■■■■■ 影清についての家系的背景
景清の先祖は1050年ほど前「平 将門の乱」で将門と対立していた従兄弟の平 貞盛に味方をした藤原秀郷で、秀郷は藤原南家出身。むかで退治で有名な俵
藤太です。平 貞盛が平 清盛の先祖に当たる人物です。
藤原秀郷の子孫の伊豆の国司従5位下狩野駿河守維景の更に子孫が伊勢に下だって本姓藤原俗姓伊藤佐介慶治と名乗り、更に下だって伊勢古市の景綱が保元の乱に子息の伊藤5及び伊藤6を引き連れて約200年前の昔のよしみで平
清盛に組みし、この戦いで源 為朝によって伊藤6は胸を射られて殺され、伊藤5は袖を射られました。
この伊藤5が後に平 忠清or藤原忠清or伊藤忠清と名乗る清盛の腹心となりました。忠清の元の名前は忠景で、忠清と改めた経緯及び清盛との婚姻関係が今1つはっきりしません。想像は簡単につきますが。
景清の頼朝暗殺に対する執念の精神的支えは「平治の乱」に於ける祖父と父(景綱・忠清)の活躍に対する誇りではないかと私は考えています。つまり熊野詣りに出かけた清盛の留守に信頼+義朝が挙兵し、清盛は京に帰るに帰れなくなったところを景綱・忠清が助けに行き、この景綱・忠清の軍事的援助と押し込められていた天皇を無事救出し六波羅に行幸させ、この結果、景綱・忠清は清盛に天下を握らせ、平家全盛の基礎をもたらしたキー・パーソンだったということです。
忠清は富士川の戦いに副将を務めたのに逃げ帰って清盛から大層叱られたのですが18才の時に盗賊を捕り押さえた武勇があり臆病者ではないと弁護された話が伝わっています。忠清の嫡男は忠綱で倶利伽羅峠で戦死。5男が忠光、7男が景清になります。景清が悪七兵衛と呼ばれるのは日本達磨宗の開祖である叔父の大日能忍を刺し殺した為。景清は実像が不明な割りに彼の武勇は後世に増幅されて歌舞伎や能、浄瑠璃などの素材となっていますが治承4年(1180)安徳天皇の滝口武者にもなっている上、富士川の戦いの後に父によって源氏追討の為、信濃守に推挙されているので実在の人物である事は確かです。
忠光・景清兄弟は壇の浦から脱出に成功して忠光は大仏供養の日に魚の鱗を目にはめて頼朝暗殺を謀って見破られたことで知られています。赤間神宮には忠光の塚が7盛塚の後ろに従兄弟の飛騨の兄弟の塚と共に並んでいます。
飛騨の兄弟は忠清の弟の飛騨守景家の息子達で清盛の3男宗盛の乳兄弟です。嫡男の景高は倶利伽羅峠の戦いで戦死。この為「平家の後見」、「平家第1の勇士」と呼ばれた景家ですが嘆きの余り死んでしまったと書かれています。従兄弟同士の景綱・景高は以仁王追討を命じられ処刑した人物。
忠清は「平治の乱」の後上総介になり坂東8ヵ国の侍奉行になったのに赴任せず大庭景親に任せきりにし坂東平氏を造反させたのは忠清の怠慢ということでしょう。忠清は都落ちには同行せず1184年伊賀平氏の平田家継と蜂起して捕らえられ翌年処刑されました。私が思うにこの平田家継は忠清の娘婿ではないか?と。
景清は「平家物語館」にも私が書き込んだように最期ははっきりせず頼朝に降伏して1195年3月の大仏供養の日に断食して自殺したとも1196年の平
知盛の次男の知忠の京都での蜂起に参加して姿をくらましたとも、滋賀や九州その他での死亡説がたくさん残されています。
忠光・景清の断食死は清盛の側近中の側近平 盛国の話がベースになっているのでは?と私は思っています。盛国は1185年に捕らえられ鎌倉に送られて岡崎義実に預けられ、断食を決行して翌年死去。1181年清盛はこの盛国の京都九条河原口の屋敷で亡くなったとの事です。盛国の子供は越中の盛俊・盛継兄弟。
景清が自ら目をくり抜いて。。。という話は私には聖書の「サムソンとデリア」の話が基にあるのではないか?と思っています。
|