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 投稿番号:101330 投稿日:2013年10月28日 06時54分49秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について(続4)

コメントの種類 :その他  パスワード

新しいスレッドです。
前章(また勝手に言っています)では曾祖母より相良氏も先祖である事が解り、なにより球磨の平川の出口”一条氏”というキーワードが見つかりました。
今後とも皆様ご教示の程よろしくお願い致します。<m(__)m>

[1]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月28日 12時03分17秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>一条貞家八郎公 は 平川依高公より100年ほど後の人ですから、良峯安則公から考えると150年ほど後の人。ですから考えられるのは 一条信長公あたりかもう少し前に関係しているのではと思います。

飛躍のしすぎですよ。
一条氏は武田流より藤姓の土佐一条氏が有名だが、他にも異流はあまた存在。
単に肥後一条氏の一人でしょう。(恐らく菊池氏族)
永正元年(1504)三月の菊池政隆の侍帳に一条十郎助光。
 
菊池氏族そのものが百済氏説も存在。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03013b.htm

[2]白石さんからのコメント(2013年10月28日 21時35分29秒 ) パスワード

こんばんは
五右衛門がやめてから 二人分の仕事を 一人でするようになって 一週間がたちました。一週間でよいから 契約時間をのばしてほしい と言われて そうしたけど、主婦には 長い時間働くのは とても ムリ。家庭を犠牲にして働くことは 考えられません。

時間給を2人分くれるなら 考えますけど・・・今日からもとの時間にかえしていただきました。
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子孫様
新堀家のこと わかってますよ^^

私の頭が 平川の文字が飛び込んできて、そっちへはしった ということです。
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一条 武田 竹田川辺 菊池  
こっちも 私も ずんと 飛躍していました。

なにせ うちの方の 竹田さんの顔立ち 菊池の顔立ちが ご子息 お嬢さんと同じ
が 頭にインプットされているので・・・DNAは争えず 。

そして 私のほうには 川辺川があり、川筋に 平家城跡 川辺
そして 薩摩坊津は川辺の地・建部の地で 平家の本拠地。
大陸から流れ着いた船は 九州西側にたどり着いたみたいですよね。

そして
近衛も 秀吉・家康ににらまれると ここへ 隠れた。
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昔の人は 新羅の源氏・平家の百済と言っていました。

菊池隆直は安徳天皇を西海へお連れしている。

上の1のネットへつないだら
なんだ みんな 仲間じゃないか!!
ですね。
なっていったのですね。
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娘のために着物をそろえましょう と 今の時代だから たくさんはいらないけど 色無地だけ買って 染め直して着よう と お店にいきました。

そして
うちでは とても そういうものは 買おうと思っても お店が売ってくれない と思うようなものを 手に入れることが出来ました。
京都の有名な お店(一見さんでは相手にしてもらえない)で織られたもので、これなら 素人の私でも 間違いない ほんまもんを手に入れることが出来た。 と 思っております。反物を手に持っても 違いがわかる というようなものです。しっとりとして。
なにせ 
さるお方のために織られたものだそうなので・・・
本当に良いものはよい で パーティーの席で、義母が 「映えるなあ」と満足そうにしていました。

その時 これから すこしづつ そろえるなら これくらいのものをそろえてくださいと 
姉小路の名が入った 反物を見せていただきました。目をむいてひっくりかえりそうなお値段で、見るだけで終わりました。
そして
竹田の有松しぼり
小柄なおばあちゃんが 私の手をとって 
子供の頃から 一生懸命 しぼをつくってきたんです。とおっしゃいました。じぶんがつくったしぼは 夜ねるとき 布団を上においておくのです。そうしないと しぼがたって 着物が 短くなる? ということでした。
こちらもお値段が・・・^^手間を考えると当たり前のお値段だけど
手が出そうになって その手のやり場に困って そっと 下に下ろしましたけど、お財布と相談しなければいけない 普通の主婦の おはなしです。

他にも ダイアナ妃に献上した 祇園の山車にかざるものをつくった という先生の作とか いろいろ ほんまもんの勢ぞろい というものを 見せていただきましたが、見ごたえがありました。

そして 
系図をだしてある方なども ありました。
祖先は れきれきたるものでした。

織物の世界にも 昔の人の血は 生きているのですね。


 




[3]子孫よりさんからのコメント(2013年10月29日 00時11分55秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、マタマタ私、思い込んで周りが見えず突っ走ってしまいました。 すいません。

白石様、お仕事お疲れ様です。
二人分の仕事をこなすのは本当に大変ですね。
お身体気をつけて下さいね。
それと・・私は着物の事は全く解りません。
そして、一番後悔しているのが、祖母が、訪問着を作ってくれて、マンションに置いていたのですが、嫁ぎ先のお母さんから、手入れが出来ないでしょうと、帯や全て、預かって頂いたのですが、離婚するつもりでマンションを飛び出したので、元夫の実家に全て置いたままなのです(@_@)
もう、取りに行く訳にもいかず・・・。 本当に祖母に申し訳ないなと・・

さて、皆様へのご報告ですが(朝、失敗したので気を取り直して)

実は・・・良峯(山田)遠高公のお名前が・・・・・
なんと!!東京大学史料編纂所のフルテキストデーターベースにて
登場致しました\(◎o◎)/!(^O^)/

それは  野府記  です。
でも!!内容が全くわかりません(@_@)
全て漢文です(@_@。 野府記の2ページ目から遠高公は登場するのですが、名前は解っても、書かれている内容が・・全く解りません!!
折角、折角見つけたのに。
内容は長徳2年の正月から12月までの出来事だという事はわかります。
場所は御所内(宮中)です。
良峯遠高公登場の2ページの内容は・・何となく解るイメージですいません
時は、お正月です。 場所は宮中。 叙位議事となっています。
登場人物は 藤原隆家  藤原伊周 藤原道綱 源扶義 源忠規 藤原兼隆
藤原成周 藤原廣業 藤原周望 藤原頼經 その他読めない人が・・
そして花山院御給 という字もわかります。
そして、遠高公にかんしては・・(文字がコピー出来ないので入力が・・)
小輔良峯遠高 余給位記 受之就案 令小納言印遠高執莒進之・・・・・
そして3ページ目には
大失礼の文字と なんと
花山法王隆家伊周ト為光第ニテ闘亂ス
とありました・・・・・・・・・・・・なんという事でしょうか・・・

何かの通達が行われたような文章でした。
そして 藤原隆家 藤原伊周 この方たちは長徳の変を・・・・
その事についての話だったような感じです。
その議に良峯遠高は居たのです・・・・・・

急になのです。今まで、毎晩画面を見てきたのに、急に良峯遠高に関する文書が今日、出てきたのです。
今まで、良峯 と入力しても、情報は 良峯安世・宗貞といったメジャーな名前の情報ばかりしか集まらなかったのに何故?
先祖の名前が出てきた事はありがたい事です。本当に感謝します。
ただ、内容が・・・・・

何か、この事件に関係があるのか・・・・
そして、藤原隆家は・・・菊池氏に繋がっていました・・・

球磨に伝わる平河の系譜の年号は、本当に正しいのでしょうか?
もし、後世にて作られているものであれば・・・
私は、先祖の秘密を見つけてしまったのではないのでしょうか・
平河義高公とは、平河依高公の子供ではなく、もっと後の人物だったとすればつじつまが合います。
球磨に至るまでの平河(良峯)の足跡が、山本以外にあまりにも見つからないのはやはり、大きな理由があるのではと・・・
でも、どういう事実が見つかっても、私の大事な先祖です。
私を守って下さっている大事な大事な祖母の先祖です。
私は、もしかしたらパンドラの箱を開けたのかも知れません。
でも、情報が見つかったからにはしっかりと受け止めて調査します。
<m(__)m>

[4]子孫よりさんからのコメント(2013年10月29日 01時01分34秒 ) パスワード

皆様へご報告です。

今、5ページ目ですが・・・
東三条院御悩ヨリテ大赦ヲ行ナウ
とあって、内容が良く解りませんが、何人かの名前(役職名)そして召遣内記・中務輔良峯遠高、又仰云・・・・・・(全く内容が解りません)そして中に仰府正飛鳥部好兼・・・・見了奉右府・・・(何処かにしばらく行って帰ってきたら何かを返給ス・・・)・・・召中務省輔遠高・・・

私が書いている事どなたもお解かり頂けていないと思います。
本当に文章をコピー出来たらいいのですが・・

やっぱり、何か大変な事態が起こったとしか考えられません。

読めないのですが、沢山の方が嘆願書をだしているような感じの文章が続いていたように見えたのですが。間違っているかもしれません。
<m(__)m>
[5]白石さんからのコメント(2013年10月29日 06時00分17秒 ) パスワード

子孫様 おはようございます。
野府記(『小右記』・「続水心記」)三条西家所蔵本には『小右記』、伏見宮家所蔵本には『野府記』
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教えて! Watch というブログに 読み下し文の質問が出来るようです。
そして 自分で読めるようになるには

自力で読むテキストとして斉木一馬編著『古記録学概論』をお勧めします。メジャーな古記録が全て紹介されており、読み下し方がわかるように作られています。

、訓読小右記の訓じ方は参考になるかもしれません。
「変体漢文 / 峰岸明著. - 東京:東京堂出版」が古典的な教科書でしょうか。
と ありました。
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手っ取り早く こういうところで 質問しても・・・
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長徳の変
いつの時代も パンドラの箱はありますね。

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結婚前に用意した 着物のこと
当然返していただけますから 連絡をしてみたら?
自分で 言いにくかったら 人を介してとか・・・

自分でもう 着物に対して 気持ちが 離れていたらともかく まだ 何か心にあるなら 連絡してみたらどうかな?と 思います。

あちらの お母様?になるのかな ? が よくしてくださっていたとのこと。
もしかしたら これは ○○の着物 といって 大事にしてくださっていたかもしれません。母もおばも そんな もう会えないかもしれない 人の 着物があり、暮らしの中で これは ○○の着物 と 何度も言っていました。

本当に着物は よく 空気に触れさせてやらないといけないので、昔の人は大事にしていたから・・・

まわりでも その着物のことは ○○の着物として 知っているかも・・・

今頃になって ・・・ ということも ないかもしれない・・・
そして
時がたった今こそ 自分の気持ちを正直に伝えられることがあるかも 知れないし・・・
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人様の気持ちにまで 介入してすみません。
[6]子孫よりさんからのコメント(2013年10月29日 06時39分25秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
出口を見つけたのかどうか解りませんが、ここにしか無いという気がして必死で頑張っています。

東京大学史料編纂所のフルテキストデーターベースにて、昨晩と同じように”良峯”と入力して表示されたリストには中務輔良峯遠高という名前が含まれる文書リストの他に、右近少尉良峯義方 または 小納言座右近少尉良峯義方朝臣 などの名前の入った文書リストが複数表示されていて年代は天慶ですから938年から947年までの期間となります。
すなわち、小納言座右近少尉良峯義方朝臣 → 中務輔良峯遠高 時代で言うとこのようになると思います。
そして、少尉乳母良峯美子 この方の名前が入った文書リスト複数も出ています。時代は 永祚 永延 天元 すなわち938年〜990年までの事のようです。
 
小納言座右近少尉良峯義方朝臣で 思い出したのですが以前見つけた相良氏文書の中にあった良峯の名

平城天王御子大納言正三位良蜂朝臣安世任武蔵守棹武天王ノ孫長岡ノ御子良峯蔵人頭宗^ 0 四位-肉少将宗處トモ云、御子! :九郎義方、御母七郎荒田寺別当依高

この中に”九郎義方”とあります。
この義方と言う人が 小納言座右近少尉良峯義方朝臣 の義方 と言う人を表しているのではないかと・・・・?

平河(良峯)が京において、どのような家柄で在ったのかを説明した文だったのか?そして、そこから依高に至っていると表現しているのでは・・・
良峯遠高・良峯美子 この方々の史料は 野府記 
そして良峯義高 この方の史料は  九暦 および 貞信公記 
あるのです。

あの、不思議です。次々に情報が・・・
次に現れた良峯は  
忌寸貞澄令従五位下行修理少進良峯朝臣行政従大主鈴正六位上語公

良峯朝臣行政 時代は 長和 1012年から1016年 です。
史料は 御堂関白記 です。

そして 
従五位上良峯朝臣統茂  史料は 九暦 および 貞信公記 
時代は 天慶  938年から947年まで

まだ、全て内容は見ていませんが、全て宮中すなわち京での出来事のようです。
今まで、京でのこの時代の良峯は全く出て来なかったのですが・・?

私なりに頑張りますが、解らない事だらけです。どうか皆様ご教示の程
よろしくお願い致します。<m(__)m>
[7]子孫よりさんからのコメント(2013年10月29日 06時42分47秒 ) パスワード

追記
すいません。またまたおっちょこちょいです。(*_*)
”そして良峯義高 この方の史料は  九暦 および 貞信公記 
あるのです。”  良峯義方の間違いです。すいません(*_*)

[8]白石さんからのコメント(2013年10月29日 19時36分54秒 ) パスワード

続き3の86に書いた 「義方」が該当するようですが・・・宗貞の系ではないけど 安世の曾孫。

良峰安世ー良峰宗貞ー→前野系図へ

良峯安世 ー★★良岑晨直ー良岑衆樹ー義方 ?−957

良峯安則ー○ー平河義高(相良氏に攻められた。つまり1192よりあと。)

良峰★依高 子に深田太郎盛高、山田次郎遠高、平河三郎★師高、横瀬四         郎高実。

良峰依高ー平河三郎師高ー師貞・永池師忠

良峯安世
父:桓武天皇
母:百済永継 - 飛鳥部奈止麻呂女
妻:丹治氏
三男:良岑清風(820-863)
生母不明
長男:良岑木蓮(806-849)
男子:良岑高行
男子:良岑良松(長松)(814-879)
男子:良岑遠視
男子:良岑宗貞(816-890) - 法名遍昭、三十六歌仙
男子:★良岑晨直(農直) - 良岑衆樹の父
男子:良岑晨省(農省)
男子:良岑晨茂(農茂)
男子:良岑行振 
良峯安世 ー良岑晨直ー良岑衆樹ー義方 ?−957
       ★義方は従四位で右少
[9]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月29日 21時40分59秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

子孫様 へ
 
良峯姓にとりつかれていますね。
ちょっと視点を変えて、同音の吉峰(ヨシミネ)姓も調査して見てはどうでしょうか。
発祥地は越前国吉田郡吉峰発祥ですが、現在は鹿児島県が最も多く熊本県にも多く人吉市にも三軒存在。
良峯姓といわれる丹羽氏は越前にも多く、日下部姓朝倉氏族とも言われている。
丹羽氏の出自は、児玉党、村上源氏、清和源氏、平氏、藤原氏と様々な説があるが、接点の多い氏族でも有り丹羽氏調査から何らかの手がかりも考えられる。
[10]子孫よりさんからのコメント(2013年10月29日 22時00分10秒 ) パスワード

皆様、こんばんは。
ご教示、ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様。
そうですね。視点を変えて見ての調査。吉峯・吉峰での調査もやってみます。
それと、丹羽氏の調査も、もう一度やってみます。

古文書の調査は、本日、東京大学史料編纂所データベースはメンテナンスの為、使用出来ないので、別の視点の調査もがんばってみます。

白石様、西暦で分けて頂いてありがとうございます。
何せ、年号が出て来ると、それを一回一回、西暦になおして見直すの繰り返しで、・・・本当に助かります(^・^)

では、もうひと頑張りいたします。

[11]白石さんからのコメント(2013年10月30日 01時30分55秒 ) パスワード

こんばんは
ずいぶん 広範囲の展開になっていますね。^^

なにせ 平安の頃から 現代までに 子孫 あちこちに 増えに増え続けているでしょうから。仲間が一杯!!という感じですね。^^/

私も 何かの時 良峰経世 の言葉を見たと思って
武家家伝吉峰氏で検索をかけたら

河内の式内社/杜本神社(羽曳野市)
www3.ocn.ne.jp/~tohara/minamik-morimoto.html‎※あとでここへつなごうとしたら出来ませんでした。河内の式内社/杜本神社(羽曳野市)でつながりました。

が 出ました。前に 星の宮神社だったか?で 書いたことがありますね。

● この矢作忌寸祖神説に対して、羽曳野市が立てた案内板には、
 「杜本神社は駒ケ谷山の頂上近くに位置し、現在の祭神は経津主命・経津主姫命とされていますが、平安初期には★百済宿禰永継(クダラスクネ ナガツグ・女性)とその祖先の★飛鳥戸氏を祀る神社でした」

●良峯朝臣安世−★吉峯★とも記

●清和天皇・貞観元年(859) 少納言兼侍従従五位下良峯朝臣★経世を杜本社への使いとした
●杜本祭に際して、奉斎使として良峯朝臣安世の後裔が派遣されている。とあり
経世の後裔という人達の名前が ここで わかるかもしれない。

又 経世と言う人は
素性法師 千人万首
www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sosei.html‎
表題に
【補記】「良岑のつなねり」は貞観十七年(875)に従四位下で亡くなった良岑経世かと言う(賀茂真淵『古今和歌集打聴』)。素性の近親か。

開けてみたら
遍昭の子。兄に少僧都由性(841-914)がいる(但し由性を素性の別名とする説もある)。俗名は諸説あるが、「尊卑分脈」によれば良岑玄利(よしみねのはるとし)。

球磨の平川につながるか わからないけど・・・良峰の仲間 


[12]白石さんからのコメント(2013年10月30日 02時24分53秒 ) パスワード

雑学
良峰に関してしきりに 山田 が 出ていました。山田には葉木明神がいた。
山田大王社に荒田観音福田寺があった。
そして 
私の感じで 白石と山田・福田から 平川はつながっている。それもただ百済というだけでなく。

父の生家から平川へ婿養子。
父の生家から白石へ養子。又 その先の世代にも嫁入りしておりついに父が養子。
福田から白石へ養子。

昔は 養子をとるにも ゆかりの家からとっていたので、なんらかのつながりがあったと思える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
先に出ていた 河内の式内社/杜本神社(羽曳野市)より 
その當宗忌寸一族が祀る當宗神社が名神大社とされた由縁は、
「桓武天皇の第12子・仲野親王が當宗忌寸出身の女性との間にもうけた班子(ハンコ)女王が、光孝天皇の後宮に入り宇多天皇を生んだ。この外祖母方の祖神を祀るという縁から、寛平元年(889)宇多天皇の命によって勅使を派遣しての丁重な祭祀をうけるようになり、延喜式の名神大社に列したもの」
ものという(別稿・「當宗神社」参照)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
と 宇多天皇に関わっていき、宇多へかかる 高藤の話。などがありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さらに
白石は 王氏 だったと 昔 辞典で見たと前にいいましたが、
◎国分神社
 祭神−−大国主命・少彦名命・飛鳥大神

由緒記には、
 「当社の創建年代は不詳だが、古書・口伝によれば鎌倉時代の建立といわれ、当時氏人達の信仰のあった大和桜井の三輪大明神のオオクニヌシ・スクナヒコナ、更に★飛鳥部伴造の飛鳥大神を勧請したものという」(大意)
とある。
 なお、当社背後の山には松岳山古墳(前方後円墳・L=130m・4世紀末)を主墳とする中小古墳が点在し、地点不明ながら、“船氏王後墓誌”(王後の出自・経歴とともに、欽明13年-941-に死去し、天智7年-668、夫人とともに当地に葬ったと記す鍛造銅板墓誌)が出土しており(江戸時代)、古く、当地付近には渡来氏族・船氏一族が居住していたという。
 ネット資料によれば、平安末期の武士階級勃興により船氏が没落した後、当地の人々が創建したとあるが、それを証する資料等不明。
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[13]白石さんからのコメント(2013年10月30日 02時35分07秒 ) パスワード

http://sankei.jp.msn.com/life/news/130828/art13082807460002-n1.htm
王後は船氏(ふねし)の中祖(ちゅうそ)である王智仁(おうちじん)の息・那沛故(なはこ)の子供で、敏達(びたつ)天皇の時代に生まれた。推古朝から舒明朝にかけての宮廷に仕えて功績があり、「大仁」(冠位十二階の3番目)の冠位をたまわった。

 王智仁については、『日本書紀』敏達天皇元(572)年、高句麗の国書を解読した書記官、★王辰爾(しんじ)と同一人物と考えられている。百済系の渡来人で、外交や徴税の専門家として日本の国家形成に貢献した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
王辰爾の子孫は葛井(藤井)になる。
葛井朝臣・番良朝臣などがいるし、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 葛井氏/船氏/菅野氏
www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03014.htm‎
姓氏類別大観. 【葛井氏/船氏/菅野氏】 百済貴須王の孫知宗王(辰孫王)の後裔で、河内国藤井より興り、欽明朝に膽津は白猪史姓を賜ったが養老4年道麿は葛井連姓を改めて賜わる。 葛井氏の後裔としては、★宮原宿禰、蕃良朝臣などがある。 後世は藤井と .

葛井宿禰の女子と平城天皇の間の子・阿保親王の子孫が在原になり、絶世の美男子といわれた在原業平もこの系。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 在原氏
www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01207.htm‎
関ヶ原東軍の総大将★徳川家康の祖松平氏★は、在原姓荒尾氏の裔と伝える。 また西軍の領袖大谷刑部吉隆も在原姓と伝える。 【在原氏】【朝妻氏】【大谷氏】 ※他に【藤井氏】【牟礼氏】【佐河氏】【畑山氏】【津野氏】【中平氏】【奥谷氏】【大里氏】【泉田氏】 【阿久沢 ...


