電子会議室議事録
すでに閉鎖されていますが、1997年頃解説していた電子会議室(BBS)の議事録です。
平知盛が彦島城を築こうとした場所は??
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発言者:なかにし@彦島
(Date: 1997年 6月 26日 木曜日 0:44:02 PM)
源平の合戦の前、彦島にやってきた知盛が砦として彦島に城(といってもプレハブのようなものか?)
を築こうとしたが、屋島の戦いが思いのほか早く決着が付いたために、築城を中断した、という説が
「彦島風土記」に記載されていますが、これって、今で言うと場所はどのあたりなんでしょうね?
位置的には杉田岩刻画のあたりだといわれているようなんですが。重盛塚(ド忘れ、間違えているかも)
のあった位置などは怪しいですが、現在の位置は元々あった位置とは違うらしいですしね。
瀬戸内を見渡すという意味では、弟子待の方がふさわしいような気がするんですが、杉田というのは
間違いないことなんでしょうか?
→ 彦島
ハマカワです。 さんからのコメント
( Date: 1997年 6月 27日 金曜日 0:46:54 PM)
昔の彦島の地図があれば推理しやすいでしょうね〜。
たしか長府のお好み焼き屋さんに飾ってあったかな??
なかにし@彦島 さんからのコメント
( Date: 1997年 6月 27日 金曜日 11:36:50 PM)
ハマカワさん、こんばんは
まずは訂正 重盛 → 清盛 です。
えっと、昔の彦島の地図ですと、鮮明でないコピーなら 1863, 1866, 1890, 1902,
1923, 1937, 1982がありますが、さすがに800年前の源平の頃の地図はないですね。
この時代の地図はどこにもないはずですよね。
1866年の狩野芳崖の地図を見ると、やはり杉田の山より弟子待の方が見通しがよいのでは
という気がします。ただ、昔は杉田からも海峡がよく見えたらしいですし、杉田だと、麓ま
で福浦湾がかつては入っていたので、港に近いという意味で、海戦の強かった知盛に有利な
地だったとも考えられます。
弟子待の方はかつては断崖がいきなり海に入っていましたので、船をつけることが出来ま
せん。
はまかわです。 さんからのコメント
( Date: 1997年 6月 28日 土曜日 1:38:10 AM)
1863年があればその地図でOKじゃないでしょうか・・・
その頃に大規模な埋め立て工事や山をくずしたりってないでしょうから・・
その地図をもとに推測してみては・・海が見えて、高台にあるばしょ・・
それって結構あるか(笑)
なかにし@彦島 さんからのコメント
( Date: 1997年 6月 28日 土曜日 8:04:26 AM)
はい、ほとんど全部の山です(笑)。
ただ、敵は瀬戸内から来ますので、やはり、弟子待から江ノ浦が良さそうです。
田の首ではもうだめですね。でも、伝説が残っているということはやはり杉田な
んですかねぇ。
今日はお休みなので岩刻画から清盛塚のあたりに行ってみようと思っていたの
ですが・・・・台風直撃・・・・。
弟子待の山の頂上に巨石遺跡があるらしいので、それとの関連も興味深いとこ
ろですが、どの本だったか忘れましたが、読んだ本によると、知盛が彦島に来て
から壇ノ浦に出征するまでの期間からして、巨石遺跡を弟子待に知盛が作るのは
無理だろうとのことです・・・。
よしたけ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 4日 金曜日 2:13:39 PM)
平知盛の城跡ですか、なんかおもしろですね。
全然、参考にならないとは思いますが、門司駅から門司競輪場に行く途中に不老という地名があります。
何でもここには都落ちした平家が臨時の御所を作ったとか、掲示板にかいてありましたよ。
京都から一旦ここまで落ちのびてから福原(神戸)まで出陣したとか。
この後はひよどり越え、屋島の合戦、壇の浦の合戦で有名ですよね。
元々は風呂の御所と呼ばれていて、それが不老に変わったとか。
門司競輪に仕事で行っていたので、暇な時ハイビョンカメラで彦島とか門司の街を映して遊んでいました。
競輪場からは弟子待の山の上がよく見えましたよ。
ついでにおまけですが、屋島にも壇の浦ってあるんですよ。
はまかわです。 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 4日 金曜日 7:31:23 PM)
おっなんか関係ありそうだ!〜!
