[1] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月30日 15時38分32秒 ) | パスワード |
ミヤハラ様
三つ柏服部です。地震の被害と余波の不安(及びトラウマ)、是非乗り越え
られんことを願っております。
こちらは、熊本の皆さんの苦労も忘れたかのようにふるまっていることに
対し、心の中では申し訳なく、正直なところ気にしておりました。
でも、前に進めるしかないと、”旅”の続きに戻りました―
ミヤハラ様の今後の元気な復帰を心より期待申し上げます!
[2] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年05月30日 16時14分12秒 ) | パスワード |
皆様、あらためての登場です。
復帰、最初のテーマは
「旧新堀家のお堂から見つかった新たな”姓”について」と題してご紹介させて頂きます。
地震発生当日の4月14日。平川家について32 コメント45で
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101523_73.html
新堀家から養子に入った「平川家」(祖母の実家のお隣)を今に継ぐおじさんと、同じく新堀家から養子に入った「深松家」を今に継ぐおじさんの話を書きました。
その際
>親戚関係も含めて、球磨の歴史を調べている事をおじさん達に伝えると、平川のおじさんは「○○ちゃん(私)がこっちに帰ってきたのも、何かあるとバイ(p_-)」と言っていました(p_-)
と書いたのが最後でした。
上記の宮原の曾祖母の実家新堀家から弟が養子に入って継いだ「深松家」は、旧新堀家があった場所をそのまま引き継ぎ、家の敷地内には今でもお堂が現存しています。
ずっと、こちらのお堂が気になっていたのですが、意を決して調査を行う事にしました。
私は仏像や神像に関してはもちろん全くの無知識で、求麻郷土研究会の溝下様にお力添えをお願いした所、ありがたい事に快くお引き受け下さいまして、先週、旧新堀家(現深松家)のお堂調査に溝下様と伺って参りました。
お堂には「御神像」「男神像」「女神像」他複数の仏像がお祀りされています。
「御神像」を見て溝下様の推測では「御神像」は「稲積神社(稲積妙見)」の妙見様の可能性がある・・との事で現在調査をお続けです。
私は全くの無知識で、少し勉強をと思いネットで調べたのですが以下のサイトの記述を見つけました。
妙見信仰と真武信仰における文化交渉 二階堂 善弘氏
http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/6113/1/1-02-03-NIKAIDO%20Yoshihiro.pdf
1 .妙見神と真武・玄天上帝
日本で広く信仰されている妙見神は、また「妙見菩薩」「妙見尊星王」「北辰妙見菩薩」といった称号 を持っている。
さらに「鎮宅霊符神」と同一神であり、また日本の原初の神の一つ「天之御中主神」(あめのみなかぬしのかみ)で あるともされる。
じっくり読んでみると14ページに
もとより妙見神の姿は一定していない。林温氏は次のように指摘する6)。
中略・・
ここで言及されている尊星王の姿は、よく知られているように四手で日月を手に執り、龍に乗る菩薩形
の像である。時に三面である場合もある。
と記述されています。
※四手で日月を手に執り
※時に三面である場合もある。
深松家の御神像は「四手」で「三面」だった・・・
もちろん私は、全くの無知識ですので、造詣の深い溝下様の調査を心待ちにしています(^'^)。
「稲積神社(稲積妙見)」は明治初期に岡原霧島神社に合祀となりましたが、御神像の幾つかは、近隣の家々に残された可能性があり、確かに、うちの宮原家、祖母の実家「平川家」さらにお隣の「平川家」、さらには家の隣の以前からコメントしていた旧「久保大津太衛門もしくは久保大津左衛門」家、其々の家にはお堂が昭和初期まであったそうです。
残念ながら現存しているのは、調査した「旧新堀家(現深松家)」と「祖母の実家平川家」とお隣の「平川家」のみで、今後、調査を進める予定です。
ただ・・お堂があった家は全て新堀家を介した親戚なのですよね・・???
まえがきが長くなりましたが、ここでタイトルとした「旧新堀家のお堂から見つかった新たな”姓”について」を書かせて頂きます。
「四手」で「三面」の御神像の台座には墨書きの銘が残されていました。
以下、求麻郷土研究会溝下様より頂いた調査書から略させて書かせて頂きます。
御神像 総高21.5センチ 台座墨書銘 寛延四(一七五一年)
寛延四丁未八月吉日
作者 奥野村 椎葉六左衛門
施主 宮原村 三吉□□□
光背墨書
寛延四丁未□ 三吉伯□□ 大當住□□
旧光背
寛延四丁未八月彼岸初日
奥野村
作者尾方六左衛門
三吉伯□□
皆様、お気づき頂いたと思います。
施主 三吉□□□
新たに登場した姓とは「三吉氏」です。
お堂を調査している時に墨書銘が見つかり、そこに「三吉」と書かれているのを見て、相変わらず「ぼ〜っ!」としている私は
「あれっ?何だか、以前”三吉氏”について調べた様な・・??」とは思ったのですが、家に帰って何時調べたのか過去のこちらのスレッドを確認してビックリしました。
皆様
平川家について10 「コメント11」と「コメント75」をぜひご覧ください!
http://hikoshima.com/bbs/heike/101347.html
(上記の平川家について10 「コメント11」と「コメント75」の転記は今後整理しながら行わせて頂きます)
何故、旧宮原村に「三吉氏」が在したのか、今は全く解りません。
さらに、「三吉」姓は、相良藩士には名が残っておらず、推測ですが、もしや、御神像に名を残した施主の「三吉」氏は当時、普段は「別の姓」を使っていた可能性もあるのか?と・・
平川家について10 「コメント11」と「コメント75」をご覧頂くと、「三吉氏」は平河氏に繋がるのか?と私は当時推測していたのですが、御神像は旧新堀家のお堂にお祀りされていた・・ここも謎です。
藤原義孝(良峯左近少尉義孝)の子が藤原行成。
藤原行成の四男が「三吉兼範」
藤原兼範(三吉氏の祖)時代は12世紀の方。
相良頼景と共に球磨に下向した平原範頼と弟の新堀頼兼・・時代は12世紀末。
藤原兼範・・「兼範」「範頼」「頼兼」私見ですが名前が何だか妙に似ているような気が・・
相良頼景が球磨に下向した当時・・旧湯前村・旧多良木村・旧久米村・旧奥野村・旧宮原村・旧岡本村等の久米郷は豊富郷と呼ばれた天皇御領でした。
その土地に相良頼景、平原次郎頼範と新堀又次郎(四郎)頼兼は下向した・・という事ですね。
さらに相良氏の本領「牧ノ原」は西園寺家領でもあり、久米郷も西園寺家領であり・・久米郷東方を西園寺公経と替地をした橘公業・・
荘園の運営・・領家・在家・・その関係・・
この辺りの何かあるのかとは思うのですが・・
もちろん、旧新堀家のお堂の御神像に施主として名を残した「三吉氏」が何時、この宮原村に来られたのかも全くの謎ですが、今後、「うちの親戚一族のお堂調査」で何が出て来るのか非常に楽しみになりました。
しかし・・
過去の調査で「どうしても気になった」三浦氏(佐原氏)と藤原義孝の系の二系。
三浦氏(佐原氏)の家紋「三つ引き両紋」は親戚の椎葉家で「和鏡」の紋として見つかり、藤原義孝の系である「三吉氏」の名が親戚の旧新堀家のお堂にお祀りの御神像から見つかった・・
これって・・偶然なのでしょうか??
さらにもう一つ、御神像(妙見様?)の他にお祀りされていた別の御神像である
「男神像と女神像」についてですが
男神像の両胸に紋が施されていました。「並び鷹羽紋」でした。
??????ここも更なる謎が深まっています。????何故????
溝下様のお話では現時点では調査段階ですが、男神像の烏帽子の形?(私はうまく表現出来ません(..))より時代は江戸初期より古いようです。
復帰第一弾は
旧新堀家のお堂から見つかった姓「三吉氏」他を御紹介させて頂きました。
皆様、ぜひご教示の程お待ち致します。
よろしくお願い致します。
では(..)
[3] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年05月30日 16時54分27秒 ) | パスワード |
三つ柏服部様
ありがとうございます。
余震に怯える中にいた私に、三つ柏服部様から頂いた温かいお言葉に私は救われました。
一生忘れません。本当にありがとうございました。
先のコメント2で書きましたように、先週から私も調査を復帰しました。
復帰第一段は「足での調査」でした。
三つ柏服部様と空の青海のあを様の御調査「長上郡の服部氏族」、私、楽しみに読ませて頂いていました。
三つ柏服部様の足を使った”旅”の調査、毎回敬服致しております。
今回の私の復帰第一弾は、三つ柏服部様の御調査に刺激を受けて「私も自らの足を使った調査が必要なのだ!」と考えての事です(^'^)
しかし・・足を使った調査とは言え・・家から200〜300メートルしか離れていない親戚のお堂からですので・・お恥ずかしいです(..)
さらに、親戚のお堂を球磨に戻って一年以上調査していなかった事じたい、問題でして・・反省致しております。
私も前に進んで行きます。
三つ柏服部様
これから、梅雨に入り蒸し暑い日が続くと思われますが、お身体ご自愛下さい。素敵な旅の調査、これからも楽しみにさせて頂きます。
[4] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年05月31日 12時38分37秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
旧新堀家のお堂にお祀りの御神像の台座墨書銘・光背墨書から見つかった「三吉氏」の名ですが、先入観を持たずに調べてみました。
日本の苗字七千傑様のサイトで検索すると
【藤原氏伊尹流】姓氏類別大観 に見える「三吉氏」
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02008.htm#002
他にも
【葛城氏】姓氏類別大観に見える「三吉氏」
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02143.htm
さらに
三吉鼓氏
武家家伝 三吉鼓氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_tudumi.html
治承四年(1180)源頼朝の旗揚げにあたって、佐々木秀義はその子定綱・経高・盛綱・高綱・義清ら子息とともにこれを助けた。その後の平家との戦いで、佐々木兄弟が活躍したことは世に知られている。なかでも四男高綱は、梶原景高との宇治川における先陣争いで名が高い。鎌倉幕府の成立後、佐々木氏は兄弟・一門を合わせて十七ケ国の守護となった。
ところで、秀義には先の兄弟以外にも数人の男子があったとされる。そのうちの一人が、備後国三吉郡の地頭職に補されて比恵尾山城を築き、三吉氏を称したという。それが、「三吉鼓系図」にみえる佐々木七郎秀綱である。しかし、秀綱の名は『尊卑分脈』に記された佐々木秀義の子のなかには見えない。
鼓系図によれば秀綱の子は秀方で、承久三年(1221)。承久の乱において宮方となって出陣、京都で討死した。このとき、秀方は「吉字」をもって旗紋としたと伝えられ、以後、「吉字」が三吉鼓氏の家紋となった。承久の乱後、三吉鼓氏の所領は没収され、高元は備後国児島に隠れた。
その後、鎌倉幕府が滅び建武の中興が成った。ところが、後醍醐天皇と足利尊氏との間に不和が生じ、足利尊氏は宮方との戦いに敗れて九州に落ちていった。尊氏は九州で巻き返しを図り、建武三年(1336)軍勢を率い、京を目指して攻め上ってきた。五月、尊氏軍を迎え撃つ宮方は、楠木正成を将として摂津国湊川に陣を布いた。この合戦で三吉秀清は尊氏の軍に属して奮戦、功を挙げ、その賞として備後国重永村の地頭職を得た。秀清は武家方として各地で戦い、文和四年(1355)、東寺の合戦で戦死している。
(-.-)その後、上記の三吉氏は大内氏に属し、天文二十年(1541)、陶氏の謀叛で義隆は自害、大内氏は滅亡、その後、毛利元就に随がって、各地に戦い功を挙げ、慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦で毛利氏が没落、備後国から長州萩に移封されるにあたり、毛利氏を辞して浪人した。
そうか・・
藤原氏伊尹流「三吉氏」と宇多源氏佐々木氏流「三吉氏」はとても近い所に住されていたのですね・・
藤原氏伊尹流「三吉氏」はウィキの記述では
12世紀に兼範が近江国から備後国三吉郷に下向、その子・兼宗(かねむね)が三吉大夫と称し、三吉氏の初代となった。比叡尾山城を拠点とし、国人領主として備後国内で勢力を拡大していった。
鎌倉幕府滅亡の頃、三吉氏は後醍醐天皇に味方し、後に中国地方に下ってきた足利直冬に従った。直冬の勢力が衰えると、近隣の有力大名である山名氏や大内氏、尼子氏の下を転々とした。
中略・・
大内義隆が大寧寺の変で自害すると、当主の三吉広高(ひろたか)は天文22年(1553年)に父の三吉致高とともに自立性を保ちながら毛利元就に従属した。また、三吉致高の娘(一族の娘とも)を元就の側室とした。
(-.-)とあります。
南北朝時代・・
※宇多源氏佐々木氏流「三吉氏」は足利尊氏の軍に属し・・北朝方
※藤原氏伊尹流「三吉氏」は後醍醐天皇に味方し、後に中国地方に下ってきた足利直冬に従った。・・南朝方
うん(?_?)・・足利直冬?
そう言えば、球磨の久米の領主「橘遠江入道 道公」は多良木経頼に同調して河尻幸俊を通じて足利直冬とも組し南朝方として戦った。・・のでした。
しかし・・
同じく球磨の橘公好は建武三年(1336年)足利尊氏が京都での合戦に敗れて九州に下向した際には、四月二十日に球磨を出発し、足利尊氏の上洛に供奉した。・・のでした。
(-.-)・・(?_?)・・(?_?)・・この辺りの所を考えると段々頭が混乱してくるのですが・・
さらに・・
藤原氏伊尹流「三吉氏」と宇多源氏佐々木氏流「三吉氏」も共に大内氏に属した。
大内義隆・・この方は、私の住む球磨郡旧宮原村の銀山開発に深く関わった方でした。
・・・・どの「三吉氏」を見ても・・何だか「モヤモヤ」します。
しかし・・
現段階では「旧宮原村の現在私の住む集落には1700年代中盤にいずれかの系の”三吉氏”が住していた」
と考える事しか出来ません(ー_ー)!!
今後、何か見つかる事を期待しています。
こちらのスレッドをしばらくお休みさせて頂く前に調査していた「遠江国」を軸とした「相良氏」「新堀氏」「伊予橘氏」「滋野一族」「三浦氏(佐原氏)」の調査に戻りたいと思います。
今朝は、様々な「三吉氏」を調べてみました。
では(..)
[5] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月02日 14時27分32秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
昨日、「「遠江国」を軸とした「相良氏」「新堀氏」「伊予橘氏」「滋野一族」「三浦氏(佐原氏)」の調査に戻りたいと思います。」と書いたものの・・
何だか「三吉氏」がどうも気になって、ネットで検索していたのですが・・
\(◎o◎)/!
こちら「平家物語を熱く語る」内の
空の青海のあを様の「私信:隈さんへ」(投稿日:2010年09月22日 )の中で「三吉氏」について沢山のお話が書かれていました。
http://hikoshima.com/bbs/heike/101198.html
ビックリしました!
何だろう・・鳥肌が立つくらい驚きました。
読ませて頂くと・・
三吉氏の他「長崎氏」の話題も・・
長崎氏と言えば・・平頼綱。
「平頼綱」と宮原一族の先祖「橘公綱」は同母である異父兄弟。
「さくら」さんと「もみじ」さんのお話も読みましたが(p_-)この方々はもしや・・(p_-)
しかし、「橘薩摩」とは、私ども「宮原一族」の先祖を称した”言葉”でございます(..)
空の青海のあを様の「私信:隈さんへ」を読ませて頂いて、
家の親戚一族の旧新堀家のお堂にお祀りされる御神像から「三吉氏」の名が見つかった事はやはり「偶然ではない!」と思いました。
しかし・・驚きました
では(..)
