■■■■■ <対談>千葉氏について
服部 明子 「いらっしゃいませ。是非、平家物語の時代の前後も含めまして関東の様子などお願いします。知らない場所のお話が拝見出来ると思いますとわくわくして来ます。千葉氏の気骨のお話など楽しみにしております。」
千葉 江州 「平家物語で美しいとされるのは平家が凋落していっても一門で仲違いをせず滅亡の末路を共にしていったところですね。親子関係で見れば京の平家は仲睦まじく儒教の教えに違わず孝養を旨としていた傾向が多分に感じられます。
関東の草深い房総平氏の傍流であった千葉氏も常重を頂点に常胤とその七人の子達(後に千葉六党/ちばりくとう)も一族の絆が強く、非常に結束が固かったようです。時流に逆らいながらも盛んにアンテナを張り出して来るべき時代はどうなるのかを模索し続けていたのでしょう。
中でも常胤の子千葉六郎胤頼は文覚上人を伝手に遠藤持遠の推挙を受けて上西門院に仕えて"平家に非ずば人に非ず"の時期に堂々と京都に乗り込んでいましたし、何食わぬ顔で源三位頼政と以仁王の宇治川攻めの平家軍の中に居て関東の武士団の温度差を体感していたのでしょう。勿論、対岸に実弟(常胤七男)で園城寺の僧であった律静房日胤が決死の覚悟でいたのにかかわらずです。日胤も頼朝の祈祷僧でありながら園城寺に入り、仏教界から京の動静を頼朝や下総の父へ伝え続けたのでしょう。
この二人が早くから頼朝の元に出入りして京に上っても常に連絡を絶やさず取っていたことが彼らの運命を変え、引いては千葉一族の命運をドラスティックに変えたのですから、末裔であるからこそ余計のめり込んでしまうのは仕方がないことですね。」
服部 明子 「どんな状況にあっても情報収集はサヴァイバルの基本中の基本なのですねぇ。その為に子供は沢山いる方が四方八方への駒となってお家の繁栄に寄与。下総の千葉氏も安穏と領地で暮らしていたわけではなく、東国の武士達の家もこうして積極的に都の空気を掴もうとしていた、ということが分かってきますね。千葉氏についてお話し下さると他の豪族達の動向も見当がついてきます。」
千葉 江州 「千葉胤頼が大番で上洛していた時に使えていた上西門院のことで最近になって学会の方も注視されているようですが、実は上西門院は対平家戦略上重要な拠点だったのですね。平家物語や源平盛衰記などに登場する60人以上の武人が上西門院と関係を持っていたらしいですよ。(上西門院は後白河法皇の姉に当たられるようです。)
(切っ掛けが分からないのですが)胤頼は文覚上人に師事していたらしく、その線から文覚の実父遠藤持遠の推挙を得て上西門院に仕えることになりました。持遠自身も門院に仕えていた経緯があり、しかも文覚自身も俗世では門院に仕えていたのです。しかも伊豆の頼朝は都に居た際に実は上西門院の蔵人に任じられており、見事にコネクションが成立しているのです。(文覚上人を頼朝に引き合わせたのが胤頼だったとの説が強いのですが、果たして順序はどうだったのでしょうか?少し疑問を覚えますが)
頼朝が胤頼と三浦義澄を門院に送り込んだのは将来を見据えて布石を打つために対平家戦略を二人に託していたのかも知れません。上総介広常の実弟金田頼次も大夫を号していますが、若しかすると同じく上西門院に伺候していたのでしょうか。相模湾に向き合った諸豪が一つの戦略の下に結束して動いていた可能性がありますね。
」
服部 明子 「上西門院ですか? 喰えない兄に喰えない姉? 面白いですね。あの兄に気の強い妹がいた、ということは確かでしょうし政治に関心のある女性が裏で糸を引いていた、ということも確かでしょう。千葉胤頼と上総介広常の関係などもお聞かせ下さい。」
千葉 江州 「千葉常胤と上総介広常は保元の乱の際には義朝軍の中核として同陣で活躍している中ですから面識も出来ていたでしょうし、お互い認識する存在と認めていた可能性はあります。ただ、彼らの子供達とではどうだったでしょうか?直接面識を持つのは治承四年が初めてだった可能性が高いですね。
それまで上総介の一族とは所領の問題で係争した経緯が多々あるようですから、少しはシコリが残っていたのではないでしょうか?胤頼とて六男の分際では分けてもらえる所領がジリ貧となれば、頼朝を担いで一発大博打を打って運を切り開いてみようかと思い立つのも無理からぬことと思います。そういう意味でも隣り合わせの有力者に対してはあまりいい感情を持っていなかったのではないかと思うのです。
