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 投稿番号:101516 投稿日:2016年03月08日 21時31分32秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について31

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様のご教示のお陰で遠江国と球磨郡の関係がしっかりと見えて参りました。
ありがとうございます。

今後ともご教示の程よろしくお願い致します。

こちらは平川家について30 コメント79より続きます。

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月08日 22時15分54秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

早速ですが
佐原頼忠(相良頼忠)についてコメントさせて頂きます。

求麻外史等では佐原頼忠(相良頼忠)は球磨には下向せず遠江国に残ったとの記述が書かれています。
しかし、佐原頼忠(相良頼忠)の名跡はしっかりと球磨郡湯前町の史跡に残っていました。
久米郷の橘薩摩氏 佐藤光昭氏著の中に湯前町浄心寺(城泉寺)の国重文の石塔について書かれています。
久米郷の橘薩摩氏 佐藤光昭氏著より
中略・・
しかし十三重塔の銘文に「行事 藤原頼忠」と見え、頼忠は元久二年七月に惣地頭だった人吉次良が平家没官領たちにより罷免され、新しく補任された人吉荘惣地頭職相良長頼の異母兄弟であろう。
頼忠が下向したという確たる資料はないが、ここに造塔の行事と刻されている事は、久米氏と何等かの深い関係のあった事を示すものであろう。

とあります。
かなり以前、私は湯前町の浄心寺(城泉寺)についてコメントさせて頂いていました。
肥後国 くまもとの歴史 【湯前町】城泉寺(浄心寺)阿弥陀堂
http://yumeko2.otemo-yan.net/e361822.html
鎌倉時代の初め、この地方を支配していた豪族・久米氏によって建立。
茅葺、寄棟造りの阿弥陀堂は鎌倉期の建築といわれています。
堂内には木造阿弥陀三尊像が安置され、寛喜元年(1229)の銘があります。
境内の七重、九重の石塔には寛喜2年(1230)の銘があり、この4件が国の重要文化財に指定されています。
中略・・
本物の十三重塔は八代市に移され・・
※こちらの十三重塔に藤原頼忠(佐原頼忠)の名が刻まれていた・・と言う事です。
城泉寺(じょうせんじ)(明導寺)九重石塔
http://www.geocities.jp/kawai5510/kumamoto-myodouji-9sou.html

以前は現存する石塔の銘文を御紹介させて頂いていました。
「奉造立九重石塔一基、右志者為浄心往生極楽也、寛喜二年(1230)、庚刁(寅)、九月廿三日」
左側刻銘:「大檀那沙弥浄心、大工兼仏師幸西、小工栄幸、院主念西」

藤原頼忠(佐原頼忠)が球磨に来ていたという資料は残ってはいない・・
しかし十三重塔の銘文に「行事 藤原頼忠」という名はしっかりと刻まれていた。

というお話でした。
では(..)
[2]白石さんからのコメント(2016年03月10日 00時58分49秒 ) パスワード

こんばんわ
柳瀬の平川さんとの関係がわからないまま 
すこし 他の気になることをネットで見ていました。

つまり 
我が家のつながり・木下 坂本 平川 高岡 丸目 五藤 川辺 福島
田山 田中 小林 平江 山口 なりまつ 白石 etc

ここから
先日お話した 平川集落の阿蘇神社のことから
日本の苗字7000傑村山氏を見ると中臣氏・大中臣氏1をみると
・・・他にもいろいろ系があるのですが・・・
黒田鎌子がいて御食子の子・鎌足から藤原氏。

鎌子ー磐余ー荒猪ー布忍から村山氏

また
伊賀津臣命というひとがいて 子孫・伊香氏・・・柏原氏

椋垣氏】というのもあり
 中臣氏と同族。津速産霊命十三世孫鯛身命の孫御身宿祢の子真束が倉垣臣を賜姓される。
 近江大津宮朝13年(674)豊毘登は椋垣朝臣に改賜姓、鹿養以降は摂津国能勢郡大領、後裔の池田政扶の女は紀姓池田維実の妻となり後世の大名家池田氏の祖となる。この系の祖先に国摩大鹿島命がいるんですね。
多分 摂州多田院御家人高岡系図とからんでくるのでは?と おもうのだけど
・・・

それと 山口氏
村山氏にからんで 山口氏がいっぱい と思ってみていたのだけど
そこに 大根が日本ある紋があったのですよね。
でも 今日見たら あれっ どこにいったのか? 

あねが 山口のおばあちゃんが 家紋は ちょうじなんとか と 言っていたのだけど まだ 若くて ふんふんと聞いていただけで 夫婦で本屋で見つけて 大根紋。お墓かなんかで 覚えてはいたみたい。

また 占部家の源流系図総覧 というのがあり 伊賀津臣命は壱岐氏の祖先。
ーーーーーーーーーーーーー
壱岐氏は 
皇室と壱岐氏について | 壱岐と日本の神社というブログで後水尾天皇の子・霊元天皇の子を産むひとがおり現皇室へ。

松室さんの先祖は壱岐族で、すなわち、占部です。さらに遡ると、天児屋根命といわれ、五摂家のもとである、藤原氏の先祖でもありますが、松室さんは藤原氏といわず、「壱岐氏」といっています。

霊元天皇は後水尾天皇の御子です。霊元天皇には松室7流の中に女房になっておられる方があります。松室重敦の娘ー伊勢の局ーで、この方が有栖川職仁(よりひと)親王をお生みになり、この親王が有栖川宮の第5代となられましたが、その先代、正仁(ただひと)親王にお子様がなかったので、この職仁(よりひと)親王から松室の血が続くのであります。 ということは現在の天皇家にまで続いていることになるのです。

に閑院宮家ですが、この宮家は東山天皇からでています。そして同天皇の第一皇子「なおひと親王の御孫が光格天皇で、この天皇から、仁孝天皇ー孝明天皇ー明治天皇ー昭和天皇ー今上天皇、と続いています。

と書いています。

なんだかなあ ・・ という気がします。姉がしきりに言っていた母系の方はなりまつ だよ ということばから出てきた 。阿野の分家に山本があり 山本は こことのつながりは?だけど 母(佐田)の実父が山本です。

[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月10日 09時15分58秒 ) パスワード

白石様
御教示ありがとうございます。
〉姉がしきりに言っていた母系の方はなりまつ だよ

成松氏と戸次氏は同族ですよね。

私、以前から「気が付いた事が色々ある」と書いていた内容の一つが気になります。

相良氏族「内田氏」
内田 鎮次 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E9%8E%AE%E6%AC%A1
内田 鎮次(うちだ しげつぐ)は、戦国時代の武将。大友氏一族の豊後国鎧ケ岳城主戸次氏の家臣。戸次の二王の一人。
『柳河藩享保八年藩士系図』によると、相良氏庶流の内田宗頼(左衛門太夫)の子孫で代々肥後国山鹿郡内田村(現在の熊本県山鹿市菊鹿町下内田)の日渡城主であったが、文亀年間に日渡城没落以降、大友氏の庇護下に入るとする。
鎮次は大友氏の助勢を受けたまま戸次親家に仕官する。また大友義鎮(宗麟)より偏諱を受けた。同僚の森下備中(二代備中守、森下釣雲の父)と共に戸次家の政務、軍事、諸事などを担当したので、藤北戸次氏の権威を振るって、戸次の二王と称揚されたと伝わる。
家督は長男の鎮並が相続し、次男鎮家は分家する。

@内田鎮次は戸次親家に仕官する。また大友義鎮(宗麟)より偏諱を受けた。
A戸次氏の系に「平川氏」がある。
B戸次氏と成松氏は同族
C白石様のお姉様、母は「成松氏」。球磨の高岡家へ嫁ぐ。

ちなみに「戸次氏」については平川家について11
http://hikoshima.com/bbs/heike/101348.html
で調査していました。
転記します。
続群書類従 6上(系図部)巻第百五十大友系図 の中に
「佐原(三浦)」と「平川」という家を結ぶ人物を見つけました。

戸次重秀(べっき しげひで)です。

重秀 戸次次郎左衛門尉
法名 佛阿 
母  三浦肥前守平家連女
弘安五壬午年五月廿三日卒去 戸次之祖也

庶流
清田・松岡・冬田・利根・竹中・大神・藤北・津守・臼杵
利光・怒留湯・内梨・鵜木・平川・幸弘・小川・成松・井上 等

とあります。庶流に「平川」です。
まず、母:三浦肥前守平家連女
三浦肥前守平家連とは コトバンクより

佐原家連 さはらいえつら
三浦義連の子。承久(じょうきゅう)の乱で朝廷方の紀伊(きい)南部(みなべ)荘(和歌山県)の熊野法印快実が打ち首にされたあと,同荘の地頭職(しき)をあたえられる。貞応(じょうおう)2年(1223)紀伊守護。通称は三郎左衛門尉。
★三浦(佐原)義連の子。大友系図には肥前守とあります。

では戸次重秀とは 豊後大友理想郷伝説より
http://oita-oks.com/otomo/%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%BA%8B%E5%85%B8/%E6%88%B8%E6%AC%A1%E9%87%8D%E7%A7%80

大友第2代親秀公の次男。第3代当主頼泰公の弟。戸次氏の開祖。重秀は検非違使をつとめ、左衛門少尉に任ぜられ、大分郡戸次荘市村に居住して戸次氏を称するようになった。
平安末期以来、戸次荘には豊後大神系の戸次氏がいたが、惟澄の代に子がなく大友初代能直公にその所領を譲ったという。一方別説によれば惟澄は重秀を養子として所領を譲ったとも言われている。
重秀が戸次荘に入った時期は明かではないが、文永十一年(1274)の蒙古襲来には、重秀も参戦している。このことから、兄で大友氏惣領頼泰と同じころ下向し、出陣したものだと考えられる。蒙古合戦において戸次氏一族は武功をたてている
弘安5年(1282)没。法名佛阿。
★大神氏 大友能直(藤原氏・中原氏・武藤氏・小弐氏・北条に繋がる) 大友親秀 大友泰公 戸次重秀(戸次惟澄養子)佐原家連

続群書類従 6上(系図部)巻第百五十大友系図「戸次重秀」の記録から以上の方々に繋がりました。

★上記系図 大友能直の子「秀直」
秀直 改秀能高尾七郎 母 同有直 遁世號 三賓房(賓?)法名 浮從
とあります。
====================================================
(-.-)
今、あらためて、此の時の調査をふり返ってみると・・
戸次氏庶流
清田・松岡・冬田・利根・竹中・大神・藤北・津守・臼杵
利光・怒留湯・内梨・鵜木・平川・幸弘・小川・成松・井上 等

戸次重秀

重秀 戸次次郎左衛門尉
法名 佛阿 
母  三浦肥前守平家連女
弘安五壬午年五月廿三日卒去 戸次之祖也
★三浦肥前守平家連女とは「佐原家連」

やはり「佐原氏」と繋がっていますよね・・(p_-)

鎌倉初期「相良氏」と「佐原氏」は姻戚関係にあった・・
相良氏族の内田鎮次は戸次親家に仕官する。

偶然ではないような気がします。

では(p_-)
[5]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月10日 10時42分12秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

先程のコメントで
庶流に平川氏がある戸次氏 初代「戸次重秀」
母は三浦肥前守平家連女。「佐原家連」の娘。
佐原家連は三浦義連の子。
とここまでの内容を書いたのですが・・
そうでした三浦義連(佐原義連)は・・・・
佐原義連は紀伊、和泉両国の守護であり、また遠江国城飼郡笠原荘(静岡県掛川市辺り)の惣地頭兼預所でもあった。
\(◎o◎)/! \(゜ロ\)(/ロ゜)/
やはり!どう考えても繋がっている(p_-)

球磨の平河氏と「佐原氏」。上記の戸次氏のようにしっかりとした系図や記録が残されていないにも関わらず・・繋がっているような・・
偶然ではないとやはり感じています。

球磨の「平河氏」と「佐原氏」の関係は未だ”モヤモヤ”した霧の中ですが、もう一つ「伊予橘氏」と「平河氏」の”モヤモヤ”した関係を見つけました(p_-)

「相良氏」に関しても気が付いた事がありますので、今日は、気付いた事を一気に書かせて頂きます(..)
題して
@佐牟田は寒田だった。
A伊予橘氏である橘薩摩の系と「横瀬氏」「永池氏」について。
です(..)

では早速(..)
@佐牟田は寒田だった。
求麻外史より
四年(寛元)丙午春三月五日、公(相良長頼)、人吉荘の南方を以って第三子佐牟田六郎頼俊に授く。
中略・・民家十五宇、寒田、堀内と。中略・・案ずるに寒田は佐牟田なり、國讀相通ず。
(p_-)と記されていました。
「寒田は佐牟田なり」・・そうだったのか・・
「寒田」という地名は遠江国からの地名遷移でしょうか?
佐牟田氏は旧宮原村の戦国時代の地頭でもあり、家の親戚にもあり、さらに曾祖父の手紙にも繋がる姓なので、気になります。

では続けて
A伊予橘氏である橘薩摩の系と「永池氏」と「横瀬氏」について。
平河の一族である「永池氏」と「横瀬氏」
※良峯依高(義高) → 盛高(深田氏)東高(山田氏)師高(平河氏)高実(横瀬氏)
さらに平河師高 → 師貞(平河氏)師忠(永池氏)となります。
上記の師貞(平河氏)師忠(永池氏)が鎌倉時代の平河氏が起こした訴訟の中心人物です。

★橘薩摩一族の「永池氏」について
肥前長島庄を領した「橘薩摩」の一族についての記述です。
現佐賀県武雄市「北方町史」より
永池氏
永池氏は現北方町永池を基盤とし、橘一族から分出した家と考えられる。
「橘薩摩公明譲状案」に次のように見える。
「譲与養子犬童丸所
 在肥前國長嶋庄内久地布留村并葦原平倉口下村内田地同庄永池村内田地屋敷等地頭職等右、件所 地頭職事、公明重代相傳地也、然間相副代 下給證文、佐隈伯耆守子息犬童丸養子所譲与也、若為公明子孫致違乱輩出来者、被行罪科、依為後日、譲状如件、
應永二年乙亥二月一日  公明判
今河あう州御はん
此旨可存知候状如件、 沙弥
披見畢
  沙弥 了俊 御判

これによれば、橘公明は長島庄内の久地布留村と葦原平倉口下村の田地に加えて永池村の田地・屋敷等の地頭職を佐隈伯耆守の息子である犬童丸を養子として譲り渡している。
橘公明は下村系統の橘氏一族であると思われるが、何らかの理由により、佐隈氏の息子犬童丸に右のところの地頭職を譲っている。末尾で探題今川氏がこれを諒承している。
永池氏と橘公明あるいはその養子となった犬童丸の関連は不明であるが、永池を知行した家は永池氏を称したと思われる。
永池氏を称する一族の存在が「岩蔵寺過去帳」から伺えるからである。
「永池ノ妙幸禅尼」「前永池美作守」「永池決心勝公禅定門」「永池道監」
これら永池氏は、法名中に公の字を使う点からしても橘一族との関連が予想され、現永池を本貫とした橘一族と考えられる。

※長島庄内の久地布留村・葦原平倉口下村・永池村
※橘公明・・養子「犬童丸」(父:佐隈伯耆守)・・永池を知行した永池氏
※永池氏・・現永池を本貫とした橘一族と考えられる。

球磨の平河の一族「永池氏」と同じ姓、肥前の橘薩摩一族にも「永池氏」があった・・と言う事ですね・・
ちなみに、葦原平倉口下村とありますが、肥前の橘薩摩一族の所領地は「葦原富永」「葦原平倉口下村」と葦原○○という地名が多数見られます。
この「葦原○○」という場所が現在の武雄市橘町です。
以前、私の曾祖父宛ての手紙に「葦原様」と書かれていた事をコメントした際に「肥前」に関係しているのかな?と書いたのは上記が理由でした(..)
未だ「葦原様」の謎には到達出来ていません((+_+))

★橘薩摩一族と「横瀬氏」について
「橘薩摩氏」系図を見ると
橘公長の子「橘公経 飛騨守」(公業・公忠の兄弟)→ 橘公茂 (橘四郎 渡瀬先祖)
渡瀬氏。日本の苗字七千傑様のサイトで検索させて頂きました。
【清和源氏義重流】《岩松氏/新田氏(義貞以降)/脇屋氏》 新田貞氏 → 《横瀬氏/由良氏》
《横瀬氏/由良氏》姓氏類別大観を拝見すると【渡瀬氏】が見えます。
渡瀬氏と横瀬氏は同族なのですね。
さらにこちらには「長尾氏」も見えます。
系は違いますが【桓武平氏良茂流】「梶原氏」「大庭氏」「長尾氏」は伊予橘氏である「橘薩摩氏」と姻戚関係にありました。
【桓武平氏良茂流】すなわち三浦氏・佐原氏も同族ですね。
【清和源氏義重流】新田氏 → 横瀬氏・由良氏 → 渡瀬氏

※橘公長の子「橘公経 飛騨守」(公業・公忠の兄弟)→ 橘公茂 (橘四郎 渡瀬先祖)
渡瀬氏を調べると「橘公長」の系との繋がりは解りませんが
【清和源氏義重流】新田氏 → 横瀬氏・由良氏 → 渡瀬氏 という系の繋がりが見えました。
球磨の平河高実は「横瀬氏」となる。
多良木の横瀬は地名遷移かな??と。

非常に長くなりましたが
平河の一族である球磨の「永池氏」と「横瀬氏」。
橘薩摩の一族にも「永池氏」があり、さらに「橘公茂 (橘四郎 渡瀬先祖)」から渡瀬氏を調べると「横瀬氏」に繋がっている・・

と言う事です。モヤモヤします(-.-)

では(..)
[6]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月10日 12時53分12秒 ) パスワード

皆様、マタマタの登場です(^'^)

先程のコメントにも書きました現佐賀県武雄市「北方町史」に関しての追記です。

「北方町史」より
(一) 松浦党と郷土のかかわり
中世、ことに室町後期から戦国期にかけて当町には加々良・馬渡・徳永(桃川)・波多・山城氏等の松浦党や松浦方面に出自をもつ諸家が移り住み、あるいは知行地を持って活動した。

(p_-)中世、ことに室町後期から戦国期にかけて当町には・・中略・・波多・山城氏等の松浦党や松浦方面に出自をもつ諸家が移り住み、あるいは知行地を持って活動した。
波多氏。
平川家について28+1コメント61・63でも書きましたように
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_80.html
《上松浦党》波多氏の家臣団に「淵田氏」の名前。
波多三河守の家臣
※淵田祐四郎秀里 橘 秀里  立川村(西松浦郡立川)三百石 ※東松浦郡史より
※野田祐四郎橘秀里  立川村   三百石 ※松浦古事記より
※値賀伊勢守森昌 菅原森昌  値賀村  二百石
※値賀三郎太吉渡 源 吉渡   同   百 石

日本の苗字七千傑様から頂いたご教示
>松浦氏との姻戚から、公業の後裔は肥前松浦郡小鹿島が本拠。
後裔の多くも肥前に栄え、渋江氏は直胤。

あらためて、しっかりと理解出来ました(^'^)
家の姻戚関係も上記の御教示にしっかりと基づいているのだな〜と感じています。
※久保田家 → 宮原家
※久保田家 → 淵田家
※淵田家  → 平川家・宮原家

うん?しかし・・旧宮原村他、上球磨地区には後世にも「肥前小鹿島氏」の影が濃厚ですよね・・? 何故だろう??

(?_?)・・では(..)
[7]酒井ともさんからのコメント(2016年03月10日 14時35分31秒 ) パスワード


皆様、こんにちは。


内田氏
>相良氏族「内田氏」
 内田 鎮次 ウィキより
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E9%8E%AE%E6%AC%A1

>内田 鎮次(うちだ しげつぐ)は、戦国時代の武将。
 大友氏一族の豊後国鎧ケ岳城主戸次氏の家臣。戸次の二王の一人。
 『柳河藩享保八年藩士系図』によると、相良氏庶流の内田宗頼(左衛門太夫)の子孫で
 代々肥後国山鹿郡内田村(現在の熊本県山鹿市菊鹿町下内田)の日渡城主であったが、
 文亀年間に日渡城没落以降、大友氏の庇護下に入るとする。

>鎮次は大友氏の助勢を受けたまま戸次親家に仕官する。
 また大友義鎮(宗麟)より偏諱を受けた。
 同僚の森下備中(二代備中守、森下釣雲の父)と共に
 戸次家の政務、軍事、諸事などを担当したので、藤北戸次氏の権威を振るって、
 戸次の二王と称揚されたと伝わる。

>家督は長男の鎮並が相続し、次男鎮家は分家する。


内田鎮家
立花対島津戦での、死を賭しての偽りの降伏使者の逸話は知っていましたが、
この内田氏が相良氏族の内田氏だとは知りませんでした。



【遠江国城飼郡の内田氏】より

勝間田流内田氏
>内田氏は勝間田郷を領した勝間田流とされ、 勝間田遠江守正利は今川氏に仕え、
 その子正之が徳川氏に属しています。さらに正信の代に徳川家光の小姓として小姓番頭にも取り立てられています。
 そして下野国鹿沼に1万5千石を賜ったとあります。
 家光が没するとこれに殉死していますが、以降も内田氏は子々孫々続く事になります。

>おおよそ上記の徳川家に仕えた内田氏が正しく江戸時代から明治時代に入り内田氏も各地に移住したものと思われます。
 ですので神主内田家は少なくとも戦国時代以降の事になります。

>以上


1222年貞応元年のことのようですが、遠江国内田荘下郷地頭内田致茂(宗茂)が、石見国貞松・豊田地頭に補任されます。
これは承久の乱の新恩地のようです。



石見内田氏
>石見国への本格的入部は致員の孫朝員(空昭)「朝貞」が内田圧下郷を嫡子致景に譲って移住した14世紀初頭のことであった。
 そして、朝員とともに石見国に入部したその庶子致員が、貞松名に隣接する周布氏と婚姻関係を結んだためか、
 南北朝の動乱の初期において周布氏とともに南朝方として活動したため、豊田城は幕府方の攻撃を受けて落城し、
 豊田郷などの所領は、幕府方によって没収されてしまった。

>これに対して、遠江国内で幕府方として活動していた朝員の嫡子致景は、所領の正当な支配者であることを幕府に訴え、
 所領の回復に成功している。以後、致景とその後継者は石見国内で、活動していく。


1340年 暦応三年十月、内田致景の石見国豊田城が北朝方の上野・吉見氏等に落とされます。

1349年 貞和五年七月十九日、内田致景が遠江国内田荘下郷地頭職を子の致世に譲る。
1349年 貞和五年七月十九日、内田致景が石見国長野庄豊田郷地頭職を子の致世に譲る。
全く同じ日に父、致景より子の致世に遠江と石見の地頭職が譲られる。

南朝方の遠州内田の内田致世は活動地を石見国に求めたようで、
勝ち組の北朝方に遠江国内田荘の地頭職を召上げられたようです。

そして、姓を内田→豊田→益田氏に改めて、戦国時代には石見国益田家に服従し、
江戸時代は萩藩 須佐益田家の老臣を勤め、二百石前後の知行を与えられていたようです。



遠江城飼郡内田郷を発祥とする内田氏の祖を
「相良氏」「勝間田氏」「伊東(伊藤)氏」としている文献がみられます。

三氏共に、元を辿れば「工藤氏」に納まるので問題は無いのでしょうが、
例えば、石見に移る内田氏は下内田郷の高田大屋敷に居住して領内を治めていたようです。

この高田大屋敷は上平川の春日神社を菊川挟んで真西に位置します。
直線距離で300メートルも無いような距離です。




戸次・三浦・平川氏
>戸次重秀(べっき しげひで)

 重秀 戸次次郎左衛門尉
 法名 佛阿 
 母  三浦肥前守平家連女
 弘安五壬午年五月廿三日卒去 戸次之祖也

>庶流
 清田・松岡・冬田・利根・竹中・大神・藤北・津守・臼杵
 利光・怒留湯・内梨・鵜木・平川・幸弘・小川・成松・井上 等

>とあります。庶流に「平川」です。
 まず、母:三浦肥前守平家連女
 三浦肥前守平家連とは コトバンクより


三浦家連は義連の子供なんですね。
その三浦氏の庶流に「平川」氏が存在するとは発見です。
三浦氏の代表紋は「三つ引き両」でしたよね。



佐原氏
>藤原頼忠(佐原頼忠)が球磨に来ていたという資料は残ってはいない・・


「佐原氏」にも三浦流や相良流があるが、
城飼郡笠原荘を起点にして領有地を考えれば濃い関係が伺われますよね。


[9]酒井ともさんからのコメント(2016年03月10日 17時46分57秒 ) パスワード

皆様、こんばんは。

訂正です。

>三浦家連は義連の子供なんですね。
 その三浦氏の庶流に「平川」氏が存在するとは発見です。
 三浦氏の代表紋は「三つ引き両」でしたよね。


戸次氏の庶流に「平川氏」が存在するのですね。

その三浦(佐原)家連よりの「三つ引き両」が大友(戸次)氏に贈られたのですかね。

三浦(佐原)氏→大友(戸次)氏→平川氏へと血流と共に、
「三つ引き両」の家紋が受け継がれている可能性はありませんか。

もしくは、大胆な想像で、

三浦(佐原)氏より平川氏へ血流と共に
「三つ引き両」の家紋が受け継がれている可能性は。
[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月10日 22時47分35秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

酒井様、ご教示ありがとうございます。

>遠江城飼郡内田郷を発祥とする内田氏
>石見に移る内田氏は下内田郷の高田大屋敷に居住して領内を治めていたようです。
>高田大屋敷は上平川の春日神社を菊川挟んで真西に位置します。
>直線距離で300メートルも無いような距離です。

私は遠江国の「内田氏」について全く知りませんでした。
御教示、本当にありがとうございます。
※高田大屋敷は上平川の春日神社を菊川挟んで真西・・直線距離で300メートルも無いような距離
驚きました。すごく近いですね・・

>三浦(佐原)氏→大友(戸次)氏→平川氏へと血流と共に、
「三つ引き両」の家紋が受け継がれている可能性はありませんか。
>三浦(佐原)氏より平川氏へ血流と共に
「三つ引き両」の家紋が受け継がれている可能性は。

祖母の姉は旧宮原村の平川家から椎葉家に子供の頃に養女に入り、その椎葉家には確かに”「三つ引き両」の家紋(鏡)”が存在している・・
”「三つ引き両」の家紋”がうちの一族に繋がっている事はこの鏡の存在で明らかになりましたが、しかしその家紋が「平川家」から伝わってきたのかどうかは・・未だ解りません。

ただ、酒井様のご教示のお陰ではっきりと認識出来た事があります。
>>三浦(佐原)氏→大友(戸次)氏→平川氏
この系の流れに絡んでくる”系”です!
サイト 武家家伝 戸次氏 ページ下に参考略系図があります。
ご覧下さい。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/bekki_k.html
武藤貞成 → 能成 → 大友能直 → 親秀 → 戸次重秀
※武藤氏・大友氏・さらに姻戚関係にある「三浦(佐原)氏」「戸次氏」
※武藤氏と三浦(佐原)氏・・今までの調査と一致しています。
>城飼郡笠原荘を起点にして領有地を考えれば濃い関係が伺われますよね。
酒井様のおっしゃる通りだと思います。

さらに「戸次氏」は元々「大神姓」です。
日本の苗字七千傑様の戸次氏 姓氏類別大観そして《豊後大神氏》姓氏類別大観を拝見するとよく解ります。
「惟」の字は大神氏の通字。
「惟」の通字。補足しますと・・
平河氏系図をご覧頂くと解りますが
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html
写真C 平河惟重 (こちらと姻戚関係にある宮原権左衛門家の通字も「惟」です。宮原権左衛門家の墓所は青井氏墓所(青井阿蘇神社宮司家)になります。

戸次氏の庶流に「平川氏」が存在。
戸次氏の姻戚関係・・大神氏・武藤氏・大友氏・三浦(佐原)氏

球磨の平河氏に繋がりがあるであろう「系」が関わっています。

さらに大神氏ですが、以前コメントしましたように、先に書いた私の祖母の姉は椎葉家に養女に入り、尾方家から婿養子が入りました。
椎葉のおじの父です。こちらの尾方家が代々岡留熊野座神社・築地熊野権現他、中球磨地区の神社の宮司を務める本姓「大神」の尾方家です。
さらに、椎葉のおじの妻はこちらの尾方家から嫁いで来られていて二人は従兄同士。椎葉のおじの妻の兄は国宝青井阿蘇神社第68代宮司でした。

すなわち、平川家から養女に入った祖母の姉の系は「本姓大神氏」の尾方家と姻戚関係を二重に結んでいるという事になります。

豊後の「戸次氏」の系と共通点が非常に多い・・重なってみえてしまうのは偶然でしょうか?

