[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月22日 13時46分40秒 ) | パスワード |
隈さんの御実家の方は 平家ではない って?
信じられないです。
[2] | 隈さんからのコメント(2010年09月22日 17時03分41秒 ) | パスワード |
う〜ん、厳密に言うと違います。
でも、広い意味では平家方だと思いますよ。(^^)/
瀬戸内沿岸には、平家寄りの人が断然多いですから。
ただ、家系図で直接平家に繋がったり、落人伝説を持ったりしてないだけです。
関ヶ原合戦以後に、毛利家について萩に移動した「備後の服部家」が居たのですよ。
元々は広島県の三次出身の「三吉」さんだったそうで、
戦国時代に服部村に移って、「服部」と名乗ったそうです。
本姓は藤原氏ですって。
初めはうちの先祖とは無関係だと思っていたのですが、
色々調べていくうちに、あれ?やっぱり同じ一族かも・・・って。
ちなみに藤原姓三吉氏は、南朝方だったそうです。
だからやっぱり、うちも源平合戦時には平家方だったかも。
先日、初めて四国の祖谷に行ってきました。
やっぱり、落人伝説のある場所は気になります。
なかなか良いところでしたよ。
そしたらその直後、平熱に四国の落人伝説のスレッドが立っていて。。。
とことん平熱とシンクロするので、思わず笑ってしまいました。
それから、私が名古屋にご縁があったのも、理由があるんだと思います。
前世で密命を帯びて尾張に行って、津島の人々に会ったのかも。
大橋さんとか。(^^)
それはまだ憶測の域を出ませんが、この辺はこれからも調べていきたいです。
[3] | アカコッコさんからのコメント(2010年09月22日 18時40分53秒 ) | パスワード |
隈さんお久しぶりです、隈さんが登場でしたらご挨拶をしなければ。
私がこのサイトにであったのは隈さんの御蔭ですから感謝感謝です。
>前世で密命を帯びて尾張に行って、津島の人々に会ったのかも。
>大橋さんとか。(^^)
たぶんここに惹かれるのもそうかも知れませんね。
近頃は世田谷の「町歩きの会」に入って、元気にしております、
最近のニュースとしては、先祖のお墓が市の文化財登録に審議会から答申されているのですが、遅々と進展しないのが気懸りです。
それに伴い、江戸上期の名主のお家に昨年は何度も足お運びました。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月23日 01時50分39秒 ) | パスワード |
隈さん
やっぱり「大橋さん」が出現でしたね。
にっこり
「三吉」って
長州から坂本龍馬につけられた槍の名人が三吉姓でしたね。
此処のところの龍馬伝は前の家の大事件で暫く向こうに行ってたので見てないのですが。
うちの伯母宅の犬が「三吉」という名のメス犬です。
笑
そうか
「平家」というワケじゃないけど「平家方」じゃないか?
とか
「南朝方かも」ですか。
ホントに足のある人間に関わることは複雑怪奇ですね。
「服部姓」もいろいろですね。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月23日 01時58分22秒 ) | パスワード |
アカコッコさん
お久し振りです。
ぺこり
平貞能の母上は藤原姓宇都宮の娘だったんですってね。
だから 親戚の 宇都宮朝綱 を東国に帰したり
頼って1185年に落ちて行ったり
宇都宮朝綱が頼朝に助命を頼んでくれたり
そういうことがあったんですねえ。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月23日 04時41分16秒 ) | パスワード |
隈さん
>元々は広島県の三次出身の「三吉」さんだったそうで、
>戦国時代に服部村に移って、「服部」と名乗ったそうです。
>本姓は藤原氏ですって。
>広島県の三次出身の「三吉」
三次が三吉に変わった経緯が分かると良いですね。
槍の三吉さんの先祖が分かると良いですね。
>戦国時代に服部村に移って、「服部」と名乗ったそうです
では「服部姓」の女性を妻にした可能性は大ですね。
笑
昔はヨソ者が勝手に苗字を変えるなんて村の住人は許さないですものね。
>本姓は藤原氏ですって。
ということは藤原秀郷の子孫かな?
