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吉川英治の「新平家物語」に見る彦島

その7 女房の柵

尼御所の建物に隣りしてかなり広い地域にわたる女房の柵と呼ばれる一劃もあった。
 みかどと女院の側近くに使える典侍(すけ)から雑仕女(ぞうしめ)までの女ばかりがひとかたまりにおかれていた。また、一門の幼い姫君やら上臈(じょうろう)や各大将の北ノ方などの漁夫の家にもひとしい板小屋ながらおのおの棟を別に住んでおり、それぞれ局長屋や女童(めわらべ)をかかえている。いわば敵に一矢を射る戦力すらない者ばかりがいる待避の柵といってよい。また、田辺水軍を平家の味方に付ける策略に失敗したかつての田辺の女王さくらノ局も半ば宗盛による軟禁状態でかつての窈窕の美もすっかり失い平家の一門であるという理由だけでここにいた。
 ここの一劃だけは浦々の武者が揺れ騒ぐ夜もしいんとしていた。おりに乳飲み子の泣き声がどこかでするほか、灯影のもれもつつしんでひっそりしたままだった。おそらくここが悲鳴と狂乱に落ちる日は彦島最後の時であろう。それほどかの女たちは目の前の運命に無力であった。(新平家物語・女房の柵)

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 平家一門を追う義経達は純粋な「軍隊」でしたが、平家は巨大な家族、あるいは、ひとつの都市がもろともに移動しているようなものでしたから、その中には女性や子供も数多く含まれていました。彦島城が杉田丘陵付近だったとするならば、女房の柵はきっとこのあたりの山手だったのではないでしょうか。ここは彦島中学校下から江ノ浦・山中方面への通学路の途中です。画面中央にわずかに見えているのが杉田の県営住宅。通学路の標識の方向に仮にまっすぐに突き進んでいくなら、方向はそう距離を隔てずして清盛塚・杉田岩刻画となります。

 本文中に出てくる「さくらノ局」は、平家の一族で当時16歳ほどですが、田辺の別当湛増の寵愛を受け「田辺の女王」とも呼ばれました。屋島の合戦の際、さくらノ局は別当湛増から平家支援の約束を取り付け、宗盛のもとに参じました。が、かたや別当湛増は田辺の新熊野(いまぐまの)で御神楽をあげて権現に祈りをあげ、平家につくか源氏につくかの真意を問うたところ「白旗(源氏)につけ」とのお告げを受けました。しかしこのお告げを疑わしく思った湛増は赤い鶏を七羽と白い鶏を七羽用意して権現の前で勝負をさせたところ赤い鶏は一羽も勝つことができず逃げ散ってしまったため、源氏側に付くことに心を決め出陣しました(鶏合:とりあわせ)。このことが平家が屋島をいとも簡単に手放してしまうきっかけの一つとなり、さくらノ局は宗盛の逆鱗に触れ、成敗される寸前を二位の尼(清盛の妻)に助けられ、彦島まで同行していました。

 吉川英治の新平家物語の中では、彦島においても軟禁状態だった彼女は宗盛の命令で田ノ首の浦を守っていた原田種直が安徳天皇を太宰府に隠す算段をしたためた書状を盗み出し、屋島での失態を見逃して命を助けるかわりに巌流島に捨てられてしまいます。当時の巌流島には源氏と通じていたことを理由にこれまた軟禁されていた時忠(清盛の義弟で平家絶頂期には清盛の片腕となって文事をとりまとめた)がおり、時忠の脱走と共に巌流島を抜け出し、平家追討軍に参加していた愛する湛増のもとへ戻りましたが湛増にも捨てられ、この地で誇り高き赤間関の遊女となって余生を送ったことを示差する記述があります。

 


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