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 投稿番号:101348 投稿日:2014年04月15日 08時21分04秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について11

コメントの種類 :その他  パスワード

先祖の調査に時間を使う事が可能となり、次々に新しい情報と出会う事が可能となってきました。

そのおかげ?で、あっと言う間に「平川家に付いて11」となりました。

皆様からのご教示のお陰で、ここまで進む事ができました。
ありがとうございます(^・^)

今後とも、ご教示の程どうかよろしくお願い致します。

平川家について10より 続きます
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/101347_90.html

[1]子孫よりさんからのコメント(2014年04月15日 12時52分02秒 ) パスワード

皆様

毎回毎回、まったく私は(*_*) 何故、こうもおっちょこちょいなのでしょう。
昨日・・・ のコメント
二人の久米三郎 藤原真家と藤原家宗は従兄同士でございます!
二人の祖父は「藤原義孝の長男、行成を祖とする 世尊寺家」の
藤原伊行でございま〜す!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

は、もっと注意深く確認すればその先にも繋がっていったのに・・・(*_*)

今朝、何処かで、中原氏と必ず繋がるハズだ(p_-)と、昨日のコメントなどを見直していたのですが・・・・

もう一度見て下さい<m(__)m> 
久米三郎こと藤原家宗とは・・・
大炊御門頼実の子 母は 藤原伊行の娘でございま〜す\(゜ロ\)(/ロ゜)/

と(-.-)そこで「大炊御門頼実」とは長い名前の方だな〜と思い(すでに落ちが解っている方、(;一_一)笑わないで下さい)
早速ウィキで検索 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E5%AE%9F
藤原 頼実(ふじわら の よりざね、久寿2年(1155年) - 嘉禄元年7月5日(1225年8月10日))は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。左大臣・藤原経宗の長男。大炊御門家の第3代当主。官位は従一位・太政大臣。六条または中山を号す。

ありゃ?!あれっ?ああああああああっ\(゜ロ\)(/ロ゜)/っと!
藤原頼実? えっ?!あれれれっれれれれ\(゜ロ\)(/ロ゜)/
こっこの方は、あの人の・・・!!

系譜を見て下さい  ((ー_ー)!!見なくても解っていると言う人もいらっしゃいますよね(@_@。)

父:藤原経宗
母:藤原清隆の娘 ★★藤原清隆の娘って・・(@_@;)
妻:藤原兼子(卿二位) - 藤原範兼の娘
妻:藤原隆子 - 藤原定隆の娘 女子:大炊御門麗子(陰明門院)(1185-1243) - 土御門天皇中宮 
★★藤原定隆(@_@;) 木綿川(球磨川)の詩歌・・

妻:藤原伊行の娘 長男:大炊御門家宗(?-1211) - 従三位★★球磨の久米三郎さんです(@_@;)

妻:平時忠の娘 次男:鷹司頼平(1180-1230) - 正二位中納言
母不詳 男子:実智 男子:実昭
養子:大炊御門師経(1176-1259) - 藤原経宗の子・頼実の異母弟

お解かりいただけましたでしょうか<m(__)m>

整理します。
@藤原清隆の娘は藤原頼実の母。
A藤原定隆は藤原頼実の母と兄弟。
B藤原定隆は木綿川(球磨川)の詩歌を詠みました。(夏来れば 流るる麻の木綿葉川 誰水上に禊しつらむ)
C藤原定隆の娘は藤原頼実の妻
D藤原頼実と藤原伊行の娘の子が 球磨の久米三郎こと藤原家宗

かなり複雑に関係していますが、一番わかりやすい説明はこうですね
球磨の久米三郎こと藤原家宗は藤原定隆(球磨川の詩歌の方)の姉の孫。
藤原定隆は藤原頼実の舅でもある。

ふ〜っ(゜.゜)

遂に核心に迫り始めました(p_-)

そして藤原定隆と藤原長方(妻 藤原師高娘)は・・・・・

一つ一つの点が確実な線となるように、今後も調査を進めます<m(__)m>
(おっちょこちょいがなければもう少しスムーズなのですが・・すいません)

では(^・^)







[2]子孫よりさんからのコメント(2014年04月15日 14時02分24秒 ) パスワード

マタマタ、おっちょこちょいです(*_*)

今、あらためて日本の苗字七千傑様の《中原氏閨閥図》をじ〜っと(p_-)見ていたら・・・
ああああああああっ(゜.゜)
藤原氏長家流!! 忠家 → ★俊忠 → 忠成 → 光能 → 広元 
藤原俊忠 とは 藤原長方の祖父 でした\(゜ロ\)(/ロ゜)/

ちょっと勉強します ( ..)φメモメモ
藤原光能 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%89%E8%83%BD
藤原 光能(ふじわら の みつよし)は、平安時代末期の貴族。藤原北家御子左流。藤原忠成の子。正三位・参議。
久安2年(1146年)に叙位、長寛2年(1164年)に従五位上に叙せられ、永万元年(1165年)に下野守に任ぜられる。後白河院近臣として活躍し、仁安2年(1167年)に従四位下・右近衛少将となり、翌年には皇后宮権亮に任ぜられて従四位上から正四位下に進む。承安元年(1171年)には右近衛中将、安元2年(1176年)には蔵人頭に任じられる。治承元年(1177年)に皇太后宮権大夫に任じられると、同3年(1179年)には右兵衛督、更に同年10月には参議を兼帯するが、翌月の治承三年の政変によって解官される。

伝承によれば、治承4年(1180年)7月、当時福原京にいた光能の許に伊豆国の源頼朝と面会した文覚が訪れ、頼朝のために後白河法皇に取り次いで平清盛追討の院宣を出させるように迫ったとされている。『愚管抄』はこれを妄説として否定するが、『平家物語』などにおいては名場面の1つとして採用されている。

一族[編集]
父:藤原忠成
母:源季忠の娘
妻:足立遠元の娘 男子:藤原知光
男子:藤原光俊(1179-?)

妻:僧経尊の娘 男子:藤原忠経

生母不明 男子:藤原家能 - 藤原兼光の養子[1]
男子:藤原季光
男子:藤原家基  
★★ここにも藤原家基という名があります。(さて?球磨の藤原家基はどの方?)
男子:藤原親光
男子:覚能


以下については、各種系図に記載が見られるが、事実かどうかには疑問がある。
妻:中原広季の娘 男子:中原親能(1143-1209) - 子孫は大友氏[2]

生母不明 男子:大江広元[3](1148-1225)

ちょっと言葉を失っているのですが・・・・

と言う事は
藤原長方と藤原光能 は従兄ですね。
藤原長方にとって「中原親能」と「大江広元」は従兄の子供。

そうか・・・・・

大江広元は 球磨の鎌倉御領(永吉と西村)の預所であり
永吉は「平河(良峯)師貞」が地頭となり、西村は「藤原家基」が地頭となっている。

大江広元が没した後に、その領土は争論の対象となった・・・

藤原長方が球磨の平河に繋がっているのかは全く解りませんが、今、現在の調査の状況がどの部分を見ていたのか、解ってきました。

「事実は」何処にあるのか?ですね。

訴訟の内容について、私は一方的な訴えしか知らないような気がします。
相方が、どう、述べていたのか、それを理解していません。

大江広元が地縁も無しに、ただの恩賞だけで、球磨の預所となったのではないような気がしてきました。

あの・・・・
何度も言いますが藤原長方と球磨の関係性は未だ不明ですが・・・
マタマタ(ー_ー)!!って言わないで下さいね(*_*)

あの・・藤原長方の亡くなった日を見て頂きたいのですが

藤原 長方(本名憲頼)[ 保延5(1139)年 〜 建久2(1191)年2月11日 ]
顕長一男。母藤原俊忠女。号八条、又号三条。
安元2(1176)年12月5日任参議。
文治元(1185)年6月25日出家。
正二位・権中納言。

偶然ですが 2月11日は・・私の誕生日です。
本当に偶然なんですけど・・でも1年は365日あるのですよね。
と言う事は1/365の偶然です。

では<m(__)m>(^・^)



[3]子孫よりさんからのコメント(2014年04月17日 01時06分48秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

今日は一日中「中原氏」についてを調べていました。
そして・・
「中原師澄」この方について平河の系図にも「師澄」と言う名があり、詳しく調べていた所、様々な情報を見つける事が出来ました。
特に、今からご紹介するサイトなのですが・・
以前にもこちらのサイトを見ていたのですが、その時は、勉強不足で記述を読んでも、ピンとこなかったのですが・・・
今日は違いました(ー_ー)!!

三池氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ot_mike.html

ピックアップして転記します
中原親能は藤原光能の子で、外祖父中原広季の養子となった。平治の乱後、伊豆に流されていた源頼朝に京の情報を送り続け、幕府が成立すると頼朝に側近として重用され、鎮西奉行も務めた。親能は能直・親実・師員・師俊・親家ら一族の子弟を養子としたことで、多くの中世武家が中原氏から分かれ出た。能直は近藤氏から養子に入った人物で大友氏を名乗り、子孫は豊後に下向して北九州の戦国大名となった。師員が三池氏の祖になったといい、『鹿子木系図』に中原親能が三池郷の地頭職を賜ったとあることから、これにちなんだものと思われる

続けます・・
ちなみに、善光寺、筑後将士軍談の系図は源師親を祖とし、柳河・大分・大阪の三池氏系図は藤原師親を祖としている。とはいえ、藤原師親は嵯峨天皇の後裔で、藤原師澄の養子になったとあり、大きく見れば源氏説に準じるものともいえよう。そして、いずれも師親より十数代をへた子孫に親能があらわれ、以後、異同をみせながら戦国時代の親泰・親盛に至っている。
★藤原師親は嵯峨天皇の後裔で、藤原師澄の養子になったとあり・・
「師親」は「源師親」や「藤原師親」といった表記でかなり曖昧のようです。
それに、「時間軸」も気になります。

そこで、私は、ターゲットを「師澄の養子になった師親」としました。
日本の苗字七千傑様の「大外記中原氏」姓氏類別大観を見ると、中原師直の子として「中原師澄」があり、「師親」の名も見えます。
上記のサイトにあった「藤原師澄」の養子「藤原師親」と言った記述とは関係ないとは思いますが・・

「中原師澄」(大外記)(周防介師澄)の情報はサイトではあまり見つからなかったので養子になったという「藤原師親」で調べてみました。

すると・・・ googleブックではかなりの情報が出て来ました。

国分史 (こちらはプレビューが見れるので googleブックで「藤原師親」と検索すると、一覧に表示されます)

辞輿を陽明門に棄てム去色四月・師高を尾張に蒲す・ムハ月、午清盛、前左街門尉蕗原師光を殺す、清盛、右近衛少将藤原成 ... 磨に、扮非違使惟宗信房を阿波に、午佐行乎美作に流し、藤原師高、右街門尉藤原師親、左兵衛藤原師午及び藤原成親を殺す。

「藤原師親」は「藤原師高」「藤原師平」「藤原成親」と共に亡くなっているようです。
ただ、以前、別の記述では川原に3人の遺体が確認されたとあったのですが・・
この時は他に「中原基兼」が伯耆に「惟宗信房」が阿波に配流となっているようです。
その他、「藤原師高」と「藤原師親」との関係について

Nagoya shishi: Fūzoku hen - 83 ページ より
... を告げたり中のものども多く集め、水邊に假屋をしつらへ、遊君を呼び集めて、今樣耿ひ 6 '田に謫せられしを、・盛更に追討の士を差下せり、折ふし師高川狩して、國とあり、師高は藤原師光|が子なり、嘗て罪ありて弟師平、師親二人と共に井ちくと南北に延て.

藤原師親は藤原師高の弟となっています。

でも、西光(藤原師光)の系図には「師親」の名はありません。
藤原師高の弟「藤原師親」はいずれかに養子に入ったという事でしょうか?

最初にご説明した三池氏の祖「藤原師澄」の養子に入った「藤原師親」と
藤原師高の弟「藤原師親」は、もちろん別人かもしれませんが・・

このような情報があったと言う事だけです。

では<m(__)m>(^・^)













[4]白石さんからのコメント(2014年04月17日 03時40分32秒 ) パスワード

こんばんは
この間からパソコンのことで 悪戦苦闘していました。またまた復活です。

三池氏
子孫様 どんどん 情報が取り込まれて 具体的に近づいていますね。すごいです。わたくし 名前が多くなってくると だんだん 頭がぼうっとなって 前に見ていたはずなのに 思い出せなくて

なさけないです。

三池氏の系図を見てみました。
見ながら 過去に 7000傑様から教えていただいた 系と 少しちがうな と 思いながら 画面をにらんでいました。
これは 
子孫様がおしらべになっていることが 違うということではなくて
子孫様の系とからまりながら さまざまに 枝分かれしているということだろうと 思います。

わたくしの見た画面には 
広元 藤堂氏 新田氏 渋谷氏 佐々木 乃木 葦北国造 御子左家 冷泉
他 

ありました。
師高 などが ないので
これは 控えたほうがよいか と 思います。
わたくしのちゃちゃくりで いつも お話が  それてしまいますので。

子孫様
あさぎり町に 古庄姓があります。校長もされたことがあり、わたくしの恩師です。古庄 近藤  近江の藤氏 確か 前にわたくししらべたとき神功皇后 長尾 八木などでたようです。姻戚関係により だったか? 八木 平川景家 海神の子・振魂命の子孫につく。熱田氏に関与し、熱田神宮では 20年ほど前か 祖先を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊から振魂命にかえられた。

子孫様 太田亮氏の姓系辞典では 平川はわかりませんでしたが、あの時代では 情報が隠されていたのかもしれませんね。
太田氏のお子様が
紙を買うお金もなくて 障子紙にかきつけていたのをおぼえている と 本のあとがきにかいておられたけど、皆様 大層なご苦労をされたのですね。
そして 今 日本の苗字7000傑様も膨大な資料をもとに本ではなかなかわからなかった詳しい情報を提示しておられて そのご苦労も並大抵ではなかろう と お察しいたします。
わたくしも親が話していたこと 集落にある家の固まりが きっと 古代にたどりつくはずと今まで あきらめずに よかったです。
家を離れて 図書館で 本を読み漁って 知識を得てきましたが、こんなに たくさんの情報が得られるとは ありがたいことです。
子孫様 これからも 頑張って くださいね。

話がかわりますが
長野の方の主婦の方で ブドウからバルサミコソースをつくっている人がテレビにでていました。また 米ぬかを靴下に入れ込んで つやぴかの足になる という靴下を 開発した人も。
もう つくるものはない 世の中 物であふれている ではなくて 、 まだまだ次から次へと売るものができるのですね。
鳥インフレ 
大変な痛手だろうと心痛みます。地域の皆様 めげずに 頑張ってほしいです。


[5]子孫よりさんからのコメント(2014年04月17日 12時38分16秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様から、以前、中原氏についてご教示頂いて、その時は、私自身が、全く不勉強で、理解出来ていませんでした。

「ちゃちゃくる」なんて事ありません(ー_ー)!!
折角のご教示を私が台無しにしていたのです。

でも、今は、以前よりは、少しは理解出来るようになってきたかも?とは思います。
これからも、ご教示よろしくお願い致します(^・^)

所で、今日は、朝から平安時代の肥後守を調べています。

調査報告は夕方のコメントにて。(^・^)

では。



[6]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年04月17日 21時09分01秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>以前、中原氏についてご教示頂いて、その時は、私自身が、全く不勉強で、理解出来ていませんでした。
 
中原氏と言えば、鹿ケ谷謀議参加の平康頼も中原康頼の改姓であり西光とは対照的に後に赦免されている。
中原氏一族の中でも鎌倉幕府で重きを無したのは貞親の後裔で有り、貞親は尾張姓熱田大宮司一族からの養子で後裔の中原師員、師連は鎌倉幕府評定衆。
要するに熱田大宮司を中核に中原氏を媒介とした全国的な鎌倉幕府上層部閨閥。
中でも明法家の中原、惟宗の二家系が重視されたのは、鎌倉幕府運営の最重要実務だからですよ。
広元を始め改姓も多く、島津氏も源氏から惟宗への改姓が真実、後世に源氏へ復姓、大友氏も源氏を仮称したのでしょう。
あまり拘ると、多くは中原氏後裔になってしまう。
 
信西一族は平治の乱以降は没落したことになっているが、どっこい澄憲以降の後裔は叡山をはじめ東大寺、仁和寺、園城寺等で高僧を世襲する宗教貴族なのである。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02023a.htm#002
 
鎌倉幕府、室町幕府も無視出来ない存在で、織田信長登場までは寺社勢力は安泰だった。
歴史を教科書的に解釈していては、真実には近づけないでしょう。
[7]白石さんからのコメント(2014年04月17日 21時40分51秒 ) パスワード


子孫様 7000傑様 こんばんは
いつもながら すっきりはっきりのお話 そうだったのか〜と胸が晴れる思いです。

新聞で見たのですが 江戸時代の人 例えば絵師など
100位の変名を持っていたそうです。
女の人なども (商家を筆頭に)みなといっていいほど働いていて、働いていないのは上級武士の奥方くらいのものだそうです。

これをみて わたくしも 少し安心しました。
体を動かすのが好きで 働いています。今頃の季節など 花盛りの景色を眺めながら至福のひと時を過ごしています。

どこかの会社など パートがなくなり 社員給料も よくなるとか 。
女の人が働きやすい世の中が 早くきたらいいですね。
[8]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年04月17日 21時49分22秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>あさぎり町に 古庄姓があります。校長もされたことがあり、わたくしの恩師です。
 
古庄姓は、愛甲姓と同じく小野姓横山党で相模国愛甲郡古庄発祥。
現在、熊本県北、大分県、福岡県に多い。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01204a.htm#004
[9]子孫よりさんからのコメント(2014年04月17日 22時15分59秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

平康頼について、実は先日から調べていて、とても気になる記述がありました。
平康頼 ウィキより (ページ中段あたりの記述ですが・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BA%B7%E9%A0%BC
平家滅亡後、文治2年(1186年)には源頼朝によって、阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任命された[4]。 康頼は京より三人の家人を伴い森藤の地に下向した。康頼はすでに41歳になっていた。

「阿波国麻殖保」の保司となった・・

麻植氏(おえし) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E6%A4%8D%E6%B0%8F
麻植氏(おえし)は日本の武家の姓のひとつ。徳島県に特に多い。
忌部氏流 - 阿波国麻殖郡より起こる。阿波の忌部氏の末裔の忌部神社大宮司家麻殖氏の事をいい、「麻植」とも記される。共に読み方は「おえ」と読む。一族には、麻殖持光がいる。→麻殖氏
★西光(藤原師光)はこちらの麻殖氏となるのですね。
清和源氏柿原氏流 - 阿波国阿波郡柿原村より起こる。一族には上楼の役にて活躍した柿原義長がいる。 → 麻植氏 (柿原氏)
桓武平氏流 - 1186年平康頼が阿波国麻殖保の保司として麻植郡に領地を拝領したことに始まるとする。 → 麻植氏 (平氏) 
★平康頼は麻植氏 (平氏)の祖 1186年以降〜 となる訳ですね。

続けます
清和源氏満政流 - 以下で解説する。
初めの部分は明確ではないが、清和天皇の曾孫・源満政の流れを汲む尾張の山田氏の出らしく、小笠原氏と姻戚関係を結び、さらに細川氏とも縁組して、細川頼春が阿波国守護を得た際、随従して阿波国美馬郡貞光に入部した山田俊氏に始まる。
一説には、足利泰氏の次子・足利氏継が尾張国山田に住し、兼氏−重氏−俊氏とし、俊氏が山田と改姓したとしている(『源氏新田足利細川小笠原麻植氏系図』より)。
★こちらの麻植氏は「小笠原氏」「細川氏」「足利氏」と「山田氏」を仲介にして繋がっているのですね そして「尾張」・・・
★「山田氏」・・・「山田」ですね
山田氏を調べました ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%B0%8F
古代の山田氏[編集]

古くは渡来系氏族が称したウヂ名であり、『新撰姓氏録』には、右京の山田宿祢氏(やまたのすくね、周霊王の太子晋の子孫と称する)、同じく山田造(やまたのみやつこ、山田宿祢と同祖)、河内国の山田宿祢(魏の司空王昶の子孫と称する)、同じく山田連(やまたのむらじ、山田宿祢と同祖)、同じく山田造(山田宿祢と同祖)、和泉国の山田造(新羅の天佐疑利命(あまのさぎりのみこと)の子孫を称する)が記録されている。平安時代初期の能吏として知られる山田古嗣(やまたのふるつぐ)もこの山田氏に出自していると見られている。
★和泉国の山田造(新羅の天佐疑利命(あまのさぎりのみこと)の子孫を称する)が記録されている。
「新羅」・・・ですね。
山田氏 (清和源氏満政流)[編集]
平安時代末期に清和源氏満政流八島氏の一族であった浦野重直(山田先生)が尾張国山田郡山田荘を領したことに始まる。尾張源氏の嫡系にあたる氏族とも考えられ、京と鎌倉を結ぶ交通の要衝に代々勢力を持った。

なぜ、源頼朝は平康頼を阿波国麻殖保の保司としたのでしょうか?

★熱田大宮司を中核に中原氏を媒介とした全国的な鎌倉幕府上層部閨閥。
★中でも明法家の中原、惟宗の二家系が重視されたのは、鎌倉幕府運営の最重要実務の為。

中原氏は明法道、明経道を司る家系で、大外記、少外記を世襲職とする朝廷の局務家として長く続いた。また東市正を世襲し、京都の行政に深く携わった。
とありました。
★明法道・明経道・大外記・少外記の説明を読んだのですが・・難しいですね(?_?)