貴重な情報ありがとうございます。!!
中西さんこりゃ門司も調べる必要性がありそうですよ!!
いさぱっぱ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 4日 金曜日 9:30:52 PM)
すみません 全然 地名を聞いてもピンとこない宮崎の人間なんですが
なんか 読んでると わくわくしてきますね ^_^
続報が楽しみ・・・^_^
なかにし@彦島 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 4日 金曜日 11:22:32 PM)
よしたけさん、こんにちは (^_^)。
門司に臨時の御所ですか。壇ノ浦の合戦の時、平家は彦島からと田浦からの2カ所から出陣したんで
したよね。後の田浦の陣地なんでしょうか。門司競輪ってどこでしょ? 場所よくわからないですが
調べて一度訪れてみたいと思います。
それから屋島の「だんのうら」は漢字が違うんですよね。下関が「壇ノ浦」、屋島が「檀ノ浦」。
屋島の観光バスに乗ると「だんのうらの合戦はここ(屋島)でおこなわれました」とガイドしている
そうです(澤忠宏著「彦島風土記」)。
この件については以前、ここにも書いてくださっている浜川さんとメールでお話ししたことがある
のですが、一部には「だんのうらの合戦は本当に下関の壇ノ浦だったのだろうか」という疑問もある
らしいです。
なんにしても、彦島と平家の関係に関する資料や史跡がほとんど何も残っていないのが困りものの
ようです。史跡に関しては、平家が破れた後、源氏が彦島に入り、平家に関する物はすべて破壊し尽
くしたともいわれていますし、資料に関しては、彦島は一時、海賊に占領されて島の住民は全員本土
に逃げていた時期があるのですが、このときに海賊によって民家等がかなり焼き払われ、同時に資料
もほとんどすべて失われたり、住民の避難とともに散逸したようです。
いさぱーさん、参加してね (^_^)。
→ 平家落人の眠る島「彦島」
よしたけ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 5日 土曜日 2:18:25 AM)
こんばんわ、よしたけです。
なかにしさん、はまかわさん、いさーばさんよろしくおねがします。
下関の壇ノ浦と屋島の檀ノ浦については急いで書いたので確認していませんでした。
勉強不足ですね。
門司競輪場の位置ですが、JR門司駅から真直ぐ山手に上った所です。
門司の不老にあった御所についてですが、俺も道端にある掲示板の説明を読んだだけなので、正確かどうかはっきり言えないです。
ただし、門司競輪場からは下関市街、関門橋、小倉市街が一望できますし。
風師山と戸ノ上山の間を通って新門司に抜ける道は当時でも苅田、豊前方面に抜ける重要な道路であったと思われます。
軍事的に見ても海上には強力な水軍、北は風師山、南は足立山系が海岸までせまり、背後には戸ノ上山があって守り易く攻めにくいのではなかったでしょうか。
それに筑前は平氏の知行国ですし、豊前の門司はもう目と鼻の先ですもんね。
ついでにおまけなんですが、なんでも父方の先祖が平家の落人らしいです。
香川県の津田町小田というところなんですが、海のすぐ後ろが山で山の斜面に家がたっています。
いま彦島に住んでいるというのも何か不思議ですね。
それではまた、もっと勉強して書き込みますね。
なかにし@彦島 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 5日 土曜日 3:04:32 AM)
よしたけさん、こんばんは
「勉強不足」だなんてとんでもないです。どちらかというと、そんなこと知ってる方がちょっとおかしいか
もです(笑)。
門司競輪場、わかりました。ありがとうございます。ひょっとするとその場所って、弟子待の海側の一番高
い山、もとのタンク群の裏手と風師山を結んだ線上にあるとか・・・・だったらどうだというわけではないん
ですが。
私も今、郷土の歴史書を読んで勉強の真っ最中です。ぜひ、いろいろ教えてください。
はまかわ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 5日 土曜日 3:39:17 AM)
中西さんこの話題なんですけれど、ここで情報収集とディスカッションしながら
”くりまが”の方で連載して戴けませんか??
