■吉川英治の「新平家物語」に見る彦島■
その4 勅旨待の知盛・小瀬戸の資盛
彦島砦の中心は福良にあった。
知盛は、そこの陣館から付近をみかどの御所と兄宗盛の守りに譲って、自身は勅旨待の柵へ移っていた。
また小瀬戸と対岸伊崎の口は新三位中将資盛が柵を構えて守っている。
その他田ノ首、泊、江ノ浦などの要所要所にもそれぞれな守備と兵船が配されて、彦島全体を一つの城塞としていたのはいうまでもない。(新平家物語・鬼曲)
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「勅旨待(てしまち)」は現在の弟子待(でしまつ)ですが、現在の行政区分でいう弟子待では源氏が下ってくる周防灘方向がよく見えないので、総大将は宗盛であるとはいえ、もともと彦島を統治しており、事実上のリーダーであった知盛の柵としてはふさわしくないように思います。おそらくは、源氏のやってくる壇ノ浦方面から彦島を望んだ時に真正面に見える位置、江ノ浦の検疫所あたりではないかと思います。
地形的には弟子待ひまわり台あたりの高台が見通しもよく、ひまわり台裏手の山頂には巨石遺跡があるといわれていますので(もちろん知盛に巨石を使った建造物を造る時間はなかったでしょうけれど、彦島を探査した時に偶然発見して、それを城塞に利用した可能性もあるかもしれない)、怪しいのですが、山の頂上に城を築くというのは江戸時代の発想であって、平家物語の時代の築城場所としてはひまわり台では標高が高すぎるように思います。
一方、資盛(すけもり)の柵は伊崎の口にあったということですので地形的には上の写真の位置ではないかと思います。写真中央の水路状が小瀬戸で、左側の山が彦島の対岸、伊崎で、右側の陸地は彦島海士郷です。両岸とも山が海岸線近くまで迫っており、小瀬戸の幅と陸上の地形から考えると赤い印のあたりが海士郷と伊崎の間の渡しではなかったかと思います。
渡しの方法としては、吉川英治氏はこの間に綱を張って、その綱をたぐり寄せながら多くの小舟がひっきりなしに行き来していた、と想像しています。が、現在は水門によって流れがせき止められているものの当時の小瀬戸が非常に潮が速かったことと、多くの兵や物資が行き来したであろうことを考えると、ひょっとすると橋を架けたのでは??という気もします。
安徳天皇縁起絵図第八巻・安徳天皇御入水(赤間神宮所蔵)を見ると、なにか海に続く水路をはさんで両岸をむすぶ橋が描かれています。壇ノ浦の合戦に関係のある場所で橋があった・必要だった場所を考えてみてもこの小瀬戸以外には考えられませんので、伊崎と海士郷はこの地点で橋で結ばれていたのではないかとも考えられます。
安徳天皇縁起絵図
安徳天皇誕生から、長門壇ノ浦での入水に至る御一代を描いたもので、もと阿弥陀寺内の安徳天皇御霊堂の障子絵でしたが、明治時代に軸装に改められました。作者は土佐派の名匠光信、また絵図に添えられている書は青蓮院宮によると伝えられていて、平家物語に極めて忠実・細密に描かれています。
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