[14]白石さんからのコメント(2013年10月30日 03時46分45秒 ) パスワード

新選姓氏録 山田条
出自魏司空王昶也 「鬼谷先生「」ともいう。 
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王昶の子孫が 王辰邇である と 前にネットで見たけど、今すぐ出てこない。
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王氏は又 周の外戚で、熊野の伝説のひとつに 周の太子・しん か?という人がいる。
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http://2nd.geocities.jp/txinui/kumano03.htm
熊野には、徐福上陸伝説の他にも、神武東征神話(ゴトブキ岩)と海神(わだつみ)伝説、熊野権現降臨伝説(唐・天台山の王子信の垂迹)、裸形上人渡来(補陀洛山寺)など中国と日本を結ぶ南回りの文化伝達(船の文化)の話が多い。

この 信は 周の太子・しん かという。
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熊野権現垂迹縁起:熊野の説話 - み熊野ねっと
www.mikumano.net › 熊野の説話‎
昔、甲寅の年、唐の天台山の王子信 (おうししん。王子晋。中国の天台山の地主神) の旧跡が、日本の鎮西(九州)の日子の山峯(英彦山(ひこさん))に天降りになった。その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。そのような姿で天降りになった。それから5 ...※
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
群書類従26 雑部 - 第 26 巻 - 70 ページ - Google ブック検索結果
books.google.co.jp/books?isbn=479710029X
保己一·塙 - 1930
吾巳伊勢太神宮與- ,熊野權現,同钵否事。勘申正四位下行式部大輔藤原朝臣永範長^元年叫月十六日右勘申如"件。信字誤歟。佴此記未,審。取"信矣。 5 。王子信不"知, ,誰人? ^周餒王太子晉歟。今案如緣起,者。唐天台山乃王子信之垂跡枚月乎者兩所權現 ...
 
[15]白石さんからのコメント(2013年10月30日 03時51分15秒 ) パスワード

乙巳の変のときに、一族の破滅を悟った蝦夷は「天皇記・国記」を焼き払おうとしたが、★船氏恵尺★がとりあげて中大兄皇子に献上したとされる。 船氏恵尺は蝦夷に仕えて書の編纂にあたっていた人物である。「天皇記・国記」はもともと厩戸皇子と馬子が編纂を行っていたが、厩戸皇子の死後は馬子、蝦夷はそれを引き継ぎ、その下で船氏恵尺が編纂したとされる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
阿保親王の子孫は 鎌倉時代に 熱田神宮の養子に入り、再び出て毛利氏の養子になった。

千秋氏の方は 相良氏同族・藤原氏から婿養子に入り、源頼朝を出し、最後まで残った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
少し長かったですね。

[16]子孫よりさんからのコメント(2013年10月30日 06時34分00秒 ) パスワード

おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございます。

いつもの事ながら、ワクワクして読ませて頂きました。(^・^)
実は、私もこの頃古文書をいろいろ見ながら(意味は全く解りませんが(*_*))良峯の話の中に”山田”という文字をよく見るなと思っていたのです。その他”山本”も。
肥後とは全く関係のない場所なのに、あれれっ?とですね。

ご教示を伺ったので、早速ネットで検索したら、表示された一覧に葛井氏と宮原の名前がずらり。もちろん、家の宮原は橘から宮原に変わったので、宮原宿禰とは関係ないのですが、でも、文字は、心(魂)を持つとよく言われるので、やっぱり、白石様と私は、そういう意味では縁があるのだな〜と思いました。(^・^)
でも??何で、うちの先祖は橘から宮原に名前を変えたのかな???
そこは、確かに不明ですね・・・・???
すぐ、単純に考えるので、「あ〜そうか、お宮(神社)に関係していたからね〜」っと・・・・??でも、そんな単純な事ではないとは思いますが<m(__)m>

ところで!!。今の、自分の調査とは関係ないのですが・・。私、”在原業平”この方が確かに美男子だったという内容の文献は沢山見ましたが、そういう情報を見る前です、’在原業平”という名前を初めて見た時に、(マタマタ(ー_ー)!!と言われるのは覚悟の上で)「あ〜♡私、この方の事を好きだった♡♡」と思ってしまったのです。変でしょう??
だから、何故かずっと気になっているのです。(今頃、恋をしているわけではありません。(^・^))もう、完全に皆様に変人と思われたでしょう(*_*)

それと・・英彦山ですが・・
今年、英彦山にシャクナゲの花を見に行きました。
もちろんお花は綺麗だったのですが、一番気になった事が他にあって・・
花園は英彦山神社の麓にあるのですが、そこからケーブルカーで英彦山神社まで行けるのです。早速行ってみよう(^O^)/と思いケーブルカーに乗って景色を眺めていたら、山の中腹にお墓があったのです。景色じゃなくてそのお墓が急に気になり、じ〜っとお墓を見たら、(とっても立派なお墓です)そこに書いてあった家の名前が「相良」!!。あれっ?と思い、何で??と・・
もう、思いっきり山の中なのです。確かに、民家は点在はしていましたが・・
その時は「あれっ?こんな山の中に相良さんと言う家があるのね〜??」と思ったのですが・・。めちゃくちゃ標高の高い所なのですが・・・
それも、英彦山神社のすぐ下です。(多分、イメージが湧かないと思います。うう〜ん。そうだ!!市房山でいったら8合目くらいかな)
今思えば、英彦山のある添田町は、私の宮原(橘)も関係していた訳ですし。相良氏も英彦山と何か関係あるのかな?と。そうすると、この不思議な縁から、もしかしたら平河も何か関係あるかも?と。これはあくまでも、歴史に基づいてではなく、単なる感なので、重要ではないとは思うのですが、でも、今朝。白石様からの言葉に英彦山が出てきたので、(お告げのような・・(^・^))やっぱり気になります。

しかし、鎌倉や平安の前を考えると、全て、いろいろな所に繋がっていくのですね(^−^)
第二次世界大戦前までくらいは、そういう事をしっかりと意識して日本人は生きてきたのでしょう。
大事なもの(風習やしきたりなど)がどんどん失われていくのは、確かに先祖に対して申し訳ない事ですよね。

あっ!!そうそう!ついにMさんのお母さんに家紋の話が聞けました(^O^)/
銀杏紋でした!!
???何の流れだったかな?忘れちゃいました(^O^)/(*_*)

では、仕事に行ってきます。(^O^)/






[17]子孫よりさんからのコメント(2013年10月30日 23時04分14秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

東大寺文書の中に山城国の悪党と呼ばれる地元武士の記述があり、時代は正安元年なので、今の調査には全く関係は無いのですが、あまりにも地名が・・
現代語訳されたネットもあったので、内容はよく解ったのですが・・

問題はその話に出て来る地名なのです。

久世郡 → 平河
相楽郡 → 山田
賀茂・観音寺・賀茂福知 → 相楽郡  相楽はさがらと読みます。

あまりにも・・・というか似すぎです。
荘園には同じような名前を付けていたのでしょうか?
それとも・・・・?
もしかしたら、探る場所は決まってきたかもしれません。

山城国 → 球磨 といったイメージがい良いのか
それとも、本当はもっと古代が関係していて
球磨  → 山城国 ・・・・??

平河(平川)を調べているのに、何だか、スケールが広がり過ぎて来て・・
源頼朝(北条氏)は、球磨をどうしようと考えていたのか。
そこまで、考えてしまいました。

さあ、本題に戻って調査します。(^O^)/

[18]子孫よりさんからのコメント(2013年10月30日 23時48分20秒 ) パスワード

あの!白石様。
良峯寺(善峯寺)は、山城国。

白石様は、前に高田郷のお話をされていましたよね?
高田 → 山城国

桓武平氏・清和源氏・村上源氏 全て、山城国  → 高田

今頃?と言わないで下さい。(*_*)
でも、白石様がおっしゃっていた事の意味がここでよ〜く解ってきたのです。<m(__)m>

頑張ります。(^・^)



[19]子孫よりさんからのコメント(2013年10月31日 01時50分07秒 ) パスワード

皆様、何だか頭が混乱して来ました。
東大の古文フルテキストベース検索で、
相良藩で起きた事件についての、事件の概要及び告訴状が沢山見つかったのですが・・・

暦応3年8月11日 進上 御奉行所     良峯氏女代廣安軍忠状

相良十郎三郎助廣・その他親類縁者が築地原にての戦いにて討ち死にした事に関しての訴状です。
内容は相良孫三郎経頼と佑長・伊藤八郎以下が凶徒となって、襲ってきたと。
木上城・村山城が襲われたとの内容らしきものが見え、そして、彼ら(凶徒)は山田城に籠城したと・・・・
同様の訴状が、沢山の人から出されています。
もっと記述は続いているのですが、さすがに明日仕事なので少しは寝なきゃと・・
良峯氏女代廣安軍忠状というタイトルにはビックリしました。
でも、内容は平河とは関係ないとは思いますが・・
ただ、書かれている事が、何だか、平河義高公の話に似ていませんか?
私、何故か、昨日から、平河の球磨での話に???となって来ているのです。
要は、木上城の城主は相良十郎三郎助廣。
その人の為に、何故、良峯氏女代廣安が訴状を書いたのか?
親類縁者も襲われたと・・・

また、パンドラの箱をパカ〜ンと開けたかな?
では、又、数時間後に<m(__)m>
[20]白石さんからのコメント(2013年10月31日 05時23分42秒 ) パスワード

おはようございます。
かなり 具体的な お話に なってきましたね。

南北朝期
(九州探題一色範氏御教書)〔地頭職宛行〕
暦応02, 1339年12月 27日
南北朝時代・1329年〜1394年.


(良峯氏女代広安軍忠状)
暦応03 1340年 08月 11日
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南北朝期のお話のように思いますが・・・

上球磨は 南朝方。上球磨の相良氏も南朝方 だったはず。
とすれば、子孫様のお家が 南朝方だったとき、思いっきり 平河が関係するかも・・・

良峯廣安 また一人 良峯の仲間が でましたね。 

悪党とか 兇徒とか の 字面は この頃は 本物の 悪者ではなかった。

このときなのか いつなのか 山田葉木で 南北朝の勢力が戦い、400人くらい死んでいる。
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高岡のこと 摂州多田院御家人 高岡氏の場合
高岡肥後の守貞望
丹後にいた貞望は 一色の陣代で 自刃。

また
丹後男山に戦った 熱田神宮大宮司は ようとして 行方知れず。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
南朝方の人達は
かなり 大きく よそへ 行ってしまったように 他の話から 思っていましたが、子孫様のおうちも うちも 地元に残っているから 
そこらが 
何か 
どうしてかしら。? と 思います。

[21]白石さんからのコメント(2013年10月31日 06時01分37秒 ) パスワード

昔の土地名は 今と 大きく ちがっていること
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夕べは 頭休めに 楊貴妃伝説を 読んでいました。
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http://www.geocities.jp/flowercities/youkihi/

楊貴妃は天草に流れ着いたか  - 楊貴妃天草漂着伝説 -
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天草諸島は、遠い昔から、熊本よりもむしろ島原、長崎の文化圏に属し、中世以来文化的に高いレベルを有していた。
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楊貴妃の話とか
★白居易(白楽天、772-846)は、安史の乱の発生(756年)から半世紀経って長編の漢詩 『長恨歌(ちょうごんか)』を著した(806年)。 最澄と空海が第18次の遣唐使として帰国した年(806年)である。

光明子ゆかりの 人の話 とか
★勅撰史書『続日本紀』(しょくにほんぎ)(797年完成)によれば、 奈良時代末の778年11月13日に、唐よりある少女(推定14歳)が肥前国天草郡西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島) に流れ着いた。少女は、遣唐使として752年に入唐(にっとう) して玄宗皇帝に仕えた藤原清河(光明皇后の甥)と唐の女性との間に生まれた藤原喜娘(きじょう)であった。 喜娘は、同年唐で死去した父親(藤原清河)の故国を見るため、遣唐使船の帰り船に乗り込んで11月5日に日本に向けて出航したが、四日目に海上で大しけに遭って船が大破。 喜娘は、舳(へさき)にしがみついて海上を6日間漂流し、 11月13日に長島に流れ着いて村民に助けられたものである。その長島がこの竜洞山からすぐ南の海上に見える。

地名のずれ とか
★肥前国天草郡西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島)

遣唐使の航路とか 
★遣唐使船は、大阪の住吉大社で海上安全の祈願を行い、住吉津(大阪市住吉区)から出港した。当時の航路は南島路といって、 瀬戸内海、那津(なのつ)(福岡市中央区)、 坊津(ぼうのつ)(鹿児島県南さつま市)、 奄美大島、阿兒奈波(あこなは)(沖縄)を経由して 東シナ海を横断した。

結構短い日数で、両国間を行き来できる。
★中国から帆船を使った場合は、比較的遅い4ノット(kt)の航行速度でも最短5日で天草に到達できる。

ということなどが 書いてありました。
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楊氏
隋の楊帝は 絶世の美男子と いわれたそうです。

天草には 他に 天草氏朗時貞もおり この人も 神の様に美しい人 と いわれたそうです。

どうして こうも 美しい人 が でてくるのでしょうね。
楊貴妃の像は 顔の作りも 申し分ないくらい 整っているように思います。
西域の 人のようにも 思われる ことが 
歌舞音曲の 話に伺われます。

天草には 他にも 
山口という村の人達は 小西行長が為に 一村ことごとく キリシタンにされた と いう 話もあります。  




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[22]子孫よりさんからのコメント(2013年10月31日 07時08分32秒 ) パスワード

おはようございます。
白石様。私も、昨晩、悪党と呼ばれた方々の記述を読みましたが、白石様と同じ考えです。
中心勢力に反対したから、悪党という呼ばれ方をしていたようでした。

ところで!!(^−^)\(◎o◎)/!
今朝、ついに、相良家文書の家分けを見つけました。

と、喜びの前にもう一つ、とっても気になるお名前を・・・
同じ、相良家文書の中で一番最初に、源頼朝善光寺参詣隋兵日記と言うのがあって中に
葛西兵衛尉(清重)と・・・清が付くのでとても気になって
探していらっしゃる方のお名前に近くなかったらすいません。
そして・・・なんと!私、宮原の先祖の名前も 橘次(公業)

源頼朝善光寺参詣隋兵として、沢山の方の名前があるので、もしかしたら、この中に平河(良峯)に繋がる姓があるかもと今、とても期待しています。
(仕事から帰ったら早速、調べます(^O^)/)

まだ、文書の中には相良の文字は殆ど出ていないで(相良四郎という名前のみ)、相良氏は殆ど 藤原の姓のままです。
年代は 建久 (^−^) 1190年〜1198年でぴったりです!

そして!!ついに!領土に関する文書が登場!!

永吉300丁 地頭良峯師高子息字平紀平次不知実名   (^−^)
すなわち!!永吉は相良家文書家分けでいけば、師高の子息が承った事になります。
やっぱり、今までの考えより、年代が、少しずれているような気がします。?
多良木村は 伊勢谷次良不知実名 となっていました。 伊勢谷?

文書はページごとに一つのファイルとなっていますから、全部で500以上なので保存は不可能かと・・
だから、今後は1ページづつを根気よく読んでいこうと思っています。
ところで、この文書は、データーベースのファイルではタイトルなしだったのです。(他の文書にはちゃんとタイトルがあったのに?)
だから、中々見つからなかったのですね(*_*)
今朝、何気に表示されたリストから、タイトルなしの文書を見つけて、これは何?と表示したところ、一番見たかった、相良家文書之一(家分けを含む)だったのです。
めちゃくちゃ嬉しかったです。\(~o~)/

まだまだ、道のりは長いかもしれませんが、頑張ります。
追記・・・寝不足です(*_*)でも(^−^)
行ってきます(^O^)/





[23]白石さんからのコメント(2013年10月31日 20時39分47秒 ) パスワード

こんばんは
秋の夜長で はやくから 日暮れてきますね。

葛西兵衛尉(清重)は その孫娘が 高岡と 関係してきます。^^

葛西三郎清重ー葛西伯耆守清親ー女子・佐々木隱岐守泰清室

出雲 但馬 高岡氏系図 
【氏神】沙沙貴神社(滋賀県蒲生郡安土町常楽寺)
高岡氏は宇多源氏出雲佐々木流。佐々木義清の息子で隠岐泰清の八男、 八郎宗泰 が始祖
  
 高岡宗泰の母・葛西伯耆守清親女子

隠岐泰清
||ーーーーーーーーーーーーーーー宗泰
葛西伯耆守清親女子

佐々になっていくほうは こちら?

20で書いた 高岡肥後の守貞望は 姓系辞典に 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の15世云々・・物部あらかび公の末・・高岳(岡・丘)親王の末苗。

こちらは 
池田と同祖、後の世代で 池田は 相良・島津・徳川とからまる。
また 紀姓の人も入ってきており 一杯からんでいる。

また 
楠正行の言葉も出る。
[24]白石さんからのコメント(2013年10月31日 21時18分44秒 ) パスワード

丹羽氏 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/丹羽氏‎
... である児玉氏の出身。 一色丹羽氏 - 足利氏の支流の一つである一色氏の出身。 ... 良岑氏を本姓としている。児玉党の末裔とされる .... そのうちの一つである。直氏の子の一色氏兼を祖とし、氏兼の孫である氏明が尾張国丹羽庄を領し丹羽姓を称したとされる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
何気なく
一色氏は良峯氏 と 打ち込んでみたら
上が出ました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一色氏は 九州探題。

一色氏
後に四職となった一色氏は範光の系統の一族であり、久松松平氏の祖となっ ...
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
久松氏は織田氏に従い、織田信秀に属したとされる。佐渡守俊勝のとき、刈谷城の水野氏から、松平広忠の元室で、広忠の嫡子竹千代(後の徳川家康)を生んだ於大の方(水野忠政の娘)を妻に迎え、水野氏と敵対する同じ知多郡の国人領主佐治氏と争ったが、最終的に水野氏・佐治氏とともに信秀の子の信長に属した。

以下
ウィキ 久末氏参照のこと
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
丹後男山城主高岡は一色の陣代。


[25]子孫よりさんからのコメント(2013年10月31日 22時42分49秒 ) パスワード

今晩は。本当に日が暮れるのが早くなって・・
寂しい気持ちになります。
私、冬になると冬至が待ち遠しいのです。
だって、少しずつ日が長くなるから・・・・(^・^)

白石様、私が見つけたお名前、関係していました?
それならば、とても、嬉しいです。(^−^)

所で、今朝、見つけた文書ですがヌケヌケだったのでちゃんと書きます(^O^)/
鎌倉殿御領五百丁
  預所因幡大夫伴官
  永吉300丁 
  地頭良峯師高子息字平紀平次不知実名
でした。

よく解らないのですが字平とは名前なのでしょうか?
何せ長すぎて区切りがよくわかりません。
因幡大夫官とは堀河氏の事かな?と。
古文書は、役職?名や例えば○○三郎とかの表記が多く、その人が誰なのか?と、そのたび、ネットで確認したりして。
一進一退を繰り返していますが、とにかく
がんばります。(^−^)
[26]子孫よりさんからのコメント(2013年10月31日 22時46分24秒 ) パスワード

白石様!!
文書の中に一色氏のお名前頻繁に出ていますよ。!!

一色氏は良峯氏?そう言えば、何か見たことがあるような??と言う感じでした。
しまった!(@_@。

もう一度、読み返してみます。(^O^)/
[27]白石さんからのコメント(2013年10月31日 23時17分31秒 ) パスワード

22伊勢谷?
伊勢やじろう では?

伊勢氏と北条 下益城郡 雁回山に為朝も来たが、伊勢新九朗も来た。 人吉 鬼木町あたりに来る 北条氏。

上相良氏は球磨へ下向の時、黒肥地へ預けられたが、伊勢氏に預けられたと書いたネットをみました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
伊勢氏のこと 
7000傑様 教えていただけないでしょうか?

桓武平氏 他 いろいろ ありそうだけど、桓武平氏の伊勢氏と 神別の伊勢氏との関係。
[28]白石さんからのコメント(2013年10月31日 23時47分31秒 ) パスワード

続き28 >良峯師高の子息:紀平次不知実名とある
7000傑様のご教示  
不知実名とあるが、次男永池師忠のことでしょう。
恐らく、平家没官領を引き継いだのでしょう。
とありましたよ。^^このことではないでしょうか?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
堀河(堀川)
私の故郷の地域に ありますよ。

なんだか 昔に遡ると 地域にある家の名が つぎつぎ 出てくるのですが、 どういう関係で 歴史をおりてきたのでしょうね?
わくわく します。

[29]子孫よりさんからのコメント(2013年11月01日 07時02分42秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

今朝は、初めて東大の鎌倉遺文フルテキストデーターベースというツールを利用してみました。
昨日まではキーワードは 「球磨(または求麻) 良峯」(空白は又・(or)はと認識)
としていたのですが、今日は、場所を変えて 「菊池 良峯」

すると!!昨日の??の回答が出ました出ました(^O^)

まず、因幡大夫官 は堀河では無かったです(勝手な憶測ですいません)では正解は
因幡大夫官  大江広元  でした

そして
地頭良峯師高子息字平紀平次不知実名 (相良家文書) 
名前は字平 じゃなくて 平次(平二ともあり)でした。(トホホすいません)
ううん?と言う事は 紀平 じゃなくて 平紀?となりますね。??
それか 字平 紀 平次 (どこで区切るのでしょうか??)
そして・・じゃじゃ〜ん
平次さんは  師貞さんでした。(^O^)/
良峯師高子息平河平二 (平河家文書) との表記もありました。

建久2年5月3日  永吉地頭良峯師高<在伴> (平河家文書)
建久8年閏6月日  永吉地頭良峯師高子息字平紀平次<不知実名> (相良家文書)
と言う事は あいだは6年となりますね。

上の内容を書いてから、しばらく時間が経過しました・・・・・

\(◎o◎)/! えっ!!!!!え〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!

あの!まさかまさか?????
今、コメント書きながら 紀 平次 って名前だよね〜と思いながらとりあえずネットで検索したのですが・・?????\(◎o◎)/!
まさかまさか!!???
源 為朝に仕えた、『保元物語』にも出て来る
あの、石をビュ〜ン!!と投げるダルビッシュも真っ青の 九州の強者と呼ばれる
あの・・・!三町礫(つぶて)の紀 平次 \(◎o◎)/!
ねっねっ年代があっている〜!!そして、菊池!!  え〜っ!!
そう言えば古文書では殆どの人は(球磨でも)良峯○○と言う名前なのにこの方だけ良峯○○紀平次 とわざわざ紀平次が付いている。あれ〜っ!!
あっ!平河義高公は 白馬に乗ってまむしを退治したという伝説が・・・・!(ちょと違うか!)