明日コメントしようと考えていたのですが、実は「大友氏(戸次氏)」に繋がる系と「橘薩摩氏」もおそらく繋がっているであろうと思われる”球磨の久米郷”に関わる記録が残っています。

酒井様、ご教示本当にありがとうございました。
では。
[11]白石さんからのコメント(2016年03月10日 23時52分31秒 ) パスワード

こんばんわ
戸次氏子孫平川氏のその後 で 検索をかけたら 私 過去に 教えてくださいとして書いたものが出てきました。

 投稿番号:101291 投稿日:2012年08月27日 02時39分47秒 です。
おがた ひらかわ 
藤原鎌足の母は 大伴智仙ですね。

智仙娘

智仙娘 ちせんのいらつめ. 生没年 未詳; 系譜など 大徳冠大伴久比子(咋子)卿の女。 中臣鎌子(のちの鎌足)の母(尊卑分脉)。『藤氏家伝』には大伴夫人とある。 略伝 中臣御 食子に娶られ鎌子を産む(尊卑分脉)。奈良県高市郡明日香村飛鳥には大伴夫人の墓 が・・・

大伴と大友と 関係あると 本で見ました。
藤原4家にわかれていく もとですね。

また
大友、大伴二つの「おおとも」氏 - 近江歴史回廊倶楽部
にその関係が描いてありました。

近江高岡市に大伴神社があるということですが、どこなのでしょうね。

又 藤井寺には 伴林氏神社があり 全国唯一の大伴氏の氏神

伴林氏神社(ともはやしのうじじんじゃ)は、大阪府藤井寺市林(かつての河内国志紀郡 拝志郷)に鎮座する神社である。 祭神[編集]. 高皇産霊神を主祭神とし、大伴氏の祖神で ある道臣命(みちのおみのみこと)・天押日命(あめのおしひのみこと)を配祀する。

拝志とは 伊藤博文の系図も拝志系図ですね。
そして
平河のおばが 四浦林の事を やしき と 呼んでいたことも なんとはなく わかるようです。

本には 物部 藤原 大伴 蘇我は同祖 と書いてあるものもありましたが・・・
私 父が高岡に関与しているので 高岡から見たものを 書きましたが、平川とも昔昔からのつながりがあり その延長線上に私たちはいるのですね。


[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月11日 11時27分43秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

高岡氏・白石氏。
頂いたご教示より少し外れるのですが、すみません(..)
私は、どうしても伊予の白石氏が気になるのですが・・
日本の苗字七千傑様の【越智氏】姓氏類別大観 を今朝あらためて拝見していて気が付いたのですが、《伊予北条氏》 姓氏類別大観に白石氏。そして正岡氏があります。
相良藩士にもちろん白石氏はありますが、「正岡氏」も相良藩士にその”名”があります。
さらに肥前の白石氏。
白石氏居城(妻山城) サイト
http://hizenkoku.sagafan.jp/e621595.html
白石氏は、肥前.肥後国の住人日向太郎道良が元治元年(1159)頃反乱を起こし鎮圧され、子供二人を含む数人が京にて梟首、難を逃れた子供が
通秀(多比良祖)
通俊(綾部祖)
通益(白石氏祖)ー通常ー通遠ー通清ー通平ー通泰 となる。
通宗(本居祖)
この功労により、平清盛は杵島郡に大功田を得る。

文治三年(1187)通益は、源頼朝より杵島郡白石郷の地頭職に任じられ、須古の高城を居城とし、支城の妻山城、南に稲佐城を築城。白石通益から通臣迄十二代に渡って最初は高城であったが、後に本城は妻山城に移っている。
中略・・
@南北朝時代、白石氏は宮方に属し一色氏、少弐氏の攻撃を受けるも持ちこたえる。
Aその後も正平五年(1350)渋江氏、一色氏の攻撃を受たが撃退した。
B天授二年(1376)九州探題今川了俊が杵島郡を攻撃する。
C長島荘(武雄)の潮見を降した後、稲佐城を襲う。
Dついに本城妻山の合戦で、白石通臣戦死し白石氏敗れる。
E(本城妻山) 杵島山地北東端に突き出た尾根に位置する。
※長島荘(武雄)の潮見・・肥前橘薩摩氏の所領地です。潮見神社の祭神は橘公業です。
潮見神社
武雄市橘町永島にある神社。旧郷社。祭神は上宮が伊ザナギ命・伊ザナミ命,中宮が神功皇后・応神天皇・武内宿禰・橘奈良麻呂・橘公業。下宮は今はないが,渋江公村・牛島公茂・中村公光を祀っていた。社伝によれば,往古この地は小島で島見郷と称し伊ザナギ・伊ザナミ2神を祀っていたが,その後橘奈良麻呂が恵美押勝との政争に敗れて当地に逃げのび土着したと伝える。
平安期安元2年2月の武雄神社社憎覚俊解状(武雄神社文書/佐史集成2)に「御庄鎮守塩見社」と見え,武雄社と並んで長島荘の鎮守の1つとされていた。また同地の橘氏の流れをくむ武蔵橘中村家の文書,寛元元(1243)年9月6日関東御教書案(鎌遺6235)には,9月9日の流鏑馬を土地の者が勤めないとあり,この流鏑馬は潮見社の祭礼に関わるものと考えられる。

肥前の白石氏の通字を見ると
通秀(多比良祖)
通俊(綾部祖)
通益(白石氏祖)ー通常ー通遠ー通清ー通平ー通泰 となる。
通宗(本居祖)
「通」ですよね。
河野氏の通字と同じですね。
伊予の白石氏・肥前の白石氏・球磨の白石氏は全て繋がっているのでは?ないでしょうか?
四浦の白石家に高岡家から養子に入られた「白石様のお父様」。
私、”ここが重要”な気がしてならないのですが・・勝手な推測ですみません(..)
日本の苗字七千傑様の【物部氏/石上氏】姓氏類別大観 を拝見すると
>【高岳氏】【高岡氏】は物部麁鹿火大連の後裔。と記されています。
先日コメントした日本の苗字七千傑様の《池田氏》姓氏類別大観に見える「高岡氏」に繋がっています。
肥後人吉藩の第11代藩主相良長寛は備前岡山藩主・池田宗政の次男として生まれ、相良家に養子に入った・・

さらに四浦に関して「外城 四浦」には
宮原氏(伊予橘氏)蓑田氏(松浦氏)の二名が在した・・
※伊予の白石氏・肥前の白石氏・球磨の白石氏・物部麁鹿火大連の後裔「高岡氏」・池田氏・宮原氏(伊予橘氏)蓑田氏(松浦氏)
こうして書きだすと、どう考えても全て繋がっているように見えるのですが・・

勝手ながら、ずっと気になっていたので一気に書かせて頂きました。(..)
すみません(..)
[13]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年03月11日 14時48分39秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>私は、どうしても伊予の白石氏が気になるのですが・・
 
白石氏は全国的に多いが、特に愛媛県に多い。
伊予国浮穴郡白石邑(現・愛媛県松山市石手白石)が発祥地。
現在、松山市に多いが新居浜市、今治市にも多い。
出自は越智姓伊予北条氏。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206.htm#002
 
肥前、肥後、筑後の白石氏も同族。
越智氏も物部大小市が小市国造になり、越智姓を称したので同族。
伊予橘氏も当然同族。
 
なんと初代総理伊藤博文は、正式には越智宿禰博文。
[14]白石さんからのコメント(2016年03月11日 21時31分36秒 ) パスワード

こんにちわ
人の出会いは本当に不思議ですね。

今日はおもしろいブログを見つけました。
みやちゃんのおかげです。

多比良氏に関することでけんさくしていたら
(平)に通ずると思って・・・

以下は抜粋です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
大國主の出生地 - ようこそmonologueへ
古くは筑紫国魂神社(つくしくにたまじんじゃ)、四面宮(しめんぐう)と称し、 お四面様、お四面さんと呼ばれている。
「温泉神社」の神紋は四つ目で本殿は入母屋造りで、「 諫早神社」の神紋は上り藤で本殿は神明造りとなっている。 微妙に違っているのだ。
諫早神社の創建は、日本最初の地図を作り、大仏造営の勧進に力を揮ったことで有名な 行基菩薩が聖武天皇神亀5年(728)に訪れ、雲仙を遙拝して 石祠を作り、四面宮と呼んだことに始まるという。
明治初年の神仏分離令によって、荘厳寺を分離して、四面宮から諌早神社と改称した。
 なんと
★「建日向日豊久士比泥別命」という日向神がオオクニヌシのことであることに驚
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
愕した 行基は自身が佛教者であることを超えてやむにやまれぬ思いに駆られて 石祠とを作ったのである。
 ここの祭神名、「大己貴」はニギハヤヒの封印として貼られた名前でなく、
純粋にオオクニヌシ、本名、コト(事あるいは己等と表記)本人を指している。

オオクニヌシの誕生地は 有明海に臨む島原半島、雲仙岳の麓、「長崎県南高来郡深江町」であった。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
というのです。

高岡はにぎはやひ の 神裔
父は高岡から白石へ養子
白石から出る 多比良温泉神社の祭神
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
国見町の温泉神社の祭神
【祭神】. 白日別命、豊日別命、★豊久士比泥別命、建日別命、速日別命だが、速日別命は後に追 祀されたもの

ちなみに
「豊日別神」を祀る豊日別宮(福岡県行橋市)の社伝では、欽明天皇2年、筑紫の日別大神 の神官・「大伴連牟彌奈里」に「吾は猿田彦神なり」と神託が ... 高住神社、到津八幡神社、 菅原神社、温泉神社(長崎県雲仙市小浜町、別名「四面宮」)などに祀られている。

佐田彦も 佐田のことばがあり 佐田に 通ずるようです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
肥国は「建日向日豊久士比泥別」
古事記の記述「肥国は建日向日豊久士比泥別と謂う」の「向日」を解く鍵は朝鮮半島の「 迎日湾」にある。 ... 例としては「御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかゑしねのみこと、 第5代孝昭天皇のこと)」の「泥(ね)」がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
建日向日豊久士比泥別
たけひむかひとよくぢひぬわけ

伊邪那岐神・伊邪那美神の夫婦神が生んだ国土の神の一つ。 筑紫嶋の四面(白日別:筑紫国、豊日別:豊国、建日向日豊久士比泥別:肥国、建日別:熊曾国)の一つで肥国(九州西部)の別名。

豊日別 - Wikipedia
豊日別神を祀る豊日別宮(福岡県行橋市)の社伝では、欽明天皇2年、筑紫の日別大神 の神官・大伴連牟彌奈里に「吾は猿田彦神なり」と神託があり、猿田彦は天照大神の分 神であり、 豊日別大神を本宮とし、猿田彦を別宮とするとの記述がある。ここから、豊日別は猿田彦と同一神格と見られている。

建日別は熊曾国(九州南部)の別名
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
白日別神sirahi - 神奈備にようこそ

名神大社である筑紫神社の祭神は「五十猛命、白日別神 配 玉依姫命、坂上田村麿」で ある。この白日別神は五十猛命の別名であるとされ*2、往古九州を筑紫と言う称は白日 別命の神号より起り筑紫(筑前筑後)の国魂であるとされる
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ネットより
磯良大神とは古代の海人族である安曇氏の祖神であり、対馬の和多都美神社(豊玉町仁位)の原初の御神体が「磯良エビス」と呼ばれる霊石である。博多湾で金印の出土した志賀島が拠点であったようだ。ここには式内社の志加海神社が鎮座。

五十猛命を韓国伊太テ命とも称し、二神は共に半島の名を持つ神である
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー











[15]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月11日 22時22分42秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
>白石氏は全国的に多いが、特に愛媛県に多い。
>伊予国浮穴郡白石邑(現・愛媛県松山市石手白石)が発祥地。
>出自は越智姓伊予北条氏。
>肥前、肥後、筑後の白石氏も同族。

やはりそうでしたか!!
御教示本当にありがとうございました。

白石様
実は肥後国相良藩士分限帳に記述の深水村(現相良村)の「白石氏」をいつも見ながら非常に気になっていたのです。
深水村(現相良村)。分限帳には白石氏・平川氏の名が残っています。
柳瀬村(現相良村)には平川氏の名が残る・・

相良藩内における藩士同士の姻戚関係については、色々な方から様々な話を聞いてある程度は理解出来るようになっていました。
深水村・柳瀬村の「平川氏」は双方が「もちろん同族」。
そして深水には「白石氏」。
平川氏と白石氏の間に姻戚関係が発生するのは当然の事だと思います。

以前、白石家と高岡家は幾度も姻戚関係を結んでいる・・というお話をされたと思うのですが・・
おそらく、”同族”という関係から時代を遡って、姻戚関係は続いていたのでは?と推測したのです・・
もしかしたら、白石様の御親戚の「平川氏」と「白石家」「高岡家」の姻戚関係は
白石氏 ⇔ 高岡氏 ⇔ 平川氏 ⇔ 白石氏
このような形であったのでは?
勝手な推測で申し訳ありません(..)

といった推測をたてて、「白石氏」を調べた結果が今朝、コメントした
>伊予の白石氏・肥前の白石氏・球磨の白石氏は全て繋がっているのでは?ないでしょうか?
だったと言う事です。
そして日本の苗字七千傑様より
>肥前、肥後、筑後の白石氏も同族。
という御教示を頂く事が出来ました。

>伊予橘氏も当然同族。(日本の苗字七千傑様より)

白石様、今後ともよろしくお願い致します(^'^)
[16]白石さんからのコメント(2016年03月12日 04時42分10秒 ) パスワード

おはようございます。
目が覚めてしまって まあ 音が出ないからいいか と 書いています。

皆様 ご教示ありがとうございます。
みやちゃん
うちの 白石は 深水にはつながっていないように 過去に 善正寺様から教えていただいていて 

それが ネックのように なっていました。
でも 白石 平川は 石高はわずかながら 相良外城を 守っている人にセットで苗字があるので ??で きていました。

そして うちの 白石の本家は 古見院。曹洞宗。相良家中の永国寺の流れのお寺で明治には村役場がおかれていた。永国寺といえば 西郷さんがよっていたお寺で 

大田亮氏辞典では 肥後の白石は清和源氏。菊池に仕え 菊池が滅んだあと相良氏に仕えたとあり

菊池氏そのものが
血流にある人が 相良家家老職にあると 大村のあたりにあった 菊池文書に書かれているとあり

それは 球磨郡誌で読み
うちの川辺の白石から聞いている話では 自分と子だけで
深見とはつながっていない あそこは あそこで お寺をもっている
ということでしたので 

う〜ん
下益城郡の平江とも 高岡 山口 白石は 関与しているし
しかも
菊池の侍長には 高岡 白石 坂本 平川 尾方 高田牧宰 が ついており
なんだか こっちっぽいなあ と 思っておりましたが

今 改めて 過去のスレッドの表示を見ておりましたら
 投稿番号:101313 投稿日:2013年05月21日 03時38分29秒
伊賀絣と伊賀忍者の関係3

平川家について(続4) - 日子の島TOP
 投稿番号:101330 投稿日:2013年10月28日 06時54分49秒

Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!-平川家について16
 投稿番号:101373 投稿日:2014年09月14日 12時57分04秒
Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!-平川家について
投稿番号:101319 投稿日:2013年09月01日 17時37分08秒
平川家について(続3) - 日子の島TOP
投稿番号:101327 投稿日:2013年10月14日 22時15分13秒

などに 書き散らしていました。
この中に 菊池氏は懐良親王についていた とあり

白石嬉野氏も この親王についていたみたいで
でも この 白石は 家紋は丸に一文字なのですよね。

そして
姉は 母方の筋をいえば なりまつ だよ といい
なりまつを調べれば 清和源氏につながり
う〜んこれも 濃いいのだけど??

全体に 高岡 白石 尾方 坂本といううちの固まりでは 橘紋を使い 
平川 高岡は 五藤(後藤)という家と親戚なので

橘にゆかりしている とは 思っています。

白石・真木」より白石明神=槙山神社 伊賀國阿拝郡 眞木山神社 神紋 ・茶の実(橘紋に通ずる) ヤタカラスがとまった という 伝承がある。


塩の神様とその源流 - UCOM光 Residence


★塩竈神社の鎮座する宮城郡の南方の柴田郡には、古代氏姓国造で本州最北端にお かれた★志太国造の一族が居住しており、一族の ..... なお、★小野氏については★「橘」を図柄 とする家紋を用いるものも多く、菊田・遠藤・斎藤・庄子・大宮・大友・鈴木・高橋・伊藤・ 長谷・我妻などの諸家も橘紋を用いた。 ... ★平村は★刈田郡にもあり(白石市越河の平)、 この村の村肝入は古井沢屋敷の★阿部和泉の子孫が世襲し、村鎮守は★白鳥神社であっ た。

志太国造 この筋は 安芸国造と同じで にぎはやひ に 随伴してきた人の子孫となっており

鹽竈神社の御祭神は別宮に主祭神たる塩土 老翁神・左宮に武甕槌神・右宮に経津主神をお祀りしております

刈田郡 刈田氏?

白鳥神社 四浦にもこの神社はあり
九州右北部の白鳥神社は 滋賀の方で ヤマトタケルに関与して 浅井 白石に関与していた。

阿部  東北阿部郡に 磐井郷があって
太田亮氏辞典では 白石が 磐井を名乗ったとある。

磐井は 宇佐の方へ来て死んでいる。

免田つきぎあたりに 四所神社があり 安部 天氏の名が。
四所神社は 熊野に関与していて
志太国造は もともと いざなみ の 系の人。
熊野に いざなみ の 花のいわやど がある。

ぽつり ぽつり とですが
前からしらべていた白石に関与している言葉があるなあ と 思います。











[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月12日 06時17分21秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)
白石様、御教示ありがとうございます。

>うちの 白石の本家は 古見院。曹洞宗。相良家中の永国寺の流れのお寺で明治には村役場がおかれていた。

白石様
前スレッドのコメント45で、私が書いた
>実は先日、家の宮原家の親戚がある相良村の川辺集落のお寺を訪ねました。
川辺集落には宮原姓が多数あります。
お寺の宮原家のお墓の家紋は「橘紋」でした。
==========================================

この時にお訪ねしたお寺様、実は川辺の「古見院」です(^'^)
伝法山古見院 天文二年(1533年)人吉永国寺第十世泰雲英康和尚の開山。(一説には天正十六年(1587年)開山。
先月は「古見院」様をはじめ、旧川辺村の史跡をめぐり、以前コメントしたように昨秋は旧深水村、柳瀬村村の史跡もめぐりました。
旧川辺村・旧深水村・旧柳瀬村の史跡を案内して下さった方は相良村某所にお住まいの「白石様」でした(^'^)

古見院にお伺いして、一番に気が付いた事!
前回のコメントには書いていなかったのですが、古見院の墓石に刻まれていた「姓」で最も多かったのが、ナント「新堀家」のお墓だった事です。
御一緒して下さった方々も「新堀家」のお墓が多いな!!と皆さん言われていました。
さらには古見院には「永田家」のお墓も数基ありました。(分限帳川辺村には永田姓あり)
沢山の新堀家のお墓、そして橘紋の宮原家のお墓、さらには「永田家」のお墓を拝見して私はつくづく「川辺村には縁が深いな〜」と感じました。(おそらく、家の宮原家と同じような姻戚関係があるのかな〜と考えたのです)

白石様の「白石家本家」のお寺様は古見院。
古見院の檀家となる「白石家」「宮原家」「新堀家」「永田家」という事ですね・・
白石様のお言葉
>全体に 高岡 白石 尾方 坂本といううちの固まりでは 橘紋を使い 
平川 高岡は 五藤(後藤)という家と親戚なので橘にゆかりしている とは 思っています。
私は偶然ではないと思うのですが・・

さらに旧川辺村の古地図を見ると「井出山」「橘谷」といった名称がありました。
記述には殆ど残っていないのですが、実は川辺村は「犬童清兵衛(犬童頼兄)」の所領地の一つであり、川辺川の巨大な井出も「犬童清兵衛(犬童頼兄)」が築いたと言う事です。

白石姓は球磨・人吉では現在58軒。人吉では17軒。他郡内の8町村をみると「相良村」は15軒と、他の町村から見ても圧倒的に多いです。
球磨の「白石氏」は相良村(旧柳瀬村・旧深水村・旧川辺村・旧四浦村)を基盤とされた”一族”であったのではないでしょうか?

白石様!!
史跡案内をして下さった白石様ですが、とてもお優しい方で、数ヶ月前に初めてお会いした時の印象は(失礼ながら)「家の親戚筋にお顔立ちがよく似ていらっしゃるな〜」と。とてもハンサムな方ですよ(^'^)

と言う事で白石様のご本家のお寺様「伝法山古見院」。こちらには相良村の「宮原氏」「新堀氏」「永田氏」も御縁があるようですよ!(^'^)
というお話でした。

では(^'^)
[18]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月12日 13時07分57秒 ) パスワード

追記
肥後相良藩士分限帳、川辺村より
寛政十年(1798年) 池田仁兵衛 池田幸八
天保元年(1830年)       池田常蔵
安政年間      池田茂平次 池田杢蔵

旧川辺村には相良藩士「池田氏」の名が残っていました。
他、川辺村の相良藩士の中に気になる「姓」がありました。「笹渕氏」です。
日本姓氏語源辞典 より
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/1860258.html
ササブチ 笹渕 秋田県、北海道、福岡県。秋田県男鹿市船川港船川に分布あり。福岡県三潴郡大木町笹渕発祥。
ササブチ 笹淵 秋田県男鹿市、福岡県、熊本県。
※秋田県男鹿市・・ピンポイントです!

肥後相良藩士分限帳
池田氏・笹渕氏・・川辺村に相良藩士の名が残る・・
ちなみに川辺村には「久保田氏」も名がありました。

この辺りは、どうやら「物部氏」・「越智姓」の影が濃厚のようです。

次回のコメントからは「今まで気が付いていた事」の続きを書かせて頂きます。
では(..)
[19]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月12日 15時33分49秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)
マタマタの登場です。

では、早速、気が付いた事の続きを書かせて頂きます。
色々書きたい事は山積みなのですが・・
題して
@相良長頼、球磨入部の際の随行者「姓氏」
です。

早速(..)
@相良長頼、球磨入部の際の随行者「姓氏」
求麻外史に記載の相良長頼、球磨入部の際の随行者「姓氏」を書きます(..)
●弟四郎宗頼 ●五郎左衛門尉頼平●譜代の士森某●長某(おさ某)●廣田某●杉前某●今井某●原田某●平田某●大石某●愛甲某(愛甲九郎景元是なり)●田野某●満木某(みつき某)●西河路某(西小路)●野間某●窪田某(今久保田に作る國讀相通す)●赤川某●富田某●吉村某●河端某●矢津留某
以上十九人名■ぐ。(■は文字が読み取れませんでした(..))
●宗像(今宗方に作る國讀相通す)兵衛太夫(其の先は筑前の人世世宗像に察す、因りて兵衛太夫に至りて相良に客たり・・略)●僧弘秀(遠江常福寺の住持)●譜代の卒井福●萬蔵●金田●赤川●雑賀●庶人橋口●四郎丸(四郎丸大村に家す後因りて里名と為す)●藤井●徳永●山口等(歴代私鑑に永原を加えて六人と為す)従う。
首めに萬江式部則純(今の萬江氏《万江氏》の祖)を得て郷導と為す。

本で読むより、こうやって書きだしてみると色々見えてきました。
●窪田某・・(p_-)窪田(久保田)氏は随行者の中に最初からあったようですね・・むむっ(p_-)
●満木某(みつき某)・・満木氏・・みつき氏・・まんげつ・・!・・もしや?
 かなり気になりますが・・(私の想像に対して・・勝手に読み替えるな!との声が何処から・・(..))
●西河路某(西小路)・・後世の相良藩士分限帳にも「西小路氏」の名はありました。 西小路・・?

私が見ても、遠江国との繋がりがよく解りません(..)
皆様にもぜひご覧頂こう!と考えて転記させて頂きました(..)

こちらのコメントの最初に「色々書きたい事は山積みなのですが・・」とは書きましたが、こうやって書きだして見ると、まずは上記の方々の検証が第一かな?と考えました。
調査してみます(p_-)
では(..)
[20]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年03月12日 20時14分43秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>私が見ても、遠江国との繋がりがよく解りません(..)
 
当たり前ですよ。無謀な前途に立ち向かっている様ですね!
探す方法は存在するが、途方も無い作業になるでしょう。
その割には一致するものが少なく、がっかりするのが現実。
下記データベースの利用を御勧めします。

旧高旧領取調帳データベースの検索
https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param
 
また「日本の苗字七千傑」 ー「各種一覧」ー「旧国郡区分図」の補助利用をお勧め。
[21]白石さんからのコメント(2016年03月12日 22時51分08秒 ) パスワード

こんんにちわ
みやちゃん 古見院に行っておられたのですね。
白石のお家からは すこし前のご先祖様のお名前を教えていただいていますがその先は お位牌を箱いっぱい入れて お寺に預けてあるそうです。

秀吉なんぞもありますばい えっへっへ ということでした。勿論あの秀吉ではなくあやかって ということでしょうが。

かきながら うちの平川に今の嫁でもわからない 平吉なんぞある と過去にきいており
白石は 架平 佐平 など先祖にいます。
平吉 ・・・一つ下の故人・当主は吉平(平吉をひっくり返したもの)・・父が名付け親・・白石の人の名を意識して平を使ったのか?

