逗子市にまたがる山の中に「曼陀羅堂跡」という所があります。昔この地に「曼陀羅堂」が存在していたのでしょう。今はその面影も跡形も残っていません。
現在そこに残るのは、200を超す「やぐら」と数え切れない程の「五輪塔」そして四季折々の「花」、深い緑の「木々」です。それらが静かな凛とした空気のなかで私を迎えてくれます。
やぐらは「窟」とも書き、たまに地方にもありますが、殆どは鎌倉付近に集中していると言っていいでしょう。やぐらは倉庫などに使われることもあるようですが、鎌倉のそれは「墓」そのものです。一説には平地の少ない鎌倉で山や崖に窟を掘り、それを墓とした合理的な方法だと言われています。
しかしどこでも近代化の波が押し寄せ、過去の貴重なやぐらが壊され宅地に変貌していくのは、理解は出来ても辛いものがあります。ですが、いまだに新しいやぐらが発見されることもあり、「何が発掘されるのか」と胸を躍らせることもあるんです。そんな鎌倉は不思議な、魅力ある街です。
やぐらを見るなら鎌倉の山寄りを歩けば簡単に発見出来るでしょう。(たまに、防空壕があり間違える。私は防空壕を知る、古―い人間なのです。)でも、一箇所にこれだけ多くのやぐらがあるのは曼陀羅堂跡以外知りません。誰が何のためにここに集中して造ったのでしょうか。
やぐらに附随して五輪塔があります。ここにいくつあるのか知っている人はいるのかしらと、首を傾げたくなる程多くの五輪塔がやぐらの内や外に、山をぬうように進む道端に、或はふと見下ろす草むらの中にあり挙げればきりがありません。
五輪は五つの輪、すなわち上から空・風・火・水・地を形作っていると言います。
一つ一つの輪云々より、私はこれは「宇宙」そのものと思います。 人の輪廻が地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天なら、宇宙の輪廻はこの五輪のそれでしょう。これはよく言われてきたことなので、改めて言うこともないのですが、要は「宇宙の流れ、つまり運命に逆らわず、素直に生きなさい」と言われている、そう諭されているように思います。
土に還えろうとしている五輪塔に向かうと彼らと何かを話したくなります。
もう忘れてしまいましたが、この五輪塔にも墓標と供養塔の意味があり、それは石の種類で区分されているとか。見分け方は苔の着き方だそうですが、知っている人がいたら教えて下さい。
曼陀羅堂跡のもう一つの特徴は「花と木」です。5,000株の紫陽花、10,000株の菖蒲、そして菜の花、山百合、彼岸花、萩の群生、名も知らぬ木々の繁り、枝垂桜と息が詰まりそうです。
中世にふと戻り、宇宙の輪廻を感じ、咲き乱れる花々に魅せられて、ある女流作家はここを「桃源郷」とよぶに相応しいと書きました。
ここは平安末期から鎌倉時代に掘られた墓です。少なくともここを訪れたら、それに相応しい言動、神聖な心が必要だと思います。そんな雰囲気させる「曼陀羅堂跡」です。」
服部 明子 「苔のつきかたで違いが分かる、ということは使用石の素材が違うということでしょうか?地学は苦手だったので岩石の種類とか性質とか用途とか記憶に残っていません。1993年に赤間神宮で神職さんから石の種類によって何百年も持つ物と崩れの早い物があるというようなことをお聞きしたような気がします。地学が苦手だったので聞き流してしまいました。」
犀川 武廣 「鎌倉幕府が崩壊した1333年、東勝寺で切腹した北条高時の「腹切やぐら」。 私もあのやぐらの中には入ることが出来ませんでした。 あのやぐらの前に立った時、身体が震える程の強い「霊」を感じたのです。 高時と共に切腹をした側近やその部下たちの「怨念」のような霊が、高時の霊と一緒にあのやぐらに充満しているように思えました。それからは数えきれない程、鎌倉を訪れてもあのやぐらの前に立つことはありません。
ちなみに平家の支流、北条一族(鎌倉時代に限る)の墓が現存する場所を列記しておきますね。 何かの時の参考にして下さい。 (あいうえお順)