そう言えば、私はボールを投げるのは下手ですが、伯父(父の従兄)と尾方家から嫁いできた叔母の孫は!大学野球でも結構有名になったピッチャーです\(◎o◎)/!

でも、まさか〜??? イヤイヤ違うでしょう(ー_ー)!! (@_@) (?_?)

でも、なんで?良峯??
謎の人物 紀平次さん 登場です!!
<m(__)m> 



[30]白石さんからのコメント(2013年11月01日 23時10分17秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 すごいです。!!

東大の鎌倉遺文フルテキストデーターベース

どこから こういうものを 思いつかれるのですか?
私は いまだに 検索の段階で 弾き飛ばされています。
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「古代日本の・・」の 本は 返却しました。あっという間に 日が過ぎて何だか物足りませんでした。

まだ 充分消化できなくて もやもや しています。
橘氏母系祖先・佐田彦母系祖先から神魂尊(神産日神 神皇産霊神 )の言葉が出るけど、
本には 神魂尊の 火ゆずりの 話がでて、
宮中八神の第一殿は 神産日神 神皇産霊神。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★大江広元(中原広元・毛利広元)
大友親能(中原親能)または 大友能直(中原能直)
彼らは 母方つながりで 中原。豊前宇都宮流佐田氏も もと 中原を称していた。

は ともに 人吉蓮華王院領の預かり所で 
相良氏は 地頭。
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味岡姓に関してのスレッドです。うちには 味岡姓の人のつながりはありませんが 人吉に味岡姓はあるようです。

17 日本の苗字7000傑様のコメント
遠江国相良庄も蓮華王院領。
建久9年(1198)以降の人吉庄地頭は相良氏。
相良頼景、長頼は源頼朝に仕え源氏方。
頼元・定頼・前頼の代は南朝方。
実長以降は北朝(足利氏)方に鞍替え。
長毎は秀吉に仕える。
頼寛は家康に鞍替えして明治まで本領安堵。

肥後は菊池、阿蘇、名和、相良が同じ南朝方だが常に対立抗争した。
また阿蘇家にしても南朝大宮司と北朝大宮司が並立した。

29
味岡・稲沢氏は那須与一の子孫で(4代目になるのかしら?)

与一の子が 大八郎で、鶴富姫との 話が有名。

那須のつゆけさちゃんが 犬童頼兄の 最初のおよめさん。
頼兄のまわりの話から 天璋院篤姫が 出たのでした。
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[31]子孫よりさんからのコメント(2013年11月02日 01時36分49秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、私が見つけて来る文書には何故か白石様のご先祖様に関係する方々の情報も一緒に入っている訳ですね。??
でも、とっても嬉しいです。(^・^)

所で東大の鎌倉遺文フルテキストデーターベースというツールですが、文書が全て見れる訳ではなく、キーワード (例 球磨 良峯)と入れると、そのキーワードが載っている古文書の名前と何巻の何ページと言う情報、そして、その文章の1行〜5行ほどが表示されるものです。
年代も出て来て表形式なのでとても見やすいのです。

これを利用して、今日は、紀平次さん?を検索した所・・・・
近江に関する文書からの表示が多かったのです。???
球磨の因幡大夫官  大江広元  ここでも近江
紀平次大夫という表示で近江葛川明王院文書にも載っていました。
源とか為とかの文字も出るのでこれはもしかしたら、やっぱり紀平次は
良峯師高子息字平紀平次 の可能性が \(◎o◎)/!
保元物語でも、ちゃんと 三町礫(さんちょうつぶて)の紀平次はあだ名だと書かれていました。
三町礫の紀平次と呼ばれていた時は、年齢もまだまだ、かなり若く、10代後半〜20代前半のようで、他の面々も皆、若いですね・・・。源為朝を先頭に、かなりのやんちゃ集団だったようで・・(-_-;)
保元物語はかなり物語風に脚色されているみたいですけど・・
でもですね。
私、このキャラクターが大好きになりました(^−^)
どのような戦いをしたのかは未だ知らないので、エエッと思われたら、申し訳ありません。<m(__)m>(このスレッドは平家物語を熱く語るでした。<m(__)m>)

でも・・・
初めて”三町礫の紀平次”という人物像が解ったのですが(何せ今まで、歴史は・・・トホホ)この三町礫という言葉を口に出して読んだ時・・
本当に、何故か「ヒャッホ〜ウ!(^^)!」(表現が変ですいません)という気持ちになって。すっごく身体全身がワクワクしてきて・・何故だろう?(^・^)

ふつうは「え〜っ!家の先祖はその方のような、やんちゃ様では無いと・・」となる人もいるかもしれませんが、何故か私は、出来ればそうであって欲しいな〜と思うのです。なんだろう、昔の人に母性愛を感じているような。
不思議な気持ちなのです。
それに良峯氏のイメージは、歌を読んだりとか、何だか公家そのモノという感じだったので、その中にもしも、三町礫の紀平次という人物が仲間入りしたら面白いな〜と(^・^)

さて、本当に、面白くなってきました。(^・^)
調査開始です。(^O^)/

 
[32]子孫よりさんからのコメント(2013年11月02日 10時06分17秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

三町礫(さんちょうつぶて)の紀平次さんばかりにこだわってはいられない!と、今朝はというか昨日から今まで、わたくし、東大の鎌倉遺文フルテキストデーターベースで検索した、平河家文書の一部を転記していました。(@_@。

何せ、普通にコピーが出来ないので、これは、もう入力しかないと(*_*)
ただし、昨日にもお話しましたが、キーワードに関連する文章のごく一部分しか出て来ないので、ご了承下さい。<m(__)m>

では、先祖の流れを探すために寝ないで転記した肥後平河家文書の一部です。
(とぎれとぎれではありますが、<m(__)m> 先頭の番号はコメントし易いように付けました。)
じゃじゃ〜ん!!\(~o~)/

@肥後国御家人 平河三郎良貞・同四郎師時当国(甲脱力)球磨・・・・・

A八代相伝開発之地也  而会祖父平河三郎師高右大大将(源頼朝)家御時、文治三・・・・

B六日<付文治三年>奉書案者、平河三郎師高謀反勝他人之由、有其・・・・

C球磨御領、可早任御教書、被安堵平河三郎(良貞)身事、右去六月十六日御教・・・・・

D日<付文治五年>奉御判在者、平河次郎師貞為勤京大番、所令上洛・・・

E膳大夫(大江広元)、永吉三百五十町、地頭良峯師高子息平河平二(師貞)、西村百五十・・・・


F三百五十町、地頭良峯師高子息平河平二(師貞)、西村百五十町、須恵小太・・・・・・・

G二年永吉検済目録帳等者、地頭良峯師良云々、<取詮>如同所進元・・・・・・

H住当所畢、不及尋例於他所者也、依実春朝臣之押領、良貞乍帯御下


続けて年代が遡ったものもあります。(^O^)/

I肥後国御家人平河弥五郎入道々照謹申欲早為明石民部・・・・

J年備前々司入道殿御代官行性与平河三郎入道観蓮<俗名良貞>等、・・・

K月師良等連暑状者、中神村地頭良峯良高・目良生村地頭良峯師頼・・・・・

L村地頭良峯良高・目良生村地頭良峯師頼・平野村地頭良峯師久・地・・・・

M目良生村地頭良峯師頼・平野村地頭良峯師久・地頭良峯師良云々、然者・・

N頼・平野村地頭良峯師久・地頭良峯師良云々、然者、彼状還為地頭・・・・

O余庶子等無烈訴所見、仍自文永二年近衛中将実春朝臣相論、至于弘・・・・

P道照等先祖開発私領也、然間平河三郎師隆(高)平家逆乱之時、右大将・・

では、一度アップ致します。<m(__)m>


[33]子孫よりさんからのコメント(2013年11月02日 11時33分56秒 ) パスワード

先頭も切れているのですいませんが<m(__)m>、ただし、全て球磨の平河(良峯)に基づいた内容の一部です。

気になる所は沢山あるのですが、とりあえず2か所ピックアップします。

まず、
D日<付文治五年>奉御判在者、平河次郎師貞為勤京大番、所令上洛・・・

どうやら師貞さんは1188年頃に京都の警護に行かれたようです。

そして、最大の気になる記述は
I肥後国御家人平河弥五郎入道々照謹申欲早為明石民部・・・・

早為明石民部 ・・・明石民・・・明石の人?

と言う事で早速検索しました。
キーワードは ”明石 良峯”

すると出ました\(◎o◎)/!
平 忠度(たいら の ただのり)!!
こっこの方は!いえ、こっこのお顔は!!先週土曜日、娘とめちゃくちゃ盛り上がった、あのお顔!!いえ、あのお方!!

実は、先週、色々な人を検索している時に、どうやって繋がって出てきたのかは忘れましたが、偶然、クリックして出て来られた平 忠度公のお顔をウィキで見た時、めちゃめちゃ衝撃を受けたのです。
だって、私の父に本当に似ているのです。というか瓜二つ。\(◎o◎)/!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%BA%A6
表示された平忠度(小林清親画)の絵は、今、父が同じような髭を生やしているので、もう絶句しました。ここまで、似ている人がいるのかと!
そして、平忠度/月岡芳年画(江戸時代)の絵は、父にも似ていますがどちらかと言うと伯父(父の弟)に、これはマタマタそっくりで!!
その時は、何も考えずに表示されている文章は殆ど読まずに、もう、おおうけ(;一_一)\(^o^)/して、お腹が痛くなるほどで(平 忠度様、ごめんなさい)
丁度その後に娘が遊びに来たので、何も言わずに
「とりあえず、この方のお顔を見て!!」とページを見せたら・・・
娘は・・・「あっ!!宮原じいちゃん!!(^◇^)」と
そして、まじまじと見つめて「えええええっ!!?何で!!??? !(^^)!」
と、「嘘やろ!!そっくりさん所じゃないよ!!じいちゃん本人やん!!」と。
そして、やっぱり、平忠度/月岡芳年画(江戸時代)の絵を見て「あっ!!おじちゃん!!そっくり!」と。そして二人でビックリしながら画面を見ていたのです・・??

その方がここで又、登場してくるとは!

ウィキであらためて、平 忠度公についての内容を見ました。

平 忠度公様、お顔を見て父にそっくりだからと言って私・・・本当にすいません。<m(__)m>

書かれていた内容の
”彼が討たれた際、文武に優れた人物を…と敵味方に惜しまれたという。”
この話を見て、何故か、悲しくなって涙が出ました。

でも、嘘でも何でもなく、本当に平 忠度公と私の父はそっくりなのです。
というか同一人物と言ってもおかしく無いほど、いえ、あり得ない程そっくりです。
文書を探すというより、父のDNA鑑定を行ってみたら、きっと何かが解ると思います。(それは無理か・・・(-_-;)(*_*))
あ〜皆様に父の顔を見て頂きたい!!
でも、デジタル化した写真がありません。(*_*)

これは、またまた、調査の為に眠れない日々が続きそうです。
<m(__)m>







[34]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年11月02日 17時00分03秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>平 忠度(たいら の ただのり)!!
 
公式には平忠度は、寿永2年一の谷合戦で義経の家臣岡部忠澄に討たれ戦死したことになっている。。
しかし幕臣久間氏は忠度の後裔と称し、もと隈を称しのちに久間に改める。
忠度の子江見忠氏の後裔は横尾氏を名乗っている。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01106.htm
 
横尾と言えば、芦北国造の後裔に横尾氏が?
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01235.htm
 
偶然の一致かも知れないが、平忠度は九州の肥後球磨に落ち延びたのでは?
[35]白石さんからのコメント(2013年11月02日 20時24分27秒 ) パスワード

こんばんは
意外な展開になっていますね。^^

意外というのは 他意はなくて すごい!!ということ。

平忠度に関してくる つながりを 書いてみました。
実は 
うちの 家の下に 岩本家があり
岩本→幕末 榎本が 岩本に 高岡親王の墓を探せ といった。
うちの方の 岩本では ないと 思いますよ。偶然 同じ苗字の家と思いますが、
故人・岩本家の当主が 私に 
あんたんとこの お父さんの出は ただんもんじゃなかったっじゃで・・・と 言っていた。

榎本は 姓系辞典に 熊野に縁がある。または 熊野出自。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://www.keyspot.info/fudoki/betto18.html
第18代熊野別当 湛快:熊野別当代々次第
KEY SPOT>紀伊続風土記>牟婁郡>新宮部下>熊野別当>別当次第
第18代熊野別当 湛快:紀伊続風土記(現代語訳)
鳥居法眼行範
||--------------ーーー行快・行忠・長詮らを産む。
為義の娘 たつたはらの女房  ||
||--------------湛増 ||
湛快     |ーーー女子
                ||
               薩摩守の平忠度朝臣ー平忠行

※行快というは、行範の一男、六条廷尉禅門為義の外孫

※詳細は不明だが 武蔵坊弁慶は熊野別当湛増の子で、紀伊国出身だと言われる 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
九鬼氏
九鬼氏は藤原北家熊野別当の末裔で紀伊国牟婁郡(現在の三重県尾鷲市)で起こり、志摩国鳥羽藩(三重県鳥羽市)を拠点に九鬼水軍を統率し 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
忠度流
平忠度の子孫
平忠度 ─ 平忠行 ─ 久間盛重 ─ 久間盛之 ─ 久間盛秀 ─ 久間盛春
※久間盛春 ─ 久間盛美 ┬ 久間盛信 ─ 久間盛定
            |久間忠昌
            |久間盛房 ─ 久間盛光

隈も横尾も うちの方にはない苗字だけど・・・義経の軍に 相良氏も那須もいたし、弁慶は別当の子だし・・・

ロマンを感じますねえ。


[36]白石さんからのコメント(2013年11月02日 20時31分56秒 ) パスワード

上の系図は少し ずれました。

湛増 の きょうだいの 女子が 行快と 忠度と結ばれます。
[37]子孫よりさんからのコメント(2013年11月02日 21時15分36秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

私も平 忠度公がきっと鍵となっていると思っています。

今、思えば、結構雑念が入ってスルーしている事がいろいろありました。
まず、コメント29で書いた師貞公の名前、もう一度見直します。

地頭良峯師高子息字平紀平次不知実名

紀平次に気を取られていたのですがその左側に”字 平”(あざ たいら)とちゃんと出ていました。
すなわち 良峯であり平である という事ですよね。

続けて、
日本の苗字七千傑様のご教示、でやはり!と思った記述が

スレッド32の A
八代相伝開発之地也  而会祖父平河三郎師高右大大将(源頼朝)家御時、文治三・・・・

この 八代相伝開発之地也 なのです。
平河(良峯)は菊池 → 山本郷 → 球磨 と解っているので、八代は何で?と思ったのですが、そうですね 芦北国造 です!

”八代相伝開発之地也”は、「遠い先祖が八代を開発をした」と捉えたら意味が通じます。

それと、
”平忠度は、寿永2年一の谷合戦で義経の家臣岡部忠澄に討たれ戦死したことになっている。” このお話ですが・・・

この岡部忠澄公は、ウィキでは
”平忠度を討ち取った忠澄であったが、忠度の死を惜しみ、その霊を慰めるために所領の岡部原に五輪の塔を建立した。”
とあるのですが、敵を討ち取ったのに、その人の為にここまでするのは・・?
そこまで、何かの絆があったのであれば、討ち取らずに・・・!!逃がすのでは!
コメント33に書きましたが
”彼が討たれた際、文武に優れた人物を…と敵味方に惜しまれたという。”
ここでも、敵味方が平忠度公を心から尊敬し、絆があったという風に捉える事が出来るのでは・・・・。

岡部忠澄公はその後、源頼朝公に従い頼朝公の上洛にも付き従ったと言う事でした。そして、その源頼朝公の命により良峯(平河)は球磨の地を治める事となる。・・・・・・

でも万が一、平忠度公が球磨に落ち延びて来られたとして、その後、相良氏が球磨に来られる訳ですから、すぐにバレテしまいますよね?
それに、岡部忠澄公は元々源義経公の家臣ですから、義経公やその他の家臣が黙ってはいないと・・・・あっ!義経公は頼朝公から・・・・・・!!

こうなれば、鎌倉幕府ではこの事を本当に知っていて了承している人達だけになる訳ですね。

もしかしたら、私が開けた本当のパンドラの箱は平忠度公だったのかも知れません。

今から、古文書に横尾氏について、そして平河との繋がりが無いか、調べます。φ(..)メモメモ (^O^)/

 
[38]子孫よりさんからのコメント(2013年11月02日 21時43分49秒 ) パスワード

追記
実は、昨日から、徹夜したので、昼12時過ぎに横になったら爆睡してしまいました。
そして、夢の中にいつもの男の人が出て来て
「寝ないのは良くない。身体を壊してしまったら、いくら自分たちを見つけても、誰も喜ばぬ。皆が心配をするから、無理をするな。」
「皆、お前の事をもぞかもぞかといっておるぞ。」と
もぞかとは球磨弁でかわいいという意味で、ビックリして目が覚めてから、しばらくボ〜ッとしていました。
もぞかと言われる年ではありませんが、嬉しかったです。

そして、無理はもうしません。出来る事をやって調べて行かなければ先祖は喜ばないのだと痛感しました。

そして、もう一つ「絵がどうの」と言われたような。
そう考えて見ると、そう言えば、絵師の人は誰をモデルに平忠度公の絵を描かれたのか?と思い。
後世に描かれている訳ですから、必ずモデルがいるはずです。
絵師の事も調べてみます。

[39]子孫よりさんからのコメント(2013年11月03日 01時23分28秒 ) パスワード

皆様。中間報告です!

全てが恐ろしいほど繋がっています。

平忠度公に繋がるキーマンは平河(平・良峯)良貞公です。
横尾氏に関する情報も見つけました。
http://wazaemon.sagafan.jp/c14519.html

このページの丁度真ん中程に平忠度公に関する情報があります。

美作国(みまさかのくに.岡山県東北部)菅家江見次郎行の女(むすめ)薩摩守平忠度に嫁し。

平忠度、一ノ谷にて討死(1184年)。その後忠度の子「忠氏」、美作国にて出生、母方の江見姓を名乗り15才の時鎌倉に出,北条時政に仕える。軍功により信州国小県郡横尾に所領を得る。

では、平忠度公と平河良貞公の類似点を私なりにまとめましたのでご覧ください。

まず、平河家文書による良貞公の名前を見て下さい。
コメント32 J

年備前々司入道殿御代官行性与平河三郎入道観蓮<俗名良貞>等、・・・

備前の文字が見えますね。すなわち岡山県。そしてその地で平河三郎入道観蓮という名前を与えられた。(俗名 良貞  等・・と言う事は他にも・・?)

観蓮・・・・備前 観蓮と検索したら出てきました。!

まず 観蓮寺 http://www.its-mo.com/c/%E8%A6%B3%E8%93%AE%E5%AF%BA/DIDX_DKE,4734012/
所在地は 岡山県小田郡矢掛町南山田1992 
地図を見て下さい。美作国と隣同士のようです。
近くに 荒神社 があります。 そして 山田!

平忠度公  → 美作国(みまさかのくに.岡山県東北部)菅家江見次郎行の女(むすめ)を嫁し。そして問題は・・「その後忠度の子「忠氏」、美作国にて出生」 ここです! その後と言う事は平忠度は一ノ谷の合戦直前までこの場所「岡山」に居たという事です。

平河三郎入道観蓮良貞  → 備前(岡山)にいた。先ほどの内容通りです!

続けて・・キーワード 花

平忠度公 →  花に関する歌を数多く詠む

平河三郎入道観蓮良貞 → 観蓮! 岡山後楽園では観蓮節という行事があり毎年、蓮の花見が行われる。 
http://blog.goo.ne.jp/rrxhb369/e/03a951fbfaaebde1b38d3b3c9e007aaa

平忠度公 →  一ノ谷にて討死(1184年)

平河三郎入道観蓮良貞 → 文治3年又は4年(1185年または1186年)球磨の地へ。

★★コメント 32 C
球磨御領、可早任御教書、被安堵平河三郎(良貞)身事、右去六月十六日御教・・・・・

そして、ここに重要な言葉が・・被安堵平河三郎(良貞)身事 これは良貞公が球磨来て、親族一同安堵したと言う事ではないでしょうか?

そして
平忠度公 → 平(たいら)
平河良貞 → 平(たいら) ★ 平河家文書・相良家文書にて平河(良峯)は 字 平(たいら)と有り。

平忠度公 → 良峯( 母 原高成の女)
平河良貞 → 良峯

どうでしょうか?ここまで、検証する事が出来ました。

調査は進めます。でも、やっぱり、私、パンドラの箱を開けてしまったと思います。

<m(__)m>





  
 
[40]子孫よりさんからのコメント(2013年11月03日 07時53分11秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
昨晩は、ちゃんと寝ました。3時間半ほどですが・・・
でも、夢の方と約束したので、後でちゃんと寝ます。

私、とても重要な事を忘れていました。(皆様、ええっ!今さらと言わないで下さいね(*_*))

球磨・人吉は八条院領が多数あり、そして、本来の領主は平 頼盛公(たいら の よりもり)。
そうです、平忠度公の兄でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9B%9B

ウィキではとっても長い説明が記述されていて寝ぼけ眼では中々頭に入りませんが・・・でも
「頼盛は一旦帰京していたらしく、5月3日に改めて亡命としてではなく正式に関東に下向した[出典 27]。 この時、頼盛は宗清にも同行を命じるが、宗清は固辞した。5月21日、頼朝は高階泰経に書状を送って、頼盛と子息の本官還任と源範頼・源広綱・平賀義信の国司任官を要請した[出典 28]。6月1日、頼朝は頼盛のために盛大な送別の宴を開いた。宴には御家人の中から「京都に馴るるの輩」が集められ、引出物として、金作剣一太刀・砂金一袋・鞍馬十疋が贈られた。頼朝は宗清のためにも引出物を用意していたが、姿を見せないので残念がった。頼盛は頼朝に、宗清は病気のため到着が遅れると伝えていた。6月5日、頼盛は帰京して権大納言に還任する。子の光盛は侍従に、保業は河内守となった」 ウィキより

この記述から、源頼朝公と平頼盛公との絆がいかに深かったのかは良く理解出来ました。

そして、
文治2年(1186年)6月2日、頼盛は54歳で死去されました。

この事に関連して、この記述を見て下さい。

★★コメント 32 C
球磨御領、可早任御教書、被安堵平河三郎(良貞)身事、右去六月十六日御教・・・・・

昨日、コメントしたように良貞公が球磨に来られたのは(1185年又は1186年)

右去六月十六日御教・・・・・
昨日まで、この”右去”は何を表しているのか、解らなかったのです。多分、どなたか亡くなったのかな?とは思っていたのですが、この”右去”は平頼盛公の事ではないのでしょうか。
つまり
1186年、右去(平頼盛公が亡くなった)と六月十六日御教(6月16日に知らせが届いた)

どうでしょうか?

