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 投稿番号:101460 投稿日:2015年06月06日 09時09分49秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について25

コメントの種類 :その他  パスワード

前スレッドでは、皆様から古代に繋がる様々なご教示を頂きました。

無知識なわたくしですが、少しずつですが、しかし、確実に理解を進める事が出来ました。

ありがとうございます(^・^)
今後ともどうかよろしくお願い致します。

こちらのスレッドは平川家について24コメント80より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101455_80.html

[1]子孫よりさんからのコメント(2015年06月06日 12時28分24秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

コメント80で書いた、球磨弁でおやつの事を「よけまん」と言うお話ですが
父に聞いた所、家の方では「よけまん」ではなくて「茶まん」と言うそうです。

そう言えば、祖母がおやつの時間になると「茶まん」するよ(^・^)と言って、お菓子とお茶やジュースを飲んでいました(^・^)

球磨弁と言えば・・家の近隣では、ご飯のおかずの事を「シャ〜」と何語かっ?という言葉で呼ぶお話をしましたが「シャ〜」は漢字で書くと「舎」らしいです????
漢字まである「シャ〜」(おかず)ビックリしました\(◎o◎)/!
寂しい事を「とぜんなか」・・こちらも漢字で「徒然なか」だそうです。

球磨郡誌に球磨弁について記述されていたので、今度じっくりと読んでみます。
(^・^)
[2]子孫よりさんからのコメント(2015年06月06日 14時49分23秒 ) パスワード

皆様、マタマタの登場です(^・^)

実は一昨日、父とあさぎり町の埋蔵文化財保管センターに行って参りました。

免田式土器などが保管・展示されていて入場無料。
石器や剣なども保管展示されていました。

先日、コメントした宇土谷出土の骨蔵器も拝見する事が出来ました(^・^)
宇土谷出土の骨蔵器は免田式土器となっていましたが、他の土器と比べて、色がブルーに近い濃いグレーで、何より驚いたのは、骨蔵器の中を覗くとまるで真珠貝などの内側のような銀色のマーブルが見えました\(◎o◎)/!(^・^)
私が、「中がすごく綺麗(^・^)」と言うと・・
父は「コラコラ(ー_ー)!!そんなに骨壷の中を覗くものではありません」と言っていましたが
「そうか、この中に入っていた方はすでに天国にいらっしゃるからな(^・^)」と・・

旧岡原村の福留遺跡出土の石刀は、石とは思えないほど薄く加工してあり、今でも何でも切れそうでした。端には穴がほがしてありました。

所で・・
帰り際に気が付いたのですが、免田式土器の展示ケースの中に、何やら中国語で書いた額が飾ってありまして・・
大まかに見ても出土した「鏡」の鑑定書のような・・
写真禁止ではなかったので(どこにも写真ダメ(ー_ー)!!とは書いてありませんでした。)私は、その額を写真に撮って帰ったのですが・・
今日、早速パソコンに転送して、内容を読んだのですが、思った以上に「重要」な事が書いてあるみたいなのです\(◎o◎)/!
中ほどに
「日本免田町出土東漢○金○○方枚神獣鏡・・・○○が読めません・・(..)
でも「東漢」とは読めます。○○が読めないと言うより殆ど私には読めません(..)

そこで!!この写真をブログにアップしました!
写真は斜めになっていて上手には撮れていませんが、ブログの写真を保存して頂きアプリケーションを使って開いて頂くと、アップにして頂く事が可能だと思います。

皆様、ぜひご覧になって下さい。
私も、解読?を努力しますが、内容がお解りになられましたら、ぜひ、ご教示をお伺いさせて下さい。
よろしくお願い致します。

タイトルは何と書いてあるのでしょうか?です。
ブログアドレス
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12035667454.html

皆様どうかよろしくお願い致します。
[3]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年06月06日 17時38分25秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>日本免田町出土東漢○金○○方枚
 
三角縁神獣鏡のことでしょう?
 
従来は中国本土から出土例がないので疑問視されていたが、
今年、中国本土(河南省洛陽)からも出土した。
 
邪馬台国論争に新材料 卑弥呼の鏡?「中国で発見」論文
http://www.asahi.com/articles/ASH313DF4H31UCLV002.html
 
いずれにしても三国時代で、九州のものは魏から渡来したものだろう。
近畿出土のものは呉系統かな?
[4]子孫よりさんからのコメント(2015年06月06日 19時05分01秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

〉三角縁神獣鏡のことでしょう?

私は最初、才園遺跡出土の「リュウ金獣帯鏡 ( 鍍金神獣鏡 )」の事かな??と思ったのですがなにぶん写真がうまく撮れていなかったので、申し訳ありません。
しかし、よく見ると二世紀末という文字は読み取れます。
見学時には丁度「日本遺産」関連の会議が行われていたようで、説明をして下さる方もいなくて特別に見せて頂いたという状況でした。
あらためて、もう一度見に行くつもりです。

本目遺跡からも銅鏡(破鏡、方格規矩四神鏡)が出土しているので、次に埋蔵品展示館に行った際はそのあたりも詳しく聞いてきます。

〉邪馬台国論争に新材料 卑弥呼の鏡?「中国で発見」論文
拝見しました。やっと「見つかった」と言う事ですね。

〉いずれにしても三国時代で、九州のものは魏から渡来したものだろう。
近畿出土のものは呉系統かな?

魏と熊国(球磨国)との交流は才園遺跡からの出土品等でも明らかです。

お忙しい中、ご教示頂きまして本当にありがとうございました。

[5]子孫よりさんからのコメント(2015年06月07日 10時46分50秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

先祖の調査はもちろん重要なのですが・・どうしても、古代に目が向いてしまいまして・・以前もコメントしていましたが、そもそも、私は歴史は苦手ですが、古代については非常に興味があったという不思議な子供でした・・
故郷、球磨に戻ってからはそれが急速に加速して、何でしょうか「この土地」球磨の地が私をそうさせているような気がします・・
(マタマタ(ー_ー)!!との声も・・)

所で、今朝のコメントのタイトルは
「熊襲」は古代ヘブライ語で「クマ・ソ」「クマ=神」「ソ=民」でした(^・^)。です。

偶然ですが 紀州熊野のあゆみ という調査研究レポートを見つけて拝見していました。
特定非営利活動法人 紀州熊野応援団 調査研究レポート 平成25年改定
紀州熊野のあゆみ 中 西 洋氏
http://kishu-kumano.com/wp-content/uploads/2008/06/pic02.pdf
こちらのレポートの6ページ〜7ページにとても興味のある文章が書かれていました。
勝手ながら転記させて頂きます。

紀州熊野のあゆみ 中 西 洋氏 6ページより
「熊野」は、これまで学者達がひもといてきた熊野、いわゆる、「隈・隅・奥・室」などの僻地や隅などを意味する解釈で説明されているが、全く違う意味なのである。
それは6世紀の中頃に漢字が伝わり、その音字を当てたもので、本来の意味を解していない地名となっている。
古代語の殆んど漢字の発音で処理され「当て字」となってしまったのである。
古代からの言葉で、漢字が当てられなく、仮名で残されている言葉を別にして、多くの名詞などには漢字の当て字が多い。「熊野」などは全く、その代表的でもある。
熊野や熊襲などを古ヘブライ語で訳すと「熊襲=クマ・ソ」は、「熊・クマ=神・カミ」であり、「襲・ソ=民・タミ」である。「熊襲(クマ・ソ)=神の民」と言う意味がある。
熊野は、「熊・クマ=神・カミ」であり、「野・ノ=岬・ミサキ」、『神の岬(・)』が熊野の古ヘブライ語の意味である。現代の苗字でも「クマシロ=神代=熊代」がある。
熊野=神の岬=神の崎(岬)=神ヶ崎(三輪崎)とも考えられ、大きく広くは紀伊半島全体が『神の岬』であり『熊野』であるとも考えることもできる。
熊本の「多羅国」を築いた熊襲(クマソ)と「熊野」は同一民族系の人々であり、縄文晩期か弥生時代に熊本や紀伊半島(熊野)に入って来たと思われ、渡来の指導者の民族達であると言われている。
この熊襲一族を率いた首長は、「櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)」であり、この人が出雲の王族の長髄彦命(ながすねひこのみこと)族の首長の妹「三炊屋媛(みかしきやひめ)」を娶(めと)り、その第一子は宇摩志真遅命(うましまでみこと)で物部氏の祖に当る。

その後の邪馬壹国の王となる神武一族(阿羅国・宮崎)が大和に入るに際して、出雲の王族の長髄彦命一族に生駒山で阻まれた。
当時、倭の国の最大の実力者であり、出雲一族と深い関係にある熊野族の櫛玉饒速日命一族の子孫でもある「新宮の高倉下命(たかくらじのみこと)」に助を求めたものである。
高倉下の熊野族は、「八咫烏(やたからす)」を派遣することになる。「八咫烏」を古ヘブライ語で訳すと「ヤ=神に・タ=仕える・カラス=黒い鳥」の意味となり、黒装束に身を包んだ機動隊集団であったのか?
大和三輪山の出雲系の王と和議を結ぶこととなり、神武帝の大和入が果たされたと思われる。その神武帝も、出雲の王族の娘「ヒメ・タタラ・イスズ」と結婚して出雲族の王に認められて、「神大和磐余彦(尊)天皇」=「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」となられた。〔スメラとはシュメール族のことであることなどを、ドイツの学者エンゲル・ケンペルも記述している。〕
日本が、最初に国際社会に登場したと考えられるのが、中国三国志の史書・魏志倭人伝に出てくる邪馬壹国の時代である。
卑弥呼などが登場する以前、縄文晩期から弥生中期には、色々な種族の渡来人たちが、先ず九州地方に部族単位の組織を築き、多羅国(熊襲の国熊本)、阿羅国(宮崎)、伊都国(福岡)等を築いた。
これらの人々は、同じ古ヘブライ語を話すシュメール等を祖とする人々であり、九州全土を一つに連合して、「邪馬壹(ヤマト)」となる基盤の同盟国を共立したと思われる。
この同盟三国は、古ヘブライ語系(シュメール系・アラム系・パレスチナ系等)の人々で、自らを「ヤマト」=「神の民」と称していた。
これらの民族達が邪馬壹国を建設し、その連合の長が神武帝(阿羅国・宮崎)の系統族(神武か)の一族で大和に侵攻して行ったのである。
例えば、昭和天皇の崩御の折の大嘗祭には、八咫烏の大きな御旗も臨場していたことは、報道を見た皆様も周知のことと思う。
一方、「熊野」の地名は、大化の改新(645年)が行われた翌年の646年に、今日で言う行政改革が行われ、「熊野」⇒「牟婁郡(むろうこうり)」に変名された。何故地名を変更しなければならなかったのか?「熊野」の地名を消したいと言う建国以来の謎が秘められているのではないかと推測される。
==========================================
紀州熊野のあゆみ 中 西 洋氏著 6ページ〜7ページにかけて、勝手ながら転記させて頂きました。

\(◎o◎)/!やった〜!!
こちらの方の研究レポートでやっと球磨とシュメールが繋がりました\(◎o◎)/!

古代ヘブライ語に「謎」を解く鍵があったとは・・
※熊野や熊襲などを古ヘブライ語で訳すと「熊襲=クマ・ソ」は、「熊・クマ=神・カミ」であり、「襲・ソ=民・タミ」である。「熊襲(クマ・ソ)=神の民」と言う意味がある。
※熊本の「多羅国」を築いた熊襲(クマソ)と「熊野」は同一民族系の人々であり、縄文晩期か弥生時代に熊本や紀伊半島(熊野)に入って来たと思われ、渡来の指導者の民族達であると言われている。
※この熊襲一族を率いた首長は、「櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)」であり・・
※卑弥呼などが登場する以前、縄文晩期から弥生中期には、色々な種族の渡来人たちが、先ず九州地方に部族単位の組織を築き、多羅国(熊襲の国熊本)、阿羅国(宮崎)、伊都国(福岡)等を築いた。
これらの人々は、同じ古ヘブライ語を話すシュメール等を祖とする人々であり、九州全土を一つに連合して、「邪馬壹(ヤマト)」となる基盤の同盟国を共立したと思われる。
この同盟三国は、古ヘブライ語系(シュメール系・アラム系・パレスチナ系等)の人々で、自らを「ヤマト」=「神の民」と称していた。
これらの民族達が邪馬壹国を建設し、その連合の長が神武帝(阿羅国・宮崎)の系統族(神武か)の一族で大和に侵攻して行ったのである。

(゜-゜)上記の内容では「卑弥呼などが登場する以前、縄文晩期から弥生中期には」すでに九州には同じ古ヘブライ語を話すシュメール等を祖とする人々が「建国」していた・・と言う事になりますね・・・
ここで疑問なのですが・・
今までの調査で「熊国(球磨国)」には「呉 太伯」の末裔の系が繋がっている事が解っています。

古ヘブライ語を話すシュメール等を祖とする人々が「建国」していた当時の「熊(球磨)」の国と「呉の系」はどのように繋がっているのか?????
日本の苗字七千傑様の仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」より
※長江下流に移住した倭族の一部は山東半島へ北上して、春秋時代の呉滅亡(前473)を契機として朝鮮半島の中・南部に亡命したのである。
前漢時代(前202-8)の朝鮮半島中・南部に辰国を建国したのが倭族であり、後漢時代(25-220)に馬韓・辰韓・弁韓に分立する。

(゜-゜)
※古ヘブライ語を話すシュメール等を祖とする人々が九州各地に「建国」した時代は縄文晩期から弥生中期
※春秋時代の呉滅亡(前473)。前漢時代(前202-8)辰国を建国したのが倭族
※後漢時代(25-220)に馬韓・辰韓・弁韓に分立する。

ううん??長江下流に移住した倭族の一部は山東半島へ北上して・・
上記の「倭族」・・古代シュメールに繋がっている人々????なのでしょうか??

(゜-゜)九州の古ヘブライ語を話すシュメール等を祖とする人々と「呉 太伯」の末裔の系の関係は????

不思議?になると同時にどんどん面白くなってきました(p_-)

長くなってしまいましたが・・
話は変わりますが、実は先日父が不思議な歌を歌ってくれました。
「バビロニア」という言葉が日本の苗字七千傑様のご教示の中にあったその日・・
父が「バビロニア??あれっ!!?と」
「お父さんが幼いころ、父さん(私の祖父)か平川のじいちゃん(私の曾祖父)に教えてもらった歌にバビロニアという言葉が入っているぞ!?」と・・
父は憶えていて歌ってくれました。
「薩肥の山野」とか「廃墟はむなしバビロンの・・」とか歌詞の中にあったのですが、ネットで検索してもその歌については全く見当たらず・・
球磨限定ソング?かな??とも考え、コメントしていなかったのです・・

父は今、外出しているので帰ってきたら歌ってもらってこちらにコメントしたいと思っています(^・^)

では(^・^)
[6]子孫よりさんからのコメント(2015年06月07日 15時27分47秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

早速、父に「あの歌」を歌ってもらいました(^・^)
※父は「きっと何も関係ないから(ー_ー)!!変な事を書くな!」と言いましたが、私としては興味がありますので(^・^)

では父の歌う 謎?の歌 歌詞をご紹介致します。
♪山紫に水清く 月照り花に蝶は舞う 肥薩の山野はるたけて 友の瞳に雲ながる
栄華は虚しバビロンの 廃墟を照らす月の色 思いは同じ・・

(^・^)ここからは憶えていないそうです。

何の歌だろう??(?_?)

ご存知の方はいらっしゃいませんか?

「肥薩の山野」とあるので、肥後と薩摩・・限定歌??違うかも(ー_ー)!!

♪栄華は虚しバビロンの 廃墟を照らす月の色 思いは同じ・・

と言う事で父が幼い頃、歌っていた「謎の歌」をご紹介いたしました。
では(^・^)
[7]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年06月07日 16時58分18秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

中国の古代史は「歴史の偽造」であり、
地名の偽造、系図の偽造、年代の偽造、国家の偽造から構築されている。
 
例えば夏王禹の父親か崇伯鯀(サハコン)であり、
サハコンはバビロニア王サルゴンの漢字表現。
 
秦帝国の焚書により従来の史書は全て失われたが、
万里長城外の契丹人が建国した遼に若干の史書が残っていた。
王命により耶律羽之が撰録した史書により上記のことが解る。
 
興味があれば、下記書籍の閲覧必至。
(高価、閲覧可能図書館も稀少なのが玉に傷)
 
倭と王朝 (1978年)
http://www.amazon.co.jp/%E5%80%AD%E3%81%A8%E7%8E%8B%E6%9C%9D-1978%E5%B9%B4-%E9%B9%BF%E5%B3%B6-%E3%80%93-51FC/dp/B000J8HT2A/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1433662671&sr=8-1&keywords=%E5%80%AD%E3%81%A8%E7%8E%8B%E6%9C%9D
 
倭と辰国 (1979年)
http://www.amazon.co.jp/%E5%80%AD%E3%81%A8%E8%BE%B0%E5%9B%BD-1979%E5%B9%B4-%E9%B9%BF%E5%B3%B6-%E3%80%93-51FC/dp/B000J7FMD4/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1433662778&sr=8-1&keywords=%E5%80%AD%E3%81%A8%E8%BE%B0%E5%9B%BD 年)
 
倭人興亡史〈1〉オリエント.高句麗.邪馬壱国 耶律 羽之
http://buyee.jp/item/yahoo/auction/f150135899
 
[8]白石さんからのコメント(2015年06月07日 18時09分21秒 ) パスワード

こんにちわ
子孫様の平川家
祖先の良峯師高の墓は 深田にある。
深田は 過去に見た 系では 坂上一族についていたのですが
今回 7000傑様サイトを見てみたら 宗像氏についていました。

うちの平川は 高岡から 入り婿。尾方から嫁。家紋は桐で 尾方も桐紋という。

平河は 太田の言葉が出ていて 太田田根子は三輪の神様・大物主・大国主の始祖。
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上のことが つながることが どこかに 書いてないかなあ と思ってさがしていたら ありました。
でも このサイトは 危険とか 表示され 本人も 宮さんにめいわくがかかりますから 公表しないでください とあります。

子孫様 私の血流は どうも ばりばりに アジア系で 半島をとおってきたのではないか? と思い 
子孫様は イスラエル・ダビデなども いしきしておられ
7000傑様のご教示で 大山祇神からシュメールへ。

これらが 私 余り 消化できていませんでした。

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このサイトをごらんくださいませ。
百嶋由一朗先生講演 久留米2011年2月5日CD テキスト版:牛島稔太の ...

神社伝承学は秘密だらけで、公にできないことばかりだそうだ
今、お見せしている神様の系図は絶対Web上に公開しないで下さい。お宮さんに迷惑がかかる。

祭神も削られたりしている。
この祭神すり替えなどは 大阪茨木神社でも 織田信長があちこちの神社を焼き払ったりしたとき アマテラスやスサノオを尊んでこの人たちを祀る神社には手をつけなかったので 急きょ 祭神をすりかえて 難儀をのがれた という。
とほかでも いろいろ あったという。

そして 伊勢神宮の神紋
天皇家の紋章は、桐、門光(花菱)の二つです。だそうです。

古い古い阿蘇神社、人吉の青井阿蘇神社にお参りしたらぼんやりしている人でも見つけるのは八剣輪宝です。これは修験道の紋章です。じっくり、よく見ていると本当の素性を現すダビデの星がおいてあります。

天御中主のおこさま、月読みのみこと、のちのち、喧嘩があって少し格下げて、大山ツミの神と名乗ってらっしゃいます。
月読みのみこと、改め、大山ズミのかみ、すなわち、大国主のお父さんです。
宗像大社の本当のご祭神は大国主のみことです。そして、次は弁財天さん(いちきしまひめ)、そしていとこの豊玉姫、同じくいとこの鴨玉依姫が宗像3女神です。このことを最も主張しておられるのは現在の宇佐市佐田の佐田神社です。

そして大国主のご先祖様
私 過去に 王〇君のことを 地域の子供向けに メールしたことがありますが
この人の事もかいてあります。
ーーーーーーーーーーーーーー
ほかにも いろいろ書いてあります。
子孫様と私の先祖は 共通するところもあり 我が国へ来る過程で枝分かれしながら下りてきたのかな?と おもうところもありますが

えーい と おもって書きました。


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青い阿蘇神社 八剣輪宝から  「天子の水」「天子宮」などでます。

でも 子孫様
上の牛嶋氏のブログにつなごうとしても 他のものは でるのですが
必要な上の話は 出ませんでした。
子孫様なら つなげるかも と 思いますが・・・

 

[9]子孫よりさんからのコメント(2015年06月07日 23時10分42秒 ) パスワード

皆様、こんばんは(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

日本の苗字七千傑様、「秦帝国の焚書」についていつもの如く私は無知識ですので勉強致しました。
焚書・・その他の事。大変驚きました。とても恐ろしい出来事です・・
ご教示頂いた書籍、閲覧可能図書館を探してみます。

白石様
お伺いしたサイトを拝見致しました。色々あるようですが・・親戚筋に聞いてみようかな?とも思ったのですが、ちょっと躊躇します・・

宇佐安心院の佐田神社についてはネットに紹介されていましたよ(^・^)
http://lunabura.exblog.jp/20741007/
御祭神は
武内宿禰・素盞嗚尊・大山祇命 と記述されていました。

所で・・
〉私の血流は どうも ばりばりに アジア系で 半島をとおってきたのではないか? と思い
〉子孫様は イスラエル・ダビデなども いしきしておられ
7000傑様のご教示で 大山祇神からシュメールへ。

とのお話ですが・・
「アジア系」とは血液型からそうお考えなのでしょうか?私はその辺りは詳しく解りませんが、もしかしたら、あまり関係ないのでは?とも・・(素人考えですみません)
白石様のお父様とお母様がお継ぎになった「白石家」。系図を見ると「白石家」は物部氏の系さらに三島氏に繋がる系の中にも見えますよね・・

あと・・私、全く自分では解りませんが「イスラエル・ダビデなども いしきしておられ」・・??意識していたかな??と。(ダイタイ、まだ、人物名もよく解っていません(..))
宮原一族は物部氏族「伊予橘氏」と言う事でシュメールにはすごく関心はありますが、今、もっとも興味があるのは、朝のコメントで書いたように「球磨」の古代についてです(^・^)
「先祖調査を抜きにして」と言う事です(^・^)

直接、球磨の古代に「先祖」を結びつける訳にはいきませんから。(だって、平川に至っては、いつ球磨に下向したのかさえ真実は現時点では不明ですし)

古墳や遺跡から発見された出土品などを実際に見るとワクワクします(^・^)

お話は変わりますが
実は今日、家にあった100年程前からの写真を整理していました。
弟に見せるために曾祖父や祖父母の若かりし気頃の写真をブログにアップするつもりです(^・^)

同じ「平川一族」の白石様の御親戚に曾祖父は似ているかな?と(^・^)
明日にでもアップしようと思っています(^・^)

では(^・^)

[10]白石さんからのコメント(2015年06月08日 07時08分39秒 ) パスワード

子孫様 おはようございます
7000傑様 いつも ご教示ありがとうございます。
かたよりがちな考えから 幅広い見かたを教えていただき 感謝しています。

秦帝国の焚書
鬼谷でたくさんの儒者がうめころされたのですね。
鬼谷ということばから
善財王の1000人の妃のひとり (この人は王氏だとか?)が ねたまれ
鬼谷で殺された。お腹に赤ちゃんがいて 殺されながら 出産をした。上人に助けられ 成長した。

のちに 上人は子供を連れて王に愛に来て すべてを話した。
善財王はこのことを知り 激しく 悔いて 上人と子供と一緒に 車に乗り 住むところを 5本の矢でうらない 一本が 日本に落ちたので 我が国にやってきて 熊野に 住んだ。

この 5本の矢の話が 我が国の平家落人伝説の 五家荘の 5本の矢で 住むところを決めた という 伝説に かぶってくる。

鬼谷のことばから 鬼谷先生 の ことばがあり 魏の司空・王○(今ぱっとでません。新選姓氏録山田条に出ます。

王○君と同じ王です。熊本城にも関与しています。

その 賞として その兵は 半島の王から さらに 三国を賜ったと吾妻鏡にかいてあるという。

半島は 儒教の国である。
4世紀頃 河内の方に 山田 さだ が いたことを 辞書に書いてありました。

先代旧事本紀は 王氏の書ともいい 

過去に まだ 知識がなかったころ 伝説などから たぐって みた話です。

子孫様 顔や 血液の話などは 井戸端会議的 発想です。
私は どうみても 顔からも 半島 中国の方に似ているし 
日本人だって もっと 金髪 蒼い目や 白い紙 灰色の目や あっていいとおもうのだけど

過去に英会話に通っていたとき カナダと中国の方との間の子 という人をみましたが 片方の目は 灰色でした。ふーん こういう出方をするのか?  と 思って 見ていました。

今上陛下の皇后が宮中へ入られる前 内親王は くせ毛 茶色い瞳だったといい
それなら 私も 茶色の目 くせ毛だし 母は さだ だし と 勝手に親近感を抱いていました。