北条顕時(称名寺)・貞時(円覚寺・仏日庵)・実時(称名寺)・重時(極楽寺)・高時(宝戒寺・供養)・経時(光明寺)・時氏(大慈寺山麓・墳墓堂)・時政(伊豆・願成就院)・時頼(明月院)・長時(淨光明寺)・泰時(常楽寺)・義時(頼朝墓・東側山中)・北条一族菩提寺(伊豆・成福寺)。
私の知識の範囲はこの位までです。
五輪塔の苔の件ですが、墓標と供養塔では使っている石材を区別していることからだと思います。墓標は質のいい石を使うから苔は着かない。 供養塔は一寸悪い石で作るからすぐ苔が着く。 それとも逆かな? どっちにしても、時間はいくらでもあります。 ゆっくり解決していきましょう。
「何とか巡り」というのは、それ相応の知識、下調べ、時間が必要です。 皆さん、何かを目標にしての歴史巡りは、決してつまらないものではなく、何かしら心に残るものを得られる旅になります。遠い所へ行くのが旅ではありません。私がそうであったように、史跡というのは意外と近所にあったりするものなのです。」
服部 明子 「私のイメージでは「ただの土の横穴」ですが、石造りなんでしょうか?古代の石室みたいな? 昔は罪人を閉じ込めていたりもしたのではないですか? 木曾軍の手塚の娘でしたか?鎌倉に連行された母親を尋ねて幼い姫が苦労してやっと母に会う話。あの母親が入れられていたのが「やぐら」のような気がします。「やぐら」って盆踊りの時のやぐらじゃなくて、「倉」の1種で物や時には罪人を入れておく入れ物なのではないでしょうか?どうも見たこと無い者には見当も付きませんね。鎌倉の人には日常の物なのでしょうけど。」
犀川 武廣 「「やぐら」は御墓です。 ですから、服部様の言っている『唐糸やぐら』は正確には「やぐら」ではないと思います。 単なる「横穴」か「牢穴」と言うべきでしょう。近代になって鎌倉で掘られた中世の横穴は何でも「やぐら」と呼称してしまった為、御墓なのか倉庫なのかで混乱してしまったと考えられます。
「やぐら」は土を掘ったものもありますが、殆どは岩を掘削したもので、中には源実朝・北条政子・大江広元の「やぐら」のように、四方をきちんとした石で囲み、真中に納骨穴、その上に石塔といった立派なものもあります。 当然ですが、それらの内部は美しい色を施してあったといいます。それと忘れていけないことは、「やぐら」は上層者だけの特権であることです。 ですから、簡単に穴を掘っただけ、というものは殆ど無いということになります。 本当の「やぐら」かどうか見極めるのも鎌倉歩きの醍醐味でしょう。
鎌倉での「やぐら」は約1,200基ありますが、埋もれているものをふくめると約2,000基あると推定されています。 あと800基も埋もれているんですよ。
五輪塔は10cmから1m80cmまでのを見てきました。 これは謎の多い物体です。研究とまではいかないまでも、勉強くらいはしてもその価値はありそうですね。 「やぐら」とともに訪ね歩きたいと思っています。」
服部 明子 「鎌倉の源氏についてはどうですか?」
犀川 武廣 「鎌倉で源氏を追うには、頼朝・頼家・実朝の三人を追えばそれですみます。鎌倉時代は続いても、源氏はこの三人で、後は平家の流れを汲む「北条」に移ったからです。
残念ですが鎌倉に「平氏」の面影は殆どありませんが、しかし、鎌倉には平氏・北条の歴史が渦巻いています。何故なら私は、本当に勝手で個人的な考えではありますが、北条は「平氏」から抜け切れていないと考えているからです。つまり、北条の中には厳然たる「平家」の血が流れており、「源氏」に対抗する宿命を帯びていたのです。一つの例を挙げれば、頼朝に想いを寄せていた北条政子が、何故平家の守護神である厳島神社を三嶋大社の境内に勧請したのでしょう。北条は、「平家」そのものだからではないでしょうか。
頼朝・頼家・実朝源氏三代の将軍の死も恐らく北条或は北条シンパの謀略でしょう。源氏滅亡後の北条執権時代に入ったらたちまち起こった梶原・畠山・和田らその側近たちの滅亡。全てが北条の謀略と考えていいでしょう。頼朝の時代に起こった美談「曾我の仇討」もその名を借りたクーデター。それも結局、北条の策略でした。やはり底辺には、源氏対平氏の図形が出来ていたと思います。頼朝は平氏と結婚し、平氏に囲まれて生きていたのです。
