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おびお版平家物語を歩く「彦島」 平安末期の武将で平相国・浄海入道・六波羅殿などとも呼ばれた平清盛は保元・平治の乱後、源氏に代って勢力を得、武家出身としては異例の累進をして従一位太政大臣にまで上り詰めました。娘徳子を高倉天皇の皇后とし、その子(清盛から見ると孫)安徳天皇を位につけ、皇室の外戚として勢力を誇りました。 その平清盛の墓とも言われている石碑が彦島の山中(さんちゅう)にひっそりと立っています。 急坂の踏み分け道を丘の頂へ向かって登っていくと急に視界が開ける杉田丘陵となります(冨田義弘氏の「彦島あれこれ」によるとこの丘は『ノジ』と呼ばれているらしい)。この丘陵からは福良方面を見渡すことができ、郷土史家・澤忠宏氏はこの場所を平家最期の砦「根緒城」のあった場所ではないかと著書「彦島風土記」に書いています。 そこで辺りを見回すと、さらに木の茂った林の中に続いていく細い道があることがわかります。昼間でも夜のように暗く頭上を樹木が茂った林の中をしばらく歩くと、再度もう一段高い丘を登って視界が開けるとそこに清盛塚があります。地元町内会の手によって案内の立て札が立っていますが、これがなければ、この場所にたどり着くのは不可能なほどひっそりとした場所です。 清盛塚は高さが50cmほどの石で、表面には「清盛塚」とはっきりと刻まれています。この文字はとても800年前の平安の時代に彫られたものとは思えないほどきれいですのでごく最近彫られたものではないかと思われます。現在赤間神宮裏手にある七盛塚が今から約200年前に平家の怨霊を沈めるために地元漁師によって整備されたのですが、これに呼応して彦島の漁師によって整備されたのではないかと思います。 1975年に発刊された冨田義弘氏の「彦島あれこれ」によると・・・・「清盛塚はその椿の根本近くに、ひっそりと建っていた。ノジの丘のこんもり茂った森の中である。約90センチの高さの自然石にはきりと『清盛塚』と彫られてあり、左に無刻の石を並べて、少し前には立派な台座を持った『地鎮神』と刻んだ石も建っている。この方は約1メートル50,背に榊を茂らせ、前面には椿やグミの木が植えてあり、ツワブキの黄色い花がそこに咲いていた。これが古くから伝えられている『平家塚』であろうか刻字から判断すればそう古いものとは思えない。せいぜい150年くらいであろう。しかし、『地鎮神』の碑の背面をよく見ると、ほとんど読みとれないが確かに何か彫った跡がある。かなり風化して、それらの字は削り取られたようにも見えるが、確かに字があることには違いない。」・・・とあるのですが、現在の清盛塚のまわりには台座を持った1メートル50もの『地鎮神』の石は建っていません。それらしい石はありますが、現在のそれは清盛塚と同じくらいの大きさで、表面に字が彫ってあることはわかりますが、なんと書いてあるのかはほとんど読めなくなっています。 また、この清盛塚のある場所からは下の写真のように福浦湾(当時は福良の港)が驚くほどよく見渡せます。800年前、平知盛はきっとこの場所・・・父の墓前で屋島から次々に下ってくる一門の船を迎えたのではないでしょうか? 写真中央付近の手前に入り組んでいる海が現在の福浦湾で、当時の予想される海岸線を赤線で記入してみました。湾左手の山が「海賊山」右手の山が「金比羅山」です。 おなじく「彦島あれこれ」によると、「清盛塚」は彦島にかつて5つから7つあった「平家塚」のひとつとされており、築城跡、落人が割腹した場所などに島民が石塔を建てて供養した、と伝えられているようです。で、この平家塚の供養は、塚の立つ部落で1年ごとに担当の家を決めてその家の者が必ずひとりで毎月4日に参拝していたそうです。「彦島あれこれ」に特に記述はありませんが、毎月4日というのは平清盛の月命日です。現存する平家塚は老の山山頂から卯月峠へ藪の中を少し下ったところ、福浦の安舎山(どこ?)の麓、角倉の段地堤から山中へ抜ける山見との途中(すでに埋め立てられている)3カ所(実質2カ所)のようです(いずれも未確認)。
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