当時の皇后は 島津でした。

秦始皇帝の父は 蒼い目だったそうです。西の方からきているようです。アレキサンダーに追われてきた ようです。

子孫様
母親のDNAに従えば アフリカにいきつき それから ひろがったということですから けっきょっくどこかで つながるということですね。

私は 中国にも 半島にもひろがっていると 思っています。

又 牛嶋氏のネットによれば 半島の人が祖先(和学人ご先祖様につながる)ということをきらって 源実朝の頃 宗像神社などの祭神すりかえが 行われたと いうことです。このあたりは 私が はやとちりで書いてもいけない 本人が みてくだされば とは 思いますが なにせ コピーをとって張り付けても 写らず 真っ白 打ち込んでも 同じ なので ・・・
[11]子孫よりさんからのコメント(2015年06月08日 11時18分00秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

色々な伝承が残っているものなのですね・・

所でDNA?の御確認を(^・^)

弟に見せる為に70年以上前の祖父母や伯父・平川の曾祖父の写真等をブログにアップ致しました。
曾祖父は白石様の御親戚に似ているかな?(^・^)

一番上の写真は中国にいた頃の祖父母のもとへ平川の曾祖父が岡原村から遊びに行った時の記念写真のようです(^・^)
とても、寒い所だったと言う事で、(外では何でも凍っていたと聞きました)皆「厚着」をしているので「ナルホド(゜-゜)」と思いました。

初公開の私の写真もあります(*^_^*)・・でも赤ちゃんの時ですが・・(^・^)

私のとても大切な人達の写真です。
よろしければご覧ください(^・^)

http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12036400292.html



[12]白石さんからのコメント(2015年06月08日 20時23分27秒 ) パスワード

こんばんわ
さっそく 写真を拝見いたしました。

伯父様とかいてあるひとのお顔が 平江一族の男性陣の顔と 似ていると思います。

おじい様のお顔は 若かりし頃の時は 半島の人の顔とそっくりですね。
なぜかというと 私 こちらに住んでおりますと 故郷を半島に持つ人をみるのですが そっくりです。

年いかれてからは〇めがねのせいか 溥儀に似ていると 思いますが
溥儀を画像検索すると 伯父様のように 面長なのですよね。

おばあ様は 優しげな顔をされていますね。苦労などしたことない というような・・・
極寒の地で (球磨は冬は寒いといっても)苦労されたことと 拝察いたします。





 
[13]子孫よりさんからのコメント(2015年06月08日 21時18分39秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様コメントありがとうございます(^・^)

あの・・・私の説明書きが悪かったと思います。

「伯父」とは父の兄。すなわち当時は子供でして・・
最初の写真は 左から祖父 祖母 伯父(赤ちゃん) そして右端は「平川の曾祖父」です(^・^)昭和15年くらいの写真です。

すなわち面長の男性は、私の曾祖父(当時の岡原村平川家の当主です)です(^・^)
岡原村から中国のハルピンにいた娘夫婦のもとを訪ねて行った・・と言う訳です。

家族写真の際の祖父は落ち着いて見えますが、実はあの時年齢は28歳です。
父が生まれてすぐの時ですから、ハルピンから移動していて、その時は慶尚南道の道庁に務めていました。昭和16年頃です(^・^)

平川の曾祖父は「平江一族の男性陣のお顔と」似ていると言う事ですね(^・^)

では(^・^)
[14]白石さんからのコメント(2015年06月08日 22時03分53秒 ) パスワード

また とんでいったのですよ。
そこで 書きたいことだけ書いて いったん アップしました。
そっけなくて ごめんなさい。

子孫様は かわいいですね。 なつこそうな目が 印象的です。
伯父様でしたか? おれは 馬賊の長になる と おっしゃったのは・・・

話は変わりますが
白石のこと 
実を言いますと やはり かなり前地域の子供にメールしていたころ 河野系図に行きついたことがあります。

その時は 相良氏から 伊予皇子が出て 相良のち氏と蘇我氏から伊藤博文が出て
(どこを どう たどったかは 今 ぱっといえませんが)

うちのお寺様には 佐賀の方から 婿に来られていて 奥様の坊守は 八代から来られていた。
父は 海軍にいたころ 艦長をしているらしい人の左後ろに立っている写真があり どうも その人は 佐賀出身の のちに 一代目大和の艦長を務めた人らしく のちに 貴族院議員らしい。

で 幼顔が残る 父は(父は 兵隊さんで 上等兵でした。) 推測だけど 逓信省にいたこともあり どうも 伝令の役をしていたのではなかろうか? と 思っています。

佐賀  ・・・  白石嬉野氏
白石嬉野氏は 河野氏ですね。

四国屋島 あたりから 香川氏が 出てきて 香川氏は うちの 佐田家のお寺様で うちの佐田は 山口県だけど 

うちの高岡は
四国あたりも含めて 大きく 固まりがあったとも思える。

四浦の人たちの中で 下益城郡 山口と 大きく からまっているのは うちだけです。

相良
沙迦羅龍王
龍王の中で 最強。
平戸あたりの神社に 淀姫神社があり その 氏子に 白石の名があったと 前に見ました。
淀姫神社
今 その神社がどこなのか すぐわかりませんが とりあえず ネット検索したら 
祭神 神宮皇后妹とも 豊玉姫とも。
また 河上社ともいう。

とありました。
豊玉姫は海神大綿津見の女子で 神武天皇の祖母。

よどひめのみこと - 淀姫神社WEBより
■現代語私訳

住吉の神は、大海の南面をしばらく御覧あそばして、沙迦羅龍王が潮干珠・潮満玉と言う二つの玉を金の鉢に入れて、いまこれを愛でて遊んでおられる。あの玉をお借りして、力を尽くして異賊を降伏させるべく使いを送るべしと仰った。
とはいっても、あまりにも強大な龍神に相応しく御使いになれるような方は誰であろう。
武内(恐らくは武内宿禰)が申されるには、「皇后の御妹であられる豊姫は、如来のような相貌で、世に比類なきお姿である」
たとえ龍の身なれどもこの女性に対しては争う心なども解されてしまうだろうから、豊姫を遣わしたまへと、住吉の神は計らい申し給う。

このように、とても美しい姫様だったと言う伝承が残っています。
この後、龍宮城へ赴いて、沙迦羅龍王より潮干珠・潮満玉を借り受けて、戦いに赴くわけです。

前に話した 新羅の天日鉾が追いかけてきた あかるひめ
この人は 潮干珠の化身ともいわれる。
神功皇后が 三韓征伐に向かわれるとき 住吉からしおみつ・しおひる の
玉を借りた。宝珠につながっていました。

また 河上のことばからは ヤマトタケルが戦った相手は かわかみタケルというのですね。

皇別 若狭 笠系図
【傳説】『若狭國鎮守一二宮縁起』を見るに「霊亀元年(715)9月10日若狭國遠敷郡西郷 之内、霊河の源流にありし白石の上に、 神人、初めて跡を垂れ坐す。其形俗躰にして、 唐人の白馬に乗り給ふが如し」と云ふ。 今、若狭彦大明神とお呼びする神は是なり。ーーーーーーーーーー

若狭地方の白石大明神
遠敷明神(若狭彦大神)は秦氏系と海人系が 融合したような神であり、降臨した下根来において白石大明神として、遠い昔から奈良 時代に至るまで祀られてきたと判明しました。

上宮若狭彦大明神が彦火火出見尊、 下宮若狭姫大明神が豊玉姫という傳承

若狭彦、若狭姫の二神を白石大明神として祭祀したのが白石にある白石明神です。 つまり若狭神社、神宮寺、白石明神などは元は皆同じものであり、縄文、弥生、古墳 時代と長き時代の聖地に住む神として崇められていたものと考えています。

若狭地方の新羅神社
社伝によれば、朝鮮新羅城の新良貴氏の祖神「稲飯命」或いは「白城宿禰」を祭るといわれているが、 『神社誌』及び『遠敷郡誌』は「天日矛命の後裔が此国に留まり、其の遠祖である鵜茅葺不合尊、又は稲飯命を祀りしもの。 地名のシラキは日倉族の新羅人の住みしことあるにより起り、その祖神を祀りしとの説がありこれに従う」としている。 『新撰姓氏録』は新良貴氏を瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。 『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊(うがやふきあえず)は神武天皇の父とされており、 稲飯命は神武天皇の兄に当る。従って、神武も新羅(加耶)国と係わりがあることになる。

皇別 若狭 笠系図は 贏姓 高丘系図1をたどりたどれば 若狭彦神主の笠氏が出てきます。

  
[15]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年06月08日 22時55分12秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>魏の司空・王○(今ぱっとでません。新選姓氏録山田条に出ます。
 
周霊王太子晋の裔にして、魏の司空王昶の後裔なり。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
 
しかし、これは建前上であり、周王朝はアッシリアの借史。
古公亶父はアッシュールベルカラ
太伯はエリバ・アダド2世
虞仲はシャムシアダド4世
李歴はアッシュールンシルパル1世
文王はシャルマネサル2世
武王はアッシュールニラーリ4世
以下恵公まで代数も同じ。
  
秦はペルシャからの借史。
キルス2世(懐公)からダリウス3世(孝文王)まで一致。
荘襄王(ベッソス)は帝国崩壊で敗走。
次の始皇帝は漢土西部から快進撃で秦帝国を成立。
滅亡後は半島に辰韓を建国、辰韓滅亡後は後裔の弓月王が来朝。
 
ほんのとば口の説明なので、詳細は下記書籍などを参照されたし。

倭と王朝 (1978年)
倭と辰国 (1979年)
倭人興亡史〈1〉オリエント.高句麗.邪馬壱国 耶律 羽之
 
[16]白石さんからのコメント(2015年06月09日 00時30分31秒 ) パスワード

こんばんわ
7000傑様ご教示ありがとうございます。

ここまで教えないとわからないのか? と あきれておいでと思います。

カタカナ文字になると頭にむりやり詰め込む感じになりますが 頑張って読んでみようと思います。

[17]白石さんからのコメント(2015年06月09日 06時02分40秒 ) パスワード

子孫様おはようございます。
>右端は「平川の曾祖父」です
そうでしたか はやとちりをして。

慶尚南道
慶州(新羅の古都)、尚州を組み合わせた言葉
大韓民国の南東部(朝鮮半島南東 部)に位置する行政区


地図で見るとすぐそこなのですね。しそ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
熱田神宮の祭神は 一時前から 振魂命に変えられていて(海神の子供)
子孫 ・ 八木氏から 平川氏へ
これは 前にも でましたね。






[18]白石さんからのコメント(2015年06月09日 06時10分57秒 ) パスワード

振魂命で打ち込んだら 次のブログがでました。昔のことをしらべていると どうしても 古史古伝というものに いきあたりますが 
こういうものは それぞれの 氏族に分解したときでてくる それらの祖先伝承と思っています。
別に偽書ではない と。

振魂命。
崇神39年(3月3日)、宮津ヨサ宮でアマテル・トヨケを祭った際の禰宜。
  

★『豐受皇太神宮御鎮座本紀』(from http://miko.org/~uraki/kuon/index.htm )
御間城入彥五十瓊殖天皇 卅九年壬戌 天照太神遷幸但波乃吉佐宮
今歲 止由氣之皇太神結幽契 天降居 于時
大御食津臣命 建御倉命 中臣祖也
屋船命 草木名 今座度會郡 號 清野井庭神社也 
宇賀之御魂稻女神 今號 小俣神社也 
宇須乃女神 五榖靈 號 宇須野社也 
須麻留賣神 今號 須麻留賣社是也 
宇賀乃大土御祖神 素盞鳴尊子也  (*大土御祖神社)
度會山田原地護神 若雷神 今世號 北御門大明神是也 
彥國見賀岐建與束命 號 度相國見神社也 
天日起命 伊勢大神主祖神也 
振魂命 玉串大內人祖 
相從 以戾止矣 爾時天照皇太神與止由氣皇太神 合明其・居焉 如天上之儀 一處雙座焉
(神社のリンクは「延喜式神社の調査」様に飛ばさせていただいております)
★玉串大内人(タマクシオオウチンド)。玉串とは、神のよりつく木、または枝のことである。玉串大内人は、斎王、勅使が皇大神宮にお参りするとき、玉串を差し出す役をつとめている。これは禰宜に次ぐ高位の職。
『瑞籬の 三十九年三月三日 御言宣 ケクニの大臣 タケミクラ 斎主とし イマスの子 タニハミチウシ 御供の守 アメノヒオキは 神主に フリタマは禰宜 トヨケ神 アマテル神を 祭らしむ ミチウシ 御供の神恵み 良き御子 得たり』36文
【ホツマツタヱ解読ガイド】 【ミカサフミ解読ガイド】 【ふとまに解読ガイド】
【やまとことばのみちのく】 【にしのことばのみちのく】 【あめなるみち】
【ホツマツタエのおもしろ記事】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ながいですが 振魂命の立ち位置がわかります。
[19]子孫よりさんからのコメント(2015年06月09日 07時14分03秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

白石様
〉そうでしたか はやとちりをして
(ー_ー)!!いえ、私のコメントが解り辛かったと思います。すみません(..)
きっと弟も??となりそうなので、ブログのコメントは修正致しました(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12036400292.html

私の子供の頃の写真・・恥ずかしいです(*^_^*)
弟は赤ちゃんの頃から鼻筋がす〜っと通って綺麗な顔立ちだと言われていたのですが、私は「愛嬌のある顔」と言われてきました(トホホ)

コメント12 溥儀に祖父が似ていると・・
そのような大それた方に似ているとは・・めっそうもありません。恐縮します。(..)おそらくメガネだけです。
祖父20歳前の写真は髪が長い所から推測して、おそらく陸軍士官候補生学校に入る前だと思います。「1934 summer」の文字は祖父の直筆です(^・^)
この頃の祖父の目は切れ長ですが、実際に家に大きく飾ってあった祖父の普段着の自然な顔はブログにアップした写真・上から二番目の写真が一番近いかな?と思います。
祖父も、私の父も共通なのですが、子供の頃〜成人するまでくらいは、目が奥二重の切れ長なのですが、年齢を重ねるとどんどん目が「パチクリ」と・・変わってきているのが解ります。
何だろうこれは(p_-)・・古代からのDNAの系の「片鱗」が成長する段階で色々顔に現れてくるのかな?(なんちゃってデスガ)
ちなみに現在の父は、先日コメントで書いていたように「英語で話しかけられる顔」へと変貌を?遂げました・・(父に叱られるかな・・)
実は、主人もアルバムを見ると同じような「変貌」?を歩んでいます・・・?

白石様、頂いたご教示、今からじっくりと読ませて頂きます(^・^)

日本の苗字七千傑様
〉周王朝はアッシリアの借史
〉秦はペルシャからの借史。
〉次の始皇帝は漢土西部から快進撃で秦帝国を成立。
滅亡後は半島に辰韓を建国、辰韓滅亡後は後裔の弓月王が来朝。

\(◎o◎)/!どっどうなっているのですか??????
こうなると頭が混乱してまいります。
太伯はエリバ・アダド2世

と言う事は・・理解度が悪くてすみませんが「呉 太伯」という人物は存在していたのでしょうか??
やはり、ご教示頂いた書籍を読まないと「意味は理解」できないのでしょうか・・

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示本当にありがとうございました。
では(^・^)
[20]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年06月09日 10時59分14秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「呉 太伯」という人物は存在していたのでしょうか??
 
実在はしたが漢土でなく、アッシリアと言うこと。

エリバ・アダド2世であり、借史した時の漢読みに過ぎない。
しかし漢字の出現は漢時代なので、遙か後世の追贈諱ですよ。
ご丁寧に三皇五帝時代からなので徹底していますよ。
まあ中華史は秦帝国からで、以前は借史に過ぎません。
始皇帝は借史がバレては困るので、出自は西方の氐族ということにして焚書を徹底してオリエント史を借史したのですよ!
中華史でシンという国名が頻出するが、バビロンとアッシリアの月神シンが由来。
日本では、月読宮祠官家が秦氏ですよ。
 
真実は、参考書籍閲覧しか無い。
漢土の文献をいくら漁っても、全くの無意味。
[21]子孫よりさんからのコメント(2015年06月09日 12時20分19秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

呉 太伯・・〉実在はしたが漢土でなく、アッシリアと言うこと

ビックリしました!!!

〉エリバ・アダド2世であり、借史した時の漢読みに過ぎない。
しかし漢字の出現は漢時代なので、遙か後世の追贈諱

〉中華史でシンという国名が頻出するが、バビロンとアッシリアの月神シンが由来。
日本では、月読宮祠官家が秦氏ですよ。

ご教示頂いたすべての内容に目からうろこが落ちるようです。
興味どころか・・知りたい!!と思います。
ぜひ、お伺いした書籍を読みます!

所で・・
実は今朝、父の写真を整理してパソコンでアルバムを作っていたのですが、あらためて「父の顔」を見ると、これはやはり日本の苗字七千傑様から頂いた古代日本に関するご教示の全ては「父の顔」が証明しているのでは?とあらためて思いまして・・(大多数の日本人に言える事なのでしょう)

弟に見せる事が目的ですが、ぜひ日本の苗字七千傑様、白石様にも父の写真を見て頂きたくブログにアップしました。
今回はちゃんと父には了解を得ています(^・^)

缶コーヒのボスのCMに出てきそうな「父」の写真をぜひご覧頂ければと思います。
おそらく、父の顔こそDNAのなせる技?ではと。
よろしくお願い致します。
ブログアドレス
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12036821108.html

では(^・^)
[22]白石さんからのコメント(2015年06月10日 00時04分44秒 ) パスワード

こんばんわ
お写真拝見いたしました。

いやあ 迫力有りますね。
はっぴ姿の分は 兄の眉・奥二重目と似ていますが
兄の顔は年とともに崩れてきて・・・−。−

高岡の顔は 眉が 垂れ下がるくらい に なるのです。
あごひげとか もみあげは のばさないのでわかりませんが 
兄は ベビーの時は 色白で 女の子とまちがわれていたうそうです。

前に送った高岡のおじの顔は 少し 丸みを帯びていて・・・おじさんになったかおだから しかたないけど ・・・

大体 アッシリアとペルシアって 人種はおなじなのでしょうかしら?

これも前に送った娘の顔は 
うふふ
ェ・・・女王に似ています。年いって肉がついて チャングムに似てきて・・・

うちは アジア系と思うのに ・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
人種は同じなのか? と思って検索したら

ペルシアについて
 イラン高原とインド亜大陸に移住したアーリア人のうち、イラン高原に移住した人々がイラン高原南部のファールス地方(参照:イラン地図)でアケメネス朝をつくりました(紀元前550年)。このファールス地方をギリシア人がペルシアと呼んだのが「ペルシア」の語源です。
 イラン高原にやってきた者たち自身は後年まで「アーリア」の名を民族的な意味で用い、3世紀のササン朝ペルシアは「エーラーン・シャフル(アーリア民族の帝国)」と自称しました。エーラーン、つまり今日のイランです。

おんなじは おんなじ なのですね。

ペルシアとはなんぞや
アッシリアとは なんぞやと思いましたが 

ペルシアはシーア派 金髪碧眼 ゾロアスター教

でも なんだか 遠い ですねー。
やっぱり 仏教が私は親しみやすく(本人の勝手ですけど)
ーーーーーーーーーーーー
高岡系図に 盤古がついていました。
盤古は 伏儀・女か と 同じといい
女かは 泥で 人間を作り出した といい
この話は オリエントの神話にある話ですね。

バールも出て
バール神は ミトラ教(キリスト教以前)に関与していて
牛は 天穂日命 菅原に関与していて

ここらあたりかなあ 
とは 思うのですが・・・

天穂日は 大国主と仲良し。

 
[23]白石さんからのコメント(2015年06月10日 00時16分27秒 ) パスワード

とんがり帽子のサカ お釈迦様を出したサカ お釈迦様は金色に輝いた肌をしていたといい これは 黄色人種?


世界大百科事典内のアミュルギオンのサカの言及
【サカ】より

…ヘロドトスによれば,ギリシア人がスキタイとよぶ北方草原民族を,古代ペルシア人はサカSaka,サカイSakaiと総称したという。前5世紀のペルシア戦争の際にペルシア側について参戦したサカは,とりわけ〈アミュルギオンのサカ〉とよばれた人々で,キルギスのステップに住み,尖り帽子,ズボン,独特の弓と短剣,戦斧を身につけた強力な部隊であった。なお中国史料の塞民族をサカにあてる説があるが疑わしい。…

キルギスって 下駄や こたつがあるところでしょう? 
B型血液の分布で キルギスタンが出たけど このキルギスタンが キルギス?

ペルシアが秦なら 高岡と 佐田が からまっているのも わかる。
[24]白石さんからのコメント(2015年06月10日 00時50分06秒 ) パスワード

とんがり帽子のサカ お釈迦様を出したサカ お釈迦様は金色に輝く肌をしていたという 黄色人種? 
お釈迦様は チベットの貴族とインドの王族の間の子

黄帝や炎帝は チベットあたりにいた 黄人根国のドンで 異父兄弟とも。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
世界大百科事典内の塞の言及
【サカ】より

…前5世紀のペルシア戦争の際にペルシア側について参戦したサカは,とりわけ〈アミュルギオンのサカ〉とよばれた人々で,キルギスのステップに住み,尖り帽子,ズボン,独特の弓と短剣,戦斧を身につけた強力な部隊であった。なお中国史料の塞民族をサカにあてる説があるが疑わしい。【小谷 仲男】
時代が下って前1世紀ころサカ勢力は大月氏の西方移動におされて,西北インドに侵入した。
ーーーーーーーーーーーー
黄人根国や 黒人根国や はてには キリストや モーゼまで 出てくる 「九
鬼文書」はあながち 偽書とは いえないかも…それはそれで 九鬼氏の文書なのでは?

鬼のてんが とれた かみ と読む 字は 半島には あった。
後醍醐天皇が くかみ と くだされたということだけど・・・

[25]子孫よりさんからのコメント(2015年06月10日 13時12分36秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

ブログにアップした父の最近の顔写真にはあご鬚を生やしていますが、今は剃って「口髭」だけになっています(^・^)
家の親戚は口髭を生やした人が結構多いです。
実は父の弟(叔父)も口髭はトレードマーク?になっています(^・^)

写真でお解り頂けるかと思いますが、祖父も平川の曾祖父も「口髭」。
父は現役引退後「髭」を伸ばし始めました。髭の手入れは結構大変のようで、「髭」を生やしている親戚が集まると、その「形」から「手入れ」に至るまで・・よく話しています(^・^)・・男の人は面白いな〜と。(という私は髭が大好きです・・祖母は髭は嫌いだ!とよく言っていましたが・・)

所で・・
歴史の真実は「何処にあるのだろう?」面白いな〜と。興味が増すばかりでして・・
そんなこんなで・・こちらのスレッドをあらためて最初から読み返していると・・
私、大変な見落としをしている事に気が付きました\(◎o◎)/!

コメント2で 埋蔵物管理センターに言った時の事です。
転記します(..)
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先日、コメントした宇土谷出土の骨蔵器も拝見する事が出来ました(^・^)
宇土谷出土の骨蔵器は免田式土器となっていましたが、他の土器と比べて、色がブルーに近い濃いグレーで、何より驚いたのは、骨蔵器の中を覗くとまるで真珠貝などの内側のような銀色のマーブルが見えました\(◎o◎)/!(^・^)
私が、「中がすごく綺麗(^・^)」と言うと・・
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宮原城跡(宇土谷) 宇土谷出土の骨蔵器 免田式土器(壺) ブルーに近い濃いグレー 中を覗くとまるで真珠貝などの内側のような銀色のマーブル

平川家について24 コメント35で「骨蔵器」についてウィキで調べていました。

骨蔵器 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E9%AA%A8%E5%99%A8
蔵骨器(ぞうこつき)とは、簡単に言えば、骨壺のことであるが、主として考古学で、火葬や洗骨葬の遺灰や遺骨を納めた容器のことをいう語である。 インドや中国でみられる仏舎利容器は、その一種である。 日本では、通常、火葬骨を納めた器に限定される。器形としては、飛鳥〜平安時代に蓋付きの球形の壷ないし短頸壷(たんけいこ)の器形をした須恵器や灰釉陶器などが用いられた。中世になると、各地方の在地で生産されている瓦質、軟質などと呼ばれる土器のほかに常滑焼の甕や壷、そして瀬戸焼の瓶子が用いられ、しばしば常滑焼や在地産の瓦質、軟質の捏鉢が蓋の代わりに使用された。 なお、弥生時代の甕棺なども広義の蔵骨器には違いないが、通常、蔵骨器といった場合、飛鳥時代以降のものを総称している。 ヨーロッパや西アフリカなどでは、urnと呼ばれる火葬骨収納用の甕が知られる。青銅器時代以降、エトルリアやローマの遺跡からしばしば蔵骨器が出土する。また、中央アジアでは、ゾロアスター教徒のオッスアリと呼ばれる箱型で霊廟や神輿の形をした石製の遺骨収納容器が有名であるがこれも蔵骨器の一種といえる。

\(◎o◎)/!・・(p_-)・・・

※日本では、通常、火葬骨を納めた器に限定される。器形としては、飛鳥〜平安時代に蓋付きの球形の壷ないし短頸壷(たんけいこ)の器形をした須恵器や灰釉陶器などが用いられた。
\(◎o◎)/!
宇土谷出土の骨蔵器・・免田式土器(壺)・・ 何だか時代が違うような・・
私が見た宇土谷出土の骨蔵器はブルーに近い濃いグレーで確かに外の免田式土器とは色は違いました。ただ、壺の周囲は外の免田式土器と同じような文様が施されていたのですよね・・???