その上に坂東で平貞盛と一緒に将門を討った家なら
途中で平家と関わってもおかしくないですよね
その上、南朝方だったなら
もう充分、もとは平家方だったと 推測 して良いような 笑
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月23日 11時27分11秒 ) | パスワード |
三吉慎蔵って養子だったんですねえ。
養家の三吉家は、備後国三次盆地(現・広島県三次市)に一大勢力を誇った国人領主「三吉氏」にルーツを持つ。
だって。
三吉氏:
12世紀に(藤原行成の子)兼範が近江国から備後国三吉郷に下向、
その子兼宗が三吉大夫と称し、三吉氏の初代となった。
比叡尾山城を拠点とし、国人領主として備後国内で勢力を拡大していった。
鎌倉幕府滅亡の頃、三吉氏は後醍醐天皇に味方し、後に中国地方に下ってきた足利直冬に従った。
直冬の勢力が衰えると、近隣の有力大名である山名氏や大内氏、尼子氏の下を転々とした。
戦国時代の当主・三吉致高は、天文9年(1540年)、吉田郡山城の戦いの前哨戦である宍戸氏の祝屋城攻撃、そして本戦である吉田郡山城の戦いにも尼子方として参戦した。
その後は大内方に転じ、月山富田城の戦いにも大内方として参戦した。
そのため天文13年(1544年)には尼子氏の攻撃を受けたが、毛利氏の援軍を受けて撃退した。
大内義隆が大寧寺の変で自害すると、当主の三吉広高は天文22年(1553年)に父の三吉致高とともに自立性を保ちながら毛利元就に従属した。
また、三吉致高の娘(一族の娘とも)を元就の側室とした。
毛利氏に従属後は、その家臣として中国地方各地に出陣し、多くの戦功を挙げた。
三吉広高は天正19年(1591年)頃に比熊山城を築き、新たに居城とした。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも参戦したが、不戦敗を喫して毛利氏は防長移封となった。
広高はこれに従わずに浪人して京都に上り、後に広島藩主となった浅野氏に取り立てられた。
三吉氏は広島藩士、長府藩士として続いた。
長府藩士の家系からは幕末の志士、三吉慎蔵が出ている。
[8] | 隈さんからのコメント(2010年09月24日 15時06分53秒 ) | パスワード |
アカコッコさん、どうもお久しぶりです。(^^)/
実は先日、あるサイトで名前をお見かけして「あっ、アカコッコさんだ!」と感動しました。
お元気そうでなによりです。
私は相変わらずです。
私も、アカコッコさんのご先祖様とは不思議なご縁を感じます。
名古屋の街や、そこで出会った「大橋」さんを見て、「デジャヴ」を感じていたので。「以前、見たような気がする・・・?」と。
別に、名古屋に親戚など居ないのに。
何の証拠も無いのですが。
この「感覚」の正体を、つきとめたいです。
[9] | 隈さんからのコメント(2010年09月24日 15時21分27秒 ) | パスワード |
あをさんへ
そうそう、うちは多分、この藤原姓三吉氏の系統だと思います。
「三吉」は、「三次」と書いたり「三好」と書いたりして、定まらないです。
昔から、あんまり漢字にこだわってないような気がします。(^^ゞ
うちが伊賀と関係あるかどうかは、証拠が無いので分からないのですが、
一つ言える事は、忍者の知人が多そう・・・(^^;
それと、備後服部村の領主は、やたら「伊賀守」を名乗りたがる(笑)。
確かに伊賀の忍びが居てもおかしくないかも。
実際、毛利家も甲賀の忍びを雇っていたそうですから。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月24日 16時08分03秒 ) | パスワード |
>備後服部村の領主は、やたら「伊賀守」を名乗りたがる(笑)。
ということは「伊賀」にこだわっているんですから
やっぱり「伊賀」の「服部」なんじゃないんですか?
ゆかりがなきゃ「伊賀守」というのは使わないですよ。
それで服部なら やっぱり 伊賀の服部さんかなあ?
なんかねえ
この2日ほど 見えそうなのに見えない もどかしさを感じています。
そちらの方の服部さんって
平家がらみか南朝方がらみか戦国時代がらみか
このどれかよねえ。
さっきも 秀吉ー黒田 路線 で
そっちに落ち着いた服部さんかなあ?
なんて思いました。
でもそうすると 津島の服部さんになっちゃうんですよお〜
ということはうちのホンヤさんの嫌いな津島の服部さん。
小平太ね。
秀吉の甥の秀次の守り役で、詰め腹切らされた人。
戦国時代にアッチは信長についてしまってウチの敵ですねえ。
それか
南北朝の時に
そちらは西に行ってウチは東に行って
そこで分かれたのかなあ?
それか宗良親王に従ってウロウロしているうちに
そちらは神戸のあたりで東に行くことになったのか?
うちは伊勢尾張の辺りで落ち着いてしまったけど。
「忍者」が気になるのですか。
伊賀甲賀。
伊賀と甲賀の違いは山の北と南の違いだけで
昔は同じ国だったそうですから
うちも甲賀出身の親戚がいますしね。
これを知った時は(なんで甲賀の親戚がいるのお〜、ウッソー!)でしたよ。
袱紗の紋が並び矢で、もう決定的でした。
うちのかと思いましたもの。
それでそちらは「抱き茗荷」なんでしょうかねえ?
茗荷、というのがワタクシには不思議なんです。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月24日 16時23分20秒 ) | パスワード |
抱き茗荷使用は清盛流の長崎家
と書いてありました。
で、この長崎家は、重盛3世の孫で
北条泰時の執事であった平左衛門尉盛綱が
伊豆田方郡長崎に居て長崎氏を称したのに始まる
だって。
その末、勘解由左衛門為基が元弘の変に西海へ逃れて肥前瓊浦(長崎)に止住し、
そのところをも長崎としたのが肥前長崎市の起こりという
だって。
ここで「隈さん」と関係が出来たのは当たり前というワケですね。
もともと同族なんだから。
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月24日 16時45分16秒 ) | パスワード |
で、この長崎氏については
平資盛の曾孫と自称する平盛綱が北条得宗家の家令となり、伊豆国田方郡長崎郷(現在静岡県伊豆の国市)の地を得て長崎氏を称したのに始まるという。
しかし、盛綱が資盛の曾孫であるというのは信憑性に欠けた仮冒の系譜という説があり、
実は平姓関氏の流れとされる。 ← 資盛が関に行かされてた時に作った子かも知れないしね。
また、後述の事情により、盛綱と頼綱の2代は長崎盛綱、長崎頼綱とは呼ばれない。ただし、盛綱・頼綱父子は、後に内管領として権勢を振るう長崎円喜・高資父子と同族であるため、便宜上長崎氏に含められることがある。
平盛綱は、北条泰時・経時・時頼の3代の得宗に仕えた。
盛綱の子の平頼綱も得宗北条時宗・貞時の家令(内管領)となり、1285年(弘安8年)幕府の有力御家人である安達泰盛を霜月騒動で滅ぼし幕府の実権を握ったが、1293年(永仁元年)貞時に襲撃されて自害した(平禅門の乱)。
その後、頼綱の従兄弟(弟とも、叔父とも)にあたる長崎光綱の子長崎円喜とその子長崎高資の父子が内管領となって幕政の実権を握ったが、1333年(元弘3年/正慶2年)新田義貞に鎌倉を攻められて幕府が崩壊し、北条氏一門とともに鎌倉東勝寺で自害して滅亡した。
室町時代には頼綱の弟・重綱の系統が生き残り、肥前で細々と土豪的領主としてやがて有馬氏の旗下に置かれ、江戸時代には大村藩士となった。
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月24日 16時51分56秒 ) | パスワード |
左三つ巴紋:
清盛流関氏
だって。
つまり資盛が関にやられてた時に守り役の平信兼の縁者の娘に産ませた子の家紋でしょうかねえ?
