服部明子の平家物語研究室

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頼朝の娘達の死の謎

■ 頼朝の娘達の死の謎

聖武天皇の大仏建立は大国家事業だったので、1180年に焼けた東大寺を頼朝が1195年に大仏再建を成し遂げた、ということは凄い力を確保していた、と驚くと共に献身的・経済的に朝廷の為に奉仕する頼朝の姿が浮かんで来たわけです。

先ず、東大寺は日本国総国分寺だから、と朝廷の面子を立ててあげた頼朝がそれ以降も朝廷との安定的関係に心を砕いたことは忘れてはならない功績だ、と改めて考え直し頼朝の娘達の為の入内運動もひょっとすると別な意味があったのではないか?と思うようになりました。

しかし、頼朝の子供達の死は実に不思議なのです。全員死んでしまったというところが釈然としないんです。

最初の子供は子供の実の祖父に当たる伊東祐親に殺されました。男の子達2人の死の経緯は表面的には「はっきり」?歴史に書かれていますが女の子達の死は「曖昧」です。長女に続いて入内させたかった次女も死んでしまいました。結局は頼朝の娘達の入内は無かったのですが娘2人の死が私には「謎」になってしまいました。

つまり長女・大姫の死はなんとなく納得させられていましたが次女・三幡の死は逆に大姫の死も実は欝病こうじての死ではなかったのではないか?と疑うようになったのです。

頼朝の大姫と三幡の入内運動:

1。大姫に対しては親として、ふびんな大姫に最高の結婚をさせたいとの考えで後鳥羽天皇に入内させないかとの話に飛び付いた、と単純に考えていました。
2。しかし三幡に対しては「政治」的に必要だと考えたからではないか、と思います。

頼朝の朝廷への誠実さの具体化として、朝廷を押さえる為ではなく「融和」の為だったのでは?
例えば「わたくし<頼朝>は決して朝廷を軽んじているわけではないのですよ。ですからウチの娘をそちらに差し上げてわたくし<頼朝>の誠意とさせて頂きたい」と。

ましてや頼朝が天皇の外戚になって朝廷を操ろうとしたから入内話に乗り気になったのではなくて 「娘を入内させれば鎌倉と京都の仲がもっと穏やかに運ぶ」と考えたのではないか?と。

1。後鳥羽天皇は安徳天皇が平家と共に西下した為天皇になれたのだから鎌倉には感謝があった筈だから頼朝から娘を貰ってくれと言われたら嫌な理由はなかったでしょう。

2。頼朝が朝廷を幕府の下で支配する為に外戚になろうとしていたなら別に大姫や幼い三幡でなくても頼朝の母方の藤原の娘でも頼朝の身内の娘でも政子の妹の娘でもだれでも良かったでしょう。

3。頼朝に朝廷を押さえ込もうとする意図がなかったことは頼朝が鎌倉で過ごしたということから、彼は京都を切り離せる人だった、と分かると思います。

当時の日本人にとって京の都とは絶対的な場所であった筈ですし、木曾義仲でも平家でも玉体を自分の方に拉致しようとしました。しかし頼朝は京都には2回しか出掛けていません。

大姫と三幡の死について:

大姫の健康状態は、京都まで出掛けているし、親が結婚させようとした位ですから今にも死にそうな病弱というわけではなかったと思います。それに頼朝と政子・健康そのものの男女から生まれた子供達ですから三幡も簡単に死んでしまうとは思えないのですが。

もともと入内話は貴族達の世界の大変な大問題で、貴族達はいかに自分の側の娘を入内させるかに腐心したわけですから、貴族達は自分達の間の争いを放ってでも頼朝の娘の入内話には邪魔をしたでしょう。その為には組みたくない手も組んだでしょうし、どんな汚ない手も使ったでしょう。

大姫と三幡の入内が無くなって喜んだ人物・得した人物が怪しいと思うのですが。


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