本日、肥後の国司について調べていたのですが、信西との関係も見えて来ました。
後ほど、コメントさせて頂きます。

では(^・^)
[10]子孫よりさんからのコメント(2014年04月18日 00時46分12秒 ) パスワード

白石様、コメントありがとうございます。
女性の働きやすい社会。
そうですね。私も、ずっと子育てをしながら、勤務してきました。
娘が落ち着いてしばらくしたら、球磨に帰って、また、働くつもりです。
出来ればですが、地域に少しでも貢献できる仕事に付けたらな〜と思っています。(あればの話ですが(^・^))

では、早速、本日の調査にてわかった事についてですが

肥後国 ウィキより 画面を下にスクロールすると肥後の国司 肥後守の一覧があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%9B%BD

@平河(良峯)の球磨での最初の記録は、1063年。
A久万郡住人貞倫并舎弟六郎重平等、追掃同郡住人守高城内、押既収種種雑物人馬 虜領彼所領田畠事 この事件が1444年12月19日
B平河師高が有智山万福寺建立とあるのは久寿元年(1154年)。
この記録を基に、当時の肥後の国司を調べていたのですが・・

まず1063年。この年代の肥後国司はおそらく「高階成章(1028年(長元元年) - )」
後任の「藤原義綱(延久頃)」とありますので延久(1069年から1073年までの期間)以前、すなわち「高階成章」と推測しました。
系譜
高階成章 生没年:990-1058 父:春宮亮 高階業遠
1054 大宰大弐
1055 従三位
1058 正三位
妻: 章行 章親
妻:大弐三位 藤原賢子(★父:山城守 藤原宣孝) 1038-1106 為家 慶朝
★藤原賢子の母は紫式部。そして父:藤原宣孝は藤原定方の曾孫
以前、ご説明したように藤原定方の娘は藤原尹文(良峯仲遠・後に仲連)の妻となっています。

続けます・・
中原師平(1091年(寛治5年)) 中原師平は中原師澄の4代前の方ですね。

そして、信西(藤原通憲)と肥後守の関係ですが・・
高階基実(1097年(承徳元年) - )
http://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e9%ab%98%e9%9a%8e%e6%b0%8f
高階基実 生没年:
父:高階基清
肥後守 従四位上
妻: 堀河院内侍肥後 娘(藤原行通母) 娘(対馬守 源義親室)

父:高階基清 そして祖父は高階業敏
では高階業敏

父:春宮亮 高階業遠
美濃守 正四位下
妻: ?-1099 ★経成  基清
娘(文章博士 藤原実範室)・・・・★藤原実範は信西の曾祖父
藤原業仲(義父:文章博士 藤原実範)

★経成の子は高階経俊(経敏)・・藤原通憲(信西)の養父です。

高階経俊(経敏) 生没年:
父:常陸守 高階経成
武蔵守 能登守 1126 長門守 正四位下 妻: 1106-1160 
(養子)藤原通憲(信西)

すなわち
肥後守 高階基実にとって藤原通憲(信西)は従兄の子供と言う事ですね。

時代背景などを理解しようと思い、肥後の国司を調べたのですが結果、藤原通憲(信西)に繋がる事になりました。

ただし、偶然かも知れませんので、冷静に、先入観を排除して、全体を理解するように心がけながら、調査を進めていきたいと思っています。(^・^)

では。
[11]子孫よりさんからのコメント(2014年04月18日 08時15分21秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

実は、朝から2時間以上かけた調査で高階氏と葉室家との繋がりがわかり、コメントを書き込んでいたのですが・・・
家のにゃんこが突然キーボードの上に登り、偶然にもマウスが「リセット」ボタンの上にあったが為、何と情報が折角のコメントが全て消えてしまいました。(@_@;)(@_@。

信じられません(@_@。

でも、考えたら何かあったのかな〜と?

もう少し、考えて後ほどコメント致します。

では(@_@。


[12]子孫よりさんからのコメント(2014年04月19日 13時36分14秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

実は、昨日、目がとっても真っ赤かになってしまい、コメントは控えておりました(@_@。

でも、その目で、大正時代に発行された熊本縣史蹟調査報告 をずっと読んでいたのですが・・具体的な名が登場してきたのですが、この件は、もう少しまとめた上でご報告いたします(^・^)

所で、球磨に関係した「中原氏」を調べていた所・・
南北朝期九州守護の研究 - 300 ページ より
反幕府的行動をとっている(『相良家文害』一— 1 六二号、 I 四 0 ~一四二号)。色氏)だが、かっての「球磨郡凶徒」の中核相良氏惣領経頼や同郡久米揶の三池親元.橘道公等は終始「直冬与同」と相良氏。

三池親元と言う人物が登場しました。それに橘道公です。

Kadokawa Nihon chimei daijiten - 第 43 巻 - 435 ページ
相良因#権守(経頼)於肥後国(久脱力)米郷西方下村致濫妨狼藉由事」とあり,幕府は三池親元の拆えにより,相良経頼が当郷の ...
★他にも
三池親元跡の肥後国球磨郡久米郷とありました。
と言う事は、久米郷東方下分 が橘(宮原)所領で久米郷西方下村が三池親元が所領していたと言う事ですね。

★三池親元は相良経頼を訴えたようです。

わたしたちのまち三池。大牟田の歴史 - 261 ページ より
尊氏、三池親元に命じて足利直冬を討たせる。ゆ藤原助港、宮原の石造五重塔を造る。,三池頼親、家督を嗣ぐ。 5 藤田の ... 関城(南関)攻・に加わる。 5 米生住人大蔵某、薦田天满宮に石塔を寄進。ぼ足利直冬、三池親元の訴えにより、肥後国球磨郡久米郷 ...

★★宮原の石造五重塔を造る・・・もしやもしや、祖母(ば〜ちゃん)が「行ったらいかん(ー_ー)!!)と言っていた、宮原城跡の先祖のお墓近くに何基かあったあの塔かな? ええええっ!そんなに古い塔だったのですね。

きっと、そのような貴重な塔に私だったら登りそうだったので、行ったらいかん!といつも言われていたのかな?(?_?)
(祖母は頻繁にお参りに行っていたようです)

実家前の井口川を挟んで「久米郷西方」。と言う事は三池親元は私の地元のお隣様だったと言う事ですね。
(わぁ〜何だか嬉しいです(^・^))

やっぱり、親戚が集まっての飲み会?の時に全員で「月が〜でたで〜た♪」と歌っていたのには意味があったのでしょう(゜.゜)

早速、日本の苗字七千傑様の中原氏《親盛流》姓氏類別大観を拝見しました。
三池貞鑑 → 貞政 → 貞家 → 親元!ありました(^・^)

うん?ううううん?! あれっ?「貞家」?
あっ!「平河」の系図にも「貞家」という名がありますよ?!
文和二年二月 平河貞家軍忠状 もあります。

時代背景が同じ!まさか?平河貞家とは「三池貞家」の事でしょうか?
えっ! (でも、ハヤガテンはいけませんね(ー_ー)!!)

でも・・・・
もしも、三池親元の父が「三池貞家」であれば・・・

所領していた場所も、橘(宮原)と久米郷の平河(祖母の実家)と川を挟んでお隣同士だし・・・・・?

いよいよ平川の伯父(みなみのじ〜ちゃん)までもが、上機嫌に「月が〜出たで〜た〜♪」と歌っていた秘密に近づいたのかも知れません(p_-)

いや、(ー_ー)!!だめですね。今後の調査でしっかりと検証致します

では(p_-) (^・^) 
[13]白石さんからのコメント(2014年04月20日 19時32分25秒 ) パスワード

こんばんは
おひさしぶりです。

昨日今日は 同窓会で 楽しんできました。
もともと人数がすくない村の子のあつまりですが、元気で顔を見せてくれました。古き良き時代と戦後の急激な変化の中で成長した人たちです。

話の中で 富永が出ていたのが 印象に残りました。
尾方とのつながりの中で でました。


[14]子孫よりさんからのコメント(2014年04月20日 23時35分27秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

昨日から、色々な情報を見過ぎて?コメントをまとめる事が出来ませんでした。

そこで、一つ一つ、調査を進めて行こうと決めまして(^・^)
優先順位は付けがたいのですが、あまり、関係なさそうな所から始めます。

では・・・
偶然、鹿児島県の中世関係資料(古文書)を見つけまして、読んでいたのですが、こちらにも「師高」という人物が・・・
島津忠久(惟宗)宛ての源頼朝下文や関東御教書などと共に、薩摩国図田帳写があり、その中に「師高」という人物が登場致します。

薩摩国
注進□□□ 事
合肆仟拾町柴段内□□□掃部頭八十町(中原親能)
右衛門兵衛尉(忠久)弐千五百九十一丁六□(段)
千葉介(常胤)四百十一町二段
佐女嶋四郎二百十町四段
一円国領二百十一町
方々権門領寺社五百六町五段 宰府本無二字
以下 省略・・・

高城郡二百五十五丁内 嶋津御庄寄郡
寺領五十三丁安楽□  下司僧安静
温田浦十八町   没官御領地頭千葉介(下司在庁師高) ★ここです
社領三十町弥勒寺 下司僧経宗
寺領三十町弥勒寺 下司僧安慶
公領百四十二町  没官御領地頭千葉介
若吉三十六町   本郡司薬師丸
時吉十八町    名主在庁道友
得末二町     名主肥後国住人江田太郎実秀 ★★
吉枝十九町    名主在庁師高 ★
武光三十三町五段 名主同師高  ★
三郎丸十町    名主在庁種明
万得十五町    名主在庁師高
草道万得十五町嶋津御庄論  名主紀大夫正家
大河三町五段嶋津同御庄論  万得

後の記述にも 千葉介(下司在庁師高)と言う名が 数か所ありました。
それと同じくして 肥後国住人江田太郎実秀 という人物もです。

肥後国住人江田太郎実秀 に関しては
Kumamoto-ken shi: Gendai hen - 283 ページ より
の名が見え、「石・水田中文書」に見える井芹秀重は菊池一族であって、菊池導空とともに、菊池氏武士て下向した相良頼俊、天草 ... 住人江田太郎実秀」と見える夾秀と同族室氏の葉室高善、玉名郡江田郷を本拠とする江田秀家、託磨郡一带を根拠とする:

熊本県玉名市の「玉名市史通史篇」索引ページに「江田太郎実秀」の記述がありました。

では、続けて「千葉介(下司在庁師高)」ですが
日本の苗字七千傑様の《千葉氏》姓氏類別大観 を拝見したのですが「師高」なる人物は見当たりませんでした。

ただし、人吉・球磨の近隣の、川内市に本姓「伴氏」である「師高」という人物の情報はありました。

球磨の平河には全く関係ないとは思いますが、調べてみました。

日本の苗字七千傑様の【大伴氏/伴氏】姓氏類別大観を拝見したのですが
大伴氏/伴氏と斎部氏は同祖という事なのですね。
「伴氏」の師高という人物は父が「薬師丸武光」とありました。

時代検証できる情報は見つかっていないので、千葉介(下司在庁師高)と「伴氏」の師高。この方が同一人物かどうかは確認は出来ていません。

と言う事で、無関係の人物であったようですが、しかし、球磨・人吉だけの理解だけではなく、周辺地域いえ、九州全体の情報も理解しなければ、中々先には進めないのではと思い、本日の調査を行ったしだいです。

では(^・^)







[15]子孫よりさんからのコメント(2014年04月20日 23時56分33秒 ) パスワード

白石様、今晩は(^・^)
コメントありがとうございます。

同窓会、楽しくお過ごしになったのですね(^・^)
そちらにいらっしゃる方々での同窓会だったのですか?
球磨にお帰りになったとか?
私は、一度も同窓会に参加していないので、今後は地元に帰って、同窓会に参加出来るのを本当に楽しみにしています。

「富永氏」ですね。(p_-)

一昨日から、目が充血しておまけにとても痛かったので、情報を読んでばかりいました。(画面を見るから目にとっては同じ事か・・)

おまけに頭痛までしていまして。コメントをまとめる事も出来なかったのですが、もう、大丈夫のようです(^・^)

皆様も、お身体にはくれぐれもお気を付け下さい<m(__)m>
では(^・^)
[16]子孫よりさんからのコメント(2014年04月21日 10時21分42秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年04月21日 10時31分19秒
[17]子孫よりさんからのコメント(2014年04月21日 10時30分57秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

早速ですが、お忙しい所申し訳ございませんが、日本の苗字七千傑様にお伺い致します。

麻植氏の姓氏類別大観を拝見していて、麻植正光 女子 から藤原朝子に、二重線が繋がっていますが、これはどういう意味でしょうか?

今まで、かなりの時間を使って調べたのですが、ネットでは何も情報が有りませんでした。

「阿波内侍」を指しているのか?とも推測したのですが。

どうか、ご教示の程よろしくお願い致します。

何故、このような事を調べたいのか?と申しますと・・

平川に代々伝授されてきた絵巻物の内容と何か関連しているのかと思いまして。

かなり、以前、コメントさせて頂いたのですが、祖母の実家、平川家には、先祖に関係するであろう、沢山の絵巻物がありました。

中に代々当主しか見てはいけないという絵巻物があったのですが、何か事情があったのでしょう、ある人物がその絵巻物を偶然見たそうです。
その絵巻物には、沢山の女性と、その中に、かなり高貴であろう素晴らしい着物を着た女性、そして、小さな子供(男女は解りません)を抱いた女性が描かれており、牛車または馬車にその子供を抱いた女性が乗ろうとしている姿だったそうです。周囲の女性の方々は、皆、泣いている様子だったと言う事です。
その絵巻物を見た人は、このような素晴らしい絵巻物は初めて見たと驚いてしまい、多分、生涯、秘密にする事が出来なかったのでしょう、晩年祖母や親戚にこの話を伝えたそうです。
ですから、親戚は皆、絵巻物の事は知っています。
ただ、残念な事ながら、これらの絵巻物は火事で燃えてしまったと聞いているのですが・・ 実際のところは良く解りません。
他にも、何か色々とあったようですが、火事で燃えたと言う事で、しかし祖母は、絵巻物の存在も、その他に「あったもの」も知っていました。
現存していないのは確かですから、私の推測では、当時の当主が、こっそり何処かに寄贈したのではないのか?と思っています。

今までの調査の中で、この絵巻物に関係したであろう人物に私が到達出来ているのか?は全く解りません。

ですから、どうしても、「養子に入った」と言った内容には敏感になってしまいます。

あまりの情報不足にもしかしたら、この絵巻物が最大の情報であるのでは?と思ってしまい、コメントに関しては、随分悩んだのですが、本日、意を決してコメントさせて頂きました。

以前、コメントした時は、絵巻物の内容は、赤ちゃんを抱いた?くらいしか理解出来ていなかったのですが、正月に帰省した時に、父に詳しく聞いてきました。赤ちゃんでは無く、幼児(子供)だったようです。
何かの縁でこの絵巻物が平川に来たのかも知れませんが、情報が見つかる事を願って調査をしているという部分も大きいです。

さあ、今日も、調査をがんばります(^・^)
では(^・^)
[18]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年04月21日 13時48分40秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「阿波内侍」を指しているのか?とも推測したのですが。
 
現在、阿波内侍の出自に三説あり。
@藤原通憲(信西)ー貞憲ー阿波内侍
A父:藤原通憲 母:麻植正光娘
B父:藤原通憲 母:藤原朝子
 
阿波内侍と称していることからA説が妥当、また阿波内侍の生年と信西の没年が一致することから、貞憲の養女となり朝子の家で養育されたのが真実でしょう。
当時の家族形態から不思議でも何でも無い。
[19]子孫よりさんからのコメント(2014年04月21日 16時14分56秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、お忙しい中、早急なご教示、本当にありがとうございました。

藤原通憲(信西)と麻植氏は、西光より以前から繋がりがあったと言う事ですね。

今までの疑問が解決出来ました。

ありがとうございました。
[20]子孫よりさんからのコメント(2014年04月21日 17時54分06秒 ) パスワード

追記
先ほどのコメントは適切ではないですね。

正確には、藤原通憲(信西)と麻植氏は「麻植為光」以前の「麻植正光」からの繋がりがあったと言う事ですね。

朝日日本歴史人物事典の解説より ピックアップします。
阿波内侍について
平安末・鎌倉初期の女性。『平家物語』に登場する建礼門院徳子の女房。
文治1(1185)年平家滅亡後剃髪し大原寂光院に遁世の日々を送る建礼門院に,大納言佐と共に尼となって仕え,女院の最期を看取ったという。文治2年の後白河法皇の大原御幸で両院の対面の司会者的役割を果たし,信西の縁者ともされるため,『平家物語』の成立との関係,醍醐寺および安居院流唱導との関連などが指摘されている。

と記述されていました。
血縁関係にある、西光や西光の子息が平清盛によって罰せられた後でも、建礼門院徳子の最期までお仕えして、阿波内侍という女性は心根の真っ直ぐな、優しく、責任感の強い女性だったのでしょうね。

信西そして西光は物語などではどうしても、良い書き方はされていませんが、物語や古記録では記述されていない、御二方の心の部分「真実」を阿波内侍は良く理解されていたのでは?と・・
これは、私なりの感想です。(素人考えですいません)

また、ひとつ勉強いたしました(^・^)

では(^・^)

[21]子孫よりさんからのコメント(2014年04月22日 07時13分20秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。(^・^)

実は、昨日、一つ発見?した事があります。結論から言いますと・・
書籍などをスキャンしてパソコンに取り込む際には、フォントによっては「章」は「聿」に変換されてしまうと言う事です。

以前ご紹介した
球磨の「仏師源覚」が作成した仏像に「右為惟宗聿・尊霊往生極楽也」と書かれてあり、解説には「この銘文により、本像は承久二年(1220年)、惟宗聿高の菩提のため、仏師源覚によって造立されたことが解る」と記述されていました。
この「惟宗聿・」と言う人物に関して諸説あり、中には「平河師高」では?という説もあるとの記述もありました。

以前から「惟宗聿高」という人物を探していたのですが、該当する人はいませんでした。
所が、昨日、最初に書いた「章」 → 「聿」 への変換に気づく、記述を見つけたのです。
googleブックでキーワードに「聿高」と入力して検索した所
検非違使補任 2
中原職隆右衛門少尉正六位上中原聿高右衛門少尉正六位上中原聿兼右 ...
「中原聿高」?「中原聿兼」?
こちらはプレビューが見れるので、確認した所
「中原章高」「中原章兼」でした。(偶然中原だったのですが・・こちらの年代は「文応元年なので、該当はしませんが)
と言う事で、フォントによってはスキャンした時に「章」は「聿」に変換される事を発見した?と言うわけです。

そうすると・・・
「惟宗聿・」は「惟宗章高」の可能性もあると言う事ですね。
もしくは「惟宗幸高」?「惟宗泰高」?色々想定は出来るのですが・・
本当は、実際に書籍を読むのが一番なのですけど・・

少なくとも仏師源覚は球磨に関係する「惟宗氏」の菩提のために承久二年(1220年)に仏像は造立されたと言う事は明らかです。

他に 多良木町史 - 191 ページ より
惟宗聿高の往生極楽のために仏師源覚が彫刻したものである。仏師源覚は日向の仏師であろう。今確証はないが、恐らく惟宗聿高は惟宗高安,同吉高らの ...
★確証はないがとありますが、新たに「惟宗高安,同吉高」という人物の記述もありました。

「平河」に直接関係は無いかもしれませんが、当時の状況を理解するためにも調査していきたいと思っています。

後ほど、球磨郡湯前町の「浄心寺」現在は「城泉寺」の3基の塔に関連するコメントをご紹介いたします。

では(^・^)






[22]子孫よりさんからのコメント(2014年04月22日 12時37分20秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

「後ほどコメントします」とお伝えした湯前町の浄心寺(城泉寺)の石塔(3基)についてですが、調べれば調べるほど、様々な見解に分かれていて、素人の私にはやはりさっぱり解りません(@_@;)
整理してお話します。

浄心寺(城泉寺)湯前町公式ページより
http://www.town.yunomae.lg.jp/index.php?type=article&mode=articleView&articleid=1174&categoryid=24

鎌倉時代の初め、この地方を支配していた豪族が自らの極楽往生を願って建立したとされるお寺で県内最古の木造建築物。
大正4年の仏像国宝指定の際、誤記されたことから「城泉寺」と呼ばれるようになりました。
悠久の時間を重ねた古寺
城泉寺(浄心寺)は鎌倉時代の初め(貞応年間:1222-1224)、久米氏によって建立されたと伝えられており、県内最古の木造建築であり、鎌倉仏教文化を代表する古寺です。
境内には七重、九重、十三重の塔があり、七重、九重石塔が国指定重要文化財となっています。

素敵な写真があります。
http://yumeko2.otemo-yan.net/e361822.html

さて、問題はこの七重、九重、十三重の塔なのですが
特に十三重の塔には(熊本縣史蹟調査報告で調べました)
建立は寛喜2年
「大檀那沙弥浄心 並 藤原氏」「行事 藤原頼忠 源光吉 鍛冶永正」「大工兼佛師 幸西」「小工 榮幸」「院主 金剛佛子 念西」と刻銘があります。
「浄心往生極楽之為也」とあるので浄心は既に卒した人物なのであろうと記述されていました。
問題は「沙弥浄心」この方が誰なのか?で見解が分かれているようです。
熊本縣史蹟調査報告は大正時代の報告書なのですが、こちらでは藤原頼忠(相良頼景四男)が「行事」とあるので、★おそらく「浄心」は異母兄弟の「宗頼」の法名の如く思わる★ と書かれていました。

所が、近頃の研究では「浄心」は相良氏ではなく、「久米氏」だという見解に変わっているようです。

私は素人なので全く解らないのですが・・ただ、私が気になっているのは・・

こちら「源光吉 鍛冶永正」「金剛佛子 念西」この方々です( ..)φメモメモ
「源光吉」を調べたのですがまだ、情報は出ていません。

球磨の久米氏の菩提寺に「源姓」と言う事に興味があります。

金剛佛子 念西 については、見つけたのですが・・
何故か、石山寺 の記述にありました

石山寺の研究. 校倉聖教.古文書篇 - 110 ページ より
久安四年九月 _ 日始之生年三十九 2 3 ^奧霅 ˇ 久安四年
九月一日以釋林寺於動修寺書寫比交了艙 ... 求聞持次第莫畫安貞二年八月十八日於來迎院霅了最頂苡上本奧畫臺了建曆三年歟酎壬九月廿八日酉時]右筆金剛佛子念西
★建暦3年と言う事は1213年と言う事ですね。

石山寺 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%AF%BA
石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁。当寺は京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三所観音霊場第13番札所となっている。また当寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。
省略・・・
石山寺の中興の祖と言われるのが、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐(890−953)である。内供とは内供奉十禅師(ないくぶじゅうぜんじ)の略称で、天皇の傍にいて、常に玉体を加持する僧の称号で、高僧でありながら、諸職を固辞していた淳祐がこの内供を称され、「石山内供」「普賢院内供」とも呼ばれている。その理由は淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから、学業に精励し、膨大な著述を残している。彼の自筆本は今も石山寺に多数残存し、「匂いの聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれ、一括して国宝に指定されている。このころ、石山詣が宮廷の官女の間で盛んとなり、「蜻蛉日記」や「更級日記」にも描写されている。

★石山寺の中興の祖と言われるのが、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐(890−953)である。・・とても勉強になりました。

石山寺 金剛佛子念西 沙弥浄心 源光吉 鍛冶永正
こちらの繋がりにとても興味が湧いてきました。

そして、湯前浄心寺(城泉寺)に建立されていた(今は八代に移動されたとの事です)十三重の塔
建立は寛喜2年。・・・・・寛喜か・・・

では(^・^)








[23]子孫よりさんからのコメント(2014年04月23日 10時48分36秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨日、浄心寺のコメントをさせて頂きました。久米氏がやはり気になる(p_-)と思いながら、眠りにつきまして・・
そして今朝、日本の苗字七千傑様の【藤原南家巨勢麿流】姓氏類別大観をじ〜っと見つめていた所、あれっ?と。
巨勢麿孫?の春継から下に線が下がって・・・久米氏?真宗?
あああああっ!これはもしや球磨の久米三郎こと藤原真宗では?!と。
(間違えていたらすいません)

平安末期から鎌倉前期にかけての「久米小太良」は以前ご紹介した「藤原真家と藤原家宗」であり、記述もすぐに見つかったのですが、どうしても、「久米三郎こと藤原真宗」は、その時代の記述では探す事が出来ずに、「何故だろう?」とずっと考えていました。
こちらの「藤原真宗」がもしも球磨の久米郷に関係した「藤原真宗」であれば、やはりかなり以前(800年代)から、久米郷を所領していたと言う事ですね。(憶測ですいません)

以前、藤原真宗を調べていた時に清和天皇の更衣「藤原真宗の娘」が貞頼親王の母となっていたのですが・・・
私が疑問だった全ての?「藤原真宗」が春継の子「真宗」であれば、球磨の久米郷を所領したのはあの場所が「天皇領」であったからでしょうか?

