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 投稿番号:101343 投稿日:2014年02月03日 05時58分52秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について8

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様、調査開始からついに8まで進みました。
いつも、ご丁寧なご教示ありがとうございます。
どうぞ、これからもよろしくお願い致します。<m(__)m>

平川家について7のコメント95の内容をこちらに転記します。
(私の調査には関係の無い事かもしれませんが・・)では(^・^)

寛喜3年4月6日
四位侍従公綱(藤原)朝臣・刑部大輔義高朝臣等入滅、 民経記

記録では「疾病と聞いている?」(云々)となっていたのですが、でも二人の名前が同時に記録されていて、なおかつ「等入滅」とは、まるで、同じ所で、何人も疾病で同時に入滅した?というような書き方が逆に変だな?と思ったのです。(気のせいだとは思ったのですが・・)

そこで、まず四位侍従公綱(藤原)朝臣とはどなた?と思い調べました。
藤原公綱とは・・
徳大寺公能の息 徳大寺実定(とくだいじ さねさだ)の子でした!!
徳大寺実定 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%AE%9A

徳大寺 実定(とくだいじ さねさだ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。右大臣・徳大寺公能の長男。官位は正二位・左大臣。後徳大寺左大臣(ごとくだいじの さだいじん)として知られる

父母  父:徳大寺公能、母:藤原豪子(藤原俊忠女)
兄弟    藤原忻子、徳大寺実定、藤原多子、藤原実家 ほか
★昨日コメントした藤原多子は妹なのですね。
妻:藤原顕長の娘 男子:徳大寺公綱 - 少将・・★この方です!
妻:藤原師長の娘[2] 男子:徳大寺公守(1162-1186) - 正四位下右中将
妻:上西門院女房備後 三男:徳大寺公継(1175-1227) - 従一位左大臣
生母不詳 男子:道雲 - 仁和寺僧都 男子:徳大寺公広 - 侍従 男子:公厳
女子:良全の母 養子:公方 - 実は公源の子

「義高」というキーワードをもとに情報を探しただけなのに、偶然とはいえ・・何で繋がってしまうのだろう??(自分でも不思議で仕方ないのですが・・)

じゃあこちらの方は?ここからは、いつもの行き当たりばったりです。すいません<m(__)m>
刑部大輔義高朝臣(藤原義高)・・*べつの記述では菅原義高という人もあるのですが、同一人物かどうかは?解らないのです。ただ、同時期の方であるのは確かです。

では・・・(^・^)
・・・あの・・・・嘘でしょう・・!えっ!
刑部大輔義高 をキーワードで検索したのですが・・
http://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e8%8f%85%e5%8e%9f%e6%b0%8f%ef%bc%88%e9%ab%98%e8%a6%96%e7%b3%bb%ef%bc%89

記述をまとめます

菅原義高 生没年:不明〜1231年(寛喜3年の記録による) 
父 :大学頭 菅原在茂・・文章生 文章博士 大学頭 正四位下
母 :(父:刑部卿 藤原家基)★母は藤原家基(近衛家基)の娘
祖父:豊前権守 菅原是基・・従五位下 豊前権守 少内記
子 : 高能  義慶
兄弟:菅原在高 生没年:1159-1232  
偶然?でしょうか これは偶然なのでしょうか?
四位侍従公綱朝臣(徳大寺公綱)・・徳大寺公能の孫
刑部大輔義高朝臣(菅原義高)・・近衛家基の孫
全てが、今まで調べて来た事に繋がっています。でも偶然?でしょうか?

皆様、もう一度こちらを読まれて下さい<m(__)m>

熊本県球磨郡あさぎり町の広報の記述(深田村万福寺について)

今回、発見された墨書銘には、木造毘沙門天立像を、いつ、だれが、何の目的で作ったのかが判明しました。その内容は、「当郷の領主の藤原家永が、藤原氏の災いをなくし、命を延ばし、福寿を増長することを目的とし、勧進にあたった僧は源与で、仏師は僧の経助で、この地にて成就し、多治治助ならびに藤原氏の一家の平安を願って久寿三年(1156年)四月二日に安置した」ということが書かれています。久寿3年の年は保元元年にあたり、あの源平モノの大河ドラマなどではよく耳にする「保元の乱」という事件がおこった年です。「藤原家永」という人は、先ほど述べた『図田帳』の「藤原家基」の一族に強い関わりがあると思われます。
 さらに、仏師名と勧進僧名や平安時代前期に皇室と関わりがある「多治氏」の名前もあることから、球磨郡の平安時代をさらに問題提起をしています。

球磨の平安時代に関係していた「藤原家基」の一族そして多治治助「多治氏」

菅原義高 この方は上記の藤原家基(近衛家基)の孫だったのですね。

という所で終わりました。
これからも、調査を意欲的に継続いたします。
今後ともどうかよろしくお願い致します。<m(__)m>(^・^)

平川家について7
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/101338_96.html

[1]子孫よりさんからのコメント(2014年02月04日 16時27分39秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。今日は年休消化の為の休みです。所で・・
最初からお詫びします。<m(__)m>
私、完全に間違っていました。
★球磨の平安時代に関係していた「藤原家基」の一族そして多治治助「多治氏」の藤原家基は近衛家基じゃなく(ー_ー)!!<m(__)m>藤原家光の息の藤原家基です。(ああ〜!知ってるよ!との声が(@_@。)

日本の苗字七千傑様からご教示頂いた「歴史の時間軸を冷静に考えることも重要です。」このお話をいつも頭に入れて!と思いながら、自分のコメントを確認していたら、「合わない(ー_ー)!!」事に気が付きました。(トホホ)
どうも、すいませんでした。<m(__)m>

と言う事は先日コメントした内容は
四位侍従公綱朝臣(徳大寺公綱)・・徳大寺公能の孫
刑部大輔義高朝臣(菅原義高)・・藤原家基(藤原家光の息)の孫
となる訳です。<m(__)m>

実は、今日、橘の歴史を読んでいて「ありゃっ?!」と。そこから、しっかりと理解できました。(このあわて者が!!と何やら橘の先祖の合唱のような声が聞こえたような(@_@。)

先日見つけた情報に(必ず今度コメントでご紹介します)良峯李光の3兄弟一番下の弟、橘恒遠が丹羽郡の郡務(1088年〜1104年)をしていたとの記述があり、?橘と。そこで、橘をもっと調べなきゃ(何せ、鎌倉初頭の球磨の勢力図に橘薩摩「良峯安世流」と記述されていましたので??(@_@))と。

こちらをご覧ください<m(__)m>
http://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e6%a9%98%e6%b0%8f
少しスクロールすると橘氏 橘俊遠からの系譜が見えます。

橘俊遠 生没年:   従四位下讃岐守
父:大和守 橘俊古
妻:
子:●俊経  ●従五位上 俊基(子:俊重) ●1035-1094(養子)俊綱 ★養子φ(..)メモメモ
  ●正四位下播磨守 定綱 ● 正四位上越中守 俊成  ●越中守 忠綱

橘俊経 生没年:   従四位下肥後守 ★肥後守です。φ(..)メモメモ
父:讃岐守 橘俊遠
妻:
子:●俊貞 ●出雲守 俊実 ●大宮少進 俊宗(子:娘2人) ●俊茂

橘俊綱 生没年:1035-1094 正四位上修理大夫
父 :摂政関白 藤原頼通
義父:讃岐守 橘俊遠
妻 :(父:源隆国) 子:藤原家光(花山院家へ) ★ここですφ(..)メモメモ
女 :
子 :●長門守 兼長 ●刑部少輔 家基 ★おや? ●藤壺女御(鳥羽天皇宮人) ●娘(大納言 源師忠室)

そこで、上記の藤原家光(花山院家へ)を調べると・・
http://reichsarchiv.jp/ 家系リスト/花山院家(清華家)
藤原家光 生没年:   正四位下 伯耆守
父 :修理大夫 橘俊綱
義父:左大臣 藤原家忠
妻 :
子 :●家基  ●娘(左京大夫 藤原信輔室)

藤原家基 生没年:  刑部少輔 従五位下
父:藤原家光
妻:
子:● 知家 ●中務少輔 伊綱 ●家綱

と言う事です。<m(__)m>

と言う事で、平安〜鎌倉初頭にかけて球磨に関係していた人物は上記の藤原家基 となります。本当にとんだ勘違いですいませんでした。<m(__)m>

でも??橘との繋がりも見えてきました。( 一一)ありゃっ??
そう言えば尾張局は
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/retuden/retu00335.htm
藤原家基の娘でした。 ・・尾張・・??おやっ?

藤原家基繋がりの橘と私先祖の橘の繋がりは無いのかも知れませんが、同じ橘と言う事は同族という事で、そして藤原家基の一族が球磨に関係していたと言う事は、宮原の先祖「橘」が球磨荘久米郷宮原を所領した事も縁があったと考えても良いのかな?と思う所です。

あっ\(◎o◎)/! いかんいかん(ー_ー)!!
祖母の平川家を調べているのに何故かぐるり〜んと回って話が宮原に・・

ううん?( 一一)ちょっとまてよ?!

刑部大輔義高朝臣(菅原義高)・・藤原家基(藤原家光の息)の孫
と言う事はこちらも「藤原家基」の一族となる訳ですね・・・。

おや?!
菅原氏・藤原家基・橘氏・西園寺氏・徳大寺家・持明院基家・熱田大宮司家・二宮大宮司家・平頼盛・平重盛。そして、今日調べようとしていたのは良峯李光の3兄弟一番下の弟、丹羽郡の郡務をしていた橘恒遠。

入口が違っても、必ずどこかにグルグル(@_@)と繋がってしまいます。
????何故だろう?

何故なのか?は今後の調査で明らかになったらとても嬉しいですが・・
さあ、頑張ります(^・^)



[2]子孫よりさんからのコメント(2014年02月04日 16時41分32秒 ) パスワード

追記
北条もありました。
一番明確に記録で残っているのに(@_@。
それと、一条家も北条で繋がっているような・・・??

道昭(北条重時)等先祖代々開拓の地 という言葉も引っかかるのですよね。?

あっ!またまたグルグルなりそうなのでこの辺にしておきます。
<m(__)m>(^・^)
[3]子孫よりさんからのコメント(2014年02月04日 23時15分44秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

実は、球磨の橘について調べていると、「久米郷東方下分橘遠江入道跡田」
という記述が出て来るのですが・・

宮原の祖は「橘薩摩」と呼ばれていたので、「橘遠江」とはどなた?と。
実家のある場所は「久米郷東方下分宮原」と呼ばれていた土地ですが、橘遠江入道跡田とは?いったい?
遠江には相良藩があったのですよね。(ウィキで見ました)

相良氏に橘遠江と呼ばれた人がいたのかな?とも考えるのですが・・・

となれば、実家のある場所、旧地名 求麻荘久米郷には「橘」が集合している事になりますね。(^・^)でも・・何でだろう?

やはり、先日調べた事「平川家について7コメント64」に関係しているのかな?とも思います。

何度もお伝えしていますが、祖母の実家「平川家」は、この土地にあるのです。
やはり、橘にも繋がっているような気がするのですが・・
これは、いつもの感なので、立証できるものは何もありませんけど(*_*)

昼のコメントでもお話したように、グルグル回ってばかりで、中々先が見えていないので・・
でも、めげずに頑張ります。




[4]白石さんからのコメント(2014年02月05日 20時18分38秒 ) パスワード

こんばんは
今日は大変冷え込みがきついです。

雑談ですが、テレビを見ていたら、さだまさしさんの息子さん・娘さんの紹介がありました。
さだまさし と ひらがななので、気がつきませんでしたが、佐田なのですね。本名かどうかわかりませんが・・・

音楽一家 ・・・ 芸能に秀でている人達 ・・・

何だか 見ていて うれしくなりました。
[5]子孫よりさんからのコメント(2014年02月05日 20時34分20秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、コメントありがとうございます。
さだまさし さんは佐田が本名だったと思いますよ。(^・^)

本当に、気温の変化が激しくて、身体にこたえますね。
風邪はひかれていませんか?
お身体にはお気を付け下さいね。

私は、先々週から色々あって、先祖の調査も、本当の事を言うとこのまま、あきらめようなかと思う事もあったのですが、今まで、皆様にささえて頂いて、ここまでこれたのですから、今、あきらめたら、この何カ月が無駄になってしまうと思い、心機一転、頑張っていこうと心に決めました。

どうぞ、これからもよろしくお願い致します。(^・^)


[7]子孫よりさんからのコメント(2014年02月05日 23時20分46秒 ) パスワード

皆様、平安〜鎌倉の球磨を調べているとやはり、様々な情報が残っていました。
googleブックでの省略情報ですが(かなり話がクズレテいます<m(__)m>)

まず、 肥後における集落の展開と祭祀 - 204 ページより
免田に須惠氏、久米村,水上, 1 心として川辺川流域に平川氏(良峯)、人吉荘に人吉次須惠の荘園の状況を示すものとみられる。すなわち木上を中領五百丁(預所 ... 免田村の公田三百町は須惠小太良(藤原家基)が統治した。須惠荘と兼ね治めたので、人吉荘・・・
★免田村の公田三百町は須惠小太良(藤原家基)が統治した。

続けて 肥後における集落の展開と祭祀 - 198 ページより
須恵家基が没し、須恵尼が継いだ貞応(一二ニニ〜二四)のころ狼藉の咎で、
将軍家預りとなっている。平景名乗っていることがわかる。須恵.深田の附近より須恵氏(藤原)が興り、のち西村. ... 西方の木上を中心とする永吉荘に拠る良峯氏(平川氏)が平姓を平景俊は明らかでないが、相良文書の「肥後国球磨郡田数領主等目録」の鎌倉殿御領 ...
★ここで「平景俊」という名前が出ました。

平景俊は確か、壇ノ浦の戦いで・・・・
ところが!!です!!

何と、この方が明らかに鎌倉初頭にこの球磨の地それも須恵で生きていらしたという明らかな証拠がなんとなんと!!重要文化財にて証明されていたのです。

奈良国立博物館 収納品データベース 山王十社本地懸仏1面

http://www.narahaku.go.jp/collection/738-0.html

中央に「阿蘇谷預主也/建保六年[歳次/戊寅]七月十九日/阿蘇谷預所院主惣公文/中御子平景俊」という針書銘があり、この作品が建保6年(1218)、阿蘇谷(熊本県球磨郡須恵村)預所院主惣公文であった平景俊によって作られたことがわかる。鎌倉前期の懸仏の基準作例として貴重であるとともに、日吉山王関係遺品として注目すべき作品である。

国立博物館の記述ですから、間違いありませんよね?!
と!云う事は、平景俊は1218年には生きていらっしゃいましたよ〜!!と
国が認めていると言う事です。
それも、阿蘇谷(熊本県球磨郡須恵村)預所院主惣公文としてです!

壇ノ浦の戦いは1185年。この作品は建保6年(1218)平景俊によって作られた。
下関市 専立寺(せんりゅうじ)
http://www.hikoshima.com/heike-trip/hikoshima/02.htm

富士川の戦いでは平 維盛の副将として従って逃げ帰り清盛の怒りをかっています。長男忠綱?は倶利伽羅峠で戦死。五男は赤間神宮に墓のある上総五郎兵衛忠光。七男が有名な悪七兵衛景清です。この二人は頼朝暗殺未遂事件で有名です。忠清の甥の飛騨の景経は平 宗盛の乳兄弟として壇の浦で戦死しています。もう一人の甥は飛騨の景俊で壇の浦から脱出して頼朝暗殺計画に加わっているはずですが最期ははっきりわかりません。飛騨の兄弟は二人とも赤間神宮に墓があります。なお、忠清は1184年に平田家継と乱を起こして翌年斬死しました。
★もう一人の甥は飛騨の景俊で壇の浦から脱出して頼朝暗殺計画に加わっているはずですが最期ははっきりわかりません。飛騨の兄弟は二人とも赤間神宮に墓があります。 お墓が赤間神宮に・・・
あっ!!
★頼朝暗殺未遂事件・・・七男が有名な悪七兵衛景清です。 藤原景清(平景清)かげきよ公\(◎o◎)/!
何度もお伝えした クワガタムシを岡原では「かげきよ」と呼ぶお話。
そして、私の故郷、旧地名 求麻荘久米郷宮原には藤原景清(平景清)公の娘、景清姫のお墓があります。地名は「キリハタ」です。

確かに、五木・球磨には平家の落人伝説は数多く残っていますが、平景俊、この方のお話、初めて知りました。
(でも、皆さん球磨の須恵と平景俊の関係は御存じだったりして・・知らなかったのは私だけ?でしょうか)

でも、伝説は沢山あっても、このように物的証拠?があると言う事は、驚きました。
うん??藤原家基と平景俊(藤原景俊?)との間には何か繋がりがあるのかしら??

歴史上の文献には残っていない、秘密が沢山隠されているのでは?
このお話、平川に繋がらなくても、好奇心がウズウズしてまいりました。


では<m(__)m>(^・^)
[8]子孫よりさんからのコメント(2014年02月05日 23時51分49秒 ) パスワード

追記
平景俊(藤原景俊?)記述がないのに勝手に憶測してはいけませんね。
あくまでも平景俊です。<m(__)m>

平景俊については、
文化遺産オンライン 
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=199483  
刻銘中の阿蘇谷とは、現在の熊本県球磨郡須恵村の球磨川支流の阿蘇川に沿った一帯のことと考えられ、平景俊は当地の豪族であった。詳らかではないが、この御正体が、同じ球磨郡水上村に所在する市房山の霧島神社奥院に伝来したとされるのも興味深い。
鏡像から懸仏への発展過程を明確にする、懸仏形式御正体の初期の稀少な基準作として価値高い。

やっぱり、須恵村にいらしたのですね\(◎o◎)/!

そして、この金銅山王十社御正体(こんどうさんのうじゅっしゃみしょうたい)は市房山の霧島神社奥院に伝来したとされる。

この市房山の市房神社の杉が現在の皇居改築の際に使用されているのです。
かなり、以前にコメントしています。

あっ!そう言えば、宮原家と平川家の男子は、世が世なれば、10歳くらいの時に、市房山のこちら奥ノ院近くにて7日間ほど、刀を持ち昼夜問わず一人で過ごさなければいけなかったのでした。★深水家から平川家に嫁いできた曾祖母が父に言っていたそうです。(本当に良かった。この時代で。それに私は女ですから。ホッ(*^。^*))
球磨の他の武士のおうちでも同じように教育されていたのかしら?
かなりスパルタです(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

脱線しましたが、落人伝説は伝説ではなく事実だったという一連のお話でした。
では<m(__)m>


[9]子孫よりさんからのコメント(2014年02月06日 22時09分38秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
平景清は藤原景清そして藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)で、伊藤景清ともいう。(あれっ!魚名流)
藤原忠清の子。
藤原忠清 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E6%B8%85
藤原 忠清(ふじわら の ただきよ)は平安時代末期の武将。伊勢国度会郡の古市荘を基盤とする藤原秀郷流伊藤氏の出身で、平氏譜代の有力家人である。伊藤忠清とも。
左兵衛尉を経て、嘉応2年(1170年)に右衛門少尉となる。忠清は平氏一門の中でも特に平重盛に近仕しており、重盛の嫡男・維盛の乳父(めのと)でもあった。その後、何らかの理由で上総国に配流された忠清は、現地の有力在庁官人・上総広常の歓待を受ける。広常の態度は「志ヲ尽シ思ヲ運テ賞玩シ愛養スル事甚シ」かったという(『源平盛衰記』)。
★平重盛に近仕しており、重盛の嫡男・維盛の乳父(めのと)でもあった
★上総広常の歓待を受ける が後々は忠清の圧迫に怒った広常は、やがて平氏に反旗を翻すことになる。 ううん(*_*)

兄弟 藤原景家
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%99%AF%E5%AE%B6
寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦いでは、大将を勤めた平維盛や上総判官忠経(忠清の子)と内輪もめとなって壊滅的な敗北を喫した。『平家物語』では、この時に嫡男の飛騨太郎景高 (治承3年11月従五位下・左衛門少尉・検非違使)が討ち死にした事から、景家が嘆き死にしたとするが、延慶本『平家物語』では出家遁世したとし、その後水島の戦いに出陣している記述があるなど、正確なその後は不明。
そして 藤原景家の子供が飛騨四郎兵衛景俊
藤原景俊・・伊藤景俊 この方が球磨(須恵)にいらっしゃったのですね(^・^)

うん?ううううんん??伊藤?球磨の伊藤?伊藤?いとう?

あああああああああっ!!
伊藤は藤原・・・ええええっ!!
もしかして、私、伊藤家を調べていたのかしら?

よく解りませんが、今度、親戚に聞いてみます<m(__)m>
[10]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年02月07日 20時13分15秒 ) パスワード

お久しぶりです。

「橘遠江入道」についてですが
恐らく、観応の擾乱時に足利直冬に付いて活躍した「橘遠江入道道公」という人物で
球磨郡を本拠にしていた橘公綱の流れを汲む人間だと思います。


公業→公員→公綱→公資→公高・・・の流れで、ちょっと書きます。


橘公員は通称を與一(よいち)という所から十一男という事になりますが
どうやら公業が嫡子に認定した人物であるようです。末子相続ですかね。

この公員が正応元年(1288)に肥後国球磨郡内久米郷半分地頭職を得ます。



橘公綱は、永仁七年(1299)の「相良文書」の、肥後球磨郡人吉庄に関する
鎮西探題召文の宛先に「橘薩摩左馬大夫」として登場します。
大夫といった所から従五位の位階であった事が分かります。

また、系図をみると「佐渡守」の受領を得ていた事も分かり
一族にあって受領であったものはほとんどいないので卓越した存在であった事も分かります。

これら、従五位の位階や佐渡守の受領などを考えると
公綱は球磨郡久米郷に本拠を置きながらも京都で活動していた事が考えられます。


橘公資については、系図に「宮原彦次郎是より宮原氏を冐す」とあるくらいで詳細は不明です。

ただ、通称が彦次郎という所と、年代的にも重なっている所から

「実相院文書」正安二年(1300)八月二日鎮西御教書に「橘薩摩彦次郎」という人物が出てきますが
実名不明ですが、もしかしたら公資の事かな?と推測するくらいです。



橘公高は、橘佐渡四郎公高といわれ
南北朝初期の建武・暦応期に一色範氏・少弐頼尚から
軍勢催促状が三通きており、その宛先が「橘薩摩佐渡四郎公高」だった事から

足利政権が佐渡四郎公高を橘薩摩一族の嫡流であると認識していたようです。



個人的感想なのですが、肥前国の渋江氏が嫡流というより
史料からみると球磨郡久米郷に本拠をおいた公員→公綱の流れが

嫡流と見做せるのでは…と感じています。

まあ、橘薩摩氏と括ると、ごちゃごちゃになるので
公綱からの流れは「橘佐渡氏」と切り分けた方がいいかもしれませんね。



あと、渋江氏の流れも八代郡誌にある宮原公忠の略系図でもそうですが


敏達天皇の後裔で橘諸兄を祖とする橘氏であると称していますが
藤原純友討伐の際に活躍した小野好古と橘好古をごちゃ混ぜにして

紛らさせただけで不自然極まりません。

橘公業の旧領である伊予国宇和郡の関係性で考えれば
橘遠保の流れと考えるのが妥当だと思います。


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hiz_sibue.html  ←こちらのサイトにも書かれてますね。

皇胤の橘氏につなげた方が箔がつきますし
官職を得るためや政権内・所領内での影響力の面を考えたら

偽る事には実利的な意味があったのだと思いますが

現代においては実利的な意味は、もはやありませんし
あるとすれば個人的な虚栄心のみでしょう。

私は、皇胤という事が特別価値があるとは思いませんし
真の流れである土豪とも言える橘遠保に行きつく事に誇りを持っています。

武家でもそうですし、庶民の間でも
江戸時代に家系図ブームが起こり誰もが源平橘という皇胤や藤原氏に結び付けて

「日本人は元を辿れば皇室に行きつく」

という状況になりましたが、それに違和感を覚えるのです。

昨今の「サムライジャパン」などのサムライという言葉もそうですが
貴賎の線引きをして、貴いとみなすものにすがり、賎しいとみなすものを無視する。

そういう短絡的な考えは、おかしいと思うのです。

これも、我が家に伝わる偏屈者の血がそうさせるのでしょうかね^^;

長々と脱線してしまい、申し訳ございませんでした><
[11]子孫よりさんからのコメント(2014年02月07日 22時46分07秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
公忠公の末裔様、お久しぶりです(^・^)
ご教示ありがとうございました。
橘遠江入道について
「恐らく、観応の擾乱時に足利直冬に付いて活躍した「橘遠江入道道公」という人物で球磨郡を本拠にしていた橘公綱の流れを汲む人間だと思います。」
そうだったのですね。
ずっと、どなた?と思っていたので、本当にありがとうございます。
本当に、公忠公の末裔様は、しっかりと調べていらっしゃいますね。
すごいです。私は、何だろう、感のおもむくままと言った感じですからダメですね。(ー_ー)!!
「橘佐渡」という言葉も聞いてましたが、実は「佐渡の人?」とはどなた?
と言った感じでした。
うちは、子供の頃、私と祖母以外は全員男性(父・伯父・従兄全員)で、その中で私は一人ぽわ〜んと育ちましたので、先祖の事を考える時も、何だろう、どちらかと言うと、誇りとかじゃなくて・・愛情を感じます。(*^。^*)
だって、どんな時代でも、男性は命をかけて一族を守って戦ってきたのですから。もちろん、女性も家を守っていたのですから当時の苦労は今では想像出来ない事でしょうけど。それに、正妻・側室とか(嫌ですね(@_@。)・・良かった今の時代でとつくづく思います。
偏屈者の血は宮原一族では「あたりまえ」でございます。(^・^)
その偏屈者を支えて来たのが、宮原の女性ですよ。
あっ一つ!。私、「めちゃくちゃ我慢強い。」と言われますね。
これは、偏屈者を支えて来た宮原女のDNAだと思います(^・^)
私の祖父は球磨では当時めちゃくちゃ有名な偏屈者だったようです。(ごめんんなさい偏屈者っていう言葉の連続ですね)
東京の陸軍士官候補生学校に合格した時は、宮原城跡に登って、お祝いがあるのに、しばらく降りて来なかったそうです。(何か思う所があったのかな?)
そして数年後、大陸に渡る前、球磨郡中の名士と呼ばれる方々や球磨・人吉・熊本県下の宮原の親戚が集まって壮行会が開かれたそうです。その時祖父は、皆さんの前で「私は、大陸で馬賊の長になる!」と言ったそうです。
今でも、この話は、色々な人から聞きます。(馬賊ってどういう意味だろう?と、孫の私は今でも???です)
あっ!もしかしたら、この時、公忠公の末裔様のご家族や親戚のどなたかもいらっしゃった可能性はありますね。
何か、信念があった事は確かだと思うのですが。

脱線しましたが、実は今日、公忠公の末裔様から頂いたお話の中に、私にとって、物凄いヒントがあったのです。
何に繋がったのかは、しっかりまとめてご報告いたします。

今日は、北九州でも雪が降っています。
京都はもっと寒いでしょうね。風邪をひかれないようにして下さいね。
では(^・^)



[12]子孫よりさんからのコメント(2014年02月08日 18時30分04秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
風邪をひかれている方はいらっしゃいませんか?
とても寒い日が続いていますが、皆様、お体にはお気を付け下さい。

所で、私、何だか間違っていたみたいです。
それは、球磨の文献に最初に登場する平河姓の「もろずみ」
今まで、平河師澄と思っていたのですが、どうも字が違うようです。
では、正解は 「平河師済」

こちらをご覧ください<m(__)m>
http://yumeko2.otemo-yan.net/e364347.html

『平河伝授巻(ひらかわでんじゅかん)』(多良木町、平川實弘氏所蔵)によれば、平河氏は師済(もろすみ)の代、康平6年(1063)にこの地方に移ってきたとされており、国衙(こくが)の役人として球磨郡に移ってきて、そのまま土着したと考えられます。
その後、平河氏は本拠地を錦町木上岩城(きのえいわんじょう)から深田村に移し、その一族が各村々に分かれて現地支配にあたりました。山田村は、この平河氏の所領『永吉庄』の一部として、初めて記録の中に登場します。

★平河氏は師済(もろすみ)の代、康平6年(1063)にこの地方に移ってきたとされており、国衙(こくが)の役人として球磨郡に移ってきた。

平河師済でございました。<m(__)m>

で「済」と言う字が何だか気になるので検索。!
すると・・ 紀氏のルーツ 
http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub05.html
真済の子孫の娘は歴代天皇の皇子や源氏、藤原氏と婚姻関係を結び、
紀長谷雄とも婚姻関係を結び仏教界で子孫を維持し力を付けて行きます
子孫の証として”済”という通字がつけられます。

通字が「済」なのですね。

と言う事で康平6年(1063)に国衙の役人として球磨に来た「師済」さんは
紀氏との関係性が何だかプンプンしてきました( 一一)ムムッ。
では<m(__)m>

 
[13]子孫よりさんからのコメント(2014年02月09日 12時32分16秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

朝からずっと、「肥後 康平6年(1063)の国衙の役人」をキーワードに様々な文献やサイトを見て来たのですが・・
またまた今日も、「ぐるりんこ」と繋がってしまいました( 一一)??

でっ、今日は何が(誰が)繋がったのか最初からキーマンの方々を紹介した上でご説明致します。<m(__)m>

能因 → 橘元・ → 橘為・ ← チョットだけ登場!橘俊遠(藤原家基の父橘俊綱の養父)
清原元輔 → 清少納言 → 橘則光(通説によるところの橘公業の祖) → 橘則長(清少納言と橘則光の子供) → 能因 です!!\(◎o◎)/!

