[1] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月27日 08時25分00秒 ) | パスワード |
さて、皆様。
私は、昨晩より、今までの調査を振り返りながら、球磨の永吉庄について一つ気が付いた事があります。
それは、肥後の守護に関係があると言う事です。
前スレッドで日本の苗字七千傑様より
肥後の守護は頻繁に代わっております。「旧国名別苗字大観」肥後を参照のこと。
とご教示を頂いていて拝見しましたが、調査を進めて行く事により、今まで知らなかった時代背景や登場する方々を理解する事で、あらためてご教示頂いた本当の意味が解ってきたように感じます。
(すいません(-_-;)すぐにピン!とこない私でした<m(__)m>)
そこで、今朝はもう一度日本の苗字七千傑様のサイト内にある旧国名別苗字大観「肥後」を確認させて頂きました。
(鎌倉守護)名越→安達→北条→金沢→規矩
(室町守護)大友→少弐→一色→大友→菊池→阿蘇→今川→阿蘇→菊池
まず、鎌倉時代の肥後の守護ですが、最初が名越氏とあります。
(最初に私がここでピン!ときていなかったのが問題でした(*_*))
名越氏についてウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F_ (%E5%90%8D%E8%B6%8A%E6%B5%81)
名越流北条氏(なごえりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一族。鎌倉幕府2代執権・北条義時の次男・北条朝時を祖とする。名越の地にあった祖父・北条時政の邸を継承した事により名越を称し、母方の比企氏の地盤を継いで代々北陸や九州の国々の守護を務めた。
創設当初の名越流の家格・勢力は得宗家に次ぐものであったが、名越流からは執権・連署・探題は一名も出しておらず、その得宗家に対抗しうる家格の高さが得宗側から警戒されていたと見られる。名越流はその嫡流意識の強さから、度々得宗家と対立し、数度の討伐を受けている。
祖の朝時は義時の正室所生の長男であったが、父の勘気を被って義絶された。北条氏本家は側室所生であった異母兄・北条泰時が継いで嫡流の得宗家を起こし、朝時は庶家の名越家を起こす。
朝時は執権である兄・泰時の下で評定衆を務める事を拒否して反抗の態度を示し、泰時の死去の際にも後継を巡って何らかの不穏な動きがあったと見られる。朝時の死後も嫡男・光時が泰時の孫で5代執権となった時頼に対抗し、将軍・九条頼経を擁して宮騒動を起こすが、敗北して光時は出家、強硬派であった弟の時幸は自害している。
その後、光時の弟である時章、教時、時基は評定衆を務めるが、文永3年(1266年)、得宗・北条時宗らによる将軍・宗尊親王追放にあたり、これに反対する教時は時宗の制止を無視して軍兵を率いて示威行動に出ている。その後、文永9年(1272年)に二月騒動が起こり、時宗の命により時章・教時が謀反の咎で討伐され、この事件を契機に名越家の反抗は終わった。
では、名越氏の祖である北条朝時についてウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E6%99%82
北条 朝時(ほうじょう ともとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の次男。名越流北条氏の祖。母は正室の姫の前。祖父・北条時政の屋敷であった名越邸を継承した事により、名越次郎朝時とも呼ばれる。
★平河宮内左衛門入道観覚こと北条重時は北条朝時の兄弟ですね。
そして、平河又三郎師里は北条重時の甥です。(どう関係しているのか未だ解りませんが、ただ、もう、今は、確実に関係していると理解しました。)
そして、ウィキの記述より北条朝時の妻 大友能直の娘、北条時房の娘とあり・・・
大友能直についてウィキよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%83%BD%E7%9B%B4
大友 能直(おおとも よしなお)は、鎌倉時代初期の武将・御家人。近藤氏の出で、大友氏の初代当主。父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能。
★あ〜なるほど(゜-゜)ここで中原親能に繋がったわけですね。
もう、何も驚きません(ー_ー)!!今まで、色々グルグル回っていた理由が解ったのですから。私は、どのような方が登場しようとも、もう受け止めました。
中原氏は球磨の三池氏の祖でした。(平川の親族一同が炭坑節を歌う♪理由もわかりました(゜-゜))
続けます<m(__)m>
相模国愛甲郡古庄郷司であった近藤(古庄)能成の子として生まれ、当初は古庄能直と名のり、次いで父と同じく近藤能直と名乗った。その後、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗る。また父能成が早世したためか、母の姉婿の中原親能の猶子となり中原能直とも名乗った。
父能成の弟(叔父)が武藤頼平とされ、頼平の猶子が少弐氏の祖となった武藤資頼である。また頼朝旗揚げ以来の御家人であった近藤国平は又従兄弟とされるほか、弟仲教の子孫が後の水谷氏に繋がるとされている
★なるほど(゜-゜)ここで、武藤氏に繋がるわけですね。(何度も言いますがもう驚きません(ー_ー)!!。先祖に関係する方々を私は受け止めました(゜-゜))
★武藤資頼の子孫が少弐頼尚。平河左近允頼尚とありました。
では、一度戻って名越氏について再度確認します。
長くなりすぎたので、次のコメントにて(^・^)
[2] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月27日 09時08分53秒 ) | パスワード |
では続けます<m(__)m>
肥後の守護であった名越氏について、ウィキの記述より
肥後の守護 1253年(建長5年− 1272年(文永9年)− 北条時章
とありました。そこで北条時章。この方を調べます<m(__)m>
ウィキより北条時章
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E7%AB%A0
北条 時章(ほうじょう ときあき、ときあきら)は鎌倉時代前期の北条氏一門。鎌倉幕府の評定衆。名越 時章(なごえ ときあき、ときあきら)とも。名越流北条氏の初代北条朝時の子。名越流北条氏2代当主。
★北条朝時の子供ですね。
寛元3年(1245年)には兄の北条光時が5代執権北条時頼の廃立を企てて失敗した宮騒動により失脚しており、時章は赦免されて宝治元年(1247年)より評定衆となる。時章は穏健派で、得宗家との協調を望んでいたが、兄光時や弟教時が急進的な反得宗であったため、家中の政争に巻き込まれてゆく。
8代執権北条時宗の頃、文永9年(1272年)に弟・教時が謀反を起こし、時章のもとにも追討の兵が迫り、その兵によって殺害される(二月騒動)。享年58。その後、時章は無実であったことが判明し、時章を殺害した5人は斬首に処せられ、時章の子の公時は評定衆、孫の時家は評定衆・鎮西探題に就任するなど、時章の子孫は幕府の要職に取り立てられている。
蒙古襲来を前に幕府首脳陣は幕府の一元化を企図していたこと、時章が守護職を務めていた大隅国などが二月騒動後収公されていることから、幕府としては初めから時章を始末する腹積もりであった可能性もある[1]。
★なっ!なにお〜〜〜<(`^´)> ひどい!(>_<)
時章は無実であったことが判明。なおさらひどい(*_*)
しかし・・時章の子の公時は評定衆、孫の時家は評定衆・鎮西探題に就任するなど、時章の子孫は幕府の要職に取り立てられている。
と言う事で北条時章の妻をみると・・・二階堂行有の娘
ここで、二階堂氏が登場しました。
ではウィキより二階堂行有
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E6%9C%89
二階堂 行有(にかいどう ゆきあり、承久2年(1220年) - 正応5年6月5日(1292年6月27日))は、鎌倉時代の幕府実務官僚。二階堂行義の次男。出羽大夫判官、尾張守、備中守と称し、1270年に出家して道証と号した。子に二階堂行藤、娘(北条時章妻)がいる。
★二階堂行藤。ここで繋がっていたのですね(゜-゜)(何度も言いますが驚き・・えっ?しつこいですか?(^v^))
二階堂行藤・・禅門道我ですね。
平河の越訴において、平河弥五郎入道々照(道照)こと二階堂和泉守行方と禅門道我こと二階堂出羽守行藤は、平河師高を先祖と呼び、そして永吉庄そして西村を「先祖代々開発之地」と呼んでいました。
なるほど。こういう事だったのですね。
本当に冷静に受け止める事にしたのです。
まず、今までは、調査の中で登場する人物に対して「球磨は鎌倉や京都からは遠いから、まさかこの方の名が平河の今に残る文書に記述されている訳がない(ー_ー)!!マタマタ先祖さんたら(ー_ー)!!」と思っていたのを辞めた所、冷静に分析する事が出来るようになったのです。
ちゃんとした当時の政治背景を理解する事によって、全体が見えてきました。
これも、皆様のご教示のお陰です。
本当にありがとうございます。
まだまだ、繋がりを解明していない方々が沢山いますので、調査を頑張って継続いたします(^^ゞ
では(^・^)
[3] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月27日 21時13分42秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
コメント2でお話しました、肥後の守護 北条時章
妻は二階堂行有の娘。
そして二階堂行有の子供、すなわち、北条時章の妻の兄弟が、二階堂行藤(禅門道我)
そして、二階堂行有の父が二階堂行義
二階堂行義 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E7%BE%A9
二階堂 行義(にかいどう ゆきよし、建仁3年(1203年) - 文永5年閏1月25日(1268年3月10日))は鎌倉時代中期の幕府実務官僚。二階堂行村の子で評定衆。兄弟に二階堂基行、二階堂行久、二階堂行方、二階堂惟行がいる。通称は隠岐三郎左衛門尉、隠岐左衛門尉、出羽前司、隠岐出羽前司。官職は左衛門尉、出羽守。出家後の法名は「道空」。享年66と言われている。『吾妻鏡』によると出羽前司とも呼ばれていた。
『吾妻鏡』には嘉禄元年(1225年)12月20日から文永3年(1266年)3月6日まで記載がある。
二階堂行義の兄弟が二階堂行方。
そうです。平河弥五郎入道々照(道照)こと二階堂和泉守行方です。
と言う事で、平河弥五郎入道々照(道照)こと二階堂和泉守行方は禅門道我こと二階堂出羽守行藤の伯父だったのですね。
二階堂行方 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E6%96%B9
二階堂 行方(にかいどう ゆきかた、建永元年(1206年) - 文永4年6月8日(1267年7月1日))は鎌倉時代中期の幕府実務官僚。二階堂行政の孫で、評定衆・二階堂行村の子。6代将軍宗尊親王の御所中雑事奉行(御所奉行とも)。
1249年(建長元年)の引付設置とともに引付衆、1252年(建長4年)宗尊親王を迎えるために京へ上る。1253年(建長5年)、4番引付頭人(とうにん)、このとき頭人となったのは、北条政村、北条朝直、北条時章と得宗家周辺の北条一門だけであり、実務官僚としての二階堂行方の地位の高さが窺える。
1259年(正元元年)9月に評定衆、1263年(弘長3年)7月5日に御所中雑事奉行を中原師連に交替。同年10月8日に出家。『吾妻鏡』の当該時期には敬称としての「和泉前司」の他に「行方」と実名表記されている記事が多数見られること、同様に表記されている者に目上の者が居ないことなどから、この時期の『吾妻鏡』は、二階堂行方の筆録をベースにしていると見られている。
★この時期の『吾妻鏡』は、二階堂行方の筆録をベースにしていると見られている。・・・・そうか・・・。
ここまでは調査出来たのですが、残った問題は・・・
この方々と平河三郎入道観蓮(俗名は良貞)の関係ですね。
記録では平河良貞は、平河師高の曾孫と言う事でした。
ここがクリアできれば・・・
がんばります(^・^)
[4] | 白石さんからのコメント(2014年03月27日 21時52分32秒 ) | パスワード |
こんばんは
平川つながりで きれいに 昔が出ましたね。
前にほかの事で調べた 私の母方・佐田 父方・高岡からでた話の抜粋ですが、
伊賀餅と伊賀忍者の関係3と過去にしらべたことから抜粋
[14]もみじさんからのコメント(2013年05月29日 04時06分47秒 ) http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=49
古代は 三重県には美しい女性が多くいた。
古代の三重から多くの「采女」 - 三重の文化 より
采女となるには、『日本書紀』や『養老律令』によりますと、「郡の少領以上の姉妹及び子女の形容端正(かほきらきら)しき者を貢(たてまつ)れ」とあ り、『古事記』や『日本書紀』に伊勢の国の采女の話がしばしば出てくるところを見ますと、古代の三重県は美女の多い土地柄であったと言えるかもしれません。。
又
息子さんの写真のイメージから 私が本当に似ていると思っているのは 藤堂氏男子の顔だと(一般の人)以前コメントしたと思いますが、
http://www.ict.ne.jp/~sueda/oyamada.htm
母の実父は山本
伊賀大山田を紹介します で 山本さんという苗字を見て、クリックしたけど、残念 出ませんでした。
しかし
大山田とは また 私の父方の集落は 萩というのだけど、山田と言う地域に嫁入った親戚の女子がおり、山田の葉木と言うところは、良峯朝臣の系の平河氏の霊社があったと伝えるところ。
父の生家の高岡から平川へ婿養子。
良峯朝臣の系は 丹羽氏(二本松)になり、
藤堂高吉
丹羽長秀の三男で、羽柴秀長、次いで藤堂高虎の養子となった。
羽柴は木下藤吉郎(豊臣秀吉)が関与する。
うちの木下は川向にあり、そこは
平川に嫁にきた尾方がある集落で 木下は父の義兄弟の家。
今は深田に在住。
祖母の墓が 木下に入っていて、子供の頃父に連れられていった記憶を頼りに、父が倒れてから墓参りに行ったと父に言ったら、とても喜んで いました。
藤堂氏については
以前 他のスレッドでいただいたコメント
Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!-服部 藤堂高虎
[2]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年10月01日 10時17分52秒 )
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm
藤堂氏は江州中原氏(舎人親王裔、旧説は崇峻天皇裔)。
治景の代に藤原に改姓、景盛の代から藤堂を称する。
詳細系図は、姓氏類別大観(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm )を参照のこと
江州中原氏 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213c.htm
三井氏/藤堂氏 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004c.htm
系の中で、毛利家になる森家があり、
母方の佐田のひいおばあさんは 毛利様から院号を頂いたとおばが言っていた。
しっかり 枝分かれしている系をみれば あらら 三井家がある。
そして 中原つながりで 三池氏も。
佐田は又 中原とも関与する。(豊前宇都宮流佐田があり、古は中原を称していた。)
そして 高岡とともに 古代へ。
中原も高岡もともに 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の子孫
[5] | 白石さんからのコメント(2014年03月27日 23時18分08秒 ) | パスワード |
藤原魚名流 藤原山陰・伊達氏・大友氏は同祖。
鎌倉時代 人吉の後白河法皇の領所「蓮華王院陵」の預かり所は「毛利広元」「大友氏」で相良氏は地頭だった。
相良氏と仲が良いのが「橘薩摩氏」で、「佐田文書」には 橘薩摩氏が 肥後の守護職であったことが書いてある。
藤原道隆・道長・道兼三兄弟は 共に摂政関白。
道長の系図を「北条藤原系図」といい、彼らを「水無瀬三兄弟」という。「水無瀬」とはこちら高槻の方の地名です。
海部郡臼杵の旧家にあった「上記」。
「上記」には基本的に二種類の異本があり、ひとつを「宗像本」。
もうひとつを「大友本」という。
宗像本は豊後の宗像良蔵という人物の家伝として発見されたものである。(宗像氏=山口祖先木原をとおり大蔵をとおり事代主・大物主を祖神とする)
大友氏は 「藤原鎌足」子孫。
左大臣 魚名 東北に飛ぶ鳥落とす勢いだった 秀郷をとおり、孫の常遠が「安東氏」を 名乗ります。安東氏も大友氏と関与しています。前九年の役後、阿部貞任の子・高星が安東(あむどう・あんどう)を称す。「阿部伝記」長脛彦兄安日子の末。案東太郎頼良が後に頼時と改める。
阿部一族は、第8代・孝元天皇の皇子大彦命の子孫と伝えられる。
結果を先に書きますと、「前九年の役」に敗れた阿部貞任・宗任兄弟のうち、貞任の子が陸奥国津軽郡藤崎に逃れ、安東・藤崎・安藤を称した。その安東氏の後裔が戦国大名秋田氏で、徳川に仕えて岩城三春藩主となった。また、讃岐の安部氏は、伊予に流された安倍宗任の直系だという。
安東氏は後「秋田氏」を名乗る。「東日流外三郡誌」の「秋田氏」。
宗任は伊予・筑前に連れて行かれ、筑前の大島(宗像神社の中津宮のある大島)に宗任の墓がある。安昌院。昭和63年5月5日阿部宗任850年大遠忌 海音高湖大居士
筑前国続風土記宗任
宗任の三人の子供
長子・・・もしくはこの姉妹・松浦党の先祖(渡辺久と結婚)
薩摩
三男・・・筑前の大島
筑紫軍記
渡辺綱→→→→子供・久(阿部宗任の娘と結婚)松浦党の先祖
公表されている明治天皇ご生母は
松浦水軍の系を引く平戸藩主・松浦氏の女子と中山氏の男子の間の子が明治天皇ご生母。
大友→菊池へ養子
阿蘇→菊池へ養子
菊池→相良氏家老・・人吉 大村横穴古墳群のあたり 「菊池系図」が ある。
菊池系図が載せる 海士(天氏)。 「海士」は「海部」
今 四浦と入力すると、大分県津久見市四浦半島が出ます。
天気のよい日には、四国の佐田岬がみえるそうです。
[6] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月28日 02時17分15秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
遠江がキーワードで相良長頼、佐原時連、佐原頼忠、平川義高の4人がつながるのでは?
同時代の佐原(三浦)時連の法名は観蓮、通称遠江六郎、三浦の乱の際に三浦一族でありながら北条時頼側に付く。
相良長頼の子に佐原頼忠、母方が遠江佐原氏と思われる。
平川氏も遠江平川郷からの下向だから旧姓佐原の可能性あり。
肥後守護だった名越家も名越時通(遠江二郎)、名越時長(遠江三郎)、名越時幸(遠江四郎)、名越時兼(遠江五郎)、名越教時(遠江六郎)、名越時基(遠江七郎)。
平成の現代では、佐原姓は静岡県浜松市/城西市から愛知県豊橋市にかけて多い。
従って遠江をスルーしていては、真実に近づけないでしょう。
後は裏付けさえ取る調査が必要。
[7] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月28日 07時28分01秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示本当にありがとうございます。
白石様、江州中原氏の系図拝見しました。藤堂氏への繋がりも確認したのですが、ここに「井口氏」が見えるのですね。
祖母の実家平川家の前を流れているのが「井口川」。
私の実家も、戦後、宮原の土地に祖父があらためて家を建てたのですが、家の前を井口川が流れています。
そして、不思議な事を思い出しました。
祖母は「井口川」の事を「うちんかたの川」とか「うちの川」と呼んでいたのです。??
だから、私も、自然と井口川の事を「うちの川」と呼んでいました。
今思うと、「うち」とは「家」の事?と。
(でも、井口川は家の川ではなく国の河川です(ー_ー)!!)
もしかしたら、婚姻関係などにより井口氏とは何か繋がりがあるのかもしれませんね??(?_?)
そして、もっと不思議なのはどんなに大雨が降ろうとも、祖母は「うちん川は絶対に溢れん。昔からそう!溢れんごとなっとると!!」と言っていました。
何を根拠にそう言っていたのか解りませんが、確かに、ここ数年の豪雨の際も、家から、5〜6キロ離れた所(球磨川との合流地点付近)では川は溢れたと聞きましたが、家の前では濁流となっていても、溢れる事はなかったようです。
先祖がおまじないでもかけたのかな?((ー_ー)!!)しかし、井口川は家の前では溢れないと断言していたのは祖母だけではなく、祖母の妹、すなわち、多良木の平川家に嫁いだ叔母(多良木のばあちゃん)も同じ事を言っていたのですよね?もしかしたら、旧久米郷に平川が来た時に大規模な河川工事でもしたのかな?と。でも、当時・・うん?何時代だろう?そんな技術はあったのかな?
何故かと言うと、実は、子供の頃に探検隊と称して、川に降りて上流に登って行った事があったのですが、丁度、平川家の下あたり川が急に広くなってすこしクニャっと曲がっていたのです。そして、平川の家の下に洞のような所があって、そこに、何か祀られていました。
それを、祖母に言ったら物凄い勢いで叱られた事を覚えています。
それからは、そこには「絶対に行かない」と約束までさせられました。(?_?)
(城跡に行った時も叱られました。(*_*)好奇心旺盛な子供にとっては、ワクワクする場所だったのですが。でも、父に聞いたら、城跡の五輪の塔がある所には祖母は頻繁にいってお参りしていたそうです。)
今、思い出したのですが、川は当時でも、すでに河川工事が行われていて、両岸コンクリートで固められていたのですが、洞窟のようになっている場所だけは何もされておらず、木が覆い茂り、何だか怖かった事をだけはしっかり記憶に残っています。
と・・めちゃくちゃ脱線しました。すいません<m(__)m>
宗像氏。鎌倉遺文に球磨に関する「宗方氏」の記述を見ました。
それ以降は調べていないので、ご教示ありがとうございます(^・^)
今後の調査で、白石様のご先祖様に関する情報も挙がって来る事が出来たら嬉しいです(^・^)
日本の苗字七千傑様。
遠江がキーワードなのですね。
同時に佐原氏の調査を行います。そして、佐原(三浦)時連が付いた北条時頼。
こちらの関係も調べたいと思います。
目標が出来ました。ありがとうございます(^・^)
所で、私も、考え始めていました。
「事実」は何だろうと。
では、がんばります(^・^)
[8] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月28日 12時13分09秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。(^・^)
と、冷静を装いながら・・・・
あの・・・・\(゜ロ\)(/ロ゜)/
平河に通じる確実なる姓が出ました\(゜ロ\)(/ロ゜)/
平河義高の家臣の名前が解ったのです\(゜ロ\)(/ロ゜)/
人吉新聞 (1月22日掲載 )
特集− 連載
「人吉球磨の魅力再発見」998
柏木覚左衛門の供養碑(あさぎり町免田西)
鎌倉時代の伝説残る
県指定文化財の才園古墳近くの西方向に位置する。あさぎり町教育委員会によると、錦町木上の岩城城主平川右衛門義高の家臣で地頭だった柏木覚左衛門の供養碑とされ、寛文元年(1661)の建立。
鎌倉時代に起きたとされる相良軍と平川軍による血敷原の戦いで敗れた柏木氏は逃げる途中、小川でイモを洗っていた女性に自分が逃げた方向を追っ手に“言わないよう”依頼。女性は言葉に出さず首を振って方向を教え、相良軍の追っ手に捕らえられたという伝説がある。
町文化財担当職員は「鎌倉時代の戦いはあまり記録がなく、伝説の範囲。相良氏と平川氏の戦いの様子を伝える意味でも貴重な供養塔といえる」と話す。
★ 柏木覚左衛門。 この方が平川義高の家臣で地頭だった。
(@_@;)と言う事は・・・地頭は 平川義高では無かったと言う事になりますよ。えええええええええええええええええええええぅ!!
でも、何処の地頭とは書いてありません(@_@;)
でも、この時はお正月(例のお正月に起きた人吉城でのあの事件と一緒です(*_*))で義高公は帰って来られていてそれを相良氏が狙ったと祖母から聞いていますよ!。
うううん??記憶がよみがえってきました・・・
ありゃ?何処から帰ってこられていたのかな?そう言えば普段はいらっしゃらなかったような事を言っていたような・・??忘れていました(*_*)
でも、柏木氏です。
柏木氏を調べます(゜-゜)
柏木氏の本拠地に平川は関係しているはずです(゜-゜)
[9] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月28日 12時20分30秒 ) | パスワード |
追記
平川右衛門義高となっていますが、系図にも二通りあり
平川右衛門義高ともうひとつは良峯左近少尉義孝です。
右衛門と左近少尉は違いますよね??
どっちでしょう?
[10] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月28日 16時58分20秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
柏木氏について調べました。
日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観 清原氏 → 豊後清原氏 → 豊後長野氏 に「柏木氏」が見えます。
その他
柏木氏屋敷跡と言うサイトで
http://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/surugakasiwakisi.htm
所在 静岡県裾野市茶畑
歴史 柏木屋敷の主、柏木氏は奈良時代にこの地に土着し、代々この屋敷跡北に残る浅間神社の神職を務めていたという。
★静岡県裾野市ですからこちらは駿河でしょうか?でも、静岡県です。
続けて
柏木家文書目録 http://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/45-4.pdf
長土呂村とあるので長野県佐久市ですね。
関連して 長土呂館
陣城とも。
長土呂(ながとろ)館(長野県佐久市大字長土呂)は、岩村田台地上の「大字長土呂字城」に存在した館だと思われる。
大井氏庶子の館址と伝えられるが、その歴史は不明である。
一説には、大井光泰が在住したとも(『四鄰譚藪』)、鎌倉幕府の有力な御家人・薩摩氏が築いたものともされる(『定本 佐久の城』)。
★大井氏が出てきました。「大井光泰」との記述も。
大井氏が登場したので、もう少し調べます<m(__)m>
小笠原と武田と下伊那
http://scoophands.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-101d.html
治承4年(1180)木曽義仲が善光寺平の栗田氏と共に筑摩から善光寺をおさえる。源頼朝は北条時政を甲斐に派遣、武田は甲斐源氏を率いて諏訪と伊那の武士団を頼朝の御家人に編成
義仲死後、北信は頼朝の乳母の一族にあたる比企能員(よしかず)(娘が頼家の妻)を信濃目代として統括
南信は、伊那谷最大の荘園である尊勝寺領伊賀良荘に北条時政が介入
文治元年(1185)甲斐源氏加々美遠光(小笠原氏の遠祖)を信濃守にする
文治3年(1187)佐久伴野荘地頭に小笠原長清、大井荘地頭に大井朝光・光長、塩田荘地頭に比企氏に関係する惟宗(これむね)忠久(島津家の祖)
建仁3年(1203)比企氏の乱(頼家と比企氏と北条氏の戦い)で小笠原長経は所領を没収され、信濃守護職が北条時政に代わる
承久の乱(1221)で小笠原長経は阿波守護職
弘安年間(1278〜1288)北条氏一門の江馬光時が地頭代として名越光時に仕えた四条金吾頼基(1229〜1296)を伊賀良荘殿岡に派遣
嘉暦4年(1329)には江馬遠江前司、江馬越前前司が見える
★柏木氏を調べていたのに結局、こちらに繋がってしまいました。
でも、名(姓)は不思議ですね。(゜-゜)。必ず、繋がっていくものなのだな〜と。驚きました。
そして、一つ気になる事がありまして・・
こちらにも「惟宗氏」が記述されていましたが、以前から、平河師高を調べていて、頻繁に目にした情報がありまして、実はスルーしていたのですが・・
球磨の仏師源覚が青蓮寺の阿弥陀二尊彫った文字についてなのですが
「右為惟宗聿・尊霊往生極楽也」とあり、惟宗聿高の極楽往生を願って仏師源覚が彫った文字であると。
問題は「惟宗聿高」なのです。
様々な書籍で、惟宗聿高については平川師高とする説のほか諸説があり・・とか、相良氏入国以前から上球磨に勢力を振るつていた良峯(平川)師高とする説もあり・・とか記述されていて、気にはなっていたのですが・・・
でも、「諸説」なので、今は、明らかな情報だけを頼りにしていきたいと思っています。(^・^)
[11] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月28日 19時21分19秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
あの・・
系図にあった平川右衛門義高と良峯左近少尉義孝。
系図の中の二人は別人だと思います。
良峯依高の父、もしくは良峯師高の父が平川右衛門義高。
良峯左近少尉義孝はきっともっと前の方です。
というか良峯左近少尉義孝は実在していました。
やっと見つけました(^・^)
スレッド平川家について10−1コメント50でご紹介したように「熊風土記」と「求麻外史」では系図が異なっていて
「熊風土記」では
平城天皇(桓武天皇)→ 良峯大納言安世 → 良峯蔵人頭宗貞 → 良峯左近少尉義孝(両九郎) → 良峯貞時(三郎) → 良峯安則(四郎)
「求麻外史」では
平城天皇 _ 良峯安世 _ 宗貞 _ 安則 _ 師康 _ 師澄 _ 良峯左近少尉義孝 _ 依高・貞時 _(依高) _ 高実・師高・東高(藤高)・盛高
となります。
私は「熊風土記」がより真実に近いのではと考えました。
では実在した良峯左近少尉義孝(両九郎)とはどなたなのか?