球磨の久米郷東方下分は、宮原(橘)の先祖「橘公業」が「西園寺公経」と替地をした場所ですから、もう一度、系図をしっかり見ておかなければ!と思いまして、《小鹿島氏》姓氏類別大観を拝見したのですが・・
公員(強いDNAを引き継いだ私です)の姉?でしょうか「播磨局」
この方は、もしや「藤原忠実」の妾の「播磨局」ではないのでしょうか?

そうであれば、宮原(橘)と祖母の実家久米郷の平川は、やはり偶然、近くに居住した訳ではないような気が確実にしてきました。

以前から、宮原(橘)の先祖に関して、男性ばかりではなく女性の情報も知りたいと思ってきました。
《小鹿島氏》系図に沢山の女性の名前があり、とてもうれしくなりました。

日本の苗字七千傑様、本当にありがとうございます。

これからは、私の「女性」の「先祖」が「どのような人生を過ごされたのか」も、是非、調べていきたいと思います。

では(^・^)






[24]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年04月23日 20時04分24秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>これはもしや球磨の久米三郎こと藤原真宗では?
 
藤原春継の三男真宗(通称:久米三郎)が豊富郷の地頭となる。
平安時代に市房神社を創建。相良氏が下向する以前の話。
[25]子孫よりさんからのコメント(2014年04月23日 20時59分03秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

市房神社を創建したのも、藤原真宗だったのですね。


と言う事は、平安時代初期と言う事ですね。

その頃、すでに球磨は中央政権と繋がりがあったと言う事は・・。
本当に驚きました。

藤原春継の情報をウィキで見たのですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%98%A5%E7%B6%99
父:藤原黒麻呂
母:縣犬養氏

縣犬養氏は橘を調べた時に確認したのですが、やっぱり意味が解っていなかったようです(@_@。
とりあえず、ウィキを見ました・・
県犬養氏(あがたいぬかいうじ/し)は、「県犬養」を氏とする氏族。

宮門、屯倉などの守衛に当たる犬養部を統率した伴造4氏族の一つ。大和朝廷の直轄領である屯倉の守衛・管理を職としたため朝廷直轄地を意味する県を犬養に冠したと考えられる。

★大和朝廷の直轄領である屯倉の守衛・管理を職としたため朝廷直轄地を意味する

何だか、以前よりも、意味が解って参りました(^・^)

ありがとうございました。






[26]子孫よりさんからのコメント(2014年04月24日 08時33分25秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨日、日本の苗字七千傑様からご教示頂いた、球磨の久米氏、久米三郎こと「藤原真宗」。ここからの流れを調べました。
孫「藤原安于」
藤原安于の妻は藤原道明の娘。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/nanke2.htm
巨勢麻呂孫系図「宗時」参照

藤原道明は良峯仲遠(仲連)こと藤原尹文の父です。藤原安于の妻とは兄妹と言う事です。

と言う事は、球磨の久米氏、藤原安于の子、藤原宗時は藤原尹文の甥になります。

繋がりました(^・^)

そして・・藤原尹文の昆孫(6代後)は藤原通憲(信西)。
藤原尹文は熱田大宮司家にも繋がっていきます。

続けて・・久米氏「藤原宗時」と橘との繋がりも解りました。
先ほどご説明したように藤原宗時の母方の祖父は「藤原道明」。
ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E6%98%8E
藤原 道明(ふじわら の みちあき、斉衡3年(856年)[1] - 延喜20年6月17日(920年7月5日))は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原南家、相模介・藤原保蔭の長男。官位は正三位・大納言。字は藤階。

父母 藤原保蔭、★橘良基女
兄弟 道明、道快、道微、★橘良殖室
妻  ★橘房上女、丹治比蔭光女、藤原常作女、他

★母:橘良基女 兄妹:橘良殖室 「橘良基・橘良殖」は共に橘 安吉雄(たちばな の あきお)の子です。
 
橘 安吉雄の父:橘 常主(当主)
「橘常主(当主)」と私、宮原(橘)の先祖「橘真材」は兄弟です。

まだまだあります(ー_ー)!!

藤原道明の父「藤原保蔭」の母は「橘氏」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E8%94%AD

すなわち「藤原道明」は、父方も母方も「橘」に繋がっています。そして繰り返すと・・
「藤原道明」の孫「藤原宗時」は球磨郡久米郷を所領した久米氏。
その後、鎌倉時代に入り、宮原(橘)は球磨郡久米郷東方下分を所領した・・

と言う事になりました(^・^)

うん??はっ?(゜.゜)
と言う事は・・ありゃぁ・・・(゜.゜)
藤原道明の子、今まで、平河の調査で何度も登場した「藤原尹文(良峯仲連)」。この方も、もちろん「橘」と繋がっていると言う事ですね・・・

ふと、以前、日本の苗字七千傑様から頂いたご教示を思い出しました。

「良峯 → 橘に改姓 → 良峯・・・」
「熱田大宮司家」にも繋がっている・・

球磨の久米氏は・・
関係した「橘」は・・・ そして、久米郷を所領した宮原(橘)は・・・
そして「平河」は・・・

では(゜.゜)









[27]子孫よりさんからのコメント(2014年04月24日 08時49分58秒 ) パスワード

追記

うっかり忘れていました・・

宮原(橘薩摩)は何故か「良峯安世裔」となっていた事を・・・
[28]子孫よりさんからのコメント(2014年04月24日 10時48分36秒 ) パスワード

また登場いたしました(^・^)
先日、一度調べたところですが、再度調査です。(先日よりも、もっと理解出来て来ました(^・^))

藤原道明の父「藤原保蔭」から、今度は藤原道明の祖父

藤原保蔭の父は 藤原高仁 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AB%98%E4%BB%81

藤原 高仁(ふじわら の たかひと/ たかよし、生年不詳 - 承和2年6月5日(835年7月4日))は、平安時代初期の貴族。藤原南家、中納言・藤原貞嗣の子。官位は従五位下・宮内卿。

父:藤原貞嗣
母:栄山諸依の娘  ★★
妻:橘氏 男子:藤原保蔭

生母不明 男子:藤原保身
男子:藤原保行

★栄山諸依・・・あれっ?!「依」です

すごく気になる方なので調べました。
日本の苗字七千傑様の諸藩 姓氏類別大観 唐人の末裔 に「栄山氏」が見えました。
そして、同じく唐人の末裔に「江田氏」が。

先日コメントした、薩摩国図田帳写に「肥後国住人江田太郎実秀」という方の名がありました。(熊本県玉名市の方だったようです)

藤原保蔭から「依」の付く名を持つ「栄山諸依」。この方に繋がりました。

そして・・・
藤原保蔭の父 藤原 貞嗣 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B2%9E%E5%97%A3
藤原 貞嗣(ふじわら の さだつぐ)は、平安時代前期の公卿。名は貞継とも記される。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の十男。

父:藤原巨勢麻呂、母:藤原永手の娘 ★★ハイ!そうでした!
妻:紀沙弥の娘、栄山諸依の娘、多治比公成の娘
子:吉備、直世、三藤、常守、安野、岑人、高岑、高仁

★先日の調査よりも今日は、もっともっと確実に理解できました(p_-)

藤原貞嗣の母は藤原永手の娘。
藤原永手は藤原家依と藤原雄依の父。 (ここまでで、「依」と名の付く方が沢山いらっしゃいました。)

と言う事で結果
藤原永手 → 藤原貞嗣(孫・父:藤原巨勢麻呂)→ 藤原高仁 → 藤原保蔭  → 藤原道明(子:藤原尹文) → 藤原安于(妻:藤原道明の娘)→ 藤原宗時 「球磨郡久米郷を所領した久米氏」

ついに藤原永手から球磨郡久米郷(豊富郷)まで・・・・・
繋がりました〜〜〜〜!!\(^o^)/

そして・・「依」の付く名の方が沢山いらっしゃいました\(゜ロ\)(/ロ゜)/

宮原(橘)にも繋がりました\(^o^)/ \(゜ロ\)(/ロ゜)/

うん?うううん? あれっ? 「平河」は?

(@_@。 宮原(橘)の関係まで解ったのに・・・・
(@_@。 まだ、「平河」との関係が・・解っていません(*_*)

えええええええええ〜い!!(>_<) 
頑張ります\(゜ロ\)(/ロ゜)/


[29]子孫よりさんからのコメント(2014年04月26日 08時22分28秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日は一日中、(故実叢書 ; 第3輯) / 藤原公定 撰を印刷して、ファイリングしながら、先祖に関係する人物の確認をしていました。
(目がマタマタ真っ赤です(*_*))

調査は進んでいるにも関わらず、中々「平河」に結び付く情報が見つからず、少し焦りも出て来ました。
ただ、夜、寝る前にふと考えたのですが、先日、日本の苗字七千傑様からご教示頂いた、球磨の久米氏、久米三郎こと「藤原真宗」。
こちらを調査して、気が付いたのですが、球磨に関係した藤原氏の様々な記述は、後世に作成されたものですから、球磨においての時代毎の「藤原氏」ではなく、全ての時代をごちゃごちゃ?に混ぜて記述されているのでは?と思ったのです。
藤原と名の付く(相良氏以外)人物名を一つの文書に全て混ぜて記録してしまったとか?(私のいつもの素人考えですいませんが(゜.゜))
その記録が現代まで残っていて・・・推測ですけど。

そこで、私は、自分なりにグループに分けてみました。
まずグループA(AKBではありませんよ(ー_ー)!!)
平安初期〜平安中期
藤原友永(人吉次良★次郎) 藤原真宗(久米三良★三郎) 藤原高家(須恵小太良★小太郎) 「藤原季隆 藤原茂綱」(この方々はちょっと微妙です)
藤原茂綱もしくは藤原高家に対して「尼西恵小太郎」という記述もありました。

グループB
平安中期以降〜鎌倉初期
藤原真家(久米三良★三郎) 藤原家宗(同) 藤原家基(須恵小太良★小太郎)

そして、「藤原」の記述はありませんが「不知実名」である「伊勢弥良」と「良峯師高子息字平紀平次」が建久8年の球磨の図田帳に見えます。
その他「尼西妙」

★ここでも一つ、「尼西恵小太郎」★グループAと「尼西妙」★グループBは全く別人だと思います。
時代も事なると考えます。
すでに、調査していますが「尼西妙」は北条重時の妻、苅田義季の娘・荏柄尼西妙(えがらのあまさいみょう)でした。

と言う事で、間違っている可能性はもちろん大きいですが、持論をもとに調査してみようかな〜と思っています。(こうすると、「え〜っ??何で?平安末期に藤原真宗と言う人はいない??何で?っと前のように悩む必要が無くなりそうですから(^・^))

がんばります(^O^)/



[30]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年04月26日 10時52分10秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>平安末期に藤原真宗と言う人はいない??
 
久米郷について理解が足りませんね。
久米郷は久米氏の所領だったが、元寇の勲功で橘薩摩氏が久米郷の半郷領主となり久米氏は衰退する。
後に橘薩摩氏の後裔も相良氏族多良木氏により共に久米郷を併呑されて衰亡。
両氏とも相良氏には恨みがあるでしょうな。
藤原真宗は、室町期に編纂された尊卑分脈にきちんと掲載されている。
尊卑分脈に誤謬がないわけでは無いが、まず最初に確認する系図集でしょう。
[31]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年04月26日 11時31分08秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年04月26日 15時12分37秒
[32]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年04月26日 15時13分20秒 ) パスワード

お久しぶりです。

藤原忠実の妾の播磨と播磨局では年代が半世紀ほど違うので別人でしょう。
橘薩摩氏が良峯安世流と書かれていたのは以前も申した通り、誤記の可能性が高く、根拠に据えるには脆弱なものだと思います。

先祖にも、様々な性格の人がいたのでしょうね。
その先祖がいたからこそ、今の自分がいるという意味で尊崇の念は抱きます。

ただ、我が系統の話ですが、私の曽祖父は性格が悪い面があり
祖母に色々と嫌がらせをしていたなどのエピソードや、それを反面教師にしてきたなどの話も聞いてます。

そのように、先祖だからと絶対的存在として捉え、全てを尊敬するというのは
また別次元の問題だと、そういう話を聞いて悟りました。

わが身に置き換えても、人と言うのは多面的なもので
ある人からしたら善人と思われていても、また別の人からは悪人と思われているものです。
自分が他者に抱く評価、他者が自分に抱く評価、どちらも十人十色です。



相良氏に対する感情は、恐らく江戸時代後期頃の認識でしょうが
「相良の殿さん」と先祖は言っていたと伝え聞いています。
その言葉からは、尊敬や親しみが伺い知れます。ただ、時代をもっと遡って南北朝時代などになって、同じような感情を抱いていたかと考えると疑問ですね。

これは私の感情ですが、その当時の先祖の立場になれば
相良ごときに…という思いもあったのではないでしょうか。

宮原公忠の代に、家臣団として組織され
球磨郡の在地性を失うように八代に移された時も、果たして相良氏を良く思っていたのだろうかと思いをはせてしまいます。


追記

京都の大山崎町に酒解神社があり
出自は分からないが橘氏の先祖神であるという言い伝えがあります。

その酒解神社の主祭神は大山祇神。
大山祇神といえば伊予の越智氏と縁が深いですね。

その越智氏から伊予橘氏が派生してますから
この出自不明の橘氏というのは伊予橘氏の事ではないかと思いました。

ただ、易きに流れて、京都という立地もありますから
中央橘氏と関係があると見なすのが一般的な解釈だと思います。
ならば「大山祇神が中央橘氏の先祖神だという奇妙な持論を私に説明して下さい」と畳み掛けたくなりますが…。



節分の折に、とあるお寺と縁があり、行事で鬼の役を務めました。
豆撒きなど一通り行事が終わると鬼の役をしていた私は、地元の園児たちに囲まれ質問攻めを受けました。

数百年の歴史があるお面をして、とても怖い形相だったのですが
園児からは「この鬼さんは優しい」と意外な言葉が出てきました。

それに対して「人間さんは嘘をつくけど、鬼さんは嘘をつかないよ。だから、みんなも嘘をつかず正直になろうね」と言いました。
それからは、もう握手攻めです…。他の神々に扮した人を差し置いて子供たちのヒーローになってしまいました。

園児たちには分からなかったでしょうが、歴史の中に葬られた人達や邪険にされてきた人達も
どうか忘れずに、善悪で簡単に捉えず、多面的に物事を捉える大人になってほしい。そうすれば鬼のように優しくなれるとの想いを子供達に向けて送っていました。

園児をみている時、お面の裏では常に笑顔になっていました。
子供は物事の機微に敏感ですね。怖い鬼の顔にも優しさを見出せるのですから。どうか、その気持ちを大切にしてほしいと願う出来事でした。
[33]子孫よりさんからのコメント(2014年04月26日 15時57分58秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

日本の苗字七千傑様、公忠公の末裔様、ご教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様、わたくし勉強不足でした。反省しています。
ただ、一つ、何故、「平安末期」に拘ったかと言うと、相良家文書として保管されていた「建久8年(1197年)の肥後同球磨郡図田帳」に
政所 藤原高家 字 須恵小太良
地頭 藤原真宗 字 久米三良 と記述されています。
以前、私も「平川家について続5」でコメントしたように「藤原真宗」という人物を見つけてはいたのですが、この「肥後同球磨郡図田帳」がひっかかっていたのです。
ですが、ご教示頂いて、理解した後、「藤原高家」を今調べているのですが、この人物もおそらく年代で言うとかなり以前の人物のようで、この「肥後同球磨郡図田帳」とは時間軸が合いません。
こうなると、朝、コメントしたように相良家文書「肥後同球磨郡図田帳」事態に何故、そのような年代の合わない人物名が載っていたのか?。何か意図があったのでしょうか?
さらに、1193年(建久4年)には相良頼景は多良木に下向していますが、この「肥後同球磨郡図田帳」には一切名がありません。
その代わりに、多良木村百丁没官領地頭として「伊勢弥次良 不知実名」の名があります。

ご教示頂いたように、きちんとした調査を続けていけば、真実は必ず見つかると今は感じています。

公忠公の末裔様、お久しぶりです。
先祖の気持ち・・・

今年の正月に私が相良氏の事を非難するような発言をした時に、「相良さんは良くして下さった」と言ったのは平川繋がりの親戚衆ですね。
でも、平河(平川)は本家筋は一度相良氏に殲滅されているのですから・・
宮原の先祖の感情については・・今度、星原の伯父に聞いてみます。

ちなみに、子供の感情は素直ですよね。
私が、何も解らない子供の頃に聞いた「平河義高公」の話。この時ははっきり言って相良氏に対しては、良い感情は持っていませんでした。
これが、「宮原」「平川」の遡った先祖の感情と同じものなのかも知れませんね。
その後の主従関係にて、培われた主君に対しての尊敬の念が、今、球磨にいる人達の感情の根底にあるのだと思います。

ただし下相良に対しての、犬童氏の謀反の際には宮原は加担していますし・・
この件に関しては父は「当たり前の事をしたまで」と言っていました。
こうして、今、改めて考えると、父の感情も、本音は別にあるみたいです。


所で、節分の鬼さんの大役を務められたのですね。(優しい鬼さんを見たかったな〜)
「歴史の中に葬られた人達や邪険にされてきた人達も
どうか忘れずに、善悪で簡単に捉えず、多面的に物事を捉える大人になってほしい。」
子供だけではなく、私の心にもズズ〜ンと響きました(^・^)

以前、日本の苗字七千傑様より頂いたご教示をこの頃何度も何度も見ています。
●「常陸国鹿島郡當麻邑発祥の当麻氏(当間氏)があり、常陸国守に当麻太夫、
相模国高座郡にも当麻村あり、当麻氏(当間氏)は関東地方に多く現在、東京都東村山市に集住。
また奈良県大和高田市にも多い。(こちらは大和国葛下郡当麻郷発祥)
肥後国益城郡に当麻郷。」
麻の字を当てていることから、麻(曽)の部族であろう。
朝熊、朝間、浅間、浅磨もアサマで同じ、浅間神社(木花咲耶姫)が有名だが伊勢に朝熊山がある。(神社の方はアサクマ)
伊勢神宮が頒布する神札を大麻(神宮大麻)と呼ばれる。
★ 麻の字を当てていることから、麻(曽)の部族であろう。

●「九州の豊前・豊後と長門からなる国家と中国の周防から石見・出雲に至る国家と、安芸の広島から備後に及ぶ国家や熊曽国などが、共に毛野<ケヌ>(毛人国)と曽野<ソヌ>(麻の部族で和人)との連合国家であることを示しケヌソヌノヤマという語になり後に仏教化されてクルソン山に改称。」
★麻の部族で和人

●「熊本県は九州アイヌの拠点。
弥生時代に入ってから倭人と韓人の混血族や純粋の韓人系(馬韓/辰韓/弁韓)が民族大移動で新国家の本拠地を大和に樹立。
熊曽国とは、曽の地(鹿児島県と沖縄県)を領土とする南方倭人(麻の人)の国であるとともに九州アイヌ(熊をトーテムとするアイヌ系倭人)との複合民族国家。」
★南方倭人(麻の人)

その他に
●「観蓮は佐原(三浦)六郎左衛門尉時連の法名。
岩代国耶麻郡半郡の領主で新宮城主。」 ★耶麻郡

サイトで書かれていた記述です。
http://www.linkclub.or.jp/~amana/5/yuhbagawa.html
木綿の葉は流れ寄りたり
 夕葉川なる美しい別名は、昔、球磨川下流に木綿(ゆう)の葉がたくさん流れついたので誰言うとなくつけられたようである。木綿葉川から夕葉川へと転化した。当時ワタはまだなく、木綿とは「もめん」ではなく麻のことで、上流部の球磨地方は麻栽培と縁が深く、熊襲の中でも麻栽培が上手な麻剥(あさはぎ)と名付けられた人たちがいた。その人たちが川にさらした麻の一部が流れ出したのであろう。
★熊襲の中でも麻栽培が上手な麻剥(あさはぎ)と名付けられた人たちがいた。
万葉秀歌に
肥人(くまひと)の額髪(ぬかがみ)結へる染木綿(しめゆう)のしめにしこころ我忘れめや
(歌意:熊襲たちが色染めした麻布で額をかたく結ぶように、あなたへのかたく深い恋心は忘れることはできません)

球磨郡は今では「球磨」ですが、古では「求麻」や「臼麻野」と呼ばれていました。「麻」がこの地域の象徴であったかのようです。
久米部の人が移動をしたように、球磨国の麻剥の人々は何処に移動し麻の栽培を伝承していったのでしょうか。

阿波の忌部氏について詳しく記述されたサイトを見つけました。
http://jasmine-bodyworks.jimdo.com/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E5%BF%8C%E9%83%A8%E3%81%AE%E8%B6%B3%E8%B7%A1/

黒潮は一本の麻糸で結ばれている 
神と日本人を麻で繋ぐ氏族、阿波忌部
★忌部氏って何?
「忌部氏とは、古代大和朝廷の祭祀や祭具作製・宮殿造営を担った氏族です。その中でも麻と関わりの深い一族が、阿波忌部氏です。彼らは、全国に麻を植えて、大和文化を伝播していきました。」
★なぜ、忌部氏は麻と関わりが深いの?
「本来、祭祀や祭具には麻は無くてはならない植物です。例えば、お払いの際に神主が振る幣(ぬさ)や注連縄、鈴縄や装束も、本来は大麻草を使用します。また、麻は繊維や食料や燃料とても大変有用な植物です。」
★阿波忌部氏と天皇家の関係は?
「阿波忌部氏は、天皇即位の礼である大嘗祭で使用する麻布を古くから献上してきました。そのしきたりは、平成の大嘗祭でも行なわれています。阿波忌部は、神と天皇家と日本人を麻で繋ぐ氏族だったのです。」

