■■■■■ 平 重衡 生まれが気楽な3男坊だから明かるくって、ユーモアがあって、良く気がきいて、その上、牡丹の花に例えられる豪華で美しい男だったから、重衡が出現すると場が一瞬のうちに楽しく華やかな雰囲気に包まれて、女達には可愛がられて人気があったことでしょう。重衡が微笑むとエクボの辺りにりりしい若武者のキゼンさも加わって女房達の目がハート型にウルウルしたのではないでしょうか?でも人気があったのは女達の間だけでなく、女達を虜にした魅力がそのまま男の魅力にも変じて、頭が切れて決断力に富む重衡はなかなかの器の武将であるよ、と男達の間にも期待が高かったと思うのです。 重衡が変わるのは一の谷で。一の谷の合戦で馬を射られた上に乳母子の後藤盛長に裏切られて置き去りにされた時、さしもの強気の重衡も我が運の尽きたのを認めざるを得ませんでした。この時の重衡の心の中はショックの余り「我が首をはねよ」の思い1つでした。「まさか、まさか」の乳母子の裏切りで愕然とする重衡の狼狽振りを想像してみて下さい。一の谷のほんの少し前、今井兼平の壮絶な死に様に「男とは兼平のように死にたいものよ、乳兄弟の絆の固さの鑑よ」と2人で語り合ったものなのに(我が乳母子の盛長は自分の馬を俺に取り上げられるのを恐れて尻に帆を掛け逃げよったとは。。。)と。盛長については軽率で頼りにならない男であるとは分かっていたが乳母子だからと信じていただけに重衡の裏切られた心の隙に入り込んで来たのが、(これが仏罰なのか?)という恐怖心。(俺ともあろう者が生け捕りの恥に遭うなんて!)、(俺があんなに臆病で卑怯なヤツを乳兄弟として信じて来たばかりに)と繰り返し繰り返し自分を責め、苛み、抑さえの効かない激しい怒りと悲しみの感情に東大寺を焼いた後悔が恐怖心を伴なって更に追い打ちをかけるのでした。(俺はこんな弱い人間じゃなかった筈なのに)と自分を励ませば励ますほど心と体がバラバラになって焦るのでした。(俺は死など恐れた事は無かったのに)と思う途端に蘇るのは父・清盛のあっち死の姿が浮かび(大仏を焼いたのはこの俺だ)と思うともっとひどい地獄の責めを受けるのだろうと想像して心は闇の底に落ちて行くのでした。 法然上人から出家のまねごとを受け「汝の罪は既に仏の許しを得た」と言われても心は晴れず重衡が本当に自分自身を開放したのは鎌倉で千手の前に出会ってからでした。 都にいた時はブランド名に飾られた女房達に取り巻かれて美しい女には不自由しなかった重衡でしたが鎌倉で出会った千手の前という女性は彼の前にオズオズと現われ、余計な言葉を口にせず視線を外してひたすら重衡の身の回りの世話をするだけで、重衡の心に彼女から踏み込んで来るようなことをしませんでした。千手の前は現代語で表現すると「心理療法セラピスト」のような立場を取れる女性だったのです。「首をはねて欲しい」「出家を望んでいる」と心の苦しみをもらす重衡に彼女は耳を傾け、自ら返事をする替わりに重衡の心の訴えに的確に応じた琵琶や琴、和歌や漢詩で答えるのでした。それが重衡の望んでいた的を得た曲であり心境を慰める言葉であったので、(これほどまでに俺を理解してくれる女性が鎌倉にいたとは)と、重衡は千手の前に心を重ねるようになりました。「あな思はずや、東にもかかる優なる人のありけるよ」と。 |
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