[6] | 白石さんからのコメント(2016年06月04日 18時04分27秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんにちは
球磨の三吉氏 藤原氏流 宇多源氏流 ほか
どの筋でしょうね・・・
三吉氏とは あまり関係ありませんが
テレビを見ていましたら 豊臣秀吉の「歯」を祀ってあるお寺がありました。
それから 秀吉の血液型がO型であり 彼が歯槽膿漏にかかっていたことがわかるそうです。
[7] | 白石さんからのコメント(2016年06月04日 19時38分09秒 ) | パスワード |
三吉氏の画像というのをみてみたら
今風の顔ですね。
男子もあごがすーっとすぼまって「だいご君」みたいな顔。
途中に ちょろっと 系図が出ていたので みましたら
京極とか 六角とか 佐々木氏とか書いてありました。
宇多の系だろうと思いました。
この人たちの顔を面長にして 目をきりりとさせると 昔一緒に働いた「藤堂男子」 の顔です。
富田千春さんも同じ系統の顔ですね。
[8] | 白石さんからのコメント(2016年06月05日 09時53分46秒 ) | パスワード |
先日テレビで「欄陵王」の 明治工芸を見ました。緻密な細工物で明治工芸はもう国内にはなく 海外に流出してしまっているそうです。
マスクも当然はずれるようになっていました。そのお鼻は やはり 大天狗様でなく カラス天狗の鷲鼻でした。
作った人は はるかな時を経て 王の顔を知っていたわけではなく
しかし
王は あまりにもの美しさのゆえに 戦場にはますくをつけておもむいたという話がある人で
美しいといえば そういうお鼻になるのか?と思います。
[9] | 白石さんからのコメント(2016年06月05日 11時36分13秒 ) | パスワード |
建礼門院右京大夫
父は藤原(世尊寺)伊行。母は大神基政の娘で箏の名手である夕霧。
建礼門院は高倉天皇中宮であった平徳子
平資盛の恋人で 京都吉峰寺に資盛は会いに来る。
世尊寺家は 九条で 大神は尾方とすれば ...
[10] | 白石さんからのコメント(2016年06月05日 12時01分44秒 ) | パスワード |
嬉野太田氏の先祖祭り
佐賀県嬉野市に道灌の子孫の集落が100戸ほどあり、毎年先祖祭りを盛大に行っています。
鍋島藩に仕え・・・
鍋島藩 などの言葉では 白石嬉野氏のとき 出てきました。
球磨の化け猫の話は 鍋島竜造寺の話に 告知していた。
あちらの精力が 球磨のほうまできていたとしたら・・・
前に太田氏住宅から 平川に大谷つながる話がありました。
太田家住宅の系はわかりませんが・・・
[11] | 白石さんからのコメント(2016年06月05日 13時16分22秒 ) | パスワード |
告知・・・酷似
精力・・・勢力
大谷・・・太田
平川に大谷つながる話がありました。・・・江戸城に平川があった。
訂正です。すみません。
ーーーーーーーー
こちら大阪
茨城にある継体天皇の陵の近くの畑に 平安時代 中臣藍連がおり子の子孫が太田道灌だと立札があります。
太田道灌は 源頼光流
ぬえ退治で有名な 源三位頼政の子孫
【世系】太田氏は清和天皇の苗裔、源三位入道頼政の嫡男伊豆守仲綱の五代孫摂津守資國に出づ。
摂州多田院御家人高岡系図をみると肥後守貞望がいる。池田泰貞の実弟である。泰貞に子がなく 源姓馬場下野守仲政の四男奉政を養して氏を継がしむ。 依りて後裔源姓を称す。摂州高岡氏は、池田奉貞の實弟肥後守貞望の後裔にして紀姓を称したるも、 同五世に至りて、源姓池田奉永の四男源四郎が婿入りして氏を継ぎたるによりて高岡氏もまた源姓を称す。 世々摂州川邉郡多田郷の御家人なり。
この池田氏系図に のちの世に 徳川氏 相良氏から養子がはいる。
相良氏が佐々木氏だとすれば ・・・
[12] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月07日 13時38分01秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
白石様、御教示ありがとうございます。
>建礼門院右京大夫 父は藤原(世尊寺)伊行。母は大神基政の娘で箏の名手である夕霧。
上記の「大神基政」は ウィキより
大神 基政(おおが の もとまさ、承暦3年(1079年) - 保延4年9月8日(1138年10月13日))は、平安時代後期の楽人。右近衛将監・大神惟季(是季)の養子。子に基賢・夕霧がいる。官位は従五位下・左近衛将監。
石清水八幡宮の童子であったが、大神惟季に才能を見出されて彼の養子となり、「皇帝破陣楽」などの秘曲を伝授される。なかんずく横笛に長じ、惟季はその著書『懐竹抄』の中で、管弦の心得を知悉しており、卓越した演奏をする人物として基政を絶賛している。
※大神惟季に才能を見出されて彼の養子となり・・
大神惟季は日本の苗字七千傑様の《三輪氏》姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02106a.htm#003
《楽家大神氏》の系に見えます。
大神惟季の養子となった大神基政の系は「山井氏」となる・・
確かに相良長頼の弟は「山井宗頼(四郎)」。内田氏の祖。
求麻外史には「公(相良頼景)、山井名を割きて宗頼に與ふ」さらに「山井を以って宗頼の第二子頼重に與ふ」とあります。
いずれにしても、大神基政の系「山井氏」ともしや何らかの繋がりがあるとすればそれはやはり「相良氏」に関係しているのではないでしょうか?
白石様の御教示
>世尊寺家は 九条で 大神は尾方とすれば ...
私は球磨の「尾方氏」は「豊後大神氏」の系だと考えていたのですが・・
尾方氏をデータで調べてみました。
全国に「尾方姓」は966軒
圧倒的に多いのは熊本県で389軒。
全国で尾方姓の最も多い熊本県内において、さらに「尾方姓」が圧倒的に多いのは「人吉・球磨地方」です。
県内「389軒」の内
人吉市81軒 山江村7軒 相良村22軒 錦町8軒 あさぎり町72軒 多良木町64軒 湯前町8軒 水上村9軒 五木村8軒 球磨村9軒
人吉球磨郡内の市町村内で「尾方姓」の無い村は存在していません。と言うほど多い姓ですね。
尾方姓、熊本県内389軒の内、288軒が人吉・球磨。
全国の尾方姓「966軒」の内「288軒」が人吉・球磨地方在と言う事です。
先程、「人吉球磨郡内の市町村内で「尾方姓」の無い村は存在していません。」と書きましたが、これは言いかえると「神社の無い村は無い」のと一緒ではないでしょうか・・?
青井阿蘇神社第五十一代大宮司の青井惟董が編纂した「麻郡神社私考」(1699年作)を読むと、球磨郡内の各村々に鎮座の多数の神社の「宮司」「祠官」「社人」の方々の姓に「尾方氏(尾形)」が名を残されています。
現在、球磨・人吉在の「尾方氏」は、殆どが球磨・人吉の神社に関係した方々に繋がっているのでは?と私は推測しているのですが・・
現代の世においては「神社」とは無関係である尾方氏が殆どとは思いますが・・
しかし、神社の「社人」等として家を継ぐのは、嫡男の系であったりする訳ですから、他の方々は其々分家して別れていくはずです。宮司家では無く藩士に代わったり、他郷士に代わったり、他帰農した家も少なくはないと思います。
そのような「流れ」が何百年も続いた結果が、日本国内において「尾方氏」が最も多い球磨・人吉地方となっている・・と考えたのですが・・(何せ288軒の尾方氏ですから・・)
球磨・人吉地方の神社に関わる「尾方家」。
平川家について31 コメント51で書かせて頂いていました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101516_81.html
※熊本県神社誌
熊本県神社誌とは昭和56年出版、上米良純臣氏編者であり、本文の前に「序」の項では昭和56年当時の神社本廳統理 徳川宗敬氏、さらに「熊本県神社界の大きな財産」の項では阿蘇神社宮司 熊本県神社廳長の阿蘇惟友氏のお言葉が記されています。
熊本県神社誌 第八章 熊本県内社家と神職 第一節 古い社家略系図。
こちらに記載の球磨・人吉の「古い社家略系図」で記載されていた「家々」は
※青井阿蘇神社大宮司家 (姓 大神)人吉市
※市房山神宮 一宮神社宮司家 (姓 大神 氏 尾方)水上村
※白髪神社宮司家 (姓 大神 氏 尾方)あさぎり町(旧上村)
※岡留熊野座神社宮司家 (姓 緒方 氏 尾方)あさぎり町(旧免田町)
※白木神社(白木妙見宮)宮司家 (姓 大神 氏 椎葉)多良木町(旧奥野村)
上記の5家です。
上記の「岡留熊野座神社宮司家」の尾方家は「うちの強い絆の一族?」の親戚関係になります。(詳しくは平川家について31 コメント51を(..))
こちらの尾方家の第67代青井阿蘇神社大宮司となった人物(言いづらいので、いつものようにおじさんと呼ばせてもらいます)と祖母の実家の平川家の現在の当主(こちらもおじさんと呼ばせてもらいます)は従兄どうしとなります。
其々のおじさんの母が橘姓の中村家の娘、姉妹です。
解りづらいと思いますが「椎葉家」「尾方家(岡留熊野座神社宮司家)」「平川家」「中村家」は何重も縁戚関係を結んでいるという事です。
さらに上記の「中村家」と橘氏系図を持つ「矢野家」が親戚関係でお隣同士。
さらにこちらの「中村家」と家の宮原家も親戚関係にある。
(p_-)・・((+_+))書いているとどんどんややこしくなってきました(..)
新堀家の息子である、私の曾祖母の弟の子。この人のお嫁さんは多良木の別の「尾方家」から嫁いで来られています。
所で・・
白髪神社宮司家ですが・・家の曾祖父(久保田家から養子に入る)の姪の系が切畑大明神の元宮司家を介して嫁がれていますので、遠いですが遠戚関係になります。
ううん・・
大きく考えると・・本姓「大神氏」と本姓「橘氏」と本姓「藤原氏」と「新堀氏」と「平河氏」。
いにしえの時代に何らかの強い絆が発生しているのかな・・??
熊本県神社誌 第八章 熊本県内社家と神職 第一節 古い社家略系図。こちらを見ると一つ気になるのが
白木神社(白木妙見宮)宮司家 (姓 大神 氏 椎葉)多良木町(旧奥野村)
熊本県神社誌より
白木神社(白木妙見宮)宮司家 (姓 大神 氏 椎葉)
初 大神惟当・・A惟許・・B惟栄・・C惟寂・・D惟栄・・E惟安・・F惟休・・G惟勝・・H惟刀・・I貞吉・・J徳次郎・・K貞●(現在)
しかし・・
「麻郡神社私考」(1699年)の記録では
白木社妙見 奥野笛木城 妙見山 社人 宮原庄吉
とあるのです・・???
椎葉のおじの「椎葉家」はもともと奥野村に住していたそうで、江戸後期に宮原村に来られたそうです。
おじの話では、おじが子供の頃の旧奥野村には宮司家の椎葉家のみで他に椎葉家は無かったようです(私は詳しく確認していませんが)
おじの家には文政年間からの記録が残っていて「椎葉吉助」その後の方々が「椎葉六兵衛」・・「椎葉清治」・・「椎葉敬治(江戸末期〜明治初期)」と続いています。
「椎葉吉助」・・「吉」の文字が見えます。
「麻郡神社私考」を見ると1699年当時の旧宮原村鎮座の稲積妙見(久米領稲積山)の社人は「椎葉久左衛門」。
この方は久米六反田村の若宮大明神と久米古城の新八幡宮の社人でもあります。
若宮大明神の記録には「寛文二年壬寅社司惟栄拝殿修造」とあり「惟栄」という方の名が見えます。
白木神社(白木妙見宮)宮司家 (姓 大神 氏 椎葉)の系図に残るD惟栄という方と一致するようです。
何だろう・・どうも・・「姓 大神 氏 椎葉」の椎葉氏と「宮原氏」・・何か繋がっているような気がしているのですよね・・(p_-)
ちょっと話がそれました(..)
「三吉氏」について
相良藩内の記録をとどめた「求麻外史」「南藤蔓綿録」「嗣誠濁集覧」他様々な文献等、分限帳等を見ても球磨・人吉内の記録に「三吉氏」の名跡は全く残っていません。
すなわち・・先日見つかった、旧新堀家のお堂にお祀りの、稲積妙見の御神像の一体であっただろう「御神像」の墨書が唯一残る「球磨・人吉に残る三吉氏の名跡」となります。
そこから考えて・・三吉氏と球磨郡全体を結びつけるのは今の所は控えようと思っています。(別の市町村から同じく三吉氏の名跡が見つかれば別ですが・・)
「三吉氏は宮原村に住していた」現段階、三吉氏を探るポイントはここにあると思っています。
さらに稲積妙見は旧宮原村の宮麓地区。
先日、旧新堀家のお堂を調査して下さった求麻郷土研究会の溝下さんと一緒に家から旧新堀家までを歩いて案内している時に溝下さんが
「ここは・・宮原家・平川家・新堀家と球磨の歴史の中でも、とても古い名(姓)の家が集まっている。きっと”何かあるんやろうね・・”」と言われていました。
私も、やはり、この頃・・「この辺りには何かある」と感じています。
うん(?_?)そう言えば、相良長頼球磨入部の際に道案内をしたと言われる「万江家」も同じ集落です・・(?_?)
最後に新堀家について解った事を(..)
室町時代(1500年代)の記録でも新堀氏は旧宮原村に名を残しています。
肥後相良藩士分限帳に残る新堀氏の名は旧宮原村のみです。
宮原の曾祖母の実家である新堀家ですが、明治中期頃には現在の多良木町黒肥地地区へと移って行かれました。
椎葉のおじの記憶では、黒肥地の新堀家に子供さんが無く、祖母の実家隣の平川家に養子に入った私の曾祖母の弟の孫が、本家を継ぐ為に新堀に名を変えて養子に入ったようです。
旧新堀家(現深松家)のおじの話では昭和40年代中頃までは新堀家の一族は大勢で集まって来られていたそうです。
お堂にも、お参りによく来られていたとの事でした。
「時代が変わったら、何もかも解らなくなるからね・・残念やね・・」
おじさんの言葉です。
もっともっと、何も解らなくなる前に「新堀氏」について調べ初めて本当に良かったと思っています。
こちらのスレッドは「平川家について」ですが・・親戚其々の歴史を調べると・・何だか「平川家」の真実もおのずから見えて来るのでは?と考える今日この頃です。
では(..)
[13] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月07日 15時22分03秒 ) | パスワード |
追記
先程、「古い家々」と書いて・・思い出して気になった事があります。
旧新堀家のお堂にお祀りされていた「扇」についてです。
お堂の中には、おそらく妙見様と推測される御神像の他、木彫りの男神像(両胸に並び鷹の羽紋)木彫りの女神像、他、数体の御仏像と、毘沙門天様が描かれた絵巻物、さらに・・
お堂の中の天井近く(右上)高い位置に黒く塗られた神棚(すみません表現が見つからない)が造られていました。(背の届く位置ではありません)
扉を開けると・・中にお祀りされてあったのは・・「扇」でした。
かなり古い時代の物と思われる扇で、黒く(こげ茶色)変色はしていましたが、よほど造りが良かったのか骨組みはしっかりと残っていて、かすかに銀の文字のような何かが残っていました。
私はな〜んにも解らないので、「扇」がお祀りされていた事がビックリでした。
御神体が「扇」だったと言う事です。
皆様、扇を御神体とする「風習?(かな?)」を御存じありませんでしょうか?