一つ解らない事があります。
ここまで、球磨の平河(平・良峯)に関係する文書が沢山出て来て、それに伴う名前も沢山の方々が出て来ているにも関わらず、唯一どこにも出て来ない名前が、それが 平(良峯)依高公 です。
ふと、考えたのです。もしかしたらこの平(良峯)依高公こそ 平頼盛公の事を指すのではと。
そして、球磨の平河家の系図は本当は親子関係を示すものではないのでは?と。
もちろん、中には本当の親子関係を示している部分もあるかとは思うのですが、実際には、球磨に来られた「平(たいら)」の組織図?のようなものではないかと。良峯が付くのは、その中の数軒で他の家は、鎌倉幕府いえ北条に対しての画策ではと。 飛躍しすぎでしょうか?

そしてとても気になる記述がありました。

相良家文書より
譲与孫子孫鶴所肥後国人吉庄南方経徳・常楽両名、同・・・
子息彦鬼・養子彦石・後家良峯氏、并女子二人<一女三女>分

良峯氏(平河)はどなたかを養子に向かえているようです。
その方々には其々「彦」という名が付いています。
この人達は、誰の子供さんで、そしていったいどなたなのでしょうか?・・・

私が見つけたパンドラの箱は一つだけではないかもしれません。

今、祖母が亡くなる前に私に伝えてくれた言葉が脳裏をよぎっています。
平川家に代々伝わってきた物。
そして、祖母の実家平川を、上球磨の人はみなさん「みなみ」と呼ぶ事を・・

先祖が(祖母が)それを私に伝えたいと思ってくれてるのであれば、私は今後も一生懸命調べます。
<m(__)m>

[41]白石さんからのコメント(2013年11月03日 10時57分14秒 ) パスワード

こんにちは
前に 三井根子命から葦北国造が出ていたので、思い出してみてみました。

平川家子孫4から
24 足利氏の支流の一つである一色氏の出身。 ... 良岑氏を本姓としている。児玉党の末裔とされる。
26 一色
29 「菊池 良峯」
31 私が見つけて来る文書には何故か白石様のご先祖様に関係する方々の情報も一緒に入っている訳ですね。??
39
ーーーーーーーーーーー
また 前にサダに関して 三井根子命が出て、7000傑三井根子命で検索したら葦北国造が出て、「横尾」がついていました。
000000000000000000000000000000
また
有氏神社と金鑽神社かなさわじんじゃ
武蔵七党と児玉党
あり ありさだ さだ

有氏神社
当社は,武蔵児玉党の始祖,有道氏(ありみちし)を祭った神社だとされている。
藤原伊周(注)に仕える有道惟能(維能とも)は,主君の伊周が失脚したため武蔵国児玉郡に下向した。これ以後,地名をとって「児玉」を氏とするようになったのである。有道惟能の子の有道惟行(維行とも)が児玉党の祖とされている。
(注)ふじわらのこれちか,974-1010。藤原道隆の子で中宮定子の兄。官は内大臣に至ったが,父の没後,叔父の道長と争って失脚した。
※伊周のきょうだい が 隆家で、菊池に関係してくる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
有は 佐田から 出る言葉
児玉氏と横尾氏の接点を苗字から 求めて 「児玉氏と横尾氏」で打ち込んでみると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm
良峰氏
がでました。
(飛躍するけど ずうっと 遡ろうとすると サダ突厥や契丹など・・昔はそういう区別もなかった頃)や 殷・周の頃の(秦にはいる)有易・有●氏(が滅んで、周武は姫姓に変えた)や 漢王室母方の祖先・夏の劉(夏は母系・劉は母方?)に なっていく。裏にあり さだ が いる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一方
横尾氏について、そして平河との繋がりのひとつで 前に出た

http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-yos-maeno1.html
【前野氏系図1】

良峯氏の子孫 原大夫高春は、南北
朝の頃 熱田大宮司 千秋(ちあき)一族と共に、南朝側に属した。

原高春の女子が 忠盛に嫁した。
清盛の母では ないか? でした。

この部分 前回は間違いですね。女子とは高春のきょうだいで、高成の女子

※ 清盛・忠度は異母兄弟とされるから 清盛母・忠度母は 姉妹?または 忠度だけが高春のきょうだいの女子の子。? 

そして
平忠度公 → 良峯( 母 原高成の女)
              良峯惟光(ヨシミネ コレミツ)−○−孫の 季高ーー★高成( 東国 上総権介 ーー★高春                           
             (平安時代以来の郡司級豪族    (郡司)   平 広常の妹を妻にし、   二ノ宮大宮司であり、
              である。)                 大縣神社 大宮司となる。    原大夫と名乗った。
                                   生まれた娘は、平 忠盛                                                
                                   の妻となり、平家と親戚関係  寿永2(1183)年平家は、木曾義
                                   を築いていた。)        仲に追われ、京都から撤退。平
                                                                                                                家筋ではありましたが、源氏                                                  に加勢。鎌倉将軍より所領は
                                                  安堵された。             

000000000000000000000000000000000000


薩摩の守忠度と関係する 江見氏の子孫

美作菅家党の一つ。有元氏(ここにも あり が)の三穂太郎満佐の子資豊が、英田郡江見庄を領して
江見氏を名乗ったという。

http://tomioka.at.webry.info/201106/article_24.html
氏族の追跡(横尾氏)

※母者官家道真公十一代之後胤美作国菅家江見治郎行基女也以美形成薩摩守忠度に
嫁す
||
忠氏−忠泉−忠正−忠澄−氏光−氏信ー(横尾新光)(足利尊氏に仕える)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
系図がずれないといいけど・・・
[42]白石さんからのコメント(2013年11月03日 11時09分56秒 ) パスワード

薩摩の守忠度と関係する 江見氏の子孫

美作菅家党の一つ。有元氏(ここにも あり が)の三穂太郎満佐の子資豊が、英田郡江見庄を領して
江見氏を名乗ったという。

http://tomioka.at.webry.info/201106/article_24.html
氏族の追跡(横尾氏)

※母者官家道真公十一代之後胤美作国菅家江見治郎行基女也以美形成薩摩守忠度に
嫁す
||ーーーーー忠氏−忠泉−忠正−忠澄−氏光−氏信ー(横尾新光)(足利尊氏に仕える)
忠度
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://www.mikumano.net/setsuwa/tadanorino.html
平忠度の母と妻
忠度の妻は、第18代熊野別当湛快(たんかい)の娘で、第21代熊野別当湛増(たんぞう)の妹。
忠度
||
第18代熊野別当湛快(たんかい)の娘で、
第21代熊野別当湛増(たんぞう)の妹

※忠度と江見氏の女子の子が 忠氏ですね。
[43]子孫よりさんからのコメント(2013年11月03日 12時48分24秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。
白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様のご教示で解ったのですが、良峯を名乗る事ができる平(たいら)は平 家盛(たいら の いえもり)公もいらっしゃった訳ですね。

そして、この方の娘は平重盛公の養女となり、原田 種直(はらだ たねなお)公に嫁いだ。
原田 種直(はらだ たねなお)公は、菊池 隆直(きくち たかなお)公が起こした、鎮西反乱の際に、合戦をしています。
ただし、圧倒的有利であったにもかかわらず原田 種直公は菊池 隆直公の追討は実行しなかった。
平家の家人である平貞能公が反乱鎮圧に派遣され、寿永元年(1182年)4月、隆直公は貞能公に降って平家に属した。

1182年の4月に菊池氏は平家に属した。と言う事は平家の人々が菊池氏を頼って来たという事がうなずけますし、平河(平・良峯)も最初に菊池氏を頼って来たという、言い伝えも意味が通じると思います。

皆様。私、ついこの前までは、「なぜ、良峯安則公は菊池にきたのだろう?」などと、言っていたのですよ。古文書・文献の中に良峯安則公が出ない?と・・
そのはずです。全ては、球磨の地にて一族が安堵となる為の策略であり、討伐を逃れるための偽装工作と考えれば、先祖の気持ちがよく理解出来ます。

でも、ですね。悪いのは私なのです。だって、以前にもコメントしたと思いますが父と母の離婚原因を「先祖が合わなかったから」と書いた時に、「子供の頃は、父が平氏で母が源氏だったから?と思っていた」と書かせて頂きましたが、今考えると、平氏だ源氏だとか全く意味が解らない子供の頃ですから、きっと周りが「平川は平氏だったとよ。」と教えてくれていたのだと思います。それを完全に忘れていた・・・・。根本から間違えていたから右往左往していたのです。

でも、ここまで辿りつけたのですから、先祖も笑って「誰に似たのかね〜」と言ってるハズです。もしかしたら(-_-)/~~~ピシー!ピシー!と・・・(-_-;)(*_*)(私の体内のDNAが、私のおとボケが誰に似たかを理由に其々の家々で合戦を起こさないように願います(*_*))

ただ、ここまでは憶測が大半なので、もっとしっかりとした証拠?を見つけなきゃ。
ううん?でも、ここから先はどうなのでしょう。(*_*)
先祖が作ったパンドラの箱は二度と開けれないように硬く鍵がかかっているようで・・・・

でも、がんばります。φ(..)メモメモ






[44]子孫よりさんからのコメント(2013年11月03日 15時11分00秒 ) パスワード

皆様へ。
昨日、転記した文書の中から、相良家文書 巻頭一番に記述されていた、
源頼朝善光寺参詣随兵日記  の隋兵名簿をご覧いただきます。
私にはさっぱり意味が(お名前の指し示す)解りませんので、何か参考になればと思いまして・・・

では
建久8年3月23日     源頼朝善光寺参詣随兵日記 
隋兵

佐原十郎(義連)左衛門尉     長江四郎(明義)  千葉次郎   和田次郎(義茂)
武田兵衛尉(有義)   平井四郎   平井五郎  里見太郎(義成)   伊澤五郎(信光)
南部三郎(光行)   加々美次郎(長清)  村山七郎(義直)   浅利冠者 
新田蔵人(義兼)   村上伴官代(基國)  佐竹別富   色雑所(基茂)  橘次(公業)
江間太郎(泰時)   小山七郎(朝光)   千葉新助(鳳正)   葛西兵衛尉(清重)
北条五郎(時房)   佐々木五郎(義清)   千葉平次兵衛尉(常秀)   梶原刑部兵衛尉(是貞)
八田太郎左衛門尉(知重)   江戸太郎(重長)   土屋兵衛尉(義清)  長井六郎
佐々木三郎兵衛尉(盛綱)   加藤次(景兼)   梶原源太左衛門尉(景季)
野三刑部承(盛綱)   望月三郎(重隆)   相良四郎(三郎後改四郎・頼景) 海野小太郎(幸氏)
藤澤四郎(清親)   小山五郎(宗政)   三浦平六兵衛尉(義村)

先日も書かせて頂きましたが、中に私の宮原家の先祖である 橘次(公業)の名前もありました。
でも??これは、球磨からの隋兵。 もうすでに、球磨にいた??なぜ??
おかしいですよね? 

やっぱり、宮原の先祖(橘)は平河(平・良峯)と何か関係しているのではないでしょうか??
(@_@) (?_?)
  
[45]子孫よりさんからのコメント(2013年11月03日 17時54分40秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
他の場所に情報が無いかと国立国会図書館データベースを使用したのですが、
何と出たのです

目次:平河氏を中心とする文書の解説 ​
目次:良峯師高所領譲状案 ​
目次:平河貞家軍忠状 ​ ...

やった〜と思い進んでいくと ナント!!全て
「この資料は、国立国会図書館の館内でのみご覧いただけます。」
との表示が(*_*)

国立国会図書館て、何処にあるのかとおもい?(*_*)
無知ですいません。(*_*)もしや永田町?と思いページのトップを見たら
永田町・本館と京都に文館がありました。(^O^)/(*_*)
「平河氏を中心とする文書の解説」 ってお国から研究されているのですね(*_*)
もし、京都に無かったら、永田町まで行かなければいけないのですね(*_*)
先祖の事を調べる為に永田町まではちょっと行けません。(*_*)
やっぱり、小さな事からコツコツと!自分で調べます。

でも〜!!平河貞家軍忠状  \(◎o◎)/!
きっときっと!!あの 菊池関係のページに出ていた 貞家八郎さんです!!
ネットでは何処にも出てこなかった幻の 貞家八郎さん!!
やっぱり 平河貞家 というお名前だったのですね。!(^^)!
読めないケド、なんだか嬉しくなってきました。\(~o~)/

久しぶりに?脱線しましたが、<m(__)m>がんばります。


[46]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年11月03日 23時40分05秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>源頼朝善光寺参詣随兵日記の隋兵名簿をご覧いただきます。
 
治承・寿永期における源平勢力対立状況を参照すると成程と思われるでしょう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/bunritsu.htm
 
鎌倉時代は九州三人衆と呼ばれる筑前の武藤(少弐)氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏が有力な守護。
武藤家の初代資頼は、平知宗の家人であったが、一ノ谷合戦で平家を見限り、梶原景時の陣に投降、三浦義澄にお預けとなる。
奥入り合戦で頼朝に戦功を認められて鎮西奉行に抜擢、頼朝後胤とも称する大友、島津は九州の守護に任命されるが九州へは行かず鎌倉居住。
武藤資頼は率先して九州へ下向、鎮西奉行のみならず筑前、豊前、肥前、対馬の守護、太宰少弐、筑後守の官位も獲得。
事実上、鎮西九国二島のトップになる。
一介の武人が九州を実効支配したのは前代未聞。
武藤資頼は、平家滅亡後の九州の権力バランスをまとめた天才でしょう。
九州は三前二島、三後、三奥で考えると解りやすい。
この辺を理解しないと、蒙古襲来以降の恩賞に関する北条氏との対立、南北朝の混乱、足利尊氏の勃興などが理解困難。
鎌倉初期に九州へ下向した地頭にしても、実効支配が可能になったのは室町時代。
補任状が波及されたから支配出来たなどと考えるのは、教科書的な大きな誤り。
[47]白石さんからのコメント(2013年11月04日 00時33分56秒 ) パスワード

こんばんは
総持寺縁起と鉢かづき物語の史的背景
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/other/hachikazuki.htm
を読んでいました。

大阪のはなしでもあり、おもしろかったです。^^
大阪府茨木市 補陀落山総持寺 
もともとは、藤原山蔭が自分の一族の氏寺として建てたものであるが、後に述べるように、彼の孫娘(もしくは曾孫)に当たる時姫が一条天皇の外祖母となるに及んで、一条天皇の勅願所となり、更に、後一条、白河、鳥羽天皇の勅願所となったことで隆盛となつた。

「花山天皇」が中興の祖
高野山真言宗、西国三十三箇所観音霊場の第二十二番の札所
[48]白石さんからのコメント(2013年11月04日 00時37分28秒 ) パスワード

総持寺縁起と鉢かづき物語の史的背景
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/other/hachikazuki.htm
承平五年(935)二月五日付けの「惣持寺資財帳案」(勝尾寺文書)には、総持寺の檀越として、★如無、公利(前山城守)、兼三(陸奥守)、中正(右京大夫)、★在衛(右中弁兼式部少輔)が名を連ねており、総持寺がもともとは山蔭一族の氏寺であったことを示している。なお、ここで、在衛は長男★有頼の子である。この時、有頼はすでに亡く、その子が跡を継いでいたことがうかがわれる。また、末子の如無は僧籍に入っている。これが総持寺を管掌させるためであったことは明かである。
従二位・非参議。
※従三位叙位日は、或22日。とある。

★如無は僧綱補任によると★興福寺に僧籍を置いており、天慶元年(938)七十二才で没している。
[49]白石さんからのコメント(2013年11月04日 00時41分23秒 ) パスワード

※山陰の孫娘:時姫は藤原兼家との間に 道隆・道兼・道長・詮子をもうけ、詮子と円融天皇との間に一条天皇が出来る。

一条天皇 と 道隆の女子・定子 道隆死後 一条天皇と道長の女子・彰子との後宮の話に 源氏物語や清少納言や紫式部などが出てくる。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
平家物語巻六の「祇園女御」の中の挿話
 
 十三世紀の中頃に成立したと云われる平家物語の中にも、この伝承(総持寺と同じ伝説)が挿まれている。これは、平清盛の親友であった五条大納言藤原邦綱が清盛の後を追うように死んだことを述べた段に、極めて簡単に出て来るものであり、その概要は次のようである。
 

(イ)山蔭中納言が太宰大弐となり赴く途中、二才の子の如無が継母の手にかかって海に落とされるが、亀に助けられる。

(ロ)この亀は、如無の亡母が以前に桂川で、鵜飼に殺されようとしていたところを買い取って助けた亀である。
[50]白石さんからのコメント(2013年11月04日 01時41分05秒 ) パスワード

鉢かづき姫の物語
宰相殿と云うのは在衡?
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm
良峰氏・・・依高は安世の子孫だが その前の系がわかっていない。
藤原依高 藤原頼高 良峰頼高の可能性もある。

まだ 頭が整理できていないけど どうかしら?というのがあったのであげてみました。

多武峰略記データべース
神道体系本人名
www.f.waseda.jp/guelberg/ryakki/yoritaka.htm‎
藤原頼高、(上野守、?-1177-1189-?) 尊卑分脈二・465:(資能男) 教房。本名頼高。正五下。上野介。藏。 母木工權頭〔源〕季兼女。
※多武峰は鎌足に関与していて、南都に関与するのではないか?
※如無は僧綱補任によると★興福寺に僧籍を置いているのなら、年代は南都焼き討ちにあってずれているのではないか?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
南家高倉流。戦国末期に中絶するが、四辻公遠の子嗣良が再興し、藪に改号する。藪家は、属閑院家として、羽林家に列される。

南家秀綱流http://www.geocities.jp/okugesan_com/nanke4.htm
藤原 資能[ 生没年不明 ]. 有能男。母舞女(牛玉)。 の男教房が頼高。
              藤原有能(1184〜?)の養子
                  ↑
北家魚名流・★山陰ー大僧都・★如無ー藤原在衡(母・★良峰高見のむすめ)
※後世においてその末裔を称するものに「安達氏」などがある。
 北条氏と姻戚関係を持つ。・・・人吉大村に北条が来ている。
※在衡の実母は備中掾良峯高見(または高親)の娘である。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
南家 W
季綱孫〔高倉〕・・・白石が関与しているふしがある。
半分くらいスクロールすると 有能ー資能がいる。

もっと下へスクロールすると 人物のことが書いてあり、資能について

藤原 資能[ 生没年不明 ]
有能男。母舞女(牛玉)。
建長3(1251)年正月23日叙従三位。
文永11(1274)年出家。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
繋がらなかったけど こんなのがありました。

藤原頼忠 - SITES
atsites.jp/donfrco/yoritada.html‎
大僧都]、妹○[藤原元春室]、妹○[雅望王室。平隋時母]、妹○[藤原定方室。朝成母])─正方、弟直長、弟種将、弟在衡(有頼七弟大僧都如無と備中操良峰高見女の子。養母讃岐守高向公輔女。従二位左大臣。贈従一位。粟田左大臣、萬里小路大臣。子・国光、 ...
[51]白石さんからのコメント(2013年11月04日 07時07分09秒 ) パスワード

50の矢印は在衡から上に有能の養子を指しています。やはり ずれていましたね。

[52]子孫よりさんからのコメント(2013年11月04日 09時42分52秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

日本の苗字七千傑様、白石様ご教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様、
源頼朝善光寺参詣随兵の名簿に表記された方々は、源頼朝公から補任状が波及され、九州を任された方々という事だったのですね。
だから、橘公業の名前があったということで・・・
解りました。(^・^)。 ご教示本当にありがとうございます。
蒙古襲来の際は、平河も博多に行ったとの記述を見ました。
私は歴史が苦手なので、少しでも克服出来るようにがんばらなければ、折角文書や記述をみつけても、意味が理解出来ずに、スルーしてしまう可能性の方が高いので、時代背景も勉強します。

白石様、
総持寺縁起と鉢かづき物語の史的背景読ませて頂きました。
そして・・白石様が何をお伝えになりたいのか・・しっかり、解りました(^O^)/

依高公のお名前、私も、同じように考えました。 もしかしたら、名字が違うのかな?と。

以前、日本の苗字七千傑様にも教えて頂きましたが、平家と平氏は違うと。(皆様、今さらと言わないで下さいね。数学と物理は大好きだったのですが・・・・(*_*))
今はちゃんと理解できましたよ(^O^)/
意味がよく理解できた例として、
平 景清公のお話がありました。 平 景清公は 本当は藤原 景清。
日本の苗字七千傑様から伺った事は 景清様でしっかり理解出来ました。(^O^)/

依高公はいったい誰?この謎も今後の課題です。(ワクワク(^・^)

所で・・・若干、最初のお話に戻るかもしれませんが(うかつな事は言えないので(ー_ー)!!)