ご説明します。
秘密は「今昔物語」に隠されていました。
googleブックより今昔物語集 - 第 36 巻 - 53 ページ(文字化けしていてすいません<m(__)m>)
弟の義孝も同日のタにこの世を去った^ 8 て左近少将。正五位下。天延二年九月十六日の明親王の女患子女王。義孝は同腹の弟。蔵人頭を學| ~ ? —天延二年(九七 8 〕。藤原伊尹の子。母は代平,天慶の乱として知られる。 178 . ^筹に攻められ敗死した(将門 ...
続けて
Shinpen Nihon koten bungaku zenshū - 47 ページ より
良峯安世のこと。桓武天皇皇子。遍照の父。延暦二十一年、良岑の姓を賜る。『公卿補任』に「才を以て武官を兼ね、能く書,音楽を ... 経て左近少将。正五位下。天延二年九月十六日の明親王の女恵子女王。義孝は同腹の弟。蔵人頭を挙賢? I 天延二年(九 5:1 。
「今昔物語」には藤原伊尹の子とあります。
ウィキより藤原伊尹
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BC%8A%E5%B0%B9
父母
父:藤原師輔、母:藤原盛子(藤原経邦の娘)
兄弟:伊尹、兼通、安子、兼家、遠量、忠君、遠度、遠基、高光、尋禅、愛宮、公季
妻:惠子女王(代明親王の娘) 井殿(源信明の娘)
子:親賢、惟賢、懐子、挙賢、義孝、光昭、義懐、周挙
そして藤原伊尹の子 義孝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%BE%A9%E5%AD%9D
藤原 義孝(ふじわら の よしたか)は、平安時代中期の公家・歌人。摂政・太政大臣・藤原伊尹の三男(または四男)。中古三十六歌仙の一人。子に三蹟の一人藤原行成がいる。
この方が、良峯左近少尉義孝です。
ここから、どう繋がっていくのか全く今のところ意味が解りませんが・・
調査は致します<m(__)m>
ただ、現代に近い?平川右衛門義高と遠江国に関する調査も、もちろん同時進行にて調査いたします。(^・^)
では(^・^)
[12] | 笹井さんからのコメント(2014年03月28日 20時19分10秒 ) | パスワード |
こんばんは
惟宗聿高で検索をかけたら 以下の表題が出ました。
検非違使補任 2 - Google ブック検索結果
books.google.co.jp/books?isbn=4797107227
宮崎康充 - 1999 - Criminal justice, Administration of
... 十一一月十六日転左尉左衛門少志惟宗尚高左衛門少志中原有景左衛門少志三宅成尚修理東大寺大仏主典左衛門少志中原 ... 重基右衛門少尉正六位上中原章継右衛門少尉正六位上中原職隆右衛門少尉正六位上★中原聿高右衛門少尉正六位上中原聿 ...
外記補任 - Google ブック検索結果
books.google.co.jp/books?isbn=4797107235
井上幸治 - 2004 - Japan
兵」〉惟宗季高厶正月十一日転。 X 十一月九日解 外記補任(仁安二年〜仁安三年)従五位下★中原師高 X 三月十五日叙《「兵」)月十 I 日遷周防介《「槐」〉従五位下★中原師澄正月五日叙《「兵」六日条〉、 X 同少外記正五位下中原師尚大炊頭。主計権助.越前権介 ..
惟宗は 島津で、
島津は佐多で、
豊前宇都宮流佐田は 古中原で、
清原は中原真人からなった。
なにか つながりがあるらしく思えますが・・・
[13] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月29日 00時35分49秒 ) | パスワード |
皆様、かなり調査が進みました(^・^)
笹井様、ご教示ありがとうございます。
やはり、中原氏・惟宗氏と平河師高は繋がりがでるのでしょうか。
ただ、後世においては、北条朝時の妻が大友能直の娘であり中原親能に繋がる事が解りましたので、師高の時点で何らかの関係があってもおかしくないとは思います。
所で、系図にあった良峯左近少尉義孝が藤原義孝、この方であった事は御説明致しました。
次はこの流れから、どのようにして菊池氏に繋がるのかです。
平川家について10−1コメント50で書かせて頂いた内容をもう一度転記します。(^・^)
「山江村誌」より
弘安六年七月三日の関東下知状によると「如良貞等申者、件永吉地頭併名主職者、八代相伝開発之地也」と見え、良貞より数えて八代前、師高より四代前の「相伝開発之地」であった事がわかる。
そして、八代前が良峯四郎安則であるかわからないが、安則が頼った菊池経頼は則隆の孫にあたる。
藤原則隆と子息蔵隆は、肥後に在住していて大宰府権師藤原家隆の第一の郎等であった。この事から良峯安則は大宰府・肥後との関係で、球磨郡と関わりをもってくるのだろうか。
この点について工藤敬一氏は「この文書は各地の反国衙行動を報告し、然るべき処置を求めたものであるから、この守高(師高)は国衙系に属する勢力であったかと思われる。(守高=師高が草部氏に襲われた件。後日転記します<m(__)m>)良峯氏が中央貴族の流れで、まず、肥後山本郡に下向したものとすれば、収納使などの国使として球磨郡に下向土着し、球磨郡衙の中にその地位を確立していった可能性がかんがえられよう」と推測されている。
ではここまでの調査を御報告致します。
まず、藤原義孝の父 藤原伊尹について、再度ウィキの記述を見て下さい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BC%8A%E5%B0%B9
系譜を見て下さい。
父:藤原師輔
母:藤原盛子 - 藤原経邦の娘
妻:惠子女王 - 代明親王の娘 男子:藤原親賢
男子:藤原惟賢
次男:藤原挙賢(953-974)
三男:藤原義孝(954-974) - 子孫は世尊寺家
五男:藤原義懐(957-1008)
長女:藤原懐子(945-975) - 冷泉天皇女御・贈皇太后、花山天皇母
九女:為尊親王室
妻:井殿 - 源信明の娘 四男:藤原光昭(?-982)
女子:大納言君 - 源扶義室
生母不明 男子:藤原周挙
男子:行源 - 園城寺阿闍梨
女子:藤原隆家室
次女:藤原為光室
女子:藤原為光妾
四女:藤原忠君室、後源致方室
かなり長くなってしまいましたが、沢山の子息子女がいますね。
その中に
生母不明 女子:藤原隆家室
すなわち藤原義孝の姉妹は藤原隆家の室となっていたと言う事です。
藤原隆家 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%AE%B6
藤原 隆家(ふじわら の たかいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男)
表題「隆家の子孫」
隆家の娘は長女が三条天皇の皇子式部卿敦儀親王室[6]、もう一人が参議藤原兼経室となっている。
隆家の長男良頼は正三位権中納言に進み、その娘は参議源基平室となり後三条天皇の寵愛をうけた源基子(実仁親王・輔仁親王の生母)を生んだ。良頼の4代後の子孫に、平清盛の継母として源頼朝の助命を嘆願したという池禅尼がいる。
★ここで、平頼盛に繋がるのですね。
続けます。
隆家の次男経輔(1006年-1081年)は、正二位権大納言となって水無瀬大納言と称せられた。経輔の5世孫にあたる従三位忠隆の息女は近衞家の祖である基実の室となって基通を生み、その兄弟信頼は後白河上皇の寵臣で平治の乱の首謀者として有名。同じく経輔の5世孫にあたる修理大夫信隆の息女七条院殖子は後鳥羽院生母であり、その弟坊門信清は内大臣の位にまで昇った。源義経の母の常盤御前の再婚相手で奥州藤原氏とも関係があった一条長成も経輔の5世孫である。
隆家流は女系を伝って皇室・摂家にその血を残し[7]、子孫は水無瀬流として後世、水無瀬・七条・町尻・桜井・山井の五堂上家を出して明治維新に至る。
なお、南北朝時代に懐良親王を擁した肥後国の豪族菊池氏は隆家の後裔を自称し、祖先にあたる藤原政則を隆家の子息としていた。
ここで、菊池氏に繋がると言う事ですね。
そして繰り返しますが良峯安則が頼った菊池経頼は菊池則隆の孫にあたる。
と言う訳です。
藤原義孝。この方には子供が二人いらっしゃいました。
藤原行成、娘(三松俊興室)
藤原行成には子息子女が沢山いらっしゃるので、検証は後日としまして、娘(三松俊興室)。こちらを先に確認します。
日本の苗字七千傑様の【百済氏/和氏】姓氏類別大観を拝見いたしました。
《河内及び京師百済氏》に進んでみると「百済永継」。
ぐるっと回って戻ってしまうのですね。
でも、実際はどの方が球磨の平河に繋がっていくのか未だ、解りませんので、憶測はやめておきます。
明日は平河義高からどのように佐原氏へと繋がるのかを検証致します。
今日、調査した所は、平安時代です。
私の推測では、平安後期〜鎌倉後期にかけての「平河」は今日調査した流れとは異なる流れが中心となっているような気がするのです。
では(^・^)
[14] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月29日 01時25分27秒 ) | パスワード |
皆様へ<m(__)m>(^・^)
今日の調査のコメントを書いている、いつものおっちょこちょいの驚きすぎの私が妙に冷静だな?!と思われた方もいらっしゃったと思います。
本当は、かなり驚いたのですが、でも、やっと今までで一番といって良い疑問が解決できたので、本心は「なるほどな〜」と。
だから、冷静でいれたのかもしれません。
皆様、覚えていらっしゃいますか?
平川家について(続5)コメント41でお話した古文書の事を。
後醍醐天皇紀 嘉歴9年8月。(東大史料)
この文書は未だデジタル化されておらず、全て手書きでした。
増珍公の記述の後に
紹運録ト皇親系ト親王諸子ノ排行を異ニス未だ孰(いずれ)カ是ナルヲ知ラズ
とあり、そして附録とあって、
長氏相良六郎三郎入道の生い立ち及び良峯氏字阿夜の記述があった事を・・
長氏相良六郎三郎入道はこれまた、以前コメントしたかと思いますが、(平川家について8コメント57)平河三郎左衛門尉師頼と筆跡が同じ。
すなわち同一人物の可能性が高いという事です。
何故、後醍醐天皇紀の附録に平河(良峯)に関係する人の話が書かれていたのがず〜っと不思議だったのですが、今日調査した事に関係していたのかな?とやっと理解できました。
この書は歴代の「皇親系ト親王諸子」の記録だったのです。
私は、ただ、謎が解けた事で、少し気持ちがすっきりしました。
驚いていないと言う訳ではありませんが(*_*)・・・
では、明日も調査がんばります(^・^)
[15] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月29日 10時05分39秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>南北朝時代に懐良親王を擁した肥後国の豪族菊池氏は隆家の後裔を自称し、祖先にあたる藤原政則を隆家の子息としていた。
菊池氏の出自については、藤原隆家流、大蔵氏ほか諸説があるが百済公裔説も濃厚だろう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03013b.htm
[16] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月29日 14時21分54秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
菊池氏の出自に百済公裔説があったとは知りませんでした。とても驚きました。
ここに来て、平河に関する情報が、やはり「百済」と関係してきました。
日本の苗字七千傑様より、私がこちらの「平川家について」を立ち上げて最初に頂いたご教示「百済に関係する地縁」に繋がるのですね。
球磨だけではなく肥後全体が、百済及び新羅に関係する土地と言う事であれば、素人考えですいませんが「肥後守」および「肥後の守護」も辿れば其々が「百済」・「新羅」に関係する方々である可能性があるのでは?と思うのですが・・
思えば、平河は最初から「良峯」を本姓としている訳ですから、「百済」には濃い関係である事は確かですし、宮原(橘)も辿れば敏達天皇に繋がり、「達率日羅の父阿利斯登は宣化天皇の代に朝鮮半島に渡海した大伴金村に仕えた九州出身の武人で、日羅は百済王から二位達率と極めて高い官位を与えられた倭系百済官僚であった。敏達天皇の要請により583年日本に帰国し、朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上した。」と言う事であり、以前、日本の苗字七千傑様から頂いたご教示でも
「現代日本で百済は苗字にも地名にも存在して一般的にはクダラと読まれるが、それは日本発祥の地名久多良木に由来するからである。
肥後国葦北郡久多良木(現:熊本県八代郡坂本村久多良木)は、上古の火葦北国の本拠地と推定される。
村内には百済来地蔵堂があり、大伴金村が百済に派遣した達率日羅(葦北国造阿利斯登の子)が送ったとものとされる地蔵菩薩が安置されている。 葦北国造は孝霊天皇の孫三井根子命に始まる皇別の氏族である。
日羅は百済王に重用されたが、敏達天皇は日羅を召喚して任那回復策を上奏させたが百済使に謀殺されている。
その後、百済日羅の妻子らは河内の百済帰化族居住地の石川百済村の移住したとの記録がある。」
と言う事を伺っていますから、敏達天皇と日羅の関係も含めて考えると、橘(宮原)が球磨の地(久米郷)を所領した意味も理解出来ます。
相良氏に関しても源義家(八幡太郎源義家)との婚姻関係があり、なお且つ源義家の兄弟は源義光(新羅三郎義光)。球磨の地縁にて着任された事が理解出来ます。
現代における国家公務員の人事異動とは違う訳ですから、その土地が持つ古くからの意味そして風習、由来、こういう事をないがしろにしては、先祖や先祖に関係する方々には決してたどり着く事は出来ないと、私自身痛感しています。
今、あらためて考えると、ここまでの調査で理解してきた情報は、その時点では、自分自身にいえ先祖にどう関係しているのかは、はっきりと見えていませんでした。ただ、それが、結果につながる通過点であったと思えば、現在、調査して新たに出て来る沢山の情報にしっかりと繋がっています。
私の故郷球磨郡。そして旧久米郷。
この土地に関して太田亮氏が述べられていた事を研究した情報「山部の系譜 谷川健一著『古代学への招待』2010年より 」を以前御紹介致しました。
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage8.htm
抜粋します<m(__)m>
太田亮は『姓氏家系大辞典』の「山部」の項目に次のように述べている。「〔山部〕は太古以来の大民族、否氏族と云ふよりは寧ろ種族と云ふ方、穏当ならんか。されど此の部は早く散乱して、諸豪族私有の民となりて、その名の下に隠れしもの多く、なほ品部として残りし山部も、早く統一を失ひ、加ふるに桓武天皇の御名を避け奉りて、其の称呼中絶せしかば、これを研究する事甚だ難し」
山部の源流は海部と匹敵するほど古いものである。それなのに、山部の名が中世以来消滅した原因の一つは、桓武天皇が山部皇子を名乗っていたことから、その名を侵すことを避けたためである、という。ともあれ海部の地名が今日まで残っているのに対して、山部の地名が海部の地名ほど見当たらないところから、山部が海部に比べて注意を払われていないのは紛れもない。
★桓武天皇は山部皇子と名乗っておられた。
応神天皇の時代に海部と山部は初めてヤマト政権の傘下に組み入れられ、組織されたのであるが、それ以前は独立の集団であった。
山部は太古以来の大民族であり、さきの指摘のごとく、氏族というよりはむしろ種族と呼んだほうが適切な存在であった。
★山部は九州の山地にひろく存在した。『日本書紀』によると、景行帝は巡狩の途次、肥の国の熊県に立ち寄っている。熊県は『和名抄』の肥後国球磨郡である。
そこに熊津彦という兄弟がいて、兄は天皇に従ったが、弟は出頭しなかったので殺したとある。それから海路で葦北の小島にとどまって食事をしたが、そのとき山部阿珂古を召してつめたい水を奉らせた。そこが水嶋であると云う。水島は球磨川の河口にあり、今は八代市に含まれ陸つづきとなっている。
この話に出てくる山部阿弭古はおそらく球磨川上流の球磨地方と関係があった人物と思われる。これは山部が九州の山岳地帯にいたことのたしかな例である。この山人集団について、喜田貞吉は「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」と述べているが、久米部は南九州の、肥人であって、『魂志倭人伝』の狗奴国の地域がこの久米部の本拠であろう。ここから太古の山人集団の存在が浮び上がる。太田亮はこれに同調して、「久米族の山部連は山部の総領的伴造」であると云う。太田亮は南九州の山岳地帯に住んでいた久米部は、山部の総領的な管理者だったとするのである。
★「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」
久米族の変遷のあとを辿ってみると、『和名抄』に肥後国球磨郡久米郷がある。多良木町やあさぎり町須恵に含まれる地域である。球磨郡久米郷は久米部と関係がある。
久米族の本拠については諸説がある。土橋寛の「大和東南の山間部」(『古代歌謡論』)あるいは上田正昭の「大和高市郡より宇陀をへて伊勢地方」(「戦闘歌舞の伝流」)という大和を中心とした近畿説である。これらは久米部の近畿地方における活動の拠点であるにしても、久米族の源流とは云い難い。つまり久米族はそもそも肥人や隼人に近い関係をもつ南九州の異族であった。
★この異族が遠い昔に大陸や半島から移動してきた民族であったと言う事に繋がっていくのでしょうか(゜-゜)
かなり、長くなりましたが、球磨の久米郷に居する2軒の家で、婚姻関係が結ばれて産まれたのが父であり伯父であり、従兄弟であり、私そして弟と言う事で、今後も、しっかりと、調査を進めて行きたいと思っています(^・^)
皆様、今後ともご教示の程よろしくお願い致します。<m(__)m>(^・^)
[17] | 白石さんからのコメント(2014年03月30日 06時35分52秒 ) | パスワード |
おはようございます
朝から雨です。
ところで
余り関係はないようですが おもしろい話をネットで見つけました。
子孫様
食事のあとの「ごちそうさま」に、返事はなんとおっしゃるでしょうか?
私 も 子供の頃にふるさとを離れ 余り 言葉遣いを意識せず 年月を過ごしてきたので、改めて いろいろな 言葉からも ルーツ?がわかるものだと 感心しているところです。
[18] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月30日 08時01分01秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
白石様、コメントありがとうございます。
「ごちそうさま」の返事ですか?・・・・・
子供の頃の事は覚えていませんが(ごちそうさまでしたと言う方だったので(^・^))
今は普通に「お粗末さまでした」と言いますね・・・
(確かに、冷蔵庫あるもの料理が多いので・・かな?)
球磨弁でなんかあったかな?(思い出してみますね(^・^))
曾祖母は父に「ハイご飯をたもれ(^・^)」と言っていたそうです・
「たもれ」って何?と思いますが。「たもれ」は「食べなさい」かな?球磨弁?
おもしろいお話があれば教えて下さい(^・^)
所で、昨日から、ちょっと行き詰っています。
ネットの情報も含めて、気になる事ばかりあって、逆に行き詰った感じで。
少し、頭を冷やした方が良いかもしれないと思っているのですが・・
一昨晩は、近くの小倉小笠原藩菩提寺近辺の公園におにぎりとお茶を持って夜桜を見に行ってきました。
今日は雨なので、残念です。
昼間の満開の桜が見たかったのですが。残念です。
でも風景で四季を感じられるのは幸せな事ですよね(^・^)
では(^・^)
[19] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月30日 08時10分35秒 ) | パスワード |
追記
白石様、思い出しました(^・^)
ごちそうさまの返しではないのですが、祖母は食事を食べる前に私がぼ〜っとしているからかいつも
「はよ、あがりなさい」と言っていました。
それでも、ぼ〜っとしていたら
「はよ!あがらんね!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」と言っていました。
急に思い出したのですが・・
球磨弁で普通に聞いていたから違和感はなかったけど、思えば変な言葉ですよね
どこにあがるのかな?
(^・^) 懐かしくなりました。
気分転換が出来ました。ありがとうございます。
[20] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月30日 08時32分09秒 ) | パスワード |
白石様のお陰で、いろいろ思い出して本当に懐かしくなっています。
食事の時の風景です。
私は、今こそ、食べ過ぎる位に食べるのですが、子供の頃は少食で・・
すぐに、残そうとすると祖母から「ほら、ちゃんとあがってないよ」と言われていました。
好きなものはしっかり食べていたのでそういう時は
「ほ〜う(^・^)今日はちゃんとあがったね(^・^)」と言われていました。
懐かしいけど、やっぱり変ですよね?
どこに「あがる」のかな?
白石様の質問の答えにはなっていませんが、家では祖母は食事に関して
「あがる」と言う言葉を変化させていたような感じですね??
なんでだろう?
では(^・^)
[21] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月30日 10時08分30秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。
少し、頭を休めようと思いまして・・
先週出かけた山口県長門市青海島と日置町千畳敷の写真眺めていましたら、
せひ、皆様にも見て頂きたくなり、ブログにアップしました。
どんよりとした雨の一日ですので、綺麗な海の写真をご覧になって下さい(^・^)
先祖の調査は、平安時代と鎌倉時代が中々結びつかずに・・・
でも、一気に繋がる訳はないので、日本の苗字七千傑様より頂いたご教示にあったように、時代背景そして全体の把握を行いながら、頑張って調査していくつもりです。
今は歴代の遠江守そして遠江の守護を調査しています。(^・^)
でも、何故か遠江守・遠江の守護をした方は肥後守・肥後の守護を歴任している方が多いのですよね?(えっ?!そうですね、未だに良く理解出来ていません)
では 青海島・千畳敷の写真です
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11808408562.html
さあ!調査がんばります(^O^)/
[22] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月30日 10時53分02秒 ) | パスワード |
皆様、マタマタ登場です。
(この人調査が進んでいないな( 一一)という声が・・そのとおりです(*_*))
と言う事でここで脱線話を。
きっと、何処かでマタマタ(ー_ー)!!という声が上がるのは承知の上です
すいません<m(__)m>
あの・・・
今昔物語ですが・・・
このスレッドをお読み頂いている方はお解かりと思うのですが、私、ずっと以前から「今昔物語が気になる」「今昔物語にこだわってしまう」とお伝えしてきたかと思うのですが、今回、「熊風土記」と「求麻外史」に記述されていた平河の先祖「良峯左近少尉義孝」が藤原義孝であったと言う事はやはり「今昔物語」によって解ったわけです。
(今までは調べる方を間違っていた訳ですね(*_*))
信じて頂けないかと思うのですが、やはり、私には記憶に繋がる何かがあるのでは?といつも言う「感」ですね・・これがやはり何かを導いているような気がしてなりません。
先日お話した「絵師を調べなさい」(狩野氏)もそうですね。
三浦一族に関しても、何故か見つけてしまいました。(゜-゜)
こだわっていた「西園寺公経」も三浦一族と繋がっていました。
(これは、まだ、コメントしていませんでした<m(__)m>)
う〜〜〜〜〜ん。(゜-゜)
怖いという気持ちはありません。でも、とても不思議です(゜-゜)
そして、また、感というか感情がウズウズドキドキする方がいらっしゃるのです??
(-_-)/~~~ピシー!ピシー!( 一一)マタマタ(ー_ー)!!と思われても仕方がないのですが・・・
橘公員には強いDNAを感じているのですが、(清原元輔。この方の場合は、血縁なども何もないと思うのですが、何故か「遠いおじいちゃん」のような愛情があるのですが・・)
でも今からご説明するこの方の場合は、最初に記述を見た瞬間というか名前を見て、絵を見た瞬間に
「あ〜〜〜〜〜〜っ!やっとお会いできた(*^。^*)(@_@。(*^。^*)♡♡」と。
では、心がドキドキ切なくなる、その方とは
佐原義連。この方です。
ウィキより・・ (何でそうなるのと言う声が( 一一)。でもとりあえず聞いて下さい<m(__)m>)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%8E%9F%E7%BE%A9%E9%80%A3
わぅ!(*^。^*)かっこいい〜! 義連様です。
ふざけているように思われるかもしれないのですが・・でも、私以外の何かがこの方をとてもとてもいえめちゃくちゃ好き・愛していたようです。
私自身は「もう、勘弁して下さいよ( 一一)」という感じなのですが、でも、何かが(DNAかな?)が・・・
でも、この感は先祖の調査でとても重要かもしれません?ので、やはり調査致します。
追記
別の感は「源義家」・「源義光」この方々に反応いたします??何故?
呆れた方もいらっしゃるかとは思います。
すいません<m(__)m>
では、調査、がんばります(^・^)
[23] | 白石さんからのコメント(2014年03月30日 15時06分32秒 ) | パスワード |
こんにちは
そうですね。うちの方ではご馳走様のあとは 「おそまつさまでした。」 か 「なんもなかったなあ」 か ですね。
つぎの 狭山のことば が おもしろいです。
狭山のことばは公家ことば: いにしえの中村党 832年の時空を超えて2012年8月
dream333.seesaa.net/article/289125509.html
2012/08/30 - 師長国造の子孫ともいわれる 師長国造師長国造(しながのくにのみやつこ・しながこくぞう)は相模国西部を支配した国造。磯長国造とも。 国造国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)は、古代日本における地方官である。軍事権、裁判権なども ..
おかるうございました から
http://dream333.seesaa.net/article/289125509.html 日記(536)
埼玉県入間市に存在した元狭山村は天領でした。平家の名を捨てた「中村家」など高級武士が天領の民となり、二本木村に「宿(しゅく)」を築きました。
以下 略して 系図風にしますと
平宗平―重平(中村氏)
−実平(土肥氏)―遠平(小早川氏)
−桂御前・夫 三浦党の岡崎義実―義忠(佐奈田氏)・義清(土屋氏)
−三男(宗遠)(土屋氏)
−四男(友平)(二宮氏)
−五男(頼平)(堺氏)
一方 三浦惣領家は、泰村の滅亡後、三浦介義明の五男・佐原十郎義連の系統に継承された。
義連の子孫は相模国蘆名郷を領して「蘆名」を称しており
相模国に留まった一族は「三浦介」を継承し、
三浦介義同・義意父子は小田原に興った伊勢宗瑞(北条早雲)によって三浦郡に滅ぼされた。
彼の子孫は安房国へ逃れて安房里見氏の重臣・正木氏となり、正木氏の娘と徳川家康との間に産まれた徳川頼宣の血は、代々紀州徳川家に伝えられていくこととなる。八代将軍・徳川吉宗にも三浦氏の血が流れている。
★下益城郡守富あたりの「雁回山」あたりに 伊勢新九朗がきているが、上の北条早雲だろうか?
「源為朝」も きている。
★こちらの近くの お店に 宇和島県知事などをしておられた(多分もう過去形)お家の親戚の息子が いて 分厚い本を持っていたけど、
山本という苗字を言っていました。紀州徳川家に関与しているそうです。
[24] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月30日 16時28分30秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>球磨だけではなく肥後全体が、百済及び新羅に関係する土地と言う事であれば
紀元前の肥後は熊をトーテムとする九州アイヌ最大の本拠地で熊(球磨)国であり、紀元前後から四世紀にかけて辰韓、馬韓からの移住が進み地名も白木が多く一部馬韓系地名の久多良木が存在する。
新羅初代は神武皇系の稲氷命であり、第四代脱解王は熊国玉名の昔氏からの入り婿。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03025.htm
肥後と新羅/百済を離して考えること自体が無理というもの。
久米氏を始め熊国のリーダーの多くは三韓(辰王国の後継国家)から移住帰化族、また松野連のように倭国王を僭称した漢土帰化族も存在する。
久米は久味、久万と通じ、伊予の久味国造や久万は同族。
伊予風早郡には浅海原、豊後大分郡には海原、肥後益城郡には常海原の辰韓系地名が存在する。
詳細は仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/hypothesis.htm
[25] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月30日 16時37分22秒 ) | パスワード |
白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)
「おかるうございました」ですか・・
そうか、素敵ですね(^・^)
でも、球磨弁でも「かるかったね〜」とか「かるかったな〜」って言いませんか?(上品ではないけど、意味は同じなのかな?と今あらためて感じました)
里見氏とは、私が子供の頃NHKで放送されていた「南総里見八犬伝」のあの里見氏ですか?(人形劇だったような)
あの・・・思い出したのですが、当時、平川の伯父(みなみのじいちゃん)は健在で、私の教育にも結構いろいろお口を出されていまして・・
(ありがたい事ですが)
私が見るテレビにも祖母と一緒に「これは良い(^・^)」とか「これは行かん(>_<)」とか言われていて、「南総里見八犬伝」は見なさいと言われていました。後は「一休さん」ですね。
「一休さん」は何だか色々説明をしてくれて、でも、私はテレビを見ながら「一休さん」のストーリーの進行が気になって「ハイッ」。「ハイッ」。と返事をしながら、殆ど聞いていなかった記憶があります。
小学校3年生から5年生くらいにかけては、家にお風呂はあるのに、殆ど毎日平川に行ってお風呂に入って、ご飯を食べて、平川のいえ、みなみのじいちゃん)と「南総里見八犬伝」を見ていました。
「作り話の所が多い」とよく言っていましたね・・
かなり、脱線していますが・・(調査とは関係ないですけど)
みなみ(平川)の家にあがる時は必ず、まず、足を洗ってからでした。(本当ですよ!)