結構おもしろい記事になりそうな気がします・・・・。
僕もできるだけ協力しますんで
いかがでしょう??
よしたけ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 5日 土曜日 6:25:35 AM)
おはようございます、なかにしさん、はまかわさん。
蒸し暑くてねむれないです、それに今日はいちおう仕事も休みなんで起きています。
それでは、お話しの続きを・・・
なかにしさんの指摘のとおり、門司競輪場から門司駅へ行くときには真正面に弟子待のタンク群の上の山がよく見えます。
まず、源平の争乱について時間的に整理をして見ました。
1183年5月
木曽義仲 越中砺波山の倶利伽羅峠で平氏軍を破る。
7月
義仲入京 平氏の都落ち
1184年1月
義仲 源義経、範義軍に破れ京都粟津において敗死
2月
西国で勢力を回復した平氏を福原の一の谷の戦いで破り敗走させる。
1185年2月
屋島の戦いで平氏軍、源氏軍に破れる。
3月
壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。
こうしてみると都落ちから結構時間がかかっているんですね。
ただし、これは高校の時の年表からとりだしたのでどれくらい正確かはわかりませんが・・・
さて、仮に門司のほうに仮御所があったとして、何故門司に根拠知を作ったのか考えてみましょう。
まず、なぜ門司に御所を作ったのかは先の書き込みで書いたように陸上から攻めにくく守りやすかったからでしょう。
後に整備された鎌倉にしたって大した構造物はなかったみたいですし、当時の土木技術では短期間では大規模な構造物をつくることは出来なかったみたいですね。
そして、比較的多くの兵馬を一箇所に集めることができたのではないでしょうか。
それではなぜ彦島に城を築こうとしたんでしょうか。
まず考えられるはのろし台が彦島にあったんではないでしょうか。
そして弟子待の山の上にのろし台があれば壇ノ浦から若松までが一望でき、門司から死角になるところがすべて見渡せます。
門司周辺の海岸には港として使えた入り江はなさそうですが、彦島の福浦湾は多くの船が停泊できる天然の良港です。
だから彦島に城とはいわないまでも、砦ぐらいのものは作ったとおもいます。
さて、だいぶねむたくなってきました。
一応ここに書いたことは仮説ですので、きちんと調べたほうがいいと思っています。
なかにしさん、これからも彦島の歴史を教えてくださいね、楽しみにしています。
ならざき さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 5日 土曜日 6:29:00 AM)
中西さん、濱川さん、仲間に加えてください
彦島の地形的状況から、天然の良港である福浦湾周辺が妥当なのではないでしょうか
歴史的資料ではないですが、吉川英治の”新・平家物語”の中でも福浦を知盛の本陣として
書いてあったような....?
「彦島は、引島という。権中納言知盛は、去年の十月ごろから、ここに城塞を構えていた。
島の巡りは、三里余もある。平家が進駐するまでは、島には、まばらな漁夫小屋に海女のすがたが
見られるぐらいなものだった。それが数千の将士にみたされ、館や柵門ができ、また、文字ケ浦や
豊前の岸との往来もさかんになり出して、たちまち、景観もちがってきた。島の港、福良には、
巨大な船が、威風を示してい、.....」
福良っていうのが、福浦のことです
ほかに、下関の伊崎町にも築城の話があったようです
ちなみに、うちの家系図を見ると源氏の系統のようです、あしからず・・・
いさぱっぱ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 5日 土曜日 10:06:07 AM)
すみません ちょっと当時の地理的なものを整理したいのですが
(なんせ 遠く離れたとこに住んでるもんで^^;)
彦島って 今でも”島”なんですよね
当時の彦島(引島)に渡るには 船しかなかったんですか?