旧新堀家の御神像・御神体はおそらく、元々うちの宮原家があった場所のすぐ近くに鎮座した「稲積妙見」(稲積神社)が岡原霧島神社に合祀された時に集落に残された「数体」の内の幾つかだと思われます。
ちなみに「稲積妙見」(稲積神社)は妙見様ですが、ただ、球磨郡誌(昭和15年発行)の493ページに岡原霧島神社の記述があり気になる事が書かれています。
稲積神社の御祭神について 球磨郡誌より
※同村馬場田鎮座稲積神社祭神 天之御中主神 右五神を前と同時に本社に合併した。
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
「右五神」とは別天津神(ことあまつかみ)でした。
ウィキペディアより
別天津神(ことあまつかみ)は、『古事記』において、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々を云う。
『古事記』上巻の冒頭では、天地開闢の際、高天原に以下の三柱の神(造化の三神という)が、
いずれも「独神(ひとりがみ)」(男女の性別が無い神[1])として成って、そのまま身を隠したという。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) - 至高の神
高御産巣日神(たかみむすひのかみ) - 生産・生成の「創造」の神。神産巣日神と対になって男女の「むすび」を象徴する神
神産巣日神(かみむすひのかみ) - 生産・生成の「創造」の神。高御産巣日神と対になって男女の「むすび」を象徴する神
その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。この二柱の神もまた独神として身を隠した。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)- 活力の神
天之常立神(あめのとこたちのかみ)- 天の神
これら五柱の神を、天津神の中でも特別な存在として「別天津神」と呼ぶ。
あの・・良く解らないのですが、先に書いた「扇」の御神体は稲積神社の御祭神と何か関係があるのでしょうか・・??
旧に思い出したのであわてて書いてしまいました(..)
皆様、御教示の程、どうかよろしくお願い致します。
(..)
[14] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月07日 18時49分24秒 ) | パスワード |
再追記
皆様!!
三吉氏がどうしても気になって・・宮原村に住した「三吉氏」はその後どこに行かれたのかな?と調べた所・・
球磨に一軒「三吉家」が残っていました。
でっ!住所を調べて・・ビックリ\(◎o◎)/!
ぎゃあ〜!!と悲鳴をあげてしまいました!
私の高祖母の実家の永田家のお隣でした!!
なっ何でぇ〜!!????
\(◎o◎)/!・・(?_?)・・(p_-)むむっ!
これは・・どうも・・やはり・・三吉氏とうちの強い絆の一族は何かの”絆”で結ばれているようです。
では(..)・・摩訶不思議な一族・・との声が何処から・・(p_-)
[15] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月08日 11時24分33秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
昨日のコメントでは自分の中で「モヤモヤ」する事が多数出てきたのですが・・
今日は、昨日お伝えした「三吉氏」のお隣にある私の高祖母の実家、永田家について書かせて頂きます。
実は人吉市史に高祖母の実家の事が書かれていたのですが、お金に関わる事なので「下世話」な話になるから・・書かないでおこう!と思っていたのですが・・やはり何だか色々気になるので、意を決して書かせて頂きます(..)
人吉市史 明治維新以降年度別記録 709ページ 多額納税者と大地主の発生(明治二十二年度)
こちらの項に、明治二十二年、郡長中山政記から報告された人吉市・球磨郡内多額納税者十五名の記述があります。
その十五名の内の二名(二軒)なのですが・・
一軒(一名)は・・高祖母の実家の「永田家某氏」で
もう一軒(一名)は・・椎葉家を継いだ源一おじいさんの妻の実家の「犬童家某氏」でした・・(名前は人吉市史には記載されているのですが、こちらでは控えさせて頂きます(..))
かなり、以前にコメントしたように
永田家の娘であった高祖母は島津某家老家の子息と恋に落ちて「源一氏」を産み、結局生き別れとなり、子供を連れて深水家に嫁ぎました。
その後源一氏は、跡継ぎが無かった椎葉家に養子に入って「椎葉家」を継ぎました。
源一氏の妻が犬童家の娘。
深水家に嫁いだ高祖母は四人の子供を産み、長女が私の曾祖母です。
永田家娘嫁ぐ「深水家」 ⇒ 深水家娘嫁ぐ「平川家」⇒ 平川家娘嫁ぐ「宮原家」・・となります(..)
ちなみに・・宮原家からは昭和中期に平川家に嫁いだ人がいるので・・何だかグルグル回っています・・
源一氏に子供が無かった為、平川家から妹の子供である私の祖母の姉が椎葉家に養女に入りました。
以前、先程ご紹介した人吉市史の記述を読んだ時に気が付いたのですが
椎葉家を継いだ「源一氏」
母方の実家と嫁方の実家、双方が明治二十二年度多額納税者・・・
何だか椎葉家・・すごいな・・と思ったのですが、やはりこの話をコメントするのは「下世話」かな・・と思って書いてはいませんでした(..)
しかし・・
地元の調査で様々な事が見つかり・・新たな「姓」も登場し・・やはり椎葉のおじいわく家紋を同じくする「強い絆の一族」の明治以降の記述も書いておくべきかな(..)・・と思いまして、今日は書かせて頂きました。
そして・・上記の永田家のお隣が球磨に残るただ一軒の「三吉氏」です(..)
では(..)
[16] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月08日 17時14分19秒 ) | パスワード |
皆様、再登場です(^'^)
椎葉氏・・椎葉村・・
ふと気になって椎葉村を調べたのですが、私、無知識でした。
椎葉村と言う「村」が出来たのは明治に入ってからで、それまでは椎葉村という名の村は存在していませんでした
\(◎o◎)/!ビックリしました。
椎葉村 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8E%E8%91%89%E6%9D%91
歴史[編集]
戦国時代には椎葉三人衆(向山城、小崎城、大河内城の那須氏)と呼ばれる豪族が支配していた。1618年(元和4年)、那須氏の間で対立が激化。1619年(元和5年)、幕府は阿倍正之、大久保忠成を派遣して事態の収拾を図らせた。徳川実紀によると住民1000人が捕らえられ140名が殺害されたという(椎葉山騒動)。以降、天領となり1656年(明暦2年)隣接する人吉藩の預かり地となった。
伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。那須氏はその出自ではないかともいわれる(那須大八郎と鶴富姫伝説)。
近現代[編集]
1873年 椎葉山中84か村が合併し向山村(のち不土野村)・大河内村・松尾村・下福良村が成立。
1889年5月1日 町村制施行。不土野村・大河内村・松尾村・下福良村が合併し椎葉村が成立。
西臼杵郡 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%87%BC%E6%9D%B5%E9%83%A1
幕府領 人吉藩預地 4村 大河内村、松尾村、向山村、下福良村
上記の記述から
※戦国時代には椎葉三人衆(向山城、小崎城、大河内城の那須氏)と呼ばれる豪族が支配していた。
※1873年 椎葉山中84か村が合併し向山村(のち不土野村)・大河内村・松尾村・下福良村が成立。
※1889年5月1日 町村制施行。不土野村・大河内村・松尾村・下福良村が合併し椎葉村が成立。
と言う事ですね(p_-)
那須氏・・おんやっ?(p_-)・・あきちゃん(こちらのスレッドでお馴染み?の従弟の奥さん)・・那須大八郎は御先祖様ですね(p_-)
ちなみに・・家も那須家とは親戚です(p_-)
城名は・・向山城、小崎城、大河内城
人吉藩預地は・・4村 大河内村、松尾村、向山村、下福良村
大河内村・・大河内城
何処かからの地名遷移かな?な〜んて思って調べてみたのですが・・
大河内城 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%9F%8E
大河内城(おかわちじょう)は、三重県松阪市大河内町城山にあった日本の城(山城)。城は丘陵の北端に築造されており、東に阪内川、北に矢津川、西側と南側には深い谷が入り自然の要害であった。
概要[編集]
応永22年(1415年)、南朝の伊勢国司北畠満雅が両統迭立を履行しない幕府に対する挙兵の際に、備えとして築城。弟の北畠顕雅を入れた。これにより顕雅は、北畠氏諸流・大河内氏の祖となった。
顕雅は、兄・満雅をよく助け活躍したが正長元年(1428年)、満雅が討ち死にすると、その子・教具はまだ7歳であった為、顕雅が職務を代行し、足利義教との和睦交渉を纏めた。
伊勢北畠氏からは大河内、木造、坂内、田丸、星合、岩内、藤方、波瀬の諸氏が分かれ出て、それぞれ御所と称した。 木造御所は北畠庶流の筆頭であったが、木造御所は度々幕府側に付き、宗家と対立した。そのため田丸御所(田丸城)・坂内御所(坂内城)・大河内御所・(大河内城)の三家が北畠三御所となり、なかでも大河内御所は代々筆頭とされ、宗家が絶えたときは、これを継ぐ立場であった。
永禄年間、前伊勢国司であった北畠具教が、織田信長の伊勢侵攻に対し、嫡子・具房と共に多芸の霧山城(北畠神社)より大河内城に本拠地を移し、永禄12年(1569年)8月28日より籠城戦を行うも、信長の次男信雄に北畠の家督を譲る条件で和睦し、10月3日、具教、具房親子は城を退去した(大河内城の戦い)。
天正4年(1576年)、信雄が南伊勢を統治する拠点を田丸城に移したため、廃城となった。
((+_+))・・あんれっ??何だか「田丸」という文字が沢山目に入ってきましたよ!!(?_?)
田丸城 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%B8%E5%9F%8E
田丸城(たまるじょう)は中世から近世をとおして現在の三重県度会郡玉城町田丸字城郭にあった日本の城。南北朝時代に南朝方の拠点として北畠親房、北畠顕信によって築かれたといわれる平山城であり、三重県指定史跡である[1]。
かつての城内に、玉城町役場および玉城町立玉城中学校がある。桜が多く植えられており花見シーズンには花見客で賑わう。
伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられたが、1342年(康永元年)、足利尊氏によって落城する。その後、室町時代には伊勢国司となった北畠氏の手によって再建される。北畠家の庶流で、第5代北畠政郷の四男顕晴が度会郡田丸城に入り、田丸氏を名乗った。
\(◎o◎)/! 田丸氏!! マタマタ あきちゃん!!
先程も名前が登場した私の従弟の奥さんの「あきちゃん」のお母さんの実家の姓(名)は「田丸家」です!!
こちらの田丸家の前当主であった「あきちゃん」のおじい様が、私の祖父と大親友!
「あきちゃん」の田丸のおじい様と私の祖父は其々が陸軍将校で、同郷(球磨)と言う事もあり、意気投合して、大親友となったそうです。
そして二人は「其々の孫の代くらいで、孫同士を結婚させたら良いね(^'^)」と。
しかし・・私の祖父は残念ながら若くして亡くなりました。
祖父の親友であった「田丸氏」(あきちゃんの祖父様)はその後、球磨郡上村の村長を歴任されました。
妻となった方(あきちゃんの祖母様)が那須大八郎の後裔。
\(◎o◎)/!・・椎葉村の大河内城(大河内村)から発想して・・全国の大河内城を調べたら、ナント「田丸氏」に繋がってしまいました!!
むむっ偶然かな????でも・・「モヤモヤ」します(..)
ちなみに今回の個人情報はちゃんと「あきちゃん」に了解を得て書かせて頂きました。
では(..)
[17] | 白石さんからのコメント(2016年06月09日 21時15分17秒 ) | パスワード |
王辰爾 船首王後
<その他百済氏・船・白猪・葛井・菅野氏など>
百済王13代近肖古王の子供から派生したとされる錦宿禰の流れはその後三善朝臣姓となり、その裔に鎌倉幕府の初代執事になった「三善康信」がいる。この流れから多くの武家が派生するが、これらは百済氏の一番古い流れである。詳細省略。
百済王16辰斯王の流れから白猪氏・船氏・津氏などが派生した。「船王辰爾」が有名である。津氏の流れから前述した桓武天皇の時参議となった「菅野真道」が輩出された。
白猪氏の流れから葛井氏が出、更に宮原氏となり、宮原道依の娘藤子は51平城天皇の妃となり、「阿保親王」を産んでいる。阿保親王の子供に「在原業平」が出る
※白猪氏の流れから葛井氏が出、更に宮原氏となり、宮原道依の娘藤子は51平城天皇の妃となり、「阿保親王」を産んでいる。阿保親王の子供に「在原業平」が出る
※同族から錦 三善(表記がちがうが)
前にも少しふれましたが 宮原と白石 高岡 などの接点はここらにあるのではなかろうか?と 思います。
若さ彦神社の笠氏 は りゅう と 呼ぶのですね。
田丸氏
北畠氏に関与するのですね。
[18] | 白石さんからのコメント(2016年06月09日 22時05分12秒 ) | パスワード |
贏姓 高丘系図1で検索
秦王室第26代恵文王の苗裔
高軌の女子が百済王に嫁ぎ 子孫の枝分かれに船氏がいる。
また 百済25代武寧王の
ところの矢印をクリックすれば 百済 扶余系図に切り替わり 和氏が出る。
若さ彦神社のところをクリック。
笠氏が出る。
※笠は 劉のようです。
[19] | 白石さんからのコメント(2016年06月09日 22時07分21秒 ) | パスワード |
《古事記》《日本書紀》の伝承によれば,景行(天皇)の妃となり日本武[mixi]笠氏 - 大蔵朝臣原田一族 | mixiコミュニティより
[mixi]大蔵朝臣原田一族 笠氏 [怡土志摩地理全誌](由比章祐・1989) 郡内に笠姓は多い。『改正原田記』に笠大炊の名はよく出る。 『天正中備定』には、後備の将として笠大炊介がある。 天正一七(一五八九)年、大炊の後の相続を ...(やまとたける)を生んだ播磨稲日大娘は同氏の出身・・・
※原田氏は坂上一族である。
四浦 小山勝清氏の本で 原田瑞穂氏の写真が出ているが これは 林の男子の若い時の顔とよく似ており 佐々木先生の若い時に似ており 同じ系統だろうと思います。
[20] | 白石さんからのコメント(2016年06月09日 23時36分26秒 ) | パスワード |
藤井家の御先祖様 藤井家の御先祖様より
プロフィール 自己紹介 御先祖様は卜部家(藤井)からなる (藤原鎌足)同祖、天児屋根命であります。 可多能祐大連が卜部家の祖先に繋がる人物で 藤原鎌足の祖父にもあたります。 藤原家(中臣)の菩提寺と云えば 枚岡神社、春日大社 ...
親戚 縁戚 血族などに 九条家 道長 近衛 etc
平野神宮は今来の神をまつる。しかし 卜部家は 天児屋根尊を祖としており 遠祖は古い時代にさかのぼる。
また
日本の苗字7000傑卜部氏系図で
壱岐真根子の系 忍見命の子孫 は 壱岐氏のブログで あえて 壱岐氏といっているとして
有栖川の宮につながっているとしている。
清閑寺領にある二条天皇の皇后である育子様がお生みになった六条天皇の御陵を参拝しました。
六条天皇は第79代です。
その次は第80代高倉天皇(皇后は平清盛の娘、徳子様)でこのかたの御父は後白河天皇ですからニ条天皇(六条天皇の御父)とはご兄弟です。
霊元天皇は御水尾天皇の御子です霊元天皇には松室7流の中に女房になっておられる方があります。すなわち松室重敦の娘ー伊勢の局ーで、この方が有栖川職仁親王(ありすかわよりひとしんのう)をお生みになり、この親王が有栖川宮の第5代となられましたが、その先代、正仁(ただひと)親王にお子様がなかったので、この職仁親王から松室の血がつずくのであります。ということは現在の天皇家にまで続いていることになるのです。
[21] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月10日 12時49分03秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
白石様、沢山の御教示ありがとうございます。
ただ一つ(..)
>王辰爾 船首王後
<その他百済氏・船・白猪・葛井・菅野氏など>
中略・・
>前にも少しふれましたが 宮原と白石 高岡 などの接点はここらにあるのではなかろうか?と 思います。
白石様、上記の「宮原」とはどちらの「宮原氏」を指していらっしゃるのでしょうか?