多分 この川辺の白石の女子だと思うのですが わたくし受かった会社に一つ下の白石さんが入ってきたのです。 本家では 川辺では白石は一軒だけということなので この家のひとかなあ と 今思うのですが。

私人見知りをするたちで あの頃 ふつう 同郷の人が来るとお世話をしていたのですが それとか 県人会があってそれに入ったり 帰省するときは一緒に帰るとか するのですが どうしてか 気がまわらず しませんでした。

川辺の久保田さんも一つ上で すでに 会社に入っており 
いろいろ 世話をしてくれました。遊びに連れて行ってくれたり
赤い瓦の家だからと まで 教えてくれていたのに 
人づきあいが下手でしたねえ。あのとき如才なくお付き合いしていたら今でも親しくして下さったろうと思うのですが。
他の 会社にいた人では その人たちどおしで ながく お付き合いしている人たちもいますから。

久保田さんという苗字では免田の方でも 鉄工所をしていたおうちの人で 昔あった 健康優良児の大会で 一緒になった人もいました。どちらの久保田さんも 身長は165センチ以上ありましたねえ。

淵田さんという人も 鹿児島から来ていた人ですが 同じ会社におりました。この人なんか 女性なのに 当時 170センチ位はありました。
下世話な話 あんなに大きくて お嫁にいけるのかしら?と噂していた人もいたのですが 

20歳くらいに さっさと お金をためて 結婚していきました。
私思いますに おそらく 所帯の切り回しが上手だったのだろうと 思うのです。
上にあげた人たちはみんな女性ですよ。

なりまつ
なりまつは 伊達氏の側室の女性で子供が宇和島藩主になる人の方からでていましたが

姉の夫・山口の家紋は下が交差している大根紋です。
ここは 平江に奉公していたと言い 父の手帳に木原 伊津野が書付けてあり木原から山口氏がいる。かん

これは 坂上氏族らしく 大蔵氏の子孫。
それで
伊達氏関係で白石があり
刈田氏関係で白石があり
清和源氏系で白石があり
高岡との接点がないかなあ と 思って ネットを見ていました。

そして
関係ないのですが 漢王室随従七姓の系というのも 7000傑様サイトで発見。いや しらなかった あ です。









[22]白石さんからのコメント(2016年03月13日 02時07分31秒 ) パスワード

もう一度 姓氏類別大観 中臣氏・大中臣氏を見ていました。例のあの武内宿ねなどとのからまりの・・・

そして椋垣氏
景行帝裔池田氏の男子から生まれる女子と 紀長谷雄の男子と結婚して出来る男子と
津速産霊命十三世孫★鯛身命の孫御身宿祢の子真束が倉垣臣を賜姓される。
こちらから出る池田氏の男子と結婚
子孫に 清和源氏頼光流泰政が入り 池田氏へ。

近江大津宮朝13年(674)豊毘登は椋垣朝臣に改賜姓、鹿養以降は★摂津国能勢郡大領、後裔の池田政扶の女は紀姓池田維実の妻となり後世の大名家池田氏の祖となる。

ここで
摂州多田院御家人高岡系図を見ると
【世系】摂州高岡氏は池田氏と同祖なり。摂州池田氏はもと物部伊居太足尼 (五十言宿禰)の後胤にして、中絶ののち紀姓の人が之を嗣ぐに依りて紀姓を称す。 その後裔池田蔵人大夫奉貞は、継男子無くして源姓馬場下野守仲政の四男奉政を養して氏を継がしむ。 依りて後裔源姓を称す。摂州高岡氏は、池田奉貞の實弟肥後守貞望の後裔にして紀姓を称したるも、 同五世に至りて、源姓池田奉永の四男源四郎が婿入りして氏を継ぎたるによりて高岡氏もまた源姓を称すは。 世々摂州川邉郡多田郷の御家人なり。
このあいだ 教えていただいた物部氏の高岡が出ます。そして 紀姓ということで武内宿ねにつく。

肥後の守貞望は一色の陣代でした。

椋垣氏は
 他に異流として★坂上姓椋垣氏が存在する。
というので あけあてみたら
佐波多村主裔からでる 系の★関兼吉の孫・大政所との子と
清和源氏高政流の水野氏との間の子が秀長。

木下氏と大政所の間の子が 秀吉。

この木下氏の出自が諸説紛々のようだけど とりあえず 浅井氏とすれば
大分のくす郡の白鳥神社に近江浅井氏が書いてあり祭神・ヤマトタケルなので

四浦にも白鳥神社があり この集落に木下がいても不思議ではないと思う。うちの木下は深田の方だけど 
父の母 は 白鳥神社がある集落の木下の墓に一緒に入っている。これが深田の木下の墓かどうかは確認していない。

山口氏
姉といとこどおしの 姉婿。山口氏。
家紋はダイコン紋で下が交差しているものです。
この形は 5代 将軍 綱吉生母・桂昌院の実兄の紋と同じで あちらはダイコンの色が黒です。

桂昌院は八百屋の娘 ということですが 実家の本庄氏は公家(北小路)で
柳原家と縁戚。・・・柳原さんが 小学校の頃 保健室にいました。

上〜っの方では 柳原愛子という人がいますね。

な〜んか もやもやするのですよね。






 





 
[23]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月13日 11時54分54秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
日本の苗字七千傑、白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様、ご先祖様に繋がる手掛かりの参考になればと思い、先日から調べてみました。参考にして頂ければ嬉しいです。(^'^)

日本の苗字七千傑様
>無謀な前途に立ち向かっている様ですね!
やはりそうなのですよね・・(..)
すぐに思いつきで行動してしまう・・私の悪いところです(..)
しかし・・気になる部分は御教示頂いた
日本の苗字七千傑様の「ー「各種一覧」ー「旧国郡区分図」」
そして旧高旧領取調帳データベースの検索を利用させて頂きます。

じつは、昨日は夕方から外出したのですが、家の近くである「発見!」をしました。その後、外出先で日本の苗字七千傑様の御教示を拝見して、きっとこれは・・
日本の苗字七千傑様と私の御先祖様が「進む方向が困難な道を選んでいるぞっ!!そっちじゃないぞっ!」と教えて下さったのだと思いました!
(マタマタとの合唱が・・)

旧岡原村で発見したのは「丸に三つ引き両紋」です!!

椎葉家で見つかった和鏡の「丸に三つ引き両紋」に関係した家は、おそらく「犬童家」「平川家」に限定して間違いない!と推測します。

重要なヒントは以前から父が言っていた「丸三焼酎(醤油)屋さん」でした。

では早速御説明を(..)
旧岡原村岡本の正八幡宮のすぐ近くにある老舗の酒造場。
父が子供の頃には「丸三焼酎(醤油)屋さん」と村の人達からは呼ばれていまして正式には「犬童酒造」。
今は経営者がお替わりになったのか「堤酒造」となっています。
※「犬童酒造」(丸三焼酎屋さん)⇒ 「堤酒造」
私、以前、こちらを「このスレッド」でご紹介した事がありました。(何の意図も無くです(..))
昨日、外出する際に家から1kmも離れていないこちらの「堤酒造」さんの前を車で通っている時に・・あっ!!「丸に三つ引き両紋」!!
と気が付いたのです。
皆様、ご覧ください(..)
堤酒造 サイト 会社案内に旧犬童酒造の頃から変わらない店構えが写っています。屋根したの壁にある「紋」をご覧ください。
http://www.tsutsumi-syuzou.com/company/index.html
明治11年 犬童醸造場・犬童馬鞍により創業
平成13年3月 株式会社犬童酒造となる
平成14年2月 株式会社堤酒造となる

壁に描かれている紋は「丸に三つ引き両紋」!
だから、村の人達は「丸三焼酎(醤油)屋さん」と呼んでいたのだっ!!と。
※明治11年 犬童醸造場・犬童馬鞍により創業
分限帳 岡許村には
寛政十年(1798年)犬童久右衛門
天保元年(1830年)犬童休右衛門
安政年間     犬童久左衛門
さらに、以前、コメントしたように
宮原村
寛政十年(1798年)馬鞍金兵衛
岡許村
天保元年(1830年)馬鞍金兵衛
安政年間     馬鞍重助
とあります。

旧岡本村の犬童馬鞍と言う方が創業した犬童醸造場の壁には「丸に三つ引き両紋」と言う事です。

椎葉家の源一おじいさんの妻は上村の犬童家から嫁いで来られています。
椎葉家の源一おじいさんの妻の弟は当時の熊本県県会議員でした。
実家の「犬童家」は上村城麓。麓の犬童家は代々上村村長を務めた家でもあり、昭和の初めまで、白髪岳の半分は椎葉家の源一おじいさんの妻の実家の「犬童家」が所有していたと言う事は親戚中が皆知っています。

さらに・・「犬童家」と「平川家」の繋がりは今まで私は何度も調査結果をこちらのスレッドにコメントしていました。
特に、私がまだ小倉に住んでいた時のコメントはおそらく、「真実」の核心に迫る部分まで進んでいたようなのですが・・その後あまり触れていませんでした(..)

私はもしかすると私は・・「平川家について20」「平川家について21」「平川家について22」辺りの調査で真実にかなり近づいていたのでは?
平川家について20
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101403_81.html
平川家について21
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101407.html
平川家について22
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101413.html

この頃の調査をまとめます。
※「尼妙阿」は良峯氏(平河氏)に嫁いで「良峯氏女」と呼ばれていた。
※尼妙阿とは「犬童女」の法号である(球磨郡誌より)
※長頼女の一人を犬童女と記しているが、この女性こそ正しくは長頼の姉妹であり、永綱の母である。
※犬童丸名を得ていた西信(永網)は犬童氏祖にあたる人物と推定される。
※犬童丸名地頭であった西信は平永綱(法名西心)と同一人物と考えられる。
※平永綱は相良(藤原)長頼の甥である。平姓であるから長頼妹(または姉)※犬童女こと「尼妙阿」を母とし平某を父とした。
※平永綱 法名西心とは実は 相良頼員 法名西信 ・・・同一人物

肥後国球磨郡図田帳より 
蓮花王院人吉庄六百町
  領家 八条女院
  預所 対馬前司 清業
  下司 藤原友永 字人吉次良
  政所 藤原高家 字須恵小太良
  地頭 藤原季高 字合志九良
     藤原茂綱
     藤原真宗 字久米三良
     尼西妙
地頭 藤原茂綱についての推測が「山江村誌」にありました。転記します。
山江村誌より
山江村誌より
藤原茂綱の字名は不明であるが、寛元元年(一二四三)十二月二十三日の関東下知状に見える「蓮仏(相良頼景)遣 平左衛門尉盛綱」と同一人物である可能性が高い。
また、相良頼景との関係と通字「綱」から「田部氏系図」(多良木町、源嶋明美所蔵)に見える「緒綱」も候補の一人である。そして、もう一人「平永綱」がいる。
永綱は、「伯父永頼法師」という関係であるから、永頼(長頼)娘が藤原茂綱に嫁ぎ、永綱の母になったのではないだろうか。
藤原茂綱という人物の推論
@「蓮仏(相良頼景)遣 平左衛門尉盛綱」と同一人物である可能性が高い。
A「田部氏系図」に見える「緒綱」も候補の一人
B永頼(長頼)娘が藤原茂綱に嫁ぎ、永綱の母になったのではないだろうか。

※上記「平左衛門尉盛綱」とは 以下 ウィキより
平 盛綱(たいら の もりつな、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の武士。鎌倉幕府の執権北条氏の家司。内管領長崎氏の祖。
※平 盛時(たいら の もりとき)は、鎌倉時代中期の武士。北条氏得宗家の御内人。侍所所司。鎌倉幕府執権、北条泰時・経時・時頼に仕える。系譜ははっきりしないが、平盛綱の子で、平禅門の乱で知られる平頼綱の父と推定されている。
※平 頼綱(たいら の よりつな)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人。鎌倉幕府8代執権北条時宗・9代執権北条貞時の執事で、貞時の乳母父。父は歴代執権の執事を務めた平盛時[2]。
御内人の筆頭格として時宗の専制体制を補佐した。時宗死後に対立した有力御家人の安達泰盛を霜月騒動で滅ぼし、内管領として時宗の嫡子貞時を擁し幕府内外で絶大な権勢を振るうが、頼綱の恐怖政治に不安を抱いた貞時の命によって誅殺された(平禅門の乱)。
別名 平新左衛門尉、平禅門

そして・・さらに・・その後の調査で解った事は「平頼綱」と宮原の一族の先祖である「橘公綱」(球磨郡久米郷を譲られた橘公員の子)は「母」を同じくする「異父兄弟」であった・・母は豊田五郎景基の娘。

さらに・・上記を調査している時に気が付いていた事は
平川家についてコメント4より
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101413.html
豊田五郎景基という方ですが、「長尾景基」。この方なのかな??と?
【桓武平氏良茂流】梶原氏と同じ「鎌倉氏」からの系ですよね・・

上杉頼成の妻が長尾景基の娘ですね。子供に長尾藤景。
長尾藤景の娘は長尾景為(景能の子)の嫡男「長尾景忠」に嫁いでいますが、「長尾景忠」の母は「佐原明連」の娘です。
「佐原明連」は三浦盛時の孫、義連の玄孫・・となります。
(゜-゜)佐原氏とも繋がっているのですね・・
==================================================
と言う事でした。

さらに
同コメント5より
※平頼綱の妻は大江広元のひ孫である「飛鳥井 雅有」の娘でした。
さらに、時間軸が合わない事に疑問を持った私の調査が同じく「平川家について22」のコメント6です。
皆様、私の推測でしかない調査ですが、ぜひ「平川家について22」のコメント6をお読み頂きたいと思います。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101413.html

「左衛門尉平盛時」を名乗る人物が他にもあった・・
三浦盛時。すなわち「佐原盛時」でした。
このような内容を「平川家について22」のコメント6で書いていました。

さらにさらにさらに・・
旧宮原村の最後の城主であった「犬童十兵衛(宮原十兵衛)」と平河氏の関係については、私が球磨に帰ってきて気が付いた事実でした。
以前、何度もコメントしていました。
この件は後のコメントであらためて書きたいと思います。

すごく長いコメントになりました。申し訳ありません。
しかし
※「尼妙阿」は良峯氏(平河氏)に嫁いで「良峯氏女」と呼ばれていた。
※尼妙阿とは「犬童女」の法号である(球磨郡誌より)
※長頼女の一人を犬童女と記しているが、この女性こそ正しくは長頼の姉妹であり、永綱の母である。
※犬童丸名を得ていた西信(永網)は犬童氏祖にあたる人物と推定される。
※犬童丸名地頭であった西信は平永綱(法名西心)と同一人物と考えられる。
※平永綱は相良(藤原)長頼の甥である。平姓であるから長頼妹(または姉)※犬童女こと「尼妙阿」を母とし平某を父とした。
※平永綱 法名西心とは実は 相良頼員 法名西信 ・・・同一人物

上記から調査を進めた結果でした。
「平河氏」「犬童氏」「丸に三つ引き両紋」・・

本日は今から外出致します。
では(..)
[24]白石さんからのコメント(2016年03月13日 22時48分33秒 ) パスワード

こんばんわ
平良尚 平川集落の阿蘇神社を再興した人

私 この棟札に書かれた年号を間違っていたかもしれません。
今日 村誌を見たら 永正12年(1515)平貞尚の再興となっていました。

平貞尚
この人はどういう人か?
私こういう人だと書いてあるのを見たことがないので ひとつ 桓武平氏系図で見たのを書いてみます。可能性があるのかしらん?

桓武平氏 家系図5/平正度〜・平家(平清盛 等)・伊勢平氏 - 家系図の倉庫
平正度ー季衡ー伊勢盛光・・・盛行の子孫に貞尚
この貞尚のおじにあたる盛定という人を開けてみると 

徳川氏系図5 (徳川家康周辺系図/後北条氏・榊原氏・奥平氏・五島氏等)というのがでます。

でも この系図では矢田貞長という人がはじまりで この人を開けると
清和源氏系図9(義国流下野源氏)がでるのです。

盛定は 右へスクロールすると出るのですが 伊勢盛定とあります。
下益城郡木原に雁回山というのがあり 伊勢新九郎がきています。又源為朝も・・・
北条早雲と伊勢新九郎
北条早雲 - Wikipedia
北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国 大名となった後北条氏の祖である。 ... 幕府申次衆の書状と駿河国関連の書状を照らし 合わせたところ、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一である...

系図に帰って 籍盛治は盛政と名を変えー神戸隆盛ー盛氏と続きます。
次が意味不明 で 伊勢の苗字4人と盛氏と系がいっしょにおりて 北条早雲が出ます。

早雲のひ孫世代に上杉景虎がおります。

結論として何も 整理できませんが
うちの山口のダイコン紋から 
高岡 平川 白石 山口 平江
平江に入る人の母系がなりまつ(姉より)

下が交差している大根紋は 色黒のとき 桂昌院の実家 本庄氏の紋


 











[25]白石さんからのコメント(2016年03月14日 04時33分38秒 ) パスワード

みやちゃん ありがとうございます。
忙しいのに いろいろと教えてくださって ・・・ 実は 昨日一日かかってかいていて アップされているのに 気づきませんでした。

佐原 三浦 は 横山党 で これまた 村山 児玉とはちがうようだけど やはり 姻戚関係があるのでしょうね。

平高望―平良文・・・・・平頼任(村山)・・・山口家継(武蔵山口氏の祖)

村山 平川 山口 と 苗字が違うけど そして 村山党と児玉党と違うけど
しかも うちの山口は 漢王室子孫坂上一族という系に苗字が見えるけど・・ 木原 →山口ではないか?と思い ・・阿蘇文書には 木原は源姓とあるのだけど・・・大根紋から入れば・・・

※5代将軍綱吉生母・桂昌院の実家は「本庄氏」・・・本庄大根紋
日本の苗字7000傑本庄氏で検索→有道・児玉党が出る。
姓氏類別大観 

【大部氏/有道氏/児玉党】  
 景行朝巡狩以来、膳部職を奉仕して★★饒速日命を祖(物部氏と同祖)とする豊日は大部造姓を賜る。
 天長10年(833)、大部長道、氏道、継道、福道の四名が有道宿禰を賜姓される。
 藤原伊周の家令有道惟能は武蔵国児玉郡に下向して、惟行(遠峯)は武蔵七党の児玉党の祖となる。
 児玉党の族葉は多く、武蔵国秩父郡、比企郡から上州に及び七党中で最大の兵力を持ち、傭兵として安芸、備後、陸前など全国各地に広まる。大名家の本庄氏(2家)は児玉党の後裔と伝える。
有道惟行(遠峯)との間の子から児玉党※藤原と縁戚
※このとき 伊周の兄弟に隆家・・菊池氏へ※菊池はのち豊田
 兼家の兄弟に道兼・・・宇都宮氏へ
 道長

有道惟行(遠峯)・・家弘から庄氏へ
家紋が軍配から ★★三つ引き両★★へ
※児玉党から大名家の本庄氏
桂昌院の実家
本庄宗正(本姓・有道 児玉党としているが疑わしい点が多いという)
  後妻の娘光子が3 代将軍徳川家光の側室(桂昌院)となり,5代将軍綱吉の生母となった縁で一族がさかえた。

。『徳川実紀』によれば、父は北小路(本庄)太郎兵衛宗正。母は鍋田氏
ネットより拾った話
お玉は八百屋の娘として生まれましたが、父親の死後、母が関白の家に仕える北小路太郎兵衛宗正と再婚したため、宗正の養女となります。

その後、江戸幕府3代将軍徳川家光公の側室のお万の方に仕え、あの春日の局の部屋子(御殿女中に仕える少女)になります。

その際、家光公に見初められ、なんと家光公の側室となるのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
公卿類別譜では柳原家は
藤原北家日野流。日野俊光の四男資明を祖とする

柳原資行 ┳ 資廉〔柳原嫡流〕
┗ 三室戸誠光 ┳ 資順〔三室戸嫡流〕
┗ 北小路徳光






[26]公忠公の末裔さんからのコメント(2016年03月14日 19時43分22秒 ) パスワード
URL=http://marishiten_tachibana@hotmail.co.jp

お久しぶりです。

古見院。我が宮原家は古見院の元檀家と聞いています。
今から23年ほど前に、お墓から魂を抜き福岡へ移したそうです。

そして、我が宮原家の家は古見院のすぐ隣にあり
集会所(今あるかは分かりませんが…)を建てる事になった際に土地の一部を寄付したと聞いています。
すぐそばの山にタバコ畑があり、牛小屋には赤牛がいたそうです。

肥後国相良藩士分限帳に載っている「宮原源吾」は私の高祖父の祖父に当たります。

除籍謄本を見ると
高祖父の妹は、山江村の家から来た養女ですし
高祖父の妻(高祖母)も山江村から嫁いできたようです。
[28]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月16日 10時00分14秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

コメント23からの続きを書かせて頂きます(..)

題して
1、犬童を名乗った平河氏

2、全てが何故か「佐原氏」に繋がっている
  @平頼盛の孫が名乗った「平川氏」
  A肥前の橘薩摩橘公明と繋がる佐隈伯耆守子息「犬童丸」

です(..)
早速(..)
1、犬童を名乗った平河氏

「平川家について28」コメント27で久米郷宮原城最後の城主「犬童十兵衛(宮原十兵衛)」と平河氏との関係性について書かせて頂きました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101490_76.html
寛永十二年(1635年) 宮原十兵衛 菩提 心涼祐傳禅定門 三月二十八日 宮原谷中 敬白 
※あさぎり町岡原北 宮麓地区 庭柏寺跡

寛永十二年(1635年)心涼祐傳禅定門 宮原城主 犬童十兵衛  三月二十八日
※※人吉市浪床町中尾墓地

上記のように「球磨郡旧宮原村」の宮原城城主であった犬童十兵衛(宮原十兵衛)の墓碑・供養塔は二か所にあります。
旧宮原村の庭柏寺跡そして人吉市の中尾墓地です。
※久米郷旧宮原村 宮原城主 犬童十兵衛(宮原十兵衛)

肥後国相良藩士分限帳 貞享分限帳記載の
※犬童彦右エ門同十兵衛
(犬童彦右エ門は十兵衛と名乗った)

犬童彦右エ門とは・・
ブログにアップした平河氏系図を再度ご覧ください。
系図画像Aの左端に 高政 犬童彦右エ門 の名があります。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html
犬童彦右エ門とは・・
犬童彦右エ門 高政 すなわち 「平河高政」だったと言う事が判明しました。

犬童彦右エ門高政の墓は「中尾墓地」の平河家墓所域にあり、さらにすぐ傍に建っていたのが
心涼祐傳禅定門 宮原城主 犬童十兵衛 の墓石でした。
すなわち心涼祐傳禅定門 宮原城主 犬童十兵衛の墓石は中尾墓地平河家墓所に隣接していた・・
犬童彦右エ門高政(犬童十兵衛)は元禄十一 十一月十三日(1698年)84歳で亡くなっています。
宮原城主(球磨郡旧宮原村) 犬童十兵衛の墓碑には寛永十二年(1635年)三月二十八日と刻まれている事から63年の差があり、寛永十二年(1635年)は犬童彦右エ門高政(犬童十兵衛)が21歳の時である事から推測して、宮原城主(球磨郡旧宮原村) 犬童十兵衛は犬童彦右エ門高政(平河高政)の父もしくは祖父であった可能性が推測出来ます。

平河高政(犬童彦右エ門)の父と思われる人物は系図では「平河源兵衛 頼重」です。
==================================================
と言う事が「平川家について28」コメント27の調査結果です。
犬童彦右エ門高政(平河高政)の系については「平川家について28+1」コメント14で詳しく書かせて頂いています。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_23.html
肥後国相良藩士分限帳と照らし合わせてみると
犬童彦右エ門同十兵衛・・一高 百石

長男 犬童五兵衛 早世 尾州宮ニテ死
娘  将親姉  久保山金右エ門養女(久保山金右エ門・・一高 百六十石)
二男 将親 平河彦右エ門実高政二男 ・・一高 百石

長男 則光 平河伊兵衛 享保二年 平河彦右エ門跡を継ぐ・・一高 百石
娘  則光姉  黒木市左エ門室(黒木市左エ門・・一高 百石)
娘  則光妹  豊原角兵衛室 (豊原角兵衛・・一高 百八十石)
二男 長雄   樅木伊左衛門 樅木家相続 ・・一高 百石外五十石役料

長男 久貞 平河伊兵衛則光の長男 妻 宮原権左衛門の娘
宝暦七年丑家中有事時因失誤被没収家秩百石入獄七年出獄□塔原郷数年後有免赦移住人吉青井邑亦数年先之壮年之時仕官而於東都邸師鈴木徳左衛門滝盛而得疋田流鎗術道綂伝帰郷里有門弟数多流義益進是以召朝襄之賜一世一口月棒也
※「宝暦七年丑家中有事」とは「御手判銀事件」の事でした。
==============================================
上記にある
犬童彦右エ門(平河高政)の娘について
※将親姉  久保山金右エ門養女(久保山金右エ門・・一高 百六十石)
久保山金右エ門養女・・その後、こちらの久保山家から妻を迎えたのが、人吉城下の「宮原氏」。
「平川家について28+1」コメント9でご紹介した人吉城下の二系の「宮原氏」。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_10.html
久保山家から妻を迎えた「宮原氏」は《公久(縫殿助 始人吉移住)》こちらから人吉城下に来られた「宮原氏」の後裔となります。
(資料を拝見させて頂きました(..))

ここまでの調査で「犬童姓」を名乗った犬童彦右エ門(平河高政)。こちらの系は「宮原氏」とも「久保山家」を介して姻戚関係にあった・・と言う事が解りました。

1、犬童を名乗った平河氏 でした(..)

かなり長くなりましたので
2、全てが何故か「佐原氏」に繋がっている
  @平頼盛の孫が名乗った「平川氏」
  A肥前の橘薩摩橘公明と繋がる佐隈伯耆守子息「犬童丸」

こちらは次のコメントで書かせて頂きます。
では(..)
[29]白石さんからのコメント(2016年03月16日 22時54分43秒 ) パスワード

こんばんわ
古見院に関与している公忠公の末裔様
私の同級生に柳瀬あたりの宮原さんに嫁入った「上村さん」がいます。これなんか多分 相良氏同志ということになりますね。

それから
萩の永田の女子は いま 兄弟同士 やなせあたりに住んでいます。
こんど 家紋をきいてみようと思っています。

それから
うちの父の異父兄弟の坂本女子は柳瀬によめいっているそうです。

学校を出て何十年ですから 同じところにいるかどうか?
うちの山口は 何世代か前 下益城郡の平江に務めていて 主人の娘と身分違いの恋をして 川辺まで逃げてきて 住み着き 

当代は かれこれ 40年くらい前 家土地処分して きょうだい皆関東に住んでいます。

みやちゃんの コメントの中の 久保山
白石佐平

福田伴蔵次男
養子(白石)佐平
川辺

川辺の白石 上村の白石→父母が夫婦養子の家
(木上村荒木庄蔵) |
長女・荒木ハツノ======三男・藤蔵
      |
(木上村・久保山○男姉) (川村・内元未蔵六男)
 養女・久保山マツエ====養子・秀蔵

(一武村・古川忠次郎)
次女・古川トミカ======長男・栄
       |
     長男・正

久保山とう姓が見えます。

アップしてこの系が くずれずに出るといいですけど・・・





[30]白石さんからのコメント(2016年03月17日 01時50分47秒 ) パスワード

やはり すこし くずれましたね。
川辺の白石が古見院に関与している白石
上村の白石が堀の角といっていて 字が木原だったところの白石。ただ 祖父は 幼い頃両親に死に別れ 長男筋だったのに 家を出て 自力で家土地を購入したということです。

川辺の白石の系は 川辺の白石家から教えていただきました。

※平頼綱の妻は大江広元のひ孫である「飛鳥井 雅有」の娘でした。
平河家子孫26にこのあたりのことはくわしくありましたね。
うちの高岡の先祖は 維新により 失職した人たちが来たのではなくて それよりりはやく 四浦にきているようだったので ??でしたが
四浦は 白川藩だったり 八代藩だったり また 鹿児島あたりにも関与しているらしいので 

そして 過去に見た本では 八代の高岡 佐田 山口の固まりが 山口にもある ということでしたので 一つの候補として
肥後高岡系図の高岡があると思います。


【肥後 高岡氏系図】
ここですと 道長にはじまり 花山院流で 飛鳥井氏の子孫ですね。


柏原に関与する高岡があったと思って 日本の苗字7000傑「柏原氏」を打ち込んだら
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 橘氏【5】が出て こちらは 橘公業の子孫。

又 
今朝の調査で別の「豊田五郎」を名乗られた方を見つけました。
板津氏の系図 より
http://omodakashirou.web.fc2.com/lekishi/keizunew.htm
藤原利仁流 林氏の系より「林光成」この方が豊田五郎 を名乗っていらっしゃいました。
※太平記の巻八に富樫・林が一族云々とあるはこの一党なり・・とあります。

驚いたのは「林氏」の家紋でして・・丸に一の文字が・・
以前からコメントしていますが、祖父の軍刀掛けに使用していた兜。兜の周囲を取り囲むように「一の文字」と「違い鷹の羽」の紋が・・
と思いながら、画面をスクロールすると・・
《兼松氏/豊田氏》・・兼松氏の紋は「丸に違い鷹の羽」・・??!!!!

