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文献検索・・・彦島城について記載されている文献を紹介します。
長谷川氏には「ささやかな平家物語」という作品がある。それによると、関門海峡は古くから現実と黄泉の国との境界だと考えられたところで、現世から彼岸へ向かう穴門(あなと)でもあった。つまり、古代では九州が現実の国で、本州は越の国(読み)であったから、関門海峡は九州から越の国へ向かう入り口(穴門)であるという説である。 すなわち、平家が滅んだのは壇ノ浦でも屋島でも、あるいは西海のどこの海でもかまわないが、それを絵巻としてドラマ化するには、やはり関門海峡がもっともふさわしいということになる。いや、一門の崩壊を心静かに確かめて後、「見るべきほどのことはみつ」と鎧二領を着て入水した知盛の死はこの関門海峡でなければならなかったのだ。 「祇園精舎の鐘の声」も、他の海では平凡な音色しか聴かせてくれなかったであろう。やはり、黄泉と越の境界である関門の壇ノ浦を舞台にしてこそ、もみじのような手を合わせて入水された安徳幼帝のおいたわしさに涙を誘われ、打ち鳴らす鐘も「諸行無常の響き」をふるわせ、こだまするのである。 と、いつのまにかわたし(冨田義弘氏)もその説に引き込まれてしまったが、こう考えてみると、海峡に横たわる彦島、かつての引島は黄泉の国から手をさしのべるところの、文字通り「手を引く島」という意味にも感じられる。だから、その「手を引く島」に知盛が最後の城を築いてたてこもったということは、一門が黄泉の国への一番の近道を選んだ末、、潔く、運を天に任せたと解釈しても良さそうである。ところが現実には知盛が築いたと言われる彦島城は、どこにも見あたらず、その文献さえも残っていない。あるのは、古くからの伝承と平家物語や源平盛衰記などにわずかに見られる程度である。やはり、平家物語の壇ノ浦の場面が創作だからだろうか・・・・。 |