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杉田岩刻画は桟橋通りバス停と杉田バス停を結ぶかつての主要道「地蔵峠(じぞうだお)」の頂上付近から東側に階段を上り(上り口に標識有り)、民家の庭先を通り抜けた杉田丘陵にあります。

下関が発行する市報「みらい」2004年7月15日号に「豊関の誇り100選」のひとつとして彦島杉田岩刻画が紹介されました。>>記事(pdfファイル) 

下関市指定文化財
彦島杉田岩刻画
  指定年月日:平成3年5月9日

 彦島杉田岩刻画が注目を浴びたのは、大正13年(1924)「考古学雑誌14巻4号」に上代の絵画であると思われると報告されたことからです。
 石英閃緑岩(横140cm、縦100cm、高さ80cm)の表面にペッキング法(硬い石の先端でこつこつたたいて図形を表出する方法)で刻画された少なくとも三体の抽象的に人物形と、円、三角形、方形等幾何学文の組み合わせの図形からなっています。
 この幾何学的文図様のモチーフは九州の有明海沿岸に、数多く残る装飾古墳の中にも見られます。また朝鮮半島の南部、川前里の盤亀台にも同様のペッキング法で描かれた岩刻画が厳重な保護を受けて残されています。
 彦島の岩刻画は、これら装飾古墳文化の系統を理解する手がかりとなる重要な古墳資料といえます。

(下関市教育委員会・現地解説文より原文のまま)

 

 この岩が元々どこにどのような状態で存在していたのかはわかっていませんが、この表面に刻まれた図柄は風化によって年ごとに失われており、源平の時代から800年間にわたって、現在の場所にあったとは思われません。もしそうなら遠の昔に岩刻画は見えなくなっているはずです。「この岩は、三菱重工の社宅用地を造成する際に発見されたと言われていますので、おそらくはこの場所にかつては洞窟があり、その中に風を避けて保存されていた」、という説が澤忠宏氏の著書「彦島風土記」に記述されています。

 また、富田義弘氏の著書「彦島あれこれ」において、現在岩刻画が残されている場所には、かつてこのような石はいくつかの群に分かれて多数有り、どの群にも大岩が3つずつ置かれていて、その中央には丘の頂から一直線に平石が8つ並べてあった(参道か?)という証言、さらにはそれらが大正の半ば頃から心ない石屋によって次第に持ち出されて散逸したという土地の古老の証言があることが記されています。

 しかし、下関市教育委員会の調査ではそのような洞窟状のものは発見されておらず、洞窟は存在せず、「あの石一個だけ」があの地に古くから存在していたと決定づけられており、意見が大きく食い違っています。

 また、この彦島岩刻画のある地点は、その壇ノ浦方面、九州方面を一カ所から見渡すことが出来るその立地から、壇ノ浦の合戦を前にした平知盛が彦島城を築城しようとした地点と一致しているのではないかと思われます。知盛は財宝や兵糧をこの地の古墳の洞窟内に保管していましたが、壇ノ浦の合戦を前にして秘密の場所にそれらを移し、その場所を知盛がこの岩に記録したとも澤忠宏氏の著書「彦島風土記」に記述されています。

 この財宝探しがかつて海賊達によって行われたことが、彦島の伝説として古老に語り継がれていますが、財宝が見つかったという記録や言い伝えは残っていません。

 さらには平家武将の墓石で、石に触るとたたりがある(私は取材後にこの話を聞きました。もちろん、取材時に石にはベタベタ触ってしまいました・・・)という付近に古くから住む人たちの言い伝えや、岩刻画は本当に古代の文字だという説など、真相は謎に包まれています。また、老の山や福浦にも同様の石(墳墓?)があったと伝えられていますが、現在では詳細は全くわからなくなっています。



 下の写真は杉田岩刻画の遠景。赤丸の場所に上の写真の石がある。

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