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月25日 05時15分03秒 ) | パスワード |
>実は平姓関氏の流れとされる。
なんと 大沢たかおの最新の映画「桜田門外ノ変」 の役名が
関鉄之介
ですって。
笑った〜
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月25日 05時26分02秒 ) | パスワード |
去年引越してから まるで 天中殺にでも引っ越したかのようにジンクスが続いてて
それが毎日毎日(今に至るも)途切れることなく新たに起きるのです。
夫の天中殺にこのシマにマンションを買って翌年引っ越したから モロ!
でも、いつもは必ず好転するのになんで?
なんて思ってたら
そうか、最近は御先祖さまに御無沙汰だからか
なんて思って心を入れ替えたら
いろいろ御利益が始まっているような?
笑
だと良いのですが!
謎
やっぱり御先祖さまをいつも心に掛けて感謝するというのが良いって思います。
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月25日 05時36分42秒 ) | パスワード |
鎌倉幕府滅亡の悪役父子 長崎円喜・高資 。
こちらの関係者は 当然 北朝方 だったのでしょうか?
でも「兼盛さん」の御子孫は南朝方ですよねえ?
でも昔のヨシミで兼盛さんの子孫は長崎氏と婚姻を結んでいたかもですね。
そうすると南朝方につくか北朝方につくか、いろいろあったんでしょうね。
尊氏が九州に逃れて来た時は当然尊氏に従ったんでしょうね。
ここでも一族の中でこじれにこじれた相克があったんでしょうね。
[17] | 隈さんからのコメント(2010年09月27日 15時36分45秒 ) | パスワード |
>それでそちらは「抱き茗荷」なんでしょうかねえ?
実を言うと、うちの「抱き茗荷」は平家には関係ないかも・・・
戦国時代に入ってうちと縁組した家に「抱き茗荷」紋の家があるらしいと発覚。。。
その家(うちより格上)から貰った可能性があります。
>ここでも一族の中でこじれにこじれた相克があったんでしょうね。
おそらくいろいろあったと思います。
「家」を残すため、わざと一族で敵味方に分かれて戦うことも、地方豪族ではよくあることだったそうです。
だから・・・身内が敵方にまわって複雑な思いはあったでしょうが、
一方やむを得ないとも思っていたのではないでしょうか。
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月28日 07時30分16秒 ) | パスワード |
隈さんへ
家紋は苗字より複雑怪奇ですから、もしかすると、拝領か何かで使うようになった可能性もあるんですか。
[19] | 隈さんからのコメント(2010年09月28日 10時35分03秒 ) | パスワード |
私の先祖が、毛利家(長州藩)に仕えた服部家に「本当に」繋がるかどうかが問題ですが。。。
どちらも備後服部村出身だし、毛利家家臣の服部家の動きと、
うちの先祖が向島に移住した時期を考えると、繋がらないでもない。
長州藩士になった服部家は、元々戦国時代に石見銀山を守っていた「本城家」と姻戚関係にあって、
一緒に山陰の尼子氏側についていました。
「本城家の家老」だったと陰徳太平記に記されています。
・・・その本城家の家紋が「抱き茗荷」なのですよ。
と言っても嫡流が使ったのは「丸に本の字」らしいので、嫡男以外や分家は「抱き茗荷」を使ったのでしょうね。
私も家紋の事はよく分からないですが、「同族」として戦の旗印等で同じ紋を使った可能性もあるのではないでしょうか。
ちなみにその後本城家は毛利家に滅ばされ、服部家の家老だった人もその時討ち死にしたそうです。
親族も多数、討ち取られたとか。
そこで生き残った息子達が降参して、毛利家の家臣になったといいます。
本城家が毛利家に滅ぼされて、石見銀山を取られたのが、西暦で1562年。
うちの先祖が故郷の服部村を離れて向島に移り住んだのが、1570年。
1562年・・・子供の時に父親が戦で死んだとして、
1570年・・・成長・独立して服部村を出た・・・と考えられなくもない?
とか、試行錯誤中です。(^^ゞ
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月28日 16時31分01秒 ) | パスワード |
本城氏は石見国の豪族で
元は大宅氏の1流れで
尼子 → 大内 → 尼子 → 毛利 → 滅亡
こんな流れなんですってね。
服部家が向島に移り住んで 本城家から頂いた家紋を今に伝える ってアリですね。
もう謎だらけですね。
[21] | バイクのおじさんさんからのコメント(2011年01月20日 15時38分31秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2011年02月23日 19時52分10秒
[22] | バイクのおじさんさんからのコメント(2011年01月20日 23時01分48秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2011年02月23日 19時52分47秒
[23] | バイクのおじさんさんからのコメント(2011年01月20日 23時45分36秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2011年02月21日 16時11分37秒
[24] | 隈さんからのコメント(2011年01月21日 12時05分01秒 ) | パスワード |
「バイクのおじさん」さん、どうも初めまして!