では早速<m(__)m>
肥後の平安時代を調べているとこのようなサイトを見つけました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/noin/people/family/tatibana-motoyasu.htm
●能因法師。遠江守忠望孫。肥後守為・男。実弟云々。
●橘永・。左大臣諸兄十世孫、遠江守忠望ノ子、為兄肥後守元・ノ所子養
●能因俗名を橘永・といへり。橘左大臣諸兄公十代の孫、遠江守忠望の子なり。

まず、能因 は遠江守橘忠望 の孫であり 肥後守橘為・の息 とはなっているけど実は弟ですよ、だから橘忠望の子供ですよ!・・と言う事ですね。★ 橘で遠江守 ?あれっ!そして橘で肥後守・・おやおや?!

確証はないが、能因は最初、元・の兄であろう為・の養子となったらしい。大学寮で文章生となっていたころ、能因は『肥後進士』と呼ばれている。元・は肥後守になったことはないので、この呼称は寛弘2(1005)年の為・の肥後守任官によるものと考えるよりほかにない。ただし、為・は任官からわずか半年で部下に殺されるという事件を起こしており、その後は元・が父親代わりとなったようである。
★能因は『肥後進士』と呼ばれている φ(..)メモメモ

記録類から、元・は国司として諸国を巡ったことが窺えるが、長和3年、肥前国を任期満了で退いたあと、新任の国司との間でもめ事が起こったものらしい。と言っても、俊遠は同族(5代前に遡ると兄弟同士)の男で、まったく知らない仲ではなかった。
★ここで言う新任の国司が橘俊遠ですね。そして俊遠は同族(5代前に遡ると兄弟同士)の男・・・同族だったわけですφ(..)メモメモ

では続けて橘為・
http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/noin/people/family/tatibana-tameyasu.htm
彼が記録類に登場するのはただ一つ、自身が殺害されたという記事だけである。寛弘2(1005)年正月ごろ、肥後守となって任国に下っていた為・は、7月8日、妻の小槻忠臣女の近親にあたる小槻良材という男に殺された。
 良材は郎党だったという。国司が任国に下る際、護衛に郎党を引き連れていくのはままあることだから、良材も為・の妻の縁で雇われて下向に随伴していたのだろう。良材という名はここにしか見えない名だが、小槻忠臣のほうは小槻氏系図にも記載があり、寛弘4(1007)年当時主計頭であったことがわかっている。今でいう税務署のような仕事をする官職で、忠臣の子の奉親も父の職を継いだらしい。この忠臣の弟に忠信という人がいて、忠信に美材という名の息子がいる。良材もあるいは忠信の子であったかもしれない。すると、良材は雇い主であり、従姉妹の夫でもあった為・を殺害したことになる。
★何か深い理由がありそうですが・・でっ!ここで新たに出て来たのが「小槻氏」
日本の苗字七千傑様の 阿保氏/小槻氏 姓氏類別大観を見ると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01219.htm
「小槻氏」と「比企氏」は同族なのですね。 おや?!北条義時の母は・・・!

この時代(平安)橘氏と肥後は密接な関係にあったのですね。
そして、めちゃくちゃ気になるのが 遠江守橘忠望。遠江守で橘ですね??

さて続けて、もっと詳しく平安時代の肥後を理解する為に熊本県の歴史を簡単に見てみようと、ウィキの情報を見ました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
少し下にスライドすると、「律令制下の肥後」について記述されています。
この記述の一番下に
肥後の国司には、この道公首名の他に紀夏井、藤原保昌らも赴任し、平安時代の国司・清原元輔と肥後の女歌人・檜垣嫗との交流についてはさまざまな説話が残されている[2]。
★国司について書かれていますが、特に気になったのが「清原元輔」

では、清原元輔 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E5%85%83%E8%BC%94
清原 元輔(きよはら の もとすけ、延喜8年(908年)- 永祚2年(990年)6月)は平安時代の歌人・官人。内蔵允・清原深養父の孫で[1]、下総守・清原春光の子[1][2]。娘に清少納言がいる。三十六歌仙の一人。官位は従五位上肥後守。
ここで娘 清少納言 についてウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%B0%91%E7%B4%8D%E8%A8%80
経歴
天元4年(981年)頃、陸奥守・橘則光(965年 - 1028年以後)と結婚し、翌年一子則長(982年 - 1034年)を生むも、武骨な夫と反りが合わず、やがて離婚した。ただし、則光との交流はここで断絶したわけではなく、枕草子の記述によれば長徳4年(998年)まで交流があり、妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だったという。のち、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけた[8]。
★陸奥守・橘則光 と結婚。あっ(*^。^*)
あの、いくら、歴史に疎いわたしでも清少納言は知っております。<m(__)m>
歴史と言うより国語で習いました。(だから知っているのであります)
ここで、ちょっと脱線<m(__)m>
あの、カミングアウトします。本日まで、先祖を調べようと苦手な歴史に取り組んできまして、色々な方のお名前を見て参りましたが、私が、知っていた方々は実は・・「平清盛」「源頼朝」「源義経」「北条政子」「聖徳太子」そして・「清少納言」!! この方々だけです!<m(__)m>
他の方々は、「なんだか、とお〜い昔に学校で習ったような気がするな〜〜」という状態でありました。ですから、通説で言われる宮原(橘)の先祖、「橘則光」が「清少納言」と結婚していた記述を見て、この数カ月の中で初めて嬉しくなりました(*^。^*)ひゃっほ〜う!という感じです。(バカ?という声が・・聞こえたような?)
あの、私、何でしょうか官位とか全く意味が解らないので、はっきり言って自分にはどうでもいい事なのです。先日も書きましたが先祖には何故か「愛情」というか、遠い遠い、じいちゃん・ばあちゃんに対する親しみのような物を感じて、その愛情から、いつもの例の感が出てきているような気がするのです。(^・^)そして、離婚の原因が「武骨な夫と反りが合わず」・・おやっ?もしかしたらこの方も偏屈者だったのかしら?・・(^・^)
さて「清少納言」が産んだ子供は「橘則長」。橘季道とは異母兄弟なのですね。
では、橘則長 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%89%87%E9%95%B7
大学寮において進士となったのち、蔵人・図書権助と、文官系官歴を重ねる。その後、修理亮・式部丞を歴任したのち、越中守として赴任したが、そのまま任国で死去したという。
その作歌は『後拾遺和歌集』(3首)、『新続古今和歌集』(1首)などに入集されており[1]、歌人として名を遺した。同じく歌人である能因法師の姉妹を妻とした。『枕草子』の写本系統の一つ・能因本は、この関係からの伝来とされている。
妻:能因の姉妹\(◎o◎)/!  ここでぐるっと回って繋がった!と言う事ですね。

とても長くなりましたが要するに
能因(肥後守橘元・の弟)・遠江守橘忠望と橘則光(通説の宮原(橘)の先祖)は姻戚関係にあった!と言う事です。ハイ<m(__)m>

では<m(__)m>(^・^)

追記 
あっ!私、祖母の平川を調べているのに、また・・??
何故だろう?(+_+)

 






 
[14]子孫よりさんからのコメント(2014年02月09日 12時36分49秒 ) パスワード

追記の追記
漢字が名前の漢字が・・へっ変換されていません!!。
何だこの「・」は!
と言う事で名前は こちらのサイトで確認されて下さい。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/noin/people/family/tatibana-motoyasu.htm
http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/noin/people/family/tatibana-tameyasu.htm

どうも、すいません<m(__)m>
[15]子孫よりさんからのコメント(2014年02月11日 23時45分03秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
今日は、建国記念日でしたね。祖母は紀元節と呼んでいました。
そして、本日は、私めの誕生日でもありました。<m(__)m>
気持ちだけ若くても、身体がですね(+_+)
頭の中は子供のままなので、逆コナンのようなおばさんです。
先祖の調査も・・これでは迷探偵おばさんコナンです。(+_+)

がっ!しかし!!
何だか何だか見えて来たのです\(◎o◎)/!
ポイントは
紀氏(紀平)・中原氏・赤池氏・そして鷲尾神社!

このポイントを押さえながら、多氏との繋がりを探していこうと思っています。
上記の詳細は、明日。
では <m(__)m>

[16]子孫よりさんからのコメント(2014年02月12日 07時17分17秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
昨日、マタマタ、ドジっていました(+_+)
赤池ではなくて三池氏です。 すいません<m(__)m>

と言う事でポイントは紀氏・中原氏・三池氏・鷲尾神社・多氏(丹羽氏)です。

では、早速<m(__)m>

サイト 紀氏のルーツ http://homepage2.nifty.com/ihmm/index.html
に以下の記述があります。
紀氏の荘園・姓(国別 ) 
球磨 @紀平氏 本姓紀氏
        ・紀平二元保
        ・紀氏であるが、のち、平姓を稱したものをいう
        ・球麿郡地頭:良峯師高の子息:紀平次不知実名とある
★紀平次不知実名は師貞の事でした。
そして、このサイトの記述、何故か荒尾市の項目にも
ー荘園ー
    @1114「野原庄」
       ・郡名:玉名郡 荒尾市 
           小岱山南西部、菜切川の上中流域
       ・領家:喜多院領・宇佐弥勒寺領
           ・800余町
           ・1321-8-27 紀頼隆譲り状 
                 西郷の「玉名西郷」
       ・預所:大江広元
       ・地頭:西郷=小代氏
           永吉=350丁 良峯師高、子息紀平師貞  
何故?荒尾市の記述に良峯師高、子息紀平師貞が?

と言う事で、気になる記述が出てきましたので、一つ一つを冷静に分析致します。

まず、紀平氏 本姓紀氏 紀平二元保そして紀平師貞
紀平二元保とはhttp://homepage2.nifty.com/ihmm/sub21.html

1251年 紀元保 高良別館宮大宮司

そこで、高良別館宮は何処だと?調べました。
鷲尾神社
http://www.jinja.sakura.ne.jp/yanagawa2/no05/

★源頼朝が、諸国に守護・地頭を設置した文治元年(1185)の翌年六月鷹尾郷には、藤原家宗が地頭として任命されています。
藤原家宗とは藤原 頼実の子 大炊御門家宗
父:藤原 頼実
母:藤原伊行の娘 となります。

紀氏のルーツでは
柳川市
     ※山門郡三橋「鷹尾社」名主22名 ★福岡県です!
       ・1221年 鷹尾大宮司紀元保を代官として名頭職が与えられた
・「三郎丸名」神人垂見大宮司
そして
1186年 「瀬高下庄」 ★福岡県です!
       ・郡名:山門郡
       ・領家:藤原家宗家領・左大臣徳大寺家領 ★ 徳大寺家です!          
       ・史料村郷名:不詳
       ・明治村字:不詳
        ※出典:宝聚寺鳴鐘銘文・田中穣氏旧蔵文書
        ※1231 瀬高下庄 鷹尾別府高良別館宮          
            ・大宮司職は重代なりと
            ・大宮司 紀秀真→元保→元忠→元員
           ・鷹尾別府八幡宮=瀬高下庄鎮守

紀平二元保(鷹尾大宮司紀元保)と良峯師高、子息紀平師貞
そして、球磨から一気に熊本県北部・福岡県へと話が動き始めました\(◎o◎)/!
こうなれば師貞 この方を調べる必要があります。
と言う事で色々検索していると・・
みやま市歴史年表
http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage3.htm
三毛・三池・徳大寺・鷲尾・中原 といった記述が続く中で
鎌倉時代 1991年の記述に
三池師貞が三池郡に今福城を築く・・・三池師貞?
三池氏は確か球磨のそれも橘が治めた久米郷宮原(久米郷東方)のお隣に・・!?

中世の球磨
http://www.yumechiyo.jp/yatsushiro/hitoyoshi2.html
三池氏・・久米郷西方
そこで、googleブックで三池氏 久米郷で検索すると
わたしたちのまち三池。大牟田の歴史 - 261 ページ
三池貞家、尊氏の東上に際し、赤間関まで供奉する。ぼ三池貞家、仁木義長に属して菊池武敏と戦う。 5 筑後の南朝方、三池城を攻める。ぱ足利 ... 5 米生住人大蔵某、薦田天满宮に石塔を寄進。ぼ足利直冬、三池親元の訴えにより、肥後国球磨郡久米郷 ...
★三池貞家 あれっ?貞家という名前には聞き覚えが・・?
他に
中世九州の政治社会構造 - 56 ページ
直頭は、入国以来、多くの所領処分関係文書(宛行状、預ケ状、寄進状など)を発しているが、建武五年四(ほ)畠山直顕の当国日向に対する領国形成は、 ... 者(貞鑑の子息貞元)が、肥後南部の球磨郡久米郷に所領を有っている(『相良家文書』一—一六一号)。★貞鑑の子息貞元 φ(..)メモメモ

そして・・これは文字化けしていますが、何故か師貞と言う記述が
鑑,次男貞政,三男貞家に、肥後に相伝レ&また正和一一年十一一月尼しんね, ^は上野
国大八木郷.下野国あひこ村,肥後国久米郷を六郎貞家に譲 7 た。同 I が。彼は 1 時の^
5 宗である。 ... 三池 1 」は師俊を師貞の I ?し、鼻—員. ^とする。この 33 ,貞時は史料 ...
69 ページ
円六郎蔵人(貞家) II 左近太夫(貞政) .後家尼厂道軎月光丸道智 1 .同木工助入道 1
安芸木工助入道法名同木工助三^状具害案には次の同地頭職相伝系図が付せられて
いる。

そして思い出しました!貞家と言う名前を何処で見たのか!
菊池家の文書に残されていた平河の記述
平河師里相良流平川又三郎
  師頼小三郎三郎左衛門
  貞家八郎
  行親
★でも貞家が八郎となっています?

三池氏とは?
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ot_mike.html
●中原親能は藤原光能の子で、外祖父中原広季の養子となった。
●柳河・大分・大阪の三池氏系図は藤原師親を祖としている。とはいえ、藤原師親は嵯峨天皇の後裔で、藤原師澄の養子になったとあり、大きく見れば源氏説に準じるものともいえよう。そして、いずれも師親より十数代をへた子孫に親能があらわれ、以後、異同をみせながら戦国時代の親泰・親盛に至っている。
●三池氏の嵯峨源氏説、藤原氏説は後世の作為から生まれたものであり、鎌倉幕府草創期に活躍した中原氏の後裔とみるべきであろう。そして、師俊の系が筑後の国人領主三池氏に続いたとみて間違いないだろう。

他に記述の中で球磨荘久米郷西方に関係した方の名前が記述されているのですが、仕事に行かなければいけないので今朝はここまでとします。

<m(__)m>









[17]白石さんからのコメント(2014年02月13日 05時34分47秒 ) パスワード

おはようございます。
ここ何日か冷え込みがきつく、まるで首をすくめた亀のように暮らしていました。
鷲尾 中原 は 佐田に通じていて、私の方の場合 平川と佐田は直接つながっておらず、高岡と佐田 高岡と平川 と なっていて なかなか わかりませんでした。

子孫様の コメントをみて なるほど と 思いました。

野原 などの 言葉は 地域の上流にあり、宮原がいたところ。
三池は 前に 7000傑様から うちの佐田のことで、系図をおしえていただいととき、そのなかにあった 三井。 三井三池などに親戚の子が働いています。
大田亮氏は 
橘薩摩氏は八男を球磨に残して 長崎に行き
相良氏は八男を球磨に残して 八代に行った
と 書いています。この 八男がどの人かは知りませんが、
地図上 上のほうに展開していった と 思われます。

先日来 仕事のことや 確定申告のことやら 4月の同級会のことやらで何だか頭がまとまらず 肝心の 我が家のことが やっと 子孫様のおかげで 見えてきているのに もどかしいです。

嵯峨源氏 菊池 など 松浦氏につながるようで、鷲尾 高岡などは池田氏などがでるようで、先には大きなところに 繋がっているようにも思えます。

皆様 時節柄 お体をおいといくださいまして 精力的に調査にお励みくださいませ。
[18]子孫よりさんからのコメント(2014年02月13日 09時23分23秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、コメントありがとうございました。(^・^)

今、調べている事は、白石様のお家の方に繋がっていくのですね\(^o^)/
よ〜し、これは、頑張ってしらべますよ〜(^O^)/

平川も今では球磨の色々な地域に分散していますが、元は同族ですよね。!
そうなると、何処かを調べれば必ず何処かに繋がる。そういう事ですから、これは、張り切って調べなければφ(..)メモメモ(^・^)

今まで、球磨に限定して調べていたのですが、調査範囲が広がって来た事で、情報が沢山見えてきました。

というか他の地方の方々は、情報がしっかり残っているのだな〜っと痛感します。
他の地域の情報に例えば球磨荘久米郷宮原でなんとかかんとか・・と、球磨の情報では残っていなかった事が記録されていたりして、逆に他地域の記録を見た方が、球磨が見えて来るような感じです。

白石様も、ご多忙のようですが、お身体は無理されないで下さいね。
では(^・^)
[19]白石さんからのコメント(2014年02月13日 22時58分03秒 ) パスワード

こんばんは
あすから又冷え込みが一段と厳しいようですね。
明日は京都に行くのですが、早くも心構えで 身構えています。冷えを感じたら身体に悪いので、雪だるま状態にまで着込んで外出しています。

平川のこと
子孫様 の するどい勘と調査力ではっきり解明できること期待しています。

コメントにありました 徳大寺
宮本武蔵が徳大寺 小寺 などに 関与していたように思います。
人吉の西原鮮魚店や もうひとつ 忘れましたが には 宮元武蔵の二本の木刀が残されていると 前にテレビで紹介されていました。

小山勝清先生は 「それからの武蔵」を 書いておられ、武蔵が歩いた後はあったように思っています。

小寺は 
今 黒田官兵衛で 出てきますね。
神戸の鷲尾家(つまりは中原・小寺に通ずる)には 神武天皇からの系図があるそうです。記録が残っているところには残っているのですね。

私も
親戚の叔父たちが 
なにせ 系図がないものだから 
意識としては おどま 高岡のことは 高岡の殿さんちいうとったったいな
とか
地域の集まりでは 自然に上座に座っていたり
つながりの固まりが天孫皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊にゆかりの神社や神武天皇にゆかりの神社を意識していたり
していることから 先祖は歴史の始まりにのぼっていくと思っていましたが、形になって出てくるとうれしく思います。

13の藤原家基
藤原家忠 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/藤原家忠‎
藤原 家忠(ふじわら の いえただ、康平5年(1062年) - 保延2年5月14日(1136年6月15日))は、平安時代後期の公卿。関白藤原師実の次男。官位は従一位・左大臣。花山院左大臣と呼ばれ、花山院家の祖となった。

13橘俊綱の子・家光が藤原家忠の養子になるのですね。そして其の子が家基ですね。花山院家のグループにいるのですね。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/retuden/retu00335.htm
『尾張局(皇嘉門院尾張)』】
皇嘉門院(藤原聖子)女房。 藤原家基の娘。

大田亮氏の辞典で、薩摩 島津庄などの言葉で 頼通が書き付けてあったと思っています。伊佐の言葉からでていたような。伊佐氏は伊達氏にあってこれは白石に通じていた。
[20]子孫よりさんからのコメント(2014年02月14日 07時18分33秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、コメントありがとうございました。
私にはそんなそんな鋭い勘も調査力もございません(ー_ー)!!
ぐりんぐりんと迷走してばかりですいません。<m(__)m>
突破口が見つかれば良いのですが・・・
頑張りますね。(^○^)

三池氏という、今まで、調査をしていなかった所が何やらもしかしてキーマンが出てくる場所か?とは思っているのですが・・
(っと言うか、球磨において橘とお隣同士だったのに、私は全くタッチしていないと言うのが最初からおかしいのですよね。(*_*)ここはどうなっているのかな?と気付くのが普通なのでしょうが・・やらかしていました。(-_-)

所で、今朝は三池氏の調査の前にひとつ!
菊池の記録に残っていた平河に関する人物の名前にもう一人、全くノータッチの方が・・・ その名は 「行親」
前、見た時は「お坊様?」と単純に思ったのですが、今回はめちゃくちゃ気になったので、調べました。(以前、初めてこの記述を見た後、夢で先祖(と思っているのですが)から、「ヒントは出している」様な事を言われていたのに、未だ調べていませんでした(*_*))

「行親」で検索すると 3人の名前にヒットしました。
まず、@根井 行親(ねのい ゆきちか)ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E4%BA%95%E8%A1%8C%E8%A6%AA
平安時代末期の武将。滋野氏の流れを汲む東信濃の名族望月氏の傍流。木曾義仲揮下の有力家臣にして、義仲四天王の一人。滋野氏嫡流の海野幸親(滋野行親)と同一人物とする説もある。
保元の乱では源義朝に従い、活躍したという。
★滋野氏嫡流の海野幸親(滋野行親)と同一人物とする説もある。

と言う事で二人目 A海野幸親(滋野行親) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%87%8E%E5%B9%B8%E8%A6%AA
海野 幸親(うんの ゆきちか)は平安時代末期の信濃国の武将。滋野行親と記されることもある。
海野氏の祖とされることもある海野広道(廣通)の次男。源平合戦前後に活躍し、『平家物語』に木曾義仲の侍大将として子の幸広や幸氏と共に登場する。『保元物語』に「宇野太郎(海野太郎)」として登場した人物とされ、信濃国の名族滋野氏の嫡流とされる海野一族の初見となった。
出身は中原氏(中原広季の子)で、義仲の乳母父中原兼遠と兄弟で初めは中原兼保と名乗ったという説や、木曾義仲の四天王の一人根井行親と同一人物とする説があるなど、今もなお謎の多い人物である
★出身は中原氏(中原広季の子)で、義仲の乳母父中原兼遠と兄弟? 「中原氏」ですね。φ(..)メモメモ

そして、最後に 平行親・・・日記を書かれている方です。
http://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e6%a1%93%e6%ad%a6%e5%b9%b3%e6%b0%8f%ef%bc%88%e9%ab%98%e6%a3%9f%e6%b5%81%ef%bc%89
父の平行義の項にお名前がありました。
平行義 生没年:
      父:従二位参議 平親信 武蔵守
      室:
      子:範国 師季 行親  ★ここですね
平親信(祖父)
    生没年:945-1017
      父:伊勢守 平真材
       :971 文章生 972 右衛門少尉 972 左衛門少尉 974 検非違使 975 従五位下 975 筑後権守 977 阿波守 977 従五位上 984 右衛門権佐 985 近江権介 985 正五位下 986 従四位下 986 従四位上 999 修理大夫 999 皇太后宮権亮 1000 正四位下 1001 山城守 1001 従三位 1004 正三位 1005 備中権守 1007 従二位 1015 参議     
      室:
      子:重義(室:摂政 藤原道隆 娘) 行義  筑前守 理義(子:-1063 文章博士 定親)
★筑前守 ・ 筑後権守 という言葉が出ています。φ(..)メモメモ

と言う所で終わろうとしていたのですが・・・???
平行親 この方の娘さんは色々な家に嫁がれていました。

まず、
藤原 師実(ふじわら の もろざね)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%AE%9F
そうです。藤原 師実は橘俊綱の兄弟でした。\(◎o◎)/!
「系譜」の記述をスクロールしていくと、沢山の妻の一人が・・
妻:平行親娘 男子:覚実(1052-1092)

ありゃりゃ?!こうなると橘俊綱・藤原師実・橘家光(藤原家光)・藤原家基・平行親 は繋がっていた!と言う事になります。

他にも平行親の娘さんは藤原隆方の妻です。藤原隆方は藤原為房の父ですね。
藤原為房 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%82%BA%E6%88%BF
藤原 為房(ふじわら の ためふさ、永承4年(1049年) - 永久3年4月2日(1115年4月27日))は、平安時代後期の公卿。但馬守藤原隆方の子。正三位・参議。坊城大蔵卿、勧修寺と号した。
博学かつ、優秀な実務官僚として活躍し、のちの勧修寺流一門の繁栄の基礎を築いた。大江匡房・藤原伊房と共に「前の三房」と称される。日記に『為房卿記』がある。

他に系譜を見ると
http://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e8%97%a4%e5%8e%9f%e6%b0%8f%ef%bc%88%e5%8b%a7%e4%bf%ae%e5%af%ba%e6%b5%81%ef%bc%89
藤原隆方 生没年:1014-1078
       父:左京大夫 藤原隆光
        :但馬守 備中守 右衛門権佐 中宮権大進 1069 権左中弁 1075 左中弁 1077 正四位上
       妻:(父:平行親) 1049-1115 為房 隆忠 家実 1060-1121 光子(権大納言 藤原公実室) 娘(康資王室) 娘(藤原仲実室)

平行親 この方は色々な方に繋がって、その子孫が幅広く広がっている事が解りました。

と言う事で今朝は 球磨の平河に関係した「行親」さんを調べました。
でも、どの「行親」さんが、記述にあった「行親」さんなのでしょうか???
でも、他の「行親」さんかも知れませんし・・??

では<m(__)m> (^・^)






[21]子孫よりさんからのコメント(2014年02月14日 19時16分35秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
あの〜食事を作る前なので、結果から報告致します。

スレッド 平川家について7のコメント41でお伝えした
球磨川(木綿葉川ゆうばがわ)の歌を詠んだ藤原定隆は何と
平行親の曾孫の子 すなわち曾曾孫?で〜〜〜〜す!!

何故そうなるのかは後ほど!
\(◎o◎)/!<m(__)m>
[22]子孫よりさんからのコメント(2014年02月14日 22時42分00秒 ) パスワード

皆様、先ほどコメントした内容をご説明致します。<m(__)m>

まず、藤原隆方と平行親の娘の次男:藤原顕隆(1072-1129) - 葉室家祖
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E9%9A%86
この方の娘が 藤原家政室
藤原家政 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%94%BF
藤原 家政(ふじわら の いえまさ)は平安時代後期の公卿。関白藤原師通の次男。
そして、藤原家政の娘は 藤原家子 - 藤原清隆室、従二位、近衛天皇乳母

藤原家子と藤原清隆の子供が
藤原 定隆(ふじわら の さだたか)ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%97%a4%e5%8e%9f%e5%ae%9a%e9%9a%86

この方が、平川家について7 コメント41でご紹介した 球磨川(木綿葉川)をテーマに詠んだ和歌が
    夏来れば 流るる麻の木綿葉川
           誰水上に禊しつらむ
でございます。<m(__)m>

藤原清隆には藤原顕隆(藤原隆方と平行親の娘の次男)の娘も室となっています。
ああああああああああああああああああああああ!!
今、リアルタイムで調べていたのですが、なんと藤原隆方と平行親の娘の子供は藤原 光子(ふじわら の みつこ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%89%E5%AD%90
藤原 光子(ふじわら の みつこ、康平3年(1060年) - 保安2年4月16日(1121年5月4日))は、平安時代後期の女官。但馬守藤原隆方の娘で、藤原為房の姉妹。藤原公実の側妾となり、藤原通季、僧仁実、藤原実能、僧覚源、藤原公子、藤原実子、藤原璋子(待賢門院)をはじめ8人の子女を産んだ。堀河天皇、鳥羽天皇の乳母。
★藤原公実の側妾 藤原公実 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E5%AE%9F
男子:覚源 - 阿闍梨
三男:西園寺通季(1090-1128) - 西園寺家祖
男子:仁実(1091-1131) - 天台座主
男子:徳大寺実能(1096-1157) - 徳大寺家祖
女子:藤原実子 - 鳥羽天皇乳母、藤原経忠室
女子:藤原公子(1087?-?) - 藤原経実室、経宗・懿子母
女子:源有仁室(?-1151)
女子:待賢門院璋子(1101-1145) - 鳥羽天皇中宮
上記の皆さん全て 平行親の曾孫で〜〜〜〜す!\(◎o◎)/!

やばい!全身の鳥肌が立っています!!

何故だろう?今まで調べてきていつもぐるぐる回っていた所が全てここに集まっているのは?