もしや・・うちの宮原?・・そう言う事であれば・・(..)ちょっと・・
確かに、以前「旧宮原村のもう一系の宮原氏」について触れましたが、あの時はかなりの勉強不足で(..)・・もし、「旧宮原村のもう一系の宮原氏」を調べるのであれば、それはその前に「星原氏」を調べなければいけなくなります。
「麻郡神社私考」(1699年作)を読むと、切畑大明神(切畑神社)の当時の祠官は「星原内記」と言う方です。
あちらの「宮原氏」は代々切畑大明神(切畑神社)の宮司家であったと言う事ですから、おのずから「星原内記」と言う方との繋がりが見えてきます。
旧宮原村の切畑大明神(切畑神社)は湯前の飛領知でした。
「麻郡神社私考」によれば湯前の数か所の神社は「星原氏」が宮司家となっています。
確かに、家の宮原家と星原家は親戚関係となりますが、これは曾祖父の姪(蓑毛家に嫁ぐ)の子(戸籍上は祖父の従姉)が星原家に嫁いだ事からです。
そして、上記の蓑毛家から切畑大明神(切畑神社)の宮司家に娘さんが嫁がれています。
星原家とうちの宮原家、二家を結ぶ縁は、以前コメントした旧宮原村在の相良藩士「山本吉兵衛」この方にあります。
「山本吉兵衛」の孫娘が、上記の星原家に嫁いでいる事は以前書かせて頂きましたが、同じく「山本吉兵衛」の孫娘を母とするのは、私の祖父を産んだ「宮原のもう一人の曾祖母」です。
「宮原のもう一人の曾祖母」を以前、私は旧宮原村の熊野地区の「宮原家」と聞いてコメントしていましたが、最近調べて解ったのですが、「宮原のもう一人の曾祖母」は熊野地区の宮原家と深い姻戚関係を持つ「吉鶴家」の娘でした。
母が「山本吉兵衛」の孫娘となります。
「宮原のもう一人の曾祖母」の実家、熊野の「吉鶴家」は、新堀家とも姻戚関係にあり、なお且つ、祖母の実家のお隣の「平川家」とも姻戚関係にあります。
熊野の「吉鶴家」は明治以降、地元では「ぶげんしゃ」と呼ばれる家の一つです。
次回、コメントさせて頂きますが、「吉鶴家」と以前コメントした天草に縁のある親戚の「金子家」を調べた所、二家は繋がっていました。
天草の旧宮田村が二家を繋げる鍵です。
さらに、もっと詳しく調べると・・結局は「伊予国」や「伊予橘氏」にも繋がっているようです。
「宮原のもう一人の曾祖母」は、元は、「小池家」に嫁いでいました。
二家を結んだのは、「宮原家」と「平川家」の其々の「私の曾祖父」です。
上記の「小池家」は八代方面から来られた家で、家には地元の歴史誌にも記載されている「小池家が他地区から移転する際に持参した鎌倉時代の石灯篭他」などもあります。
小池家は私の祖父の姉が継いで現在に至っています。
話は変わりますが、曾祖父の実家「久保田家」と「淵田家(渕田家)」は姻戚関係にあり上記からの系が「宮原家」「平川家」に繋がっています。(こちらも以前コメントしました)
宮原村には「値賀氏」「淵田氏」「蓑田氏」が在していました。
ここまで書いてお伝えしたかった事は・・
うちの宮原家が繋がっているのは、おそらく「伊予国」や「熊野」そしてさらに「松浦半島」だと・・
ですから、白石様のお言葉
>王辰爾 船首王後
<その他百済氏・船・白猪・葛井・菅野氏など>
中略・・
>前にも少しふれましたが 宮原と白石 高岡 などの接点はここらにあるのではなかろうか?と 思います。
こちらは・・うちの「宮原」とは別のお話かな?と・・
すみません、私が、今日書いた詳しい内容をコメントしておくべきでした(..)
白石様、ごめんなさい(..)
[22] | 白石さんからのコメント(2016年06月10日 22時38分38秒 ) | パスワード |
みやちゃん
こんばんは
みやちゃんが 父の父は 誰? という調べ方をしていることをしりながら 太古のことで話して ごめんなさい。
7000傑様式でいうと エジプトの史 の 続き ということに なろうかと。
[23] | 白石さんからのコメント(2016年06月10日 22時41分33秒 ) | パスワード |
半島の人たちは 王様はみな よそから来たとしており
7000傑様によれば 4世紀ころの 民族大移動 があり
我が国と現在半島にいる人たちとの関係性は薄い ということにな
また 藤原氏そのものが 半島にいたころの人との かけあい からでており
わたくしは 先祖は はやくから 日本にいついて 我が国の 歴史を作ってきた人たち という とらえ方をしています。
[24] | 白石さんからのコメント(2016年06月10日 22時43分52秒 ) | パスワード |
当然 みやちゃんとこと 近い先祖が つながることはなかろうと思います。
尾方が せいぜい 縁戚同士になるかも ?と 思っていますが。
尾方の親世代は 町長を していました。
お寺様の先代のころは まだ 何かご存じだったようですが
わたくしが 子供の時 先代様が 「お父様のお名前は?」と聞かれ
父は 養子に行ったからと思って 答えると 何度も聞かれるので
さては 声が小さいか?と思って 大きな声で答えると また 言われ
父のもとの姓をいうと やっとうなづかれたという記憶。
[25] | 白石さんからのコメント(2016年06月10日 22時45分51秒 ) | パスワード |
現住職は 佐賀から養子に来られています。 佐賀 ・・・・
父は 子供のころから 海軍に甲種合格ではいっていました。
私が 「なぐられんかったとね?」と聞くと
母が 「もっ!!そりゃむぞがってくいやってたいな。いっちょんそばから話そうとしやらんかったと」といい
写真では その人の左後ろに写っていました。それから推測して 伝令かしら?と 思っています。のち 逓信省に入っていましたから。
艦長をしていた その方は 佐賀出身で 後 初代の大和の館長 後 貴族院議員を務め 後 学習院大学で教鞭をとられたと 覚えています。
[26] | 白石さんからのコメント(2016年06月10日 22時56分46秒 ) | パスワード |
伊予橘氏
孝霊天皇とはえいろど との間の子・彦狭島命 に はじまる。
このはえいろどは
絙某弟はえいろど
父:•和知都美命わちつみのみこと 【古事記 中巻 安寧天皇段】
先祖: 和知都美命 は父・師木津日子命
師木津日子命は安寧天皇と阿久斗比売の子。
また 渟名底仲媛命(春日県主大間宿禰ときょうだい。この宿ねの子孫が和邇氏になる。)・・・父・鴨王命 その父・事代主
この部分を見ると
彼らは 中原氏に関与してくるが
中原は 多氏 十市氏 磯城 ほか で グループで
にぎはやひ に つながり
高岡は 饒速日を遠祖とする系があり
白石には 古代 火の君で 多氏族であり
佐田は 中原で
もっと さかのぼれば 尾方と同族。
彼らからも 伊予橘氏はつながってくる。
[27] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月11日 15時14分47秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
白石様
御教示ありがとうございます。
古代・・
うちの系がどうのでは無く、もちろん球磨は古代の百済・新羅とは密接な関係にあったという事は私も重々承知しています(^'^)
何せ、記紀には「熊襲のバックには新羅がついていた」とはっきり書かれてありますから(^'^)
所で・・
昨日のコメントで「次回書きます」と書かせて頂いた内容ではなく・・
実は、昨日、求麻郷土研究会の溝下さんと御一緒に、私の祖母の実家の平川家及び、お隣の平川家で簡単ではありますが、「旧宮原村の平川家調査第一段」を行って参りました。
皆様!!色々、解りましたよ〜!!(^'^)
次のコメントで御紹介致します。
では(..)
[28] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月11日 17時30分40秒 ) | パスワード |
では、早速「旧宮原村の平川家調査第一段」の御報告を(^'^)
昨日の調査は最初に「祖母の実家の平川家」次に「お隣の平川家」とまわりました。
「祖母の実家の平川家」には以前からお話していたように数基のお墓と五輪塔があります。
数基のお墓の殆どは当時の平川家に仕えていらっしゃった方々のお墓で、祖母の実家の平川家をお守りして頂いています。
一基は平川家の御先祖様のお墓もしくは供養塔で、立派な自然石で出来ていて、しかし、読めるのは一番上の梵字と「元禄」の文字のみでした。
元禄・・1688年から1704年までの期間を指します。
※五輪塔について
五輪塔は、祖母の実家の平川家の御先祖様が建立した墓碑もしくは供養塔です。
梵字がぐるりと五つ(あれっ四つだったかな?溝下さんに後でもう一度お聞きします。トホホ(..))
風化が激しく、読める文字は左下面に年号の「寛永五年」(1628年)。
右側に何故かこの部分だけははっきり見えて「銀水」
おそらく「銀水」の文字の上や下には文字が続いていたのでしょうが、残念ながら読めませんでした。
当時の旧宮原村は・・一国一城令の後も「宮原城」は存続したようですが、その後島原の乱をきっかけに寛永十五年(1638年)に二度目の破城例があり、おそらく宮原城も廃城となったと思われます。
旧宮原村在の当時の平河氏(分限帳を見ると寛政十年”1798年”までは旧宮原村の「ひらかわ氏」は「平河」となっています)
先祖「平河氏」は五輪塔の文字より「寛永五年」(1628年)にはすでにこの場所に在していたと言う事になります。
私の地元「球磨郡旧宮原村」の宮原城、最後の城主であったと言われる
犬童十兵衛(宮原十兵衛)
「球磨郡旧宮原村」の宮原城城主であった犬童十兵衛(宮原十兵衛)の墓碑・供養塔は二か所。
寛永十二年(1635年) 宮原十兵衛 菩提 心涼祐傳禅定門 三月二十八日 宮原谷中 敬白
※あさぎり町岡原北 宮麓地区 庭柏寺跡
寛永十二年(1635年)心涼祐傳禅定門 宮原城主 犬童十兵衛 三月二十八日
※※人吉市浪床町中尾墓地
(p_-)と言う事は・・おんやっ??(p_-)
私の先祖の平河氏建立の五輪塔。年号は「寛永五年」(1628年)
宮原城主 犬童十兵衛(宮原十兵衛)・・寛永十二年(1635年)
年代が近い(p_-)・・と言う事は・・あっ!!
宮原城主 犬童十兵衛(宮原十兵衛)この方と旧宮原村在の平河氏は、同じ時代に旧宮原村の宮麓地区に在していた!という事になります。(もちろん顔見知りでしょう(p_-))
平川家について28コメント27で書いたように
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101490_76.html
肥後国相良藩士分限帳 佐藤光昭氏編
こちらに記述されている4069名の相良藩士の中で唯一「犬童十兵衛」を名乗った
犬童彦右エ門とは・・
犬童彦右エ門 高政 すなわち 「平河高政」だった
その後の調査の結果。
犬童彦右エ門高政( 元禄十一 十一月十三日死 法名 康宅永安)
犬童彦右エ門高政の墓は「中尾墓地」の平河家墓所域にあり、さらにすぐ傍に建っていたのが
心涼祐傳禅定門 宮原城主 犬童十兵衛 の墓石でした。
うん(?_?)・・元禄十一・・??(p_-)
そう言えば・・一基の平川家の御先祖様のお墓もしくは供養塔、立派な自然石で出来ていて、しかし、読めるのは一番上の梵字と「元禄」の文字のみ・・
「元禄」・・「げんろく」・・おんやっ??もう一回しっかりと確認してみます。(御先祖様には申し訳ありませんが(..)文字が読めるようにちょっとゴシゴシと・・御先祖様に叱られるかな(..)・・)
でも・・考えてみると・・
多良木在の平川家には「平川家文書」が伝わり・・
祖母の実家の旧宮原村の平川家には、先祖の守り刀と複数の絵巻が伝わった・・
この絵巻の一つはかなり以前にコメントしたように「男の子を抱いた女官らしき方が平川家に来られた時の絵」だそうで、代々長男しか見る事ができませんでした。
この方(男の子)と旧宮原村の平川家はそれから繋がっていくそうなのですが・・(どうなのかな(?_?))
こちらの男の子は一体どなたなのか?未だ謎です。
続けて
※祖母の実家の平川家のお堂について(..)
五輪塔の5メートル程先にはお堂が造られています。
このお堂は、以前建っていたお堂が古くなり、元の場所から少し離れた場所に昭和20年代後半に移築されました。
移築の際には、青井阿蘇神社の宮司を務めた尾方のおじが御祓いとお清めをされて、移築の手伝いをしたのは椎葉のおじです。
このお堂は、実は祖母の実家の平川家の氏神様でした。
※祖母の実家の旧宮原村在「平河家」の氏神様について
お祀りのお札は「皇大神宮」でした。
さらに練札があり尾方のおじの墨書がのこり「昭和28年にお堂を造り替えた」という旨の言葉がありました。
同じく、尾方のおじの墨書で、祖母の実家の「平川家」のお堂にお祀りの氏神様が木製のお札に書かれていました。
御紹介します(..)祖母の実家の旧宮原村在の「平川家」の氏神様は
伊弉諾尊
彦火火出見尊
月読命
御三神でした・・・・
あの・・氏神様というより何だか神社の御祭神のようで・・
溝下さんと私は、一瞬「えっ?」となったのですが、でも、こちらのお堂は神社ではなく、まさしく「祖母の実家の平川家の氏神様をお祀りするお堂」だそうです。
椎葉のおじや父にも確認しました。(..)
御祭神は難しい言葉で実は書かれていまして・・溝下さんが記録されているので、詳しくは後日「きちんと」書かせて頂きます。
(何だかそうしないと御先祖様に叱られそうです(..))
次のコメントでは、祖母の実家のお隣の平川家で解った「衝撃の事実?」という題で書かせて頂きます。
その前に、一休み( ^^) _U~~
あの・・皆様、私、まだまだ「神様」は勉強不足でして、よく理解出来ていません。
氏神様が解ったので、もしや、調査が一気に進展するかな?(^'^)と喜んではいるのですが・・やはりあまり意味が解りません。
ぜひ、御教示の程お待ち致します。
皆様、どうかよろしくお願い申し上げます(..)
[29] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月11日 22時11分20秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^'^)
コメント28では、祖母の実家の平川家の氏神様について書かせて頂きました。
続けまして
祖母の実家のお隣の平川家で解った「衝撃の事実?」についてです。
祖母の実家のお隣の平川家にもお堂がありますが、現在は何も残ってはいませんでした。
こちらの平川家には新堀家から曾祖母の弟が婿養子に入っています。
人吉市史には、明治初期の旧宮原村の士族平川氏としてこちらの平川家も名前が記されていました。
こちらの平川家の庭にはかなり古い池の後が残り、さらに、こちらにも五輪塔があったようですが、現在は、塔の一番上の部分のみが残されていました。
こちらの平川家のおじさんと話をしていると、おじさんが突然
「家は、相良村の平川(ひらごう)からここに来たと”おばに聞いた”」と。
(?_?)・・えええっ!!\(◎o◎)/!
私:「おじさん!!どこのおばさん?から聞いたの??」と聞くと・・
おじさん:「○○(私)のばあちゃんたい!」
\(◎o◎)/!「うっうちのばあちゃんから!!?」
おじさん「そうよ!○○ちゃんのばあちゃんは一番何でも知っとったとよ(知ってたんだよ」
私:「ええええええええええええっ!!?」
おじさん:「何ね?何も聞いとらんと??」
私:「子供の頃に色々話てくれていたけど、当時は全く興味が無くて・・断片的な事しか覚えてない(..)」
私は以前書いたように、祖母は亡くなる前に急に私に色々話初めて・・「これからはあんたに色々話しておかんばんね(話しておかなければね)」と言われて、でも次に私が帰って来た時には祖母は倒れた後で口が麻痺してしまって・・「もう遅かっ!ばあちゃん話せなくなった」と麻痺してしまった口で一生懸命声をしぼり出して訴えて・・涙を流していたのが最後でした。
この事が、私が先祖の調査をしなければ!と考えたきっかけとなりました。
続けます(..)