でっ、みなみ(平川)のじいちゃんはいつも、お風呂上りに髪をピシッと鏡で整えた後に晩酌をしていました。
風呂上がりの、下着姿など見た事はありません。
お風呂上がりで、席に着くときはいつもすでに着物をきていました。
そしてテーブルの近くに置き鏡があり、しょっちゅう髪を整えていました。
椿油か何かだと思うのですが、今でも、あの香りはしっかり記憶しています。
(それはそれは、みなみ(平川)のじいちゃんは背が高くて、すごい男前でした。)
そして、一日学校で何があったのかを聞いてくれていました。
成績表をもらうと一番にみなみ(平川)のじいちゃんに見せにいくのが当たり前でした。(良かったらいつもおこずかいを貰っていました(^・^))
その後に椎葉のばあちゃんの所に行っていました。(^・^)
平川の家の庭にグミの木があって、実がなると必ず「○○の大好きなグミがなったよ、全部食べなさい」と言われていました。
初めて食べた時に「美味しい」と言ってしまい(本当は酸っぱかったのですが・)それからはグミの実は何故か私が食べる物のようになってしまったのです(*_*)
平川の庭の木々そして、花や草木の香りが今でも記憶に残っていて、懐かしくなってちょっと涙がでてきました(*_*)
家の敷地が運動場みたいに広くて、昔、門があったという場所から平川の家まで50メートルくらいありました。
その家までの道に両側だったと思うのですが、三角形の石がずら〜っと並んでいた事を思い出しました。あれは何だったのだろう?
すでに、現代であったのに、あの頃の思い出は、あの場所だけ、時間が止まっているように感じます。(多分、子供の頃は慣れていたのだと思います)
こうやって思い出すと、本当にみなみ(平川)のじいちゃん、ばあちゃんには可愛がってもらっていました。
よ〜し!天国で、宮原と平川の先祖や、祖母、祖父、みなみのじいちゃん・ばあちゃん、椎葉のばあちゃん、西田のじいちゃん、多良木の平川ばあちゃん、那須のおじさん、赤星のおばさん、犬童のおじさん、み〜んな、私の調査をハラハラ・ドキドキして見守ってくれていると思うと、頑張らなければと思いました(^・^)
所で、三浦一族は奥州藤原氏の領土を分けたのですよね・・
何だか、とても気になります(?_?)
何でこんなに気になるのかな?
さあ(^・^)もうひと頑張りしますね。
白石様、ありがとうございました(^・^)<m(__)m>
[26] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月30日 19時05分58秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
「久米は久味、久万と通じ、伊予の久味国造や久万は同族。」
これで、しっかりと納得出来ました。
橘(宮原)は、何の縁もなく、球磨郡の久米郷に替地された訳ではないのですね。
古代の土地の縁に必ず関係していると思っていました。
橘は、霧島神宮の再建も、携わっているのですから、きっと必ず何かあるのだと思っていたのです。
そして、「肥後と新羅/百済を離して考えること自体が無理というもの。」
菊池氏も百済氏との関係が濃厚との事でしたし、宮原(橘)に関しては、名を継いだ訳ではありませんが、良峯氏との姻戚関係も解りましたし、百済氏と繋がっていると言う事は、球磨との地縁は明らかだと言う事ですね。
伊予の橘の繋がりであれ、良峯の繋がりであれ、先祖がこの土地に来られた意味が理解出来て、本当に嬉しいです。
本当に、ご教示ありがとうございます。
そして、「天孫降臨は四世紀の民族大移動」をあらためて拝見しました。
今まで、何度か読み返していたのですが、最初は(すいません)知識不足で、意味がちゃんと理解出来ていませんでした。
でも、少しずつ、自分が歴史に関する事を理解しながら、「天孫降臨は四世紀の民族大移動」に記述されている事を読んで行くに従って、理解度が増していき、今日、読ませて頂いた時には、本心から(嘘ではありません(*_*))「なるほど!」と思う事が出来ました。(^・^)
所で、先日、私は、「先祖代々800年来の土地に帰ります」と偉そうに(-_-;)書きましたが(>_<)、このような故郷があると言う事は、実際には、先祖の努力もありますが、一番は「相良氏」いえ球磨弁で「相良さん」のお陰だと思います。
「相良さん」が人吉・球磨を700年以上も、敵から守り続けて統治して下さったお陰だと本当に思うのです。
日本全国の他の地では、戦で土地を奪われたりと、中々、一つの土地に家が続く事は出来なかった状況の中、しっかりと子孫に受け継がれる事が出来たのは「相良さん」の努力があったからこそと感謝しています。
平川の親戚一同や宮原の父が、「相良さんは良くして下さった。」と感謝している意味がこの頃、良く解りました。
では、全ての事に感謝しながら、調査続行いたします(^O^)/
[27] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月31日 08時40分18秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
昨日、中々先に進まないとお話したのは、実は、系図に該当しそうな方が出現した(平安時代〜鎌倉時代にかけて)にも関わらず、一人一人が繋がらなかったという事だったのです。
でも、ある記述を突破口にして、少しは進む事が可能になったかと思います。
では、今までの調査進捗状況を(゜-゜)
まず、平河(良峯)の系図をご覧ください。
「熊風土記」では
平城天皇(桓武天皇)→ 良峯大納言安世 → 良峯蔵人頭宗貞 → 良峯左近少尉義孝(両九郎) → 良峯貞時(三郎) → 良峯安則(四郎)
「求麻外史」では
平城天皇 _ 良峯安世 _ 宗貞 _ 安則 _ 師康 _ 師澄 _ 良峯左近少尉義孝 _ 依高・貞時 _(依高) _ 高実・師高・東高(藤高)・盛高
上記の系図で名前が一致しているのは
良峯左近少尉義孝(藤原義孝) 良峯安則 良峯貞時 となります。
そこで、良峯安則にターゲットを絞り、調査を行いました。
問題は、系図上にある良峯安則の位置です。
「熊風土記」・「求麻外史」では其々異なります。
一番、頭を悩ませていたのは良峯安則は良峯安世の4代後の末孫となっているにも関わらず、「菊池経頼」を頼ったという内容です。
時間軸が全く合いません。
そこで、今回は、上記の記述(本来、この記述が何に記されていたのかさえ未だ私は確認していません)を抜きにして、純粋に「良峯安則」と呼ばれる人は誰なのか?に重点を置きました。
そこで、良峯左近少尉義孝が「藤原義孝」であった事をふまえ、良峯安則を「藤原安則」でgoogleブックで検索すると以下の記述が出てきました。
由利町史 - 26 ページ より
秋田河以北の土地に、自分らの自由の地を建五月には、反乱鎮定のための人事異動があり、四月付けで藤原安則を出羽権守(ごんのかみ)に、小野春風を鎮守たれ、かいじんに帰した。城中には、出羽国の武具の大半が納められていたので、損害はまことに ...
★出羽権守(ごんのかみ)藤原安則
ここで出羽権守 藤原安則で検索すると・・
藤原保則(ふじわら の やすのり)ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E5%89%87
藤原 保則(ふじわら の やすのり、天長2年(825年) - 寛平7年4月21日(895年5月23日))は、平安時代初期の公卿。藤原南家、中納言・藤原乙叡の孫。左兵衛佐・藤原貞雄の子。官位は従四位上・参議。
地方官として善政により治績をあげ良吏として知られ、良二千石とうたわれた。
★内容をさらに読んで行くと・・
元慶2年(878年)正五位下・出羽権守に叙任。当時、出羽国では夷俘が反乱を起こして、官軍が大敗する事件が起きていた。保則は地方官としての手腕を期待されて出羽国の受領に任じられたのである。出羽国へ着任した保則は兵を配して軍事的措置を講じる一方で、それまでの苛政を改めて政府の備蓄米を民に供して夷俘の懐柔を図った。保則の善政を聞いて反乱を起こしていた夷俘が次々に投降を願い出、保則はこれを許した。追討を命じる朝廷に対して保則は寛政により夷俘を鎮撫することこそ上策であると意見し、朝廷はこれを容れ、反乱は武力を用いることなく終息した(元慶の乱)。
★元慶2年(878年)正五位下・出羽権守に叙任。
すなわち、出羽権守(ごんのかみ)藤原安則とは出羽権守 藤原保則であったと言う事です。
「やすのり」の字が異なりますが、この方を平河家系図の「良峯安則」であると仮定して、いかにして「良峯師康(もろやす)」そして「藤原義孝」に繋がるのかを検証しました。
藤原保則 系譜
父:藤原貞雄
母:安倍弟富の娘
妻:在原美子[1](在原業平の娘) 四男:藤原清貫(867-930)生母不詳 男子:藤原万緒
ウィキでは藤原貞雄 → 藤原保則 → 藤原清貫となります
父:藤原貞雄 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B2%9E%E9%9B%84
藤原 貞雄(ふじわら の さだお、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。藤原南家、中納言・藤原乙叡の子。官位は正五位下・左兵衛佐。名は貞碩とも表記される。
[系譜]
父:藤原乙叡
母:久須元子 - 久須褒の娘
妻:安倍弟富の娘 男子:藤原保則(825-895)
そして藤原保則の子 藤原清貫 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B8%85%E8%B2%AB
藤原 清貫(ふじわら の きよつら、貞観9年(867年) - 延長8年6月26日(930年7月24日))は、平安時代の公卿。藤原南家、参議・藤原保則の四男。官位は正三位・大納言。
父:藤原保則[1](一説では保則の父である藤原貞雄[2])
母:在原美子[3](在原業平の娘)
妻:不詳 男子:藤原有方 男子:藤原千夏 女子:藤原恒佐室
★別のサイト http://reichsarchiv.jp/ 家系リスト/藤原氏(南家)
で確認した所「藤原有方」は肥後守となっていました)
★実は、ここから、ウィキの記述だけを頼りに藤原恒佐に進んで行ったのですが、「藤原伊尹」・「良峯師康(もろやす)」そして「藤原義孝」には繋がりませんでした。
そこで、藤原清貫の子「藤原有方」をターゲットに検索をすると・・
何故か
藤原三守 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/藤原三守
三男:藤原有方 妻:飯高弟子の娘 七男:藤原有貞(837-873) 妻:不明 女子:藤原貞子(?-864) - 仁明天皇女御 女子:小野篁室 嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子の義兄であり、藤原長良 ・藤原良房らの伯父でもある。 三守の曾孫はと ...
★一覧に上記の記述が表示され、藤原三守のウィキでの記述を確認しました。
藤原三守 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%89%E5%AE%88
藤原 三守(ふじわら の ただもり/みもり、延暦4年(785年) - 承和7年7月7日(840年8月7日))は、平安時代初期の公卿。藤原南家の祖である左大臣・藤原武智麻呂の曾孫。阿波守・藤原真作の五男[1]。官位は従二位・右大臣、贈従一位。後山科大臣と号す。
★(?_?) 時間軸が合わないきがします・・でも、系譜には・・
父:藤原真作
母:御井氏
姉:藤原美都子(781-828) - 尚侍、藤原冬嗣室
妻:橘安万子(橘清友の娘) - 贈従三位、典侍 長男:藤原有統
妻:伴友子(伴長村の娘) - 従四位下 次男:藤原仲統(819-875)
妻:坂上田村麻呂の娘 三男:藤原有方 ★★ ここです!!
妻:飯高弟子の娘 七男:藤原有貞(837-873)
妻:不明 女子:藤原貞子(?-864) - 仁明天皇女御
女子:小野篁室
三男:藤原有方の名があります。しかし(誕生〜没)の記載はありません。
★ここでは推測の域にしか留まりませんが、もしかしたら、藤原有方の父
藤原 清貫(藤原保則の息)の記述に関連しているのではと・・
この方が、何故亡くなったかを読んで頂ければ推測出来るかと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B8%85%E8%B2%AB
この事によって、いずれかの家に、藤原有方が養子となった可能性はあるのでは?と(素人考えですいません<m(__)m>あくまでも推測です)
続けます<m(__)m>
藤原三守の沢山の子息子女の中に「妻:飯高弟子の娘 七男:藤原有貞(837-873)」とあります。
では、この方に進みます(゜-゜) 藤原有貞 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%9C%89%E8%B2%9E
藤原 有貞(ふじわら の ありさだ、天長4年(827年) - 貞観15年3月26日(873年4月26日))は、平安時代前期の貴族。藤原南家、右大臣・藤原三守の七男。官位は従四位下・右近衛少将。
[系譜]
父:藤原三守
母:飯高弟光の娘
妻:紀名虎の娘 男子:藤原忠行
妻:安峯氏 男子:藤原忠門
妻:藤原富士丸の娘 男子:藤原経邦
男子:藤原清邦
生母不詳の子女 男子:藤原忠相
男子:藤原長福(或いは藤原三成の子)
★妻:藤原富士丸の娘 男子:藤原経邦とあります。この方に進みます(゜-゜)
★藤原経邦 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E9%82%A6
藤原 経邦(ふじわら の つねくに、生没年不詳)は平安時代初期の貴族。藤原南家、右近衛少将・藤原有貞の子。
武蔵守や皇太后大進に任ぜられる。位階は従五位上。出羽守を務めていた際に、亭子院酒合戦に酒豪として参加している[1]。
★おや?( 一一)お酒がお強いみたいですよ・・
続けます(゜-゜)
藤原南家の祖・藤原武智麻呂の6世孫(来孫)。娘の盛子は北家藤原師輔に嫁ぎ、伊尹・兼通・兼家・忠君・安子・登子・怤子・源高明室の四男四女の生母となっている。 ※以下、『尊卑分脈』の記載に従う。
\(◎o◎)/!(久々の登場です)
ついに繋がりました!
娘の盛子は北家藤原師輔に嫁ぎ、伊尹すなわち「藤原義孝」の父を産んだのです。
では続けます。藤原師輔 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E8%BC%94
藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代中期の公卿。
有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。
★画面右に記述されている内容をご覧ください
父母 父:★藤原忠平、母:源昭子(源能有の娘)
兄弟 実頼、師輔、★師保、師氏、師尹
妻 藤原盛子、勤子内親王、雅子内親王、康子内親王他
子 ★伊尹、兼通、兼家、為光、公季他
\(◎o◎)/!(マタマタ登場です)★マークの方々をご覧ください
★藤原忠平・・・かなり以前に御説明したかと思います。
平河家文書にあった、検非違使別当であり、中納言であり、右近衛大将であったという先祖の記述。
藤原忠平 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%B9%B3
延喜8年に参議に還任(右大弁は元の如し)の後、春宮大夫、左兵衛督を兼ね、検非違使別当に補され、次いで従三位に叙し、権中納言に任じられ、蔵人別当に補され、右近衛大将を兼ねる。
続けます(゜-゜)
藤原師輔の兄弟・・藤原師保(ふじわら もろやす) です。
ここまでは、良峯安則を「藤原安則」と考え、なお且つ「藤原安則」を「藤原保則」と仮定して進みました。
ここで「藤原師保」が登場しました。
良峯師康 を 「藤原師康」と考えた場合に上記の「安」→「保」をこちらでも仮定すると「藤原師康」は「藤原師保」に想定する事は出来ないでしょうか?
★ここまでをまとめます(あくまでも仮定です<m(__)m>)
@藤原保則(やすのり・安則?)の記述上の孫は藤原有方(肥後守)★父藤原清貫
Aしかし、藤原有方は藤原三守の三男とある。★藤原保則と藤原三守の間で藤原有方を巡り「養子縁組」があったのでは?と想定?
B藤原三守の七男は藤原有貞。藤原有方の弟?
C藤原有貞の子 藤原経邦。娘の盛子は北家藤原師輔に嫁ぎ、伊尹・兼通・兼家・忠君・安子・登子・怤子・源高明室の四男四女の生母となっている。
E藤原師輔の兄弟は藤原師保(ふじわら もろやす)
F藤原師輔の父は藤原忠平。検非違使別当であり、中納言であり、右近衛大将であった。
G藤原師輔の子 藤原伊尹。
H藤原伊尹と惠子女王(代明親王の娘)の子 藤原義孝。
I「良峯左近少尉義孝」は「藤原義孝」
となりました。<m(__)m>
かなり、長くなりましたが、ここまでの検証はあくまでも、私、素人の仮定であります。<m(__)m>
では(^・^)
[28] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月31日 12時20分14秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
今朝は、職場に、保険証やシステムを取り扱う際のIDカード、ロッカーの鍵などを返して参りました。
これで、完全に退職した事となります(^・^)
今までは、こっかのこうむに携わる者としての、法律の兼ね合いもあり、様々な集会(選挙等)への参加なども制限されてきましたが、もう、それも無くなる訳です(^・^)
( 一一)参加する事も別にありませんが(-_-;)
(給与は、倹約して大事に使って参りました<m(__)m>)
と言う事で、心おきなく、先祖の調査が出来ま〜す\(^o^)/
おや?(;一_一)?何だか、ええええええええええっ!?\(゜ロ\)(/ロ゜)/との叫び声が聞こえて来たような?
これが、本当の私でございます<m(__)m>
私はこげんありますもんね(*_*)
では、早速、調査開始です(^・^)
あの・・・・・
ひとつ、(又、バカな事をと言わないで下さいね)
「平河」という姓ですが、もちろん「平河」という土地からの発生という事は解るのですが、もう一つ、言葉に謎をかけているのでは?と思うのですけど・・
それは「平(たいら)」と「河内(かわち)」・・・・(バカも休み休み言いなさいよ!(>_<)と言う声も聞こえるのですが・・(*_*)。)
でも、私の先祖であれば、やりかねない語呂合わせだったりして・・・
平安時代後期から鎌倉時代全般にかけてを調べていると、何だかですね・・。
あくまでも、仮定です<m(__)m>
検証した上で、ご説明致します。<m(__)m>
では(^・^)
[29] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月31日 21時21分00秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>それは「平(たいら)」と「河内(かわち)」
ヨタ話ですよ。
平姓については「平姓発祥の謎」を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/heisei_nazo.htm
良峰安世と藤原氏長者冬嗣は異父兄弟なのだから、平河依高の依に着目した方が良い。
依は藤原永手の子に家依、雄依、後裔に平河依高か。
他に丹羽躬依の子が玄理と仮定すれば、後裔に平河依高か。
玄理は養子で、丹羽が椋橋−良峰−橘−良峰と改姓してきている。
現時点では平河氏(良峰姓)は藤原か丹羽の後裔と推定するのが妥当。
[30] | 子孫よりさんからのコメント(2014年03月31日 22時38分18秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
昼コメントした事をもう少し検証しました。
記録されている書によって記述が異なります。
では、その記述の中に、必ず共通する部分があるはずです。
再度、「山江村師」での記述をご覧ください。
求麻外史
木上岩城城主平河右衛門義高、歴代私鑑、族蹟備考に平河氏の系図を引きて曰く、義高の先は平河三郎師康にして良峯大納言安世二十八世の孫なり。師康数世の孫師澄、康平六年肥後球磨郡永吉庄を賜ひ遂に徒りて居る
続けて「良峯姓先祖書」
平城天王御子大納言正三位良峯朝臣安世任武蔵守
桓武天王ノ孫長岡ノ御子良峯蔵人頭宗貞四位両少尉宗貞トモ云、御子両九郎義方、御母七郎
続けて系図
「熊風土記」では
平城天皇(桓武天皇)→ 良峯大納言安世 → 良峯蔵人頭宗貞 → 良峯左近少尉義孝(両九郎) → 良峯貞時(三郎) → 良峯安則(四郎)
求麻外史」では
平城天皇 _ 良峯安世 _ 宗貞 _ 安則 _ 師康 _ 師澄 _ 良峯左近少尉義孝 _ 依高・貞時 _(依高) _ 高実・師高・東高(藤高)・盛高
お気づき頂けましたでしょうか?
系図も良峯姓先祖書も全て先頭に「平城天皇」となっているのです!
「良峯」姓ですから「桓武天皇」のはずですが、何故か「平城天皇」
「熊風土記」では「平城天皇」の右横に「桓武天皇」と記録されています。
「良峯姓先祖書」では「平城天皇」と「桓武天皇」の御二方の記述が入っています。
これを、私は、「安則」が「平城天皇」と「桓武天皇」のお二人ともに関係するのでは?と考えたのです。
では、良峯安則(藤原安則) → 藤原保則 と仮定した場合の「藤原保則」を詳しく検証致します。
藤原保則 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E5%89%87
★再度系譜を見ます
父:藤原貞雄
母:安倍弟富の娘
妻:在原美子[1](在原業平の娘) 四男:藤原清貫(867-930)
生母不詳 男子:藤原万緒
★朝は、繋がりばかりを考えていたので見落としていました(*_*)
妻は在原美子 (在原業平の娘)
在原業平とは ウィキより(皆様、私が、以前、この方を何故か気になると言っていたの覚えていらっしゃいますか?)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E5%8E%9F%E6%A5%AD%E5%B9%B3
在原 業平(ありわら の なりひら、825年(天長2年) - 880年7月9日(元慶4年5月28日))は、平安時代初期の貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。
六歌仙・三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。
★在原業平は平城天皇の孫です。
★続けます
全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。
父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)、父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らとともに在原氏を名乗る。
★平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。
続けて系譜です
父:阿保親王
母:伊都内親王
妻:紀有常の女 男子:在原棟梁(?-898)
生母不明[注釈 2] 男子:在原滋春
女子:在原美子[3] - 藤原保則室、藤原清貫の母
★おやっ?在原美子。この「美子」と言う名前は当時流行っていたのでしょうか?
橘の祖、橘則光の父は 橘敏政 母は 右近尼 - 花山院乳母・・・良峯美子でした?
きっと「美子」は人気の名前だったのでしょう(゜-゜)
では藤原安則の父 藤原貞雄 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B2%9E%E9%9B%84
父:藤原乙叡
母:久須元子 - 久須褒の娘
妻:安倍弟富の娘 男子:藤原保則(825-895)
続けて藤原貞雄の父 藤原乙叡 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B9%99%E5%8F%A1
藤原 乙叡(ふじわら の たかとし、天平宝字5年(761年) - 大同3年6月3日(808年6月30日))は、平安時代前期の公卿。藤原南家、右大臣・藤原継縄の次男。官位は従三位・中納言。
系譜
父:藤原継縄
母:百済王明信
妻:久須元子(久須褒女) 男子:藤原貞雄
生母不詳の子女 男子:藤原道麿
男子:藤原雄俊
男子:藤原宗我麿
男子:藤原坂田麿
女子:藤原平子(?-833)- 桓武天皇後宮
女子:藤原叡子 - 藤原濱雄室
★藤原継縄の母は 百済王明信
では続けて 百済王明信 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E7%8E%8B%E6%98%8E%E4%BF%A1
百濟王 明信(くだらのこにきし の みょうしん・めいしん、生年不詳 - 弘仁6年10月15日(815年11月19日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての女官。百済王理伯の娘。
★藤原保則は百済氏に繋がっているのですね。
ここまできたので、百済王理伯 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E7%8E%8B%E7%90%86%E4%BC%AF
百濟王 理伯(くだらのこにきし の りはく、生年不詳 - 宝亀7年6月16日(776年7月6日))は、奈良時代の貴族。渡来人系氏族百済王氏、刑部卿・百済王敬福の子。官位は従四位下・右京大夫。
経歴
天平勝宝6年(754年)2月、正六位上から従五位下に叙爵[1]。4月には摂津亮に任ぜられる[1]。
天平宝字6年(762年)肥後守[1]、神護景雲元年(767年)摂津大夫[1]。その間、天平神護2年(766年)従五位上、神護景雲元年(767年)に正五位下に昇叙されている[1]。神護景雲4年(770年)7月に従四位下[1]、宝亀2年(771年)に伊勢守に任ぜられる[1]。宝亀5年(774年)右京大夫[1]となるが宝亀7年(776年)6月16日に卒去。
★肥後守だったのですね。
系譜
父:百済王敬福
母:不詳
妻:不詳 男子:百済王俊哲(?-795)
女子:百済王明信 - 藤原継縄室(?-815)
女子:百済王明本 - 桓武天皇後宮
父の百済王敬福 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E7%8E%8B%E6%95%AC%E7%A6%8F
百済王 敬福(くだらのこにきし の きょうふく、文武天皇元年(697年) - 天平神護2年6月28日(766年8月8日))は、奈良時代の貴族。摂津亮・百済王郎虞の三男。官位は従三位・刑部卿。
697年(文武天皇元年)、日本に亡命した百済王族の子孫である百済王郎虞の三男として生まれる。なお、『公卿補任』によると敬福は百済王南典の弟との記述があるが、南典は朗虞の兄弟つまり敬福の叔父とする系図もある[1]。
★日本に亡命した百済王族の子孫
と言う事で 藤原保則を検証すると、このような事が解りました。
所で、四郎安則という記録ですが、私の勝手な推測ですが、四郎安則は安則が四郎であったと言う事ではなく、安則(保則)の子供「4男」という意味ではないかと思うのです。
藤原保則の四男:藤原清貫は
「平城天皇」「桓武天皇」「百済王」に繋がると言う事です。
ここまでが「仮定」をもとに検証した結果です。
では(^・^)
[31] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月01日 01時37分49秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
それは「平(たいら)」と「河内(かわち)」の件は、すいません<m(__)m>
飛躍しすぎでした。
所で、ご教示の中に藤原永手のお話があり、実は大変驚いたのです。
本当は、もう一つ「良峯」に関する情報を見つけていました。
藤原尹文に関する事です。
藤原尹文は藤原永手の末裔でした。
以前、コメントしていた事なのですが、「大和物語」の中に良峯仲遠(仲連)の記述があり、googleブックで調べた所・・
王朝文学の考証的研究 - 23 ページ より
二十二段の良少将は良岑仲連であると断じてよいのではなかろうではなく、大和物語一本の勘物にも「良峯仲速、参木衆樹男、天慶 ... もっともこれは第者の単なる想像が衆樹の子であるのを見る時、仲遠(仲連)は義方の兄ではなかったかと想像されるのである, ...
★続けます
國語と國文學 - 第 49 巻 - 20 ページ より
彼等は蔵人の故に献耿したのであば、蔵人が層をなしており、仲連と尹文は逆だが他は蔵人の年労順である。特に、二巻本では尹文以下、よ ... また、「蔵人補任」の良峯仲遠は良峯藤原尹文、「ありもち」は有用でなく藤原,であろう。「すくら蔵人にその人がいる。
★良峯仲遠は良峯藤原尹文
そして、「大和物語」の検証だけでなく「良峯仲遠」と言う名が実在した事も調べました。
蔵人補任 - 38 ページ より
リ補! ,「蔵補」上トスパ公補」二ョル「公補」ニョリ補フ ^ ,十三日見(「西宮ヒー 四七正六上良峯仲遠修理権亮、正六上藤原治方近江大掾、正六上藤原安国木工助-十一月十. ^日去、叙従五下、九ハ七ノ 16 力( ^且叙位)正六上紀淑行大学助、正月廿九日兼近江 ...
38 ページ
... + 五左中将、内蔵頭、備前守、正月卅日去、蔵人頭延喜廿一年正六上良峯義方二月十七日補、左衛鬥少尉如元、正六上藤原在 ... 藤原尹文主殿助- 蔵人補任醍醐天皇(延喜十九年—同廿一年)正六上良峯仲遠修理権亮、正六上藤原治方左衛門尉、正月卅
39 ページ
... 昭能登介-正月卅日転近江権大緣、「蔵補」廿九トス正六上良峯義方左衛門少尉、正六上藤原在衡一二十一少内記、近江大緣,正六上 ... 少尉-「蔵補」卅トス-誤ナラン正六上良峯仲遠修理亮-正月七日去-叙従五下、蔵人補任醍醐天皇〖延喜廿一年〜
そこで、良峯仲遠こと藤原尹文を調べました。
藤原尹文 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%97%a4%e5%8e%9f%e5%b0%b9%e6%96%87
藤原 尹文(ふじわら の まさふみ/ただふみ/まさむね、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族。藤原南家、大納言・藤原道明の子。官位は従四位上・播磨守。
経歴
兵庫助・六位蔵人を経て、延喜18年(918年)縫殿助に任ぜられる。延喜21年(921年)には左衛門少尉を務め、延喜22年(922年)従五位下・摂津守に叙任される。その後、伊賀守・播磨守と地方官を歴任し、位階は従四位上に至った。
娘は参議・藤原斉敏の室となり、実資ら三人の生母となっている。また、院政期に権力を振るった藤原通憲(信西)は尹文の昆孫(6代後)である。
系譜[編集]
父:藤原道明
母:多治比蔭光の娘
妻:橘恵子(橘良殖の娘) 男子:藤原永保(?-?)