「怨霊」のある鎌倉という人もいます。あるとすれば、それは源氏ではなく、平家の流れを汲む北条に対してでは……と思います。「戦(炎)の街」の鎌倉という人もいます。あるとすれば、それは源氏の時代ではなく、北条・執権の時代になってからでは……と思います。
頼朝は常に直面する死への不安と予感、追い詰められたどうしようもない心境だったのではないかと推測出来ます。言うに言えず、動くに動けず、悶々とする三人の将軍たち。頼朝は、何とかそれに耐えられたにしても、二代・頼家、三代・実朝はとても耐えられるものではありません。それは頼家、実朝の将軍になってからの行動を見れば解ります。「傀儡」に何が出来るでしょうか。 したくとも出来ない時、出来ることは「開き直り」しかありません。
しかし、厳然と今がある以上過去は過去として清算しなければなりませんが、三人の将軍の心中・気持を考えると「やりきれなさ」が胸を打ちます。だから、だから、だからこそ源氏三代が愛しく、好きで好きでたまらないのです。」
服部 明子 「時政にとって京都での平家の権勢は羨ましかったでしょうね。自分には望むべくもないと諦めていたと思います。政子が頼朝と恋仲になってがっかりしたことでしょう。でも女って怖いんですよ。政子はさんざん頼朝には裏切られていますからね、最後に仕返ししたのかしら?上手く言えば「自分の子さえ見切った」賢い女。でも実家というのは重いと思います。平家を倒したのは「ウチ」との誇りがあるから「今こそ平家に替わって!」と実権を踏襲する権利を1人占めしたのでしょうね。出来の悪い子供達。頼朝に近い目の上のコブの同僚達。処分するのにやましさなんて政子の「苦労してここまでにした」思いには些細な問題だったのでしょう。政子って女性は「子ゆえの闇」にははまらなかった特異な強さを持った女性と思います。」
犀川 武廣 「ひねくれ者の私は、大好きな頼朝に限らず、「歴史」や「伝説」や「…と言われている」の文章に『本当だろか』と疑問を投げかけます。勿論、都合が悪くなると『フムフム』と納得してしまう図々しさも持ち合わせます。そして、私だけでしょうか。 人から見ると「阿呆か」と思うほど、小さいことにこだわります。
今回こだわったのは、「頼朝が石橋山で初戦惨敗の後、安房の国に逃げどこへ上陸したか」でした。 通説では、安房・猟島(鋸南龍島)ですが、本当でしょうか。地図を見て下さい。 頼朝がこんな動きをするとお思いでしょうか。
それに従えば、鋸南上陸―(那古観音を通り越して)―洲崎・洲崎神社(上陸して一番始めに参拝したと言われている)―(館山に戻って)―館山・那古観音―安房・国分寺―上総・国分寺―下総・国分寺―。 早く再起を願う時にこんな無駄な行程を踏むと思いますか。
通説を覆すなら、洲崎上陸―洲崎・洲崎神社―館山・那古観音―安房・国分寺―上総・国分寺―下総・国分寺―。 この方が自然で、素直だと思います。」
服部 明子 「なるほど」
犀川 武廣 「今回の旅はこの疑問からスタートしました。洲崎神社には「源氏再興の折には、領地の寄進を約す」旨の頼朝の約束がなされました。それは一番に参拝し、一番に上陸した地だからこそ出来る約束です。「歴史は事件と同じ、現場〔現地〕を歩くことで解る」をモットーにしている私は歩きました。
あったんです。 洲崎神社からすこし北側、館山に向かおうとして歩いていました。その時、「これを見てくれ」と言わんばかりに一つの石碑がありました。 「源頼朝公上陸地」と書いてあるんです。 まるで、鋸南に対抗・抵抗しているかのようにです。そして隣の石には 『源は 同じ流れぞ石清水 せき上げてたべ 雲の上まで ・・頼朝』このうた、「さあ、上陸したぞ」と言う時に詠んだと思いませんか。どうみても二・三日たってから詠んだうたではないと思うのです。