★私が非常に興味を引いたのはこちらの記述です
★忌部氏ゆかりの共通の地名って何?
「忌部氏は四国の徳島・阿波を拠点に、黒潮を利用して海洋ルートで紀伊半島、伊豆半島、三浦半島、房総半島などに上陸し、広く文化圏を広げていきました。そのため、「勝浦」「白浜」などの多くの共通の地名が残されています。また、千葉は安房とも呼ばれ、四国の阿波と共通しています。」
★三浦半島と忌部氏はなぜ縁があるの?
「忌部氏は房総半島から関東へ進出する前に、三浦半島を拠点としました。三浦半島には、港となる入り江が多く、造船や補修に必要な杉や湧き水が豊富だったからです。
三浦半島は、古代から西と東の文化を結ぶ、重要な地域だったのです。また、忌部氏が三浦から房総へと渡った痕跡として、双方に縁の深い神社も残されています」
ページをスクロールしていくと中段あたりから
「忌部氏と黒潮と三浦半島」という内容が記述されていました。
★三浦半島は、忌部が千葉へ渡る前に移り住んだ重要拠点です。 とあります。
球磨(求麻)阿波 三浦 千葉  麻で繋がっているような気がします。

三浦氏は三浦一族の佐原時連(耶麻郡)
そして、この頃平川の調査で、実は「千葉氏」の記述にあたる事が多くなっていました。(鹿児島の件とは別です)

そして阿波の忌部氏「麻植氏」。

遠い古の記憶が、平安時代・鎌倉時代の球磨に繋がっているのではと推測するようになっています。(素人の持論ですが・・でも、「麻」についてのコメントを行うと何故か心が穏やかになります。目をそむけようとすると、何故か心が苦しくなります。マタマタって言わないで下さいね)

大変、長くなりましたが、私も「多面的に物事を捉える大人」になれるように今からでも努力します(^・^)

では(^・^)
[34]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年04月26日 23時09分30秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「肥後同球磨郡図田帳」には一切名がありません。
 
鎌倉幕府は建久3年(1192)成立しましたが、現地を掌握して実効支配が行われなければ図田帳への掲載も無理というものです。
従って幕府も遠国は実態把握に手間取り、鎌倉時代は所領紛争調停に明け暮れていたのです。
 
例えば島津忠久は建久8年(1197)に薩摩・大隅・日向守護補任されますが下向などせずに鎌倉在住です。
下向したのは文永2年(1265)の三代久経からで70年近く経過しています。
地頭も同様で下向はしたものの前任者が居座り、実効支配が出来たのは室町時代(1338〜)以降なのです。
最近の教科書は幕府成立年を修正しましたが、枝葉末節な論議で実質は70年程修正すべきものです。
教科書的な考えに拘泥すると現実を見失います。
[35]子孫よりさんからのコメント(2014年04月27日 00時35分11秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

地頭の実効支配が出来たのは室町時代以降。
実質は70年程の修正が必要。

解りました。
伺って、とてもすっきりしました。

幕府は所領紛争調停に明け暮れていたとのお話ですが、その中の一つが永吉庄・西村の所領に関する訴訟であったと言う事ですね。

様々な事情と時代背景を考慮しなければいけないのですね。

どうしても、教科書的に考えてしまいます。
これは、きっと、学生の頃、歴史の勉強を、年代の記憶のみで、テストの対象としての歴史認識しか持っていなかったからだと思います。

先祖の調査を始めなければ、多分、ず〜っと私は、いにしえの出来事に興味を持とうとは思わなかったのでしょう。
とても、もったいない時を過ごしてしまったのだな〜と今頃感じています。

今、やっと自分の中で、点が線へと繋がりはじめて来たばかりですので、多分、皆様からすると、「こんな事も知らないの?」という質問もするかと思います。御迷惑でしょうがどうぞ、ご教示をお願い致します。

[36]子孫よりさんからのコメント(2014年04月27日 09時38分51秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨日、コメントをしましたが、政所 藤原高家 字 須恵小太良について調べました。

まず、こちらの記述をご覧ください。

googleブック検索 挾間町誌 - 117 ページ より
ぐんそうひごごんのかみ南次郎、又は四穂田次郎と称す太宰軍曹、母は肥後権守藤原高家女、天仁二年(一一〇九)八月卒す、六十二歳」とし、子息の二代惟繙を「阿南小次郎、太宰軍曹、長治二年(一一〇五)八月、肥前国西浦の一揆を討って功有り、時に
★四穂田次郎の母は肥後権守藤原高家女
★「阿南」

続けて googleブック検索 Seishi to kamon - 第 41〜51 号 - 40 ページ より
且り戦い、敵首五百を刎ねて肥後小代の邑より上喜十三年秋、感状三通を賜り、次いで延さ十六年五月七日より肥後の娘とも云う。惟季も、父の忠勤を継ぎ、筑紫の争乱を铽定し、延冒したとある。惟季の母は、肥後権守藤原高家の娘とも、在原被春神とある。
★惟季の母は、肥後権守藤原高家の娘

上記の2件の記述より「四穂田次郎」又は「惟季」の父は肥後権守藤原高家の娘を妻にした。と言う事がわかります。

肥後権守藤原高家の具体的な情報が少ないので、上記の情報をもとに調査をする事にしました。

★四穂田次郎(惟季)とは?
賀来氏の祖先というサイトです
http://kaku-net.jp/kakuh/KIGEN2.HTM

賀来氏は豊後大神(ブンゴオオガ)氏からでている。豊後大神氏の祖は、学者のあいだでも数説があるが、平安時代のはじめの仁和二年(886年)、豊後介となって下向した大神朝臣(オオミワノアソミ)良臣(ヨシオミ)の孫の大神惟基(オオガコレモト)であるとする説が有力である。
大神良臣は仁和五年(889年)に任期が終えて職を去ろうとしたときに、人々がその徳を慕って留任を請い再任された。さらに寛平五年(893年)に再任の期が満ちて帰郷しようとしたところ、ふたたび惜慕されたため、太宰府はその子の庶幾(コレチカ)をとどめて大野郡領とした。この庶幾の子が惟基である。
惟基には、惟房(高知尾太郎惟政・三田井政次)、惟季(阿南次郎・四穂田次郎)、惟則(野尻三郎)、惟顕(直入四郎)、惟清(城原五郎)、惟通(朽網六郎)、惟平(植田七郎・季定)、栄基(大野八郎・基平)、惟盛(臼杵九郎・三重九郎大夫)の九人の男子(うち四人は庶子であるか、早世したためか五人とする系図もある)がおり、末子の惟盛が賀来氏と佐伯氏につながる。
★惟季(阿南次郎・四穂田次郎) 一致しました。この方の母が肥後権守藤原高家となるわけですね。
★惟季の父は惟基。すなわち大神惟基です。
★平河文書「関東下知状」の中に「賀来又二郎入道念阿」の名があります。
西村が須恵尼の狼藉にて所領を没収されたのち、「実春朝臣の知行に属していたが、その後、弘安六年には賀来又二郎入道念阿が地頭に補任されたようである。」との記述もありました。

この件が、訴訟及び越訴に繋がっていったのです。

大神惟基について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E6%83%9F%E5%9F%BA
大神 惟基(おおが これもと、生没年未詳)は、平安時代中期または後期の豊後国(現在の大分県)の武将。豊後大神氏の祖と伝えられる人物である。

「平家物語」や「源平盛衰記」等にも記されている、祖母山大明神の神体である蛇との蛇神婚伝説で殊に有名である。

豊後国の山里に住んでいた娘(「平家物語」では名が記されていないが、「源平盛衰記」では塩田大太夫の娘、「九州治乱記」では藤原仲平の娘、「大神氏系図」では藤原伊周の娘とする。)のもとに、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。母に唆されて娘が男の狩衣に糸を通した針を刺し、その後を付けると、男は祖母山の麓の岩穴へと入っていく。娘が姿を見せるように請うと、男はついに大蛇の本身を現す。そして、狩衣に刺したと思った針は、大蛇の喉元に刺さっており、大蛇は、生まれてくる子供は男児で、武芸で九州二島に並ぶ者はないであろうと告げ、息絶える。

やがて生まれた子は、大蛇が言うとおりの男児で、祖父から名を取って大太と名付けられた。成長が早く7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太」と呼ばれたという。これが後の大神惟基である。

★以前、白石様からご教示頂いた「大蛇伝説」の方でした。
★母は、「源平盛衰記」では塩田大太夫の娘、「九州治乱記」では藤原仲平の娘、「大神氏系図」では藤原伊周の娘とする。

ウィキより記述を続けます
神婚伝説のためか、神社の創建や再興との関わりが伝えられている。熊本県人吉市にある青井阿蘇神社は、大同元年(806年)、大神惟基が阿蘇神社の祭神12柱のうち3柱を分祀して創建したと伝えられる。また、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある天岩戸神社は、社伝によると、弘仁3年(812年)に大神惟基によって再興されたとされる。
★人吉青井阿蘇神社大同元年(806年)、創建。
人吉に繋がりました。
肥後権守藤原高家の娘を妻にして「大神惟季」(阿南次郎)が生まれたと言う事ですね。

日本の苗字七千傑様の《豊後大神氏》《阿南氏/稙田氏》《大野氏/臼杵氏》と姓氏類別大観を拝見しました。

朽網氏とは北九州市小倉南区の「朽網」と同じ字です。

★《緒方氏》・・・平川の祖母の兄(みなみのじいちゃん)の妻(通称みなみのばあちゃんです)は緒方家(尾方だったかな?)から平川に嫁いで来られています。
ちなみに叔母の生家は代々「人吉青井阿蘇神社」にお仕えして来られたそうです。平川の叔母(みなみのばあちゃん)の姪が、平川家長女(子供の頃の正月の話で登場しました。養女に行かれています)の息子嫁です。

何だか、完全に現代においても繋がっているような気がします。

《戸次氏》・・津守氏。
以前、「津守津公」という方の記述がありました。
後ほど、調べたいと思います。
★先祖とは関係ないのですが・・「成松氏」何かのご縁だったのでしょう。娘と息子の幼稚園の園長先生(経営者)のお名前です。

そして、もう一つ。
「永吉」は建久8年(1197年)の肥後同球磨郡図田帳で初めて登場した庄名でそれまでは「是永」と呼ばれていました。
以前「是永」を調べていた時に出て来た情報を再度確認して、驚きました。

「紀氏のルーツ」より
http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub11-444.html
※ 大神郷     
@永松村、小野村、上田村、延松村、米光村、安垣村、上野村等あり
A1392-1457 大友旗下の武士
・河野氏・伊予の国の河野氏より出た子孫と伝えられる
 ・大神郷藤原に住み着いた
 ・1452頃 刑部入道大覚が「井手八幡」の大宮司を勤めた
 ・1592頃 河野伝兵衛入道覚為の名あり

・阿南氏・大神惟基の次男、阿南次郎惟季の子孫
 ・惟季が大神の郷司になり、子孫代々田所職を務めた
 ・大神郷に所領する諸氏
   ・永松氏 辻間村「是永」・「末正」坪付
   ・工藤氏、木付氏、帯刀氏、天徳寺氏
   ・大津留氏、堂園氏、白仁氏、上尾氏、麻生氏
   ・立石氏、寺澤氏
★「是永氏」があります。この時は大神氏を調べてはいませんでした。
多分、その時調べても、意味は全く解っていなかったと思います。

「藤原高家」から「大神氏」に繋がった結果をお伝えしました。
でも、肝心の「藤原高家」この方自身の調査が未だです。

がんばります(^O^)/









[37]子孫よりさんからのコメント(2014年04月27日 17時55分43秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

先ほどコメントした内容なのですが、
ウィキにも大神惟基について「出生伝説は有名であるが、惟基自身の生涯については詳細は分かっていない。」
と記述されているので、これこそ、教科書的な発想では無理(ー_ー)!!ダナと思いまして、多面的に調査を進めてみました。(^・^)

まず、子息 惟季(阿南次郎・四穂田次郎)の母の件ですが
googleブック検索 Seishi to kamon - 第 41〜51 号 - 40 ページ より
惟季の母は、肥後権守藤原高家の娘とも、在原被春神とある。

★在原被春について 
Kokubungaku kaishaku to kanshō - 第 43 巻、第 5〜8 号 - 50  より
しかし、次女の染殿の内侍は、業平との間に、一子、被春をもうけている。「伊勢物語」「 ... そして、この人間関係を、に欠落はしているが、まず、この説は信じて尊卑分脈には、染殿の内侍の名は、良相の条大臣良相女,在原被春母」と記されている。が次男也」と

伊勢物語では染殿の内侍と在原業平との子が在原被春となっています。

尊卑分脈を見たのですが、在原業平の子に「在原被春」は有りませんでした。
しかし、「滋春」という方はありました。
在原 業平(ありわら の なりひら、825年(天長2年) - 880年7月9日(元慶4年5月28日))は、平安時代初期の貴族・歌人。平城天皇の孫。(ウィキより)
★在原業平の娘は「藤原保則(やすのり」の妻でした。

続けます。大神惟基について ウィキの記述で
母は、「源平盛衰記」では塩田大太夫の娘、「九州治乱記」では藤原仲平の娘、「大神氏系図」では藤原伊周の娘とする

「九州治乱記」母藤原仲平の娘
藤原仲平 貞観17年(875年) - 天慶8年9月1日(945年10月9日))は、平安時代前期の貴族。藤原北家、摂政関白・藤原基経の三男。
兄弟に藤原忠平・兼平 他 (ウィキより)

「大神氏系図」では藤原伊周の娘
藤原 伊周は平安時代中期の公卿。摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。
兄弟に 藤原隆家 他 (ウィキより)

ここまで、調べた方々に共通なのは、「過去の先祖の調査で登場した人物」であると言う事です。

では(^・^)






[38]白石さんからのコメント(2014年04月27日 21時27分12秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 精力的に調査されていますね。

>★先祖とは関係ないのですが・・「成松氏」何かのご縁だったのでしょう。娘と息子の幼稚園の園長先生(経営者)のお名前です。

びっくりしました。
わたくしの腹違いの姉から聞いたのですが
姉の母の実家筋は(姉の母と父は下益城郡に戸籍がついているのですが)その母の実家筋が 「成松です」。富合だかあたりの成松のようですが。よくわかりません。
 
成松ー平江ー父と結婚ー白石

殿様の侍従か何かしていたんだよ。そんなのは やっぱり いいとこでなければなれないんでしょ と 言っていました。

昔からのつながりは現在でもいきて・・・
尾方(町長をしていた)の娘と姉と他二人は大の仲良しで、四人グループを作っていて、尾方の娘が私の長兄と結婚して、

山口の男子と姉はいとこどおしで結婚して、・・とどんどんつながっていきます。

姉と電話で話をしていたら
その山口(義兄)の兄弟姉妹が なつかしんでわたくしはげんきにしているか?と言っていたよ と 姉が言っていました。

若かりし頃 一度だけあったきりの人たちですが、覚えてくれていたのですね。
わたくしも もちろん覚えていて 離れているとはいえ どうして 親交をむすばなかったのか? これも おじいさん おばあさんからの 縁により いまごろになっても こうして 覚えていてくれて心にかけてくれる人がいるということは まことにありがたいことだと思います。

先ごろ 同窓会をしました。子孫様 大阪で集まりましたよ。
こちらも 合えば ちゃん ちゃん と 子供のころに帰って はしゃぎまくりました。
同級生のお母さんが 今年卒寿を迎えるということで こちらもめでたい限りです。永江だか 西という家から 嫁に来た人です。

その方が前に手紙をくれたとき
自分というものを覚えてくれている人がいることは とてもうれしい と 書いていました。本当にそのとおりです。

子孫様とこうしてお知り合いになれ
このことは わたくしの記憶に深く刻まれ この世でのご縁を大事にしたいと思います。








[39]子孫よりさんからのコメント(2014年04月27日 22時42分57秒 ) パスワード

白石様、コメントありがとうございます。

非科学的だと言う方もいらっしゃるとは思うのですが、私はこの頃本当に痛感しています。
縁はかならずあると思うのです。

磁石のように引きつけ合うのではないのかな?と。

昔の方はそれを身を持って理解されていたのでしょう。

私自身も、このような調査をしなければ、それが「縁」であったとは理解せずに、過ごしているのだと思います。

白石様ともお知り合いになれました(^・^)
どうか、今後もよろしくお願い致します(^・^)

[40]子孫よりさんからのコメント(2014年04月27日 23時07分38秒 ) パスワード

追記
白石様、人吉青井阿蘇神社そして、市房神社、しっかりと、平安時代の球磨の歴史に関係していました(^・^)

白石様より、其々の神社について、お話を伺っていたので、とても嬉しかったです。

そして、「大蛇伝説」。
ついに繋がりました(^・^) こちらのお話も以前、ご教示頂いていました。
今まで、様々な事をご教示頂いていたので、この頃「あっ、この話は以前伺った事があった!」と言う事が度々あります。
一度勉強させて頂いているので「そうか、なるほどそういう事だったんだ〜。」と。(その時にすぐにピンとこなくてすいません(*_*))
本当にありがとうございます。

これからも、どうぞ、よろしくお願い致します(^・^)





[41]子孫よりさんからのコメント(2014年04月29日 09時00分01秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

球磨の「平河」と関係があるのかは不明ですが、
続群書類従 6上(系図部)巻第百五十大友系図 の中に
「佐原(三浦)」と「平川」という家を結ぶ人物を見つけました。

戸次重秀(べっき しげひで)です。

重秀 戸次次郎左衛門尉
法名 佛阿 
母  三浦肥前守平家連女
弘安五壬午年五月廿三日卒去 戸次之祖也

庶流
清田・松岡・冬田・利根・竹中・大神・藤北・津守・臼杵
利光・怒留湯・内梨・鵜木・平川・幸弘・小川・成松・井上 等

とあります。庶流に「平川」です。
まず、母:三浦肥前守平家連女
三浦肥前守平家連とは コトバンクより

佐原家連 さはらいえつら
三浦義連の子。承久(じょうきゅう)の乱で朝廷方の紀伊(きい)南部(みなべ)荘(和歌山県)の熊野法印快実が打ち首にされたあと,同荘の地頭職(しき)をあたえられる。貞応(じょうおう)2年(1223)紀伊守護。通称は三郎左衛門尉。
★三浦(佐原)義連の子。大友系図には肥前守とあります。

では戸次重秀とは 豊後大友理想郷伝説より
http://oita-oks.com/otomo/%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%BA%8B%E5%85%B8/%E6%88%B8%E6%AC%A1%E9%87%8D%E7%A7%80

大友第2代親秀公の次男。第3代当主頼泰公の弟。戸次氏の開祖。重秀は検非違使をつとめ、左衛門少尉に任ぜられ、大分郡戸次荘市村に居住して戸次氏を称するようになった。
平安末期以来、戸次荘には豊後大神系の戸次氏がいたが、惟澄の代に子がなく大友初代能直公にその所領を譲ったという。一方別説によれば惟澄は重秀を養子として所領を譲ったとも言われている。
重秀が戸次荘に入った時期は明かではないが、文永十一年(1274)の蒙古襲来には、重秀も参戦している。このことから、兄で大友氏惣領頼泰と同じころ下向し、出陣したものだと考えられる。蒙古合戦において戸次氏一族は武功をたてている
弘安5年(1282)没。法名佛阿。
★大神氏 大友能直(藤原氏・中原氏・武藤氏・小弐氏・北条に繋がる) 大友親秀 大友泰公 戸次重秀(戸次惟澄養子)佐原家連

続群書類従 6上(系図部)巻第百五十大友系図「戸次重秀」の記録から以上の方々に繋がりました。

★上記系図 大友能直の子「秀直」
秀直 改秀能高尾七郎 母 同有直 遁世號 三賓房(賓?)法名 浮從
とあります。

その他
★戸次重秀の兄 頼泰 母:三浦肥前守平家連女。初名:泰直 童名:薬師丸太郎
★「薬師丸」です。関係性は解りませんが、コメント14で「伴師高」の父「薬師丸武光」という人物が登場?しています。(この内容は全く関係がないかも知れませんが(p_-))

鎌倉時代以降の球磨「平河」に関する記述「関東下知状・訴状・越訴状・相良家文書 など」に記録されていた人物・家々に関連する突破口になればうれしいです。

続けて、系図の確認を行います。
では(^・^)






[42]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年04月29日 10時38分45秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>庶流に「平川」です。
 
大友氏族の平川氏はこちら →http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02106c.htm#003
 
他に佐々木氏族平川氏はこちら →http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051c2.htm#005
平氏頼盛流平川氏はこちら →http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01105.htm
 
また佐々木氏族竹迫氏、合志氏と中原氏族(大友系)竹迫氏、合志氏の関係は不明だが偶然ではないだろう。
いずれにせよ肥後、豊後、薩摩、何らかの関係はあるかも知れないが早合点はしないように。
先入観を取り払い調査すれば、意外な発見があるかも知れない。
[43]子孫よりさんからのコメント(2014年04月29日 12時35分57秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

日本の苗字七千傑様、御忙しい所申し訳ございませんが、御尋ね致します。

大友氏系図の中
大友氏泰  童名「千代松丸孫太郎」という記述を見つけました。
千代松丸孫太郎とは「千代松」の孫という意味でしょうか?
(すいません、とても単純な質問で)
大友氏泰 童名 千代松丸孫太郎
父は第6代当主父は大友貞宗(氏泰は五男)。母は少弐貞経の娘
系図では「千代松丸孫太郎」ですがウィキでは「千代松丸」となっています。

系図には他にも
大友親世 童名 「千代松丸」 となっています。

麑島外史・宗像市史・伊万里市史・肥前叢書 他複数の書籍等で
「大友千世松丸」とあり
麑島外史では 大友貞載 大友千世松丸
と記述されています。

平河の越訴状に「於将軍御領永吉西村者、仮名千世松多年地頭知行各別知」とあります。ただ、上記で取り上げた方々とは年代が違います。

大友氏の系で、現在確認出来ただけでも3名の「千代松丸(千世松丸)」という童名を持った方が存在したと言う事です。

大友氏泰 童名「千代松丸孫太郎」の父
大友貞宗 妻:少弐貞経の娘

ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%B2%9E%E5%AE%97
大友 貞宗(おおとも さだむね)は鎌倉時代末期の武将。大友氏の第6代当主。父は第4代当主・大友親時。「貞」字は幕府の執権・北条貞時から賜ったものと思われる。
★「貞」の通字ですね・・・
父母
父:大友親時、母:戸次親時の娘

大友氏系図には
鎮西奉行であり、「於九州以富家為随一」と記述されています。
兄弟(ウィキには記載のない兄弟の名がありました)
大友師親 四郎蔵人因幡守従五位下 法名 正清
號 勢家 又 野津・又 利根
母:志多里氏

姉妹
島津上総介藤貞久室
大夫伴官 宗久・上総介 師久 母儀

師親・師久の母・・・
「貞」の字を北条貞時から賜った・・・
童名が「千代松丸・千世松丸」・・・

しっかりと今後も調査致します。(^・^)

追記
あくまでも推測ですが「平河」の所領をめぐる訴訟は、訴訟した側・訴訟を受けた側、双方が、平安時代の「平河」に繋がっているような気がしてなりません。




 




[44]子孫よりさんからのコメント(2014年04月29日 12時39分42秒 ) パスワード

追記
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
(今、アップしましたコメントに時間がかかり過ぎていました。すいません)

「先入観を取り払い調査」ですね。(^・^)

がんばります。
[45]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年04月29日 14時23分51秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>千代松丸孫太郎とは「千代松」の孫という意味でしょうか?
 