ううん?何だかまだ隠されているような不思議な気がします。
でも、とても長くなったので一旦アップいたします。
でも(゜-゜) 不思議です<m(__)m>
[23]子孫よりさんからのコメント(2014年02月18日 07時16分04秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

一応、毎日調査はしているのですが、きちんとまとめる事が出来ずに、いつものようにぐるぐる回る日々を過ごしておりました。

球磨に関係していた三池氏、中原氏、紀氏、藤原氏(先日からお伝えした流れ)菊池氏そして平行親何だか全て繋がっているようなのですが、しっかりと整理して御報告致します<m(__)m>

所で、昨日の夢で私は何故か白髪岳に登っていました。(マタマタと言わないで下さいね(@_@))
そこで、今朝は、白髪岳の景色を見たくなり、早速ネットで検索。(心臓が悪いので実際に山に登る事は出来ませんので(*_*))
ぶなの原生林南限、山々が美しい白髪岳
http://blog.goo.ne.jp/natitasemi/e/c7700882b650156e110c4f8e7aba0310
そして雪景色の白髪岳
http://ameblo.jp/kirisima-yaku1224/theme-10028140196.html

子供の頃からいつも見ていた山ですが、登るとこんなに美しい景色が広がっているとは本当に知りませんでした。

所で、白髪岳の頂上付近には三池神社があるのですね。
今朝、ネットで初めて知りました。
由来を調べたところ、昔は、この三池神社の周囲に池があったと言う事で、雨乞いを行っていたとの記述も見ました。

以前、山は権力の象徴と伺いましたから、白髪岳の頂上付近に三池神社があると言う事は、何か意味があるのかな?とも考えます。

あの。脱線なのですが、急に思い出した事があります。
私が通った岡原小学校(岡原村は旧岡本村と旧宮原村が合併して出来ました)では、何故か代々?運動会で炭坑節を踊っていました。??
どこの小学校でも同じなのかな?とは思いますが卒業するまで毎年踊っていたので今でも憶えています。
そして、ここからが本題?なのですが、(笑わないで下さいね(-_-))
親戚一同集まっての宴会の席では、伯父さん達は、必ず大きな声で「月が〜出たで〜た月が〜出た。三池炭鉱の〜上に〜出た〜!♪」と歌っていました。
あの、厳格な平川の「みなみのじいちゃん」も、大きな声で歌っていました。
子供頃は、それが楽しくて面白くて、「あっ、またこの歌だっ\(^o^)/」と一緒に歌っていました。
ですから、三池と言えば「炭坑節」といったイメージが強く(すいません)中世の球磨で「三池氏」と記述されていても、それがイコール福岡の筑後地方と関係するのでは?という発想にならなかったのかも知れません。
「うん?何で三池氏?」という感じでした。
球磨の人にとっては、筑後の三池という地域に親近感があるのかな?と今になってあらためて感じたしだいです。
子供の頃に、みなみのじいちゃんが歌っていたあの懐かしい光景を思い出したら、あの頃にタイムマシーンで戻りたくなってしまいました。
そして、色々な話を聞いて・・・
うん?それが出来ないから、今、頑張っているのですよね。
よ〜し、頑張るぞっと!
さて、今朝はかなり脱線いたしましたが、今から、仕事に行ってきま〜す(^O^)/


[24]白石さんからのコメント(2014年02月18日 21時08分21秒 ) パスワード

こんばんは 
この間から給湯器がこわれて 冷たい水で洗い物をしていました。
お湯を沸かすのですがすぐぬるくなって たまりませんでした。業者もあちこちで仕事が引っ張りだこで なかなかこず 先日来の雪のため でしょう。

三池氏
蒲池氏に濃いつながりがみられるようですが・・・
松田聖子さんがこの氏の子孫ですね。以前テレビで神功皇后に仕えていた云々と話しておられました。

聖子さんにははるか及びませんが、私が以前自分の祖先にイメージしている族の女性の顔の輪郭が聖子さんににていると 思っています。
大笑いされますけど・・・

源融の話は東北の伊佐須美神社にあるようです。
イザナギ・いざなみを祭る。
[25]子孫よりさんからのコメント(2014年02月18日 22時36分13秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、水はとても冷たかったでしょう。
お疲れさまでした。(*_*)

蒲池氏は確か、橘とも繋がりがありましたね。

宮原には窪田家から養子が入られたとの話に関して、窪田家?と思い、色々調べてみましたが、その時に蒲池氏の系図を見ました。

蒲池氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E6%B0%8F

蒲池氏の祖ともいうべき祖蒲池時代の出自の伝承としては次のようなものがある。
1.古代の多氏の子孫説  2.藤原純友の子孫説  3.橘公頼の子孫説

何だか、とても親しみを感じてしまいます。(*^。^*)

本当に寒い日が続いていますね。
そして、地球規模で、異常気象です。
皆様、お体には十分お気を付け下さい。

・・・・もうお解かりでしょうが、ううう〜〜〜ん。中々すすみません。(*_*)
ぼちぼち頑張ります。<m(__)m>


[26]子孫よりさんからのコメント(2014年02月19日 07時06分31秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
今日は、先週土曜日の振り替え休日です\(^o^)/

でっ頑張って先祖の調査をと思っています。
所で今朝は、先祖の調査とは全く関係ないのですが、目にとまった記述を御紹介致します。

球磨に関する事を調べていると、戦艦という言葉が出て来るので、以前から何?とは思っていたのですが、今朝、調べてみました。

日本海軍の軽巡洋艦球磨 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E7%A3%A8_ (%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
球磨(くま)は、日本海軍の軽巡洋艦。球磨型軽巡洋艦の1番艦。艦名は熊本県を流れる球磨川にちなんで命名された。
水雷戦隊の旗艦を担う為に本艦は14隻の5500トン型軽巡洋艦(球磨型5隻、長良型6隻、川内型3隻)の最初の艦として建造された。
長門型戦艦でさえ竣工時は80,000馬力だった中、完成当初90,000馬力という大出力を活かして36ノットという高速を誇り、14センチ砲を7門・53センチ魚雷連装発射を4基備えた当時としては強武装を誇ったが、建造からかなりの年数が経過していたこともあり、太平洋戦争には改装を経て参加した。

戦艦大和は有名ですし、アニメの宇宙戦艦ヤマトは子供の頃夢中で見ていたのですが(ー_ー)!!(関係ないですね)球磨という艦名があったとは知りませんでした。
球磨型軽巡洋艦(くまがたけいじゅんようかん)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E7%A3%A8%E5%9E%8B%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6
球磨型軽巡洋艦(くまがたけいじゅんようかん)は大日本帝国海軍の軽巡洋艦。同型艦は5隻。
この5隻の名前
建造艦球磨型   球磨 多摩 北上 大井 木曾

名前はどうやって決めたのかな?と思い
日本艦船の命名慣例
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E5%90%8D#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E8.89.A6.E8.88.B9.E3.81.AE.E5.91.BD.E5.90.8D.E6.85.A3.E4.BE.8B
海軍創生の時期は、海軍省から提出された案を天皇が決定するというものであったが、1921年からは海軍大臣が決定し、その名称を天皇に報告することとなった。
大日本帝国海軍では艦艇の名前に国名(藩名)、山岳、河川の名前を使用した。これは明治維新後の海軍建軍にあたり諸外国に倣った事による
「大日本帝國海軍艦艇の命名基準」(明治三十八年八月一日制定[要追加記述])によって艦種によって命名できる範囲が決まった。
戦艦:旧国名 - 例外として日本の異称である「扶桑」も艦名に使われた。
航空母艦:神話などに登場する空を飛ぶ瑞祥動物(鳳、龍、鶴、鷹)を用いた名。昭和18年には山岳名が命名基準に追加された。
一等巡洋艦(重巡洋艦)、巡洋戦艦:山の名前。
二等巡洋艦(軽巡洋艦):河川の名前。
練習巡洋艦:神社の名前。

艦名にも意味があるのでしょうね。

1944年1月11日、対潜戦演習のため駆逐艦浦波とともにペナンを出港した後、英海軍のツタンカーメン級潜水艦(英語版)タリホー(英語版)(HMS Tally-ho, P-317)に発見された。ペナンの北西約16km、球磨から距離1900ヤードの地点で、タリー・ホーは7発の魚雷を一斉発射した。球磨の見張りが魚雷の航跡を見つけ、球磨は舵を大きく切ったが、右舷艦尾に2発の魚雷を受け、船は炎上した。午後11時57分、マラッカ海峡付近(北緯05度26分 東経99度52分)で、搭載していた魚雷の爆発により艦尾から沈没した。杉野修一艦長を含む生存者は浦波により救助されたが、乗組員138人が戦死した[6]。球磨は1944年3月10日に除籍された。
沢山の方が戦死されています・・・・。
球磨の残骸は、2004年3月にオーストラリア人のダイバー・フォトジャーナリスト Kevin Denlayとシンガポールを拠点とする調査船Empressのダイバーたちによって発見された。

この戦争で、世界中の沢山の方々が犠牲になったのですよね。
今の平和は尊い犠牲の上に成り立っていると言う事ですね。
でも、平和だと思っているのは一部の国だけで、まだまだ、世界のいたるところで紛争は起きています。

ふと、もし地球に意識があったら、人間の行いをどう感じているのかな?と思ってしまいました。
母なる地球と言いますが、母にとって子供の命はかけがえのないもの。
地球には人間だけがいる訳ではありませんね、様々な動物、植物全てが命をもって地球に生きている。
母を悲しませない為にも、尊い命を大切にしていけたら良いのに。
この頃の異常気象は、地球からの人類に対する警告という言葉を聞きますが、今を生きている私たちも将来の人類からすると、「先祖」となるわけですから、「あの時代の先祖が・・もう(>_<)」と言われないように、遠い子孫の為に一人一人が今出来る事を理解して行動していければ。
と綺麗事を言っても、当の自分の行動も毎日いい加減です(*_*)

ただですね・・・
私は、心の中に優しい気持ちを持つ事が出来れば、何かが変わるのではないのかな?と。いつも思っています。(^・^)

さて、戦艦から最後は地球の異常気象と繋がりが変だったとは思いますが、今朝の雑談?を終わりたいと思います。
では<m(__)m>(^・^)



[27]子孫よりさんからのコメント(2014年02月19日 07時38分30秒 ) パスワード

追記

球磨 (軽巡洋艦)は以下の通り
発注 1917年度計画
起工 1918年8月29日
進水 1919年7月14日
就役 1920年8月31日

先ほどのコメントにも書きましたが
海軍創生の時期は、海軍省から提出された案を天皇が決定するというものであったが、1921年からは海軍大臣が決定し、その名称を天皇に報告することとなった。
という事は、艦名は大正天皇がお決めになったと言う事ですね。
\(◎o◎)/! <m(__)m>

[28]子孫よりさんからのコメント(2014年02月19日 10時30分50秒 ) パスワード

又、登場です。

実は、ずっとコメントしようかな?と思っていた事があるのですが、今朝は、どうも、休みという事もあって、身体の中のいつもの何かがザワザワして、やはり、お話させて頂きます。

以前、コメントした事があるかと思いますが、球磨の実家、(まあいつも言います旧求摩荘久米郷宮原ですね)のすぐ前に地元の人が通称「湯川」と呼ぶ小さな小川があるのですが、この「湯川」は流れていると言っても、家の前が水源なのです。
祠のような岩から清水がこんこんと湧いていて、すぐに小さな川となり15メートルくらいで井口川に流れ出ています。
今は、井口川も整備されていますが、多分、昔はこの湯川が井口川に流れだす場所は滝になっていたはずです。
そして、この湯川には神様がいらっしゃると子供の頃から聞いています。
岩の横には樹齢何百年にもなるであろう、とても大きな椿の木。
そして、樫の木か、しいの木か良く解りませんがどんぐりが成る木。
椿の木・樫の木はとても大きく今では湯川の上の屋根のようになっています。
この湯川の神様を宮原と平川の家は代々お守りしてきました。
湯川行く為には、道から3メートルくらい下に降りなければいけません。
冬は水がほんのり暖かく、顔を洗うのに丁度良いのですが、朝・昼いついってもうす暗く、子供心に、神聖な空気感にドキドキしながら、岩の辺りをチラチラ見て、何方かに見られているような気がして、本当の事を言うとちょっと怖かったです。(私が怖いと感じると言う事は、本当に強い何かがあるのだと思うのですが。だって大抵の事には怖いと感じないのですから)
帰省するたびに感じるのですが夜になると、家の周囲はまるで神社にいるような空気になります。
数年前に正月明けに、夜、宇佐神宮にお参りしたのですが、あの凛とした神聖な空気感と、とても良く似た言葉に出来ない感じです。
そして、今年、昼間、家の周りを散歩していて、湯川から100メートルくらい離れた場所から、昼だと言うのにその空気を感じました。
そして、湯川に近くなるほどその空気は強烈に身体に感じられました。

実は、今年の帰省で私は不思議な体験をしたのです。
夜、父と話をしていると外でキャッキャッと沢山の子供のような声が聞こえて、時計を見るとすでに1時過ぎ。
父が「あっ!タヌキの親子が来たかな?良く見るとかわいかよ〜(^・^)」とリビングのカーテンを開けて、窓を開け外を覗いたのですが、父は外をじっと見つめてさっと窓を閉めたのです。
タヌキは?と私が尋ねると父は「うんかわいかよ」とそっけなく言い、私が見たいと言うと「もう帰ったよ」と。
残念だな〜と思いながら、又、父と話を続けていました。
そして、父に先に寝るねと言い、2階の部屋で布団に入りました。
かなり、寒かったので電気のヒーターを枕元に置いてタイマーをセットして「さあ寝ようかな〜」と思ってしばらくたった時・・
ヒーターから小さな石ころで叩くような「カチ〜ンカチ〜ン」という音が成り始めました。
「ううん?」と思いましたが、でも、金属が温まって音が鳴っているのかなと
ふとんを頭からかぶって寝ようとすると今度は「カチ〜ンカチカチカチ」と音がどんどん大きくなって、音のスピードも変わってきました。
「えええ〜っ!?」と思い布団から出て、電気を付けて見ましたが部屋には変わりがありません。
ただ、明らかに何かがストーブを何かでカチカチ叩いているのは解り、本当に久しぶりに怖くなって電気を付けたまま布団に入りました。
そうすると、また「カチ〜ンカチカチ」となり出して、「困ったな〜」と思いながら眠れず、結局6時の音楽(田舎なので何故か6時になると朝のメロディーが町に流れます)が聞こえた所で、眠る事が出来ました。
そして、少し遅く起き、朝の用意をしていると父が「昨日、電気つけたまま寝たやろ。外に明かりがもれてたバイ。なんか?おまえ怖かったとか?」と聞いてきたので、どうしようかとは思ったのですが昨晩の事を話しました。
すると、父が笑いながら、「あ〜やっぱりお前の所に来なったね〜。怖い事はなかた〜い」と。
私は????いったい何方が私の所に?と頭が???となり父をビックリして見つめると、父は「昨日の夜ね、お父さんがタヌキが来たって言って窓バ開けたやろ。タヌキじゃなかったトヨ。」と。私は完全に頭が???となり「じゃあいったい何方?」と聞くと父は「う〜ん。あのね、先祖様や神様がお前が帰って来て喜んでいらしたとタイ」と優しく笑って言うのです。
私は「ナンデスト〜!!」と頭が真っ白けになりました。
父は「御心が子供のような方もいらっしゃるけん、いたずらしなったとやろうね〜」と。
長い事文明世界に住んできた私としては、いったいここは何の世界?という感じでしたが、そうです、また夜はやって参りました。
そして・・
昨晩と同じくまたまた「カチ〜ンカチ〜ン」とストーブが鳴り出したので、私は「こうなりゃ、もう受け入れよう!」と思い、起き上がって「さあ遊ぼうっと」と言って、携帯を取り出しゲームを始めました。(最初はパズドラでございます)すると、なんと音がぴた〜っと止まったのです。
私はあえて「とりゃ〜!!」「いっけ〜!!」と声を出してゲームをしました。
そして、「やった〜勝った〜!!」と喜ぶとストーブが「カチ〜ン」と。
えええええっ!と思いましたが、もう自分でも受け入れたので、「もう1回やろうかな〜」と言うとストーブは「カチ〜ン」。
はっ反応しているっ\(◎o◎)/!と。それから、しばらくゲームをして状況は同じでした。
でも、その時はもう怖いという感じは全くなかったです。なんだろう?とてもポカポカ暖かい気持ちになれました。
そして、静かになったので私も寝ました。(^・^)

そして朝。父が「お前は昨日誰と話よったと〜?」と聞くので「どなたかは解らないケド、御一緒にゲームをしたよ」と言うと父は「\(◎o◎)/!ゲーム?」と。
そして昨晩の出来事を父に話すと父は「そりゃ喜びなったとタイ。ばってん、お前はすごかね〜(^.^)さすが我が家の跡取り娘じゃ\(^o^)/」と摩訶不思議な事を言って喜びました。??
って言うかどんな能力が我が家には必要なのか?と私は本当に???でした。
でも、思うに、父もずっと航空自衛官として、球磨を離れていたのですから、帰郷して、何かを経験して、そして、しっかりと受け止めて今、生活しているのかな?と。父は何も言いませんが。(^・^)

でも、実家では確かに子供の頃UFOとの遭遇を含め色々体験したような気がします。
でも、祖母も父も、同じ事を言うのですよね「怖くはなかと〜」と。
そう言えば父も子供の頃何かを体験した時に、平川の曾祖父から「怖い事はなか!(^・^)」と言われたと言っていました。
何を体験したのか今度聞いてみます。

という事で実家での不思議な体験のお話でございました。
マタマタ(ー_ー)!!と思われた方、どうもすいません。<m(__)m>
でも、これは実話でございます。
では<m(__)m>(^・^)



[29]子孫よりさんからのコメント(2014年02月19日 16時51分59秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。
ぼ〜っと色々なサイトを見ていたらこのような記述を見つけました。
Sue mura in transition: A fundamental study of ... 72 ページより
球磨地方においては、従来の東村郷と球玖郷とを合せた豊永郷と西村郷宏恵匡を須恵氏が統一支配することとなり、一方、久米氏も従来の久米郷と千脱郷がムロした豊富郷を収めるといぅ、律令制的政治要素を幾分残しながら、両氏は均衡状態を保っていた函...
77 ページ
山間の別天地でも、特に奥の院的位置にあり、豊富郷は歴史変動のなかで最も安定した地域であった。 ... かつての領主・須恵氏が、源乎両氏の争乱にどのよぅな対応を示したかは定かでないが、鎌倉幕府は、須恵氏の東村郷の東半を没収して、隣接地頭の ...
初めて目にしました「豊富郷」。φ(..)メモメモ
他の記述には、歴史上、正式な名称ではないが「豊富郷」と呼ばれていた。と書かれていました。
★確かに平安時代、都では疫病や飢餓に襲われ、戦も次々に起こり大変な状態だったわけですから、別天地と呼ばれるような場所だったのですね。

その他に
変貌する須恵村: 社会文化変化の基礎的研究 - より
86 ページ
矢崎説に対して宮本尚氏は、浄心なる人物は相良氏ではなく、久米(豊富郷)の地頭であるという。しかし久米氏の滅亡年代を城泉寺創建の直後(寛喜年中)とする占、;、矢崎説にほぼ同じ。 0 ^上相良の領地は、多良木(平家没官铂ヽ久米(豊富郷)、湯前(晝富郷)、 ...
73 ページ
豊富郷の公田五〇〇町は律令時代の久米郷と千脱郷とほぼ重なり合 5 地域で、地頭も前時代からの久米氏が継いでおり、全球 ... 須恵氏が、源平両氏の争乱にどのような対応を示したかは定かでないが、嫌倉幕府は、須恵氏の東村郷の東半を没収して、隣接 ...
52 ページ
久米氏の現実の四至界は東、西、南とも久米郷にあり、北は千脱郷八藤原時代には、久米郷.千脱郷はすべて豊富郷に包含される V にあるので、この場合の設定は、あくまで象徴的なものと考えた方が妥当であろう。東光寺の創建に関する史料はないが、藤原 ...
★久米郷は豊富郷に含まれていたのですねφ(..)メモメモ
★久米氏の滅亡年代を城泉寺創建の直後(寛喜年中)とする\(◎o◎)/!寛喜年中!あの戦だっ!!
変貌する須恵村: 社会文化変化の基礎的研究 - より
沙弥浄心(相良頼平)が相良氏によって服: ^せしめられた久米氏のために寺院を建て、諸塔を奉納したという推理に従えば、久米氏の衰滅も案外・・夕宕い衝撃を受けたのは、何といっても球磨の天地を震駭させた寛喜年中の平河氏滅亡の事件(血敷原の戦)であったに違いない。

そうか久米氏の衰退は平河に関係があったのですね。

所で、正月、私も少しお酒が入り上記の事を親戚に聞きながら、「相良さんひどいね(*_*)」と言うと、何と父をはじめ親戚一同
「ばか〜!そげん言うな!!相良さんはず〜っと、よ〜うしてくんなったとよ〜」
直訳します<m(__)m>
「ばか!そんな事を言ってはいけない(ー_ー)!!。相良さんはずっと良くして下さったのだから」となります。
そういう事は初めて聞きました。でも、ずっと不思議だった事があるのです。
平河(平川)は明治まで士族でしたが、江戸時代以降、相良藩での役職は特別記述にはありません。がっしかし!私は祖母からこう聞いていました。
「ばあちゃんが子供の頃までは、家(平川)には20人位の男の人や女の人が家の事をしていた(祖母は違う言葉で言ったのですが、私はあまりそういう表現はしたくないので<m(__)m>)」
本当かな?(ー_ー)!!と思い多良木の平川に嫁いだ祖母の妹(多良木のばあちゃん)に聞いた事があり、その時も「本当よ(^・^)」と答えが返ってきたのです。?
なんで?? う〜〜〜〜ん?
やっぱり、祖母の実家「平川家」は不思議でございます。(?_?)
[30]子孫よりさんからのコメント(2014年02月20日 07時30分34秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

あの・・・ですね。
今朝、自分で、ありゃりゃ〜〜〜??と驚いている事がありまして。(+_+)

全く進まないので、またまたあらためて、「平川家について」を最初のスレッドからじっくり読み返していたら(何度めだ!って声が(+_+))・・
私がこの頃調べていた平行親繋がりの情報の一つをすでにコメントしていたのですね。(-_-)

「平川家について続2」で一時期私が、「今昔物語」にはまって?いる時に、良峯宗貞と宮原の娘の間に生まれた二人の子供の行方はいずこ?と調べていた時、偶然というかおっちょこちょいで、間違った方向に進み何故か「大原の庵に尋ねてきた宇治殿頼通に「俊実は不覚の者に候ふ」と、わが子(俊実)への思いをぽつりと漏らすところに感動の中心がある。」という解説を勘違いして、良峯宗貞の言葉と思い込み、結局違ったと(ー_ー)!!(+_+)落ち込んだあの頃です。
よろしければ、皆様もご覧下さい。<m(__)m>
平川家について続2  スレッド72〜85
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/101326_91.html

今まで、何度かスレッドを読み返していたのですが、この辺りは、「私、間違っていたのよね〜(-_-)」とかなり飛ばして読んでいました。(+_+)

白石様からも詳しい情報を頂いていました。(+_+)
すいません<m(__)m>
日本の苗字七千傑様からは「椋橋玄理は良峰宗貞の子では無いとしている系図もあり。
その場合、宗貞の子は弘延(権律師)、素性(権律師、俗名玄利)、由性の三人。
玄理と玄利が似ていることから良峰氏を仮冒したのではないかとの疑い。」
というお言葉を頂いています。
やはり、今の調査に繋がっています。

この頃「橘俊綱」を調べている時に、前に一度、調べた名前だから、あれっ?何処かで聞いたことがある名前だぞ?と思ったわけです。(+_+)
(えええええええええっ!!!と思われたでしょう。(+_+)どうもすいません。自分でも悲しくなります(@_@。)

でも、不思議なのは、何故、あの時、私は間違ってこちらの方に進んでいったのか?なのです(?_?)
結局、今、同じ所を調べている訳ですから。????
間違ったわたしが、何故間違ったのかわからないわけですから・・
皆様方もあきれていらっしゃると思います。(@_@。
あらためて、すいませんでした。<m(__)m>





[31]子孫よりさんからのコメント(2014年02月21日 07時34分42秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨晩より、あらためて、私、何で今昔物語にはまったのかな〜?と考えながら、平川家について続2を読み返していた所、日本の苗字七千傑様から頂いた「今昔物語により、平貞盛の養子15人のうち5人が確認出来るので価値あり。史料に100%を求めるのが幻想。少しでも解れば成果は大きい。また、他の史料を探せば良いだけ。」というお言葉を読みながら、「私、他の資料をしっかり読んでいない!!」という事にあらためて気が付きました。

そして、平河家文書に記録されていた「義方」この方も全く調べていませんでした。それに、あの文書は途中が切れていて、他の名もあったのでは?と思い、早速調査!!
すると、出て来たのです。\(^o^)/
「大和物語」にヒントが隠されていました。
キーマンは
良峯義方 良峯仲連 命婦 命婦の父右近将監

そして良峯仲連は「仲遠」でもあり「仲連」でもあり両方の名を名乗っています。そして、この方と良峯の関係は・・・(^・^)
ここからは、夜に御説明します。
では仕事に行ってきま〜す(^O^)/
[32]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年02月21日 21時01分42秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>結局、今、同じ所を調べている訳ですから。????
 
平川家が良峯姓は良いのだが、そこで思考停止なので先に進まないのでしょう。
深田、山田、横瀬は球磨郡に地名に有るが、平川、永池は無い。
恐らく永池は、日向記にある永池藤七郎の名跡を嗣いだ可能性が高い。
そうすると平川の発祥地は?
推測すると遠江国城飼郡平川郷(現:静岡県菊川市上平川および下平川)。
相良氏は遠江国榛原郡相良庄(現:静岡県牧之原市相良)。
相良氏と縁戚の清和源氏横地氏は遠江国城飼郡横地(現:静岡県菊川市西横地および東横地)。
相良氏族内田氏は遠江国城飼郡内田庄(現:静岡県菊川市中内田、下内田)。
 
地図で見れば解るが、菊川市と牧之原市は隣接している。
要するに、鎌倉時代初期に遠江から下向した一族と思われます。
京師の公家家系ばかりに着目せずに、この辺を念頭に前進すると良いでしょう。
[34]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年02月21日 22時30分28秒 ) パスワード

こんばんは。

京都は風がきつくてまだ寒いです。

突然ですが、頭の中にある考えを箇条書き気味に書きます。

相良氏と橘氏の関係についての私見ですが、両氏の系図の仮冒を取り払い蓋然性の高い流れで考えると、同族だった可能性があります。

相良氏は一般に藤原南家為憲流とされていますが、相良系図を尊卑分脈に照らすとおかしな点が多く偽系のようです。
これは太田亮氏の著書「姓氏と家系」の相良系図の研究の項で詳しく書かれています。

相良氏は遠江国相良庄が発祥だと思いますし、藤原氏流とも何らかの縁があったのでしょう。
しかし、相良氏自体は藤原氏ではなく、遠江の古代氏族の流れを汲んでいるのではないでしょうか。

「ではだれに繋がっている?」と言われると確証を持って言いきれないのですが

遠淡海国造か久奴国造の流れではと推測しています。もしどちらかだったとすると、饒速日命後裔の物部氏族となります。

吾妻鏡によれば、橘公業の先祖は遠江掾橘遠保であるので、小市(越智)国造の流れとなり、こちらも饒速日命後裔の物部氏族。

となると、古代に遡れば相良氏と橘氏は同族という可能性が出てくるわけです。

そういう同族意識を、平安末期〜鎌倉時代の橘公業と相良頼景・長頼が共有していたのかは全くもってよく分かりませんが。

これは少し話が変わりますが

饒速日命後裔の国造は、北九州沿岸〜瀬戸内海〜紀伊半島沿岸〜東海地方沿岸
等に分布している事から考えて海上航路で結びついていたと推測できます。

橘遠保が遠江掾となり、後に美濃介という官職になったのも考えてみると遠江国・美濃国も饒速日命後裔の国造と重なっていますし興味深いですね。

伊予や讃岐だけではなく、遠江や駿河にも橘を名乗る一族が多いですし、物部氏族という関係性で結ばれていたという事でしょうか。

最初は単に地名由来で偶然重なってるだけかと安直に考えていましたが…。

古代に及んでいるとなると、呪術的なにおいが漂う信仰でもあったのでしょうかね。

これだけ広域に分布している集団は、血縁で結ばれているというより、信仰で結ばれているような気がしますし。

橘は不老不死の木とされているので、不老不死信仰あたりかなぁ・・。

ここで、ちょっと小話をすると

私が先祖を本格的に調べ始めたのは大学に入学した頃なのですが、調べてみると、橘薩摩氏の所領が広域的に分布しているのに気づき、まず不思議に感じました。

それに、吾妻鏡を読むと、橘公長が「京に馴るるの輩」と呼ばれていたり、平氏から源氏へ寝返る際も、遠江国にいる縁者を頼って下向したりと

単なる伊予国出身の武士にしては、遠地に縁があり過ぎて、どうもピンときませんでした。

今まで学校で習ってきた「一所懸命」という狭い土地に籠り、ひたすら守っているという武士像とかけ離れていた事が、不思議に感じた要因でした。

ちょうど、そういう時期の事ですが、他学部の日本史の講義にもぐったところ
俗にいう網野史学を踏襲されている教授の講義に巡り合い
そこで教わった歴史観で先祖を捉え直してみると、よく分かるようになったのです。

先ほどの物部氏族の時代から橘薩摩氏に至るまで 海上交通と密接な関係を持っていたようですから
一般に習う農業民視点の歴史観では、非農業民である先祖を捉えきれなかったという事になりますね。

西園寺公経が宇和郡を強引に奪ったのも、宇和郡という海上交通の要所が産み出す富が目的ですし。

宇和郡つながりで橘公業に関連する伝承があるのですが 「ひょうすべ」という妖怪がいます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%99%E3%81%B9 「ひょうすべ」

ここの橘島田麻呂(島田丸)云々は中央橘氏にそれとなく結びつける作為だと思いますが
ひょうすべが水に関係する妖怪である事や武雄市橘町では、ひょうすべを「大工の弟子」ともいう事などから

ひょうすべの主な実像は、宇和郡にいた山民・職能民の人々だと思います。

これらの人々に、橘薩摩氏による潮見川の利水・治水の事績とそれに伴う苦心の日々。
そして、中央橘氏と橘薩摩氏を結びつける作為などが合わさって、ひょうすべという妖怪像になったと分析しています。


ヘロドトス「歴史」より

「我々は嘘をつくときも、真実を言う時もひっきょう目指すところは一つなので
 嘘で相手を納得させて得をする見込みのあるときは嘘をいい、また真実をいうのは
 むしろ真実によって利得をあげ、相手にもいっそう自分を信用させようという目的からくる。
 このように我らは、することは同じでなくとも、目指す目的は同じ事なのだ。
 何も得がないとなれば、普段は正直な者も嘘をつくであろうし、嘘つきも正直者になるであろう」

という文章を読むと、歴史書や各氏の系図にも当てはまるように思います。

歴史書や系図には、本当もあれば嘘も含まれています。
先人といえど私達と同じ人間で、胸に手を当てれば分かるように
ついつい願望が入ったり、誤字や勘違いの凡ミスを書いたりと
所詮は、良くも悪くも人間ということなんでしょうね。

先祖を調べていたら
副産物としてそういう事も分かりました。

最後、哲学っぽく括ってしまいました。><
[35]子孫よりさんからのコメント(2014年02月22日 00時55分04秒 ) パスワード

皆様、こんばんは。
日本の苗字七千傑様、公忠公の末裔様、ご教示ありがとうございます。

同じ所をぐるぐる回って、あまりにも前進しないので、出口はどこだ?とこの頃、半ばあきらめに近い状態だったので、平川の発祥地を教えて頂き本当にありがとうございます。
静岡県菊川市。「遠江国」。
これで、やっと、出口が見えてきそうです。
菊川という地名は山口県にもありますね。
静岡県は九州から遠く、中々イメージが湧いてこないのですが、菊川という地名にとても親しみが湧いてきます。

公忠公の末裔様。
あのですね、球磨の地元でもカッパ様の伝説はあるのですよ。
それも、実家の前の井口川。やっぱり、橘と伝説のカッパ様も一緒に宮原の地に来られたのかな?
気が付いたのですが、この井口川、当時だったら船で球磨川に行けたはずです。そのまま川を下ったら八代ですね。
それと、古代からの信仰ですが、もしかしたら、もしかしたらですが景教も関係しているのかな?と・・・
実は、家にも驚くべき場所(物)に、ある「しるし」があったので・・