須恵器や灰釉陶器・・(p_-)早速調べました。
須恵器 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E6%81%B5%E5%99%A8
須恵器(すえき)は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(・器)である。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。
須恵器の起源は朝鮮半島(特に南部の伽耶)とされ、初期の須恵器は半島のものと区別をつけにくいほど似ているが、用語としては日本で製作された還元焔焼成の硬質の焼物だけを須恵器という。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などもう少し細分した名で呼ばれている。
土師器までの土器が日本列島固有の特徴(紐状の粘土を積み上げる)を色濃く残しているのに対し、須恵器は全く異なる技術(ろくろ技術)を用い、登窯と呼ばれる地下式・半地下式の窯を用いて還元炎により焼いて製作された。それまでの土器は野焼きで作られていた。このため焼成温度(800〜900度)が低く、強度があまりなかった。また、酸化焔焼成(酸素が充分に供給される焼成法)となったため、表面の色は赤みを帯びた。それに対し、須恵器は窖窯(あながま)を用い1100度以上の高温で還元焔焼成する。閉ざされた窖窯の中では酸素の供給が不足するが、高熱によって燃焼が進む。燃料からは、酸素が十分なら二酸化炭素と水になるところ、一酸化炭素と水素が発生する。これが粘土の成分にある酸化物から酸素を奪う、つまりは還元することで二酸化炭素と水になる。特徴的な色は、粘土中の赤い酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質するために現れる。[1]

古墳時代[編集]
高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したの記述がある一方、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記されている。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性が否定しきれないが、現在のところ、この記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない[2]。結局、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。
考古学的には、須恵器の出現は古墳時代中期、5世紀中頃とされる[3]。日本列島で最古の窯は大阪府堺市大庭寺窯跡であるが、最初に須恵器生産が始まった場所(窯跡)として大阪府堺市南部、和泉市、大阪狭山市、岸和田市、にまたがる丘陵地帯に分布する陶邑窯跡群、福岡県の小隈・山隈・八並窯跡群が知られている。

\(◎o◎)/! 
宇土谷出土の骨蔵器は須恵器の色にとても良く似ています。
しかし、文様が違うような・・文様は外の免田式土器にすごく似ていて・・?

そこで、須恵器の様々な画像を見たのですが、色的にはこれが一番近いかな?という須恵器を2つ見つけました。
岐阜県公式ページより
http://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku-bunka-sports/shakaikyoiku/kankeikikan/bunkazai-hogo/ibutsu/ibutu_setumei/kdg52-683.html
船山北古窯跡群須恵器3
遺跡名   船山北古窯跡群
所在地   各務原市須衛4丁目
時代     古代
種類     須恵器
出土状況  5号古窯跡窯内
(p_-)色は似ていますが形と文様が違います。

宮内庁ページ
http://www.kunaicho.go.jp/culture/shoryobu/syuzou-r09.html
須恵器大甕(すえきおおがめ)
(p_-)・・こちらも色は似ていますが甕ですし、文様が違います・・

宇土谷出土の骨蔵器は須恵器の色にとても良く似ているけれど、文様は免田式土器とすごく似ている・・・????
考古学者の方が、「古代細分不明 」とされているのですから、素人の私に解るはずもありませんが・・

ただ、気になるのは・・
こちらは「骨蔵器」なのですよね・・・
宮原城跡の山の上で見つかった・・近くには風の神様が鎮座されています・・
※骨蔵器・・日本では、通常、火葬骨を納めた器に限定される。
※器形としては、飛鳥〜平安時代に蓋付きの球形の壷ないし短頸壷(たんけいこ)の器形をした須恵器や灰釉陶器などが用いられた。

何だろうこのモヤモヤは・・上記の「※」マークの記述とは、何だか異なるような気がするのですが・・

素人の勝手な推測?想像?ですが、もしかしたら・・我が故郷には、日本では確認できていない鳥葬ないし風葬をもつ「何らかの宗教」?が古代にはあったのでは?と・・(かなりの素人考えですみません(..))

風の神様と言えば・・
偶然かな?このようなサイトを見つけました。
世界最古の文字と日本の神々
http://bewithgods.com/hope/doc7/7-17.html

こちらのサイトのページ中ほどまで進むと「記紀を理解するのに重要な語彙集」と言う記述があって
オソフ(襲)シュメル語の「50・吹く風」で熊襲もエンリルが主神である
とあります。

風神 エンリル ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%AB
エンリル(シュメール語: 𒀭𒂗𒇸/𒀭𒂗𒆤 - DEnlil/DEnlil2[1])またはエッリル(アッカド語: DEllil)は古代メソポタミア神話に登場する神。
エンリル神の系譜に関しては説話によって違いがある。彼の妻はニンリル女神である。ある説話では、エンリル神がディルムンを追放された後、ニンリルとの間に月神ナンナ(アッカド語:シン)神が生まれたとされる。その他に、ネルガル神、イシュクル神(アッカド語:アダド(英語版)神 アラム語:ハダド(英語版)神)、イナンナ神(アッカド語:イシュタル)、ザババ神など、数多くの神がエンリルの子供であるとされている。
エンリルは風と嵐の神であった。別のある説話では、人類の浮かれ騒ぎを煩わしく思い、人類を滅ぼすために大地に疫病を流行らせ、次には旱魃をおこし、最後に大洪水を引き起こしたとされる。しかしエアが、アトラ・ハシースに警告を与えてこれを救ったとされる[2]。メソポタミアではしばしば洪水で大きな被害を出した事もあり、エンリルは強力な神として人々に認識され、シュメール時代からイシン・ラルサ時代にかけて最も重要な神として崇められた。エンリルを都市神としたニップル市は古代メソポタミアでも最も重要な宗教都市となり、エンリル神殿であるエ・クル神殿は長期間にわたって増改築を繰り返した。
バビロン市の隆盛に伴ってマルドゥク神の地位が上昇するにつれ、最高神としてのエンリルの神格は低下したが、アッシリア帝国の時代まで重要な神ではあり続けた。エンキの息子とされる事やその荒々しい戦士を想起させる性格から、時にはマルドゥクと同一視される。

王権を授与する神としてのエンリル[編集]
エンリル神はシュメール統治にあずかる最高神としてイメージされており、領域国家の時期および統一国家確立期には王権を授与する神としてとらえられている。ただし、都市国家分立の時代や統一国家形成期における王権を授与する神はむしろイナンナであった。すなわち、都市国家分立の時代(イナンナ)→領域国家の時期(エンリル)→統一国家形成期(イナンナ)→統一国家確立期(エンリル)という交代がみられ、そこには、安定した統治を願う時代にはエンリル、拡張主義の時代にはイナンナという区別が認められる[3]。

ご紹介させて頂いたサイトの記述・・
※『オソフ(襲)シュメル語の「50・吹く風」で熊襲もエンリルが主神である』

風の神と「球磨」そして「熊襲」の関係を調べていて偶然見つけたサイトの記述なのですが、進んで行くと・・やはり「シュメール」に繋がっていくとは・・・

宮原城跡(宇土谷)出土の骨蔵器・・風の神・・熊襲の主神「エンリル」・・シュメール
とこのように今日の調査は進んだ・・・と言う事です???

では(^・^)
[26]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年06月10日 20時33分34秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

〉中華史でシンという国名が頻出するが、バビロンとアッシリアの月神シンが由来。
日本では、月読宮祠官家が秦氏ですよ。

↑ここに着目して下さい。
古代の中華史はオリエントの借史だが、明代から北京の宗教的施設配置のオリエント化が促進されたのではなかろうか?
北京の中核は紫禁城だが、南東に天壇、北東に地壇、西に月檀、東に日檀を配置。
すなわち西に月神、東に日神を祀ったわけだ。
西は、近くは大月氏国、遠くはバビロンとアッシリアを臨んでいる。
東は、日本を臨む。
国号も日と月から構成。
シン(清朝)時代に入ると国号に月が暗示されて、日神と月神の戦いの日清戦争が起こり清国は敗北する。
現在、東の日檀の斜向かいの区域に日本大使館が位置する。
偶然だろうか?
 
一方、京都の五条大路の真西には月読神社(月読宮)を配置。
東には比叡山(日枝山とも)が聳える。
 
京都には、長い間天皇(スメラミコト=シュメールミグト)が居られた。
不思議な因縁ですね! 
[27]子孫よりさんからのコメント(2015年06月10日 22時30分19秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

〉明代から北京の宗教的施設配置のオリエント化が促進されたのではなかろうか?
〉西に月神、東に日神を祀った
〉西は、近くは大月氏国、遠くはバビロンとアッシリアを臨んでいる。
〉東は、日本を臨む。
〉現在、東の日檀の斜向かいの区域に日本大使館が位置する。
偶然だろうか?

私は、偶然とは思えないのですが・・・。
※月神シン(ナンナ)。エンリルの最初の子。エンリル・・朝コメントした熊襲の主神と書かれていた風の神ですね・・


月神シン  ウィキより (少し勉強しました)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3_ (%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2%E7%A5%9E%E8%A9%B1)

シン (Sîn) は、古代メソポタミアで信仰された月の神(男神)。シンはアッカド語の名前であり、シュメール語ではナンナ (Nanna)。「ナンナ」はアッカド語ではナンナルと呼ばれる[1]。
シュメール人の都市ウルの主神でもあり、アッカド時代になるとメソポタミア諸王の王女がウルのナンナ女祭司に任じられるようになり[2](その初期の例としてサルゴン王の王女であり詩人でもあったエンヘドゥアンナが挙げられる[要出典])、また人名の一部としても用いられることが多くなっていった[3](アッシリア王センナケリブがよく知られる[要出典])。またウルと並んで、メソポタミア北部のハランもシンの祭儀の中心であった[3]。
メソポタミアにおいてシンは月を司り[4]、大地と大気の神としても信仰されていた[5]。月の規則正しく満ちては欠ける性質から「暦を司る神」とされ[4][5]、同時に、月は欠けてもまた満ちることに由来し、豊穣神としての側面を持ち合わせていたと考えられる[1]。
また、「暦の神」としてのシンは「遠い日々の運命を決める」力を持っていたとされ、彼の練る計画を知った神はいないとされる[5]。
シンボルは三日月で、三日月に似た角を持つ雄牛と深い結びつきを持つとされた[3]。
ナンナはエンリルの最初の子であり、母はエンリルの配偶神ニンリル。エンリルが強引にニンリルに迫り、身籠ったのがナンナだという。あるときナンナはニップルの都市神であるエンリルを訪ね、多くの供物を捧げ、ウルに恵みを授ける約束をもらっている[1]。

月読神社(月読宮) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E8%AA%AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE_%28%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%29
祭神について[編集]
ツクヨミ(月読尊)は、『古事記』『日本書紀』の神話においてアマテラス(天照大神)の弟神として知られるが、月読神社祭神の神格はその記紀神話とは別の伝承で伝えられた月神であると考えられている[1]。『日本書紀』顕宗天皇3年2月条[原 1]における月読神社の創建伝承では、高皇産霊(タカミムスビ)を祖とする「月神」は壱岐県主(いきのあがたぬし)に奉斎されたとある[2]。また『先代旧事本紀』[原 2]では、「天月神命」の神名で壱岐県主祖と見える[2][3]。これらから、祭神の神格は海人の壱岐氏(いきうじ)によって祀られた月神(海の干満を司る神)とされる[1]。また別の神格として、壱岐氏が卜部を輩出したことから亀卜の神ともされる[3]。
関連して、『日本書紀』顕宗天皇3年4月条[原 3]では対馬下県直が奉斎したという「日神」の記載があるが、こちらもまたアマテラスとは異なる太陽信仰を出自とする神とされる[4]。同条では、月神と同様にこの日神も高皇産霊を祖とすると記されている[4]。

※『日本書紀』顕宗天皇3年2月条[原 1]における月読神社の創建伝承では、高皇産霊(タカミムスビ)を祖とする「月神」は壱岐県主(いきのあがたぬし)に奉斎されたとある[2]。また『先代旧事本紀』[原 2]では、「天月神命」の神名で壱岐県主祖と見える[
※『日本書紀』顕宗天皇3年4月条[原 3]では対馬下県直が奉斎したという「日神」の記載があるが、・・同条では、月神と同様にこの日神も高皇産霊を祖とすると記されている[4]。
※アマテラスとは異なる太陽信仰を出自とする神とされる

〉京都には、長い間天皇(スメラミコト=シュメールミグト)が居られた。

「シュメール」・・全て繋がっているような・・素人の私でもそう思います。

明代・・・
上記の内容とは関係ないと思いますが、以前コメントした
「地方自治に関する調査研究」(あさぎり町合併前)の中、岡原村の研究として
※宮原一族の歴史。相良藩の銀山。日明貿易の経緯。
という3項目の記述がありました。
私の故郷も「明」とは何かしらの交流があったという事ですね。

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございました。

[28]白石さんからのコメント(2015年06月11日 00時03分05秒 ) パスワード

こんばんわ
>我が故郷には、日本では確認できていない鳥葬ないし風葬をもつ「何らかの宗教」・・・

宗教のことまでは 私 思い及びませんでした。単純に お金がなかったからだと・・・
京都 鳥辺野などは 鳥葬などしていたところではなかったでしょうか?

又 時代が全然違いますが 橘嘉智子などは
仏教に深く帰依しており、餌として与えて鳥や獣の飢を救うため、または、この世のあらゆるものは移り変わり永遠なるものは一つも無いという「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こすために、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置せよと遺言し、遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれる[2]。または、その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある[3
ーーーーーーーーーーーーー

鳥葬 - Wikipedia
鳥葬
チベット仏教にて行われるのが有名である。またパールスィーと呼ばれるインドの ゾロアスター教徒も鳥葬を行う。

こればかりではない 宗教もあったかもしれないですね。
ーーーーーーーーーーーー
話は変わりますが 私 子孫様の宮原 平川のじゃまをしてはいけないとは思いながら 親戚の平川 そこへ 婿養子に入った 高岡が気になって
高姓の源流を見てみました。
そしたら この間お話した 紅楼夢で の 主人公の子供(10代)の頃を演じた(役名だけど)

高姓最早出现在上古黄帝时期,中国最早系统记载姓氏来源的典籍《世本》载“黄帝臣高元作官室。”《竹书纪年》说黄帝“居有熊”。有熊,巳口今郑州新郑。春秋时期,齐太公吕尚(姜子牙)的六世孙齐文公吕赤有个儿后代即以先人封邑为姓,姓高[1] 。

余り意味がわからないのですが 太公望呂尚が出てきて この間お話した为姓がでます。

黄帝・・有熊・・漢の劉邦の皇后は呂氏
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
中国の歴史はオリエント史のコピー
ということで
シュメールの神話を見ていたら 牛と戦う話など出ていました。
黄帝の異父きょうだい ともいい チベットあたりにいたドンのひとり 神農氏の系の蚩尤は 
獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどとされる。

『述異記』巻上には「山西の太原地方に現れた蚩尤は、亀足、蛇首であった」と載せている。

『竜魚河図』では、「獣の体をして人語を解し、銅の頭に鉄の額を持ち、砂や小石を食していた」とされ、『帰蔵』には、「八肱(八つのひじ)、八趾(八つの足)、疏首(別れた首?)」。

『山海経』西山経に出てくる兵乱を起こす神は、「蚩尤」の名こそ出てこないものの、「天神あり、その状態は牛の如くで八つの足、二つの首、馬の尾、その声は勃皇(未詳)のよう。これが現れるとその邑に戦がおこる。」とあって、蚩尤に近い外見を持つ記述がある。

として 牛のような神 で 劉邦も 武神としてまつっている。
ーーーーーー
神農氏と黄帝の戦い
神農氏は風師・雨師を使い 黄帝は娘のじょばつ を つかって戦った。

熊曾・・・風の神












[29]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年06月11日 01時36分05秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>太公望呂尚
 
これも借史で、斉の太公望呂尚はエジプト第20王朝のセトナクト(前1200〜1198)のこと。
後裔の景公の時、末子を太子としてエジプトから山東省の干來へ移民。
 

おおむね借史じゃないのは、秦始皇帝からだからね!
中華史を学んだ人々は、唖然とするでしょうね。
もちろん正しい中華史も存在したはずだが?
それが焚書の正体なのですよ。
日本史も大幅な紀年延長と系図操作があるから、言えた義利では無いが?
[30]白石さんからのコメント(2015年06月11日 06時50分27秒 ) パスワード

おはようございます。
7000傑様 あいがとうございます。
エジプト
ロマンがふくらんできます。

今は砂漠になっているけど その頃は 緑なす台地だったのだろうか?とか
本当にはるか古代に祖先をもつ人たちは よく生き延びてきたものだと思います。

蚩尤と同じ顔のお面は 蚩尤 平将門 俵藤太(藤原秀郷)と同じ。
蚩尤は神農氏系。苗氏がいつく神・じょか と 同じ系。
この関係は どうなのだろうか? と 思います。

よその国の人だって ご先祖様はおられるのだから そして おなかに赤ちゃんがいる人も子育て中の人もおられるのだから。 我々のご先祖をさかのぼれば 母系はエジプトにいきつくというのだから。

日本の政策も 女の人に配慮するように うごいてきています。 

歴史をみて よかったとこばかり とって くっつくのでなく しっかりとみて
いかされてきた命をどうつなぐか。現代の出来事も 考え方の違いからいろいろにでてきていますが

真理と現象でいえば 現象に目を奪われることなく 真理・・万民がこの地球の恩恵を受けられるように 地球を汚さず 努力していきたいですね。なかなか やれども やれども 追いつかず。自分ばかりが 莫大なお金を手にして でっぷりと太り ・・・という人が 結構いますけどもね。
卑劣なテロ行為もあとを絶たず・・・地震などの自然現象にも立ち向かわなければならず・・・私はそんなことへの大それたことはできないけど ・・何とか努力していきたい。
[31]子孫よりさんからのコメント(2015年06月11日 12時47分43秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

〉斉の太公望呂尚はエジプト第20王朝のセトナクト(前1200〜1198)のこと。
後裔の景公の時、末子を太子としてエジプトから山東省の干來へ移民。

あまりの事で・・驚きすぎて口がポカ〜ンとなってしまいました。

日本を含む世界の各国が歴史の「真実」を変えてしまったのですね・・

所で・・
古代の勉強をしていると、神社や御祭神の記述を目にする事が多いのですが、私は「神様」のお話が出ると、どうしても躊躇してしまいます(..)
家は、家の中や家屋周辺、そして敷地内数か所に神様をお祀りさせて頂いているのですが、歴史を勉強する上で登場する「神々」のお話(例えばウィキの記述や辞書など)を読んでいるとどうしても子供の頃からの神を崇める心が、躊躇して「こういう記述を読むのは恐れ多いのでは・・」と考えてしまいます。
真実を知りたいという好奇心と心の中の「躊躇」が格闘しているようです。

実家に戻ってからの毎朝の日課は、顔を洗い身を清めて、神棚の榊や仏壇の花、観音様のお花の水替えをして、そして神棚、仏壇、観音様にお供えする水を変えて、それからお参りをしています。
家屋周囲には氏神様とあと3か所に神様をお祀りしていますので、父が榊の水替えやお供えするお水や御神酒を変えたりと、お守り頂いている事に心から感謝を申し上げてお参りしています。

・・・・・
とここまで、心の中を書いていて、気が付いたのですが!
そういえば、家屋周囲の神様は4か所です。 あれっ?!

父に以前聞いたのですが、家を建て替えた時に敷地(家屋周囲の土地の広さ)が変わり「外の神様」の場所が変わるので、神社の宮司様と日蓮宗の大口のお寺様と他何名かの方々が来られて、専門の磁石を使って正確に測られたと言っていました。
北東や南東そして西・東など測って神様をお祀りされたと言っていました。

ちなみに氏神様は北東にお祀りされていまして、家では「地の神様」とお呼びしています。(本当の事を言いますと私は「地の神様」の意味もよく解っていません(..))

昨晩の日本の苗字七千傑様のご教示に
〉南東に天壇、北東に地壇、西に月檀、東に日檀を配置。
やはり4か所ですね。

私の実家の「外の神様」は、家の敷地が変わる前も4か所でした。
今まで、何も意味を理解しようとは思っていなかったのですが、よそのお家も同じように神様をお祀りされているという事であれば、古代の神々に繋がる「風習」と呼んで適切ではないのかもしれませんが、そういう伝承が日本には残っているという事ですよね・・
家の敷地以外、建物とは関係ない家の周囲の家庭菜園や木々が植えられている場所にも神様をお祀りしています。

最初は「躊躇」する心の内を書いていたのですが、結局は古代からの伝承に気が付いた・・・と言う事になってしまいました。

信仰心は大切に持ちながら、「真実」はしっかりと受け止めて行きたい!と思いました。
では(^・^)
[32]子孫よりさんからのコメント(2015年06月11日 14時07分27秒 ) パスワード

追記

父に聞いた所・・
「氏神様は北を背にされて南を向いていらっしゃる!」と言っていました。

先日、頂いていた絵を飾るのに風水的にどの方向が良いのかな?何て思い立ち磁石を使って家の中を歩いた時に、外の氏神様が北東の方向かな?と思っていたのですが、父いわく「『お社』の向きを見なさい!背を北に向けて南を向かれているだろう!」と・・・
ナルホド・・

歴史の勉強をしながら、色々な事も勉強する事が出来ています(^・^)
では(^・^)
[33]子孫よりさんからのコメント(2015年06月12日 07時47分50秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、現代に残る日本の古(いにしえ)からの風習・伝承?かな?というコメントをさせて頂きました。

故郷に戻り4月8日には御釈迦様のお誕生日をお祝いする「花祭り」にも参加したりなど、故郷の方々が今に伝える信仰なども少しずつですが、勉強しています(^・^)

そこで、ふと考えたのですが、故郷球磨に戻って3カ月以上たち、今まで「知らなかった!」という地域の風習が幾つかありました。

まず、「さなぼり」という行事です。
田植えが終わると地区の皆さんで集まってお祝い?をする事・・と父に聞きました(^・^)
そう言えば子供の頃から聞いた事のある「言葉」だったのですが、意味を祖母に問う事はありませんでした。

「さなぼり」の語源は?と思いまして、早速調べてみました。

まず、見つけたのが
weblio辞書より
http://www.weblio.jp/content/%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%BC%E3%82%8A
さなぼり
但馬方言 田植えがすんだあとの休み
但馬地方では田植えがすんだあと、身体を休ませる。家庭での慰労会。
「早上る(さのぼる)」(田植えがおわる)から来ている。

(^・^)とありました。「但馬地方」でも「さなぼり」をされるのですね。

続けて
さがの歴史 より
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=1290
佐賀市三瀬村
田植の終わったあとの行事である。早苗振の語からきているといわれ、「さ」は田植または田植をつかさどる神の意で、神上り(さのぼり)、つまり、田の神がお帰りになる意味があり、田植えはじめを「さびらき」というのに対する語である。
本来、田植が無事にすんで、田の神を送るための祭事であったが、のちには田植終わりの祝いや休養日と考えられるようになった。
 行事の内容はさまざまであるが、餅をついたり、まんじゅうをつくったりして、御馳走といっしょに神仏に供え、田植を手伝ってくれた人々を招いてお祝いをする。

(^・^)佐賀市三瀬村でも「さなぼり」の風習が残っているようです。
他のサイトでは佐賀県伊万里地方や福岡県筑後地方にも風習が残っている地域があるとの紹介がありました。

続けて
NHKクリップ 熊本県多良木町
http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005402504_00000&p=box
熊本県の多良木町(たらぎまち)には「サナボリ」という風習があります。6月の田植えの時に、植えずに一株だけ残す苗がサナボリです。神だなから去年のサナボリをおろします。そして新しいサナボリを供えます。「サナボリをささげます。田植えが無事すみました。一年、ありがとうございました。今年も見守って下さい。」とお願いします。去年のサナボリは、人に踏みつけられない場所に置きます。「一年中、守っていただいてありがとうございました。今年も良い苗ができたので、良い米がとれますように、守って下さい」という気持ちがこめられています。

(^・^)球磨郡多良木町での「さなぼり」の風習です。

続けてのサイトは「但馬地方」のさなぼりの風景を紹介されています。
私の地元と同じような「宴会」のようです(^・^)
http://blogs.yahoo.co.jp/gzi03131/47224329.html

但馬、丹波や北播州地方 にも風習が残っているようです。
http://www.hyogo-agri.jp/maga/topics/inaka/inaka_0606.htm

コトバンク より
サノボリともいう。田植え終了後の祝いまたは休日。田植えの始めの日をサオリ,サビラキなどというのに対していわれる。田の神が,田植えが終るのを見て帰る日と信じられ,この日に田の水口やあぜ,または床の間などに,苗を供えて田の神を祀る風習が日本各地にみられる。

田植終了後,田の神を送る行事。〈さのぼり〉とも,西日本では〈しろみて〉とも。田や水口(みなくち),屋内の荒神や竈(かまど)神に苗を供え,田植に参加した人を招いて祝宴をはり(早乙女(さおとめ)を特に上座にすえた),のち忌ごもりを行った。

(^・^)こうやって調べてみると・・
子供の頃はナント「ただの宴会」くらいにしか思っていなかった行事が実は全国に残る「古からの伝承」だった事が解りました\(◎o◎)/!(^・^)

今朝の調査は「さなぼり」についてでした(^・^)
では(^・^)
[34]子孫よりさんからのコメント(2015年06月12日 08時12分18秒 ) パスワード

追記

「さなぼり」に関係したかどうか?は、忘れたのですが、先日、椎葉のおじと父が話していた事にとても「おもしろい!」と興味が湧いた会話がありました(^・^)

数十年程前(おそらく昭和30年代頃かな?)までは、椎葉家・平川家・深水家そして祖父の実家である宮原家には蚕が飼われていたそうです。
たぶん、私の故郷・宮麓集落の他の家々も同じだったのでは?と思います。

其々の家には蚕を飼う部屋があって、その為に桑畑もあったそうです。
蚕は出荷する為のものではなく、毎年、蚕から糸(と言う事は絹糸ですね)を出して?(この辺はよく解りません(..))青く染めて絹の布?を作り、上着?のような物をこしらえていたそうです。
その上着?は綺麗な薄い青色となり、その上着?を着て「何かの行事?」の時に神様にお参りをしていたと椎葉のおじが言っていました。
父も「あ〜そうやった!!」ととても懐かしがっていました。
絹で作られた上着?はとても涼しくて、着心地が良かったと椎葉のおじが言っていました(^・^)

「何なに??自給自足?でシルクの上着を作っていたと〜〜〜?!いいな(^・^)昔の人は(^・^)」
と思ったわたしでございます(^・^)
これも、何かの風習かな?と思いまして、コメントさせて頂きました(^・^)
では(^・^)
[35]子孫よりさんからのコメント(2015年06月12日 13時47分43秒 ) パスワード

再追記です(^・^)

父が外出先から帰って来たので、「蚕」の話をもう一度確認したのですが、何だか間違っていました(..)(ご飯を作りながら二人の話を聞いていたので・・すみません)

出来あがった絹織物は神様にお供えするものでした(..)
父も子供だったのではっきりとは憶えていないそうですが、おじさんの話にあった「上着?」はおそらく何かの役をされた時に作った物じゃないか?と言っていました。
今度、おじに聞いてみます。
(..)
[36]白石さんからのコメント(2015年06月12日 21時23分26秒 ) パスワード

こんばんわ
>太公望呂尚
 
これも借史で、斉の太公望呂尚はエジプト第20王朝のセトナクト(前1200〜1198)のこと。
後裔の景公の時、末子を太子としてエジプトから山東省の干來へ移民。

山東省とは?と思って検索
・略称は周代の国名より魯
・中華民国建国当初の山東省は清朝の実効支配下に置かれていた 。
・世界自然文化遺産の泰山や世界文化遺産に指定されている孔子の故郷曲阜などが有名。

山東省と日本の刀
朝日新聞デジタル:山東省に関するトピックス

後漢代(25〜220年)の年号を刻む刀剣類は、本場中国でも江蘇省出土の建初2(77)年銘や山東省出土の永初6(112)年銘など数少ない。このほか、日本の古墳で出土した年号入りの刀剣類は、471年とされる「辛亥年」を金象眼した稲荷山古墳(埼玉県)の鉄剣などが有名。

魯も
周王朝の礼制を定めたとされる周公旦の伝統を受け継ぎ、魯には古い礼制が残ってい た。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、魯の出身である 孔子であり、その一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化 という...

