■■■■■ <対談>一の谷の合戦
服部 明子 「一の谷やらヒヨドリ越え、須磨などは源平時代は、淡路島がすぐ目の前にあって、なかなかの要衝と思いますが。」
千葉 江州 「鎌倉軍と平家軍の本州での衝突は一の谷の合戦だけというのも意外な感じがします。おそらく中国地方でも局地戦のような衝突があったかもしれませんが、陸上での全面衝突で雌雄を決したのはこの戦闘を置いて他にありませんでしたよね。でもこの一の谷の合戦で総括される戦闘は実は非常に広範囲に渡っていたのには調べてみてびっくりしました。兵庫県の南東部がそっくり戦域になっていたんですね。でもその地に両者が大軍を展開するとなると、当時はその付近が開発されておらず、人はほとんど住んでいなかったということでしょうか?確かに須磨辺りへも流罪として適用される地域だということでしたから、人の気配もないような寂しいところであったことが想像されますよね。言い換えれば、人が住んでいなかったから戦場となっても支障なかったということでしょう。もっとも神戸が開発されるのはずっと後世になって、坂本竜馬が海軍の港の候補地として清盛が開いた神戸を見直すまで待たねばならなかったのですから。
鎌倉軍は範頼を大将として生田川を背水として陣を引き、対する平家軍も福原に後詰めを置いて今の三宮付近に平知盛率いる平家本軍が展開して、おそらく同じ規模の軍勢であったと想像されているようですね。それに御存知のように義経率いる搦め手を攻める別働隊が篠山から迂回して平家軍の背後に出るよう活動していました。もう一つ意外なのが平家も資盛兄弟を大将として鎌倉軍の背後を突くために迂回行軍をしていた事実ですね。
結局三草の戦いと呼称される義経軍と資盛軍の遭遇戦が繰り広げられ、呆気なくも資盛軍が敗走してそのまま屋島まで逃走するという失態を演じてしまいますよね。これで平家一の知将知盛の策略は瓦解してしまい、生田の森付近での正面衝突で鎌倉軍を破るしか他手が無くなってました。ただし、義経軍は平家の背後を襲撃することになりましたから、例え正面で鎌倉軍を力攻めして壊走せしめても駄目だったでしょうが…。
一の谷は今も須磨に地名が残っていますね。ちょうどこの付近は窪地というか、鎌倉でいう谷(やつ)のように、背後の三方に小高い山(丘陵のようでもありますが)が控えているところで、海に面した平らな土地があるような状態だったので平家も御座所を設けていたのは理解できます。守るには左右の街道だけで済む。そしてこの北側にひよどり越えがあります。鎌倉軍との戦闘はここからずっと東の三宮辺りで行われていたのですが、距離からいっても戦闘の音さえ届いていなかったのではないでしょうか?
のんびり構えていたところに義経率いる騎馬軍が攻め入り、あっという間に火を放ったので平家の人々は混乱して砂浜へと急いだことでしょう。結局主戦場の後方でもある西方で火の手が上がって煙りが見えると福原以東の平家軍は士気を喪失してしまって我先に壊走してしまったようですね。背水の陣の範頼軍は勇躍西進し始め、この一戦で事実上平家の陸戦部隊は潰えたと言って過言はないと思います。ただし、制海権を掌握できない状態が鎌倉軍には続きましたから平家の息の根を止めるには未だ1年近く掛かることにはなりましたが…。
和田岬には福原以東に展開する平家軍の上陸舟艇が係留されていたらしいですが、壊走で我先に雑兵どもが乗ってしまい平家の公達は乗り遅れてしまいがちだったようですね。それでも西に行けばまだ船は残っていると思い、ひたすら西進したことでしょう。でも須磨に近づいても既に沖へ出ていて乗れない。特に若い公達にとってはとっても辛かったでしょうね。一門の一方の将として担ぎ出され、鎌倉軍に負けるなと知盛から叱咤激励されて戦列に加わったものの、不甲斐ない自軍の壊走で、挙げ句の果ては大将をほったらかしにして雑兵どもが先に逃げて行く。もうどうにでもなれと自暴自棄になっていた公達も無くは無かったことでしょう。」
服部 明子 「そんなに広範囲だったのですか。確かに<三ノ宮←→須磨>では戦いは聞こえなかったでしょうね。平家が逃げる時、確かに我先に船に乗ってしまったので、1番有名なのが