そう言えば、全く関係ありませんが、家(宮原)は代々、何故か左利きです。??
曾祖父も祖父も父もそして私もです。私は、子供の頃むりやり矯正されたのですが、それでも包丁は左手で持ちますし、親の手がかかっていない所は全て左手です。子供も、何故か左手を上手に使います?
そして、この前美容院で突然「めずらしいですね。つむじが二つありますよ。それも、それぞれのつむじが左回りと右回り。こういう人は、昔は偏屈者が多いと言っていたそうですけど(^・^)」と言われました。
つむじが二つ?!と、でも、それよりさすがに「偏屈者が多い」と言われた時は「えええっ?!私もか(>_<)」と。

系図ですよね。それと家に残る文書。
私は、今、祖母の実家の系図と文書になんだか振り回されているような気もしていました。
何かの作為が(先祖様ごめんなさい)・・。
そう感じる理由は記録されている名前をたどると何故か今の状態「ぐるぐる」回ってばかりになってしまうからなのですが・・

目にしたい文書は閲覧不可能だし。
宮原のようにスパッとわかる記述でも残っていれば・・
でも、発祥の地もわかったので、ここからは、出口に向かって進めそうな気がしています。

では、明日は休みなので、もう少し調査してみますね(^・^)

[36]子孫よりさんからのコメント(2014年02月22日 08時34分44秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

今日は、遠江国城飼郡平川郷についてしっかりと調べようと思います。<m(__)m>

所で、祖母の実家平川を「みなみ」と呼ぶ理由まで、全然たどり着いていない(すなわち南北朝まで、まだまだたどり着いていないと言う事ですね。(+_+))今、ふっと「方角」にも関係するのかな?と。
祖母の兄(平川の「みなみのじいちゃん」の弟)は西田家に養子に入っています。
みなみとにしだ・・にし・・西・・西と南・・・・
(>_<)・・(ー_ー)!!やっぱりこじつけになりますね。

おバカな事は考えずに、しっかりと調べます。(^・^)

[37]子孫よりさんからのコメント(2014年02月23日 18時21分10秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。
遠江国城飼郡平川郷について調べていますが、平河氏(平川氏)という名には未だ到達していません。がっ!ふと静岡県に関して以前、記述があって見過ごしている気がして、PCに記録していた内容を見ていると、出て参りました。
それは
三位房についてです。
ミューゼアム: the bimonthly magazine of the Tokyo National  より
平河師・は仁平元年から久寿が出ていることを考えれば、この荒田寺が平河氏
によって外護されていたでは確実に存続していたことが解る。また、平河氏の一族から座主や別当も平河氏の一族中の「三位房」という人物が座主を務めており、この頃ま(胜 〕〕称 ...
★平河氏の一族中の「三位房」という人物が座主を務めており
「三位房」と呼ばれる方は二人
三位房日行 そして三位房日進上人
三位房日行について。
三位房日行は日蓮上人よりお叱りを受けた事でかなり有名です。
こちらの年表を見て下さい。
http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/myodoni/nenpyo.htm
1262年の項に
この頃 熱海真言僧金剛院行満 日興により改衣して日行と名乗り自坊を大乗寺と号す(16歳)
記述があります。
熱海真言僧金剛院行満は日行と名前を変えた。そして「大乗寺」
では「大乗寺」。あまり、ネットでは情報がなかったのですが・・
http://ameblo.jp/lovin815/entry-11568193055.html
熱海市上宿町にあるお寺です。

「三位房」についてとても詳しく記述されているサイトがありました。
http://www.geocities.co.jp/inae_sokagakkai/27.html#k27000
三位房について
三位房は、御書によっては三位公、三位殿、三位阿闍梨、三位などと呼ばれる。下総国の出身といわれ、早くから大聖人の門下に入ったと伝えられる。弁阿闍梨日昭、日興上人、大進阿闍梨などとともに門下の中で重きをなしたともいわれ、日興上人の駿河弘教の補佐や諸宗問答の重責を命ぜられ活躍した。しかし、才智におぼれ、ともすると大聖人の指導に背くことがあり、たびたび訓戒を受けていた。
三位房の出生・及び入門
三位房の生い立ち、家柄等については、信頼できる文献、資料が少なく、更に俗説などが加わって種々の説があり、明らかではない。
一説には、皇后宮大進清原真人行清の、末裔で下総国葛飾郡に住む大野右衛門大夫清原政清の子息であり、曾谷二郎兵衛尉教信の弟といわれ、また兄が大進阿闍梨であるといわれる。
また一説には、土岐左衛門尉光行の子で、富木常忍の弟であり、曾谷教信の義弟となって出家したと伝えられる。
これらはいずれも確証がなく、とくに清原政清と曾谷教信、土岐光行と富木常忍の関係には不審な点が多く、また三位房についても、後述のように、三位房日進との混同もみられる。
しかし、富木常忍に与えられた四菩薩造立抄には、常忍から三位房が死去した報を聞かれ「日行房死去の事不便に候、是にて法華経の文読み進らせて南無妙法蓮華経と唱へ進らせ願くは日行を釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山へ迎へ取らせ給へと申し上げ候いぬ」(0989−14)と仰せられているところから、富木常忍と三位房とは、なんらかのつながりがあったように思われるのである。

三位房日進。この方の記述はかなり少ないのですが、上記サイトに
★三位房日進らとの同異について

三位房については、古来、三位房日行と三位房日進とがおり、しばしば混同がみられ、ために一人説、二人説と分かれ、また大進阿闍梨とも同異の説があった。
三位房日進というのは、後年、日向の後を継いだ身延山久遠寺の別当であり、誕生は日進の自筆の書と伝えられる玄義見聞集によると、文永8年(1271)誕生とあり、そうであれば、建治3年(1277)の桑ヶ谷問答の時は、6歳ということになる。
日進は、初め日心と称し、後に日真、更に日進と改めたとあり、更に三位公大進阿闍梨とも称した、ゆえに後世、三位房日行と混同されたのであろう。
更に大進阿闍梨の同異についても、弘安元年(1278)9月15日に認められたとされる四条金吾殿御返事に「大進阿闍梨の死去の事・末代のぎばいかでか此れにすぐべきと皆人・舌をふり候なり、さにて候いけるやらん、三位房が事さう四郎が事・此の事は宛も符契符契と申しあひて候」(1182−02)と明確に区別しておられる。
しかもこの御文によれば、大進阿闍梨は、弘安元年(1278)9月すでに死去していたことになり、三位房の死去とされる弘安2年5月と符合しない。
もとより、御書の御述作時については異説があり確定できないが、大進阿闍梨、三位房日行、三位房日進は、それぞれ別人と考えた方が妥当であろう。

熱海の大乗寺に関係する三位房日行
そして、生い立ちは

@皇后宮大進清原真人行清の、末裔で下総国葛飾郡に住む大野右衛門大夫清原政清の子息であり、曾谷二郎兵衛尉教信の弟といわれ、また兄が大進阿闍梨であるといわれる。
A土岐左衛門尉光行の子で、富木常忍の弟であり、曾谷教信の義弟となって出家したと伝えられる。
★これらはいずれも確証がなく、とくに清原政清と曾谷教信、土岐光行と富木常忍の関係には不審な点が多く、また三位房についても、後述のように、三位房日進との混同もみられる。・・・となるとまたまた???
でも・・・
★富木常忍と三位房とは、なんらかのつながりがあったように思われるのである。

三位房の記述で球磨と静岡県熱海が繋がったかな!と思ったのですが。
でも、「三位房と平河は一族」との記述があるので、上記に記述された方々を今から調べる事に致します。
では(^・^)




[38]子孫よりさんからのコメント(2014年02月23日 23時10分12秒 ) パスワード

皆様、先ほどのコメントで調べたお二人の「三位房」と平河と関係する荒田寺座主「三位房」がどう関係するのかまだ解りませんが、全く歴史を理解していない私としては、ちゃんと勉強しなければと思いました。

宗教の事は良く解りません。<m(__)m>

ではまず日蓮上人 ウィキより
日蓮(にちれん)(貞応元年2月16日 - 弘安5年10月13日、ユリウス暦では1222年3月30日 - 1282年11月14日、グレゴリオ暦に換算すると1222年4月6日 - 1282年11月21日[1])は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教の宗旨のひとつ日蓮宗(法華宗)の宗祖。死後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。
貞応元年2月16日(1222年3月30日/4月6日)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされている
貫名氏 日本の苗字七千傑様の【三国氏/酒人氏】姓氏類別大観から《赤佐氏/井伊氏/貫名氏》姓氏類別大観に進むと日蓮上人のお名前がありました。
橘紋なのですね。
そして、「現静岡県袋井市貫名一族」袋井市を見るとウィキで
袋井市(ふくろいし)は、静岡県の西部の中央に位置する市である。2005年4月1日に磐田郡浅羽町と合併した。
とありました。
そこで、脱線しますが、私、偶然「浅羽氏」について昨日記述を読んでいて、
http://www.ksky.ne.jp/~matu-3/23asaba.html
行光は浅羽氏の祖行業の孫で浅羽氏の中では嫡流にあたる人物である。七党系図を見ると浅羽氏の中でもとくに行光の系統は父行親(ゆきちか)が三郎行親を通称としたのをはじめとして、小三郎行光、三郎行信(ゆきのぶ)、三郎太郎行季(ゆきすえ)、小三郎経行(つねゆき)と嫡子はいずれも三郎を名乗っている。これはおそらく入間・比企地区の児玉党の先祖三郎資行(すけゆき)の嫡流であることを意識して通称したと考えられる。
★この記述を読んだ時に嫡子はいずれも三郎を名乗っている所が球磨の「平河」に似ているな〜と思いました。

では本題に戻ります。
身延山久遠寺 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%81%A0%E5%AF%BA
久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山(祖山)。山号は身延山。
文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。

弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「妙法華院身延山久遠寺」と名付けられたという。
南部六郎実長(波木井実長) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E9%95%B7
南部 実長(なんぶ さねなが)は、鎌倉時代中期の御家人。南部光行の三男。八戸氏(根城南部氏)の祖。日蓮の有力壇越として知られ、また甲斐国波木井(はきり)に居住したことから波木井実長とも呼ばれる。
通称が六郎三郎。
南部光行の三男。という事で南部光行 ウィキより
南部 光行(なんぶ みつゆき)は、日本の平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。加賀美遠光の三男。南部氏の始祖。
あれっ!?加賀美?そうか!加賀美長清(小笠原長清)
南部 光行は小笠原長清の兄弟なのですね。\(◎o◎)/!
宮原(橘)の先祖と深い繋がりのある方でした。

なんだろうな〜??いつもこうですよね?祖母の平川を調べていると、宮原(橘)に縁がある人物に繋がってしまうのですよね??

という事で、しばし休憩します。
続けて皇后宮大進清原真人行清の、末裔で下総国葛飾郡に住む大野右衛門大夫清原政清。この方々と土岐左衛門尉光行の子で、富木常忍。この方々を調べたいと思っています。<m(__)m>










[39]子孫よりさんからのコメント(2014年02月24日 07時25分48秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
清原真人行清・大野右衛門大夫清原政清で調べても中々記述が見つからなかったのですが、色々検索していると「二階堂氏」の表記があり???と。

そこで、日本の苗字七千傑様の《二階堂氏》姓氏類別大観 を見て行くと・・
ありました!
二階堂氏行村流 西郷行清 → 二階堂清長 → 石谷政清
間違っていないかな?(*_*)

では石谷氏 ウィキより
石谷氏は、日本の氏族。遠江石谷氏(いしがやし)と土岐石谷氏(いしたにし)がある。★ あれっ?!土岐石谷氏? 土岐氏がここに出ました。?
遠江国佐野郡西郷石谷(現在の静岡県掛川市)を本貫とする石谷氏は藤原南家為憲流二階堂氏の流れを組むとされる、戦国時代から江戸時代にかけての武家一族。しかしながら、石谷氏の祖である石谷政清の曾祖父、二階堂行晴以前の系図は明らかではなく、『寛永諸家系図伝』に拠れば、二階堂行秋(因幡守,法名:行欽)−二階堂行晴−西郷行清−二階堂清長−石谷政清とされている。西郷民部少輔と二階堂行秋の妹との子の内、次男である行晴が二階堂行秋の後を継いだとされ、石谷氏を称した政清に至るまで何度も苗字を変更しており、政清自身は当初西郷氏を称していたとされる。政清が名字を改めたのは石谷村に移り住んだことに由来するとされるが、一説には徳川家康の側室、西郷局に憚ったためとも伝えられている。なお、石谷氏の血族である西郷氏については、『掛川市誌』などに拠れば、遠江三十六人衆に数えられ、山科家の地頭代として西郷庄に影響のあった西郷氏と関連性が見受けられるものの、俗説にある三河西郷氏との関連性は不明である。基本的な家紋は、遠江石谷氏の由来である石谷村の九つの巨石(名字石・家紋石)にちなみ九曜星だが、桑原政重の系統は石餅九曜・追沢瀉であるとされる。
★遠江国佐野郡西郷石谷(現在の静岡県掛川市)
でも、何だか???
石谷 政清 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%B0%B7%E6%94%BF%E6%B8%85
石谷 政清(いしがや まさきよ、文亀3年(1503年) - 天正2年(1574年))は、戦国時代の武将。二階堂清長の子。
★ああああああ(@_@。(ー_ー)!!やっぱり。違いますね(ー_ー)!!
時間軸が合わない。はぁ〜〜〜(+_+)
でも、気になる事が一つ。?
球磨の「桑原家」は親戚にあります。(個人情報が・・こうなれば、親戚の皆様、ごめんなさい<m(__)m>許して下さい(@_@。ばあちゃんの先祖を調べる為です。<m(__)m>)でも桑原は宮原繋がりだったかな?平川繋がりだったかな??
球磨弁で「こげんありますもんね〜私は(@_@。すいません<m(__)m>」

という事で、上記のごとく「二階堂氏」では時間軸が合わない事を証明致しました。<m(__)m>
なんだこりゃ!?の合唱が聞こえて来たような?
ごめんなさい。(@_@。




[40]子孫よりさんからのコメント(2014年02月24日 08時28分45秒 ) パスワード

あああああああああああ〜(+_+)(@_@。(ー_ー)!!っと思った所で\(◎o◎)/!

どうも、もうお一方「二階堂行清」さんがいらっしゃいますよ?!
http://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E6%B8%85
二階堂行清 にかいどう-ゆききよ

1231−1277 鎌倉時代の武将。
寛喜(かんぎ)3年生まれ。二階堂行久の子。幕府の引付衆。将軍家の近習のひとり。建治(けんじ)元年三善政康,伊賀光政らと京都にいき,3年4月2日同地で死去。47歳。初名は行雄。

という事でもう一度日本の苗字七千傑様の《二階堂氏》姓氏類別大観 を見て行くと・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022c1.htm#004
あった!!ありました。!
二階堂行政 → 行盛 → 行秦 → 行佐 → 行清 \(^o^)/やった〜 うん?ううううん?
うううううん??\(◎o◎)/!あっ!! 「行親」!!
二階堂行政 → ま〜っすぐ進むと (ごめんなさい) 「行親」!!
( 一一)むむっ。こっこれは??
こうなれば二階堂行政。この方を調べます。(?_?)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E6%94%BF
二階堂 行政(にかいどう ゆきまさ、生没年不詳)は、鎌倉幕府の政所令・後に別当、十三人の合議制の一人。代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。後に鎌倉二階堂に屋敷を構えたことから二階堂の苗字を称した。
家系は藤原南家乙麿流で父は藤原行遠、母は源頼朝の外祖父で熱田大宮司・藤原季範の妹で、その関係から源頼朝に登用されたと見られている。
★母は源頼朝の外祖父で熱田大宮司・藤原季範の妹。あれっ!(?_?)

「尊卑分脈・二階堂系図」によれば維遠、維行が駿河守、維頼が遠江権守で代々従五位下。「続群書類従・工藤二階堂系図」では維遠、維行、維頼、行遠の4代が遠江守に任官したことになっているが、いずれも二階堂氏として家を興した後に作成された系図であろうことから割り引いて考える必要がある。ただし父・藤原行遠は保延年間(1135 - 1141年)に遠江国司を殺害して尾張国に流配されており、そのときに熱田大宮司・藤原季範の妹との間に行政が生まれている。藤原季範の父は『尊卑分脈』によれば三河国に住みながら尾張目代を務めており、当時の受領国司の子弟が、在地に勢力を張るという図式に当てはめれば、行政の祖父らは遠江・駿河などに留住してある程度の勢力を持っていたのかもしれない
★φ(..)メモメモ あれっ?!(?_?)

鎌倉での経歴[編集]

行政の『吾妻鏡』での初見は元暦元年(1184年)8月24日条であり、新造の公文所棟上げの奉行として三善康信とともに登場する。おそらくはこの少し前に鎌倉に下向し、頼朝に仕えたものと思われる。同年10月6日条の新造公文所の吉書始では、別当・大江広元(当時は中原)の元に寄人として列席している。

★φ(..)メモメモ あれっ?あれれ〜〜〜っ?三善康信? 球磨の古文献・文書にお名前が。だから、以前しらべました。\(◎o◎)/!
続けて・・あれっ?あれれ〜〜〜っ?同年10月6日条の新造公文所の吉書始では、別当・大江広元(当時は中原)の元に寄人として列席している。
永吉庄は預所が大江広元。地頭が平河(良峯)???
でも、あの時(調べていた時)二階堂という姓は無かったですよ〜??

文治5年(1189年)の奥州合戦では、『吾妻鏡』9月7日条の藤原泰衡の郎従・由利八郎を生虜った件での相論を奉行し、また、その翌日の9月8日条には、朝廷への奥州合戦の次第を報告するにあたってそれを行政が書いたことが記されている。五味文彦はこの奥州合戦の軍奉行は行政であったのだろうとする。

その翌年の建久元年(1190年)9月15日条の源頼朝の上洛では路次の事、貢金、その他全体の雑事を沙汰する諸事奉行人の筆頭に行政の名が見える。その他、この時期『吾妻鏡』に見える沙汰等に行政の名が多く見られ、『吾妻鏡』建久2年(1191年)1月15日条に政所では別当・大江広元に次ぐ政所令として「主計の允藤原朝臣行政」とある。その後の建久4年(1193年)、五位に叙され民部大夫と呼ばれるようになり、同年に政所別当が複数制になった時に別当に昇格した。

正治元年(1199年)4月12日条には頼朝の跡を継いだ源頼家が直に諸訴論に関与することを停止し、13人の重臣が合議して決定することになったとあるが、その中に民部大夫行政の名も入っており、大江広元、三善康信と並んで初期鎌倉政権を支えた実務官僚であったことが解る。

以前、永吉庄が平河が地頭になるまで三善と呼ばれていたので、「三善氏」を調べたのです。
先ほども書きましたがその時二階堂氏の姓は無かったですね〜???
やっぱり、関係ないのかな?それとも何らかの繋がり(親戚?一族?)があるのでしょうか?
しかし「行親」という名前もあったし?
偶然かもしれませんが、・・・不思議です?

[41]子孫よりさんからのコメント(2014年02月24日 08時38分56秒 ) パスワード

あの〜またまた追記です。
二階堂氏は相良氏と同族なのですね。
日本の苗字七千傑様の【藤原南家為憲流】姓氏類別大観に戻ってみて気が付きました。(@_@。

(ええええええっ?知らずにコメントしていたの?との声が!!)
こげんありますもんね。私。(@_@。
[42]子孫よりさんからのコメント(2014年02月24日 09時18分20秒 ) パスワード

またまたですが・・・
ありました!あったのです記述が。
漢文なので何て書いてあるのか全く解りませんが、
荘園制と武家社会 - 第 1 巻 - 74 ページ より
右子細去正応ニ年,備前々司入道殿御代官与平河三郎入道観蓮 1 ^等当庄内地頭名主職相論之時、郡連与行性引 ... 行連奉行之間相待扱之余被成非勘御下知之間、去永仁年中属于洒掃禅門道雄幷二階堂羽州方、道照等致越訴畢、其後愁越訴事皆以 ... この申状は同国球磨郡永吉庄の開発領主たる平河一族のもつ地頭,名主職を預所たる近衛中将実春のために押領さもつ政治的意義について今少し論じて・・
だいぶ省略されていますが、確かに「去永仁年中属于洒掃禅門道雄幷二階堂羽州方」と。二階堂と記述されています。
(でも何て書いてあるのかさっぱり??(@_@。)

こうなれば、もう一度、平河家文書を見直してみます<m(__)m>

[43]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年02月25日 01時01分32秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>漢文なので何て書いてあるのか全く解りませんが、
 
内容は鎌倉幕府政所執事、評定衆、引付頭人の二階堂氏の面々と荘園に関する紛争についての記述。
漢文理解も必要だが、当時の武家補任表と荘園制についての理解も重要。
下記書籍の閲覧か購入が最適だろう。
後は「姓氏類別大観」の二階堂氏系図と照合すれば良い。
 
中世史ハンドブック (1973年) [古書] 永原 慶二 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%8F%B2%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF-1973%E5%B9%B4-%E6%B0%B8%E5%8E%9F-%E6%85%B6%E4%BA%8C/dp/B000J9GSRG/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1393256277&sr=1-1&keywords=%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%8F%B2%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF
[44]白石さんからのコメント(2014年02月25日 05時18分21秒 ) パスワード

おはようございます
南部氏について 前に 他の人のコメント
笠井氏 の もの
91あたりにあり 北部王家ということばがあり、南北朝期になぞがあるように思っていました。

南部氏に関わって つながりがあるかどうかはともかく 津軽氏が出て、津軽氏に相良清兵衛は預けられた。

そこらあたりのことを 私は 母の法名・和徳(このことばには倭・大養徳・大和・和などに通ずる)から 手繰っていたことがあります。又 小笠原氏は 白石が 群書類従か 続群書類従かに 尻尾についていました。そして 小笠原は武田でもあり、武田等から 南部氏がでるようです。

91
※南部氏は「清和源氏義光流」
南部そのものは山梨からきた人であって、
加賀美遠光―小笠原長清―小笠原長経
加賀美遠光の子
・秋山光朝、★小笠原長清、★南部光行
・加賀美光経、・於曽経行、・大弐局
八戸氏=南部氏の一族=盛岡藩士。=源氏=根城南部氏=八戸南部氏=遠野南部氏
ここらは 子孫様のコメントにもありますね。

笠井氏は 葛西氏に通じていて、葛西氏の女子が高岡(隠岐高岡氏?)と婚姻していて 過去に 私の家のつながりにも (高岡・佐田・白石)東北の方につながる苗字があるなあ と 思っておりました。秋山はここらあたりの系図にあり、前に秋山さねゆき?など テレビでドラマになっていたと思っています。

この こめんとしておられた 笠井氏は三枝氏も 母方か?の系にもっておられました。

白石は 越智系の 河野氏や 日蓮も 前に出てきたことがあり、おそらく 高岡 白石 佐田の からまりから 繋がっていくのだろうと 私はおもっておりますが、 子孫様 

具体的に 人の名前にたどりついていかれる 力には 敬服いたします。私は ぼんやりと ああ ここにも かたまりがある ここにも としか たどりつけませんでした。

以下 笠井氏のコメントの抜粋です。
投稿番号:101275 投稿日:2012年03月07日 23時37分03秒  パスワード
 お名前:笠井
三枝家、笠井家などについて
キーワード:三枝 笠井
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

三枝家、笠井家などについて
 はじめまして、現在東京在住の笠井と申します。
母の実家(三枝家)は、以前、現在の香川県高松市内にありました(旧塩江町)。家の近くに平家の落人を祭った祠があり、伝え聞くところによれば、屋島の戦いで敗れた兵どもが山中に逃げてきたとのことで、・・・

子孫様のように うまく かけなくて 唐突ですが、良峯氏は秋田城司でもあった と 本で見たことがあり、昔には 平川・高岡・佐田・白石などは 近くにいて からまりながら あちこちに 動き 子孫を残しながら あちこちに おなじ 固まりをのこしているのだなあ と 思います。

それが 菊池の侍帳にのる 高岡・白石・平川・坂本の固まりにもなり、尾方・高田牧宰などのことばに あるのだろうと思います。

園田(薗田)は 相良氏族でもあり、前にコメントした又はメールしました人が 父に 改宗を勧めに一晩座り込んでいたという話。そこは天台宗だったこと書きました。


[45]子孫よりさんからのコメント(2014年02月25日 06時25分37秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
日本の苗字七千傑様、白石様ご教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様、早速本を買って読ませて頂きます。
日本の苗字七千傑様からのご教示で、方向が定まったお陰で、検索する言葉を変えて調べた事により、新たな情報が見つかってきました。
本当にありがとうございます。

白石様、秋田城司。橘(宮原の祖)は秋田城司でした。
先日調べた内容で橘薩摩と橘遠江は姻戚関係にある事も理解できました。

宮原と平川そして白石様の御関係(高岡・坂本)は全て関係している可能性が高いですね。とてもうれしく思います。

家の場合は良く考えたら、久米郷宮原を半分づつ「宮原」と「平川」で分けているような気がします。
両家とも、戦後の国の政策で、かなりの土地を手放していますから、その事が頭から抜けていました。
それから、家の親戚は緒方だけではなく「尾方」もあります。
赤星以外に黒木・那須・窪田・久保田・桑原・深松という親戚もあり、これら親戚を繋ぐものが鎌倉いえもっと先から何かあったのではと、考え始めてきました。(宮原・平川の繋がりはごちゃごちゃに記述しましたが・・<m(__)m>)

これからも、具体的に進める事ができるように頑張ります。(^・^)


[46]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年02月25日 21時10分09秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>先日調べた内容で橘薩摩と橘遠江は姻戚関係にある事も理解できました。
 
日蓮宗関連も調査の様ですが、宗祖日蓮大聖人の俗姓が貫名で遠江国山名郡貫名邑が祖先発祥地です。(城飼郡のお隣ですね)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm
井伊氏と同じ三国姓ですが、家紋は同じ橘紋です。
恐らく遠江橘氏と何らかの関係が有るものと思われます。
母系の大野氏に因み、鶴丸紋を寺紋として使用している寺も多く存在します。
[47]子孫よりさんからのコメント(2014年02月26日 01時30分14秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

祖母の平川を調べると何故か宮原(橘薩摩)に繋がってしまう理由が段々見えてきたような気がします。

鍵は遠江国だったのではと。

古文書・文献には 
肥後国球磨郡久米郷東方および西方に橘薩摩・橘遠江と表記されています。

あの・・・・・・
あの・・・・・・?? 初めて平河家文書以外の人名に「観蓮」という記述を見つけたのですが・・・??

このコメントを書きながら、橘薩摩についてもっと詳しく調べようとサイト検索のキーワードに「橘薩摩」と入力して調査していた所、橘薩摩余一公員という記述があり、「あっ!御先祖様\(^o^)/」と嬉しくなって、記述のあったサイトを表示したのですが・・
三浦氏 中世三浦半島に栄えた桓武天皇の末裔
http://www1.ka6.koalanet.ne.jp/souma/miurasoryo6.htm

このサイトを読んでいると「佐原氏」という記述が出てきました。
そう言えば去年の年末に球磨に帰る日、この「佐原氏」の記述をコメントしました。岩城(平川義高居城)跡の遺跡から、相良氏と佐原氏の米蔵?米貯蔵庫跡が見つかったと書いたと思います。
(心臓がちょっとドキドキしているので変な文章になっていたらすいません)

スクロールしていくと、
宝治元(1247)年12月29日京都大番役勤仕結番の表があります。
平河師貞以降は代々京都大番役を務めていたとの記述があるので見たのですが解りませんでした。

ではもっとスクロールしていくと
建長2(1250)年8月15日鶴岡八幡宮寺放生会随兵(『吾妻鏡』)
この中に宮原の先祖、橘薩摩余一公員とあります。

ここで、終わろうとしたのですが、何故かもっと下の記述が気になり・・
スクロールしていくと・・

建長8(1256)年11月23日時頼素願に従う者(『吾妻鏡』)

あの・・では転記します。

★結城一族 結城前大蔵権少輔朝広(信佛) 結城上野四郎左衛門尉時光 結城上野十郎朝村(蓮忍)

★三浦一族 三浦遠江守光盛 三浦介盛時(浄蓮) 三浦大夫判官時連(観蓮)

★二階堂一族 二階堂前筑前守行泰(行善) 二階堂前伊勢守行綱(行願) 二階堂信濃判官行忠(行一)

★★三浦大夫判官時連(観蓮)  あれっ?!

それに浄蓮。あれっ?!
なおかつ二階堂一族・・またまた あれっ?!

三浦一族?球磨に関係あるのかな?と検索すると
石井進著作集 - 第 4 巻 - 58 ページより

... あり、しかも同庄内の櫛田社縁起には「去弘安い肥前国神崎庄が、宗像社と同じ^かつての承久没収地として後高倉院に寄進され、宝治合戦による預所三浦泰村滅得宗領化に他ならなかった。 ... はずで、現に肥後国球磨御領では景資跡を北条氏一門の備前前司入道が拝領している例もある。 ... こうして六力国守護が北なく筑後国は時宗の弟宗政、肥後国は得宗が守護となり、ややおくれて大隅国も金沢氏一族の時直の手に入る。

三浦・北条・備前前司入道 などの記述が その他 三浦泰村 景資(この方誰だろう、又明日調べます<m(__)m>)

何だか三浦氏も球磨に関係しています。
というか・・観蓮という名前は備前前司入道と関係していました。

本当にあれっ?です。(?_?)
では<m(__)m>






[48]子孫よりさんからのコメント(2014年02月26日 06時39分51秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
というか、今日は仕事なのですがあまり寝ていません(+_+)

でも、橘遠江・二階堂氏・三浦一族・佐原氏 という突破口(かな?)が見えて来たので少しでも、何か調べなきゃと。

そこで、気が付いたのですが、
三浦一族 三浦遠江守光盛 三浦介盛時(浄蓮) 三浦大夫判官時連(観蓮)
と、平河の名前とは違うのですが、ただ浄蓮・観蓮というカッコ書きは共通で???と思いながらふと「蓮」という字で忘れていた事を思い出しました。

紀平次という名を調べていた時にこのような記述を東大フルテキストデータベース鎌倉遺文で見つけていたのですが・・・
(正応2年9月16日)公人等張本交名事下司若王兵衛紀平次左衛門入道左近入道蓮願□子息・・
★蓮願  そしてその子息の・・・どなた??