当時は本州側からどれぐらい離れていたんですか?
橋なんかは 当然かかってないですよね?
だとすると
本州側から渡る航路にあたる海の潮の流れとかはどうだったんですか?
関門海峡なんかは結構潮の流れが速いですよね
なかにし@彦島 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 6日 日曜日 0:46:33 AM)
よしたけさん、こんにちは
門司の仮御所の話は興味深いです。このあたりのことは勉強したことがなかったのでこ
れからいろいろ調べてみます。
彦島にのろし台があったのは確からしいですね。当時のルートとしては火の山から皿倉
に伝わっていたようですが、天候不順なときのために、低地を迂回するルートも各地に作
られていたそうで、その低地ルートの1つが彦島だったのではないかという説もあるよう
です。で、この説によると、彦島の名前の由来は「低い島」だったのではないかと・・・。
で、弟子待の山の上には遺跡があります。何に使ったのかはわかっていないのですが、
巨石遺跡です。何となく一人で上るのは気味悪いので本と写真でしか見たことないですが、
最近はあの山のかなり上まで宅地開発されていますので、機会があれば上ってみようと
思ってます。これ、何か関係あるんでしょうか??
ならざきさん。こんにちは。
そういえばならざきさんはこのあたりの話はお詳しいのでは? こないだ、すぎた岩刻
画のことを話しておられましたよね。福浦は安徳天皇の御座所があったのでは、と思われ
ているようですが、私はまだ小説と史実の区別が付くほど理解してないのでよくわかりま
せん。ただ、地理的にはいい場所だと思います。ただ、彦島城(それがあったとして)と
して考えると見通しのよい山の上にあったんでしょうね。
はまかわさんに地図の話をいわれて、昔の地図をよくよく見ると、大和町の埋め立て前
は弟子待まで行かずとも、杉田のあたりから十分瀬戸内が見渡せていたのかもしれないなぁ
と思いました。杉田岩刻画の図柄は古代の物だと確定したんでしたっけ???
いさぱーさん、こんにちは。彦島は島ですよ。昔は船でわたってました。もともとの海
岸線はいさぱーさんがウロウロした人工地盤からちょっと山側に行ったあたりでした。た
だ小瀬戸と呼ばれるもっとも細い部分は当時でも100メート
ル程度しか離れていなかったと思います。
海峡の潮の流れについては、平家物語には単純にもともとは西からの潮だったものが合
戦の途中から東からの流れに変わったとかかれていますが、数年前に、当時の潮の流れが
どうだったのかについてコンピューターを使ったシミュレーションが行われ、実際にはそ
う簡単な話ではなかったのではないかと結論づけられたような気がします(記憶あやふや)。
それから、橋が架かったのは昭和11年で水門ができて人や車の通行が可能になりました。
よしたけ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 6日 日曜日 4:30:55 AM)
こんばんわ、よしたけです。
今自宅に帰ってきました、朝帰りです。
さて、昨日の6時の書き込みはだいぶ寝ぼけて書いたみたいです。
誤字が多すぎます、ごめんなさい。
国道199号線を通って福岡の方に行ってきたんですが、改めてみてみると弟子待の山には何か昔はあったような感じがします。
それはさておき、今月のうちに北九州の方の歴史を調べておきます。
彦島は豊前領だったこともあったと聞きましたがどうなのでしょうか。
なんか門司、小倉のほうでは「向島」と彦島のことを昔は言っていたとか。
それと調べたことの報告はこの掲示板でしますか、それともなかにしさんにメールしましょうか。
昨日の6時の書き込みみたいなのをどんどん書き込むとここが重たくなっちゃいますよね。
それでは、また。
ならざき さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 6日 日曜日 5:35:36 AM)
安徳天皇を奉じた平宗盛の一隊は、門司の柳ヶ浦に行在所を作ってたそうです。
これを柳御所と言っていたようで、JR門司駅から1キロあたりに柳御所の跡
といわれる地があって、小さな社が残ってたような記憶が・・・
確か、あの周辺は大里だったような、”大里”これも”内裏”からきてたのでは
ないかと記憶しています。
彦島と門司に基地を作れば、関門海峡の制海権は手にいれたものと言えますよね
はまかわ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 6日 日曜日 10:04:21 AM)
”大里””内裏”なるほど〜。
後門司の側に古くから伝わる、源平船合戦に関する”伝説”を調べてみると
いいかもしれませんね・・・
しかし弟子待のやまのうえの遺跡って気になるな・・・僕も行ってみよ!!