服部若狭守高豊のご子孫でいらっしゃるのですね。
私は服部若狭守の直接の子孫ではないと思いますが、祖母の実家が、備後服部村にルーツを持つ「服部家」なのです。
元亀元年に服部村を出て、しまなみ海道の向島に住んだそうなのですが、
移住の経緯等、詳しい事は分かっていません。
戦国期の事でもあり、戦に敗れた事がきっかけで帰農したのでは?と考えています。
ご先祖様の詳しい情報をどうもありがとうございます。
特に家紋等は、直接の子孫でなければ分かりませんので。
私の先祖との繋がりは不明ですが、もしかしたら同じ一族かも??
と考えています。
なお、「陰徳太平記」には服部若狭守が討ち死にした、との記述がありますが、
これは吉川家の家臣であった香川正矩・景継親子が、他の家臣が残した記録をまとめたもので、
多少脚色された部分もあるとの事ですので、すべて事実とは限らないと思います。
あをさんも日頃おっしゃているように、ご自分のお家の言い伝えの方が正しいと考えられて良いのではないでしょうか。
[25] | バイクのおじさんさんからのコメント(2011年01月22日 06時41分28秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2011年02月23日 19時53分04秒
[26] | 隈さんからのコメント(2011年01月24日 15時15分29秒 ) | パスワード |
>備後・服部村ー族会が、できますね。
何だかそう言って頂けると嬉しいです。
私の先祖(母方の祖母の家)は毛利家に従った訳ではないので、
母の代までずっと広島県に住み続けましたが、
縁あって私自身は生まれも育ちも山口県です。現在も県内在住です。
明木の辺りは、たまに車で萩に行く途中で通りますよ。
近くの図書館で「角川日本姓氏歴史人物大辞典」を見て、
毛利家に仕えた服部家の存在を知りました。
山口文書館で譜録も見せて頂きました。
由緒書の部分はさっぱり読めませんでしたが、系図は書き写させて頂きました。
備後福山には藤原姓三吉を名乗る家が数家ありますので、藤原姓三吉本家との繋がりは不明ですが、
この三吉家と服部家は同族ではないかと思っています。
吉川元春配下の杉原盛重家臣であった、三吉若狭守隆勝などがいます。
(そういえば、杉原盛重の家紋も左三つ巴だったような…)
確かに、先祖調べはきりがないですね。
私も謎に踏み込んで10年たちますが、なかなか進みません。
助かったのは、私の高祖父が、墓石に自分が調べた服部家の由緒をびっしり掘って残しておいてくれたことです。
これで、「服部村から向島に、元亀元年に移ってきた」ことが分かりました。
[27] | バイクのおじさんさんからのコメント(2011年01月25日 07時56分27秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2011年02月23日 19時53分18秒
[28] | 隈さんからのコメント(2011年01月26日 13時28分46秒 ) | パスワード |
そうですね、私も一度ゆっくりお話を伺いたいのはやまやまなのですが・・・、
残念ながら今は、山口市まで出向くのは難しいです。
専業主婦なのですが(これでも一応女です(笑))、私も今は《目の離せない》家族がいます。
まだ、周囲の協力があるといいんですけどね。
夫は全くの歴史オンチで、私の先祖調べにはあまり付き合ってもらえないので(嘆)。
もしよろしかったら、メールでやり取りできるととても嬉しいです。
[29] | バイクのおじさんさんからのコメント(2011年01月26日 15時46分16秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2011年02月23日 19時53分29秒
[30] | 隈さんからのコメント(2011年01月28日 11時52分47秒 ) | パスワード |
こちらこそ何だか驚かせてしまったみたいで、すみません。
以前もやりとりしていて、しばらくたってから先方が気付き、驚かれた事があります。
なので、もう少し女らしいハンドルネームに替えようかと考えているところです。
ちなみに私のメールアドレスは、コメントの名前の横に登録されているとおりです。どうぞよろしくお願いします。
一度武士を辞められてから、再就職されたのですね。
それでは、服部一族で毛利家に従ったのは本家のみだったのでしょうね。
>子供達も手のかかる過疎の土地より・・のほうがいいといいます。とは言つても兄と僕が育つた所でもあり400年前から住んでいた所なので・・
今は、人がみな都市部に移り住んでいますから、
先祖代々の土地や墓の管理が難しいですね。
うちの主人の実家も先祖代々住んできた土地(久留米)にありますが、
後を継いでも住むのは難しい状況です。
売ってしまうのは忍びないし、どうやって維持したらいいのか悩みますね。
私の先祖の服部家の方は、何も残っていないようですけど。
明治〜戦前までは大地主で、大きな屋敷もあったそうですが、
それは私の高祖父が一代で築き上げたもので、
それも戦後の農地改革で殆ど失ったと聞きました。
それでも、亡き祖母は実家のことをずいぶん誇りにしていたそうです。
彼女から伝わった女紋・向い蝶(母から娘に伝わるものなので、服部家伝来ではないですけど)が、
私が先祖の由来に興味を持ったきっかけです。
「立派な家の証」と祖母が大事にしていたので。
事実かどうか分かりませんが、近くの岡山辺りでは
「女紋が蝶なのは、平家の末裔」と言われているのだそうです。