紀平次という名前は古文書・文献では今の所、二人しか残っていないのですよね?
まず一人目は、びゅ〜〜〜んと石を飛ばす八町礫の紀平次
そして二人目は  良峯師高子息 字平紀平次 こと平河師貞。

そして、時間軸から言うと、上記の文書は 正応2年9月16日(正応は1288年から1292年)

平河家文書が 弘安6年7月3日(弘安は1278年から1287年)

八町礫の紀平次とは150年近くも開きがあるから・・

紀平次左衛門入道左近入道蓮願 子息・・・
の 紀平次左衛門入道左近入道蓮願 とは 良峯師高子息 字平紀平次 こと平河師貞の可能性がある!?という事でしょうか?

今度は 蓮願 と 観蓮 の関係を調べて見たいと思います。

<m(__)m>


[49]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年02月26日 18時45分07秒 ) パスワード

みなさま、こんばんは。


>あのですね、球磨の地元でもカッパ様の伝説はあるのですよ。
それも、実家の前の井口川。やっぱり、橘と伝説のカッパ様も一緒に宮原の地に来られたのかな?

球磨郡の河童伝承ですか。
宇和郡の人達が球磨郡に来た可能性はあると思いますね。

日本歴史地名大系の宮原城の項目に

「…周辺の沼地には、城主の持馬が溺死したため池を埋め沼化した、という話が残る。」
と書かれていて、馬が溺死するという話は河童のイタズラの内容と似ていると感じたのを覚えてます。

よく河童はイタズラで、人や馬や家畜を池に引きずり込む話がありますから。
まあ、それが単に馬が溺死したという出来事を語っているだけかもしれないので推測の域を出ませんが。

八代市に伝わる河童渡来の伝承があり、球磨川を上り球磨郡に河童が住みついたというものがありますが
あれは、伝承の内容から考えて大陸からの渡来人が沢山きた事が伝説化したものではないかと思いますので

橘薩摩氏にある河童伝承とは別物とみています。


>それと、古代からの信仰ですが、もしかしたら、もしかしたらですが景教も関係しているのかな?と・・・
実は、家にも驚くべき場所(物)に、ある「しるし」があったので・・

信仰の話ですが、あれは物部氏族後裔の国造の間に
何か共有する信仰があったかの可能性の話なので

年代的に考えて、その時期かそれ以前において、ネストリウス派の関係はないと思います。

一部にある、秦氏が景教を日本に伝えていた云々という話に絡めて
無理やりに推論を重ねていったら、ネストリウス派を絡める事は可能だと思いますが

まあ、普通に無理がありすぎますので。


>そう言えば、全く関係ありませんが、家(宮原)は代々、何故か左利きです。??

私の父も元は左利きで矯正されて右手でも字が書けるようになったと聞いています。

私自身は少し珍しいと思いますが、先天的に手は右利きで、足は左利きです。
なので小中高生の頃などは、ボールを左足で蹴っていると「元は左利き?手は矯正されたの?」などと、よく聞かれました。

現在は、何かを蹴るという場面がないので、聞かれる機会はなくなりましたが・・・。



>橘(宮原の祖)は秋田城司でした。

橘氏が秋田城司(城介)だったのでしょうか・・・・?
なりたかったが結局なれなかったというのが正確ではないでしょうか。

角川日本地名大辞典に

「文治5年(1189)9月、源頼朝は秋田郡・小鹿島地頭職に関東御家人橘公業を補任する。公業は秋田城介の呼称を許されなかった関係からか小鹿島を苗字の地として両郡を管轄し、この年の暮れから、翌年にかけての大河兼任の乱に直面、その後も地頭として臨んでいる。」

とあります。宇和郡の橘氏が出羽国に所領を持っているのは海上交通の要所が狙いでしょう。
秋田郡・男鹿郡の歴史を調べると、少なくとも京や肥前、蝦夷・沿海州などの北方交易ルートも見えます。

北方交易に関しては、奥州藤原氏の財の淵源とも無関係ではないと思います。


引用します。この国のすがたと歴史 網野善彦・森浩一著

「男鹿島(男鹿半島、八郎潟)に小鹿島という名字を持っている有名な御家人の橘氏がいるのですが、この人の本拠は伊予の宇和郡でそこに所領を持っていたのです。ところが西園寺公経がどうしても伊予の宇和郡が欲しいといい出すのです。幕府も橘氏にはなんの罪もないから没収もできないのですが、西園寺公経は頼朝とも深い関係のある公卿で、幕府がくれないならば、鎌倉へ自分で出かけていって頼みにいくというわけです。そこで幕府もやむなく橘氏の伊予の所領を没収して西園寺氏に与え、橘氏はそのかわりに肥前国長島荘をもらうことになったのです。(中略)
 こうした各地の所領について、これまでその関連、結びつきについてほとんど考えていなかったのですが、伊予の所領にこだわる橘氏が海の交通に深い関心を持っていることは間違いありません。すると肥前と出羽のつながりも、最初からそれなりの計算があって意識的にもらっている可能性が当然あります。実際、男鹿半島から肥前の石鍋が出てくるようで、海上の道では肥前と出羽は結びついていますし、この時代の地頭・御家人は、少なくとも十四世紀までは一族意識を持っているのです。だから出羽・肥前・伊予の橘氏の一族の間には連絡があったことは間違いありません。」

この中では南部氏や伊東氏にも言及されていましたが省略しました。

宇和郡没収については、吾妻鏡の嘉禎二年の条にあります。
大体の書き下し文を書いておきます。ミスがあったらすみません。

「廿二日 己酉 伊予国宇和郡の事、薩摩守公業法師が領掌を止め、常盤井入道大政大臣(西園寺公経)の領に付せられるところなり。これ年來かの禅閣(西園寺公経)これを望み申されるといえども、公業が先祖代々知行す。就中に遠江掾遠保勅定を承り、当国の賊徒純友を討ち取りてより以来当郡に居住し、子孫に相続せしむること年久し。咎なくして召し放さるべからざるの由、しきりにもって愁嘆す。御沙汰はなはだ是非を顕しがたし。左右なく仰せ切られずとなすのところ、去ぬる比、禅閣の御教状重ねて参着す。この所望事行かずんば、老後の眉目を失うに似たり。今においては、わざと下向せしめ所存を申さるべきの趣、これを載せられる。御下向かの条、かえって事の煩いたるべきの旨、今日かの家司、号は陸奥入道理繆が許に仰せ遣はさると云々。」


西園寺氏も橘氏同様の野心を持っていたため奪ったのでしょう。

西園寺氏については「公」を通字にしてるところが橘氏と共通しています。あと、西園寺氏に直接関係するかは分かりませんが
橘公業の妻に藤原氏女もいる事から考えて、西園寺氏とは宇和郡没収以前から少なくとも並々ならぬ関係にあったと思います。

橘公業と藤原氏女との間の子供として確実に分かっているのは「薬上(くすのうわ)」という女子です。公員らの姉になるでしょうか。

吾妻鏡にみえる公業の十子 公義と十一子で嫡子の公員の母親が藤原氏女かは不明です。別人の可能性もあります。ただ、二子の活躍から考えて母方の家格は高かった事は言えるでしょう。
[50]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年02月26日 18時55分12秒 ) パスワード

追記ではないですが、ネストリウス派から
以前のコメントを思い出したので連投のコメントをします。

ご覧になっているかは分かりませんが、人吉宮原家様に対する質問になります。
確か、宮原公忠は隠れキリシタンだったと書かれていたと思います。

あれは、宮原公忠が隠れキリシタンだったという史料がどこかにあるという事なのでしょうか。

ご紹介されていた浜崎献作氏の著書「隠れキリシタン信仰の証 石の叫び」は、あいにくこちらの地方のどの図書館にも蔵書がないため
現在のところ、読む事は叶わない状況なのですが、タイトルから察するに、石碑などに刻まれた隠れキリシタンの証と思しき物について書かれていると推察します。

宮原公忠と石碑で思い当たるものとしては
八代市にある明言院という寺院にある橘公忠(宮原公忠)の逆修牌があります。

もしもですが、隠れキリシタンであるとの根拠の中に下記の逆修牌があるとしたら疑問点があるのです。

http://hyakkaido.travel.coocan.jp/IMGP0639tatibanakoutyunogyakusyuhi.jpg  ←この逆修牌です。

この将棋の駒のような形をしている逆修牌に「卍」が刻まれているのが見えます。
この「卍」を見ようによっては十字架をカムフラージュしたものとも見えますが

建てられた経緯を調べてみると

http://daigo.ne.jp/temple_new/?jiseki_id=100727&page=2

に「1546年、宮原城々代、橘公忠がこの寺にこもり、法華経の一千巻を百遍も読破した記念に建てた逆修牌があります。」とあります。

もし「卍」が十字架のカムフラージュだとしたら、不自然なのです。

キリスト教が日本に伝来したのは、一般に1549年からだったと記憶しています。
キリスト教伝来以前の1546年に、寺に籠り法華経の一千巻を百遍読破するような傍から見ても仏教に信心深いエピソードを持つ人物が

己が隠れキリシタンだという事を石に刻む事があるのでしょうか。

他に、法名にある「摩利支天(まりしてん)」の字から隠れキリシタンを疑う線があると思います。
ですが、摩利支天自体は楠木正成を初め、戦国期でしたら前田利家や毛利元就などなど武士の間ではポピュラーな神です。

少なくとも摩利支天と名がつくという事を以って、それがそのまま隠れキリシタンである証拠にはならないと思います。

もしも、先ほどの逆修牌以外に宮原公忠について、隠れキリシタンだった事を示す史料があれば
隠れキリシタンだったという話にも頷けるのですが、いかがでしょうか。
[51]子孫よりさんからのコメント(2014年02月26日 22時41分08秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
公忠公の末裔様、ご教示ありがとうございます。

まず、川のカッパ様ですが、岡原ではカッパとは言いません。
嘘かと思われるかも知れませんが、言い伝えがあるので、その言葉を書くのもちょっと気が引けるので●●ん太郎様と言います。

もしかしたら、橘薩摩が移動した所では同じ言葉が残っているのでは?と思いますが。

肥前、蝦夷・沿海州などの北方交易ルート
ルートもそうですが、その為の船の造船技術も重要ですよね。
先日壇ノ浦の戦いの記述を読んでいて、あらためて驚いたのですが、関門海峡上に、源氏方船数830艘(3000艘とも言われている)平家方船数500艘 (1000艘とも言われている)大型の唐船もあったとの事です。
交易をおこなう為の船ともなれば、当時の技術力は想像以上に高かったと考えられますよね。そういj技術も受け継がれていたのではないでしょうか?

「この時代の地頭・御家人は、少なくとも十四世紀までは一族意識を持っているのです。」
今からは考えられない一族意識だと思います。例えば、200年前の先祖が兄弟だったとか。
私も、公忠公の末裔様には一族意識を持っていますよ(^・^)

隠れキリシタンというより、もっと先からの話ではないのかな?と私は感じています。
大事な一族の公忠公の末裔様へ明日、同じ宮原でどう感じられるか、ある情報を送りますね。(^・^)
ヒントは「カムフラージュはしていない」です。(謎々みたいですね(^・^))
母方の流れを教えて頂きありがとうございます。
当時の女性は殆どが○○の女という表記か○○の室という書かれ方が多いですよね。それを読むといつも、「本当は何と言う名前だったのかな?」と思ってしまいます。何だろう同じ女性として悲しいなと。ちゃんと名前で呼んで!という感じですね。

それと!そうですよね
遠江掾遠保 橘遠保は遠江掾だったのですよね。

祖母の平河(平川)とは遠江の時代から何らかの繋がりがあったのだと思っています。

このサイトは「平家物語を熱く語る」なので、記述を出来ればさし控えようかな?と思う宮原の先祖、橘公長についてですが・・

ウィキを読んでいて実はずっと気になっていた記述があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%85%AC%E9%95%B7
公長は源家への恩を忘れず、縁者を訪ねて遠江国に下向し、・・

遠江国の縁者とはいったい何方?なのかと・・

この部分が理解出来たら、もっと調査が進展するのかも?と。

平河の調査がかなり難航していて、宮原の事が、後回しになりがちなのですが、公忠公の末裔様のお陰で、知らなかった宮原の情報を理解する事が出来て本当に感謝しています。
ありがとうございます。

今日は、こちら北九州小倉は大嵐です。台風の時より風が激しくふいています。
職場をでておよそ1分で、傘が壊れてしまいました。
前進ずぶぬれで帰って参りました。(@_@。

皆様も、お身体お気を付け下さい。<m(__)m>



[52]子孫よりさんからのコメント(2014年02月26日 22時50分48秒 ) パスワード

追記
前進って・・・(+_+) 全身ですね。おっちょこちょいです。すいません。

あっ、それから、やはり?お父様も左ききですか・・?
公忠公の末裔様は左足きき?なのですね(^・^)
私も左利きですが、右手も使えます。

あっ?先祖に両手が上手に使える人がいたのかも?
でも、基本は左利きのような・・そういう人がいた可能性がありますね。(^・^)
そして、なおかつ、へんちく・・・
あっ、この事は「言わんとこ」(北九州弁でございました)(^・^)

[53]子孫よりさんからのコメント(2014年02月27日 01時39分09秒 ) パスワード

皆様、右子細去正応ニ年,備前々司入道殿御代官与平河三郎入道観蓮

この記述に出て来る「備前々司入道」とは
名越朝時(北条朝時)の子供 北条時長です。(見つけました\(^o^)/)

まずは
名越朝時(北条朝時)ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E6%99%82
北条 朝時(ほうじょう ともとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の次男。名越流北条氏の祖。母は正室の姫の前。祖父・北条時政の屋敷であった名越邸を継承した事により、名越次郎朝時とも呼ばれる。

★おやっ?北条重時 (平河宮内左衛門入道観覚 )の兄弟ですね。(゜-゜)

では続けて
北条時長 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E9%95%B7
北条 時長(ほうじょう ときなが)は、鎌倉時代中期の武将、北条氏の一門。名越流・北条朝時の三男。母は大友能直の娘。

通称は遠江三郎といい、父朝時が遠江守であったことに由来する通称であった。仁治、寛元年間(1240年 - 1246年)備前守の任にあり、この期間、史料では備前守、備前前司と呼ばれていた。

★やった〜\(^o^)/備前前司です!
おややっ?通称は遠江三郎といい、父朝時が遠江守であったことに由来。
★あんにゃ〜〜?(変な声がでました( 一一))妻が 三浦義村の娘
★三浦氏に繋がっていますよ!(゜-゜)

まず、頭の中を整理します。

@平河宮内左衛門入道観覚(北条重時)の甥は 平河又三郎師里

A備前々司入道殿御代官与平河三郎入道観蓮 の備前々司入道は 北条時長

B平河宮内左衛門入道観覚(北条重時)の甥は 備前々司入道(北条時長)

C北条時長の妻は 三浦義村の娘

D三浦大夫判官時連(観蓮)の記述あり

E平河三郎入道観蓮 は 平河良貞・・・となる訳です。

★備前々司入道殿御代官与・・・この「与」とはどういう意味かな>

っと!なりました。<m(__)m>

[54]子孫よりさんからのコメント(2014年02月28日 23時53分48秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
一つの名前「観蓮」にこだわると前に進まないので、もっと他の名前を探さなきゃと!頭を切り替える事にしました。

北条時宗の時代 - 80 ページ より
日向国一がこの球磨郡の預所地頭両職を兼带していく。日向国一がこの球磨郡の預所地頭両職を兼带していく。「備前々司入道殿御代官行性」なるものであった。この「備前々司入道殿」は大仏流北条朝直の子朝房であり、最終的には北条氏の係争地となったのが「同国球磨郡永吉庄内中神.播瀬両村」の地頭名 ...

なんだろうな?ここでは「備前々司入道殿」は大仏流北条朝直の子朝房。
名前が違う?先日見た記述では備前々司入道は 北条時長。??

もう、ここで??となっていたら前に進まないので(えらくいい加減だな?と言わないで下さいね)それより何より何だか気になるのは「行性」。そう言えば、「郡連与行性引」との記述もありましたよ( 一一)??
「行性」とは??

やっぱり、気になるので検索します。<m(__)m>
知久左衛門入道行性入道 という方の名前が出て参りました。
「知久」? もっと調べると・・
知久左衛門入道行性は即ち知久敦幸である(Shimoina shi - 第 5 巻 - 80 ページより)
マタマタ、新しいお名前が知久敦幸。平河文書の「行性」と知久敦幸が同一人物かどうかは解りませんが・・・
「知久氏」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E4%B9%85%E6%B0%8F
知久氏(ちくし)とは、信濃国上伊那郡(現・長野県上伊那郡箕輪町)知久沢を発祥とする武家の氏族。
『寛政重修諸家譜』には清和源氏満快流と記されているが、諏訪氏(金刺氏)と同祖となる他田氏(金刺舎人直金弓の子他田目古=他田直の系統)の末裔とする説もある。

知久姓の初見は、諏訪氏系図にある平安末期から鎌倉初期の諏訪大社大祝諏訪敦光(篤光)の子敦俊が知久沢に住み、「知久十郎左衛門尉」と記載されたことによるが、敦俊の養子となった知久信貞(知久右衛門五郎)が知久家系図上の初代となる。

清和源氏満快流とする説では、信貞は中津頼継の子で中津氏は満快の曾孫である為公の子の為衡(中津乗太郎)を祖としている事による。一方他田氏の末とする説では、信貞は中津頼継の猶子(被後見人ぐらいの意味)で実父は他田信隆(源義家に属して奥州合戦に参陣した記録が残る他田太郎重常の末裔)としている。

★諏訪氏(金刺氏)と同祖となる他田氏
あれっ!?金刺氏です。他田氏? 調べてみます。φ(..)メモメモ
他田氏 ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E7%94%B0%E6%B0%8F
他田氏(おさだし)とは、日本の氏族のひとつで、神武天皇の皇子神八井耳命を祖とする多氏に属する古代氏族とされる。

あ〜!!やった!遂に「多氏」登場です
日本の苗字七千傑様の【金刺氏】姓氏類別大観を見て確認しました!
もし、平河文書の「行性」と知久敦幸が同一人であれば、やっと多氏がこれで登場したと言う事になります。

でも、平河との関係はどうなっているのでしょうか?
ここ数日間の調査を整理すると・・
平河・知久氏・他田氏・二階堂氏・北条氏・佐原氏(三浦氏)・南部氏・大野氏・橘遠江
どういう繋がりなのかな?と。

うううんまだ、行連奉行之間相待扱之余被成非勘御下知之間の「行蓮」?「行連」?。この方の事を調べていませんでした。

よ〜し!がんばるぞ〜!!\(^o^)/
では<m(__)m>(^・^)







[55]子孫よりさんからのコメント(2014年03月01日 08時29分26秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

初めに<m(__)m>
私は、歴史の事は全く解っていません。人の名前も憶えきれない。(前にもお伝えしましたが、知っていたのは平清盛・聖徳太子・源頼朝・・他数名の方々だけです(+_+))自分の家(宮原)は先祖は橘と小さい頃から聞いていても、つい最近まで???でした。親戚の名前もすぐに忘れる。(+_+)こんな私ですから、祖母も平川のじいちゃんも親戚も、色々子供の頃から何かしら教えてくれていたのでしょうが、多分頭の中から(ToT)/~~~と消えていたのかも知れません。私の頭に入って残ったのはコンピュータ言語くらいです。
( 一一)・・だから変わり者と言われるのかな?それはさておき・・
じゃあ何をもって先祖の調査をここまで行って来たのか?
大半は、妙な感。あれっ?気になる!?というあの妙な感です。
そして、その私が突然気になり始めた事に、皆様から、本当に御親切に丁寧にご教示を頂いて参りました。本当にありがとうございます。
その感は、何故か、平氏・源氏といった括りを問わず、いろいろ調べさせ、私をグルグル迷路に引き込む事もありました。
最初に、お話したように、歴史も名前も解っていない私ですが、気になる記述は何故かしつこく?頭に残っていきました。

その私の妙な感が導いてきたStage1に(ゲームじゃない(ー_ー)!!)、どうも到達したのではないか?と思います。
多分、その妙な感は、今から御説明する内容を理解させる為に、私に歴史の流れを教えてくれていたのかな?と。
ただし、まだまだStage1→Stage2→Stage3はありそうなのですが・・

では次のコメントで到達したのは何か?を御説明致します<m(__)m>
[56]子孫よりさんからのコメント(2014年03月01日 12時18分52秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様より頂いたご教示で頭の中を切り替える事が出来るようになり、先週から「日蓮大聖人」「貫名氏」「三位房」「二階堂氏」「南部氏」「佐原氏・三浦氏」(厳密にいうと球磨に関係していたのは「新宮氏」ですね)「備前々司入道(北条時長)」そして多氏と、色々な流れを勉強して参りました。

後ほど見て頂く記述を、より解り易くする為に以下をまとめました。<m(__)m>

@「三位房」・・荒田寺座主であり平河氏一族との記述から、
清原政清と曾谷教信(二階堂氏)土岐光行と富木常忍に関係している事がわかりました。土岐光行の子供は土岐光定。正室は北条貞時の娘です。
A「二階堂氏」・・行親の記述を見つける事ができました。
B「三浦氏」・・・三浦大夫判官時連(観蓮)とういう何故か「観蓮」という名前が偶然なのか?記述されていました。
C「備前々司入道(北条時長)」の妻は三浦義村の娘でした。

D上記の他に今週は公忠公の末裔様からもご教示を頂き、景教・ネストリウス派・隠れキリシタンと話が進み、私は、以前コメントした足利氏から出た「宮原氏」に繋がっている「真里谷氏」の事を思い出していました。(この姓は何故か頭の中から離れないのです?)

Eそして、今週、記述したコメントに「右子細去正応ニ年,備前々司入道殿御代官与平河三郎入道観蓮」がありこの「右子細去」(平河家文書では6月16日となっていました)から平河が関係しているのであろうと推測しかなり怖くなってしまったあの事件(頼朝の命を受けた天野遠景によって一条忠頼が暗殺された。)が脳裏をよぎりました。(@_@。

F今週調べた内容とは全く繋がりませんが、かねてから私が疑問に思い、皆様に「何故でしょう?興味があります。」とお伝えしてきた★江戸城はもともと平河城と呼んでいた。この事も頭の隅に入れて置いて下さいね。<m(__)m>

G平河が居城した球磨の岩城跡には「相良氏」と「新宮氏」の米貯蔵施設があった。

では、長いなが〜い先祖探しの中でここまでかかってやっと見つけた最初のStage1です。(まだまだtageは続きそうですが(+_+))

今から、御紹介するサイトの記述を上からゆっくりゆ〜っくりスクロールしながら、必ず一番下まで見て下さい。
特に三浦義村の記述および佐原盛連の妻、矢部禅尼の記述はじっくり読んで下さいね<m(__)m>(^・^)

http://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e4%b8%89%e6%b5%a6%e6%b0%8f

いかがでしたでしょうか?
三浦義村 室:(父:一条忠頼)★上記参照 E
     娘:矢部禅尼(執権 北条泰時および佐原盛連室)
     娘:(隠岐守 土岐光定室)★上記参照 @
     娘:(毛利季光室)
     娘:(千葉秀胤室)
他に、上記Cの「備前々司入道(北条時長)」の妻は三浦義村の娘という記述もありました。φ(..)メモメモ

そして
矢部禅尼(父:三浦介 三浦義村)は
     子: 蘆名光盛(蘆名氏へ) 三浦盛時  新宮時連
★蘆名氏(会津蘆名氏) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%86%E5%90%8D%E6%B0%8F

三浦義明の七男・佐原義連を初代とするが、蘆名姓を名乗るのは、義連の孫に当たる光盛の代になってからである(異説あり)[要出典]。 室町時代には京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称していた。
盛氏の死後、二階堂氏からの人質の二階堂盛義の子が婿養子として後を継いだ。蘆名盛隆である ★ここで二階堂氏が登場です。

では二階堂盛義 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E7%9B%9B%E7%BE%A9
二階堂 盛義(にかいどう もりよし、天文13年(1544年)? - 天正9年8月26日(1581年9月23日))は、戦国時代の武将で、須賀川二階堂氏の当主。二階堂照行(輝行)の嫡男。別名、行盛(ゆきもり、父と「行」の字が共通していることから初名の可能性が高い)。信濃守。
蘆名氏の当主である蘆名盛隆の実父。盛隆の他に二階堂行親、行久(ゆきひさ)、行栄、岩城御前(岩城常隆後に伊達成実継室)などの子がいたとされる(行久と行栄については「須賀川市史」などで存在を指摘しているが不明な点も多い)。室は伊達晴宗の娘の阿南(おなみ)姫。
★\(^o^)/二階堂行親 「行親」さん登場で〜す ★箇条書き項目のAですね(^・^)

そして!!矢部禅尼の子供 新宮時連 が
三浦大夫判官時連(観蓮) ・・箇条書き項目のBです(^・^) 
新宮時連 新宮氏・・ 箇条書き項目のGです。 

新宮時連(観蓮)と平河良貞(観蓮) 名前が違いますが皆様はどうお考えになりますか?

そして、ご覧頂けましたでしょうか、先ほどのサイトの一番下に、
三浦義同・・・娘(武蔵江戸城主 太田資康室) 箇条書き項目F

三浦義意・・・正室:(父:真里谷信勝)箇条書き項目D

\(^o^)/@〜G 全部クリアしました( 一一)(ゲームじゃない(ー_ー)!!)

み〜んな〜で手を繋ごう♪\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/
おっと(ー_ー)!!) 
こんな事をしてはいられません<m(__)m>

実はまだまだあるのです。
ここまでのお話・・・途中から 南部氏に繋がっているのです\(◎o◎)/!

もう一度こちらのサイトをご覧ください。そして、佐原義連の正室:(父:甲斐守護 武田信光)の「武田信光」という名前をクリックして下さい。
http://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e4%b8%89%e6%b5%a6%e6%b0%8f


\(◎o◎)/!おわかり頂けましたでしょうか?
武田信光の父 武田信義 と 加賀美遠光 は兄弟です。
すなわち 武田信光と秋山光朝 小笠原長清 南部光行 は従兄です。\(^o^)/

そして、秋山光朝の妻は・・(父:平重盛) ああああ!!繋がった!

やった〜♪\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/

(ー_ー)!! がっしかし!!ここまで繋がっても、何処にも「平河」とは出てきませんよ( 一一) <(`^´)>

あっ(゜-゜)そうか江戸城は 平河城。

でも、これだけです。(@_@。

三位房も行親さんも観蓮さんも新宮氏も、みんな平河と繋がっているのに何処にも「平河」の姓が出てきません(@_@。

まだ、Stage1クリア\(^o^)/じゃないのかな?(@_@。

長々となりましたが、申し訳ありませんでした<m(__)m>










[57]子孫よりさんからのコメント(2014年03月01日 23時01分37秒 ) パスワード

皆様、こんばんは。

皆様、とんでもない記述を見つけてしまいました。(>_<)

これは、ある2通の手紙についての研究です。(文字化けしています。すいません)

南北朝時代の武家文書 - 159 ページ より
これは原本研究に徹底してのみいえる結門尉長時」と「平河三郎左衛門尉師頼」とがちがうだけで、それ以外はまったく同文であるだけではなく、筆鎮.料をとりあげ、現在は東京と熊本県球磨という遠隔の地にはなれてしまった二通の文書は、言上主体の「「相良三郎左衛まず、相良家文書の永和元年十月十六曰相良長時軍忠状と、永池文書の同じく永和元年十月十六曰平河師頼軍忠状る-という。実に的確な ...

★要は、筆跡が同じで内容も同文なのに差出人が違う(相良三郎左衛門尉長時と平河三郎左衛門尉師頼)

という事ですね。

もう(>_<) またまた、先祖様、謎を発見させて・・・(@_@。

はぁ〜(+_+)

うん?でも、そう言えば、相良氏と平河は当時婚姻関係を結んでいましたよ?
相良氏から平河に嫁いでこられた方が阿夜という方だったですね。?

その阿夜さんの子供が平河師瀬だったような?

もう、昔の方は名前を色々名乗られるから、よく解りません(@_@。



[58]子孫よりさんからのコメント(2014年03月02日 00時34分18秒 ) パスワード

マタマタ、登場です。

昼にコメントした事(新宮氏と平河の繋がり?)に関して、東京大学フルテキストデータベースで、次のような記述を見つけました。

文和2年10月19日
幕府、祇園社執行顕詮の訴により、細川繁氏をして、新宮三位房の祇園社領讃岐西大野郷、及び同国萱原神田を濫妨するを停めしむ、

★新宮三位房が濫妨?と記述されているようです。

でも、何より 表記が 「新宮三位房」となっています。

平河の一族である三位房でしょうか?

讃岐の大野郷です。

でも、やっぱり、新宮と繋がっていると言う事でしょうか?

漢文が解らないので、GIFファイルに変換してブログにアップ致しました。

ご覧になって下さい。<m(__)m>
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11785101685.html

こういう方法があるのですよね。
コピーでコメントに貼りつけることが出来ない記述は、今後ブログにアップいたします。<m(__)m>
[59]子孫よりさんからのコメント(2014年03月02日 07時40分25秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

三位房は平河一族との明記された記述が残っているからには、ここしか、突破口はやはりないのかな?と痛感しています。

そこで、今朝は、三位房について関係性の高い、土岐氏を調べようと、日本の苗字七千傑様の《土岐氏》姓氏類別大観から《土岐氏光定流》へ移動して、じ〜っと画面を見つめていた所・・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01004c1.htm#001

あっ!と。気が付きました。「井口氏」です。

偶然かも知れませんが、祖母の実家(平川)の横を流れているのは「井口川」。

ううん?先日、井口川の由来を調べたのですが、何も出て来なかったのですけど、でも、確かに《土岐氏光定流》には「井口氏」があります。
(やっぱり偶然なのかな?)