意を強くした私はこの後、『フムフム』と一人納得し、頼朝の歩いた行程をともに歩きました。鎌倉までは、何日かに亘って歩くことになりました。 これで、奇跡の再起のことがわかるでしょうか。何も解りません。たった7人で安房に上陸した頼朝は、江戸湾をぐるっと周る39日間でそれが5万騎に膨れ上がる。この奇跡は俗に言う「貴種」の祭り上げだけでしょうか。 それは単純過ぎる結論です。奇跡の謎は、源氏や鎌倉幕府の謎を解くより難しいと言われます。あと何回か、頼朝と歩く必要がありそうです。
頼朝は国府周りをしたらしいのですが、国府跡は明確でない所が多々あります。たいていは近くに「国府台」の地名をもちます。 それでも、国府跡と明確に示されているのは、近県でもほんの数カ所に過ぎません。ですから頼朝の行程を追う場合は、国府と殆ど同じ位置に立てられた国分寺を目安にしました。国分寺も鎌倉時代と今の位置が違うもの(安房、武蔵、相模)と、殆ど位置が同じのもの(上総、下総)とがあります。面白いのは、(本当は深刻な問題なのですが)管轄している市の文化財に対する意識が表れていることです。 整備状態・道案内・説明状況でその市の取り組み姿勢が読み取れます。
共通して言えることは、何故か国分寺は他のお寺さんと比べて「静けさ」を持っています。不思議と言えば不思議な現象です。 しかし、中世に還るには最適と言えるでしょう。この紀行、どう行けばいいと聞かれても困る代物です。石橋山をスタートし、静岡―神奈川―海を渡って千葉―東京―再び神奈川―鎌倉。車で行っても一寸大変。 でも、時間の有る人、この紀行を自分で歩いたら絶対「頼朝ファン」になりますよ。」
服部 明子 「上総の国分寺を捜せば上総国の中心地が分かりますね。」
犀川 武廣 「千葉県市原市惣社、JR総武線五井駅バス国分寺台行き「市役所」下車徒歩5分の所に上総・国分寺があります。旧国分寺は向かって右隣に「上総国分寺跡」として残っています。そこから西方徒歩15分の、小湊鉄道・上総村上駅付近までが、国府跡ではないかと推定されます。旧上総国分寺は13万平方米と膨大な広さを誇り、武蔵・国分寺に次ぐ全国第2の規模であったといいます。
それに比べれば現在の国分寺は小さいものですが、仁王門の所に将門の墓と伝えられる「将門塔」がある、とても静かな真言宗のお寺です。 境内を歩くと、心が落ち着く自然に囲まれた、贅沢な気分になれる雰囲気を持ちます。寺の周りもまだ自然が残る、田園風景が広がりますが、この景色いつまでもつでしょうか。
この地で頼朝と平広常が「お前、わしの配下に入れ」「お前ごとき若僧の言うことを聞くか」などとやりあったんでしょうね。 結局、広常は頼朝が下総・国分寺を出立、武蔵の国に入る前に傘下に入りました。「頼朝なら、上総の国は安堵出来る」と思ったからでしょう。 問題は何故そう思ったかです。源氏の嫡流からでしょうか。 頼朝の人間性でしょうか。 今となっては誰にも解りません。」
服部 明子 「ありがとうございます。「将門のお墓」ですか。後味悪かったですから、お墓を建てたんでしょうね。周りが次々と頼朝の傘下に入ったから「入った方が楽」と思ったとしたら、私の
ような「楽な道を取る」人だったかも。 (^^; ごめんなさい。でも、そこのところの心理状態を考えるのは面白うございます。」
犀川 武廣 「 源頼朝が伊豆に流されていた期間は丁度20年です。その「蛭ケ小島」のある韮山近辺は、流石に頼朝関連の史跡でいっぱいです。ですから、私が伊豆に行く回数が多いのは当然と言えば当然です。
いずれ一つ一つ紹介をしていこうとは思いますが、今日は文覚上人の関連を伊豆で拾ってみようと史跡を歩いてみます。文覚についてはあまりにも有名人ですから、説明は省きます。文覚が京から伊豆へ流された奈古谷は、頼朝のいた蛭ケ小島から数キロ程の場所です。何故こんな近い所に流されて来たのでしょうか?運命の悪戯と言ってしまえば、確かにそうかも知れません。平家方がもう少し地理に詳しければ、そうはしなかったかもしれません。
