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おびお版平家物語を旅しよう
五家荘の各緒方家には共通の系図が保存されている。この系図は桓武(かんむ)天皇から五家荘緒方家の開祖平清経(きよつね)が、四国の祖谷(いや)から八幡浜に出て、大分の鶴崎に上陸、竹田の緒方実国の招きで竹田に移り、実国の婿となって緒方清国と改名、五家荘白鳥山に住みつき、孫の盛行、近盛、実明がそれぞれ椎原、久連子、葉木に分家するまでのものである。分家後の系図は久連子の緒方家が火災で焼失したが、葉木、椎原の緒方家で現在まで継続している。
久連子平盛春長(ひらもりはるなが)氏所蔵の由来書には、平清経一行が壇ノ浦合戦後、五家荘に落ち延びてゆくまでの詳しい経路が記載されている。由来書はまず「我等比処へ居住する事後生に至り諸人不思議とする故比巻へ委しく記し置く者なり」と前書きされ、清経以下5人の家臣の名が記されている。さらに桓武(かんむ)天皇の曾孫高望王(たかもちのおう)をはじめ平氏歴代の祖先を列記し、命日を記して忌日を弔うべき事を命じている。年号は寿永13年となっているが、これは改号を知らなかったためである。 5名の家臣・・・平内左衛門家長、越中次良兵衛盛嗣、上総五良兵衛忠光、上総三良左衛門景経、江見次郎盛方
那須与一の子小太郎は平家追討の命を受けて、奇しくも扇の的の女人・鬼山御前に出会います。奥に隠れた平家をかくまって必死に押しとどめる鬼山と小太郎との間にいつしか愛が芽生え、末永く幸せに暮らしたそうです。
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