妻:藤原定方の娘 男子:藤原永年[3]
男子:藤原永頼(932-1010)
男子:藤原永平[3]
生母不詳の子女 男子:藤原永令
男子:慶円(944?-1019)[4]
女子:藤原斉敏室(?-974)
では、藤原永手と藤原尹文は繋がるのか?です。
藤原永手 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%B8%E6%89%8B
藤原 永手(ふじわら の ながて、和銅7年(714年) - 宝亀2年2月21日(771年3月11日))は、奈良時代の貴族。藤原北家の祖・参議藤原房前の次男。官位は正一位・左大臣、贈太政大臣。長岡大臣と称する。
系譜[編集]
父:藤原房前
母:牟漏女王 - 美努王の女
同母弟: 藤原真楯(八束)
藤原御楯(千尋)
妻:大野仲仟(中千) - 大野東人の女、尚侍兼尚蔵
妻:藤原鳥養の女 長男:藤原家依(743-785)
妻:藤原良継の女 次男:藤原雄依
女子:藤原曹司(曹子)(?-793) - 光仁天皇夫人
妻:不明 女子:藤原巨勢麻呂室 女子:藤原内麻呂室(?-800[4])
★ここで、藤原家依・藤原雄依の情報が現在乏しかったので、子女に注目しました。
★女子:藤原巨勢麻呂室
藤原巨勢麻呂 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E9%BA%BB%E5%91%82
系譜
父:藤原武智麻呂
母:阿祢娘(小治田功麿の娘)
妻:山背王の娘 次男:藤原黒麻呂(?-810)
妻:丹墀氏 男子:藤原長川
五男:藤原真作
男子:藤原今河(749-814)
男子:藤原河主
妻:藤原宇合の娘 男子:藤原弓主
妻:藤原永手の娘 十男:藤原貞嗣(759-824) ★
妻:不詳[2] 男子:藤原川合 男子:藤原真書 七男:藤原伊勢人(759-827)
生母不詳 男子:藤原瀧麿 男子:藤原主後 男子:藤原広河
では妻:藤原永手の娘 十男:藤原貞嗣と言う事で
藤原貞嗣 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B2%9E%E5%97%A3
藤原 貞嗣(ふじわら の さだつぐ)は、平安時代前期の公卿。名は貞継とも記される。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の十男。
系譜
父:藤原巨勢麻呂 母:藤原永手の娘
妻:紀沙弥の娘 男子:藤原三藤(?-?) 男子:藤原常守
妻:栄山諸依の娘 男子:藤原安野 男子:藤原高岑 男子:藤原高仁(?-835)★栄山諸依です ★「依」
妻:多治比公成の娘 男子:藤原岑人(?-?)
生母不詳の子女 男子:藤原吉備[1] 男子:藤原直世
★栄山諸依の娘を母とする 藤原高仁 に進みます
藤原高仁 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AB%98%E4%BB%81
系譜
父:藤原貞嗣 母:栄山諸依の娘
妻:橘氏 男子:藤原保蔭
生母不明 男子:藤原保身 男子:藤原保行
では母が橘氏である藤原保蔭について
藤原保蔭 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E8%94%AD
系譜
父:藤原高仁
母:橘氏
妻:橘良基の娘 長男:藤原道明(856-920)男子:藤原道快
妻:錦部富成の娘 男子:藤原道微
生母不明 女子:橘良殖室
★橘氏との関係が深い方なのでしょうか?
では橘良基の娘 長男:藤原道明 について
藤原道明 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E6%98%8E
系譜
父:藤原保蔭 母:橘良基の娘
妻:橘房上の娘 男子:藤原尹衡(?-920)
妻:丹治比蔭光の娘 ★男子:藤原尹文(?-?) 男子:藤原尹甫 男子:慶円[2]
妻:藤原常作の娘[3] 五男:藤原尹忠(906-989) 男子:藤原尹風(?-957)
生母不詳の子女 男子:藤原尹瞻 男子:藤原尹生 六女:藤原元方室
女子:源英明室 女子:藤原安親室 女子:源国基室 女子:藤原文貞室 女子:藤原安于室
★良峯仲遠こと藤原尹文です。
まとめると
藤原永手 → 藤原貞嗣(孫)→ 藤原高仁 → 藤原保蔭 → 藤原高仁 → 藤原道明 → 藤原尹文
となりました。
ちなみに藤原尹文の妻 藤原定方の娘
藤原定方 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E6%96%B9
妻 藤原山蔭女、是忠親王女、他
子 佳節、朝忠、朝成、朝頼、理兼、代明親王室、藤原雅正室、
醍醐天皇女御・能子、
藤原兼輔室、平随時室、藤原尹文室、更衣・欣子、
★藤原師尹室、橘典輔室、源為善室、藤原庶正室
★藤原師尹室 つまり藤原定方の娘は 藤原伊尹の伯父藤原師尹の妻であり
そして同じく藤原定方の娘は代明親王の妃・・・
代明親王の長女:恵子女王(925-992)は 藤原伊尹室(藤原義孝、藤原義懐ほか)母。
簡単に言いますと藤原尹文(良峯仲遠)の妻は藤原義孝(良峯左近少尉義孝)の母である恵子女王の叔母と言う事です。
沢山の方の名前が出て、ちょっと混乱しますが、記述にある全員の方を調べていないのでもっと、何か最短で繋がる事も有りそうな気がします。
あの・・・
今、ちょっと気が付いたのですが、藤原尹文の孫は(藤原永頼の娘)は藤原道頼の妻でした。
そして藤原道頼は藤原隆家の兄弟です・・
もっと詳しく調べたいのですが、続きは明日に致します。
では(^・^)
[32] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月01日 05時26分05秒 ) | パスワード |
皆様
コメント31訂正します。すいません<m(__)m>
藤原永手〜藤原尹文までの繋がりは
藤原永手 → 藤原貞嗣(孫・父:藤原巨勢麻呂)→ 藤原高仁 → 藤原保蔭 → 藤原道明 → 藤原尹文
となります。
[33] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月01日 09時26分55秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
昨晩は、日本の苗字七千傑様からご教示頂いた藤原永手、そして大和物語から確認できた良峯仲遠こと藤原尹文に関しての調査を行いました。
でっ!今朝、「私はいったいどの辺りを調べてたのかな〜(^・^)」と
(えええっ!?解っていなかったの?との声が聞こえたような?・・素直に「ハイ(^・^)」)
名前と繋がりを調べるのに必死でしたので・・・
そこで、日本の苗字七千傑様の【藤原南家巨勢麿流】から《真作流/貞嗣流》姓氏類別大観の画面を「じ〜っ」と見つめて
「あった〜\(^o^)/藤原尹文。この方の名前を見〜つけた〜(^○^)」
と喜びながら、ふと藤原尹文の名前から右方向に目を進めると・・・
「あれっ?」???藤原季兼?何処かで聞いた事があるような??
ううん?熱田大宮司家・・
ああああああっ!!熱田大宮司家!そして藤原季兼は!!\(◎o◎)/!
そうです「藤原季兼」は!!
「藤原 季範」と「妹で藤原行遠の妻そして二階堂氏の祖 二階堂行政産んだ母」
の父でした\(゜ロ\)(/ロ゜)/・・・・やった〜!!\(^o^)/
繋がりました\(^o^)/
まったく、今まで気が付いていませんでした\(^o^)/
でも、いつの間にここまで進んでいたのだろう?
昨日は必死でしたから(-_-;) どおりで眠たいわけです(-_-)zzz はっ!(゜.゜)
でも、何処にも「依高」も「義高」も名前が出てきていませんよ?あれっ?
藤原尹文〜藤原季兼までを調べていません。
また、頑張って調べます。
日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございました<m(__)m>(^・^)
[34] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月01日 14時52分46秒 ) | パスワード |
皆様、みなさま(@_@。
わたくし、自分のおっちょこちょいにも度が過ぎる事に涙がでておりまする(@_@。違った、涙が出ています(*_*)
かなり、以前に、禅門道我という記述を見つけた時に「はて?何だ?」と調べていたのですが、その時に、偶然、見つけた記述「古文語釈」と言うサイトに、「勘解由小路二品禅門」読み:かでのこうじのにほんぜんもん」というとてもとても長〜い名前の方を見つけて、「くふっ(^○^)これは、面白い。友達との会話に使えるぞ( 一一)(^○^)」と思い、テキストを保存していたのですが、重要な「解釈」をしっかり読んでいませんでした。
その後、例のごとく、全くの別人に集中してしまい、最後に日本の苗字七千傑様にご教示を頂いて、軌道修正をしたのですが、それから、この長〜い名前の方の事をすっかり忘れていました。と言うか、解釈を理解せぬまま、ここ数日を過ごしていたのです。
そして、今日、何か手掛かりがないかな〜(-_-)と思いながら「山江村誌」を読んでいた所、巻末近くに、使用文書全文が載っていて「あれっ?!」と思い「平河家文書・関東下知状案」を読んでいた所、何と「禅門」の付く人があと二人いらっしゃいました!
それも、思いもよらない方々でした。
そして、私が読んでいなかった「禅門」の解釈とは?
次のコメントで「平河家文書・関東下知状案」内容抜粋も含めてご紹介いたします。(*_*) トホホ
[35] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月01日 15時41分50秒 ) | パスワード |
では(゜-゜)
「平河家文書・関東下知状案」内容抜粋
(前略章します)
而曾祖父平河三郎師高右大将家(源頼朝)御時、文治三年給安堵御下文、伊豆藤内遠景(天野)令成施行畢、加之祖父師(貞字有憚)、可勤仕京都大番之由、給御半御教書以来、親父師良相継彼跡到奉公、前武州禅門(北条泰時)并極楽寺禅門(北条重時)御時、給数通御書畢、而師良彼所於建長二年譲与于良貞等畢、爰於彼所預所職者、大膳大夫広元(大江)朝臣建久三年被拝領以後、至于嘉禄元年、地頭(預脱カ)所各別知行無相違、・・・
★前武州禅門(北条泰時)并極楽寺禅門(北条重時)御時 です。
すなわち 前武州禅門 → 北条泰時
極楽寺禅門 → 北条重時
となる訳です。
そこで、私は、はっ!と気が付いたのです(゜.゜)
そう言えば、禅門の意味を何処かに保存していたような・・・・と。
保存した時は「長〜い名前の方の事だったような・・・」と。
でも、実際にあの時点で私の頭には「道我」と言う文字しか無くて「禅門」は完全に無視でした。
でも、こうなれば、無視は出来ません(ー_ー)!!
では、保存していた情報をご覧ください。
語釈】 「勘解由小路二品禅門」読み:かでのこうじのにほんぜんもん 藤原経尹(つねまさ)のこと。藤原行成の子孫。
あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ\(゜ロ\)(/ロ゜)/
藤原経尹(つねまさ)のこと。藤原行成の子孫
ええええっ!!「藤原行成」です。
藤原義孝(良峯左近少尉義孝)の子:藤原行成
あ〜(-_-)私は、何という事を・・
折角みつけていた情報を「かでのこうじのにほんぜんもん」と言う名に気を取られて、パソコンに眠らせていました(*_*)
先祖及び、先祖に関係された方々の「トホホ〜〜〜っ(*_*)」との悲しい叫びが
聞こえてきます(@_@。
(゜.゜)あっ!でも、これは良い情報ですよね!
「禅門」が付く方は、藤原行成の子孫?それとも「かでのこうじのにほんぜんもん」こと、藤原経尹の子孫?
どちらでしょうか?
では(^・^)
[36] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年04月01日 20時39分27秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>熱田大宮司家!そして藤原季兼は!!
良峰安世と異母兄弟の長岡朝臣岡成の後裔は熱田大宮司社家ですよ。
【広畠氏】【橿園氏】【望月氏】【篁岡氏】【三串氏】【竹室氏】【桑園氏】【広松氏】【中大路氏】など。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03013.htm#001
従って鎌倉幕府の源頼朝に近いわけですよ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02023b.htm
[37] | 白石さんからのコメント(2014年04月01日 23時37分49秒 ) | パスワード |
こんばんは
篁岡氏 これは たしか たかおか と 読むのですね。
前に太田亮氏の辞典を見たとき、うちは こんなむずかしい字を書かないし、 と おもっていたのですが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
話は変わりますが、肥後高岡系図をみていて
柏原氏から高岡へ養子が入っている。うちの高岡が関与するかどうかは?ですが・・・この系はすぐれた化粧品の会社にもなっているようです。
柏原とは 桓武天皇の異称。
柏原市は玉手山古墳があり、
2 玉手山古墳群を造ったのは大和朝廷の先祖?
玉手山古墳群のすぐ西に応仁天皇陵(誉田山古墳)に代表される古市誉田古墳群(5世紀の古墳群)がある。これとの関係から、4世紀に玉手山古墳群を造営した豪族が発展して、古市誉田古墳群を造営するようになった、とする説がある。すなわち、玉手山古墳群を造営した豪族こそが、後の大和朝廷の先祖だというわけだ。
という説があるそうです。ネットより
[38] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月01日 23時58分30秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
熱田大宮司家が源頼朝に近いと言う事を理解出来ました。(^・^)
今は「依」と言う字を頼りに情報を探しているのですが、中々到達できません。
ここまで、来たら鎌倉時代はすぐそこだっ!と意気込んでいたのですが。
「よしたか」 → 「よりたか」と発想して、探してみると、「あれっ?」と言う方々は・・・・?
でも、関連性が見つからないので、昨日頂いたご教示を念頭に「藤原」「丹羽」氏をターゲットにしてもう少し頑張ってみます(^・^)
[39] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月02日 00時09分59秒 ) | パスワード |
白石様、こんばんは(^・^)
ご教示ありがとうございます。
玉手山古墳は、以前、私も調べました。(例の・・・トホホ(*_*))
でも、調べながら、とっても興味があったのです。(^・^)
一進一退を繰り返していますが、それでも、前に進んでいるので、これからも頑張って行きたいと思っています(^・^)
それと・・
地名の「萩」の事なのですが、この頃調べていた所が「萩氏」に繋がっていましたよ(^○^)
日本の苗字七千傑様の 藤原姓熱田大宮司家 姓氏類別大観 に見えました。
では、又、明日も頑張ります(^・^)
[40] | 白石さんからのコメント(2014年04月02日 00時11分09秒 ) | パスワード |
http://blogs.yahoo.co.jp/hsnm3373/32753346.html
★伊佐市大口地区は、旧大口市の中心部。
そこに、薩摩の古い住宅があるというので、立ち寄ってみました。
それは「祁答院家住宅」。「祁答院」は「けどういん」と読みます。
「祁答院家」は、薩摩川内市に合併された旧祁答院町周辺を治めていた有力な国人。
桓武平氏の秩父党の一派である渋谷氏の一族で、鎌倉時代に北薩地方に下向して土着。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kedou_in.html
武家家伝_祁答院氏
www2.harimaya.com/sengoku/html/kedou_in.html
祁答院記』によれば、祁答院渋谷氏の初代重保は吉岡重保と称し、鶴田郷柏原に館を構えて柏原氏とも称した。祁答院渋谷氏が柏原を本拠としたことは、南北朝時代に柏原に建立された大願寺が祁答院渋谷氏の菩提寺となり、歴代の墓石が残されていること ...
武家家伝渋谷氏
(桓武平氏良文流秩父氏族)
秩父重綱の弟基家が武蔵国橘樹郡河崎に住んで河崎冠者と称し、相模国高座郡渋谷庄を与えられ、その孫重国のとき渋谷庄司を称したのに始まる。
重国は、平治の乱の源義朝方に味方して所良を没収された近江源氏佐々木秀義が、奥州めざして落ちのびてきたのをひきとめて自分の手元におき二十年にわたって保護している。
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 橘氏【5】他にも柏原氏の系はあるのですが、
www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201c.htm
【楠木氏】【橋本氏】【日井氏】【勝田氏】【池田氏】【野上氏】【牲川氏】【守屋氏】 【日田氏】【早瀬氏】【江川氏】【栖屋氏】【須屋氏】【土生氏】【田原氏】【甲斐庄氏】【甲斐氏】 【和田氏】【高井 ... 【楠木氏】【河内氏】【則岡氏】【津田氏】★【柏原氏】【平沢氏】【川俣氏】【川俟氏】
※ この筋は 伊予橘氏につながっており、元越智姓。
私の推考では、高岡は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命子孫。越智も天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の血がはいっており、大きな広がりの中で、繋がってきているのではないか?と思うのが一つ。
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 橘氏【1】
うちの高岡は平川へ婿養子。平川と五藤は親戚。五藤から高岡へ嫁。
五藤も橘氏。
子孫様
宮原と苗字が違うけど、橘・桓武の子孫というところは つながっているようですね。
[41] | 白石さんからのコメント(2014年04月02日 04時39分49秒 ) | パスワード |
おはようございます
藤原姓熱田大宮司家 姓氏類別大観 私も見ました。
前に私が萩氏 愛甲氏など 国史辞典でみたときに、平城天皇の皇子・阿保親王の子孫が神宮に養子に入って、再び出て愛甲郡などをとおって 萩氏を名乗った。
萩城を 徳川氏が 写真に撮り 分厚い本に載せてあったのを見たら、萩(毛利)と なっていました。
星野氏ということばが 古代豪族辞典の熱田神宮系図にあって それが 上の親王のすじだったと 思っているのですが。
という筋があったのですが、ここにみえる萩氏などは 大宮司家につながっており、千秋家と 姻戚関係でもあったのでしょうか?
太田亮氏は 神宮社家の人達は 後世 多くが名を変えられて その実態はわからない と 書いている。
神宮の人と 高丘家の人と 明治の頃結婚していて、この高丘は 初め 北家閑院流 あと 南家武智麿流。前に7000傑様のご教示で その 血流から南家にわけられる。 とのこと。
明治の頃 子爵だったはずで、現在は 京都におすまい とか・・・
こちらの高丘も 季を 通字に持っているということでした。
桓武天皇は 天智天皇に つながっていて、天智天皇は 「あめの天皇」と いわれたそうですね。
私には いろいろ な 名が 出てくると おてあげ 状態になりますが、熱田神宮に きているので、 前から 思っている 筋に 大体 近づいているのではなかろうか?と 思います。
子孫様 ありがとうございます。
[42] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月02日 07時24分47秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)
良かった〜(^○^)
もしかしたら、私の先祖調査と同時進行で、白石様のご先祖様に繋がる情報が挙がってくるのでは?と思っていましたので、伺っていたお話を頭に浮かべながら、情報は見るようにしていたのですが、中々、私の能力(おっちょこちょい)では・・・(*_*)。でも良かったです(^○^)
さて、今朝の進捗状況ですが(^・^)
依高と言う名に中々結びつく情報が無く、昨晩は、停滞気味だったのですが、朝、目が覚めて考えたのです。
今まで全て通過点では意味が解らず、結果が出た時に「あ〜そういう事だったんだ〜」の繰り返しだった訳ですから、結果を先に求めても無理かな?と。
そこで、今朝は、通過点の一つとして未だ調べていなかった良峯家(平河)系図にあった「貞時」。この方の情報を調べてみました。
日本の苗字七千傑様よりのご教示にあった
「現時点では平河氏(良峰姓)は藤原か丹羽の後裔と推定するのが妥当する」
伺った事を念頭に、「藤原貞時」と入力をしてgoogleブックで検索した所・・
こちらをご覧ください
新続古今和歌集 - 50 ページ より
実房お三条(藤原)。三条入道左大臣と称す。拾遗^初出。一四六。となる。正四位下、陸奥守など。家集に実^ ^。父、藤原貞時。母、源雅信女。藤原済時の猶子実方: ^藤原。生年末詳、長铯円年(九九八) ^ 0 出。八?霞原為継女。正一.位、中納言に^る。統千載集 ...
★どなたかの父が藤原貞時。そして母が源雅信女となっています。
他にも「藤原貞時」での情報がgoogleブック検索では沢山表示されました。
政治史 - 第 1 巻 - 144 ページ より
藤原貞時,平時範ら何れもこの寺の造寺造仏の功によって受領に任じた。大治尊勝堂は若狭守平正盛、東西五重塔は播磨守藤原基隆の各重任功、その外、仏像は甲斐前司行実受領功によってでれたが、金堂.講堂.鐘楼.経蔵.中門.廻廊は但馬守高階仲章重任 ...
大日本史料 - 第 3 巻、第 7 号 - 50 ページ より
東京帝國大學. 史料編纂掛, 東・大學. 史料編纂所 - スニペット表示 - 他の版
左陸奧守從五位上藤原^・功 4 越中權介藤原赏棟贴^ ^因幡守正四位下藤原隆時^舰^備後介正四位下賀茂道言復任^筑後權守從五位下藤原貞時 11.11 ^ 1 睛百左衞門權少尉源師行说任,右衞門少尉藤原重隆^駄^始自去月廿八日、入眼延引、執筆 ...
★筑後權守從五位下藤原貞時 ・・・・筑後です!
そこで、間違いない<(`^´)>「藤原貞時」この方は実在した!と確信して・・
サイト検索したのですが・・出て来ません??あれっ?あんなにgoogleブックでは、情報が挙がったのに何故?と一覧を見ているとこのような記述を見つけました。
公卿類別譜(公家の歴史)-藤原氏北家W-小一条流
藤原氏北家。師尹孫(小一条流)、飛騨国司姉小路・三田藩綾部藩九鬼・壬生藩鳥居。公卿名一覧。系図。 ... *1 定時 貞時云々。或云忠時云々。歌人。侍従。従五位上。母藤原定方女。 *2 実方 陸奥守。右近中将〔中古歌仙 ...
★「定時 貞時云々」・・・\(◎o◎)/! 定時は貞時ともいいますよ!!(^○^)と書いてあります。
これだっ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/と思い、もう一度検索で挙がった一覧を★どなたかの父である藤原貞時。そして妻は源雅信女。筑後權守從五位下藤原貞時をキーに見渡すと・・
見つけました(^○^)
続きは後ほど・・
実は、久々に風邪をひきまして・・くしゃみと咳と、ひどいのは「はなウォーター」(*_*)
仕事を辞めて、気が抜けたかな?こんなに、「風邪」らしい「風邪」は何年ぶりかです(*_*)
では(T_T)
[43] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月02日 12時02分39秒 ) | パスワード |
皆様、では続きを・・
(へっくしゅ〜〜〜〜ん(*_*)) がんばります
コメント42で御紹介した藤原貞時 に該当しそうな人は
「藤原定時」です。
情報は子供の藤原 実方で確認出来ました。
藤原 実方 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E6%96%B9
藤原 実方(ふじわら の さねかた)は、平安時代中期の貴族・歌人。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。中古三十六歌仙の一人。
★藤原師尹の孫と言う事は・・
藤原定時(藤原貞時)は藤原師尹の子ですね。
ありゃ〜繋がっていました(゜-゜)
と言う事は藤原定時(藤原貞時)と藤原義孝(良峯左近少尉義孝)は従兄弟です。
やはり系図は・・・
「熊風土記」では
平城天皇(桓武天皇)→ 良峯大納言安世 → 良峯蔵人頭宗貞 → 良峯左近少尉義孝(両九郎) → 良峯貞時(三郎) → 良峯安則(四郎)
求麻外史」では
平城天皇 _ 良峯安世 _ 宗貞 _ 安則 _ 師康 _ 師澄 _ 良峯左近少尉義孝 _ 依高・貞時 _(依高) _ 高実・師高・東高(藤高)・盛高
親子関係などの繋がりでは無く、「一族・親戚・姻戚関係」を表しているのではないでしょうか?
藤原 実方 続けます
系譜[編集]
父:藤原定時 ★
母:源雅信の娘 ★
養父:藤原済時
生母不明 男子:藤原朝元(?-1031)
男子:こそぎみ
男子:賢尋
男子:貞叙
男子:義賢
以下については、各種系図に記載が見られるが、事実かどうかには疑問がある。 男子:泰救[14][15]
男子:長快[6][15]
女子:少将内侍[6] - 母は大中臣輔親の娘、白河院女房
疑問がある?脚注を見ます
14.^ 『熊野別当系図』による。
15.^ a b 熊野別当家は熊野別当職を重代職とすることの正統性を示すため、熊野別当家を貴種に連なる家系であると主張する「熊野別当代々次第」なる系譜図を作成した。しかし、そうした主張は同時代には受け入れられたわけではなかった(宮家準『熊野修験』〈吉川弘文館(日本歴史叢書)、1992 ISBN 4642066497〉、pp.18-19)。
何だか、ここにも何か隠れているようです(゜-゜)
ウィキの記述を続けます
父・定時が早逝したため、叔父の大納言・済時の養子となる。花山・一条両天皇に仕え、従四位上・左中将に至った。しかし、長徳元年(995年)に一条天皇の面前で藤原行成と歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生する。行成は取り乱さず、主殿司に冠を拾わせ事を荒立てなかった。これが原因で天皇の怒りを買い、「歌枕を見てまいれ」と命じられ[2]、実方は陸奥守に左遷[3]され現地に下向。一方の行成は蔵人頭に抜擢された[4]。
★ 藤原行成と歌について口論 系図に関係していると仮定している方々が喧嘩をしています。(*_*)
『今昔物語集』[5]にある、鎮守府将軍平維茂と藤原諸任との合戦は、実方が陸奥守在任中のこととされる[6]。
藤原公任・源重之・藤原道信などと親しかった。風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられる。他にも20人以上の女性との交際があったと言われ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされることもある。
★あれっ!?清少納言と交際関係!!
(;一_一)これはこれは・・清少納言は橘(宮原)の先祖と言われる橘則光の奥さんですよ。さっさんかく三角関係ではありませんか・・(-.-)
ありゃりゃ・・
そう言えば、家の父も、モテモテでした。(独り身なので)
バレンタインデーに私を太らせるための沢山のチョコレートと、一度は両手に抱え切れない程の花束を持って帰ってきました。
女の人同士でもめていた事も・・・(あっ父に怒られる(-.-))
でも、ず〜っと独身だったのは私が子供の頃父から「もし、新しいお母さんが出来たらどうする?」と聞かれ、私が「新しいお母さんはいらない。もし、そうなったら、私は死ぬから」と言ったからだそうで・・
実は、私、その事を全く覚えていません(@_@;)。
本当に父には申し訳なくて・・・(@_@。
息子は父に良く似ています。でも、息子は越智家の方にも似ていて、何だかミックス顔です。 あっ!息子も・・女の人ともめたらどうしよう(*_*)
(ー_ー)!!大人なので心配しません。
脱線しました<m(__)m>
続けて、とても気になる記述が・・・
当時、陸奥守に期待された職務として宋との貿易決済で用いる砂金を調達して中央に献上することであった。砂金の未進問題は980年代には深刻になっていたが、実方はその職務を全く果たすことなく急死したため、後任の源満正、更にその次の橘道貞の責任までが追及されることになった。最終的に寛弘5年(1008年)になって満正が絹によって実方が残した未進分を補填することになった[12]。一方、陸奥から朝廷を介して決済用の砂金を受けられなくなった大宰府では代金を受けられなくなった宋の商人らとのトラブル解消に苦慮し、結果的に中央に送る筈であった官物(あるいはそれで調達した硫黄や材木などの宋側の希望商品)で決済を行うようになった[13]。
★勉強になりました(゜.゜)
大宰府と陸奥の関係は決済用の砂金のやり取りだったのですねφ(..)メモメモ
当時の経済の仕組みが関係していた訳ですね。
こうやって勉強すると、当時の国衙の役人のイメージが大きく変わりました。
国益も、になっていたのですね。
それと、気になるのは「硫黄」「材木」です。
硫黄は火山がないと取れません。九州だから一番に考えられるのは「阿蘇」ですね。その他「島原・雲仙」「九重」「霧島」か・・・
材木は・・「日田」に「五木」に・・あ〜っ!!「球磨」です!!
球磨の材木は有名です!昔は球磨川を経由して運搬されていました。
「川」???!!
あ〜〜〜〜〜〜〜〜っ「平河」の所領は川辺川・万江川・山田川流域。
そして、祖母の実家である平川は「井口川」
白髪岳(上村)からは「免田川」
どこも、上流の山々は材木でとても有名な場所ですよ!!
切った材木は全て、川を使って運搬していたと聞いています。
あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!
そういう事か・・
球磨は山奥で中央とは離れているから(ー_ー)!!と考えていたけれど
当時の国の経済で必要だった物資・資源を生産出来る重要な場所の一つだったのでは?
そして、その球磨と大宰府は密接な関係であったのですね。
子供の頃、むか〜しむか〜しは山から「水銀」や「亜鉛」も取れていたと聞いた事があります。
あ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!
山田大王神社は、周囲が「丹土」(人工的に作った赤土)で塗り固められています。それが、九州ではとても珍しいと。だから、国の重要文化財に指定されたと・・・!!
