平家物語と源平屋島の合戦
平家物語において源平屋島の戦は、巻第十一の三、大坂越の事。四、継信(つぎのぶ)最期の事。五、那須与一のこと、六、弓流しのこと。七、志度合戦のこと。に書かれています。源平屋島の合戦は、相引川(あいびきがわ)をはさんで行われ、激戦地となった舞台は現在の牟礼町内と高松市屋島だといわれています。現在その戦の跡は史蹟として保存されています。
1997年11月、広範に散らばる源平の合戦の史蹟のうち、八栗から屋島にかけてを見学してきましたので、そこで見てきたものを紹介します。
この屋島は現在はほとんど陸続きに近い状態になっていますが、かつては下関同様、陸地の間に潮の流れる海峡で、現在でも「屋島壇ノ浦」と呼ばれています。屋島の頂上からの眺めは下関の火の山からの眺めと似ていると言えなくはなく、源平合戦の地としてみると非常に似た背景を持っているのですが、屋島は下関に比べて平家物語伝説を非常に大切にしており、街の至る所に史蹟までの方角と距離を彫った石柱が立っていますし、要所要所には美しい解説板も立てられています。
たとえば「義経弓流しの地」や那須与一が扇を打つために馬を立てた「駒立岩」といった、平家物語のシーン一つ一つが史蹟として整備されているのですが、「平家物語」自体が小説であり、「平家物語」の背景などが書き記された「玉葉」などの公卿の日記も平家が都落ちした以降の記述については非常に曖昧であり「平家物語」を証言する資料として十分でない点などから、実際にこれらのイベントが演じられたかどうかについては疑わしい部分もかなりあります。しかし、「平家物語」を愛読する人間としては、街角に「弓流しの地」とあれば、そこに立って平家物語の一節を思い出し、平家の悲しい運命に思いを馳せるよいきっかけとなり、非常にうれしい史蹟の整備だといえます。
かたや下関について考えてみると、平家滅亡という、日本の政治の大きなターニングポイントに関わっていながら、それらのほとんどが史蹟として整備されることもなく、下関市という街に「平家物語」が根付いていないことが非常に残念に思われました。ある人は史蹟の保護や整備を「歴史を持つ街の義務である」と言いました。私は今回、ほとんど予習無しにガイドブック一冊だけを持って思い立った翌日に屋島に向かい、わずか1日の滞在でしたが、立派に義務の果たされた街で多くの史蹟の見学ができました。高松の平家物語の愛好家がある日ふと下関にやってきたとき、彼には見るべき物があるだろうか・・・と考えると、現在の下関は何とも心細いかぎりです。