そして、コメント54で後で調べます(^O^)/とお伝えしていた「行連」という名前ですが、日本の苗字七千傑様の《二階堂氏行村流》姓氏類別大観 をこれまたじ〜っと見ていたら、同じ名前の方を見つけました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm

壊島行連となるのでしょうか?
ううん?あっ!今、転記していて気が付いたのですが!
先日挙げた親戚の名前に書かなかった(忘れていたので、また今度にしょう(-_-)と思っていました)と同じ姓が!
「白川」です。うう〜ん(?_?)やっぱり偶然かな?

もしかしたら、偶然が重なって頭が混乱しているのかも?
でも、偶然って、こんなに重なるものなのでしょうか?
・・・不思議です。?



[60]子孫よりさんからのコメント(2014年03月02日 10時09分36秒 ) パスワード

( 一一) ありゃりゃと。また登場です。

先日お話をした紀平次と記述があったお話ですが、一生懸命漢文を解読していた所、これは、どうも悪い事をした人の名簿?のようですね( 一一)
結構がんばって転記しました。

正応2年9月16日)
「古川庄張本交名案事」 正応二年九月 十六日 打擲蹂躙神人公人等張本交名事下司若王兵衛紀平次左衛門入道左近入道蓮願□子息源次三郎左衛門入道西村六郎明主次郎縁然庄司男倉入道定仏紀七男藤平男幡磨男□後男追補使□介常陸男随

それに蓮願は別の方の名前のようです。<m(__)m>
良峯師高子息 字平紀平次 こと平河師貞という記録は残っているので、紀平次と見て?と思ったのですが、良く考えたら、寛喜(1231年頃)の戦の時には師高はかなりの高齢(十分70歳は超えていた)との事で、という事はその子息の師貞が正応2年(1289年)で歳は・・?
・・・???無理があるようでございます(゜-゜)

でも、この紀平次は誰なのかな?

(ー_ー)!!ここで止まってはまだまだ先ににいけなくなるので、他の調査を始めます。<m(__)m>
[61]子孫よりさんからのコメント(2014年03月02日 19時22分25秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
ちょっと筆休めではなく、キーボード休めのお話を。

日曜日なので、いつものように父は元気かな(^・^)と思いながら、実家に電話をかけました。

電話に出た父は、今日、家の集落?そうです(侍村)の皆さんと、年度最後という事で寄り合いがあって、飲み会が行われ、ほろ酔い気分(かなり酔っているような?)で話しをしていました。

そこで、私はこの頃の調査の事を父に簡単に話したのですが、すると父から
「な〜んか!ま〜だ、そげん新しかところば調べよっと?その辺の所はお父さんはいっちょん興味はなか(ー_ー)!!だ〜いた〜いワカッとるとやっで。お父さんはそげんこの頃の話じゃなくて、も〜っと昔の球磨の話ば、お前が調べてくれよっと思って楽しみにしとったとに。(ー_ー)!!お父さんはインターネットばしよらんけん、お前が、インターネットば使って、も〜っと情報ば調べてくれよると思って、本当に楽しみにしとるとに。な〜んか<(`^´)>。あっ!そうそう、湯前で大規模な古代遺跡や古墳が見つかったとよ。琉球大学の先生が調査しよんなるとバッテン、最新情報はインターネットでは出とらんね?」

通訳します。<m(__)m>
「なんだ!まだそんなに新しい時代を調べているのか?その辺の時代はお父さんは、全く興味がない。(ー_ー)!!だいたい解っているのだから。お父さんはもっと古代の球磨の話をお前が調査してくれていると思って楽しみにしていたのに。(-_-)/~~~ピシー!ピシー!なんだそれは!<(`^´)>。お父さんはインターネットをやっていないから、お前が沢山の情報を見つけてくれていると思って、楽しみにしているのだぞ!。湯前に大規模な古代遺跡や古墳が見つかって、琉球大学の先生が調査されているけど、最新情報はインターネットでは出ていないか?」

全く(>_<)
父にとっては鎌倉時代の話はつい最近の事のようです。(?_?)
それに、だいたい解っているとは・・なんじゃそりゃ?( 一一)(@_@。
確かに、父は歴史に関する本は沢山持っていますし、古代の事は、それはそれは、ものすごく興味があり、そういう書籍も沢山読んでいるようです。
父は、インターネットを使って、そういう時代の調査、最新情報が知りたいようです。(@_@)

正月でも、ここまでレロレロに酔ってはいなかったので、多分、今日は父の本音が聞けたのだと思うのですが。

はぁ〜(ため息)
なんでだろうな〜(+_+)

でも、私はわたしで、しっかり調査は継続します。<m(__)m>

[62]子孫よりさんからのコメント(2014年03月04日 10時39分06秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

本日は年度替わりで、有休が沢山残ってしまったので、消化の休みでございます。<m(__)m>

この数日間、遠江の国や二階堂氏・三浦氏・蘆名氏・工藤氏などを調べていたのですが・・

あの・・
平河を調べていたはずなのですが、関連して出て来る記述は、私、そうです「宮原(橘)」の先祖に関するものばかり。
というか、三浦氏と「宮原」の先祖は、かなり近しくさせて頂いていた事がよ〜く解りました。

<m(__)m> こちらのスレッドは「平家物語を熱く語る」。ですから、今から私が書くコメントに不愉快な気分になられる方もいらっしゃるかと思いますが、どうか、ご勘弁頂きたいと。お願いします<m(__)m>

そもそも、歴史が解っていない私が、なぜ、三浦一族について調べる事になったのか?と言うと、先日コメントしたように「橘薩摩」を調査している時に偶然見つけた「余一公員」の名が三浦一族関連のサイトに記述されていたからです。(ワーイ御先祖様だ\(^o^)/)とこうなった訳です。

そこから、観蓮という名前を見つけて・・・・
でっ!その後、三浦氏を調べると、平河という記述は全く出て来ないのですが、そのかわりに、橘それも先祖関連の話が出て来る出て来る・・
今まで、知らなかった事を沢山理解することが出来ました。

先日、橘公長が頼った遠江の縁者は誰?という話をしましたが、三浦氏関連のページの中にこう言う記述がありました<m(__)m>

治承四年十二月小の月 (その2)
http://cubeaki.dip.jp/azuma/azuma-1/azuma1-12-2.html
記述の中に「同郷、同僚のよしみで、加々美次郎長清の支配下になり、」とあります。ウィキには確かに同僚とは書かれていましたが、「同郷」とは知りませんでした。
信頼のある絆があったのだと思います。

続けてφ(..)メモメモ
治承四年(1180年)十二月小の月二十日、戊戌(つちのえいぬ)。新築の屋敷にて三浦介義澄が大宴会を開催しました。宴の後、新設の弓場で、初めて弓を射る儀式がありました。このことは特にその予定などはなかったのですが、右馬允橘公長の二人の息子が、ことのほか弓の腕に優れていると聞いていたから、その腕前を見てみたいと、酒宴の余興に言い出されたとか云々。

★大宴会の席ですね。宴会は先祖代々、大好きのようで・・<m(__)m>

続けて・・・
  射手

   一番
      下河原庄司行平    愛甲三郎季隆

   二番
      橘太  公忠      橘次  公成

   三番
      和田太郎義盛     工藤小二郎行光

今日、初めての外出する儀式があり、藤九郎盛長の甘縄の家にお入りになり、盛長は引き出物として馬を一匹献上し、佐々木三郎盛綱がこの馬を引いたとか云々。

あの・・・・愛甲という親戚が・・・(いっぱい忘れていました。(@_@。)

下河原庄司行平は ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E8%A1%8C%E5%B9%B3
下河辺 行平(しもこうべ ゆきひら)は、 平安時代末期(1180年頃)から鎌倉時代初期の武将。源頼朝の近臣で鎌倉幕府の御家人。父は下河辺行義。
下河辺氏は藤原秀郷の子孫である下野小山氏の一門である。下河辺行義のころ、源頼政の支援のもとに下河辺荘が成立して、嫡流の小山氏から自立した勢力となった。頼政敗死以後、行平は源頼朝の信頼を得ることで、引き続き下河辺荘を維持した。
行平は下河辺荘の荘司であった。下河辺荘は、かつての渡良瀬川下流にあたる太日川と旧利根川(現在の江戸川と中川)に沿って広がる荘園であった。その領域は、茨城県古河市・五霞町、千葉県野田市、埼玉県加須市・久喜市・幸手市・杉戸町・春日部市・松伏町・吉川市・三郷市にまたがる。平坦で低地が多かった。八条院領の寄進系荘園だったが、頼朝からも改めて安堵された。

★八条院領の寄進系荘園だったのですね φ(..)メモメモ

そして・・工藤小二郎行光  ★工藤氏です。φ(..)メモメモ

日本の苗字七千傑様の《伊豆工藤氏》 姓氏類別大観 にて確認しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm

一つの記述からここまで調べる事が出来ました。

それと、人吉に関係する「平頼盛」の送別の会について
こちらも「三浦義澄」関連の記述の中にこのような事が書かれていました。
http://www1.ka6.koalanet.ne.jp/souma/miurasoryo3.htm

 寿永3(1184)年6月1日、鎌倉では京都へ帰る平頼盛(清盛の弟)の送別の会が行われた。この宴席には京都の世上に慣れている大江広元・平時家(平時忠の子)・小山朝政・三浦介義澄・結城朝光・下河辺行平・畠山重忠・橘公長・足立遠元・八田知家・後藤基清が相伴している。

★先日から、私は、何かの感に導かれていると書かせて頂いていましたが、どうもこれは、平川の先祖ではなく、私「宮原」の先祖が私に何かを伝えようとしているのではないのかな?と思い始めています。(ー_ー)!!マタマタとの声が・・。

でも、何も知らずに家を継がれたのでは、先祖も不安でしょうし(ただでさえおっちょこちょいなので・・)
今年の元旦に、庭に出て、家の土を触ってみました。
何も知らない時は(父が何も教えてくれていませんでした(@_@。)土を触ろうとはあまり思わなかったのですが、今年は違いました。
なんでしょう、今まで以上に先祖に対する感謝の気持ちがありました。

遠い遠い先祖に思いをはせていました。
歴史を知ってよかったな〜とつくづく皆様に感謝いたしました。<m(__)m>
そして、この土地を守り続けて行かなければならないと強く思いました。

(とは言うものの、私に出来るかな?・・が〜ん!(*_*))
カッコよく締めくくろうと思ったのですが・・。こんな私だから、色々な感が?導いてくれているのかもしれません。(゜-゜)
<m(__)m>

 









[63]白石さんからのコメント(2014年03月04日 19時02分44秒 ) パスワード

こんばんは
今日はお昼は風がなかったのに、夕方から戸ががたがたと音を立てています。

相良氏は工藤氏の族と確か姓系辞典にありました。

愛甲は
鎌倉時代 平城天皇の皇子・阿保親王の子孫が熱田尾張神宮に養子に入り、再び出て 愛甲を名乗り、その後 毛利に養子に入った。
大江匡房(母・橘孝親女子)。というものを国史辞典でみました。

大江匡房の妻
藤原重経の女子
藤原重経
素意(そい、生年不詳 - 嘉保元年(1094年))は、平安時代中期から後期にかけての僧・歌人。俗名は藤原重経または成経

大江匡房の養子女

養子:大江雅致
養子:大江広房(?-1111) - 実は橘以綱の子
養子:大江有元 - 実は源有宗の子

子孫様
名前がいっぱい出てきて 私 なかなか整理しきれませんが 頑張って調査してくださいね。

追 東寺百合文書がネットで全文公開されたそうですね。 
[64]白石さんからのコメント(2014年03月04日 19時04分34秒 ) パスワード


愛甲は 平川集落にあります。同級生がいていまだ健在にしています。
[65]子孫よりさんからのコメント(2014年03月04日 21時25分44秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、お久しぶりです。お元気でしたか?
(コメント頂き本当にうれしいです\(^o^)/)
ご教示頂きありがとうございます。

球磨には愛甲という姓はかなりいらっしゃるような気がします。(私の同級生にもいましたよ)
毛利氏に関係があるのですね。

先祖に関係あるなしに関わらず、今、つくづく感じているのは、歴史を理解する事は本当に楽しいです。
学生の時は、単にテスト用に暗記するだけだったので、様々な出来事の背景などが理解出来ると、頭の中にちゃんと残ってきました。

東寺百合文書。
情報ありがとうございます。
早速、検索してみますね。(^・^)
[66]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月04日 23時42分56秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

愛甲氏は相模国愛甲郡愛甲庄発祥(小野姓横山党)で、一部が島津忠久に従って大隅に移る。
毛利氏の本貫も愛甲郡、薩摩二階堂氏は鎌倉郡、他にも関東地域から島津氏に随行したものが多い。
大隅愛甲氏の本拠は肥薩線吉松駅近辺だから、球磨はすぐお隣。
後に球磨地域へも移住。
人吉(41軒)、あさぎり町(15軒)、多良木町(10軒)、錦町(10軒)、球磨村(4軒)。
[67]子孫よりさんからのコメント(2014年03月05日 00時04分08秒 ) パスワード

皆様、新しい情報がみつかりました\(◎o◎)/!

白石様!!。白石様が私に伝えたいとお考えだった事も解りました。(東寺!)

今日、東大フルテキストデータベースで再度平河家文書を読んでいたら、以前より内容が詳しく表示されていて(略称部分が少なく表示されていました)今まで、表示されていなかった記述が、見えていたのです。

転記するのは時間がかかりますのでとりあえずブログにアップしました。

文字サイズが小さいので必ず、転記は致しますから。<m(__)m>

では、何が新たに表示されたのか!

こちらの記述を見て下さい。 平河家文書より

年備前々司入道殿御代官行性与平河三郎入道観蓮<俗名良貞>等、雄并二階堂羽州方、禅門道我・道照等致越訴畢、其後惣越訴事、皆・・訴不及理非御沙汰、其故者、如道照所進弘安六年御下知者、良貞・

★「禅門道我」 と記述されています。
道我
http://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E6%88%91
1284−1343 鎌倉-南北朝時代の僧,歌人。
弘安(こうあん)7年生まれ。栄海の弟。権(ごんの)僧正,東寺二の長者となる。

東寺 道我 で検索すると
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/gomi-rekishigaku-saketomiso.htm#doga

道我(1284〜1343.60歳)「法印権僧正。東寺二の長者。二条派歌人として後宇多院の信任を得た。亀山殿七百首の作者で二条派の私撰集に多く入集している。頓阿や兼好とも親交があった。家集に『権僧正道我集』がある。続千載集初出。『権僧正道我集』は書陵部蔵の孤本で、総歌数一三九首。四季・恋・雑の部類歌群の後に詞書を伴う詠草歌群があり、道我の後半生をそのままに伝える哀感ある作を多く収める。私家集大成5所収。」(『和歌文学辞典』桜楓社)

栄海の弟 では栄海とは
栄海 えいかい
1278−1347 鎌倉-南北朝時代の僧。
弘安(こうあん)元年生まれ。真言宗。勧修寺(かじゅうじ)慈尊院の聖済(しょうぜい)から灌頂(かんじょう)をうける。同院をつぎ,のち神護寺別当などをへて,康永4=興国6年東寺長者となる。後醍醐(ごだいご)天皇の帰依(きえ)をうけ,灌頂印可をさずけた。貞和(じょうわ)3=正平(しょうへい)2年8月16日死去。70歳。俗姓は藤原。通称は慈尊院僧正,民部卿僧正。法名は「ようかい」ともよむ。著作に「儼避羅鈔(げんぴらしょう)」など

他に
生年: 弘安1 (1278)
没年: 貞和3/正平2.8.16 (1347.9.21)
南北朝期の真言宗の僧。「ようかい」ともいう。藤原俊業の子。後醍醐天皇の帰依あつく,その国師として灌頂印可を授けたことで有名。醍醐寺に密教を修学。慈尊院,随心院,神護寺などを経て,貞和1/興国6(1345)年東寺長者。弟子に杲宝がいる。

漢文が読めないので、どういう事か良く解りませんが藤原俊業の子とあります。

とりあえずブログにアップした情報(画像)を出来れば、保存してアップにしてご覧ください。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11787679507.html

これが、確実な突破口になればうれしいのですが。
では<m(__)m>











[68]子孫よりさんからのコメント(2014年03月05日 00時11分36秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

大隅愛甲氏の本拠は肥薩線吉松駅近辺。

小学生の頃、遠足で矢岳高原に毎年行っていまして、吉松駅は思い出が深いです。

でも、関東の話しだから、関係ないのかな?と思っていたのですが、そうじゃないのですね。

所で、新しい情報が見つかりました。
今まで、検索しても、この記述は省略されていたので、とても嬉しく思っています。

漢文の解読、皆様、申し訳ございませんが、ご協力よろしくお願い致します。
[69]子孫よりさんからのコメント(2014年03月05日 06時42分44秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

多分、推測ですが、キーマンが解りました。
津守津公 玉手則光 秦一族 だと思います。

そして、私が先日コメントした
正応2年9月16日)
「古川庄張本交名案事」 正応二年九月 十六日 打擲蹂躙神人公人等張本交名事下司若王兵衛紀平次左衛門入道左近入道蓮願□子息源次三郎左衛門入道西村六郎明主次郎縁然庄司男倉入道定仏紀七男藤平男幡磨男□後男追補使□介常陸男随

この記述が重要な意味を持っていました。
上記は荘園内の農民集が挙げた(訴えた)、名前。

私、何か悪い事をしたのかな?などと、とんでもないコメントをしていました。
(先祖様、本当にすいません)

あるサイトを読んでいて、はっきり解りました。
そして、白石様がなぜ「東寺百合文書」を読むように勧められたのかも、しっかり理解出来ました。

では、こちらのサイトをお読みください<m(__)m>
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-tojigakushu.htm

全文を読んでいると、何故、紀平次が名をあげられたのか解ります。

特に 表題の 
★第二節 聖無動院道我と学衆方荘園
★ 山城国上桂荘
★〔注〕秦道覚について

をじっくりお読み頂きたいと思います<m(__)m>

記述に
長徳三年(九九七)、玉手則光が中司職を留保して、上桂荘を女房大納言局に寄進したことは、寄進地系荘園の好例として、よく知られている(13)。そこに「右当所者、桂津守建立之地也、津守津公・兼技・則光次第知行無相違」とあるように、則光は津守氏であり、その子孫は、少なくとも寛喜元年(一二二九)まで、これを下司職として伝えていったことは確実である(14)。

この中に多分重要な、年が書かれています。
「寛喜元年(一二二九)」

寛喜年間に、球磨の平河一族は、京大番役で、球磨に居なかった良貞と複数名の一族、そして、女性・子供以外は、相良氏との戦で殲滅されたと伝わっています。

かみかつらのしょう【上桂荘】
上野荘(かみののしよう)ともいう。山城国葛野郡(現,京都市西京区)の桂川右岸にあった荘園。1229年(寛喜1)の検注目録によれば,総田数16町余。10世紀中ごろ(天暦年間)の成立という。開発領主は桂川の津守津公。津公,兼枝,玉手則光と相伝し,997年(長徳3)則光は中司職(内容は下司職同様と考えられる)を留保して領家職を東三条院大納言局に寄進。領家職を継承した内大臣阿闍梨清厳は,七条院(後鳥羽天皇生母)に本家職を寄進。

上桂荘 【かみかつらのしょう】

山城国葛野(かどの)郡の桂川右岸(南岸),現京都市西京区にあった荘園。上野(かみの)荘ともいう。開発領主は葛野郡一帯に古くから勢力を張っていた秦(はた)氏の一族と推定される津守津公で,成立は10世紀中ごろと推定される

★上桂荘は上野(かみの)荘ともいう。 「上野」です。

東寺百合文書の記述が解説されていました。
http://masaki-knz.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-8725.html

『東寺百合文書』によると、秦氏の一族と思われる津守津公が長徳三年(997年)に上桂荘を「院の女房大納言局」に寄進しています。上桂荘は「東寺百合文書」に載っているので荘園の中では有名な研究材料の1つのようです。
とありました。

白石様は、この記述を読むように私に、教えて下さったのですね。

今日からは、津守津公 玉手則光 秦一族 と上野一族そして遠江を結ぶものは何かをしっかり調べて行こうと思っています。



[70]子孫よりさんからのコメント(2014年03月05日 07時01分19秒 ) パスワード

皆様!皆様!皆様!

玉手則光とは現在推測するに・・・・

本名は・・・・・・もしかしたら!

橘則光\(◎o◎)/!です。

まだ、じっくり調べていませんが、橘に関する記述、概要だけをコピーします。

橘則光 は 橘長谷麻呂 橘逸勢 ひ 橘広房 橘広相 ま 橘正通 橘真直 み 橘御井子 橘道貞 ... 無空 も 橘以政 橘元任 橘百枝 橘諸兄 や 橘安麻呂 よ 橘義子 橘良殖 橘好古 橘良基 城 宇和島城 社 自玉手祭来酒解神社 梅宮大社 五條宮

何の事だかお解かり頂けないかと思いますが
「自玉手祭来酒解神社」

まだ、何も解りません。でも・・・・

「祖母の平川を調べたら、何故か、宮原(橘)に繋がる」
この謎が、「玉手則光」 この方にあるようです!
[71]子孫よりさんからのコメント(2014年03月05日 07時05分29秒 ) パスワード

追記
最初に御紹介したサイト
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/gomi-rekishigaku-saketomiso.htm

の表題は
五味文彦 「鎌倉と東国の世界」
(『「徒然草」の歴史学』.朝日選書.1997年.p155以下)

徒然草の歴史学・・・えええええええ!っ
清少納言 ・・・・ああああああっ!

まさか、祖母と祖父の先祖は同じ?

とりあえず、仕事に行ってきます。<m(__)m>

[72]子孫よりさんからのコメント(2014年03月05日 07時18分50秒 ) パスワード

マタマタ、追記します。
『東寺百合文書』より

寄進し奉る 所領の事

合はせて壱所者

山城国上桂に在り

四至(東は桂川東堤の樹の東を限る 西は五本松の下路を限る 南は他領の堺(入り交る)を限る 北は□河の北梅津堺の大榎木を限る)

右当所は、桂の津守建立の地なり。津守津公・兼枝・則光と次第知行相違無し。爰に御威勢を募り奉らんが為めに、当庄を以て永代を限り、院の女房大納言殿御局に寄進し奉る所なり。中司職に至りては、則光の子々孫々相伝すべきなり。後日のため寄進の状件の如し。

長徳三年(997年)九月十日  玉手則光 判

              玉手則安 判

では<m(__)m>
[73]子孫よりさんからのコメント(2014年03月05日 23時29分57秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

何だか、間違っていたようです。すいません。<m(__)m>
(>_<)やっぱり関係ないみたいですね。
玉手則光。津守氏。と平河は・・・(-_-)

何も出てきません。(@_@。

じゃあ、関係するのは「道我」。この方でしょうか?

昨日お話した平河家文書を転記しました。ご覧ください。<m(__)m>

(元亨2年?) 肥後国御家人□平河弥五郎入道々照謹申欲早為明石民部
?安八年番之、>一巻次第証文及道照所帯譲状等一通御書下案<御内御書下案<御内越訴之時、被立道照等越訴、被遺当二番御引付畢、?年備前々司入道殿御代官行性与平河三郎入道観蓮<俗名良貞>等、雄并二階堂羽州方、禅門道我・道照等致越訴畢、其後惣越訴事、皆訴不及理非御沙汰、其故者、如道照所進弘安六年御下知者、良貞・年已廿一ケ年也、与御下知以前道照等無其沙汰、令違期年記之間、行所帯之条、古今通例也、何限道照理訴、及用捨御沙汰、可被奇捐余庶子等無烈訴所見、仍自文永二年近衛中将実春朝臣相論、至于弘事、一右、永吉地頭名主職者、道照等先祖開発私領也、然間平河三郎師隆平家逆乱之時、右大将勤仕畢、自爾以来、至于観蓮・道照以下、知行九十余歳無相違、於頭所見分明時者、不及子細、且道照所進地頭証跡之状頼通也、随而

所どころ切れているので、変な場所があるかもしれません。<m(__)m>

ちなみに、思い込んでしまって(>_<)、でも頑張って 玉手則光と橘則光の関係性を調べていたら、ついでといっては何ですが、橘則光の知らなかった事を沢山知る事が出来ました。

現代でも、かなり、取り上げられている人でした。
まず、「陰陽師という映画に出演」です。(もちろん役者さんですが)
見た事が無かったので・・どんな話だったのかな?

それと、漫画にもなっていました。\(◎o◎)/!
漫画のタイトルは「暴れん坊少納言」橘則光と清少納言のはちゃめちゃラブストーリーでした。(何だか複雑な気分です)
公忠公の末裔様から、「オイオイ(ー_ー)!!」と言われてしまいそうな<m(__)m>

明るくふるまってはいますが、本当は、玉手氏と二人の則光様を調べていて、繋がりそうもないので、気分はガックリきています。(@_@。

でも、何故、橘の記述に自玉手祭来酒解神社とあったのかな?
やっぱり気になるのでこちらを調べて見ようと思います。

皆様、お騒がせいたしましてすいませんでした。<m(__)m>(@_@。



[74]子孫よりさんからのコメント(2014年03月05日 23時50分35秒 ) パスワード

追記。

今回、「道我」この方は、何らかの形で平河と関係している事は理解できたのですが、玉手則光、この方との関係性は無かったかな(@_@。という結果のようですが、ただし、初めて「玉手氏」という名前を知りました。

とても勉強になったと思います。

特に、玉手山に関してですが・・・
何だか、とてもとても気になります。

何でだろうな?不思議な感じです。

では、「禅門道我」について、調べていきたいと思います。<m(__)m>
 
[75]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月06日 01時36分46秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

調査が混乱しているようですね。
観蓮は佐原(三浦)六郎左衛門尉時連の法名。
岩代国耶麻郡半郡の領主で新宮城主。
父が遠江守盛連なので通称遠江六郎。
 
道我は鎌倉幕府政所執事二階堂出羽守行藤の法名。
道照は鎌倉幕府引付頭人二階堂和泉守行方の法名。
 
同じ法名は多いから、ネットばかりに頼ると赤の他人が検索される。
鎌倉幕府の要人に絞って調査しないと拡散するでしょう。
[76]子孫よりさんからのコメント(2014年03月06日 06時44分08秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございました。

法名をもとにネットで調べた結果、昨日は、私は大混乱を起こしてしまったのですね。 
絞り込みは鎌倉幕府の要人で今後は行います。
(混乱しすぎて頭が疲れてしまいました。反省です。)


道我は鎌倉幕府政所執事二階堂出羽守行藤の法名。
道照は鎌倉幕府引付頭人二階堂和泉守行方の法名。

教えて頂きありがとうございます。

あの、本当の事を言いますと、一番混乱している部分は、「どの人が、誰を訴えているのか?」なのです。
そして、その訴えを聞いているのは誰なのか?なのです??

ただ、あらためて、日本の苗字七千傑様からご教示頂いた人物を理解した上で、平河家文書を読んでみると、混乱していた頭が整理されてきました。

また、私、間違っているかもしれませんが、文書にもとづき、人物を整理して考えると・・・
肥後国御家人□平河弥五郎入道々照(道照)・・二階堂和泉守行方
平河三郎入道観蓮<俗名良貞>・・・佐原(三浦)六郎左衛門尉時連
禅門道我・・・・二階堂出羽守行藤

他の人物で
明石民部・・・http://www2.harimaya.com/sengoku/html/akasi_k.html
鎌倉時代になると、幕府の引付衆のなかに、明石左近将監兼綱の名が知られる。その他、明石孫次郎行景・同民部太夫行宗・同長門介盛行らの明石姓の人物が引付奉行人として散見している。さらに、室町幕府初期の奉行人のなかにも、明石縫殿太夫や同因幡入道法準が名を列ねている。
★となっているので、明石民部とは上記のいずれかの方?

備前々司入道殿・・・北条時長 又は 大仏流北条朝直の子朝房

このような推測となりましたが・・又、間違ったかな?

★永吉地頭名主職者、道照等先祖開発私領也、然間平河三郎師隆平家逆乱之時、右大将勤仕畢、自爾以来、至于観蓮・道照以下、知行九十余歳無相違、於頭所見分明時者、不及子細、且道照所進地頭証跡之状頼通也、随而

という事は(読めてはいませんが(+_+))
永吉は道照等先祖開発私領也。
道照等とは 道照・道我・観蓮 などの人達を指す。

★然間平河三郎師隆平家逆乱之時、右大将勤仕畢、自爾以来
すなわち 平河三郎師隆(師高)は 道照・道我・観蓮の一族または先祖。

こう推測したのですが、これまた間違っていないかな?

私、間違ってばかりなので、かなり不安ですが・・・

不安の一番の原因は、表記された方々が、鎌倉幕府に関係する人達ばかりで、この訴状は「球磨の永吉」等、平河の土地に関するものなので、???となっている訳です。(*_*)?

でも、もし、もしも、私の推測が少なからずも当たっているのであれば、では「平河師高」は本当は誰?なのか?
しかし・・やっぱり平河師高は平河師高なのでしょうね・・・?