例の 相良家文書にあった

譲与孫子孫鶴所肥後国人吉庄南方経徳・常楽両名、同・・・
子息彦鬼・養子彦石・後家良峯氏、并女子二人<一女三女>分

ですが、気になる個所がありまして、まず

後家良峯氏・・・・ここです。

良峯氏と書かれていますよね。他の記述には必ず良峯○○・・・と名前が入っているのですが、ここでは”良峯氏”とだけ。
何だか、対外的な記述に見えます。どこかに報告しているような?

そして子息彦鬼・養子彦石の 彦鬼・彦石 のお名前です。
ネットで 彦鬼 彦石 で検索すると、不思議な事で何故か表示されるリストは「備前」の古代からの歴史に関する内容ばかり・・
一度、 このキーワードで 検索してみて下さい。”彦鬼 彦石”
他の関係ない「どこどこ会社」とか出て来ないのです。???
ちなみに私はGoogleで検索しました。
「備前」に関係する人なのかな??

ここは、先祖が後世の子孫に与えた推理クイズのようです。(*_*)

またまた、全く意味はないと思うのですが(ー_ー)!!(うかつな事は言えない(ー_ー)!!)
平河に関係する文書の中に 宮内庁所蔵 という物がありました。
折角、見たいと思ったのに、やはり、宮内庁には行けません(*_*)

宮内庁??(ー_ー)!!イヤイヤ、うかつな事は言えません(ー_ー)!!

<m(__)m>








[53]白石さんからのコメント(2013年11月04日 23時36分57秒 ) パスワード

こんばんは

>「備前」に関係する人なのかな??
???ですね。

備前にあるのは 百済の温羅がもとになった鬼。 桃太郎に出る鬼の話ですね。
鬼が城。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ポリネシア、縄文、殷、日本に伝わる巫覡の家系 - 新世紀の生き方、物語 ..
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%99%BE%E6%B8%88%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E3%80%80%E6%B8%A9%E7%BE%85&ie=utf-8&oe=utf-8&aq=t&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&client=firefox-a&channel=fflb

忠行の出自はよく分からないのですが、続群書類従に掲載された系図では、忠行の5代前に賀茂吉備麻呂という人がいて、時々これを吉備真備(在右大臣766-771)と混同する人がいますが、無関係のようです。吉備麻呂は孝霊天皇の血筋を引いているともいわれます。(確かに孝霊天皇皇子の稚武彦は吉備臣の先祖とされていますが)
http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/kamo03.htm

(解説)孝霊天皇皇子の稚武彦は、吉備を平定後、吉備津彦と呼ばれる。桃太郎のモデルであり、温羅(うら、百済の皇子説あり)という鬼(鉄の技術を持つ製鉄民は鬼と呼ばれる。鬼は金棒を持っている)を退治した。が、真実は鉄目当ての侵略戦争の可能性が高い。昨日、テレビでやってたが、京の藤原不比等の一族とつながってた東北の藤原3代が滅ぼされたのも、東北の金目当ての侵略戦争だったようです。中尊寺金色堂の金と、奈良の大仏の金の産地は、同じ宮城の鉱山です。藤原氏が京の政界を追われ、東北に逃げて以降、いろいろいちゃもん付けられて攻められたのが真相です。東北は縄文時代からアスファルトを接着剤として使ったり、大仏の特殊な金めっきの技術を持ってたり、超先進文明の国『日本』と呼ばれていたようです。当時の大和朝廷は『倭国』です。

同じ時代に吉備真備も出てるのですが、吉備氏の祖が、孝霊天皇や吉備津彦なのだから、これも、ほとんど同族だと思われます。というか、陰陽道の開祖は吉備真備だし、何らかの関係はあると思われます。

あと、徳川家康の腹心、参謀の本多正信も賀茂氏の一族です。それで、徳川家の葵の御紋は、元々、賀茂氏の御紋で、賀茂神社の祭りが『葵祭り』と呼ばれるのは、当然と言えば、当然です。本多正信が『茎はダメ、葉はいいよ』と言ったとかw

ある時、徳川家康が本多正信に「あの家紋を譲ってくれないかな」と言った所、家康にタメグチを利ける数少ない一人である正信は「それはおかしなことを。徳川家は元々新田一族。本来なら新田の一つ引両をお使いになるのがよろしいのでは。本多は賀茂神社に仕える身にて神社の神紋たる葵を使っております」といって頑として譲らなかったと言われます。また異説ではこの時「茎までは譲れません」と言ったため、徳川の葵は茎の無い葉だけの葵紋になったともいわれます。http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/kamo04.htm
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
藤原も・・・だとすれば 藤原は 全国に網の目のように 姻戚関係を張り巡らせている氏族で 、 

これも なんだ みんな そうじゃないか!!ですね。^^
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
鬼はもともとは 人間に福をもたらす と いう話もあったような・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
https://www.google.co.jp/search?tbm=bks&hl=ja&q=%E6%96%B9%E9%9B%B7%E6%B0%8F
今一度おさらいすると、方姓雷氏は神農八代孫、帝楡罔の子であり、黄帝が蚩尤を征伐するときに功があって、方山に封せられ、この土地の名をもって方を氏としたという。これが「方」姓の正真正銘の始祖です。方氏は夏では「相左」といい、周では「方叔」といい、・・・

神農氏(赤帝・炎帝)は 草や木の根をなめたりして 薬を見つけたという人で、蚩尤や藤原秀郷や平将門は 同じ 天狗の面のような顔をしていたようです。


[54]子孫よりさんからのコメント(2013年11月05日 01時14分27秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
平 忠度公に関して、新たな事実を突き止めました。!(もう、ご存じかも(*_*))

平 忠度公に関して
熊野別当湛快の娘で湛増の妹でもあった女を妻としたこともあったようである。 という記述を見ました。
この記述に書かれている湛増の子息が武蔵坊弁慶!!
そうです、源義経に仕えた武蔵坊弁慶!!
すなわち平忠度公は、武蔵坊弁慶の伯父にあたるわけです。\(◎o◎)/!
一の谷ではもちろん源義経・武蔵坊弁慶は平家と戦っていた訳ですし、須磨寺には、武蔵坊弁慶が残した鐘が残っています。

源義経公も、武蔵坊弁慶と平忠度公の関係は知っていたはずですよね。
皆様、どう思われますか?
そして 武蔵坊弁慶は子供の頃 鬼若 と呼ばれていました。(彦鬼?鬼若?) 

そして!! 平忠度公と球磨・人吉の関係は兄の平頼盛が人吉領主だっただけではないのです。\(◎o◎)/!

ここからは、私の\(◎o◎)/!マークのある記述が特に関係のある箇所です。

ウィキより・・平忠度公の母は藤原為忠の娘(異説として原高成の女とも)
原高成公は = 良峯氏  これは解ります。
問題は 藤原為忠の娘 この方です。私が気になるのはこの方の父の藤原為忠

藤原為忠は
白河・鳥羽(とば)院の近臣。三河,丹後などの国司となり,ゆたかな財力で院の殿舎を造進した。藤原顕季(あきすえ)の歌合わせなどで活躍し,2度にわたって「為忠家百首」を主催。常磐三寂(ときわのさんじゃく)とよばれた藤原為業(ためなり)(寂念)・為経(ためつね)(寂超)・頼業(よりなり)(寂然)の父。保延(ほうえん)2年40歳余で死去。

そして記述に合った子供の一人「寂超」(平忠度公の母と呼ばれる方の兄弟)
俗名は藤原 為経(ふじわら の ためつね)
妻:美福門院加賀 - 藤原親忠の娘。のち藤原俊成室、美福門院のち八条院女房 \(◎o◎)/! 
つまり、妻の美福門院加賀は藤原 為経と結婚したのち離婚して藤原俊成と再婚した。
平忠度公は、藤原俊成に師事し歌人としても才能に優れていたと記述あり。\(◎o◎)/!

そしてもうおわかりと思いますが寂超の妻・美福門院加賀は美福門院と八条院(・子内親王)に仕えた!!\(◎o◎)/!

八条院(・子内親王)について ウィキより
終生、未婚であったが、甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。以仁王は八条院の猶子であり、王が八条院女房三位局との間に儲けた子女のうち、男子は東寺長者・僧正となった安井宮道尊であり、女子は三条姫宮と呼ばれた。九条良輔は2歳、昇子内親王は生後3ヶ月ほどで、いずれも幼くして八条院の養子女となり、その著袴・元服などは女院御所で行われた。
★沢山の養子の方がいらっしゃったようです。

そして・・・
平頼盛公は八条院乳母子を妻として女院の官人となっていた。\(◎o◎)/!
人吉・球磨は八条院領。そして、平頼盛公は人吉領主。

そして、続けて(まだまだあるのです!)
解り辛くなるのでもう一度先ほどの記述を・・
藤原 為経 妻:美福門院加賀 - 藤原親忠の娘。のち藤原俊成室、美福門院のち八条院女房
美福門院加賀は藤原俊成と再婚して子供を産みます。(他に沢山の養子がいたようです)
子供の名が 藤原 定家(ふじわら の さだいえ)\(◎o◎)/!
この方の『明月記』は平成12年(2000年)、国宝に指定されています。

平河貞家・・・この方に関しての記述は、お国が管理しているので読めません(*_*) そして、この方は後世の球磨には何も痕跡を残していないような???

そして、藤原俊成と美福門院加賀の間には沢山の養子がいてその子供の一人が 
「寂蓮」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%82%E8%93%AE
歌道に精進した方だったのですね。 寂蓮・・蓮?\(◎o◎)/!

そして、このウィキの記述の中に  新古今和歌集秋歌上の中の結句が「秋の夕暮」の三首並んだ、西行、定家と寂蓮の「さびしさは」を三夕と称し、茶具の銘などとしている。  とあります。

西行・定家・寂蓮 ・・・・西行  \(◎o◎)/!???


ここから下は、ちょっと無理があるかもしれませんが・・・
私、この頃、古文書や史料を調べていて、一つ憶えた事があるのです。
性○○または○性○ などの表記が 西○○ や○西○ と表記されている事があると・・

備前々司入道殿御代官行性与平河三郎入道観蓮<俗名良貞>等、・・・

の行性は   行性 → 性行 → 西行・・・・???(*_*)
ううん(ー_ー)!! ここはかなり無理がありますね<m(__)m>

かなり、長くなりましたが、私なりに調べました。
球磨の平河家に関係すると思われる人物が沢山出て来られましたが、最終的にまとめると
キーマンの方々は

八条院(・子内親王) 平頼盛公  平忠度公  武蔵坊弁慶  
美福門院加賀  藤原俊成

となりました。何だか、かなり複雑です。
<m(__)m>













[55]子孫よりさんからのコメント(2013年11月05日 06時44分22秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨日から、様々な事が出て来て、ちょっと頭を休めなきゃと思っています。

そう思いながら、
備前々司入道殿御代官行性与平河三郎入道観蓮<俗名良貞>等、・・・
という名前をぼーっと見つめていたら、あれっ? 寂蓮さんに観蓮さん・・。
昨日も、思ったけど、皆さん蓮の花がお好きだったのね〜とゆる〜く考えて、あっ!そうだ!蓮で何か出て来るかな〜と早速、東大鎌倉遺文フルデーターベースで球磨 蓮 と入れて検索したら・・・

・・・御けちあん」蓮花王院領肥後国球磨郡人吉庄預所恵海与当庄南方稲・・

という記述が出てきました。
蓮花王院??  はすのはな??と思い早速検索した所・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E9%96%93%E5%A0%82

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)のページが出て来て・・・中に
三十三間堂について次のような伝承がある。後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮花坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。
「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。

\(◎o◎)/!蓮の花が皆さん好きだった(^・^)くらいにしか考えていなかったのに、ええ〜〜っ!!後白河上皇が出てこられました。

そして、
これより前、後白河上皇の父・鳥羽上皇は平忠盛の寄進により、鴨東白河に聖観音をまつる得長寿院の千体堂を営んでいる。2人の上皇がいずれも平氏の棟梁の寄進によりこうした長堂を造営していることは、平氏隆盛の一因として留意する必要がある。

やっぱり、もっともっと、歴史を理解しなければ。(*_*)
折角表示されている内容を理解出来ずに単純に捉えてしまっています。(*_*)

でも、今日からまた仕事です。頭を切り替えて頑張ります(^O^)/
[56]子孫よりさんからのコメント(2013年11月06日 07時46分20秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

仕事に行かなければいけませんので、昨日から、調べて、考えてた事だけを書きます。

球磨における平河家いえ平河は
芦北国造の後裔・・・いえ日羅・・その血を継ぐもの。

なぜ、そう考えたのかは夜に<m(__)m>

では行ってきます(^O^)/
[57]子孫よりさんからのコメント(2013年11月06日 18時34分38秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
今、仕事から帰ってきました。

白石様、遅くなりましたが、ご教示ありがとうございます。
昨日は、ずっと色々な古文書・文献を読んでいて頭がまとまらずにコメントしませんでした。(*_*)
白石様のコメントが最終的にヒントに繋がって来たのです。
ありがとう、ございます。

やはり、平河家文書の文頭にある
八代相伝開発之地也   ここが全てに繋がるのだと思います。

私が、このスレッドの最初の章(勝手に決めました)、で日本の苗字七千傑様、より頂いたご教示

子孫よりさんへ
 
球磨の地を治めた芦北国造系図の日羅で疑問は氷塊するでしょう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01235.htm  
 
現代日本で百済は苗字にも地名にも存在して一般的にはクダラと読まれるが、それは日本発祥の地名久多良木に由来するからである。
 肥後国葦北郡久多良木(現:熊本県八代郡坂本村久多良木)は、上古の火葦北国の本拠地と推定される。
 村内には百済来地蔵堂があり、大伴金村が百済に派遣した達率日羅(葦北国造阿利斯登の子)が送ったとものとされる地蔵菩薩が安置されている。 葦北国造は孝霊天皇の孫三井根子命に始まる皇別の氏族である。
 日羅は百済王に重用されたが、敏達天皇は日羅を召喚して任那回復策を上奏させたが百済使に謀殺されている。
 その後、百済日羅の妻子らは河内の百済帰化族居住地の石川百済村の移住したとの記録がある。
 河内百済氏の血を引く良峯氏が地頭になるのは地縁があるからなのです。

このご教示にやはり全て繋がっているのだと思います。

良峯氏だけではなく、河内百済氏の血を引く様々な一族が、源頼朝いえ、八条院かもしれません。どなたかの意によって、球磨に集まった。
昨日、色々見たとお話しましたが、このどなたかの意によって、もしかしたら、歴史上では、討たれたとか亡くなったと言われてきた人達も、本当は生きていて、球磨に来られていたのではないか?とそれも、一人だけでは無く、様々な方々が・・・・

そして、その意を持った人の目的は、河内百済氏の血というより、もっとはるか先、もしかしたら狗奴国まで遡るのかもしれません。

球磨の平河家は 平河族 と言った方がいいのかもしれません。

そこで、ですが、まだまだ、古代の歴史を理解していない私に、ご教示下さい。

芦北(球磨)  吉備   熊野   この3地点に共通するものは何ですか?

いえ、これら3地点は繋がっていますか?

どうぞ、よろしくお願い致します。



[58]子孫よりさんからのコメント(2013年11月07日 00時33分40秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

今日、私が考えた事は飛躍しすぎかもしれません。

しかし、そう考えるに至った文書があるのです。

以前、平河義高公は、相良氏が人吉に来られる約18年前から球磨の地に居られたと記述を見たので、年代で言えばやはり1180年代かな?と考え古事類苑データベース を利用して文献を見ていたのですが・・
吾妻鏡の中にとても気になる個所が出て来て年代・日付ごとに追っていったのですが・・・

平河義高公は球磨に来られる前に、山本庄に居たという事ですよね。
では、これを見て下さい。

吾妻鏡  六〕
文治二年二月七日乙卯、今日廣元賜二肥後國山本庄(○○○)一、是義經行家謀逆之間、計申事等始終符合、殊就レ被二感思食一、被レ加二其賞一之膸一也云云、

「「廣元、肥後国山本庄を賜はる」
 今日、大江廣元は肥後国山本庄を与えられました。それは、源九郎義經、源行家の反逆に際して、守護地頭の配置の進言が何より良かったので、特に感心され、まず第一に恩賞を与えられたものという。(訳した文を見つけました)

大江廣元公は  以前コメントした
鎌倉殿御領五百丁   預所因幡大夫伴官・・・・この方が大江廣元でした。

山本庄を賜ったのちに球磨の鎌倉殿御領五百丁を賜った。
平河義高の形跡と全く同じです。

大江廣元公は出自は諸説あり、その詳細は不明。『江氏家譜』では藤原光能の息子で、母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたという。しかし『尊卑分脈』所収の「大江氏系図」には大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に『続群書類従』所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としている。
当初は中原姓を称し、中原 広元(なかはら の ひろもと)といった。

そして父の藤原光能は(ふじわら の みつよし)は、平安時代末期の貴族。藤原北家御子左流。藤原忠成の子。正三位・参議。(藤原北家 → 百済永継)
そして妻は足立遠元の娘。
足立 遠元(あだち とおもと)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。足立氏の祖。足立氏は藤原北家の流れを汲む。(百済永継)
足立遠元の子供?
天野遠景(あまの とおかげ)。平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。藤原南家工藤氏の一族で、吉川氏と同族である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E9%81%A0%E6%99%AF
ウィキより。
寿永2年(1183年)には信濃国を中心として勢力を拡大する木曾義仲への使者を務め、義仲の嫡子・義高を人質とすることに成功した
その後遠景は九州・大宰府方面で10年近くの長きに渡って活躍した。とありました。
そして建久10年(1199年)正月の頼朝死去に伴い、出家して蓮景と号した。と・・
ここでも 蓮 です
木曽義仲は源頼朝公・源義経公の従兄ですよね。
源 義仲 (みなもと の よしなか )は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族
木曽義仲の子供この人も有名な木曽義高  そう「義高」です

ここからが「山本」に関係して来ます。
そして、もう一人義高と呼ばれる人物がいたのです。

ウィキ  木曽義仲(源義仲)を見て下さい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E7%B5%8C

丁度記述の中段くらいです

入京[編集]

7月27日、後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている。義仲は翌日28日に入京、行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた。

出ました!!山本義経の子、錦部冠者義高\(◎o◎)/!そして蓮華王院!!

そして記述に書かれている義仲・行家 こそが最初に紹介した吾妻鏡の
「是義經行家」!!
もう一度見て下さい!!

文治二年二月七日乙卯、今日廣元賜二肥後國山本庄(○○○)一、是義經行家謀逆之間、計申事等始終符合、殊就レ被二感思食一、被レ加二其賞一之膸一也云云、

山本 義経(やまもと よしつね)別名山本冠者
平安時代末期の武将。源義光の系譜を引く近江源氏。父は義光の長男で佐竹氏の祖となった源義業の次男山本義定。治承・寿永の乱の初期に近江国で挙兵した。本姓が源氏であるため正式な姓名は源義経であり、源頼朝の弟として有名な河内源氏の源義経と同姓同名であったため「義経二人説」で知られる。

『吾妻鏡』によると山本義経は新羅三郎義光(源義家の弟)の5代の跡をつぐ家系(系図類では4代)の近江国住人で、山本山城(滋賀県長浜市湖北町山本)の城主。弓馬の両芸が人に聴かれる勇者であった。

寿永2年(1183年)、山本義経は頼朝の元を離れて源義仲の軍に加わり入京、平氏から身を隠して比叡山に逃れた後白河法皇が都に戻る際、義経の子・錦部冠者義高が警護している。
★錦部冠者義高   出ました!!義高さん

寿永3年(1184年)1月20日、源義仲は源範頼・義経の軍に攻められ滅亡(宇治川の戦い)。この合戦で義仲軍として参戦した子の錦織義高が逐電行方不明となり、義広(義弘)が戦死している(『吾妻鏡』同日条)。そして、山本義経は以後史料に登場せず、消息は不明。
★錦織義高が逐電行方不明!山本義経は以後史料に登場せず、消息は不明。

そして・・このような話がありました。
異説[編集]
昭和になって『玉葉』の記述をもとに歴史家の松本新八郎によって、源頼朝の弟の源義経とこの山本義経が同一人物とする「義経二人説」が唱えられたことがある。(異説ですから・・・でも、何か全ての登場人物が繋がっているような・・???)

めちゃめちゃ長くなりましたが、いかかでしたでしょうか?
二人の 義経 そして ふたりの義高 です。

ただし、山本氏は新羅。  ううん?ここはどうなるのだろう?
勉強不足で すいません。

もっともっとがんばって、謎を追求していきます。
<m(__)m>











[59]白石さんからのコメント(2013年11月07日 04時35分35秒 ) パスワード

おはようございます。
子孫様 パワフルに活動されてますね。^O^/

58『吾妻鏡』によると山本義経は新羅三郎義光(源義家の弟)の5代の跡をつぐ家系(系図類では4代)の近江国住人で、山本山城(滋賀県長浜市湖北町山本)の城主。

義家の弟・新羅三郎義光は南部家の祖ですね。
祖先は同じの 南部家と山本。
そして 新羅三郎義光の系の 清和源氏新羅三郎義光流佐竹氏族 白石。
大田亮氏は 
肥後の白石は 士族で清和源氏。菊池に仕えて 菊池が相良と戦い負けた後 相良氏に仕えるという。

以前 南部の方に 護良親王が走っていった話が 別口のスレッドでありました。
球磨にも 護良親王が走ってきて 勢いを盛り返し今日へ馳せかえった話は 前に書きましたが、親王に味方した 上球磨の話。
東北のほうには 北畠親房(こちらは我が家でわけるとき佐田)も走っていっている。

鎌倉末期から南北朝時代には、北畠親房の子の北畠顕家の遺児らが、東北南朝の中核となり、東北北畠の本流は浪岡御所と呼ばれた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
源義仲の養い親は 中原兼遠。(中原は豊前宇都宮流佐田氏がもとつかっていた。姻戚関係により?中原は母方つながりで 人吉蓮華王院領預かり所の大江・大友も中原)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
源義仲の父:義賢
河内源氏の武将。源為義の次男。源義朝(子・頼朝 義経など)の異母弟。源義仲(木曾義仲)の父。

その 嵐山の館を 「大蔵の館」という。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大蔵
漢王室子孫 坂上一族の 系譜に
大蔵氏がいる。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03005.htm
岩門氏の末に 木原 山口がいる。
私の父の手帳に 木原の書付があり、下益城郡の 家と関係している。
下益城郡の家と うちの白石・山口は 姻戚関係でつながり、高岡と養子や姻戚関係でつながっている。
ので おそらく うちの 山口は この系ではなかろうか?と 見当をつけています。

山口がでるからって
うちは 一般庶民ですよ。^^
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
それよりも
山口は 菊池から 豊田が出て、
大内氏は一子相伝で 豊田を名のっている。

大内氏は たたら氏で 山口県佐波郡(元防府市)に やってきた。ここが うちの佐田があったところで、はるか昔 垂仁天皇の子供が住んでいて、その飛び地が大阪にあり、牟礼神社の祭神・大中津彦命。
また ヤマトタケルが 九州へ船出した時の 港があるところ。

大内氏は また 姓系辞典に 清和源氏でもある。
そして 萩文書?だったかに 清和源氏子孫の山口という 百姓の家があった と あり、

阿蘇文書に 木原は源姓である とあり、
それらは
遡ると つながりながってくるみたい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そして
百済氏=坂上氏=東漢氏と つないでいるのを 前に 本で見たことがあり
姻戚関係?