[31] | バイクのおじさんさんからのコメント(2011年01月28日 13時22分45秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2011年02月23日 19時53分41秒
[32] | 姫沙羅さんからのコメント(2011年01月31日 15時24分37秒 ) | パスワード |
とりあえずハンドルネームを変えてみました。
「隈」改め、「姫沙羅(ヒメシャラ)」です。
少しは《女性らしく》なったでしょうか?(笑)
我が家の庭に生えている木の名前からとりました。
平家物語冒頭の「沙羅双樹」にも引っかけたりしてます。
「平熱」常連の皆様も、以後よろしく。(^^)/
[33] | 姫沙羅さんからのコメント(2011年01月31日 15時35分08秒 ) | パスワード |
>服部理右衛門は吉川広家公の臣とす
やはり服部家は、吉川氏の下で合戦に参加したのですね。
同じく吉川家の重臣だった杉原氏(備後神辺城主)とは本拠地も近く、
関連が気になるところです。
>服部宗観
確かに、出家僧のような名前ですね。
当時の武士は晩年出家する人も多かったようですね。
[34] | もみじさんからのコメント(2011年02月02日 03時01分10秒 ) | パスワード |
乱入してすみません。
21バイクのおじさんを見て、久兵衛という名を見、
23に○○衛門 というのを見て
うちには 系図というものはないのだけれど
始まりが 久兵衛の母で
女系ともいえるので たとえ つながりが どこかでわかったとしても子孫とはいえないだろうけど
祖母は長い長い系図を見たといったと母がいっており
母は自分の家のことを ほこりにしていました。
父方のまわりにははるか昔に活躍した天孫ににぎゆかりの記憶をもっており
私は 父母の姻戚関係が
たとえ資料などなくても
それらを あらわしている と 信じています。
久しくネットを見なかったけど
今日開いてみて あれっと 思いました。
うちの先祖の資料は 屋根裏にしまいこんでいて
探さなければいけないけど
久兵衛 400年くらい前など 気になります。
明日さがして出してこよう と思っていますので
よろしかったら その人たちの没年など 見ていただけないでしょうか?
お忙しそうなので ご迷惑でしょうけど お願いします。
[35] | バイクのおじさんさんからのコメント(2011年02月02日 09時53分33秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2011年02月23日 19時53分56秒
[36] | バイクのおじさんさんからのコメント(2011年02月02日 12時55分56秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2011年02月23日 19時54分06秒
[37] | もみじさんからのコメント(2011年02月02日 21時25分05秒 ) | パスワード |
お忙しいのに 申し訳ありません。ありがとうございます。
石見あたりなど 出てくるので、うちの母方の家を継いでくれた武田の血を引く人の祖先など からむか ? と 思いましたが・・・その人は現在「真木」姓で、手紙には 昔は刃を交えたかもしれませんね などと かいてありました。広島の浅野の殿様から姓をいただいたそうです。
36の左兵衛(久兵衛)の頃 うちは 久兵衛 安永8・12・6没なので・・・その子供らしいのが「市郎左衛門」です。市郎左衛門没が享和2・11・3.
残念ですが 違うのでしょうね。
うちの戸籍には 番地のところが 番屋敷などと 書いてあり
以前 テレビで 鹿児島の 家老の 小松家への手紙が写っており 番屋敷とかいてあったので
又 祖母 または ひい祖母は 毛利様から院号をいただいたとおばが言っていたので
もとは 武士だったかも ・・・と思ってもいます。
うちも 家紋・左三つ巴です。
他のスレッドで私が書いた 高岡がからむ服部があり、もしも それぞれの家の隠し子みたいな名前が出ない人がうまれていて それぞれの家の末の又末と結婚してたりして と 想像をたくましくしたりしています。
高岡が 父の生まれた家です。
うちは 俗名 ともいう おえらさんに なっても もともともっていた家の名です。
確かに 政之など と わからなければ 手がかりもなさそうですね
はるか 時代が下がり 明治の頃
本家の養子に入ってくれる人 も
正亮 改め 秀之進と なっています。
この人も 神力という家をとおして 佐田の血を 濃くもっています。
この人が「永田」姓で 目を細くして遠くを見るようにしてみると
神代の頃のつながりを濃く持ちながら時代をおりてきた
と感じられるのです。勿論 ほかにも いろいろあるのですが・・・
[38] | バイクのおじさんさんからのコメント(2011年02月03日 07時31分27秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2011年02月23日 19時54分18秒
[39] | もみじさんからのコメント(2011年02月04日 23時02分46秒 ) | パスワード |
22服部若狭守高豊・山吹城家老母親は、高橋大九朗女・妻本城氏女
●高橋氏 ・・・石見高橋氏
武家家伝より (紀氏の後裔/大宅氏族ともいう)
*家紋は大宅氏族のものを掲載。とある。 大 の字。
