服部明子の平家物語研究室

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■ 愛に生きた女性達

 平安時代の女性像というとなよなよ型で自己主張をしない、男の蔭に隠れて姿を表わさない簾の向こうの存在のようですが、あの当時の女性だって「私の恋しい男を返して」と叫んでいるのが同性としてとても嬉しいです。

 義経の愛人静御前の強さは並み居る源氏方の人々の前で「義経が恋しい」と訴えて源氏方の男達をうろたえさせ、同座の男達はみな息を呑んで頼朝のリアクションを見守ったことでしょう。北条時政や梶原景時あたりは義経に含むところが有りそうだから(そのうちに義経の首をやるさ)とでも思っていたことでしょうけど、他の武将達は(御大将の弟御だから)と思えば同情もし、女が恥を忍んで逢いたいと歌ったのだから、これを機会に許してあげてもいいではないかと頼朝に期待したのではないでしょうか?

 平家方で静御前に匹敵する強い女性は誰か、捜してみたのです。平家方で恋しい男の為に強さを表わした女性って。。。いんこさん描くところの男装「菊王丸」?又は木下順二の「影身」でしたっけ?。。。城氏の板額さんでは色気に欠けるなぁ。。。ウーンとうなって、やっと建礼門院右京大夫に至りました。「至った」のは彼女自身が後々声に出して訴えたからですが時代を考慮すれば勇気ある女性として静御前に負けない「愛に生きた女」だったと思うのです。

 相手もちょっと役者が落ちるのですよね、平 資盛では。イメージが平家一の放蕩息子ですものね。その上、落ち目の平家の為に後白河法皇にノコノコお願いに出向いて失敗しているから「甘い甘い」お坊っちゃま君だったと政治感覚の無さを笑われてしまいます。でも、この男も壇の浦では立派に入水を遂げて「武士の家の子」としての面目や潔さは全うしたので「顔」だけの男という汚名だけはまぬがれたと思うのです。それに一緒に手を繋いで波の下に身を投げたのが弟の有盛や従兄弟の行盛だったというところが平家の家庭の事情を知っている者達には「時子の前の夫人の孫達同士で入水を?」と同情を誘ったと思います。

 建礼門院右京大夫は平 資盛の「年上の愛人だった女」とは私は表現したくないのです。「対等な愛人関係にあった」と思うから。そう思ったのは「新勅撰集」に歌を載せて貰えることになって「名前を何になさいますか?」との問いに「言の葉の もし世に散らば 忍ばしき 昔の名こそ とめま欲しけれ」と答えたところ。

 こうして「建礼門院右京大夫」の名が後世に記憶されたわけです。「忍ばしき昔の名こそ」か、凄いですよね。とうの昔に平家の世が終わって鎌倉政権の世の中になっているというのに平家の御曹子資盛との恋の日々を世間の人々に改めて想い出させた、なんて。当時の人々には考えられないほど大胆なこと、スキャンダルだったことでしょう。「えぇーっ」と日本国中の人々が(今さらなんで、そんな名前で登録したんだ)と呆れ果て、鎌倉に盾つくつもりか、どんなおとがめがあるやも知れぬのに、と血相を変えたのじゃないかと思います。

 あの時「建礼門院右京大夫?いいですね!」と賛成したのは「喰えないヤツ」の定家あたりの人々でしょう。政治が鎌倉に移ってしまって「まろら貴族の時代も終わりよのう」と自覚していたのは数少ない人々だったと思います。平家が頑張ってくれていたら未だ自分達の生活もこんなに悪くはならなかったのに、という思惑があって、「忍ばしき」という言葉に鎌倉に1矢を報いた気分だったのでは?と思います。

 私は資盛という男は出来の悪いガキだと思っていたのですが、壇の浦で1人の武士として潔く死んでいった姿を考え、従兄弟同士で入水した事実を思いだし、また簾の内側だけで生きていたと思っていた愛人が思わぬ骨のあるところを示した右京で、この2人が愛し合っていたのかと思うと、右京ほどの女性が夢中になって愛した資盛という男性が別の輝きを放ち出しました。資盛と右京は1人1人別に語るのではなく、2人一緒に語ってこそ相乗効果で2人は対等に歴史に名が残ったと思うのです。

 右京が世間の非難も恐れず、彼女の1番大切な日々の名で呼ばれたいと願った心の内を考えると平家方にも「愛する男を私に返して」と叫んだ勇気のある女性がいたと嬉しいのです。


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