溝下さん:「木上の平川(ひらごう)じゃないですか?」
おじさん:「いや!違う。宮原のおばさんは”相良村の平川(ひらごう)と言った。俺はしっかり覚えてる。木上にも平川(ひらごう)があるんですか?」
溝下さん:「あります。!木上の平川には今でも平川さんが何軒もあります」
おじさん:「そうか・・でも、おばは、相良村と言っていました」
私:「こちらはいつ頃岡原に来られたと?」
おじさん:「それは解らんけど、でも、平川のお墓は、墓地(庭柏寺跡)に何代ものお墓があるから、そっちに行って調べてみたら?」と。
次回、溝下さんと「平川家墓地調査」に向かいます。
しかし・・凄く驚きました!
椎葉のおじと父にこの話をすると二人とも
「元々、南(祖母の実家の平川家)とお隣の平川家は、先祖が兄弟だったそうで、長男の系が南(祖母の実家の平川家)お隣の平川家が弟の系だとは聞いていた」と。
相良村の平川(ひらごう)とは・・
旧「平川村」。現在の相良村四浦西平川でした。
白石様が、「相良村には平川という地区がある!」と言われていたあの場所ですね。
私、白石様から四浦村のお話を色々伺って、調査してはいたのですが、一つ、ずっと気になっていた事がありました。
旧「平川村」。現在の相良村四浦西平川。
「平川」の名が残る地名なのに、こちらには、「平川家」が一軒も存在しない・・何故なのだろう??と。
四浦の「平川氏」。私の父の友人の平川さんの家ともう一軒、二軒ありました。
おそらくもう一軒の「平川氏」が白石様の御親戚の「平川家」だと推測しています。
地図を見て確認したのですが、二軒とも現在の「相良村四浦西平川」ではありませんでした。
両家(四浦平川家)とも「相良村四浦西平川」からはおそらく2〜3キロ程離れていました。
「相良村四浦西平川」地区は、旧川辺村と近い位置にあるようですね。
「相良村四浦西平川」。旧平川村に在していたのは「祖母の実家の平川家と先祖が兄弟同士で、弟の系となる」お隣の平川家だった・・
祖母の実家の平川家は遅くとも「寛永五年」(1628年)以前には、「何処から」すでに旧宮原村に移っていますが、お隣の平川家が「いつ宮原村に来られたのか?」は、墓石調査である程度は解ると思います。
白石様が以前から度々御教示下さった「平家城」とはこの辺りなのでしょうか?
白石様、やっと御縁が見えましたね(^'^)
旧宮原村在の「平川一族」は旧「平川村」、現在の相良村四浦西平川に縁がありました!というお話でした。
では(^'^)
[30] | 白石さんからのコメント(2016年06月12日 00時45分24秒 ) | パスワード |
みやちゃん
こんばんは
みやちゃんとこの 平川家とうちの父のいとこが婿養子に入った平川家 ここは 純粋平川・・・と とりあえず書きましょうか? 祖父のときまで平川血筋のようです。平川の祖父で 元 士族だった人です。定長という人です。祖母が川向い つまり 西 の 番地から嫁に来ていて 平川のおば・・・つまり 跡取り女子・・は 尾方は平氏だった と いっていましたが 同級生のその尾方は うちの尾方が 平氏とは聞いていないと いいます。そこの尾方には 中村から 男子がはいっていると これも 中村の同級生が 言っていました。
[31] | 白石さんからのコメント(2016年06月12日 00時48分18秒 ) | パスワード |
この
尾方が 晴山の綱木などにつながっていて 映画監督のひとやら 建築関係のひとやら いるのだそうです。東京世田谷なんぞに住んでいて ・・・わあーっ ローンなど払えるのかしらん ?と 思ったものでした。
私と同世代の(故人)平川の跡取りは
若いころ 誰も 四浦平家城のことなど 言っていないころ 「四浦平家城のあったと」と 教えてくれていました。現在は 箕田さんが史跡案内などされているようです。
うちの平川は東が番地なので 川向が 西になります。
平家城があったところも 西です。
今の嫁は 一武からきているとのことで 一武は木上と川一つはさんだあっちとこっちです。
[32] | 白石さんからのコメント(2016年06月12日 00時53分57秒 ) | パスワード |
家のすぐそばの山への入り口に お墓がありまして 10基くらいでしょうか?数えたことはありませんけど平川だけのお墓みたいです。
他の共同墓地などを見たことがありますが お墓とお墓の間に またまた入れてあるみたいに密集しているところもあります。
畑で花が咲いたらそれをもって 墓にいくとです と 以前嫁が話していました。
父のいとこの前に そのいとこのきょうだいが 婿になっていたのですが 亡くなり 今の子供たちの父(父のいとこ)が婿養子になったのです。
兄弟 または おじなどがなくなると そのきょうだい や おいなどが後をつぐ形です。
結構 親戚同士で 子供のやりとりがあったようで
私の兄にも 平川から嫁にという話があり しかし 兄はそのころ すでに 都会に出ていて 母の妹つまりおば のところと親交があり その 関係とかで 都会の嫁をもらいました。
姉は いとこ通し (平江や白石などと 関与しながら山口男子と結婚 そのうえ世代の 父と姉の母とも いとこどおしなのだそうです。前に写真を見ていただいた女子が姉の子です)
すぐ上の兄にも その 山口の妹とのはなしがありましたが 兄も 結局 別の人と結婚しましたが。
一番上の兄が 尾方の女子と結婚しました。町長の娘です。姉の同級生で 4人グループで大変仲が良く 兄が 見染めた形だったようです。
何が言いたいか って
少し前まで 近い親戚通しで結婚していたようです。
余談ですが
白石氏の画像なんぞというのが出ていて 白石麻衣ちゃんですか モデルをしている 色が白いそうですね。
[33] | 白石さんからのコメント(2016年06月12日 01時06分52秒 ) | パスワード |
他の平川の言葉は 六藤にいたかなあ と 同級生が教えてくれた家 たぶん 九州電力につとめていたのでは なかったか?と 思います。西の住所になります。
あと もう少し 下に行って 文字通り 平川ひらこう集落
ここは 高岡がいて 父世代は村長
ここらに 阿蘇神社やら 地蔵堂やらがあったところで
前に コメントした 村山どん の 話のところです。
村山どんで 思い出しましたが 過去に 村山首相って おられましたよね。眉毛が寿老人みたいにたれさがっている あんなみたいに 高岡は眉が 濃いです。高岡の血を受けているすぐ上の兄も 結構 眉が濃いです。
みやちゃんのお父様の写真を前に見せていただいた時 誰かに似ていると思いながら もやもやしていましたが 思い出しました。リンカーン大統領ですね。彼のルーツってどこだろう?と思ってネットを見ましたが イギリスより先はわかりませんでした。
が 娘の子供のころの写真を前に見ていただいたと思いますが
え○○女王みたいな お鼻 と。
今度あらためて じっくり娘二人を観察しましたが
二人とも 横顔がそっくりで
あら!!ということは ふたりは 父がちがうのだから 私ににているの?と ビックリでした。私は団子鼻。白鳳関の横顔みたいです。
平川について の 言葉はそれくらいです。うちの平川は 東の番地 でも これは その前にどこかから来ている可能性があります。また 小山勝清先生によれば さだ を通字にして 幕末ころ 九州北部に転戦していった 平川があるようです。
[34] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月12日 05時29分49秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^'^)
白石様、コメントありがとうございます。
やっと、繋がりましたね。 すごく嬉しいです(^'^)
所で・・
>みやちゃんとこの 平川家とうちの父のいとこが婿養子に入った平川家 ここは 純粋平川・・・と とりあえず書きましょうか?
あの・・このお言葉は「とりあえず」ではありましょうが、やはり、語弊があると思うのですが・・(すみません(..))
平川家文書を伝えた「平川氏」さらに現在の相良村である、旧柳瀬村、旧深水村の分限帳に載る「平川氏」、木上・深田方面の「平川氏」上球磨方面の「平川氏」、球磨郡全域に渡り現在に至る「平川氏」は全て純粋な「平川の一族」です。(^'^)
昨日、祖母の実家の「平川家」(通称”南”)とお隣の「平川家」の関係を先祖同士が兄弟で「長男と弟」の系と書きましたが、これは、後世鎌倉時代以降に作成されたであろう、「平河師高の領地譲状」に出る数多くの「平川一族」の何れかの系の「兄弟」と考えています。
上記の譲り状で記された系から次々と系が発生していく訳ですから・・皆「純粋な平河氏」です(^'^)
祖母からは「元は木上だった」と私は聞いていたので、きっと家の場合は
木上(永吉庄) ⇒ 久米郷
もしくは
木上(永吉庄) ⇒ 四浦平川村(永吉庄) ⇒ 久米郷
とこのように移動していったのかな?と推測しています。
久米郷に移動したきっかけは記録に残る
@相良定頼より一族の所領注文
東方橘遠江入道跡 田地七五町 相良式部丞 他三名分 他東方橘遠江入道跡を平河氏に与える。
A久米郷の橘薩摩氏 佐藤光昭氏著より
文安五年(一四四八年)相良長続によって球磨は統一領知され、相良長続は文明年間に多良木・奥野・西方等の田地を給地として一族や平河氏に与えている。
B城泉寺(浄心寺)関係年表より
文明十七年(1485年)相良為続、「求麻郡久米郷西方」の一町二丈を平川但馬守に宛行う。
等、この辺りではないのかな?・・と。
私の平川の曾祖父の弟達が継いだ「平川家」は久米(奥野も含む)・湯前。親戚は多良木の「平川家」・・とこのように上記の内容に一致しています。
ちなみに・・先日、求麻郷土研究会の溝下さんに伺ったのですが、曾祖父の弟が継いだ「湯前の平川家」(庄屋家 ⇒ 初代村長 ⇒ 初代町長 ⇒ 後世の町長を歴任)。
湯前の平川家の明治初期の所有地は「十五町」だったそうです。
多良木の「平川家」(親戚)の所有地も十町は下らなかったそうなので、家の一族の「平川家」は基盤を永吉庄から久米郷に移している事がしっかりと解ります。
白石様のお父様のいとこの方が婿養子に入られた「平川家」。
こちらとは、何れかの段階で分かれたのでしょうね(^'^)御縁がありました。
皆様、
祖母の実家、通称「南」と呼ばれる平川家とお隣の平川家の「永吉庄との繋がり」が、やっと見えた事によって、あくまでも私見ですが、推測した事があります。
以前御紹介した「平河伝授巻」の内容です。
「平河伝授巻」は後世(江戸後期)に書かれたと言われる古文書です。今に伝わるのは多良木の「平川家」。
変貌する須恵村 80ページより
さて、次の攻撃目標は平河義高その人である。平河伝授巻に
「伝に曰く、義高その前は川辺川より東、河北の地頭なり、南は久米殿と称して、以上両人これある由、又、下もは平家御代官所にて候処、蓮仏公(長頼法名)御下向遊ばされ、義高を御頼み、矢瀬殿を御退治なされ、即刻、人吉在城遊ばされ候故御当地大方三が二は割々に随い奉り候え共、義高一家盤石故聢と御安堵も無く、依って、数年の御計略を以て寛喜年中(一二二九〜一二三一)終に義高を謀り、御追伐成され候、それより義高一門段々追伐故、郡中一統仕り候」
※伝に曰く、義高その前は川辺川より東、河北の地頭なり、南は久米殿と称して、以上両人これある由、・・
(p_-)・・これはさすがに「後世(江戸後期)」に書かれたものだな〜と私は今やっとあらためて再認識しました。
旧宮原村の中にあり宮麓地区の中にある字「外園」通称「侍村(まちむら)」地区と稲積妙見(稲積神社)が鎮座していた字「馬場田」。宮原村の古地図には「久米領」と書かれています。
祖母の実家の平川家(通称:みなみ)はこの久米領の中にあるのですよね・・
(p_-) ナルホド・・
南は久米殿と称し・・私見ですが「そういう事か!(p_-)」
では(^'^)
[35] | 白石さんからのコメント(2016年06月12日 10時40分22秒 ) | パスワード |
おはようございます。
今日は関東地方で地震でしたね。あっちこっちと走り回っていますね。相当なエネルギーがまだまだ地に残っているようです。
ところで 昨夜 白鳳関と書き間違えましたが 白鵬関ですね。固有名詞を間違えて申し訳ないです。
もうひとつ
純粋 平川
うちの平川の場合 高岡から血が入る前は 平川の人がついできている ようです。確としたことは
[36] | 白石さんからのコメント(2016年06月12日 11時06分38秒 ) | パスワード |
なんだか また パソコンがおかしくて
タブの子供がいっぱいできて すぐ うごかなくなり 入力がきかなくなるんです。
ウインドウズ10になってから 不便です。それも 勝手に・・・勝手でもない こちらがクリックしているらしいのですが 何がなんだか わからないままに そうなったという感じです。
さて
高岡の血が入る前の 平川で うちの平川はつがれているから 純粋平川。
高岡に 五藤との姻戚関係があり 平川が親戚としているのは 後藤。
五藤を系図でしらべていると山崎などが出てきます。
高岡の 橘関係が うっすらと みえるところです。
高岡の血を受けている父と 平江の女子の姉の母 。
平江には 木原 伊津野 山崎 西尾 荒木 坂本 ほか
姻戚関係がみられます。西尾などは 伊勢 あたりでしたか でも見られる姓ですね。なんで 下益城郡にあるのだか・・・・
うちの家は なんだか おおきな地域につながりを もっているようです。
その中で 濃いのが 山口 広島です。
そして
一軒一軒を探すのでなく グループとして 全体のつながりをみながら 見ると
例えば
大陸で王室をたてた人たちのグループが見え
その王家は 次の時は 臣下になって 姻戚になっている とかいうように よりあわせた縄のように なりながら 時代をおりてきている。
[37] | 白石さんからのコメント(2016年06月12日 11時13分45秒 ) | パスワード |
山口県広島県ですね。
本当に 不便です。
[38] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月12日 14時10分39秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
白石様、コメントありがとうございます(^'^)
白石様の御親戚
>大陸で王室をたてた人たちのグループが見え・・
何だか、すごく壮大ですね。夢がありますね(^'^)
関東地方の地震。
日曜日の朝で、ゆっくりされていらっしゃった方が多かったと思います。
突然の揺れに驚かれたり、恐怖を感じられた事とご察し致します。
日本が地震大国であると痛感致しました。
[39] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月12日 15時02分55秒 ) | パスワード |
皆様、あらためての登場です。
求麻郷土研究会の溝下様より、祖母の実家の平川家のお堂で撮影された写真を頂く事が出来ました。
コメント28では適当な書き方をしてしまいました。反省しています。
あらためましてご紹介させて頂きます。
お札 皇大神宮
木札の墨書(尾方宮司書) 御祭神(平川家の氏神様)
天津彦火火出見尊
天津彦火瓊々杵尊
月讀廿三夜比賣尊
練札 昭和廿八年十一月吉日 神殿改築
とありました(..)
よく見ると「月讀廿三夜比賣尊」・・ヒメノミコト・・女神様? 解らなくなってきました(..)
月讀尊 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%AF%E3%83%A8%E3%83%9F
ツクヨミ(ツキヨミ)/月読命は、日本神話の神である。後世では一般に男神と考えられているが、記紀では性別の記述はない。
一般的にツクヨミと言われるが、伊勢神宮・月読神社ではツキヨミと表記される。
※後世では一般に男神と考えられているが、記紀では性別の記述はない。
やはりどんどん解らなくなって参りました(..)