敦盛の話ですね。その次が知盛さまと知章父子の話ですね。」
千葉 江州 「御指摘の通り、敦盛の話だけは避けられないでしょうね。
須磨浦公園の東側だったと記憶していますが、例の敦盛碑がありましたね。その辺りは海岸線が迫った状態になっていますが、当時の形もそうであったかもしれません。須磨海岸は今も海水浴場として利用されていますから神戸の地形からすると珍しく小山が海に迫りながらも浅瀬が続く場所だったんでしょう。平家も笹舟を上陸舟艇として利用していたのでしたら地形的に納得できますね。
それでも須磨まで義経軍から分かれた土肥軍の尖兵が来ていたということはかなりの勢いで明石方面から迂回してきた搦め手軍が殺到し、徒歩立ちの兵までが攻め入ったのでしょうね。熊谷氏は小名の部類に入る豪族で、しかも徒歩立ちで功名を狙わねばならない立場でしたから、須磨へと歩を進めるというよりは必死に数キロの距離を駆け続けて来たのでしょうね。どっしり重量のある鎧兜を着用しての全力疾走の長距離走なんて想像しただけでもぞっとしますね。
逆に熊谷直実のような功名に飢えていた小名に見つかった敦盛こそ災難でした。おそらく大名の手勢に出くわしていたら生け捕りにされて主君の元まで引き連れて行かれていたことでしょうから。それでも平家の公達は結局頼盛を除いて鎌倉からは許してもらえなかったですから、死を与えられる時期が前後しただけだったのには違いないでしょう。あたら若い命を落としてとお嘆きの向きもあるでしょうが、まあ生き恥を曝すといったことがなかっただけでもせめてもの救いだったのかもしれません。
須磨には須磨浦公園の他にもう一つ須磨離宮公園があり、こちらも人気があって休日には大勢の家族連れが遊びに来ています。また、須磨は従来の国道沿いなので、明石大橋が出来て以来私も全く通らなくなってしまいました。道路が出来て便利になるのはいいのですけれど、車窓の景色も風物とは縁の無い場所ばかりしか見えなくなり風情が無くなってしまいましたね。
服部 明子 「なるほど」
千葉 江州 「逆落としで有名なひよどり越えですが、実際には高倉山を経由して鉄槌山を駆け下って義経は攻めたと言われているようです。ひよどり越えは鉄拐山のまだ北側に位置しており、ここが急峻だったせいなのか有名になってしまい、あたかもここから直接平家の陣屋に攻め下りたかのような喧伝のされ方をしていますね。ちなみに、鉄拐山は234mの標高で、およそ60階くらいの高層ビルの高さから下りていったわけですよね。こんな小山が背後にあれば平家も守備を手薄にしていたことでしょう。
ひよどり越えは今も西神戸道路(自動車専用道)の途中に看板が見えます。とても狭いトンネルで、くねくねした道で知られる道路です。確かにところどころで斜面の景色が眼下に広がって見えますね。徳島と大阪を結ぶ高速バスが阪神高速の渋滞時に迂回路として走るのですが、大きな車同士が対行したり狭いトンネルの壁が接近してきたりと、なかなかスリルがある道です。斜面越しに見える景色を見るにつけ、よくこんなところを人馬が進めたなあという感慨を持ちますね。
服部 明子 「ムカシ・昔・むかし須磨公園?に行きました。垂水か舞子から電車で行ったと思います。その途中で「青葉の笛」の須磨寺の近くを通ったと思うのですが、私は、「と伝えられる代物だろう」と思いました。丁度京都の祇王寺のように人為的な感じがしたのです。要するに<偽物>と思ったのです。敦盛の死を惜しむ人の奉納した物だったのでは?と。祇王寺を見に行ったのですが、入り口で、可愛いメルヘンチックな建物で女性好みだと思いましたが、(これは偽物)と思いました。すぐ近くの新田義貞の首塚は(本物)と思いました。この感覚の延長上で「青葉の笛」も偽物と思いました。それで祇王寺も青葉の笛も見に行きませんでした。「ひよどり越え」もどこまで本当なのだろう?と思うのです。読み物としては面白いです。」