高橋氏は現在の島根県邑知郡阿須那に、藤掛・鷲影の両城を築いた、古くか らの国人領主であった。
本城系図などによれば、大納言紀舟守の後裔で、紀党の祖となった清主の五 代の孫光延が駿河国高橋・油比、西山の領主となり、その子光盛が高橋氏を 称したという。
高岡系図でひくと
摂州多田院御家人 高岡系図
池田奉貞の實弟肥後守貞望の後裔
紀長谷雄
の順に出て、長谷雄の先祖・船守女子桓武天皇宮人
(19)佐正( - )|一説養子實楠正行遺腹男 とある。
ここらから服部にからむ。又
天野屋傳兵衛(服部家家系図)
先 祖 「紀ノ木莵宿禰」 (紀ノ武内宿禰の弟)
出雲 但馬 高岡氏系図
高岡氏は宇多源氏出雲佐々木流。佐々木義清の息子で隠岐泰清の八男、八 郎宗泰が出雲國神門郡鹽冶郷高岡邑を領してより高岡氏を名乗る。
●本城氏 ・・・家紋 茗 荷
武家家伝 本城氏より (大宅姓高橋氏一族)
*ハワイ在住の本城常光の子孫にあたられる本城さまから御教示いただき ました。とある。
[40] | もみじさんからのコメント(2011年02月04日 23時07分47秒 ) | パスワード |
富田城 佐田 伊秩城より
同稿(「跡 その1」)でも記したように、落城した「伊秩城」には、伊秩元 苗を置き、東方の「高櫓城」には、本城常光を置いている。なお、それまで の亀井秀綱がなぜ交代させられたのか、理由はよくわからない。
佐田町誌によれば、
「毛利氏に憚ってか、同家では秘書として他見を許さなかったが、伊秩本 家・伊秩秀宜氏の好意によって、転載する」
とある。原文は漢文のため、佐田町誌において意訳している。
“時は天正2年(1574)3月、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・穂井田元清の連合軍は、伊秩城攻略のため軍を起こした。
これを察知した甲斐守元苗は、弟の源左衛門久正を伯耆の大山に落とし、末弟を僧として玄房と名づけて赤穴に、また長女(当時16歳、後に熊谷信直の家中に嫁がす)と、妻の二人を石見浜田に落として、弟の元忠と共に籠城
元忠の脱出の時、随った者は、松野茂助(子孫・小野村に住む)、熊野(子孫・金屋町に住む)、江本(同住勝筈)、布勢、勝原住(住安養寺)などの18人であったという。
伊秩城跡(いじちじょうあと) その1
●所在地 島根県出雲市佐田町一窪田 錦
場所は、出雲の西部にあたる旧佐田町窪田という地区である。佐田町は、古代出雲の歴史発祥の地ともいわれ、出雲大社と非常にかかわりが深く、特に須佐神社は有名である。
●築城期 応仁元年(1467)
●築城者 伊秩伊勢守政行
記録によると、伊秩地区(窪田)において、暦応4年(1341)、佐々木高綱5代の孫・佐々木備後守常宗が、足利尊氏の命によって、吉栗山に城櫓を築いて居住(出雲風土記考証、簸川郡史)し、伊秩山には応仁元年(1467)、この地に封ぜられたと伝えられる伊秩伊勢守政行が、伊秩城を築いた(明教寺文書)、とある。
なお、同町東部には未だこれも取り上げていないが、須佐地区に戦国期、本城経光が拠った「高櫓城」があり、この城は伊秩城築城から約20年後の文明18年(1486)、尼子経久が出雲守護となってから築城を見ている。
伊秩氏の菩提寺であったという、一窪田の「明教寺縁起」によると、
伊秩氏の本国は、因幡国で、初代は井筒行守といい、山名宗全の家臣であった。応仁の乱では、山名氏に属し、細川勝元と戦い、戦功があったので、宗全は将軍・足利義政にその旨を言上。論功行賞として、伊勢守と義政の政の一字を授けられ、このときから伊勢守政行と名乗る。
山名家から下附された主だった家臣としては、矢田兵部少輔(出身は上州秩父)、吉川讃岐、京極三郎、高木左門、溝口五男などがいた。
下って戦国期である。大永3年(1523)3月、月山富田城主・尼子経久によって、合戦10数日の末、落城した。時の城主は、5代・伊秩甲斐守重政であったという。
参考までに、初代から5代までの城主名を下段に示す。
●初代 伊秩伊勢守政行
●2代 伊秩下野守政方
●3代 伊秩常陸介一政
●4代 伊秩日向守政元
●5代 伊秩甲斐守重政
[41] | もみじさんからのコメント(2011年02月04日 23時15分32秒 ) | パスワード |
本城常光が高櫓城に拠ってからは、尼子・毛利の抗争はさらに激しくなり、特に石見銀山をめぐる戦いはよく知られている。その間の詳細は省略するが、常光が高櫓城に入城した大永3年(1523)から37年後の永禄3年(1560)6月、銀山をめぐる両者の大戦の一つである「新原崩れ」によって、尼子方の勝利があり、常光は高櫓城と併せ「石見銀山山吹城」の城主も兼ねることになった。
[42] | もみじさんからのコメント(2011年02月04日 23時22分55秒 ) | パスワード |
次に長門国・下関にある伊秩氏関係から、同氏に関する記録を拾ってみる。
★長門国の伊秩氏
佐田町誌によると、下関在住の伊秩秀宜氏一族は、先祖が出雲国伊秩城の城主であったという。
この一族の系図では、下関の伊秩氏の祖が、尼子経久の子であるとし、政久、国久の次に「伊秩美作守元久」がいたという。そして美作守元久の子として下記の4人を挙げ、さらにその子を並べている。
1、伊秩甲斐守
その子:男 元忠・甚次郎・左京・安房守
:女 伊秩城落城の際12歳
2、某
その子:田儀家養子 次郎左衛門
母家女 実は美作守長男、出雲国田儀の家督
天正6年、田儀城落城の際自害
3、伊秩源左衛門(久正)
近侍勝久(その他省略)
4、玄房
天正7年伊秩城落城の際、乳母に抱かれて避難し、後出家その後、還俗して赤穴に棲む。