日本の苗字七千傑様のサイトで神別総括系図 姓氏類別大観を拝見したのですが、
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
祖母の実家の平川家に繋がる系は・・??
(..)私の目・知識ではやはりよく解りません・・
悲しいです(..)
日本の苗字七千傑様
お忙しい所申し訳ございませんが、ぜひ、御教示を頂けませんでしょうか。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
[40] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月13日 09時58分47秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。
昨晩、熊本県南部を震源とする地震があり、八代市坂本(旧坂本村)で震度5弱、私の住むあさぎり町では震度3でした。
八代市坂本(旧坂本村)は球磨郡の隣の地域で、震源が近かったからか、いつも感じている震度3より揺れは若干強く感じました。
震度1程度の地震はほぼ毎日の事で、身体が地震に慣れてしまった状態でしたが、このまま終息に向かうのでは?と少し楽観視してしまってました。
まだまだ、しばらくは気を引き締めて過ごして行こうと改めて思いました。
「月讀廿三夜比賣尊」
ネットでも色々調べているのですが、未だ手掛かりが見つかりません。
がんばります!
[41] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月13日 11時27分04秒 ) | パスワード |
ミヤハラ様
昨夜の地震のニュース、心身ともどもお疲れのことと存じます。
レスの方も活発に再開なされていたところでしたので、これに負け
ないようにと、気持ちだけでもささやかながら応援させていただきます。
酒井とも様のレスも楽しみにしておりますが、最近見られないのが
さみしいです。
ところで、「ツクヨミ」の件については、私も資料はある程度集めて
はいるのですが、なかなかややこしく未開拓であります。この機会に
一歩踏み込んで探究してみたいと思いますが、少し時間がかかると思い
ます。
それよりも、この地方の「平川」について調べていましたところ、
ピッタリのサイトに出会いましたので、お知らせいたします。すでにご
存じかも知れませんが―
www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/nihon.../nihon_isan18.pdf
「相良700年が生んだ保守と進取の文化〜日本でもっとも豊かな隠れ里」
[42] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年06月13日 12時16分35秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>祖母の実家の平川家に繋がる系は・・??
不明だが、良峯氏とするのは仮冒でしょう。
平川氏の祖とされる依高に着目すれば、丹羽躬依の後裔とするのが妥当。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222a.htm#002
要するに尾張国丹羽郡から肥後に下向したと言うこと。
良峯氏は三代で家系断絶だが、建前上丹羽氏の家系を接ぎ木したのでしょう。
>月讀廿三夜比賣尊
恐らく月読命の妃でしょう。
後裔は無い様で、神官は秦氏。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03001c.htm
[43] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月13日 13時24分48秒 ) | パスワード |
ミヤハラ様
先ほどのサイトというよりも、pdfファイルですが、正しく到達する
ためには「 相良700年が生んだ保守と進取の文化〜日本でもっとも
豊かな隠れ里 」とフルタイトルで検索して下さい―
[44] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月13日 14時41分16秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
三つ柏服部様、日本の苗字七千傑様
御教示を頂きまして本当にありがとうございます。
三つ柏服部様
昨晩の地震、御心配頂きありがとうございます。
震源が南下した事もあり、地震の後、「今度はもっと強く揺れるかもしれない・・」という恐怖心が出ましたが、心を冷静に、気持ちを強く持とうと自分に言い聞かせていました。
月讀尊。資料をお持ちとの事で、申し訳ございませんが、ぜひご教示を頂ければと思います。
(神代の時代を勉強しなければと思うのですが、中々進めていません(..)何せ漢字が苦手で・・)
心より、御教示お待ち致します。
相良700年が生んだ保守と進取の文化〜日本でもっとも豊かな隠れ里
サイト拝見致しました。
実は、文化庁のサイトを見たのは初めてでした。
山田大王神社も記されていましたね(^'^)
平河氏に関連する神社は山田大王神社の他、荒田大王神社、平川大王神社、横瀬大王神社など、球磨郡内に数か所あり、これも「謎」なのですが全て「大王神社」と・・「大王」というお言葉が付いています。
御教示ありがとうございました。
地震に屈する事なく、がんばります(^'^)
日本の苗字七千傑様
御教示ありがとうございます。
>良峯氏とするのは仮冒でしょう。
私も、初めて祖母の実家の平川家のお堂(ではないですね、正確には氏神様をお祀りする神殿です)の中にお祀りの「御祭神」を拝見した瞬間に直感的に
良峯安世(父:桓武天皇 母:百済永継)を祖とする家系では無いな!と思いました。
丹羽躬依の後裔
すなわち
神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔・・と言う事ですね。
同族に阿蘇氏。
阿蘇大宮司家以降は「惟」の名を持つ方ばかりですね。
うちの親戚の本姓「大神氏」の一族も系図を見ればずらりと「惟」の文字。
菊池惟長(菊池氏)にも繋がり、赤星氏にも繋がる。(赤星家は親戚です)
菊池氏・・旧新堀家のお堂の男神像の胸には「並び鷹羽紋」が施されていました。
こちらの男神像はおそらく稲積神社(稲積妙見)の御神像だったと推測されます。
この頃の家周辺の調査に一致して参りました。
>月讀廿三夜比賣尊
恐らく月読命の妃でしょう。
後裔は無い様で、神官は秦氏。
月読命の妃・・もしかしたら秦氏だったのでしょうか???
もしも、そう言う事があり得るとしたら(あくまでも私見ですが(..))
祖母の実家の氏神様から「祖母の実家の平川家」は
神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔「丹羽氏」の可能性があり
月讀廿三夜比賣尊(恐らく月読命の妃)から「秦氏」が関係する可能性あり・・?
鎌倉時代以降の調査から一気に天孫降臨の時代以降・東征の時代まで遡ってしまいました(..)
日本の苗字七千傑様、御教示、本当にありがとうございました。
皆様、地震にはしっかりと備えと注意をはらいながら私は、がんばります!
では(..)
[45] | 白石さんからのコメント(2016年06月13日 22時31分42秒 ) | パスワード |
みやちゃん
こんばんわ
と のんびり 挨拶している場合ではありませんね
八代で 大地震があったとか。
心休まると暇もありませんね。
ちょうど 母親が 人吉で一人暮らしをしている 同級生と電話していたので
さすがに そばにいてほしいと 初めて言ったというので
関東に呼び寄せたら ? と いうと
体が動く限り 一人でいたいみたいらしい
わかります。わたくしの母も
「おら 自由にしたかったい!!」と とうとう 動こうとしませんでしたから・・・
同級生が帰ろうにも 自分も バセドー氏病だと・・・
今度 一回 入院したばっかりで5万円以上が ふっとんだわよ・・・ といっていました。
私も 一か月の入院で 17万円が ふっとびました。
年金生活で 大きな出費は 大変です。
八代にいる 高岡女子のことも 心配です。
生きていると いろいろな 心配事が ありますね。
今日はテレビで伊勢神宮の特集をやっていました。
日本人のこころのよりどころともいえる ところ。
地震でもたおれない 建物の建て方をしてあるそうです。
また 両陛下の熊本へのお見舞い
いつゆれるかわからないのに 自分もおそろしいでしょうに よく行ってくださいましたと 思います。
[46] | 白石さんからのコメント(2016年06月13日 22時39分04秒 ) | パスワード |
>丹羽躬依の後裔
すなわち
神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔・・と言う事ですね。
同族に阿蘇氏。
古くにいくのですね。
前に この方のことは コメントにあったような・・・
私の 氏神は 阿蘇神社 と 母が言っていました。
誰の 筋をたどればなのかは わかりませんが・・・
[47] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月14日 10時01分56秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
白石様、御心配頂きましてありがとうございます。
白石様の御親戚は八代にいらっしゃるとの事、御心配ですね。
所で・・
以前、住宅地図を見ていて、家の親戚「椎葉家」「平川家」そして家の「宮原家」と縁戚関係にある「中村家」「矢野家」の近くに「高岡家」がある事に気が付きました。(以前、コメントした岡原の高岡さんとは違います)
白石様のお父様の御実家の「高岡家」が橘紋を使用されている事もあり、気になって椎葉のおじに「高岡家と何か繋がりがるのか?」さらに「相良村の高岡家と何か繋がりがあるのか?」と聞いたところ・・
椎葉のおじは、従兄であり妻の兄でもある宮司家の「尾方のおじさん」に私の言葉を伝えたそうです。
すると、尾方のおじさん自らが、調査して下さいました。
尾方のおじさんは「中村家」「矢野家」に行って、かなり遡った所までを調べてくれたのですが、近くの「高岡家」そして「相良村の高岡家」とは縁戚関係等の繋がりは、全く存在していないという事が解りました。
白石様、
残念ですが、家の方の親戚一族と、「あさぎり・相良村の高岡家」には繋がりはないようです(..)
何かあるかも!と思い調べてみたのですが、申し訳ありません。
しかし、私もまさか「尾方のおじさん」が自ら調べて下さるとは思ってもいませんでした。
白石様 すみません(..)
[48] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月14日 10時51分59秒 ) | パスワード |
追記
先程コメントした尾方のおじさんの調査の結果が私に連絡が入ったのは昨晩です。
残念ながら、家の方の親戚一族と「高岡家」との縁戚等は見つからなかったのですが・・
白石様
私の私見ですので、申し訳ありませんが、お聞きください(..)
白石様は、長らく「平川家」との縁戚からの「高岡家」の調査をされていらっしゃるようですが・・
※白石様のお父様の従弟の方(高岡氏)が相良村四浦東の平川家に婿養子に入られた
私は、「高岡家」を調べる最も重要なポイントは、御親戚になられた「平川家」の部分ではなく、
※高岡家から白石様のお父様が「白石家の跡継ぎとして養子に入られた」!ここだと思っています。
婿養子と「跡継ぎとしての養子」は意味が違いますよね・・
後者の方が、より両家の「縁」を感じるのですが・・
さしでがましい事を言ってすみません(..)
ただ、今朝は、私がずっと感じていた事を素直に大好きな白石様にお伝えしようと思い書かせて頂きました。
(..)
[49] | 白石さんからのコメント(2016年06月14日 14時25分18秒 ) | パスワード |
みやちゃn
こんにちわ
高岡のこと 平川のこと ありがとうございます。
高岡はわたくし 以前書いたか書かなかったか? 高岡のおばから うちだけでえーす と 聞き
おじから
ここからは 一房がみゆっと と 教えてもらいました。
川下の 高岡(親世代が村長をしていたという)に聞いた時
きょうだいの別れは子孫とは言えないのです
明治の時 壬申の戸籍で焼かれ 言わなくなりました という返事で
うちの高岡のおばは 川下の高岡家について
同じ字を書くから どこかでは つながっとでしようけど ちいーっと 筋の違うとですもん と 言っていました。
その家は 溝口 永田を 遠い親戚として 子供の結婚式に招待したそうです。
お寺は 善正寺だか 古見院だか 初神のお寺だか・・・嫁がいうことなので ここらは はっきりわかりません。初神のおてらとは よく 聞きました。
この頃知ったことは 朝霧町の木下家(わたくしが 父の義兄弟と聞いていたところ)の人が 自分とこ直接ではなく 岡原の高岡がつながりになる と 教えてくれ
今度 帰ったとき 岡原は ほかに親戚があるから 訪ねてみようと思っていたら 地震 病気で おじゃんになりました。
これも 前に 書いたか? と 思いますが
うちや うちの つながりは どこも 嫡流ではなくて どちらかというと すったれに近いので 付き合いは うすくなり 例えばの話 南北朝のころなどになれば その後は 赤の他人さま同然 に なるだろうと思います。
もうひとつ
うちの周りは シンプルな 苗字なのですね。
尾方もそう 高岡 坂本 白石 平川も そう
何々の納言 だの 何々路家 だのは ありません。
[50] | 白石さんからのコメント(2016年06月14日 14時35分53秒 ) | パスワード |
阿蘇方面のことで 神社の始まりは 神武天皇の次郎・神㈧井耳命の子孫
神武天皇につき 本やらでは この方を研究すると大陸との接点にあることがわかるので 賢明な学者は この方が いないことに してしまった
という意味のことを 書いているのを 見たことがありますが
本人がいれば 当然 そのうえ世代もいるわけなので いずれは わかるだろうと 思います。
また 近世においても ど真ん中などは ネットだけでも かまびすかしいことで
はるか 古代に 大王になられた方と つながるとかいうことも 信じがたいことdえ 今は DNAとか 判定で 確率的に むすびつけられるようですね。
[51] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年06月14日 15時31分23秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>賢明な学者は この方が いないことに してしまった という意味のことを 書いているのを 見たことがありますが
こういうのが頭隠して尻隠さずの典型でしょう。
日本の家紋は、笹竜胆を除き全てアラブ。
市松、菱、井桁、鋸歯、連珠、花形、稜形、亀甲、矢羽など、全てアラブのアラベスク模様。
バビロニア遺跡出土のスメラのラガレ神が、金色のトビを持つ像や境界石にも、抱き茗荷、三稲矢、八剣輪宝、蛇の目、浮線綾などの家紋がズバリ。
次回東京五輪のシンボルマークは、市松模様に決定。
詳細は、「天孫民族六千年史」を閲覧のこと。
http://ameblo.jp/hidehide-888/entry-12014094912.html
※当時100万部も売れた本書は、戦後は発禁となった。
[52] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月14日 23時09分10秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^'^)
日本の苗字七千傑様、白石様
御教示ありがとうございます。
今日は、朝、コメントを書いた後、霧島まで出かけてきました。
球磨に帰ってからあと、事ある毎にえびの高原や霧島に出かけています。
小倉に住んでいた時は、コメントしていたように宇佐や豊前によく出かけていたのですが、こちらに帰ってきてからは、家から一時間程で行けるえびの高原や霧島連山に向かい韓国岳の登山口付近で、山を眺め、とても綺麗な青い湖を見ていると、心穏やかになると言うよりは、清められている感じがします。
今まで、書いていなかった事なのですが・・
高千穂峰の中腹には霧島神宮が最初に建立された場所があって、御神殿跡には鳥居が残り、地面には何だろう石が八角形に並べられていて、一度は白い紐?のような物で線が結ばれていた時もありました。
まるで、天と交信する場所のような感じです。
こちらは、さすがに、今まで伺ったどの場所よりも、強烈なパワーを感じます。
霧島までは、球磨からは加久藤峠を越える山越えとなるので時間は一時間程かかりますが、直線距離だと先日ナビをみてビックリしたのですが私の家からは35キロ程でした。
今年の正月は、まず地元の岡原霧島神社にお参りして、そこから、霧島神宮に初詣にお参りさせて頂きました。
地震が発生してしばらくは行けていなかったのですが、10日程前にやっと行く事が出来、ミヤマキリシマが3分咲きだったので、今日、あらためて行ってみると、韓国岳の頂上付近だけが咲いている状態で、登山道入り口付近はすでに散っていました。
ミヤマキリシマを見る為だけではなく、今日、霧島まで行ったのは、祖母の実家の平川家の氏神様をお祀りする「神殿」の中に、実はコメントしていなかったのですが、木片に墨書きの漢文で「霧島がどうの・・」と書かれていて、それを見てから、むしょうに景色が見たくなったのですが、突然、主人が「今日は、霧島に行こう」と言ってくれまして、まるで以心伝心のようでした(^'^)
白石様
実は、椎葉のおじが、「岡原の高岡さんは、未だ確認する事があるから・・」と言ってます。
私が、あまりにも「何かない?何かない?」と聞くので、おじも、「もうちょっと調べてみよう」と言ってくれたのです(^'^)
結果はどうなるか解りませんが、「もしや!」と言う事もありますので、お待ち下さい(..)
