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 投稿番号:101327 投稿日:2013年10月14日 22時15分13秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について(続3)

コメントの種類 :その他  パスワード

あっという間に前のスレッドが90になりました。\(◎o◎)/!(^○^)

前回のスレッド”平川家について続2”では、お陰様で宮原の祖が判明致しました。
これも全て皆様のお陰です。ありがとうございます。

今後もどうかご教示よろしくお願い致します。<m(__)m>

[1]子孫よりさんからのコメント(2013年10月14日 23時24分36秒 ) パスワード

前回のスレッド90からの続きです(^○^)

平川の家にあった刀(太刀)は、多分ドウダヌキではないと私は思います。
ドウダヌキを調べたのですが
”九州は肥後国(現在の熊本県)の同田貫という地区(現在の菊池や玉名あたり)に加藤清正ころの戦国時代に活躍した刀工集団が作った刀を指します。長く、厚く豪壮な姿が特徴です。”
とあって・・と言う事は、今でもかなり残っているハズですよね。
でも、平川の家に調査に来た歴史学者の方は「国宝級の品が・・」と落胆された事を聞いていますので、ドウダヌキで落胆するとはまず、考えられないのではと思うのです。(よく刀の事を理解してもいないのに申し訳ありませんが)

何か隠されているのは直感で解るのですが、伯父の心内を考えると、あまり聞くわけにもいかず・・・・

何故が解りませんが、百済など海外に関係するものではなかったのかとやはり考えます。


日本の苗字七千傑様。
\(◎o◎)/!熊国が邪馬台国!!

今まで、何度もお伝えしたように、子供の頃から、邪馬台国には全く興味がわかず、狗奴国ばかりが気になって・・・
あー早く予約している本が届いたら良いのに・・・

そして松野氏ですが・・。
実は、娘の元彼(あ〜娘に怒られる<m(__)m>)が松野さんで・・
出身は宮崎の五ヶ瀬町で親戚は高千穂町に多くいると言っていました。なのになぜか「僕の先祖はもともと熊本付近にいたそうですよ!」と言っていて、何年も前の事ですが、私は何故熊本??と思った事をしっかりと記憶していました。

ええっ?まさか?!
もしも、もしもそうならば・・あやうく?私の孫?は松野の血まで(こっ!これ以上何処どこ家が増えたら\(◎o◎)/!)入る事になっていたのかも?! でも、今の二人の状況からそれは無かった訳ですが・・
(これも、先祖の血が双方強すぎて合わない・・の典型かな??あ〜娘に怒られる<m(__)m>)

でも、本当に偶然とはいえ、何故か私(子供も含め)色々な家の方と知り合う事になるのは、何故なのか?? 不思議です。(二人とも先祖の話は誰にもしていません)







[2]管理者 aさんからのコメント(2013年10月15日 06時58分23秒 ) パスワード

これは平川家について(続2)http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101326_91.html
の続編です。
[3]子孫よりさんからのコメント(2013年10月15日 07時08分38秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨日は、祖母の話にご教示頂きありがとうございました。

ところで、今朝なのですが・・・
朝方、見た夢で、何故か見た事の無い人が出て、(場所はどうも神社だったような)宮原の祖は誰だ?と聞くのです。
答えようとしたら目が覚めて・・???なんだこの夢はと気になり・・
朝一に、”橘公資”と名前を入れて検索したら・・・
出ました\(◎o◎)/!
なんとなんとそれも霧島神社のページにお名前が
http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/KIRISHIMA.html

表題 霧島山略縁起 の項 下の部分に
文明十六年甲辰歳、邦君の命により、真言密宗兼慶法印[柏原備前守橘公資三男也、]当山を中興せり

\(◎o◎)/! 霧島神社!!

以前にお話しした。岡原霧島神社!
神社の裏山に宮原城の城跡があって・・とコメントしたと思います。

ええ〜っ!!霧島神社がキーだったのです。

もう、本当にびっくりしました。
そして、思い出したのです。今年の正月の事を。
父と二人で岡原霧島神社に初もうでに行き、その際正月の飾り付けとともに神社の入り口に旗が立ててあり、紋が描かれていました。
それを何気に見て・・

そして家に帰り、お札を父が飾っていた時、私は、仏壇の横に置いてある祖父が軍刀を置く為に使っていた兜(鹿の角のような物が付いていて、その角に祖父は軍刀を挟むように置いていたようです)を何気に見ていて「ううん?ほこりがいっぱい・・・」(じいちゃん、ごめんなさい(*_*))と思い、ふわふわハンディーモップ(もちろん新品です(*_*))でほこりを取り始めました。
すると・・アレレッ?何やら兜の周囲に家紋のようなマークが何種類かついているぞ?(飾りのように兜の上部分周囲にぐるっとついていました。)その中に先ほど神社で見た紋もあり・・
「お父さ〜ん、兜にね〜霧島神社と同じマーク(ごめんなさい(*_*))が付いているよ〜(^○^)」と父に言うと「あ〜?何でかね?〜(^○^)」
二人の会話はこれで、終わっていました。(*_*) トホホッ(*_*)
(じいちゃん、ごめんなさい。正月からヒントを貰っていたのですね。これからは、兜にほこりが付かないように、里帰りした時は、私が綺麗に掃除します。(*_*))

宮原の先祖を一生懸命探っている時は、気にもとめていなかった事ですが、何と重要な意味があったのかと・・

でも、お陰で橘(宮原)公資 公との繋がりがはっきり見えてきました。

ううん?でも夢の人は誰? (?_?)?????

では、仕事に行ってきま〜す(^−^)



[4]白石さんからのコメント(2013年10月15日 09時47分09秒 ) パスワード

おはようございます。
7000傑様 ご教示ありがとうございます。

昨日は 寝だめ でした。
それこそ 子供のように・・・時々起きて パソコンをあけて 打ち込んでいるうちに また 眠くなって・・・

病気ではありませんよ。今朝は パチッと目が覚めて 爽快です。
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邪馬台国 狗奴国
壮大なロマンですね。

松野さんは 私は 知っている人はいませんが、松尾・松田さんはいます。
松野氏系図の卑弥呼 呉王 連綿と続いているのですね。

越王が呉王に服従した頃 馬の(牛のだったか)綱引き(くつわとりだったか)をしていた ということですが(これは韓流から見たこと)、

わが国に来た頃 子馬でも 連れてくることは 出来なかったのでしょうかしら。

レッドクリフなどでも 馬は 出てきますよね。

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松野氏系図を 見ながら 思いましたが、
(松野氏は呉王の末の他に
壱岐直の系に 松野がいる。
宇都宮の系に 松野がいる。)
私は 父方の方で 箕子朝鮮の言葉を聞いており じぶんとこは 殷にいくか

ネットからひろいましたが
史記」の「卷四十一 越王句践世家 第十一」に登場する文章を引用している。 「越王句践 (こうせん)。その先は禹の苗裔(びょうえい)にして、夏后帝少康の庶子なり。会稽に封じ 、以て禹の祀(まつり)を奉守(ほうしゅ)す。 

周の方をはしったのかなあ? と思っています。

子孫様のように カンですが。
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魏志倭人伝の 邪馬台国に行くに 行くに 前を見ず と いうのは そうだろうと思うけど、

卑弥呼の頃とは
通説 生年不明 - 248年頃で 馬・牛はいない と 書かれ

古墳時代は
大まかに 3世紀半ば過ぎから7世紀末頃
馬の埴輪など出ており と の 通説
 
大きな古墳をつくった 仁徳天皇などは
吉備の恋人に会いに 御伴もつれず 馬で ぽっくりぽっくり 行った
と 本で読んだことがあります。(フィクションではなかったようです。)
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景行天皇の頃などは 球磨族曽於族征伐に 実に 60回くらいは出かけたといい、ルートが確立されていたらしく 

ということは 
人が踏み鳴らした道が出来ていたと言うことになる。

ああっという間に 馬や牛がおり 人が増えて あちこち 行き来するようになったということに なりますよね。

そして
神武天皇と うましまじの 矢をもって 同族の印とする場面。
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狗奴国の鉄と米
邪馬台国には鉄はなかったの?

興味はあるけど まだ 知識が整理されていないのです。
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でも 応神朝 と いわれる
始皇帝子孫という人達の大量の流入は 民族対立の歴史に鑑み 秦も又 胡族であったことが 知られるのであります。と その前にいた人達も 胡族であったらしい。




 
[5]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月15日 12時11分46秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>狗奴国の鉄と米
邪馬台国には鉄はなかったの?
 
紀元前350年頃と言われる長行遺跡(北九州市)から鉄斧が出土。
そこから600年経った邪馬台国に鉄があるのは当たり前。
卑弥呼在位当時の狗奴国の国王は卑弥弓呼(ヒミクコ)。
倭国大乱とは倭国(邪馬台国連合)と狗奴国の内乱、同族間の争いでもある。
倭国は当時の宗主国である魏に難升米を派遣して支援を取り付ける。
この辺りは中国史書(魏志倭人伝など)を読めば良い。
 
古代史は系譜・史書・考古学の三点を勘案しないと、与太話になりやすい。
邪馬台国論が混乱している最大の原因ですよ。

[6]白石さんからのコメント(2013年10月15日 18時40分35秒 ) パスワード

こんばんは
7000傑様ありがとうございます。

ひみこと狗奴国は 同族。

では
@狗奴国 は 匈奴でしょうか?
ねっとからのひろいですが
拘奴も狗奴も倭種 と 書いています。

そして 我々は 大方の人が 蒙古斑点をもつ。
A倭と日本は 同じ?
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匈奴
名称-語源-読み-起源

(呉音:くぬ、漢音:きょうど、拼音:Xiōngnú)は、紀元前4世紀頃から5世紀 にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧 国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東...

狗奴国

狗奴国(一般的には「くなこく」と読む)は、中国の三国時代の歴史書三国志(西晋の 陳寿の作)のうちの魏書の中の魏書東夷伝
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以下はとあるサイトにある 伊勢神宮に関与していて 卑弥呼女王の印を持っていた。他にもいろいろの宝物をもっていたという人のブログからひろったのですが 又 こちらは 祖先を 周としている。
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卑弥呼王の「親魏倭王」金印などがある。

補足)獣人:博多湾岸に住んでいた縄文人のこと。中国東岸部および朝鮮半島南端部から連れて来た夷と同種族と考えられたようだ。彼らは漁労のほか、土地を耕して様々な雑穀を植えていたが、あまり熱心ではなかったので草が多くはびこり収穫はごく少なかった、という記述がある。

先祖はこの先住民を、後に「呉」と呼称している。しかし、呉越戦争で敗れた呉人が九州まで辿り着いたかどうかは不明。彼等が長江流域に住んでいる民族と似た風俗である、という意味だろう。


また、「狗か?」という中国語から、これら先住民を「クマ」と呼ぶようになった。
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呉越戦争は春秋戦国時代のことである。
 
紀元前1600年頃、中国最古の王朝・殷(商)が興った。その後、周が殷にとってかわるが、その周も没落し、やがて、混乱の時代に入る。それが春秋戦国時代である。この混乱は、紀元前221年、秦が中国を統一するまでつづく。春秋戦国時代は、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂するまでの春秋時代、それ以降の戦国時代に分けられる。
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『旧唐書』倭国・日本国伝 - Home.ne.jp

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、 改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。・・・・
[7]白石さんからのコメント(2013年10月15日 19時17分10秒 ) パスワード

子孫様
>橘(宮原)公資 公との繋がりがはっきり見えてきました。
しっかり 繋がってきましたね。^^
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岡原霧島神社
そして 霧島神宮を勧請して建てられたのが 市房神宮。

同じ神社名は 同体とみなすのが 普通ではないか?
と 思い その 祭神にゆかりしていると 思い
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霧島山略縁起 - 本地垂迹資料便覧 を 検索してみました。
「霧島山狭野大権現御神名附并由緒書帳」


当社本殿
地神自第三代彦彦火瓊瓊杵尊、至鸕鷀草葺不合尊 陰陽之六神也、
脇宮両社
左 神武天皇也、 [古記又云白山権現、亦云神武天皇、 又云囘禄退転失旧記不詳云々、]
右 経津主神 [是号春日大明神]   武甕槌命 [是号諏訪大明神]
両神鎮座亦号護法社也、 [古云 乙若両護法、蓋尊像威猛故誤矣、 乙若形相順人相者也、]
善神王両社
此外山王水天社等
御本地堂千手観世音菩薩
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★狭野は 神武天皇の幼名だけど、その前から 代々継がれたかもしれないと思う。
★白山権現・・・白山比売神は菊理姫で 妙見の大本。
★経津主神 [是号春日大明神]   武甕槌命 [是号諏訪大明神]・・・皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊降臨の前に 浜に十柄剣をつきたてた という人。
★山王水天社・・・ねっとでは出なかったけど、山王は日吉山王社があり、日吉には 大山咋(松尾大社の祭神)をまつり、大物主をまつる。
水天社は祭神がでなかったので、水天宮をウィキで検索しました。
天御中主命  大体 この間から 出てくる 筋が 出揃っている と 思います。

歴史の曙の頃は つながりが 不明の部分もあるけど、
姓系辞典でも あっちにも こっちにも 書いてあったり・・・

小さくまとまってくるのですね。
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すごい 宮原さんぱちぱち!!

[8]白石さんからのコメント(2013年10月15日 19時41分30秒 ) パスワード

私の故郷には 北岳神社(坂本大明神)があります。近江日吉大社の末社。
誰が 創建したか?祭神は?ですが、800年代には 建てられたようです。
父の義兄弟は 坂本。

川辺川筋の上流には 祇園社などがあります。
大筋として 縄文の頃から住み着いた人達は 段々と 川下に移ってきたようです。
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日吉大社ですが、漢王室三津首(最澄)が 大和大神神社を勧請して平安京の守護としたそうです。

その前に 山上に 大山咋神が 祀られていたそうです、
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大山咋神
スサノオ系のこの神は 
京都松尾大社に祭られており、京都賀茂神社のお父さまという。
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松尾大社の大山咋神と共に祀られるのは中津島姫命で
中津島姫命は市杵島姫命ともいい、宗像三神のひとり、平家の厳島神社の祭神でもある。
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松尾の神様は 鳴鏑の神でもあり、酒の神でもある。
戦の前に ヒューっという音を出す 矢をはなつ 神?