よしたけ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 6日 日曜日 4:29:13 PM)
こんにちわ、ならざきさん、はまかわさん。
源平の争乱について調べてきました。
ちょっと長いですが、がまんしてね。
1183(寿永2)の平家の都落ちをさかのぼること16年前の1167(仁安2)に平清盛の弟である、平頼盛(よりもり)が太宰大弐(太宰府の長官職)として長い間跡絶えていた現地赴任をおこなった。
これは、わずか半年程度のものであったが、当時太宰府の中で力を持ちつつあった武士勢力と緊密な関係を結ぶことになった。
これらの武士を「平氏与同の輩(へいしよどうのともがら)」と呼ばれた。
また、対外貿易を押し進めた平氏は、糸島半島の今津、香椎宮、宗像神社、肥前の松浦東などの海上勢力を支配下におき、関門海峡の門司関も太宰府の直轄下にあったので北部九州沿岸は平氏の勢力下にはいることになった。
1183(寿永2)木曽義仲に京都を追われた平氏一門はいったん海路太宰府まで後退したが、芦屋の山鹿秀遠(南北朝で有名な菊地一族)の城を経て門司の大里に「柳の御所」を構えた。
門司駅の近くに残る大里の地名は内裏に由来する。またこの周辺には風呂の水を汲んだところだという平氏ゆかりの伝承ものこっている。
源義経の奇襲により一の谷、屋島の合戦に破れた平氏一門は平知盛を大将に彦島に最後の陣を敷き、河野水軍、熊野水軍を味方とした義経軍を迎かえ撃った。
朝10時に始まった船戦も昼には勝敗が決し、平氏の多くは関門海峡の流れの底へと消去った。
総大将平宗盛、安徳帝の生母建礼門院は海から引き上げられ、宗盛は護送の途中鎌倉の入り口腰越で処刑された。
以上は海鳥社 「北九州の100万年」監修米津三郎を参考にしました。
しらべてみたらならざきさんの書いてあるとうりでした。
それと門司の古城山にあった門司城も知盛が源氏を迎かえ撃つため作らせたのが始まりだそうです。
それにしてもおれの書き込みはいつも長いですね、皆さんごめんなさい。
それでは、また。
なかにし@彦島 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 6日 日曜日 11:11:04 PM)
長い書き込み大歓迎です。ある程度話がまとまった時点で、ホームページ「彦島」の彦島城のページや
「くりまが」の方に割り振りますので。長さ等気にせずにお願いします。
弟子待の遺跡は頂上に巨石があって、そこに至る参道らしき物が残っているそうです。本村の辰岩も巨
石ですよね。で、あれは平家財宝の隠し場所とか何とかいわれてるでしょ。まぁ、ちょっと弟子待の方も
何か関係あるのかな・・・と。>はまかさわさん
でも、郷土史家の方によると、辰岩にしろ、弟子待にしろ、知盛が彦島にやってきてから合戦までの間
にあれだけの石を動かすのは時間的に無理なのでは・・・とのお話ですが・・・。
→ 彦島城
浜川です。 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 7日 月曜日 0:34:03 AM)
そりゃそうだ!!。(笑)
そうそう”くりまが”の方お願いしますです。
中西さんの負担にならない程度で・・・(とはいえ負担ですよね(笑))
地元の人間でも知らない事っていっぱ〜いあるんで!!
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