今調べました「丹」とは
@硫黄と水銀との化合した赤土。また,その色。辰砂。
A 鉛に硫黄と硝石を加えて焼いて作ったもの。鉛の酸化物。黄色をおびた赤色で絵の具や薬用とする。主成分は四酸化三鉛。鉛丹(えんたん)。
B 薬のこと。特に不老不死の薬。 「 −を煉り,真を修し/読本・弓張月 続」
C @ A のような黄赤色。
あと、古代、国内では青銅器が中心だったにも関わらず、球磨では鉄の生産が盛んであったとも、勉強しました
どう考えても、当時の国経済が関係する、物資・資源が「球磨」にはあったと言う事ですね。
だから「永吉庄」(永吉庄とは五木も含まれるのですよ)を所領すると言う事は重要な事であったのでは?
それによって「八代相伝開発之地」と言われて、争ったのでは!?
私は、今まで、田んぼでお米を生産するだけのイメージしかなかったのです。
故郷の自然での〜んびりと・・
でも、何だか違うみたいです。
当時は、今と違い、貿易に関する製品を工場で生産する事は無かったわけですから。
そうか(゜-゜)当時の国の経済も関係していると言う事ですね
今まで、先祖の調査で主に登場していたのは 肥後以外に「遠江」「奥州」「陸奥」他に・・(後でもう一度確認します)
日本の苗字七千傑様よりご教示にあった
「全体を把握しなければ」という言葉の意味がここにも繋がりました。
「先祖様はどの方だ〜(^○^)」な〜んて、甘い考えでは、私の先祖「平河」そして、関連する方々を理解する事は出来ないと言う事ですね<(`^´)>
よ〜し、今日は、分岐点です。
ここで、どう理解するかですね<(`^´)>
でも、当時の経済情勢・資源・および生産地をもっと勉強しなくては(ー_ー)!!
ただ・・・
自分でも頑張りますが・・多分、変な方向につっぱしる可能性も大なので
皆様、ご教示どうかよろしくお願い致します。<m(__)m>
あっ!そうです、「平河(良峯)」に関連する、人物の繋がりも、今まで通りに頑張ります(^・^)
[44] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月02日 17時50分41秒 ) | パスワード |
皆様、私、コメント43で
「子供の頃、むか〜しむか〜しは山から「水銀」や「亜鉛」も取れていたと聞いた事があります。」
と書いたのですが、よ〜く考えても(゜.゜)学校で習った記憶がなかったのです?
誰から聞いたのかな?と一生懸命記憶を甦らせたのですが、多分、こうだったと思います。
子供の頃学校で長土呂の公害の事を勉強して、家に帰って、祖母か平川(みなみ)のじ〜ちゃんに話した時に、「昔は、こっちでも取っていたとよ(^・^)」と言われて、何か良く覚えていませんが、水銀とか亜鉛の話を聞いた記憶があります。
思い出したのですが、何か宝石?か何かも取れていたって聞いたような??
でっ!完全に思い出したのが、その時、とても綺麗なキラキラした大きな石の塊を見せてくれました。
ものすごく綺麗で、でも、何だか魔法をかけられそうな?石だったように、子供心に記憶しています。
あの石は何だったのだろう(?_?)・・・( 一一)おやっ(p_-)・・・ (^○^)
(;一_一) 何もやましい事は考えていません(+o+) ハイ<m(__)m>
でも、聞いた事だけを検証もせずにコメントしたらいけませんね(ー_ー)!!
調べます<m(__)m>・・・・・・
見つけました\(゜ロ\)(/ロ゜)/
「球磨 水銀 亜鉛」とキーワードを入れてgoogleブックで検索したら・・
帝国鉱業開発株式会社社史 - 245 ページ より
平沢津鉱山(熊本県球磨郡五木村地内)鉱種は金,銀,銅,硫化鉄。 ... 吉岡鉱山(岡山県川上郡吹星町地内)三菱鉱業株式会社の所有で、鉱種は金,銀,銅,亜鉛,硫化鉄。 ... 水銀・産の緊急性にかんがみ、十一一月、招失補償制度による当社受託経営に移った。
★確かに平沢津鉱山(熊本県球磨郡五木村地内)鉱種は金,銀,銅,硫化鉄・・
書いてありますね!!
でも、帝国鉱業開発株式会社社史っていつの時代なのかな?
ありゃ・・?この会社名何処かで見た記憶が・・思い出せません(@_@。
でも、こうなると五木では金・銀・銅が取れていたと言う事ですよ(@_@;)
五木は・・・・永吉庄です\(◎o◎)/!
だから争ったのかな( 一一)
うんっ?!ちょっと待って下さい!さっき、長土呂と書いて「あれっ!?」と自分でも思ったのですが、先日コメントした「柏木氏」(平河義高の家臣)について調査した時に、「長土呂」ありましたよ!!
コメント10
「柏木家文書目録 http://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/45-4.pdf
長土呂村とあるので長野県佐久市ですね。」
ちょっとコピーしました
廻状(丹羽正伯薬種採集之為廻国二付村々案内申触
廻状) 坂木役所 御影新田他一八ヶ村名主中宛
(元文頃)七月二十二日
廻状(古金銀通用方申触廻状) 飯嶋御役所 小縣
郡腰越村他七ヶ村宛 (寛延二年) 十一月八日
ありゃ!!★丹羽正伯薬種採集って何だろう?
(;一_一)私は久しぶりにパンドラの箱をパッカ〜〜ンと開けてしまったのかも
しれません。
こうなると鎌倉時代においての訴訟及び越訴は単純に「美味しいお米が沢山取れて、のんびり、素敵な所だから(^・^)」 (ー_ー)!!では無いようです!!
と言う事で、子供の頃の記憶から( ^^) _U~~ (むか〜しむかし・・)
金・銀・銅の採掘まで進んでしまいました(@_@;)
では<m(__)m>(゜.゜)
[45] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月02日 18時57分52秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
私ごとですが(いつもそうですが<m(__)m>)今日4月2日は祖母の命日です。
丁度11年前に亡くなりました。
以前にもお話したと思うのですが、11年前の正月に「今度、いつ帰ってこれる?」と聞かれて、「3月末、子供が春休みに入ったら休みを取って帰って来るね。」
と言うと、「ばあちゃん、楽しみにしとくね。あんたには伝えてない事がいっぱいあるから。」と約束をして。
やっと休みが取れて、北九州から車を運転して帰って来る途中に、父から電話が入り、パーキングで聞いた言葉が「ばあちゃんが、入院していた病院で倒れた。」という言葉でした。
土曜日だったのですが、次の月曜日には退院できると聞いていたのに・・
帰った時は意識はあっても、すでに麻痺を起してしまい口がきけない状態でした。
病院について、祖母が私の顔をみるなり、あの気丈な祖母が、私の前で一度も泣いた事のない祖母が、ポロポロ涙を流しながら、動かない唇を一生懸命動かして「遅い!遅かった!ばあちゃん、何も話せんごとなった。」って。
あの言葉は一生忘れられません。
だから、今、祖母の言葉を自分なりに探しているのです。
でも・・・・本当はかなり驚いています。
天国の祖母は、私の調査を見てるかな・・・?
「マダマダ(ー_ー)!!」って言っているような気がします。
さあ、マダマダ頑張りますよ(^○^)
皆様、今後ともご教示どうかよろしくお願い致します<m(__)m>
では(^・^)
[46] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月03日 07時04分42秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
あの・・・・
先に仮定を申し上げますが・・
どうも、鍵は「山井」と言う言葉にあるような気がします。
山井・・・ヤマイ
先日ある記述を見て以降、何故か、夢にもこの言葉が出て来るのですよね・・??(朝からマタマタ(ー_ー)!!と言わないで下さいね)
関係ないかとは思うのですが、どうも「ヤマイ」「山井」と言う言葉には
平河(良峯)に関係する重要な意味があるのではと思うのです。
昨晩は熱が出てしまい、早めに寝たのですが、夢にも出た言葉なので、やっぱり無視する事はできないかな・・っと。
ちょっと頑張って調べて見たいと思います。
では(^・^)
[47] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月03日 14時46分54秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
朝のコメントはさておき・・・(オイオイ(;一_一)との声が・・)
こんな事を書くと日本の苗字七千傑様から、「コラコラまたヨタ話を!」としかられてしまいそうなのですが(-.-)すいません。
平河師高。この「師高」という名は、あまり見かける事がないのですけど・・
お一人同名の「師高」と言う方はいらっしゃいますよね。
そうです「藤原師高」この方なのですが・・・
以前は、全く繋がりも何もない(ー_ー)!!と考えて調査からは完全に除外していたのですけど・・
この頃、藤原永手 → 藤原尹文 → 藤原季兼 → 「藤原 季範」と「妹で藤原行遠の妻そして二階堂氏の祖 二階堂行政を産んだ母
という繋がりを見つけた時に「あれっ!?」と気が付いたのですが・・
藤原尹文 もう一度ウィキの記述をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%97%a4%e5%8e%9f%e5%b0%b9%e6%96%87
経歴
兵庫助・六位蔵人を経て、延喜18年(918年)縫殿助に任ぜられる。延喜21年(921年)には左衛門少尉を務め、延喜22年(922年)従五位下・摂津守に叙任される。その後、伊賀守・播磨守と地方官を歴任し、位階は従四位上に至った。
娘は参議・藤原斉敏の室となり、実資ら三人の生母となっている。また、院政期に権力を振るった藤原通憲(信西)は尹文の昆孫(6代後)である。
★藤原通憲(信西)は尹文の昆孫(6代後)とあります。
そこで?????(;一_一)となった訳です。
藤原通憲(信西)と藤原師高の父(西光)は・・・・
藤原師高の父(西光) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%85%89
西光(さいこう、生年未詳 - 安元3年6月3日(1177年6月30日))は、平安時代後期の官人、僧。後白河院の近臣。阿波国の豪族・麻植為光の子で、中納言・藤原家成の養子。俗名は藤原師光(ふじわら の もろみつ)。子に師高、師経、師平らがある。
★子:藤原師高 ★藤原家成の養子
経歴
信西(藤原通憲)の乳母の子と言われる。麻植大宮司家(麻植郡忌部神社祠官)の麻植為光の子で、もとは阿波国の在庁官人であったが、家成の養子、乳兄弟とされる信西の家来となり、左衛門尉に昇る[1]。 平治の乱で信西が死ぬと出家して西光と名乗る。のち後白河法皇に仕え、「第一の近臣」と呼ばれた。西光は藤原成親・俊寛・多田行綱らの平氏打倒の陰謀に加わり、鹿ヶ谷の山荘での密議の首謀者となる(鹿ケ谷の陰謀)。
★信西(藤原通憲)の乳母の子
★平治の乱で信西が死ぬと出家して西光と名乗る。
そして藤原師高は ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E9%AB%98
検非違使五位尉から、父の引き立てで安元元年(1175年)12月29日、加賀守となり、弟の師経を目代として遙任する[1]。
安元3年(1177年)、比叡山の末寺白山涌泉寺と紛争を起こし、比叡山大衆が神輿を担いで強訴する騒ぎとなった[1]ため、師高は尾張国井戸田に流罪、師経は禁獄となった。同時に天台座主・明雲も解任され伊豆国へ配流となったが、大衆が配流途中の明雲を奪回し、叡山に帰還した。それに対し法皇は平清盛に比叡山の攻撃を命じた。
しかしその直後、多田行綱が鹿ケ谷の陰謀を清盛に密告したため、比叡山攻撃のために集結していた平氏軍は攻撃を取りやめ、陰謀への参加者の捕縛にあたった。首謀者の一人であった西光は捕縛のうえ斬首され、師高も同年6月、小胡麻郡司維季(おぐまのぐんじ これすえ)に討たれ、師経・師平ほか郎党三名も六条河原で斬首された。
★小胡麻郡司維季(おぐまのぐんじ これすえ)に討たれ。
小胡麻郡司維季は尾張国井戸田の郡司ですね。
尾張・・・・?井戸田・・・・あれっ?
なお且つ「維季」と言う名前・・「季」ですね・・・・?
(-.-)何だろう、この胸のもやもやは・・・・・
と言う事で、「藤原師高」と藤原尹文の昆孫(6代後)の藤原通憲(信西)
についてでした。
★あまり深く考えてはいませんが「もやもや(-.-)」としただけですので
では(^・^)
[48] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月03日 15時17分50秒 ) | パスワード |
追記
もう一つ「もやもや(-.-)」する記述があったのですよね(;一_一)
西光(藤原師光)の養父:藤原家成
藤原家成について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%88%90
藤原 家成(ふじわら の いえなり、嘉承2年(1107年) - 仁平4年5月29日(1154年7月11日))は、平安時代末期の公家。参議・藤原家保の三男。官位は正二位・中納言。中御門を号す。
藤原北家魚名流の出身で、鳥羽院政期において、鳥羽上皇の第一の寵臣として活躍する。中央においては、従妹にあたる美福門院とともに国政の中枢部に深く関わり、また諸国においては数多くの荘園を形成して、経済的にも目ざましい躍進を遂げた。長承元年9月24日(1132年11月3日)、上皇が宇治に御幸して平等院の経蔵を見物した際、藤原忠実は他人を絶対に入れない方針を破り、家成を特別に経蔵の中に入れた[1]。長承3年(1134年)、家成はこの経蔵を参考にして鳥羽殿に勝光明院と宝蔵を造営する。
★藤原北家魚名流の出身
ではここで何故「もやもや(-.-)」するのか次の記述をご覧ください
人物
平忠盛・清盛父子との親交が深く、若年期の清盛は家成の邸宅に頻繁に出入りしていたと伝えられる。清盛の長男・重盛が正室に家成の娘を迎えたのを筆頭に、両家の間には何重にも姻戚関係が結ばれるに至っている。忠盛の正室(清盛の継母)池禅尼は従姉にあたる
★重盛が正室に家成の娘を迎えた。
★池禅尼は従姉にあたる
皆様、すでに良く御存じだとは思いますが、再度、ご確認下さい。
池禅尼 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%A6%85%E5%B0%BC
池禅尼(いけのぜんに、長治元年(1104年)? - 長寛2年(1164年)?)は、平安時代末期の女性。平忠盛の正室。平清盛の継母に当たる。後に崇徳天皇の皇子・重仁親王の乳母となる。父は藤原宗兼、母は藤原有信の娘。中納言・藤原隆家の後裔。名は宗子[1]。
★藤原隆家の後裔
★保安元年(1120年)頃、平忠盛と結婚し、忠盛との間に家盛、頼盛を産んでいる。待賢門院近臣家の出身だったが、従兄弟には鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成がいたことから美福門院ともつながりがあった。
★平頼盛の母。 人吉荘は平頼盛領。
そして
頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後もその息子である頼盛を優遇し、平家滅亡後も頼盛の一族(池氏)は朝廷堂上人および幕府御家人として存続する。
うううん・・何度も言いますが関係ないかもしれないけれど
「モヤモヤ(-.-)」します・・・(-.-)
では(^・^)
[49] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年04月03日 21時03分06秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>今は「依」と言う字を頼りに情報を探しているのですが、中々到達できません。
漢字にだまされてはいけません。
「依」は「頼」と音が同一です。
平河は遠江、肥後と縁が深いが、阿蘇氏(後裔の丹羽氏)、良峰氏、熱田大宮司、源氏は尾張とも縁が深いじゃありませんか。
もっともっと柔軟に調査をしなければ、真実に近づけませんよ。
「秀」と「季」が写本段階で誤写が多いし、「貞」と「定」、「助」と「輔」、「義」と「吉」、「好」、「安」と「泰」、「康」など数え上げればキリがありません。
系図を始めとする古文書もほとんど原本は無く所詮、写本しか現存しないので当初の漢字は遡る程半分は疑うべきでしょう。
本格的な系図集は室町時代編纂の「尊卑文脈」以降に過ぎません。
[50] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月03日 22時22分17秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
本当に行き詰って、次々に画面を開いてはボ〜ッとしていて、落ち込みそうでした。
また、あらぬ方向に爆走しそうになっていました(*_*)
ご教示を頂いて、又、一つ目標ができました。
ありがとうございます。
今日は、夕方図書館に「山江村誌」を返してきました。
名残惜しかったのですが、必要な所は全て、自宅のプリンターでスキャンしてデータにして保存しています。
そして、何気なく手に取った「鎌倉遺文研究 鎌倉時代の政治と経済」という本のページをパラパラめくった所、この本でも荘園に関してそして「平河」についての研究がされていました。
早速、借りてきました。(^・^)
自分が思っている以上に「平河」については、色々な書籍に記述があり、本当に驚いています。
ただ、どの書籍も、「平河」が良峯という姓であると言うところまでで、それ以上先については今のところ、何も調査されていないようです。
(調査されているけど、結果が出ていないのかも?とも思うのですが(゜-゜))
でも、私の調査では、日本の苗字七千傑様のお陰で、二階堂氏に繋がりましたし、(この繋がりはどの書籍でも今のところ記述はありませんでした(^・^))
感謝の気持ちでいっぱいです。
漢字の表記ではなく「音」を重点に今後は調査します。(あっそうか、地名と同じですね)
では、がんばります(^・^)
[51] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月04日 09時01分43秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
現在、平安時代を調査していますが、昨日「地名」という言葉を使い、気が付きました。
私は、平安時代〜鎌倉時代にかけての球磨の各地其々の名称を御紹介していなかったという事です。
名称に関して「山江村誌」の記述を転記します(^・^)
球磨郡六郷の私領化
承平年間(931年〜937年)源順によって編述された「和名類聚抄」には、球磨の郷として
★球玖 久米 人吉 東村 西村 千脱
の六郷が見える。六郷の比定地については、諸説があり、確定はしていない。
★久米郷は多良木町大字久米奥野を中心に、湯前町、岡原村(現あさぎり町)上村(現あさぎり町)
★人吉郷は、人吉市 山江村
★西村郷は、錦町大字西村 一武 辺りが考えられる。
★東村郷は西村郷の東、現在の多良木町大字黒肥地 須恵村(現あさぎり町) 水上村を含む地域が比定される。
★球玖が 免田町(現あさぎり町)である。
★千脱は 深田村(現あさぎり町) 錦町大字木上 相良村 五木村 球磨村
ではなかったろうか。
時代は下るが、建久八年(1197年)閏八月の肥後国球磨郡図田帳と比較して見ると、★人吉庄は 人吉郷 ★久米郷は 豊富郷 ★西村郷は 是永 ★東村郷は 豊永郷 と変化している。
これは、荒野の開発を積極的に行い、郷を私領化した為である。
また、彼らは私領を拡大し、守る為に自ら郡司、又は郷司となり球磨郡衙の構成人となった。
そして、国司・目代に協力しつつ、力を貯えていく。後に彼らが、国司、目代にとって対抗勢力となっている。
更に、球玖郷・千脱郷には国衙から下向、土着したと思われる平河氏や合志氏などが見られる。
と言う事で、平安時代(931年〜937年編集)から鎌倉時代(1197年)にかけての球磨六郷の名称の変化でした(^・^)
荒野を開発して領土を増やし(増やすと言うのは利用出来る土地を増やしたと言う意味かな?)その領主によって名称も変わったと言う事ですね(^・^)
ううん? ★久米郷は 豊富郷 ★西村郷は 是永 ★東村郷は 豊永郷
家の名前でしょうか? 豊は共通だから・・ 富家 と 永家 ・・無いですね(ー_ー)!!
じゃあ 是永 は? ・・・・?
豊・・とよ・・・とよ・あれっ!? でも(ー_ー)!!
ちょっと気になってきました。(゜.゜)
最初に平河(良峯)が球磨に来たのは1063年。
そして、関東下知状から言うと、その当時の所領の名称は「永吉庄」と「西村」 と言う事は、上記の内容球玖から言うと
「球玖郷」「千脱郷」「人吉郷の一部」が「永吉庄」に変わり
「是永」が「西村」に戻ったと言う事ですね。
でも、その前に「平河師高」は一度幕府に所領を取られて、何処かに帰っていますね(-.-)。その後に源頼朝より「安堵」を賜り・・・
あれれっ?おかしいぞ( 一一)
文治3年(1187年)安堵を賜った人物は「平河師高子息」すなわち「師貞」です。
文治3年(1187年)には、球磨に師高はいなかったという事ですよ\(◎o◎)/!
何故、私、気が付かなかったのかな?本人がいるのであれば本人すなわち安堵を給わるのは「平河師高」ですよね。でも、実際には「平河師高子息」こと「師貞」。
その事により「師高」が球磨に帰ってきたと言う記述は何処にもありません。
「平河師高」は球磨から何処かに行かれたままです・・
ありゃりゃ(;一_一)、どうやら、これは、今まで、球磨の人達は何か思い違いをしていたのではないでしょうか??
平河義高という人物像は、かなり記述でも残っていますが、(相良長頼人吉への下向の際に協力を行った・白馬に乗られていた(どうも、この記述ばかりが目に浮かびます(^.^)・家来に命じて所領中のマムシを全て退治した・等々)
でも、「平河師高」については、平安時代に城を草部(日下部)一族に荒らされて略奪されたという記述しかありません。その後、何処かに行かれたと・・
変ですね(ー_ー)!!これは確実におかしいです(;一_一)
こうなると私の調査の流れは 平河義高 → 平河師高 で時代検証をしながら人物を探していたのですが、逆なのかもしれません。
それか、「平河義高」と「平河師高」は親子関係等ではなく一族であった可能性もありますね。(今までの系図の調査も含めての推測ですが)
あと、しつこい(ー_ー)!!かもしれませんが・・・
当時の社会において「白馬」に乗る事は通常どこでもどなたでも普通にありえた事なのでしょうか?
今朝は、平安時代から鎌倉時代にかけての球磨六郷の名称変化から、何故か大きな謎に繋がりました(@_@;)
でも、折角の情報なので
★久米郷は 豊富郷 ★西村郷は 是永 ★東村郷は 豊永郷 などの変化の理由(開発したのは何処の何方どの流れ?)も調べたいと思います。
では(^・^)
[52] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月04日 09時45分50秒 ) | パスワード |
追記
重大な事を忘れていました。
球磨郡は平安時代「球磨臼間野荘」(くまのしょう)と呼ばれ、皇室領であり、公家(朝廷)領とも呼ばれていました。
そこで、私領を増やすとは、大胆な(;一_一)方々ですね・・
でも、許されていたとすれば・・どうなのかな?
もっと、勉強致します(゜.゜)
[53] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月04日 16時50分15秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
朝、ご説明した球磨の六郷の名称変化ですが、もう一度確認すると
★久米郷は 豊富郷 ★西村郷は 是永 ★東村郷は 豊永郷
だったのですが、先ほど、家の名前?と考えて(ふざけていません(ー_ー)!!真剣です) 豊は共通だから 富家 永家 是家 と分けて考えてみました。
(変でしょうか?)
すると・・球磨に関連する「富家」はあったのです!
googleブックにて検索
球磨郡誌 - 36 ページ より
麓域は球磨川に沿ひ八代平野に出づる咽喉を扼し、八代,益城方面を 1 望に收むる要害の地である,公は前記の太・殿(長毎〕コ一月 ... 三ケ所の城、犬をかけ候て、悉く落失候,富家の吉事,千秋先・并三之御宮に早々 1 いらせへく呋、わか宮十离同前に馋、市!
★「富家の吉事」「青井神社とも見えます」
他にも色々表示されたのですが、「富家」とは何だろうと?!と検索すると・・
ありました\(゜ロ\)(/ロ゜)/
「富家殿」という名称です。
では、ご説明致します。
藤原 忠実(ふじわら の ただざね) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%AE%9F
藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期の公卿。藤原師通の長男。日記『殿暦』を残す。
改名 忠実→圓理(法名)
別名 富家殿、知足院殿、禅閤 ★富家殿です
では、何故、藤原忠実、この方が富家殿と呼ばれるようになったのか・・
かなり、奥が深い話です、ちょっと長くなります<m(__)m>
生涯[編集]
白河院政期[編集]
『栄花物語』の続編の最後(40巻「紫野」)は当時15歳で中納言となった忠実が奈良の春日大社で春日祭を主催して帰京する場面で締めくくられ、忠実の元で摂関家が再び興隆する期待感をもって終わっている。
しかしながら現実には康和元年(1099年)に父の師通が急死した際、22歳で権大納言の忠実は、最年少で摂政となった曽祖父・頼通の26歳という年齢を大きく下回っていたこと(しかも頼通は就任から10年近く父・道長の後見を受けた)に加え、まだ大臣に任官されていなかったことにより、関白には任じられず内覧にとどまった。また、既に引退していた祖父・師実にも忠実を支える余力はなかった。ただし、内覧であっても過去には藤原時平や道長のように摂関同様の実権を振るった例もあり、忠実にも挽回の可能性が残されていたが、源義親の濫行や東大寺僧の赤袈裟着用問題では自らの判断を下すことが出来ず、政治的未熟をさらけ出した。特に致命的であったのは康和4年(1102年)に大衆に対する取締の不徹底を理由に、白河法皇が忠実の叔父である興福寺別当・覚信を解任しようとした際、これを取り成そうとして却って法皇の怒りを買ってしまい、8月1日に法皇から政務関与への拒絶を通告された事件であった(『中右記』)[1]。
こうした一連の事件のために摂関家は完全に院政の風下に立つ事になり、忠実は摂関家の栄華を再び取り戻すという夢を生涯かけて追求する事になる。
★忠実は摂関家の栄華を再び取り戻すという夢を生涯かけて追求・・
何だか、かっこいいです(●^o^●)
忠実の最初の妻は源俊房の娘・任子だったが、子の早世により婚姻関係は消滅してしまう。その後に正室となった源顕房の娘・師子は忠実より8歳年長で、既に白河法皇の子・覚法法親王を産んでいた。『今鏡』によると、師子に一目惚れした忠実が祖母の麗子に頼み、法皇から譲り受けたとする。
康和2年(1100年)に右大臣となり、長治2年(1105年)に堀河天皇の関白に任じられる。嘉承2年(1107年)、忠実と摂関家にとって最大の危機が鳥羽天皇の践祚と共に起こった。鳥羽天皇の践祚に尽力した藤原公実が天皇の外戚[2]である事を理由に摂政の地位を望んだのである。白河法皇も一時迷うが、院庁別当・源俊明の反対でその望みは斥けられ、忠実は辛くも摂関の地位を保持することができた。
嘉承3年(1108年)年正月の除目は、平正盛が「最下品」でありながら「第一国」である因幡国の受領となるなど法皇の近臣が多く受領に任じられたが、この除目を主催したのは他ならぬ忠実であり、法皇への従属は決定的なものとなっていた。永久元年(1113年)には再び関白に転じるが立場の弱さは相変わらずで、永久の強訴では藤氏長者として興福寺の説得を試みるが効果はなく、防御に向かった北面武士が上洛を目指す興福寺大衆と衝突して流血の惨事が起こるなど失態が続いた。事態打開のため、各地に摂関家領荘園を形成して経済基盤の建て直しを図るが、法皇の警戒を招き荘園の拡大は抑制される。
★各地に摂関家領荘園を形成して経済基盤の建て直しを図るが、法皇の警戒を招き荘園の拡大は抑制される。★★摂関家領荘園を形成ですね( ..)φメモメモ
この頃、法皇により長男・藤原忠通と藤原公実の娘・璋子の婚姻の話がもちあがるが、璋子の素行に噂があったことや、忠実が閑院流を快く思っていなかったこともあって、破談になっていた。同時期、忠実は娘の勲子を鳥羽天皇に入内させるよう、法皇に勧められるが固辞している。ところが永久5年(1117年)、璋子は鳥羽天皇に入内する。衝撃を受けた忠実は鳥羽天皇の希望もあって、保安元年(1120年)、勲子を入内させようと工作を始めた。だが、以前入内の勧めを断りながら鳥羽天皇の希望を受けて再度入内させようとしたことに法皇は激怒し、ただちに忠実の内覧は停止された。内覧は天皇に奏上される文書を見る職務であり、この職務を剥奪されることは事実上関白を罷免される事に等しかった。驚いて駆けつけてきた中御門宗忠に、忠実はただ「運が尽きた」と語った(『中右記』)。この時、法皇は忠実の叔父・花山院家忠を関白にするつもりだったが、藤原顕隆の反対により翌保安2年(1121年)、忠通が関白となる。この後、忠実は宇治で10年に及ぶ謹慎を余儀なくされる。なお、次男・頼長が生まれたのはこの謹慎中のことである[3]。
★忠実は宇治で10年に及ぶ謹慎を余儀なくされる。★中々、難しい事ですね(゜.゜)
大治4年(1129年)に白河法皇が崩御、鳥羽院政が始まると忠実は政界に復帰を果たし、天承2年(1132年)再び内覧の宣旨を得る。また、白河法皇の遺言に反して、長承元年(1133年)忠実は自らの娘・勲子を鳥羽上皇の妃とし、異例の措置[4]で皇后となり(勲子は泰子に改名する)、さらに院号宣下を受けて高陽院となる。忠実は前回の失脚の反省からか、鳥羽上皇の寵妃・藤原得子(美福門院)や寵臣・藤原家成とも親交を深めて、摂関家の勢力回復につとめた。
★あああっ!藤原家成 は西光の養父。だから藤原師高の祖父となる人です!!