 





[60]子孫よりさんからのコメント(2013年11月07日 07時00分23秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございます。
伺ったお話から、山本氏は
「新羅三郎義光の系の 清和源氏新羅三郎義光流佐竹氏族 白石。
肥後の白石は 士族で清和源氏。菊池に仕えて 菊池が相良と戦い負けた後 相良氏に仕えるという。」
と言う事で肥後そして球磨に繋がっていた訳ですね(^O^)/
そして、白石様に繋がっている。やった〜!(^^)!

そして
百済氏=坂上氏=東漢氏 姻戚関係?
とありますが、そうなるとやはり百済が関係してくる訳ですね。(-_-)
ううう〜む(-_-)

実は今朝、5時頃からコメント書いていて、最後の仕上げに違うページを見て戻ったら、またまた、真っ白け(*_*)
やっちゃいました(*_*)

と言う事で、今朝もアレアレ〜??という記述を見つけたのですが、これは又夜のコメントで<m(__)m>

錦織義高が逐電行方不明!山本義経は以後史料に登場せず!!
という大変な謎を秘めた所まで辿りついたのですが、本当に「その後はこうでした!!」という史料がない!とはっきり断言されてしまったら・・(*_*)

いいや(ー_ー)!!
なんでもコツコツ調べたらきっと何かがわかりますよね。!(^^)!

さて、夜のコメントの前にとても気になるお名前をひとつ。
足立 遠元(あだち とおもと) 「遠」がついていますね(-_-)
この方の周りには「遠」の付く人が多いですよ(-_-)むむっ

そう言えば球磨の平河にもおひとり遠の付く方が・・・
「遠高」公・・・足立氏は北条北家 すなわち百済の血ですね(-_-)むむむっ

では、仕事に行ってきます(^O^)/





[61]子孫よりさんからのコメント(2013年11月07日 07時03分38秒 ) パスワード

追記
間違えました。(*_*)おっちょこちょいです<m(__)m>
足立氏は北条北家は藤原北家でした。<m(__)m>
私は何を書いているんでしょう。 まったく<m(__)m>

行ってきます(^O^)/
[62]子孫よりさんからのコメント(2013年11月07日 19時25分49秒 ) パスワード

皆様、こんばんわ(^・^)

実は今、父と電話で話していて衝撃の事実を!聞きました\(◎o◎)/!

その一部を
(私は、あまりにも父と伯父に似ている平忠度公の肖像画の話をしようとして・・)
私(^・^) 「ねえ、お父さん、平忠度公って知ってる?」
父(^v^)「うん。そりゃあしっとるバイ。ただのりさんは歴史ではね、亡くなったって言われよるばってんね。生きトンなったとバイ。(^・^)」
私(?_?)  「えっ!?」
父(^v^)「な〜ん。そりゃこっちじゃ皆、しっとんなるよ〜(ToT)/~~~」
父(^v^)「あらあ?お前は知らんやったとか?」
私 (-_-) 「私どころか誰も知らんよ(*_*)」
父\(◎o◎)/!「あら〜!そうか〜。ううん〜。ばってん・・生きトンなったとよ(^・^)」

私 (*_*) 「何で今までおしえてくれんかったと?」
父 (@_@) 「・・・・知らんて、知らんかった」・・・答えになっていません。
私 (?_?)  「所で、確証はあると?」
父 (^◇^)「お父さんは何かで見た!というか読んだよ・・」
続けて父  「なんで、そぎゃんことば聞くと?こっちじゃ、結構、生きトンなった人が多かとよ(^。^)y-.。o○。正月に帰って来るやろ?平川のおじさん達とみんなで話せばヨカ。(私が球磨の先祖を調査している事を言うと)あ〜そうか!そしたら、上村の犬童さんとか田山さんとか親戚はうちはみ〜んな氏族やから、正月に聞けばヨカ。お父さんも正月ば楽しみにしとくね(^・^)」

あっ!!忘れていた!犬童さん! っていうか犬童氏って言われるから別の世界のような感じになっていて、そうです犬童さんがいらっしゃいました。
完全に、親戚と歴史が繋がっていませんでした。(-_-)

田山さんって田山のおばさん・おじさん?あれっ?田山も氏族?
田山氏って・・・???

正月まで待てません(ー_ー)!!

しっかり、調査して親戚にちゃんと報告します!
でも、もしかしたら皆から「あれっ?知らんかったと?」って言われそうで・・(*_*)

どうも、家の親戚は、先祖を敬い尊敬や誇りに思う事はあっても、それを表に出そうとはせず、心で敬い感謝する こういう人達のようです。

その事が私の誇りかなっと思いました。(^・^)





[63]白石さんからのコメント(2013年11月07日 21時23分48秒 ) パスワード

>田山 私 確か このスレッドで 苗字を書いていませんでしたよね。?
うちの方では「市房神宮」のお鏡を預かる家です。
山の上ですよ。(^^)子供の頃 一時間以上かけて 行ったことがあります。後 選挙のウグイス嬢を頼まれて 車で 30分か40分 それこそ 決死の覚悟で揺られていった記憶があります。

神宮の尾方氏から(うちの親戚の尾方氏ではない) 田山の分布を書いていただいたことがあります。ちょっと 今 屋根裏で・・・
田山という家が 神宮関係でいるか?尾方氏にお尋ねしたら いや という 返事でした。

神宮には 相良長福が いた とも いうことで、(球磨群誌)、長福の周りの恒松も集落におり、山北もおり、はるか昔のことと(天孫ににぎゆかりの祭神・神宮は平城天皇の頃建てられている)どのようにつながっていくか?興味があるところです。

田山家は高岡と2か3世代前に 通婚しています。
お鏡のご開帳のことは 前に書いていますね。




[64]白石さんからのコメント(2013年11月07日 21時27分37秒 ) パスワード

>大江廣元
毛利広元・中原広元 
毛利氏・大内氏は 百済系図も併せ持っていますね。
[65]白石さんからのコメント(2013年11月07日 21時29分21秒 ) パスワード

毛利・大友は中原だったが、大内氏も同じく中原。
[66]子孫よりさんからのコメント(2013年11月07日 23時02分45秒 ) パスワード

白石様。
白石様も田山家と御親戚? あれれっ!

私が憶えている限りでは多分、湯前だったような。
はっきりしないのは、殆どの親戚と会うのが、法事とかばかりで、お家が何処かよくわからない親戚も多くて(*_*)顔と名前はわかるけどみたいな・・
というか、都会では殆ど親戚関係までは行かないと言うくらいの遠い親戚も球磨では絆が深いです。例えば祖母の曾ばあちゃんが嫁いで来られたとか、普通に、父も言っています。(祖母の曾ばあちゃんって何時代?と言う感じです)
それと、祖母の妹(私は多良木のばあちゃん)と呼んでいましたが、その多良木のばあちゃんは、多良木の平川家に嫁いでいます。
ここは、分家で、本家が別にあり、双方、普通に「本家の○○さん」とか「分家の○○さん」と呼んでいました。こっちの平川は多良木や黒肥地の方とかを中心にしているようで、私は、今後、多良木平川と呼ぶ事にします。(勝手にすいませんが)

祖母の平川は久米や湯前に同じ流れ?の平川の親戚がありますね。
元湯前町長の平川さんは祖母の従兄。こことも、平川同士で婚姻関係があったようです。
今日、父がポソット「名前は同じ平川でも、色々な流れがあるから」と言っていました。
多分、これこそが、今、私が考えている(昨日からご説明した事)に繋がっているのではないかと思います。

でも、その土地にある昔からの言い伝えとはよく残っているものだな〜と思います。
前にも書きましたが、クワガタの事を「カゲキヨ」と呼ぶなんて!!
日本全国、そのような名称でクワガタを呼んでいる所はまず無いのではないでしょうか?
所で、平景清公(藤原景清公)はいったい何処でなくなったのでしょうね〜(-_-)?
宮崎でとか、色々節はありますよね(-_-)
兜を一度見ただけでクワガタに「カゲキヨ」とニックネームが付くかな〜(-_-)

ううん。謎おおき球磨でございます。<m(__)m>

さあて、その謎の解明にがんばります(^O^)/



[67]子孫よりさんからのコメント(2013年11月08日 20時20分22秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^.^)
実は、私、ちょっと体調が崩れ、今、24時間チェックの心電図を身体に装備?した状態です。
もともと、心臓の病気があるのですが(筋ジストロフィーに関係していますが、この事はまたおいおいお話いたします<m(__)m>)最近の寝不足と先祖を調査している時にこの頃頻繁に\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!となってかなり心臓さんに負担をかけていたのかな〜と反省しています。
でも、この携帯型心電図マシーン?は、コードがぶらぶらとなって、家の猫ちゃん達は警戒して寄ってきません。
まあ、これからは心臓さんに負担をかけないようにしっかり睡眠はとっていきます。

所で、今日、病院で血を取られている時に、ふと「あっ!血・・そう言えば、先祖同士の血が合わなかったという両親の離婚の原因の”血”は、母に、百済の血が無かったと言う事かな?」と考えたのです。
でも、これは調べて見ないと解りませんし・・・

変な事を考えてしまいました。

もしかしたら古代から例えば民族Aと民族Cでの婚姻は問題なし。民族Aと民族Dとの婚姻もOK。

そして民族Bと民族Cの婚姻も問題なし。民族Bと民族DもOK。

所が、民族Aと民族Bとの婚姻はかなりのリスクが発生する
例えば遺伝性の疾患発生率がかなり高くなるとか・・・・
弟と私の病気は遺伝性なので・・・・ありえないとは思いますが、もしかしたら・・と。

古代から明治あたりくらいまではその情報がちゃんと受け継がれてきていたのでは・・??・・なんて事を病院のベットで安静にしながら考えていました。

弟も私も其々違う形(筋ジストロフィー)で3歳児検診の時から症状がでていたのですが、私の場合は内臓に症状がでるパターンだったので、「身体が弱い、原因不明の心臓疾患をもっている」という感じでいたのですが、医学界でそれがわかったのは(筋ジストロフィーキャリア・・内臓とくに心臓・肝臓への症状)このつい2年ほど前の事ですから、解明出来ただけでもありがたいと思っています。
だって、弟は今寝たきりの状態ですが、私は、全身の筋肉には支障は無かったので、普通に動ける訳ですから、弟の分も頑張らなくては(^O^)/

遺伝性の疾患をもっていても、それは私の個性の一つだと思って、前を向いて生きている訳です(^O^)/

さて、脱線しすぎました。
さ〜て、無理はしないが、がんばるぞ(^O^)/





[68]白石さんからのコメント(2013年11月09日 02時38分19秒 ) パスワード

こんばんは
この間から いろいろ 苗字が出てきて、ついに 知恵熱^<>^がでてしまい、うんうん うなっていました。でも もう 大丈夫。元来丈夫なので もちなおしました。

子孫様 大丈夫ですか?前は 様子がわからなかったので ? 少し ナーバスになってらっしゃるのかしら ? と 思っていたことがありましたが、大変なのですね。でも前向きに頑張っておられるので、何も出来ないけど 心で応援しています。

今夜は http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/8765405.html を 見ていました。著者の力作で 思わず 笑いながら 読み進みました。

じつは 随分前に 橘薩摩氏が 東と 姻戚関係がある と 大田亮氏の辞典でみたことがある と 思って、 図書館に行こうとしたら 知恵熱がでて、寝込んでいたのです。

で、平川が なにか 関係していないか? と 思って 読んでみたのですが、平川は 出てきませんでした。橘薩摩氏も 出てこず、やはり 図書館に行かねばと 思っています。

湯前は市房に一直線でしたね。そして、九州連山が望めるそうです。・・が。

犬童頼安は 犬童頼兄に関係していて 前に 千手の局で 出た人。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
で、東氏を 日本の苗字7000傑・ウィキ日本の苗字7000傑でみると
賀茂氏 上賀茂→山本
    上賀茂→池
山本と 何だか からまるような 気が・・・
山本(源)義経は原田水軍を育てたそうだけど、原田は 初めは平氏に味方。また 太田亮氏の辞典の源義経は八条院に候。とあり、候とは仕えるという意味か?
原田は岩門ー木原ー山口と同族。上村に字で木原がある。池は 平頼盛を 祖とする 筋もあり、頼盛は八条院領に関与していた。

池氏 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/池氏‎
池(河内守)家 に移動 - 池家は、その後は保業-光度-為度-維度-宗度-顕盛と室町時代まで継承されたが、在田庄ほか丹後国倉橋庄 与保呂 等の池家の所領は顕盛養子の★朽木経氏に伝領された(朽木文書・『鎌倉遺文』30280・31207・31245号、『寛政重修諸 ...

※平姓池氏は、平氏の流れを汲む一族。平頼盛(池大納言)を家祖とする一族などがある。
・ 土佐池氏は、細川氏(清和源氏足利氏流)の流れを汲む一族。
・ 越後池氏・・・弥彦神社などの言葉が見える。
        宗良親王に味方→足利尊氏に従う。
・福岡池氏  壇ノ浦の戦いで破れた平家方の★中原中納言が現在の福岡県に流れ着いて改名したのが始まり(大泉坊誓願寺文書)。
・平安末期においては筑後、筑前は平氏の荘園であったとされ、池筑後の末裔とされている。
・戦国時代後期、細川定輔の子が長岡郡池城城主となり池頼定となる(越後池氏とは直接関係ないようだ)。土佐湾東側に勢力を持っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大蔵の池氏
 ★秋月氏・高橋氏
 ★岩門氏・江上氏・東
 ★天穂日命→飛鳥部がいる。
      →出雲国造家→東氏

秦氏の東氏
 松尾稲荷社家ー東氏

出羽清原氏
 岩城ー東氏

日下部氏の東
 開化天皇ー日下部氏ー糸井氏・朝倉氏ー軽部氏ー山本がいっぱいついていて、稲津長村が東氏

桓武平氏良文流東氏
 平高望五男・良文にはじまる。
 千葉氏ー国分氏ー東胤頼・・・この人の子孫だという人のブログがありました。
 千葉常胤公の六男・東六郎胤頼氏の末裔である千葉県山武郡の東胤頼の子孫http://rally-supporter.blog.ocn.ne.jp/blog/cat12342994/  
姓を土井から今の姓に改めた(…以前の姓は、土井ということらしいです)
千葉一族の末裔の方たちの姓を調べたところ、『土井』はないようなのですsweat01

『土井姓』&『九枚笹(家紋)』

−この2点を今後、集中的に探っていきたいと思いますwink

落ち延びる前に住んでいたらしい、東氏(木内氏)の領地の東庄(現・香取市)

 
[69]子孫よりさんからのコメント(2013年11月09日 06時26分43秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、体調は大丈夫ですか?久しぶりに知恵熱と言う言葉を聞きました(^.^)
私は、昨日、ぐっすり寝たので、だいぶ良くなりました。
ご心配をおかけしてすいません。無理をせずにがんばります。

それから・・・
朝から白石様のコメントに驚いています。
白石様・・。ご自分ではお気づきでは無いのかも知れませんが、物凄い能力だと思います。
それは、何故かといいますと・・・

あの・・・私の元嫁ぎ先なのですが・・・・
山崎(菊池)から、曾お爺さんが養子に来られたとお話しましたよね。
家に後継ぎがいらっしゃらなかったので養子に来られたそうなのですが・・
あまり、姓を出したらと思って控えていたのですが・・・
元、嫁ぎ先の姓は 東 (関東読みのほうです。「あ」の付く・・)
です。\(◎o◎)/!

戦前・戦中は北九州市内でも、有名な商家で(明治までは士族)石炭・練炭・ガスの販売を行っていたそうです。曾お爺さんは戦前・戦中に八幡市の商工会会長も務めいていたと聞いています。
空襲で、全て焼けてなにもかも失ったと・・・
前にもお話しましたが、曾お婆さんは、熊本の玉名か長州の「宮原家」から嫁いで来られました。
曾お爺さんも、菊池や玉名方面だったので、元嫁ぎ先も、熊本(肥後)に関係していたのだとは思っていたのですが・・

そして、私と元夫は偶然に久留米で知り合ったのです。
双方の先祖の事は全く何も知らずに・・・

以前、岡原の実家に帰っている時に元夫が岡本城付近の山を家から眺めていて「ここに来たら、何か懐かしい気持ちになって落ち着く」とボソッと言った事があって・・・めずらしく穏やかな表情でした・・・
その後、本に「菊池の山崎氏が南北朝の戦いに敗れた後、球磨の岡本に逃れてきた」と書いてあるのを読み、二人で「嘘やろ!!(+_+)」と驚いた事があったのですが、その事を今朝思いだしました。
結婚後も、二人で先祖の話をしたのはその時だけだったと思います。

だから、白石様のコメントに本当に驚いているのです。

私と元夫はやはり何かの縁があったのですね。義母の母方は越智家だったし・・
その縁を二人で壊してしまいました。
でも、縁があったから、私の娘・息子は生まれてきたのですから、今後は、この二人が双方の血を引き継いでくれるので・・・

現代においても、出会いは過去に繋がっているのかもしれません。
仏教で輪廻転生という言葉がありますが、もしかしたら、こういう事も含めて指しているのかなと・・・

でもでも白石様の能力(感)はすごい!です。
今朝は、本当にぽっぽ肌(鳥肌)が立つくらい驚きました。
<m(__)m>








[70]子孫よりさんからのコメント(2013年11月09日 10時19分17秒 ) パスワード

もう少ししたら病院に心電図を取り外しに行かなければいけないのですが、今からお話する事をコメントしなければ、心臓がドキドキしてしまって・・
(心電図に影響が出ているかも(*_*))

キーワードは 福岡県上毛町  相良長頼公  平河義高公  です!!

まず、福岡県上毛町。以前にもコメントしていましたが、私がよく行く、豊前や中津に隣接した場所です。
スサノオノミコトを題にした神楽を見たというあの場所です。
その、頻繁に行っていた場所がある記述を目にした時から、やっぱり何かあるな?と思っていました。

それがウィキにあった相良長頼公に関する記述の
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E9%A0%BC

この部分
宝治3年(1249年)3月27日、豊前国上毛郡成恒庄の地頭に任じられている。建長6年、人吉庄にて死去し、後を嫡子の相良頼親が継いだ。享年78。法号は蓮仏。

豊前国上毛郡成恒庄の地頭に任じられている。
ここなのです!! あれっ?上毛?と。まだその時は(丁度2ヶ月くらい前)はなぜ?上毛?と

そして、今朝!!
白石様の能力(感)はすごいな〜(^.^)と思いながら、そうだ、白石様は今まで数多くのここに至るまでの予言?(超能力)を残されているのかと・・と思い、このスレッド「平川家について」を最初の章(勝手に決めています)から読み返していたのですが・・・

白石様、憶えていらっしゃいますか?スレッド「平川家について」を最初の章コメント76!!
丁度全文章の中段あたりに
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-27.html 毛野氏考(上毛野氏・下毛野氏 附:宇都宮氏)
彦狭島 田辺史 大荒田別などの言葉が見える。 

ここです!!私、もう一度、紹介されていたサイトを見たのですが!
豊鍬入姫!!もうここから鳥肌がぽっぽ〜と
豊鍬入姫伝説が何と福岡の上毛町にあるのですよ!豊姫伝説(トヨ姫)
マスコットちゃんにもなっています。
上毛町の道の駅は大ノ瀬官衙遺跡と隣接しています。
http://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A7%E3%83%8E%E7%80%AC%E5%AE%98%E8%A1%99%E9%81%BA%E8%B7%A1
ほか
http://ameblo.jp/toyonosanpomichi/entry-10306079646.html

話を戻して・・毛野氏考(上毛野氏・下毛野氏 附:宇都宮氏)の
豊鍬入姫  → 大荒田別 → 荒田別 →・・・・・→白石様がおっしゃった中原氏が・・
そして、コメント58に挙げました
中原氏  → 大江廣元公
源義家  → 山本義経  その子供が錦部冠者義高

★『吾妻鏡』によると山本義経は新羅三郎義光(源義家の弟)の5代の跡をつぐ家系(系図類では4代)の近江国住人で、山本山城(滋賀県長浜市湖北町山本)の城主。弓馬の両芸が人に聴かれる勇者であった。★

繋がりました。(^O^)/  豊鍬入姫 ・・・・・・・・→ 錦部冠者義高

そして、最初に挙げた 相良長頼公が地頭となるはずであった場所

豊前国上毛郡成恒庄 上毛!!(福岡県) → 豊鍬入姫伝説

そして球磨では 平川義高公 →  荒田大王神社・・荒田です(白石様がず〜っとおっしゃっていました・・・(^.^))

ここまで繋がって 平河義高公はさて?どなたかしら?  っと言う人がいたとすれば<(`^´)> (;一_一)

もしかしたら
豊前国上毛郡成恒庄の地頭となるハズであったのは・・・・
(ー_ー)!!いかんいかん こういった憶測はダメです。
事実となる史実で証明しなければ(^.^)

行方不明となっていた 錦部冠者義高  は何処にいかれたか!
平河義高公は いったい誰なのか!