仮定での話ですが、胤頼が直接上総介と面した期間が短かったとすれば、腹心を使って広常を暗殺した際に胤頼も頼朝から直命を受けて上総介一族の捕縛に関わっていたことが考えられますね。長年近侍した頼朝の方にこそ情は深くあっても上総介一族に対しては弁護に回るよりも頼朝の命令に准じて(ひょっとすると所領を分けてやるぞとの示唆があったのかも知れませんが)討伐の方に喜んで荷担したと思いますね。広常の暗殺と同時に彼の兄弟や甥達は全て連座して捕縛されていますから、上総介の一族と面識を持った胤頼などが捕縛の際には面割りのために役立ったのかも知れないですよ。
仮定と断りましたのは、実は義仲攻めで千葉一族も範頼軍に従軍しており、鎌倉に居なかった可能性が高いためです。ただし、そういう暴挙を起すには股肱の臣達を頼朝は駒として使ったと推測されますので、その意味で胤頼も鎌倉に呼び戻されたのではと想像するのです。というのも後年平家攻めで上洛の途に着いた常胤が政所の吉所初めで土肥実平とともに行軍中から呼び戻された例が吾妻鏡で記録として残っていますから。」
服部 明子 「下総と上総との<アツレキ>というのは「隣同士は仲が悪い」という俗言からも
想像は出来ましたが、個人的にどうだったのか、という部分が拝見出来て興味深かったです。歴史から人間が生き生きと見えてくるところが非常に面白いですね。」
千葉 江州 「最後に畠山重忠について触れておきたいと思います。
鎌倉御家人の畠山重忠という名前からは髭もじゃの厳つい威丈夫を連想させますが、治承4年当時17歳の若さだったんですよね。しかも吾妻鏡や源平盛衰記においても清々しい好男子として喩えられてますから、さしずめ今風の日本的表現で言えば、スタイル抜群で容貌も秀でたジャニーズ系の青年だったんじゃないでしょうか?
彼の腕力の凄さを語る話題としては宇治川合戦の砌の大串某を川から岸へ投げ飛ばして徒歩立ちの一番乗りを果たさせた例やひよどり越えでの逆落としで愛馬を担いで下りていった話などが喧伝されています。確かに人並み外れた力持ちだったのは間違いなさそうですね。
それよりももっと印象的なのは重忠の性格にあります。彼の性格は真竹を縦に割るような爽快さを持っており、頼朝から謀反を問われた時でさえ、「頼朝公に対して誓紙を差し出すような真似はしない」ときっぱり言い放ち、「公然と謀反を起すと謂われるのは武人として本望である」ような発言をして物議を醸したのですが、重忠の身を案じる御家人達が奔走して事無きを得る事も何度かあったようですね。千葉胤正も父の留守中に重忠を預かった際のエピソードでは、重忠は身の潔白を明かすために絶食を続けて憔悴するほどまで徹底して実行した硬骨漢でもありましたから、驚愕した胤正は率先して頼朝へ泣き付いたのは言うまでもありません。
頼朝も終生重忠の生一本さを感じ入り、鎌倉御家人の筆頭として遇したのですが、頼朝が亡くなると彼を庇護する人間が居なくなったわけですから、徐々に立場が悪くなるのは火を見るよりも明らかです。三浦義澄が死に、理解者の一人でもあった叔父の千葉介常胤、従兄弟の胤正が相次いで亡くなり、創業時の一言居士達が櫛が欠けるように亡くなっていくと、とうとう孤立無援になってしまったのでした。
重忠が亡くなったのは厄年に当たる42歳でわずか四半世紀の活躍に過ぎなかったのです。北条時政や重忠自身の一族の讒言で、畠山重忠が鎌倉府に対して謀反を起そうとしているとして鎌倉の大軍を義時に率いさせて討たせてしまいますが、千葉氏も成胤の代に変わり、頼朝股肱の臣東胤頼も自身の存在が千葉一族にとって災いをもたらすと判断して隠棲しまった状況では、縁戚に連なっていた重忠であるにもかかわらず、千葉一族でさえ冷淡にも見殺しにしてしまったのですから。彼の最期も壮絶な戦闘の上での死だったものですから語り草として後世まで伝えらることになりました。よほどその死に臨んだ戦闘の潔さが追討軍の兵士にとっても美しく眩かったのでしょう。」
服部 明子 「従兄弟の稲毛重成に裏切られて殺されてしまいましたね。『長いものには巻かれろ』とか『寄らば大樹』という諺がこの時ほど身にしみて感じたことがありませんでしたが、命をやりとりする場合での権力闘争には係わりたく無いとも言ってはおられないんだ、ともよくよく分かりました。『三浦義澄が死に、理解者の一人でもあった叔父の千葉介常胤、従兄弟の胤正が相次いで亡くなり、創業時の一言居士達が櫛が欠けるように亡くなっていくと、とうとう孤立無援になってしまったのでした。』 という点については畠山重忠の孤立感分かりましたよ。正しい人だけに、正しく生きて来た人だけに、『どうして自分が?』と思ったでしょうね。畠山重忠を殺した側は不条理が自分達にあることが分かっていたから辛かったでしょうね。でもそうしなければ自分が殺されてしまう。一緒に死んでいたら美名を共に歴史に残せたのですが残念ながらいない。凄い事件だったと思います。」
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