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■吉川英治の「新平家物語」に見る彦島■ 屋島を捨てた平家の一門は九州平家の松浦党、山賀党、原田党、菊池党、そしてなにより彦島に要塞を築く権中納言知盛(とももり)を頼りに西への航海を続けた(実際にはおおかたは九州も源氏によって平定されていた)。平家の総領宗盛(むねもり)は、九州平家の水軍と知盛配下の水軍をあわせ、その船の数は千隻に迫る水軍をもって義経率いる源氏の水軍を一気に叩きつぶす作戦を考えていた。途中清盛の創建した平家の守護神厳島神社に詣でた後、文治元年(1185)3月、安徳天皇の御座船以下の船団は彦島の福良(現在の江ノ浦小学校付近)に入港した・・・。 寿永3年(1184)2月の一ノ谷の戦いで息子知章(ともあきら)を失った知盛はその後しばらくは、屋島を守っていましたが、同年(安徳天皇以下の一門が屋島をのがれる前年)、元暦元年10月屋島からここ彦島に一足先に転戦してきました。このときから彦島と平家との長いかわりが始まったのです。以下、平家物語(というよりは彦島についての実地見聞をふまえて詳細に検討された吉川英治氏の「新平家物語」)にあらわれる彦島を中心に紹介します。 また、現在の土地との照らし合わせに関しては「平家物語」そのものが「小説」である点や、京都を離れた後の記録が正確でないこともあって(極端には下関壇ノ浦の合戦自体なかったのではないかという説もあるらしい)、異論のあるところだと思います。もし、意見、感想、反論等ありましたらこのページに関する電子会議室を解説していますので、こちらへ遠慮なく投稿して下さい。また、電子会議室の最初の発言にはこのページの開設意図なども書いておりますのでご覧下さい。 |