何だかこの問題のゴールが見えてきたような気がします。

自分で書いていて、あ〜ドキドキした〜(^.^)
あれっ!!時間が!!
病院に行ってきま〜す(^O^)/





 





[71]子孫よりさんからのコメント(2013年11月09日 10時29分15秒 ) パスワード

(@_@。(*_*)
病院へ行く準備をしていて思い出しました。
平河義高公は そうです 良峯氏でした(*_*)

なんで?良峯なのだろう???

やっぱり、ゴールはまだまだ先かな・・・

うっ!し心臓が・・・
心電図に悪影響が出なければいいのですが・・トホホ
[72]子孫よりさんからのコメント(2013年11月09日 15時33分47秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^○^)

ただ今、病院から帰ってきました。(^O^)/
検査結果は、15日に解ります。
ただ、15日は、精密検査が待ち構えているので、ちょっと怖いです。
血管造影剤を使って、心臓の状態を見てもらうので、ハァ(*_*)
仕方ないか。がんばります(^O^)/

所で!!ついに「古代日本の領土の起源」を借りる事が出来ました。(^O^)/
病院の帰りに図書館に寄って来ました。(コラコラ(ー_ー)!!と言わないで下さいね) 早速、よみま〜す。ワクワクです。(^.^)

それから、本を借りたついでに、ぐるっと本棚を見渡していたら、福岡県の山田市の市史があって、「あっ山田って福岡県にもあった!」と思い・・
山田市は合併して今の嘉麻市となっています。
1889年4月1日 - 町村制施行により嘉麻郡熊田村が発足。
1896年2月26日 - 郡制施行により嘉穂郡に属する。
1924年9月1日 - 熊田村が町制施行。熊田町となる。
1925年5月10日 - 熊田町 ⇒ 山田町と改称。

球磨 嘉麻 熊 山田 何だかあやしいぞ(-_-)
熊田が山田?と思いページを開いていくと・・・・・

なんと、この場所を最初に山田の庄と呼ばれたのは
神武天皇でした。
そして、熊襲征伐に行かれる途中に景行天皇が立ち寄られたとの場所でもありました。
日本全国に沢山の山田とよばれる場所はありますが、何でも、この山田の庄が山田という地名の一番最初とか?
知らなかった〜。というか、以前勤めていた会社の時、田川地区から、博多の本社へ向かう時はいつも、この山田を通っていたのですが、この頃、自分でも山田!山田!と言っていたのに、ここの山田の事をすっかり忘れていました。(-_-) (-_-) (*_*)
でも、本は最初のページくらいであきらめました。
必需品のメガネをかけて行かなかったもので・・あ〜あ(*_*)
ここの山田に何か秘密ありかも( 一一)です。

では、早速本を読みます(^O^)/
[73]子孫よりさんからのコメント(2013年11月09日 15時47分08秒 ) パスワード

追記
今、ふと、「山田か〜懐かしいな〜」と思った所で・・ある記憶が!
初めて山田を通った時に感じた事が
「あ〜何か多良木(球磨)に似ているな〜」だったのです。
盆地で、川が流れていて、雰囲気がよ〜く似ていました。

だから、いつも通る時、ここは落ち着くな〜と・・・
ううん?都会じゃないからそんなに変わっていないと思うのですが・・
もしかしたら、古代の方々も同じ事を考えられたりして・・・?
まあ〜そんな事はないですよね〜(-_-)??

またまた脱線してしまいました<m(__)m>
[74]子孫よりさんからのコメント(2013年11月09日 18時39分23秒 ) パスワード

皆様、こんばんは。
<m(__)m>(*_*)

錦部冠者義高 = 錦織義高公には子孫がちゃんといらっしゃいました。

日本の苗字七千傑様の山本氏の系譜を見たらちゃんと子孫がいらっしゃったのですね。

あ〜かなり、近づいたかな〜と思ったのですが・・
やっぱりダメでした。

ううん?でも、かなり、内容は一致してきたと思ったのですが(*_*)

ただし、山本 → 球磨 の流れは変わらないので、ここの部分をもっと調べてみます。

源義家を祖とする方の中に良峯氏の流れから正室をもらっている人がいました。(^O^)/
よ〜しこの辺をもう一回調査してみます。(^.^)
でも、<m(__)m>(*_*)  ハァ〜(*_*)
[75]子孫よりさんからのコメント(2013年11月10日 00時28分28秒 ) パスワード

皆様、こんばんは。
一喜一憂しながら調査していた時になんと、新しい文書内容が突然表示されました。
コメント32 で書かせて頂いた内容をもう一度東大の鎌倉遺文フルテキストデータベースで出した所、前回表示されていなかった記述が出ていたのです。\(~o~)/
転記ミスかと思い、前回、ワードに図形の形でコピーしていた原文をもう一度見たのですが、やはり、無かったのです。

そこで追加表示された内容をご覧ください。

所進遠景同年十二月 状案者、下球磨御領 、可早任御教書、被安堵平河三郎(良貞)身事、右去六月十六日御教・・・・・

この記述の 所進遠景同年十二月 状案者 ここが出てきたのです。

よく見ると 遠景 と言う名前が。
多分、天野 遠景(あまの とおかげ)公だと思います。
先日のコメントに私が 「遠」の付く名前が・・と言ったあの方です。

途中からなので何と書いてあるのか全く解りませんが、とにかくこれは平河家文書ですから、天野 遠景公の状案によって 被安堵平河三郎(良貞)身事となったような。

でも、なんで急に表示されたのか良く解りません(?_?)
この頃に何が起きたのか、もう一度明日調べてみます。

<m(__)m>



[76]ごどさんからのコメント(2013年11月10日 06時03分41秒 ) パスワード


よこやりしつれいします。

7000傑さんの
ぺジでは
山本のしたにいる
中村です。

山本は巴の紋所が
代表らしいです。

女紋などは
ようわかりませんが

近所に巴川が2つ

つながりのあるものか
知りませんが

巴に着目したら
いかがでしょうか
[77]ごどさんからのコメント(2013年11月10日 06時14分31秒 ) パスワード


つけたしです。

あと
安堵でしたら
香芝の近くに町があり
古代は
海が近かった場所です

奈良の大阪より
泉南あたりも
注目ですね。
[78]子孫よりさんからのコメント(2013年11月10日 06時50分13秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

ごど様、初めまして。コメントありがとうございます。
巴紋ですね。 わかりました。

中々、前に進まずに、困っていたので、とても心強いです。

巴紋を手掛かりに、山本氏にも繋がりがあるのかどうかを
調べて見たいと思います。

これからも、よろしくお願い致します。
[79]子孫よりさんからのコメント(2013年11月10日 09時12分35秒 ) パスワード

皆様、ご協力ありがとうございます。

かなり、おっちょこちょいで、思いついたらトコトン爆走してなお且つ
疾走してしまう私ですが、どうぞこれからもよろしくお願い致します。<m(__)m>

では、今朝のご報告を。
東大の鎌倉遺文フルテキストデータベースで、検索を掛けた所・・・
またまた新しい記述が1行増えたのです(?_?)

前とキーワードは変えていないと思うのですが、何か違う事をしているのかな?

コメント32でお伝えした平河家文書の追加された1行をご覧下さい。

道照等先祖開発私領也、然間平河三郎師隆(高)平家逆乱之時、右大将・・・
早任御教書可被安堵云々、子息平次郎師貞給京都大番御判御教書令・・
五年下給京都大番御教書、子息平次師貞令勤仕畢、不安堵本領者、

この記述の最後の1行が増えて表示されたのです。
それに、前回とは表示される行の順番が異なっていて・・
多分、今朝表示されたように繋がるのが本当なのかな?

五年下給京都大番御教書、子息平次師貞令勤仕畢、不安堵本領者

内容は
平次師貞は京都大番(警備?)を給わる事になったけれど、任期が5年とあったので皆が不安になった。

という事でしょうか?  すいません。しっかり読めません(*_*)

それと、今、読み返して来てあれっ?と気が付いた記述が

道照等先祖開発私領也   道照?道照さん?

・・・・今まで検索していたので時間が経過しましたがっ!!
道照さん!!  すいませんでした道照さんいえ道照様<m(__)m>
ちゃんと前回からお名前が出ていたのに(*_*)わざわざ入力まで
していたのに、完全にスルーしていました。
球磨のお寺のお坊さんかと思っていました。<m(__)m>
でも、違いました\(◎o◎)/!

では道照様について ウィキより

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%98%AD  
道昭(どうしょう、道紹や道照とも、舒明天皇元年(629年)- 文武天皇4年3月10日(700年4月3日)は、河内国丹比郡船連(ふねのむらじ)(現・大阪府堺市)出身の法相宗の僧である。


さっさっ西遊記の三蔵法師に学んで来られたと\(◎o◎)/!
そう言えば以前私、コメントでふざけて だんだんな〜をガンダーラ♪(ドラマ西遊記のテーマソング)に聞こえると書いたような・・(ー_ー)!!どうでもいい・・<m(__)m>

まてよ(ー_ー)!!すぐにおっちょこちょいをするから、間違えて訳しているかもしれません(ー_ー)!!

この平河家文書は(元亨2年?・・1320年頃?)とされているので、先祖と言ってももっと新しいかもしれません(ー_ー)!!
ウィキのページを見ていたら
「日本の南北朝時代の天台宗の僧侶については「道昭 (天台宗)」をご覧ください。」
とあったので、こちらも
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%98%AD_ (%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97)
道昭(どうしょう、弘安4年(1281年)- 文和4年12月22日(1356年1月24日))は、天台宗の僧侶、歌人である。
弘安4年(1281年)前摂政左大臣一条家経の子として出生。兄弟に内実、冬実、権僧正慈深、大僧正経厳、大僧正良慶などがいる。

一条?
そう言えば、昨日、皆様にお伝えした
源義家を祖とする方の中に良峯氏の流れから正室をもらっている人がいました。(^O^)/
この事なのですが・・・
こうなるのです。
藤原 敦信の妻が良峯氏女・・・そして子供が藤原 明衡・・・その子供が藤原 敦基・・・そして子供(娘)は源義家の子・源義国に嫁いでいる・・その子供が・源 義重(みなもと の よししげ/新田 義重 にった よししげ)
ここで、新田氏が出ました。
そして、子供が
山名義範[1]、里見義俊、義兼、得川義季、額戸経義、祥寿姫、足利義清室、
武田信光室、那須与一室?、得河義秀?(諸説あり)

そして上記の 武田信光の子供が一条信長で弟が一条忠頼
でも、こちらの一条は甲斐の一条家ですよね?
一条忠頼・・・
ぎゃあ!!!!!! 見つけました\(◎o◎)/!
平河家文書の秘密がありました\(◎o◎)/!
とりあえず、ここまでアップします。<m(__)m>






[80]子孫よりさんからのコメント(2013年11月10日 09時42分36秒 ) パスワード

心臓がバクバクなったので、\(◎o◎)/!薬を飲みました。

ついに見つけたのです。平河家文書の秘密を\(◎o◎)/!

では・・・フゥ〜深呼吸<(`^´)>

昨日急に表示されたとお伝えした記述をもう一度ご覧ください。

所進遠景同年十二月 状案者、下球磨御領 、可早任御教書、被安堵平河三郎(良貞)身事、右去六月十六日御教・・・・・

昨日お伝えしたように「遠景」は天野 遠景(あまの とおかげ)公だと思います。
問題は 右去六月十六日御教  です。
私、以前 「右去」 はどなたか亡くなったのかな?とコメントしました。
その時、間違えてしまっていたのです。では、誰が亡くなったのか・・

これを見て下さい ウィキより 一条忠頼公について

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%BF%A0%E9%A0%BC

平氏の屋島への撤退により軍事的脅威はひとまず去り、一部の残留兵力を残して遠征軍の大半は東国に帰還した。忠頼もこの時に東国に戻ったと思われる。それからまもなくの6月16日(『延慶本平家物語』では4月26日)、鎌倉に招かれた忠頼は酒宴の最中に、頼朝の命を受けた天野遠景によって暗殺された。

6月16日に亡くなったのは 一条忠頼公
それも、頼朝の命を受けた天野遠景によって暗殺された。

それが、平河家文書に書かれていたのです!!何故!!
所進遠景同年十二月 状案者、下球磨御領 、可早任御教書、被安堵平河三郎(良貞)身事、右去六月十六日御教・・・・・

そして天野遠景公は12月に平河家に何を伝えたのでしょう!!

何をもって被安堵平河三郎(良貞)身事となったのでしょう!

あまりの内容に今、とっても怖くなってきました。

ちょっと心臓がドキドキしているので、少し、休みますね。<m(__)m>

皆様、また後ほど。<m(__)m>




[81]ごどさんからのコメント(2013年11月10日 11時56分41秒 ) パスワード


少しヒントを

私は静岡の人間なのですが

前から
(まだ安堵にはたどり着きません。)

越の国と山梨を筆頭に
北条、今川、武田の
治めていたところに
共通するものが
あるのでは
と思っています。

飛躍しますが

駿河(薦河とも)は
淡島なるものを
静浦近辺に
抱いているので

なにか淡島に似たものがないか
さがしまして
淡路島がぽんと
浮かんだのですが


まだこれだけでは
根拠になりません


そこで
沼津です

かなり変わった地名
が多く多少割愛しますが

口野というところがあります

変ですよね、これ

最近、きづきまして
この・くちの・は
コウノではないかと
もしくは
コウヤ・・・

となると紀伊にも
コウヤサンあり

これでは
まるで
わざわざタカをクチに
直しただけと
しか思えません。

(つづく)
[82]ごどさんからのコメント(2013年11月10日 12時26分56秒 ) パスワード


すこし
話題をかえましょう

さっき
抱くと
かきましたが

私の目で見たものを・・・

うちの方の
家(というか親類の)
には
イチジクがあります。

これってすごい繁殖らしいですね

さすがに
イチジクからはなにもでませんが・・・

泉南のはなしも
ありましたね

せんなん・すんなん

(ほんとうはナンスンしか着いたことない)

泉南・駿南


なにか似てるとしか
おもえない。
サ行ですから。


(つづく)

[83]ごどさんからのコメント(2013年11月10日 13時05分42秒 ) パスワード



ねんのため・・・

わたしのコメントの
つづくには
かまわずに
いてらして
大丈夫です。

そもそも日本での 苗字の10傑は
互いに関わり合いが濃いような
気がしてなりません。

ですので、もしよければ
私の苗字の中村で
おしらべになってはいかがでしょうか・・・

ではまた








[84]子孫よりさんからのコメント(2013年11月10日 13時52分39秒 ) パスワード

ごど様、
コメントありがとうございます。
ごど様がおっしゃっている事を
私なりに解釈していいですか?

鎌倉時代などではなくもっと
先を見るという事でしょうか?
間違っていたらすいません。

中村様とおっしゃるのですね。
私は、もうご存知かと思いますが
宮原です。
よろしくお願い致します。
私が今、探していたのは祖母方の先祖で、
熊本県の球磨に関してでした。
祖母の先祖はある程度は解っていたのですが、
どうして球磨に来たのかを
調べていたのです。

ただ、あまりに色々あり過ぎて、
とても混乱しています。
体調も良くないし・・。
先祖が望む所は、今、私が調べている
所ではないのかな?と
ちょっと考えている所です。

それと、ごど様のお名前ですが、
私がとっても大事に思っている
方のお母様の旧姓と同じです。
何かのご縁ですね。
これからも、よろしくお願い致します。




[85]子孫よりさんからのコメント(2013年11月10日 15時00分52秒 ) パスワード

皆様、私、また暴走していたかもしれません。

もし、今朝のコメントにあった記述と平河が関係していたとしても、
本当に先祖が伝えたかったのはそこでは無いと思いました。

平河家文書は平河(平川)の先祖が、後世の子孫に「あなたは何故生まれてこれたのか」それを伝える為に作ったものだと思ったからです。

そうでなければ、必ず、主要な文の前には
八代相伝開発之地也 とか
道照等先祖開発私領也 などとは付けませんよね。

もし、これが、何かの訴状の先頭文だとしても、私はそういう風に受け取ります。 「きっといつか子孫がこの文書を見て理解する。」そう、先祖が願っていたと信じます。

そして、もしかしたら、道照等先祖開発私領也 という言葉には二つの意味があったのではないのかと思いました。



白石様。白石様が今まで、様々な神社に由来する神様の事を教えて下さっていたのも、「歴史の本筋を理解するように」という事ですね。
私、理解しています と言いながら、白石様の言葉の意味がやはり全く解っていませんでした。
先日、白石様から、日本の苗字七千傑様のサイトで、
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03014.htm

このページを見るようにと折角ご教示頂いたのに、あの時も本当の事を
理解出来ていませんでした。

日本の苗字七千傑様も「古代日本の領土の起源」を読む事を薦めて下さったり、古代に関するご教示をして下さっていたのに、私自身が本筋を全く理解していませんでした。

今日、じっくりと先祖からの言葉を見つめ、そして、実際に記述を読み、
日本の苗字七千傑様、白石様が私に、最初から理解するようにお伝えになっていた数々のご教示の意味がわかりました。

今まですいませんでした。そして本当にありがとうございます。

今朝からコメントして頂いているごど様。
ごど様のコメントで私、ハッとしたのです。
ありがとうございます。

皆様、私、この頃、何かに取りつかれているような感じでした。
今週は娘も遊びに来なかったし。
多分、変だったのだと思います。
こんな状態になったら先祖が悲しみますよね。

あの。ちょっと不安なのですが(すぐに暴走するので)・・・
私が、本日見るべき情報は、日本の苗字七千傑様のサイト
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03014.htm
で良かったのでしょうか?

お答をよろしくお願い致します。<m(__)m>
[87]白石さんからのコメント(2013年11月11日 04時06分28秒 ) パスワード

こんばんは
まだ こんばんは ですよね。

今日は 体すっきり です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
良峯安世は 桓武天皇と 百済永継の女子との間の子。  永継は飛鳥部奈止丸の子 というので、そこからはじまる ・・・になるのでは・・・はるか昔のことは 漠然と・・・になっても 仕方ない。余りぴしぱしと振り分けても逆に心がはりつめてしまうのでは・・・
※百済氏は その先 扶余と7000傑様の百済氏のところに書いてありますね。

例えれば 親子 親夫婦仲良く 暮らしているのに どうでも こうでも 親子関係をはっきりさせようと 血液鑑定をしてもらっても 意味がない。そのまま仲良く暮らしていったほうが 幸せではないか ? みたいな こと。親でも 夫でも 妻でも 墓場まで 持って行きたい秘密があることもありますよね。

でも 子孫様の場合 遺伝の問題があるので わかる限りは ・・・と いうことだと思います。

橘氏も良峯氏も父方は天皇家につながる ということで よいのでは?と 思います。
私が ちゃちゃくったのかも 知れませんね。師高の荒田の言葉 といって。

私は うちの 高岡と 平川の関係。昔は むこを とるにも 養子を取るにも ゆかりのところから もらっていたから しかも 田舎は ついこの間まで 江戸時代の遺物みたいな ことを していたから、そっちに 興味がありました。


 
[88]白石さんからのコメント(2013年11月11日 04時51分26秒 ) パスワード

高岡と平川とのことを求めたら
三松系図http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-k-mimatsu-kudara.html の永継

扶余の横の三角クリック
百済扶余系図で 19までスライド
武寧王(462-523) 母恩率贏高軌女

贏高軌をクリック
【贏姓 高丘氏系図】が出る。贏は 秦の姓であり、黄帝の子孫。
扶余+秦+日本+和(武寧王子孫つまり扶余+秦)・・・http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-k-fuyo-kudara.html 百済扶余系図を下へスクロール

和氏の高野新笠が桓武天皇ご生母
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ところで
数多くの事例を知っているわけではありませんが、
高岡 平川には 筋ジストロの遺伝子はありません。言い切れませんが、知る限りではおりません。

こちらで 小川さんを 知り、そちらの ご主人が そうでした。
小川の父
||−−−−−−−−−−−息子が そう
母             ||
             妻を 私が知っている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
7000傑様の方で小川を見つけたら まあ 筋がいろいろあること。
でも
前に書いた ips も そうですけど、
科学?の力 を こういう 遺伝子関係に もっともっと 役立ててほしいですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 
[89]子孫よりさんからのコメント(2013年11月11日 06時26分11秒 ) パスワード

おはようございます。

白石様、ご教示ありがとうございます。
<私が ちゃちゃくったのかも 知れませんね。師高の荒田の言葉 といって。>
とんでもありません。白石様のお言葉はとってもありがたいです。(^.^)
私も、もちろん、これからもしっかり調査は致します。(^O^)/
昨日、皆様にお伝えしたかった事は、最初がきちんと理解出来ていなかったから、私の心にぶれが生じて、先祖の調査にも影響していたのだな〜と自分で痛感した事なのです。

気持ちを強く持っておかないと、宮原も・平川も(婚姻関係のあった全ての先祖も)先祖を調べたら様々な事が出てきますので。
平川の伯父が、県や国の方から、話を聞かれた時に、「あまりにも恐ろしくなったから、もう言わんで下さい。」と言ったというお話をしたと思うのですが、この頃、この言葉の意味が解って来たような気がします。

でも、私が知りたいのはその当時の、時代の大きな流れに翻弄されたであろうそれぞれの先祖が、最後にたどり着いた場所は、球磨だったわけですから、やっぱり、この「球磨」という土地に関してはしっかりと知っておきたいです。
それに、日本の他の土地々にも、それぞれ、国が続いて行く為の重要な役割があって、日本全国、皆さま先祖由来の土地に住んでいらっしゃるのかな?と感じています。
明治以降は、そのような古代からの流れが失われて、先祖由来の土地を離れて、都会に住む人がとても多くなり、本来の形が完全に失われたのかも知れませんね。かく言う私も地元を離れた一人ですが。