酒は 米から つくられる。
米は 野原を豊かに実らせる。

矢を用い、米もつくる 人達は 狗奴? 
[9]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月15日 21時38分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>狗奴国 は 匈奴でしょうか?
 
たまたま字や音がが似ているだけ。
例えば春秋時代の呉、三国時代の呉、五代十国時代の呉は全くの別物というのと同じ。
 
諸説あり狗奴国は琉球と比定されているが、曽国とするのが妥当。
曽国は薩隅日と琉球が版図だから平定後は熊曽国となり、やがては豊国との連合へ発展。
詳細は「古代日本領土の起源」を熟読すると、疑問は氷解するでしょう。
[10]子孫よりさんからのコメント(2013年10月15日 23時22分28秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
ご教示、ありがとうございます。
実は、この時間まで、自分なりに、宮原の祖そして橘家を理解する上で、どうして霧島神社に関係していたのかを調べていました。
そして、橘家の別の一面が見えてきたのです。

霧島神宮
http://www.kirishimajingu.or.jp/contents/goyuisho.html
霧島神社については様々な情報がありましたが、コピー出来る文書を見つけました

”霧島神宮は創建が6世紀という古い歴史を誇る神社です。高千穂峰山頂にありましたが、噴火によりたびたび火災にあい、次にその西の中腹、そして高千穂河原へ移り、1484年に今の場所へ移って来ました。”

950年 高千穂河原への再興奉還をおこなったのが 
天台宗の 性空上人 →平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E7%A9%BA

1448年 社殿再興
真言宗の 兼慶上人 →真言密宗兼慶法印[柏原備前守橘公資三男也]

その他 宗教者(聖人)伝というページにあった九州・および橘に関係する宗教者?は以下の通りです。

玄清法印 → 玄清法印は大宰府の出身。766年にうまれ、幼名を乙丸といった。父親は当時都から西下してきた橘光政。乙丸は7歳のとき受戒し、名を玄清と改める。 荒神祭の開祖

皇慶阿闍梨 → 祖父は橘広相。性空の甥にあたる。

他にも沢山の方々が天台宗や真言宗の僧であった事がわかりました。

えびの市の白鳥神社も性空上人(橘善行)
http://hd0kirishima.kachoufuugetu.net/shiratori1.html

九州での橘の僧が修行の場としていたのが
脊振山・求菩提山・英彦山・国東半島(六郷満山)・霧島などで・・・

ここで不思議を一つ
もう、お気づきかとは思いますが・・私、このスレッドで・・
宮原の祖の事を全く理解していない時に書いたコメントに求菩提山・英彦山・国東半島(六郷満山)のお話を何度かさせて頂いていたと思います(*_*)(?_?)
そして、これらの山並みが大好きで・・落ち着くと・・

求菩提山の麓で見た神楽のお面が何処かで見た顔に(父)によく似ていると・・

ただ、解らないのが、どうして橘の人々はこれらの宗教に関係をもつようになったのか?何かの使命をもって宗教に関係するようになったのか?と言う事です。

中にはシャーマンの能力に優れていた方もいらっしゃったようで・・・
いままで、自分の先祖(宮原)は、単に妙見信仰を崇拝していただけと本当に簡単に思っていたのですが、とても奥が深く、単純には片付けられないような気がしてなりません。

それに、私自身の今までちょっとふざけて言っていた”感”も・・もしかしたら何かあるのかな?と思ってしまって・・
先日コメントした添田町の件は、私の感なんてものではなく、そして偶然というにはちょっと違うような気がして・・・
でも、自分勝手な解釈ですが、先祖が私を守って下さっている(大事に思って頂いている)それは、とても強く感じ、本当にあらためて感謝しています。

そして、祖母方の良峯安世公も空海との親交が厚かったと。空海は真言宗の開祖ですよね。
良峯宗貞公も花山の元慶寺を建立。ここは天台宗の寺院
性空上人(橘善行)は国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三ヶ所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。
とあり、強い関係性が見えます。
良峯素性公も天台宗
良峯由性公は?・・・・・・・????????

私は今までに何度か、平川(良峯)と宮原(橘)はなぜかペア?のような気がしているとお話してきたと思うのですが、両方の先祖の気持ちになって考えた時に、結びつきは宗教(信仰)だったのでは?と思いました。
以前は”感”で、言っていましたが、本日はかなり核心に近いのではと感じています。

<m(__)m>




[11]白石さんからのコメント(2013年10月15日 23時27分56秒 ) パスワード

ありがとうございます。
びっしり書かれたものは なかなか 頭にはいりづらいです。ーー

一生懸命字を追いかけるのだけど・・・
神様を追いかけるほうが やさしい。^^でも 頑張って読み通します。
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220p連合国家の中核となる国は、葦原の国だった。しかし、記紀は豊の国を主体としている。

大和朝廷の立場からして、その 直接の祖先(男系の祖先)である豊王朝を権威づけるためにはやむをえない措置であったろう。

※豊の言葉に関係してくる言葉
豊受の神 外宮に祀られる。神魂尊に行き着く。

※私 気になるのは 神戸の鷲尾家の資料で 神武天皇を神魂尊につないでいることです。
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子孫様
あさぎり町の坂本の話から 前に 大分の方に飛んで行ったのでしたが 
文化財は 鹿児島神宮にかけられていたのを、相良氏が戦利品として得たものだとか。
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鹿児島神宮は 確か 私の記憶が違っていなければ、皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の剣がささっているところ。
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鹿児島神宮を検索
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鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は、鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある神社。大隅正八幡宮とも。
※霧島神宮も霧島に。こちらも霧島に。
※私の記憶では 元の霧島神宮が 鹿児島神宮。元の高千穂が霧島神宮と覚えています。
子孫様のように 子供の頃に聞いたことですので、頼りないことですが。

主祭神

天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)
豊玉比売命 - 天津日高彦穂々出見尊の后神
※祭神のことなら こちらが 市房神宮の祭神に近い。でも子孫様の方から見たら 霧島神社ですね。

相殿神

帯中比子尊(仲哀天皇) - 八幡神を合祀した関係による
息長帯比売命(神功皇后) - 同上
品陀和気尊(応神天皇) - 同上
中比売尊(仲姫命) - 応神天皇の皇后。同上
太伯 - 句呉の祖。国内では唯一当社でのみ祀られる
   ↑
  あった!あった!
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A5%E5%91%89
  ※句呉,勾吳(こうご、くご)から 呉へ
  ※私 もうひとつ 気になるのは 中国の伝説で 殷の姓は 勾 というの   だそうです。殷の姓は 子と いわれますが、それは 子という 地?に   すんで そういったと。

   周の時代には殷は「殷」に住んでいる人々の国のことで、もとの「商」に   住んでいた 人々 だから 殷人は自分たちを商といったと。

   殷と周とのはじまりは、きょうだい から でているみたいに 思ってい   るのですが・・・
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  いまひとつ
★★★天津彦根★★★火瓊々杵尊:玄松子の祭神記で

天津彦根火瓊々杵尊 あまつひこねほのににぎのみこと 別名 天邇岐志国邇岐志天津日 高日子★★★番★★★能邇邇芸命:あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみこと 天津日高 日子番能邇邇芸能命:あまつひこひこほのににぎのみこと 天津日子番能邇邇芸命:・・・

※皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の尊称は 根が ついているのです。
根は もとの意味 とも とれますが
ふつう 出雲と とらえるのが しっくり くるように 思うのですが。

※又 番 の 言葉もあり、
蕃 と 書く時、古代日本においていわゆる「三韓」と呼ばれた朝鮮半島の国々 及びそこに出自を持つ渡来人系氏族を指す言葉。広義では中国大陸出身者を含む場合 もある。
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一方
アマテラスを 冠するのは
アマテラス大神
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命

スサノオも アマテラスを冠している。
藤原鎌足のきょうだいも アマテラスを称して 春日と いった。

皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の方とは 違うのですね。

スサノオも アマテラスを いうなら 
子供を取り替えても 結局 同族。

豊と葦原と 同族?
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[12]白石さんからのコメント(2013年10月16日 00時20分44秒 ) パスワード

11の びっしりかかれたもの とは 本のことです。
子孫様気を悪くしないでくださいね、

そして 7000傑様 ていねいに ご教示くださいまして有難うございます。
なかなか 一回言われたくらいでは 頭に入らず じれったいでしょうが
よろしく お願いいたします。

今日も 一杯書きすぎました。
おやすみなさい。

子孫様 今も 比叡山には 橘氏が おられるようですね。
[13]子孫よりさんからのコメント(2013年10月16日 07時11分09秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
昨晩も様々なご教示ありがとうございます。

白石様の ”霧島神宮を勧請して建てられたのが 市房神宮”

というお言葉から、今朝は市房神宮を調べてみようと思い立ちました。

由緒は白石様からのご教示で頂いていましたので、私は、自分の感のおもむくままに(先祖の導き?(?_?))気になるお名前・場所を選択してみようと試みました。

そこで、市房神社の説明文の中で一番気になったのが、伝説で有名な施無畏山真言院普門寺。
ウィキで調べたら”真言宗智山派の寺院”とあり真言宗智山派とは何?と・・
そこでまたまた気になって進んでいくと・・

”真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)は、日本における仏教の宗派の一つ。弘法大師空海を始祖とし、真言宗中興の祖・興教大師覚鑁(1095年-1144年)を開祖とする新義真言宗と呼ばれる宗派の中の一つ。”

とあって・・
興教大師覚鑁  覚鑁 とはどなた?と思い進んでいくと・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E9%91%81

覚鑁(かくばん、嘉保2年6月17日(1095年7月21日) - 康治2年12月12日(1144年1月18日))は、平安時代後期の真言宗の僧。真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。

諡号興教大師(こうぎょうだいし)。肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分)生まれ。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘。

また、繋がりました!\(◎o◎)/!
肥前国出身 母は、橘氏の娘!!\(◎o◎)/!

私にとっての気になる言葉は・・・\(◎o◎)/!

”「市房山神宮 本宮(上写真)」は、市房山の中腹4合目になり参拝が容易ではありませんでした。
日本では古くから神仏習合で、神社には別当寺という付属の寺院が建立され、僧侶が神事を司ることもありました”

”神仏習合” 
去年・一昨年と、季節ごとに移り変わる景色と、その場所に漂う何か”気”のようなもの(感覚なのでよく解りませんが)大好きで、国東半島の通称六郷満山と呼ばれるお寺を巡っていました。
別に宗教がどうのと言う事では全くなくて、とにかく、自分の体に吸い込まれるように感じるその空気感を求めて・・・
その先々でお会いする方々は皆、熱心にお参りされていたのですが、私のようにぶらっと立ち寄る者は、異質な感じさえする崇高なおもむきでした。

そして、各お寺さまには、神社もあり、最初は??と思っていたのですが、”神仏習合”が六郷満山の特徴だとわかって「あ〜そうなんだ(^・^)」と・・

でも、たいてい、伺うお寺では、私のいでたち(格好)は浮いていて
(結構、エスニック系が好きでアクセサリーもジャラジャラと・・)
娘も国東は大好きで一緒に行くのですが、この子は私のブログに載せた写真の格好は普段とは全く違い、普段は髪の色も”金髪に毛先ピンクとか(-_-)”(一時期、毛先ブルーでした。トホホ (-_-))コロコロ変わり、きゃりーぱみゅぱみゅ ちゃんが世に登場する前から殆どきゃりーぱみゅぱみゅ?でした。(^◇^)

でも、そのいでたちで私たちは、六郷満山めぐりを行っています。(^−^)

あれれっ?!折角、崇高に締めくくろうと思ったのに、いつものパターンに戻ってしまいました。(-_-)(-_-)(ー_ー)!!

では、仕事にいってきま〜す。(^O^)/
追記 仕事場では、別人のように、じみ〜な格好でメガネをかけて髪をまとめて・・。変身するのは得意です。(^O^)/




[14]子孫よりさんからのコメント(2013年10月16日 22時48分22秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様・日本の苗字七千傑様、台風は大丈夫でしたか?

今年は、本当に、台風の発生回数が多いですね。
地球規模で、異常気象なので、とても、心配ですね(*_*)

そして、今日は昨日までとうって変わって急に寒くなりました。(*_*)
もう、夏から、秋が無くて急に冬みたいな・・
皆様、お身体には十分お気を付け下さい。

今朝は、市房神社のお話から、神仏混合そして、橘との繋がりが見つかりました。
以前から、白石様のご教示の中に、各神社の由緒を伺ってきましたが、ここにきて、以前伺った内容が関係してきた事に本当にビックリしています。
それに花山院家。白鳥神社! 前スレッド83でも取り上げて頂いていました。\(◎o◎)/!ううん?白石様にも何かの能力が??!!