千葉 江州 「義経軍は搦め手軍の位置付けで遊撃活動を強いられましたが、その軍中には畠山重忠や土肥実平などの有力者も加わっていましたね。特に重忠は範頼公の下では目覚しい働きも出来ないと高言して義経軍に投じていますが、さすがに重忠も義経の奇襲作戦には着いていくのがやっとだったようですね。逆落としでは馬を庇うあまり自身の背に負って下りるなど蛮行をしたものです。
奇襲には数十騎が義経に従うだけだったとあり、他の搦め手軍は宇佐美の指揮下で長田方面の平家軍側面を突く行動を、土肥の指揮下でぐるりと明石か舞子まで出てから須磨方面へ戻って敵の退路を断つ活動をしていたようです。明石への迂回行動は意外と平坦な土地を移動していくので、思いの外楽な行軍だと思いますが、やはり義経の選んだ行路は人馬も通わぬ道を突き進むものですから勢い距離は少ないものの時間を要したのは推論するまでもありません。
ところで三草合戦で敗走した資盛ですが、本来ならば嫡出子の相続でいえば清盛の長男である重盛の嫡子(清盛にとっても嫡孫)ですので資盛が平家の旗頭になってもよさそうなものですが、清盛の指定で次男の宗盛が後継者にされましたよね。資盛とて心中穏やかではなかったことでしょう。
それが心の中で葛藤していたのか否かは定かでありませんが、遊撃軍の大将の地位に甘んじて行動しなければならないと思っていたとすれば、戦闘になっても身が入らなかったのはやむを得ないことだったのかも知れませんね。どうせ叔父貴のいうことを聞かないと自分の存在など論外にされてしまう、とまで思ったかどうか知りませんが、極端な思考で資盛がどうせ負けたってしょうがないやという了見で一方の大将を任されていたとすれば知盛の戦略に初めから齟齬があったといっても仕方ないですよね。
資盛はどこかこらえ性のない性分・性格が見え隠れするのですが、やはりお坊ちゃま育ちであったことに原因があったんでしょうか。歴史で「たら・れば」は論じてはいけないとされていますが、ただの一度でいいから乾坤一擲の戦闘を、性根を据えて三草で実行さえしていればその後の鎌倉史は大幅に塗り変わり、引いては資盛自身の歴史的評価も随分変わっていたことでしょうに、残念なことですよね。
」
服部 明子 「資盛は何を考えていたのでしょうね? 1説には平家は重盛の息子達を総司令官にしてコキ使い、自分達は後方で楽をしていた、と読んだことがあります。確かに資盛の兄の維盛はあちこちに送り出されていますね。京都近辺の出陣は重盛の家系で指揮を執り、屋島は宗盛、彦島は知盛さま、というように分権が決まっていたのでしょうか?資盛は矢張り「女」でしょうね?建礼門院右京大夫!が気になって身が入らなかった?または一緒に作戦を勤めた弟の有盛が気になって身が入らなかったのかも。壇の浦では従兄弟の行盛と資盛は幼い有盛の手をとって一緒に入水した、と書かれていますから。資盛は「やんちゃ坊主」のイメージです。子供の時に事件を起こして伊勢に謹慎させられていたから。現在の天皇家の次男坊のような人物だったような気がします。兄と違って好きなように生きて噂が絶えない人物。でも彼を愛した女性が良かった、と。」
千葉 江州 「人間何か傑出しているものを持っている筈で、それが潜在的に表面へ出てくるか、来ないかがその人の運命なども書き換えたりしてしまうのではないかと思っています。
ですからそれは人馬の運動能力を完璧に把握していた人間がその場に居合わせたからこそできた所業ではないかなあと思います。日頃の訓練の蓄積が不可能と思われることを凌駕することがあるかた出来たのではないかと想像するのです。
あまり適切な例じゃないかも知れませんが、日露戦争時に圧倒的優位を伝えられていたバルチック艦隊に対して日本海軍は軍略の天才と称された秋山真之に日本海会戦の戦略を練らせた上で強運の持ち主とされた東郷平八郎に指揮を委ねて全世界が0対10で日本海軍の負けを確信していた会戦を、バルチック艦隊殲滅という100対0もの圧倒的な完勝を達成したことにも通じるんじゃないかなと思うんです。全く不可能を可能にするどろこか、思いも寄らぬほどの成果を挙げるというのはやはりあるんじゃないでしょうか?