過去に見た本では
周の礼制は殷のものを用いた という。
[37]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年06月12日 23時06分45秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>魯に残る伝統文化 という
 
これも大いなる借史ですよ!
伯禽はアブラハム。
モーセからロボアム迄は魯王統に一致、宋宣公以前はカナアンのアラム史、
宋共公の後はすべてユダヤ史に一致。

 
大秦景教流行中国碑なるものが漢土に有るが、伯禽の末裔が流行させたのじゃないのかな?
 
また日本屈指の古社である籠神社の裏紋(・紋)が籠目紋でありダビデの星と一致するのは偶然か?
[38]白石さんからのコメント(2015年06月13日 05時46分28秒 ) パスワード

おはようございます。
・太公望呂尚は炎帝の子孫。
・エジプト第20王朝のセトナクト(前1200〜1198)のこと。

・杉原さん
 色白で 紅楼夢の主人公役をした人に似ていた。于〇〇が役者名。
・杉原系図
 秀吉正室高台院の家系より
 『尊卑分脈』桓武平氏にあげられる系図が有名であり、それ によると、伊勢平氏の一派とされ、平貞盛の孫・正度の子で駿河守維盛(上総介宗盛の 父)・下総守季衡の弟で、出羽守正衡(平相国清盛の曾祖父)の兄とされ ・・・

・平姓_百度百科


子姓,出自商王朝末期商王武丁之子苑侯,属于复姓省文简化为氏。在史籍《何氏 姓苑》中记载:“有平陵、平宁二氏。”在史籍《姓谱》中也记载:“平陵氏,<史记>曰平陵老 之后。”商王朝末期,商王武丁在公元前1168年封其一个 ...

ーーーーーーーーーーーー
杉原さんは色白で 紅楼夢の主人公役をしていた人に似ていた。あちらは 炎帝子孫にみられる。
杉原系図は平氏である。平姓という大陸の源流をみれば 

于 为氏は その 主人公役をした人の姓で
子姓は 殷王朝の姓。

また 苗がいつく じょか も 炎帝の系で 苗は蚩尤の子孫だという。
苗はアゲハチョウを紋にしているという。


蚩尤は天狗のような顔。藤原秀郷(俵藤太)も 同じ顔。平将門も同じ顔。

盤古子孫
漢民族・苗族は盤古子孫とされる。
田・向は盤古子孫につき、
向は神農氏(炎帝・赤帝)子孫にある。

中国の人は一世をウバイド人とし、有苗・三苗。二世を伏儀・女媧とする。


ウバイドはBC5000年位頃からメソポタミア地方に関与しているが どこからきたのかわからない と ウィキはしている。

殷 周を考えると 母系でつながっているような形にみえる。
周武王の妃は、太公望の娘(名は邑姜)でした。ネットより

その前 夏が 中国にはあるが・・・大兎とキツネのことは 前に書きましたね。





[39]白石さんからのコメント(2015年06月13日 06時02分26秒 ) パスワード

エジプトには 目をみはる ピラミッドを


日本や 半島・中国で 古くに 目をみはるような 遺跡は なさそうに思うが
出雲 向家には パピルスで書かれt文書があり 4000年位前にやってじたらしい。

その頃より はやく メソポタミア エジプトと 祖を同じくする人たちがいたのではないか?
母系はエジプトにいきつく ということにも あっている。
[40]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年06月13日 11時01分04秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>炎帝の子孫。
 
すべて借史。
炎帝はアッカドのエンエタルジ(前2370〜2348)、
蚩尤は同じくルーガルザギシ(前2340〜2331)。
 
まあ通説による地名比定で騙されているだけで本流は秦始皇帝だが、
その他多くもオリエントからの移民(正確には遺民)じゃないかな?
[41]子孫よりさんからのコメント(2015年06月13日 13時05分35秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

日本の苗字七千傑様、
〉伯禽はアブラハム。
モーセからロボアム迄は魯王統に一致、宋宣公以前はカナアンのアラム史、
宋共公の後はすべてユダヤ史に一致。

全てが・・こう言う事なのですね・・
そうか・・・・(..)

物部氏とシュメール・・こちらの関係は今までお伺いしたご教示により、素人の私でも、少しずつ理解できるようになってはいたのですが・・自分が考えていた以上のスケールで・・
古代の西アジア国家やアフリカ大陸の古代国家からの民族移動が全世界規模だったと言う事なのですね。
すごい!この言葉しか出てきません。

当たり前の事ですが、「個人の先祖調査」の段階ではありませんね(ー_ー)!!
そんな事を言っていたら「日本人皆親戚!」となってしまいます。(ー_ー)!!

日本の苗字七千傑様にご教示頂いたDNAに関する書籍ですが、近くの書店にはありませんでした(小倉にいた頃のようにはいきません(..))
少し離れた所に規模の大きな書店があるのでそちらに行ってみます。
DNAによって、より多くの「民族の移動」に関する解明が行われていると考えると、ワクワクします(^・^)
古代の事を勉強するのは「本当に楽しい!!」です(^・^)

ちなみに、球磨の古代についても、更に興味が増してきました。
この頃思うのですが、故郷は必ず皆あるものですよね。(先祖5代に渡って東京です!と言う方でも、その場所が故郷となりますし)
もっともっと沢山の人が其々の故郷について「興味」を持って、色々な事を調査して、そして皆で意見を交換する機会が増えれば、歴史の専門家の方々が着目されていなかった場所から新たな事実が見つかる!な〜んて事も出てくるのでは?などと考えたりしまして・・
(偉そうには言えませんね(ー_ー)!!これも、自分自身が故郷に帰って来て気が付いた事ですから(..)・・)

球磨と言えば・・
相良氏も「物部氏」に繋がり、宮原一族の先祖も「物部氏族・伊予橘氏」であり・・
何かあるのかな?と以前から「物部氏」と「球磨」の関係を模索しても、これといった情報は見つからなかったのですが、ここで、頭を切り替えて「球磨とシュメール」もしくは「熊襲とシュメール」というワードを使って情報を探すと・・
\(◎o◎)/!驚くほど出てきてビックリしています。
はっきり言って「なんじゃ!これはっ!!」(言葉が悪いですね(..))という感じの情報量です。(もちろん私見も数多くあり、はては宇宙人に繋がる?サイトもありましたが)
参考程度に読んでいこうとは思っています(^・^)
日本の苗字七千傑様にご教示頂いた書籍 倭と王朝 (1978年) 倭と辰国 (1979年) 倭人興亡史〈1〉オリエント.高句麗.邪馬壱国 耶律 羽之
こちらを読む事が一番だと思っていますので(^・^)

〉大秦景教流行中国碑なるものが漢土に有るが、伯禽の末裔が流行させたのじゃないのかな?
 
〉また日本屈指の古社である籠神社の裏紋(・紋)が籠目紋でありダビデの星と一致するのは偶然か?

私は、知識を持たない歴史の素人ですが、でも、その素人の私でも偶然とはやはり思えない・・と思います・・

「籠目紋」・・「籠目」(かごめ)・・・かごめ・・?
あの・・全く関係ない事だと思うのですが・・
子供の頃歌って遊んでいた「♪かごめかごめ」の歌ですね・・
メロディーといい歌詞といい・・何だか不思議な気がします。
この歌に関して記述したサイトがありましたが、それとは別に、ず〜っと子供の頃から不思議な感じがして一人でいる時に思わず口ずさむと「恐怖」?を感じていたのです。
「鶴」と「亀」がすべった・・何だろう??
「鶴」・・と言えば「井口川」は「鶴の川」で「久米川」でもあり・・「鶴」というワードには何か意味があるのかな?何て考えたりしています。
このコメントを書いて思い出したのですが、先日「球磨臼太鼓踊り」の写真が新聞に載っていたのですが、子供を含む踊り?の時の子供さんの衣装には大きな「鶴の紋」が全体あちらこちらに施されていました。
取り留めのない話になってしまいましてすみませんでした。

最後になりますが・・
古代とは関係ありませんが、偶然見つけた情報の中に「平城天皇」と家とは別系の「宮原氏」の関係から・・平城天皇の命により大同年間に建立された球磨の神社に繋がるのでは?という(あくまでも推測・私見です)気になる情報をみつけましたので、あらためて、後ほどコメントさせて頂こうと思います。

では(^・^)
[42]白石さんからのコメント(2015年06月14日 09時26分47秒 ) パスワード

おはようございます。
やっぱりミトラ教がでてきました。
過去に 地域の子供向けにメールしたときに 調べたことでしたが古代に行くとでてくるのですね。
ネットより
ミトラ教
・古代のインド・イランのアーリア人に共通する神ミスラ(ミトラ)を祀る
ミトラス教 キリスト以前の宗教。
・インド・イランの最高神がイナンナだったことからすると、ミスラは太陽女神イナンナで、そこにイナンナと双子の太陽神で契約の神であるウツが重ねられた。豊受大神に相当するシュメールの神はイナンナで、
イナンナとウツは双子だから、二神一座、一神二座の関係になる。
・風神 エンリル
★イナンナはエンリル系だが、★エンリル系は牛がシンボルでもある。
・エンリル神がディルムンを追放された後、ニンリルとの間に月神ナンナ(アッカド語:★シン)神が生まれたとされる。その他に、ネルガル神、★イシュクル神(アッカド語:アダド(英語版)神 アラム語:ハダド(英語版)神)、★イナンナ神(アッカド語:イシュタル)、ザババ神など、数多くの神がエンリルの子供であるとされている。
月神シン=秦


ここで
イシュクルって見たことがあるなあ と 思って検索。

・蛇でした。
地球の主と言われたエンキ
出エジプト後にヘブライの民が荒野を40年間さ迷ったことが思い浮かぶが、荒
野をさ迷っている間に、人々は毒蛇に噛まれて苦しんだ。その時、主の命令通
り、モーゼが「青銅の蛇」を造って旗竿の上に掲げ、蛇に噛まれた人が青銅の蛇を仰ぎ見ると、その人は生きた。エンキは冶金(やきん)学にも優れていたので、“銅の彼”ともあだ名された蛇神だったこと、エンキだけは人類絶滅計画に反対していたことからすると、荒野をさ迷っていたヘブライの民を救った主はエンキを暗示している。
・確か 神武天皇の系の湯山神社には 蛇が卵を抱いているめずらしいものがある。
・また神武天皇が大和へ行かれた時 金色の鳶が来とが
これも 鉱物でつくったものを 杖に掲げていたのだろう。
アダドは
・メソポタミア北部の最高神で、天候神
神名は雷鳴音に由来。
通常、風ないし嵐を表す表意文字で表記されたが、同じ文字はシュメールの
天候神イシュクルをも表した。
配偶者はシャラ。
[43]子孫よりさんからのコメント(2015年06月14日 11時25分14秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、最後にコメントした内容についてです。

まず、初めに、故郷、旧宮原村について再度ご説明をさせて頂きます(..)

先祖、伊予橘氏である「橘薩摩」と呼ばれた橘公業が西園寺公経と替地をして得た久米郷東方下分。譲渡されたのは子の橘公員。その領地にある「宮原」の地に先祖は下向して城を建て「宮原」の姓を名乗った。
ここまでは以前からご説明させて頂いていましたが、この「宮原」の地には先祖「橘氏」が下向する前から「宮原」の姓を名乗る一族がいらっしゃいました。
旧行政区分で言う所の宮麓切畑地区の「宮原氏」です。
現在の宮麓は「村」の中の集落にすぎませんので、その集落内に「橘姓」の系である宮原と別系の「宮原氏」、二つの流れがあると言う事です。
岡原村史によると、切畑地区は明治12年まで湯前村の飛地でした。
明治12年に宮原村に編入されて7戸が湯前村の戸籍から宮原村の戸籍に移されました。
7戸とは星原姓(5戸)宮原姓(1戸)犬童姓(1戸)とあります。

上記の「宮原氏」が、先祖「橘氏」が下向する前から、「宮原の地」で宮原姓を名乗っていらっしゃった系の直系の家で、平安時代初期から切畑神社の宮司を務めてこられたお家です。
実は、こちらの「宮原氏」と家の「宮原家」は、近代(明治初期)に家の宮原の高祖母を介して姻戚関係にあります。
熊本県公式ページより
http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_8444.html
○宮原家と彼岸桜
  宮原家は、平安初期から代々切畑神社の宮司を務めてきました。この彼岸桜は、切畑神社が建てかえられたとき植えられたもので、樹齢は400年〜500年といわれています。 この彼岸桜の近くには、平景清の息女の墓が祀られています。平安時代末期、源平の合戦に敗れた平家の一門は、この付近に落ち延びてきたといわれています。平景清の息女は、父景清を追って岡原村にたどりつきましたが、その父の死を知り、自害されたものといわれています。宮原家では代々この墓を管理維持され現在に至っています。
○切畑神社とは
現在、切畑神社は存在していません。西暦1500年〜1900年の間は実在していたそうです。現在は、近くの霧島神宮と統合して祀られています。切畑神社について詳しく知っている人は、今ではいなくなってしまったそうです。現在では、近くの地名に「宮屋敷」「宮前」「宮山」などがあり、その昔切畑神社があったことを示しています。
===================================================
とあります。
宮原村下地には切畑地区も描かれていて、当時の切畑神社は山から裾野にかけてかなり大きく立派なお社も描かれていました。
球磨郡誌 コマ番号299 岡原霧島神社の項に詳細が書かれています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

別の神社記には切畑大明神(切畑神社)は大同年中に鎮座となっています。806年から810年までの期間を指します。 
神社記の中で康平六年(1063年)の記述に登場したのが・・平河師澄でした。
以前、平川家について12で切畑神社について調べていました。
切畑大明神は何度か再興・修復が行われています。
永萬元年乙酉、池大納言平頼盛により切畑大明神再興。(1165年)
延文年中修復(1356年から1360年までの期間)
天正十三年 藤原忠房公御願として藤原重興 再興。 ★おそらく相良忠房
天正十八年藤原頼房公及び家門の祈願  ★おそらく相良頼房
・・・・「神社記」および「星原内記」(補) より
実は鎌倉時代に入り御祭神としてあらたに祀られた方がいらっしゃいます。
平景清(藤原景清)の母君です。
求麻郷土研究会「郷土」には
※切畑には宮原(橘氏)の出城であった可能性のある「切畑城」があった。
※宮原城跡とは470メートル離れている
※橘氏が宮原に入部して最初に築城したのが切畑城であったのかもしれない。後年橘氏は勢力を拡大し、有力国人に成長し、今までの切畑城では手狭になり、南側すぐ近くの宮麓の山上に今の宮原城前身の新城を築き、ここを本城とし、切畑城は出城としていたのではないか
(゜-゜)と記述されています。

切畑大明神(切畑神社)の創建は大同年間。
大同元年には青井阿蘇神社・旧岡原村の大炊霧島神社・旧岡原村の中島霧島神社を大神惟基が創建。
大同2年には藤原真宗が市房神社を建立。
上記以外にも大同年間創建の神社が球磨には数多く鎮座されています。
「大同年間」・・以前から、球磨の歴史において、何かの「鍵」となるのでは?と考えていました。
何故、大同年間に相次いで球磨には神社が建立されたのか?????
神社記を見ると「平城天皇御宇 大同○年」との記述が殆どです。
「平城天皇」と球磨の関係は????
ず〜っと気になっていました・・

昨日、偶然にこのような記述を見つけました。
百済氏考
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-30.html
こちらのサイトから、とても気になる内容を転記させて頂きます。
<船氏・白猪氏・葛井氏・宮原氏・津氏・菅野氏>
延暦9年(790年)の百済王仁貞の連姓を朝臣姓にするべく上表した記事。
百済王「貴須王」の孫「辰孫王」が15応神天皇の代に来朝。その長子「太阿郎王」は16仁徳天皇の近侍となり、その子「玄陽君」、玄陽君の子に「午定君」その長子「味沙」仲子に「辰爾」季子に「麻呂(王牛)」がある。それぞれ葛井・船・津連の祖である。と記されてある。
これに記された各氏が後に分派してそれぞれ 船氏・白猪氏・葛井氏・宮原氏・津氏・菅野氏などを称することになった。

<その他百済氏・船・白猪・葛井・菅野氏など>
百済王13代近肖古王の子供から派生したとされる錦宿禰の流れはその後三善朝臣姓となり、その裔に鎌倉幕府の初代執事になった「三善康信」がいる。この流れから多くの武家が派生するが、これらは百済氏の一番古い流れである。詳細省略。
百済王16辰斯王の流れから白猪氏・船氏・津氏などが派生した。「船王辰爾」が有名である。津氏の流れから前述した桓武天皇の時参議となった「菅野真道」が輩出された。
白猪氏の流れから葛井氏が出、更に宮原氏となり、宮原道依の娘藤子は51平城天皇の妃となり、「阿保親王」を産んでいる。阿保親王の子供に「在原業平」が出る。

百済王24代東城王の子供の流れから飛鳥部氏が派生したとされている。飛鳥部奈止麿という人物がおりその娘が「百済永継」であるという説がある。(異説もある)
この百済永継と藤原北家内麿との間に「冬嗣」が生まれている。即ち摂関家の祖である冬嗣も百済系渡来人の血を引いているのである。永継がさらに桓武天皇の妃となり、「良峯安世」を生んでいる。良峯安世の子供が歌人で有名な「僧遍照」である。

(゜-゜)白猪氏の流れから葛井氏が出、更に宮原氏となり、宮原道依の娘藤子は51平城天皇の妃となり、「阿保親王」を産んでいる。阿保親王の子供に「在原業平」が出る。
通常の記述では「平城天皇の妃」は葛井道依の娘「藤子」とありますが、こちらでは「宮原道依」・・ですね・・

さらに後載の「良峯安世の子」である「僧遍照」については、
以前調べた今昔物語に
”宮原の娘なり也ける人を妻として、極く哀れに難去く思ひ通して過ける程に、男子一人・女子一人をなむ産せたりける。”
との内容がありました。
http://www.ogurasansou.co.jp/site/heian/48.html

※平城天皇の妃は葛井(宮原)道依の娘「藤子」。
※平城天皇御宇 大同年間 切畑神社創建。「切畑の宮原氏」が球磨に下向となり代々切畑神社の宮司家となる。

切畑も含め、和名類聚抄に残るこの土地「久米郷」は豊富郷でもあり、天皇御領の荘園でした。
先に記述した市房神社を創建した藤原真宗の娘は清和天皇の更衣であり貞頼親王の母です。
藤原真宗は久米郷を所領。

天皇御領であった切畑に平城天皇の御宇「大同年間」に球磨に下向した切畑の「宮原氏」。

旧球磨郡久米郷宮原の歴史に「切畑」の宮原氏は大きく関わっているのではないのだろうか?と考えはじめてきました。

日本の苗字七千傑様の【葛井氏/船氏/菅野氏】姓氏類別大観を拝見致しました。
百済貴須王の孫知宗王(辰孫王)の後裔で、河内国藤井より興り、欽明朝に膽津は白猪史姓を賜ったが養老4年道麿は葛井連姓を改めて賜わる。 葛井氏の後裔としては、宮原宿禰、蕃良朝臣などがある。
こちらの「宮原氏」姓氏類別大観 も拝見したのですが菅原道真の妻になった方もいらっしゃるのですね。

旧宮原村の府内と呼ばれた馬場田には稲積神社が鎮座。そして周囲を囲む「外園」には菅原神社が鎮座。

家の系、すなわち「伊予橘氏」後裔の「宮原氏」と、そして別系の切畑の「宮原氏」。
別系の「宮原氏」が気になるのは、故郷球磨の「宮原の地」の歴史、そして古代にとても関心があるからです。
御釈迦様の花祭りの際に切畑の宮原家のおじ様とお会いしました。
「そちらの宮原家の跡取り娘さんがこっちに帰って来られたとは聞いていたよ。今日、御堂にいらっしゃると聞いたので、来ましたよ(^・^)」と言って下さり、おじ様もとてもお元気でした。(あらためて見ると・・おじ様は背が高くて、鼻筋が通った彫の深い・・そう言えば御若い頃からハンサムだったな〜と)

球磨の歴史、いえ旧宮原村の歴史を考えるに、切畑の「宮原家」はとても重要な「家」なのだな〜とあらためて思います。

所で
日本の苗字七千傑様、お忙しい所大変申し訳ございませんが、お教え下さい。
【葛井氏/船氏/菅野氏】は百済貴須王の孫知宗王(辰孫王)の後裔。
百済貴須王の系と古代メソポタミア国家ならびにアフリカ大陸の国家などは、やはり繋がってくるのでしょうか?
沢山のご教示を頂いているにも関わらず、未だ、まだ、この部分の理解が出来ていません。
ご教示の程、よろしくお願い致します。

では。
[44]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年06月14日 11時48分02秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

「百聞は一見にしかず」
菊花紋の源流はオリエントですよ!
 