文覚は頼朝に源氏再興の旗揚げをうながしたということで有名です。その直前に頼朝の父・義朝のくびを京より持ちかえり「父上の無念を晴らし、天下をとるためにも源氏再興を」と迫ったという話があります。又、伊豆の小鍋神社には義朝のくびが埋められているとの伝説が昔からあります。そして、鎌倉に建立された三大寺院の一つ、勝長壽院が落成した時「源氏の菩提寺」ということで義朝のくびが埋葬されました。これもやはり文覚が京から持ちかえったと言われています。
野間大坊、大御堂寺には義朝の墓もありますし……。源義朝はいくつのくびを持っていたのでしょうか。
文覚に戻ります。」
服部 明子 「はい」
犀川 武廣 「出来れば奈古谷のバス停からは山道(といっても舗装はしてある)を歩きたいものです。原生林に囲まれた木々の間をぬうように進んで行くこの山道は、私たちに自然と素晴らしい空気とを恵んでくれます。もっとも、ここはバスが通っていませんから、自動車で行く以外は歩かざるを得ません。歩くことで沢山の道祖神に逢うかとが出来ますし、頼朝と政子の腰掛岩などを見ることが出来ます。又、途中には文覚上人流寓跡もあります。思わず「こんな所に流されてきたの」思いたくなるほど、寂しい場所に跡碑があります。車なら、知らぬ間に通り越しているでしょう。
1時間弱の山道を登ると、毘沙門天堂に着きます。山道を行っても堂にいけますが、出来ればその手前から急な階段を登る参道をいきましょう。私が訪れたのは秋でした。春に来た時とはまた違った風情がありました。落ち葉が階段を埋め尽くし、まるで茶色の絨毯を歩いているようです。一歩一歩階段を登るたびに、落ち葉がざわめき、カサカサと音がします。その内、そのざわめきとカサカサの音の異常に気がつきました。何と、落ち葉の下に何十匹いや何百匹の沢蟹が隠れていたのです。私が階段を登るごとにざわめいたのは、踏まれまいと逃げる沢蟹の音だったんです。階段の途中から、今度は蟹たちを踏むまいと大変な行程になりました。ほどなく金剛力士門に着きます。
毘沙門天堂の仁王門ですが、二体の金剛力士像はあの運慶作ではないかと言われていますが、確定すれば国宝級のものとなるでしょう。尚、この像は運慶が修理をしている証拠は残っているとのことです。山を下った韮山の付近にある願成就院に、北条時政が造像した運慶の仏像があることを考えればあながち嘘ではないような気がしてきます。この参道には蛇石・夫婦石・谷響石・弘法石・大日石・護摩石・冠石の「七つ石」と言われる石が残っています。
毘沙門天堂は新しく建て替えられ、古い面影はありません。頼朝が文覚上人に建立を依頼した説と、もともとあった毘沙門天に頼朝と政子が源氏再興を祈願した説と二通りあります。毘沙門天像は慈覚大師作といわれますが、めったにお目にかかることは出来ません。それとも頼めば拝むことが出来るのでしょうか。
伊豆で頼朝に近い存在であった文覚は、鎌倉に出ても屋敷を構え頼朝とともに歩みますが、頼朝が亡くなり頼家、実朝が世を去ると北条の手で佐渡へ流されます。
文覚上人というば松崎の円通寺を建立したことでも知られています。頼朝のいた蛭ケ小島からも、文覚が流された奈古谷からも遠い遠い松崎ですが、ここに建てた円通寺は―大変失礼ですが―お寺よりも周りの史跡の方が印象に残ります。円通寺の奥の院であったと伝えられる遭遇堂、別名相生堂は頼朝と文覚の「旗揚げを話し合った場所」として石碑が立っています。
この相生堂は杉の林を上った山の中腹にありますが、流石、文覚上人「密会」の場としては最高に見えない絶好の場所といえます。
しかしながら、相生堂そのものの言い伝えや役割を知らないため、そこへ通じる道すら草に覆われ、案内も見えにくく価値が下がってしまうことを懸念します。でも円通寺の周りは仏の小道など多くの道路が整備され、昔の面影はそのまま残す工夫もされています。四季折々の楽しみ方が出来る場所として、お薦めの一つです。
奈古谷の文覚上人流寓跡や毘沙門天堂、松崎の円通寺付近、ここは一人より二人、鎌倉時代を語れる人と散策したら、こんないい場所はないでしょう。
と言いつつ、私はいつも一人旅。」
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