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杉田岩刻画は桟橋通りバス停と杉田バス停を結ぶかつての主要道「地蔵峠(じぞうだお)」の頂上付近から東側に階段を上り(上り口に標識有り)、民家の庭先を通り抜けた杉田丘陵にあります。 下関が発行する市報「みらい」2004年7月15日号に「豊関の誇り100選」のひとつとして彦島杉田岩刻画が紹介されました。>>記事(pdfファイル)
この岩が元々どこにどのような状態で存在していたのかはわかっていませんが、この表面に刻まれた図柄は風化によって年ごとに失われており、源平の時代から800年間にわたって、現在の場所にあったとは思われません。もしそうなら遠の昔に岩刻画は見えなくなっているはずです。「この岩は、三菱重工の社宅用地を造成する際に発見されたと言われていますので、おそらくはこの場所にかつては洞窟があり、その中に風を避けて保存されていた」、という説が澤忠宏氏の著書「彦島風土記」に記述されています。 また、富田義弘氏の著書「彦島あれこれ」において、現在岩刻画が残されている場所には、かつてこのような石はいくつかの群に分かれて多数有り、どの群にも大岩が3つずつ置かれていて、その中央には丘の頂から一直線に平石が8つ並べてあった(参道か?)という証言、さらにはそれらが大正の半ば頃から心ない石屋によって次第に持ち出されて散逸したという土地の古老の証言があることが記されています。 しかし、下関市教育委員会の調査ではそのような洞窟状のものは発見されておらず、洞窟は存在せず、「あの石一個だけ」があの地に古くから存在していたと決定づけられており、意見が大きく食い違っています。 また、この彦島岩刻画のある地点は、その壇ノ浦方面、九州方面を一カ所から見渡すことが出来るその立地から、壇ノ浦の合戦を前にした平知盛が彦島城を築城しようとした地点と一致しているのではないかと思われます。知盛は財宝や兵糧をこの地の古墳の洞窟内に保管していましたが、壇ノ浦の合戦を前にして秘密の場所にそれらを移し、その場所を知盛がこの岩に記録したとも澤忠宏氏の著書「彦島風土記」に記述されています。 この財宝探しがかつて海賊達によって行われたことが、彦島の伝説として古老に語り継がれていますが、財宝が見つかったという記録や言い伝えは残っていません。 さらには平家武将の墓石で、石に触るとたたりがある(私は取材後にこの話を聞きました。もちろん、取材時に石にはベタベタ触ってしまいました・・・)という付近に古くから住む人たちの言い伝えや、岩刻画は本当に古代の文字だという説など、真相は謎に包まれています。また、老の山や福浦にも同様の石(墳墓?)があったと伝えられていますが、現在では詳細は全くわからなくなっています。
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