林通政の弟の林通起の子孫の林十蔵が伊藤博文の父であると言われている。

そして今 武家家伝白石嬉野氏をみれば 
ところで、嬉野氏の出自に関して大村藩の『新撰士系禄』によれば、もと伊予の住人河野高橋前司霊為が、天慶の乱後に越智姓を名乗り、正暦五年(994)に大村直澄に陪従した七氏のうちの一人であるとしている。また、『深堀文書』によれば、古代氏族の一である日奉姓とみえている。

として 家紋は 丸一文字です。











[32]白石さんからのコメント(2016年03月17日 21時39分45秒 ) パスワード


こんばんは
>肥後相良藩士分限帳 上村
寛政十年(1798年)白石太右衛門 天保元年(1830年)白石太左衛門 安政年間 白石太左衛門
と上村には分限帳で「白石氏」の名前が確認出来ます。
上村の白石氏と川辺の白石氏は姻戚関係にある・・と言う事でしょうか?

白石太右衛門 天保元年(1830年)白石太左衛門 安政年間 白石太左衛門
この方方は衛門がついており 深水の 所右衛門さんとこではないか?と思いますが・・・

以下は我が家の上村白石家です。
白石佐平※この人は川辺に籍がある。 ||||
白石佐平(養子・福田伴蔵次男)※この人は上村に籍がある.
| |
長男・架平
妻・高岡キソ※この人四浦萩の高岡の戸籍におらず。

長男・秀蔵※この人川辺から上村に転籍
佐平の三男・藤蔵が川辺の家
つまり 秀蔵は幼くして両親を亡くし叔父夫婦に育てられ上村に家土地を構えた という部分
妻・山口モジュ この人山口つまり姉といとこの姉婿の家の人

高岡女子・●●の子が父
高岡改姓白石●(妻・佐田●●と秀蔵に夫婦養子)
妻・平江●● 死亡により 妻・佐田●● 

小笠原長清ですが ネットより
小笠原氏の祖の小笠原長清は、滝口武者として高倉天皇に仕えた加賀美遠光の次男 として甲斐国に生まれた。 .... 年(1565年)の永禄の変で将軍足利義輝とともに討死 すると、稙盛の子の秀清(少斎)は浪人し、後に細川氏(後の熊本藩主細川氏)に... 

※南部氏の祖の南部光行は長清の弟である。
みやちゃんの過去のお話で南部氏があったのは ここらにあるのですね。
 
細川氏は豊前小倉におり後 熊本へ来るのですね。
[33]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月19日 12時05分50秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

白石様、ご教示ありがとうございます。
お返事遅くなりまして申し訳ありません(..)

白石様の「白石家」と「高岡家」は、二重三重と姻戚関係を結んでいらっしゃったと言う事がよく解りました(^'^)

先日、人吉市図書館に行って、人吉市史他、未だ読んでいなかった書籍を多数借りてきました。

偶然か?ありがたい事に宮原の曾祖母の父(新堀氏)について、明治初期の相良藩士の動向の記録の数か所(数ページ)に名前が記載されていました。

高岡氏については、すみません(..)未だ、調査不足ですが、きっと、今後の調査において必ず何か見つかると信じています(^'^)

次のコメントでは、先日から「書きます!!」と皆様にお伝えしていた内容をまとめて書かせて頂きます。(^O^)/

では(..)
[34]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月19日 13時48分32秒 ) パスワード

皆様、あらためまして こんにちは(^'^)

早速、先日から「書きます!」と言っていた内容に入らせて頂きます(p_-)

コメント23では「平河氏」「犬童氏」「丸に三つ引き両紋」・・
からの調査で鎌倉初期における尼妙阿(犬童女・・相良長頼の娘もしくは姉妹)と犬童氏の関係、さらにコメント28では「犬童を名乗った平河氏」について書かせて頂きました。

コメントの繋がりを解りやすくする為に少し内容を変えました。

題して
1、肥前の橘薩摩橘公明と繋がる佐隈伯耆守子息「犬童丸」について
2、人吉市史より
  @相良長頼の出自について(異説)
  A上相良氏系図・・平原次郎頼範と新堀又次郎(四郎)頼兼(頼金)に出自について
  B萬江(万江)氏の祖は源満仲であった。

という内容となります。
今後のコメントは数回に渡って上記に基づいて書かせて頂こうと思います(^'^)

では早速(..)
1、肥前の橘薩摩橘公明と繋がる佐隈伯耆守子息「犬童丸」について

こちらのスレッド「コメント5」でご紹介した★橘薩摩一族の「永池氏」。
※長島庄内の久地布留村・葦原平倉口下村・永池村
※橘公明・・養子「犬童丸」(父:佐隈伯耆守)・・永池を知行した永池氏
※永池氏・・現永池を本貫とした橘一族と考えられる。

(p_-)偶然か?「永池氏」は球磨の平河氏族にもあり、なお且つ橘公明の養子となった佐隈伯耆守の子息「犬童丸」。
犬童丸・・偶然か?球磨の犬童氏は球磨の「犬童丸名」からの発祥と言われています・・二つの偶然が重なるものなのか??
そこで「犬童丸」の父「佐隈伯耆守」と言う方を調べました。
しかし「佐隈伯耆守」さらには「佐隈氏」ではネット上何も登場しません(..)
ただし、後世の記述に佐隈氏ではなく「佐久間伯耆守」という名を見つけました。
サイト 千葉一族
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku5.htm
椎名氏の項 馬・太刀奉納人数の表に「佐久間伯耆守」という名が見えますが、時間軸が「佐隈伯耆守」とは全く合いません(ー_ー)!!
ただ・・こちらの記述はヒントになりました。
佐隈・・さくま・・佐久間・・??

そこで、日本の苗字七千傑様のサイトで「佐久間氏」を検索させて頂きました。
すると桓武平氏良文流《三浦氏》の系に「佐久間氏」が二系見えます!
@桓武平氏良文流《三浦氏》⇒《多々良氏/佐久間氏》家紋は「丸に三つ引き両紋」
こちらは和田氏にも繋がっているのですね!
A桓武平氏良文流《三浦氏》⇒《佐原氏》⇒《会津芦名氏/猪苗代氏》 こちらにも「佐久間氏」。家紋は「丸に三つ引き両紋」

リンクが出来れば嬉しいのですが(..)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116e1.htm

日本の苗字七千傑様の三浦氏 姓氏類別大観に繋がる系をあらためてじっくり拝見して気が付いた事が多数あります。
@「沼田氏」・・人吉市史記載の明治八年「世襲禄奉還資本金渡願(一覧表)」の中にある 奥野村 沼田氏の名。こちらの表は明治八年「宮原村・奥野村・久米村」在の士族の多数の方の名があり、沼田氏在の奥野村は私の家から300メートル強の近い距離です。
A《佐原系三浦氏》出口氏・・コメントには繋がりがよく解らないので書いていませんでしたが、「出口家」は親戚です。(父も親戚であると言う事は祖母から聞いていました)
B「杉本氏」・・明治時代に書かれた祖母の実家平川家に関する親戚との土地の譲渡状が私の家に保管されています。当時の平川家の姻戚関係に「杉本氏」がありました。
C「宮田氏」・・先日伺った川辺の伝法山古見院。橘紋の「宮原家」のお墓の横には、同じく橘紋の「宮田家」のお墓がありました。(橘紋と言う事で気になってしっかりと記憶していました)
E現多良木町久米(旧久米村)には家の屋根下の壁に「丸に三つ引き両紋」が施された「三浦家」がありました。(先日、気が付きました。三浦●●という会社を経営されているお家です)
D「平子氏」・・こちらは、偶然なのですが、球磨の平河氏の発祥の地と呼ばれていた木上平川地区。木上の平川は実は「ひらかわ」とは呼びません(ー_ー)!!
木上の平川・・こちらの「平川」は正式には「ひらこ」と呼びます。

偶然かも知れませんが上記の件に気が付きました(..)

※橘公明・・養子「犬童丸」(父:佐隈伯耆守)・・永池を知行した永池氏
※永池氏・・現永池を本貫とした橘一族と考えられる。

佐隈氏・・佐久間氏・・?
と調べた結果でした。

まずは、
1、肥前の橘薩摩橘公明と繋がる佐隈伯耆守子息「犬童丸」について
より佐隈伯耆守・・佐隈氏(佐久間氏?)とは・・
でした。では(..)

[35]白石さんからのコメント(2016年03月19日 14時42分00秒 ) パスワード

こんにちわ
みやちゃん 私 書きながら考えていたのですが みやちゃんの過去のコメントにずっと前から平川を名乗っていたのではないか? というような意味の事を書いておられたと思うのです。

うちの固まりを考えると 遠隔からは 歴史上活躍した人が出てくる。
これはやはり 固まりとしてとらえて 一番合致した時代 固まり などからかんがえなければ と。

そこで
白石に養子で入ってくる 福田氏。
この氏をみてみると 有名どころでは 福田総理。
勿論 遠隔としてずうーっと離れているのですが。

ウィキより
越中国礪波郡福田村発祥の族は藤原利仁流。
播磨国赤穂郡矢野庄福田から起こる族は赤松氏族。
★肥前国彼杵郡福田村発祥の族は平姓隈氏族。
★筑後国発祥の族は大蔵姓高橋氏族。
★第67代内閣総理大臣、福田赳夫及び第91代内閣総理大臣、福田康夫を出した
★上野国の氏は児玉党。
備後国福田発祥の族は詳細不明、藤原姓を称す。足利尊氏に従い活躍し、福田を所領として与えられて福田を名乗る。
因幡国発祥の族は詳細不明。因幡国人衆として活動し、後に鳥取藩の支配下に入った。

平姓福田氏は、後白河法皇家臣の「平兼盛」(平包守)が九州の肥前国老手・手隈の定使職に任ぜられて下向した。
南北朝の騒乱にも参加。南北朝の対立で大村氏と同じ南朝方の雄であった「菊池氏」の配下になった一族もおり、福田氏の庶流は九州全域に広がっていくのである。
菊池義武が大友義鎮に謀殺され菊池氏が滅びた後は、在地領主として大友氏に仕えた。
すr
大蔵姓福田氏は 大蔵氏から出る 木原 山口と近く

児玉党福田氏は 古河公方足利氏に仕え 後豊臣秀吉配下になり 

上野国の福田氏は、関東管領山内上杉氏の家臣である倉賀野行政に仕え、「倉賀野十六騎」として倉賀野城を守った。群馬県出身の福田赳夫元首相や福田康夫元首相はこの流れの福田氏である。

また、源頼義の六男の希義が上野国に下り福田を称したとも言われる。
と。


児玉等
本庄氏族より 児玉党・有道が出た。藤原伊周も出た。これはニギハヤヒも出た。
本庄氏の大根紋の形は うちの山口の紋の形と同じで色がちがう。

 



[36]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年03月19日 15時53分30秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

三浦氏系幕臣佐原氏(三家)について
 
三浦義連の後裔 良信系 遠江国敷知郡吉美郷 丸に二引、丸に三引
        高處系 相模国       丸に三引、藤の丸の内三引
        延兼系 遠江国敷知郡吉美郷 丸に二引、丸に三引
 
明確には断定出来ないが、恐らく宝治合戦で北条氏側に加勢した三浦系佐原氏が相良氏系佐原氏を継承したのでは?
ここでも遠江がキーワード。

※参考
熊本県の佐原氏は、三浦氏族で丸に二引で同族ですね。
三浦系佐原氏は、相模国三浦郡佐原邑発祥。
[37]白石さんからのコメント(2016年03月19日 17時10分37秒 ) パスワード
URL=http://が

太田亮氏は 肥後の白石は清和源氏 菊池に仕え菊池が滅んだあと相良に仕えたという。

これにそうものはないか?と思って 見ていたら
まず 平川 成松

物部氏族1 に戻る
立石、清田、松岡、冬田、津守、 臼杵、怒留湯、内梨、鵜木じわ

★平川 成松 他は 大友一族で藤原姓に改めた。

大友氏 は 大内氏・毛利氏と 中原つながり
戸次氏は 初め 大神氏で 大友氏から養子。
この部分 前にでていましたね。

大神氏には 惟基がおり 青井阿蘇神社を
熊本の阿蘇神社から勧請した。尾方権の助大神惟基。
川辺川筋には 阿蘇神社があり 尾方氏が神主。
そして平川集落には 村山どん または 平川どんという阿蘇神社があり平貞尚の名があった。

和左衛門の佐賀の歴史あれこれ:白石氏居城(妻山城)
というブログではほほ

白石氏は、肥前.肥後国の住人「日向太郎道良」が元治元年(1159)頃反乱を起こし鎮圧 され、子供二人を含む数人が京にて梟首、難を逃れた子供が 通秀(多比良祖) 通俊( 綾部祖) 通益(白石氏祖)ー通常ー通遠ー通清ー通平ー通泰 となる..., ...
そして

日向氏(ひなたし)は、甲斐国巨摩郡★★村山郷(山梨県北杜市)を本拠とした在地勢力。戦国時代には国人領主で、★★甲斐武田氏の家臣団に加わる。

幕臣日向氏の系譜史料によれば、上杉氏に仕えていた信濃佐久郡の新津氏の子孫が姻戚関係にあったと想定される甲斐の日向氏を頼り、日向姓に改姓したという。

すみません
長いので 一度あっぷします。


 







[38]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月19日 17時10分56秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、白石様
御教示ありがとうございます。

白石様
過去に私が
〉ずっと前から平川を名乗っていたのではないか? というような意味の事を書いておられたと思うのです。

上記の件ですが、このコメントを書いた当時の私は、全くの勉強不足だったと痛感しています。すみません(..)
コメント23で書いたように
〉私はもしかすると私は・・「平川家について20」「平川家について21」「平川家について22」辺りの調査で真実にかなり近づいていたのでは?

白石様が指摘されたコメントを書いた当時の私は、平安時代に球磨に名を残したと言われる「平河氏」と、鎌倉時代に遺文を残した「平河氏」をどうにか繋げようと必死でした。
結果は・・どうしても繋がらない・・
しかし、球磨に戻り、様々な地域の史跡等の勉強も行う事が出来て、さらにありがたい事に、一般では販売されていない史学雑誌や大学の論文等も手にする機会が増え、さらには、地元の歴史研究家の方の御好意により、球磨・人吉における相良藩に関する書籍も多数購入する事が出来ました。
球磨に戻る前の調査と、球磨に戻ってからの調査。双方を冷静に分析して、今、私の頭の中はこの結論に近づいています。
『平安時代に球磨に名を残した豪族「平河氏」と呼ばれた系と鎌倉初期から球磨において遺文等を残し相良氏と共に相良氏族として明治を迎えた「平河氏」は同族に近い別の系である』
ただし、きっと、双方は無関係ではないとは思います。
しかし、鎌倉時代以降に球磨に名を残した相良氏族「平河氏」を解明しなければ、きっと鎌倉以前(平安時代より以前)に球磨に名を残した豪族「平河氏」に辿り着く事は不可能だと考えているのです。

父にも、史学雑誌や文献で取あげられている鎌倉以降の平河氏の記録を読んでもらっていますが、父も「おそらく、鎌倉以降は名跡を継いだ平河氏だろう。だからこそ、論文等では相良氏族として明治に至った平河氏を”庶流”と書いているのだと思うよ」と言っています。
鎌倉以降に球磨に来て平安時代の名跡を継いで”平河氏”となった系は鎌倉時代〜明治まで、700年以上も球磨を統治し続けた「相良氏」と緊密な関係であったと推測します。さらに、その関係と同じように「伊予橘氏」(越智氏族)も繋がっている。
今の私の推測はこういう事になっています。
もっともっと、私に知識があれば白石様の御先祖様「高岡氏」に繋がる事を見つけられるのでしょうが、本当にすみません(..)
もっともっと、勉強しますので、お待ち下さい(..)

日本の苗字七千傑様、
〉明確には断定出来ないが、恐らく宝治合戦で北条氏側に加勢した三浦系佐原氏が相良氏系佐原氏を継承したのでは?
ここでも遠江がキーワード。

日本の苗字七千傑様より、かなり以前から「相良氏」「平河氏」「佐原氏」の関係を指摘して頂いていたのに、私自身が中途半端な調査に終わっていた事を、今、深く反省しています。
おそらく目を覚ますようにと、椎葉のおじの家の和鏡が教えてくれたのだと思います。
「宝治合戦で北条氏側に加勢した三浦系佐原氏」
宝治合戦では橘薩摩も北条氏側に加勢しています。

今後もしっかりと勉強していきますので、御教示の程、よろしくお願い致します。

[39]白石さんからのコメント(2016年03月19日 21時23分07秒 ) パスワード

武家家伝 白石嬉野氏
ところで、嬉野氏の出自に関して大村藩の『新撰士系禄』によれば、もと伊予の住人河野高橋前司霊為が、天慶の乱後に越智姓を名乗り、正暦五年(994)に大村直澄に陪従した七氏のうちの一人であるとしている。また、『深堀文書』によれば、古代氏族の一である日奉姓とみえている。

嬉野氏は宇礼志野とも記し、杵島郡の白石氏から分かれたとされている。『白石系図』に よれば、肥前総追補使に任じられた日向太郎通良と子の通秀・親良・親秀らは、平清盛 のために叛逆人となり、討ち取られてしまった。難を逃れた通益は高来郡に下り

日向氏

新津勝資 - Wikipedia

新津 勝資(にいつ かつすけ- 慶長5年(1600年))は、戦国時代の武将。上杉氏の家臣。 丹波守を名乗る。 新津氏は、金津氏の支流で清和源氏平賀氏流の名門である。新津勝 邦の婿養子で実父は山吉政久(山吉豊守の父)。

清和源氏平賀氏で検索
源氏流諸系詳細(げんじりゅうしょけいしょうさい):皇統と鵺の影人検索 ...
河内国を本拠地とした河内源氏の本流/・源義家(八幡太郎義家)は清和源氏の主流で、その子孫は鎌倉幕府を開いた源頼朝に代表される武門として栄え、さらに河内源氏からは石川源氏(石川氏)、他に平賀氏、万部氏、万力氏、紺戸氏、板金氏、中川氏などがある。

また同じ河内源氏・源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家から甲斐源氏(武田氏)、甲斐源氏(若狭武田氏)、常陸源氏(佐竹氏)や信濃源氏(平賀氏)、信濃源氏(加賀美氏流・小笠原氏)、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)などが分派している。
「尾張諸家系図」に拠ると尾張国・平手氏は、三代遡れば清和源氏流・新田氏の一族である。

平手氏は、千三百八十五年(至徳二年)に南朝・宗良(むねなが)親王に属して信濃浪合の合戦で戦死した世良田有親の子・世良田義英に始まるとされている。

この尾張国・平手氏の世良田系図を★徳川家康が朝廷に届け出て、源氏の長者・征夷大将軍を認められたには、家康が平手氏の養子と成り、「世良田系図の得川(徳川)氏を名乗った」と手順を踏めば、賀茂流・松平氏ではなく源氏新田流・徳川氏は怪し気ながら成立する。

多氏族概観
もと磯貝といい、藤原姓の村瀬も同族か)、県主前刀連、★丹羽臣★(鷲津、★内田−尾張国 丹羽郡人)、★椋橋宿祢(★称良峯朝臣、また★橘朝臣姓。丹羽−尾州 .... 平治元年頃に平家 に追討された★日向太郎通良(世に★火の君と称された)の一族で、★★藤原道長後裔と称した。

大和国山辺郡の都介水分社神主で称藤原姓。鞆田〔友田〕−山辺郡人。同郡都介野村等の多田、深田、大門、★★白石、神田〔迎田〕、水涌、相川も同族か。水涌等は素盞嗚神後裔とも称)、坂合部連(坂合部−大和人)。
肥君(火君)、肥宿祢(河尻−肥後国飽田郡河尻荘に起る、称醍醐源氏。★★木原−益城郡木原村に起る、河尻一族。この一族に上土井、岩坂)。肥宿祢一族は肥後に繁衍した模様であり、次の諸氏は他姓を仮冒したものか。菊池氏重臣で山鹿郡を根拠とした称源姓隈部氏〔もと宇野と号〕の一族(長野、阿左古、富田、仲光、中富、幸田、諸富、宮本、石川、小富、河尻などで、菊池・玉名郡にも居住)や、阿蘇郡北里村に起る称源姓北里〔もと綿貫〕、松岡は肥宿祢同族か。また、託麻郡の称源姓早岐、小山や、託麻郡から起る称源姓安富、岩崎、深江〔肥前国高城郡住〕、益城郡の称甲斐源氏安田流の味木、★★益城郡から遷住という★★球磨郡の称清和源氏の★★萬江、飽田郡の長浦なども火国造同族ないし族裔か。★★菊池郡の「平川淀姫神社」祠官で称藤原姓の宇野氏は、隈部一族か。

竜造寺 肥前の大族、称藤原姓。また、筑後国の三瀦・上妻・山門郡に繁衍して★★の後裔と称する★★蒲池、池末、大木、犬塚、中山、鳥越、城嶋、成見、山下、河崎、谷川、竹野、★★本庄、麻生、★★溝口、中溝、酒見、栗山、江嶋、向井、安武、西牟田、長田、甘木、田川、今村などの諸氏も同族か。西牟田・甘木等は中関白道隆の後ともいい、酒見、安武は菅原氏とも称。竜造寺以下は阿倍氏族筑紫君関係も参照のこと。★★中原姓・藤原姓とも称した★★三池、鹿子木、権藤などの一族も火国造族裔か。


肥前★★中村氏

 肥前杵島郡長島庄を領して潮見城に割拠した橘姓渋江氏は、橘朝臣公村の時、はじめて姓を渋江と改めた。そして、その弟三人は分家して、それぞれ牛島・中村・中橘を名乗ったことが知られる。
 中村氏の初代公光は、文永九年(1272)父橘公義から百町の領地を分与されて分家したが、百町の領地とは石高になおすと二千石くらいに換算される。大領主というものではないが、それなりの所領を支配したことになる。
 公光のあとは嫡男の公平が継ぎ、二男の公有は中村弥二郎を号して兄を援けた。元冦の役に際しては公有が兄公平に代わって出陣し、そのときの古文書がいまに伝わっている。ついで、元弘三年(1333)官軍が鎮西探題北条英時を攻めた時、橘氏は官軍に属した。建武二年(1334)、新政府に反旗を翻した足利尊氏の一党が長門国下山に立て籠ったとき、中村弥二郎は官軍に味方してその討伐に馳せ参じた。その後、南北朝の内乱に当たって、橘一族はおおむね足利方に属し、中村弥二郎公有もこれに随従した。やがて、宗家に代わって弥二郎公有が中村氏の主流となっていった。
 公有のあとは二男の公世が継ぎ、鎮西探題となった一色道猷が南朝方の白石氏を須古に攻めたとき、宗家橘氏に従って須古攻めに加わった。以後、筑前・筑後・豊前・豊後を転戦し、応安四年(1371)に今川仲秋が九州に下向してくると、公世はこれを安芸に迎え、弟野副祖甲坊定円とともに後藤氏が拠る塚崎城を攻めた。翌五年には少弐頼泰に従って筑後国北郷、筑前国壱岐、肥後国関山などを転戦、★★中村氏は終始一貫して足利方として活躍した。

[40]白石さんからのコメント(2016年03月19日 22時32分31秒 ) パスワード

火の君の里・竜北 ふるさと寺子屋 お役立ち便利帳 熊本県観光サイト ...では

@古墳時代の肥後国最大の豪族・火の君
A火の君一族の本拠地とされるのが竜北町の★氷川流域
B磐井(いわい)の乱で勢力拡大

東北に阿部郡磐井郷があり 太田亮市は 白石が磐井を名乗ったとしている。
まったく こんなころから あっちにもいれば こっちにもいて だから わからないんですね。

Cナンバーワンは福岡の「筑紫の国」です。『日本書紀』に「筑紫の君の児、火中君の弟」とありますから、火の君は筑紫の君とは婚姻関係にあったか、あるいは配下にあったかと思われます。日の君は 朝廷側。

D磐井 (古代豪族) - Wikipedia
※磐井(いわい、生年不詳 - 継体天皇22年(528年?))または筑紫 磐井(つくし の いわい) は、6世紀前半(古墳時代後期)の豪族。カバネは君。 『日本書紀』では「筑紫国造磐井( つくしのくにのみやつこ いわい)」、『古事記』では「竺紫君石井(つくしのきみ

E平賀源内は、もとは白石源内。その白石家は伊達... -

平賀源内について最も詳しそうな讃岐の記念館に資料がいくつかあります。
http://ew.sanuki.ne.jp/gennai/023_tenji.html
家系図があり、その説明はこのようになっています。
「この家系図により、先祖に信州で武田信玄に討たれた平賀源心が居ること、国家の代に奥州白石に住み伊達輝宗公の家来になり白石姓を名乗ったこと、伊達政宗の命で伊予宇和島藩赴任したこと、国行の代で同僚の讒言により讃岐小田村に流れて来たこと・・・。」

F白石正一郎というひとがいまして 福岡の豪商だった人で 維新のスポンサー
この人の財がなかったら 維新はならなかったろうという。
本では 福岡となっていて ネットでは 下関になっているが 移築されたものだというので 福岡ではなかか?