例えばバビロンのイシュタル門の遺跡。
http://rapt-neo.com/wp-content/uploads/2015/01/201408210032349cf.jpg
 
新バビロニアの都バビロンの遺跡には、2,600年前にネブカドネザル2世が建設したイシュタル門。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201409/18/13/d0287413_11541335.jpg
 
イスラエルの首都エルサレムのヘロデ門に16菊花紋。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201409/18/13/d0287413_11531360.jpg
 
エジプトも3,300年前のツタンカーメン王墓から青銅器製菊花紋が出土。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201409/18/13/d0287413_11544817.jpg
  
他にも沢山有るが、日本も良く見れば、
伊勢内宮参道の灯籠に菊花紋とダビデ紋!
籠神社の裏紋籠目紋と同じでありダビデの星と一致。
これも偶然だろうか?
 
http://ninja250ksr.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_906/ninja250ksr/IMG_9483_R.jpg?c=a0
 
http://ninja250ksr.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_906/ninja250ksr/IMG_9485_R.jpg?c=a0
[45]子孫よりさんからのコメント(2015年06月14日 15時40分07秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、お忙しい中のご教示ありがとうございました。
ご紹介頂いたサイトの画像拝見致しました。
父にも見せたのですが、凄く驚いていました。
百聞は一見にしかず
本当にそう思いました。
先日、見つけたサイトに「球磨はDNAのカプセルだ!」と書いている方がありました。
上手な表現だと思いました。(^^)
福岡に住む方のコメントだったのですが、こちらに来られた時に何か感じるものがあったのでしょう。

今後ともご教示の程よろしくお願いいたします。
[46]白石さんからのコメント(2015年06月14日 16時21分24秒 ) パスワード

子孫様
こんにちは
私 前に 学生時代 同学年だった宮原さんのことを 周りのおとなだたかが 菅原といっていたのを聞いて 菅原さんと 思っていた。後に その人は 黒川を名乗っているが 川と田は 反転することがあるので 辞典や球磨郡誌で黒田を見た。陳の門ということばがあった ということを書いたと思います。
宮原から菅原道真の妻になった人もあるのですね。収穫でした。

ウィキに見るイシュタルの画像
・三本指の足である。
 これは作った人の 想像か?と思うけど 過去にテレビで放映された 中国のある地方の殷の子孫という人の足がそうだった。
そのときは う〜ん と思ったけど、イナンナに相当する人なのですね。
・イシュタルは
性愛、戦、金星の女神。イシュタルは新アッシリア語名であり、シュメール神話におけるイナンナ(シュメール語: 𒀭𒈹)に相当する。
・イシュタルは戦の女神でもあった。戦争に際しては、別の戦神ニヌルタと共に勝利が祈願され、勝利した後にはイシュタルのために盛大な祭儀が執り行われた。その図像は武者姿をしている。

性愛 戦 金星 男装 
などから
尾張あたりにあった神社は 陰陽をシンボルにしている。丹羽に関与していた。

ここは ヤマトタケルに関与していた。タケルは 武運にも恵まれた人で 父から 頼まれ東に菱に走った。
タケルは
ひょんなことだが 平川からでる。
金星は
六芒星で象徴される金星神イナンナがシヴァ神になり、大自在天となり、観音の変化となった。

鞍馬山の魔王尊の紋章
平安京の北の守りとして開かれた鞍馬山の鞍馬寺は、天平宝字元年に唐の高僧鑑真の高弟の鑑禎が庵を結んで、毘沙門天を祀ったのが始まりである。鞍馬山の奥院では魔王尊サナート・クマーラを祀っていて、その紋章は六芒星の外周を円で結び、円の外周を十六菊花紋で飾っている。

寺の本堂前の広場でも、巨大な六芒星が石タイルを敷きつめて作られていて、護摩焚きに使用されている。魔王クマーラは650万年前に、金星から地球統治のために、ヒマラヤ山中と鞍馬山に降臨したことが、由緒書きに書かれていて、金星は六芒星で象徴されるから、魔王尊の紋章もデタラメではない。


イシュタルは金星を象徴とする女神であり、金星を模した図形がそのシンボルとして用いられることも多々あった。

過去にしらべたことが どんどん つながってきます。
[47]白石さんからのコメント(2015年06月14日 16時25分37秒 ) パスワード

石上神宮 - OCN の表題より
www1.ocn.ne.jp/~r.okabe/isonokami.html - キャッシュ

またシュメール弥山思想(シュメールの生命の木が生えていた ... 観世音菩薩は原語では、 アヴァロキティ・シュヴァラであり、この名にはシュメールの金星神イナンナ(イシュタァル) の名の変化 ...
[48]子孫よりさんからのコメント(2015年06月14日 22時25分15秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

家とは別系の「宮原家」についてですが、あくまでも、現段階では「もしかしたら?」という私の推測までですので、実際には聞いてみなければ断言できません。
すみません(..)

ただ、あまり詳しくは理解していないのですが、あちらの「宮原家」の親戚の方は旧岡原村や多良木・旧免田に多かったような・・(私が知っている限りですから、他は解りません。すみません(..))

白石様のお知り合いの方が相良村方面の方であれば、もしかしたら家と同族の「宮原氏」の可能性があるのかな?と。
家は相良村に「宮原姓」の親戚がありますし、相良村には家と同族の「宮原氏」が数軒住まわれる集落があるとは聞いています。

あと、球磨の「宮原姓」の中には。後年に何らかの功労により相良氏より当時の小字?から「宮原姓」を受けたという系もあると聞いています。
場所は岡原以外なのですが、詳しくは書けません。コレマタすみません(..)

家と同族の「宮原姓」であれば、私が子供の頃から聞いていたように「家はもとは橘だった」とか、何らかの事を聞かれている可能性はあるとは思うのですが・・お聞きになる訳にもいかないでしょうから難しいですね(..)

でも、白石様のお友達も「宮原姓」で私も「宮原」で、やっぱり御縁がありますね(^・^)

鞍馬山の鞍馬寺・・平川家について16でコメントした事があります。
人吉次良と呼ばれた「藤原友永」についてです。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101373.html
平川家について16 コメント4より
=============================================
球磨と東寺の繋がりは「人吉次良」こと藤原友永にありました。
父の藤原伊勢人は東寺を建立した人物。
藤原伊勢人 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E4%BA%BA

延暦15年(796年)、かねてから一堂を建て観音を祀りたいと祈願していたところ、霊夢の託宣により鞍馬山に導かれ、同地に毘沙門天像が祀られているのを発見。さらに再度の霊夢により、観音と毘沙門天の同一なることを告げられ、これに深く感銘を受けて同地に伽藍を建立した。これが現在の鞍馬寺の起源となったと伝わる。また同年、桓武天皇により造東寺長官に任命され、東寺を建立したともされている。

★伊勢人の後裔である友永以降代々が、鞍馬寺の別当を任命する権限を有していた。
藤原友永は「佛寺修造」も行っている。
==============================================

〉その紋章は六芒星の外周を円で結び、円の外周を十六菊花紋で飾っている。

(゜-゜)そういう事なのですね・・・

全く関係ないとは思いますが「籠目紋」は家にある切子のコップの「柄」と良く似ているな〜と思いました。
気になって、色々、ネットで切子細工の器を見ていたのですが、やはり、同じような柄が多いですね。(関係ないと思いますが、食器棚を見ていて気が付きました・・)

それと・・六芒星・・六角形ですよね・・
私、この頃、ずっと気になっていたのですが・・
家の客間に飾ってある大きな額に入った家の家紋「丸に剣片喰」。
掃除しながらぼ〜っとこの額を見ていたら気が付いたのですが「丸に剣片喰」は何かの形に似ているな〜と。
すごく気になって日本の苗字七千傑様のQ24.家紋の発祥について のページを先程拝見したのですが・・
「丸に剣片喰」の紋は六角形になるのでしょうか?
日本の苗字七千傑様のQ24.家紋の発祥について こちらのページに描かれている六角形の紋。籠目紋・六芒星・ダビデの星・・

おそらく、家の紋は以前は違っていたのではないかな?と思うのですが、何故か、旧宮原村宮麓に住む「強い絆の一族」は皆「系」は違っても同じ「丸に剣片喰」に統一?している・・
その「紋」によって「系」は違っても「一族である」という証明のようにです・・
深水は「藤原姓」・椎葉は「平姓」・平川は「良峯姓」・宮原は「橘姓」でも同じ「丸に剣片喰」紋を使って「一族である」証(あかし)としている・・
何かあるのかな??・・・考えすぎでしょうか・・?

白石様、ご教示ありがとうございました(^・^)

[49]白石さんからのコメント(2015年06月15日 07時00分40秒 ) パスワード

>子孫様 おはようございます。
丸に剣片喰紋
家紋は詳しくないので ・・・ 武家に多いと聞いたことがあるような・・
かたばみ って 植物ですよね。

うちのグループにはなくて でも 父が入っている共同墓地にはあったような・・・墓参りに行ってもよその墓は見たことがなかったので 何とも・・・

ふざけたような返事でごめんなさい。でも ほんとです。よそのお墓を何かの研究以外でじっくり眺めてくる方はおられるのでしょうか?

うちの グループは 橘です。

まるにけんかたばみ は 
私の夫と同じ姓の こちら 高槻のお寺に入っている笹井家が使っています。
この紋を使う家は 多いそうですね。

高槻の笹井は  三流あり 違い柏 剣かたばみ 木瓜 
です。

義父が 岡山から来ていて で岡山のお寺は 最初山の下にあり 火事で焼失 で宗派 不明。あと三回お寺を変わっているけど みんな 「古儀真言宗仁和寺御室派」です。最後のお寺は 桃太郎の鬼退治の時 鬼をゆでた釜があるそうです。信州篠ノ井に戦敗して5郎6郎兄弟が作州へ走り 森候入国の際 出でて仕える。後 小早場川家に仕える。

とあります。義父が大学の先生に頼んで しらべてもらったそうです。
で  家紋は 義妹がきもの屋さんに調べてもらって 「五枚笹」ということです。
松本藩戸田家家臣に 笹井がいて この紋をつかうそうです。あと九枚笹もあります。

剣かたばみ・・・武士がつかったといわれればそのような・・・剣の形に何かあるのでしょうか?

今から仕事です。帰ってから書きます。


[50]子孫よりさんからのコメント(2015年06月15日 11時23分56秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございました(^・^)

あの・・家紋についてですが、私、やっと理解出来たのです。
武士とか・・そういう繋がりではなくて・・(すみません(..))

日本の苗字七千傑様のQ24.家紋の発祥について こちらに日本の苗字七千傑様が書かれていらっしゃる事は、「日本人の大多数」がバビロニアに起源を持つという事を指していらっしゃるのだと・・

日本の苗字七千傑様のQ24.家紋の発祥について に描かれていらっしゃる「家紋の基本形」の図式を拝見すると良く解ります。

さらに(すみません、日本の苗字七千傑様、勝手に転記させて頂きます(..))
日本の苗字七千傑様のQ24.家紋の発祥について より
十六弁菊花紋は旭日をデフォルメしたもので、日神の象徴として天皇家も用いているのである。
 また出雲大社の亀甲紋も六光紋のヴァリエーションであり、三島大明神や越智氏が用いている折敷に三文字紋も「明治神社誌料」によれば本来は角切菱(亀甲)でバビロニアの海神マルドゥクの紋なのである。
 三文字紋は月神シン(ナンナル)を表わす楔形文字で、越智氏族の家紋がバビロニア起源であることがわかる。
 神話に登場する人物名の××命(尊)はシュメール語のミグトの転訛、天皇を表わす皇尊(スメラミコト)はシュメール・ミグトの転訛であり、家紋と並び名前もバビロニア起源となり重ねて信憑性を裏付ける。

※家紋と並び名前もバビロニア起源となり重ねて信憑性を裏付ける。
こういう事ですね(^・^)

もしかしたら・・昨晩、コメントしたように家の親戚筋はある程度上記の内容を理解していて、「旧宮原村宮麓集落に住む何らかの流れの同族だ」という「証」で同じ家紋を使用したのではないのかな?と (あくまでも私の勝手な推測ですが)
系は昨晩書いたように「藤原姓」「平姓」「良峯姓」「橘姓」と異なりますので、もとは其々の家は「違う家紋」を使用していたのでは?と推測しますが、先を辿った「同族」の証が共通の家紋を使用する事で表されているのでは?と
(何度も言いますが、あくまでも私の勝手な推測ですが)

日本各地に古代バビロニアに繋がる、「日本独自のもの」として形を変えた伝承が数多く残っているはずだと思います。

白石様も私も「球磨」が故郷。
球磨は記紀では「朝廷にそぐわぬもの」として熊襲に関する記述が沢山残っています。
以前は、この事を「悲しく」思っていたのですが、今は違います(^・^)
記紀に「熊襲」について書かれていたお陰で、逆に「熊襲」を研究する方が沢山いらっしゃいますし、その方々の研究のお陰で近年「熊襲」の真実が浮き彫りになってきました。
ですから、記紀での書かれ方は「抜き」にして、故郷の古代がいかなるものであったのかが、見えてきました(^・^)

所で・・
昨日のコメントを書いた後で気が付いたのですが
「切畑も含め、和名類聚抄に残るこの土地「久米郷」は豊富郷でもあり、天皇御領の荘園」

豊富郷・・あれっ?「豊」の字が付きますね・・?
球磨川を挟んで上方は豊永郷です。・・・やはり「豊」の字が付きます・・?

以前、ブログに鎌倉初期及び後期の球磨の所領分配図をアップしていたのですが、解りづらい画像でしたので、あらためて編集を行い、ブログにアップいたしました(^・^)
画像をクリックして頂くと拡大されます。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12039092035.html

鎌倉初期には中球磨・上球磨地域において西は「免田川」より先、おそらく現在のあさぎり町上村と錦町の境界辺りまでを領域限とし、東は球磨川を領域限として「豊富郷」。
豊富郷の上方域の球磨川を挟んだ対岸が「豊永郷」。

鎌倉後期には、「西は免田川」を領域限として東は球磨川を領域限として「久米郷東方」。
さらに免田川より西であり、旧須恵庄(全く現在のあさぎり町須恵の位置とは異なります)おそらく現在のあさぎり町上村と錦町の境界辺りまでを領域限とし「久米郷西方」
「久米郷東方」の球磨川を挟んだ対岸が「久米郷(多良木村)」となっています。
ブログの図を見て頂くと現在の行政区分とは明らかに異なります。

天皇御領の荘園であった「豊富郷(後の久米郷東方および久米郷西方)」と「豊永郷(後の久米郷多良木村)」
「豊」の字・・・

今頃になって、やっと「球磨の所領分配図」が見えてきました(..)

今朝は、家紋の「本当の意味」と、やっと見えてきた鎌倉時代の「球磨の所領分配図」というお話でした。

では(^・^)



[51]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年06月15日 16時53分11秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>バビロンのイシュタル門の遺跡。 
>新バビロニアの都バビロンの遺跡には、2,600年前にネブカドネザル2世が建設したイシュタル門。
 
バビロニア、新バビロニアの歴史を借史したのは晋。
 
系譜は姫姓晋侯裔氏族綱要を参照。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03034.htm#001
 
バビロン初代のナブムキンアプリは、唐叔虞のこと。
以下カンダラス(悼公周)まで。
新バビロニアはナボポラッサル(平公)以降。
 
イシュタル門には、十六弁菊花紋が燦然と輝いていますね!
 
不思議ですね。
邪馬台国の松野連も遡れば同祖?
[52]子孫よりさんからのコメント(2015年06月15日 18時22分39秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございました。

姫姓晋侯裔氏族綱要、拝見致しました。
〉邪馬台国の松野連も遡れば同祖?

そういう事になるのですよね・・・
姫姓晋侯裔氏族綱要を拝見していて気がついたのですが、全くの別人なのでしょうか?「忌」という方がいらっしゃいますね。
松野連系図 先日のご教示より
古公亶父はアッシュールベルカラ
太伯はエリバ・アダド2世
虞仲はシャムシアダド4世
李歴はアッシュールンシルパル1世
文王はシャルマネサル2世
武王はアッシュールニラーリ4世
以下恵公まで代数も同じ。

とお伺いしました。
※紀元前1073-1057年 アッシュールベルカラ・・アッシリア
※紀元前977-942年 ナブムキンアプリ──エラム第八王朝・・バビロニア
(マダマダ、勉強が全く足りていませんので調べました(..))

アッシリアとバビロニアの関係をも、未だあまり理解出来ていないのでしっかりと勉強したいと思います(..)

所で日本の苗字七千傑様、
>新バビロニアの都バビロンの遺跡には、2,600年前にネブカドネザル2世が建設したイシュタル門。

再度、拝見したのですが・・
イシュタル門には、十六弁菊花紋。
十六弁菊花紋の上に「ライオン」。ライオンの上の装飾には十六弁菊花紋の分解?形の装飾と剣でしょうか?
十六弁菊花紋を三等分?もしくは四等分?に分けて・・そして剣がデザイン?されているように見えます。
この装飾が何故か気になってしまいます。
昨日、イシュタル門の画像を主人と父と見たのですが、主人は以前、グラフィック関係の仕事をしていたせいか、私よりも先に、こちらの装飾は何を意味するのだろう?と言っていました。

日本の苗字七千傑様、ご教示いつも感謝致しております。
ありがとうございました。


[53]子孫よりさんからのコメント(2015年06月16日 09時33分28秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

今朝、先日拝見したサイトから、気になる記述を見つけましたのでご紹介いたします。
世界最古の文字と日本の神々
http://bewithgods.com/hope/doc7/7-17.html

こちらのサイトの中に「球磨川」や「八代」についての記述がありました。
(コピー付加ですので勝手ながら転記させて頂きます(..))
※やつしろ(八代) 
 八代では”やっちろ”と発音し、バビロンの風神エン・リラの訛りである。
※ちの(茅野、千野、千乃)
 風神エン・リラが、「や・っしろ」となり、「やっ」が抜けて「しろ」が「ちの」と簡略化された。
※カッパの由来
 九州・八代市に『オレ・オレ・デーラタまつり』があり、球磨川河口の堤上に祭りの由来を書いた碑が建っている。・・中略
碑文には「河童三千匹上陸」とあり、河童たちが口々に「オレ、オレ、デーラタ」と叫びながら上陸したとある。・・中略 多分、この河童はお河童頭をした異国の水人(海人)だったのではないか。とすれば、「オレ、オレ、デーラタ」は「ワレ・ワレ・ディラ・イダン」に近いことばであったろう。
意味は「我、我、風の共同体」、つまり「我々は風神族だ」である。※本書によれば、「かつ」はシュメル語の「風」なので、カッパの「カツ」=風神です。
更に、風神の面は「秦僮(シンドウ)」とも云われているので「河童」は「風神」の一族と考えられる。
※オソフ(襲)シュメル語の「50・吹く風」で熊襲もエンリルが主神である。
※芦辺(あしべ)、芦原(あしはら)、芦川(あしかわ)
 アシベは「50・吹く・天空」から転じた「風神」である。
 「葦原」「芦川」「芦川原」と同祖語である。だから「芦原」はエンリルの都である「ウル」のこと。
※秦の始皇帝
 崇神天皇、垂仁天皇とその一族の名にあるイ・リ(伊理、入)は、エン・リル →エ・イ → イ・リというように転じている。秦の始皇帝の姓はエ・イなので、風神エン・リル族だったのです。当時、ローマを大秦と呼び秦はローマの近くから渡来した人という意味だった。ローマ人の始まりはエンリルの長子月神を信仰しており、シュメルの神々が崇拝されていた。
後にギリシャの神々やエジプトの神々も祀られた。

(゜-゜)と・・あります。
すごく気になるのですが(..)
※熊襲もエンリルが主神である。
※”やっちろ”バビロンの風神エン・リラの訛り
※「オレ、オレ、デーラタ」は「我々は風神族だ」
※カッパの「カツ」=風神 風神の面は「秦僮(シンドウ)」「河童」は「風神」の一族と考えられる。
※「芦原(葦原)」はエンリルの都である「ウル」のこと。

なんでも結びつけたらいけないとは思うのですが・・・
でも、結びついてしまう気がして・・(めちゃくちゃ鳥肌が立っています)

@河童伝説・・・伊予橘氏である先祖は「伊予」「秋田(男鹿半島等)」「佐賀武雄地方」「球磨(宮原)」など、行く先々で河童の伝承を残しています。
武雄には先祖、橘公業が河童を祀る神社も建立しています。
伝説紀行 潮見川のカッパ 佐賀県武雄市
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/311shiomigawa.html
潮見神社についてのサイト
http://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-11809543268.html

A「芦原(葦原)」はエンリルの都である「ウル」のこと。
以前、ご紹介していましたが・・私の曾祖父あての連名の手紙?には、曾祖父に対して「葦原様」と最後に書かれていました。
橘公業が替地して得た久米郷東方下文。橘公員に譲渡され、後裔「橘薩摩」と呼ばれた先祖が築城した宮原城。
宮原城は山城で頂上には風の神が祀られています。岡原霧島神社に合祀とありますが、実は今でも、宮麓地区の人々は宮原城跡にある風の神をお祀りしていまして、「風の神祭り」も行われます。
宮原城跡からは、先祖が築城する遥か以前の弥生時代の骨蔵器が見つかっていて、当時、日本では行われていなかったとある「風葬・鳥葬」の影が見え隠れしています。
この「宮原の土地」を先祖が所領した後、約700年以上も守り続けた宮原村の「宮原の一族」。
大正から昭和初期にかけての岡原の宮原一族の当主であった「曾祖父」(曾祖父が亡くなったのは昭和9年で、その時に家督は私の祖父へと引き継がれました)
曾祖父は何故か連名入りの手紙?で「葦原様」と呼ばれていた・・
「葦原様」の本当の意味は「土地」にあるのでは??

B熊襲もエンリルが主神である。
 Aで書いたように宮原城は山城で頂上には風の神が祀られています。

C八代(やっちろ)バビロンの風神エン・リラの訛り
まさか???!とは思うのですが、平河の鎌倉時代に起こした訴訟・越訴での書状にあった記述ですが・・
「山江村誌」より
弘安六年七月三日の関東下知状によると「如良貞等申者、件永吉地頭併名主職者、八代相伝開発之地也」と見え、良貞より数えて八代前、師高より四代前の「相伝開発之地」であった事がわかる。
そして、八代前が良峯四郎安則であるかわからないが、安則が頼った菊池経頼は則隆の孫にあたる。

(゜-゜)平河の書状にはこの「八代」という記述が複数個所みられ、上記にかかれているように「八代」とは良貞より数えて八代前、師高より四代前とあるのですが・・
「八代前が良峯四郎安則であるかわからないが」とあります。
私、ずっとこの内容が気になっていたのです。

この「八代」を合わせるように、歴史研究家の方々は平河の記録にある、様々な「名を」系図に当てはめて見られているようですが、いずれも「信憑性」に乏しいとなっています。(平河良貞から数えて八代先を安則とする為にはかなり無理があるようで・・)
私は、東大に保管されている平河家文書の古文で書かれた原文をデータ化した記述を初めて目にした時に「歴史の素人」でさらに球磨郡を故郷にするからなのか意味が解らずこの「八代」を単純に「やつしろ?」と読んでしまいました(..)
でも・・(ー_ー)!!こじつけてはいけませんね。

Cで「平河」の記述と結びつけるのは、あくまでも私の「意味を持たないこじつけ」だと思いますが・・
しかし・・
@ABで書いたことはどうなのだろう・・??
すごく気になるのですが・・
出来れば、皆様のご意見をお聞かせ下さい。よろしくお願いいたします。(..)

では。
[54]子孫よりさんからのコメント(2015年06月16日 13時36分33秒 ) パスワード

マタマタ登場しました(^・^)

八代の河童伝説・・本当に伝説が残っているのかな(p_-)・・
と思い、調べたのですが・・・

\(◎o◎)/!ナント八代市公式ページに載っていました!!
http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/ar/article_view.phtml?id=11192
転記させて頂きます(..)

河童渡来の碑
八代城跡の南約500m、前川橋のたもとに石碑があります。「河童渡来之碑」と刻まれた碑文によると、仁徳天皇時代(313〜399)に中国から九千匹の河童が揚子江(長江)を下り、黄海を経て八代に上陸したとあります。

\(◎o◎)/!
九千匹の河童が揚子江(長江)を下り、黄海を経て八代に上陸した!

(p_-)河童さんは伝説上のいきもの!という事は記述されている時代は仁徳天皇時代(313〜399)とありますが、もしかしたら、ずっと遡った時代かもしれませんが「河童さん」に見えるような「人々」が九千人?揚子江(長江)を下り、黄海を経て八代に上陸した・・という事に近いのかもしれません。

ナント!河童さん伝承は八代市の公式ホームページにちゃんと載っていました!
というお話でした。
では(^・^)
[55]子孫よりさんからのコメント(2015年06月16日 13時51分22秒 ) パスワード

追記 
(p_-) カッパさんに見えるような人々・・・・(p_-)(?_?)

あっ!(^・^)フランシスコザビエルさんのように頭のてっぺん辺りの髪がまる〜く剃られたような髪型???