上記のうち、山口県に住む伊秩氏の本家は、1、の元忠の末裔であり、長府藩(5万石)に仕えて、家老職(1千石)を勤め、伊秩源左衛門久正の末裔(下関伊秩秀宜氏)は、同じく長府藩馬廻り役(250石)、玄房の末裔(山口県豊浦郡菊川町吉野の伊秩氏)は、長府藩の分藩である清末藩(1万石)に仕えている(30石)
なお、ここで最大の疑問が、同誌でも述べられているように、尼子経久の子として、元久なる人物が全く記録にもなく、またよく取り上げられる「陰徳太平記」や「雲陽軍実記」にも出てこない点である。
経久の子として定説になっているのは、長男・政久、次男・国久、三男・興久(塩冶)で、あとは長女・いとう(北島氏室)、二女(千家氏室)、三女(宍道久慶室)の6人である。
[43] | もみじさんからのコメント(2011年02月04日 23時34分59秒 ) | パスワード |
お忙しい中を 系図をみてくださり 本当に感謝しています。
22をみて 前から 不思議に思っていたことが わかったように思います。
完全にはいかないけど 又 うちが 直接 つながるわけではないけど
毛利様から 院号を いただいたり お寺様から聞いたことでは 檀家総代にたっている と いうことで
母は 佐田は 名家だった と いい
それにしては 本家に養子がはいった としても たかが 何百年前の つながりが わからないのは ・・・ 戦争をはさんで 文書も紛失したかと思っていました。母の実家 ・ 佐田は 中原で 毛利 大内 大友氏とは 中原つながりです。
ヒントになって 他のスレで書いた 新発田の溝口と同じ名の
伊秩氏家臣 溝口。 京極は佐々木氏。 吉川など名前が出てきて だいぶ中味が濃くなってきた と 思います。
それにつれ
佐田町は、古代出雲の歴史発祥の地ともいわれ、出雲大社と非常にかかわりが深く、特に須佐神社は有名である。
とあり、佐田が私の母の実家で やはり 佐田が底流にあった と 思います。つながりがなくても ・・・
[44] | もみじさんからのコメント(2011年02月04日 23時45分29秒 ) | パスワード |
うちの佐田は牟礼にあり
お寺様とのつながりは 「牟礼」として 源平屋島の隣接地とおもっておりました。
住職 香川氏
●巴九曜
●桓武平氏良茂流 『見聞諸家紋』に「右京大夫勝元被官 香河五郎次郎和景」の紋として収録されている。香川氏と並んで「越後長尾 」と記され、香川氏と長尾氏が同じ紋であったことが知られる。
鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)。景正ともいう。景将ということもある 。 平良文の五代の孫。 吾妻鏡養和二年二月八日条によれば、景政の三代の孫が長江太郎 義景である。 景政はまた、大庭氏、梶原氏、長尾氏、股野氏などの先祖でもある。
うちは 左三つ巴で 宇都宮氏が濃いのだけど
清盛流関氏 の 末みたいでもあり・・・
でも なんで今のお寺様に帰依しているのか
は 平氏つながりだからかも ・・・と 思います。muchakunn
[45] | もみじさんからのコメント(2011年02月09日 05時47分43秒 ) | パスワード |
21で「山口県文書館」というのを知り 検索してみました。いずれ尋ねてみようと思いますが・・・でてくるのも 直接佐田ではなく益田氏なので。
前回の伊秩氏も尼子氏(宇多源氏佐々木京極流)の子孫で 佐々木 高岡(私の父方の姓)の 方によるので・・・
しかし こちらからの線も 宇都宮流 佐田に濃いです。この氏は 毛利に仕え・・・最後 細川に仕える。
佐田家文書 山口市 陪臣(萩藩寄組益田家臣)/講(吉敷郡問田村士族講) 177
寄組とは上士
萩藩寄組(上士)の繁沢家〜長州(58):街道歩き:So-netブログ
2011年1月16日 ... 繁沢家は阿川毛利家(7300石)の分家で萩藩寄組(1914石余)に属し、知行地を大津郡 三隅村と阿武郡小川村に持ってい ... 『益田 元尭(ますだ もとたか、文禄4年(1595年 )〜万治元年10月14日(1658年11月9日))は、益田家第21代当主。
武家家伝 益田氏
●九枚笹/上り藤に久の字
●藤原氏道兼流御神本氏
九枚笹は男爵益田氏の家紋、戦国時代は「上り藤に久の字」を用いていたものと思われる。また、益田氏の旗紋は「久文字」と称された。
石見に勢力を拡張
益田藤兼率いる益田軍も戦意を消失気味であった。---吉川元春に降伏した。
吉川元春の娘を嫡男元祥(もとよし)の室に迎え
元祥は岳父吉川元春に従って、中国地方に勢力を伸ばしてくる織田信長勢力と戦うため、因幡・備中方面で活躍した。
益田氏は関が原後は家康の好意を断り、毛利家の家老になり、長門の国須佐の知行地に移った。
明治維新後 益田氏は男爵
[46] | さくらさんからのコメント(2011年02月17日 01時51分16秒 ) | パスワード |
島原
天草はもとは「小西摂津の守行長」の遺領。
島原は 慶長19年(1614年)7月に日向の県に転封するまでは、有馬晴信・直純親子の領土。
島原 日野江城(原城・日暮城)
唐津藩は「寺沢兵庫の守堅高」。
天草五人衆・天草種元(三宅籐兵衛に仕える)→子孫・天草小次郎
大矢野島・大庄屋
渡辺小左衛門・・・・一揆メンバー
|| 芦塚忠右衛門・森宗意軒・大矢三左衛門・赤星内膳・
● ●● 千千輪五郎左衛門・渡辺小左衛門
渡辺左太郎 (江辺四郎・益田)
|| 天草四郎時貞(豊臣秀綱=秀頼の子)
小西行長家臣・益田甚兵衛・女子・福