しかしながら、忠実が再び内覧となり政務を執る一方で、名ばかりとなってしまったとはいえ忠通にも関白としての矜持があり、父子の関係は次第に悪化していく。忠通に男子が生まれない事を危惧した忠実は、忠通に頼長を養子にするように勧め、天治2年(1125年)に頼長は忠通の養子となった。しかし康治2年(1143年)に忠通に実子の基実が生まれると、摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望んだ忠通は頼長との縁組を破棄する。さらに久安6年(1150年)正月、頼長が養女・多子を近衛天皇に入内させると、忠通も養女・呈子を入内させて頼長に対抗した。忠実は忠通に対し摂政職を頼長に譲るよう要求するも忠通が拒否したため、久安6年(1150年)9月、激怒した忠実は摂関家の正邸である東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶した。仁平元年(1151年)には忠実の尽力により頼長が内覧の宣旨を受け、関白と内覧が並立するという異常事態となった。忠実は鳥羽法皇と良好な関係を保っていた一方で、忠通も美福門院の信任を受けていたこともあり、鳥羽法皇は忠実と忠通の和解を望み、忠通と頼長の片方に肩入れするようなことを避けてきた。しかし、久寿2年(1155年)、近衛天皇が子なく崩御し、忠通の推す後白河天皇が即位すると、頼長は近衛天皇を呪詛した疑いをかけられ鳥羽法皇の信任を失い、再び内覧宣下を受けることなく失脚してしまう。忠実はパイプ役である高陽院のとりなしで法皇の怒りを解こうとするが、高陽院の死去で失敗に終わった。
★親子関係に亀裂が入るのは悲しい事ですよね。(@_@。
保元の乱[編集]
詳細は「保元の乱」を参照
保元元年(1156年)7月2日、鳥羽法皇が崩御すると事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、検非違使が召集されて京中の武士の動きを停止する措置が取られた(『兵範記』7月5日条)。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。
★★何だか、同じような話が球磨でもありましたよ・・?
謀反人の烙印を押された頼長は崇徳上皇とともに白河北殿に立てこもるが、天皇方の夜襲により敗北する。頼長の敗北を知った忠実は宇治から南都に逃れた。重傷を負った頼長は忠実に対面を望むが、頼長に連座して罪人になる事を避けるため忠実は苦渋の末これを拒み、頼長は失意の内に死んだ。15日、南都の忠実から忠通に書状が届き、朝廷に提出された。摂関家の事実上の総帥(大殿)だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れたと思われる。しかし忠実は当初から頼長と並んで謀反の張本人と名指しされており、朝廷は罪人と認識していた。17日の諸国司宛て綸旨では、忠実・頼長の所領を没官すること、公卿以外(武士と悪僧)の預所を改易して国司の管理にすることが、18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と平等院を忠実から没官することが命じられている
★★諸国司宛て綸旨では、忠実・頼長の所領を没官すること、公卿以外(武士と悪僧)の預所を改易して国司の管理にすること
(@_@;) もしや、これは球磨の師高の所領没官と繋がっているのではありmせんか??!!
マダマダ続けます<m(__)m>
20日になって、忠実から忠通に「本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実が取り上げた所領」と「高陽院領」百余所の荘園目録が送られる。摂関家領荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きを取ることで辛うじて没収を免れることができた。『保元物語』には忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。
27日、「太上天皇ならびに前左大臣に同意し、国家を危め奉らんと欲す」として、頼長の子息(兼長・師長・隆長・範長)や藤原教長らの貴族、源為義・平忠正・家弘らの武士に罪名の宣旨が下った。忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となった。この乱で摂関家は、武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになる。自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退し、忠実の摂関家の栄華を再び取り戻すという夢は叶わずに終わった。
★摂関家は、武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになる (@_@;)
かなり長くなりましたが、これからどうなるかは次のコメントで<m(__)m>
(ドラマを見ているようです(゜-゜))
[54] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月04日 21時10分30秒 ) | パスワード |
では続けます。<m(__)m>
藤原 忠実(ふじわら の ただざね)について続き・・
人物
孫の慈円は忠実を「執フカキ(執念深い)人」と評している。
朗詠・箏に優れ、藤原宗俊に学んだ箏は管弦の御遊でたびたび演奏し、各種古記録等に記載された御遊での演奏回数は息子・忠通に並んで多い。
摂関家領の復興[編集]
道長・頼通の時代までに拡大した摂関家領は、後三条天皇による延久の荘園整理や、代々の親族への分割譲渡により縮小してきていたが、忠実は摂関家の再興のために摂関家領の復興を行っている。
頼通の所領は正室の隆姫女王・嫡男の師実(忠実の祖父)・娘の寛子(後冷泉天皇皇后、忠実の養母)にそれぞれ分割譲渡されていたが、忠実はこれを全て相続。加えて忠実は母・藤原全子(藤原俊家の娘)、祖母・源麗子(師実正室、源師房娘)の所領も相続した(『近衛家文書』)。忠実は自ら相続したこれらの所領を合わせて、殿下渡領とは別の摂関家の不分割家領とした。
また忠実は個々荘園の拡大も行った。代表的な例として、平季基が開発し頼通の時代に摂関家に寄進した島津荘(薩摩国)がある。これは当初数百町歩しかない小規模なものであったが、忠実の代になって大隅国に約千五百町歩の新たな出作地を獲得している。
★大隅国・・球磨のすぐ近くですね。
また、前述のように忠実は忠通に摂関の地位を譲った後も広大な所領(「宇治殿領」)を引き続き保有しており、後に「宇治殿領」は忠通に与えた「京極殿領」と娘の高陽院に与えた「高陽院領」に分けられたが、預所の補任などは引き続き忠実が行った[5]。さらに前者に関しては仁平年間に忠通を義絶した際に悔返を行って頼長に与え(近衛家所領目録「庄々相承次第」)、後者は高陽院没後は回収するなど、依然として忠実が実質上の所有者であり続けた。この状況は保元の乱後に「宇治殿領」全てを忠通に譲渡するまで続いた[6]。
こうした努力により忠実は豊富な財力を手にし、その邸宅は富家殿と呼ばれた。
★波乱万丈でしたが結果荘園の整備拡大を重ね豊富な在職を手にしたと言う事ですね。
そして、邸宅は「富家殿」と呼ばれた・・・・(^・^)
と言う事で「富家」という名称を調査した結果「藤原 忠実(富家殿)」が検索で表示され、結果、藤原忠実の生涯を御紹介したと言うお話でございました。
学校で習った時の「荘園」の知識はきっと私の頭の中に全く残っていなかったようです。
平安時代の荘園についてとても勉強になりました(^○^)
[55] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月04日 23時04分03秒 ) | パスワード |
皆様、さて、今度は球磨の藤原氏に関する情報です。
菊池氏の人は古くより藤原姓と載せ、又、相良文書球磨郡田数領主目録に「人吉庄下司藤原友永、政所藤原高家、地頭藤原季高、(藤原茂綱、藤原真宗)、藤原真家、藤原家基」等を載す。
地頭 藤原季高 は別の記述では殆ど「合志九郎藤原季隆」とありました。
折角、平安時代の荘園について勉強したので、「合志九郎こと藤原季隆」を調べてみました。(あなた何しているの?との声が・・(*_*)
でも、なにかきっかけがあればな〜と(゜.゜))
ところが\(◎o◎)/! 何だかすごいことになりそうなのです。
では<m(__)m>
まず、合志九郎こと「藤原季隆」。この方の情報は殆どなかったのですが父の「藤原長輔」の情報がありました。 ではウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E8%BC%94
藤原 長輔(ふじわら の ながすけ、長治元年(1104年) - 久寿3年1月14日(1156年2月6日))は、平安時代末期の公卿。権中納言・贈太政大臣藤原長実の三男。官位は従三位・右京大夫。
永久3年(1115年)12歳で従五位下・甲斐守に叙任。元永3年(1120年)左兵衛佐・丹後守、保安3年(1122年)従五位上、天治3年(1126年)従四位上。
長承3年(1134年)正四位下の昇叙されるが、異母妹得子が鳥羽上皇の寵愛を受けたことに怒った崇徳天皇によって昇殿を止められる。保延6年(1140年)昇殿を許される。同7年(1141年)右馬頭に任ぜられるが、同年崇徳天皇から近衛天皇(得子の子)への譲位に伴い昇殿を止められる。
久安4年(1148年)右京大夫、仁平3年(1153年)再び昇殿を許される、同年備後介、同4年(1154年)内蔵頭、同年従三位。
久寿3年(1156年)飲水病(糖尿病)により薨去。
系譜[編集]
父:藤原長実
母:僧文賛の娘 - 郁芳門院女房
妻:藤原清隆の娘 男子:藤原季隆(1128年? - 1190年)★★
三男:藤原実清(1139年 - 1185年)
男子:藤原長明
生母不明 男子:藤原長重
男子:藤原高実 ★★ あれれ〜〜〜っ? この方「高実」ですよ!!?
男子:恵任
男子:長恵
男子:印性
男子:円長(? - 1227年)
男子:円輔
女子:源通資室
では藤原長輔の父 藤原長実 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%AE%9F
藤原 長実(ふじわら の ながざね)は、平安時代末期の公家・歌人。修理大夫・藤原顕季の長男。官位は正三位・権中納言、贈正一位・左大臣。八条を号した。
父母 父:藤原顕季 母:藤原経平女
兄弟 長実、家保、顕輔 ほか
(゜-゜)あれっ?もうこの時点で、ここ数日間調査してきた中で登場した方々の名前が、何だか沢山でてきました(゜.゜)
★兄弟の 家保 このかたは・・・あ〜〜〜っ!!\(◎o◎)/!
藤原家成のお父さんですよ!!
では 藤原家保 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E4%BF%9D
藤原 家保(ふじわら の いえやす、承暦4年(1080年) - 保延2年8月14日(1136年9月11日))は平安時代後期の公卿。六条修理大夫藤原顕季の次男。
各国の受領を歴任し、長承3年(1134年)従三位参議に至る。白河院政期において比類なき信任を受け、白河院司受領、院庁別当を歴任。家保の一家は、兄である長実の系統を凌いで善勝寺流の嫡流の地位を占めるに至った。鳥羽院政期にも引き続き重用され、没後に跡を継いだ嫡男の家成は、鳥羽院政の中心を担う存在となった。その子孫は羽林家の四条家として現代に至るまで続いている。
受領時代に培った経済力を生かし、証金剛院など多くの堂塔の造営にも貢献した。邸宅は三条東洞院(京都市中京区)にあったと伝わる。
系譜
父:藤原顕季
母:藤原経平の娘 - 堀河天皇乳母
妻:藤原宗子(1087?-1129[1]) - 藤原隆宗の娘、崇徳天皇乳母、従三位、典侍、名は悦子とも。 男子:藤原顕保(?-1145[2])
三男:藤原家成(1107-1154) ★★
妻:不明 男子:藤原家長
男子:藤原保説
男子:藤原保成
男子:藤原家房
男子:藤原宗保
男子:藤原頼保
男子:覚芸
女子:藤原忠宗室
女子:源雅通室
\(◎o◎)/! と言う事は
合志九郎こと藤原季隆と藤原家成は ふた従兄という関係です。
球磨郡は「球磨臼間野荘」(くまのしょう)と呼ばれていたわけですが・・
やっぱり、今までず〜っと「むか〜しから、皆さん山の中での〜んびりと(^・^)」と思っていたのが大間違い(ー_ー)!!だったようです。
そして、何故、この一族が球磨にいらっしゃるかと言いますと・・
辿っていけば
藤原 長実、家保 兄弟の父 藤原 顕季 から
藤原顕季 → 藤原隆経 → 藤原・任 → 藤原時明 → 藤原佐忠 → 藤原連茂 この辺りまでにします<m(__)m>
上記の 藤原佐忠 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BD%90%E5%BF%A0
藤原 佐忠(ふじわら の すけただ、生没年不詳)は平安時代中期の貴族、歌人。藤原北家魚名流、出羽守・藤原連茂の子
天慶8年(945年)当時六位蔵人木工助を務めている[1]。同年12月大納言・藤原師輔に召され郡司読奏の由を奏上する。この頃木工権助に転じるか[2]。翌天慶9年(946年)には式部丞に転じ、天暦元年(947年)に入り朱雀院判代官兼肥後権守となる。
★(947年)に入り朱雀院判代官兼肥後権守となる。
このあたりより、肥後及び球磨と深い関わりがあるのではないでしょうか。
そして、この方は藤原師輔に召されているのですね。
もう、お解かりと思いますが藤原師輔は藤原伊尹の父 そして藤原義孝(良峯左近少尉義孝)の祖父にあたるわけです。
「合志九郎こと藤原季隆」は藤原北家魚名流。
そして藤原魚名は「川辺大臣」と号していらした・・
そして、五木から球磨川にそそぐ川は「川辺川」。
やっぱり、繋がっていたのですね(^・^) ( ^^) _旦~~ ホ〜〜〜ット・・
あっ!(ー_ー)!!いかんいかん。ここでホットは出来ません(ー_ー)!!
気になる記述がありましたよ(;一_一)
合志九郎こと「藤原季隆」この方の兄弟に「藤原高実」と言う人が・・
(;一_一) 「高実」(;一_一)「高実」(;一_一)えええ〜っ!
そう言えば、良峯依高 の子供に 横瀬高実 さんがいらっしゃいましたね〜??? ( 一一) 何だかなぁ〜
「もやもや」するのは私だけでしょうか?どうでしょうか?皆様?!
それに、またもや「藤原家成」。この方が登場しました。
しつこいですが、「藤原家成」は西光の養父。西光の子供が「藤原師高」
「藤原家成」は球磨の合志九郎こと「藤原季隆」とふた従兄。
そして
「平忠盛・清盛父子との親交が深く、若年期の清盛は家成の邸宅に頻繁に出入りしていたと伝えられる。清盛の長男・重盛が正室に家成の娘を迎えたのを筆頭に、両家の間には何重にも姻戚関係が結ばれるに至っている。忠盛の正室(清盛の継母)池禅尼は従姉にあたる」
とありましたね・・・。
あ〜今晩も「むらむら」じゃなかった(;一_一)「モヤモヤ」して眠れません・・・ フ〜ッ(-.-)
では<m(__)m>(^・^)
[56] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月05日 08時31分00秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
なんだかんだ言っても眠れました(^・^)
あまり、一人の人物にターゲットを絞っても、今まで何度もやらかして(;一_一)いますので、ここで切り替えます。
漢字の落とし穴に「ズド〜〜ン」と落ちないように、今は、慎重に情報を見ながら、平河(良峯)の系図に関係しそうな「名前」を探しています。
同時に、昨日お話したように、当時(平安時代)の球磨の情勢をしっかりと理解しながら進めていこうと思っているのです。
では、今朝は球磨の藤原氏 須恵小太良こと藤原家基 について調べます。
この方は、大江広元が預所となっていた鎌倉御領を「平河師貞」と共に所領していました。
ウィキでは、藤原家基の記述はなかったのですが、日本の苗字七千傑様の【藤原氏師実流】姓氏類別大観をじ〜っと見つめていましたら、見つけました\(^o^)/
藤原家忠から藤原忠宗・・・家光の下に藤原家基となっています。
早速、藤原家忠 をウィキでチェックしたのですが・・藤原家基がありません?
そこで、サイト検索をして、確認しました(^・^) 藤原家基は藤原家光の子供でした(^・^)
では 藤原家忠について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E5%BF%A0
藤原 家忠(ふじわら の いえただ、康平5年(1062年) - 保延2年5月14日(1136年6月15日))は、平安時代後期の公卿。関白藤原師実の次男。官位は従一位・左大臣。花山院左大臣と呼ばれ、花山院家の祖となった。
異母兄師通の急死に続く甥の忠実失脚後、摂関の候補に上り自身もその地位を望んだが、院近臣藤原顕隆による白河法皇への諫言によって実現する事はなかった。
★異母兄師通の急死に続く甥の忠実失脚・・・これは(゜.゜)昨日、コメントした内容ですね。φ(..)メモメモ
堀河天皇の信頼が厚く、康保5年(1103年)の右近衛大将就任が天皇の強い意向であった事が、『中右記』・『今鏡』に記されている。
系譜[編集]
父:藤原師実
母:源頼国の娘
妻:藤原定綱の娘 男子:藤原忠宗(1087-1133)
男子:藤原忠能
妻:橘致綱の娘(家女房) 男子:藤原忠兼
生母不明 男子:尋覚
養子:藤原家光 - 橘俊綱の子 ★★この方の子が須恵小太良こと藤原家基ですね。
養子:藤原家光 - 橘俊綱の子 そうか・・・
(゜.゜)・・・はっ?!\(◎o◎)/!・・・・(;一_一)・・・(*_*)
あの・・そう言えば私、この方以前調べていました(*_*)
でも、あの時は、当時の時代背景や荘園について、国内や球磨の状況、など全く理解していなかったので、記述を見ても何が何やらさっぱり解らなかったのですが・・・・
<(`^´)>今は、解ってきましたよ(^O^)/
何だか、祖母が子供の時におでこに付けてくれていた、宮原観音の甘茶の効果(ご利益)がやっと今出て来たようです。(足にも付けてくれていたのですが、その効果(ご利益)はすぐにありました。結構、子供の頃足が速かったのです。★逃げ足も速かったです(-.-))
後ほど橘俊綱について調べたいと思います。(多分2回目です(*_*))
さて、今朝は、須恵小太良こと藤原家基 は
藤原師実 → 藤原家忠 →養子:藤原家光(父:橘俊綱) → 須恵小太良こと藤原家基
という内容をご紹介いたしました。(*^。^*)
包囲網は確実に狭くなっているようです(p_-)
では(^・^)
[57] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月05日 10時14分13秒 ) | パスワード |
皆様、続けまして 藤原家光(藤原家基の父)の父である
橘俊綱 についてですウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E4%BF%8A%E7%B6%B1
橘 俊綱(たちばな の としつな)は、平安時代中期から後期の官人・歌人。
摂政・関白・太政大臣を務めた藤原頼通の次男として生まれるが、頼通の正室・隆姫女王の嫉妬心のために[1]、讃岐守・橘俊遠の養子とされる。『今鏡』によると、俊綱の母・祇子は俊綱を懐妊したのちに橘俊遠の妻となったが、懐妊がはっきりしない頃であったため、俊綱をそのまま俊遠の子としたともいう[2]。実際には、以降も祇子は頼通の子を儲けていることから、隆姫への配慮のために、懐妊した祇子と俊遠を形式的に夫婦としたとも考えられる[3]。
摂関家の子弟にもかかわらず、尾張守・丹波守・播磨守・讃岐守・近江守・但馬守と地方官を歴任し、位階は正四位上にとどまった。
★本当は藤原頼通の次男です。
造園に造詣が深く[4]、日本最古の庭園書である『作庭記』の著者の有力候補とされる。伏見の別邸は俊綱自ら造園を行い、「風流勝他、水石幽奇也」(『中右記』)と賞賛された。『今鏡』において、弟の藤原師実が伏見の別邸を突然訪ねるも俊綱が豪奢にもてなした話[2]や、俊綱が白河院に対して、院が造営した鳥羽殿より伏見の別邸の方が優れていると問答をしたとの話[2]が語られている。
説話[編集]
『宇治拾遺物語』には、昔尾張国の俊綱(すんごう)と言う僧侶であった時、熱田神宮の大宮司に侮辱を受けたが、のちに関白の息子として生まれ変わり尾張守となって、今度は熱田神宮の大宮司にかつての雪辱をした、との説話がある ★・・・・(*_*)
系譜[編集]
父:藤原頼通
母:藤原祇子 - 藤原頼成の娘
妻:源隆国の娘 男子:藤原家光 - 藤原家忠の養子 ★★ここです
生母不明 男子:橘兼長
女子:鳥羽天皇藤壺女御
女子:源師忠室
と言う事は・・・ 須恵小太良こと藤原家基 を遡っていくと・・藤原忠平に繋がると言う事ですね。
藤原忠平 → 藤原師輔(伊尹の父・義孝の祖父でもあります)→ 藤原兼家 → 藤原道長 → 藤原頼通 → 橘俊綱 → 藤原家光 →
★そして「須恵小太良こと藤原家基」
ふぅ〜( ^^) _旦~~ たっせいかん(^・^)・・はっ(゜.゜)
(ー_ー)!! ダメですね。もっと調べなければ「平河」の真実には辿りつけません。
では、しばし休憩いたします。<m(__)m>(^・^)
[58] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月05日 13時18分50秒 ) | パスワード |
皆様、やっぱり、休憩できません(@_@;)
だって・・・・
須恵小太良こと藤原家基 の父:藤原家光の 兄(厳密に言えば従兄弟ですね)の藤原忠宗の妻は・・
藤原家保の娘でした(@_@;)
つ〜ことは(こら、はしたない(ー_ー)!!との天からの声が)
藤原忠宗の妻は藤原家成の兄弟です
あいや〜〜〜\(゜ロ\)(/ロ゜)/ (突然不思議な声が出てしまいました<m(__)m> 何処のお国の方・・)
どうしよう(@_@;)・・・どうしようも出来ないですね・・(ー_ー)!!
あいやまてよ(;一_一) そうか、これは全て仮定のお話ですから(^・^)・・(-.-)
仮定その@
球磨の「藤原季隆」 が 藤原長実の子「藤原季隆」と仮定したら
藤原季隆と藤原家成 はふた従兄。
仮定そのA
球磨の「藤原家基」 が 藤原家光の子「藤原家基」と仮定したら
藤原家基の伯父「藤原忠宗」の妻の兄が「藤原家成」
これは、あくまでも仮定ですから・・(^・^)・・(-.-)
それと、こちらは現実の話ですが、伝承と時間軸が何だか合わないのです。
伝承では平河(良峯)は安則の代に「菊池経頼」を頼って下向してその後球磨に来た。
となっていましたが、
@最初に平河(良峯)が師澄?の代に球磨に来たのは1063年(これは記録で残っています)
A平河師高が球磨に来て最初に行った有智山万福寺建立とあるのは久寿元年(1154年)。
では、あまり記録が残っていなかった菊池経頼。この方の情報を見つけました。
菊池氏の紹介 http://wwwc.dcns.ne.jp/~m.t-kiku/kikuchisinosyokai.html
3代 経頼 菊池経隆の子。延久五年(1073年)八月生まれ。保安四年(1123年)51歳にて卒。従四位
おやっ?何だろうと。丁度、この方がお元気だった頃の記録が平河にはないような気がしますが・・・
もう、こうなれば真実を知りたいです。
真実は何かを知りたいのです。
出来れば、何の憶測もなく疑念もなく、スムーズに情報が見つかるのが一番なのですが。
きっと、何かを隠さなければいけなかったのではないのかな?とも感じています。
例えば、亡くなったとされていた方が生きていらしたとか・・
そして、「平河義高」「平河師高」この二人の方の関係がやはり見えて来ません。
私は、子供の頃からずっとこう言われて大きくなりました。
「平河義高公が子孫である球磨の平川の人達を守りなったとよ。今、平川と名の付く人が生まれてこれたのは「義高公」のお陰よ。」と。
早く、真実を見つけたいと思います。
「平河義高」「平河師高」お二人とも、祖母の大事な先祖もしくは先祖に関係するとても大事な方々ですから。
では(^・^)
[59] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月05日 17時27分24秒 ) | パスワード |
皆様、昼間のコメントをアップして、同じ所を考えてもこれまた一緒だな(^・^)と思いまして、今まで、「名前」を手掛かりに、数時間画面とにらめっこをしておりました。
特にgoogleブックでは、サイト検索と違い、かなりの確率で、情報が挙がってくるので、期待して、例えば「義高」「吉高」「義隆」・・・・
と入力して頑張っているのですが、中々情報までは辿りつきません(*_*)
かなり、目が真っ赤に充血してきたので(あなた何をやっているの?(;一_一)との声が)
でも、一般の人が理解しているであろう(常識として)歴史の範囲でさえ、解っていなかったので、昨日からの調査はとても勉強になりました。
では、しばし休憩。(゜.゜)あっ (ー_ー)!!ではなく
家の事をしま〜〜〜す(^O^)/(お掃除に料理に・・ああ〜白石様のような奥さんが居てくれたらな〜とつくづく思う私でした(^・^))
[60] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月05日 17時46分16秒 ) | パスワード |
追記
そもそも、何で「藤原家成」にこだわったかと言うと・・
「糖尿病」だったからです(*_*)
一昨日から調べていた方々結構「糖尿病」の方が多くて・・・
(えええええええええええええええっ(ー_ー)!!との声が合唱で聞こえて来た)
あの・・
現在の平川一族(うちの方ですが)伯父・父の従兄本当に殆どみ〜んな
「糖尿病」だからです(*_*)
痩せているけど「糖尿病」のあのパターンです(*_*)
きっと、私もいつかは・・と
だって、子供の頃から、伯父さん叔母さん達、私に宣言していたのですから
「うちの糖尿病は平川の遺伝バイ」と(-.-)
それで・・・
かなりの確率で調査している人物に「糖尿病」の文字が記述されていて・・
うん?これは(゜.゜)
と思った訳です。(*_*)
皆様、どうかお笑いください(*_*)
ちなみに、あとアレルギーが皆ひどいです。
祖母の兄弟は祖母以外みんな「ぜんそく」で亡くなっています(*_*)
と言う事で本当は「糖尿病」が気になっていた・・
というお話でした(*_*)
[61] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月06日 16時42分59秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。(^・^)
昨日のコメントで
仮定その@
球磨の「藤原季隆」 が 藤原長実の子「藤原季隆」と仮定したら
藤原季隆と藤原家成 はふた従兄。
ここは時間軸が合いませんでした。(*_*)すいません。仮定はボツですね(*_*)
本来、合志九郎こと藤原季隆(季高)は菊池一族の合志氏となるのですよね。
「山江村誌」より転記します。
地頭の藤原季高合志九良は、藤原(菊池)経明の一族であり、「藤氏北家家系図」(種元弘一郎氏所蔵)によると、
「合志経明 → 孝明 → 孝綱 → 合志九郎季孝 → 基季 → 保基 → 基平 → 隆重」と見える。
本貫地は「肥後国合志郡内高永」で、鎌倉末期には「球磨郡永里村」を加え、一族から岡本氏が出ている。
と記述されていました。「季」・「基」という字が多いです。それと「保基」と言う名前が・・
合志氏・岡本氏 は菊池一族であったと言う事は、日本の苗字七千傑様の《合志氏/赤星氏/甲斐氏》姓氏類別大観を拝見して理解していましたので、今日はもう一度、合志氏の姓氏類別大観をじ〜っと見つめながら、先ほど記述した内容を見ていたのですが・・・
本当に何も解らないド素人がこんな事を言うと叱られそうなのですが・・
でも何だか、「山江村誌」に記述されていた、合志九郎季孝の事が気になるのです?何だろう位置と言えばいいのか・・??
何でだろう、日本の苗字七千傑様の《合志氏/赤星氏/甲斐氏》姓氏類別大観と違い、何て言ったらいいのでしょうか?何かがもやもや引っかかる。??
日本の苗字七千傑様の《合志氏/赤星氏/甲斐氏》姓氏類別大観は、じ〜っと見つめていても(すいません<m(__)m>偉そうに言って)納得出来るのですが、
もう一回見ますね(゜.゜)
合志経明 → 孝明 → 孝綱 → 合志九郎季孝 → 基季 → 保基 → 基平 → 隆重
・・・・・はっ!(゜.゜) わかりました\(◎o◎)/!
上記の系図は何代か飛ばされています。(多分ですけど)
もしかしたら2代ほどでしょうか? 何で?
??????????????????????????
(゜.゜) 合志経明と言う方は菊池経頼と兄弟ですか?