単なる愚問、良く有る通称。明治頃までは良くある名付け。
名前は系図により様々有り。
氏泰父も、氏泰孫も孫太郎。
意味のあるのは太郎だけ。
 
院・天皇ー本家ー領家ー預所ー地頭/荘官の系列を理解しなければ、荘園所領紛争の本質は理解不可。
だから鎌倉幕府は精通した中原・惟宗の京都の実務官僚を頼りにしたわけですよ。
それでも新幹線も航空機も無い当時、遠国の所領実態調査に良く頑張ったと思うよ。
[46]子孫よりさんからのコメント(2014年04月29日 16時25分34秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「孫太郎」は通称なのですね。(お恥ずかしいです(*_*))

「教科書的は発想では真実にはたどり着けない」
荘園に付いて、教科書で学習しましたが(テスト用でした(*_*))、表面的な勉強しか自分でもしていなかったな〜と痛感しています。
複雑です・・・

パソコンも無ければ、もちろん膨大な情報量を蓄積できるサーバーも無いわけで、想像出来ない情報管理です。
それに万が一、紛争が武力での衝突に発展したら、帯刀している訳ですから、身の危険も生じるのですよね。

伺えば伺うほど、簡単な事ではないのだと言う事を痛感しています。

院・天皇ー本家ー領家ー預所ー地頭/荘官の系列を理解しなければ、荘園所領紛争の本質は理解不可
(そうですね。簡単には言えないのですよね(@_@。複雑で、大変難しいです)

仕事を辞めた時は、「先祖の調査がすすめられる。」なんて、簡単に言っていましたが、この頃は、何だか仕事をしている時より、数倍、頭を使っているようで・・

頑張ります。(^・^)



 



[47]子孫よりさんからのコメント(2014年04月30日 18時37分14秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

本日の進捗状況ですが・・

昨日、平河(良峯)の系図を見ていたのですが、「師高」より先に全く調査が進んでいない状態でした。

平川家についてスレッド10−1コメント54に「山江村誌」より転記した系図を書いていますが(かなり崩れています(*_*))この中の
良峯法師(法名観蓮)の下に

頼貞(相良弥三郎) 長貞(相良藤三郎) 弓削田貞行(六郎)

の名があります。
最初にコメントした時は、「姻戚関係からかな?」と思ってはいたのですがここにまだ調査は到達していませんでした。

相良氏と平河(良峯)との姻戚関係で解っているのは
長頼の娘「妙阿」とその子(娘)阿夜。

美術史論集 - 306 ページ より
女性の書として残つているものははなはだ少ないが、その一つに尼妙阿の譲状がある。妙阿むすめは先にあげた相良長頼(蓮仏)の女である。彼むすめあや女は良峯(平河)氏に嫁し女阿夜を生んでい^みかたとらおか,うる。この申状によると、南方の刁岡名の地頭 ...

あまにさきたちてしきよせしめ了」は系図の「〈平河三郎〉長貞〈死去〉」「〈五郎〉安義〈死去〉」に、「あるいハごかんなお、具書案に見える文保二年の阿夜宛妙阿譲状の文言に
見える「なんし(男子)あまたありといへとも、

國學院大學大學院紀要, 文學硏究課 - 第 18 巻 - 309 ページ より
頼貞は妙阿に譲申状案によると、この文書は「亡父蓮仏讓状案」となっており、長頼の生死が判然としないものの、長頼の意をうけて作成され藤原頼氏在判藤原頼貞在判建長四年三 ... 長頼の女妙阿が、その女阿夜に讓った人吉庄南方寅岡名の安堵を申請した ...

整理すると
★相良長頼(蓮仏)の娘「妙阿」は良峯(平河)に嫁いで「阿夜」を産み、長頼から譲状され、娘「阿夜」に譲った「人吉庄南方寅岡名」の安堵を申請した。
「妙阿」が未亡人となった後の事です。
(「〈平河三郎〉長貞〈死去〉〈五郎〉安義〈死去〉」と記述されています。
★なんし(男子)あまたありといへとも・・愛していらしたのですね(*_*)

さて、問題は何故「頼貞(相良弥三郎) 長貞(相良藤三郎) 弓削田貞行(六郎)」は平河の系図に名があったのか?
すいません(*_*)そこはまだ調べていないのですが・・

★頼貞(相良弥三郎)について
日本史諸家系図人名辞典 - 321 ページ より

[相良頼貞]さがら,よりさだ(生没年不詳)南北朝時代の武士。相良長頼 2 ミの子。建武^元年 0334 〉養子又千世丸に筑後" (福岡県)三池荘北郷山本村をゆずる。のち孫藥寿丸に同村内の田地,屋敷,安行名の三分の一地頸職!をゆずった。通称は稻富十郎。法名は ...

★日本の苗字七千傑様の《相良氏》姓氏類別大観を拝見しました。
相良長頼の子「頼貞」稲富氏ですね。

日本史諸家系図人名辞典では「養子又千世丸に筑後" (福岡県)三池荘北郷山本村をゆずる」となっています。
養子の名は「又千世丸」です。
★三池荘を譲る・・・三池です。

藤原氏族系図 - 261 ページ より
相良頼貞.よりさだ建武元年七月廿二日相良頼貞、筑後三池荘の地併せて I 町五段を養子又千世丸に讓る。正平三年五月廿七日尊氏、相良鶴寿丸をして祖父頼貞の譲渡に任せ、筑後三池荘北郷内の地を領せしむ。(豊西説話)相良忠頼,ただより延元元年八月 ...

わたしたちのまち三池。大牟田の歴史 - 63 ページ
そして、鹤寿丸に対しては、別に貞和四年五月一一十七日付の足利直義の安堵状が与えられていて、その中に「相良弒寿丸」とか「祖父頼貞法師、法名聖円」などと書かれていますので、聖円という人が相良頼貞であることがわかります(豊西説話、写本相良庶家 ...

頼貞の法名は「聖円」です。

そして・・・
大分県史: 中世篇 - 第 3 巻 - 2 ページ
隈元に次に龍造寺氏と島津氏との関係を見ると、両者間の交渉は天正四、五年からで、それまではさして目立つことは何にとどまった。なお、この亊件の背景には、相良頼貞と大友氏の関係が取沙汰されている。

★相良頼貞と大友氏の関係?

これは!!と思い、取るものもとりあえず?図書館に行ったのですが
「休館日」でした。(@_@。

そして、後ほどコメントしますが
別の記述で妙阿・阿夜・祐長 という記述があったのですが・・・?

では後ほど(^・^)








[48]子孫よりさんからのコメント(2014年05月01日 00時56分34秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

今まで、あまり「妙阿」「阿夜」という方々について調査を行っていなかった事をとても反省しています。

こちらの記述をご覧ください。

多良木町史 - 181 ページ より
「比丘尼阿弥陀佛」は、妙阿とも思われる。しかし確証はない。『求麻外史」の編修者田代政翮は、妙阿について、一応は長頼の女と認めながら、なお疑をもっていたことが、割書きの註にみえる。妙阿は頼氏.頼俊らの妹分として待遇され、牛の尼御前と ...

★比丘尼阿弥陀佛 は妙阿と思われる。 妙阿は牛の尼御前と呼ばれていた・・
 牛尼御前または牛御前という記述もありました。

廣島大學文學部紀要 - 第 21 巻 - 234 ページより

相良氏でも父長頼から肥後国多良木村が嫡子頼氏に、人吉荘が弟頼俊,頼員.頼貞,娘妙阿それに平永綱というものに分割讓与された。この時頼俊,頼員等は幕府から各別の安堵下文を得、また各別の検注権を行使して惣領頼氏から独立性をもっていた(ぉ查家^ ...

★平永綱という名前が出ました。

何だか驚きの展開?です。
妙阿 が比丘尼阿弥陀佛
『求麻外史」の編修者田代政翮は妙阿が相良長頼の娘であると言う事に関して
疑念を持っていたのですね・・

まさかここで「比企氏」が登場するとは考えていませんでした。
確かに、鎌倉幕府第二代執権・北条義時の正室は比企朝宗の娘。子に朝時(名越流祖)、重時(極楽寺流祖)、竹殿、他 と言う事は理解していましたが、「比企氏」に関しては全く除外していました。

確かに、北条重時は平河観覚と名乗っていたし、備前前司入道は「北条時長」または「北条朝房」ですし・・??

今日は、ここまでと致します。
では(^・^)



[49]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年05月01日 01時22分48秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>まさかここで「比企氏」が登場するとは考えていませんでした。
 
北条一門を始め初期鎌倉幕府を支えた有力家臣は、比企氏と皆親戚関係。

比企氏閨閥図を見れば明らか。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01219a.htm#001
 
比企系将軍が誕生する前に比企氏は滅ぼされ三代で将軍家は滅亡。
後は京都からの傀儡将軍を迎えて9代まで続く。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01019.htm#001
[50]子孫よりさんからのコメント(2014年05月01日 09時56分42秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

比企氏閨閥図を拝見しました。
今までの調査、特に、この頃の調査した家々は全て比企氏に繋がっているのですね。

昨日、「比企氏」に関しては全く除外していました。」とコメントしましたが、本当の所を言いますと、もうこれ以上、平河は「鎌倉幕府関係者」とは関係はないだろうな〜!と・・・
簡単に考えていました。
やっぱりまだまだ先入観を取り払えてはいませんでした(*_*)

調査している場所は「鎌倉御領」なのですよね・・自覚が足りていませんね。

しかし、球磨の荘園に関係した在京または鎌倉在の「鎌倉幕府関係者」から今度は、在地の地頭である「現地の平河」を見つけなければいけないので、かなり、先は長そうです(*_*)

所で、球磨の比企氏に関係する情報が他にもありました。

★人吉の文化財より
城本の笠塔婆
(市指定有形文化財)下城本町
熊本県における鎌倉時代までの在銘石塔は56 基あり、人吉球磨地方では 17 基が確認されている。
この笠塔婆は、笠部を欠損し、正面には阿弥陀三尊の種子である「キリーク・サ・サク」、左面、右面、及び裏には胎蔵界大日如来や多宝如来にあてられる「ア」の種子が薬研彫りで刻まれている。
さらに裏面には「正應貮年 己丑 比丘尼上妙生年八十八九月九日」の銘がある。
塔身に刻まれた銘文から、この笠塔婆が、鎌倉時代の正應 2(1289) 年に 88 歳で亡くなった比丘尼上妙の墓塔として造られたものであることが解る。
この「比丘尼上妙」については誰なのか、また、墓塔を誰が造立したのか特定出来ない。
しかしながら、史料の少ない鎌倉時代に造立された墓塔であり、人吉球磨地方の中世史を解明する上で貴重な資料である。

★鎌倉時代の正應 2(1289) 年に 88 歳で亡くなった比丘尼上妙

相良家墓地(県指定史跡)北願成寺町なので、こちらの墓塔とは場所が違います。(下城本町です)
1289年に88歳で亡くなったという事は1201年生まれと言う事ですね。

調査続行いたします(^O^)/





[51]子孫よりさんからのコメント(2014年05月01日 16時59分35秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

進捗状況をお伝えいたします。

まず、再度確認して下さい。
★相良長頼(蓮仏)の娘「妙阿」は良峯(平河)に嫁いで「阿夜」を産み、長頼から譲状され、娘「阿夜」に譲った「人吉庄南方寅岡名」の安堵を申請した。

では、こちらの記述をご覧ください。
女と男の時空: 日本女性史再考 - 第 7 巻 - 115 ページ より

筑後国沙弥道盛は「夫婦契り浅からず」の遺言に従い妻妙阿相伝の三潴荘大井手料田を、妻方の荒木氏総領に宛米分 ... 答志女,十万御前,掃門後家などの俗名と一三の比丘尼名が見られる。#時宗道場、陸奥から大隈 ... 2 「相良蓮道置文」に「... ...女子あら ...

★筑後国沙弥道盛と言う方は、「妙阿」と言う「名」の方が妻です。
その「妙阿」相伝の三潴荘大井手料田を、妻方の荒木氏総領に宛米分 ...

と言う事ですね。

「妙阿」・・・?

こちらの「妙阿」が平河に嫁いできた「妙阿」と同一人物なのか・・

では、こちらをご覧ください。

久留米市史 - 第 7 巻 - 170 ページ より
170 ページ
&領の支配権の^ 5 土地売却は他人へは絶対不可為連券、所副渡惣領盛资方也、但田地事、為諸所之時者、可出段別百文宛 ... 如件徳治三年||正月十六日沙弥道盛(花押)沙弥道盛、故比丘尼妙阿先祖相伝所領を今鬼御前に譲る七沙弥道盛譲状(『筑後 31 ...
★★沙弥道盛、故比丘尼妙阿先祖相伝所領を今鬼御前に譲る

171 ページ
... 妙阿先祖相伝所領也、而妙阿存生之時、雖可譲与于男女子息等、道盛与妙阿者、乍云同夫婦、年来之芳契不浅之間、所詮為道盛 ... 日譲与之上者、有構出他筆讓状之辈者、可申行謀咎焉、仍為永代不朽譲状如件徳治三年| |三月十七日沙弥道盛〔花押)二^

★徳治三年とは1308年です。
★比丘尼妙阿とは球磨の「妙阿」と同一人物の可能性が出て来たという事でしょうか?
★妻「妙阿」が夫「沙弥道盛」より先に亡くなったという事ですね。
★昨日「妙阿」が未亡人となってとコメントしましたが、すいません(*_*)良く考えてみると、阿夜を憐れんだ妙阿の行動ですよね・・。阿夜は未亡人ですが、妙阿はどうだったのか調べていません(*_*)

ただ、仮説を上げるとしたら
@妙阿は未亡人となり、沙弥道盛と再婚した。
A妙阿は未亡人ではなかった(ー_ー)!!

このいずれかです。(あたりまえか(@_@))

では沙弥道盛とは?と思い調査したのですが・・・

一般のサイトでは、中々情報が無かったので、東大の古文書検索システムを利用すると、「妙阿」について沢山の情報が出てきました。

「比企尼妙阿」は先祖代々の日本全国の土地を、色々な人に譲っているようです。
あまりにも、沢山の譲渡状が出て来たので驚きました。
その中には「相良家文書」もありました。(後ほど紹介します)

がっ!!しかし!!
沢山の文書の中に「系図」があったのです\(゜ロ\)(/ロ゜)/

一旦コメントをアップして系図を転記いたします。(^・^)


[52]子孫よりさんからのコメント(2014年05月02日 00時16分32秒 ) パスワード

皆様、こんばんは。
急な来客があり、コメントが遅くなりましてすいませんでした。

お伝えした系図ですが、「妙阿弥陀仏 坊城前大納言(俊定)母儀之姑也 為宮内卿舎弟也」から始まっていたので「妙阿」ではありませんでした。
お詫びして、訂正します<m(__)m>(小督局)に繋がるようでしたので、後で確認します。

「沙弥道盛」について調べているのですが、法名ではなく本名?はどの記述にもありません。

只今、調査中です。

この方が解れば、一気に突破口が開ける・・そうなれば大変嬉しいのですが。
がんばります。(^・^)
[53]白石さんからのコメント(2014年05月02日 05時56分54秒 ) パスワード

おはようございます。またまた私のあてにならないちゃちゃくりで 申しわけないですが

高槻市ホームページ↓
歴史・観光↓
いにしえ物語↓
芥川岡氏の本拠地


芥川岡氏の本拠地ということについて 以下 抜粋ですが

高槻で最初の武士団の一つとして歴史に登場し、のちに北条氏滅亡とともに嫡流が姿を消す芥河一族は、芥川の宿を本拠とし、安満庄の過半を支配(地頭職)した在地武士でした。

芥河右馬允平影信(うまのすけたいらのかげのぶ)という、芥川の館の主でした。

この芥川岡氏の本拠地シリーズには
足立 安達 藤原 小野田 比企 原田 魚名 などの言葉が見え なにやら 子孫様のコメントにある言葉と あやしくかさなっている。平河と近いひとではないかしら?または 嫁方の関係?
岡という地の候補が 3つほどあがり そこで シリーズは途切れているのですが、 

平景信・・・で 検索 影信は別人?かもしれないけど

鎌倉前期の武将。武蔵国の豪族足立氏の 一族か。《尊卑分脈》によれば藤原姓小野田三郎兼盛の子。藤九郎と称す。源頼朝の 乳母比企尼の女婿で頼朝の流人時代より彼の側近となる。

安達氏祖盛長
ウィキより
盛長の父は『尊卑分脈』魚名公孫によれば小野田三郎兼広であるが、新訂増補国史大 系の底本である前田家所蔵林家訂正折本によれば、小野田三郎兼盛とある。盛長は『 尊卑分脈』魚名公孫によれば、足立六郎、小野田藤九郎と称している。盛長以前の家系・・・

盛長晩年の頃から安達の名字を名乗る。由来は『吉見系図』によれば比企氏所縁の武蔵国足立郡に由来すると言う。

岡とは
岡町は天和二年(1682年)の在地史料で、万治・寛文のころ、各村の領主や町奉行に願い出、原田神社の社地を借り受け、いわゆる原田郷七ヵ村の人々が移住してできた、能勢街道沿いの出在家(新興在郷町)だということが分かったのです(昭和六十一年刊『大阪の地名』1)。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
摂津には後世 荒木村重もいたのではなかったか?
義経は摂津から船に乗り 頼朝に睨まれたとき 九州へ行こうとし、船が難破した。
高槻には 全国の大本の 鴨神社があり、高倉天皇の安産祈願が行われたところ。
[54]子孫よりさんからのコメント(2014年05月02日 13時16分42秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

高槻市ホームページ拝見しました(^・^)
かなりのシリーズになっていますね。今、途中まで読んでいますが、何せ、私がすぐにピン!と来なくてすいません。
じっくりとしっかりと読ませて頂きます。<(_ _)>
「芥河右馬允平影信」を検索したのですが、情報があまりありませんでした。
何らかの関係も考えられるので、今後も調査続行します(^O^)/

筑後の比企尼妙阿の実家が「荒木氏」という記述があり、もしかしたら、良峯(平河)妙阿とは別人なのかな?と。
しかし、調べていくと「大江氏」との繋がりがあるようで、こちらも調査を続行致します<m(__)m>。

安達氏祖盛長に関してですが、源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としていますよね。

ご教示頂いてあらためて、「安達氏」「比企氏」の記述を読み返しました。

安達氏は以前、実家の家紋のコメントから調べて(勉強してと言った方が適切かな?(*_*))中村氏へと繋がっていったのでした。

その時は「比企氏」については何も調べていなかったのです・・(記述は読んだのですが・・ダメですね(*_*))

一つ一つ、勉強しながら調査を進めている所です。

では(^・^)

追記 
白石様と私の故郷、「球磨」の鳥インフルエンザ、被害拡大にはならなくて本当に良かったですね(^・^)
地元の方々も大変なご苦労だったと思います。



[55]子孫よりさんからのコメント(2014年05月02日 14時25分24秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、お忙しい所、大変申し訳ありません。
小学生並みの質問とは思いますが、お教え下さい。

比企掃部允の妻「比企尼」についてです。

ウィキなどでは「比企尼」は実名・父母は不明となっていますが、日本の苗字七千傑様の《比企氏》姓氏類別大観を拝見して、推測したのですが「比企尼」も藤原氏秀郷流「比企氏」と言う事でしょうか?

何故、このような愚問をとお思いでしょうが、「比企尼」の甥であり養子となった「比企能員」の出身が「阿波国または安房国出身とされる」との記述がウィキにあり、偶然だとは思いますが、以前、私がコメントした「麻の繋がり」を思い出しました。

「妙阿」については、「平河(良峯)に嫁いできた」という、記録が残っている、先祖の調査においては数少ない貴重な存在となります。

比企氏を理解する上で「比企尼」についての、とても幼稚な質問になりますが、どうかご教示をお願い致します。
[56]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年05月02日 18時06分19秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>比企掃部允の妻「比企尼」についてです。
 
ウィキに頼りすぎていると、真実は解りませんよ。
すべて武蔵比企郡/入間郡/高麗郡の話、後裔は越後へ。
愚管抄の阿波は誤記(安房かも)。
 
掃部允比企遠宗の妻(比企公員の妹)が、比企尼と呼ばれている。
比企系図を参照のこと。
後継者が無く能員が嗣ぐ。
有名な比企禅尼と混同しないように。
 
忌部氏に興味があれば、http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02122.htm 掲載の大麻と古代日本の神々 (宝島社新書) [新書] をクリック。
麻に関係している国々が一目でわかる。
[57]子孫よりさんからのコメント(2014年05月02日 21時56分37秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございます。

比企尼とは比企公員の妹だったのですね。
比企掃部允とは比企遠宗ですね。

愚管抄の阿波は誤記。
解りました。
誤った推測をする所でした。

大麻と古代日本の神々はぜひ購入したいと思います。
ありがとうございました。

[58]白石さんからのコメント(2014年05月03日 00時54分31秒 ) パスワード

こんばんは
ウィキより
一幡(いちまん、建久9年(1198年) - 建仁3年9月2日(1203年10月8日))は、鎌倉幕府第2代征夷大将軍、源頼家の嫡男。母は比企能員の娘若狭局。公暁、栄実、禅暁は異母弟、竹御所は同母妹と考えられている。

一幡は 前に読んだ本で (中原)としてありました。
中原は 鎌倉幕府に関与していること 7000傑様に ご教示いただいたと思っています。

武蔵の比企氏の系譜 - UCOM光 Residenceでは

遠宗が妻とした比企尼は、藤原公員の妹であって、公員の子の能員を 養子に迎えたと伝えるが、公員はやはり秀郷流藤原季清(西行法師の祖父)の曾孫 ...