赤間神宮の宮司になり 真木保臣の二男の墓などもある。

真木保臣の先祖・・・久留米藩士真木氏 水天宮神官で、久留米藩・中小姓格の家柄。尊皇攘夷の志士 真木保臣(真木和泉)を輩出した家系。

※うちの佐田をついでくれている 真木。
武田の血を引いているが 武田が負けて武田をなのれず 広島の浅野のお殿様から真木の姓をいただいたと 墓の中に書きつけてあった。
佐田の女子が結婚した家のつながりで つまり うちの本家の佐田に男子がないと佐田の女子が結婚した家から婿養子が入り 佐田の女子と結婚する。

これは 山本という家も同じで 母の実家の佐田は祖母の時山本という人といとこどおし。二人で山口県から半島に渡ったが若くて大喧嘩の挙句 祖母が山口に帰ってきた。

ここの家に 祖母亡き後 佐田が名家であることを知って 勝手に籍を入れた平野というひとがいるが

その平野の姻戚に 福岡の白石がいる。確か永田もいるんです。




[41]白石さんからのコメント(2016年03月20日 08時06分47秒 ) パスワード

平賀源内は、もとは白石源内。その白石家は伊達... -

で ここは 伊予宇和島にきているということです。

平川家16の5で
過去に 伊達家の側室緒子が伊予宇和島に藩主で来ていて 成松氏になる話をしました。平賀とは関係ないですが 

姉が 自分の母方の系は なりまつ だと しきりにいっていました。

なりまつについては 大友の方にもありましたから どちらかだろうと思います。

子孫様が少し前に 平賀・・・のことを書いておられました。

平賀源内は、もとは白石源内。その白石家は伊達... - 日本史 | Yahoo ...
より
この家系図により、先祖に信州で武田信玄に討たれた平賀源心が居ること、国家の代に 奥州白石に住み伊達輝宗公の家来になり白石姓を名乗ったこと、伊達政宗の命で伊予 宇和島藩赴任したこと、国行の代で同僚の讒言により讃岐小田村に ...

平賀から白石と書いていますね。

すこし 話しがずれますが
竹内明太郎・白石直治 近現代・系図ワールド 近現代・系図ワールド
をのぞいてみると
吉田茂家の妹と結婚する 白石がありまして
吉田茂の父は 竹内綱 

この武内綱
日本の武士(土佐藩士)、実業家、政治家。内閣総理大臣を務めた吉田茂は五男、麻生太郎は外曾孫。

この武内綱が仕えた土佐藩家老・山内氏(伊賀氏、宿毛領主)
山内氏理は伊賀氏理で本姓・安東氏

山内一豊に尾張からついてきた五藤氏。
五藤は うちの高岡の嫁方 そして 平川は 親戚に 後藤
五藤は 山内系図で過去にみたのですが 今ぱっとでないので
後藤をみると

の名が見える。後に宇喜多氏に滅ぼされる。 # 佐賀県の 後藤 ...


後藤氏とは - Weblio辞書

後藤氏」の続きの解説一覧 ... わざのもとつふみ)が語る「この国の文化中枢」 後藤 隆 ヒカルランド; 謎の根元聖典: 先代旧事本紀大成経 (超知ライブラリー006) 後藤 隆 徳間 書店; 播州後藤氏の栄光―後藤又兵衛基次の系譜 松本 多喜雄 神戸新聞出版センター .

系図
利仁流(播磨後藤氏・肥前後藤氏・武雄鍋島家)
斎藤伊博にはじまり 美濃前田家をたどれば

加賀前田家につながっています。
一方 後藤公則の系は ★★島田をとおり 大友能直?につながっています。

もやもやもやもやしながら 平川 白石 高岡 などが 微妙に からんでいます。







[42]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月21日 17時16分15秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

昨日、人吉の図書館に行き、以前ご紹介した五木の檀那衆について調べて参りました。
九州の苗字を歩く 熊本編 岬茫洋氏著、こちらに詳しく記載されていましたのでご紹介します。
旧藩時代の五木の管理と組織は、庄屋元、横目、山留役などで、藩からの派遣による。その管理下にあるのが各地の檀那・地頭たちである。
(相良藩における江戸時代の地頭とは、それ以前に使われていた”地頭”という言葉とは意味合いが違いますし、藩内においても五木の場合は檀那(地頭)と理解すれば良いようです。)
各地区の地頭家の苗字
田山家・木野家・尾方・土屋・土肥・池田・黒木・高野・土会平(つてひら)・久領・今村・相瀬・佐藤・豊原・和田 の各家々でした。
※興味がある所で「池田家」がありました。

御参考までにご紹介させて頂きました。

他の書籍で、私の親戚に関する記述等が記載されていましたので、次のコメントでは先日からの続きに加えた新しい調査結果を書かせて頂きます。
題して
人吉市史より
  @佐原頼忠の「地頭補任地」
  A上相良氏系図・・平原次郎頼範と新堀又次郎(四郎)頼兼(頼金)に出自について
  B相良長頼の出自について(異説)
熊本県神社誌より
  C親戚の宮司家「尾方家」遡った14代
等を書かせて頂きます。
では。
[43]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月21日 19時12分48秒 ) パスワード

皆様、マタマタの登場です(^'^)

早速、最近の調査結果から(本当は、もっともっと沢山の情報を得ているのですが一つづご報告を)
題して
人吉市史より
@佐原頼忠の「地頭補任地」
  A上相良氏系図・・平原次郎頼範と新堀又次郎(四郎)頼兼(頼金)の出自について
  B相良長頼の出自について(異説)
熊本県神社誌より
  C親戚の宮司家「尾方家」遡った14代
と言った順番で、今後のコメントを繋げようと思います。

まずは・・
人吉市史より
  @佐原頼忠の「地頭補任地」について
人吉市史第一巻 の巻末附録記載の相良氏系図「佐原頼忠」の項に
佐原六郎左衛門 大隅國正八幡宮ノ地頭
と記されていました。
※大隅國正八幡宮ノ地頭
球磨と大隅國正八幡宮・・繋がるのは・・税所氏です。
税所氏 武家家伝より
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/saisyo_k.html
税所氏は奈良・平安から鎌倉時代にかけて、南九州の大隅国曽於郡・小河院を中心に勢力を振るった、いわゆる在地豪族である。
 税所とは国衙における役所名(職名)で、文字どおり税の徴収などにあたった。税所氏はこの職を世襲したことから、やがて名字とするようになった。藤原姓を称しているが、本来は檜前姓であったようだ。ちなみに、税所は「さいしょ」と読むが、「ぜいしょ」と呼ぶときもあるようだ
 税所氏のように職名を名字とした例としては、鎮西の少弐氏、常陸の大掾氏、安芸の田所氏などが知られる。

税所氏の出自と勢力拡大

 税所氏系図によると、治安元年(1021)光孝天皇八代の孫敦如が京都から大隅に下り、曽於郡に居を構えて「曽於殿」と呼ばれ、その子義篤は襲山村重久の「関の坂」に居を移して「坂ノ上殿」と呼ばれたことに始まるという。
 一方、『薩隅日地理纂考十七之巻』の「税所祀』には税所氏の出自について、「宇多天皇の皇子敦房親王より五代の孫、税所篤如が、後一条天皇の代に大隅国国府郷八幡宮と霧島神社との神職となり、治安元年に大隅国に下向し曽於郡に住した云々」とある。現在、霧島神宮の一角に税所神社が祀られているが、これは、税所氏が霧島神宮の神領の租税徴収に関わっていたいたことを裏付けるものであろう。
 いずれにしろ、税所氏は鎌倉時代において、大隅国在庁官人・国方御家人・曽於郡郡司・薩摩満家郡郡司・正八幡宮政所職・霧島神宮座主職などを有した、大隅における一大豪族であった。建久八年(1197)の図田帳によれば、税所篤用(茂)は曽野郡重富・重武・桑東郷松永に田地を所有し、大隅国衙の税所検校、押領使職をつかさどる国方御家人として「大隅国注進御家人交名等事」に名を連ねている。同じく長兄の篤守が曽野郡司として、次兄の篤真も重久の名主として名をつらねており、税所一族が繁衍していたことが知られる。
 税所篤用の子篤満は、和田義盛の乱(1213)に出陣し、義盛の子四郎左衛門以下三人を討ちとった。しかし、みずからも負傷して、三日後に死去した。篤満の弟祐満は兄の軍功により薩摩満家郡を与えられ、大隅国大介税所職・押領使職・曽野郡郡司職・止上大宮司職・厚地山座主職・薩摩満家郡郡司職となった。
 かくして、税所氏は曽於郡城(橘木城)を本拠に、姫木城、隈部城などを支城として、やがて大隅の有力国人領主に成長していったのである。

税所氏。平河氏にも関係しています。
事実かどうかは抜きにして
相良長頼 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E9%A0%BC
建久9年(1198年)12月、長頼は源頼朝より命を受けて人吉に下向した。先に下向した相良頼景は上球磨(多良木、湯前、湯山、江代)を領していて、中球磨は木上岩城主の平川義高[2]が領し、下球磨は公領であったが、平頼盛の代官[3]であった矢瀬主馬佑が領していた。長頼は鎌倉幕府の命令であることを示して矢瀬に人吉城の明け渡しを迫ったが、拒否された。長頼は、住人・税所助三郎の勧めで、地方豪族である平川氏に使者を出して、矢瀬討伐を依頼した。平川義高はこれを快諾し、大晦日の川狩の際に矢瀬一族を胸川(球磨川支流)に誘い出して、尽く討ち取って滅ぼすと、人吉城を奪取。長頼は義高に迎えられて人吉城に入城することができ、任務を果たして帰還した。
※長頼は、住人・税所助三郎の勧めで、地方豪族である平川氏に使者を出して・・
さらに税所氏は、南北朝時代において山田城の記述等にも登場。
日本荘園史 四国・九州の荘園 より
建久二年末、足利尊氏は九州下向に先立ち少弐頼尚を筑前・豊前・肥後の守護に補し、永吉荘は山鹿荘とともに守護領とされた。少弐頼尚は観応擾乱で佐殿(足利直冬)に与同して解補されたが、それは相良定頼并一族等所領注文(「相良家文書」)に「一所 肥後国 玖磨郡永吉庄半分百七十五町五百石三百貫 平河左近允頼尚跡」と見えている。
頼尚知行分がもともと半分だったのではなく、没収後の給与が半分ずつなされたのであろう。
頼尚の知行中、平時は永吉平六入道宗昌が代官として所務に当ったが、軍事的には荘内山田城が北朝方の一大拠点とされ、税所宗円一族や相良定頼らがこれを守った。
しかし荘としての実態は鎌倉幕府滅亡をもって終わったものと判断される。

相良藩内の記録では税所氏は「綾姓 最取氏」と記述されている事が多いです。
皆様、お気づきになったかと思いますが、家の宮原家が元あった場所のすぐ近くに鎮座の稲積妙見の記述です。
稲積妙見 久米領 稲積山
※八代郡白木社妙見同體
※當郡妙見勧請ノ最初也・・球磨郡内において最初の妙見宮勧請であった。
※草創年紀未考
※社人 椎葉久左衛門 
※明應五年丙辰(1496年)
 藤原為續(相良為続)公・相良長輔公 御願トシテ 中興
※中興に関わった人物
  代官最取式部少輔綾(アヤノ)末繼 宮原出雲橘續久・・橘(宮原)続久
  石井太郎兵衛尉 阿部貞豊 等
代官最取式部少輔綾(アヤノ)末繼
麻郡神社私考「稲積妙見」の記述を以前転記していたのですが、良く見ると転記ミスがありました。以前綾(アヤノ)末續と書いてコメントしていたのですが代官最取式部少輔綾(アヤノ)末繼。「繼」の文字です。
人吉市史に掲載の「藤原綾氏 税所系図」に見える税所氏の通字は「繼」です。
(師繼 祐繼 繼忠 他多数)
すなわち明應五年丙辰(1496年)当時、相良氏の代官として旧宮原村に在した人物は
最取式部少輔綾(アヤノ)末繼・・税所末繼
宮原出雲橘續久・・橘(宮原)続久
と言う事になります。
「綾姓 最取氏」=税所氏 と言う事は、少し以前に気が付いてはいたのですが、佐原頼忠※「大隅國正八幡宮ノ地頭」と記されていたのを見て非常に驚きました。
綾氏・・藤原家成にも繋がる姓ですが、しかし税所氏の記述にあった「本来は檜前姓であったようだ」こちらにも驚きました。
平河氏の系図の「ある系」が文献等と比較した結果おそらく球磨の「田浦氏」であろうと私は推測していたからです。(今後コメントをさせて頂きます)
芦北地方の「田浦氏」の祖は檜前氏とされている・・九州の苗字を歩く 熊本編 岬茫洋氏著より。
多羅・田浦・加耶・かやの木・三浦氏・・単なる独り言です・・(..)

※佐原六郎左衛門 大隅國正八幡宮ノ地頭
球磨に唯一の鹿児島神宮は深田にあります。伝承では平河師高の建立となっています・・
税所氏・佐原氏(相良氏)・平河氏・・?
この件は、今後も調査を続けます。

まずは
人吉市史より
@ 佐原頼忠の「地頭補任地」
でした。 では(..)
[44]白石さんからのコメント(2016年03月21日 23時01分09秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
ちょうど 兵庫の方の荒田八幡をみつけて アッ これはしゃべってみよう と 思っていたところでした。みやちゃんのように 苗字からたどることはできませんでしたけど 平頼盛のことばが出て 興味がありました。

兵庫県神社一覧
神奈備にようこそ
荒田八幡神社
神戸市兵庫区荒田町3-99
 祭神

應神天皇

摂社 稲荷社「
当八幡神社は古くは「高田神社」といい、「熊野権現」を祀っていた。その森を権現の森といった。
のちに、すぐ西にある宝地院境内にあった八幡社を、合祀して、荒田八幡神社となった。

この土地は「池の大納言平頼盛(清盛の弟)の山荘」であり、治承四年(一一八〇年)六月三日の福原遷都のとき安徳天皇の行在所となった。いわゆる今日でいう皇居であり、今の境内に行在所跡の標石が建っている。

鹿児島の荒田八幡宮
往古は鹿児島の総廟
祭神
•應神天皇(オウジンテンノウ)
•神功皇后(ジングウコウゴウ)
•玉依姫尊(タマヨリヒメノミコト)

良峯師高の墓は 深田にあり 荒田の言葉があった と。

深田という言葉は 深田氏→宗像氏
出雲神の嫡裔、大国主命の神裔として伝えられ、天照大神と素戔嗚尊の誓約によって 生まれた宗像三神を祭神

 又 
和泉の式内社/陶荒田神社(堺市中区) - 戸原のトップページ−2

祭神−−高魂命・劔根命・八重事代主命・菅原道真 2011.04.01参詣. 延喜式神名帳に 、『和泉国大鳥郡 陶荒田神社二座 靫』とある式内社で、同じ大鳥郡の式内社・『火雷 神社』を合祀している。 .... 禄に、「大和国神別(地祇) 賀茂朝臣 大国主神之後也 大田 田祢古命孫大賀茂都美足尼奉斎賀茂神社也」とある)、荒田直と同じ葛城を本貫とする こと、・・・

高田
発祥の地は全国に存在するが、古くは大和国(奈良県大和高田市)に聖徳太子の父・用明(ようめい)天皇の子孫とされた高田氏がある。聖徳太子の異母弟の当麻皇子(たいまのみこ)の子孫は、当初は当麻氏を名乗っていたが、南北朝時代から高田氏を称した。

>税所氏はこの職を世襲したことから、やがて名字とするようになった。藤原姓を称しているが、本来は檜前姓であったようだ。

檜前氏
檜前氏は応神朝に渡来した阿智使主の末

阿智使主と高姓の人は檜前に住み 他の人たちは高市郡などに分かれすみ 後いるところせまくなって 全国に分かれ散った。

檜前から何かつながってくるものがないかなあ と思ってみていたら
日本の苗字7000傑坂上氏で
【坂上氏】
 後漢霊帝の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿智使主)を祖とする。
 また阿智王とともに随従七姓を始めとする漢人も帰化したと伝える。
 志努が坂上直姓を賜り、延暦4年に苅田麿が宿禰姓を賜り、子の田村麻呂は征夷大将軍となる。
 大名家(陸奥一関藩主)田村氏は、田村麿の末裔である。

さらに見ていると 当麻氏がありました。

田村氏は伊達正宗の正室:愛姫の家ですね。


私 後藤から大友能直?の系を先日 話しましたが
7000傑サイトで 藤原秀郷から大友能直ー志賀氏がありました。

又 平清盛ー知盛と結婚する武藤の女子がおり、あちら側に 惟宗の女子がおり
宗知宗がおります。

「信房」に関連した英語例文の一覧 - Weblio英語例文検索

... 関連文書対訳コーパス. 俊芿に帰依した「宇都宮信房」に仙遊寺を寄進され、寺号を 「泉涌寺」と改めて再興するための勧進を行った。 ... 4日、俊寛・基仲・中原基兼・惟宗信房 ・平資行・平康頼など参加者が一網打尽にされ、5日、明雲が配流を解かれた。

Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!-平川家について18

左衛門尉惟宗、信房、以下々北面下臈十余人、 次蔵人所衆、内舎人、之懸水供奉、 次 御厨子 .... あの・・実は平河との繋がりではないのですが、「宇都宮氏」に関係する情報を 見つけてはいたのです。 でも、これが、橘に関係する事だったので ...

と又 橘にかえってきました。

多分 みやちゃんが 過去にたどっている話をたどったのでしょう。
白石から 伊達を思いつき
後藤から大友氏を思いつき

応神天皇の頃 大挙して我が国にやってきた 漢王室子孫と 秦始皇帝の子孫
このような現象は 民族対立の歴史にかんがみ 考えられないことと本にはありました。























[45]白石さんからのコメント(2016年03月22日 01時42分18秒 ) パスワード

初神に木下 福島などの家があります。
福島は親戚と聞いたことがあります。

木下はここではなく
深田の木下が冠婚葬祭の時 来ていて
うちの平川の叔母から 私の祖母は初神の寺の下の木下の墓に一緒に入っているとおしえてもらいました。

福島へは 田山から嫁入っています。あの 市房神宮のお鏡をもっていた という田山の女子です。

木下 福島 加藤といえば 豊臣秀吉と母方つながりで いとこどおしだった人たちです。
加藤が抜けていますが

木下とは はたして 九州にいるということがあるのかしらん?と思って 調べていましたら

日本の苗字7000傑木下氏で検索
ねねの祖先が 平貞衛ー杉原氏ですね。
木下家定の子・延俊の子孫が豊後日出木下家へ。


木下利恭 ー旧備中足守藩主・木下子爵家ー|近代名士家系大観
・木下利恭 子爵

当家は従三位羽柴家定の後なり、家定家号を木下と称す

天保3、木下利愛男

備中足守藩知事

妻・琴

二本松藩主・丹羽長富四女

弟・利永

安政元年

養子・利玄(後述)

養子・利朗

明治20、前記木下利永三男

婦・きみ

明治28、渡部斗平三女

養子・利冬

明治23、同四男

養子・利昌
明治31、同五男

京都、木下ハル養子となる

養子・寿

明治32、同長女

斉郷信治に嫁す




妹・昌

本多富恭に嫁す




弟・利柔

近藤用明養子となる




弟・利他

天保5

木下瑛之助養子となる




妹・延子

吉川経幹に嫁す




妹・晴

三浦権五郎に嫁す




・木下利玄 従五位子爵

明治19、木下利永二男、木下利恭養子

東大国文科卒

歌人




妻・テル

明治22、栃木、横尾勝右衛門四女、横尾宜弘妹

学習院女学部出身




三男・利福(後述)




・木下利福 子爵

大正11、木下利玄三男

鎌倉中学出身




妻・・子

昭和2、伯爵三条西公正女

参照・三条西公正

http://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-11927200400.html




女・久女子

昭和24

藤森康雄に嫁す

女・久仁子

昭和26

嶋田啓作に嫁す

養子・寿

明治32、同長女

斉郷信治に嫁す

妹・昌

本多富恭に嫁す

弟・利柔

近藤用明養子となる

弟・利他

天保5

木下瑛之助養子となる

妹・延子

吉川経幹に嫁す
妹・晴

三浦権五郎に嫁す

・木下利玄 従五位子爵

明治19、木下利永二男、木下利恭養子

東大国文科卒

歌人

妻・テル

明治22、栃木、横尾勝右衛門四女、横尾宜弘妹

学習院女学部出身

三男・利福(後述)

・木下利福 子爵

大正11、木下利玄三男
鎌倉中学出身

妻・・子
昭和2、伯爵三条西公正女

参照・三条西公正

http://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-11927200400.html

女・久女子

昭和24

藤森康雄に嫁す

女・久仁子

昭和26

嶋田啓作に嫁す
ーーーーーーーーーーーーーー
三条西家は 岩倉具視も関与しているでしょ。
堀川ですよね。

三条西公正のところをあけてみると
久邇宮など関与してきて 姻戚 島津も関与してくる。

名前ばかりのつながりですが 
木下の先祖で枝分かれした先には こういうところがあったのですね。

堀川家なども 同級生にいたけど
あながち 偶然ではないかも・・・

勿論 私たちが こういうところと直結しているとは 思っていませんよ。
でも 自分たちなりに ぐるぐるぐるぐる つながりながら 昔の記憶をもって歴史をおりてきたのだろうと 思います。

大政所の祖先の「関兼吉の祖先」で検索
鷲神社が出ました。天日鷲命と日本武尊を祀る。

天日鷲命は忌部氏遠祖ですね。
こちらもぐるぐるぐるぐる・・・











[46]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月22日 13時30分43秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

公忠公の末裔様
先日のコメント、嬉しくて書いた内容に個人情報あったので、削除させて頂きました。申し訳ありませんでした。

〉高祖父の妹は、山江村の家から来た養女ですし
高祖父の妻(高祖母)も山江村から嫁いできたようです。

山江村・・やはり、繋がっているのですね・・ヒントになります。
ありがとうございました。
今後ともよろしくお願い致します。

白石様、木下家、情報が参考になれば嬉しいです。
沢山の御教示ありがとうございました。(^'^)
[47]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月22日 15時28分21秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)マタマタの登場です。

昨日のコメント43の続きに入る前に・・
コメント39の白石様のご教示にあった肥前中村家。橘薩摩の系となりますが、家の親戚にも橘姓の矢野家と繋がる中村家があります。
こちらの中村家から、宮司家である尾方家と祖母の実家の平川家に其々嫁いでこられています。
肥前の橘薩摩の系には牛島氏もあります。
牛島という地名は以前もコメントしたように多良木町にも現在も残っています。
牛島地区の隣が古多良木という地区で、私の曾祖父の生家である久保田家は古多良木にあり、今でも、多数の「久保田家」が古多良木地区にはあります。
牛島姓ですが、私の地元旧宮原村宮麓地区にもありました。
椎葉のおじの家のすぐ近くです。
「ありました」と書いた理由は、数年前に牛島家の御夫婦はお亡くなりになって、今は誰も住んでいらっしゃいません。
数年前に私がコメントに「牛島のおばさんが家にはよく遊びに来られていた」と書いた「牛島家」がお亡くなりになった「牛島のおばさん」でした。

さらに肥前の橘薩摩の系が所領した北方町(現武雄市)。
現佐賀県武雄市「北方町史」より
(一) 松浦党と郷土のかかわり
中世、ことに室町後期から戦国期にかけて当町には加々良・馬渡・徳永(桃川)・波多・山城氏等の松浦党や松浦方面に出自をもつ諸家が移り住み、あるいは知行地を持って活動した。

とあります。
※中略・・波多・山城氏等の松浦党や松浦方面に出自をもつ諸家が移り住み・・
平川家について28+1コメント61でご紹介しましたが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_80.html
《上松浦党》波多氏の家臣団
東松浦郡史
http://www.geocities.jp/tamatorijisi/higasimatuuragunsi.html

東松浦郡史サイト内に
其七 三河守鎮が家臣 の項より。
淵田祐四郎秀里 橘 秀里  立川村(西松浦郡立川)三百石
値賀伊勢守森昌 菅原森昌  値賀村  二百石
値賀三郎太吉渡 源 吉渡   同   百 石
原 善四郎源佐 秦 源佐  大川野村(西松浦郡大川野)三百石

淵田氏・値賀氏・原氏・さらには蓑田氏・有馬氏は1600年代中頃の旧宮原村宮麓地区の庚申塔に名が刻まれています。
※「北方町史」より
(一) 松浦党と郷土のかかわり
中世、ことに室町後期から戦国期にかけて当町には加々良・馬渡・徳永(桃川)・波多・山城氏等の松浦党や松浦方面に出自をもつ諸家が移り住み、あるいは知行地を持って活動した。

「旧免田町築地地区(岡原村と隣接)在の”橘姓の家”・多良木町牛島・旧宮原村宮麓牛島家・旧宮原村宮麓の庚申塔・・」
全て、鎌倉初期に「球磨郡久米郷東方」と呼ばれた地域です。

おそらく、鎌倉期以降、球磨郡久米郷東方は「肥前の橘薩摩の系」とずっと繋がっていたのではないのかな〜?と私は推測しています。

コメント43の続きからはそれましたが
球磨郡久米郷東方と肥前の橘薩摩の系・・というお話でした。
[48]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月22日 17時22分54秒 ) パスワード

皆様、マタマタマタの登場です(^'^)

先程のコメントでは肥前の橘薩摩と肥後国久米郷東方と呼ばれた地域について書かせて頂きました。
白石様から「荒田」についてのご教示をコメント44で頂いていましたが、旧岡原村(宮原村)の旧字名にも「荒田」がありました。現在、免田町築地に隣接する地域です。
旧岡原村の「旧字位置図」
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12090249542.html
旧岡原村(宮原村)の旧字名と言えば・・人吉市史に明治十年の家禄制度廃止に伴う「資本金下渡と授産地払下伺」(家禄奉還対象の士族)と言う項があり、新堀家から嫁いで来た私の曾祖母の父(新堀氏)が授産地払下を願い出た記録が残っていました。
字ショウフ谷弐拾七町歩ノ内反別五町歩・・と記載されています。
字ショウフ谷・・旧岡原村の「旧字位置図」には字ショウフ谷は記されていないので、きっと旧宮原村時代の字名なのかな?と
この字名は調べてみたいと思いました(..)。

では早速コメント43の続きに入ります(p_-)
人吉市史より
 A上相良氏系図・・平原次郎頼範と新堀又次郎(四郎)頼兼(頼金)の出自について

人吉市史第一巻 の巻末附録記載の上相良氏系図に平原次郎頼範と新堀又次郎(四郎)頼兼(頼金)の項がありました。
平原次郎頼範・・一説藤太頼寛ノ甥 又工藤太夫光頼ノ弟ノ子
新堀又次郎頼金・・一説頼範ノ弟
右二人ハ頼景下向ノ折随身猶子トナリ、弟分トナル、頼金(頼兼)ハ頼景ノ女ト合縁
とあります。
日本の苗字七千傑様の【藤原南家為憲流】姓氏類別大観を拝見しました。
※一説藤太頼寛ノ甥・・相良氏初代相良頼寛ノ甥・・と言う事は横地氏に繋がる可能性もあり・・と言う事ですね。
もしくは・・
※工藤太夫光頼ノ弟ノ子・・木脇光頼は工藤周頼の養子に入って相良頼寛の父となる・・

と言う事ですね。
もう少し、上記の方々の周囲を調査したいと思います。

では(..)
[49]白石さんからのコメント(2016年03月23日 03時41分36秒 ) パスワード

こんばんわ
48は相良氏のことですよね。

平頼盛に関して「高田」の言葉がでました。
四浦萩に 高岡 高田 永田 田中の4軒で小字の萩と言っていました。

高田は親世代は村長で 今は 初神に 親戚の土地を買って?と聞いていますが宇住しています。

初神平には 山井という家もあり 高岡の嫁方。高岡のことで集まった時 平川の嫁と一緒の写真を送ってきました。

内田は 「内田先生」がおられました。「古荘先生」もおられて どちらも後校長先生になっておられました。

古荘は 近藤から大友へえの中に話がありました。

[50]白石さんからのコメント(2016年03月23日 03時52分52秒 ) パスワード

※日本の苗字七千傑様の【藤原南家為憲流】姓氏類別大観を拝見しました。
※一説藤太頼寛ノ甥・・相良氏初代相良よ頼寛ノ甥・・と言う事は★★横地氏に繋がる可能性もあり・・と言う事ですね。

横地氏で検索






































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ここから本文です





横地城 - Wikipedia
別名金寿城。現在はわずかな遺構が残るのみである。横地城跡は平成16年(2004年) 9月30日に国の史跡に指定

★★「菊川城館遺跡群」

の一部分になっている(菊川城館 遺跡群は
「高田大屋敷遺跡」

「横地氏城館群」
で構成されており、

「横地城跡は後者に属する

高田 と 横地が セットであるところの 候補でした。











[51]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月24日 09時40分54秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

白石様、ご教示ありがとうございました。

横地氏と高田大屋敷遺跡。
平川家について28+1コメント3で調査していました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_80.html

高田家ですが・・
上村の相良藩士であった高田家は椎葉のおじの家とは犬童家を介して親戚関係となります。
こちらからは、すでにお亡くなりですが、球磨の歴史研究家として著名な高田氏が出ていらっしゃいます。
私は、こちらのスレッドで何度か高田先生の著書を御紹介させて頂いております。(黙っていまして・・すみませんでした(..))