ただ、亡くなった祖母は、その視野が、日本だけでなく世界中いえ、宇宙とかとても大きかったな〜と今頃感じています。
どうして、そうなれたのかは、きっと、本当は色々知っていたからなのではないのかな?と。それを、祖母は私にも伝えたかったのかも知れません。

人類の歴史は地球の誕生から見たらほんのちょっとしかなりませんよね。
これを宇宙の誕生から見たら・・・ 
ううん。壮大過ぎました(^.^)

では、気持ちを切り替えて、今日は月曜日。仕事に行ってきます(^O^)/



[90]子孫よりさんからのコメント(2013年11月12日 00時19分24秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
今日は先日コメント32でご紹介した平河家文書の一部をもう一度見直していたのですが
解り辛くなるのでもう一度

@肥後国御家人 平河三郎良貞・同四郎師時当国(甲脱力)球磨・・・・・

A八代相伝開発之地也  而会祖父平河三郎師高右大大将(源頼朝)家御時、文治三・・・・

B六日<付文治三年>奉書案者、平河三郎師高謀反勝他人之由、有其・・・・

C球磨御領、可早任御教書、被安堵平河三郎(良貞)身事、右去六月十六日御教・・・・・
C追加文も含む
所進遠景同年十二月 状案者、下球磨御領 、可早任御教書、被安堵平河三(良貞)身事、右去六月十六日御教・


D日<付文治五年>奉御判在者、平河次郎師貞為勤京大番、所令上洛・・・

E膳大夫(大江広元)、永吉三百五十町、地頭良峯師高子息平河平二(師貞)、西村百五十・・・・


F三百五十町、地頭良峯師高子息平河平二(師貞)、西村百五十町、須恵小太・・・・・・・

G二年永吉検済目録帳等者、地頭良峯師良云々、<取詮>如同所進元・・・・・・

H住当所畢、不及尋例於他所者也、依実春朝臣之押領、良貞乍帯御下
I肥後国御家人平河弥五郎入道々照謹申欲早為明石民部・・・・

J年備前々司入道殿御代官行性与平河三郎入道観蓮<俗名良貞>等、・・・

K月師良等連暑状者、中神村地頭良峯良高・目良生村地頭良峯師頼・・・・・

L村地頭良峯良高・目良生村地頭良峯師頼・平野村地頭良峯師久・地・・・・

M目良生村地頭良峯師頼・平野村地頭良峯師久・地頭良峯師良云々、然者・・

N頼・平野村地頭良峯師久・地頭良峯師良云々、然者、彼状還為地頭・・・・

O余庶子等無烈訴所見、仍自文永二年近衛中将実春朝臣相論、至于弘・・・・

P道照等先祖開発私領也、然間平河三郎師隆(高)平家逆乱之時、右大将・・

ここにまた、見過ごしていた名前をみつけました
H住当所畢、不及尋例於他所者也、依実春朝臣之押領、良貞乍帯御下
O余庶子等無烈訴所見、仍自文永二年近衛中将実春朝臣相論、至于弘・・・・

ここに見逃していた名前が その部分がここです

依実春朝臣之押領   近衛中将実春朝臣相論   
すなわち  実春朝臣 です。

この方を調べました
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E5%AE%9F%E6%98%A5

紀実春・・・ 大井 実春(おおい さねはる、生没年未詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武蔵国荏原郡大井郷の武将。鎌倉幕府御家人。父は紀実直。本姓は紀氏。同族に品河氏がある。通称は兵衛次郎、兵三次郎。

とありました。そして、注目は
大江広元が因幡守となった際に、その目代となり、源義経の大夫尉任官の拝賀では、椀飯の沙汰を務めている。文治元年(1185年)10月24日、源頼朝の勝長寿院落慶供養に随兵として参列。同年11月15日、義経謀反の連座を受けた河越重頼が没収された所領の伊勢国香取五ヶ郷(現三重県桑名市多度町香取付近)が実春にえられ、その後の大井一族の経済基盤となる。広元に仕えながら義経の監視にあたっていた事によって恩賞を受けたと考えられる。

この方は 大江広元公に仕えていたのです。

ううん?この方と平河家の関係は?
マタマタ、謎が一つ増えました。
漢文が読めたら本当に良いのにな〜(*_*)
[91]ごどさんからのコメント(2013年11月12日 21時14分00秒 ) パスワード


こんばんは

少し間があきました。
続きを
書こうとおもいます。

そういえば
白石さまには
お初でしたね。
よろしくお願いします。

>子孫よりさま
子孫さんと
呼ばしてもらっていいでしょうか。
これからもコメントさせていただきますね

ところで
最近、気になるものを

コウヤサンの話もしていましたが(古代というより上代の前後にさかのぼる)

本当にスメオオカミなどの
神武から雄略あたりの
神様(語弊ありますが)を調べると
かなりまっと面白いのです。
あくまで趣味ですが。


あと大陸の方には申し訳ないですが
よほど、英語以外にアジア系の言語を
知らなければ
少し、漢文・ハングルなど
をもとに
探すのは厳しいです。

日本語で常用漢字(たとえば、そば→想ばの表記は考えないほうがよろしいかと)

のみを見られたほうが


話題はつきませんが
科学って
これ仁科の(しな)なので
信州をおもいだします。
感想ですが・・・

ということで
まとまりないですが、
再び上代に

まあなにかと奈良時代付近は
おおざっぱに飛ばされ
なにか物足りないように思います。

7000傑さんのページで
よく使わしてもらうのが

地名(上代〜明治維新前後の蝦夷、琉球をふくめた日本の国別の)
これを、((どわすれしてしまいましたが))
たしか日本の首相や守護大名の載ったところ・・・
まあ、あのページの項目、すべてをみるのが
理想ですが
名字にこだわらず
自分の縁のある
国(例:武蔵、長州、泉州など)を
ご覧にいれたら
なにか見えるかもです。




話を一気に先祖がえりさせますが

推測で3番目ぐらいに
きになる(ヘイ)の音


ヘイ→平家と
思っていて久しいですが


ヘイ→閉と
みると

意外と(閉)のつくオナマエの方は

おられるようで

ここまでなると
家紋以外も気になるのが

自分の名前をフルネームで
口に出す

これに尽きる気がします


あまりサイトめぐりはしませんが

・・・リンクの張り方がわからず。


オススメなのは

地元(住んでおられる都道府県の)地図(ロードマップでも)なんでもいいので

お買いになって
穴あくまでみるとか(汗)

紛らわしいと思うのは
漢字そのもので

たしか天平宝字のあたり

姓の変更があったようで

大化の改新の後(もしかしたら前からかもしれませんが)

たとえば
最近の首相も
誰とは言いませんが

やはり天平宝字のあたりで
名前が変わっていてそのままではないかといった
印象があり

これでは取り留めないかもですが
本当は歴代首相の出身地など
自分の出身県であるか・ないか
隣の県ではどうなのか



これぐらいにしときます。

中村より



[92]ごどさんからのコメント(2013年11月12日 21時40分40秒 ) パスワード


すこし間がさしたというか

ここをハケグチに
とは
いいませんが
個人的な感想を・・・


白石さま。

筋ジスと
おっしゃいました

生物を習っていた
わたしとしては

興味深いのですが

一番、ハラの立っているのが
自閉症ということば


なんですかね

さっきの(ヘイ)ではないですが

平家一族への嫌味ではないかと
変な想像をしてしまいます。

まあそこまでではないですが

そして、東北(北日本でも三陸の方面)には
閉伊という(漢字あってたろうか・・・)とこがあり

やはりこの名前の方は
いてらっしゃるようで

人様のことですが
(閉のつく苗字の人OR平家)≡ (自閉症)

とされているのであったら
末恐ろしいというか
なんというか

自閉症にたいしては私は寛容に・・・
そんなのあるんだなと
おもっていたいです 


中村より


[93]白石さんからのコメント(2013年11月12日 22時01分42秒 ) パスワード

こんばんは
寒くなりましたね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>紀実春・・・ 大井 実春(おおい さねはる、生没年未詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武蔵国「荏原」郡大井郷の武将。鎌倉幕府御家人。父は紀実直。本姓は紀氏。同族に品河氏がある。通称は兵衛次郎、兵三次郎。

同族に品川氏。品川氏の館の所在地については、貴船神社(品川区西品川3丁目)周辺の台地上が有力とされている。

品川
http://ebarajinja.org/gosaishin/index.html
えばらじんじゃ荏原神社ご祭神 高オカミ神
当社の祠官、鈴木氏は紀伊熊野の出自

社伝によれば、和銅2年(709)9月9日、「藤原伊勢人」が、武蔵国荏原郡荏原川(目黒川)のほとりに勧請して当所の鎮守となした。
伊勢人は南家巨勢麻呂七男。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

平川は 大縣神社などから 丹羽に関与していて、「星の宮神社」から ヤマトタケル・家康・経津主神にも関与していた。経津の御霊は 物部氏が 奉祭する。

物部守屋が 最後に 「物部の布都の大神…矢ッ…」と唱えて絶命 したという。

昔は 小さくまとまるから
今 平川 と 高岡(物部の筋もある)が 近いととらえ(我が家では高岡かrか平川へ婿入り)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
良峯宗貞の系から 椋橋の系図がでましたが、
椋橋という言葉から ネット 丹羽の2姓より
良岑安世から宗貞、玄理と続き、玄理の項には 姓を椋橋と改め尾張国丹羽郡の郡司なり

玄松子の記憶
椋橋神社(打ち込む時は むく はし で でます。)
くらはしじんじゃ
兵庫県美方郡香美町香住区小原827−1

当社の祭神・伊迦賀色許男命((饒速日命(物部氏遠祖)六世孫で 崇神天皇のおじ))

当社参道が「遍照寺」の境内の一部 と 「遍照」のことばがあるが、???。
前に 宇多天皇・胤子に行き着き、高田・飛鳥部氏などが 出たことがありました。飛鳥部奈止丸の孫(ひ孫)が良峯安世。

遍照は「宗貞」のことだけど、
遍照寺という 言葉だけで 検索。
「真言宗」つながりになり、「花山天皇」も 真言宗で つながってくる。
真言宗御室派準別格本山 広沢山 遍照寺 京都市右京区嵯峨広沢西裏町14 所在 google マップ 本尊:十一面観世音 ... 遍照寺は十世紀末(989年)平安時代中期、寛平法皇(宇多天皇)の孫、寛朝僧正が広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたものである

前面の唐破風の上に、「鬼の面」(彫刻)がありちょっと驚いた。と。

当社を「木原大明神」と称し、
祭神が召した鮭は、矢田川をさらに遡り
七味郡「山田村」に至り、鮭大明神として仰がれているという。

天武天皇白鳳十三年(684)七月、伊香色乎命の十六世裔である
美含郡司・椋椅部連小柄が、その祖を祀ったのが当社の起源。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
木原(山口・菊池) 山田(平河・葉木・王・白石) 鬼(これはもうはるかはるか昔から) 遍照(良峯宗貞) など この間から でてくる 言葉。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大江広元が中原のとき 佐田(豊前宇都宮流佐田は中原を称していた)もからまり 
中原は 遠祖・事代主の長男の筋から出るという。事代主は丹後籠神社では天照国照彦天火明櫛玉饒速日命のこととする。

はじまりの ちいさなわっかは 時代が下がると ひろがりひろがりして。

崇神天皇(この人が 神武だと書く人も)の子供 は 上毛野氏・下毛野氏になっている。佐田・坂本など 関与した。中世武家の多くがこの氏から派生していて、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の神裔は日本人の6割から8割と書く人も・・

坂本(葦北にある地名・北岳神社は坂本大明神ともいい、近江日吉社の末社・鹿児島神宮にかけてあったという坂本家のものがあさぎり町にあり、鹿児島神宮には 松野系図に関与する句呉,勾吳)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
わかりづらいけど
平川 は父方 天皇。母方 百済+扶余+秦
高岡 は父方 天皇(橘紋をおいかけるとき)母方神魂尊(き姓で井手などから扶余がみえる)
紀実春本姓は紀  橡姫と天智天皇の子・施基皇子との間の子が光仁天皇。
京都の「平野神社」は源氏、平氏、大江氏、菅原氏などの公家の氏神にもなった。

江戸時代の伝奏役は、代々、堂上平家の西洞院家が勤めた。

平野神社の隣が 「北野天満宮」。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
うちの方の平川のおばが 林を 屋敷と呼んでいて、それは ただ 敷地が広いというだけでないものを 感じていました。
相良氏のおじ と いう だけ とも・・・

林は武内(蘇我)に関与する。良峯と他 林も含めて わが国の文化を「国風文化」に変えた。 蘇我入鹿には「鞍作」「林臣」「林太郎」「蘇我大郎」の別名がある。
また 馬子の妻が守屋の妹であり、藤原と姻戚関係があった蘇我・物部は残った。


先代旧事本紀』天孫本紀では同母妹の布都姫といい物部守屋の異母弟の石上贄古大連と結婚し物部鎌足姫大刀自(蘇我馬子の妻)の母である。

武内宿禰が紀氏に関与している。日本の苗字7000傑紀氏

  

 

[94]ごどさんからのコメント(2013年11月12日 22時04分16秒 ) パスワード


まるっきり
さかさまな
ことを書いてましたが

また付け足すことにします。

まあ、
本当は家紋の話もしたいのですが

ウチの親類は(抱き)の家紋なので念のため
すごく気になっていますが
見れる家紋がやたらとあり
煩雑です。


>白石さま

しらいしさまでよろしかったでしょうか

たまに石の字が(まったく想像がつかないように)
読まれるのを
いくつか知っていまして
すこしここのスレッドも
注意して読もうと思います。

私がここのスレッドについたのは
ほかでもなく平川を知っているからなのですが

幼少時に平川さんと
お付き合いさせていただいたので

縁深く思っております。

ちなみに余談かもしれませんが
平川宅には、さるぼぼ  を見たような
気がします。

さるぼぼ=岐阜
さるぼぼ≡猿田彦
じゃあないかと思い
また調べようかと


変わったエピソードですが
白ヒゲ神社・・・
地元にあり
意外と私の住む静岡には
おおいようですが

その白ヒゲさんの前を
通り過ぎたときに

訳も分からず泣きそうになった覚えが

猿田彦がここの一覧であったか
見直してみます。

なんとなく猿田彦=(サ行でもとくにサから始まる苗字の方)
というイメージになっていますが
そういう認識でいいのだろうか

なので佐賀≡(猿田彦)と妄想しています。

中村より








[95]ごどさんからのコメント(2013年11月12日 22時38分14秒 ) パスワード

何度もすいません。
見忘れてしまった。

白石さまは
玄松子のサイトを
お使いに・・・
私もたまに使っています。

最近は
遅の神と速の神にわけて
見てみようかとおもい

玄松子さんも
使っております。


>子孫さん

もう大分に
お調べなんですね

確かに中村の親類も
まるで橘の縁の家で
あるかのような痕跡が・・・

クチで聞いたのでまだなんとも

橘もそうですが

浅井がきになります。

浅井のアサを朝に変換

ま、手っ取り早く
朝廷のチョウだか
と思うんですか

朝野さんがいてらしゃるようで

W浅野をまっさきにおもいだします。

あと少し思い出したのが

また淡島なのですが

淡島よりすこし、富士山の方面(ほぼ北方向に)

リョウゴン寺(院だったかも)

ゴンの字は厳島の厳、リョウの字は木四方 という風に

まあ静岡県内にあるんですが

常陸の方面にも(たしか栃木よりだったか)
リョウゴンがあるらしくて

近辺をみると
平将門が
動いたあたりなんですね。

すこしサブイボが・・・

この辺にしときます。

[96]白石さんからのコメント(2013年11月12日 22時46分03秒 ) パスワード

またまた もたもたと かいているうちに スレッドがあがっていました。

ごど様 子孫様 7000傑様 こんばんは。
中村様=ごど様ですね。よろしくお願いいたします。

中村=度会の地
月読神社があるところ
月読=秦
で 親近感があります。

子孫様 データベースを駆使して の 資料探し。本当にすごいです。次から次へと裏づけのある言葉で、

私は 自分の家のつながりに どこがあてはまるのか?ここで もたもたと。
でも 本当に勉強になります。

ところで
どこかで 義貞 とか とに角 よしさだ というらしい発音の人がでませんでしたかしら?
私 妙に 気になるのですが、
桓武 平城 嵯峨 淳和 あたりで
淳和の子供に良貞親王 恒世親王などがいるのですが、

良峯系の話で 呼び捨て? で この発音の人達がいたと思うのです。
安世が大納言 子供も 官位があれば 四位 くらい? 皇子の名くらいはしっていたと思うのですが。

貴人の名は 自分の子供にはつけない とか いう ことが あったのではなかったか? と 思うのですが、ここらあたりは わかりません。
ともかく 気になることです。私の勝手な想像では この人達ではなかったか?とか・・・

私の弟が 具合が悪く 確か お寺様が家にこられた時か? それにしてはおかしい 縁側で 父と話していたので その人は腰掛けて、父は座敷に居て・・・子供の頃 どこかから 誰かが来ては 話していたので 記憶がおぼろですが、

その時 さけなければならない 貴人の名と 同じだからさわりが出る とか 父がその人から言われたそうです。
でも そういっても ・・・ 現代は 役場に届けるようになっているので・・・どうしようもなかった みたい。

名前負けをし なおかつ 弟のすぐ上の兄と 年回りが 虎と辰だったので、相争って ・・・(私のもう一人の弟になるわけですが)早死にしました。

私が 男だったら良かったのに・・・きょうだい七人 七福神だったのに ・・・などと 母が ぐちぐち 言って、母の標的がいつも私だったので、奇妙に 名前や うまれ年や と 気にして 育ちました。

その割には 何でしたっけ 気星?は 無知でしたが。

子孫様 お体 良くなりましたか? 寒くなるから 気をつけてお過ごしくださいね。 


[97]子孫よりさんからのコメント(2013年11月12日 23時52分45秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、ごど様、ご教示本当にありがとうございます。

ごど様は静岡県にお住まいなのですね。
先祖は、(祖父方も祖母方も)静岡県にかなり縁があると
おもいます。相良氏も人吉・球磨に来られる前は静岡県に
いらっしゃったと聞いていますし、良峯に関係する岐阜県は
すぐにお隣ですよね。
九州に住んでいる私にとってはとても心強いです。
伺った事の無い場所ですが、ごど様、今後も土地について
かなりお伺いするかと思いますがどうぞよろしくお願い
致します。

白石様、
「はじまりの ちいさなわっかは 時代が下がると ひろがりひろがりして。」
私も、この頃この白石様のおっしゃる通りだな〜と痛感しています。
今まで、一進一退できましたが、「この流れかも!!」と思っても
違ったり「やっぱりここか!?」と思っても・・・
でも、怪しいと思った流れ?は全て、最初(おおもと)が一緒になるのです。
言い換えると全部と繋がると言う訳ですね。

名前の件ですが・・・私の弟の名前ですが、病気が解って両親がいろいろな
所に藁をもつかむ気持ちで行ったのを子供心に記憶しているのですが、
「名前が良すぎた」という事を聞いた事が実はあります。
本当に、古代からの言葉は(言い伝え)は重要なのですね。

そして、名前に関してもう一つ。
そうなのです!漢字が違っても発音が同じという方はどうしても気になります。
なぜか!!実は古文書の中に「平河良高」という記述を見つけたからなのです。 義高ではなく良高。
と言う事は、古文書を調べる時のキーワードを入力する時に、一つの漢字に
こだわると、折角の情報が見つからなくなると言う事も気づきました。

ですから、ごど様がおっしゃった「口に出して読む。」
これは、とても大事な事だと思いました。

そう考えると、今まで調べてきた方々でも、漢字が違っても読みが同じとか、
それ以外に、とある流れと平河の一部の流れの名前の漢字が共通だったり。

でも、なかなか、たどり着かない道?ですが、
めちゃめちゃ、おもしろい\(~o~)/です。
先祖の流れを調べているのに、本当にその時代にタイムトリップしているようで、様々な出来事がリアルタイムのニュースのように感じて。
歴史を調べると言う事は本当に奥が深いですね。

今はもう一つ、「図書館から借りてきた本を読む」これも楽しみの一つになっています(^.^)

あ〜それから、国宝となった定家妙月記(もちろん安い値段の方ですが)を買いました。
楽しみながら当時を理解していこう(^.^)と、かなり長い道のりかもしれません。

では、皆さま、とても寒くなりましたが、風邪をひかれないように
お気を付け下さい。



[99]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年11月13日 01時31分51秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>それ以外に、とある流れと平河の一部の流れの名前の漢字が共通だったり。
 
古文書は写本する度に同訓異字の誤転写が発生する。
良峯の峯も峰、岑の表記が存在するので現代のインターネット検索時も注意が必要。
平河は比良河の表記も有る。
比良と言えば比良神社(白鬚神社)に到達する。祭神は猿田彦。
白=シラ=ヒラ=枚=比良=平(当時の唐音的訛りではそうなる。)
大阪の枚方は白肩(古事記によれば「經浪速之渡而。泊青雲之白肩津。(中略) 故號其地謂楯津。於今者至日下之蓼津也」)。
現代の発音に拘泥すると真実が見えなくなる。
九州の筑紫から肥後にかけて白木の地名は異常に多し。
筑紫の旧名は白日別。(古事記に記載あり)
 
新羅の昔氏の系図を見ると、筑紫や肥後の関係が見えてくる。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03025f.htm
 
怡土県主の五十迹手も後裔。
肥後玉名の王は新羅の脱解王になっている。
おそらく平川も新羅系の家系だったが、後世の百済系良峯氏が名跡を引き継ぎ平川を名乗ったのが真相かと考える。
鎌倉に永らく居住した大友/島津の一族も鎌倉中期以降旧来の九州諸豪の名跡を継いで勢力が膨張したのが歴史ですよ。
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