「阿保朝臣系図」は上記『鹿児島外史』(伊加倉俊貞著、明治18年刊)所載系図を詳細にしたもので、年代や記事などからみて、比企氏の系図としては最も妥当だとみられます。

と 阿保朝臣が 出て、第11代垂仁天皇皇子を祖とする皇別氏族。
垂仁天皇の孫が ヤマトタケルで 前に 話に出ましたね。
女性の筋の違いがある かも しれませんが 父方は つながっています。

子孫様 
からまりからまってくると わたくしは ほどけなくなります。

過去の他のスレッドで
篤姫も比企氏の女性 という内容のものがありましたが・・・比企筋ロマンでしたか・・・

そして
上記の話で 比企禅尼 と 比企尼が 混同しているかも しれませんが・・・

上記 武蔵の比企氏の系譜 - UCOM光 Residenceでは
三女は、伊東祐清に嫁いだ後に、平賀義信に嫁いで朝雅を生んでいる。




[59]子孫よりさんからのコメント(2014年05月03日 01時58分46秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、ご教示ありがとうございます。

以前、白石様に伺っていたお話に繋がってきました(^○^)
ありがとうございます。

「三女は、伊東祐清に嫁いだ後に、平賀義信に嫁いで朝雅を生んでいる。」
この話は、以前、私、何も理解していなかった時に(今も殆どそうですが(*_*))興味をもって、調べて、コメントさせて頂いていました。
(かなり、長いコメントをしたのですが、何故、あの時、興味を持ったのかが不思議です)

所で、
本日の調査でも、具体的な名前が出て参りました。

東大の鎌倉遺文テキストデータを使って調べていると・・

建長4年3月25日
平河三郎長貞死去女子号万歳字牛女名妙阿>五郎安義死去六郎家貞阿夜女子法名光妙訴人建長四年三月廿五日
既収  7419 肥後平川文書 10/306

この内容を記述している書籍をgoogleブックでみつけました。

西南地域史研究 - 第 13 巻 - 432 ページ より
あまにさきたちてしきよせしめ了」は系図の「〈平河三郎〉長貞〈死去〉」「〈五郎〉安義〈死去〉」に、「あるいハごかんなお、具書案に見える ... さらに同書が、平河家に伝来したことを勘案すれば、妙阿の代道観も同氏〈六郎〉家貞、〈阿夜〉女子〈法名光妙〉訴人」と見え、 ...

平河三郎長貞 平河五郎安義 道観(平河六郎家貞) 阿夜(法名光妙)

★平河三郎長貞は平河伝授巻では「長貞(相良藤三郎)」となっていました。
しかし、平河五郎安義 道観(平河六郎家貞?) は「山江村誌」には記載されていませんでした。

道観(平河六郎家貞?)は多良木誌には「尼妙阿代道観が幕府に外題安堵を乞うたものである」と書かれていました。

そこで、法名「道観」であるこの人物を探したのですが・・
現在、2名の方を見つけています。

まず・・
頓宮肥後守藤原盛氏法師 法名道観 という記述がでてきました。
六波羅探題の研究 では
探題・評定衆・在京人 の中に頓宮肥後守藤原盛氏法師の名があります。
他に「流鏑馬」の記述にも「頓宮肥後守藤原盛氏法師 法名道観」の名がありました。頓宮(内藤)となった記述もありました。

続けて・・
宇佐見三河守藤原顕祐入道法名道観 という記述もありました。
こちらは、まだ、詳しく確認していません。

ただ、書状が「建長4年3月25日」(1252年)ですので
時代に合う人物でなければいけませんので明日、詳しく確認いたします。

では(^・^)






[60]子孫よりさんからのコメント(2014年05月03日 10時05分57秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)
(かなり私、眠たいです(*_*)がっしかし、このコメントを書くまでは眠れません(ー_ー)!!)

昨日、コメントした内容で「道観(平河六郎家貞?)」。
「同書が、平河家に伝来したことを勘案すれば、妙阿の代道観も同氏〈六郎〉家貞、〈阿夜〉女子〈法名光妙〉訴人」と見え、」
参考としたこの記述はあくまでも「道観は平河六郎家貞か?と勘案している」ととらえる事にしました。

そこで、「道観」と「平河六郎家貞」を分けて調査。

肥後に関係した「家貞」は?と検索したところ以下の記述を見つけました。

googleブック検索 落日後の平家 - 224 ページより
★223 ページ
国志云、公卿補任に、仁安一一年太政大臣平清^ , ^符を賜り、肥後国八代南郷土、北郷等を以て大功田となし永く子孫に伝えしむ。とあり。 ... (三代略)貞盛I 家房I 家貞I 貞能 家長此の家貞は忠盛昇殿を許された時、殿上人より閤討ちにされる
ことを ...

★224 ページ
熊本県肥後国球磨郡。吾妻鏡文治元年の条に、池大納言平頼盛の家領に、肥後国、球磨庄あり、とある、此の平家平頼盛の家領又一説には源平の戦後、宇都宮朝綱に依って死を免ぜられ肥後人道となったと言われている。貞、家貞の子に貞経があり、孫の時、 ...

★346 ページ
永井彥熊, Hikokuma Nagai せた。同島周囲は風裤が荒く近寄ることは出来ず遂にそのままになってしまったことがある。潮流は丁度対馬海流とが・・罪を犯して、鬼界島へ逃げこん-だことがある。清盛は、筑後守(肥後八代の庄をもっていた)家貞に命じて討たさ ...

★@肥後国八代南郷土、北郷等を以て大功田となし永く子孫に伝えしむ
★A貞盛 家房 家貞 貞能 家長
★B家貞は忠盛昇殿を許された時、殿上人より閤討ちにされる?
★C熊本県肥後国球磨郡。吾妻鏡文治元年の条に、池大納言平頼盛の家領に、肥後国、球磨庄あり。
★D平家平頼盛の家領又一説には源平の戦後、宇都宮朝綱に依って死を免ぜられ肥後人道となったと言われている。
★E家貞の子に貞経。
★F平清盛は、筑後守(肥後八代の庄をもっていた)家貞に命じて「どなたか」を討たせようとした?

上記の記述に関係した「家貞」。この方は誰なのか?

平河には関係ない人物かもしれませんが、肥後に関係している方のようなので
調査します(^O^)/
[61]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年05月03日 11時11分55秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>上記の記述に関係した「家貞」。この方は誰なのか?
 
ここに → http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01109.htm
 
常識ですがネットばかりに頼らず、
索引が使える文庫版を常備して索引を駆使すれば調査速度が上がると思うが?
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01100.htm

子の貞能についても調査の必要性大。
[62]子孫よりさんからのコメント(2014年05月03日 18時19分34秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

平家貞・平貞能 ですね。

おっしゃる通り、効率的な調査をしていませんでした。

索引を利用するという方向に頭が回っていませんでした。
(先日ご紹介して頂いて、早速用意していたのにです・・・(*_*))
ネットの情報に頼り過ぎているのですね。
かなり疲れていたのか、朝、コメントした後に、「風水で運気改善!」とバカな事を考えて、風呂掃除を念入りにしていたら腰をグギッとやってしまって、今まで痛くて、起き上がれませんでした(*_*)
どうにか、薬で座れるようになりました。

調査、再開です。
【桓武平氏貞季流】姓氏類別大観を拝見しました。大橋氏・平姓酒井氏 姓氏類別大観も拝見したのですが、「長貞」「安義」という方は見当たりませんでしたが、「貞」の字は平河にも師貞・良貞・頼貞・長貞・貞行・貞継・貞家・貞世と見えます。

尊卑分脈系譜も見たのですが、「長貞」「安義」は見当たりません。

ただし、日本の苗字七千傑様の【桓武平氏貞季流】庄田氏 に「貞継」と言う方が。平河の系図?(親子関係ではないようです)にも「貞継(小三郎次男)」という名があるので・・
多分、偶然かな?とは思うのですが・・

さあ、平家貞・平貞能 調査、再開いたします(^O^)/

先入観を取り払う!!
しっかりと頭にいれて、調査します!。


[64]子孫よりさんからのコメント(2014年05月04日 01時09分25秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

平家貞・平貞能 球磨に関する調査の進捗状況ですが、
まず、平家貞・平貞能についての調査内容の前に一つ、お伝えしたい事があります。

1198年に建立された山江村の寺院「高寺院(たかでらいん)」に平貞能の球磨での痕跡が国の重要文化財「国宝」として残っていました。

それは「平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天」です。
http://yumeko2.otemo-yan.net/c4034456.html

転記します。
高寺院(たかでらいん)
人吉球磨地方で最古の寺院。高野山真言。
相良氏が人吉球磨に入国する以前、建久9年(1198) 平家の重臣で人吉城代であった矢瀬主馬祐が平重盛の菩提を弔うめたに建立。
365段の石段を登ると頂上に奥の院があります。高寺院・毘沙門天立像毘沙門堂は、奥の院への石段の登り口にあり、5体の毘沙門天立像が安置されています。その内の2体は、国の重要文化財になっています。

境内には毘沙門三尊像(秘仏)、勢至菩薩立像(県指定文化財)、多宝塔(たほうとう、県指定文化財)、地蔵菩薩立像(村指定文化財)、西行法師座像(村指定文化財)、釈迦涅槃図、地獄相伝図(十三図)等々の多数の宝物が奉安されています。

毘沙門天は四天王のうちの多聞天が独尊で信仰される場合の呼称で、七福神のひとつにも数えられていますが、元来インド、ヒンズー教の神であり、仏法を擁護し須彌山の北方を守護する善神でもあります。高寺院は人吉城の北方に位置する為、これを祀ったと考えられます。中央と左の二躯が平安時代後期の作で大正時代に国宝の指定を受けた優作です。
一躯は平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天を、滅後家人の平貞能が供養の為に躯内に納めて祀ったものと云われ、もう一躯は人吉市下原田町の真福寺から寛永18年(1641)に遷座されたものと伝えられています。

★★平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天を、滅後家人の平貞能が供養の為に躯内に納めて祀ったもの。

平家滅亡後との記述です。
★この話は、今から、お伝えする「平家貞・平貞能」に関する記述に深く意味をもってきます。

では
平家貞について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E8%B2%9E
平 家貞(たいら の いえさだ)は、平安時代後期の武将。伊賀を本拠とする伊勢平氏譜代の有力家人である。平忠盛・平清盛の二代に渡って仕え、「一ノ郎等」(『愚管抄』)といわれた。
平忠盛の側近として知られ、公卿たちが殿上人になった忠盛を闇討ちにする計画を立てた際、殿上の小庭に武装して控えて未然に防いだという逸話がある(『平家物語』巻一「殿上闇討」)。
保元3年(1158年)清盛が大宰大弐となり九州へ進出すると、家貞も筑後守に補任され、薩摩の阿多忠景や肥前の日向通良の反乱を鎮圧するなど、平氏の九州での勢力拡大に大きな役割を果たした。『平家物語』は一ノ谷の戦いで戦没したと記しているが、『玉葉』ではこれ以前に既に他界していた旨の記述がある。
生誕 永保2年(1082年)
死没 仁安2年5月28日(1167年6月17日)

続けて
平貞能について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E8%83%BD
平 貞能(たいら の さだよし)は平安時代末期の武将。伊賀国を本拠とする平氏譜代の有力家人である。父は平氏の「一ノ郎等」(『愚管抄』)である平家貞。
保元の乱・平治の乱に参戦し、平清盛の家令を勤め(『玉葉』治承4年2月20日条)、清盛の「専一腹心の者」(『吾妻鏡』元暦2年7月7日条)といわれた。仁安2年(1167年)5月、清盛が太政大臣を辞任して嫡男の平重盛が平氏の家督を継ぐと、平氏の中核的な家人集団も清盛から重盛に引き継がれた。同じ有力家人の伊藤忠清が重盛の嫡男・平維盛の乳父であったのに対して、貞能は次男・平資盛の補佐役を任された。忠清は「坂東八カ国の侍の別当」として東国に平氏の勢力を扶植する役割を担ったが、貞能は筑前守・肥後守を歴任するなど九州方面での活動が顕著である。

★★伊藤忠清は「平景清」父。景清姫のお墓は、私の故郷、あさぎり町(旧岡原村)の切畑にあります。
以前、コメントしましたが伊藤忠清の兄弟「藤原景家」の子飛騨四郎兵衛景俊は壇ノ浦で亡くなったという事でしたが、実は、「建保6年(1218)、阿蘇谷(熊本県球磨郡須恵村)預所院主惣公文であった」との記録がこちらも国宝で解りました。
スレッド「平川家について8」より転記します
奈良国立博物館 収納品データベース 山王十社本地懸仏1面

http://www.narahaku.go.jp/collection/738-0.html

中央に「阿蘇谷預主也/建保六年[歳次/戊寅]七月十九日/阿蘇谷預所院主惣公文/中御子平景俊」という針書銘があり、この作品が建保6年(1218)、阿蘇谷(熊本県球磨郡須恵村)預所院主惣公文であった平景俊によって作られたことがわかる。鎌倉前期の懸仏の基準作例として貴重であるとともに、日吉山王関係遺品として注目すべき作品である。

★では平貞能について続けます
翌養和2年(1182年)4月に菊池隆直を降伏させることに成功した。
宗盛は都落ちの方針を決定するが、貞能は賛同せず都での決戦を主張した。九州の情勢を実際に見ていた貞能は、西国での勢力回復が困難と認識していた可能性もある。25日の夕方、資盛・貞能は京に戻り、蓮華王院に入った。一門はすでに都落ちした後で、後白河法皇の保護を求めようとしたが連絡が取れず、翌26日の朝には西海行きを余儀なくされる。『平家物語』一門都落の章段によれば、貞能は逃げ去った一門の有様を嘆き、源氏方に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こして遺骨を高野山へ送り、辺りの土を加茂川へ流して京を退去したという。

平氏は8月中旬に九州に上陸するが、豊後国の臼杵氏、肥後国の菊池氏は形勢を観望して動かず、宇佐神宮との提携にも失敗するなど現地の情勢は厳しいものだった。特に豊後国は院近臣・難波頼輔の知行国であり、後白河法皇の命を受けた緒方惟栄が平氏追討の準備をして待ち構えていた。惟栄が重盛の家人だったことから資盛・貞能が説得に赴くが、交渉は失敗に終わる。平氏は10月に九州の地を追われるが、貞能は出家して九州に留まり平氏本隊から離脱した。

★緒方惟栄は先日調査した大神惟基の子孫でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E6%83%9F%E6%A0%84

惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて佐伯に戻ったとも、途中病死したとも伝えられる。
と記述されていました。

平貞能について 続けます
平氏滅亡後の元暦2年(1185年)6月、貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願した(『吾妻鏡』7月7日条)。この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。その後の消息は不明だが、北関東に那須塩原市の妙雲寺、芳賀郡益子町の安善寺、東茨城郡城里町の小松寺など貞能と重盛の伝承をもつ寺院が多く残されているのは、貞能の由緒によるものである。

★その後の消息は不明・・・
しかし・・・
1198年に建立された山江村の寺院「高寺院(たかでらいん)」に平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天を、重盛公供養の為に躯内に納めて祀った。

と言う事です。

とても、長くなりましたが、球磨は「消息不明」の方や「すでに亡くなった」と伝えられている方の「その後」がこのように残っている土地なのだと痛感しました。
そう言えば
「落人伝説」・・・
人吉・球磨の代名詞のような言葉でした・・。

では、本日はここまでと致します。(^・^)
[65]子孫よりさんからのコメント(2014年05月04日 09時53分23秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

平家貞 平貞能 この方々を調べていて、以下の流れが解りました。
今から、コメントする内容は一切「先入観」を持って調べたわけではありません(ー_ー)!!(^・^)

調査の結果をありのまま記述するだけです(・_・)

平家貞について調べていると何故か?「源平盛衰記 師高流罪宣事」について記述されている書籍が多数表示され、??と思い、調べてみました。

内容は筑前入道家貞(平田入道家貞)の孫で、平田家継(平家継)の子らが「射,神輿官兵-六人禁獄事」すなわち神輿に矢を放ち禁獄された・・という内容です。
鹿ケ谷謀議につながる「白山事件」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%82%B1%E8%B0%B7%E3%81%AE%E9%99%B0%E8%AC%80

禁獄された6名の名が源平盛衰記 師高流罪宣事にありましたので転記します
●平利家字平次 是者薩摩入道家秀孫 中務丞家資子
●平家兼字平五 筑前入道家貞孫 平田太郎家継子 ★
●藤原通久字加藤太 
●藤原成直早尾十郎 右馬允成高子
●藤原光景字新次郎 前左衛門尉忠清子 ★
●田使俊行字難波五郎

★平家貞の孫 平家兼
★藤原忠清の子 藤原光景 昨日コメントした「伊藤忠清」の子ですね。平景清(藤原景清)の兄弟です。

白山事件において
上記の6名は禁獄 藤原師経を備後国に流罪 藤原師高は尾張国への配流
となりました。

ちなみに、藤原忠清。この方も直接事件と関係しています。
ウィキより転記します。
忠清は閑院内裏の警備軍を指揮する立場にあり、安元3年(1177年)4月の延暦寺大衆の強訴では防備に当たった。この時に威嚇射撃の矢が神輿に命中し、大衆側に死傷者が出た。この結果、院と延暦寺の抗争は激化し、天台座主・明雲の配流と奪還、後白河法皇による延暦寺攻撃命令、鹿ケ谷の陰謀へと展開していくことになる。

その後・・・

【この事件に関係した人物の近親者について】

★藤原忠清の子「藤原景清」は、球磨に滞在した痕跡あり。(伝承では須恵または山江もしくは木上★球磨では殆どの人が知っています)
★藤原景清の娘、景清姫は旧岡原村切畑で亡くなる。
★藤原忠清の甥藤原景俊は壇ノ浦で亡くなったという事でしたが、「建保6年(1218)、阿蘇谷(熊本県球磨郡須恵村)預所院主惣公文であった」との記録が国宝「山王十社本地懸仏1面」で確認されている。
★平家貞の子、平家継の兄弟「平貞能」は、宇都宮朝綱を頼って、1185年鎌倉方に投降後、消息不明となっているが、1198年に建立された山江村の寺院「高寺院(たかでらいん)」に平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天を、重盛公供養の為に躯内に納めて祀った。という記録あり。

「白山事件」の関係者・近親者が「球磨」に痕跡を残しているのは偶然かもしれませんが、このような事実があったという事です。

今日は、母に会いに出かけてきます。
では(^・^)

[66]白石さんからのコメント(2014年05月05日 05時57分24秒 ) パスワード

おはようございます。
さわやかな一日の始まりです。
最上郡の服部さんで、三つ柏紋のスレッドを拝見しておりまして、
柏紋ならうち(主人・笹井)も そうだ と 思って 、
又 確か 山内一豊も 三つ柏紋をつかっていたのを テレビの大河ドラマでみたよ
と 思って、
スレッドを読み進むと 真名井神社の話が出て、豊受の神の話などでて、
豊受の神なら 神魂神に通ずるから
いずれ 神様の世界なら だんだんと 小さなわっかになって つながってくるとはおもい
佐田からも つながってくるな 橘氏も 母方の系は この神様につながるし
笹井もつながれば おもしろい 
と思って
つぎつぎ検索をしていました。
スレッドの中で
三つ柏 紋は平忠度流の久間家の紋だそうです。
と 書いてあるのも 見ました。

三つ柏紋と違い柏紋で打ち込んだら、玄松子の記憶の家紋がでて、熱田神宮・千秋氏もつかわれるとあり、
ここは 藤原南家の人が婿養子に入り、源頼朝をだしたところ。
―――――――――――――――――――――――――――

恵比須神社,山内神社も柏紋を使う。


Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!-丸に違い柏

桓武平氏で丸に違い柏の家紋を使ってる家を御存知の方おられませんか? ... 桓武平 氏 良将流 後平氏 違い柏紋 です。 19433 後平 約230 桓武平 ... 長田の多くは三柏 ですが、長田の中での区別で ○に違い柏を使う家ができた、と思います。

このスレッドの3に 
桓武平氏大葦原氏 の 文言があり、以前 子孫様のところへ届いた手紙に 「葦原様」の言葉があったと思っていますが、
葦原という苗字を見て あれっと思ったというそれだけですが、
諸家系図纂に「鎮守府将軍平良将−将平(後平、黒田等の祖) 」と。 
と 続き
相馬 などの 言葉も 見えています。

ここくらいまでしか 見ていませんが
なんだか 面白そう
と思います。
黒田は黒川(田は川に通ずるらしい)で、うちの方の 黒川さんは 宮原さんに縁があるらしい。

平河でなく また 宮原になってしまいましたが、神武天皇も  神魂神につながる系をつくる家(神戸・鷲尾家)が神戸にあるようで、
鷲尾は中原でもあり、佐田にまた 平川に つながってくるのではなかろうか?と 思います。

平安時代以前 の こと。ずいぶんながくなりました。すみません。
[67]子孫よりさんからのコメント(2014年05月05日 10時53分03秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

白石様、ご教示ありがとうございます。

「三つ柏 紋は平忠度流の久間家の紋」でもあるのですね。
「久間家」については、以前、日本の苗字七千傑様からご教示頂いた時に「久間」「くま」という読みについて、何かとても気になっていました。
長田家は、平川の親戚にもあります。
今度、家紋を聞いて見ます(^・^)

「大葦原氏」。ありがとうございます。
この頃、色々な姓が出てきて「葦原様」の手紙の事は調査は全く手つかずの状態でした(+_+)
教えて頂き、本当に助かります。

平安時代以前の事はそれこそ全く勉強していませんので、ご教示の程よろしくお願い致します(^・^)

それから・・
平貞能の子について、情報がありましたので次のコメントでアップ致します(^O^)/

[68]子孫よりさんからのコメント(2014年05月05日 13時13分50秒 ) パスワード

では(^・^)

平貞能の子について、の情報がありました。

史籍集覽 - 第 448 巻 - 25 ページ・三河文献集成: 中世編 - 99 ページ・浪合記: 桜雲記 - 342 ページ 他の書籍にも記述があります。

「肥後守平貞能文治の比より津島に居す。其子貞経肥後國に住せり。 」

日本の苗字七千傑様の《大橋氏》姓氏類別大観に「貞経」と言う方ありました。

平貞経・「大橋氏」についての情報を見たのですが・・・

平貞経の母は「原丈夫高春」の娘でした!