いち早く、古代日本領土の起源を白石様はお読みなのですね。
いいですね(^−^)
私も、早く読みたいです。
さあ。遅くなりましたが調査開始(^O^)/


[15]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月17日 00時17分58秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>周の時代には殷は「殷」に住んでいる人々の国のことで、もとの「商」に   住んでいた 人々 だから 殷人は自分たちを商といったと。   殷と周とのはじまりは、きょうだい から でているみたいに 思っているのですが・・・
 
間違いでしょう。
殷王朝の姓は子姓。周王朝は姫姓。
国号は商だが、14代盤庚から殷と号す。
 
中華史の書籍は様々あるが、格調高く明解なのは那珂通世著「支那通史」。
中冊では、外国事略(突厥、囘紇、三韓、渤海、倭)について記事が有る。
岩波文庫から出版されているので、是非一読をお勧め。
[16]白石さんからのコメント(2013年10月17日 01時35分20秒 ) パスワード

こんばんは
台風は 去り、今夜はお月様が見えました。あさっては 十三夜の月ですね。
楽しみです。

台風の影響は余りなくて ホッとしました。
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雑学ですが 百済永継 飛鳥部奈止丸と 観修寺家と子孫

@飛鳥部氏は 良峯安世の母の父方
 飛鳥部奈止丸(百済永継)女子・継 の子 良峯安世
 または 飛鳥部奈止丸の子百済永継の子 良峯安世

A飛鳥部氏は勧修寺流に血が入っている。
B前から 菊池の侍帳につく高岡・平川・白石・坂本・そして尾方・高田牧宰の言葉が気になっていて、萩の集落にも高岡・田中・永田・高田があり、高田は親世代が村長・高岡の家違いも親世代が村長をしていた。

下に書く 藤原北家 勧修寺流 嫡流の系は、大きなところの話ではあるが、飛鳥部・高田などの言葉が見え、昔に遡れば 祖先が絡まっているように見える。
平川が南朝方に動くことを考えると・・・

醍醐天皇の祖母・宮道列子は
宮道弥益夫妻の子。藤原高藤に嫁ぎ、胤子が宇多天皇に嫁いで(このとき宮道の家を寺にして、勧修寺といった。)、醍醐天皇を生んだ。
宮道はヤマトタケルの系があった。又物部氏子孫とも・・・
http://atsites.jp/donfrco/boujyou.html
藤原氏北家勧修寺流嫡流
藤原●良門(藤原冬嗣六男。母側室安倍雄笠女)─利基(母正室飛鳥部名村女)、弟●高藤(母側室高田春子〔高田沙弥麿女〕)─定文(母大江元平女)、弟定数、弟●定国(母正室宮道列子〔宮道弥益女〕。以下略
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桓武天皇
||−−−−−−−−−−ー良峯安世
百済永継(飛鳥部奈止丸)   ||ーーーーーー良峯宗貞(偏照)
             不明(一説光孝天皇乳母)

      橘嘉智子(橘清友女)
藤原乙牟漏  ||ーーーーーーーーーーーーーー仁明天皇
||ーーーー嵯峨天皇
桓武天皇
※乙牟漏の母は阿倍粳蟲の娘で尚侍兼尚蔵・阿倍古美奈 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宗貞と良房はいとこ
宗貞の祖母の百済永継は、桓武天皇との間に安世を 生んだ後に藤原内麿との間に真夏と冬嗣を生んだから、宗貞は冬嗣の子良房とも 従兄弟である。(母方で?)

遍照は良峰安世の子で桓武天皇の孫にあたり、すなわち仁明天皇(常康親王の父)とは 従兄弟にあたった。(父方で?)
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藤原良門
藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の六男。とするから 良房ともきょうだい。

良門と飛鳥部名村の女子の子
利基の子孫

紫式部…平安期を代表する物語文学『源氏物語』の著者。利基の玄孫。
藤原邦綱…大納言。平氏政権期の権臣。
藤原家隆…鎌倉時代初期の歌人。
貫名氏…日蓮の実家として知られる。井伊共保の4代の子孫、貫佐政直の子      孫。※上々
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井伊氏…良門の子利世の子五代の孫井伊共保の子孫。※継体天皇後裔三国氏の末裔とも。ただ利世なる人物は藤原氏のいかなる系図にも名前が存在しないとも言われる。


井伊氏と宗良親王(後醍醐天皇皇子・母は二条為子)
※佐田は二条と 古い辞典にあった。紀氏とも。又 大内も二条祖とも。
ここらは あまり しらべていません。

井伊道政は遠江介であるゆえに井伊介とも称した。道政は比叡山延暦寺座主である宗良親王の元に参じて南朝方として挙兵、・・・尹良親王は宗良親王の第2子で、母は香坂高宗の娘であるとか、井伊道正の娘であるとか諸説あり、はっきりしない。
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高藤子孫(観修寺)は 後に 勧修寺 婧子が光格天皇の典侍で、仁孝天皇の生母。






  
[17]白石さんからのコメント(2013年10月17日 01時51分50秒 ) パスワード

7000傑様  ありがとうございます。

子孫様
窪田越後で前に書いたかと 思いますが

木上の岩城
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/iwanjou.html
相良氏は市房に登りがたく 遥拝所を麓にもうけた。

錦町木上の 「木本(このもと)神宮」は、平安末期〜鎌倉時代初期にかけて、この辺り一帯を治めていた木上の地頭平川義高が築いた岩城(いわんじょう)跡の北側に建立されています。
[18]子孫よりさんからのコメント(2013年10月17日 07時24分59秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

実は昨日体調が悪く、ちょっと早く寝て、今日も、ゆっくり起きました。(*_*)
子供の頃から、何故か、台風が来ると体調が悪くなるのです。(*_*)
それも、台風がどんなに離れていても・・。
日本のはるか南であっても・・そういう時は必ず、台風は日本に接近するのですよね(?_?) 数年前に、某大学病院の先生とお知り合いになって、冗談でこの話をしたら、「医学で解明しているわけじゃないけどね(^・^)あなたは、もしかしたら、磁気を強く感じる身体なのかもしれませんね(^・^)」と言われました。????磁気??? 何の繋がりが・・・???
気分が悪くて寝ていて、急に思い出しました。(奇妙な身体です)

白石様、本日のご教示にとってもとっても気になるお言葉が・・・
今から、仕事にいきますので、帰ったらぜったいに私も調べます。

では言って来ます。(^O^)/
[19]白石さんからのコメント(2013年10月17日 18時30分25秒 ) パスワード

こんにちは
40を過ぎたら 食品サポートサプリを飲んだがいいかも・・・

自分の身体ではつくりだせない成分があり、汗や排泄物と共に 流れ出てしまうので、一度にたくさんとっても 意味がない。

薬局で聞くと 教えてくれるけど
大体 袋入りの カプセルで 売っているもので OK。
一万円も出して買わなくても せいぜい3000円くらいまでのでOK。
ふつう 1000円台。

書いてある粒数より 二から三種類のものを 一日 各一錠づつ位 気長に飲むと 

疲れたあ とか 静電気がたまらなくなり 疲れにくい体質になります。

セサミン なっとうキナーゼ コエンザイムQ10 DHA DHC マカ 他いろいろ

お互いに 効果を消しあうものを取っても意味がないので、そこは 相談しながら・・・一粒づつ飲むので 余り 月に換算しても 費用はかかりません。
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それと 
足腰は 絶対に冷やさないほうがいいと思います。



[20]白石さんからのコメント(2013年10月17日 19時56分04秒 ) パスワード

雑学
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/nagasawa/new-13.html
『空海ノート』補記 「空海と深くかかわった渡来系氏族とその周辺」

を見ていました。
その中で 倭武皇子が 漆を見つけた。
という ことが 書いてありました。ヤマトタケルは 草薙の剣などで有名な人ですが、鉱物と共に 文化的な? 面がみられて 驚きでした。

楽浪漢墓2世紀 頃? には 金や 漆をぬったもの が 発掘されているそうで、およそ そういう技術を持った人達が メンバーの中にいたのかも知れませんが(いわゆる渡来人・私の推測です)・・・
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藤原南家と空海と伊予親王の母


北家と空海の縁 なども 書いてありました。
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そして
丹生一族のルーツは定かではないが、伝説では中国春秋時代の5〜4世紀に滅びた呉・越の民が呉の王女姉妹を戴いて南九州に渡り、姉の王女大日女姫(おおひるめのみこと)はそこにとどまって天照大神の原型となり、妹の稚日女姫(わかひるめのみこと)はミズガネ(=水鉄)の女神として敬われ、丹生都比売神の原型となったといい、越の民は金属採集に長じていた、という。これも秦氏の渡来伝説と酷似している。

※そして 鹿児島神宮にまつられる 太伯 - 句呉の祖

空海の高野山開創をサポートした丹生一族のことであるが、具さには紀伊丹生氏、つまり丹生都比売神社の★★天野祝★★(あまののはふり)の家系をいう。
※源正行の子孫を言う 高岡の家と 天野宗主の家の仏間が 同じ。
※宗良親王を奉った 天野氏。

高野山造営にあたって、空海が協力要請の手紙を送った土地の有力者というのも、この紀伊丹生氏の当時の当主だったということが、最近研究者によって明らかにされた。
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空海の手紙の一文
私(空海)の先祖太遣馬宿禰は、あなた(紀伊丹生氏)の国(紀伊国)の祖である大名草彦の分かれであります。

※日本の苗字7000傑では 空海は景行天皇の裔となっている。
景行天皇の皇子が ヤマトタケル。
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ところで、先の空海の手紙に出てきた大名草彦とは紀伊国第五代国造の大名草比古(おおなぐさひこ)とみられ、紀氏の祖先になる。紀氏と紀伊丹生氏の関係は古く、丹生氏の庵田刀自(阿牟田刀自、あむたのとじ)と紀氏の豊耳(とよみみ)が結婚して、その子孫が紀伊丹生氏の嫡流となったという。
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どこにも宮原・平川は出ないけど
今日 テレビを見ていたら
吉野(金峰山寺)から高野山まで 76キロくらい と ありました。
タレントが歩くわけです。

吉野へも 空海は行っており、
金峰山に水銀・金があることを忘れるな と 書いている? 言っているそうです。
金峰山には 蔵王権現がおり、

市房神宮は 兄たちは おんたけさん・ごんげんさん と 言っていました。

その お鏡を預かる家では ご開帳は 50年に一回?位のことで、集落でも知っている人は余りいないようです。
山の下の 物知りの古老(故人)も 私が 前に言った時、驚いて エーッと 「じゃろう じゃろう」と 言っていました。

要するに 山の中の家にしては 格が違う という 感じを持っていたようです。それは 戦後の 格差とは 違うものですが・・・

平成3年に開帳があり、兄たちも ゆかりなので、(父の生家とその家は姻戚関係があった)見に行ったと 言っていました。

私は行きませんでした。
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おんたけさん は 木曾にあり
御嶽信仰を広めた行者
覚明行者
黒沢口の登山道の九合目にある山小屋「覚明堂」。覚明行者は1785年(天明5年)に黒沢口を開き、翌年登山道の改修中にニノ池畔で病に倒れこの場所に埋葬された。山小屋の横には覚明行者を祀る霊場が現存する。

覚明行者(かくめいぎょうしゃ)は、1718年(享保3年)3月3日に尾張国春日井郡牛山村皿屋敷の農夫★★丹羽清兵衛(左衛門)と千代の子★★として生まれ・・・

児玉丹羽氏・・・本姓を良峯としている。
他に 一色丹羽氏がいる。
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http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E4%BF%A1%E4%BB%B0 木曾御嶽信仰
御嶽山の祭神はいろいろあるが、
大己貴命及び少彦名命の二神とされることも多い。
※これは 三輪の神様と 同じになる。

武尊山大権現
ヤマトタケルをまつる。
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木曽御嶽信仰は、どちらかと言えば、密教でも天台宗と関係が深いが[15]、弘法大師信仰も入り込んでいた。
[21]子孫よりさんからのコメント(2013年10月17日 20時24分42秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、ありがとうございます。
食品サプリですね。そう言えば、この頃、全くサプリメント関係は飲んでいませんでした。気持ちは、まだまだ若いつもりなのですがやっぱり身体が・・(-_-)。名探偵コナンの逆バージョン。頭は子供身体はおばさんみたいな。
明日、早速薬局に行ってきます。

所で甘露寺・・。甘露寺の家紋ですが・・
実は、先日から、お話していた、私を色々な所へ連れて行ってくれている人のお爺さんのお墓にお参りに行った時、家紋があまり今まで見た事がない家紋だったので、一度家紋のページを色々見て「どの家紋だったかな?」と調べていた時に、あれっ?一番似ているかな?と思って見てたのが甘露寺の家紋だったのです。\(◎o◎)/!
だから、今朝は、ビックリして鳥肌がたちました。
この人のお爺さん(お母さん方)は、四国八十八箇所を全て巡られて、法事の時にお家に伺ったら、掛け軸に弘法大師様と何やら巡られたお寺の印?があったような(今の自分の現状を夢にも思わず・・しっかりとは見ていなかったのですが)
お寺さんも真言宗のお寺から来られていて・・
今日、早速本人に家紋の事を聞いたのですが、「ううん?解らない??」と。全く、そういう事に興味を示さない人(私を縁のある場所に無意識に連れて行ってくれるのに・・??)ですからしょうがないといえばしょうがないので・・
でも、この方のお母さんに突然電話で「お爺さんの家の家紋は何紋ですか?」と聞いたらそれこそ変な人と思われますし・・(*_*)

でも、本当に特徴が似ているんですよね!?しっかり覚えている訳ではないのですが、あの、何だろう竹コプターのような羽のようなマーク?(皆様怒らないで下さいね。専門用語が解らないので、自分のイメージでお話しています。)本当にお墓に行って初めて見た時は「あれれれれ〜っ??」と
多分、自分の親戚とかでは見た事が無かったからかな〜
まあ、お母さんに伺うのが一番早いのですが・・勇気がいるな〜(*_*)

何せ、今まで出会った家々の偶然があまりにも恐ろしいほどいろいろあり過ぎて・・今回もまさかまさかと・・・
お爺さんの出身地も本人に聞いたのですが「わからない・・・??」と。
現代人の典型なのに、何故かお寺や神社にとてもパワーを感じるとポソッとつぶやくこの人も、やっぱり何かあるのかな〜(-_-)

では、今から、昨日の続き調査開始です。(^O^)/

[22]子孫よりさんからのコメント(2013年10月17日 20時31分18秒 ) パスワード

追記・・・

しっし!!!白石様〜!!
私、白石様のコメント(20)を読む前に今のコメント(21)を書いて、今、アップしたら\(◎o◎)/!
白石様から空海(弘法大師)のコメントが入っていたので、本当に本当に!!ビックリしました。

では、ゆっくり読ませて頂きます。
ちょっと心臓がドキドキしています。

何たる偶然。 でも、私も白石様も偶然が、必然に繋がっていくので・・・
\(◎o◎)/!
[23]白石さんからのコメント(2013年10月17日 21時05分17秒 ) パスワード