祖母の姉が平川家から幼い頃に養女に入った椎葉家。
こちらの椎葉家には二代に渡って宮司家の尾方家と姻戚関係が結ばれています。
(祖母の姉の夫=尾方家から婿養子に入り(椎葉のおじの父)、この方の兄の娘が椎葉のおじの妻となる。すなわち椎葉のおじ・おば、二人は従兄同士です)
椎葉家は以前コメントしたように、永田家の娘と島津藩家老家”某家”の子息との間に産まれた源一氏が養子に入り、源一氏の妻は上村の犬童家から嫁いでこられています。
折角ですので、この流れから
熊本県神社誌より
  C親戚の宮司家「尾方家」遡った14代
このお話を御紹介させて頂きます(..)
熊本県神社誌とは昭和56年出版、上米良純臣氏編者であり、本文の前に「序」の項では昭和56年当時の神社本廳統理 徳川宗敬氏、さらに「熊本県神社界の大きな財産」の項では阿蘇神社宮司 熊本県神社廳長の阿蘇惟友氏のお言葉が記されています。

熊本県神社誌 第八章 熊本県内社家と神職 第一節 古い社家略系図 の中に親戚の椎葉家と姻戚関係にある宮司家「尾方家」について記されていましたので、ご紹介させて頂きます。

岡留熊野座神社 尾方(●●※椎葉のおじの妻の兄の名)家 (姓 大神 氏 尾方)
初 緒方太郎右衛門(元禄十二年)・・A左仲・・B右門・・C右源太・・D早馬惟利・・E太市惟金・・F早馬惟忠・・G右馬清雲・・H文平惟信・・I早馬・・J馬才・・K清治・・L清馬・・M現在(●●※椎葉のおじの妻の兄の名)
となります。
※13代「清馬」この方が椎葉のおじの妻の父であり、椎葉のおじの父の兄です。
※12代「清治」この方が椎葉のおじ・おじの妻其々の「祖父」となります。

なお、12代「清治」。この方は市房神宮社司の項にも名が記されています。

※市房山神宮は、霊峰市房山を神体として、山中の本宮・山麓の一の宮神社(中宮)・湯前町の里宮神社(下宮)の3社で構成。
http://www.satomiyasan.jp/

※山麓の一の宮神社 
熊本県神社誌より 一宮神社 球磨郡水上村湯山鎮座 尾方(○○)家 (姓 大神 氏 尾方)
初代大神惟澄・・以降昭和56年当時の9代の方までのお名前が記されています。

※湯前町の里宮神社(下宮)
熊本県神社誌より
(なお市房神宮社司は明治維新まで別当普門寺。以下)
初 植田宣政(明治24年熊本市の人)・・A藤川古蓮(明治27年天草出身)・・B尾方清治(明治43年 免田の人)・・C横瀬安治(大正8年 岡原の人)・・D竹原政人(昭和3年八代出身)・・E工藤節一(昭和9年阿蘇出身)・・F尾方○○(一宮神社宮司)・・G工藤●●

※3代 尾方清治・・先程書かせて頂いたように椎葉のおじ・おじの妻其々の「祖父」となります。
※4代 横瀬安治・・岡原霧島神社の宮司家であった横瀬氏です。横瀬氏は平河の一族です・・。
※6代 工藤節一・・別項に宮司家「工藤氏」の出自を「伊豆工藤氏末裔」と記されていました。

さらに・・椎葉のおじの「椎葉家」と宮司家「尾方家」が二重の姻戚関係を持ったのか?の謎に繋がるのでは?という記述も見つけました。

熊本県神社誌 第八章 熊本県内社家と神職 第一節 古い社家略系図より
白木神社 球磨郡多良木町奥野鎮座 椎葉家(姓 大神 氏 椎葉)
初 大神惟当・・A惟許・・B惟栄・・C惟寂・・D惟栄・・E惟安・・F惟休・・G惟勝・・H惟刀・・I貞吉・・J徳次郎・・K貞●(現在)
旧奥野村の白木神社。
私の住む旧宮原村宮麓の切畑集落から300メートルも離れていない場所に鎮座。
椎葉のおじ曰く、椎葉家は旧奥野村から現在の場所に移って来た・・
親戚の椎葉家にはおじから数えて7代前の方からのお位牌があります。

旧奥野村の白木神社の系図他、熊本県神社誌を、椎葉のおじに見せたのですがおじも「無関係では無いような気がする」・・と言っていました。

「惟」の通字・・
「平川家から養女に入った祖母の姉」・・「平河氏」と「惟」の文字・・
以前から、平河氏系図にある「惟」の文字を持つ家との姻戚関係を何度かコメントしていましたが・・
家の「強い絆の」親戚関係も無関係ではないような気がします。

所で・・
新堀家の先祖「新堀又次郎(四郎)頼兼」。
この方を調べると・・こちらも「三浦氏」に繋がっていました・・
この件は、本日、外出致しますので、明日にでも書かせて頂きます。

では(..)
[52]白石さんからのコメント(2016年03月24日 23時31分19秒 ) パスワード

こんばんは
みやちゃん 前に教えていただきながら 私 ぼうーっとしていましたね。あの頃激しく 熊本へ行っていたので・・・


高田をもう少し かんがえてみました。

武家家伝_当麻高田氏 家紋 丸に卍 菊一文字 剣カタバミ
大和国は他国のように武家(御家人)が守護に任じられず、「興福寺」が守護職として一国 の検断権を行使した。また興福 ... とはいえ、当麻氏が在地名高田郷をとって高田氏を称 したことを示すものであり、当時の武士の名乗りのあり方からしてもうなづけるものだ。
[

※応仁の乱の時当麻高田氏は[越智党]の有力者として活躍した。
※当麻氏遠祖は葛城国造 劔根命を始祖とする葛城直氏である。

葛城直氏の系譜とその行方|葛木彦の風まま日記 - アメーバブログ
3第8世代★★荒田彦宿禰・・なぜか 荒田の言葉
荒田彦の娘、葛媛が武内宿禰の妻となり、葛城襲津彦を生んだ と紀氏家牒にあるとのこと。
ここから葛城臣氏が発足する。

太田亮氏は
尾張氏の子供を大荒田の娘がうみ その時稲100束をもらった と書いている。又 
尾張氏へは 蘇我氏の妹か女子が嫁に来ており 確か 藤原へも嫁いでおり 彼らは 姻戚関係にある。
後 藤原南家から婿養子に入った人の系から 源頼朝が生まれ 武内氏は神宮をでて「八剣神社」を建てた。

私の同級生や親戚は 山田からきとんなっと とか 山江といわず 山田と限られた地域の名称をいいます。


4第14世代葛城直 許豆麻
継体朝において、葛城直の姓を賜る。


葛城山田直広主
継体朝に新たな墾田20町と・・★★葛城山田直の姓を賜る。
・・・なぜか 山田の言葉。

蘇我氏は出身地が葛城であることを執拗にアピールしており、自分たちは葛城氏の後継であると公言している
これは 太田亮氏も 書いており 
葛城には 高田村 高田川がある。
★★★四浦で考えると 萩に田中→田中は曽我倉山田石川麻呂に通ずる。
中腹に林→林は蘇我氏に通ずる。平川のおばは屋敷と呼んでいた。相良氏のおじは 林重盛という。丹波の人。
うちの林が相良氏と関係あるかは?

父母が白石へ夫婦養子に入った時の仲人の嫁方は「田中」。
★★田使首は たじのおびと と読む?
[53]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月26日 19時07分59秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

白石様、ご教示ありがとうございます。
数日、出かけていまして、お返事が遅くなりまして申し訳ありませんでした。

御教示頂いた「高田氏」
〉※応仁の乱の時当麻高田氏は[越智党]の有力者として活躍した。
非常に興味の湧くところですね。


所で・・御教示頂いた
〉相良氏のおじは 林重盛という。丹波の人。
こちらはおそらく球磨川の水路開発を行った人吉の商人「林藤左衛門正盛」(林正盛)のことではありませんか?

とても気になる事なので、先日コメントします!と書かせて頂いた内容を今日は変更して書かせて頂きます。
皆様、先日の続きは明日にでも書かせて頂きます(..)

林正盛は藩主相良頼喬(よりたか)の母の弟にあたります。
丹波国篠山の片岡氏の出。姉の縁で人吉に来て商人となりました。

人吉市史 附録 九日町林系図 が記載されています。
ご紹介すると
林九郎右衛門 本姓 上林 寛永年間 片岡氏同道人吉ニ来リ住ス、故ニ片岡氏ト兄弟分ナリ
林藤左衛門 球磨川ヲ寛文四年ヨリ開墾ヲ企画ス
とあり初代 林九郎右衛門から明治に至る十代までの系図が記載されていました。
※丹波国篠山の片岡氏の出。本姓 上林

こちらは人吉の九日町林家ですが、白石様が御存じの四浦の「林家」との繋がりは系図ではよく解らないのですみません(..)

ただ旧宮原村熊野地区の「片岡家」は以前「平川家について30コメント53」で書きましたように、家とは縁戚関係にあります。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101512_80.html

旧宮原村に片岡家が在する理由になるかは良く解らないのですが、明治初頭、人吉城下の相良藩士他親族等は岡原村にかなりの方々が移住されていました。
人吉市史に詳しく記載されています。
明治八年の報告書も記載されています。

人吉市史 人吉移民の項より
山本義高組・井上上村両人宮野原(宮原)村へ出張致し居、岡本村宮野原(宮原)村へ四拾戸(内二戸旧宅営繕)建築致シ即今造作中ニ付・・中略・・中西新作組者、久米村岡本村へ拾三戸・・

1600年代に開発された百太郎溝・幸野溝によって新田開発が急速に進み、広大な農地を有する村となった岡本村・宮原村には、廃藩置県以降、人吉市からだけではなく、天草からも旧藩士が新生活を求めて移住されてきたという事も別の書籍で紹介されていました。

※丹波国篠山の片岡氏の出。本姓 上林
上林氏。日本の苗字七千傑様のサイトで検索させて頂きました。
【清和源氏頼季流】井上氏 ⇒ 葦田氏 ⇒ 赤井氏 ⇒ 上林氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01009.htm

非常に驚いたのは清和源氏頼季流「井上氏」は平盛綱(長崎盛綱)に繋がっています!! 
さらに「井上氏」姓氏類別大観を拝見すると「窪田氏」「久保田氏」「阿部氏」にも繋がっていました。
※人吉市史 人吉移民の項より
山本義高組・井上上村両人宮野原(宮原)村へ出張致し居

これって??偶然でしょうか??
片岡氏・・家の宮原家と縁戚関係
窪田氏・久保田氏・・家の宮原家と姻戚関係
平頼綱(長崎盛綱)・・宮原の一族の先祖橘公員・橘公綱・・姻戚関係

これって??偶然でしょうか??
では(?_?)
[54]白石さんからのコメント(2016年03月26日 20時42分30秒 ) パスワード

こんばんわ
★★★成松氏と戸次氏は同族

成松は 伊達正宗の側室の間の子で伊予宇和島にきた人から出て父母ともに 伊達系図に入る。
戸次氏は 大神姓戸次氏から 大友姓戸次氏へ

★★★相良氏族の内田鎮次(相良氏庶流の「内田宗頼」(左衛門太夫)の子孫)は戸次親家に仕官
★★★内田(山井)宗頼

★★★初神には山井がいて 内田先生もおられた。から

相良頼景の子・長頼の兄弟の「山井宗頼」について
長頼(三郎)、★山井宗頼(四郎)★山北頼平(五郎)、佐原頼忠(六郎)、河馳頼綱(七郎)、相良長綱(小藤次)ほか

※※佐原氏はきょうだいですね。

※※ 四浦袴谷に 山北がいた。

頼親、頼氏(多良木氏祖)、頼俊、頼村(上村氏祖)、為頼(夭折)、頼員、頼貞(稲留氏祖)
 

★★★山井家
縫殿助「桜井兼里」の次男・「兼仍」を祖とする。
桜井家の先は水無瀬家だが、遠祖は「伊周」の弟・「隆家」(道長の兄)の子孫が 水無瀬家となって明治維新まで続いた。戦国時代に血統が途絶え歌道で有名な「三条西家」から季兼を養子を迎えた。

※※この三条西家から岩倉具視が出る。
又 高丘家は三条西家とも 養子関係がある。

◎★「佐原(三浦)」と「平川」という家を結ぶ人物

佐原と平川を結ぶ人物は 「戸次重秀」
大友第2代親秀公の次男。第3代当主頼泰公の弟。戸次氏の開祖。→戸次氏へ

重秀 戸次次郎

上の部分が気になりますね。
[55]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月27日 11時13分22秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

戸次氏。
こちらのスレッド、コメント4からの流れが重要なのだと思います。

昨日、私がコメントした内容も含め、やはり、全てが繋がっている事に気が付きましたので次のコメントで一気に書かせて頂きます。

(..)
[56]白石さんからのコメント(2016年03月27日 12時54分33秒 ) パスワード

こんにちわ
戸次氏に関して平川
大友氏と伊達氏は同祖にあがる。
高岡は上杉にも関しているらしい。

とあるサイトで下のようなものを見つけました。

藤原鎌足→不比等→(南家)武智麿→巨勢麿→貞嗣→高仁→保蔭→道明→尹文→★★★( 山井)永頼→能通→実範→季綱→友実→能兼 →★★★(高倉)範季→範茂→範房→模世→女( 平高望妻)→★★★平良文→→忠通→(鎌倉)景成→景政→景次→★★★(長尾)景 ...

児島の宮研究会より
高倉範季
藤原重子は
後鳥羽天皇の寵妃。女院。順徳天皇の母。藤原南家高倉・★★★藤原範季の娘。母は平家一門の平教子。院号は修明門院(しゅめいもんいん)。

元々はバリバリの坂東八平氏鎌倉党。
母系で桓武平氏の血が引き継がれ、
中臣鎌足以来の家柄を継ぎ、
足利の名門、吉良の清和源氏の血をも引き継ぐ、
源平藤の超・名門だぞ!橘が入れば揃い踏みさ。
ーーーーーーーーーー
高倉家はのち 断絶し 藪家につがれる。
後鳥羽天皇
高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。

このころ承久の変がおこり 九条兼実が失脚するのですね。

ーーーーーーーーーーーー
まったく 話がとんで 申し訳ないですが
豊臣秀次の女子が真田幸村の側室になっているという話しもあるのですね。

 



[59]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月27日 18時29分24秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

今まで、私がコメントした事、さらに、続けて書きます!と言っていた内容、おそらく全てが繋がっているのでは?と言う事に気が付きました。

もちろん鍵は「遠江国」。そこから繋がる「工藤氏の一族」と「三浦氏(佐原氏)」。
球磨における「平河氏」と「大神氏」の関係も上記から進んだ「犬童氏」を介してという事に気が付きました。

酒井様から頂いたご教示
〉「佐原氏」にも三浦流や相良流があるが、
城飼郡笠原荘を起点にして領有地を考えれば濃い関係が伺われますよね。

日本の苗字七千傑様から頂いたご教示
〉明確には断定出来ないが、恐らく宝治合戦で北条氏側に加勢した三浦系佐原氏が相良氏系佐原氏を継承したのでは?
ここでも遠江がキーワード。
遠江国・工藤氏・・静岡県!
全ては「ここだ!!」と。
白石様からの御教示
〉佐原と平川を結ぶ人物は 「戸次重秀」
こちらも全て繋がって来るのだと思います。

早速(..)まずは
1、新堀氏と三浦氏(佐原氏)の関係について です。

コメント48より
人吉市史第一巻 の巻末附録記載の上相良氏系図に平原次郎頼範と新堀又次郎(四郎)頼兼(頼金)の項がありました。
平原次郎頼範・・一説藤太頼寛ノ甥 又工藤太夫光頼ノ弟ノ子
新堀又次郎頼金・・一説頼範ノ弟
右二人ハ頼景下向ノ折随身猶子トナリ、弟分トナル、頼金(頼兼)ハ頼景ノ女ト合縁
とあります。
中略・・
@※一説藤太頼寛ノ甥・・相良氏初代相良頼寛ノ甥・・と言う事は横地氏に繋がる可能性もあり・・。
もしくは・・
A工藤太夫光頼ノ弟ノ子・・木脇光頼は工藤周頼の養子に入って相良頼寛の父となる・・。
武家家伝 相良氏より
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sagara_k.html
相良氏を始めて称したとされる周頼は、子に恵まれなかったため同族の伊東祐光の次男光頼を養子に迎えて家督を譲った。以後、相良氏は相良荘の開拓に従事しながら、遠江の有力武士に成長していったのである。

ウィキ 相良氏より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F
藤原南家の流れを汲む工藤氏の出身で、工藤周頼(かねより)が遠江相良荘に住んだことから相良を苗字としたのが始まり。ただし周頼には子がなく、親類の伊東祐時の孫の光頼を養子として家督を継がせたために、日向伊東氏とも同族である。

実は、ずっと気になっていたのです。「工藤周頼」と「伊東祐時の“二男もしくは孫”の光頼」は時間軸が合わないのでは??と。

しかし、上記が語り継がれた真相は、「相良氏」と「伊東祐時の“二男もしくは孫”の光頼」の間に確実なる深い繋がりがあるからなのでは・・。
※一説藤太頼寛ノ甥 又工藤太夫光頼ノ弟ノ子・・(平原氏・新堀氏)

伊東祐時の孫の光頼とは?検証します。
日本の苗字七千傑様の【藤原南家為憲流】姓氏類別大観をじっくり拝見すると
工藤維景・・・伊東祐時 ⇒ 祐光 ⇒ 木脇光頼 となっています。
伊東祐時の父は工藤祐経(くどう すけつね) ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E7%A5%90%E7%B5%8C
工藤 祐経(くどう すけつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期のにかけての武士・御家人。藤原南家の流れを汲む工藤滝口祐継の嫡男。
幼少期に父・祐継が早世すると、父の遺言により義理の叔父である伊東祐親が後見人となる。元服ののち、祐経は祐親の娘・万劫御前を娶り、祐親に伴われて上洛し平重盛に仕える。歌舞音曲に通じており、「工藤一臈」と呼ばれた。だが、祐経が在京している間に祐親は祐経が継いだ伊東荘を押領してしまい、妻の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。押領に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
所領と妻をも奪われた祐経は祐親を深く怨み、祐親父子の殺害を図って安元2年(1176年)10月、郎党に命じ、伊豆奥野の狩り場から帰る道中の祐親の嫡男・河津祐泰を射殺する。跡には祐泰の妻と子の一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)の兄弟が残された。妻は子を連れて曾我祐信に再嫁し、兄弟は後に曾我兄弟として世に知られる事になる。
治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵後、平家方として頼朝と敵対した伊東祐親は、10月の富士川の戦い後に頼朝方に捕らえられて自害した。祐経の弟とされる宇佐美祐茂(うさみ すけしげ)が頼朝の挙兵当初から従い、富士川の戦いの戦功で本領を安堵されており、祐経は京から鎌倉へ下って頼朝に臣従し、祐茂を通して伊東父子亡き後の伊東荘を取り戻したと考えられる。祐経の子・伊東祐時は伊東を名乗り、伊東氏を継承する。祐時の子孫は日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・飫肥藩藩主となる。
※妻 伊東祐親娘(万劫御前)後の土肥遠平の妻。
ところが・・
★工藤祐経の子「伊東祐時」の妻となったのは上記の土肥遠平の娘です。
土肥遠平 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%82%A5%E9%81%A0%E5%B9%B3
土肥 遠平(どひ とおひら)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけての武将、鎌倉幕府御家人。土肥実平の嫡男。 小早川氏の祖。
妻 正室:万劫御前(伊東祐親の娘、工藤祐経前妻)、妙仏尼(伝源頼朝の娘)
子 維平、伊東祐時室、三浦義村室
養子:小早川景平
★土肥遠平の娘は其々「伊東祐時室」「三浦義村室」となっています。
(p_-)再度書きます!
球磨の平原次郎頼範・新堀又次郎頼金は藤太頼寛ノ甥 又工藤太夫光頼ノ弟ノ子。
工藤太夫光頼は伊東祐時の“二男もしくは孫”。
すなわち、新堀又次郎頼金(頼兼)は父もしくは祖父である「伊東祐時」の妻「土肥遠平の娘」を介して三浦氏とは縁戚関係にある!と言う事です。
続けます(p_-)
土肥遠平の父「土肥実平」ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%82%A5%E5%AE%9F%E5%B9%B3
土肥 実平(どひ さねひら / どい - )は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。桓武平氏良文流中村宗平の次男。相模土肥氏の祖であり、小早川氏の祖とされる。
相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を務め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していた。
中略・・
治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵すると嫡男の遠平ら中村党を率いて参じている。同じ相模・伊豆の有力な源氏方であった鎌倉党や工藤党が内部分裂したのに対して中村党は実平を中心に一致して参じたことで頼朝の信任を受けた。山木兼隆を討った頼朝が実平の拠点である土肥郷に入って三浦氏との合流を図っている
★以前からコメントしていますように球磨郡五木村には土肥氏・土屋氏の名跡が残り、相良藩士にも「土屋氏」・「土肥氏」。さらには私の住む旧宮原村にも土屋氏・土肥氏が在しています。1703年に建立された旧宮原村別府地区の庚申塔には土肥太兵衛門・土肥七左衛門・土肥止右衛門・土肥太左衛門といった四名の方々の名前が刻まれています。
土肥 実平の兄弟は「中村重平、実平、土屋宗遠、二宮友平堺頼平[2]、岡崎義実室、★伊東祐親室」

※伊東祐時の父は工藤祐経。妻 伊東祐親娘(万劫御前)後の土肥遠平の妻。
所が・・伊東祐親娘(万劫御前)は工藤祐経・土肥遠平の妻であっただけでは無いようです(―_―)!!

伊東 祐親 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E8%A6%AA
伊東 祐親(いとう すけちか)は、平安時代末期の武将であり、伊豆国伊東(現・静岡県伊東市)の豪族。工藤氏の6代目であり、伊東氏の祖でもある工藤祐隆(伊東家次)の孫であり、河津氏の祖。河津祐親(かわず すけちか)とも。
父母 父:伊東祐家、養父:工藤祐隆(祖父)
兄弟 祐継、祐親
子 河津祐泰、祐清、八重姫、★三浦義澄室、★万劫御前(工藤祐経前室、北条時政前室)、ほか
\(◎o◎)/!万劫御前(工藤祐経前室、北条時政前室)!!
伊東祐時の父「工藤祐経」の妻 伊東祐親娘(万劫御前)は北条時政前室でもあった\(◎o◎)/!
そして調べました(p_-)
北条時政の室として伊東祐親娘(万劫御前)が産んだ方はどなたなのか?
北条 義時でした\(◎o◎)/!
ウィキより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%BE%A9%E6%99%82
父母 父:北条時政、母:伊東入道の娘
子 泰時、朝時、重時、有時、政村、実泰、時尚、竹殿、女子(一条実雅室) 他
北条重時!!!!!!!
やった!!\(◎o◎)/!ついに何年も平河氏を調査していて、何で繋がるのか全く解らなかった北条重時にやっと繋がりました!!
平河宮内左衛門入道観覚こと北条重時。平河又三郎師里は平河宮内左衛門入道観覚(北条重時)の甥!
さらに鎌倉時代の肥後の守護名越氏の祖「北条朝時」も北条 義時の子。すなわち北条重時と北条朝時は兄弟!

@ 球磨の平原次郎頼範・新堀又次郎頼金は藤太頼寛ノ甥 又工藤太夫光頼ノ弟ノ子。
A 工藤太夫光頼は伊東祐時の“二男もしくは孫”。
B 伊東祐時の父は工藤祐経。妻 伊東祐親娘(万劫御前)
C 伊東祐親娘(万劫御前)・・工藤祐経室・土肥遠平室・北条時政前室であった。
D 北条義時の母は伊東祐親娘(万劫御前)。
E 伊東祐親娘(万劫御前)は平河宮内左衛門入道観覚こと北条重時の祖母にあたる。
F 伊東祐親娘(万劫御前)の姉妹は「三浦義澄」の室。
G 伊東祐時の妻は土肥遠平の娘。姉妹は「三浦義村」の室。
\(◎o◎)/!伊東祐時の“二男もしくは孫”である「工藤太夫光頼」の弟の子が平原次郎頼範・新堀又次郎頼兼

球磨の新堀家の祖である新堀又次郎(四郎)頼兼を検証した結果です。
新堀氏を調べたら、私が、こちらのスレッドを立ち上げた後、何度も調査した「何故繋がるのか全く解らない方々」にやっと繋がる事が出来ました!!
新堀又次郎(四郎)頼兼の妻は相良頼景の娘です。
推測なのですが・・「藤太頼寛ノ甥」とは母方が「横地氏」であったのでは??