菊池経頼は昨日コメントしましたが、
延久五年(1073年)八月生まれ。保安四年(1123年)51歳にて卒
兄弟と言う事は1073年以降に生まれていると言う事ですよね。
問題は、建久8年(1197年)の肥後国球磨郡図田帳に
地頭 藤原季高(季隆)字合志九良 と記録されている事です。
と言う事は、この時にはもちろん 藤原季高(季隆)字合志九良は地頭として存在していなければいけない訳ですから、合志経明の4代あとくらいには名前がないと確かにおかしいわけです。
でも、当時の事を調べていると気が付いたのですが、殆どの人(男性)は、早くて16歳、一般的に20歳前後には子供がいますよね。
孫となると35歳〜40歳くらいにはすでにいたようですね。
そうなると合志経明から4代後の「季高(季隆)」さんはちょっと早い。
・・・・もしかしたら「季高(季隆)」さんが違う時期に二人いたとか・・
何を下らない事で悩んでいるのか?と思う方もいらっしゃると思うのですが、
(確かにくだらないかも(*_*)) 何で、きになるのかな?
多分、系図に出ている方々の名前についている「字」だと思います。
(この頃、名前ばかり見ていたからかな・・(-.-))
「季」「基」「隆」「孝」「保」
この頃、この文字と「家」「定」この名の付く人ばかりを見ているような・・
気のせいかな?
所で、本題に戻り平河の調査なのですが、自分なりに、何だか何か見えてきました(人物が解ったと言う訳ではありません(ー_ー)!!)
球磨郡内で所領がどのように分配されていたのかを見ながら、何となくですが全体が見えてきました。
この事につきましてはのち程コメントいたします(^・^)
では(^・^)
[62] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月07日 01時44分24秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
この頃、この人、「平河」の調査はどうなっているの?とお思いの方もいらっしゃると思います。
多分、中には私が、何か混乱しているのでは?とお感じの方もいらっしゃるかも知れません。
実際、調べれば調べるほど、はっきり言って意味が解らない事だらけです。
自分だけでは、どう理解すれば良いのか解らなくなってきています。
まず、今までの調査の中での最大のポイントは、鎌倉時代において行われた「永吉庄」及び「西村」の所領に関する訴訟及び越訴の件でした。
実際に記述が沢山残っており、この事で、先祖「平河」に関連する方々も判明して、大変ありがたく思っています。
ただ、現在、系図をもとに鎌倉以前の平河(良峯)について調査していて、上記の訴訟にも繋がる、平河師高の所領没官についてどうしても理解しがたい内容が出てまいりました。
過去のスレッドでのコメントでも、数回お話したかとは思うのですが、平河師高の所領没官に関しては、「謀反他に勝る」という理由でした。
この原因となったのが (複数の書籍等で以下の内容は殆ど共通です)
草部貞倫及び重平その他同族5名が守高(師高)を追い掃い、城内に押し入って、種々の雑物や人馬をとらえ、田畠を奪った。
この事が謀反他に勝る」に繋がっているとなっており、
その後、没官された師高の所領は文治三年(1187年)六月関東御教書によって師高子息師貞に安堵された。
これが、今まで理解していた内容でした。
では、皆様、私が本日見つけた文書をご覧ください。この内容は「山江村誌」にもありましたが、それがいつの事であったのかは記述されていませんでした。
天養1年12月19日 高野山文書又続宝簡集百二
久万郡住人貞倫并舎弟六郎重平等、追掃同郡住人守高城内、押既収種種雑物人馬 虜領彼所領田畠事、与力人日向国真幸院住人字小郡司貞重波多利三郎別当正晴入田太郎貞明和良比草次末平草藤次貞守当国住人八代藤三重永同所従字四郎別当同舎弟○文中天養元年十二月十九日トアルニ依リ姑クココニ改ム。
★天養1年12月19日 とは西暦で1444年12月19日 です。
★この事が理由で所領を没官したとは考えられません。何故ならば昨日もコメントしたように
平河師高が有智山万福寺建立とあるのは久寿元年(1154年)だからです。
訴訟・越訴で使用された関東下知状案を転記します。ぜひご覧ください
前記省略
依実春朝臣之押領、良貞乍帯御下文等、一類六十余人佗傺、交山野、永削御家人名字事、生涯愁歎也、但難無以歩(前?)所帯、遺子息宰府、勤宿直事、著到無其隠、是随分忠節也、可然者、任右大将家御下文并相伝知行八十余年々紀、返給彼永吉。欲令勤仕重代御家人役云々、爰如良貞等所進遣于遠景(天野)・盛時(平)時六月十六日付文治三年奉書案者、平河三郎師高謀反勝他人由有其聞、然而冤罪程、給暇天所下遣也、早可安堵ノ由可下知也云々、如同所進遠景同年十二月状案者、下球磨御領、可早任御教書、被安堵平河三郎良貞身事、右去六月十六日御教書今月三日到来、子細云々者、早任状如本可令安堵云々・・
★平河三郎師高謀反勝他人由有其聞、然而冤罪程、給暇天所下遣也、
「冤罪」という言葉があります。「給暇天所下遣也」とはどういう意味でしょうか?
文書の中には「遺子息宰府、勤宿直事、著到無其隠、是随分忠節也」
遺子息は宰府にて勤務を行い忠節は十分尽くしていると書かれているのでしょうか?
★これ程の内容が記述されているのです。
現代で、漢文が読めない私がそれなりに読んでいても切なくなりました。
平河師高は何の冤罪をかけられ、そして、残された家族・一族が「一類六十余人佗傺、交山野、永削御家人名字事、生涯愁歎也」となり、そして、源頼朝は平河師高にかけられた何の罪をもって「冤罪」であったと認めたのでしょうか?
私は、冤罪をかけられ、球磨の地に戻る事が出来なかった先祖もしくは先祖に関係するであろうこの方、「平河師高」。この方の真実を知りたいです。
では。
[63] | 白石さんからのコメント(2014年04月07日 05時09分06秒 ) | パスワード |
今晩は ばそこんのちょうしがわるくて
にうりょくできません
まいにち ていますよ
がんはってくださいね
おおたしは
きくちけいすにのる こうしくろうは さからしと
かいていますね
[64] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月07日 05時18分44秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
白石様、お久しぶりです。
コメントありがとうございます。
パソコンの調子が悪いのですね(*_*)
でも、お元気そうで、本当に安心しました。
やはり、合志九郎(九良)は相良氏ですね。
解りました(^・^)
コメント頂けて、本当に嬉しいです。
とても心強くなります。
本当にありがとうございます
頑張りますね(^・^)
では。
[65] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月08日 00時48分06秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。(^・^)
気分を変える為に、今日(昨日になりました)は、小倉足立妙見宮のしだれ桜を見て来ました。
今が、満開で、それは美しかったです。
普通の桜も好きですが、私はしだれ桜の方が、より美しく感じます。
花びらの一つ一つは小さくて、でも小さくてもとても可憐で、空からカーテンが下りているような、そんな感じで、しばらく、その美しい光景を眺めてきました。
では、本日、調査した情報です。
藤原師高と菊池氏の繋がりがわかりました。
こちらをご覧ください。(-.-)
藤原長方 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%96%B9
藤原 長方(ふじわら の ながかた)は、平安時代末期の公卿・歌人。父は権中納言・藤原顕長(「夜の関白」藤原顕隆の子)。また母は藤原俊忠女であるため、藤原俊成の甥、藤原定家の従兄に当たる。
系譜
父:藤原顕長
母:藤原俊忠の娘
妻:藤原通憲の娘 長男:藤原宗隆(1166-1205)
次男:藤原長兼(1162-?)
三男:藤原時長(?-?)
妻:江口遊女木姫 四男:藤原兼高(1179-1239)[1] ★脚注を見て下さい
妻:藤原師高の娘
妻:不詳(生母不明)の子女 五男:藤原頼房
六男:藤原長隆
男子:顕瑜(?-?)
男子:乗願
脚注 ★★
1.^ または、生母は藤原師高の娘。
★藤原師高には娘がいらしたのですね。
では続けます。
藤原長方の 母:藤原俊忠の娘 と言う事で
藤原俊忠 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E5%BF%A0
藤原 俊忠(ふじわら の としただ、延久5年(1073年)- 保安4年7月9日(1123年8月2日))は平安時代後期の公卿、歌人。藤原北家御子左流、大納言藤原忠家の次男。従三位・権中納言。二条を号す。
系譜[編集]
父:藤原忠家
母:藤原経輔の女[1](あるいは藤原敦家の女[2]) ★★ここです
妻:藤原敦家の女 男子:藤原忠成(1091-1158)
男子:藤原忠定
男子:藤原公長 - 藤原通季の養子
男子:藤原俊成(1114-1204)
男子:藤原俊定 - 藤原知通の養子
男子:快修(?-1172?)
生母不明 男子:禅智
男子:仁助
男子:寛豪
男子:尊忠
男子:晴忠
男子:頼俊
男子:頼仁
男子:禅寿
男子:仁証(1113-1189)
男子:寛叡
男子:俊海
男子:忠海
女子:藤原豪子 - 徳大寺公能室(実定母)
女子:藤原伊通室
女子:藤原師綱室
女子:藤原俊子 - 藤原顕長室(長方母)
女子:藤原光房室(経房、光長母)
女子:藤原忠子(または俊子[2]) - 藤原顕頼室(光頼、惟方、成頼母)
女子:藤原知通室
かなり、長い系譜になりましたが 藤原俊忠の母は藤原経輔の娘
すなわち菊池氏の祖菊池則隆の父「藤原政則」と藤原俊忠の母は兄弟と言う事になります。
整理しますと
藤原隆家 → 藤原経輔 → 藤原俊忠 → 藤原長方(藤原経輔の曾孫)妻 藤原師高の娘
と言う事です。
ちなみに
藤原長方の父方の祖父は藤原顕隆。この方の妻は
藤原悦子 - 藤原季綱の娘です。
藤原季綱の兄弟は藤原季兼。
藤原季兼の子は、藤原 季範そして藤原行遠の妻であり二階堂氏の祖 二階堂行政産んだ母 でした。
では、今晩はここまでにします。(^・^)
[66] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月08日 09時06分58秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
昨日のコメントを今朝、見直ししていた時に、気が付きました。
藤原長方の系譜
父:藤原顕長
母:藤原俊忠の娘
妻:藤原通憲の娘 長男:藤原宗隆(1166-1205)★★ここです\(◎o◎)/!
次男:藤原長兼(1162-?)
三男:藤原時長(?-?)
妻:江口遊女木姫 四男:藤原兼高(1179-1239)[1] ★脚注を見て下さい
妻:藤原師高の娘
妻:不詳(生母不明)の子女 五男:藤原頼房
六男:藤原長隆
男子:顕瑜(?-?)
男子:乗願
脚注 ★★
1.^ または、生母は藤原師高の娘。
妻:藤原通憲の娘 長男:藤原宗隆 この妻の父藤原通憲とは「信西」の俗名でした。
すなわち、藤原長方の妻は信西の娘と言う事です。
球磨の「平河」とは関係ないのかも知れませんが、一旦調べ始めたら、様々な情報が出て来て、非常に興味を持ってしまいました。
もちろん、名前をもとにした調査も継続中です。
それと・・・
「平河三郎師高謀反勝他人由有其聞、然而冤罪程、給暇天所下遣也」
この言葉の意味が伝える真実も、もちろん調査中です。
そして・・
上記の言葉「給暇天所下遣也」は、ニュアンスとしてですが、意味がわかりました。
「暇を給わり、天に遣わされた。」と言う事でしょうか・・
さて、調査、頑張ります(^・^)
[67] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月08日 16時23分33秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
今日は、「依高」と言う名前を「頼高」「頼隆」と変化をもって調査していたのですが、「藤原頼隆」と言う名前でgoogleブックで検索をしていた所
王朝貴族の婚姻と家族 - 284 ページ より
藤原寅任(三條家)、藤原氏忠(大炊御門家)、藤原爲定(御子左家)、平惟忠(桓武平氏)、藤厣公宗(西圃寺家)、藤原藤房(万里小路 ... 源持房は師重(権大納言)の男(北畠家、絶家)、藤原基成は基藤(権中納言)の男(園家)、藤原頼隆は経頼(権中納言)の男(北家・ ...
★藤原頼隆は経頼(権中納言)の男 とあり???と。
もう少し探してみると今度は・・・
平安時代の信仰と宗教儀礼 より
この時、藤原道兼も春日に参詣。道兼の袓父師輔は源俊賢の外祖父。また道兼の叔父忠君の女は俊賢の室。(注 2 (右衛門権佐。左頭中将源経房の代官。(注 3 5 公信の兄 ... 立、」とあるが、記主源経頼は行成の婿であり、同居していた可能性がある。
★師輔・源経頼・行成 という名が表示され早速確認しました。
源 経頼 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%B5%8C%E9%A0%BC
源 経頼(みなもと の つねより、寛和元年(985年) - 長暦3年8月24日(1039年9月15日))は、平安時代中期の公卿。生年については貞元元年(976年)の説もある。家系は宇多源氏。左大臣源雅信の孫、参議源扶義の次男。母は讃岐守源是輔女。兄弟姉妹に源成頼(佐々木氏の祖)・上東門院小少将がいる。官位は参議正三位行左大弁。『左経記』『類聚符宣抄』などの著者。
父:源扶義
母:源是輔女
先妻: 源清房(従四位下少納言)
尊覚(権少僧都)
済延(権大僧都)
隆昭(延暦寺)
女子-源隆国室
女子-藤原基房室
後妻:藤原行成女 源信房(正四位下若狭守) ★藤原行成女です
女子-藤原資仲室
(;一_一)でも、「頼隆」と言う名前がありません(-.-)
それに、時間軸も合わないような・・
「平河」の記録から、「依高」は1100年代前半に誕生している可能性があると考えているのですけど・・
最初に表示されていた
★藤原頼隆は経頼(権中納言)の男 この言葉とは関係ないのかも知れません・
でも、気になるのが「経頼」という名前ですね??
平河(良峯)が頼ったと伝授されている人物は「菊池経頼」
★藤原頼隆は経頼(権中納言)の男の「経頼」さんはどなた?なのでしょう??
関係のない人を調べている可能性は「大」なのですが、毎回毎回、何だか??となりながら迷路から抜け出せずにいます。(@_@。
[68] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年04月08日 20時35分03秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>関係のない人を調べている可能性は「大」なのですが
インターネットの検索頼りでは、活字化された情報しか行き着くことは不可能。
例えば4万人が収録されている「尊卑分脈」は、洞院公定が中古の多くの古文書類、系譜類を参考に再構成したものです。
ウィキにしても、その延長線上でしかありません。
尊卑分脈の索引に、「依」項のデータは少ないし平河関係は皆無。
下記URLで確認して下さい。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991595
そうは言っても、ここが捜索の起点でしょう。
その他の活字化されていない索引情報も駆使すべきでしょう。
本当は活字でなく、古文書などの文字映像がパターン検索できると良いのですが、現時点ではGoogleを始め多くの検索エンジンでは不可能です。
まだまだ昔ながらの書籍を丹念に渉猟することが重要なことは変わりません。
[69] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月08日 21時40分38秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
やはり、インターネットをメインとした情報調査には限度があると言う事ですね。
これから尊卑分脈での調査も加えていきます。
情報を頂きましてありがとうございました。
時間は、しっかりありますので、明日から、図書館以外の古本屋などでの書籍調査も同時に行っていきます。
がんばります(^・^)
[70] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月09日 00時31分07秒 ) | パスワード |
皆様、調査の途中報告です(^・^)
以前、私は、平安時代に木綿葉川(球磨川)の詩歌を詠んだ方がいらっしゃるとご紹介をしていました。
その時は、全体が(歴史背景等)が全く解らずにコメントをしていたのですが、今日あらためて、この情報を確認しました。
前回、コメントした時とは違います。
平安時代の球磨の状況があらためて理解できました。
夏来れば 流るる麻の木綿葉川
誰水上に禊しつらむ
この詩歌を詠んだ方は
「藤原定隆」 藤原家政の孫 藤原家政は先日コメントした「富家殿」こと
藤原忠実の兄弟です。
あらためて確認します。
藤原定隆 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%97%a4%e5%8e%9f%e5%ae%9a%e9%9a%86
藤原 定隆(ふじわら の さだたか)は平安時代後期の公卿。権中納言・藤原清隆の子。官位は従三位・左京大夫。
保延7年(1141年)従五位下・備中守に叙任される。久安4年(1148年)に従五位上に進み、久安6年(1150年)但馬守に任ぜられる。
仁平2年(1152年)加賀守に任ぜられる。仁平3年(1153年)正五位下に叙され、久寿元年12月(1155年2月)に右兵衛権佐を務め、春宮権大進を兼ねる。保元2年(1157年)従四位下・皇太后宮亮に叙任されると、丹波守・三河守・越中守・伊予守・備中守と各国の受領を歴任。
★各国の受領を歴任とあるので、その時に球磨川を知ったのか?それとも、球磨川(木綿葉川)の万葉からの言い伝えを何方かに聞かれたのか?
球磨川(木綿葉川)がこの方にとって印象に残る「川」であるのは確かだと思います。★
系譜
系譜[編集]
父:藤原清隆
母:藤原家子(藤原家政の娘) - 鳥羽天皇の乳母。★ここですね。
妻:源盛邦の娘 男子:源俊隆
妻:不詳(生母不明の子女) 男子:源保隆
女子:藤原隆子(藤原頼実室)
女子:藤原親雅室
では、ここで祖父の藤原家政について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%94%BF
藤原 家政(ふじわら の いえまさ)は平安時代後期の公卿。関白藤原師通の次男。
寛治2年(1088年)に従五位下に叙位。同8年(1094年)侍従となり、同年昇殿。承徳2年(1098年)左中将、康和4年(1102年)参議、従三位と進み、永久元年(1113年)に正三位に至るが、2年後の同3年(1115年)に36歳で早世した。
父が早く他界した後は、祖父の師実に養われていたという。『富家語』第138条には、師実が外出から戻った際にその足を洗う役目を少年期の家政が務めていたことが語られている。
★「富家語」というのがあるのですね。
★外出から帰ったら足を洗う・・・何処かの家にも同じ風習があります。(-.-)
さて、最大のポイントは藤原家政の「妻」にありました。
では系譜を
父:藤原師通
母:藤原良綱の娘
妻:藤原公実の娘
妻:藤原顕隆の娘 ★ここです(-.-) 男子:藤原雅教(1113-1173)
妻:橘以綱の娘 男子:行政
生母不明 男子:尊覚
男子:覚安
男子:道勝
女子:三条局(?-1138) - 鳥羽院女房、妍子内親王母
女子:藤原家子 - 藤原清隆室、従二位、近衛天皇乳母
★妻:藤原顕隆の娘
藤原顕隆は「夜の関白」すなわち、昨日からコメントしています
「藤原長方」の祖父です。
と言う事は藤原長方の父藤原顕長と藤原家政の妻は兄妹。
藤原家子がもしも「藤原顕隆の娘」の子であれば・・
藤原長方(妻・藤原師高の娘)と木綿葉川(球磨川)の詩歌を詠んだ藤原定隆は
従兄弟という事になります。
夏来れば 流るる麻の木綿葉川
誰水上に禊しつらむ
藤原定隆はその目で木綿葉川(球磨川)を見た事があるのでしょうか?
それとも、とある人物「X」(女性か男性かはわかりませんが)から
木綿葉川(球磨川)の風景を聞き、そして、古来から伝わる球磨川の伝承を聞いて、その光景を頭で描いてこの詩歌を詠んだのでしょうか・・・
今の私にはその謎は解りませんが、私の故郷の球磨川を鍵に
藤原長方(妻・藤原師高の娘)と詩歌を詠んだ藤原定隆が繋がったという
お話でした(^・^)
と終わろうとしたのですが・・・んんんん?!
あれっ?(;一_一)はっ(゜.゜) あっ!!
気が付いていませんでした(-.-)
藤原家政の妻:橘以綱の娘 「橘以綱」は宮原(橘)の先祖と言われている
橘則光の兄弟「橘則隆」のお孫さんではあ〜りませんか!
時折、宮原(橘)の先祖が「うちはわすれておらぬかい〜〜〜〜」と。
「もちろん、忘れてはおりませぬ〜先祖様〜<m(__)m>」
では(^・^)
[71] | 白石さんからのコメント(2014年04月09日 03時11分37秒 ) | パスワード |
こんばんは
やっと 復活しました(^O^)
パソコンの中の問題か?と おろおろしましたが、一人で解決できました。ホッ
公卿類別譜 葉室に 堀川の文字が見え
堀川は 地域にもあるなあ と 思います。
高藤の系で
この 系は たしか 先祖が 百済氏が いた (母方)のでは なかったか?
飛鳥井氏も いたのでは?
と 思いますが、
子孫様 ちゃちゃくって ごめんなさい
この間から パソコンのことやら 職場の新人さんのことやら で 頭が飛び跳ねてしまって
コメントを 見ながら 過去に 調べた記憶が よび戻っては来るのですが
お役に立てなくて・・・
[72] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月09日 07時10分31秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございます。
パソコン復活したのですね(^・^) よかった〜\(^o^)/
堀河氏ですね。早速、確認いたします(^・^)
所で、今朝は、昨日調べていた所をもう一度確認しよう(^O^)/と思い、日本の苗字七千傑様の【藤原氏良門流】姓氏類別大観を拝見していました。
まず、「良門流」と呼ぶんだ〜フムフムφ(..)メモメモ・・と私は未だそこからでございます。(@_@。
そして、藤原定隆の父藤原清隆からを「猫間家」と呼ぶのですね。
昨日、「猫間」という文字を沢山見かけましたがそういう事だったのですね。
「猫間」とは?(゜.゜)・・まるで私の部屋のような・・
猫間家を進むと「土佐氏」に繋がっていくのですねφ(..)メモメモ
でも、「土佐」と言えば・・・あれっ?!・・関係ないのかな・・?
そして、気が付いたのですが、この頃調べている所に必ず「粟田口氏」あり(p_-)
あっ!ここにも(゜.゜)です・・
そう言えば、宮原(橘)の先祖、橘公業と橘公員(800年以上も経っているのに私には強いDNAが流れていますよ(^・^))は宝治合戦の時に粟田口から出撃したと記述されていました。
むむっ!!(p_-)
それと良門流近藤氏。 土佐の近藤氏とは関係ないのかな??
続けて甘露寺家ですが・・
家紋が三つ扇ですね。 三つ扇・・・みつおうぎ・・・?!
結構、三つ扇の家紋を使用されている家は現代多いのでしょうか?
猫と土佐と近藤と粟田口と三つ扇・・・??
朝から、不思議な気分でございます。
では(^・^)
[73] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月09日 08時11分35秒 ) | パスワード |
脱線します(^・^)
今度、娘がついに結婚する事になりました(^・^)
きっと、いえ必ず、幸せになると、心から喜んでいます。
相手の方の名字がですね・・
全国に現在21件しかないとこの前サイトで拝見しました。\(◎o◎)/!
クイズです(^O^)/
何と言う姓でしょう?
(ぎゃお!娘に叱られるかな(;一_一)・・まあいいや嬉しいもので(^・^))
★ただし、答えがお解かりになっても、絶対にコメントで、回答?されないようにご注意ください<m(__)m> (相手の方にすぐばれますので(-.-)ご迷惑がかかります<m(__)m>・・ならクイズにするな!との声が(;一_一))
ヒント
@彼の親戚(ふた従兄)はとてもとても足が速いです(娘の彼とはお顔は似ていません)
Aお好み焼きがとても美味しい県の出身です。
B昔の戦(いくさ)では必ず身に付けていた物が、文字に含まれます。
もう、このくらいで、スポーツがお好きな方はお解かりになると思いますが・
皆様、もう一度お願い致します<m(__)m>
コメントに回答は御控え下さいマセ。
何だかですね・・
これで二人が所帯を持ったら、この姓は全国で22件になる訳です。
其の事も、とても嬉しくて。(^・^)
ちなみに、何故少ないか、あちらのお父様に伺った所、何でも、江戸時代まで、そちらの姓は「当主」の家しか使えなかったそうです。(嫡男以外は別の姓を名乗っていたそうです)
その後、嫡男以外の子でも、そちらの姓が仕えるようになったようで、そこから増えて現在に到ると言う事ですね。(フムフム(-.-))
もちろん恋愛結婚ですが、何かのご縁があって結ばれるのですから。
私ごとですが、幸せな気持ちを皆様にもお伝えしたくなりまして。
子は親の背中を見て育つと言いますので、きっと「あんな風には絶対にならない(ー_ー)!!」と反面教師になったかな〜と思っています。
それはそれで、良かったかな〜と。
では(^・^)<m(__)m>
[74] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月09日 15時59分43秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
球磨弁をひとつ。
めちゃくちゃカッコイイ男の人(決まっている)人に対して言う言葉。
「むしゃんよか〜」です。
多分、漢字を用いると「武者が良い」(武者として決まっていると言う意味かな?)となります。
エグザイルのPV「FIRE WORKS」を見ていて思い出しました。
(あなた、何しているの?との声が・・ちょっと気分転換でございます<m(__)m>。でもこのPVは、火と水の対決、言うなれば「赤」と「白」の戦(いくさ)を表現していて、奥が深いのですよ〜)
今、調査中の所は平安時代。
私としては、一刻も早く、「むしゃんよか〜」の時代に突入したいのですが。
私の中の「血」はどちらかと言うと、荒々しくも凛とした「武者」の時代を見ていると
ワクワク・・ポッ(*^。^*)となります。
おっと(゜.゜)こうしてはおれません。
今日は、グリーンピースを使った豆ご飯をつくります(^O^)/
ご飯をセットしたら、調査、再開です。
じつは関東下知状の中に気になる記述をみつけたのですよね〜?
「仮名 千世松」 ・・後ほどご説明いたします(^・^)
では(^・^)
[75] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月10日 09時09分51秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
昨日コメントした「千世松」の記述は、今、調査中です。(p_-)
今は一つ一つを根気よく辿っていく事そして、古文書・文献をしっかり調査する事を目標に調べを進めています。
その一つに、平河(良峯)先祖書に記録されていた、
藤原義孝(良峯左近少尉義孝)の子息藤原行成。この方の子息をしっかり確認しようと情報を探していた所、ウィキには記述されていなかった、四男「三吉兼範」という方を見つけました。
三吉兼範・・三吉氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%90%89%E6%B0%8F
三吉氏(みよしし、みよしうじ)は、日本の氏族の一つ。藤原鎌足の子孫、藤原兼範(かねのり、藤原行成の子)を祖とし、備後国の国人領主として成長した備後三吉氏が有名。
備後国へ下向、国人領主として成長する[編集]
12世紀に兼範が近江国から備後国三吉郷に下向、その子兼宗(かねむね)が三吉大夫と称し、三吉氏の初代となった。比叡尾山城を拠点とし、国人領主として備後国内で勢力を拡大していった。
★兼範が近江国から備後国三吉郷に下向・・・この方ですね。
備後国三吉郷・・調べてみます( ..)φメモメモ
三次市(みよしし)は、広島県北部に位置する市で広島県北部の中心都市。
古代は吉備国の一部で、7世紀後半に同国が分割されると備後国に属した。
えっ?!三次市?!三次市!みよし・・・・・・・・
\(゜ロ\)(/ロ゜)/えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!
\(◎o◎)/!
何で?!えええええええええっ!
取り乱してしまいました。
実は、今度結婚する娘の嫁ぎ先が・・・三次市なのです\(◎o◎)/!