尾張群書系図部集, 第 1 巻に系図が記載されていましたので転記します。

平貞能(検非遣使 肥後守 平家家人) → 貞経(一妙丸 太郎 肥後守 母原大夫高春女 三州額田郡大橋に住す) → 通貞(中将 太郎 肥後守 母白河法皇姫宮 法名如念) → 貞宗(太郎丸 肥後守)

となっていました。

「大橋」については
平貞能が筑後守・肥後守に任じられ、その子左衛門尉が肥後国山本郡大橋に下向大橋城主となって大橋を称したのが始まりである。
という記述がありました。
★肥後国山本郡です。

大橋家伝
http://nanteo.s14.xrea.com/nami/nami021.html

転記します
その先祖は九州の守護・大橋肥後守平貞能である。貞能は平家滅亡の後、肥後国大橋というところに隠れ住んでいた。その後、宇都宮に仕えて常陸に赴き出家した。そして三河国に移り住み、そこを大橋といった。ついで尾張国熱田に隠れ住んだ。農家の娘二人を妾とし、各々二人の女子を生んだ。
★肥後国山本郡大橋に隠れていたのですね。

★続けます。
そんな折に頼朝が貞能の行方を捜索させた。尾張国の原大夫高春が匿っていることが知れたので、梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。貞能は自ら景季の陣に出頭して捕われた。景季は貞能を引っ立てて鎌倉に下りそのまま比企谷の土牢に入れた。
★比企谷の土牢に入れた。(ウィキとは記述が違うようです)

貞能の妻が肥後国で生んだ男子・一妙丸(後に貞経と名乗る)が父の行方を探して鎌倉にやって来た。鶴岡八幡宮に毎夜詣でて法華経を声高く読誦し、父の無事を祈ることが数ヶ月に及んだ。一妙丸の姿形がただならぬ人に見えたので、これをみる人々はみな不思議な思いであった。このことを頼朝卿の御台所がお聞きになって事情を調べ、頼朝卿にお話しになった。頼朝卿は一妙丸を連れて来させてその理由を聞いた。一妙丸は泣く泣く父のことを話した。これにより気の毒に思って貞能の生命を助けて所領安堵の下文を与えて九州に帰してやった。これが大友の元祖である。

★貞能の妻は原大夫高春の娘。(良峯氏です!!)
★男子・一妙丸(後に貞経と名乗る)
★貞能の生命を助けて所領安堵の下文を与えて九州に帰してやった。これが大友の元祖である。(わ〜〜〜!!大友家に繋がりました)

★マダマダ続けます!
源の一法師が貞能の家を継いだのである。貞能を尾張で匿っていた原大夫高春は千葉上総介広常の外甥であり薩摩守平忠度の外舅であるとか。
★あああああ!!父と伯父にお顔がそっくりな「薩摩守平忠度」の登場です!

★続けます〜〜!!
貞能が尾張で儲けた四人の女子 源頼朝は鎌倉に呼んで・・
★頼朝卿は鎌倉に呼んで一人を三浦の佐原太郎平景連に嫁がせた。真野五郎胤連の母である。
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
ぎっ!義連様(あっすいません)佐原義連の子 佐原景連です!!
佐原氏に繋がりました!

★また一人を佐々木三郎兵衛西念に嫁がせた。小三郎盛季の母である。

★一人を安芸国の羽山介宗頼に嫁がせた。

★一人を大友四郎太郎経家に嫁がせた。豊前守能真の母である。

あの・・・・
肥後国山本郡に住した後に球磨に来て・・「良峯氏」で・・「源頼朝」の怒りをかったけれども「子供が安堵されて」・・「佐原氏」に繋がり・・・「大友氏」に繋がり・・・後もう一つ!父と伯父に「顔がほぼ同じような」平忠度公に繋がり・・・・

偶然でしょうか!!!!?

おやっ??待てよ(゜-゜)
状況が良く似ているのは、平安末期〜の球磨の「平河」ですね・・
その前は?

いや、偶然かもしれませんので早合点はいけませんね(ー_ー)!!

という調査状況報告でした(^・^)


 

[69]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年05月05日 16時42分36秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>貞能の妻は原大夫高春の娘。
 
貞能の子、通貞は三河国額田郡大橋に居住して大橋を称する。
後裔の貞高は尾張海東郡津島奴野城を築く。
最終的には尾張に落ち着く。
 
良峰依高/師高と丹羽季高/高成は時代が同じ。
高の通字も同じ。
恐らく依高は丹羽臣躬依の後裔と思われる。
従って玄理と依高の間に9代程、系図が不明なのでしょう。
 
この度、良峰系図を補訂しましたのでご参考に。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm
[70]白石さんからのコメント(2014年05月05日 19時49分47秒 ) パスワード

柏紋ならうちもそう
は 少し 飛びすぎました。

こちらの お寺にある笹井のお墓の一つが 違い柏紋です。
前に 笹井をしらべたことがあって 下の笹井が柏紋かどうか?ですが 

福島大神宮 - 北海道神社庁


本州からの渡海者が伊勢皇大神宮の大麻を奉じて「カムイナイ」(アイヌ語)という小沢に 鎮座したと伝えられる。天正2年(1574)福島村常磐井家の遠祖常磐井治部大輔藤原武 衡再建。更に慶安2年(1649)9月16日村中にて再建。時に3代祠官笹井(常磐井) ...

今 この表題に 笹井(常磐井)のことばがあり、常磐井遠祖・西園寺です。
苗字が次々と 新しく出てくるので ややこしいですが、

伊藤博文が 自分の片腕にしようと
西園寺をパリに 近衛をドイツに留学させたら
西園寺はばりばりの社会主義者になってかえってきて 
近衛はかちこちの保守派になって帰ってきた
ということを 本に書いてありましたが、

政治向きのことに目を奪われていては 真実はわからない
ご先祖様をしりたいだけなので、たんたんと 調査したいと思います。

私自身 政治活動はしておりません。もちろん 国民の一人として 自分たちの暮らしを中心に 同級生たちが暮らす故郷も よりよい生活ができるようになればいい と 思っています。

鳥インフルエンザも大事に至らず 良かった。
それにつけても
うなぎ あゆ やまめ などとともに 鳥を家で飼っていて(自分とこで食べるだけでしたが)それを じゅって(殺して) 火であぶって キャベツと一緒に塩を振りかけて食べましたが おごちそうでした。

今度
同窓会の時 小学一年の時の記憶で 我が家は藁屋根で、下側の方だけ瓦を使ってあったのだけど、戦後海軍をやめた父が 山へ行くために買い求めたもので、何かしら わたくし 引け目を感じていたのですね。今考えると どうしてなのか。どこもここも同じ状態だったのに・・・母の嘆き悲しみを見ていたからでしょうね。平川のおばの ここば 都にすれば良かとー という声がよくとんでいました。

で、朝 その日 弁当を持たされなくて、はやとちりで うちは 弁当も持っていけない と 思っていたようで、
10時ころ お赤飯が入ったお弁当を母が届けてくれたとき 大泣きしてしまいました。
今度 そのことを 皆に話したら
皆 顔を見合わせて
「わたしら おせきはんなんか 食べさせてもらったこともなかった」と 言いました。友達の一人は 学校の授業は行かせてもらったけど、バレーのクラブなど入らせてもらえず 悔しい思いをしていた。と 前に言ったことがあり、
ピアノなど習わせてもらえた自分 今思うと おごちそうではないか と思う食材 を いただいていた自分 なのに、まわりを知ることもなく わがままを母にぶつけていたことを 深く反省しています。

私は 指を切ってから ピアノをあきらめましたが、
一つ年上の 赤坂さんは 東京の音楽学校(と聞いています)に進み、先生になり ついに このたびの同窓会で 校長先生になっとらすとよ と 聞きました。頑張り屋さんのひとでした。

赤坂 これも 相良氏族と 姓系辞典で みました。が、7000傑様の方では小山氏の子孫にあります。結城氏の文字が系に見え、小山と同じ字の(読みがおやま こやま で ちがうのではないか?と思う)家が地域にあり、ちかくにいるのは 似た関係かしらん と 思います。

今 ご調査の こととは 関係があまり ありませんね。
[71]子孫よりさんからのコメント(2014年05月05日 23時06分17秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様、【良峰氏】姓氏類別大観を拝見させて頂きました。
玄理から 椋橋姓 → 良峯姓 → 橘姓 → 良峯姓 
丹羽臣躬依から依高までの流れを突き止めていきたいと思います。

以前、調べていた時は、どうしても、尾張の「良峯姓」に繋がらなかったのに、ここに来て、やっと肥後と尾張「良峯姓」の原氏の繋がりを見つける事が出来ました。

鎌倉時代以降における「平河」の記録では関東下知状をはじめ、当時の「肥後守」と、なんらかの縁があるようですが、平安末期の平貞能も「肥後守」でした。

丹羽臣躬依の年代をまだ、確認していないのですが、
貞観15年(873年)〜仁和1年(885年)この12年間の肥後権介は「良峯晨茂」でした。
この期間に「何があったのか?」「丹羽臣躬依」との繋がりは?等を調べていきたいと思います。

白石様、西園寺公経は豊冨郷(久米郷)だけではなく、人吉庄の一部を公経の娘倫子が所領していたと記述されていました。
白石様のご先祖様との繋がりが見えてくるかと思います。(^・^)

鳥インフルエンザは感染拡大の恐れがなくなり、本当に良かったです(^・^)

「お赤飯」の思い出ですね(^・^)

そこで、思い出したのですが、岡原霧島神社のお祭りの際は、何故なのか良く解りませんが、村の家々では「お赤飯」を炊いてお祝いをしていました。

あの実は、私、多分、一番好きな食べ物は?と聞かれたら「赤飯」と答えると思います。(変わっていると良く言われます)
本当に、大好きなのです。
脱線してしまいました<(_ _)>

では、調査、がんばります(^・^)






[72]子孫よりさんからのコメント(2014年05月06日 00時01分48秒 ) パスワード

追記

日本の苗字七千傑様の【多 氏】姓氏類別大観に
「最古の皇別であり神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔が多姓を賜うに始まる。」
とのお言葉があります。

実は、昨日、気がついた事があります。
初めて知ったのですが、昨日、ご紹介したサイトに
【多良木町】王宮神社(おうぐうじんじゃ、黒肥地神宮)について記述がありました。
http://yumeko2.otemo-yan.net/c4034456.html

県重要文化財
王宮神社(おうぐうじんじゃ)
古来より王宮と称し、明治元年(1868)に黒肥地神宮(くろひじじんぐう)と改称された。
創建は大同2年(807) 日向国(宮崎県)の住人・土持太郎、田部忠網が久米蓑毛(現・多良木町久米)に墨、多良木源島に帝廟(天子のみたまや)を勧請した。その後現在地に遷座したもので、御祭神は神武天皇である。
楼門は応永23年(1416)、相良頼久によって建立されたが、その後、数回にわたって修復されている。

創建は大同2年(807)。御祭神は神武天皇。

青井阿蘇神社は創建大同元年(806年)
御祭神の名は、初代の天皇である神武天皇の孫にあたられる健磐龍命(たけいわたつのみこと)、その妃の阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)、お二人の子供の國造速甕玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと)の三柱の神々。

ほぼ、同時期に「王宮神社」と「人吉青井阿蘇神社」は創建されたという事です。

しっかりと「多氏」について勉強したい!と改めて思いました。

そして、もう一つの情報ですが
阿蘇神社 (羽島市) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%98%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE_ (%E7%BE%BD%E5%B3%B6%E5%B8%82)

阿蘇神社(あそじんじゃ)は、岐阜県羽島市にある神社である。美濃路沿いにある、羽島市小熊地区(旧・羽島郡小熊村)の産土神であり、「小熊一宮」とも言う。
祭神[編集]
阿蘇都彦命
熊本県の阿蘇神社の祭神、健磐龍命と同一神である。

由緒[編集]
創建時期は不明。一説によれば、大橋氏がこの地に移住したさい、肥後国阿蘇神社から分祀した神社という。

その他[編集]
天正14年(1586年)の木曽川の大洪水により、当地域は尾張国葉栗郡から美濃国羽栗郡に変更されている。このことから、阿蘇神社を創建した大橋氏は、平家一族の尾張大橋氏(平貞能の子孫)と推測されている。

このような形でも繋がっているのですね(^・^)

では(^・^)


[73]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年05月06日 17時24分52秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

丹羽玄理を良峰宗貞の子とする年代的矛盾について。
 
良峰安世( 785ー 830)
良峰宗貞( 816ー 890)
素性法師(  ー 910)

丹羽躬依(生没年不詳)
丹羽玄理(生没年不詳)
丹羽恒則( 848ー 904)

冷静に見れば、宗貞と玄理が同時代が妥当で玄理を宗貞の実子とするのは無理。
宗貞の男子三人(弘延、素性、由性)は出家で、玄理を宗貞の猶子か養子にした可能性も有り。
[74]白石さんからのコメント(2014年05月06日 20時49分26秒 ) パスワード

こんばんは
連休もあっという間に終わります。明日から仕事。
体調を崩さないように頑張ります。

同窓会の時 一人が 秋に作った干し柿を冷凍保存していたともってきました。
皮もやわらかく 熟柿のように中はトロトロで大変おいしかったです。
前にあさぎり町にゆかりのある方のブログでも、干し柿を作ったと写真を載せてありました。真っ赤なルビーのような柿で、我が家でつくっていた柿は かたくなって白い粉を吹いて いました。どうしたらあんなにおいしそうにできるのだろうとずっと思っていました。
同級生に作り方を教えてもらいました。今年は挑戦してみようと思います。
もっと早く知っていればよかった。同級生は田舎でもそういうつくりかたをしていた。と言っていたので、母世代で誰かに聞けば、うちも早くからああいう美味しい干し柿がつくれたのに ・・・ と 少し残念な気持ちです。

文化が失われるとは そういうことでしょうね。
わずかでも 途切れると 次に 水準を高めるのには 時間がかかると思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

尾張国葉栗郡
という言葉から 栗 栗と 思い 「葉栗命」がでてこないか? と思い 検索
でも わたくしの意識では 高倉下に関与しているということでしたが、
残念!!手栗彦命が高倉下の別名でした。

でも ひょんなことに 子孫様がスレッド5で書かれていることに つながっていきました。 

大野城がでる。
ウィキより
★京都石清水八幡宮の祠官で[当時の尾張国葉栗郡若宮寺村(後の美濃国羽栗郡若宮寺村、現岐阜県羽島郡岐南町)に在住の大野伊賀守治定

日本の苗字7000傑大野氏が出る。
肥後の国でも 前に 大野が出ましたよね。尾方に関与していました。

大野氏 (豊後国) - Wikipedia
大野氏(おおのし)は、日本の氏族。豊後国における有力 ... そして、惟基の子のうち栄基 が領地の名称である「大野」を苗字としたのが豊後国の大野氏の始まりである。以降の 当主も ... 詳しい系図は「日本の苗字七千傑 大野氏系図」(以下外部リンクより)を参照。


[75]白石さんからのコメント(2014年05月06日 21時09分04秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑大野氏で検索すると
何個か系が出て、大神 中原 十市 などでる。


葉栗命で検索をかけると 子孫より5 24と同じ内容がでました。 
由来-沿革

山城の式内社/雙栗神社(京都・久御山町)

社名の由来は諸説があって定かでないが、羽栗と殖栗の間に鎮座していたから双栗と 称したといわれ、また、この地を支配した古代豪族の葉栗氏の祖神を祀った氏神社で、 葉栗が雙栗に転訛したともいわれている」 とある。 当社の創建年代は不明だが、卜部本 『 ...

このサイトを見ると
 当社の祭祀氏族と推測される葉栗氏(羽栗氏)とは、古事記に
 「(孝昭天皇第一皇子)天押帯日子命(アメノオシタラシヒコ)は春日臣・・・小野臣・・・羽栗臣・・・の祖なり」
とある氏族で、山城国乙訓郡を本貫とするという。
 新撰姓氏禄(815)には
 「左京皇別 葉栗臣 和安部朝臣同祖 彦姥津命三世孫建穴命之後也」
   左京皇別 和安部朝臣 大春日朝臣同祖 
   左京皇別 大春日朝臣 出自孝昭天皇皇子天帯彦国押人命(=天押帯日子命)也
 「山城国皇別 葉栗 小野朝臣同祖 彦国葺命之後也」
   山城国皇別 小野朝臣 孝昭天皇皇子天足(帯)国押人命之後也
の2氏がみえ、当社に関連する葉栗氏(羽栗氏)は後者の流れであろう。
 系譜としては、孝昭天皇−−天押帯日子命(天帯彦国押人命)−−和邇日子押人彦命−−彦姥津命−−彦国葺命−−建穴命となる。
となって 前からの どどめぐりの話になる。

[76]子孫よりさんからのコメント(2014年05月06日 22時19分11秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

年代でいうと
良峰宗貞と丹羽玄理が同年代

素性法師と丹羽恒則が同年代

という考えで良いのでしょうか。すると
丹羽躬依と良峯安世は比較的近い年代と言う事ですね。

しっかり念頭に入れて調査致します。

ありがとうございます。

白石様、
私、「尾張国葉栗郡」からの発想には全く頭が回っていませんでした。
ありがとうございます。

葉栗郡は大野氏にも関係していたのですね。

そして葉栗氏(羽栗氏)ですね。
葉栗氏・大橋氏・大野氏の繋がりにも興味が出てきました。

ご教示頂きありがとうございました(^・^)










[77]子孫よりさんからのコメント(2014年05月07日 13時47分53秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

(*_*)何時間もかけて大田亮氏の「尾張」を転記していたのに・・
ブラウザをIEからgoogleChrome に変えて、まだまだ慣れずに、開いていたページを閉じたら、こちらのサイトも一緒に閉じてしまい(*_*;・・
貴重な時間が無駄になってしまいました。

気を取り直して(きっと簡潔にまとめなさい(ー_ー)!!と言う意味かな?)

まず、
「丹羽躬依」この方についてですが
愛知県史: 古代 1-2 - 643 ページ より(googleブック検索)
丹羽臣〔ナシ〕続紀十七郡司擬少領老万呂 I 〔位〕従六卡左近将監嗣枝延暦十一一年二月任大舎人躬依飛驿介郡: ^少領 ...
★左近将監嗣枝
★延暦十一一年二月任大舎人躬依飛驿介郡(飛騨?)

延暦11年?(792年)2月 大舎人躬依飛驿介郡 という風に理解できるのでしょうか。
年代がある程度見えてきました。

そして
丹羽玄理について調べていた所、大田亮氏の「尾張」に(全て転記はもうしません(ー_ー)!!まとめます)

椋橋宿禰 
多臣族丹羽縣主流 前條と同一氏が丹羽郡大領なるより多臣族丹羽縣主の裔ならんと思わる。
■此縣主の族人、椋橋部の部分的伴造となりて此部名を負へるなるべし
大政官府、尾張國司、丹羽大領外正六位上椋橋宿禰惟清云々、長元四年二月二十七日と見ゆるは此氏人なり、代々丹羽郡司なるが後桓武天皇皇子良峯安世の後と稱し、良峯氏と冒す、椋橋氏を見よ。
椋橋氏 椋橋宿禰の後ろなり。・・・

と記述されていました。
「丹羽玄理」は「丹羽姓」から「椋橋姓」に改姓したと考えるのが妥当と言う事ですね。
ただ、本姓「良峯氏」と「玄理」の代から伝えた訳ではなく、後世、上記記述で言うと長元四年二月二十七日椋橋宿禰惟清が代々丹羽郡司なのに良峯安世の後と稱し、良峯氏と冒した・・という記述を大田亮氏が書かれているという事ですね。

長元四年と言うと1031年ですね・・・

さっ!調査続行します。

では(^・^)



[78]子孫よりさんからのコメント(2014年05月07日 19時27分07秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

尾張の丹羽氏・葉栗氏を調べていて「尾参宝鑑」を読んでいたのですが、
偶然です。偶然、見つけました。

先入観は持っていません(ー_ー)!!