驚きですねえ。
でも 田舎では 特に 相良藩では 700年もの間 一度のお国替えがなかったので、住んでいる人達も 昔ながらの意識を持ちながら 

現代に生きてきたようですね。

でも 良かった!! 
何だか 今まで なんだろう なんだろうと 思っていたのが
ちょっとづつ ちょっとづつ 見えてきたので・・・

頑張れば成果があるのですね。

7000傑様 岩波の本も 頑張って読みます。
読まないといけない本が いろいろ出てきて、

又 頭が エンジン切れで 爆睡しなければいいけど。

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子孫様 
そうそう 家紋は 着物やさんで 家紋やさんに 尋ねてもらっても わかるみたいです。

店の パートさんでなく 家紋やさん。

親世代(80代・60代)でも もう 家紋なんか わからない 人が おおくなっていますしね。

違う呼び名をおしえてもらったら 全然 違ったり するし。
[24]子孫よりさんからのコメント(2013年10月17日 22時30分05秒 ) パスワード

白石様!!
お母さんに変人扱いされる前に、もう一度いろいろ調べてみたのですが・・

甘露寺の家紋に似ているけど、違うと思って、ドラえもんの竹コプターを真正面から見たような、今風のデザインで幾何学的でと・・・そうしたら・・

銀杏紋の中の三つ寄せ銀杏。真ん中付近は(言い方がわかりません(*_*))とてもよく似ています。でも、葉っぱ?(羽のような)はもう少しカクカク(わかりますか?)なっていたような・・。そして全体が渦を巻いていたようにも見えたけど(ここの部分は、初めて見た時に「うわぁ〜珍しい!」と思ったからかも・・)
ちなみに、今後はこの人の事をMさんと呼びますが、(名字は加賀藩の藩祖と同じ名前です。あっ!いっちゃった〜(-_-))Mさんの母方のお爺さん(真言宗を深く信仰されていた)のお家の名字は 中村さんです。

もう、こうなればとても気になるので、Mさんのお母さんに今度思いきって聞いてみます。(変人呼ばわりは覚悟のうえで・・(*_*))

では、本題に戻って調査再開(^O^)/





[25]子孫よりさんからのコメント(2013年10月17日 22時35分02秒 ) パスワード

追記
ちなみにこのMさんは北九州生まれの小倉っ子。でもお父さんは、熊本の天草出身です。八代に親戚が沢山いたとの事でこの話はこの頃お父さんに聞いてビックリしたのですが。
ちなみに、Mさんの母方のお爺さんの出身地は解りません。
ちなみに、在職中は国家公務員でした。
お爺さんの出身地も聞いてみようかなと思います。
(変人扱い覚悟の上で<m(__)m>)
[26]白石さんからのコメント(2013年10月18日 02時00分25秒 ) パスワード

http://minagi.p-kit.com/page134807.html
きものと悉皆みなぎ/家紋図鑑 【銀杏(いちょう)】
で見てみましたが わかりません。私は 宗教とか 家紋とかは わかりません。

三つ割り花杏葉(ぎょうよう)紋? 三つ割杏葉(ぎょうよう)紋?
銀杏紋と似ていて よく 間違われる紋。

Mさんのお母様に お伺いするのが 良いでしょうね。^^
Mさんから 聞いてもらったら なお 良いかも・・・
別に おかしくはないと思いますけど・・・
珍しい家紋だから なんだろうと 思ったと正直に言えば・・・

そのあとを 自分が べらべらと いうと 
なんだろう と なるだろうから 聞くだけにしておけば・・・

加賀藩の藩祖って なんと いう 苗字でしょうね。前田さん?

さっき パチッと 目が覚めたけど もう少し 眠ったほうがいいみたい。
おやすみなさい。
このあたりは 
年寄りの 余り 用事がない 都合よい 身分のところです。
[27]子孫よりさんからのコメント(2013年10月18日 12時07分31秒 ) パスワード

おはようございます。(^・^)
今日は、明日の土曜日出勤の振り替えで仕事は休みです。

あああっ!白石様・・Mさんの名前をリアルに答えていらっしゃる・・(*_*)(なんちゃって(^◇^)大丈夫です。このスレッドまずMさんは見ないので・(^◇^))
でも、(ー_ー)!!やはりコジンジョウホウがありますので、Mさんでいきます。<m(__)m>

一度、私も目が覚めたのですが、もう一度寝ようと横になり、先ほどまで爆睡していました。(*^。^*)

この頃の体調不良の原因の一つは、あの、忌わしい植物のせいです。(>_<)
至る所に、頼みもしていないのに群生して・・ちょっと郊外に出かけると、なぜか大量にはびこっている!!そして、あたかも、私たち秋の花よ!と言わんばかりにソヨソヨさせて(>_<)。オイオイあなた達、日本古来の花じゃナイでしょう。万葉集に歌われているか!(>_<)と叫びたくなる!
ポワ〜ンの私でさえ、怒りに?鼻をグスグスさせる(あっアレルギーか)、その花の名は・・・・セイタカアワダチ草。

子供の頃からこの季節ゼコゼコ咳が出たり・鼻がグスグスいったり。祖母から「あ〜んたは、この季節になるといっつも風邪ひくね〜。そ〜して長引く。きつかね〜(*_*)。よかよか、センブリを飲んどきなさい。」と、何故か毒消しになるといつもセンブリをむりやり飲まされて・・(ウギャオ(@_@。)
大人になり、アレルギー検査なる物が普通に行われるようになり、検査した結果が、天敵「セイタカアワダチ草」アレルギーでした。
もっと早く解っていたらあの苦〜いセンブリを飲む事は無かったのに(>_<)

昭和40年代後半〜50年代前半にかけてのお話です。
元々、お花が大好きであった宮原の娘は、それが自分の天敵とはつゆ知らず、「ばあちゃ〜ん(^◇^)あ〜黄色いお花が今年もい〜っぱい咲いたよ〜\(~o~)/」と道端でセイタカアワダチ草なる花を手に取り、顔を近づけ、香りを確かめ、鼻をグシュグシュ言わせながら、愛でていたのでございます。
するとその晩はかならず、口に苦しセンブリなる薬草の汁を、優しい祖母様から無理やり飲まされていたのでありました。<m(__)m>

脳を一休め・・脱線しました。<m(__)m>
今日は時間がたっぷりあるので、しっかり探ってみます。(^O^)/
[28]子孫よりさんからのコメント(2013年10月18日 15時10分51秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。(^・^)

真言宗・天台宗を調べたら、もっと、先祖の事が解るかな?と頑張っていた所、その話とは全く違う謎にぶつかり混乱しています。

本当に、偶然ネットで出てきたページに九州の荘園の話が出ていたので興味があり読んでいた所・・・

球麿郡
    @紀平氏 本姓紀氏
        ・紀平二元保
        ・紀氏であるが、のち、平姓を稱したものをいう
        ・球麿郡地頭:良峯師高の子息:紀平次不知実名とある

紀平氏 本姓 紀氏  ???
良峯師高の子息:紀平次不知実名とある   ???

えっ??初めて出てきた姓です  ”紀平”
平川(平河)と紀平は別なのでしょうか?
それとも、前スレッド(76)で日本の苗字七千傑様から伺ったご教示の
”当時は女系伝領で「男三界に家無し」の招婿婚(夫の通い婚)だから子供は元服するまで妻の実家が養育するのが当たり前。
それでも妻の実家の姓や苗字を名乗る例が少なからず存在した。”

このお話に繋がっているのでしょうか?

本当にすいません。
宮原(橘)を調べたら平河(良峯)が出てきたり、逆があったり、真言宗・天台宗(橘)を調べていたら平河(良峯)が出てきたり・・ついには 紀氏 \(◎o◎)/!

ちょっと頭が混乱してきました。
どうして、こうも謎ばかり・・・??

どうか、日本の苗字七千傑様・白石様。ご教示をよろしくお願い致します。
[29]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月18日 20時11分44秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>良峯師高の子息:紀平次不知実名とある
 
不知実名とあるが、次男永池師忠のことでしょう。
恐らく、平家没官領を引き継いだのでしょう。
日向永池氏(恐らく紀平氏)の名跡を引き継いだだけでしょう。
紀平氏は日向だけでなく、薩摩、磐城にも存在する。
 
謎でもなんでもありません。
梶原平三景時の長男が梶原源太景季なんだから。
系譜を見れば良くあること。
また平家と平氏をごっちゃにしてはいけません。
源頼朝に付いたので梶原の長男が源太と名乗ったということ。
建前はともかく、後世は源平藤橘などは単なる符号化していったのが現実。
後世の平氏流公卿にしても、藤原氏が名跡を継いで絶家再興をしただけ。
[30]白石さんからのコメント(2013年10月18日 20時37分54秒 ) パスワード

こんばんは
ごめんなさい。加賀藩。

そして
家紋も 宗教も 今日のご質問も まったくわかりません。ばんざいです^^
日本の苗字
7000傑様に 期待しましょう。
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ただ 
ちょこっと
おおーっと 思うことは あります。迷走するのですけど・・・
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良峯が 秋田城司だった と 前に本で読んだこと。
橘佐為の系が 平貞盛の方をはしり 伊勢平氏になったこと。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まず
まったく 関係ないのですが
http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub11-45.html
紀氏のルーツ 玉名郡
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※大野氏 祖:紀国隆 玉名郡
       ・1241-6 玉名郡司 紀氏を称する大野氏
       ・1581 小代氏により大野氏は滅亡と伝えられる

※大野一族・築地氏(下築地に郡司の館あり)
        ・岩崎氏、中村氏、田島氏、二塚氏
         ・「蒙古襲来絵詞」に大野小次郎国隆が従軍したことが
           描かれている。
         ・その一族,岩崎・中村・田島・築地・二塚などの
従軍した軍功賞の配分にあづかっている。(東妙寺文書)

    ※前原氏 大野氏の後裔

    ※安富氏 紀長谷雄の後裔
         ・「大野別府」の岩崎村の地頭
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
※★まず 岩崎氏の先は 岩城氏 その先は 貞盛の弟 桓武平氏 繁盛流

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01113.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01113d.htm
姓氏類別大観 
【桓武平氏繁盛流】
 平貞盛の弟、繁盛に始まり、信濃国仁科庄の仁科氏、秋田城介職の城氏族、常陸大掾の大掾氏族、磐城国磐城郡を本拠とする岩城氏族に分かれる。 岩城氏の子孫は羽後亀田藩2万石で明治に至る。

すこし 考えさせて くださいね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
上の文の中に 築地がありますが、うちの 方の 免田町長の尾方とは ここの人でした。

ここらに 四所権現?があって 天氏 阿部氏の 言葉があります。

前原氏の言葉は 善正寺様の 苗字。
そして
北九州の 春日(北九州高速)前原 - 高速.jp
   →糸島あたりの 前原から 下関手前?春日へ一直線
   →春日は 和邇の 言葉が出てましたよね。

高速.jp - 春日(北九州高速)から前原へ

前原から苅田北九州空港へ普通車で - 高速.jp
   →苅田は 白石 藤原の方で 出ていた。

高速.jp - 前原から苅田北九州空港へ

紀長谷雄は いろいろあって あとで まとめて 書いたがいいかも・・・

尾方は 緒方に 通じて、緒方(紀四郎)の 言葉を いつか ネットで見たことがあります。

とりあえず
緒方家 - 八代市公式ホームページ

国道445号線沿いにある緒方家。壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平清経の子孫3人が 緒方姓を名乗り、五家荘の3地区に住みつき支配した。その一人★★緒方紀四郎盛行★★が 椎原地区を隠れ住んだとと云われています。この建物は300年ほど前に建造されたもの です。

ですね。

尾方 と 紀と 何らかの つながりが うっすらと・・・
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次に
大野
※大野氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02106b.htm
大国主ー三輪氏ー豊後大神氏

今は これで やめときます。また 一杯 書きたくなってくるし、頭が整理しきれていないので・・・
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北九州が先立ったか 南九州が先立ったか 
それすら まだ 頭が混乱して いるのです。





[31]子孫よりさんからのコメント(2013年10月18日 21時32分58秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございました。
紀平次不知実名は永池師忠公の事だったのですね。
少しずつ、理解し始めて来た所に、他の名前が入ると、混乱してしまいます。
当時は、一人に対して、何パターンも(すいません変な表現で)もの名前が付くので中々解り辛いですが、ちゃんと意味があるのですね。
丁寧なご教示ほんとうにありがとうございます。

源頼朝について源太・・・そういう事か!
同じように、祖母の平川も南朝についたので、通称 みなみ。

読めてきました(^・^)

またまた、子供のような疑問が湧いて、ご質問するかと思いますが、どうぞよろしくお願い致します。



[32]子孫よりさんからのコメント(2013年10月18日 22時01分00秒 ) パスワード

白石様。
加賀藩、ご心配なく(^・^)

家紋の事ですが、地道に調べます。(^O^)/(少しずつ伺う戦法で・・)(^◇^)

そうそう、苅田は、豊前方面にドライブに行く時に通りますよ。
古墳が沢山あるのです。
でも、古墳の近くはトヨタや日産の巨大工場が立ち並んで、そこだけポカッと空いた感じです。

でも、白石様は、今まで記憶した言葉、内容が、頭の引き出しからス〜ッと出て来られて本当にすごいです\(◎o◎)/!
実は、私、本当の事を言いますと・・・名前を覚えるのが一番苦手でした。(*_*)だから、歴史が苦手だったのかな?(もう、すでに日本の苗字七千傑様・白石様、お気づきだったのでは)

日本の苗字七千傑様は全国のとてつもない数の名前を理解され、研究されていらっしゃるのですから、私にとっては、想像がつかない能力をお持ちなのだと思います。
でも、このスレッドでお二人のお話を伺いながら、歴史に基づいて名前を理解する事が、少しずつですが出来るようになってきて、苦手という意識が恥ずかしくなってきました。(*_*)
だって、名前は、その人個人だけのものではなく遠い先祖に繋がる大事な言葉(鍵)なのですから。