(p_-)うむっ??違うな〜
あっ!(^・^)カッパさんは頭の上に皿がありますから、お皿の様なものを頭のてっぺんに被せた・・帽子?ちがうな〜??お皿みたいな何かを被った人達だったのかな?・・・・?
と推測しました(p_-)

では(^・^)
[56]白石さんからのコメント(2015年06月16日 23時10分03秒 ) パスワード

こんばんわ
河童
後に 河童は 細川候と相良氏の戦いのとき 相良氏に味方して相良氏は勝利。するんですね。
長江からきたとは ・・・仁徳の時。・・・武寧王をかついできて 三島鴨神社を建てた人たちの仲間でしょうか?
 というのも 考えすぎでしょうね。
でもそうなれば 高岡と平川が密接につながって きます。

川筋で さがらっぱ祭りを しています。
四浦は 八代だったり 白河藩だったり・・・宮崎だったり・・
川の流れは速いのに 
皆 泳ぎは達者で 泳げない子は いなかったような・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昨日でしたか 仕事から帰って書きます と しながら 
娘が帰省してくるので そわそわして 書けませんでした。

うちの高岡家が どうして 平川に婿養子に入ったのか?
どうして 川向の尾方家から 嫁入ってきているのか?
高岡の字は 萩で どう考えても 古くにある歴史にいきつくはずで
尾方は 神武天皇系の神を祭る 神社に関与するいえがあって
川向の 中村は 四浦一帯の 家とつながっていて
伊勢では 渡会の地が中村の地で
月読宮があるところにいざなぎ・いざなみは まつられる。

尾方・佐田は 女真族として アジア辞典にもおり 
スサノオ系にもあり

アマテラスは 必ずしも日の神ではない ともいい
天照を冠する高岡は 秦系で 月に関していて 

藤原鎌足の弟・稽文恵は 春日で アマテラスを名のったという。
拓跋氏である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上のうち 尾方・高岡・平川の関係をとくものはないかなあ
と思って シュメールあたりを みつけてみました。

セム族の月の神シン ( 歴史 ) - オルタナティブを考えるブログ - Yahoo .
のブログで 書いてありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
少しながいのですが
ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教は、預言者アブラハムの宗教的伝統を受け継ぐことからアブラハムの宗教と言われる。

なぜ イスラーム教のシンボルは三日月で・・・

月の女神ダイアナへの崇拝からコンスタンティノープルの都市の象徴として三日月が用いられた時代もあったが、予言者モハメッドの時代には用いられていなかった。彼がイスラームの軍隊やキャラバン隊に使っていた旗は一色のもので、色としては緑、白、黒などを用いていた。

イスラームの世界として三日月がはじめてシンボルとして用いられたのはオスマン帝国の時代で
気候・地理的な要因として考えられ、日中動かずに夜明けや夕方頃に移動する砂漠の民における古代の宗教観などを反映していると考えられる。

アッカドの月の神シン
『シン』というのはアッカド語を話すセム系民族において信仰された月の神だ
月をつかさどる神と言えば、ギリシア神話のアルテミスやセメレーなどの女神を想像してしまうのだが、アッカドの月の神シンは、立派な髭を生やした男神だ。風と嵐の神エンリルとニンリルの最初の子であり、エンキの娘であるニンガルが配偶者ということになっている。

  風の神エンリル
    ||――――――――――月の神・シン
  あらしの神ニンリル     ||
         エンキの女子・ニンガル

※私注 ここで エンリルが 太陽神。 シン が 秦へ。 エンキが地球王(へび)へ。
面白いのは古代に重要であった3つの天体(太陽・月・金星)のうち、アッカド/シュメールの神話では月をつかさどる神が最初に誕生し、太陽神シャマシュや金星神イシュタルは月の神シンの子であったとされているところだ。もともと月への信仰は、太陽信仰より古かったようで、この神々の系図はそれを反映していると言う。

月の神ナンナの起源は古い。シュメール文明においては知識と暦を司る神として崇められていた。彼は都市ウルの守護神であり、そこに建設されたエ・テメン・ニグルと呼ばれる巨大なジッグラットに祀られていた。

※私注 ウル第3王朝の初代王ウルナンムと向かい合うかたちで座っている月の神シンが描かれている。彼の頭には神格を示す4本の角がついた冠を被っているとブログではあるのだが、ほかのブログなどの画像ではしん は 丸いかぶりものをしていて とんがり帽子みたいなのは イシュタルがしていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宗像神社では 
月読みさんが 大山積みになった としている。





[57]子孫よりさんからのコメント(2015年06月17日 06時01分56秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございました(^・^)

白石様、
笹井家・・〉信州篠ノ井に戦敗して5郎6郎兄弟が作州へ走り 森候入国の際 出でて仕える。後 小早場川家に仕える。・・岡山県。

※森候入国の際・・岡山の森氏・・伊予橘氏「橘公業」の娘が嫁いだ森頼定からの系。物部氏の繋がりでは、家「宮原」とは同族ですね(^・^)
そう考えると・・
以前、日本の苗字七千傑様より伺った「偶然と奇縁で繋がっている」・・つくづくそう思います(^・^)

私の推論を聞いてください。
「偶然と奇縁」
白石様とご主人もきっとご先祖様のお導きすなわち「偶然と奇縁」は必ずあると思うのです。

実は、私、白石様がコメント46でおっしゃった
「過去にしらべたことが どんどん つながってきます。」
この言葉がとても心に残りました。
そこで、あらためて、今までこちらのスレッドで白石様から伺ったお話を読んでいたのですが、すごく気になる事を書いていらっしゃいます。
平川家について続4 コメント20とコメント23です。
http://hikoshima.com/bbs/heike/101330.html
コメント20より
〉高岡のこと 摂州多田院御家人 高岡氏の場合
高岡肥後の守貞望
丹後にいた貞望は 一色の陣代で 自刃。

コメント23より
〉20で書いた 高岡肥後の守貞望は 姓系辞典に 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の15世云々・・物部あらかび公の末・・高岳(岡・丘)親王の末苗。
こちらは 
池田と同祖、後の世代で 池田は 相良・島津・徳川とからまる。
また 紀姓の人も入ってきており 一杯からんでいる。
また 
楠正行の言葉も出る。
========================================
「池田氏」「楠氏」!!
どうでしょう!ここで、完全に伊予橘氏・・すなわち「宮原」とも繋がっています!


勝手ながら、私、物部氏の系である「高岡貞望」この方を調べました。
高岡氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B2%A1%E6%B0%8F
高岡氏(丹後)[編集]
丹後高岡氏は、物部氏の支流高岳首後裔で、高岡貞望(さだもち)[8]を始祖とする一族。貞望の後裔高岡四郎貞躬が足利尊氏に従って勲功があり、丹後国与謝郡板並庄を賜い、丹後に下向した。

脚注
^ 高岡貞望は饒速日命の後胤、物部麁鹿火(あらかひ)大連の男、物部磐弓(いわゆみ)連の支流、和泉国神別高岳首より出る一族という。

丹後 高岡氏系図
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-takaoka-tango.html
始祖】高岡肥後守貞望  【本拠地】丹後國與謝郡板並庄男山

【世系】高岡氏は源姓なり。丹後國與謝郡板並庄を賜り彼地に下向し、同庄男山に館城を築く。

【歴史】男山城主高岡出羽守貞正は、細川幽斎と合戦す。沼田勘兵衛の裏切りに因りて落城せるといふ。

【異説】一説に物部麁鹿火大連の嫡子磐弓連の裔、高岳首に出づといふ。

(゜-゜)すごく気になります!!
【異説】一説に物部麁鹿火大連の嫡子磐弓連の裔、高岳首に出づといふ。

早速、日本の苗字七千傑様の【物部氏/石上氏】 姓氏類別大観から《物部大連家》姓氏類別大観に進んで拝見しました。
物部布都久留 → 木蓮子 → 麻佐良 → 麁鹿火
そして、掲載姓氏の中に
「【高岳氏】【高岡氏】は物部麁鹿火大連の後裔。」

物部麁鹿火 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E9%83%A8%E9%BA%81%E9%B9%BF%E7%81%AB
物部 麁鹿火(麤鹿火[1] もののべ の あらかひ/ あらかい、生年不詳 - 宣化天皇元年(536年)7月)は、古墳時代の豪族。父は物部麻佐良、母は須羽直(すわのあたい)女・妹古[2]。子に石弓若子(いわゆみわくご)・毛等若子(もとわくご)[2]・影姫(かげひめ)[3]がいる(物部氏の系図を参照)。
麁鹿火の大連初任の時期は不明だが、『日本書紀』の武烈即位前紀に大連として初めて名が現れる。武烈天皇の崩御後、継体天皇の擁立を働きかけ、その即位後に大伴金村と共に再び大連に任ぜられる。継体天皇6年(512年)12月、百済へ任那四県の割譲の際、麁鹿火は百済の使者に割譲の容認を伝える宣勅使となるが、妻からの諫めにより考えを改め、病と称してその役を辞退する。同21年(527年)6月、九州北部で反乱を起こした筑紫国造磐井の征討将軍に就任、天皇から筑紫以西の統治を委任された。翌年11月に筑紫三井郡にて磐井を破って処刑し、磐井の乱を平定した。その後の安閑天皇・宣化天皇の代にも大連を務め、宣化天皇元年(536年)7月に没する。
『古事記』にも物部荒甲の表記で記述され、金村と共に竺紫君石井(磐井)討伐の任に当たったことが見える。『新撰姓氏録』によると後裔に高岳首ら氏族がいる。

さらに・・!!
先日、白石様は
「うちの高岡は
四国あたりも含めて 大きく 固まりがあったとも思える。」
こう書かれています。
私、マタマタ勝手ながら調べました(p_-)
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E9%AB%98%E5%B2%A1&firstname=&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD

高岡氏・・四国・・!!
高岡氏。全国で最も「高岡姓」が多いのは愛媛県です!

さらに愛媛県のどの辺りに集中しているのか調べました。
松山市 234戸 上浮穴郡久万高原町 83戸 喜多郡内子町 52戸 西予市 46戸 伊予市 38戸 

※上浮穴郡久万高原町 83戸 ここが気になり調べたのですが・・
久万高原町(くまこうげんちょう) ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%B8%87%E9%AB%98%E5%8E%9F%E7%94%BA
久万高原町(くまこうげんちょう)は、2004年(平成16年)8月1日に愛媛県上浮穴郡の久万町、面河村、美川村、柳谷村が合併して誕生した町。町名の由来は、中心となる地域一帯の名称である。面積は県内市町で最大。

松山市から三坂峠を越えた南の地域。仁淀川上流域にあたる。北を三坂峠をはさんで松山市と、皿ケ峰連峰をへだてて東温市、石鎚連山を境として西条市に接している。西は、砥部町、内子町、西予市といずれも山々で接している。南および東は高知県である。高知県と接しているため、町内でも、柳谷、美川などの地域では高知県佐川町や梼原町[1] などとの行き来もある。
隣接している自治体[編集]
愛媛県: 松山市、西予市、東温市、西条市、伊予郡砥部町、喜多郡内子町
高知県: 吾川郡いの町、吾川郡仁淀川町、高岡郡津野町、高岡郡檮原町

(゜-゜)
愛媛県・・伊予国ですね!

ちなみに・・白石様のお父様の書き残された「黒い手帳」には
私の先祖の系「橘薩摩」の文字があったと以前、伺いました・・

どうでしょうか? 私の推測に基づく調査なのですが・・

白石様はお父様(高岡家)の御親戚が相良の「平川家」に婿養子に入られた事が気になる・・とおっしゃっています。
伊予橘氏、のちに「橘薩摩」とよばれた系である、うちの「宮原家」と祖母の実家「平川家」は近代においても二重三重の姻戚関係を結んでいます。
私は、この頃、おそらく「物部氏」との積極的な姻戚関係が「平川」には存在する・・と推測していました。
平河伝授巻にある「多良木の平川家」も、系図を見ると明らかで「宮原氏」「池田氏」「弓削田氏」との姻戚関係がしっかりと確認出来ます。

白石様のお言葉 〉うちの高岡家が どうして 平川に婿養子に入ったのか?

あくまでも、私の推測から出た今朝の調査ですが
【高岳氏】【高岡氏】は物部麁鹿火大連の後裔 (日本の苗字七千傑様の【物部氏/石上氏】姓氏類別大観 掲載姓氏 より)

マタマタ私の私見ですが・・
おそらく、球磨という土地は「物部氏」と古代から深い「縁」を持った土地だと思います。
中世以降を見ても「球磨・人吉」すなわち「相良藩(人吉藩)」と岡山藩はしっかりとした強い繋がりが存在しています。

さらに、「越智氏」は久米氏とも紀氏とも繋がっていますよね・・
伊予橘氏である宮原の系はもちろん「越智氏」に繋がっていますが、白石様がおっしゃった「うちの高岡は四国あたりも含めて 大きく 固まりがあったとも思える。」そして今朝ご紹介した日本国内で高岡姓がもっとも多い愛媛県・・
越智氏と「高岡氏」も繋がっているんじゃないのかな?と素人ながら考えるのですが・・

今朝の調査は、あくまでも私の推測から調べて見た事ですので・・すみません(..)
でも・・白石様の「真のご先祖様」がしっかりと見つかったら、きっと、白石様のご先祖様はお喜びになられるだろうな(^・^)と思いまして、勝手な事をしました・・(..)

では(^・^)

[58]白石さんからのコメント(2015年06月17日 20時52分26秒 ) パスワード

こんばんわ
きょうは暑かったです。
子孫様 しらべてくださったのですね。ありがとうございます。

>ちなみに・・白石様のお父様の書きこまれた黒い手帳には 私の先祖の橘薩摩氏が・・・

橘薩摩氏でなく 木原・伊津野です。
伊津野は筑前の方にこの名が多い ということです。
木原は 阿蘇文書に源姓とあり
成蹊辞典に 坂上一族の 大蔵氏に木原があり 末に山口があります。

あさぎり町の元 上村堀の角というところに 木原の小字があって 
上村は 上相良氏がいたところ。青蓮院あたり。
堀の角という地名から 城の堀の角という意味か?

うちの山口は 下益城郡の平江で働いていたといい 末流らしく
平江の女子と身分違いの恋をして 球磨まで 落ち延びてきたということです。

姉の母方には なりまつ の 血が入っていて なりまつ は 伊達の側室の子が宇和島藩主としてきている。その筋が名乗っている。

白石と伊達は 関係がありそうで すが 今は何とも・・・
四国へ集まって行ってるようですね。

高岡系図は貞〇が多いですね。少し 季〇も。

熱田神宮の男子と 近世になって結婚する高丘氏があります。
[59]白石さんからのコメント(2015年06月17日 21時14分01秒 ) パスワード

パソコンの調子がおかしいのでいったんアップしました。
熱田神宮で教えていただいたら 北家閑院流 南家武智麻呂流とよみあげられました。
国史辞典では 坂上一族ということでした。
が、7000傑様のご指摘で 血流から南家にわけられるということでした
ややこしいので
神宮のご先祖様は・初め尾張氏遠祖ニギハヤヒから海神の子・振魂命に変えられた。熱田氏の本姓は安曇。
ということから 平川・高岡はここでもからまっていると思えます。
[60]白石さんからのコメント(2015年06月18日 04時10分45秒 ) パスワード

こんばんわ
昨日は造影剤が入っているので 疲れているはずだけど やっぱり いつもの時間に目が覚めました。

季〇 のことで
高丘家にも季〇があり 千秋家にも 季〇が ついてるなあ と 係りの人がつぶやいておられたのです。

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ところで
半島の人は 王様はみな どこか よそから来ていると しながら 中国人ナノはいやなので 檀君をかしらにつくった。


日本は 半島の神様がいやなので 消してしまった。

という 意味合いのことを 複数回 ネッとで みました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
熱田神宮は 藤原南家から男子が娘婿・大宮司家の女子との間にできた女子が 源義朝との間に 源頼朝を生んだことで 

大宮司・武内氏は 神宮を出て 「八剣神社」を 創建した。

時代が下がって南家から養子が入った千秋家は 尾張氏の勢力が依然強い神宮に入れず 徳川の力を借りて 神宮に入った という意味合いのことを書いているネットを見ました。

「八剣神社」の 祭神は大国主 や 剣 や ヤマトタケルや いろいろだそうですが

神宮kら出られた武内氏がつくった 神社は 出雲の 大国主だったと 記憶しています。
また 石上神宮で 八釼神社は 上座にある。
  
[61]白石さんからのコメント(2015年06月18日 06時34分28秒 ) パスワード

ニギハヤヒは 天にいるとき 天道日女命との間に天香語山命(葉栗の命・高倉下)をうみ 尾張氏へ。
天降りて 長脛彦の妹・みかしきや姫(三輪の大物主の娘とも)との間にうましまじ を うみ この筋が 物部氏へ。
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おもしろいブログをみまいて
秦氏と瀬織津姫祭祀 ( 歴史 ) - 千時千一夜 - Yahoo!ブログより

秦氏には、秦始皇帝を祖とする系と、徐福を祖とする系の二つがみられるも、前者には、秦氏本流の秦河勝を中祖としながら、始皇帝ではなく徐福を「竜祖」(始祖)と主張する長曾我部(長宗我部)氏がいます。

これはほんの一例ですが、しかし、官製『新撰姓氏録』が語る始皇帝系秦氏の系譜は額面通りに受け取れないことを告げています。それと、秦河勝の名は出さないものの、

秦徐福を祖とする「内伝」と、神饒速日命を祖とする「外伝」(『新撰姓氏録』)をともに語る越智─河野氏がいます。
ここには、実に興味深いことが圧縮されて書かしれています。
・・・・・・秦氏あるいは物部系氏族と瀬織津姫祭祀には、とても深いつながりがあります。

始皇帝子孫・・秦河勝子孫・・島津・・島津は佐多
また 島津は 源頼朝子孫にもする。

源頼朝は 熱田神宮の女子所生。

熱田神宮のもともとの宮司・武内氏は 八釼神社を創建した。

[62]白石さんからのコメント(2015年06月18日 19時47分30秒 ) パスワード

>高岡は愛媛に多い 

  天道日女命は・・・・・ 「特殊神事『宵の明星」:愛姫伝より

北条に鎮座する、国津比古命神社と櫛玉比賣命神社です。
櫛玉比賣命神社の御祭神は、櫛玉饒速日尊の妃神をお祭りしたのが始まりです。
またの名前、社号は『祓座大明神(はらいにますだいみょうじん)』ともいわれましたそうなのです。
それは、饒速日尊の宮殿を参詣する前に、ここでまずお祓いを行ったと伝わっています。

天道日女命(あめのみちひめのみこと)。御炊屋姫命。
しかし 『祓座大明神(はらいにますだいみょうじん)』この名前を見るだけでも、まるで瀬織津姫。

>ニギハヤヒは 天にいるとき 天道日女命との間に天香語山命(葉栗の命・高倉下)をうみ 尾張氏へ。
天降りて 長脛彦の妹・みかしきや姫(三輪の大物主の娘とも)との間にうましまじ を うみ この筋が 物部氏へが。

>尾張熱田神宮は 祖先を振魂命に変えられる前は ニギハヤヒを祖神にしておられた。源頼朝が生まれるまでの大宮司は「武内氏」

※※うちは 高岡なので とりあえず ニギハヤヒの父系を高姓にみる。
古代は母系だったのだろうと思う。

>秦徐福を祖とする「内伝」と、神饒速日命を祖とする「外伝」(『新撰姓氏録』)をともに語る越智─河野氏がいます。

※※徐福(女市)は 始皇帝の頃 中国で最高の文化水準を誇った 斉の国の方士で いまの中国山東省、ふるくは 瑯邪 から 日本へ来た。

※※瑯邪は 貴族の王義之もいたところ。

ニギハヤヒは、物部氏の子孫である、小千氏の祖神。そして、もちろん、妃神も祖神です。
越智、河野家は、三島明神を、祖神として古代から、現在まで、変わらず信仰し続けています。
大三島の大山祇神社を祖神として、三島明神を祀ったにも関わらず、祭神は、大山積神。

※※宗像大社では 月読みさんが 大山積になったといっており、
高岡は秦。秦は月の神・しん だった。

でも、この祭神は、三島明神=瀬織津姫・ニギハヤヒ ということが、ほぼ間違いのないこととと思っています。すると、ここ北条では、ニギハヤヒとともに、妃神は、天道日女命ではなく、瀬織津姫ということになります。
国津比古命神社の神紋は16弁菊花紋

※※7000傑様サイトでは
ににぎ の子にニギハヤヒを つけている。ににぎが 菊花紋を使う筋になるなら(天皇家)ニギハヤヒの紋も 菊花紋。
[63]白石さんからのコメント(2015年06月20日 00時35分19秒 ) パスワード

こんばんわ
あ書き直しです。

★★熱田大宮司家に藤原氏より竹内季範が入るときに、伝授している。
こういうのを 「南朝と竹内文書 - AAA!Cafe」で見つけました。

私 武内は もともと そうだった 又は 蘇我氏の女子が嫁に来て以後なのったか と おもっていましたが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
メモ用紙を見ていたら 
相良長頼(近江長頼)
武内宿禰ー波太八代ー淡海・近江
と かきつけていたのです。

そして 近江源氏の武内氏 と いう 言葉を別のブログで・・・
近江源氏は 宇多源氏で 高岡系図もそうです。

相良氏は 上相良氏は 最初南朝方 あとから 北朝方。
ーーーーーーーーーーーー
また
◎平群氏から源氏へのところでは

頼義には出家前に子供がいて、その孫の平群義宗の時に男子が絶えたため、娘を清和天皇八代孫の大内義信に嫁がせて武内宿禰の血を伝えた。

私 山口をしらべていたときに 清和源氏の山口というのがあったのですが たぶんこれなのでしょうね。
山口資料館萩藩文書でしたか に 清和源氏をいう百姓の山口という家があった と ありました。

・・・惟時が宗尊親王の側近となったので復権した。 

★★親王は 鎌倉幕府を継ぐために行かれ のち 京都へ帰られた。
西園寺の人ですよね。

高岡は 秦の系。しかし 西園寺の族に 高丘はいて 国史辞典では 坂上一族としていた。7000傑様のご指摘で 秦 藤原南家 と いうことでした。

ここら あたりが もやもや と 。







[64]子孫よりさんからのコメント(2015年06月20日 12時15分20秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

実は、17日から主人の初めての里帰りで、小倉の主人の実家に帰っていました。
沢山のご教示を頂いていたのにお返事遅くなりまして申し訳ありません(..)

私が、調べた事が少しでもお役に立てれば幸いです(^・^)

白石様のお父様のご実家である「高岡氏」がいつ頃球磨に下向されたのか?その辺りが詳しく解ったらもっと絞り込む事が出来るのでは?などと勝手に推測してしまいます・・・
白石様は、私よりず〜っと以前から沢山勉強されていて、知識を豊富にお持ちなので、なんらかの「きっかけ」を元に一気にご先祖様に繋がるのでは?と願っています(^・^)

所で・・
球磨の「尾方家」について気になる情報を見つけました。
他にも色々気になる事が登場しています。
早速(..)

吉備氏についての記述を読んでいたのですが・・
吉備氏族概観
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/kibi1g.htm

こちらのサイトの一番下 「九州関係」の中からピックアップして転記させて頂きます(..)
九州関係……系譜的には十分な検討を要するが、九州で吉備一族の三井根子命後裔と称する国前国造及び葦分国造の関係姓氏があり、景行天皇の九州巡狩等に随行して来住したものか。これらは、多氏族と称する肥国造や宇佐氏族とも密接な関係を有した模様である。国前国造及び葦分国造の関係姓氏をあげると、次の通りであるが、後者は後に南方の薩隅地方に大いに展開した。所伝通り吉備一族としたら、笠臣と同族かとも思われるが、実際には火国造同族という可能性もかなりある。

中略・・
国前〔国崎〕−豊前宇佐宮貫首。浅田、無佐、由布、芦原田−豊後人。武川〔竹川〕、井関、鷹尾、山嵜、森脇、桂川、鎌谷、高塚−播磨人。柏木−江州柏木人。藤原姓を称する宇佐宮土器長職の高村〔高牟礼〕氏も国崎氏の同族か)。また、豊前国仲津郡の高桑臣も同族か。
(゜-゜)ここで・・
※柏木−江州柏木人。
※藤原姓を称する宇佐宮土器長職の高村〔高牟礼〕氏も国崎氏の同族か・・
旧球磨郡上村の永里の地頭であった「柏木氏(平川家家臣)」ですが、永里の近くには「高牟礼城」跡もあります。
(?_?)何だろう?偶然とは思えないような気が・・

(p_-)続けて転記いたします・・
葦北君、刑部靱負部、刑部、刑部公、日下部、日下部公、規矩連、日奉部、日奉直、日奉宿祢(横尾−肥後国益城郡人、陸奥下野筑後に分る。那賀、合志−横尾同族。竹崎−同国八代郡人。その同族に野中や筑後国御井郡の三井。また、肥後国玉名郡の大津山は藤原姓を称し、公家日野氏の庶流とか菊池一族合志の初期分岐という所伝もあるが、疑問もある。むしろ筑後国三池郡の日奉宿祢後裔とするのが妥当か。その一族には玉名郡の小野、関、三池、津山があり、同郡の江田も同族か)、
 大伴部(出水〔和泉〕、井口、上村、朝岳、知色〔知識〕、給黎、郡山、杉〔椙〕、鯖淵−薩摩国出水郡人。高城−同国高城郡人。武光〔武満〕、高城、寄田−同州薩摩郡人。宮里、高江−同上族、称紀姓。日置、河俣、北郷、息水−薩摩国日置郡人。白坂−日向人。肝付〔肝属〕−大隅国肝付郡人で一族多く、伴朝臣姓で見える文書あるも疑問で本来は葦北国造同族か、一族は大伴氏族を参照のこと)、桧前部(水俣、佐敷、久多羅木、上野、田浦、湯浦、二見、綱木〔津奈木〕−肥後国葦北郡人。篠原、光武、萩崎、白木、牛尾、永里、薗田、中条、岩崎、楢木、桂木、広武、松本、鵜羽、大籠−薩摩国牛屎院人、篠原は日置郡中原の大汝八幡宮大宮司家にもあり。税所−肥後国球磨郡人、大隅国曽於郡の税所と同族と伝う)、他田部、白髪部、真髪部(真上部)、真髪部君(球磨郡白髪社祠官の尾方は族裔か)。また、肥後国葦北郡の家部、八代郡の高分部も同族か。『大同類聚方』には葦北郡の姫島直が見えており、実在したなら葦北国造の族か。

(゜-゜)・・すごく気になる記述がてんこ盛り?です
まず・・
※篠原、光武、萩崎、白木、牛尾、永里、薗田、中条、岩崎、楢木、桂木、広武、松本、鵜羽、大籠−薩摩国牛屎院人
上記の姓にもある「楢木氏」ですが家の隣(と言っても300メートル程先ですが)「楢木家」。
1655年の地域の「庚申塔」にも姓がすでに残っていて、父の話では、楢木家はもとは上村の皆越(旧皆越村)の士族で、宮麓の侍村(まちむら)に移って来られたと聞いています。

さらに気になるのは・・
※税所−肥後国球磨郡人、大隅国曽於郡の税所と同族と伝う
※他田部、白髪部、真髪部(真上部)、真髪部君(球磨郡白髪社祠官の尾方は族裔か)。また、肥後国葦北郡の家部、八代郡の高分部も同族か。『大同類聚方』には葦北郡の姫島直が見えており、実在したなら葦北国造の族か。
(゜-゜)・・税所氏は「平河氏」と密接に繋がっています。
さらに「真髪部君(球磨郡白髪社祠官の尾方は族裔か)」

(?_?)・・どういう事なのか?調べたのですが・・
まず・・真髪部君 
サイト 物部八十氏 より
http://mononobe.digiweb.jp/mononohuyasoudi/clan-dictionary3magyou.html
真髪部 (まかべ)

造姓。もと白髪部といったが、延暦四年五月に光仁天皇の諱(白壁王)を避けて改めた。白髪部は清寧天皇にちなんだ名代部で、その管掌にあたった伴造氏。
白髪部氏時代の天武十二年九月には、連姓を賜ったものもあった。

神饒速日命の七世孫・大売大布乃命の後裔。(「録」山城国神別)

続けて 白髪部
サイト 物部八十氏 より
http://mononobe.digiweb.jp/mononohuyasoudi/clan-dictionary3sagyou.html#sagyou17
白髪部 (しらかべ)

造姓。のち天武十三年九月以降には連姓も出る。ウヂ名の白髪部は清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇)の名代部の伴造だったことにもとづく。延暦四年には先帝光仁天皇の諱(白壁王)を避けて真髪部氏に改めた。
姓氏録山城国神別真髪部造条には大売大布乃命の後裔という。
氏人は不詳だが、「紀」白雉元年是歳条にみえる白髪部連鎧も同族の出か。

(?_?)(?_?)・・あんれっ??
白髪部・真髪部・・・神饒速日命の七世孫・大売大布乃命の後裔。
※真髪部君(球磨郡白髪社祠官の尾方は族裔か)

白石様繋がりの相良の「平川家」に嫁がれた「尾方家」というお話を伺っていますが・・
祖母の実家の「平川家」。祖母の兄嫁は代々神官を継承する「尾方家」から来られていますし・・祖母の姉が平川家から養女に入った椎葉家。祖母の姉の夫、すなわち「椎葉のおじ」の父である方は同じ「尾方家」から婿養子に入り、「椎葉のおじ」の奥さんも同じく「尾方家」から嫁いで来られています。

今日の調査で、球磨郡白髪社祠官の尾方家は神饒速日命の七世孫・大売大布乃命の後裔「真髪部君」の族裔か?・・という記述があって・・
やはり「物部氏」に繋がっていますね・・?????