見つけた記述は・・

葉栗 小胡麻郡司維季

藤原師高を討ったと言われる「小胡麻郡司維季」は「葉栗」に住する。

他の記述には
平家の家司にて、小熊に住みし人なりとあります。現在、岐阜県羽島市小熊町 。

昨日コメントした葉栗郡。 現在の岐阜県羽島市小熊町 ですね。

美濃国葉栗郡小熊邑(もと尾張)。此の地乂小胡麻とも、又小隈ともあり。

「維季」・・・丹羽維季と言う記述もありました。

日本の苗字七千傑様の良峯氏 姓氏類別大観に「惟季」と見えます。
椋橋姓で「是季」という名の方も。

《椋橋姓丹羽氏》姓氏類別大観も拝見しました。
惟光 → 惟清 → 惟季 とありました。

惟清とは昼にコメントした椋橋宿禰惟清ですね。

と言う事で

「小胡麻郡司維季」は「葉栗」に住した という調査報告でした

では(^・^)
 




[79]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年05月07日 22時00分25秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「丹羽玄理」は「丹羽姓」から「椋橋姓」に改姓したと考えるのが妥当と言う事ですね。
 
現在、妥当な見方でしょう。
丹羽躬依以前の系譜はこちら → http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222a.htm#002
 
尾張国海部郡島田郷に居住で島田臣。
丹羽郡に移住して丹羽臣。
葉栗郡もお隣。
 
最終的には多臣氏族。
肥後には地縁が深いわけだ。
[80]子孫よりさんからのコメント(2014年05月08日 00時40分52秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「肥後には地縁が深い」

尾張と肥後の関係が調査によって解ってきました。

球磨の「平河」との関係が記述によって明らかになれば良いのですが。

所で、調査をしている中で、又、新たな情報を見つけました。

「名古屋市史」を読んでいると、沢山の気になる記述が載っていたのですが、まずは、「藤原師高」「平景清」この方々についてをご紹介いたします。

【藤原師高についての記述】名古屋市史より

師高は藤原師光(西光)が子なり、罪ありて弟師平、師親二人と共に井戸田に謫せらしを、清盛更に追討の士を差下せり、折ふし師高川狩りして、國中のものども多く集め、水邊に假屋をしつらへ、遊君を呼び集めて、今様歌ひ琵琶弾き面白かりけるが、酒宴半に師高が母の方より討手の事を告げたりけるに、師高配所を逃れ出で、蚊野(富國小熊・今は美濃にはいる)と云う所に忍び居けるを、討手下向して、小胡麻郡司惟長、川室伴官代範明等と共に押寄せ、散々にふるまひければ、兄弟三人惟長が為に討たれ、郎等ども皆誅せられぬ。・・・・・
★師高の墓は小袖塚・伯母塚・等と呼ばれ、塚の横を流れる川は小袖川もしくは袂川と呼ばれます。
転記続けます。
此の川を一名錦川と云う、名義は詳ならず。・・・・

まとめました。
★小胡麻郡司惟長となっています。「惟季」ではありません。
★記述の中で「師高が母の方より討手の事を告げたりけるに」とあります。
流罪の際は「母」は同行出来るものなのでしょうか?同行したのか、もしくは「師高の母は、元々、尾張に居していた」と言う事になりますよね?。
そして、母は討手が来る事を事前に知って、師高に告げ、師高は「配所を逃れ出で蚊野(富國小熊・今は美濃にはいる)と云う所に忍び居ける」となるわけですね。
★小袖川 は「錦川」との一名をもっている・・名義は詳ならず

では続けて「平景清」。この方についての記述です。重要な所を抜粋します。

悪七兵衛景清の宅跡と■すもの三所あり、熱田南新宮社の北なる・・・右の中何れか真なるやは知り難し、景清は大宮司季範の伯父なりと、一説に大宮司の聟なりと、要するに大宮司に縁邊ありて、身を寄せたりと察せらる、・・

★平景清(藤原景清)は大宮司季範の伯父、もしくは大宮司の聟。

驚きました・・・。

肥後には地縁が深い・・・・。

推測はしません。あくまでも、「名古屋史」の転記に留めます・・

では(^・^)
 
[81]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年05月08日 20時10分06秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

葉栗郡といえば建穴命の後裔の葉栗臣だが、後裔は衰退。
葉栗の地名を負った丹党井戸葉栗系図にある葉栗国綱以降が武蔵から進出したようだ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02131c.htm#007
 
また二階堂氏が葉栗郡西門真庄を本拠とする。
丹羽氏も高純から児玉を名乗っていることから、丹羽郡には武蔵から児玉党が進出したことがわかる。
旧国名別苗字大観の尾張も参考に。
http://www.myj7000.jp-biz.net/map/map.htm
[83]子孫よりさんからのコメント(2014年05月09日 00時31分53秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

山田氏 → 葉栗氏 となるのですね。

「山田」は良峯依高の子が「山田」を名乗り 山田遠高。
山田城はその後、少弐氏の2大拠点の一つとなる。 

そして、
「二階堂氏が葉栗郡西門真庄を本拠とする」

二階堂氏は平河の訴訟に深く関わっているわけですから、やはり「葉栗」とは「平河」は縁があると言う事ですね。

「児玉党」も丹羽郡に進出。
全体を理解する為にも「児玉党」について勉強します。

では(^・^)
[84]子孫よりさんからのコメント(2014年05月09日 09時38分09秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

先日、白石様より、平川家についてスレッド5の内容を指摘して頂いて、再度、読み返していたのですが・・
あの時は、全体像が全く解っていなくて、調べた事が、どう繋がっていくのかがコレマタ、意味が解っていませんでした。
今、読み返すと、やはり、「一つの点」であり、今になって線が見えてきたという感じです。


コメント72でご紹介した王宮神社について 再度・・
王宮神社(おうぐうじんじゃ)
古来より王宮と称し、明治元年(1868)に黒肥地神宮(くろひじじんぐう)と改称された。
創建は大同2年(807) 日向国(宮崎県)の住人・土持太郎、田部忠網が久米蓑毛(現・多良木町久米)に墨、多良木源島に帝廟(天子のみたまや)を勧請した。その後現在地に遷座したもので、御祭神は神武天皇である。

★日向国(宮崎県)の住人・土持太郎、田部忠網

田部氏について、日本の苗字七千傑様より、やはり「平川家について5」コメント28でご教示頂いていました。
「田部直亥宿禰は宇佐八幡宮の総弁官なのだから、秦韓(辰韓)系」
そして同 コメント88に繋がっていき・・そして、今回の王宮神社についての調査に繋がってきたという事です。

日本の苗字七千傑様の【田部氏】 姓氏類別大観をあらためて拝見しました。

豊前の田部勝の後裔にして、日向纂記に「直亥宿禰は宇佐八幡宮の総弁官たり、田部姓を賜う、斉衡2年(855)日向国の土持冠者影綱、及び豊後国緒方次郎等を宗徒の大将として、勅宣を蒙り、大隅国に発向けるに、程なく逆徒悉く平らぐ」と見える。
「後裔は土持七頭として栄える」と記述されていらっしゃいます。

王宮神社(創建:大同2年(807年)に関係をした「土持太郎、田部忠網」この方々は土持冠者影綱より、前の世代と言う事になるのでしょうか。

当時の球磨は宇佐との繋がりもあったという事ですね。

この時代の事を調べることによって、尾張・丹羽躬依への繋がりが見つかれば嬉しいのですが。

では、調査頑張ります。(^・^)





[85]白石さんからのコメント(2014年05月09日 20時29分18秒 ) パスワード

こんばんは
市房神宮も同じ大同年間に霧島神宮から勧請されたのですよね。

相良頼景は 黒肥地に預けられてから 上村に行った ようですが、この神社だったのでしょうかしら? または どこか 個人の家だったのでしょうか?
球磨郡誌には 黒肥地としか書いてなかったようです。
[86]子孫よりさんからのコメント(2014年05月09日 23時23分36秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、コメントありがとうございます。

相良頼景は「黒肥地(現多良木町大字黒肥地)蓮華寺の東の前に館を築き着実に地歩を固めていくのである」
と「変貌する須恵村: 社会文化変化の基礎的研究」に書かれているようです。

場所は、王宮神社の近くかどうかは解りません。すいません(・_・)

蓮華寺の東の前と言う事ですね・・・

人吉青井阿蘇神社 王宮神社 市房神宮 ほぼ同時期に創建と言う事ですね。

今日は、本を読んだりして、基礎知識?を養っていたので、進捗状況報告はありません。
★気になる記述はいくつか見つかりました。

でも、何も知らずに、重要な情報を見落とす事がないようにしないと(*_*;

がんばります。(^・^)
[87]子孫よりさんからのコメント(2014年05月10日 16時16分42秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

朝から今まで「発見して」「間違えて」「発見」しました!(?何の事やら?との声が)
今日のキーワードは「間違いは」「発見の元」でございます。

先ず「一つの発見」から
どうやら、宇佐神宮に伝わる「宇佐大鏡」の中に「平河師貞」に関しての記述があるようです。

肥後における集落の展開と祭祀 - 180 ページ より googleブック検索にて

※相良家文書第二号球磨郡田数領主等目 I ま写 1 豊後国長安寺太郎大像結緣交名衆銘文 2 八榷宇佐宮御抻領大镜 3 建久図田帳諸県郡安楽字領 ... 諸県郡図田帳同紀平次平川師貞承久 2 (じれ)同伊勢弥ニ郎@太郎天像 2 宇佐大鏡 4 伊勢文書勢至 ...
★建久図田帳諸県郡安楽字領 ... 諸県郡図田帳同紀平次平川師貞
何故?諸県郡?
★伊勢弥ニ郎 についての記述もあるようです

他の書籍でも「八幡宇佐宮御神領大鏡」にやはり「平川師貞」の記述があるとの内容があり、「平河師貞」について、球磨以外の調査は行っていない事に気がつきました。

では続けて
「間違った事」についてです。
上記の件がきっかけで「師貞」をgoogleブックで調べていた所、「摂津盛師貞」という記述が多くある事に気がつきました。
例えば・・
高知県史 - 473 ページ より
『竹陽古今考』に「鹿子木氏系^一一云、斎院次宵親能四代安芸守中原良房嫡男太郎師時、合志郡竹迫ノ城主ナ 9。後(次力)筑後国三池ヲ以テ為-一家号一。又曰鎌足公十五代ノ孫斎院史官親能ノ四男摂津守師貞、其子大学師俊、其子安 2 守良房、其嫡子 ...
★鎌足公十五代ノ孫斎院史官親能ノ四男摂津守師貞

増補考古画譜 より
摂津守師貞駿河判官光村等「被茀紳呀 ˊ 乎.永福寺內地者.御臺嘛御願寺料.內^〉被)定云《.伊賀式部入道光西奉行)圃高野山十二天扉鎰繪圃 ...
★摂津守師貞 ★駿河判官光村 等となっています。

しかし・・
大分県郷土史料集成: 戦記篇 
親能の時・祝朝公より源氏の姓を賜り、親能の四男を折津守師貝土安。共千大硅師皮、丼子安茸守貞房也・貞房に二手有。妨子三也上ハ郎師時・合志称竹坦の匁弟稗莱典硅把八七五相良家ノ I 相良氏は・大枇冠抹足公九世の昧・珪江守其意杢之助たるに佐 ...
★相良氏の記述も見えますが、親能の四男?

これは、「中原師員」の事だと気がつき「がっくり(+_+)」と・・・

とっ所がです!!
この調査がきっかけで「発見」した事があります。

政治経済史学 - 第 307〜318 号 - 67 ページより

貞鑑,次男貞政,三男貞家に、肥後に相伝レ&また正和一一年十一一月尼しんね, ^は上野国大八木郷.下野国あひこ村,肥後国久米郷を六郎貞家に譲 7 た。同 I が。彼は 1 ...
また「中原系図」は師俊のあと 851 貞時とあ師俊に関する 1 は一切見えない。、ころからで ...
念」は、貞時^ 1 の弟貞継と 1 さおる。安九年閏十一 13:; ? :合戦の賞として筑^ ! ^「原(金井手)地頭職が与えられたが、同地頭職の旧領主「木工助三郎入道々年五月三池近房は肥後国六ケ庄内鲶揶,筑後国三池南郷内田^ 8 頭職の安堵につき、三池貞元の起

★貞鑑,次男貞政,三男貞家
★上野国大八木郷.下野国あひこ村,肥後国久米郷を六郎貞家に譲る。
★貞時 貞継 の名が確認できます。

日本の苗字七千傑様の「中原氏」《親盛流》姓氏類別大観を早速確認させて頂きました。

師茂 → 師員(★この方を師貞と間違っていたのですね) → 師俊 →
→ (三池)貞房 → ここで 貞時 (鹿子木)貞数 (三池)貞継と分かれるのですね。

貞時から
貞時 → 貞俊 → 貞致 → 「貞鑑・貞政・貞家」★「貞鑑,次男貞政,三男貞家に、肥後に相伝レ」・・この記述と一致しました!

そして・・
貞家・・「上野国大八木郷.下野国あひこ村,肥後国久米郷を六郎貞家に譲る」
肥後国久米郷は貞家に譲られたと言う事ですね。

貞家から
貞家 → 親元 → 頼親
「親元」はすでに今までの調査で久米郷西方を領していた事が解っています。

という事は・・
中原氏《親盛流》の「貞家」も肥後国球磨郡久米郷西方に関係していたという事ですね。

平河系図にも「貞家」。★平河貞家軍忠状が記録としてあります。
そして「中原氏」にも「貞家」なおかつ球磨郡久米郷に関係。

同時期の球磨に二人の「貞家」?

そして、平河家伝授巻の系図には
「貞時・貞家・貞継」の名がありました。

そう言えば・・
先日コメントした「平貞能」についての調査で
★貞能の妻は原大夫高春の娘。
★男子・一妙丸(後に貞経と名乗る)
★貞能の生命を助けて所領安堵の下文を与えて九州に帰してやった。これが大友の元祖である。
貞能が尾張で儲けた四人の女子 源頼朝は鎌倉に呼んで・・
★一人を三浦の佐原太郎平景連に嫁がせた。真野五郎胤連の母である。
★また一人を佐々木三郎兵衛西念に嫁がせた。小三郎盛季の母である。
★一人を安芸国の羽山介宗頼に嫁がせた。
★一人を大友四郎太郎経家に嫁がせた。豊前守能真(能直?)の母である。

「中原氏」《親盛流》そして大友氏・・「同族」ですね

最近の調査を含めて今まで、平河を調べてきて
「良峯氏」「丹羽氏」「藤原氏」「平家」「紀氏」「北条氏」「二階堂氏」「佐原氏」「比企氏」「中原氏」「大友氏」(他)と様々あがってきたのですが、
「平川家の一支流が残した平河家伝授巻は・・・」
と書かれていた書籍の記述を読んで、自分でも「ハッ」と・・納得しました。

平河は球磨における伝承では相良氏に師貞以外の主流は一旦せん滅されたとなっています。
ただし、その戦の際に「女・子供」は五木に逃がしていたと。
その後、子孫は、其々「支流」をなして、球磨に「平河」の名跡を残してきた訳です。
其々の支流が、「平河」の血縁関係または同族と姻戚関係や養子縁組などを行い、「平河」は後を継いできた。
だから、断絶には至らなかったのでしょう。

その結果が、今の調査に繋がっているのだと思います。
そして、南北朝の戦いでは其々の支流が「南朝方」と「北朝方」に分かれて戦ったのかもしれません。(先入観はいけませんね(ー_ー)!!)

ただ、複雑に絡み合った「糸」は、最初はきっと1本の糸であったのでしょうから、その糸が「良峯依高」であり「師康」「師澄」と遡っていくのでしょう。

ただ、自分の先祖ながら「先祖様、隠し事が多いですよ(ー_ー)!!」と言いたいですね。

何故、ちゃんと「まともな?」系図を残していないのかな〜?と。
後世では、記録や古文書(鎌倉遺文など)でこのように解ってくるのにですね・・・(?_?)

でも、自分がこの世に生れてこれたのは先祖様のお陰ですから
感謝しています。(^・^)

では(^・^)








[88]子孫よりさんからのコメント(2014年05月11日 11時49分04秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

昨日、二人の「貞家」というコメントをしましたが、

平河の「貞家」は八郎
中原氏の「貞家」は三郎

なお且つ、平河では「貞家」の後「貞世」が見えますが、三池氏(中原氏)では「貞世」は見えません。

「先入観を持たないようにしなければ真実には繋がらない」
どうも、私は「先入観」を持っていました。
反省しています。

平河貞家軍忠状は、ネットでは見れません。
こちらも国立国会図書館のみでの閲覧可能と言う事なので、
この軍忠状を研究した書籍が複数見つかりましたから、今日、まず図書館で確認してきます。

南北朝期九州守護の研究 - 26 ページ
中世九州の政治社会構造 - xlix ページ
九州地方中世編年文書目錄: 南北朝時代篇 - 148 ページ
Kadokawa Nihon chimei daijiten - 第 43 巻 - 369 ページ

上記の書籍で関連する記述があるようです。

頑張ります(^・^)

[89]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年05月11日 22時08分18秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

平川姓の苗字地は球磨郡木上邑平川(現:球磨郡錦町木上東平川)でしょう。
遠江からの地名遷移の可能性が高いが。
現在の平川姓は、錦町に9軒(木上には3軒)。
書籍の調査も良いが、機会があれば併せて現地調査も必要なのでは?
 
http://www.mapion.co.jp/m/32.23341944_130.85836111_8/v=m1:%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E7%90%83%E7%A3%A8%E9%83%A1%E9%8C%A6%E7%94%BA%E6%9C%A8%E4%B8%8A%E6%9D%B1%E5%B9%B3%E5%B7%9D/
[90]子孫よりさんからのコメント(2014年05月11日 23時27分44秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

球磨郡木上邑平川(現:球磨郡錦町木上東平川)の地図ありがとうございます。

ぜひ、現地調査行いたいと思います。

木上もしくは深田の「平川」さんは父の学生時代から今に至る親友で、実家にも良く遊びに来られているので、きっとお話が聞けると思います。

本日、図書館に行ってきまして、
南北朝期九州守護の研究
中世九州の政治社会構造
を借りてきました。

今から、じっくりと読みたいと思います。

では(^・^)




[91]子孫よりさんからのコメント(2014年05月12日 12時22分48秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

「平河貞家」の軍忠状について調べたいと本を借りたのですが、詳細は(筑前国椿・忠隈・大宰府合戦等に関する)としか記述はありませんでした(+_+)

がっ!!しかし!!
平河系図に載っていた、別の人物についての記述が見つかりました!

平河六郎貞行 です。
「山江村誌」には、「貞行」について、記述があったのですが、こちらには転記していませんでした(+_+)
あらためて、スキャンしていたページで確認すると

貞行六郎 弓削田地頭 苗字弓削田 とあります。

南北朝期九州守護の研究 中世九州の政治社会構造 での記述です

建武三年四月廿九日 「大宰少弐(頼尚)」施行状「将軍家御下文并御教書(御寄進状)」に任せて、豊前国(京都郡)得永地頭職を長門国串崎若宮大宮司惟包に遵行。「弓削田六郎入道相共」「白土新三郎相共」
白土新三郎(保坂潤治氏所蔵手鑑) 弓削田六郎入道(萬代亀四郎氏所蔵手鑑)

この記録についてネットでも記述されていました
日本民俗学 - 第 97〜108 号 - 18 ページ
弓削田六郎入道なる者が、豊前国守護職小武頼尚から、豊前国地頭職を長門国串崎大宮司へ沙汰すべく命を受けて使節となっている。(『田川市史」上卷)〔 8 〕明応八〔一四九九)には大內氏より弓削田荘内の田地四(または六)町が規矩郡の門司宗 ...
★規矩郡の門司宗 ... 門司氏?。弓削田荘に関係しているようですね。

田川市史 - 第 1 巻 - 430 ページ より
白土新三郎とともに、豊前国得永村地頭職を長門国串崎大宮司へ沙汰付けすべく命をうけて使節となった弓削田六郎入道がみえる。命令を発したのは当時豊前国守護に(柱るなった少贰頼尚であるから、弓削田氏を豊前国の武士と推定できる。弓削田の地名は ...

弓削田地頭 六郎貞行・・・以前から「弓削田」とは何処かな?追々調べよう(・_・)とは思っていたのですが・・

弓削田荘とは
現在、福岡県田川市弓削田

地図を見て、驚きました。前職で担当していた事業所があり、頻繁に出かけていました。そう言えば、立派な神社様があったような気がします?
鉱山があり、地下には筑豊炭田の坑道が張り巡らされていると聞いていました。


ただ、早合点はいけないので・・
それでも「平河の貞行」が地頭となった場所ではないかも?と思い、調べたのですが、「弓削田庄」は「田川」と「美濃」にあるようで・・・(調査不足かもしれませんが)

どうも、田川の弓削田地頭の可能性はあるようです。

まだ、本は途中までしか読んでいないのですが、本来探していた「貞家」ではなく「貞行」に関連するかもしれない記述を見つけるとは・・

もう一度系図を見直してみたのですが、
平河弥三郎(本名記載なし)の子?で「平河弥兵衛頼秀」菱刈大口ニテ戦死「平河飛騨守頼重」
とあり、簡単に今、調べたのですが
「黒肥地頼秀」「岩崎頼重」 という名で表示がありました。

後ほどコメント致します。

では(^・^)
[92]子孫よりさんからのコメント(2014年05月12日 18時12分08秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

本を読んでいたら、先ほど、父から電話があり、話をしていたのですが・・

父に、「お父さん、黒肥地の王宮神社を知ってる?とても由緒ある神社なんよ(^・^)私、知らんかった(・_・)」
と言うと父が「・・・・・・」(何だか呆れたような沈黙が・・」
すると
「お前は本当に何も知らんのやな!というか覚えてないとか(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」
私は「・・・?」と。
「伯父さんの結婚式をした神社でお前も行ったやないか!」と父。
私は・・・ハッ!(゜-゜) あそこだ!! と。
そうです、父の弟、伯父が秋岡家(伊藤)の伯母と結婚式を挙げたあの神社が王宮神社でした!

そして・・
子供の頃、祖母に連れられ私、何度かお参りをしていました!
祖母が元気な頃は、多良木の平川の伯母(祖母の妹)と二人で、頻繁にお参りをしていたあの神社が「王宮神社」でした!
(+_+) 完全に忘れていました。というかあの神社様が「王宮神社」(黒肥地神社)だったとは、本当に全く知りませんでした。

そう言えば、祖母から、子供の頃、王宮神社(黒肥地神社)にまつわる話を聞いた記憶があるような・・(+_+) 全く内容を覚えていません(-_-)(__)

私は、本当にダメですね(+_+)
子供の頃球磨で過ごしたのに、何も、覚えていないとは・・・

祖母も先祖も、きっと天国でこの数日間「トホホッ(+_+)」となっていた事でしょう。

それから、父の大親友の「平川さん」は相良村の方でした。(あの場所が相良村だと言う事も知りませんでした(+_+))
晴山地区に住んでいらして、北岳神社の氏子総代をされています。
実は、今年、北岳神社に従兄弟とお参りに行った時に偶然お会い出来て、「神社」の話は沢山伺ったのですが「先祖」の話は全くしていませんでした(+_+)

これは、もう、球磨に帰ったら、一から修業でございます<(_ _)>

では(・_・)









[93]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年05月12日 20時55分58秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「黒肥地頼秀」「岩崎頼重」 という名で表示がありました。
 
上相良の多良木氏から、平原、新堀、窪田、岩崎、黒肥地、岡、鍋倉、井口、乙益の庶流家が分出。
 
弓削田は田川発祥だが、現在、同地に弓削田姓はいない。
[94]子孫よりさんからのコメント(2014年05月12日 23時47分36秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
「上相良の多良木氏から、平原、新堀、窪田、岩崎、黒肥地、岡、鍋倉、井口、乙益の庶流家が分出」

新堀は宮原の親戚です。
岩崎氏・黒肥地氏 は上相良からの庶流家なのですね。
井口氏も上相良からの庶流家・・・。

「平河弥兵衛頼秀」菱刈大口ニテ戦死とありますので
いずれかの戦にて鹿児島の大口で亡くなったのでしょう。
相良氏とは姻戚関係を続けていたようなので、「平河」から相良氏に繋がっていく名は系図にかなり記述されているようです。

弓削田は田川発祥なのですね。教えて頂きありがとうございます。
弓削田地頭 弓削田苗字となった「貞行」はやはり田川弓削田の地頭であったと言う事なのか?調査してみます。

ちなみに、「弓削田」という姓ですが、高校の3年間クラスメートに「弓削田」さん(湯前出身)がいたので、親しみのある苗字だったのですが、田川には弓削田姓はないと伺って驚きました。

あらためて、系図を見直すと「師」「貞」「頼」「良」の付く名が多くみられます。
「高」は中神良高 以降は見当たりません。

他にも「但馬守 師光」「伊予守 師実」「雅楽助 宗良」などですね・・まだ調査していません。

但馬守 師光から → 周防守 → 蔵人佐 → 刑部・・・出家・・・新十郎
とまるで暗号みたいです。
中には 河内守(八代関ニ有之) → 式部少輔・・・中務少輔
完全に謎解きです。
藤五郎 ともあります・・?

貞継にいたっては「小三郎次男」となっていますが、系図のどこにも「小三郎」は見当たりません?

ただ、全く何も記載されていない訳ではないので、唯一の手掛かりとして調査を進めたいと思います。

では(^・^)
[95]子孫よりさんからのコメント(2014年05月13日 05時32分35秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

新しいスレッドを立ち上げました。

平川家について12
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101352.html

皆様からのありがたいご教示が、私の唯一の心の支えになっています。

本当に心から感謝いたしております。
ありがとうございます。

今後とも、どうか、よろしくお願い致します。

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