では、もう少し、タイムトラベルしてきます。(^O^)/



[33]白石さんからのコメント(2013年10月19日 02時27分34秒 ) パスワード

永池
なるほど そうでしたか。

家で というか 故郷のほうは 上球磨の電気屋さんが 来ていましたが、
もしかすると そこだったかも・・・

平川の嫁も こちらは 人吉の電気屋さんに 勤めていたことがありましたが、
こちらも つながっていたかも・・・

集落のお酒屋さんは やはり 上球磨の お酒を取り寄せていました。

何となく 子孫が残って 頑張っているのですね。
[34]白石さんからのコメント(2013年10月19日 05時32分59秒 ) パスワード

次に 大野氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02106b.htm
この先を追いかけていくと 三輪に つながってくるけど
古い時代のことは 詳しくは わからない と 思って 
余り ぴしぱし 系図に当てはめて いくのは 避けたいと思います。
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国宝 人吉青井阿蘇神社 大同年間に尾方権之助大神惟基が・・・
川辺川筋の阿蘇神社 神主 尾方氏
市房神宮宮司 尾方氏
※大神は おおが と 読み、 大賀氏になる人も いますね。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E4%BA%95%E5%AE%B6
青井家
青井阿蘇神社は大同元年(806年)に肥後国阿蘇郡の阿蘇神社の神主尾方惟基(大神惟基)が阿蘇神社の分霊を球磨郡青井郷へ分祀したものと伝えるが、その惟基を家祖とする。・・・後 犬童も称するが 又 改姓して元に復帰。子孫絶える。親戚などは 残っているかも。

大野惟栄のあと 緒方氏へ
緒方惟栄の後 大賀氏を名乗る人がいる。

緒方についての伝説
まず
宇佐八幡の阿蘇神社縁起に
宇佐八幡と 高知尾明神と 阿蘇神社は きょうだい神といい
高知尾明神は 神武の次郎という。

市房神宮の西あたりの 姥岳の姥岳伝説・資料
http://www.komisen.net/ubadake.htm
文中に出る 、大神氏の家系を尋るに桓武天皇の御宇 堀川の大納言兼基卿 の 堀川は この話の子孫かはしらず 私の 故郷の集落に 堀川という家があります。


この人と塩田の長者の女子との間の 娘が 
祖母山明神ハ地神五代鵜萱草葺不合の尊の母君也。然ルニ此神十七八の男子に姿を変じて
娘との間に 男子をもうけた。女其後平産男子を産む。是「大神大太郎惟基」といふ。

肥後の菊池が婿と成りて、五男を設く、
一ハ太郎政次。二ハ植田七郎。三ハ大野八郎。四ハ佐伯三郎。五ハ臼杵九郎也。
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はるか 昔の うがやふきあえず の 母 が 桓武の頃に出てきて
と 不思議ではなく
その 流れを汲む 人と 結婚して ということだと 思います。
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以上のことは いろいろ 検索できるので、(その史料になったものなども)

私は
宮原も 霧島神社 などから はるか 昔の人達に 関わってきていることに
興味を持っています。
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ばらばらの 情報ですが しかも ここは なにやら オカルトめいていますが
http://kotora888.art-studio.cc/kotora/nikk_i2010_01/2010_01/2010_02.html
橘という氏姓は現実には飛鳥時代以前に舒明天皇に頂いたのだそうである。
今の歴史より古い。その理由は舒明天皇はウガヤの時代の真実を知っていたのだそうである。

※大田亮氏も 三千代が橘姓を賜った時 それまでにいた 橘は 名前を 例えば椿とかに 変えた と 書く。

菩薩の先祖である。
菩薩の陵は葛城の天狗岳にある。
お大師様の母上。

違うブログですが
伊佐平治兼元の先祖は 鹿児島の伊佐市の出身で 平治は役人だった。
伊佐市には 金鉱がある。
※ 東北に 伊佐須美神社がある。高田 渡邊融などの言葉が見える。融は松浦氏の遠祖。

いざなぎ・いざなみが祭神

おぼろおぼろながら
伽耶 金 塩 バビロニア?ギリシャ? 
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古代を語るとき ウガヤフキアエズの言葉がよくとりあげられ
このまた先があると 書かれる。

私は 神武の 母方?に 入ってくる(海神)の系
古くは 招請婚 

鷲尾の家に伝わる 神武天皇を神魂尊につなぐ系 なども あり
神魂尊は 白山の菊理姫に関与して この姫は 神魂尊の乳母だったという。
つまり 身内。

橘三千代は母方で 神魂尊
佐田彦も 母方で神魂尊につながり この人の子孫は  藤原朝臣や椿氏になった。

朝になって 雨が降っています。
今日も 仕事だけど 雨の日は 夫が犬の散歩に行かないので、ゆっくり出来ます。^^







[35]子孫よりさんからのコメント(2013年10月19日 06時43分34秒 ) パスワード

おはようございます。

尾方家(緒方家)ですが、白石様と私はここでも縁があるのですね。
前にもお伝えしたように、祖母の姉の嫁ぎ先の伯父(面倒ですね・・あっそうか父の従兄です)の奥さんは免田の尾方家から嫁いで来られていて、青井阿蘇神社に関わりがあり、深水の伯父(祖母の従兄)には五木の尾方家(緒方?)から叔母は嫁いで来られていてここも、青井阿蘇神社に関わりがあります。
というか・・たしか、深水の叔母が嫁いで来られた縁で、父の従兄の伯父も、お見合いで結婚されたのでした。(アレレ昔から聞いてた事を、今頃思い出しました。すいません(*_*))

だから、尾方家(緒方)を介して、白石様と私も繋がっていた訳ですね。

ところで・・・
私は、今まで仏教とは、仏様を信仰して、単純に、法要とかでお寺様が来られる・・くらいの認識しかなかったのですが(宮原(橘)の娘にしてなんたるか(-_-;)と言わないで下さいね(*_*))今回、先祖が関係してきた天台宗・真言宗を客観的に知識として調べたら、どちらも星を信仰していたという事が初めて理解できました。(ご先祖様本当にごめんなさい)

それに、妙見神社=星 という考えも間違っていて、様々な神社で”星”への信仰がある事も理解できました。
だから、日本の苗字七千傑様の妙見という言葉にこだわらないようにというご教示も今頃やっと理解できるようになったのです。

天台宗の三諦章も16菊と三つの星から構成されていて
http://blog.busondera.com/?eid=752525

真言宗も、もちろん星と深く関わっている訳ですから(私が祖母から貰っていたお札や、祖母から聞いていた星祭りという言葉も全て、真言宗のお寺様でした)☆最初理解出来ていなかったので神社ばかり調べていました(*_*)

妙見という言葉にこだわらなくなってから、やっと、霧島神社に宮原が繋がっていた事もわかった訳です。
鍵となる言葉は、やはり 星 だったという事が今、とてもよく解ります。

古代からの星・いいえ宇宙への信仰は、名称が違っても世界共通という事なのですね。

私は以前から、古代人の移動手段や正確に場所を特定する手段は何を用いていたのだろう?といつも考えていたのですが(緯度や経度が解らないのに・・と)でも、その手段として北極星があった訳ですね。
でも、一番最初に北極星を導きの手段だと発見?した人はすごいです。\(◎o◎)/!
いったいどんな人だったのだろう?
その人が空を見上げて「あれっ?!」と気付いた瞬間が世界を変えた訳ですね。\(◎o◎)/! すばらしい!!
(あ〜またいつものパターンに戻ってしまいました。今日は崇高な気持ちになって締めくくろうと思っていたのに。トホホ)

では、本日、私も仕事です。行ってきま〜す(^O^)/





[36]白石さんからのコメント(2013年10月19日 23時28分32秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様とのつながりが だんだん はっきりしてきて うれしいです。

紀平次など 名前がわかって なおさら 手ごたえを感じますね。
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今日は 歴史のお勉強をしていました。

http://www.script1.sakura.ne.jp/essey_h/e058.htm
これは 歴史をはるかに おりてきてからのことでした。

http://green.ap.teacup.com/lifework/304.html
内村鑑三の著作を現代訳する試み
フェニキア人のことでした。

今まで 漠然と フェニキア人 ソロモン インド ヒンズー バラモンなどを覚えていましたが、

紀元前2000年以前頃には 船で航海していたようですね。

http://www.geocities.jp/timeway/kougi-6.html  より

ヒッタイト
ヒッタイトは前1600年頃、古バビロニア王国を滅ぼし、小アジアに建国します。
 この国は史上はじめて鉄器を使用します

オリエント地方で独自の活動をした民族を三つ紹介します。これらの民族は前13世紀頃から活動が活発化します。

アラム人
(内陸貿易で活躍する商業民族)
イエスの時代もアラム語が共通語。インドや中央アジアで使われた文字のもとはみなアラム文字。有名なものでは、(ソグド文字、ウイグル文字、突厥文字)があります。

フェニキア
(フェニキア文字は、ギリシアからヨーロッパに伝えられアルファベットとなります。)

ヘブライ
(かれらはユダヤ教という宗教を生みました。
このユダヤ教からキリスト教、イスラム教が生まれるのです。)

http://www.geocities.jp/timeway/kougi-6.html
インド ヨーロッパ語族の大移動
メソポタミア
ヒッタイト
アラム人 
ヘブライ人

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%B0%91%E6%97%8F
漢民族
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アラム人のゾクド文字 ウィグル文字 突厥文字がめをひきました。
ウィグルには 契丹の貴族などがおり、サダ突厥は 漢王室・唐王室の外戚になり、後 清朝をたてる。

「清」と仲間なのが 「元」で どちらも 女真(満州)族。金。

アイシーンは 西の方にいた雑種で 後 董に姓を変える。献帝の祖母董太后。献帝の実母は王氏。霊帝の実母も王氏。董氏はほかからも改姓するらしいので、この太后がアイシーンかは知らない。

中国南朝蕭氏も契丹。

つまり 尾方 さだ の 方からは 大雑把だけど アラム人がでる。
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高は 黄帝の子孫のグループ 彼等は 胡族。
しかし、契丹も 胡族で 鮮卑と 同族。東胡。
代表的な五胡も 皆 同族で歴史をあがっていくという。
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http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/aramaic.htm
アラム文字はペルシアに伝わってパフレヴィー文字となり、さらにインドに入ってカロシュティー文字やプラフミー文字(梵字)となったと言われる。
アショカ王が仏教遺跡に建立した石柱や磨崖碑の刻文はたいていがカロシュティー文字である。

一方、アラム文字は中央アジアに伝わってソグド文字となり、さらにウイグル文字となった。このウイグル文字を母体としてモンゴル文字が生まれ、このモンゴル文字から満州文字が作られた。




[37]子孫よりさんからのコメント(2013年10月20日 00時25分51秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
今日は、今まで、吾妻鏡を読んでいました。
最初はKULINE検索 - 京都大学KULINEというサイトで見つけた古文を読んでいたのですが、全く解らず(漢字ばかりで・・当たり前か)そこで、現代文に訳しているサイトがあったので、今まで黙々と・・
吾妻鏡の中に良峯氏系譜というのがあるとの情報を見たので頑張ったのですが、目が真っ赤になった以外は、まだ、何も見つけていません(*_*)
そのかわり、橘公長公のお話などは出ていました。
内容は(*_*)だけど、名前を見つけた時はうれしかったです。

所で、白石様、平と景がついたお名前 平景時 という名前が吾妻鏡に出ていたのですが、白石様が以前探されていた方と2文字一緒だったのでアレレッ?と。
でも、昨日から、名前は慎重に理解しなければいけない事がよくわかったので・・まあそんな事もあったのか・・くらいにしておいてください<m(__)m>

所で、本日の白石様のご教示、めちゃくちゃ面白そうで、まだ、ネットのページを読み始めたばかりなので、今からじっくり読ませて頂きます。

では、海外情報を読んできます。!(^^)!(^^ゞビュ〜ン!!

(宮原の娘は今ほどタイムマシーンで、出かけて行きました<m(__)m>)
[38]子孫よりさんからのコメント(2013年10月20日 09時15分45秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、昨晩のご教示夢中で読ませて頂きました。
おもしろかった〜!!(^−^)

フェニキア人\(◎o◎)/!
私が理解していた古代文明とはせいぜいバビロニアまでだったのですが、紀元前2000年以前にこのような文明が発達していたとはビックリしました。
書かれている内容が、つい最近の事のような錯覚をおこし・・
フェニキア人のお話を伺って、私の古代文明に対するイメージが大きく変わりました。\(~o~)/

今まで見た映画・学校で習った事は殆ど 古代文明=侵略(戦い)<(`^´)>というものばかりで、当時の人々の日常生活をテーマにしたものなどあまり無かったと思います。 
そのイメージに突然入ってきた?フェニキア人!!
侵略(戦い)の為ではなく、なんと”商売”の為に航海術などを発達させていたわけで、とても平和的で好感が持てます(^−^)
アルファベットの起源が、商売の帳簿を付けるための文字だったとは・・
確かに、民族・国の考え方も様々だったとは思いますが・・
武器を発達させて軍力を強化するのも一つだし(ヒットタイト・・鉄を作りだしたこれもすごい事です)、商売を行い国の財を成すこれも一つで、いずれも、自国を発展させる手段だったのですね。
でも、私は平和的な方がいいな〜(^・^)・・誰もがそうだとは思いますが(^・^)

そして、宗教についてですが・・・
どの宗教という事ではなくて、自分自身はどうなのか?と考えた時に、これはもう、日本における現代人そのものですね。
お正月には神社へ行くし、お寺にも参る。クリスマスにはメリークリスマスとケーキを食べる。(すいません。この発言は、(いえこれからの発言は)私の先祖が関わりを持って来た様々な宗教(神社やお寺など)を深く信仰されている方々も沢山いらっしゃると思いますので不適切かもしれませんがお許しください。)
ただ、不思議なのは、子供の頃から、何処でお祈り(お参り)をしたとしても、何故か、その気持ちは一つの大きなパワー(何と表現したらいいのか解りませんが・・このパワーを神様とお呼びしたり、仏様とお呼びしているのかな?)に繋がっているような気持ちはしていました。それが、地球を創った宇宙のパワーなのかいいえ、宇宙を創りだしたもっと壮大なパワーなのかは解りませんが)