さらに、私は以前のコメント「平川家について24 コメント2」で
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101455_81.html

清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇)についてお調べしていました・・

平川家について24 コメント2 ピックアップして転記します(..)
=============================================
清寧天皇・雄略天皇 松野連系譜記載人物 興、武
清寧天皇 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%AF%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87
清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年? - 清寧天皇5年1月16日)は、第22代天皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。御名は白髪皇子(しらかのみこ)。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。

御名は白髪皇子(しらかのみこ)
和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)

\(◎o◎)/!シラカノタケ・・ヒロクニ・・というお名前を見てビックリしました。
シラカノタケ・・白髪岳・・??????

でもウィキの記述では
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。

とありますが・・・
おそらく、日本全国の「球磨を知らない」殆どの人は疑問を感じる事は無いと思いますが・・
でも、私は違います。だって雄大な白髪岳が目の前にそびえています・・
==================================================

(゜-゜)・・と私は平川家について24 コメント2 で書いていたのでした・・

※白髪部 (しらかべ)
造姓。のち天武十三年九月以降には連姓も出る。ウヂ名の白髪部は清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇)の名代部の伴造だったことにもとづく。延暦四年には先帝光仁天皇の諱(白壁王)を避けて真髪部氏に改めた。
姓氏録山城国神別真髪部造条には大売大布乃命の後裔
そして・・
※球磨郡白髪社祠官の尾方家は神饒速日命の七世孫・大売大布乃命の後裔「真髪部君」の族裔か?

※清寧天皇 白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)
※清寧天皇・・の名代部の伴造だったことにもとづく、白髪部。
※延暦四年には先帝光仁天皇の諱(白壁王)を避けて真髪部氏に改めた。
※球磨にそびえる「白髪岳」。頂上付近にある三池神社(白髪神社上宮)。皆越には白髪神社中宮。そして麓には白髪神社下宮。宮司家は「尾方氏」。
「大売大布乃命の後裔「真髪部君」の族裔か?」

(゜-゜)・・偶然とは思えない・・です・・???

「吉備氏」そして「物部氏」・・・・球磨郡・・旧上村・・白髪岳・・

という勉強を致しました・・

では(^・^)
[65]白石さんからのコメント(2015年06月21日 03時13分42秒 ) パスワード

こんばんわ
高岡がいつごろから 住み着くようになったか?
です。

縄文時代ごろからの遺跡が 平家城跡 相良の外城があったところに重なってあったようで

奥の五木の方から だんだんと 降りてきたのではないか?
中村の子は 五家荘の別れが 住むようになった といいます。球磨郡誌でも 五木・四浦は もとはひとつ 阿蘇氏支配の頃 二つに分けられた。 と 書いています。

五木の方は 祇園社が多く 
下は阿蘇神社が 多いとは言わないけど あります。
 
又は そういう人の中にまざって 住むようになりながら 時代をおりてきたか? うちと 同じ 字を書く 高岡のことを うちの 高岡のおばは 

同じ字をかくから どこかでは つながっとでしょうけど 
ちいっと 筋がちがうとですもんといい

その 高岡は 萩の永田・大谷の溝口を 遠い親戚として 子供の結婚式によんだと聞いています。

うちの 高岡は 源氏でも 平家でも ない と 高岡のおばから 聞いています。 
村誌では 
縄文時代の遺物がありまがら
村としての成立は 1600年ごろと 書いています。

また 萩とは もとは 葉木で よき字を使うようになってから 萩と・・・
これは 山田のほうのことを しらべたとき 知りました。

また 五木の人と 通婚していることは 尾方 ・ 永田などは 聞いています。五木にも高岡があることは 知っています。
他の家で山田の 人と結婚していて ・・・ 平川は 今の嫁は 一武から。一武は木上と川ひとつで隣り合わせ。これは 今世代で確か 恋愛結婚でした。

平川とは うちの 兄と 結婚話が出ていて(うちの 次兄・三男ともに)
でも その頃は みな 都会に出ていて 自分で嫁を見つけていました。 
平川へは 高岡から婿入りした人が死んだら その 兄弟が また 同じ人に婿に入っています。昭和初期のことです。

その前 就職を決めるとき 都会に出そうとする母に 
「出せばわからんごとなっと」と 高岡のおばが 母に言っていました。
家伝など 持っていないので 自分たちが何者だったか わからなくなる という意味合いだったか? と 思います。

地域ですみ分けている家やその形 太鼓踊りの他 棒踊り など
また 小野にある ちいさな観音堂などを
そして 下益城郡の平江。たまたま 父と結婚したわけでなく その 前世代で
白石にどちらからも複数回 嫁におり 山口とも 嫁イリ 血が入っているところへ父母が 夫婦養子で 入っています。

高岡・白石・平江・山口と先に 輪をつくっていて 父の先妻が病死したあと 兄たちが 自衛隊に行くときも 平江に泊まっていったと聞いています。その頃までは 交流があったようです。今はありません。
岡原にも高岡の人が住んでいますが交流していません。
 
いろいろ まわりの話など 総合して考えると うかんで 来るものがあります。
[66]白石さんからのコメント(2015年06月21日 03時57分42秒 ) パスワード

瀬織津姫
この人は 
ウィキより

『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が瀬織津姫であると記述される。

偽書『ホツマツタエ』では日本書紀神功皇后の段に登場する撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と同名の向津姫を瀬織津姫と同一神とし、天照大神の皇后として、ある時は天照大神の名代として活躍されたことが記されている。

また
出雲 向家の人(4000年くらい前我が国にやってきた インドドラビダ族の子孫で 家には パピルスで書かれた 文書などがある という人)
は 向家の姫という意味だと 教えて くださいました。また さひめ だと。
さひめ は 平木から 舞い降りた姫だと ネットでしりました。

瀬織津姫は 龍神でもあり
ヤマタノオロチに代表される 出雲の一代勢力の姫で

祓の神なので 市房神宮でも 山の上り口におられる と 確か 尾方氏の手紙でも 書いてありました。

神名由来紀の本でも 伊勢神宮の祭神は 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命 また 日向大日霊貴で 脇座に天火明 そして 確か うがのみたま だったと思いなす

国譲りをしたけど 祭祀をする女性の方が上位で 表に出るのは男性だけど
これは 古代は女系を言っている とみえます。

内宮は 天皇以外参拝は許されないけど そこの 宮司に 佐田がついていました。

[67]白石さんからのコメント(2015年06月21日 05時43分15秒 ) パスワード

平木は 新羅です。ごめんなさい。新羅が そのころ つかわれた文字かどうかわかりません

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テレビで 善徳女王を 見ていたら 
伽耶は消えたのだ これからは しん という と 言っていました。
金ゆしん 金ちゅんちゅ も いたころです。

日本では 天智天皇の頃。

伽耶は もっと はやくから 起こって いたと思われます。任那の前身。

その前四世紀頃 馬韓から 大移動で 我が国へやってきた人たちがいて その前 卑弥呼がいて・・・これは 松野系図にある人 ・・・

その前 その前 と つきませんね。
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剣かたばみ  南朝と竹内文書 - AAA!Cafeより

武内巨麿の系と別の 後醍醐天皇の血系 の 武内家の人の話で
南朝小倉宮竹内家  「武内宿禰」の称号とともに「南朝越中宮家」の名も世襲される。竹内文書で有名な皇祖皇太神宮とは別に、いわゆる「正統竹内家」のこと。

皇祖皇太神宮は
神武四年に神武天皇の詔によって創建された。

この神宮の初代祭主は、神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴姫であり、彼女が事代主命の娘であることから、出雲系神道の口伝が伝わっている。

正統竹内家の家紋は 四つわり菊に葉つき菊だが
家紋も、越中の民謡「三才踊り」に「かたばみ紋に菊宿る」と唄われた「菊浮線綾に剣片喰」から菊をとり、ただの「剣片喰」になった。南朝摂政宮竹内家の家紋は「四つ割菊に葉付き紋」で、現在はこれを使用している。
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[68]子孫よりさんからのコメント(2015年06月21日 10時38分10秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

白石様の遠い御親戚にもなる「溝口家」。
実家近くの1655年建立の「庚申塔」にも「溝口氏」の名が残っているのですが・・
実は、航空自衛官時代の父の大親友の方が「溝口」さんでした。私も子供の頃からとても可愛がって頂いていました。
数年前に亡くなっていらっしゃるのですが、父は定年で自衛官を退官してからもずっとお付き合いをさせて頂いていました。
この方のご実家は「旧宮原町」。溝口さんは家に泊られたり、父が宮原町の溝口さんのお家に泊ったりと・・
溝口のおじさんが亡くなった後に、庚申塔に残されていた「溝口氏」の名に気が付き、さらに「旧宮原町」のご出身という事で、父も「きっと縁があったんだと思うよ・・」と溝口のおじさんの事を懐かしく語っていました。

そこで・・ふと考えたのですが、宮麓侍村集落の庚申塔に残されていた姓。
新堀氏を初め、現在でも親戚関係として繋がっている家が多いのです。
さらに、今の宮麓侍村集落には宮原家の遠い親戚である「森」さんが、別の土地から引っ越して来られています。
以前は「畠山」さんも住んでいました。「森氏」「畠山氏」・・??

「畠山さん」・・??そう言えば・・南北朝時代、日向真幸院や馬関田荘預所だった平河師里。
平河師里・北原氏・野口氏の苅田狼藉を畠山直顕は後押ししていたとの記述がありました・・

平河氏と畠山氏の関係が気になりまして、調べたのですが・・・
\(◎o◎)/!畠山氏の家臣として名を残しているのは、マタしても!「宮原家」と同祖、橘公業の系でした!\(◎o◎)/!  あんれっ????

こちらをご覧ください(..)
畠山家
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/hatake.html

(゜-゜)こちらのページ一番下あたりの記述です。
小鹿島仲幹公業裔橘公長流
矢内幹清小鹿島仲幹子孫次郎仕畠山義清
清教弥市
伊賀
内匠
重定和泉
信定重定子藤兵衛
勝定重定弟出雲

(日向畠山家臣)
森 行重三郎次郎 仕畠山直顕大隅守護代建武頃
野元季安藤次 仕畠山直顕 萩峰城主執事
篠原篤通兵衛三郎
隆重篤通裔大膳
篤歳隆重子杢之助
篤種篤歳子源次郎
篤次篤種子清原大蔵仕伊地知重興
篤明篤次子新左衛門「喧嘩新左衛門」
篤典篤明子新左衛門
篤能篤典子大蔵

(゜-゜)
※矢内幹清小鹿島仲幹子孫次郎仕畠山義清
※森 行重三郎次郎 仕畠山直顕大隅守護代建武頃

(゜-゜)畠山義清という方と畠山直顕という方は系は違いますが・・
畠山 泰国が同祖。

(゜-゜)・・平河に繋がるのか?と思いきや「宮原」に繋がる・・毎度の事なので、もう驚きませんが・・マタか・・と。

小鹿島仲幹公業裔橘公長流
矢内幹清小鹿島仲幹子孫次郎仕畠山義清

かなり、以前、平川家について8 コメント86で「橘姓」の矢内氏について日本の苗字七千傑様より御教示を頂いていました。
http://hikoshima.com/bbs/heike/101343.html
転記させて頂きます(..) 平川家について8 コメント86より
小鹿島氏(橘姓)の後裔で奥州伊達氏に仕えた矢内氏がいる。
http://www.ne.jp/asahi/yanai/roots/body09.html
 
伊予宇和島藩主も伊達氏。
伊予橘氏とは長いつながりなんでしょうな。
============================================

(゜-゜)・・・そうでした・・伊予橘氏と伊達氏についても御教示頂いていたのでした・・。
橘姓矢内氏伝譜 
http://www.ne.jp/asahi/yanai/roots/tachibana.html

こちらの系図で確認できる事は
※橘公業の5代孫「小鹿島仲幹」。この方は北条高時臣となっています(マタしても北条家に・・)
※小鹿島仲幹の子「矢内幹清」。この方が「矢内氏祖」ですね。畠山義清の家臣。
※矢内弥市清教 伊達尚宗に仕える。
※白石片倉一家 矢内藤兵衛信定の兄妹は 小十郎白石城主 片倉景綱の妻となり二代 小十郎 片倉重綱を産む。・・という事ですね。

宮原家と同じく「橘公業」を祖とする矢内氏。

http://www.ne.jp/asahi/yanai/roots/body09.html
こちらに戻ると、先ほどの系図の説明が載っています。

転記させて頂きます。
E 白石(宮城県白石市)城主片倉氏の一家矢内藤兵衛
前述@青山家のところでお話ししました矢内和泉重定の娘が、伊達家の重臣片倉小十郎景綱の妻となり、2代小十郎重長を産みました。その縁で和泉の子藤兵衛信定は片倉家に仕え、「一家」という最高の知遇を得ました。(『片倉代々記』)

(゜-゜)・・そう言えば、以前、別の調査をしているときに「片倉家」に何故か繋がる・・という事があって「何故だろう??」と思っていたのですが、こういう事なのですね・・おそらくその時の調査も「平河家」についてでした・・

おんやっ(?_?)・・・\(◎o◎)/!
矢内氏の系図は「白石苅田地方の苗字と家紋より」となっていますよ!!

白石・苅田・・・あれっ!! もしや白石様がおっしゃっていた伊達氏に繋がる「白石家」がある!とのあのお話ではないですか??
白石氏  ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%9F%B3%E6%B0%8F
白石氏(しろいしし、しらいしし)
陸奥国刈田郡の白石氏(しろいしし)。藤原北家秀郷流。はじめ刈田氏、のちに伊達氏を称す(登米伊達氏)。
常陸国久慈郡の白石氏(しらいしし)。清和源氏佐竹氏一族。

陸奥国刈田郡の白石氏
概要[編集]
白石氏の家譜によれば、家祖・刈田経元は藤原経清の子で、奥州藤原氏初代・藤原清衡の同母兄弟であるとしている。経元は後三年の役を清衡と共に戦い、戦後源義家から刈田・伊具の両郡を与えられ、刈田郡白石に土着して刈田氏を称したとする。これに対し太田亮は『姓氏家系大辞典』において、白石氏の出自は遠田郡の白石連ではないかと推測している[1]。

刈田氏が白石氏に改称するのは第6代当主・秀長からであるが、その孫・長俊には跡取りがおらず、南隣の伊達郡を治める伊達政依の子・宗弘を養子に迎える。これ以後白石氏の名跡は現代に至るまで伊達氏の血統により存続していくことになる。ただしこの時点ではまだ白石氏は独立性を失っておらず、白石城を本拠として同地に支配を及ぼしていた。白石氏が完全に伊達氏の傘下へと組み込まれるのは、戦国時代に伊達稙宗が当主となった以降のことである。

上記の白石城。後世「片倉小十郎」こと片倉景綱が城主となり、その妻が橘公業末裔「矢内氏」の娘・・という事ですね。

\(◎o◎)/!・・苅田氏・・あああああっ!!苅田氏の娘は鎌倉時代の球磨に名を残しています。北条重時の妻です。
北条重時の甥が平河師里。

平河師里は日向真幸院や馬関田荘預所で・・平河師里の苅田狼藉を畠山直顕は後押ししていた・・・

何だ!!これはっ!!全部繋がっています!!

(゜-゜)・・平河を調べると・・宮原の系「伊予橘氏」に繋がってくるとは思っていましたが、ここまで繋がると・・偶然?なんてもう言いません(ー_ー)!!
さらに今日は「白石氏」も登場致しました(p_-)

・・・・・「平河」が見えない・・・・?????

では。
[69]子孫よりさんからのコメント(2015年06月21日 18時13分33秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

朝の調査は、比較的新しい時代?についてでした。
(どうも、この頃、平安時代でさえ、この頃のように感じてしまいます(..)父の気持が良く解ります(..))
平河の調査はもちろん継続しますが、どうしても古代の球磨が気になりまして・・
色々見ていたのですが・・
何だか、ついに見つけたようです!

日本の苗字七千傑様からの御教示ですでにお伺いしていた「熊国(球磨国)が邪馬台国(邪馬壹國)であった」。御教示の正確性を科学的?に分析したサイトを見つけました\(◎o◎)/!
もちろん邪馬台国は当時の日本における地方の一国に過ぎなかった事は理解出来ています(^・^)

魏志倭人伝は断片的な部分の翻訳しか、今まで見た事が無かったのですが、こちらのサイトでは、通常書籍などではあまり着目?されていない部分までをしっかりと翻訳されています。
岩波文庫「魏志倭人伝」石原道博編訳に掲載された百衲本の影印を基に入力された原文も載っています。

「魏志倭人伝」の距離、方角に関する考察  という記述では
「「周髀算経」の測量法と計算法」を分析して、測量。
夏至の緯度と影の関係(概算)をも分析。
そして導き出された「邪馬壹國女王之所都」が何処であったのか・・
記紀にて朝廷にそむく「熊襲」と呼ばれた我が故郷が古代にいかなる場所であったのか・・
邪馬台国論争「北部九州説」そして「近畿説」をとなえる歴史学者の方々により完全に「無視」されている我が故郷の古代を・・
皆様、ぜひご覧ください(..) ※すごく長い文書です・・

魏志倭人傳の資料的考察
http://home.c07.itscom.net/sampei/wijin/wijin.html


ここまで、研究されて・・球磨人にとっては本当にありがたい事です(^・^)
[70]子孫よりさんからのコメント(2015年06月22日 14時45分42秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

今日のコメントのタイトルは
@日本の風習について
A宮原観音堂の御詠歌について です。(時代の異なる話となりますが・・(..))

まず@日本の風習について です。
ウィキの日ユ道祖論 より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96
日ユ同祖論は、主に三つの立場がある。
古代イスラエルの「失われた10支族」は、日本に渡来したという説。
古代イスラエルの「失われた10支族」のみならず、12支族が、日本に来たという説。

中略・・
(゜-゜)ウィキの情報を読んでいて「なるほどな〜」とかなり風習が似ている事が理解出来たのですが、中でも私が特に目をひいたのが・・
正月の風習です。
ウィキより
※ユダヤ人の宗教的な行事で、日本と最もよく似ているのは過越(すぎこし)祭である。過越祭(ペサハ)は、ユダヤ教でいう新年の祭りで、ユダヤの祭日のうちで、最古かつ最大のものである。その日は日本の年越しと同じように、家族で寝ないで夜を明かす。更に、過越祭の日だけは普段と食べるものが違っていて、普段はふっくらとしたパンを食べるのであるが、この日に限って、「種なしのパン(マッツォ)」を食べる。この種なしパンは日本でいう「餅(モチ)」に当たる。しかも、ユダヤ人は丸く平べったい種なしパンを祭壇の両脇に重ねて供えるのだが、これは日本の鏡餅に類似している。過越祭は全部で7日間と規定されており、これも日本の正月の期間と同じである。

※過越の夜に種なしパンと苦菜を食べたように、代々どこに住もうとも守らなければならない不変の定めとして過越の祭(ペサハ)を祝わなければならないとされている。過越の祭では、家の中から酵母がなくなるよう直前に掃除を行い、正月の14日の夕方から7日間にわたって種(酵母)のないパン(Mthth/MthH: マッツァー:発酵させないパン)を食べ、苦菜を添えて食べなければならないとされている。1日目と7日目は仕事をしてはならない(『出エジプト記』12:1〜/『レビ記』23:1〜)。これに対して日本では年末に大掃除を行い、旧暦1月15日(1月15日 (旧暦) )は小正月であり、発酵させないパンであるモチを食べ、その後、正月の7日に七草粥を食べる。ユダヤ人は丸く平べったい種なしパンを祭壇の両脇に重ねて供えるが、これは日本の鏡餅に類似している。

(゜-゜)上記の記述で「あっ!!」と感じた事があります。
※1日目と7日目は仕事をしてはならない(『出エジプト記』12:1〜/『レビ記』23:1〜)
ここです!!
以前、コメントしたと思うのですが・・
家や親戚は正月1日はお風呂に入ってはいけませんでした。
何故なら、風呂を沸かすという行為が発生するからです。火の神様が休まれる日と聞いていました。
さらに、正月1日は掃除もしてはいけませんでした。決してゆっくり休むという意味ではありません(ー_ー)!!
子供の頃、正月1日に、私がお年玉のお礼と思って(いい子ぶって)ほうきを使って掃除をしようとした所、祖母からは褒められるどころか(ー_ー)!!・・
「正月1日に掃除をする者があるね!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」
と強く叱られた事があります。
それ以降、大人になるまで、正月1日には「ほうき」に触れた事はありません(ー_ー)!!
ウィキの記述「1日目と7日目は仕事をしてはならない」こちらを読んでかなり驚きました・・すごく、似ているな〜と・・

ウィキのその他の記述を読んでいても、現代の日本に受け継がれた風習が数多く残っている事に驚きました。

(゜-゜)では続けて・・
A宮原観音堂の御詠歌について です。
旧宮原村宮麓地区の「宮原観音堂」についてのサイトです。ページ一番下に紹介されています。
http://tsubame-taxi.co.jp/staff_blog/index.php?page=2

【御詠歌】
〇露のみや 野はらにおくと 詠ふらし  うき身も終の 宿ぞここなる(武親)
〇秋草の 葉すへにむすぶ 露のみや  のはらのかぜに 明日も散りなん(美辰)
この御詠歌は相良三十三観音にゆかりの「井口武親」そして末裔の「井口美辰」が詠んだ歌なのですが・・
以前から、とても気になっていたのが
「露のみや」「のはら」という言葉だったのです。
そもそも宮原観音堂は山の麓にあり、野原と呼べる場所ではありません(..)
さらに井口武親、この方の歌をじっくり読むと
〇露のみや 野はらにおくと 詠ふらし  うき身も終の 宿ぞここなる
※うき身も終の 宿ぞここなる・・まるで放浪の旅から終の住処を見つけたような記述です。
でも、井口武親という方はれっきとした相良藩士ですから「放浪」などありえません(ー_ー)!!
もしや古代に繋がるのでは(p_-)・・などと考えてしまいました・・(違うとは思いますが)
しかし・・他の相良三十三観音で詠まれた「御詠歌」にも意味ありげな事が書かれていて・・

さらに、気がついたのですが
露のみや 野はらにおくと 詠ふらし・・・何方かが、以前に「露のみや」もしくは「露」を「野はらに」「おく」と詠んでいるのでは?と考えました。
早速、色々な和歌集を調べて「露」を「のはらにおく」と詠んだ方を調査したのですが、「露」を「おく」という言葉は「かけ言葉」のようで、かなり多かったのですが「露」を「のはらにおく」と詠まれた方は・・調査不足かもしれませんが・・お1人見つける事が出来ました。