ちなみに、秋山真之の兄秋山好古は日本陸軍の騎馬軍の創設者とも言うべき人物で、彼が盛んに義経の騎馬軍略の天才振りと勇猛さを陸軍大学の講義で論じていた下りが司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」にも描かれていましたよ。
ただ、特殊な才能を持つ人の最大の欠点として、ごく一般的な人が持っている常識とかが欠落していることがあって、適応能力が無いケースというのが義経にも当てはまるのではないでしょうか?天は二物を与えてくれないものですから…。」
服部 明子 「京都は重盛の家系で指揮を執り、屋島は宗盛、彦島は知盛さま、というような分権についてはどう思われますか?」
千葉 江州 「これは私も調べていないので分からないんですよ。でも戦闘の下知は知盛が差配している形跡が高いですから。
知盛という人物は知謀と勇気を持ち合わせた人物に写るのですが、残念なことに彼の率いる駒達に齟齬が多過ぎた。知盛さえおれば平家軍はどっしり落ち着いていたようなのですが、肝心なところに彼が居合わさないと駒達がとんでもない素っ頓狂なことを仕出かして、折角戦略を組んでいた知盛の作戦も水泡に帰してしまうことが多々あったのではないでしょうか?
一の谷合戦でも前線で彼が指揮している間は鎌倉軍と互角に戦闘を進めていたのに、彼の策で鎌倉軍の背後に出るべく運動していた資盛らの軍勢があっさり敗れて逃げ帰り、その敗北の連絡さえ滞っていたようですね。そのため徐々に退却の準備を始めれば須磨や和田岬での悲劇的な公達達の最期も防止できたものをみすみす討ち取られるような敗北を喫せざるを得なかった。
屋島でも知盛の帰りが遅れたばかりに総帥の宗盛が明け渡さなくてもよい屋島を易々と義経の掌中へ落とさしめる結果となりました。当然壇ノ浦では阿波民部が裏切るような行為を見せなければもう少し勝敗は縺れた筈です。それも総帥宗盛の人徳の無さが災いして折角知将知盛が自軍におりながら決定的な挽回の機会を失してしまったのですから。
勝負は時の運という言い回しがよくされますが、いくら自陣内で齟齬を起しても結果として勝ち進んでいった鎌倉軍に対して、圧倒的な実力をもちながらそれを発揮することなく没落していった平家や奥州藤原氏など歴史の歯車が回転を狂わすと悲劇的な結末が用意されているのには恐ろしい限りです。武運拙いという表現では終わらせ切れないところがありますね。
」
服部 明子 「淡路島についてはどうですか?」
千葉 江州 「そう淡路島のことを意識されておられましたね。
確かに明石からわずか4km足らずの海上に淡路島は位置しています。その意味で明石や須磨は要衝と言えなくもないですね。ただ、地図では分からないことなのですが、淡路島の北端付近は結構ごつごつとした海岸線で、あまり人が住むに適さなかったところだと思いますよ。今ではかなり高台のところも整地されて人の住める環境にはなってきたようですが、一の谷合戦当時は直接アクセスするのは難しかったと想像しますね。
淡路島の北端は岩屋という地名なのですが、文字通りごつごつしている岩場なので船も大きなものは近寄ることが難しかったのではないでしょうか。それに明石海峡は非常に流れの速いところですから、(現在のようにモーターボートであれば難なく海峡を横切れるでしょうが)当事の艪漕ぎの小さな船では渡り切れないときています。
淡路島は洲本辺りまで行かないと平坦な土地が見当たらないですから四国に渡るにはまず洲本を足掛かりにして、淡路島の南端に当たる福良まで行って、それから潮の状況を見て鳴門へ渡るのが通常の行き方だったのではないでしょうか。今でも鳴門には土佐泊(とさどまり)という地名が残っていますが、土佐へ赴任した紀貫之もここに立ち寄ったことが記録に見えます。
平家も一の谷合戦で敗退した後は四国を守備せざるを得なかったので、四国の東玄関に当たる鳴門から引田に掛けては防衛ラインを構築していたのではないかと思うのですが、義経はそれを無視して通常のルートではなくて、紀伊水道を横切って直接徳島の東部に上陸する離れ業を敢行してしまったのでした。情報戦ではなかった時代の戦争とは言え、防衛線と想定したネットに掛からず、大きく迂回した経路で侵入してきたところに義経の強運?があったのでしょう。
ここまで来ると既に屋島合戦に話が及んでしまいますので、ここらで一の谷合戦関わりのお話はお終いにしたいと思います。」
服部 明子 「有り難うございました。」
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