だから、場所・対象・名称は違っても、全てそのパワーに繋がる入口のような気がします。
もちろんこれは自分自身の考えだけですけど。

2011年の東日本大震災の時、被災したそして被害にあわれた方々の為に、世界中の様々な国々、様々な宗教の沢山の方々が、祈りを捧げていらっしゃる映像をテレビやネットで見ました。日本国内でも、誰に言われた訳ではなく、無心に祈った方は沢山いらっしゃると思います。私もその一人です。
その、全ての人の気持(心)は何処かへ繋がっているような・・・
(震災については自分自身が被害にあった訳ではないので、実際に被害に遭われた方々の苦しみ・悲しみは計り知れないものだと思います。だから、軽々しく口に出してはいけない事も解ります。すいません。)


お話を変えますが・・
宇宙と言えば・・ まったくの余談(脱線)ですが聞いて下さい。マタマタ(ー_ー)!!と言わないで下さいね(*_*)

祖母は(ば〜ちゃんは)実はUFOを頻繁に目撃していたのです。(本当です(*_*))
そして・・私と祖母(ば〜ちゃん)は未知との遭遇も果たしていたのです(本当です(*_*))
私が中学生の頃、テスト勉強で(珍しく勉強して)疲れて自分の部屋で爆睡していたらギュイーンギュイーンとすごい音が外から聞こえて来て、そして、真夜中なのに外が昼間のようにオレンジになっていて。(最初は車かと思ったのですが、超田舎だし、人が来る時間ではないし、でも不思議と怖くは無かったのですが)
すると、祖母が物凄い声で私の名前を呼んで(叫んで)・・
ううん?(-_-)?と寝ぼけて部屋から出たら祖母が物凄い勢いで私を抱きしめて来て(めったに抱きしめられた事はありません(ー_ー)!!)電気も付いていないのに外はオレンジ色だし。(この時、私、何故か何故か?冷静でした)そして祖母が「宇宙船(UFO)が来とる!!」と!そして何かに向かい「ダメダメ来んで下さい!!この子ば連れて行かんでー!!」と叫ぶのです。一瞬私は「オイオイ(ー_ー)!!連れて行かれると思ったのは自分でなくて私カイ?(ー_ー)!!」と思いましたが・・
私は好奇心で、外を見ようと祖母から離れて廊下に行こうとしたのですが、祖母が「あんたはダメ!連れていかれる!ばあちゃんが見る」と窓の外を覗いて「あ〜!!まだおる!」と。私が「ばーちゃん。何がおると?」と聞くと「UFOたい!!」と。エエ〜ッUFO??と「私も見たか〜(*_*)!!」と言っても「ダメたい!!」と。私が言う事を聞かないのでまた祖母は私をギュッと抱きしめて「ばあちゃんがおるけん大丈夫!!」とブルブル震えていました。
どれくらい時間が経過したか憶えていませんが、しばらくするとギューイーンという音と共にオレンジの光はなくなり、外は静かにいつもの真っ暗な状態に戻りました。外が静かになったとたん私は急に怖くなってワンワン泣いて祖母と一緒に寝ました。
朝、起きてやっぱり夢だったのかな?と祖母と二人で外にでると、家の前の川の上、原っぱのようになっている場所が丸く焦げていました。??
そしたら、近所の伯父さんが「夕べ、何か来とったバイ!!ビックリした!!」と。 やっぱり夢じゃなかったと、ば〜ちゃんはその後、近所の人とUFO話を長々としていました。
この体験から祖母は100%UFOの存在を信じていたのですが、でも・・
私が「UFOには宇宙人が乗っとるとやろ?(@_@)」と聞いた時に
祖母は「違うた〜い。じいちゃんやご先祖様が乗っとんなると(^・^)」
と、訳のわからない回答をしてくれました。??????(@_@;)
ただ・・この頃のパワースポットブームで知ったのですが、岡原の黒原山はUFOの出現ポイントとして超有名との事で・・エエエエ〜ッ???と。
信じるか信じないかは皆様次第です<m(__)m>(何処かで聞いたような・・)
でも、私、今でも、じいちゃんの乗った空飛ぶ船?は(この頃は祖母も同席?)よく見ます(^O^)/。あっ!!Mさんのご両親もよく見るそうでこの間は空飛ぶ船?の話題で盛り上がりました(^・^)???

わあ〜今日は朝から長々とすいませんでした<m(__)m>

フェニキア人 → 宗教と締めくくるハズが 何故か → 未知との遭遇

申し訳ありませんでした。<m(__)m>






[39]白石さんからのコメント(2013年10月20日 09時48分36秒 ) パスワード

おはようございます。

藤原景綱の子・忠清 景家 他
忠清の子・景清   つまり 景家は 景清のおじさん

なので 景清姫が こられた時 もしも 景家に子供がいたら ついてきていたかも・・・? と思い 前に コメントさせていただいたのでした。

昔は 系図にのらない 子供も たくさん いたみたいですし・・・

この人達は
伊勢の 渡会の 古市庄に いたようですね。

妙見宮 などの 言葉も でるみたいです。
そして 
渡会の地が 中村の 地で
渡会の外宮の 月読の宮に イザナギ・いざなみが まつられている と 前に本で見ました。

人の名前が 混乱するので 今はっきり 覚えていたのに、書いているうちに忘れてしまうから、忘れないうちに 書こうと思って いそいで 書いたので、そっけなくなりましたね。

吾妻鏡
うふふ 私も古文は苦手です。どちらかというと 理系。なので、私もやさしい入門書みたいなのを見つけて目を通してみました。

が やはり 
詳しく書いてあるほうがいいかなあ ・・・ と 一休みです。

何せ この間から 読まなければならない本が いろいろ出てきて^^
古代・・・も 少しは読み進むことが出来ましたが、未消化。自慢にもなりませんね。気合をいれて 読んでいます。

お昼ごはんの用意をします。
夫は 朝 5時ごろ朝食。
昼は11時頃。
夜は 4時45分頃から 8時くらいまで 
ゴルフにも どこへも 行かないから 家でお殿様です。

鉛筆画は 達者になって きました。
[40]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月20日 11時02分09秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>吾妻鏡の中に良峯氏系譜というのがあるとの情報を見たので頑張ったのですが、
 
系譜そのものは掲載されていないだろう。
興味があれば、下記URLで全文検索が可能だが漢文の素養が必須。
http://base1.nijl.ac.jp/~anthologyfulltext/
 
他にも同様のサイトがあり全文検索が可能なものが沢山ある。
重要な情報は、ネットのヨタ話満載のガラクタ情報ではたどり着けなくても容易に到達することがある。
とにかく孫引きで無く、原典情報入手が重要。
昔は国会図書館の特別閲覧室でしか閲覧不可の書籍の多くがネットで閲覧できる時代になったので、日夜頑張って下さい。
またGoogleブック(タブレットでもPCでも良い)の無料本なども入手困難や絶版本が沢山あるから、タブレット(Nexus7など)購入費用などはあっという間に元が取れますよ。(一例として家紋集の古書「見聞諸家紋」など)
[41]白石さんからのコメント(2013年10月20日 11時36分10秒 ) パスワード

ヤマトタケルが古市まで来て、亡くなったというのは 大阪の古市か知らん?と思いますが、伊勢にもあるのですね。

中村の地でうまれるのが 秀吉。又 額田のあたりで生まれるのが 家康。やはり信長も 名古屋で生まれているのですね。そして 彼等は 平氏だった。(家康は平氏では武家の棟梁になれないと、近衛に教えてもらって源を名乗った。)

信長については 他にもあるみたいだけど、
那古谷橘次頼時は三島市那古谷で文覚上人が配流された所。一巻治承四年八月二十日
と 吾妻鏡に 那古谷がでて、橘次がいて あれっと 思いました。
有名人のオンパレードの地ですね。

前に書いた スレッドのところ
http://hikoshima.com/bbs/heike/100154.html
3に松田の言葉があり、目を引きました。私の知っている松田さんは天草の出身ですが・・・
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[42]子孫よりさんからのコメント(2013年10月20日 15時42分41秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様・白石様 こんにちは。

日本の苗字七千傑様、古典選集本文データベース教えて頂いてありがとうございます。
早速、検索を行ってみます。Googleブックも早速チャレンジしてみます。
普通にネット検索していても、読みたい内容に行きつくまでに時間がかかったり、又は、何も見つからなかったりで、困っていたのですが、とても助かりました。頑張ってみます。(漢文は・・苦手かな(@_@)でも、頑張ります(^O^)/)

白石様。やっぱり、何かの能力をお持ちのようです。(@_@)
今まで、私が書き込んできた内容以外に実は、お伝えしていなかった事があるのです。(@_@) それは・・
父の弟(伯父)ですが。伯父は、穐岡家に婿養子に行ったのですけど・・
穐岡は多良木で写真館をしていたのですが屋号が伊藤写真館。
祖母に、なんで伊藤なの?と聞いたら、「昔は伊藤という名前だったから」という事でした。そう言えば、親戚も、多良木の人も皆さん伯父の家を「伊藤さん」と呼びます。
そして、伯父が婿養子に行ったきっかけは、伊藤の亡くなった先代(叔母のお父さん)が、叔母の結婚相手には、ぜひ、宮原の息子さんをと言って来られたとの事で・・。お見合い結婚です。

伊藤の先代・おじいちゃんは、それはそれは威厳がありました。そうですね、平川の亡くなった伯父(祖母の兄さん)みたいな、何か凛とした空気をまとっているような・・。だから、子供の頃遊びに行くと、子供なりに緊張して、おりこうさんの振り(^^ゞをしていたのを憶えています。
でも、伊藤の先代・おじいちゃんは(いつも伊藤のおじいちゃんと呼んでいたのでこう呼ばせて頂きます)明治生まれの方ですが、何と、戦前にアメリカに留学していて、写真技術を学んだという事で、球磨では有名だったそうです。
以前父から、伊藤は”藤原と菅原の末裔よ”と聞いた事があるので、多分婚姻関係でそうなったのかな?と今は思います。

父の弟(伯父)の名前を一文字取って私の名前は付けられました。
子供の頃は、「おとうさん、もう単純に・・」と思った事もあるのですが(お父さんごめんなさい)、祖母から父・伯父の名前の由来を聞いてからは、(以前お話致しました<m(__)m>)「ううん!そうなのか(^'^)」と思うようになりました。
でも、父はいつも「伯父さんのように心が優しい人になってもらいたいから、名前を一文字取って、お前につけたとよ」と言っています。
兄弟はいいですね。(^◇^)
でも、親戚の集まりなどで、私が無意識?に人を笑わすと「おっちょこちょいで、ひょうげる(球磨弁)ところは伯父さんそっくりタイ」と言われます。
伯父はとてもおおらかで、明るく、人の心を和ませる能力?を持った人で私は大好きです。
少しでも似ていると言われると、それはとても嬉しい事です。

ううん??やっぱり、その系(おっちょこちょい)は宮原か平川にあったのですね。アレレッ!!・・・誰だ誰だ???
私は、日下部(岩切)かと若干思っていたのですが、ここまで書いたら核心しました。
父の顔は、多分、宮原の祖父と平川家のハーフ?ですが、伯父はこの頃亡くなった祖母にそっくりで(きっとカツラをかぶったらばあちゃま)。でも、祖母はおっちょこちょいで人を笑わすタイプではないので、これはこれは・・平川の先祖の可能性が高いぞ〜!!

きっと凛としているのに、人を笑わす?ような・・・

あ〜また雑談が過ぎました。<m(__)m>
さっそく、調査開始(^O^)/


[43]白石さんからのコメント(2013年10月20日 22時20分47秒 ) パスワード

こんばんは
仏教のことを考えていました。

鳩摩羅什
350年 インドの名門貴族出身でカシミール[3]生まれの鳩摩炎(英語版)(サンスクリット:Kumārāyana)を父に、亀茲国王の妹のジーヴァカ(サンスクリット:Jīva)を母として亀茲国に生まれる。

(父)インド人  |
(母)亀茲国王女|ー 鳩摩羅什 鳩摩羅什の優れた訳経のおかげで大乗仏教は東アジアに広まり、それはやがて遥か東の日本にも伝来する。

シャキー族のお釈迦様
サカ サカイ
烏孫国の条「本(もと)は塞の地なり
「塞」の発音について、『漢書』張騫伝の顔師古の注では、「即ち仏経の謂う所の釈種とは、“塞”,“釈”の声(発音)が近く、本は一姓と聞く。」とあり、唐の顔師古は★★塞族と釈迦(シャーキャ)族がもとは同じ民族であった★★としている。サカ人や塞人の起源がインド北西部にあることから、考慮に値する説と言える。

当時のインドの状況は紀元前3000年ごろ北部のインダス河流域に栄えたインダス文明が滅び、同1200年ごろからイラン方面からアフガニスタンを経由して遊牧民のアーリア人が侵入、北部を東西に流れるインダス川とは別に北部から南北に流れるガンジス川流域に勢力を伸ばしました。アーリア人は背後にヒマラヤ、チベット山脈を背負ったこの豊かな土地に農耕民として定着、展開し各地に都市国家を作りました。
 先住の★★ドラヴィダ人★★は追われましたが、山岳部の伝統的部族に対してインドに来たアーリア人は武力的支配より同化策をとり、このため小さな釈迦のシャーキャー族は国として存在を許されていたものの、当時大国だったコーサラ国、マガダ国にはさまれ、何時滅ぼされるか分からない状況にありました。

※ ドラビダ族は 3000年位前に 日本出雲に住むようになって、子孫の人もおられ、古出雲族といっておられる。天孫族より はやく いたとのことで、コーサラ国
後に新羅になっていく 金首露王の后・ アウド国の女【許氏】で、【許】がアウド国の別名コーサラを指します。

マガダ国は 善財王の話が 熊野の伝説にもあり 、平家の落人の五家荘の五本の矢伝説と同じ。

平時子の星祭 平家とインド 仏教 神仏習合 光明子(光明皇后)がとても美しく インドの人が 自分たちの一族から 出た 姫(というのかな)だ と 尋ねてきて 11面観音を つくった という話(法華寺)・・・昔見た本では一族の中から出たと書いてありました。今法華寺を検索したら 少し内容がちがいますね。
なんにしても 光明子は 藤原不比等と橘三千代の子供で 三千代も 絶世の美女といい、光明子も 光り輝く女性だったといわれたそうです。