<m(__)m>











[77]子孫よりさんからのコメント(2014年03月07日 08時08分41秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨日、コメントをしようと思っていたのですが、ある事をきっかけに頭がええええ〜っ!と混乱してまとめる事が出来なくなってしまいました。

そのある事とは、後ほど御説明をするとして・・

まず、平河関連で昨日、気付いたことから<m(__)m>
日本の苗字七千傑様の藤原南家為憲流 姓氏類別大観。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
「この流れを一族と考えればいいのかな?」と思いながら、じっと(゜-゜)見つめていると・・
源義家 = 光頼 女子 → 家永(横地氏) とあり、「横地氏」がとても気になり
進んでいきました・・
《横地氏》姓氏類別大観 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm

最初から \(◎o◎)/!です。
家永・・・以前、あさぎり町の広報に「藤原家永」に関する記述がありました。
この系譜には「安」が通字となっている方が沢山いらっしゃるな〜と思っていたら「安則」!
あれっ?「安則?」ええええっ!?と。でも(ー_ー)!!あわててはいけません。
時間軸がどうなのか? 平河家文書にある「安則」の記述に時間軸があっていない可能性もあります。(-_-)
あわてない!あわてない!と一休さんのように頭で唱えながら進んでみると・・ あっ!「久米氏」\(◎o◎)/!
ここでも、あわてない!あわてない!(ー_ー)!!と冷静を装いながら、心臓は「ドキドキ」っとなっていました。
ただ、その後、横地安則又は藤原安則で検索をしても、中々情報は見つかりませんでした。(*_*) おっちょこちょいなので慎重に調査します。

では、最初にお話した頭が混乱した情報についてですが・・

昨日、日本の苗字7千傑様にご教示頂いたお話に基づき、二階堂氏について、もっとしっかり調べなければ!と思いました。そこで祖となる二階堂行政についてもう一度おさらいを。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E6%94%BF
二階堂 行政(にかいどう ゆきまさ、生没年不詳)は、鎌倉幕府の政所令・後に別当、十三人の合議制の一人。代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。後に鎌倉二階堂に屋敷を構えたことから二階堂の苗字を称した。
家系は藤原南家乙麿流で父は藤原行遠、母は源頼朝の外祖父で熱田大宮司・藤原季範の妹で、その関係から源頼朝に登用されたと見られている。
★母は源頼朝の外祖父で熱田大宮司・藤原季範の妹。あれっ!(?_?)っとスレッド40では終わっていたのですが・・

なぜ、あれっ?と思ったのか、実はここからが混乱の始まりでした。
以前に、私は、「謎の多い南北朝期以前の 二宮宮司 原大夫系統についての覚書」という記述を見つけて、「何だか橘に関係しているようです」とお伝えしていました。
その記述の中に熱田大宮司・藤原季範の名前があったので、スレッド40を見た時に、あれっ?と思ったのです。
そして、あらためてプリントアウトをしていたこちらの記述を読んだ所・・
\(◎o◎)/! はっきりとは言えませんが多分、なぜ、橘薩摩が「良峯安世流」と言われているのか、そこに繋がる謎がここに隠されているかも知れない事に気付いたのです。

最初に読んだ時は、まだ、三浦一族・二階堂氏・土岐氏を知らなかったので(恥ずかしい(@_@))意味が解らなかったのですが、昨日あらためて読んだ所、中に、上記の一族に繋がる記述がありました。

そして、最大の驚きはなんとその中に「余一左近」(橘公員?)の名が記述されていた事なのです。
公忠公の末裔様から公員が余一と呼ばれていた事を伺わなければ、完全に見落としていました。(*_*)

では、かなり長くなりそうなので、上記の説明は次のスレッドで御説明いたします。<m(__)m>





[78]子孫よりさんからのコメント(2014年03月07日 11時46分54秒 ) パスワード

では、始めます。<m(__)m>
(あれっ?今日も休み?と思われた方もいらしゃるかとは思いますが、今週は土曜日(明日)が勤務なので振替休日でございます。<m(__)m>(^○^))

まず、1月に入りすぐの時期、私は「謎の多い南北朝期以前の 二宮宮司 原大夫系統についての覚書」という記述のあるサイトを見つけました。
最終追項が平成25(2013)年12月13日となっているので、とても新しい情報です。

では、御紹介いたします。「謎の多い南北朝期以前の 二宮宮司 原大夫系統についての覚書」 非常に長い記述ですから出来ればプリントアウトしてじっくりお読み頂いた方がよろしいかと思います。<m(__)m>

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E8%AC%8E%E3%81%AE%E5%A4%9A%E3%81%84%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%9C%9F%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E3%80%80%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%AE%AE%E5%8F%B8%E3%80%80%E5%8E%9F%E5%A4%A7%E5%A4%AB%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%A6%9A%E6%9B%B8.html

記述をピックアップしていきます。<m(__)m>

1.はじめに
郷土誌かすがい 第6号(昭和55年3月15日発行) 重松明久氏(当時 広島大教授)による「中世武士と農民の社会」の記述に、「尾張二宮(大縣神社)宮司である 平安時代以来の春日部郡司 良峯氏の子孫 原大夫高春は、南北朝の頃 熱田大宮司 千秋(ちあき)一族と共に、南朝側に属した。」とありました。
この春日部郡司 良峯氏の出自は、如何様であったのかは、判りかねますが、尾張連氏に関わっていたかどうかは、不明であります。
次のような記述もあります。「信長公記」や現 春日井市柏井の当時地侍 柏井衆や前野氏{ この前野氏は、(平安期の春日部郡司に関わる系譜を持った氏族であるとか。・・「姓氏家系辞書」(太田亮著)による。)}という事もありますから。前野氏は、木曽川左岸沿いの土豪であったようで、水運等で、財を成した一族であるという。( この前野家の系図をたどると、良峯家に繋がる。とすれば、大田亮氏は、どこから良峯家は、春日部郡司に関わる系譜という判断をされたのでありましょうか。・・・筆者注)

φ(..)メモメモ★まず、春日部郡司 良峯氏の子孫 原大夫高春
★前野氏は、(平安期の春日部郡司に関わる系譜を持った氏族である。
ここまでは私も理解していました。ただ、★前野氏は、木曽川左岸沿いの土豪であったようで、水運等で、財を成した一族であるという。ここですφ(..)メモメモ、公忠公の末裔様から「橘」も水運等で財を成していたとの話を伺ったので、「ううん?似ているな?」と思いました・・・・。

続けます<m(__)m>
郡司 季高は、自らの所領を後三条天皇の生母 陽明門院に寄進して、陽明門院勅旨田とし、更に後三条上皇にも寄進し、後三条院勅旨田と称し、これらの領主職は、自らに保留し、この領主職は、子孫が知行したという。
「 この子孫である原大夫 高春(の末裔・・筆者加筆)は、南朝方に属したようで、南北朝動乱期まで存続したようであります。」( 郷土誌かすがい 第6号 重松明久氏(当時 広島大教授)による「中世武士と農民の社会」 参照 )
「文和2(1352)年 北朝方 尾張守護代土岐氏家人が、南朝方の原氏・蜂屋氏と尾張で戦い、賊首20ばかり持参したという。この原氏は、二宮神官として武士化した者のようである。」( 春日井市史 通史 P.133 参照 )という記述もあります。
(もし、そうであれば、大胆な推測ではありますが、二宮領たる尾張国林・阿賀良村の在地名田耕作者たる余一左近等の末裔が、まだ在地に居住していたと仮定すれば、在地武士化した可能性は無きにしもあらずであろうかと思われますが、いかがであろうか。更に推測が許されるならば、こうした末裔達は、南北朝以降も生き残り、その後、余語姓を名乗ったとは、考えられないのだろうか。・・・あくまで筆者推測であります。)

φ(..)メモメモ 土岐氏が出て参りました。

そして・・・★★二宮領たる尾張国林・阿賀良村の在地名田耕作者たる余一左近等の末裔  \(◎o◎)/! ここです!余一左近!!
でも、心は一休さんです。あわてないあわてない(ドキドキドキ)いえ(ー_ー)!!あわてない

まだまだ続けます<m(__)m>

拙稿 「春日部郡 郡司 範俊なる人物についての覚書」にも記述しましたが、藤原範俊なる人物と、篠木地域の再開発の事象が、時代的に辻褄が合わない点を明快に答えて頂けた論文がありました。

ここで、「春日部郡 郡司 範俊なる人物についての覚書」を読んで下さい。
出来ればプリントアウトして頂くのが一番よいかと思います。
用紙は横向きで余白は出来るだけ狭くして頂ければ・・(何のアドバイスか?すいません<m(__)m>(^○^))

では、春日部郡 郡司 範俊なる人物についての覚書
http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/kasugabegunji%20noritosi.html

1.春日部郡 郡司 範俊なる人物名が記述されている文書鎌倉時代末期、元享2(1322)年6月27日付 春日部郡林・阿賀良村(現 小牧市大字池ノ内か、その近くの地域でしょう。・・・筆者注)の名主 浄円ら6名が、花押を据えた1通の請文を、鎌倉 円覚寺宛に出したのでありましょう。宛名は、明記されていない内容から推察するに円覚寺宛であることは、明らかであります。
この請文は、円覚寺文書として残されているという。

その内容は、「 当村は、春日部郡司 範俊開発の内たる条異議なく候、但し、彼の跡篠木・野口野田以下は、関東御領として円覚寺御管領候といえとも、当村においては別相伝の地として、宴源・浄円等面々累代相承し、今に相異なく候」と記述されていた。

まだまだ続けます<m(__)m>
氏によれば、林・阿賀良村は、共に二ノ宮領であり、春日部郡司 範俊様より二ノ宮(大縣神社)をお守りする役目をもらっており、代々親から子へと引き継ぐようにと言われておる土地柄であり、名寄帳(土地台帳)もあります。と地頭である鎌倉 円覚寺に請文(誓約書)と名寄帳を出したという。解釈であるようです。

φ(..)メモメモ ★★ 林・阿賀良村は、共に二ノ宮領である。

2.春日部郡 郡司 範俊なる人物とは
 <尊卑分脈>に記載された系図及び張州雑志 巻4 熱田大宮司系譜 P.480〜496参考
 藤原季兼 ( 三河国在住 三河四郎大夫)− 藤原季範 (尾張国目代 尾張氏に代わって熱田大宮司)− 
範信    −  憲朝(千秋憲朝、後に千秋信綱とも号し、建久8年に海東郡地頭職) −  範俊−
三河四郎大夫 − 範忠(保元・平治の乱時源義朝に加勢応保元年周防国へ配流。) − 忠季 − 範雅    − 範経 − 保範(京都五条に在住カ)★やすのり?と読むのかな? −  女 (源頼朝母)

さあ、藤原季範! 妹が二階堂行政の母です。

春日部郡 郡司というのは、尾張氏が持ちえた永久職であり、尾張氏の外孫として、それを引き継いだのでありましょうか。範俊が、開発地の活動をしたとすれば、承久の乱前後からと推察されます。
とすれば、鎌倉三代目将軍以降の頃の出来事かと推察いたします。が、円覚寺文書の内容とは、辻褄と言う点で、合点がいかないのも事実であります。

φ(..)メモメモ おやっ?ここで謎が出てきました。(?_?)

続けます<m(__)m>
故に、この円覚寺文書に出てくる郡司 某は、目代として入国した藤原氏が活躍していた頃の古き謂れを、この当時の名主層が、後の子孫名で利用したのではないかと・・・。春日部郡 郡司 範俊なる人物とやや曖昧な書き方であったことも辻褄が合わない事であるのではないかと。
更に言えば、自然村落名 林・阿賀良村という名称も、現在の村という捉え方ではなく、未開地(山・川・海等)の新規の開墾地として存在した”村”ではなかったのか。この当時世襲可能な職”保”という名称の税の収集単位と同様な位置付けではなかっただろうか。
話を元に戻しまして、こうした辻褄が合わない事に対する明快な答えを、講座日本荘園史 5P.359で、上村喜久子氏は、述べてみえました。「篠木荘は、春日部郡司 範俊開発内であって、その後、関東御領となったといわれている。関東御領を北条氏領と解して、範俊を承久の乱で京方に与した海東郡地頭 中条信綱の子 範俊にあてる見解もある。しかし、野田郷(春日井市)、林村(小牧市)、阿賀良村をも合わせた 範俊開発 地域の広がりとその地理的状況、国司平忠盛と郡司との主導のもとに一円立荘された経緯を勘案するならば、春日部郡東北部一帯の開発領主とは、天養元(1144)年当時の郡司橘氏一族とみるのが自然であろう。」 と。

φ(..)メモメモ ??? 続けます。?
ところで、橘氏は、春日部郡か丹羽郡 どこの郡司であったのであろうか。その点については、上村氏は、明快ではない。
丹羽郡郡司 善峯氏は、橘姓を名乗る時があったかと。
この熱田大宮司職を引き継いだ藤原氏一族の系図(尊卑分脈・張州雑志 巻4熱田大宮司系譜)のどこをみても橘氏と苗字を替えた一族は見当たりませんでした。只、蜂屋氏は、いたかと。
また、同書 P.344には、「散在型から一円型への移行(例えば、篠木荘等)の背景には、郡司・郷司ら一族と国司との結託が推察される。」 とも記述されている。
更に、同書 P、346には、「12世紀に入ると、尾張の荘園の中には、平氏一門が、領家職・預所職を持つに至っており、こうした荘園については、開発領主としてでなく、寄進の仲介者として、荘園の成立に関わり、こうした職を得たのでありましょう。」とか。「12世紀後半頃 平忠盛・その子頼盛が、尾張守に任ぜられ、以後平氏滅亡までの間、尾張はほぼ一貫して彼等の知行国となっていたが、こうした背景が、一門の領家職への進出を可能とした。」とも記述されている。

φ(..)メモメモ★ ここでも平頼盛。この方と橘は色々な記述で一緒に名前が出てきます。??

続けます<m(__)m>
3.林・阿賀良村の支配形態
ア、名寄帳に現れている年貢、彼岸米について
林村では、彼岸米として二ノ宮(大県神社)に納め、円覚寺へは、年貢として銭貨で納めている。つまり、林村は、二ノ宮(大県神社)社領であったと考えられる。
阿賀良村については、二ノ宮神用米、領家への「郷分の米」、更に二ノ宮社へ生栗や炭等を負担しているようで、ここも二ノ宮社領であろうと推量できるのであり、二ノ宮社との繋がりは、林村よりも早かったのではないかと。

小牧市史 通史 P.98には、「この林・阿賀良村は、二つの村であっても、実質的な村落としては、一体であったのであろうと記述されております。
また、鎌倉前期、尾張では、もと国衙の支配下にある所領を、在庁官人や領主達が、国衙と関連の深い一・二・三ノ宮へ寄進する事が盛んに行われていた」という事も記述されています。

林村々内には、長源寺と三明社があり、この三明社は、現 小牧市大字林字宮前の三明神社であり、延喜式神明帳に「非多神社」とあるのが、三明社であろうという。古老は、昔 この三明社は、二ノ宮の別宮であったと伝えている。長源寺については、その所在は明らかでない。三明社への二季御祭料(お祭り費用)、長源寺への餅米は、両村の全体会計から支出されこの二社の存在が、村の結合の核になっていたし、二ノ宮社領であった事が名主層が、在地領主の進出を阻む口実となり、請書の別相伝地という記述となって言い表されていたといえるのではないでしょうか。

この請書も、本来は、鎌倉 円覚寺が、先に地頭職を運用している地域と同様な開発経過の林・阿賀良村に対し、地頭職を口実に、進出してきた事柄に対する在地の名主達の、精一杯の申し立てであり、譲歩でもあったと解する事ができましょう。地頭が、お寺であった事も譲歩に大いに影響したのではないかと推察いたしました。

φ(..)メモメモ ではここで余一左近のお話が(?_?)・・

尚、林村の余一左近なる人物は、4町歩の土地と屋敷地を持ち、その内1町歩は、長源寺の修理田、内1反歩は、二ノ宮神宮寺(真長寺・小西寺・・共に犬山市に存在していたと先述の入谷氏によればですが・・筆者注)仏供田とか。林村では、名を持つ人12名中6名は、皆 長源寺・二ノ宮神宮寺・三明社への修理・仏供田のどれかを所持していた。

阿賀良村は、名ではないが、初発は13人であり、その内4人が修理田・供御田・仏供田のどれかを所持していた。
この請文の内容からは、神宮寺が出てきますので、既に本地垂迹説(奈良時代に起こり、平安時代に成立した説)が貫徹しており、平安期以降、鎌倉初期頃に寄進されたのではなかろうかと推察いたします。
   
さらに、この地域は、中世荘園として篠木荘に属するのか、味岡荘に属するのか、不明であり、丁度二つの荘園の境であり、どちらにも属さず、二ノ宮社領として存続したのかもしれません。
篠木・味岡荘は、どちらも皇室に関係する方の荘園でありました事を付け加えておきます。

\(◎o◎)/! 味岡姓は球磨にありますよ!!


かなり長くなっていますが、すいません。
でも、ここに書かれている 「余一左近」がもしも、もしも、橘公員の事であったら・・・。

実は橘公員が余一呼ばれていたと伺った後、色々検索をした所、よくは読めなかったのですが「余一左近が妻子(現地の)を置いて、別の場所に移動した。(はっきり言うと置き去りにしたと書かれていました(+_+))
という記述があったのです。

場所は解らなかったのですが、「この余一さんは、女性から見たらひどい人ね(-_-)」と思ったのですが・・・だから、その時は関係ない人(ー_ー)!!と思ったのです。(@_@)

??????????????
すぐに思い込むのでいけませんね(ー_ー)!!

でも、本当にもしも、余一左近が橘公員であって、現地の良峯氏との間に子供が出来て、なおかつもしも、その子が球磨に来られて・・・そうすると、「良峯安世流」となるわけですが・・・
あくまでも、もしも!!ですけれど。
後、実家近くの宮原城より少し岡本城に近い山に実は「左近城」があったのですよね・・・・?? 関係ないかな? (ー_ー)!!憶測は間違いの元でございます。<m(__)m>

では、まだまだお伝えしたい事はありますが 後ほど<m(__)m>





[79]子孫よりさんからのコメント(2014年03月07日 12時53分39秒 ) パスワード

あの〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!
みなさま〜(@_@。\(゜ロ\)(/ロ゜)/

橘公員 すなわち私の先祖いえ、私と公忠公の末裔様の先祖、は三浦氏の戦で亡くなっていたのです!

思い出せばそういえば「宮原の先祖様は大きな戦で亡くなったとよ〜(@_@。」と聞いた事がありましたが・・まさか!
(あの・・歴史にお詳しい皆様は、ええええっ!知らなかったの?と思われているのでしょうか?そのような合唱のような声が!)

何だか橘公員という名前が気になってしかたなくなり、今、検索した所
三浦一族滅亡
http://www.digistats.net/usakoji/history/216.htm
記述中段あたりに

戦いを避けようとする試みは時頼の側からも積極的に行われた。時頼は、万年馬入道と平左衛門入道盛阿を泰村のもとへと派遣し和睦の意思を伝えた。その万年馬入道と平左衛門入道盛阿が帰路についた時である多くの軍勢が三浦泰村邸へと目掛けて駆けて行く。甘縄の安達覚智入道が、

「執権殿と三浦の和睦が成立すれば三浦一族の横暴は益々酷くなることは明らかである。ここは、不利であろうが無かろうが安達一族の命運を賭して雌雄を決すべきである」

と下知して軍勢を進めたのである。安達軍は義景、泰盛父子を中心に大曾根左衛門尉長泰、武蔵左衛門景頼、橘薩摩十郎公義以下300余騎が甘縄から繰り出し中下馬から赤橋を抜け神護寺を過ぎて筋替橋の北に布陣。三浦のほうは不意を突かれたとはいえ備えは十分とばかりに応戦。橘公員は武具を身に着ける暇なく甘縄から出陣し奮戦したものの、小河次郎が放った矢に首を射抜かれて落馬。味方の中村馬五郎が公員を助け出そうとしたが、片切助五郎が放つ矢に立ちすくむ。勝敗の行方はわからないほどの激戦となった。

(@_@。先祖様はここで亡くなったのですね・・・
初めて、先祖がなくなった状況を、文書で読みました。

子供の頃は、仏壇に毎朝手を合わせて「御先祖様、いつもお見守り頂きまして、ありがとうございます。今から、学校に行って参ります。」とお参りして、帰って来たら「御先祖様、ただ今、無事に学校から帰って参りました。お見守り頂きましてありがとうございます。」と報告していました。

球磨を離れてからは、何かあるとすぐに空を見上げて「先祖様、お見守り下さい。」と祈ってきました。

遠い遠い先祖に思いをはせて、と先日コメントしましたが、記述を読んで、とても悲しくなりました。
先祖様すごく痛かっただろうな。残して来た妻・子供の事を考えられただろうな。
そう考えたら、この時代に生きている私は、しっかりしなければとつくづく考えています。

でも、橘薩摩は安達氏に付いていたのですね。
というか、安達氏については、未だ、何も知りません(@_@。

やっぱり、私の不思議な感は、宮原の先祖が色々伝える為にあるような気がします。

三浦氏の記述から始まって、今まで、色々、宮原の先祖の事が理解出来るようになりました。<m(__)m>








[80]子孫よりさんからのコメント(2014年03月07日 14時59分18秒 ) パスワード

追記
先ほどコメントした戦いの事を
宝治合戦というのですね。(えええっ!?という声が大合唱へと・・・)
この前、サラッとウィキを読んだつもりなのですが・・
やっぱり頭に入っていなかったようです。(@_@。

もう一度、ウィキで確認しました。(゜-゜)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%B2%BB%E5%90%88%E6%88%A6

すると・・あっ!小鹿島公業の子小鹿島公苗は、一番槍の勲功を挙げようと前日から三浦氏の屋敷の庭の藪の中に郎党二人と共に潜伏しており、合戦が始まるや否や飛び出して奇襲を仕掛けたが、衆寡敵せず反撃を受け、郎党一人を失い遁走した。

おや( 一一) 私はどうも、この方と同じDNAを強く感じますよ(゜-゜)
この方の前の世代にどうも、同じ傾向のある方がいらっしゃるようですね(;一_一)

私は、子供の頃から計画を練ると・・・結果は御想像にお任せ致します。
<m(__)m>

あの・・それから。
先祖ではないのですが、今まで、歴史上の様々な人物を調べさせて頂いて、なんだろうホンワカして、この方は大好きだな〜と思う方がいらっしゃいます。
((ー_ー)!!恋をしているわけではありません)

その方は
清原 元輔。この方は本当に大好きです。(^・^)
ウィキに書かれていた記述を読んで、本当に大好きになりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E5%85%83%E8%BC%94

『今昔物語集』28巻や『宇治拾遺物語』13巻には、元輔が賀茂祭の奉幣使を務めた際に落馬し、禿頭であったため冠が滑り落ちたさまを見物人が笑うと、元輔は脱げ落ちた冠をかぶろうともせずに、物見車の一台一台に長々と弁解し、理屈を述べて歩いた。その様子を見て、見物人はさらに面白がったという話がある。清原元輔のひょうきんな一面をうかがうことができる。

平安時代の事なのに、状況が想像できて、その時代の「ひょうきんな人」と言われて(^・^)この記述を読んで、とてもホンワカとした気持ちになりました。
でも、心がとても広くおおらかな方だったのだと思います。
ただ、内心はドキドキされていたのでしょうね。
その場の空気を変えないように、本当は心遣いのとてもある方だと思うのです。

でも、1000年以上前の方の記述ですが、このようなお話は沢山あったらいいのにな(^・^)と思う、今日この頃であります。<m(__)m>(^○^)



[81]子孫よりさんからのコメント(2014年03月08日 07時01分46秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

祖母方の平河(平川)を調べている所で、話が宝治合戦へ進んでしまい、結局宮原の先祖の話に変わってしまいました。

混乱してすいません。<m(__)m>

折角なので安達氏を調べて見ようと、日本の苗字七千傑様の《安達氏》姓氏類別大観 を早速、拝見したのですが・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02018.htm#001

あの・・家紋が、剣片喰でした。
実はずっと、私、気になっていたのですが、家は家紋が橘紋ではなく丸に剣片喰。
祖父の軍刀掛けに使用していた兜にも丸に剣片喰の家紋が付いています。
という事はかなり以前からそうなのだな〜とは思っていたのですが・・
結構、使用している家が多いと聞いたのであっそれでかな〜くらいだったのですが・・・

安達氏の家紋を見て、何だかとても気になって調べてみました。

丸に剣片喰の家紋を使用している家をウィキで見た所「中村氏 (下野国)‐古川家」と表示されていたので進んでみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%B0%8F_ (%E4%B8%8B%E9%87%8E%E5%9B%BD)

中村氏(なかむらし・なかむらうじ)は、藤原北家山蔭流藤原実宗が常陸介に任じられ下野国芳賀郡中村荘に住し、中村氏を称した事に始まり、伊達氏の祖とされる一族。常陸国伊佐郡の伊佐氏とは同族。中村氏のは中興の祖とされる中村常陸入道念西が奥州伊達に赴く際、源義経の遺児・経若とされる朝定に中村氏を継がせたとの記録が残っている[1]。中村氏の居城であった中村城の跡には伊達騒動を題材にしたNHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」のモデルになった古木が存在する。

★橘は公義からの流れで「中村」を名乗っています?
★それと・・橘公長・公業は源平の合戦の時に源義経に従っていました。?

続けます<m(__)m>
平安時代〜鎌倉時代
天永2年(1111年)、藤原北家山蔭流、参議・藤原安親の孫で、従四位下・越前守、藤原為盛の子[2]藤原定任の長男藤原実宗が常陸介に任じられ、下野国芳賀郡中村荘に住し、中村氏を称した事に始まり、平安時代末期に中村朝宗[3]が中村城を築く。文治5年(1189年)中村常陸入道念西[4]が、源頼朝に従い奥州合戦に従軍し石那坂の戦いで戦功を得る。これにより伊達郡と信夫郡を賜わり、同地に住し伊達氏を称した。中村城は中村常陸入道念西三男[5]中村資綱が跡を継ぎ、次に朝定が継いだ。[6]

★藤原北家山蔭流、参議・藤原安親の孫・・魚名の裔ですねφ(..)メモメモ

続けます<m(__)m>
中村朝定の源義経の遺児伝承
中村朝定、幼名経若。出自については栃木県真岡市の遍照寺古寺誌に中村朝定は源義経の遺児経若であるとの伝承がある。古寺誌によると源義経の遺児経若が伊佐為宗によって養育され成人後、中村蔵人義宗と名乗り後に改め、中村佐衛門慰朝定と名乗る[7]。年代から見て中村常陸入道念西三男資綱の跡を継いだと見られる。
★源義経の遺児伝承・・そういう伝承が残っているのですね。・・・・あっ!!
★★栃木県真岡市の遍照寺古寺誌・・・ええええっ!!遍照寺!祖母が、実家に貼っていたお札は遍照寺のお札です!
何処の遍照寺なのか調べていたのですが今まで解らなくて・・・でも、まさかこちら? (ー_ー)!!いやいや、未だ解りません。(?_?)

続けます<m(__)m>
中村城跡にこの源義経の遺児中村朝定を祀る社が存在する。真岡市教育委員会発行の「真岡市史案内・中村城」によると中村大明神の由緒については「中村左衛尉朝定死后、中村大明神と崇り祀り、歳々十一月十五日土人之ヲ祭ルナリ」とあり中村常陸介宗村二男を祀る社であるとされている。尚、この中村大明神は中村城落城の後、最後の城主となった中村小太郎時長を祀る小太郎明神としてその後伝わり、現在は中村城跡に建立されていた場所から大正2年5月に遍照寺の境内に中村城を建てたとされる伊達氏初代の中村朝宗を祭神とし歴代の中村氏の人々を祀る社として移築された

★遍照寺の境内に中村城を建てた φ(..)メモメモ

続けます<m(__)m>
建武2年(1335年)7月の中先代の乱において、中村朝定より六代孫の中村太郎経長は足利尊氏に味方して本領を回復した。南北朝の対立になると経長は南朝方に属し、伊達行朝等と共に北畠顕家に従って戦ったが、興国4年(1343年)11月常陸国伊佐郡の伊佐城で高師冬に破れた。このため、経長は中村城に逃れ、宇都宮公綱を頼り、以降は宇都宮氏に属した。

★南北朝の対立になると経長は南朝方に属し、伊達行朝等と共に北畠顕家に従って戦った。 φ(..)メモメモ

延宝5年仙台藩伊達家家臣窪田権九郎所々廻見覚書の検証[編集]

延宝5年に行われた陸奥仙台藩による伊達氏旧跡調査に接した窪田権九郎所々廻見覚書によるところの中村地域の主体的な行動により形成されたものであろうとし『真岡市史』などのはこの書を元に、中村氏の伊佐郡移住説について中村氏の存在そのものや伊達氏発祥地伝承自体についても討すべき余地が多いとしていたが、近年の研究ではこの仙台藩による伊達氏旧跡調査のさいに伊達宗村が中村八幡宮に奉納した遺品が下野の中村で見つかり、朝宗を伊達家始祖とする伊達家としては尊卑文脈にない伊達宗村が始祖となるようなことのないよう所々廻見覚書に記したとされる。なおこの伊達宗村遺品の軍配団扇は現在仙台博物館の所蔵とされている。

あの・・・・窪田権九郎。この方伊達家家臣なのですね・・

父が、私に、宮原の先祖の事を、知りありの歴史研究家の方が調べて下さっていて、なお且つ、子供の頃から色々聞いていたにも関わらず、私に一切教えてくれていなかった理由の一つが「窪田(もしくは久保田)家から養子に来られた人がいるから」でした。
「橘」と窪田(久保田)の関係がよくわからないからという理由だったのですが・・

今朝、偶然、「窪田」という姓が出て来たのでしょうか・・?

