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壇ノ浦古戦場(山口県下関市) >>地図 

 壇ノ浦古戦場の碑があるみもすそ川公園は2004年にリニューアルされましたので紹介します。写真は2005年2月26日の15時頃に撮影しました。

 これまでのみもすそ川公園は松の木が茂っていて見通しが悪く暗い雰囲気でしたが、新しくなった公園は上の写真のようにすっきりした遊歩道が整備され、海岸に降りることができるようになりました。また、平知盛像「碇潜(いかりかづき)」と源義経「八艘飛び」の像が設置され、海峡の記念写真スポットとなっています。

  

 また、毎日(2005年3月現在)、源平の合戦の紙芝居が上演されています。七名の方が交代で公園で待機していて数名でも人が集まればすぐに始めてもらえます。帰りにはおみやげももらえます。私が訪れたのは土曜日の昼下がりで、雪が舞う寒い日したがひっきりなしに観光客の方が訪れて10分おき程度に上演されていました。バックはもちろん関門海峡・壇ノ浦で海峡を行き交う様々な船をバックに美しい絵と巧妙な語り口で壇ノ浦の悲話が語られます。

 バス停もきれいになりました。
 バスはJR下関駅からサンデン交通の路線バス、国道線(小月営業所・宇部中央・火の山国民宿舎、などたくさんありますので案内所で確認してください)のバスに乗車し、「みもすそ川」バス停で下車してください。バスは中(または後)ドアから整理券を取って乗車し、降車時に料金表にあわせた料金を払って前ドアから降りる方式です。
 自家用車駐車場は公園の国道を挟んで反対側にありますが駐車できる台数は少ないので休日はいつも満車です。

 以下はリニューアル前のものです。

 下関駅前から国道線の路線バスに十数分乗車し、みもすそ川バス停で降りると目の前に関門海峡が横たわっていますが、ここが壇ノ浦古戦場です。海沿いには公園が美しく整備され、海峡を行きかう船を眺めながら800年前の源平最後の合戦に思いをはせることができます。

 上の写真はみもすそ川公園で「だんのうら古戦場址」の石碑があります。目の前は1日700隻の船が行きかう海上交通の要衝、関門海峡です。公園のすぐ上を中国縦貫自動車道の関門橋がかかり、九州と本州をつないでいます。この公園のちょうど真下には関門国道トンネルが通り、徒歩でもこの海峡を渡ることができます。

 下の写真は昭和初期の壇ノ浦です。

 関門国道トンネルの人道はみもすそ川バス停前に入り口があります。

 上の写真の左手背景の山は火の山で、1時間に1本運行される路線バスで頂上に登ることができます(ロープウェイは運休中)。日の山頂上の展望台からは壇ノ浦古戦場全体を見下ろすことができます。

 下の写真は昭和初期の壇ノ浦です。みもすそ川橋の白い欄干が見えます。

文学に登場した壇ノ浦
巌谷小波(いわやさざなみ)作 「壇の浦にて」
 巌谷小波 (1870-1933) は、東京生まれの明治・大正期の小説家・童話作家。尾崎紅葉らと硯友社を興し、「初紅葉」などの小説を書きましたが、1891年、創作童話のはじめとして歴史的価値を持つ「こがね丸」を発表。以後、少年文学の執筆やおとぎ話の集大成に力を注ぎ、童話口演、後進の養成など、児童文学に貢献した功績は大きいものがあります。
 また、楽天居の号を持つ俳人でもありました。

     初ふくに そぞろ命を のばしけり

 この句は、昭和7年9月、「其桃(きとう)」創刊号に発表したものです。他には次の句がありました。

     舞ひよるや その碑の空に 渡り鳥
     これ喰はぬ ものは通さぬ ふくの関
     秋晴れや 瀬戸を横きる 朝心
     秋風の 瀬戸を占めたり いさり舟

下関市市報「潮風」平成7年1月1日号より

壇ノ浦古戦場・その2(山口県下関市) >>その1 >>地図 

 「安徳帝御入水之処」碑。
 安徳天皇はここで二位の局にいだかれながら波の下の都へ向かいました。

ご注意:この食事・休憩施設は2006年春頃に閉鎖されました。
 バス停前にはSAPAがあり、関門橋架橋に関する資料を閲覧したり、食事を取ったりすることができます。食事は特に「この地ならでは」というメニューはありませんが、ねぎのたっぷりのったかき揚げ天うどんはおすすめです。

 壇ノ浦古戦場はビデオでも紹介しています。
 こちらをご覧下さい

ふるさとの言い伝え「壇ノ浦に消えた宝剣」
  下関市市報「みらい」 2003/3/15号より

 寿永4年(1185年)、壇ノ浦で源平最後の合戦が繰り広げられ、敗れた平家は滅んでしまいました。このとき、幼かった安徳天皇は二位の尼に抱かれ、三種の神器(天皇の印として伝えられる三つの宝・・・鏡、剣、まが玉)のうち、剣とまが玉とを持ったまま、壇ノ浦に身を投げられました。
 中でも剣は天叢雲(あめのむらくも)の剣といって、いわれのある剣でした。当時政治を執っていた後白河法皇は、海峡をくまなく探させましたが、どうしても見つかりません。
 そこで、潜りがうまいと有名だった壇ノ浦の海女に調べさせることにしました。さっそく海女は海に潜りました。すると海底に、竜宮城が建っているではありませんか。海女が恐る恐る竜宮城に入ると、奥から恐ろしい大蛇が宝剣を口にくわえ、幼い子供を抱えて出てきました。
 大蛇はこう言いました。「私は竜宮城の大王である。この宝剣は、もともと竜宮城の大切な宝物であった。ところが、以前、次郎王子というものが、宝剣を持って陸に上がり、八つ首の大蛇となって人を飲みだした。そこに、スサノオノミコトが現れて、八つ首の大蛇は退治され宝剣は奪われてしまったのだ。その後、宝剣の持ち主はいろいろと変わった。そのたびに宝剣を奪い返そうとしたが、いずれも失敗に終わってきた。しかし、このたびは安徳天皇の姿を借りて、源平の合戦を起こし、ついに宝剣を取り返すことができたのだ。私が口にくわえているのは、まさにその宝剣だ。そしてこの子供は安徳天皇である。平家一門も皆、この竜宮城におる」。そして最後に大蛇は「この宝剣は永久に私の腹に入れておく」と言うなり、剣を飲み込んでしまいました。
 壇ノ浦に沈んだ宝剣は、その後もたびたび探され、その回数は20回にも及んだといわれていますが、結局見つかりませんでした。
   

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