日本の苗字七千傑様
御教示頂いた「天孫民族六千年史」早速ダウンロード致しました。
やっと読めます!すごく嬉しいです。ありがとうございます。
早速、今から読み始めようと思います。
白石様、日本の苗字七千傑様
ありがとうございました。
[53] | 白石さんからのコメント(2016年06月14日 23時18分06秒 ) | パスワード |
こんばんわ
7000傑様お久しぶりです。
ご教示ありがとうございます。
バビロニアは 我が国の家紋の宝庫みたいなものですね。
あの 紋様の美しさ 比率
はるか 昔にかんがえついたものとは 驚きです。
みやちゃん
父母は 白石の祖父母へ 夫婦養子に入りました。
その先の白石の先祖にも 高岡から嫁 山口から平江を介して 白石へ と いう形は 前にも書いたと思います。あながち まるまる 血がつながっていないわけではありませんですが・・・
勝清先生は その 本の中で 夫婦養子の場合
耕作面積が狭いとか わける財産が 兄弟が多いと少なくなるから
そういう場合でも 心配ない くいつめないように
ちゃんと 救済措置があって
子供がいない夫婦のところに 夫婦養子に入り 最後までお世話をしたら 財産を いただける
のだそうで
父母も その例です。 戦争で 作っていた貯金など すってんてんで 帰ってきて かろうじて 山や 家土地を手に入れたけど
そのあと 子供にわけるものといって何もなく
白石の祖父母の財産は 自分たちの老後のために ありがたかったと思います。
私の記憶は 祖母の方しかありませんが 祖父は早くになくなったので・・
祖母は 私が遊びに行っても 優しくしてくれていて 父母との間はうまくいっているのだなと 感じていました。
もちろん
母曰く
当時80代の母が 父亡き後の 年金について
「お父さんは いい仕事をしておられたのでしょう? 年金が多いですね」と言われたと 言っていました。
高岡から 平川へは 婿養子です。
[54] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月15日 08時50分20秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^'^)
白石様、コメントありがとうございました。
白石様、ごめんなさい(..)
私、「夫婦養子」について全く意味を知らなかったのです。
御教示頂いて、初めて知りました(..)
私の曾祖父も、平川の祖母の姉も、系を継ぐ為に其々「宮原家」「椎葉家」に子供の頃養子に入っていて、「夫婦養子」とは・・子供の頃に養子に入るのと同じように成人した後でさらに結婚後「系」を継ぐ為に養子に入る事だと思っていました。
すみません(..)
でも・・白石様のお父様・お母様は一概に、御教示にあった「救済措置」の夫婦養子だったとは限らないのでは・・
ちなみに・・
私の曾祖父が、久保田家から宮原家に養子に入ったのは子供の頃と書きましたが、慶応三年(1867年)六月生まれの曾祖父は明治十二年(1879年)に(一月か二月か漢文でよく読めません)養子に入っているので11歳かな?昔で言うと正月過ぎたので12歳でしょうか・・?
父は、「お前の曾じいちゃんは昔で言うと”元服”と同時くらいに養子に入ったみたいだな!。」
と言っています。父が「元服」に拘る意味はよく解りませんが(?_?)
白石様
夫婦養子について、私、知識不足でした。
すみませんでした。(..)
[55] | 白石さんからのコメント(2016年06月15日 13時15分20秒 ) | パスワード |
おはようございます。
家の横の草ぼうぼうが気になる なすびを一本植えてみたのも気になる
ので 起きてはみるのですが
日差しにたじろいで なかなか 外へ出られません。
もっとしゃきしゃき動かなければとは思うけど
自分がこういう体になって わかりました。
一歩でも動くと へなへなと くずれおれそうな感じになるのです。
「救済措置」
こういう法律があったわけでもなく お国にすがってとか 村の助けを借りてとかもなくて
暗黙で 親戚どおしで あそこは 子がおらんばい みたいにして そこへ 入り お世話をして 親がなくなれば 家土地は いただく というもので
あまりむずかしく 考えるものではないようです。
まわりでも 結構 あって
この頃
そういえば あんたんとこと あそこの家はよう集まっていたけど 親戚ね?と聞くと 親同士がきょうだいたいね という家はよくあります。
苗字は違う のです。
気が付けば 地域ぐるみで ぐるぐる ぐるぐる どこが 頭で どこが しっぽおやら ・・・・どこの家の子供が家に入り込んできても
さほど 気にならず親子みたいに暮らせるみたいなものです。
なので 救済措置という言葉には あまり こだわっていません。
今でいうところの 福祉みたいなものとは 違うのです。
[56] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月15日 14時08分50秒 ) | パスワード |
白石様 今日は(^'^)
家の家庭菜園にも椎葉のおじが茄子を植えてくれています(^'^)
私は、去年同様、水をかける事しか・・トホホ(..)それも最初だけ(..)
他にも、ピーマン・トマト・きゅうり・里芋・南瓜を椎葉のおじが植えてくれて、ピーマンとトマトはどれか解るのですが、南瓜は一昨日おじが
「お前は本当にな〜んも知らんのやな〜」と菜園内を回りながら教えてくれました(^'^)
私も本当は栽培をもっともっとやってみたいのですが・・
父が「アレルギーがあるのに!虫に刺されるからダメ」と、すでに私は年齢より肌が虫に刺されたような顔面へと変わり始めているにもかかわらず、心配します(-.-)
(;一_一)
椎葉のおじも「お前がすれば、枯らすから触らんでヨカ(ー_ー)!!」と言います
(;一_一)
所で・・
やっぱり!白石様のお父様とお母様は「系を継ぐ為」に夫婦養子に入られたのですよ!!
良かった(^−^)
私は、昨日、白石様のコメントを読んで、「私は何も知らな過ぎ(..)」
「勝手な思い込みで白石様が悲しい思いをされたかもしれない・・(..)」と
ずっと・・考えていました。
難しく考えてしまったのですね・・(..)
おんやっ?(p_-)
では、やはり「白石家」と「高岡家」の繋がりを調査する事は重要なのでは(p_-)
しかし・・私は本当に世の中の常識を知らないところがあり、すみません(..)
こんな私ですが
白石様、皆様、どうか今後ともよろしくお願いもうしあげます。
<m(__)m>
[58] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月15日 14時41分48秒 ) | パスワード |
マタマタの登場です(^'^)
白石様、お身体が重要です!
草むしりはいつでも出来ます。まずはお身体をご自愛下さい(..)
所で・・皆様。
私、平川家の氏神様について書いていない事がありました。
「大黒天」様もしくは「えびす様」の神像です。
(しっかりと見ていなかったのです(..)お姿が「大黒天」様もしくは「えびす様」どちらかの神様でした。)
お堂(正確には神殿)の中は
中央は、大きな神棚?(正式な名称は・・?解りません(..))のような造りになっていてそちらに「皇大神宮」のお札が。
左側に木札
天津彦火火出見尊
天津彦火瓊々杵尊
月讀廿三夜比賣尊
そして・・右側に別の神棚?(何度も言うようですが神棚ではないのですが名称が解りません(..))
そちらには「大黒天様」もしくは「えびす様」がお祀りされていました。
大黒天様・・大黒様。
えびす様・・
正式なお名前は・・?
後で、調べてみます(..)
と、このような造りになっていました。
氏神様は
皇大神宮
天津彦火火出見尊
天津彦火瓊々杵尊
月讀廿三夜比賣尊
大黒天様もしくはえびす様
まだまだ、勉強不足で、もっとしっかりしなければと思います。
ただ、気になるのは
神武天皇の皇子、神八井耳命 ・・お祀りではないようです。
でも大黒天様もしくはえびす様がいらっしゃいます。
神武天皇の皇子、神八井耳命と大黒天様もしくはえびす様の御関係は????
やはり、勉強します(..)
日本の苗字七千傑様、
朝から「天孫民族六千年史」を少しずつ読み進めています。
やっと今10ページ目です。
熟読しなければ!と。
「天孫民族六千年史」ダウンロード可能と、お教え下さり、心から感謝申し上げます。
ありがとうございました。
[59] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月15日 16時39分26秒 ) | パスワード |
マタマタの登場です!!
先程、祖母の実家の氏神様のお堂(正式には神殿)に、お十五日と言う事と、どうしても、右側にお祀りの御神像がどなた?なのかとても気になりお参りに行ってきました(^'^)
※お十五日とは・・家は何故か一日と十五日には、家の外にお祀りの氏神様の廻を掃除して清め、新しい榊とお神酒をお供えするしきたり?があります。
では、御報告を(..)
お堂(神殿)内の右側にお祀りの神様は「大黒天様」でした。
(とても古い御神像のようでうちでの小槌?と袋をお持ちでした(..))
家を訪ねると、私のふた従兄の嫁(私は通常○○姉ちゃんと呼んでいます)がいたので、お堂(神殿)の氏神様について何か聞いていないか?尋ねると
「家(平川家)の氏神様は何故か皆”火の神様”と呼んでいるとよね・・何で氏神さまが”火の神様”なのか、嫁いできた時からずっと不思議やった・・」
と言っていました。
※祖母の実家の氏神様は何故か”火の神様”と皆がお呼びしている・・
さらに・・私が供養塔かお墓と先日コメントした石塔は、お墓でもなく供養塔でもなく・・水の神様でした!!(五輪塔ではない方の石塔のお話です)
氏神様を”火の神様”とお呼びし、水の神様も大事にお祀りするように○○姉ちゃんが嫁いで来てすぐに教えたのは・・
祖母の兄嫁(みなみのばあちゃん)と・・私の祖母でした\(◎o◎)/!
ぎゃあ!!またしても「私のばあちゃん登場!です」((+_+))
さらに・・
祖母の実家の平川家が元”居城”していた場所が解りました!!
たっ!高山でした\(◎o◎)/!
今までこちらのスレッドで、気になって何度もコメントしていました\(◎o◎)/!
肥後・高山城
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/takayama-jyo/
歴史
詳細不明。城主は木上城主平河義高の長子で深田の地頭平河太郎盛高と伝えられる。
城主
平河盛高
こちらのサイトには写真があります(..)
http://blog.goo.ne.jp/kubotakashi0626/e/77c69fc95a3c770e9c603259612a3e9e
○○姉ちゃんの話ではいつ頃居城していたかは定かではありませんが、祖母の実家の平川家の御先祖様は確かにここに居たそうです。
この地域はその後平河義高の長子で深田の地頭平河太郎盛高から弟の平河師高に地頭職が移っています。
平川のふた従兄と、○○姉ちゃんは、年に数回、高山に登って、遥か昔に「ここに居た」御先祖様に手を合わせているそうです(..)
と・・言うか・・○○姉ちゃんとは・・そう言えば「何も聞いていないだろうな〜」と思い、私自身が詳しく○○姉ちゃんに話を聞こうとはしていませんでした\(◎o◎)/!
逆に、今まで私が調べていた事を一方的に「私はこう思うのだけど・・(p_-)」とか言って、自分の考えばかりをしゃべって、本当にナント言う事でしょうか・・○○姉ちゃんから、話を聞こうとしていませんでした(..)
大反省です(..)
ふた従兄の●●兄ちゃん、○○姉ちゃん、本当にごめんなさい(..)
○○姉ちゃんに色々先祖の事を話してくれていたのは
祖母の実家平川家の先代の当主(祖母の兄)の嫁(みなみのばあちゃん)と私の祖母でした\(◎o◎)/!
と言う事は・・何も聞いていない(ー_ー)!!じゃなくて何も覚えていないのは・・わたしです!!!!
球磨に戻ってからのこの一年いったい私は何をしていたのか・・
本家本元に何も聞こうとしていなかった!!
調べた事を報告するのが「私の役目」なんて勝手に思い込んで、いえ、自分を買い被っていた・・
大反省どころではありません。
父からいつも言われている
「いつもお前は自分の言いたい事ばかりを言って、人の話をちゃんと聞こうとしない!」この言葉の通りです。
氏神様が、私に反省と正しい道を教えて下さったような気がしています。
※祖母の実家の氏神様は何故か”火の神様”と皆がお呼びしている・・
※神武天皇の皇子、神八井耳命と大黒天様の御関係は?
さらに調べてみます。
皆様方、ぜひご教示の程よろしくお願い申し上げます。
[60] | 白石さんからのコメント(2016年06月15日 20時29分36秒 ) | パスワード |
みやちゃん こんばんわ
夜になると 涼しくて 気持ちよくなります。
草むしりはいつでもできる ・・そうですよね。一日体を休めていると だいぶエネルギーがたまって 夜になると 部屋をごそごそ・・・
みやちゃん 私が 夫婦養子の件で 悲しい思い ・・・大丈夫ですよ。みやちゃんの 一言 一言 一代一代きちんと 足元を固めて ・・・の心意気は よくわかっていますから。
そして 椎葉のおじさまの お前はせんでっちゃよか ・・・これも 母が 畑に花を植えていて 私が 学校でならったから 土づくりから しようとしたら
とんできた 母の言葉で 思わず 笑ってしまいました。
大黒天と神㈧井耳命
どういう関係でしょうね。調査結果を楽しみにしています。
[61] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年06月15日 23時28分21秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>※神武天皇の皇子、神八井耳命と大黒天様の御関係は?
大黒天はインドの神様だが、日本では音通により大国主命と同体とする。
与太話に惑わされないように!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222.htm
[62] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月16日 05時03分45秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^'^)
と言っても・・今はまだ5時過ぎです。主人が今朝は3時に出勤致しましたので・・
日本の苗字七千傑様、白石様
御教示ありがとうございます。
白石様
確かに夜は涼しくなってすごしやすいですが・・無理は禁物ですよ(ー_ー)!!
お元気になられたら、球磨に帰省されるのでしょう?
岡原に御親戚がいらっしゃる・・私、白石様とお会いしたいです\(^o^)/
その為にも(勝手に決めてしまった!)、今は十分に休養なされて、しっかりとお元気に成られて下さいね!(^'^)
日本の苗字七千傑様
〉大黒天はインドの神様だが、日本では音通により大国主命と同体とする。
大ヒントを頂きました!
日本の苗字七千傑様のサイトから《神武帝閨閥図》を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222.htm#001
神武天皇の皇子、神八井耳命の母君「媛蹈鞴五十鈴媛命」は大国主命のお孫様です!!
あああああああああああああああ!!あった!!ありました!!
やった!!解りました!!
>※神武天皇の皇子、神八井耳命と大黒天様の御関係は?
答えは 大国主命は神八井耳命の曾祖父様でした!
つまり、神武天皇の皇后「媛蹈鞴五十鈴媛命」は大国主命のお孫様という事ですね!
そうか!そう言う事か!!!
祖母の実家の「平川家」の氏神様の「謎」が解けました!!
日本の苗字七千傑様、本当にありがとうございます。
嬉しくて涙が止まりません。
祖母の実家の「平川家」の氏神様には「神八井耳命」にお繋がりの神々がお祀りされている・・と言う事になります。
さらに・・平河氏は「良峯」姓を名乗っている・・
ここから、推測出来る事は!
神八井耳命の後裔であり「良峯姓」を名乗った・・「丹羽氏」!!が濃厚
すごい!!やった!!やっとやっと繋がりました!!
ばんざ〜い!!\(^o^)/
平河氏については、色々な事が隠されていて、様々な系が複雑に絡んで、中々「真実」が見えてこなかったのに・・
祖母の実家の「平川家」が先祖代々お祀りさせて頂いた家の「氏神様」を調べた事でやっと「真実」に辿り着けた気がします。
さらに・・氏神様を「火の神様」とお呼びしている事について・・
私の推測(私見)ですが、お聞きください(..)
