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吉川英治の「新平家物語」に見る彦島

その8 田ノ首の浦

 筑紫組の原田党は彦島の南端田ノ首の浦に仮屋があった。ここで原田種直は海上と陸との連絡や補給の役目を担っており、田ノ首の浦はその役目のため廃船の残骸やら食糧の俵やら軍需の物が山をなして散らかっていた。種直は清盛が博多の津を中心に宋との交易に力を入れていた頃から博多の津で六波羅の代務を行っていた九州平氏の重鎮だったが、二位の尼と知盛に対してみかどの身と三種の神器を太宰府に匿ってはどうか、との太宰府からの書状を計ったことが宗盛の怒りに触れ、あわや縄を打たれるところで、知盛の仲介で助けられた。しかし、種直は長い平家務めに終止符を打って筑紫野岩戸へ一族と共に帰っていった。(新平家物語・筑紫野紅白)


 豊前から荷物を彦島に運び込むには彦島の北側が有利ですが、弟子待から江ノ浦にかけては山がいきなり海に落ちていく地形になっており、また、早い海流を避けることができる入り江がありませんので、船はここ田ノ首と福良に入港しました。田ノ首は彦島の最南端でかつては林兼造船の巨大な造船所で栄えましたが、林兼が撤退した現在は閑静な住宅地として発展しています。

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 田ノ首も平野部がそれほどありませんので(現在の林兼工場跡の平地は埋め立てによるもの)、狭い平野部は物資の陸揚げの基地として活用し、原田党の屋敷は一段高いこのあたりにあったのではないかと思います。上の写真は県道から田ノ首公会堂の方へ数分坂道を上ったあたりです。

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 ここから海側を振り返ると上の写真のような景色で真正面に文字ケ関を望むことができ、文字ケ関との物流基地としては格好の場所であることがわかります。

 ここで荷役の任にあたっていた原田種直は平家にもしもの時には安徳天皇を三種の神器と供に太宰府(福岡)へ隠そうと計画したのですが(もちろんそれは、天皇と神器が有る限り平家は賊軍にはなりえず、復興のチャンスもあるわけです)、それが宗盛の逆鱗に触れ、縄を打たれて宗盛のいる彦島城へ連れて行かれました。そのときに田ノ首から彦島城へ原田種直が歩いた道が下の写真の現在の県道で、物資の輸送上も重要な幹線道路でした。

 種直の歩いたルートは、現在のルートでたどると田ノ首からこの道を写真の奥の方へ向かって小高い丘をひとつ超え、段地堤の土手を左手に青葉台を見ながらすすみ、その先は、現在の県道をそのまま進むと福良湾に落ちてしまいますので、角倉小学校の正門を過ぎたすぐ先の脇道を杉田方向に下ったはずです。その先はマルショク角倉店のあたりからサンリブ角倉店を通ってもと行徳産婦人科の前の道に出ます。この道は昔から勅旨待から地蔵峠を通って本村へ向かう幹線道でしたので、あとはこの道沿いに杉田丘陵の彦島城に向かったのだと思います。

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