とても 美人の家系みたい という 話です。そして 伊藤は 藤原。はるか昔からのつながり?宮原家も 伊藤も 源平の頃には きていた とすれば・・・そして 地域では 上層部だった 家 どおしで 通婚してきた と すれば・・・

亀茲国 新疆ウイグル クチャ 庫車 大月氏 クシャーナ朝 小月氏 チュルク 「羯族」および「:zh:羯」 羯鼓(伊勢に羯鼓踊りがあり、又 宮内庁楽部の演奏では、羯鼓の奏者のみが、演奏の開始前と開始後に礼をする。

球磨 人吉 などでは 太鼓踊りをして それは 源平の戦いを表しているというが、伊勢の羯鼓踊りに 似ているみたい。

又 球磨の彩物舞(神楽)は 出雲の佐田神社にも つながっていて、ここらもゆっくり 考えてみたいところです。
 
[44]白石さんからのコメント(2013年10月20日 22時28分02秒 ) パスワード

ごめんなさい
コーサラ国 は 段を変えて考えてください。
シャーキー と まぎらわしいですね。

上層部とは 武家社会で 藩主だとかでなく
違う意識で 一般と違う という。

[45]子孫よりさんからのコメント(2013年10月20日 23時49分41秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
早速、Googleブックで検索して全文は表示されていないのですが、こんな文面を見つけました。
では
中世九州相良氏関係文書集

一一五某下文(未池文辞し(参考口艮娑姓平河氏先祀書(午河文吉し午城
天王臼丁桓武天王ノ係ト士立、御子雨四 ... 四位雨少特宗貞郎戎方、御母七郎荒田寺
別営依高、御子有智山寺姓立之吏仁平元群十月十八日卯時桂立三年久さ万年移ル、

あのあのここに!!四位雨少特宗貞郎戎方  何だか漢字が解らないのですが”宗貞”という文字がなんとなく見えるのですが???\(◎o◎)/!
そして、”移”という文字も・・・

えっ!宗貞公の末裔は”丹羽氏”ではないのでしょうか??あれれっ?
そして、御母七郎荒田寺とは?

他に 変貌する須恵村から
平城天王御子大納言正三位良蜂朝臣安世任武蔵守棹武天王ノ孫長岡ノ御子良峯蔵人頭宗^ 0 四位-肉少将宗處トモ云、御子! :九郎義方、御母七郎荒田寺別当依高

ここにも”宗處”これは宗なに?と読むのでしょうか?
こちらは、多分、原文をスキャンして、データ化した時に文字が化けている所が沢山あるようで・・・

でも!!かっ漢字が解りません(*_*) がっ頑張ります(*_*)

ところで、忘れていけない事を今頃思い出しました\(◎o◎)/!
定かではないのですが、須恵か深田!「変貌する須恵村」という本の題名を見て、あっ!!と。
祖母から聞いた事がありました。
今度、平川の伯父にしっかり聞きますが、以前祖母から「ばあちゃんとこは昔は昔は○○やったとよ」と。この○○が思い出せずに多分、須恵か深田?と言ったと思います。地名がよく解らなかったのですが、中学の時に駅伝で球磨川の横を走った事があって、その時、あ〜あの辺ねと思った事だけを憶えていて・・ 多分、昔昔とは何百年か前の事かと・・・
で、その後今の場所に移って、その時お寺さんも一緒に来られたと言ってたような。でも、その後、お寺さんは免田に移ったと。 その時にとても大事な事だと思わずに「ふんふん・・」といい加減に聞いていた事を今頃後悔しています。
大王神社は錦町で、木上も錦町だから、ネットで見ていても思いだせなかったのかな?
前にもお話ししたと思いますが、祖母の平川の親戚は殆どが多良木なので、今まで記憶の隅に隠れていたのかもしれません。

さて、本題に戻りますが、なぜなぜ、ここにきて良峯宗貞公の名前が登場したのか?? 

それに、漢字が難読で(*_*) でも、頑張ります。
どうか、皆様ご教示をよろしくお願い致します。<m(__)m>
私は、続けて 御母七郎荒田寺 この言葉を調査します。(^O^)/
[46]白石さんからのコメント(2013年10月21日 05時50分22秒 ) パスワード

おはようございます。
子孫様 教えてくださいませ。やり方を。

>早速、Googleブックで検索

この間 7000傑様に教えていただいたところを開けて 検索してみるのですが、さがしているものがみつかりません と 出るのです。

上のブックとは
http://base1.nijl.ac.jp/~anthologyfulltext/ のところでしょうか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 >四位雨少特宗貞郎戎方
私 まったく わかりません。
わたくしには よんみ うしょう とくそう むねさだ と 見えるのですが・・・

とくそう → 北條 → 人吉の 大村?人吉駅あたり に 北條が 来ているはず・・・

と そっちに 頭がいってしまいました。

そのあたりに 菊池の文書が あって
菊池は 滅びたのでなく 相良の家老になっているとか

不比等の子供は 4人でなく 総勢 12人だとか
そんな 記憶があります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
鹿児島県伊佐市菱刈荒田
七郎荒田寺
私も見てみたいと思って 検索をかけたら 鹿児島の住所が荒田で引っかかって でてきました。
伊佐は 伊佐平治 の 出身地。橘女子と で 霧島神宮?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
毛野氏と荒田で検索をかけると 
上毛野氏 - Wikipedia

上毛野氏

概要-出自-伝承-日本書紀

日本書紀』には豊城入彦命に始まる氏族伝承が記載されており、上毛野氏以外にも 伝承を共有する諸氏族がある。本項では、 .... 応神天皇15年、★荒田別・巫別(かんなぎ わけ:鹿我別と同一人物とされる)が百済に派遣され、王仁を連れ帰った。 仁徳...

荒田別 - Wikipedia

事績-後裔氏族-考証-脚注

続日本紀』延暦9年(790年)7月の津連真道らの上表においても、上毛野氏遠祖の★荒田 別の百済派遣の旨がみえる。 『新撰姓氏録』の記載から、上毛野田道の父であるとされ る。『日本書紀』に田道は竹葉瀬の弟である旨があり、竹葉瀬も荒田別の子とされる。

毛野氏考

Cこの流れから藤原不比等の母とされる車持国子娘与志古が出たという説あり。 D車 持君は上毛野国が出自。真壁郡辺りか。 車評(くるまこうり)から群馬郡。 <上毛野氏 >. 2−6−1)上毛野竹葉瀬(たきはせ). @父:荒田別 母:不明.

下毛野氏 - 日本の苗字7000傑

姓氏類別大観. 【上毛野氏/下毛野氏】 崇神天皇は全国に四道将軍を派遣したが、 治安の悪い東国には長皇子の豊城入彦命を上毛野に常駐させる。 ... 上記の他【大綱氏 】が賀表真稚命の裔、【佐自努氏】【広来津氏】【聟木氏】が★大荒田別命の裔、 【珍氏】【 葛原 ...
[47]子孫よりさんからのコメント(2013年10月21日 05時53分37秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

白石様、”ドラビダ族は 3000年位前に 日本出雲に住むようになって”
すごいです。3000年位前とは。

縄文時代は、すでに国内で(出雲)では発達した国家が形成されていた可能性があるという事ですね。
新羅の形成にも関係しているとは。

縄文時代の歴史は本当に面白いです。(^O^)/
また、ご教示をよろしくお願い致します。

ところで、私の進展状況ですが・・・
御母七郎荒田寺別当依高・・・・荒田寺がなかなか・・荒田神社は色々な地域にあるのですが、お寺となると・・・
でも、
有智山寺は解りました。
http://www.kobe-service.net/~tabinikki/data/fukuoka/uchiyamaderaato_shiseki.html

大宰府において非常に重要な役割をになったお寺でした。

平川(良峯)の先祖が、球磨に来られる前について、自分で解っていたのは山本庄までで、その先は??と思い、どう京都に繋がるのか知りたくなったのですが、昨日もお伝えしたように、何故が良峯宗貞公のお名前が出て来て・・

まだ、何も解らない状態なので、うかつには言えませんが、私が、何故か、不思議と今昔物語にこだわってしまったのは、もしか・もしかしたら、宗貞公に関係していたからかも、と・・
いや(ー_ー)!!そんな事はどうでもいいので(ー_ー)!!またまた、目標が出来ました。

調査開始(^O^)/ あっ・・・仕事でした。(*_*)
行って来ます。(^O^)/
[48]白石さんからのコメント(2013年10月21日 06時07分59秒 ) パスワード

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/kenu1g.htm
毛野氏族概覧
豊城入彦命、八綱田命、★彦狭島命の初期三代は未だ東国に到らず・・・
毛野氏族の実際の系譜は、★三輪氏族を含む★海神族の東国分岐とみられる。
・・・★磯城県主の一族から出て、初期天皇家(大王家)と密接な姻族として一時的に王位を預かった孝安天皇の流れを汲んで準王族の扱いであったものと推される。
・・・御諸別命より以前の系譜は難解であるが、三輪君一族との同質性がかなり濃く見られる。
・・・奈良朝後期からは旧姓★田辺史であった上毛野氏が外記局の官人として見える。
・・・平安中期以降に関東に大きな勢力となった藤原北家★魚名後裔を称する下野出身の★藤原秀郷の流れの諸氏、及び藤原★道兼後裔と称する下野・常陸の守護宇都宮・八田一族は、実際には毛野族裔ではないかとみられる。
・・・上毛野★坂本君(坂本−上州人)、上毛野坂本朝臣(録・左京)
・・・★朝倉君
・・・★大野君、大野朝臣(録・右京。大野−下野国人)
・・・★飛鳥部造、飛鳥部宿祢(浅井−常陸人)
・・・毛野の畿内系統に密接に関連しつつ東国に居住したものがあり、下野の大族★宇都宮一族や常陸の★八田(小田)一族があげられよう。
・・・ また、同じく真壁郡★伊佐庄に起って陸奥国伊達・信夫郡で大いに発展した★伊達一族は、藤原北家★山蔭流と称し室町期には源姓も称したが、実際には車持公(あるいは辛矢田部君か)の流れではないかと推される。あるいは、宇都宮もそのどちらかの姓氏であったことも考えられる。

全文あげると ごちゃごちゃするので 割愛。
今までの 話の オンパレードで
毛野氏とは 毛人(アイヌ)と 覚えているのですが、
球磨アイヌと アイヌ
葦北の日羅
葦北は坂本という地名
百済の日羅の地縁で 良峯は 下向した
大荒田は 平川に つながった

田辺史は
不比等は壬申の乱の後 山科の 田辺史大隅の家にかくまわれた。

百済王敬福:

七壬辰朔条に、★河内国飛鳥戸郡人田辺史ふびととしているけれども、一方、姓氏録右京 諸蕃上にも★田辺史を載せ、★漢王の後とする。彼此、混 ... なる者の名が見えるが、田辺 さてこの出羽方面の鎮撫,経略にも百済王氏をはじめ帰化人系が寄与しているのである 。
[49]子孫よりさんからのコメント(2013年10月21日 06時34分32秒 ) パスワード

またまた登場です。
白石様、Googleブックは検索サイトGoogleの機能の一つで、いつも使っていらっしゃる検索用のサイト(ヤフーやGoogle)で”Googleブック”と入力したら出てきますよ。(^O^)/

そして
四位雨少特宗貞郎戎方   ですが
昨日、宗貞公について調べていた所、役職?名だったのが解ったのですが、今、何処からその情報を得たのか見ていたのですが、解らなくなってしまいました。(*_*)
リンクしようとして他のページを閉じている時に、思わず必要なページも閉じてしまい・・。
あ〜こうなるから、白石様から伺っていたように必要な情報は必ず点で繋げる事をしなければいけないのですね(*_*)

仕事から帰ったらもう一度、確認します。
とにかく
四位雨少特  と  良峯蔵人頭宗^ 0 四位-肉少将(こっちは文字が化けています)
は良峯宗貞公の役職(こう呼んでいいのかな?)であったのは確認しています。(^−^)

では、行ってきます(^O^)/




[50]白石さんからのコメント(2013年10月21日 19時19分50秒 ) パスワード

子孫様 出来ました!!ありがとうございます。

そして 
宗貞公の役職名のこと そうでしたか。
さすがです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ところで
私の 予知夢の話 前に 自分の身に関わる時 見るとお話しました。
そして
今の職場に移るとき 夢で
猫の目のような人がじっと私を見ていて、ふっと 自分の後ろを見たら 石川五右衛門のような人があとを歩いているので ぞっとして目が覚めた。 という話。

今度 その 五右衛門は やめさせられました。
不気味な人でした。そして 職場に三人いるのですが、上司(男) 男 女(私)。
上司が 注意したら 逆切れして 首を絞めてきたとのことで(私はその場にいなかったのだけど) 正当防衛で 文房具で思わず ほほの辺りを傷つけたら、裁判を起こすと  50万円で和解していい と いうんだって。
あきれる。

前から 
セクハラ パワハラの 常習犯のような人で、私が着替えている時(部屋がひとつしかなく、鍵もないの) 用事もないのに 3回も4回も 部屋に入ってきたり、上司がいいよ といっているのに 出しゃばって 出てきて、さも 大事にしてしまう。
目を見たら 黄色くぎらぎら光って、自分の言うことが通らないと 部屋の戸をダンダンっと 叩いて 恐ろしかったです。

でも 夢では ぞっとはしたけど、大丈夫 と 猫の目の人の 気?が していたので、ずっと 大丈夫と 思って 仕事していました。

良かった!!