熊本県人の私が「火の神様」「火の神」と聞き、必ず頭に浮かぶのは「阿蘇山」「阿蘇神社」です。
さらに、一昨日コメントしたように、火山である霧島連山には、家から直線距離に直せばかなり近い距離にあります。
どちらかと言うと、霧島連山の方が近い事もあり「火」のイメージが何故か?私には強いです(あくまでも私は・・です)
阿蘇神社の御祭神「健磐龍命(たけいわたつのみこと)」は「神八井耳命」の御子様。
さらに・・私の住む旧久米郷の宮原村には以前、中島霧島神社が鎮座。
御祭神は霧島神宮と同體。
ウィキの記述では霧島神宮は霧島連山の高千穂峰と火常峰(御鉢)の間に社殿が造られたのが始まり。
しかし、火山の麓にあるという立地のためたびたび炎上する。天暦年間には性空により瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に遷されるが、ここもたびたび噴火の巻き添えで炎上する。文明16年(1484年)、島津忠昌の命により兼慶が再建したのが、現在の霧島神宮である。但し、建物はその後も幾度も炎上し、現在の社殿は正徳5年(1715年)、島津吉貴の奉納により再建した物である。
とあります。
霧島神宮の御祭神
主祭神 天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
相殿神には火遠理命(ほおりのみこと)すなわち彦火火出見尊
火(火山)に関わる「霧島神宮」そして「阿蘇神社」
祖母の実家の「平川家」の氏神様
皇大神宮
天津彦火火出見尊
天津彦火瓊々杵尊
月讀廿三夜比賣尊
大国主命
氏神様から
天津彦火火出見尊
天津彦火瓊々杵尊
・・霧島神宮が見え・・
さらに氏神様から
「健磐龍命(たけいわたつのみこと)」の父「神八井耳命」が見え・・
火(火山)にかかわる「阿蘇神社」そして「霧島神宮」が見えてきます。
祖母の実家の平川家の先祖から代々継承されてきた家にお祀りの「氏神様」を家のものが「火の神様」とお呼びする事が(理由が)、私見ですが、解るような気がしてくるのです・・
日本の苗字七千傑様は、かなり以前、私に
「神社仏閣を調査してみたら!」とアドバイスを下さいました。
一番重要だったのは御教示の通り、お祀りさせて頂く「氏神様」だった・・と言う事でした。
日本の苗字七千傑様
御教示、本当にありがとうございました。
皆様、
おそらく、祖母の実家の氏神様から推測出来た「系」を相良氏と共に球磨に来られた何れかの「系」が継いだ・・これが「真実」だと私は推測しています。
上記の「系」を継いだのは・・「一つの流れ・系」だけではないのでは?とも推測しています。
今後とも、皆様、御教示の程よろしくお願い申し上げます。
(..)
[63] | 白石さんからのコメント(2016年06月16日 09時40分51秒 ) | パスワード |
おはようございます。
神㈧井耳命は二代目天皇(葛城の高岡・高丘の宮)と同母弟といわれ 母は 神武天皇の姉・なるた姫という。が・・・正后のせやだたら姫の子とされた と。
超近親婚ですね。
せやだたら姫は
【伊須気余理比売】より
…《古事記》に伝えられる神武天皇の皇后。その出生譚は〈丹塗矢(にぬりや)〉型の神婚説話である。三輪(みわ)の大物主神(おおものぬしのかみ)が美女,勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)に思いをかけ,
富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)がうまれた。
伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)は、即位して神武天皇(じんむ・てんのう)になる前、九州の日向(ひむか)(現在の宮崎県)の地にいたとき、すでに結婚していて、二人の御子がいました。
その相手は、阿多(あた)の小椅君(おばしのきみ)の妹(いも)の、阿比良比売(あひらひめ)です。
(阿多は現在の鹿児島県加世田(かせだ)市周辺、小椅君は阿多隼人(あたのはやと)の一族)・・・つまり 海幸の子孫
そして、二人の間に生まれた御子は、多芸志美美命(たぎしみみのみこと)と岐須美美命(きすみみのみこと)といいます。
しかし、即位した後、更に大后(おおきさき)(正式な皇后)とすべき美人(おとめ)を求めていると、大久米命(おおくめのみこと)が次のようにいいました。
「このあたりに媛女(おとめ)がいます。神の御子というべき媛女(おとめ)です。
三島湟咋(みしまのみぞくい)(摂津国三島郡・現在の大阪府茨木市に溝咋(みぞくい)神社がある)の娘の、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)は、その姿かたちはとても麗美(うるわ)しく、三輪山(みわやま)の大物主神(おおものぬしのかみ)が一目見てすっかり気に入ってしまいました。
そして、大物主神がその美人(おとめ)を娶(めと)って生んだ子の名は、富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)といい、またの名を比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)といいます。
これは
神武天皇と伊須気余理比売の結婚は、極めて重要な意味を持ちます。なぜなら、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が高天原から須佐之男命を追放(第25回、古事記六話)して以来、神の系譜が高天原系と出雲系に別れていたところ、二人の結婚により、この二つの系譜がひとつに統合されたことになるからです。
三島には 鴨神社もあり 高倉天皇の安産祈願がなされたところです。
全国の三嶋神社の大本。
[64] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年06月16日 12時01分34秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>御祭神は霧島神宮と同體。
正確には、霧島岳の別峰夷守岳の夷守神社(雛守神社)のこと。
火山で火神。
夷守は断じて旧説の鄙守のことでは無い。
「天孫民族六千年史」の154頁参照のこと。
俗説乱載のヨタ本を何百冊読んでも、「天孫民族六千年史」の足下にも及びませんよ。
[65] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月16日 16時28分03秒 ) | パスワード |
皆様、今日は(^'^)
日本の苗字七千傑様、白石様
御教示ありがとうございます。
白石様
〉神武天皇と伊須気余理比売の結婚は、極めて重要な意味を持ちます。なぜなら、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が高天原から須佐之男命を追放(第25回、古事記六話)して以来、神の系譜が高天原系と出雲系に別れていたところ、二人の結婚により、この二つの系譜がひとつに統合されたことになるからです。
伊須気余理比売とは古事記の記であり、日本書紀では媛蹈鞴五十鈴媛命と記されているのですね。
勉強しました(p_-)
この数日で・・実は今まで「漢字が苦手」という言葉で逃げていた、神様のお名前が何故かスラスラスラ〜と頭に入るようになりました(人の脳は不思議です)
日本の苗字七千傑様
〉正確には、霧島岳の別峰夷守岳の夷守神社(雛守神社)のこと。
火山で火神。
夷守岳の麓が生駒高原ですね。昨年何度も伺って夷守岳の素晴らしい風景を眺めて参りました。
夷守岳の麓、えびの市飯野が主人の仕事場です。
夷守神社を調べました。
宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜運営:宮崎県神道青年会
http://m-shinsei.jp/modules/gnavi/index.php?lid=426
霧島岑神社 霧島六社権現巡り
http://www.kirikoku.co.jp/blog/5763/
霧島岑神社
http://www.geocities.jp/engisiki/hyuga/bun/hyg660301-01.html
御祭神
瓊瓊杵命 木花咲耶姫命 彦火火出見命 豐玉姫命 鵜鵜草葺不合命 玉依姫命
【祭祀対象】本来は高千穂峰を祀る
【祭祀】江戸時代は「霧島中央権現」と称していた
霧島岑神社由来略記 往古、霧島岑神社は高千穂峰の中腹、瀬戸尾の高地に鎮座され、祭神は瓊々杵尊・木花咲耶姫命・彦穂々出見尊・豊玉姫命・鵜葺草葺不合尊・玉依姫命の六柱の神々である。
承和4年(837)、日向国諸県郡霧島岑神は官社に預りのち従五位上を授けらる「続日本後紀」。天安2年(858)従四位下に叙せらる「三代実録」。とあり、「延喜式神名帳」には日向の国式内四座の一であると記されている。
天慶・天暦(10世紀)の頃、性空上人が霧島岑神社に参籠の折り、山麓四方に夷守神社他四社を創建し、本社である霧島岑神社(別名、霧島中央権現)を合せて霧島六社権現と称した。
天永3年(1112)韓国岳噴火、仁安二年(1167)大幡山噴火と相次いで神殿を焼失したが、その都度元の地に再建された。
文暦元年(1234)には至近の火常峯(御鉢)が噴火し社殿は焼失、この高地に湧いていた「天の井」も涸れたので末社の霧辺王子神社の辺に遷座され、その地を新瀬戸尾と称した。
その地に座すこと480余年、享保元年(1716年)新燃岳噴火、社殿は焼失 御神体は今坊権現に奉遷、次いで細野村岡原に遷座されたが新瀬戸尾の地は全く荒廃したので享保14年(1729)、夷守岳中腹に社殿を再建、明治初頭まで鎮座された。その地を今に築地と言う。明治5年(1872)県社に列せられ、翌6年細野村に合祀の世論起り夷守神社を先ず本社の岑神社に合祀した上で、改めて旧夷守神社の跡地(現在地)に霧島岑神社を奉遷して今日に至っている。
昭和56年3月
小林市教育委員会
※性空上人が霧島岑神社に参籠の折り、山麓四方に夷守神社他四社を創建し、本社である霧島岑神社(別名、霧島中央権現)を合せて霧島六社権現と称した。
(p_-)上記の霧島六社権現とは
霧島岑神社 霧島六社権現巡り
http://www.kirikoku.co.jp/blog/5763/
こちらの新聞記事に記載の
霧島岑神社の他 東霧島神社 霧島東神社 霧島西神社(現霧島神宮) 荒獄神社 夷守神社(雛守神社)
(..)やっと解りました。
私の住む旧宮原村宮麓に明治初期まで鎮座した中島霧島神社が麻郡神社私考では「宮原中嶋山 中嶋大権現」と記されていたのか・・
意味がしっかりと理解出来ました。
本来は高千穂峰を祀る(火山霧島連山)
〉火山で火神
御祭神
瓊瓊杵命 木花咲耶姫命 彦火火出見命 豐玉姫命 鵜鵜草葺不合命 玉依姫命
日向三代の神々は火神であられた。
祖母の実家「平川家」の氏神様・・代々「火の神様」とお呼びして受け継がれてきた。
「火の神様」・・「火神」
こう言う事なのですね。
最後に祖母について書かせて頂きます。
私が、球磨に戻りしばらくして、父に言われた事ですが
「子供から見て、ばあちゃんの何が凄い!と思っていたか。それは、ばあちゃんは、徹底して、”確証のない事は口に出さなかった”と言う事だ!」
と言われた事があります。
私にはそれが全くない(すぐに口に出す)。反省すべき点だ!と父は私に助言してくれました。
祖母は、女性ではありますが、政治面の人脈も地元以外にも中央にまであり、地元球磨でも様々な活動や、農協関係の球磨全体の女性部長も務めた人です。
そういう中で”確証”の無い事は祖母は決して外で口に出した事は無かった人です。
以前、コメントした親戚のおじ(鷲○家との姻戚関係あり)も村会議員議長を務めた人ですが、このおじも家に来た時に
「○○おばさん(私の祖母)は、人の噂などを決して言わない、さらに真実か確証の無い事は決して口に出さない人だった。だから、みんなが○○おばさん(祖母)の言葉を信用して、慕っていた」
と言っていました。
正反対の性格の私ですが、父は
「お前は、ばあちゃんには全くそういう所が似ていない。だけどね・・お前の”もしや?”という発想・ひらめきは、悪い事では無いとお父さんは思っているよ(^'^)」と、けなされているのか、褒められているのか良く解りませんが、父はそのように私を分析?してくれました。
その祖母が、決して多数ではなく、教えておかなければいけない!と祖母が決めた人だけに、自分が伝え聞いてきた”言葉”を伝えていた・・
それを聞いていたのが「祖母の実家のお隣の平川家のおじさん」と「平川家に嫁いで来たふた従兄の妻」
ありがたい事に、”○○ねえちゃん”も、祖母の実家のお隣の”平川のおじさんも”
「○○おばさん(祖母)からちゃんと聞いた事だから!」と言ってくれています。
お二人とも、祖母の言葉を”しっかり”と受け止めて、今でも”しっかり”と記憶して次の世代に伝えて行かれるのです。
平川の曾祖父・曾祖母に育てられた私の父が、数十年前に一度だけ「平川家に関するある事」を祖母に聞いたそうです。
その時、祖母は思いもがけずに急に怒りだして「そんな事をお前(父)が心配せんで良いと!!聞いてどうなる!?、平川には○○(祖母の甥)がちゃんといる!!」と言ったそうです。
だから、父も、曾祖父母から聞いている事以外は、「平川家」の事には、口を出したり聞いたりする事は母(私の祖母)には止めておこう・・と思ったそうです。
こういう祖母の言葉。
とても大事な事を伝える言葉。
若干の平川家についてと、宮原家の事に関しては、私にも色々話してくれていましたが、私はその言葉の”重さ”に気が付く事が出来ずに、忘れていたり、記憶がごっちゃになって至りして、
「あ〜もっともっと早く、祖母の言葉の重みに気が付いていたら・・」と。
まだまだ、私の勉強は続きます。
皆様、これからもどうぞよろしくお願い致します。
日本の苗字七千傑様
「天孫民族六千年史」。日本の苗字七千傑様とお知り合いになれた事は、きっと先祖の導きだったと思っています。
しっかりと読ませて頂きます。
では(^'^)
[68] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月16日 21時57分15秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
本日、北海道で震度6弱の地震が発生していたのですね。
私は、調査に没頭していて、情けない事に、地震のニュースを知ったのは、先のコメントをアップした後でした。
突然の強い揺れに、皆様の恐怖がいかなるものであったか。
心よりおみまい申し上げます。
日常が一変する自然の脅威は、容赦なく襲いかかってきます。
先人の教えを、あらためて見直す時代なのでしょうか・・。
[69] | 白石さんからのコメント(2016年06月17日 01時23分52秒 ) | パスワード |
こわいですねえ。
霧島神宮だったか 鹿児島神宮だったか?前に 松野系図で話題になっていたとおもって 松野系図をみてみました。倭の五王がついていたのですね。
今日ネットをみていたら
松野氏 - 松野氏の概要 - Weblio辞書
というのがありまして
宇都宮とか 横田とか いう 言葉が みられました。
松野氏 - 松野氏の概要 - Weblio辞書
藤原姓宇都宮氏族横田氏支流。
藤原姓宇都宮氏族横田氏支流。
鎌倉時代中期、宇都宮頼綱の子、頼業が横田氏を名乗り、横田氏の嫡流を時業が継いで弟の義業が下野国那須郡松野郷を所領し、松野を「家号」とした。
所有した城は松野北城、南城(1602年の松野氏出羽国移住により廃城)。
すべての統率権は宇都宮氏が掌握していたが、戦国末期、常陸国太田城主である佐竹氏配下となる。
佐竹久保田藩において宗家大番頭を務める
[70] | 白石さんからのコメント(2016年06月17日 07時01分18秒 ) | パスワード |
太田亮氏辞典では
肥後の白石は清和源氏 菊池に仕え 菊池が滅んだあと 相良に仕える とある。
川下のうちの白石の本家が 古見院によっている(人吉永国寺の流れ)ことから
ここらあたりかなあ と 前には 思っていました。
松野氏系図より
入り組んでいますが 大久保彦左衛門や 大久保利通なども 関与してくるのですね。
そして
以前 神谷さんの おはなしなど 聞かせていただき 岩見銀山に関して 大久保など 出ていました。
まわりまわって
あっちこっちと 出てきます。
[71] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月17日 09時36分31秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
白石様、御教示ありがとうございました。
白石様、呉王太伯を日本で唯一相殿神としてお祀りの神社は「鹿児島神宮」です。
呉王太伯の舎弟仲雍の後裔夫差を祖とし、肥後菊池郡を拠点に広がった「松野氏」と御教示の宇都宮頼綱の系はおそらく別系だと・・推測したのですが・・?
しかし、「松野郷」という地名は何か絡んでいるのかもしれませんね。?
所で・・
皆様、
今回の「平川家について34」では、地元の調査を中心としたコメントになりましたが、沢山の御教示、そして御声援を頂きまして、真にありがとうございました。
新しいスレッドを立ち上げました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101538.html
今後ともよろしくお願い申し上げます。
ミヤハラ
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