壇ノ浦古戦場・その2(山口県下関市) >>その1 >>地図

「安徳帝御入水之処」碑。
安徳天皇はここで二位の局にいだかれながら波の下の都へ向かいました。

バス停前にはSAPAがあり、関門橋架橋に関する資料を閲覧したり、食事を取ったりすることができます。食事は特に「この地ならでは」というメニューはありませんが、ねぎのたっぷりのったかき揚げ天うどんはおすすめです。
壇ノ浦古戦場はビデオでも紹介しています。
こちらをご覧下さい。
ふるさとの言い伝え「壇ノ浦に消えた宝剣」
下関市市報「みらい」 2003/3/15号より
寿永4年(1185年)、壇ノ浦で源平最後の合戦が繰り広げられ、敗れた平家は滅んでしまいました。このとき、幼かった安徳天皇は二位の尼に抱かれ、三種の神器(天皇の印として伝えられる三つの宝・・・鏡、剣、まが玉)のうち、剣とまが玉とを持ったまま、壇ノ浦に身を投げられました。
中でも剣は天叢雲(あめのむらくも)の剣といって、いわれのある剣でした。当時政治を執っていた後白河法皇は、海峡をくまなく探させましたが、どうしても見つかりません。
そこで、潜りがうまいと有名だった壇ノ浦の海女に調べさせることにしました。さっそく海女は海に潜りました。すると海底に、竜宮城が建っているではありませんか。海女が恐る恐る竜宮城に入ると、奥から恐ろしい大蛇が宝剣を口にくわえ、幼い子供を抱えて出てきました。
大蛇はこう言いました。「私は竜宮城の大王である。この宝剣は、もともと竜宮城の大切な宝物であった。ところが、以前、次郎王子というものが、宝剣を持って陸に上がり、八つ首の大蛇となって人を飲みだした。そこに、スサノオノミコトが現れて、八つ首の大蛇は退治され宝剣は奪われてしまったのだ。その後、宝剣の持ち主はいろいろと変わった。そのたびに宝剣を奪い返そうとしたが、いずれも失敗に終わってきた。しかし、このたびは安徳天皇の姿を借りて、源平の合戦を起こし、ついに宝剣を取り返すことができたのだ。私が口にくわえているのは、まさにその宝剣だ。そしてこの子供は安徳天皇である。平家一門も皆、この竜宮城におる」。そして最後に大蛇は「この宝剣は永久に私の腹に入れておく」と言うなり、剣を飲み込んでしまいました。
壇ノ浦に沈んだ宝剣は、その後もたびたび探され、その回数は20回にも及んだといわれていますが、結局見つかりませんでした。
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