こちらのサイトにも記述されています。
和歌作りのこと
http://www2u.biglobe.ne.jp/gln/88/8801/880115c.htm

遥峯帯晩霞
すが原やふしみの暮の面かげに いづくの山も立霞哉(中略)
露気早知秋
明わたる朝のはらもおく露の 光にみえて秋はきにけり(句題百首 頓阿)
詠まれた方は「頓阿」という方です。

早速調べたのですが・・
頓阿 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%93%E9%98%BF
頓阿(とんあ / とんな、正応2年(1289年) - 文中元年/応安5年3月13日(1372年4月17日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代の僧・歌人。父は二階堂氏一族の二階堂光貞(みつさだ)とされるが、藤原師実の子孫という説もある。俗名は二階堂貞宗(にかいどう さだむね、「貞」字は父・光貞または生まれた当時の執権北条貞時の1字、「宗」字は光貞の父・二階堂宗実(むねざね)の1字と思われる)。子に僧・歌人の経賢がいる。
若い頃に比叡山で篭居して天台教学を学び、その後高野山でも修行。20歳代後半に金蓮寺の真観に師事し時衆となった。西行を史蹟を慕って諸国を行脚、京都東山双林寺の西行の旧跡に草庵を構えるなど隠遁者の生活を送った。二条為世に師事して活躍、二条派(歌道)再興の祖とされ、20歳代で慶運・浄弁・吉田兼好とともに和歌四天王の一人とされた。地下(じげ)の歌人であり、歌壇での活躍は晩年であった。「新拾遺和歌集」撰進の際には撰者二条為明(ためあき、為世の次男・為藤の子)が選集の途中で亡くなったことから、頓阿がそれを引き継いで完成させたが、撰者となったのは76歳の時である。北朝の実力者二条良基(二条派とは別系の五摂家の一つ、二条家の当主)の保護を受けた。

(゜-゜)・・・何だろう・・偶然かな??でもめちゃくちゃピンポイントな「姓」が登場してしまいました・・
※父は二階堂氏一族の二階堂光貞(みつさだ)とされるが、藤原師実の子孫という説もある。俗名は二階堂貞宗(にかいどう さだむね、「貞」字は父・光貞または生まれた当時の執権北条貞時の1字、「宗」字は光貞の父・二階堂宗実(むねざね)の1字と思われる)。子に僧・歌人の経賢がいる。
(゜-゜)父は「二階堂光貞」とされるが藤原師実の子孫という説もある。
平河の訴訟及び越訴に関係した「二階堂氏」(もちろん系は違いますが・・)
さらに藤原師実の子孫・・
藤原師実の子「藤原家忠」は皆様、すでにご存じの通りでして・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E5%BF%A0
父:藤原師実
母:源頼国の娘
妻:藤原定綱の娘
男子:藤原忠宗(1087-1133)
男子:藤原忠能
妻:橘致綱の娘(家女房)
男子:藤原忠兼
生母不明
男子:尋覚
養子:藤原家光 - 橘俊綱の子

※藤原家光の子供が藤原家基で球磨にその名を残す須恵小太良。
※尋覚・・本来、平河師高が地頭に補任されるはずであった小値賀島地頭職に補任された。
他にも沢山ありますが・・
宮原観音堂 御詠歌
〇露のみや 野はらにおくと 詠ふらし  うき身も終の 宿ぞここなる

※露気早知秋
明わたる朝のはらもおく露の 光にみえて秋はきにけり (頓阿)
頓阿・・父は「二階堂光貞」とされるが藤原師実の子孫という説もある・・

そうか・・・(?_?)・・
頓阿という方は「北朝の実力者二条良基(二条派とは別系の五摂家の一つ、二条家の当主)の保護を受けた。」とありますね・・
そう言えば・・
球磨太鼓踊りの歌詞
木上村 阿蘇せんりゃうの歌
阿蘇せんりゃう強情な 一條殿には二條殿 三條下りの千口殿
一枝折りてお手にもち 二枝折りて腰にさし 三枝さすまに日がくれて
(関係ありませんが(ー_ー)!!)

という事で今日の調査は
@日本の風習について
A宮原観音堂の御詠歌について でした(゜-゜)

では(^・^)


[71]子孫よりさんからのコメント(2015年06月22日 21時39分14秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様。
先日、白石様より、お父様のご実家「高岡家」について、もしや「五木から」?・・と伺って、私なりに調べてみました。

熊本県には高岡氏は174戸。
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E9%AB%98%E5%B2%A1&firstname=&tdfk=%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C
熊本市 30戸 八代市 19戸 玉名市 14戸 宇城市 13戸 上益城郡山都町 12戸 玉名郡和水町 11戸
球磨郡内では相良村が、他町村を抜いてだんとつですね7戸。五木3戸。
八代市と宇城市は隣あっているので合わせて32戸と多いですね。
宇城市には旧宮原町も含まれていますよね。
旧宮原町 → 五木 → 四浦・・は昨日のコメントにも書かせて頂いたサイトの「ルート」上になりますね・・
良く見ると・・熊本県内で高岡姓の多い地域は、「古代」の遺跡が発見されている地域と合っていませんか?
何だか気になるのですが・・

五木と言えば・・通称「アポロ道路」は御存じでしょうか?(^・^)
正式名称は「菊池人吉大規模林道」です。
ナント、九州中央山地を尾根伝いに通る「天空の道」のような林道です。標高1500メートル程の尾根を通ったりします。
出発地点は「多良木」です。もともと、尾根伝いに「菊池」まで通る道があって、現在はその道を整備して大規模林道となっているようです。
「もともと」あった道・・と聞いて私、めちゃくちゃビックリしました。
解りやすい説明があるツーリング専門のサイトを見つけました。
http://www.geocities.jp/thkyd/hi-ho2/201003kyuusyuu/3day/miyazaki2.htm

サイトに載っている「地図」を見て、マタマタビックリしました。
何だ!この「天空の道」は・・
林道ってすごいですね!九州中央山地の「尾根」伝いに各地を結ぶ道があったとは・・
人間って昔から色々な所まで「道」を作っていたのだな〜と感心しました(p_-)

昨日コメントしたサイトでは取り上げられていませんでしたが・・
私は球磨に繋がる「海の玄関」は佐敷かな?と思っていました・・というか今でもそう思うのですが・・
実は、先日、球磨村渡から芦北の佐敷港までドライブしたのですが、球磨村渡から芦北に抜ける道に曲がったなり、コレマタ驚いたのです。
だって、すごく道が平坦で・・全く苦労することなく「あっという間に」芦北佐敷港に着きました。
海まで抜けるのならば、この道が一番楽かな・・と思います。
以前、コメントしましたが、相良氏が下向する前でも、佐敷港を利用して、球磨地方の豪族は海外や沖縄と貿易を行っていたようです。
交通手段は実は色々あったという事ですね(^・^)

では(^・^)
 
[72]白石さんからのコメント(2015年06月22日 23時38分06秒 ) パスワード

こんばんわ
山道
アポロ道路は知りませんでした。

学生時代の遠足で 初神から ぬけぼーし に のぼり 八代海を見て 帰っていました。

昔あった山岳ルートのひとつで それ以外に 人吉から八代へ抜けるには
海岸沿いを 人が崖にへばりつくようにして 一人が通るのがやっとのところを歩いていたそうで 

江戸時代ころ 相良氏のおじ・林正盛が夢で キツネに教えてもらって 球磨川の大石を割る方法を知ってから 八代への水運が開けたと

遠足の折などで教えてもらいました。
林は鞍つくりで 蘇我氏で 武内宿禰の子孫で先日の正統竹内氏の話に通ずるものがある。

相良氏の紋は 梅鉢の他に アゲハチョウも 本に載っており それが 前から気になっていました。今も いつごろ どうやって つかわれるようになったかは 私 わかりません。

しかし 別口の 呉が出る話で おもしろそうなのを みつけました。
【摂州多田院御家人 高岡氏系図】
摂州高岡氏は池田氏と同祖なり。摂州池田氏はもと物部伊居太足尼 (五十言宿禰)の後胤

【摂津 池田氏系図】をみると
【氏神】伊居太神社(摂津國豊嶋郡池田郷)

伊居太神社とは
池田市に現在する最古の神社とされている
呉の国から渡来し、日本に機織技術を伝えたとされる、織姫・穴織媛(あやはとりのひめ)と、応神天皇、仁徳天皇を祀っている。

もうひとつの兵庫県の論社の方は 坂合部だの たけみかづち だの それはそれで おもしろい 話がありますが

池田の神社の方は 
呉服神社(クレハ)が池田駅南側に鎮座しており、秦下社と称しており、穴織神社を秦上 社とよんでいた事、また『和名抄』には当地に摂津国豊嶋郡秦上郷・秦下郷であったので 、土師氏以前には秦氏が住んでおり開拓に従事していたのであろう。

とあり
 ニギハヤヒを秦とみて

高皇産霊神(高木神)の娘 また 孫 また 思兼命の妹などいろいろ書かれる織物に関与するらしい神名を持つ 「栲幡千千姫命」は
 
天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。


なんとなく 高岡系図 池田系図からでるものは
ニギハヤヒ・・・秦 呉・・・平川に通ずる
ものがあるような・・・もやもやと。
時代がちがうとか 織姫 とか いってしまえば それまでですけど
ーーーーーーーーーーーーー
摂州多田院御家人高岡系図で 
養子實池田奉永四男 というところの ぽっちりを押して 池田系図をだし
楠正行から 楠木氏系図をだし
橘 有主の子孫に 

性空がいます。子孫様の初めの頃の お話の 性空では ないでしょうか?




[73]白石さんからのコメント(2015年06月23日 06時29分34秒 ) パスワード

おはようございます。
昨夜のコメント少し 誤解されそうだと思って書きます。

尾根を走る
山が好きな人は 本州の北から南まで 実は 尾根伝いに歩くと みんな つながっていることを 知っている ということを 書いた や本を見たことがあります。普通の人は 袋になっている土地なら 外界と隔絶されて・・・と 思いますけど。

山で道に迷ったら 下に降りようとしないで 尾根に登れ とか 聞きました。

四浦から町へ出るにも 昔は 今の県道でなく 北岳神社があるあたりの高さに道があったと いうことも 遠足の時聞きました。

山田へは 初神から 山をこえて 抜けると いけるということで めじろとりに来ていた人から 聞きました。

山から下りてきたその人たちを 家でみかけたのは 昼すぎころなので それから 山越えをしたのですね。
その人たちは 上村と川村の人でした。から 家を朝 出て それだけ歩いていたのですね。
山田から嫁入ってきている人 も 結構 いたので 昔は 山越えをしてきたものか・・・

今みたいに 車でさあーっと 走っていく時代ではないけど 
今の 県道しか道がない というのとは 違うようですね。
[74]子孫よりさんからのコメント(2015年06月23日 09時36分47秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、御教示ありがとうございました(^・^)

〉摂州多田院御家人高岡系図で 
養子實池田奉永四男 というところの ぽっちりを押して 池田系図をだし
楠正行から 楠木氏系図をだし
橘 有主の子孫に 
性空がいます。子孫様の初めの頃の お話の 性空では ないでしょうか?

(゜-゜)こちらのお話ですが「性空上人」は霧島神宮を再興された方です、数百年後に再興されたのが橘(柏原)公資の子である兼慶法印(橘公業後裔)です。
霧島山略縁起には
「真言密宗兼慶法印[柏原備前守橘公資三男也、]当山を中興せり」とあります。
まず、霧島神宮公式ページ 御由緒より
http://www.kirishimajingu.or.jp/contents/goyuisho.html
コピー出来ないので、「社殿の創建」という記述をお読みください(..)

ちなみに「柏原」姓と伊予橘氏については平川家について22 コメント8・65・67(日本の苗字七千傑様の御教示)さらにコメント68では池田氏と伊予橘氏についてを書いています。
池田氏と伊予橘氏に関しては以前、日本の苗字七千傑様に御教示頂いたように、教正が楠木氏から池田家に養子に入っているので、同族ですね。
さらに・・
「池田輝政」の兄妹は・・
安養院 - 森長可正室。長可の戦死後、中村一氏正室。
※森長可は、宮原と同じく「橘公業」に繋がり・・
※中村一氏はコレマタ「橘公長」に繋がっていますので伊予橘氏との繋がりがここでも明らかです。

池田氏と伊予橘氏の関係は日本の苗字七千傑様のQ&A「岡山藩主池田家の例」と「Q30.楠木正成は左大臣橘諸兄の末裔か?」を拝見すると一目瞭然です。

白石様の御教示
〉楠正行から 楠木氏系図をだし橘有主の子孫に 性空がいます。
熊野国造の系を繋いで「橘島田麿」に繋がっていますね。日本の苗字七千傑様の「橘氏」姓氏類別大観から【熊野氏】(熊野国造)そして《和田氏》と見て行くと良く解りました(^・^)

越智氏は物部氏であり、なおかつ孝霊天皇の後裔。紀氏にももちろん繋がっています。
後世においてもその繋がりが続いているという事なのかな?と。

以前から、考えていたのですが・・
白石様が「高岡家と平川家のからみ」とおっしゃる内容なのですが・・
調査すると、どうしても「高岡家と伊予橘氏後裔である宮原家」とのからみ・・となっている事に気がついたのですが・・
宮原の系は「伊予橘氏」。すなわち楠氏とは同族。
日本の苗字七千傑様の《伊予橘氏》姓氏類別大観を拝見すると、同族でもすごく近い「同族」であるのが良く解ります。

「平河家(平川家)」については、現在の所、鎌倉時代の訴訟・越訴他、相良家文書の記述以外は、もっと古い球磨での記録(平安時代以前)では系をたどる物は殆ど残されていません。「良峰姓」である・・ここだけですよね。
だから、簡単に推測できない・・という事ですよね・・(..)

でも、先も言いましたように簡単には推測は出来ませんが、しかし、解っている事は多良木平川家の平河家伝授巻に残された系図などから推測しても、明らかに「物部氏」そして「紀氏」に繋がる系との姻戚関係は続いていると思います。

では(^・^)

 
[75]子孫よりさんからのコメント(2015年06月23日 12時26分47秒 ) パスワード

追記

先ほど、平河(平川)の姻戚関係について「物部氏」そして「紀氏」に繋がる・・と書いたのですが・・

今日は、主人は休みでして、主人の顔を見ていたら、「やっぱり、じいちゃんの顔に似ているな〜」と・・
うん(?_?)・・・そう言えば・・
主人の母方は「中村家」。中村家に主人の曾祖父が「望月家」から養子に入った・・
主人の母方の「中村家」と「望月家」は親戚関係にあったそうです。
望月氏と中村氏・・・???以前、そう言えばコメントしていました・・
日本の苗字七千傑様の【滋野氏】姓氏類別大観を拝見すると
清和天皇の皇子貞保親王の孫、善淵王が滋野姓賜姓に拠るとされている。
望月氏は紀国造 → 紀氏 。そして善淵王の母が「紀氏」そして・・望月氏へと繋がる・・
偶然と奇縁。まさしくそうですよね・・
主人は「宮原」の姓を継いでくれたので・・ここに「紀氏」との縁が復活?されたのかな・・??
さらに・・
よく考えてみると私の周囲には沢山の「中村」さんが・・
前々職の時、主人を田川郡添田町と川崎町の境界にある事業所に配置転換を行ったのは私で、その後、大学の新卒で、同事業所に配属された人も「中村」さん(男性)。彼は、ナント現宇城市の「宮原町」出身でした。若いのに珍しく「家は士族でした」何て言う、他の人から見るとちょっと変わった?人物でした・・(?_?)
後で、考えると橘公業後裔の「中村氏」があるので、もしや・・??と。
その1年後、同事業所に配属された大学新卒者も「中村さん」でした・・

中村氏・・
今朝のコメントにもあった
※安養院 - 森長可正室。長可の戦死後、中村一氏正室。
中村一氏は「橘公長」に繋がっています・・
以前、コメントしたように、鎌倉時代〜江戸時代にかけて、望月氏と姻戚関係とあったのは上記の「中村一族」。

まさか(?_?)・・主人の顔が私の祖父に似ているのは偶然ではなくてDNAのなせる技?ではないのかな?!!・・もしかすると・・ですが・・
そうなると、まさしく「奇縁」!

さらに・・
以前、時折コメントして下さっていた「ごど」様は「中村」様でした。
「ごど(中村)」様も「平川家」(おそらく球磨以外の)にお繋がりでした・・

どういう事なのでしょう・・????

以前、コメントしていたと思うのですが、主人の母方の伝承に御先祖様が「白馬」に乗っていた・・と。
球磨の「平河氏」も白馬に乗っていた・・と伝承されています。

でも・・主人の母方は「中村氏」であり「望月氏」である・・
繋がるとすれば、やはり、家「宮原」の先祖、伊予橘氏「橘公長」・「橘公業」。白馬繋がり?の平河家ではないでしょうし・・

何だかとても「中村氏」は気になります・・
では。
[76]白石さんからのコメント(2015年06月23日 20時57分08秒 ) パスワード

こんばんわ
>白石様が「高岡家と平川家のからみ」とおっしゃる内容なのですが・・
調査すると、どうしても「高岡家と伊予橘氏後裔である宮原家」とのからみ・・となっている事に気がついたのですが・・

私の表現が悪くて 誤解を招くことばかり書いて・・・すみません。

我が家の場合 平江を介して です。
平江は 平川 とも 読める。

平江に山口から嫁に入り
山口から白石へ嫁 高岡から嫁
白石へ平江から嫁

父母の前世代まで そういう関係が出来ていて
父母が夫婦養子

平川へ直接関係しているのは 
尾方 から 嫁 高岡から婿養子
尾方へは 中村から 入っている

この中村が村中とつながっていて ぐるぐる・・・

我が家の場合むしろ 村中の家の 山のすみわけ 持っている 踊りや 神社
など 全部をみて 浮かんでくるものが 歴史をなぞらっている ということです。

>今日は、主人は休みでして、主人の顔を見ていたら、「やっぱり、じいちゃんの顔に似ているな〜」と・・

祖母(高岡)の三人目の夫は 木下です。
この 木下の顔が おじい様とそっくりです。

木下は 深田在住。でも 墓は初神のお寺の石段の下にあって そこへ 祖母も入っています。このお寺は 曹洞宗です。お墓を持っているので 祖先は 初神出身だと 思います。

初神には ★福島 ★もう一軒 うちとは 違うという 同級生の 木下 墓は同じところにあるという があり 福島へは 田山から 嫁入り。

直接 平川に関与しているのは 
尾方 高岡 。

同級生で 尾方へ父親の兄弟がいっている という 人は 
(きょうだいぐるみ 近い親戚ぐるみ)初神のお寺を菩提寺にしている と 言っていたので 

うちの 平川へ 初神の尾方から嫁にきた おばあさん世代の人は曹洞宗の人が嫁にきたということです。尾方は桐紋。平川も桐紋。
対して 高岡は 深田善正寺。橘紋。
同じ集落にある橘紋を持つ尾方も 同じく善正寺。
祖母が結婚した 坂本も橘紋。うちの白石も橘紋。  

うちの白石(父母が夫婦養子)は 人吉永国寺の流れで 明治時代に村役場が置かれた 古見院で ここも 曹洞宗。

同じ字を書く家で 宗派が違うのは
源平 南北朝 維新など 大きな変化の時 あちら と こちらに わかれたのではないか ? と 思うのですが 
なにせ 小さな集落なので あまり 穿り返すのも と 思います。

隣の集落にあった 永島家。は 維新の後 西郷さんに味方して 毛布をもらったと 父は言っていました。また 昔は 今みたいに家の開きはなくて どこも同じようなものだったとも。

うちが西郷さんにみかたしたかどうかは 聞いていませんが
白石の遺灰を預けてあるという古見院は 永国寺の流れで
永国寺には 西郷さんが 一時 本営をおいていました。 

[77]白石さんからのコメント(2015年06月23日 23時29分30秒 ) パスワード

こんばんわ

>「平河家(平川家)」については、現在の所、鎌倉時代の訴訟・越訴他、相良家文書の記述以外は、もっと古い球磨での記録(平安時代以前)では系をたどる物は殆ど残されていません。「良峰姓」である・・ここだけですよね。

平川・平河は良岑姓。
贏姓 高丘系図1を開いて19までスクロ−ル 斯摩(462-523)
【(推算)百済 扶餘系図】を出して(半島の中はややこしくてまだわからないところもあるのでしょう?)
これも あくまで参考ですけど・・・

25善光のところのぽっちりをおして 【百済王姓 三松氏系図】をだす。
28の百済永継をだし その女子が冬嗣の母

また もう一度 バックして 【(推算)百済 扶餘系図】にかえり
27和氏乙継の女子・新笠が桓武天皇ご生母

さらに 和氏をいちばんしたまでスクロールすると宅継([759]-  )が出て
若狭彦神社神主へ
【皇別 若狭 笠氏系図】
笠氏の始祖は、人皇第6代孝安天皇の曾孫鴨別命の子小篠に出づ

鴨別 - Wikipedia

鴨別(かもわけ、鴨別命/吉備鴨別)は、
、鴨別を稚武彦命の孫とする。なお同書では、吉備武彦について稚武彦命の子と

そして 若狭彦神社には 白石大明神があって 鵜之瀬神社には
若狭彦の神(彦火火出見尊(ひこほほでみ))と若狭姫の神(一の宮夫婦神)
若狭姫神(豊玉姫命)(山幸彦の妃)である。
市房神宮の同体ともいえる。

高陵氏は百済王族へ血をいれ
平川とからまってくる。こちらは高丘と書く。高岡と通じてくるが・・・

一方 池田と同祖の高岡は鹿島氏が書く 「けいよう君」の筋だろうか?と思うけど 
どちらにしても 秦 正確には 趙。 




[78]子孫よりさんからのコメント(2015年06月24日 11時10分12秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、御教示ありがとうございました(^・^)

白石様の故郷、「四浦」。
こちらの四浦晴山の平川家とは、父の親友の方がいらっしゃるので、お付き合いをさせて頂いています。
おそらく、同じ四浦という事で白石様の御親戚の「平川家」とは姻戚関係もあるのでは?と思っているのですが・・

実は、今朝、コメント66の白石様の御教示にあった「棒踊り」を調べていたのですが
初神棒踊り
http://www.nihon-kankou.or.jp/kumamoto/435104/detail/43510be2220090725
四浦の初神地区に伝わる郷土芸能。隣接する深田村の草津山に伝承されていたものが、江戸時代に初神地区に伝わったといわれる。踊りは6人1組が4〜5組で、歌い手にあわせ棒を打ち鳴らして踊ります。 昭和62年に村の文化財に指定されています。

隣接する深田村の草津山に伝承
こちらも調べてみました。
公益財団法人熊本県立劇場 伝承芸能調査事業 市町村データベース(球磨郡)
http://www.kengeki.or.jp/kengeki/wp-content/uploads/2013/01/Kuma_gun.pdf
球磨郡 あさぎり町西字草津山
草津山の棒踊り
この棒踊りの隊形は、一組六人の二組の場合では、4段3列で構成し、中央の列は鎌と太刀を持ち、その左右の列は棒を持って唄に合わせて踊る。踊り歌には、地現流、鎌倉流、三八流があり、唄の変わる毎に踊りの動作も変わる。
由来については、中村本治氏の記録に、鹿児島県姶良郡出身の田中喜左衛門
が、明治十年の西南戦争に招集され、敗戦になった時、郷里に帰る事ができず、この草津山地区に数年逗留し、その際、姶良郡の棒踊りを伝えたといわれる。
また、鹿児島大学の下野敏見氏の解説では、地現流は田中氏が伝承した唄であり、踊りであるが、鎌倉流と三八流の場面は地元で付け加えた唄であり踊りであるといわれている。【あさぎり町役場HP/2006】
鹿児島県姶良郡出身の田中喜左衛門が、姶良郡の棒踊りを伝えたといわれる。【2001】

とあります。

しかし!!「棒踊り」を調べた「お陰!」で、すごく気になるというかとても重要では?と思える別の情報を見つけました!!

こちらのスレッドもそろそろコメント80に近づいていますので、続きは新しいスレッド「平川家について26」にてご紹介致します。

日本の苗字七千傑様、白石様。
沢山の御教示を頂き、本当にありがとうございます。
私は日々「勉強」です。
今後とも御教示の程、どうぞよろしくお願いいたします。

平川家について26に続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101466.html
[79]七会さんからのコメント(2023年02月11日 22時35分18秒 ) パスワード


まさかエンリルをお調べとは思いませんです。
現在 大口の資料に目を向けています。
秦氏の話面白く見させて頂来ますが、畑総橋の一致 偶然にしては謎なのですが。
色々と整理して参ります。
[80]七会さんからのコメント(2023年03月02日 22時21分04秒 ) パスワード


 そういえば北仰でしたね。
よろしければ飛鳥井家のことをお聞かせください。
[81]七会さんからのコメント(2023年03月19日 19時02分53秒 ) パスワード


平川について 平川家について誰もそのように思ってないとだけ言っておきます。
これほどの時間が経過してしまうとは思いませんでした。

もはや私も吹けば飛ぶような状況ですので来れないかと思います。

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