球磨の新堀氏ですが、分限帳を見る限り、江戸初期より相良藩士として「新堀氏」の名が一貫して残っているのは、我が故郷「旧宮原村」のみです。
江戸末期においては「旧宮原村」のみしか相良藩士「新堀氏」の名は見えません。
その新堀家から宮原家に嫁いできたのが、曾祖母です。
人吉市史には明治7年の宮原村の士族「新堀氏」の二名の名前がありました。
旧名 新堀 十左衛門 こと「新堀 十一」
旧名 新堀 広蔵 こと「新堀 清七」の名が記載されています。
新堀清七(旧名 広蔵)が宮原の曾祖母の父です。
新堀清七(旧名 広蔵)の子、すなわち宮原の曾祖母の弟が養子に入った祖母の実家「平川家」の隣にある分家の「平川家」。
こちらも人吉市史に宮原村の士族「平川氏」として名が記載されていました。
旧名 平川 堅助 こと「平川 堅治」です。
平川 堅治(祖母の実家のお隣)の養子に入ったのが新堀氏の息子となる訳です。
明治以降、旧宮原村の新堀氏の多数は多良木町の黒肥地地区に移っていかれました。

まずは
1、新堀氏と三浦氏(佐原氏)の関係について
という題で曾祖母の実家「新堀氏」を検証しました。
皆様にじっくり読んで頂いて、今日書かせて頂いた内容について、ぜひご教示を頂きたいと願っています。
明日も、今まで「必ず書きます」と言っていた事を続けて書かせて頂きたいと思います。

では(..)
[60]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月28日 10時10分39秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

昨日、私が御紹介した内容・・
新堀氏・平原氏に繋がる「工藤太夫光頼」の系や縁戚関係。
工藤太夫光頼すなわち木脇光頼。
〉相良氏を始めて称したとされる周頼は、子に恵まれなかったため同族の伊東祐光の次男光頼を養子に迎えて家督を譲った。
※昨日調べたのは上記の「伊東祐光の次男光頼」の系・・
すなわち(内容を少し変えました)・・
※工藤太夫光頼は伊東祐時の“孫”。(すみません孫ですね(..))
※伊東祐時の父は工藤祐経。妻 伊東祐親娘(万劫御前)
※伊東祐親娘(万劫御前)・・工藤祐経室・土肥遠平室・北条時政前室であった。
※北条義時の母は伊東祐親娘(万劫御前)。
※伊東祐親娘(万劫御前)は平河宮内左衛門入道観覚こと北条重時の祖母にあたる。
※伊東祐親娘(万劫御前)の姉妹は「三浦義澄」の室。
※伊東祐時の妻は土肥遠平の娘(母は万劫御前又は妙仏尼)。姉妹は「三浦義村」の室。

上記は全て球磨の相良氏の縁戚関係となる!と言う事です!!

と言う事で、相良氏は「三浦氏」「北条氏」「土肥氏」「中村党」全て縁戚関係!!
ナルホド・・・(p_-)・・
では(..)
[61]白石さんからのコメント(2016年03月28日 16時21分32秒 ) パスワード

こんにちわ
みやちゃん いっぱい おしらべになっているのですね。

私 名前がいっぱい出てくると こんがらかって^^

とりあえず
うちの平川に高岡のことで初神の山井が来て 嫁と一緒の写真におさまっているということから
どこも 系図などなく ただ はるか昔から そうやってくらしてきていた という認識から
そして みやちゃんのお話から 北条がでてくるので 政子は 源頼朝の妻
うちの固まりは なんとなく 公家出 ではないか?というところから

山井永頼(藤原永頼)
:藤原尹文、母:藤原定方の娘
永頼の子孫は院政期に藤原信西、藤原朝子夫妻、源義朝の遺児源範頼の養父である藤原範季やその娘で順徳天皇母の修明門院、源頼朝の外祖父藤原季範や母の由良御前などを輩出している。

岳父の藤原定方は
氏族
藤原氏、藤原北家、勧修寺流

父母
藤原高藤、宮道弥益女・列子

兄弟
定国、定方、満子、★★★胤子、定文、定数


★★★藤原山蔭女、是忠親王女、他


佳節、朝忠、朝成、朝頼、理兼、代明親王室、藤原雅正室、醍醐天皇女御・能子、藤原兼輔室、平随時室 ★★★藤原尹文室、更衣・欣子、藤原師尹室、橘典輔室、源為善室、藤原庶正室
[62]白石さんからのコメント(2016年03月28日 20時50分03秒 ) パスワード

平川の方から見ると
山井永頼(藤原永頼)は
源頼朝の外祖父藤原季兼の子・季範や女子で源頼朝の母の由良御前などを輩出している。

その
頼朝の妻が 北条政子で
政子の甥が 北条重時
北条重時の甥が 平河師里ですね。

政子は尼将軍として立ち
足利が北朝にたつと
北条時行は 南朝方として各地を転戦した。時行の子孫は{横井}を称して南朝に味方したというが 確証はない ・・と。

横井先生もおられました。

私が初めの頃 南朝を意識していたのも こうして いろいろな家が南朝方ででるからでした。
[63]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月29日 09時24分14秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

白石様、ご教示ありがとうございました。

相良氏続 山井氏
求麻外史より
公(相良頼景)山井名を割きて宗頼に與ふ。
中略・・山井を以って宗頼の第二子頼重に與ふ。
山井名(泉新荘内山井名)。
泉新荘については平川家について30「コメント6」さらに酒井様のご教示「コメント13」、「コメント16」酒井様のご教示「コメント25」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101512_80.html
こちらで静岡県からの「地名遷移」である事が理解出来ました。

山井名について
私が今読んでいる 工藤敬一氏著 荘園公領制の成立と内乱 という書籍に相良長頼と甥の頼重による「泉新荘内山井名」を巡る相論が詳しく書かれています。
相良長頼 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E9%A0%BC

寛元元年(1243年)12月23日、甥(山井宗頼の子)の相良頼重[5]と泉新荘(肥後国山鹿郡)を巡って争ったことを幕府に咎められ、所領の人吉庄のうち、北部を北条氏の領地として取り上げられてしまった。一方で、宝治3年/建長元年(1249年)3月27日、執権北条時頼によって豊前国上毛郡成恒庄の地頭に任じられた。
※寛元元年(1243年)12月23日、甥(山井宗頼の子)の相良頼重[5]と泉新荘(肥後国山鹿郡)を巡って争った・・
ここですね。
山井氏は現在熊本県には8軒と少ないです。
内訳は熊本市1軒 人吉市4軒 相良村1軒 山江村2軒。
8軒中7軒は人吉市・相良村・山江村です。
上記の山井氏は相良氏族の山井氏ではないのでしょうか?

内田氏は熊本県内には現在1040軒。
球磨・人吉で見ると
人吉市13軒・錦町7軒・相良村5軒・山江村5軒・あさぎり町2軒・多良木町5軒・水上村2軒 とあります。

白石様の故郷四浦に関係の「山井氏」「内田氏」。
どちらも相良頼景の子である「相良宗頼」を祖とする「山井氏」と「内田氏」と同姓であり・・やはり四浦の「山井氏」「内田氏」は相良氏族の「山井・内田」氏ではないのでしょうか・・。

所で「横井氏」のお話がありましたが横井氏は球磨郡でいう所の現在の球磨村の大姓です(^'^)
熊本県内78軒のうち
人吉20軒・球磨村23軒・山江村1軒・錦町2軒。
熊本市は10軒なので、圧倒的に熊本県では人吉市と球磨村に集中している事が解ります。

こうやって調べてみると、色々見えてくるものですね・・

では(..)
[64]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月29日 09時57分01秒 ) パスワード

追記です(..)

先程のコメントで「山井氏」は熊本県に8軒と少ないと書きましたが・・
万江家。こちらも熊本県内では現在15軒。
内訳は熊本市1軒・益城町1軒・人吉4軒・多良木町1軒・あさぎり町8軒
万江家。熊本県内15軒中、球磨・人吉に13軒。

ちなみに・・
ブログにアップした家の宮原家の集合写真に多数移っている岡原・久米・多良木・湯前の平川一族ですが、平川の曾祖父の弟達が継いだ(婿養子ではありません、養子に入りました)複数の「平川家」の内、湯前の平川家二軒ですが・・
1軒は以前コメントしたように湯前村の庄屋家で当主「平川芳左衛門」は明治維新後に「平川栄一」と名を変え、人吉県時代、村長制度が始まる前は湯前村の戸長。
「平川芳左衛門(平川栄一)」の養子に入ったのが、平川の曾祖父の弟「源市」。湯前村が「町」に変わって、その湯前町の初代町長。
そして・・
湯前のもう一軒の平川家を継いだ曾祖父の弟。
妻は「万江家」から嫁いでこられています。

山江村は「万江村」と「山田村」が合併して出来た村。
現在は山江村には電話帳では「万江氏」は見えませんが、球磨・人吉に13軒しかない「万江家」と縁戚関係を持った祖母の実家「平川家」と言う事です。

今まであまり気にしていなかったのですが、今朝「万江家」が県内に少ない姓だと気が付いて、少し気になってコメントしました。
では(..)
[65]白石さんからのコメント(2016年03月29日 21時26分23秒 ) パスワード

こんばんわ
みやちゃん ありがとうございます。
山井 よそのうちなので 余りそこの親戚などは知らないのですが

山鹿の内田相良が山井ですね。

戸次重秀
大友氏二代親秀二男
1230年誕生説
母 三浦肥前前司 平家連娘
大神氏系の戸次氏を継ぐ。
1282年卒法名佛阿53才

このことは みやちゃんの魏教示にありましたね。
山井は相良氏族 濃い候補です。

少し話がそれますが
万江氏
多氏族概観というサイトからひろいましたが
益城郡から遷住という球磨郡の称清和源氏の★★萬江、飽田郡の長浦なども★★火国造同族ないし族裔か。菊池郡の★★平川淀姫神社祠官で称藤原姓の宇野氏は、隈部一族か。
※※私注
宇野は高岡からでることばにあります。

うちの
白石は橘紋。一文字の白石嬉野氏とは紋がちがうなあ とは思いますが
あちらは 火の君と呼ばれていたことは有名といい
※※私注
むしろ 葛城直に関与する高田が菊一文字なのであちらに近いか?
しかし 白石嬉野氏は 7000傑様によれば 伊予北条氏。伊藤博文も同じ。
伊藤博文の系図を拝志系図といい 林。林は四浦にもいて
先日こめんとしました。
相良氏のおじも林という。
ぐるりんぐるりんです。

白石嬉野氏のあとに 鍋島 竜造寺など あとに ありますが
怪談の化け猫騒動の原型みたいなのが 球磨郡にありますね。

益城郡には うちの 白石 高岡 山口とからまりあっている平江があり ・・あったというべきでしょうか? 昔は庄屋をしていたけど 姉たち世代は はやくに 都会に出て 家は もぬけ状態といいます。木原 鴈回山の為朝伝説 伊勢新九郎の話 いろいろあります。

昨年山鹿に行ったとき 肥後大津から 山鹿の方へ抜けてくる道があり 相良氏も参勤交代につかったとタクシーの運転手から聞きこんだと 言う話をしたと思います。

バスが通ると言っても 狭い 狭い 願成寺から五木方面へのバス路線より狭いかな?と思うくらいの道でしたが・・・ 
肥後大津は一時 加藤清正も所領していたのですね。
もともと 大神氏 次 毛利氏 ・・・

加藤清正は 福島正則 秀吉などと 秀吉の母方のつながりで いとこどおしだといいます。
うちの方に 木下 福島がいることは書きましたが
加藤がないなあ と思っていました。
しかし
内田相良に関して 山井が出てきたら 大きなわっかで 四浦の固まりがでてきます。 


肥後大津は 大神氏 毛利氏なども関与しますが 加藤清正も領主でした。
九州に 木下はいないかなあ と 思っていたら おねの方の実家がありました。

45
に書いていますが 
日本の苗字7000傑木下氏で検索
ねねの祖先が 平貞衛ー杉原氏ですね。
木下家定の子・延俊の子孫が豊後日出木下家へ。


木下利恭 ー旧備中足守藩主・木下子爵家ー|近代名士家系大観
・木下利恭 子爵



大政所・は 祖先を遡れ ば漢帰化族の阿智王随従七姓の皀姓佐波多村主(大和宇陀郡)後裔佐波多氏と伝える 。

この 秀吉の母は 関氏につながっていて 
関信兼は平川景家と平正度でつながっていおねる。清盛にかなり近い人たち。

おねの家・木下家は
日本の苗字7000傑木下氏で検索
ねねの祖先が 平貞衛ー杉原氏ですね。

伊勢平氏の流れを汲む平正度の四男貞衡にはじまる流れで、桓武平氏安濃津桑名氏族とも呼ばれる。
 豊臣秀吉の正妻ねね(北政所)の生家杉原氏は、桑名氏の分流と伝える。


木下家定の子・延俊の子孫が豊後日出木下家へ。


木下利恭 ー旧備中足守藩主・木下子爵家ー|近代名士家系大観
・木下利恭 子爵

近い世代で 三条西家と姻戚関係 公家どおしであたりまえでしょうが 四浦にも堀川がおります。ここらは 中村を介して 尾方も 平川もぐるぐる姻戚関係をもっております。

こうして 時代をさかのぼったとすれば 
神代にさかのぼりにぎはやひにいきつき その先にもいく家と 
坂上一族や随従の人たちに行き着く人たち などが ぐるぐるつながっているようです。
高岡は7000傑様のご指摘により 秦人。




[66]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月30日 15時42分43秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

白石様御教示ありがとうございます。
白石様、御教示では白石様そして御親戚と時代を遡った「公家」との繋がりをお考えのようですが、私は先日のコメントで書いたように、まず、鎌倉初期に球磨に来て、平安時代の「良峯氏(平河氏)」の名跡を継いだ鎌倉以降の「平河氏」を調べる事により、平安末期までの球磨の豪族「良峯氏(平河氏)」の謎が解けるのでは?と考えています。


皆様にご紹介させて頂きたい記述があります。
工藤敬一氏著の荘園公領制の成立と内乱の中で工藤氏は
第十三章 相良氏の肥後球磨郡支配 その始源を考えると題し、相良家史の記載と問題点をあげ、「相良長頼と球磨の関係を示す確実な史料は、元久二年(1205年)の人吉荘の地頭補任までないのであるから、建久九年(1198年)入国説がどうして出来るのかが問題である」と書かれています。
さらに「島津忠久(惟宗忠久)の地頭所職のあり方は、相良氏のそれについても多大の示唆を与えるものがある」としてのさらなる検証の結果仮説として
〉具体的には本来の平河氏の権限は、球磨御領全体にかかわる在地管理者的権限と、特定地域のみにかかわる開発領主権の二重構造をとっていたのではなかろうか。師高は没官処分によっていったんはその全てを奪われ、その身を召禁じられたが、文治三年(1187年)にいたり、開発領主権(本領)については基本的に安堵されたと判断される。「その身の安堵」とはそのような内容を示す表現ではなかろうか。
本領部分はのちに永吉荘の中心となる木枝城(木上城)を中心とする中球磨の球磨川沿岸地域である。もしこのような仮説がなりたつならば、球磨御領全体に関する管理的な権限は他に継承されたはずである。
私はそれが本来相良氏が得たものないしそれにつながるものではなかったかと考えるのである。
中略・・
そしてさらに推測を重ねるならば、球磨御領における相良氏の権利は、建久三年(1192年)の片寄せによって成立した没官領多良木村100町からの得分と同量の内容をもつものではなかったかと思う。
建久図田町で球磨郡の公田は2000町だから、多良木村は二十分の一である。
中略・・多良木村に片寄せされた分を球磨御領全体2000町にならすと形式的には反別一斗ということになる。それは肥前国佐嘉御領などで見られる地頭得分(惣地頭反別五升・小地頭反別五升)と一致する。
とすると、この相良氏の権限はやはり加徴米徴収権をもつ球磨御領の荘下司ないし惣地頭的なものであったと考えられ、もしそれが平河氏の権限を継承したものとすれば、平河氏こそ本来の荘下司(ないしその代官)であったということになる。
前稿で私は平河氏を本来郡出納使ではなかったかと推定したが(本書第二章)、半不輪の球磨御領であるから、国衙側からいえば郡出納使、王家領側からみれば荘目代ということになる。
==========================================
さらに、むすびにかえての項において
(一)鎌倉初期、多良木村と人吉荘への相良氏の支配が、初発から請所に似た強力なものとして展開され、両地域を出発点に、一族内の対立を含みつつも、南北朝期以降、相良氏の全郡支配が、あたかも当然のことであったかのように、順調に展開した背景には、それを正当とする在地社会の観念が存在したのではないか。
(二)その根拠となったのは、建久三年(1192年)の片寄せによる人吉荘・多良木村などの各所領の成立にさきだつ、一郡的規模の半不輪領である球磨御領にかかわる権限を、相良氏が獲得ないし継承したことにあったのではないか。
(三)それは平河氏のもっていた権限が、文治元ないし二年(1185・6年)の平河師高の没官処分の際に、東国勢力に移ったものである可能性がつよい。
以下略・・

と書かれていました。
さらに別項では相良氏の球磨入部時期に関して「相良長頼が京都・鎌倉にそれぞれ居館を有している」事をあげて、時期は元久二年(1205年)よりも、もっと遅かったのでは?という事も記述されていました。

平安期の平河氏(良峯氏)の”権限”を継承した「相良氏」・「東国勢力」と言う事ですね。

荘園について理解するには、私の頭脳ではかなり難しいのですが、やはり、ある程度理解出来ていないと、「球磨の歴史・真実」を知る事は出来ない!と現在奮闘中です。

工藤敬一氏著の荘園公領制の成立と内乱 から「相良氏の肥後球磨郡支配 その始源を考える」に記載の内容を簡略してご紹介させて頂きました(..)

所で・・話は全く異なりますが・・(..)
私が、旧宮原村や球磨・人吉の歴史そして「平河氏」さらには「強い絆と言われる親戚一同」について調べている事を知った親戚のおじ達・おば達が私に色々な情報を教えてくれるようになりました。大変ありがたい事です。

金子氏も姻戚関係だそうです。
球磨にはめずらしい姓だと思ったのですが、金子家は天草地方にも繋がっているようです。
気になるので調べてみようかな?と思っています。
では(^'^)
[67]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月30日 17時16分54秒 ) パスワード

追記
相良氏が人吉荘に本格的に土着した時点について

工藤敬一氏著の荘園公領制の成立と内乱 第一章 鎌倉時代の肥後国人吉荘 より
中略・・
私は第一節において、寛元中分の段階で、地頭がいまだ本格的に下向土着していなかったことを、出田の地頭得分のうち軽物収取が二分の一の比重を占めていることから推測した。
では相良氏の人吉土着の時期はいつであろうか。
当然軽物収取が消滅する時期、つまりそれは新田と区別される出田の消滅の時期が想定される。第一節で述べたように「出田」の語が見えるのは正嘉元年(1257年)の将軍家の安堵下文が最後である。しかしこの直後に出田が消滅したとはかならずしもいえない。
たしかに正元二年(1260年)の実検目録では起請田と新田の区別があるだけで、出田は出て来ない。だが、これは領家得分のみを記した同状の性格からして当然のことであり、ここに出田がでてこないからといって出田が消滅したことにはならない。
ところが弘安十年(1287年)の迎蓮(頼俊)の頼氏宛の経徳・常楽名内地頭職田畠在家の譲状では、田地は単に「公田肆町柒段参丈中」とだけあって、出田はもとより起請田・新田も出て来ない。
本状は譲状という地頭側固有の文書であるから、ここでこれらの区別が出て来ないことは一応注目すべきことである。
しかも、頼俊の時代こそは二度の蒙古合戦を含む時期であり、この間に鎮西に所領をもつ東国御家人の大部分が、幕府の命を受けて下向土着したことは周知の所である。
相良氏の本格下向土着についても、小代氏や二階堂氏が鎮西下向を命ぜられた文永八年(1271年)以降の時点を想定するのがもっとも妥協ではなかろうか。
従来西安寺の碑文や訴訟文書の記事から、また建暦二年(1212年)検注における広大な出田の勘出から、相良氏の早期土着が常識化して来たのであるが、それは松本寿三郎氏も主張しているように再検討せねばならないであろう。
しかしながらこれはけっして、長頼が一度も人吉荘を訪れなかったことを意味するものではない。
代官や一族の若干はもちろん早くから下向していた。そしておそらく長頼自身も、寛元中分の如き重大事に際しては自ら下向し、得宗方代官と立会いのもと、中分線を確定して傍示を打っていったのではないかと思う。
だが、相良氏の本格的な領主側に展開の上では、惣領の下向土着化がとりわけ大きな意味をもったのであろう。
以下略・・

と記されています(p_-)

橘薩摩一族も、橘公業が嘉禎2年(1236年)に、本領であった伊予国宇和郡を西園寺公経に譲り、替地として肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられましたが、おそらく、相良氏同様、現地下向土着はかなり後となったと推測出来ました。

では(..)
[69]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月31日 20時45分19秒 ) パスワード

皆様、今日は(^’^)
今日は、「番外編」と題してコメントさせて頂きます。

先日、あさぎり町須恵の「遠山桜」と呼ばれる山の頂上の茶畑に咲く桜を見に行って参りました。
http://www.kumatop.com/index.php?%E9%81%A0%E5%B1%B1%E6%A1%9C

遠山桜を見にいく途中の道なりにある、日本遺産指定 永厳上人開山須恵阿蘇谷平等寺跡にも伺いました。
※「永厳上人」は京都東寺長者、広沢流、保寿院流祖であり、40歳前後に醍醐寺から球磨に戻り平等寺を創建したと記述有り。
俗姓は平(たいら)。字(あざな)は平等房。通称は下野法印
下野守 平師季息
永厳上人の父は平師季。「桓武平氏高棟王流」
須恵阿蘇谷平等寺跡。
http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_8424.html
■平等寺と釈迦堂
須恵氏が檀那として平安時代の末期に建立されたであろうとされているのが平等寺です。平等寺は、現存していませんが、「変貌する須恵村」( 牛島盛光 ミネルヴァ書房 1971年 )では、「平等寺最盛期の寺域は、寺山を含めると、西端の薬師堂から東に約400m、南北約600mにわたる広大なもので、この中に本堂を中心にして七堂伽藍が建ちならび、裏山2箇所の墓地に約250基に及ぶ五輪、板碑が整然と並び立ち、槇などの巨木が堂宇をおおった境内には、阿蘇川から引かれた清水が池に満ち、「当郡真言ノ元祖」にふさわしい雰囲気を呈していたであろう。」と記されており、壮大な力をもっていたことがうかがえます。

(^’^)平等寺跡地内には須恵阿蘇神社のとても古い鳥居が建っていました。
由緒書きには須恵阿蘇谷の地名の由来となった須恵阿蘇神社は元は旧岡原村と旧上村にまたがる「神殿原」に鎮座の阿蘇神社を現地に遷移された事に始まると書かれていました。
麻郡神社私考 より
阿蘇大明神 須恵領阿蘇山
社家傳云同國鎮守阿蘇神社同體 大同年中草創 ※大同年中(806年〜810年)
厥初ハ高土ノ原ニ鎮座 今ニ宮床原ト云
上記の記述で、初めて旧岡原村・旧上村に広がる神殿原(こうどんばる)が「高土ノ原」であり麻郡神社私考が書かれた元禄十二年(1699年)当時は「宮床原」と呼ばれていた事が解りました。
と言う事は・・大同年中(806年〜810年)に旧岡原村と旧上村に広がる「高土ノ原(宮床原)」に阿蘇神社が草創されていた・・となりますね・・。
そこで、今朝は上記を調べた事をきっかけに私が所有する「麻郡神社私考」と借りてきた「熊本県神社誌」をじっくりと読んでみたのですが、沢山の発見がありました!

白石様のご教示にもある旧四浦村の地名「初神」の由来についても書かれていました。
「麻郡神社私考」には漢文で書かれていたのですが「熊本県神社誌」には現代語訳で書かれていたのでご紹介します。
※四浦阿蘇神社 創立年不詳 嘉吉年中再興(1441年〜1444年)
当社の草創は当地(四浦)祭祀の始めなりと、為に社地の附近を初神と云う。
と記されていました。
「熊本県神社誌」には「余滴 人吉・球磨の城址(熊本の城より)」というページがありまして、ここで二つの発見を致しました!。
@ 黒肥地の新堀城
新堀城 多良木町黒肥地・・と書かれています!
以前より、旧宮原村に在した私の曾祖母の生家「新堀家」。新堀氏は肥後相良藩士分限帳「貞享三年〜安政年中(1686年〜1859年)」では貞享三年(1686年)以降、一貫して旧宮原村に名を残し、承應四年(1655年)建立の旧宮原村宮麓地区の庚申塔にも数名の名を刻み、他、中嶋霧島神社(宮原神社)の灯篭、宮麓地区の地蔵堂そして地蔵様の施主としても名を残しています。
曾祖母の実家でもある「新堀の一族」は明治後期〜大正にかけて、旧宮原村から黒肥地に多数が移って行かれた事は、何度かコメントしていましたが、黒肥地に「新堀城址」があったとは全く知りませんでした。
きっと、鎌倉初期の新堀氏由縁の地に旧宮原村の「新堀の一族」は明治以降 移って(戻って?)行かれたのかな〜!と私は推測しました。(何故、黒肥地に移られたのか・・謎が解けたような気分です(^’^))

A 岡留熊野座神社は永池城跡だった\(◎o◎)/!
永池城 免田町永池 古城 別名 平城(ひらじょう)
親戚の尾方家が宮司を代々務める岡留熊野座神社。(先日系図を書かせて頂きました(..))
岡留熊野座神社が平河氏の居城した平城(ひらじょう)跡に鎮座している事は知っていたのですが、その平城(ひらじょう)こそが「永池城」だったとは!!全く知りませんでした!
こちらのスレッドのコメント5で平河一族の「永池氏」と肥前の橘薩摩一族の「永池氏」について書いたばかりでした\(◎o◎)/!
本当にびっくりしました\(◎o◎)/!
平河氏の場合 平河師高 → 師貞(平河氏)師忠(永池氏)となります。
しかし・・これは・・どう考えても偶然とは思えないような気が・・・
家の親戚が「四国」と呼ぶ「矢野家」と「中村家」。
橘姓矢野家と中村家は親戚関係にあり、こちらの中村家の姉妹は其々、上記の尾方家と祖母の実家平川家の長男の嫁として嫁いでいます。(椎葉のおじの妻の母は中村家の娘です)
さらに中村家と家の宮原家も親戚関係。
※岡留熊野座神社は永池城跡だった!・・こんな偶然って・・あるのかな???
何度も書きますが・・びっくりしました\(◎o◎)/!

さらに!今度は「麻郡神社私考」に書かれていたビックリの発見を続けます。
「麻郡神社私考」には最終項に青井大明神の大宮司大神惟董の「神社私考大概」が記されています。
がっ!漢文で読めないな〜(..)と思っていたら、巻末に「神道体系 月報」に寄せられた佐藤光昭氏著の「麻郡神社私考」について という附録が記載されていました。
ここに、私が読めなかった「神社私考大概」が現代語訳で記されていました。
さらに現代語訳をされた「神社私考大概」の解説が書かれていたのですが・・
ビックリした記述を転記させて頂きます(..)
佐藤光昭氏著の「麻郡神社私考」について より
二、本書の特色
相良藩の神社行政は、慶長元年、青井大明神の球磨宗社昇格により改革されたといってよい。
以前は、青井宮は下球磨五与(くみ)三十五社を支配し、上球磨は南は宮原の中嶋大権現、北は黒肥地の王宮大明神、中は上村に白髪大権現の支配であった。
与は十四与、二三四社、別当与二十社は寺院に附属していたのである。
寛文十二年に初めて寺社奉行が任命されているので、「私考」の出来た元禄十二年頃は寺社奉行の支配下にあった。この与は行政機構につながるもので、藩命を伝達したり、祭りや神楽奉納等はこの与の協力によって執り行われたものと思われる。
※以前(1596年まで)は、青井宮は下球磨五与(くみ)三十五社を支配し、上球磨は南は宮原の中嶋大権現、北は黒肥地の王宮大明神、中は上村に白髪大権現の支配であった。
※上球磨南は宮原の中嶋大権現が「与(くみ)」を支配していた。
※与は行政機構につながるもので、藩命を伝達したり、祭りや神楽奉納等はこの与の協力によって執り行われたものと思われる。
(?_?)・・何だかモワモワしてきました。
そもそも・・橘薩摩一族にあって「大崎の一族・宮裾氏」等は祭祀を司る一族としての役割があった・・(詳しくはおってコメントさせて頂きます(..)

