鶴富姫伝説の椎葉村

椎葉村1●椎葉村2・椎葉村3椎葉村4椎葉村5椎葉山由来


 今回案内役を務めてくれたのは日向市在住の友人のいさぱっぱ(仮名)さんと、☆☆りんごさん(仮名)のおふたり。自営業のいさぱっぱさんは滅多にない休日をつぶしての、また、☆☆りんごさんはわざわざこのために仕事を休んでのガイド役でした。

 日向市から国道327号線をいさぱっぱさんの運転で椎葉村に向かいますが、距離は75キロ、所要時間はおよそ2時間半です。日向の市街地を出て十数キロ走ると国道は耳川に平行するようになります。耳川は椎葉村を囲む山々をみなもととし、日本最初のアーチ式ダムとして知られる上椎葉ダムを経由して日向灘に注ぐ川です。また、この国道327号線は耳川水系を利用した電源確保に乗り出した住友が椎葉村に寄付した100万円を使って昭和8年に完成した道路で、現在でも「100万円道路」の愛称で呼ばれています。


 国道を椎葉村に向かうに連れて次第に道幅は狭くなり、途中には車同士の離合ができない地点が多数あります。また、道路の改良工事が各所で行われており、時間を決めての完全通行止め区間もあり、現代においても「秘境」の香りがします。地形は耳川のわずかな河原から急な崖がそそり立ち、平家の人々がいかにして椎葉にたどり着いたのかその苦労は想像を絶するものであったであろうと思うと同時に、そこまでの山深くに逃げなければならなかった落人達のことを思い、その椎葉村が私の前にどのような姿で現れるのか期待に胸膨らむ道程でした。

 途中から私がハンドルを握り、車酔いのいさぱっぱさんを後部座席に転がして、場所によっては車の幅程度しかないような林道を右に左にときついカーブをかわして進み、大きな丘を超えるとそこは椎葉村の中心部でした。左手の谷底には耳川が流れ、耳川からそそり立った絶壁の斜面に張り付くように細長い民家や旅館が軒を並べています。わずか数百メートルのメインストリートには土産物屋や食堂などがひしめき合っていますが、そこでも道幅は乗用車がぎりぎり離合ができる程度しかありません。

 私たちが最初に向かったのは、もちろん平家落人伝説に登場する鶴富姫が暮らしたという「鶴富屋敷」です。鶴富屋敷は街のはずれの小高い位置にあります。建物そのものは鶴富姫の時代から建て替えられているとのことですが、建築様式はこの地に古くから伝わる「並列型民家」、すなわち川沿いに建つ民家のように奥行きはあまりなく横に長い構造をしており、家屋前面に縁を横一列に設けたものです。もちろんこれは平地が少なく傾斜をうまく利用するために考えられた形式です。現在は建物の中に上がって録音テープによる解説を聞きながら室内を見学をすることができます。この家の間取りは左から「ござ(21畳)」「でい(24.5畳)」「つぼね(14畳)」「うちね(17畳)」「どじ」の5つの部屋を設けています。「ござ」は神仏を祭る神聖な場所で、昔、女子は不浄なものと考えられ立ち入りできませんでした。「でい」は一番広い部屋で客間として用いられ冠婚葬祭などの行事もここで行われました。「つぼね」は夫婦部屋でお産の部屋ともなりました。「うちね」は茶の間。「どじ」は土間のことで、雑穀をつく唐臼と大小の石造りのかまどがあります。

 「でい」は「なげし」とよばれる敷居状の構造で部屋が2分されていますが、このなげしより上座を「おはら」下座を「したはら」と呼び、これは身分の上下を区別するために設けられた物で、庭にむしろを敷いて物を言った時代の名残だそうです。現在は各部屋とも畳が敷かれていますが、本来は板の間で、各部屋にいろりが設けられています。各部屋の縁とは逆の方向(上座)はすべて戸棚が作りつけられ、これらはほとんどケヤキの一枚板で長年丹念に磨き上げられ、美しい小豆色を醸し出していて家の歴史を忍ばせます。現存しているこの家屋がいつの時代のもであるかの明確な資料は見つかっていませんが、建築技術等から約300年前のものと思われます。


 また、屋敷のすぐ脇には鶴富姫の墓とされる墓石が現存しています。椎葉村観光協会によって立てられた解説板を引用します。「寿永の昔、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は四方に逃れ、その一部は山深き、日向国椎葉山中へ分け入り、ここを隠れ里と定めた。ところがこのことを知った鎌倉幕府は平家追討の命を「扇の的射」で知られる那須与一宗高に与えたが、与一は病のため、替わってその弟大八郎宗久に追討を命じ、日向の国に下向させた。世の功業戦宝も振り捨て唯谷川のせせらぎで鳥の声を慰めとして一途に山の庵に渡世する衰微した落人を目の当たりにした大八郎は深く哀れみ、平家尊々の厳島神社を椎葉山中に祀るなどして平家の人々を徳を持って導いた。滞在3年、大八郎は平清盛の末族と言われる鶴富姫と恋仲になり、やがて鶴富姫は大八郎の子を宿したが、運命の訪れは非情で鎌倉幕府により大八郎に帰還の命令が下った。悲しみに暮れる鶴富姫に大八郎は名刀天国丸とお墨付きを与え、『その方の懐妊我覚えあり 男子ならば本国下野に差越すべし 女子ならば遣すに及ばず 宜敷く取計るものなり』と住み慣れし山里を後に鎌倉に向かい出立した。鶴富姫は月満ちて女子を産み、婿を迎えて那須下野守と名乗らせ、その一族が長く椎葉を支配したと伝えられる。」

 国道から鶴富屋敷に登る途中に「化粧の水」というのがあります。これは鶴富姫が化粧に使ったと言われる湧き水で、今でも岩の間から水がわき続けています。ちなみに大八郎の「その方の懐妊我覚えあり」のインプレッションは非常に強烈で、私といさぱっぱさんの男二人は「覚えておいて今度使おう」とうなずき合いました。また、帰り道にいさぱっぱさんが先ほどの「鶴富姫が使った化粧の水」が岩からわき出て、美しく飾られた祠を抜けた後、タダの側溝に入り、道ばたに垂れ流しになっているのに気が付きました。側溝に捨てるのはやむを得ないとして、何か目に付かない配管をするような細工が欲しかったところでした。

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