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おびお版平家物語を歩く「彦島」
本尊は右肩を露わす衣の着方です。指は上品(じょうぼん)といい、拇指(おやゆび)と食指(しょくし・ひとさしゆび)で輪を作っています。手は膝の上で上生印(極楽浄土に往生するものの階位たる上品・中品・下品のそれぞれの最上位のしるし)を結び蓮華座の上に座した形です。檜材の寄木で作られ内側は空洞です。目は彫眼で頭部前面に二材、後頭部三材はぎ(つぎ合わせ)としています。修理した部分はありますが、製作当初のおだやかな作りは貴族文化の特徴をよく残している典型的な遺品といえます。 製作年代は藤原時代の作と推定されておりますが、作者は不明です。像高83.5センチメートル。(下関市教育委員会解説板より) 教育委員会作成の由緒書きには作者不明となっていますが、伝承によると天武6年(678年)に賢問子という仏師にが武天皇が勅命によって彫らせ、その後、約500年間は東大寺に安置されていましたが、承安4年(1174年)重盛の手に渡り、平家の守護仏になったといわれています。 西楽寺本尊阿弥陀如来像縁起 当西楽寺本尊阿弥陀如来は当彦島に置いては昔しから彦島開基尊像平重盛公護持仏として島民に尊ばれておられました。此の阿弥陀如来はその昔、第40代天武天皇(675)仏教に深く帰依をされ真の阿弥陀如来を拝せんことを発願されて奈良春日大明神に参籠祈誓をされて一夜春日大明神の神示を受けられ、神示に従って賢門子と言える仏師に命じられて造られた阿弥陀如来と伝えられ、それから500年後、平家全盛の時、平清盛の嫡男平重盛公は日々に募る父清盛の専横に心を痛めて世の無常を観じ紀州熊野権現に参籠、平家滅亡後の平家一門の菩提のために真の阿弥陀如来を拝せんことを祈誓されたところ「奈良東台寺に安置してある天武天皇発願の阿弥陀如来座像は極楽の真の阿弥陀如来也」との霊夢を受けられて急ぎ京に帰り、第80代高倉天皇(1168)に奏上されて奈良東台寺より件の阿弥陀如来をゆづり受けて自邸に勧請して朝夕礼拝供養をされた阿弥陀如来と伝えられております。 重盛公は父清盛の専横に心労のあまり病気になられてその頃西の極楽と呼ばれていた平知盛公の知行彦島に阿弥陀如来と共に京を西下されて彦島に渡られて阿弥陀如来を彦島に安置して御自分は自分の知行地九州に渡られて九州の地で亡くなられました。 平家壇ノ浦に滅びて50年。河野一族から一遍(1276)と言える浄土門の奥義を究め禅にも達した念仏聖が出られ念仏平和を日本国内に勧めるべく裸足で日本廻国を始められ、その途路下関に来られ、彦島の話を聞かれ弟子西楽法師(平忠正の嫡孫)を連れて彦島に渡られ彦島の人たちに其の否を悟らせて、西楽法師を彦島に残して一遍は下関へ帰られました。彦島に残られた西楽法師は島の人たちと語らい、重盛公の護持仏阿弥陀如来を本尊に精舎を建てられ、西の極楽といわれた彦島の名を取って西楽と寺号をされました。 人は変わり幾星霜時は流れて明治の世となり明治政府は西楽寺を廃寺にしました。島の人たちは一丸となって西楽寺の存続を嘆願しましたが許されず、寺号のみが許されました。寺はつぶされ後には小さな寺子屋式の堂宇が建ちました。明治、大正は過ぎ、昭和の初期、西楽寺は再建されましたが、日本は戦争に突入敗戦、西楽寺も安定せず衰微荒廃の一途でした。ところが源平800年祭を前にして奇特なる屋根師が出られ(昭和59年10月)寺は修復され寺は奇なるかな不思議の一途あるのみです。西楽寺本尊阿弥陀如来は霊仏であり活仏です。亦壇ノ浦に滅んだ平家人の幽魂未だ滅せずの感があります。 南無阿弥陀仏 西楽寺 (西楽寺解説板より引用・一部漢字は現在表記に改めました) アクセス:サンデン交通 本村経由各地行き・本村下車。下関駅方面から乗車した場合、下車後、50メートルほどバスの来た方向に戻り、前方の山際の路地に右折し、約30メートル左手。駐車場はありません。下関駅付近の駐車場を利用の上、バスで参拝して下さい。平重盛公の阿弥陀如来像は本堂内に祀られていますが、いつでも参拝できます。 |