★天草氏
中国後漢王室・霊帝子孫の阿智使主の子孫→東漢掬 山木
(坂上)志努
爾波伎→大蔵氏→岩門氏→原田氏
木原→山口
天草氏
以前天草についてしらべたことがあります。結論として うちのまわりにそれらしい痕跡がありません。
久兵衛の母などの名も たてこもった人の中にみえるのですが 又
山口は父方と一番近い固まりなのですが、又 系図でも天草氏と同じなのですが
さらに 高岡でも キリシタンになっている人が系図でもあるのですが
うちのまわりには 隠れキリシタンの痕跡などどこにもないのです。
ひそひそ いうことも ないのです。
歴史をおりてくるなかで 同じ固まりを持ちながら 別行動をしていたみたいです。
[47] | さくらさんからのコメント(2011年02月17日 02時37分57秒 ) | パスワード |
今世代で 高岡女子と高橋と結婚。高橋は相良氏の嫁方にある。もうみんな末のまた末だろうけど、高岡女子の母方は山井。その上の世代も山井。
山井は相良氏本家がつかった。
高岡の戸籍には 三男が高岡の遺跡をつぐ とあり、遺跡をつぐの言葉は 武士の家でつかわれたようだ。高岡の家からは市房が見えるのだと前戸主が教えてくれた。山をおりる中腹に市房神宮のお鏡を預かる家がある。市房神宮は久米城主市房が霧島神宮を勧請して平城年間に建てた。宮司・尾方氏。
五木の豆腐の方で書いたけど 郡誌で 高橋には菊池の養子名跡の記録も有る。菊池は又米良も名のる。
菊池の侍帳に 高岡 坂本 白石 平川があり、尾方 高田牧宰など国史辞典にある。姓系辞典に肥後の白石は清和源氏。菊池が相良に負けた後 相良氏に仕える。とあり、うちの本家を継いだ家は人吉永国寺の流れの寺によっている。永国寺は相良家中。
相良氏は最終的に人吉永里相良氏が残った。相良氏は一子相伝で財産をついだ。藩主の子孫でも長い間にはただの人に。相良氏に一度のお国替えもなく治世が一貫して行われたので地域は古い時代のこともわかる。永里姓も隣の集落にある。
[48] | さくらさんからのコメント(2011年02月17日 02時53分58秒 ) | パスワード |
うちの高岡 白石 坂本 尾方は橘紋。坂本は紋についておもしろいことをいい 「何とかの椿」と聞いていますよというので、描いてもらったら橘だった。高岡から平川へ婿養子。坂本は父と腹違いの兄弟。父は白石へ養子。白石と山口 高岡は からまっている。そして下益城郡守富(富合)へ。
守富は8世紀ごろ肥後国富があったところ。江田船山古墳などある。父の手帳に木原 伊津野など書き付けてあった。木原は源姓だと阿蘇文書にあるらしい。木原から山口へ。
戦中 父は山口の母方へ下宿していた。又別に父が住まったところは 都濃郡だが萩藩資料に 清和源氏の山口の百姓の家があったと。
[49] | さくらさんからのコメント(2011年02月17日 03時10分26秒 ) | パスワード |
平川親戚 高岡嫁に 五藤。五藤は橘氏。
平川嫁に川向の尾方からきていたが、平川のおばは そこは 平氏だといっていた。平川紋は 桐紋。
郡誌に 良峯朝臣の子孫が平川を名乗っている。良峯は林と共にわが国の文化を国風文化にかえた。良峯は藤原冬嗣・真夏と腹違いの兄弟。劉姓。
地域には 江戸時代 那須氏の一揆があったあと 一時天領になった とあるが、同じ集落の尾方を含む墓の中に 葵紋をつかう墓がある。
この尾方は橘紋。
家康をしらべたとき
尾方 松本 吉田からでることがわかった。
いったいにうちの父方のグループは漢王室子孫とわかる家の名やさらに古く神武天皇以前にゆかりする家が混在している。
[50] | さくらさんからのコメント(2011年02月17日 03時25分01秒 ) | パスワード |
下村という家があります。
う
烏条
下村
漢士の末
少昊金天氏の後で、漢光武帝の末
光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年[1])は後漢王朝の初代皇帝。
榎本
孝昭朝、 漢の司符将軍の嫡子・真俊 権現を榎木の本に勧請す。
よって榎本の姓を賜う。
次男 基成を 「宇井」という。
熊野別党(当)系図に、 岩本→子孫・宇井とある。
幕末 榎本は 岩本に 「高岡(岳・丘)親王」の墓を探せ と 命じた。
前田氏 呈譜に
元は 「穂積氏」 後 丸子に 改む。
穂積氏は 「石切神社」に
祖先は 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 と する。
集落に岩本があり、そこの主(故人)が 私に 「あんたんとこのお父さんの出はただんもんじゃなかった」といっていた。
[51] | さくらさんからのコメント(2011年02月17日 03時34分56秒 ) | パスワード |
川向の尾方の集落に平家城があった。
明治の頃 全国の城の調査がされ、その資料が関東大震災で焼けたが、熊本県は複製をつくっていたので この城の存在がわかった。
姓系辞典に 橘薩摩氏は相良氏と仲がよく どこへでも一緒にいった といい、球磨へも 橘薩摩氏も行っており、大田亮氏は源平籐橘をいうとき この氏を正系とする という。
郡部の一角に 橘薩摩氏が相良氏を支配していた とある。
後 相良氏 橘薩摩氏とも 8男を残して 橘薩摩氏は長崎へ 渋江氏。
相良氏は八代へ行った。
豊前宇都宮流佐田氏の「佐田文書」に、橘薩摩氏が肥後の守護職だったことが書いてある。
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