そこで、もう一度 日本の苗字七千傑様の【藤原氏山蔭流】姓氏類別大観を見たのですが・・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02018.htm#001

皆様、お解かり頂けましたでしょうか?
安達氏・伊達氏・中村氏 は同族なのですね。
(すいません。驚きすぎて、今、ものすごい鳥肌がたっています・・・)

もう、一気に見て見ようと、《藤原姓塩川氏/間部氏》姓氏類別大観へ進んだ所 中央付近に「西田」の文字が・・・

あの・・今度は宮原ではなく、平川の祖母の兄が養子入った家「西田」家と同じ「西田氏」ですね。
偶然なのかな?でも、今朝は、朝からとても不思議な気分です。

 


[82]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年03月08日 07時47分01秒 ) パスワード

こんにちは。メール読みました。
最近、ネット環境が少し変わった影響だと思いますが、回線か設定の具合で返信するのが困難なため、こちらの方で書いてもいい内容を書いていくことにします。

宮原氏と景教の関係を示すものはどうみても無いと思いますが。
足利氏流の宮原氏は当方の宮原氏とは全く関係がありませんし、その時点で「真里谷」という氏とも関係がないという事になります。

聖徳太子はキリスト教徒だったという説などは
全般として観念的で論理の飛躍が目立ち、信憑性に欠けるものだと認識しています。

月刊ムーなどのオカルト雑誌で取り上げられる内容ですよね。私も間々読むので分かります。
例えば、あるマークや名前・地名の読みが、何かと近似している事を根拠に話を展開していくといった感じですね。
しかし、そういう事を言いだしたら、私も容易にキリスト教徒という事になってしまうんです。
私は宗教全般に興味があるので、聖書も所有していますし、他方趣味の範囲で十字架のアクセサリーも持っていますから。
それに加えて、あの人の住所に「○○」という地名がある。
この「○○」は聖書に出てくる「○○」を漢語に訳したものと何と同じではないか!
もう、彼はキリスト教徒だった事で間違いないだろう…という感じで結論付けられてしまう事でしょう。まあ、どう見ても曲解ですよね。
私みたいに生きてる人間だったら否定できますけど、死人ともなれば、まさに「死人に口なし」ですから、もう言われたい放題になりますよね。

仮に彼らに矛盾点を次々に列挙していった所で

「実はそれ以前に、既にこういう事があったんだ」
「実はそれ以外にもこういう物があるんだ」

と言われて、更に矛盾点を列挙していくと最終的に

「これは陰謀だ。知られたらマズい真実が隠されているんだ」

などと言い出して、堂々巡りでお終いにされます。要は結論ありきの主張なのです。
高校時代にオカルト好きの同級生と問答した事あるので大体分かります。



橘薩摩氏と平河氏に何か接点があるとすれば、日本歴史地名大系 久米郷の項目に

「(前略)…その後相良氏によって領知されることになり、文明年間(1469〜87)には、
 相良為続が久米郷内奥野村・多良木村・西方などの田地を給知として一族や平河氏に付与している(文明十七年二月吉日「平河但馬守給分坪付」平河文書など)。」

と書かれていて、久米郷内の田地を相良氏と平河氏で分け合ったわけですから
少なくとも、同じ久米郷にいた宮原(橘)氏との間に、地縁による関係はあったでしょう。

しかし、それ以前から何か特別な関係にあった事を示す史料があるのかどうかは何とも言えませんね。



平家物語における橘公長の記述に関してですが、平家物語の性質を考えたら
平氏方から源氏方へ寝返った公長は、叩くには恰好の的ということになります。
現実として世間から非難されたのかと言えば非難されておらず、誇張的な表現でしょう。

橘氏は宇和郡を本拠として、讃岐国などにも影響力を持っていて在京経験が豊富な武士です。
地理的に考えて、平清盛による瀬戸内の覇権獲得に伴い、半ば強引に平氏方に組み込まれたと考えるのが妥当だと思います。

橘氏もそうですが、源氏の勢いが強まっていく過程で平氏方から寝返る武将も複数いますし、
平氏方の武将の皆が忠誠心を持っていたわけではなく、不満を抱きながら付き従っていた者もいたということです。

義経による四国攻略の際に、橘公業が先陣として讃岐国の武士を引き入れるよう工作して
御家人に組み入れたりしていますから、その時に味方になった武士たちも平氏に不満を抱いていた者たちでしょう。

鎌倉幕府三代将軍実朝の時代の「吾妻鏡」建保四年(1216)十二月二十三日条に
実朝の前で頼朝からの手紙を披露し涙を拭いながら述懐するという場面がありまして
頼朝や源氏将軍との間に個人的な結びつきをうかがわせる記述です。

これらをみても、平氏に特別な感情を抱き続けてきた人とは思えないのです。


吾妻鏡に見える橘氏は「馴京都之輩」や「為弓馬達者」という特徴があり

在京経験豊富で故実に精通している話としては
元暦元年(1184)六月一日条の平頼盛の接待の話や、元暦二年(1185)七月二日条の平宗盛の護送、建久六年(1195)三月四日条の延暦寺衆徒への使者役などがあります。

弓馬達者としての話は
治承四年(1180)十二月二十日条の弓始の射手、建久二年(1191)七月二十八日条の御移徒の際の御調度懸、建久五年(1194)十月九日条の住吉社で流鏑馬に備え武芸故実を語り合うものなどがあります。

鎌倉御家人の構成や性格、武士論を研究する上で
橘氏というのは面白い研究対象にはなるんじゃないでしょうか。


三浦氏と橘氏の関係ですが

美作朝親の妻に、橘公業が手を出した事で騒動になり
橘公業には和田義盛と三浦一族が、美作朝親には武田と小笠原の人々がそれぞれ加勢に入っています。

とは言え、三浦氏との関係がずっと良好だったかと言えば
橘公員・公義に時代が下り、宝治合戦になると、三浦氏を滅ぼす側にいます。

公員に至っては、三浦氏の屋敷に忍び込んで開始と同時に仕掛けてますし(失敗に終わる)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%B2%BB%E5%90%88%E6%88%A6

↑こちらに載っている「小鹿島公苗」というのは橘公員の事で「苗」は末子の意味です。

そもそも、政治上の利害関係次第で、敵・味方はころころと変わるものですから
善悪云々というものでもないですし、当たり前といえば当たり前な流れですね。

橘氏の誤算は、源氏将軍がすぐに絶えてしまったという事でしょうか。
頼朝没後あたりから、ひしひしと危機感を抱き続けてきたのではと思います。

梶原景時の変(1199〜1200)、比企能員の変(1203)、和田合戦(1213)と
源氏将軍の権力が北条氏に移っていくわけですから橘氏にとって面白くない事ばかりです。

とすると、「吾妻鏡」建保四年(1216)十二月二十三日条の件は
公業が単に懐古しているというより、今後の源氏将軍の行く末に加え、橘氏の行く末をも憂いているようにも見えます。



余一(与一)というのは「十余る一」という事で十一男を指す呼び方です。
那須与一などが有名ですね。余一左近は余一が共通するからと言って橘公員というわけではないです。

そして、宝治合戦で橘公員は戦死していません。

宝治合戦以後の正応元年(1288)11月21日関東下知状に橘薩摩余一法師(公員)は「肥後國求摩郡内久米郷半分地頭職」を得ていますし
正安三年(1301)七月十二日関東裁許状案 にも公綱とともに公員の名がみえます。

宝治合戦(1247)時、他の文書に見える幼名から考えて、公員は推定二十代半ばといったところです。
この時に戦死しているとしたら、そもそも出家後の「公阿」という法名が系図等に残るわけがないのです。

では、なぜ宝治合戦で公員が戦死したという事実と矛盾する事が流布されているのか。

公員が宝治合戦で戦死した事にした方が得する人達を考えてみると
おそらく、兄の公義流の人々に原因があるのではないかと思われます。

確か武雄市史にも公員が戦死したと書かれていたような記憶が薄らあります。
公義流の家の文書が出典でしょうから、どのみち肥前の方の人達ですね。

公義の流れを汲む人々からしたら、嫡子の公員が宝治合戦で戦死した事にし
公員流に連なる人々を有耶無耶にして後世に語った方が、公義が嫡流だと言っても違和感がなくなりますし、都合がいいというものです。
肥前に本拠をおく公義流の自分達こそが公業の跡を継ぐ正統性を有しているのだと主張しやすいですからね。

と、ここまで言ってなんですが、正統性云々という論争を今になってするのも
あれなんで球磨郡に本拠を置いた橘氏は「橘佐渡氏」とでも切り分けた方が適切かなと思うわけです
[83]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月08日 11時36分46秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>安達氏・伊達氏・中村氏 は同族なのですね。
 
こんなことで驚いていてはいけませんね。
また伊達氏は、藤原魚名の玄孫、山蔭の末裔とされているが、刀伊入冦の際、偉功のあった平朝臣為賢(水守為賢)の裔ではないかとの説がある。

姓氏類別大観《常陸大掾氏》
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01113a.htm
 
伊達朝宗も源為朝の孫に当たる。朝宗の娘大進局は貞暁を生む。
山蔭流そのものも源氏方、下記URLも参考に。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/bunritsu.htm
[84]子孫よりさんからのコメント(2014年03月09日 00時06分59秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、公忠公の末裔様、ご教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様、姓氏類別大観《常陸大掾氏》拝見しました。

伊佐氏。伊佐為宗は常陸大掾氏一族となるのですね。
そこでウィキで常陸大掾氏を調べました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%8E%BE%E6%B0%8F
大掾氏(だいじょうし)は、中世常陸国に勢力を持った一族で、軍事貴族。坂東平氏(桓武平氏)国香流。常陸平氏の嫡流であり、多くの庶家を輩出した。通字は「幹」(もと)。使用の家紋は「対い蝶」、「三つ巴」。

★坂東平氏(桓武平氏)国香流 φ(..)メモメモ 平氏なのですね(゜-゜)


隆興[編集]

国香の子貞盛は天慶の乱で常陸に多くの所領を得た。貞盛は弟繁盛の子維幹を養子にし、常陸の所領を相続させた。維幹は常陸大掾職に任ぜられ、その子孫は代々大掾職を世襲したため、職名から「大掾氏」と呼ばれるようになった。

鎌倉時代 〜南北朝時代
鎌倉時代[編集]

大掾氏は在庁官人の頂点として君臨し、常陸の中・南部に広く分布、多くの庶家が栄えた。嫡宗家は筑波郡多気に本拠地を置き多気氏と呼ばれたが、建久4年(1193年)多気義幹が失脚して所領と大掾職を没収され、吉田氏の吉田資幹が大掾職に任官し、大掾氏の惣領となった。その子孫は水戸城を本拠地として栄え、馬場氏とも呼ばれた。また、常陸守護である小田氏は国衙の掌握を目指し、大掾氏と度々激しい対立を起こしている。

南北朝時代[編集]

南北朝時代に入ると、大掾高幹は中先代の乱では北条時行に、その後は宮方につき、楠木正家が瓜連城に入るとこれに助力する。建武3年(1336年)に瓜連城は佐竹義篤や高師冬によって攻め落とされる。翌年には府中奪取を目指す武家方に攻められ、小田治久と協力してこれを撃退した。しかし、翌建武5年(1338年)には武家方に投降し、小田治久を攻める。その後、大掾氏は義詮、基氏と鎌倉府に仕える。

★楠木正家が瓜連城に入るとこれに助力する。

大掾氏一門の記述の中に 伊佐氏がありました。
伊佐氏・・・ 一族の伊佐為賢が『刀伊の入寇』で戦功をおさめたため肥前国を賜り、鎮西平氏を形成した(伊佐氏参照)。
φ(..)メモメモ うん?・・あ〜〜〜っ!\(◎o◎)/! 肥前国です!

もう一度、日本の苗字七千傑様、姓氏類別大観《常陸大掾氏》を見ると・・
あ〜〜〜っ!!伊佐為賢 → 伊佐為宗 
朝のコメントで
「遍照寺古寺誌に中村朝定は源義経の遺児経若であるとの伝承がある。古寺誌によると源義経の遺児経若が伊佐為宗によって養育され成人後、中村蔵人義宗と名乗り後に改め、中村佐衛門慰朝定と名乗る」
とありました。という事は・・・なんですと!源義経の遺児経若は、鎮西平氏を形成した伊佐為賢の子、伊佐為宗によって養育されて中村佐衛門慰朝定と名乗った。

あの・・何だろう・・めちゃくちゃ鳥肌がたっています・・。
平氏・源氏ではなくて、身体が肥前国という言葉にむけて反応しているようです。

私は、過去の歴史や文献は全く理解していませんが、でも、多分皆様はお笑いになるかもしれませんが、自分でもよく解らない不思議な感があります。
マタマタ(ー_ー)!!って言わないで下さいね。

その感が、実はずっと前から、橘公業と西園寺公経の替地は単純に伊予を公経が欲しがったからではないと、何故か伝えて来るのです。
もっともっと、深いそして重要な意味が訳があったと。

上記の時代には未だ替地は行われていなかったのかも知れませんが・・
でも、その不思議な感により、現に、この1週間以上、今まで、想像もしていなかった情報が次々と現れて、そして、皆様からのご教示により、宮原(橘)と平河が三浦一族(佐原氏も含め)・二階堂氏と何らかの縁があったとの事が解ってきました。
その感が、とても、今朝から、騒いでいるのです。
あの・・多分なのですが、この感は、先祖から受け継いだものだと思います。
先祖の中に、同じような感をいえもっともっと強い感を持った人がいたのではないかと思うのですよね・・

あっ!脱線しました。すいません。

日本の苗字七千傑様の、姓氏類別大観《常陸大掾氏》から《多気氏》に進んでみると・・http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
あっ!真壁氏は橘紋なのですね・・(゜-゜)

今後も、このお話はしっかりと調査継続していきます。<m(__)m>

ちょっと長くなりすぎたので、次のコメントに続けます。<m(__)m>(^・^)





[85]子孫よりさんからのコメント(2014年03月09日 01時27分19秒 ) パスワード

では続けさせて頂きます。<m(__)m>

公忠公の末裔様、ご教示ありがとうございます。
でも、本当に公忠公の末裔様は、橘(宮原)の事をお調べですね。
すごいです。

祖母の平河の事も調べて頂いて、本当にありがとうございます。
「平河但馬守」この名前を調べますね。


所で、先祖は上手に、DNAを分けてくれたのですね。
だって、冷静沈着に、文献を分析する公忠公の末裔様と、何だか不思議な感を持ってしまった私。
(二人がタッグを組めば・・と言いたい所ですが、私は何の役にもたっていません(@_@。)

キリスト教については、多分、きっと、いつか何かが出て来ると思います。
その時までは、この件は、あせらずに、調べて行きませんか?
きっと、先祖が何かを教えてくれますよ(^・^)

それから、真理谷氏そして、足利については、記述を見ても、球磨の宮原とは関係ない事は解っているのですよ。

でも・・なんだろうな〜何かを感じるのです。
公忠公の末裔様の冷静な分析と、文献の解読力で何かを見つけて頂けたらうれしいな(^・^)と思っています。

所で公員と宝治合戦の件ですが・・
私、昨日、コメントした後に、実は変だな?と思う事があったのです。
以前御紹介した三浦一族に関連するサイト
http://www1.ka6.koalanet.ne.jp/souma/miurasoryo6.htm
を見ていたら・・
建長2(1250)年8月15日鶴岡八幡宮寺放生会随兵の後陣隨兵に
「橘薩摩余一公員」とありますよね・・・(?_?)
宝治合戦は宝治元年(1247年)6月5日。

おや?(;一_一)?なんで?・・と。
実は、私、パソコンの前でポロポロ泣いていたのですけど・・
そりゃあですね〜もうすでに800年以上も前に亡くなった御先祖様ですが、でも、さすがに最期の記述を読めばですね・・何だか切なくなってポロポロと涙が・・・

でも、その後にウィキの宝治合戦の「小鹿島公苗」の記述を読んで、なんだろうな〜「ありゃりゃっ?(;一_一)」と思った訳です。
この方のほうが、とても強い繋がりを感じるのは何故?とですね(?_?)

そうですか。小鹿島公苗が本当は橘公員だったのですね。

公忠公の末裔様?笑っていませんか?もしもし?(ToT)/~~~ (声が聞こえる訳はありませんね(ー_ー)!!)
公員は私だけの先祖ではありませんよ〜公忠公の末裔様にも、この方のDNAは流れていますよ〜!!

ただ、父はですね。弓道・剣道・空手・銃剣道あと色々と・・かなりの達人と呼ばれています。

そして、従兄は、公忠公の末裔様と、とても、似ている気がするのです。
冷静沈着。分析力にすぐれていて、物事を、端的に表現する事が出来るのです。

という事で・・いいな〜みんな〜良いとこを貰って〜〜(゜-゜)
私は(>_<)・・・何でだろうな〜
私が泣いたあの記述にも、本当の事が少しは書かれていたのでは・・
それは、「橘公員は武具を身に着ける暇なく甘縄から出陣し奮戦したものの、・・」 
うん?あわてて遅れた事を強調していませんか?
こういう方だったと言う事を、もしかしたら表しているのかな?

でも、私は、この二日間で、橘公員、先祖様の事がとっても好きになりました。(^・^)

それと、三浦一族が橘公業のスキャンダル?「不倫問題」の為に見方されたとは知りませんでした。
戦になりかけたのですよね。良かった、本当に戦にならなくて。

でも、よほど綺麗な方だったのですね。そこまでして、好きになるとは・・
もしかしたら、ずっと好きだった人だったりしてですね・・。

私、先祖の、人間味溢れる部分を今度から調べてみようかな?と今思いました。 そういう事も知りたいです。

橘公業。この方も大好きですよ。(^・^)

私のコメントは、御近所のおばさん(ー_ー)!!いえ、お姉さんみたいですいませんでした。

今後とも、公忠公の末裔様、ご教示よろしくお願い致します。





[86]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月09日 11時10分17秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

追加情報:
小鹿島氏(橘姓)の後裔で奥州伊達氏に仕えた矢内氏がいる。
http://www.ne.jp/asahi/yanai/roots/body09.html
 
伊予宇和島藩主も伊達氏。
伊予橘氏とは長いつながりなんでしょうな。
[87]子孫よりさんからのコメント(2014年03月09日 14時36分33秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。

日本の苗字七千傑様、追加情報ありがとうございます。

伊予宇和島藩主も伊達氏。

宮原(橘)の先祖はある程度解っている(ホッ(^・^))っと思っていたのですが、マダマダ(ー_ー)!!だったと言う事です。

教えて頂いたサイトの矢内氏の記述には、「小鹿島氏(橘姓)」であると記述されていました。

家紋に疑問をもったきっかけが、「安達氏」。そこから、このような情報に繋がって来るとは思いもよりませんでした。

矢内氏を調べました。

次のようなサイトに
http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/ji-20.html
双葉郡楢葉町に居住する矢内氏の過去帳の初代には矢内河内守橘道輝、天正十三年(1585)乙酉十一月十九日とある。また楢葉町大字前原に城善寺を建立した矢内氏も橘姓と河内守を称していて、天正十七年(1589)には双葉郡富岡町に龍台寺を建立している。家紋は橘である。

★橘姓と河内守。家紋は橘。「矢内河内守橘道輝」
こちらが日本の苗字七千傑様から教えて頂いた「矢内氏」と繋がっているかは解りませんが。でもやはり橘でした。

うん?・・?
こちらのサイトは「矢内氏」と検索して出て来た一覧の一つだったのですが、最初に「二階堂」という文字があったような・・
タスクバーのボタンにも「戦国大名二階・・・」と・あれっ?

サイトの画面一番下に「TOP」ボタンがあるのでクリックしてみます。?

ぎゃお〜〜〜〜!いや〜ん(*_*) (変な声が出てしまいました)

\(◎o◎)/!戦国大名二階堂氏の興亡史とな?!
http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/welcome.html

ええええっ!何で!二階堂氏に関連するサイトの一つに「矢内氏」の情報があったと言う事です。\(◎o◎)/!

画面をよ〜く見ると・・右下に
番外編のcontents に・・「秋田久保田藩」 秋田の久保田あきたのくぼた・・くぼた・・エエエエエっ!

実は先ほど、父と電話で話していて(父が何かポロッと言わないかな(;一_一)と思っていたのですが・・)父は「お父さんはね〜宮原に沢山こられた養子さんの家を調べてもらいたかね〜。特にタイ「くぼた家」ば調べて欲しかね〜」★実は窪田か久保田かわからないのです。親戚にも両方ありますし・・
★むか〜しむか〜し宮原には「くぼた家」から養子が来られたとよ〜と代々伝わっている話だそうで。

このサイトのトップページが表示された時はびっくりして・・
はは〜ん( 一一)これはきっと平川の先祖様が「うちはどうなっとると!!(ー_ー)!!」と私を通じてこのページを出されたのかな?と思ったのですが・・
★皆様、私が言う事は頭からスルーして下さいね。<m(__)m>

でも、この「秋田藩久保田氏」とある事から、 宮原・平川の先祖が「ニヤッ」と笑っているような・・・・

とりあえず、調査、続行いたします。<m(__)m>(^○^)








[88]子孫よりさんからのコメント(2014年03月09日 16時43分43秒 ) パスワード

みなさま〜\(◎o◎)/!

あっ新しい情報が見つかりました\(◎o◎)/!

先ほど御紹介したサイトの 二階堂氏の所領(暫定版)

http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/syoryou.html

私、最初に、肥後を見たのですが、「ないな〜?」と思い(>_<)、そのまま、表一番上を見た所・・
出羽国山本郡六郷(地名)  秋田県仙北郡美郷町六郷(現在住所)
二階堂六郷氏(行光系?)・二階堂久米氏(行村系?)

\(◎o◎)/! 二階堂久米氏 って 何?!

秋田で二階堂久米氏 です。

偶然かも知れませんが、この頃調べていた事が、この記述にもしかしたら繋がっているかも?と思いまして・・・

六郷。 国東半島で私が頻繁に出かける、大好きな場所が六郷満山。

六郷という言い方は色々な所で使われているのでしょうか?

気になってもう一度先ほどの表をみました・・・

げげげ〜っ(先祖より、こら、はしたないとの声が・・(*_*))
豊後国国東郷(地名) 大分県国東市(現地名) 信濃伊勢入道(二階堂盛綱か)
わ〜お(゜.゜) 国東と二階堂氏は繋がっているのですね・・

そう言えば、M田さんとドライブに出かけ、私の方向音痴により、道を間違えて、宇佐市の山をうろうろしてしまった時に、突然、目の前に近代的な工場が現れて、「山の中に何だろう?」と思ったら、焼酎で有名な「いいちこ」を作っている「二階堂酒造」でした。
その時は「あ〜っ\(^o^)/「いいちこ」だ〜 「いいちこ」はここで作られているんだ〜\(^o^)/」と言いながら、二階堂酒造の駐車場でUターンをして帰りました。(゜-゜)

ありゃりゃ??? 何であの時道を間違えたのかな?(そっちかい(ー_ー)!!という声が聞こえたような?)

話を戻し<m(__)m>

二階堂久米氏・とはいかなる人物なのでしょうか?

秋田は、宮原・平川の先祖に繋がる何かが隠されているかもしれません。

<m(__)m>(^・^)



[89]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月09日 18時05分26秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>実は窪田か久保田かわからないのです。親戚にも両方ありますし・・
 
橘公業は出羽国秋田郡小鹿島地頭となり、後裔は小鹿島を称する。
肝心の秋田郡の中心地域は秋田ではなく久保田(元は窪田)。
慶長7年(1602)佐竹義宣は20万石で土崎湊城に入城、翌年窪田明神山に久保田城を築き久保田が藩政の中心となる。
明治維新、久保田は秋田と改称され、現在の秋田県の呼称になる。
 
従って窪田、久保田は同じと考えて良いでしょう。
肥後久保田/窪田氏は諸流存在するが、菊池氏族の可能性が高い。
[90]子孫よりさんからのコメント(2014年03月09日 19時44分33秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

日本の苗字七千傑様、ご教示、本当にありがとうございます。

秋田は元々、久保田だったのですね。驚きました。
窪田から久保田。

菊池氏族の可能性が高い肥後久保田/窪田氏ですね。

久保田/窪田氏が秋田に由縁のある名前と伺って、本当にうれしく思います。

菊池氏族のくぼた氏を早速しらべてみます。

本当にありがとうございました。



[91]子孫よりさんからのコメント(2014年03月09日 22時42分38秒 ) パスワード

ちょっと脱線します。<m(__)m>

コメント88で、二階堂久米氏(行村系?)という記述を見つけましたが、二階堂行村系は・・と思い日本の苗字七千傑様の《二階堂氏行村流》姓氏類別大観を拝見しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm

先日、ご教示を頂いた 禅門道我・・・・二階堂出羽守行藤 二階堂和泉守行方は 二階堂氏行村流でした。

そして・・・・
じ〜っと!この系図を見ていた所あれっ?!と・・
《絵家狩野氏》?狩野派とよく伺うあの狩野氏?

画面下の推薦書籍 「御用絵師 狩野家の血と力」という言葉を見てハッとしました。

皆様、覚えていらっしゃいますか?
私、以前、夢で先祖?から「絵師を調べなさい」と言われていました。\(◎o◎)/!

あああああああっ!!絵家狩野氏です!

あの時は、意味が解らなくて違う方を調べていました!

二階堂氏と平河の繋がりが見えて来て、やっと先祖?の言葉の意味が解りました。

きっと、私が、グルグル回ってばかりなので、どうすれば二階堂氏にたどり着くのか、あの時、先祖も考えられたのかもしれません。((ー_ー)!!マタマタとの声が・・)
★折角のアドバイスが違う方向にいきました(*_*)きっと先祖は、声をそろえて「ありゃりゃ〜」となっていたでしょうね。
「この子孫は、おたくに似ている」「い〜や家じゃない」「やっぱりこちらに似ている」「い〜やわたしではない(ー_ー)!!」と危なく戦?になる所でした(*_*)

でも、本当に今、驚いています。

ごめんなさい先祖様、わたしはこげんありますもんね〜(*_*)

では<m(__)m>(^・^)





  
[92]子孫よりさんからのコメント(2014年03月10日 00時05分45秒 ) パスワード

みなさま\(゜ロ\)(/ロ゜)/みなさま\(゜ロ\)(/ロ゜)/

ついに、ついに見つけました!!

平河義高 二階堂氏 そして、なんと宮原ではなく平河と伊達氏を結ぶ記述を見つけました!!

久保田(窪田)氏の調査に入ろうと思うのにどうしても、二階堂久米氏の記述が気になって、googleブックで「二階堂久米氏 球磨」とキーワードを入れて検索した所、以下の記述を見つけました。

葬式仏・ - 133 ページより
球磨郡神社記」に四一社をあげているが、その社名と霊神名は、つぎのごとくである。 ... 瀬主馬) ,山田若宮(山田地頭祖) ,小山田大王(平川義高 二階堂為氏の新妻となったが、 はない。 ... 八実) ,黒肥地荒岳(相良定頼) ,多良木新八幡黒肥地新八幡(相良頼景) ,黒肥地大王(平川高(相良玄蕃) ,黒肥地若宮(相良頼観と頼仙) ,春) ,久米新八幡(相良治

★小山田大王(平川義高 二階堂為氏の新妻となったが、 はない。 ... 八実)
多分、山田大王神社の記述だと思います。平川義高が祭られています。そして二階堂為氏に何方かが新妻となったが・・・と。

早速 二階堂為氏を検索して、何故か今日一日の調査に繋がる記述が出て来たのです。
ウィキより 二階堂氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E6%B0%8F

須賀川二階堂氏[編集]

鎌倉時代の二階堂氏から須賀川二階堂氏へ至る詳しい系譜は明らかではない。

文安元年(1444年)頃、鎌倉から二階堂為氏が須賀川に下向し、命令に従わなくなった須賀川代官二階堂治部大輔を討ち、須賀川城に入ったという。この為氏が須賀川二階堂氏の初代当主ともいわれている。

天文11年(1542年)に勃発した天文の乱と呼ばれる伊達氏の内訌に端を発した大乱では、伊達稙宗の娘婿二階堂照行(輝行とも)は稙宗方となっている。

永禄年間(1558年から1570年)になると、度々蘆名氏に攻められ、二階堂盛義は息子を人質として送り講和した。

盛義の死後当主となった二階堂行親は夭折し、その跡は盛義の未亡人であり、伊達政宗の伯母にあたる阿南の方(大乗院)が継いでいた。そのため政宗も幾度となく降伏を薦めたが、阿南の方はこれを頑強に拒否。天正17年(1589年)10月26日政宗に攻められて、須賀川城は落城した。阿南の方はその後政宗を嫌って甥の岩城常隆を頼り、常隆の死後は佐竹義宣の元に身を寄せた。佐竹氏が出羽に移封されると病のため須賀川に留まることになり、1602年に62歳で没したという。

★二階堂行親の名もあります。
★日本の苗字七千傑様からご教示頂いた「佐竹義宣」の名もあります。
★二階堂行親は夭折し、その跡は盛義の未亡人であり、伊達政宗の伯母にあたる阿南の方(大乗院)が継いでいた。
★伊達稙宗の娘婿二階堂照行(輝行とも)は稙宗方となっている。
★度々蘆名氏に攻められ、二階堂盛義は息子を人質として送り講和した。

これはこれは\(◎o◎)/!今日、一日の調査やご教示が無かったら、記述されている内容はきっと意味が解らなかったと思います。

二階堂盛義については先日もコメントしていました。
ウィキより 二階堂盛義
二階堂 盛義(にかいどう もりよし、天文13年(1544年)? - 天正9年8月26日(1581年9月23日))は、戦国時代の武将で、須賀川二階堂氏の当主。二階堂照行(輝行)の嫡男。別名、行盛(ゆきもり、父と「行」の字が共通していることから初名の可能性が高い)。信濃守。

蘆名氏の当主である蘆名盛隆の実父。盛隆の他に二階堂行親、行久(ゆきひさ)、行栄、岩城御前(岩城常隆後に伊達成実継室)などの子がいたとされる(行久と行栄については「須賀川市史」などで存在を指摘しているが不明な点も多い)。室は伊達晴宗の娘の阿南(おなみ)姫。

★岩城御前(岩城常隆後に伊達成実継室)
★室は伊達晴宗の娘の阿南(おなみ)姫。

今日、一日の締めくくりがこちらの情報となるとは・・・

では(^・^)<m(__)m>





[93]管理者 aさんからのコメント(2014年03月10日 02時20分19秒 ) パスワード

きりの良いところで新たにスレッドを立ててください。
[94]子孫よりさんからのコメント(2014年03月10日 06時11分26秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

皆様から頂いた、ご教示のお陰で、調査が順調に進んでおります。
本当に御協力頂き、ありがとうございます。

新しい、スレッドを立ち上げました。

今後とも、ご教示の程、どうかよろしくお願い致します<m(__)m>

新スレッド
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