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 運動会の季節になりました。

 昭和48年頃、造船業界は過去最高の経常利益を上げ、造船の島とも言える彦島も活況を呈していました。ちょうどその頃私は小学生時代を過ごしていましたが、小学校の生徒数は1500人に迫り、教室に45人以上物生徒を詰め込んでもまだ教室が足りないため巨大なプレハブ校舎が運動場に建てられていたような時期でした。

 秋の大運動会は多くの学校行事の中でも最も盛り上がるもののひとつで地域の一大イベントの様相を呈していたように記憶しています。このころ島に小学校は4つあり、それぞれの学校の生徒1000人に二人の保護者が応援に来たと仮定して計算すると5万人いた島民のおよそ20%が小学校の運動場に集まって子供たちを応援していた事になります。当時はござを敷いて父母・祖父母まで一家そろって応援していた家庭も珍しくありませんでしたからこの数字もまんざら大げさなものではないと思います。

 運動場でで保護者の座る場所は学年ごとではなく町名ごとに分けられていたことは、地域の中心的な建物である小学校での行事が町のイベントの性格も併せ持っていた事を想像させます。そして、朝6時の運動会開催決定の花火と同時に開門される運動場には各家庭の父親や祖父が場所取り合戦を繰り広げていたものです。

 それでも確保できる空間は人と人がぴったり密着してやっと全員が座れる程度の広さしかなく、それはそれは大変な状況でした。

 昼食時間の直後には伝統芸能である平家踊りや組み体操をするのがおきまりのプログラムでしたが、生徒数が多いのでいずれも見応え十分だったように記憶しています。平家踊りは生徒だけだったような気がしますが、長いトラックを二重、三重に囲んでの総踊りは平家踊りの音頭の詞の意味などわかるはずもない子供でさえ、難しい平家踊りを子供なりに皆巧みに踊りこなしていたような気がします。

 組み体操もちょうど東洋一の長さを誇った関門橋が完成した時期(1973年)で、関門橋とその下の潮流を巧みに表現した組み体操を先生方が創意工夫をこらして制作されていました。それを1500人近い生徒で表現するわけですから練習も大変でしたが、本番での父兄席からの拍手はまさに割れんばかりという表現がぴったりでした。

 あれからおよそ30年。

 最近は少子化で、運動会の会場も比較的ゆったりして、レジャーテーブルやビーチパラソル持参で応援などという30年前は想像も出来なかった応援スタイルも定着してきました。それに、運動会自体もなんだか「お上品」になったような気がします。けれど、我が子の勇姿(?)を捉えようとカメラやビデオを構える保護者の熱心な姿を見ていると、スタイルは変わったものの運動会が親が親である事を再認識させ、親、小学生である子供たち、学校の三者の重要なコミュニケーションの場である事にはなんら変りがない事を感じてなんとなくほっとするのでした。

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