と言う事でビックリした事だらけなのですが・・
佐藤光昭氏著の「麻郡神社私考」には球磨と宇佐神宮さらに六郷満山国東半島との関係さらには「大神氏」と球磨について詳しく記されていました。
後日コメントさせて頂こうと思います。

今日は「麻郡神社私考」と「熊本県神社誌」よりビックリした事を御紹介させて頂きました。
では(..)
追記 コメント68で個人情報を書いてしまったので、関連する部分を削除させて頂きました。(..)
[70]白石さんからのコメント(2016年04月01日 00時35分43秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんわ
木下に関与するおねの方のことを見ていました。

遠祖・平貞衛ー杉原氏
日本の苗字7000傑
姓氏類別大観. 【桓武平氏貞衡流】 伊勢平氏の流れを汲む平正度の四男貞衡に はじまる流れで、桓武平氏安濃津桑名氏族とも呼ばれる。 豊臣秀吉の正妻ねね(北 政所)の生家杉原氏は、桑名氏の分流と伝える。

そして
どなたかがしらべられたのを引っ張ってきてあの頃書いたモノですが

 投稿番号:101195 投稿日:2010年09月09日 23時30分15秒  パスワード
 お名前:もみじ

平清盛の子孫

西園寺実氏と鷲尾貞子との間にうまれた姞子が両院並立のもとになる後深草天皇と亀山天皇を生みます。藤原魚名の子孫の藤原隆房は平清盛の娘と結婚し、隆衡が出来ます。隆衡の娘が(四条)鷲尾貞子です。つまり 両天皇は清盛娘の玄孫になそsるのです。貞子の兄弟に藤原(四条)隆親という人がいます。隆親の娘は大納言典侍と呼ばれ、後深草天皇の乳母でした。そして、彼女と源(久我)雅忠との間に産まれたのが、
「とはずがたり」の作者後深草院二条です。
四条貞子(北山准后.1196〜1302.107歳)は
『とはずがたり』巻3「北山准后九十賀」に、
「俗姓は鷲尾(わしのお)で、大納言隆房の孫、隆衡卿の娘である とある。

ど真ん中に おねの祖先の枝分かれの人がおり
ウオナ子孫は伊達氏なので なりまつ 祖先ともつながってくる。

なりまつは 大友氏の中にいて 
大友氏と伊達氏は同族。

鷲尾は中原と同族で 十市氏や多氏とも同族。

絶家・社家〔中臣・中原・中山冷泉・半井・西川〕-公卿類別譜(公家の歴史)
尊卑分脈等によれば、安寧天皇の第三皇子磯城津彦命の後裔ともされているが、明治期の押小路家の呈譜では、饒速日命の後裔(物部氏族)ということになっている。有象の時に中原姓を賜る。代々、大外記を世襲。家業、明経道・明法道。
「堂上家系譜大成」等によれば、出納家の平田家(31石)も中原氏という。

相良氏と鷲尾氏の関係
相良 頼完
氏族
鷲尾家→相良氏

父母
父:鷲尾隆熙

兄弟
鷲尾隆建、相良頼完


養子:福将

豊前宇都宮流佐田氏が中原を称していた。
姻戚関係によるものか?
ともあれ 宇都宮信房の建久図田帳などのことばもある。

相良藩主に入った当人でもなく 鷲尾貞子でもないけど まわりにいたようだ。

村山どんのことばがある地域の高岡が 萩の永田 大谷の溝口を遠い親戚として子供の結婚式によんでいる。

永田は 宮ちゃんの方では おばあさんの筋のお医者様にあったのでしたね。

何だか 相良藩と絡まりながら歴史をおりてきているような・・・
溝口は 新発田藩主家で 相良に関係する話は
9代の・溝口氏は正室は肥後人吉藩主・ 相良長寛の娘・慶姫 (・姫)。
とあります。

溝口家はネットによれば 宇多源氏で 同じ宇多源氏に 出雲・但馬高岡系図があります。同族に高岡・溝口があるということですが

上の 村岡どんのことばがあるところの高岡が 溝口・永田を遠い親戚としているということと なにやらつながるような・・・

高岡にはさらに 池田氏と同祖の高岡があり こちらは物部氏でつながり ニギハヤヒにいきつく。

うちの平川のおばが 父の母 つまり 高岡の祖母のお骨を木下がいっしょに収めていると教えてくれ こちらからは 

なにやら おねの方の枝分かれ 伊達氏の枝分かれなどに いるような・・・
???です。



[71]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月01日 16時18分02秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

木下氏ですが
麻郡神社私考を見ていて気が付いた事があります。
宮原村中嶋大権現与(興)”くみ”
※若宮大明神 久米六反田村
厥初ハ湯前領東方木下ニ鎮座

とあります。
湯前には「久米郷東方」の名を残す「東方」という地名が今でも残り、その地に「木下」という集落が存在したと言う事です。
久米六反田村の若宮大明神は厥初は湯前領東方木下に鎮座。
湯前領東方は橘薩摩(伊予橘氏)に由縁の土地です。
白石様が気にされている「木下氏」は日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観. 【桓武平氏貞衡流】 伊勢平氏の流れを汲む平正度の四男貞衡に はじまる流れ・・こちらのようですね。
私が気になるのは白石様のお言葉
〉父の母 つまり 高岡の祖母のお骨を木下がいっしょに収めている
ここです。

白石様が注目されている「木下氏」とは別の系の「木下氏」があります。
日本の苗字七千傑様の【紀 氏】姓氏類別大観 ⇒ 《紀氏族綱要》を見て下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01209.htm
こちらにも「木下氏」があります。
紀姓越智氏に繋がっています。
さらに紀氏はもちろん「越智氏」に繋がっている。

「越智氏」「伊予北条氏(白石氏)」「伊予橘氏」は同族ですよね。
皆、物部氏に繋がる。
高岡氏も物部氏の系にあり!

伊予橘氏である橘薩摩一族が所領した球磨郡久米郷東方に木下の地がある。
私は全て繋がっているのでは?と思うのですが・・偶然でしょうか・・

相良藩人吉城下の藩士で100石以上の知行地を持つ藩士はかなりの人数にのぼります。
肥後国相良藩士分限帳には
〉給人格の上級武士には書かれていないが知行地も給され、明治維新後城下を離れ各地に分散したのはこの知行地に何れかに居住したものと思われる。居住地と知行地の関係を明らかにすることは出来ないが知行地は一か所にまとまっておらず二三か所に分散している所をみると・・
と書かれています。

城下の知行地を持つ上級武士は一族の「嫡男」など、系を継いだ人物が殆どです。言うなれば一族の代表ですね。
嫡男以外の例えばですが二男三男他一族(同族を含む)は「一族の代表となる”系を継ぐ者”」が給された知行地で「一族の土地を管理」して、その「地」に在して生活をする。
だからこそ、相良藩は在郷の藩士以外に郷士が非常に多い(郷士が全体の三分の一を占める)、国内でも非常に珍しい藩となった・・と私は理解しています。
系の知行地は在地の藩士で大体の推測は可能だと思います。
四浦村では「外城四浦」に在したのは「蓑田氏」と「宮原氏」。
蓑田氏(松浦の一族)と宮原氏(伊予橘氏)は古くから姻戚関係を結んで言うなれば「同族」に等しい関係ですね。
宮原氏は二名、そして蓑田氏も百石以上の知行を持つ者として人吉城下に名を残しています。
四浦村の一部を宮原氏・蓑田氏が知行地としていたと推測は可能なのでは?と思うのですが・・
もちろん宮原村も同じ事だと思います。
その由縁の地に「物部氏の系・越智の一族」すなわち同族が「一族」として在していたと推測は出来ないでしょうか・・?

今日は、大胆な発想かもしれませんが、白石様と私は同じ”祖”を持つ同族であるという愛情?に似た感情からこのようなコメントを書きました。
あくまでも、私の推測です。間違っていたらすみません(..)
[72]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月02日 07時20分39秒 ) パスワード

追記
木下姓
熊本県内には906軒。
人吉・球磨では
人吉31軒 球磨村2軒 錦町4軒 相良村1軒 山江村3軒 あさぎり町8軒 多良木町3軒 錦町3軒

あさぎり町8軒内 旧上村1軒 旧免田町3軒 旧深田村1軒 旧岡原村(旧宮原地区)3軒
でした。なお、岡原の木下氏と高岡氏ですが、其々の家がかなり近い位置にあるようです。
(ちょっと調べてみました(..))
[73]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月02日 13時00分35秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2016年04月02日 13時05分33秒
[76]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月02日 13時05分00秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

昨年、球磨に戻ってすぐに地元の歴史研究家の方から頂いた、私の住む旧宮原村宮麓地区に明治初頭まで鎮座の中嶋大権現(中嶋霧島神社※宮原神社)稲積妙見 切畑大明神 三社の絵図をブログにアップしました(^O^)/
さらに、旧球磨郡久米郷宮原村・奥野村附近の今の田園風景もアップしています(^'^)
去年の秋に久米の妙見山頂上にある公園から撮った写真です。
黄金色の田んぼが綺麗だったので数枚写していました。
田園風景写真の@は旧宮原村と旧奥野村が撮れています。
岡本村までは写っていないとは思いますが・・
家の周囲は、「田んぼと神社だけ?!」と思われるかもしれませんが、よろしければご覧ください。
超田舎ですが、でも大好きな風景です(^'^)
ブログアドレス
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12145838672.html

ブログにも書いたのですが
中嶋大権現(中嶋霧島神社※宮原神社)稲積妙見 切畑大明神 三社の御説明を(..)

★中嶋大権現(中嶋霧島神社※宮原神社)宮原中嶋山
大同元年(806年)大神惟基 草創 
社人 宮原主馬
日州霧島神社同體
應永十四年丁亥(1394年)神殿修復
永亨四年(1432年) 藤原前續公御願ニ依テ別當龍泉寺重慶修造 
 ※藤原前續・・相良前続 相良氏第九代当主
天文年中(1532年〜1555年) 藤原晴廣公本殿改造 文禄五年 拝殿修復
 ※藤原晴廣・・相良晴広 相良氏第17代当主

★稲積妙見 久米領稲積山 (稲積妙見は宮麓地区内にある旧久米領の飛地でした)
社人 椎葉久左衛門
八代郡白木社妙見同體
草創年紀未考 此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ
※球磨・人吉地方においての妙見宮勧請の最初となる社です。
明應五年(1496年) 藤原為續公同長輔公 御祈願トソ
 ※藤原為續・・相良為続 相良氏第12代当主(父:相良長続)
代官 最取式部少輔綾(アヤノ)末繼 宮原出雲橘續久 及
宮守石井太郎兵衛 阿部貞豊等 再興
天文廿一年(1552年) 地頭阿部貞次修造 國郡泰平 藤原晴廣公武運勝利 并富役藤原長陸安全ノ願辞アリ
 ※藤原晴廣・・相良晴広 相良氏第17代当主
 ※藤原長陸・・上村長陸 奥野村地頭(父:上村頼孝)

★切畑大明神 湯前領切畑山 (切畑大明神は宮麓地区内にある旧湯前領の飛地でした)
祠官 星原内記
阿蘇神社同體 大同年中鎮座
永萬元年(1165年) 平頼盛公により再興
延文年中修復(1356年〜1360年)
天正十一年(1583年)火災により宮殿が焼けた為に
同十三年(1585年) 藤原忠房公御願トソ藤原重興 再興
同十八年(1590年) 藤原頼房公及家門ノ祈願トソ神體ヲ安置セラル
 ※藤原忠房・・相良忠房 相良氏第19代当主(父:相良義陽)
 ※藤原頼房・・相良頼房(相良長毎)相良氏第20代当主(父:相良義陽)
  ★肥後人吉藩の初代藩主

こうやって書いてみてあらためて思う事は・・
私の住む旧宮原村宮麓地区は、歴代の相良氏当主、他歴史に名を残す相良一族との縁がかなり深かったような気がします(..)

さらに麻郡神社私考を見ていて発見した事があります!「中原氏」の記述がありました\(◎o◎)/!
中嶋大権現(中嶋霧島神社※宮原神社)与(興)・・くみ
白木社妙見の記述です! 御紹介致します(..)

白木社妙見 奥野笛木城妙見山
  社人 宮原庄吉
八代豊田庄白木社妙見同體 鎮座年紀未考
文安元年 藤原堯頼十代相良三郎公ノ時 仲原氏大隅親吉祈願トシテ代官周防介藤原親景再興
※藤原堯頼・・相良堯頼(さがら たかより)相良氏の第10代当主。第9代当主相良前続の嫡子。幼名は虎寿丸。
※相良長続は第10代当主相良堯頼の客死により、宗家を相続。

(p_-)
相良堯頼公の時、「仲原氏大隅親吉祈願トシテ代官周防介藤原親景再興」
仲原氏・・中原氏・・?大隅親吉・・どなただろう???

ちなみに白木社妙見は旧宮原村宮麓の切畑地区から300メートルも離れてはいません。
社人は宮原庄吉
この社こそ、先日コメントした
熊本県神社誌 第八章 熊本県内社家と神職 第一節 古い社家略系図より
白木神社 球磨郡多良木町奥野鎮座 椎葉家(姓 大神 氏 椎葉)
初 大神惟当・・A惟許・・B惟栄・・C惟寂・・D惟栄・・E惟安・・F惟休・・G惟勝・・H惟刀・・I貞吉・・J徳次郎・・K貞●(現在)
旧奥野村の白木神社。
こちらでございます(..)

上球磨地区には湯前出身の現在大河ドラマ出演中の中原丈雄氏。
多良木の中原医院 など、実は「中原姓」は沢山いらっしゃいます。
平河氏にも必ず繋がっているであろう「中原氏」。しかし!!記録が何も残っていない。
やっと見つけた「仲原氏(中原氏)」の記録が、私の住む宮麓地区からすご〜く近い地区に残っていたとは驚きました\(◎o◎)/!

今日は、私の住む旧宮原村に鎮座であった旧社三社の絵図と、旧宮原村と奥野村の今の田園風景というテーマ?でお伝え致しました(^'^)
うんんっ???
何処から「田園しかない風景!」との声が・・
五月を過ぎたら緑色に染まる田園風景も写真に撮るつもりです(^O^)/

あらためてブログアドレスを(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12145838672.html

では(^'^)
[77]白石さんからのコメント(2016年04月02日 17時39分29秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
木下の事 熊本に結構あるのですね。

ううちに関与しているのあh 深田の木下です。あちらは 姉や祖母の事を憶えていて 姉は あちらの家を憶えていました。

善正寺は深田にあるのですが この木下が 善t出寺によっているかどうかは?
下手に四浦平家城があった 初神に 木下があり・・・あったとかくべきか?同級生の家ですが 当人はよそへ出ていて 父親も確か去年あたり亡くなっています。

萩の永田のおばさんが 前に うちの集落にいたこれも同級生の溝口の父親の事を 初神の木下からきとんなっとじゃなかかな おつむりの形がそっくりだから・・と 言っていました

私の父の頭の形は その溝口の父親の頭と同じ形でした。

そして 
初神の木下に聞くと うちとのつながりのことは知らないと言います。
ただ
昔 自分の家のすぐ上に 違う木下がいたと言っていました。
???

初神に溝口があって お茶をつくっています。宇治園の溝口氏の出所です。
初神の溝口の家の柱は 熊本城の柱を持ってきてあります。

みやちゃん
熊本だ 山田と書いてすみません。
でも どちらもでてくるなあ 
そして
うちは 山口県などもでてくるし ・・・なにやら 大きくうごいているなあと思うのですが・・・




[78]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月02日 18時11分20秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)マタマタの登場です。

ヒッヒッヒッヒッ(^◇^)!!!
どんなにうまくごまかしても・・神様には本当の事を書かなければいけないのデス
(何の事やらとの声が)

見つけちゃいました(^O^)/
コメント76を書いた後、ママチャリ(自転車)を使って、ご紹介した旧三社跡と旧奥野村(宮麓切畑地区のすぐ隣)までグルリと走ってみました。
ママチャリ(自転車)でも距離は全て近い!
不思議なパワーを受けた気分になりました。
そして・・
家に帰り、コメント76で御紹介した各神社に名跡を残した方々を調べてみたのですが・・
見つけちゃいました(^O^)/ 「中原氏」と「三浦氏」の影が宮麓地区の旧三社と旧奥野村の白木社妙見社にちゃんと残っていました!

まず旧奥野村の白木社妙見に名跡を残した「仲原氏大隅親吉」この方から(-.-)
大隅氏を調べると
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%A4%A7%E9%9A%85
〉現鹿児島県東部である大隅国造、大隅直、大隅忌寸、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)島津氏流、中原氏、大中臣氏などにもみられる。

日本の苗字七千傑様の神別 姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/02.htm
磯城彦族【磯城氏】【十市氏】【中原氏】【西大路氏】【六角氏】【押小路氏】【大隅氏】
さらに日本の苗字七千傑様の【中原氏】姓氏類別大観を拝見すると
【中原氏】
 安寧天皇の第3皇子、磯城津彦命の後裔の十市宿禰有象が中原姓を賜姓されたことに始まると伝える。

ここからママチャリ(自転車)でグルグル回って頂いたパワーのお陰で、何故か気になって開いたウィキの情報から三浦氏まで一気に繋がっていきました。
(マタマタとの大合唱が(ー_ー)!!)

googleの検索キーワードに「大隅 中原氏」と入力して検索するとあがってきたのが 以下の画面!
石井氏 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/石井氏
... 説明しています。肥前国の石井氏については「肥前石井氏」を、大隅国の石井氏については「大隅石井氏」をご覧ください。 ... 4 菅原氏流 石井氏; 5 中原氏流 石井氏; 6 宇多源氏流 石井氏; 7 下総国の石井氏; 8 武蔵国の石井氏. 8.1 源氏系統; 8.2 平氏系統 ...

上記はウィキの「石井氏」でした。「大隅 中原氏」と入力したのに何故こちらが検索であがったのか良く解りませんがとりあえず開いてみました。
石井氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F
この項目では、石井氏全般について説明しています。肥前国の石井氏については「肥前石井氏」を、大隅国の石井氏については「大隅石井氏」をご覧ください。
(p_-)とありますが、とりあえず読んでみようと・・
すると・・
中原氏流 石井氏[編集]
近江国の石井氏は本姓を中原氏とする井口氏の流れ。『江州中原氏系図』に井口堯経の子として石井入道是経の名が見える[3]。
宇多源氏流 石井氏[編集]
宇多源氏系の近江源氏佐々木氏の一門に井口氏あり。前項の中原氏流石井氏と関連あるか[3]。
\(◎o◎)/!ナンデスト!
※近江国の石井氏は本姓を中原氏とする井口氏の流れ。
※近江源氏佐々木氏の一門に井口氏あり。前項の中原氏流石井氏と関連あるか・・
井口氏!上相良氏の系に井口氏がありますが・・
祖母の実家「平川家」の前を流れさらに家の前を流れている川の名は「井口川」
ちなみに井口川の上流は名前が変わって岡本川です。先日、上流まで行ってみて気が付きました。上流の水はナント川辺川上流や球磨川上流のように水がブルーですごく綺麗でした。
(ー_ー)!!話がソレマシタ(..)
※近江源氏佐々木氏の一門に井口氏あり。・・実は何時か書こうと思っていたのですが、人吉市史に書かれていた異説相良長頼の出自は「佐々木氏」となっていたのです(?_?)詳しくは明日にでも(..)
「井口川はうちの川」とは祖母が残した名言?迷言?

ちょっとマテよ・・「石井氏」???
稲積妙見の記述にも「宮守石井太郎兵衛」とあったな〜(?_?)と思いながら・・
石井氏ウィキの記述最初にあった〉この項目では、石井氏全般について説明しています。肥前国の石井氏については「肥前石井氏」を、大隅国の石井氏については「大隅石井氏」をご覧ください。
「大隅石井氏」が気になったので開いてみました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%85%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F
大隅(薩摩)石井氏(おおすみ/さつま いしいし)は、桓武平氏三浦氏の一族。相模から大隅に下向し、鎌倉時代末期・南北朝時代・室町時代・戦国時代に活躍した武士で島津氏の重臣。
家紋 丸に三引両(代表家紋)丸に違い鷹の羽・丸に橘・五つ松皮菱
\(◎o◎)/!
概要[編集]
大隅国大隅郡垂水中俣・海潟(垂水市)の領主に石井氏があった。石井氏は相模の豪族で源頼朝をたすけ、鎌倉幕府の創立に尽力した三浦義明の子孫である。三浦氏は宝治元年(1247年)に法華堂にて一族のほとんどである五百余人が自害して滅亡したが(宝治合戦)、三浦員村(自害)の次男盛明は無事であり、その子義継は相州三浦郡石井庄(現在の神奈川県横須賀市平作町に小字石井がある)に居城し石井と号した。石井氏は宝治合戦を生き延びた三浦氏の一族であるが、建久3年(1292年)、大隅守護職は千葉氏から北条氏に代わっていることから、北条氏の御内人となり垂水地頭として赴任してきたものと考えられる。
鎌倉時代末期(1330年頃)、義継の子石井重義が下大隅に下向。垂水城を再興し、石井氏を名乗りここを居城とした。

平姓石井氏略系図[編集]
桓武天皇─葛原親王─高見王─高望王(平姓)─良文─忠通─為通(三浦姓)─為継─義継─義明─義澄─義村―朝村─員村─盛明─義継(石井太郎)─1.重義(大隅下向)
義継(石井太郎)
\(◎o◎)/!

※旧宮原村宮麓の稲積妙見の記述「宮守石井太郎兵衛」
※大隅石井氏 義継(石井太郎)
家紋 丸に三引両(代表家紋)丸に違い鷹の羽・丸に橘・五つ松皮菱\(◎o◎)/!

大隅・・???
佐原六郎左衛門 大隅國正八幡宮ノ地頭(人吉市史より)

パワーのお陰か?偶然か?
上記の記述を見つけました・・でも偶然かな?

では。
[79]白石さんからのコメント(2016年04月02日 18時39分02秒 ) パスワード

社家の姓氏より 渡会氏
・・・といったらしいが、単に神主ともいい、1001年神主貞雄・連信らが度会神主の姓を賜わって、子孫が大いに栄えた。檜垣・松木・久志本・佐久目・河崎・宮後の六氏は重代家と称され、さらに★横地・川田・岩淵・赤畝・蒜田・吹上・大世古・村松・曽禰・松原・★堤・出口・幸若などの諸氏を分出した。

渡会氏遠祖 天日別命としている
天日別命または★天日鷲命(両者には同神説と別神説がある)。前者は天御中主尊の12 世孫、後者は神皇産霊尊の5世または7世孫という。

平河を追いかけていたら過去に「鷲神社」がでました。
私 書いたつもりでいただけかも・・・鷲神社の祭神は「天日別命」ですね。
忌部氏遠祖。

ところで 
神宮には 猿田彦の子孫・太田氏が神宮の土地を提供した とか
神宮社家にある家・村山 松本 宮田など 小野あたりにある家の長あり
初神中村家の中村は 渡会の地を 中村という。
秀吉などもそこらで 生まれた。

などから 
歴史を義祝した形が四浦にあるなあと 思っています。

ところで
私の同級生の宮原さんのことを 父たちは ありゃあ 菅原ばい と言っていたことは話しましたね。

先ごろ 渡会氏で おもしろいブログをみました。

渡会氏祖先は 天穂日命だというのです。







[80]白石さんからのコメント(2016年04月02日 22時18分06秒 ) パスワード

ネットより
113:

名無しさん@京都板じゃないよ

2015/04/03(金) 18:17:57.51

宗像家
クナト大神−八島篠−布葉之文字巧為−E八束水臣津野−吾田片隅−田心姫・多岐津姫・市杵島姫(宗像3女神。)
※田心姫は、向家の天之冬衣の后(八重波津身=事代主神の母神。)で、多岐津姫は、八千矛(大穴持・大国主神)の后で、市杵島姫が、饒速日(物部始祖・徐福の后。)
※市杵島姫は厳島にもまつられていますね。

ネットからひろいましたが

大和葛城地方へ移住した出雲王家の人々ということばがあり
※葛城直になっていく 高田なども 出雲王朝家だったということでしょうかね。

度会氏の正体は出雲氏族 - 中西正矢 | ブクログのパブーより
に渡会氏の祖先は天穂日命だと書いてあったのですが 表示されにくいようです
[81]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年04月03日 09時44分45秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

当スレッドも早くもコメント81まで進みました。

日本の苗字七千傑様、白石様、酒井様
数々のありがたい御教示を頂き心より感謝申し上げます。

今後ともどうぞよろしくお願い致します。

こちらは
平川家について32に続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101516_80.html
[82]勝間田さんからのコメント(2018年01月22日 04時52分36秒 ) パスワード

勝間田です。小さい頃に聞いた話が本当なのか調べていたらこのサイトに出会いました。ダメもとで分かっている範囲を書かせて貰いたいと思います。相良の殿様と参勤交代で人吉に来て、相良の殿様の娘?をお嫁に貰ったと聞きました…でも後に離婚したらしいのですが、、、私が先祖の事を知りたいと思った時には両親は亡くなっており、祖母も90を超えてしまいました。調べても勝間田の事などあまり出てこないのでもしかしたら詳しくご存知なのかとメールさせて頂きました。
[83]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月22日 10時40分57秒 ) パスワード

勝間田様
コメントありがとうございます。

私は曾祖母の実家新堀氏について調べていたのですが
コメント48で書いたように
人吉市史第一巻 の巻末附録記載の上相良氏系図に平原次郎頼範と新堀又次郎(四郎)頼兼(頼金)の項がありました。
平原次郎頼範・・一説藤太頼寛ノ甥 又工藤太夫光頼ノ弟ノ子
新堀又次郎頼金・・一説頼範ノ弟
右二人ハ頼景下向ノ折随身猶子トナリ、弟分トナル、頼金(頼兼)ハ頼景ノ女ト合縁
とあります。
日本の苗字七千傑様の【藤原南家為憲流】姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022.htm

相良氏の同族である横地氏が見えます。
さらに横地氏に進み
日本の苗字七千傑様の《横地氏》姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022d4.htm

勝間田氏に繋がります。

曾祖母の実家の新堀氏は
※一説藤太頼寛ノ甥・・相良氏初代相良頼寛ノ甥・・と言う事は横地氏に繋がる可能性もあり・・と言う事ですね。
もしくは・・
※工藤太夫光頼ノ弟ノ子・・木脇光頼は工藤周頼の養子に入って相良頼寛の父となる・

この新堀氏の祖「新堀又次郎頼金(頼兼)」の妻は相良頼景(平安時代末期、球磨に最初に来られた相良氏)の娘である方です。

以前から、新堀氏・横地氏・勝間田氏の繋がりが非常に気になっていました。

勝間田様から頂いたお話は
〉相良の殿様と参勤交代で人吉に来て、相良の殿様の娘?をお嫁に貰った

参勤交代と言う事は江戸時代ですね。
江戸時代の球磨における勝間田氏の記録も残っています。

実は、現在、私の調査「平川家について」は43まで進んでいます。
(こちらは31です)

続いて、江戸時代の球磨における「勝間田氏」の記録は
平川家について43の方で詳しく書かせて頂きます。
勝間田様、ぜひご覧ください。

平川家について43 コメント11に続けて書きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101619_10.html


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