音楽のイベントで知り合って、意気投合。数年間はお友達としてお付き合いをして、本格的にお付き合いを始めて、ず〜っと遠距離恋愛で、去年から、彼が北九州に就職して・・・・・
嘘みたいです。何だか信じられません。(でも事実ですから)
彼が三次市出身で、私の知り合いからも
「よく、そんな遠い所の人と知り合ったね。よっぽど縁があったんやろうね〜」
とよく言われていました。
将来は、実家の三次市に帰る予定のようです。
でも、こんな事ってあるのですね。
娘が彼の御実家に遊びに伺った後に、私に「お母さん、三次はね、球磨のばあちゃんの所に良く似ていたよ。小倉みたいに都会じゃないけど、私は風景がとても好きだった(^・^)」
と言っていました。
わぁ〜・・・
でも、本当に驚きました。
人と人との出会いは縁があるからと言われますが、本当に嫁ぎ先のその土地は
娘にとっても地縁があったようです。
きっと、娘は幸せ者です(^・^)
では(^・^)
[76] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月10日 10時50分32秒 ) | パスワード |
今、日本の苗字七千傑様の 藤原氏伊尹流姓 氏類別大観を拝見していて三吉氏を確認しました。
でも、「三吉氏」が広島県の三次市に関係しているとは知りませんでした。
(というか、マダマダ解っていませんね(*_*))
成田氏の中に「助広」と言う方がいらっしゃるのですが、この方は成田助広であって、良峯(平河)から嫁いだ助広さんは「相良氏族」の助広さんだったので、別人だな〜と(゜.゜)
他に「師保」という方が2名いらっしゃるので、こちらも調べてみようと思います。
では(^・^)
[77] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月11日 00時09分45秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
本日ある情報がみつかりました。
それは「覚阿」と言う人物は二人いたと言う事です。
何を言っているのか良くお解かりにならないとおもいます。
まず、平河が領土に関して起こした訴訟・越訴で使用した、「関東下知状」をピックアップして、転記します。
ご覧いただいた後でご説明をいたします。
★マークで囲んだ記述を特に気を付けてご覧下さい。
如同所進元暦二年・建永二年・建長二年手継譲状等者、職為先祖相伝私領譲与也云久々・・・略章
肥後国球磨庄安富内三善而西村預所職事云々、如同所帯貞応三年正月御下文知案者、肥後国球磨郡内須惠荘是永、依地頭須惠後家狼藉之咎被召其職畢、★@於将軍御領永吉西村者、仮名千世松多年地頭知行各別知也★、更不可有違乱云々、★A如同所帯元仁二年二月沙弥覚阿譲状案者★、別鎌倉殿下文二通内、一通故大将御時、給永吉西村云久々、如同所帯嘉禄元年十一月御下文案者、肥後国球磨郡内永吉西村地頭職事、★B任外祖父沙弥永覚阿譲状★、★C可為近衛侍従沙汰云々★、如同所帯貞永元年九月師良等連所起請文案者、領家方年貢為詰所、不可到未進対捍
★@に関しては後日調査いたします。
問題は、まず
★Aと★Bの 「沙弥覚阿譲状案者」 「任外祖父沙弥永覚阿譲状」 この記述です。
「覚阿」とは大江広元→覚阿(法号) と言う事で、様々な書籍にて「大江広元」であると記述されていました。
実際、今まで私も、先入観なしにそう考えていたのですが、ここ数日、毎日のようにこの「関東下知状」を読めないなりにも一生懸命理解しようと、繰り返し繰り返し読んでいて、何か、そう何かが「違う」と思うようになりました。
その何かに今日、気が付いたのです。
大江広元に関する記述は数か所に渡ってあるのですが、そこには「広元朝臣」と記述されているのです。例えば「広元朝臣譲状」という風にです。
所が、この箇所のみが「沙弥覚阿」です。
★Cに関しては、「近衛侍従」とありますが、その他の記述に「近衛中将実春」という名前があり、私自身の勝手な推測で、「大井実春」と思っていたのですが・・
大井実春は近衛中将ではありませんでした。
と言う事はこの近衛中将実春と大井実春は別人と言う事になります。
そこで、調査した所「近衛実春」又は「藤原実春」である事がわかりました。
北条康時の娘婿です。
こちらには「藤原実春」と記述されています
http://www.geocities.jp/operaseria_020318/hollyhock/warrior/hojo.html
こちらには「近衛実春」と記述されています
http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi12/htm
そして、どこにも「大江広元」の孫とは記述されていません。
では、問題の、「覚阿」というもう一人の人物ですが・・
鍵は藤原長方にありました。
こちらをご覧ください。ページの中段くらいに人物の説明が書かれています。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/meika8.html
藤原 長兼(本名頼房)[ 生没年不明 ] ★この方には本名があったのですね。
長方二男。母正五位下行少納言兼侍従藤原朝臣通憲女。(信西の娘)
号三条。法名・覚阿。 ★ここです。
建永元(1206)年10月20日任参議。
建保2(1214)年2月8日出家。
正三位・権中納言。
藤原 兼高[ 治承3(1179)年 〜 延応元(1239)年11月6日 ]
長方四男。母江口遊女木姫(或隠岐守師高朝臣女)。★藤原師高の娘です
嘉禎3(1237)年10月27日叙従三位。
正三位・参議。
※生年は尊卑分脈の没年齢61より計算。
お解かり頂けたと思います。
藤原兼高(母:藤原師高の娘可能性あり)の異母兄弟「藤原長兼」の法名も「覚阿」です。
偶然なのかも知れませんが、「覚阿」は確かに、現在解っただけで2名いたと言う事です。
鎌倉御領の預所が「大江広元」であったのは確かですから、「覚阿」=「広元」という考えになるのが正当なのだとは思うのですが、ただし、もう一度ご覧頂きたいのですが、「関東下知状」の私が転記した部分に関してはどこにも「預所」の話はありません。「地頭職」及び私領の譲状です。
於将軍御領永吉西村者、仮名千世松多年地頭知行各別知也、更不可有違乱云々、如同所帯元仁二年二月沙弥覚阿譲状案者
肥後国球磨郡内永吉西村地頭職事、任外祖父沙弥永覚阿譲状、可為近衛侍従沙汰云々、如同所帯貞永元年九月師良等連所起請文案者、領家方年貢為詰所、不可到未進対捍
歴史を理解していない・漢文も読めない私ですが、真実を知りたい一心で調査しています。
「もしかしたら、何かが見つかるのでは?」という可能性があるのであれば
必死に手掛かりを見つけていきたいと思っています。
本日調査した内容
@近衛中将軍実春朝臣は「藤原実春」であり北条康時の娘婿であった。
(確かに、「北条義時」の娘(竹殿)は大江親広の側室でしたが・・・)
A藤原長方の子「藤原長兼」の法名は「覚阿」であった。
以上です。
では(^・^)
[78] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月11日 11時40分03秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは(^・^)
あの・・すいません。昨晩は、睡魔と闘いながら(-_-)/~~~ピシー!ピシー!コメントをしたので、かなり、誤字がありました。
まず、
任外祖父沙弥永覚阿譲状 → (永はイリマセン(-.-))任外祖父沙弥覚阿譲状
です<m(__)m>
そして
近衛中将軍実春朝臣は「藤原実春」であり北条康時の娘婿であった
(@_@。 「中将軍」だなんて・・・・
近衛中将実春朝臣は「藤原実春」であり北条康時の娘婿であった
でございます<m(__)m>
どうもすいませんでした<m(__)m>
[79] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月11日 14時49分38秒 ) | パスワード |
皆様、
「近衛中将実春朝臣は「藤原実春」であり北条康時の娘婿であった」
この「藤原実春」と言う人がどうしても気になり色々探しているのですが・・
不思議な記述を見つけたのでご説明致します。
まず、こちらをご覧ください。
キーワードを「近衛中将実春朝臣」として検索をした所
★兼嗣男。母中将実春朝臣 女 〔系図纂要〕 という記述を見つけて早速調査。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/hokama.htm
ページを下げると記述がありました。
松殿 兼嗣[ 延応元(1239)年 〜 文保元(1317)年3月3日 ] ★
忠房二男。母上総介藤原重隆朝臣女。
弘長元(1261)年12月21日叙従三位。
正応3(1290)年正月出家。
正二位・参議。
※没年は、系図纂要による。
松殿 兼輔(改名通輔)[ 生没年不明 ] ★★改名 通輔
兼嗣男。母中将実春朝臣女〔系図纂要〕。★★ここです。
正安2(1300)年正月5日叙従三位。
正中2(1325)年以降、不見。
正二位・参議。
そこで、もっと情報を探るべく、松殿兼輔・父:松殿兼嗣を検索しても「中将実春朝臣」の情報には繋がりませんでした。(゜.゜)
そこで、「松殿家」を検索検索すると・・・ ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%AE%BF%E5%AE%B6
松殿家(まつどのけ)は、摂関家として創設された公家のひとつ。藤原氏北家嫡流の藤原忠通の次男・松殿基房が祖で、家名の由来は京都に松殿と呼ばれる屋敷を構えたことによる。
本来であれば五摂家の近衛家・九条家に並ぶ家格の家であるが、藤原北家嫡流でありながら摂関は初代とその子の2人のみ、その後は大体が参議、出世しても権大納言がやっとで、戦国時代には断絶した。
★★私が不思議に感じたのは実はウィキのページ下方にある
松殿家 系譜 だったのです。
忠房 → 兼嗣 → 頼房 ・・・★★ここです!!「頼房」
最初にご紹介したページ
http://www.geocities.jp/okugesan_com/hokama.htm
でも「頼房」はありません。
そして、きちんと確認をしなくては(゜.゜)と思い
日本の苗字七千傑様の【藤原氏摂家流】姓氏類別大観を拝見したのですがやはり「頼房」という名はありません。
がっ!しかし\(゜ロ\)(/ロ゜)/
偶然かも知れませんが、昨日の調査に「頼房」という名があったのです。
★もう一度この記述をご覧ください。
藤原 長兼(本名頼房)[ 生没年不明 ] ★★本名が「頼房」
長方二男。母正五位下行少納言兼侍従藤原朝臣通憲女。(信西の娘)
号三条。法名・覚阿。 ★★ 法名は「覚阿」
建永元(1206)年10月20日任参議。
建保2(1214)年2月8日出家。
正三位・権中納言。
単なる偶然なのかもしれませんが・・・
整理すると
@兼嗣男。母中将実春朝臣 女 という記述を発見。
A松殿兼嗣 の子は 松殿兼輔 であり母は「中将実春朝臣女」とある。
B何故か、ウィキでの松殿家系譜では 兼嗣 → 頼房 となっている。
C他の系譜にはそのような記述はない。
D偶然にも「頼房」は 藤原長方の子 藤原長兼の本名である。
Eこれまた、偶然にも、藤原長兼の法名は「覚阿」であり平河が訴訟で提出した「関東下知状」にある「任外祖父沙弥覚阿譲状」という記述の「沙弥覚阿」と同じ法名。
ここまで、かなり偶然が重なって???となったのですが・・
そして、「松殿兼輔の母」とgoogleブックで検索したところ・・・
公衡公記 2 - 14 ページに「松殿宰相中將通輔」(兼輔の改名)と表示されました。
松殿兼輔は「近衛中将実春朝臣」の後を継いだようです。
ここからは公衡公記を調べて「近衛中将実春朝臣」を探したいと思います。
ではしばし休憩です<m(__)m>(^・^)
あっ!!追記です。
過去、どうやら、先祖「平河」について、多分、大学の論文の対象とした方がいらっしゃるようです。
偶然一覧にブログが表示されました。
この方も「近衛中将実春朝臣」を探していらっしゃったようです。
でも、見つからなかったみたいです。(*_*)
そして、その方はコメントに★「外孫・・」と書かれていた内容は「広元」と思っていたけど、どうも違うようだ・・
と書かれていました。
本当に驚きました。 私は私の独自の捜査で、真実を見つけたいと思います。
では(^・^)
[80] | 白石さんからのコメント(2014年04月11日 19時56分38秒 ) | パスワード |
こんばんは
おひさしぶりです。(^0^)
Windowsのサポート切れに対応して、娘がパソコンを買ってくれました。一か月遅れの誕生祝いでした。
娘が身を削るようにして働いて(男も女もない 夜勤をしたりしています 国際空港 国際港で 検疫をしています)
買ってくれたもので とてもうれしく 申し訳なく思います。
子孫様 お嬢さんのご結婚が決まって おめでとうございます。
わたくしまで 幸せな気分になりました。
娘は まだ 何も なく 異性と知り合いになるチャンスもあまりないようで、お見合いを勧めたことがありましたが、まだまだ と のんびりした返事でした。
三次
以前 良峯に関して 三好 三善 など書いたとき、 7000傑様からのご指摘を受けたことを思い出しました。
三次に関して 隈さん という方の スレッドがありますが、あとから 姫紗羅と変えておられましたが、
共通しているご先祖様のように 思えます。
あちらは あちらで ながい道をたどるようですが
ご先祖様を尋ねるのははるかなロマンですね。
[82] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月11日 21時38分27秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は(^・^)
白石様、コメントありがとうございます。
お優しいお嬢様ですね。
お母様への感謝の気持ちがいっぱいのプレゼントですね。
家の娘は、結婚する彼と出会うまでは、私の失敗を身を持って体験してしまったせいか「絶対に結婚しない。彼氏もいらない」と言っていたのですけど、彼と出会って変わりました。
三次の人と偶然出会って、結婚するわけですから。
人の出会いは、やはり、縁なのだなと、つくづく感じています。
私が白石様とこちらのスレッドで、お会いできたのも必ずご縁があったのだと思います。
そういった目に見えない縁を昔の人はより理解して生活していたのでは?と思うのです。
さあ、もう少し調査を進めます。
今後ともご教示よろしくお願い致します。(^・^)
[83] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月12日 11時39分32秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
「近衛中将実春朝臣」の調査ですが、もしかしたら、この方?という人を発見(p_-)しました。
徳大寺実春
http://www.geocities.jp/okugesan_com/tokudaiji.htm
ページを下げて、丁度真ん中くらいに「実家孫」という系図があり
その中の公国 ★ 実重 この★マークの位置から下がって見ていくと「実春」とあります。
そこから少し下の公直 ★ 公員 ★マークの位置から下がるとそこにも、もう一人の「実春」さんが見えました。
調べてやっと見つかったと思ったら、今度は2名の「実春」さんが登場です。
ありゃりゃ。でも、養子に入った可能性もありますね(p_-)
徳大寺家は以前、調査している時に頻繁に挙がっていましたよ?(p_-)
もしかしたら、ここで、「徳大寺家」との関係が見えて来るのかな?
今日の調査目標ができました。
ウォーリーじゃなくて(ー_ー)!!「実春」さんを探せ!!です。
では、調査続行(^^ゞ
[84] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月12日 11時48分27秒 ) | パスワード |
追記
この訴訟に関してですが、「平河」に付いている「北条方」と訴訟された側に付いている「北条方」と北条が二つに分かれているようですね。
この訴訟は北条の内部抗争?にも関わっているのでは?とこの頃感じているのですが・・・・
(p_-)・・????
[85] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月12日 17時57分02秒 ) | パスワード |
皆様、こんにちは。
先日、「近衛中将実春朝臣は「藤原実春」であり北条康時の娘婿であった」とコメントした時に何故気が付かなかったのか?(;一_一)(*_*)
そう言えば、平河師里は北条重時の甥でした。
そして、北条重時も、「平河」を名乗っていましたね(p_-)
系図を見たのですが、何故か平河家伝授巻には「師里」の名が無いのです。??(今頃気が付きました(*_*))
でも、もう一つの良峯氏(平河)系図には載っていたのですが、よ〜〜く見ると、何故か「良貞」の下に・・・・と点で繋がっていました。
(わ〜これも気が付いていませんでした(*_*))
師種 → 師里 → 師門 になっています。
あれっ?平河師門は確か「久米郷」にいたはずです。
それも、かなり後の時代の記述だったと思いますけど・・・?
平河師貞以降の系図を転記した時に、「何だか怪しい?(゜.゜)」と思い「師貞」以降の内容をよく確認していませんでした(*_*)
ダメですね(*_*)
もう一度、綺麗に転記しなおします<m(__)m>
所で、この「平河」という姓を「コッソリ?」名乗っていたのは北条重時だけではなく少弐頼尚(平河左近允頼尚)もそうだったのですが、もちろん「山田城」を本拠地にした事が理由だと思いますが、やはり、しっかりと確認しなければ(-.-)と思い日本の苗字七千傑様の近藤氏・武藤氏・小弐氏の姓氏類別大観
を拝見していました。
そこで、何故か「武藤 資頼」この方をしっかり調べなければ!と思ってしまったのです。(しばらくぶりですが例の感でございます<m(__)m>)
何故か、解らないのですがメチャクチャ気になります。
そして、又、例の感からか、どうしても先日コメントした木綿川(球磨川)の詩歌が気になりまして・・(何か伝えたいのでは?と)
もう一度、詩歌の意味をご説明しますと、万葉の時代に八代の球磨川の河口に麻の葉が沢山流れて来ていて、それを見た人達は上流にはどのような人が住んでいるのだろう?と考えていた・・・という言い伝えなのですけれど・・
球磨川上流の中球磨・上球磨地区では、万葉の昔、麻の栽培が盛んに行われていて、干した麻の葉を球磨川で水洗いしていたそうです。
流れ出てしまった葉が八代まで到達したと言うお話です。
う〜ん「麻」か・・・
やっぱり気になるので日本の苗字七千傑様の「麻殖氏」姓氏類別大観を拝見します(^O^)/
ううううん・・・???
やっぱり気になります(゜.゜)
それはですね・・西光の本名なのです。「師光」です。この「師」の字なのです。
阿波忌部氏・麻殖氏・安房忌部氏・その他の家の系図を見ても、こちらの流れで「師」を使った名前は一人もいないのです。何故?!????
家成に養子に入った時に改名したのかな??でも、そのような記述は今のところ見つかっていないのです????
何故、「西光」だけ「師光」と「師」が付くのか・・・・
とても不思議です。(私が素人だからかな?・・・・)
と言う事で取り留めのないコメントですいませんでした(*_*)
では(^・^)
[86] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月14日 00時36分07秒 ) | パスワード |
皆様、今晩は。
もう、ニュースでご存じかとは思いますが、私の故郷、熊本県球磨郡の多良木で鶏インフルエンザが発生しました。
ニュースを見て驚いて、父にすぐ電話をかけました。
父は「起こってしまった事はどうする事も出来ないから。後は国の方針に従うだけだから。周りの人ともそう話をしているよ。」と言っていました。
父の話では、国道など主要道路では、消毒を行っていて、かなり、大変な様子でした。
今日は、雨が降ったので、あす以降も、道路や田畑などで、消毒作業が行われるようです。
数年前の宮崎での鶏インフルエンザの際は、私が生まれた宮崎県新富町での発生でした。
その時も、早く終結する事を心から祈ったのですが、今回、多良木での発生を聞いた時は、言葉が出なくなるほど驚いて・・
地元の人の気持ちを考えたら、心が苦しくなってしまいました。
一刻も早い終結を心から、心から祈ります。祈る事しか出来ません。
故郷の事を考えながら、とりとめもなく情報を見ていた所、偶然にも、その大事な故郷に関する記述を見つけました。
私の先祖宮原(橘)は、西園寺公経と替地をして、現在実家のある旧球磨郡久米郷を所領した事はすでにご説明していますが、その西園寺公経に関して見つけた情報です。
西園寺公経は球磨郡久米郷を歌に詠んでいたのです。
「鷹百首」(タカヒャクシュ)という西園寺公経の和歌集に収められていました。
鷹百首自体は、ネットでも見れるのですが、何せ、文体が読めないので、その球磨郡久米郷を詠んだ歌の話が載っていた書籍をご紹介いたします。
和歌の歌枕・地名大辞典 - 86 ページ より(googleブックで検索したので文字化けしていますが、ニュアンスだけでも(^・^))
一原歌一『應百首』西園寺入道前太政大臣(公経)の一一一番目の歌で、三とある。 I こめ山の峰とふ! !のますがきの羽がたの狩の名さ ... 球磨噌岍」と「筑前国風土記」逸文にある)の後市、球磨郡)の辺りに住んだ人。「古事記」に言う「熊襲」(玖磨郡と大「肥人」は、 ...
「こめ山の峰」・・白髪岳かな?黒原山かな?市房山かな?・・と(^・^)
故郷の事を思い、心が沈んで、離れているので、余計に不安で心配で・・地元の事を考えて涙が止まらなくなっていた時に、本当に偶然、この情報を見つけました。
私は、西園寺公経という方にとって、沢山の所領の単なる一つが球磨郡で、「心を留める場所では無かったのだろうと」ずっと思ってきました。
だから、この情報を見た時は、本当に驚いたのです。
そして、とても嬉しくなりました。
今、球磨の人は、大変な状況になっています。
でも、800年以上も昔に、西園寺公経が球磨を思い京で歌を詠んでいた事を地元の人が聞いたら、きっと喜ぶのではないのかな・・と思います。
大陸から渡ってきた方々が一国を立ち上げた場所です。
「熊国」「球磨国」の精神で、きっと乗り越えていけるはずです。
今日、この情報を見つけたのも、きっと「肥人よ負けるな!」との声援だったのかもしれません。
「フレーフレー多良木!フレーフレー球磨!\(゜ロ\)(/ロ゜)/」
では<m(__)m>(^・^)
[87] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月14日 11時14分25秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます(^・^)
皆様、どうか笑って下さい。ああああああああああああああ(@_@。
私はとんでもないおっちょこちょいです。
すでに、解っていた事をその時の調査時に背後関係など全く理解していなかった為に、又、調べていました(*_*)
昨日から久米郷という言葉と西園寺公経という名を何度も書いていて
「あっ(゜.゜)そうか!久米郷を治めていたのは久米三郎こと藤原家宗とその跡をついだであろう藤原真家。この人達を調べたら良いんだ\(^o^)/と。
そこで、何時間もかけて調査しながら気が付いたのです(*_*)
藤原真家はすでに「平河家について5」で調べていました。(;一_一)(@_@。
まず 藤原真家は
藤原真家・・・藤原行家の子
甥の左衛門尉薩摩守 経国の娘は藤原 顕綱(ふじわら の あきつな)の妻となったが、禎子内親王の乳母であった関係から後三条天皇に近く、次男の有佐は実は後三条天皇の落胤であったと伝えられている。
ここまでは、以前調査した事と同じですが・・・・
では藤原行家の父は・・・・藤原伊行
藤原伊行は・・
「藤原義孝の長男、行成を祖とする 世尊寺家」で〜す\(゜ロ\)(/ロ゜)/
今まで「ぐるりんぐるりん」と色々な所を調べて勉強して・・・
やっと解りました\(゜ロ\)(/ロ゜)/(遅すぎるとの声が・・・(*_*))
では、もう一人の久米三郎こと藤原家宗とは・・・
大炊御門頼実の子 母は 藤原伊行の娘でございま〜す\(゜ロ\)(/ロ゜)/
http://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e5%a4%a7%e7%82%8a%e5%be%a1%e9%96%80%e5%ae%b6%ef%bc%88%e6%b8%85%e8%8f%af%e5%ae%b6%ef%bc%89
整理すると
二人の久米三郎 藤原真家と藤原家宗は従兄同士でございます!
二人の祖父は「藤原義孝の長男、行成を祖とする 世尊寺家」の
藤原伊行でございま〜す!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
そ〜して!!藤原義孝は「求麻外史」及び「良峯姓(平河)先祖書」にあった
平河の先祖、「良峯左近少尉義孝」でございます。!
と言う事は 球磨の久米氏と平河は繋がっている「一族」と言う事になるのですね\(゜ロ\)(/ロ゜)/
そして、須恵小太良と平河も繋がっている可能性は非常に大!!
と言う事は・・・球磨の久米氏・須恵氏・平河は 「一族」と言う事になるのでしょうか・・・。
でも、須恵氏も久米氏も「藤原」を名乗っていたからすぐに調べられたけど
平河は「良峯姓」を名乗っているので、何がなにやら解らない事だらけでした。
何で「藤原」を名乗らなかったのかな????
でも、記録を照合するとどうも、最初に「良峯」を名乗ったのは「師高」ではなく、1180年頃に球磨に来た「平河義高」の可能性が高いのです。
先祖書は後で作られたから「平河義高」以降に「良峯姓」を付けたのかも??
鎌倉からの下知状などの記録は、最初が、1190年代。その時は「良峯姓」で来ていますね・・・
やはり、「平河義高」以降です。
むむっ(p_-)
それに、もうお解かりと思いますが、多分「平河義高」は「平河師高」の父ではありません(ー_ー)!!
どう考えても時間軸が合わない(ー_ー)!!
だって、「師高」が球磨の記録で最初に登場したのは「1144年」です。
「平河義高」が球磨に来て岩城に居城したのは相良長頼が球磨に下向する「18年前」とちゃんと記録に残っています。
上記の件については今、私自身「仮説」を持っているのですが、それは後日ご説明致します。(ありゃ?あてにならない(ー_ー)!!との声が何処からか・・)
でも、何で、「良峯」を名乗ったのかな?と。
もちろん藤原南家の「藤原尹文(良峯仲遠または仲連)」とも繋がっていそうなので「良峯」が濃いから??(;一_一)何て単純な事ではなさそうです。
ううううん??何で「盛高」「遠高」「高実」「師高」は「藤原」を名乗らなかったのだろう???
というか上記の系図も後で作られていますからね〜(?_?)
情報を積み重ねると、きっと真実に繋がるはずです。
どんな情報に繋がろうとも、私や弟・父・伯父・従兄・平川の親戚一同の
大事な先祖もしくは先祖に関係する方々ですから。
今、この時代にちゃんと生まれて来れた事を心から感謝しています(^・^)
では、調査続行(^O^)/
[88] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年04月14日 13時07分28秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>何故、「西光」だけ「師光」と「師」が付くのか・・・・ とても不思議です。
麻殖氏の通字は光であり、矛盾はありません。
西光の母は、藤原信西の乳母ですが出自は解りません。
恐らく中原氏と推定されます。
中原氏嫡流は師任以降、師を通字としますからね。
一族の中原基兼は、鹿ケ谷の謀議に加担しています。
中原師員、中原師連は鎌倉幕府評定衆です。
平河氏の通字と同じゃありませんか。
偶然じゃないと思いますよ。
中原閨閥を無視して鎌倉幕府は理解出来ませんよ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213.htm#001
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213.htm#002
あらゆる先入観を排除して調査を進めると良いと思われます。
[89] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月14日 14時18分53秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
本当の事を申し上げると、実は私が、この数日間、ずっと探していた人は
西光の母、藤原信西の乳母が誰であるかだったのです。
どう探しても情報は出て来ませんでした。
ですから、今日「中原氏」のご教示を頂いて、本当に感謝いたします。
ありがとうございます。
中原基兼は、鹿ケ谷の謀議に加担していた・・・
先入観は全て排除して調査を進める。これしかないですね。
所で、《中原氏閨閥図》を拝見しました。
そこで、驚いた事があるのです。
全く関係ないかもしれませんが聞いて下さい。
今、読んでいる「鎌倉遺文 鎌倉時代の政治と経済」という書籍に、
将軍家政所下文一覧と頼朝御判下文一覧が記載されていまして、平河に届いた下文は「頼朝御判」があったと他の書籍で読んでいましたから、これで手掛かりがつかめると喜んで探したのですが・・・
無いのです。
確かに下文は文治3年12月には届いていたはずなのに無いのです。
でも、その時期に他家に届いていた下文は2通ありました。
1通が 嶋津庄(充所) 惟宗忠久(事書内) 押領使補任
もう1通が 下野国寒河郡并阿志土郷(充所) 小山朝光母(事書内) 地頭職補任務
小山朝光の母は 寒河尼(八田宗綱の娘)でした。
ある程度調べて見たのですが、何が関係しているのか良く解らなかったのでコメントしなかったのです。
でも、今日、《中原氏閨閥図》を拝見して、すごく驚きました。
閨閥図の中に、八田(中原)宗綱と惟宗忠久の名が・・・
偶然なのかも知れませんが、平河に届いたであろう下文が一覧になく上記の名が下文一覧にあったと言う事が何を意味しているのか・・・
そうです。先入観は捨てるのでした(ー_ー)!!
今から、中原氏の勉強をします。(^・^)
では。
[90] | 白石さんからのコメント(2014年04月15日 01時38分27秒 ) | パスワード |
こんばんは
中原氏 小山 八田 惟宗
佐田 高岡に関してもでてくる言葉で
関してとは 以前しらべたときに 出てきて、関与しているようで、その先が どの資料を見たらよいのか 行き詰まっていたところでした。
コメントを拝見して わくわくしています。
[91] | 子孫よりさんからのコメント(2014年04月15日 08時24分54秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
白石様コメントありがとうございます。
何せ、私が、このようにぼ〜っとしている所がありますので、昨日のコメントの後で、色々調べていたら、「あれっ?これは、白石様が以前からお話されていた”佐田氏”に繋がっている(^O^)/」と気が付きました。
(すいません<m(__)m>すぐにピ〜ンとこなくて(*_*))
今後の調査で白石様が探されている情報が挙がってくると大変嬉しいです(^・^)
昨日は中原氏を見ていました。
平河が「北条氏」とかなり関係が深い事はすでに理解出来ていますが、以前、お伝えしたように「北条朝時の妻は大友能直の娘」と言う事で、ここから、三池氏そして、平河を名乗った平河左近允頼尚こと小弐頼尚に繋がるのですから、確実に手掛かりはあると考えています。
こちらのスレッドもすでに91。
かなりの情報量となってきました。
これも、皆様からのご教示のお陰です。
本当にありがとうございます。
新しいスレッドを立ち上げました。「平川家について11」です。
http://hikoshima.com/bbs/heike/101348.html
今後ともご教示の程どうかよろしくお願い致します。<m(__)m>(^・^)
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