椎葉山由来

椎葉村1椎葉村2椎葉村3椎葉村4椎葉村5●椎葉山由来

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日州椎葉山わ奈須山共申(もうす)。其謂わ元暦の昔平家の軍勢長門の国於いての趣、安徳天皇お始め奉り二位女院並に一門の諸将入水共もなされ不残亡失いたされし由、諸々の家にて記録等にも有之候処、入水の内存命の面々申謀り時節を待ち、命全ふし何卒安泰の地を求め山深く忍隠れ天運の至る時を待つに、若(し)くわなしと豊後国玖珠の山に分け入り留る。今に至り平家山と云い伝ふ、去れ共山浅く鎌倉に知れあらわれむ事を怖れ、肥後国阿蘇路を経て当国に迷ひ来て此山中に暫時を過す処、頼朝公聞召に及給ひ奈須与市宗高は八嶋の戦場に弓勢をあらわし、平家方の軍兵恐れをなすと聞伝ふ。此際平家残党一人たり共生けて置間敷くと宗高に西国出陣を命ずるに、宗高私儀八嶋の戦場にて疾風に当られ、其時よりしていかなる痛に哉。当時矢先覚束なく奉存候。然るに私弟大八郎宗久と申者当年廿二才の的(まと)の稽古仕候に、壱本もあだ矢無殊に私より大兵に生れ力飽く迄強く強弓好に候へば、此度九州に御差し遊被候ても、慥と奉存候。当時迄何の役も相勤の儀も無是候へば如何有是候哉と言上致するに、頼朝公聞召され是際大軍を催するに不及。先する時は一人たり共征する事無、片時も早く出陣致し、目出度帰陣の時は鎌倉に申出可旨被仰。即ち与市宗高領地に帰国致し舎弟大八郎宗久に主君頼朝公の御諚を伝ふ、大八郎大に悦び兄宗高次男宗昌等手勢引具し、海陸を経て九州江下り、平家の残党を尋ね、肥後国阿蘇より日向の境迄来たりし時山嶮しく馬の通るよすがなく、詮方無く此処より馬を乗捨登山する。即ち大八郎鞍を置去り故、誰れ云ふとなく鞍置村と呼びなせしを何時とはなく今は鞍岡村と呼びにける、時恰も元久弐年宗久等山又山を攀ぢ上り向山と云ゑる処に詰よせ討亡す。落延る平家日肥之境五ケ荘と云ゑる五谷に逃れ深く忍び民家に落下り、椎樫の実を拾鳥獣を討て食事となし、山畑を開き耕作を業となし渡世を営み候へ共、馬の通ひは不及申、或は木の根をたより藤の橋を拵へなどして漸く五ケ谷の往来の通路有之。至極険城の隠れにて数十年知る者なかりしに折々塩を求めに町場に出、怪しき人柄諸人のふしんなし、御公儀様へ洩れ聞ゑ今五六十年以前御吟味仰付、五ケ荘の惣地頭権之丞祖父平家重代の唐波と云ゑる鎧差上候由承り伝ゑ候、今此山椎葉山と申て奈須大八郎宗久暫時の陣小屋、椎の葉を以て風を防ぎ、誠に椎葉山なりける由、夫れ以前は山の名やなけん、大八郎宗久住居跡有之。在所は今に至り上椎葉下椎葉と申候。又奈須山と呼なしたると伝へ、然るに大八郎入山以来三年の星霜を経て、此間平家の残党諸々に散在成と雖も、再挙の見込無耕作を業とし、斯かる故に敵として討つに不忍。又大八郎宗久敬神の念深く平家残党の為め上椎葉に特に平氏の崇敬する厳島神社を勧請し、滞陣中見廻り中に風景に富む戸根川の小丘陵に目を止め、我が国最古の諸神を祭り、其傍に大八郎宗久当地に下向の砌り(みぎり)、途中京都清水寺に参詣の節、観音菩薩の御守りを買(負)仏として崇拝せしを安置し、此祭神今に至る迄も戸根川神社に祝ひ祭る。又此社の傍に我が国希に見る大杉有り。是れ大八郎宗久の手植の杉と云ひ伝ゑ来り、此処の大栃の木は神の御手植とて鬱蒼として林をなし、戸根川神社の顕著なる神徳と云ひ、また巍然(ぎぜん)として立つ大杉大栃を見ても神々しき事思ひはかれり、さすが源氏の重臣大八郎宗久平氏残党の為め上椎葉に厳島神社を勧請し、又当地に来り彼等の武運長久を祈る為めに戸根川には諸神を祭る英勇之心事之程や思ひ知られたり、大八郎此滞陣中も早平家の残党愈々再起の見込無きに極り、鎌倉殿の御意を受け帰国の節、召使の侍女鶴富と云ゑるなん大八郎の寵を受け其節懐胎せり、大八郎言ゑるに軈て(やがて)安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越す可(べし)、女子なる時は其身に遣す。何れにせよ親子の証拠にとて天国の太刀に系図を写差添ゑ、彼侍女鶴富に渡し帰国致被候処、至極安産取上見れば女子出生、此侍女奈須家の血脈を大切に思ひ娘に聟(むこ)を貰ひ養育し、奈須何某と名乗り、子孫相続して耕地を業とし不足の年は葛蕨の根を食事となし、已(すでに)拾余代を経、奈須玄蕃と申者の代となり、男子四人持ち摘子左近二男弾正三男将監四男九郎右衛門、城に随ひ系図の面を柔懐し、何卒先祖の家業を再起せんとの密談、余(世)の人口を恐れ山にて談合の上夫々臍を堅めける、此処今に至り断の尾立と申候。

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