脱線しましたね。−−m







[51]子孫よりさんからのコメント(2013年10月21日 20時12分14秒 ) パスワード

こんばんは(^・^)

白石様、その人辞めて、本当に良かったですね。

お話を伺う限り、とても正常な感じはしません。
白石様に予知夢を見せてくれた方は、多分ご先祖様ですよ。

危険を事前に教えて下さったのだと思います。

そういう人は人に恐怖を与えるような行為をしていても、(ドアを叩いたり)それによって自分のストレスを解放しているわけで、側にいる人は本当にたまったもんじゃないですよね。

でも、白石様に危害が及ばなくて良かった(*_*)


Googleブックは、本当に便利でした。
これからは、又一つ私も楽しみが出来ました。(^O^)/

日本の苗字七千傑様に感謝しています。<m(__)m>

さあ(^O^)/これから、調査調査(^^ゞ
がんばります。
[52]白石さんからのコメント(2013年10月21日 21時43分51秒 ) パスワード

こんばんは
本当に 五右衛門に私も注意しなくて良かった と つくづく 思います。
どんなことに なっていたか・・・

コップを洗う流しで 作業服を洗って 部屋に干すから 水溜りが出来て 着替える時 気持ち悪かったのですよ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今夜は気持ちを入れ替えて お勉強 お勉強。

ひとつ わあーっと いうのが ありました。
いっぱい ひろって 頭が整理しきれないけど、
とりあえず のせてみますね。

平川義高公につながるのか 別なのか 私には不明ですが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E8%AC%8E%E3%81%AE%E5%A4%9A%E3%81%84%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%9C%9F%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E3%80%80%E4%BA%8C%E3%83%8E%E5%AE%AE%E5%AE%AE%E5%8F%B8%E3%80%80%E5%8E%9F%E5%A4%A7%E5%A4%AB%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%A6%9A%E6%9B%B8.html

謎の多い南北朝期以前の 二ノ宮宮司 原大夫系統についての覚書

爾波縣君(大荒田命)と 婚籍関係により融合した尾張丹羽氏 とか
多縣神社の祭神とゆかりの深い荒田塚。山ノ神と刻銘した石碑 とか
爾波神社は神武天皇の次郎・神八井耳命をまつる。      とか
大縣(おおあがた)神社は 爾波氏(後の丹羽氏)の氏神であると言う。

多縣神社・大縣神社は前に書きましたね。


良峯氏の子孫 原大夫高春は、南北朝の頃 熱田大宮司 千秋(ちあき)一族と共に、南朝側に属した。
※この千秋というのが 熱田神宮へ藤原南家から 入り婿した人と大宮司の娘との間に源頼朝をつくり、入り婿した人と大宮司娘の子孫が 千秋氏。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宗貞公の子供 倉橋玄理
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-yos-maeno1.html
【前野氏系図1】
郡司 良峯氏家系図        子                 子
良峯惟光(ヨシミネ コレミツ)−○−孫の 季高ーー高成( 東国 上総権介 ーー高
(平安時代以来の郡司級豪族   (郡司) 平 広常の妹を妻にし、   春
                     大縣神社 大宮司となる。
                     生まれた娘は、平 忠盛
                     の妻となり、平家と親戚関係
                     を築いていた。)
高春は
二ノ宮大宮司であり、原大夫と名乗った。寿永2(1183)年平家は、木曾義仲に追われ、京都から撤退。平家筋ではありましたが、源氏に加勢。鎌倉将軍より所領は安堵された。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
美濃の河田氏と川並衆 - Ucom.ne.jp
wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/minokawada1.htm‎
利定は、信長死後は豊臣秀吉に属したものの衝突して放浪、天正十八年(1600)には徳川家康に召されて、以後徳川氏に仕え、 .... 前野氏や稲田氏は古代の丹羽郡に繁衍した丹羽臣・椋橋宿祢一族の末裔であり、のちに★良峰朝臣とか★橘朝臣とかを称しますが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/kodai%20owari%20sikinai%20jinja.html
古代 尾張 春日部、★丹羽、★山田郡に於ける 式内社等の覚書には

良峯高光の名が。 上の郡司良峯氏系図に高 が ついているので、この人はここらの枝分かれか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
稲木神社が 前に書いた 大阪茨木の 「牟礼神社」祭神と・大中津彦命と きょうだい。

稲木神社は 神迎えの火をたく。出雲佐田神社も火をたく。

大中津彦命は ★ヤマトタケルのおじ。

稲木神社 - Wikipedia

概略-祭神-文化財-所在地

一説によると古代の氏族の稲木別が、祖先の大中津日子命を祀り創建したという。 ... 江戸時代、尾張藩国学者★天野信景の調査により、式内社の稲木神社は丹羽郡寄木村 の「天道宮」であることが判明する。


大中津日子命は、山辺之別・三枝之別・稲木之別・阿太之別・尾張国の三野別・吉備の石无別・許呂母之別・高巣鹿之別・★飛鳥君・牟礼之別等の祖。

大中津彦命 ヤマトタケル 稲木別 天道宮なども 前に書きましたね。
[53]子孫よりさんからのコメント(2013年10月22日 01時01分56秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
というか夜中です。
今まで、色々見ていましたが、収穫は今一つ(*_*)

一応このような文面を見つけました。
良峯安則公について
永吉荘と平河氏嫌倉将軍家領たる永吉荘地頭職平河師高は、良峯安世〖梪武天皇皇子、延暦二十一年(八 0 二)に良峯朝臣の姓をえて臣籍に入る)の末孫で、良峯四郎安則の代に、菊池経頼をたよって肥後国山本郡(鹿本郡植木町山本.楠原附近)に住んでいた ...
だいぶ文字化けしていますが
問題は”末孫で、良峯四郎安則”  良峯安世公の末孫

第四代安則の時、菊池氏三代柽頼を頼り、肥後北部の山本郡に下向り ...
といった文面が他にあり・・

まとめると
良峯安世公の末孫、良峯四郎安則公は菊池経頼をたよって肥後国山本郡に下向した 。
となる訳です。
では、良峯四郎安則公 → 父?? → 祖父 良峯安世公
父は誰??と(?_?)

良峯氏の系譜の中に安則公の名前はありません(*_*)
でも、昨日見つけた文章には宗貞公の名前があり・・・・・?
そして”第四代安則”とはどういう意味なのかが解らず・・・?

でも、推理すると・・もし、宗貞公が関係するのであれば・・
昨日の宗貞公に関しての文書は役職(表現がすいません)が載っていた。
と言う事は遍昭となる前・・??

ただ、ここまで、だったら今までと何も変わりません。(*_*)
”何処かの地から山本郡に下向” 止まりです。

有智山寺は師高公が球磨(人吉)に有智山の寺を創建したとの記述があったので多分その事だと思います。と言う事は有智山寺を手掛かりにする事も出来ないようで・・・

あ〜(*_*)  でも、宮原の先祖が解った時のように、絶対にくじけずに頑張ってみます。
地道に古典の文献の原本を読む方に切り替えたほうがいいみたいです。
(漢字が(*_*) いやいやそうは言ってられません(ー_ー)!!)
頑張ってみます。



[54]子孫よりさんからのコメント(2013年10月22日 11時13分32秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
今日は、またまた振り替え休日です。
今の仕事についてから、それまでが嘘のように自分の時間が持てるようになりました。(^−^)

すいません。(*_*)
私、漢字の意味を勘違いしていました。<m(__)m>

末孫とは ”遠い子孫。後裔(こうえい)。まっそん。”
あ〜知らないとは情けない。(*_*)
笑わないで下さいね(*_*)

でも、これで迷宮から抜け出せます。
そして、今まで皆様からご教示頂いた事を思い出して・・特に名前については一つでは無かったですよね。母方の姓を名乗る場合もあるし、様々ですから固定観念にとらわれず、がんばってみます。(^^ゞ
母方と言えば、○○の息子という系譜ばかりで、女子の名前が入った物は殆どありません。仕方ないと言えばそれまでですが、何かそこにあるのではと・・

頭を柔軟にして調査開始です。(^O^)/
[55]子孫よりさんからのコメント(2013年10月22日 14時16分26秒 ) パスワード

(ー_ー)!!(ー_ー)!!(*_*)

今、Googleブックで群書系図部集を見つけてワクワクしながら画面をず〜っと見続けてやっと良峯安世系まで到達し、やった〜と見ていたらなんとなんと(*_*)系譜の線はまだ続いていたのに(ここが113ページ目でした)次のページから突然飛んで141ページ!! 飛んでしまっているページは”書籍のプレビューでは見れません”となっていて、本当にガックリきました(*_*)

なんでなんで???私が一番みたいページだけ消えているのか(*_*)
約2時間かけてここまで到達したのに(*_*)もう信じられません(*_*)

まるで、見てはいけないものように(>_<)

くっそ〜!!(言葉使いが荒れています。汚い言葉ですいません。が!こんな気持ちです。(>_<))

え〜い!負けないぞ〜!! 頑張ります。(目が真っ赤です(*_*))


[56]子孫よりさんからのコメント(2013年10月22日 14時46分16秒 ) パスワード

面白い?文章をみつけました。

Kusunoki Masashige より
その例は源氏.平氏などに最も多いが、「良峯氏系図」の良峯安世の十二世の孫の高重の条に、高重が後堀河天皇の時に衛府の官に任ぜられる宣下があったところが、良峯姓の衛府に任官した例がないために、橘姓を冒して右衛門尉に任ぜられた記事がある。

良峯姓の衛府に任官した例がないために、橘姓を冒して右衛門尉に任ぜられた

あれれっ!?
十二世の孫 高重 十二世とはおよそ何年なのでしょうか??

でも、こういう事もあるのか・・・と( ..)φメモメモ
あ〜頭が脱線を求めている〜(ー_ー)!!
がんばります。
[57]さなえさんからのコメント(2013年10月22日 15時06分01秒 ) パスワード

子孫さま、白石さまほか・・・
 ときどき見てます、さなえです。横入りごめんなさいね。

ときどき見ている・・・というのも、今の私が、(大きく)九州のこと、知らないし、興味があるということや、以前スレッド{伊賀餅と伊賀忍者の関係}{三河一色の服部氏}?などでコメントさせてもらいましたが・・・
皆様のいろいろのキーワードが、わたしの気になってることとリンクするからかもしれません。

謎だらけ・・・なんだけど、なぜか気になる・・・って感じです。

ちなみに、わたしも自分の先祖に思いをはせるようになるまでは、全く歴史に興味なく、苦手で、古文書なんて読めるはずもない人間です。

けれども、自らの第六感(直感のようなもの)で、先日偶然に主人の母親の母方の住んでいた土地(幕末から大正までは確実に)を、探し出してしまいました(後日古い地図も見つかって・・・)ので・・・、私が一番びっくりしましたところです。私は主人とは先祖の縁で先祖に呼ばれて夫婦になったのだと思っているので(これも直感でまだわからないですが・・・)、主人の先祖であろうが、「供養してほしい。」「わかってほしい。」と思って私に知らせているのならば、私の気の清むようにいたしましょうと、思っているところです。

子孫さまなども・・・、コメント読ませていただきますと、
「なる べく して そうなった」んだよと、思いが湧いてきます。

宗教を私なりに調べましたら・・・
仏教と景教(原始キリスト教)との繋がりから、先人たちの素晴らしい思いを感じましたし、神道とユダヤ教(幕屋)との繋がりにも感心しまして、またロマンを感じているところです。そして何より・・・古いけれども昔から祀られているような神社に出かけますと・・・何故か気持ちいいものです(中には良くない気分の所もあります注意してください)。

変なおばさんのヘンなコメントお許しくださいね。

「生きていくのはつらいことばかりだけれど・・・どうせつらいなら明るく笑って生きたいな」と、最近やっとわかりまして・・・それが、先祖の気持でもあるのかな?がんばろ〜って思ってます。

子孫さまも、先祖様のこといっぱい御調べになって、明るく元気に頑張りましょうね(^^)お互いにd。



[58]子孫よりさんからのコメント(2013年10月22日 21時10分55秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
さなえ様コメントありがとうございます。

私の、経験してきた話を理解していただける方がいらっしゃったと言う事が解って本当にびっくりしました。ありがとうございます。

さなえ様もご先祖の導きを感じていらっしゃったのですね。
ご主人のお母様の先祖の方ゆかりの地を見つけられたとは、すばらしいです。ご先祖様も本当にお喜びになっていらっしゃるでしょうね。(^−^)

私も、知らず知らずに、先祖が関わってきた土地を訪れたり、仕事をしていたりと、今になって思えば縁があった事が解って、先祖に守られている事を本当にありがたいと感謝しています。

このサイトで、自分の経験した事を初めて家族以外の人にお話して・・
そうした事で、逆に冷静受け止める事ができるようになりました。

多分この”感”のようなものは人間誰でも持っているものだと思います。
それが、強く感じるかどうかは、人によって違うのかもしれませんが。

自分自身もこの先は後の世代の先祖になって行くのですから、そう考えると、子供や今後未来に生まれて来る孫でも、とっても大事な宝だと思いますから、
先祖も同じような気持ちだったはずですよね(^−^)

では、これからもどうぞよろしくお願い致します。(^・^)
[59]白石さんからのコメント(2013年10月23日 04時13分55秒 ) パスワード

おはようございます。
といっても 夜の 2時ですね。^^

7000傑様 子孫様 さなえ様 昨日は どんよりした雲が空一面をおおって今にも大雨になりそうでしたが、大丈夫でした。


>自分自身もこの先は後の世代の先祖になって行くのですから、そう考えると、子供や今後未来に生まれて来る孫でも、とっても大事な宝だと思います。

そうですね。命をつなぐこと。大それたことは出来なくても 毎日こつこつと 生きていくこと。だと思います。
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群書系図部集
夕べやっと やりかたに なれたと思って 引き出してみたけど、私の場合 もうちょっと やりかたが 不手際?言葉の検索? まずもって Googleブックで どの本がいいのか が わからない。

何度か やってみなければ 要領が つかめない と 思って います。

私 若い頃 英文タイプを覚えて、会社勤めをした頃、特許カードの整理(昔はパンチカードだった)や 実験をして、結婚してから和文タイプを覚えて内職をして、ワープロを買って パソコンを買って 年いってから マイクロソフト検定2級の内容を教えてもらったけど、もう あまりにも年がいきすぎていて、仕事は 違う内容のものに なりました。

そして
今は もたもたと 書いています。

皆様 あきれないで お調べになったことや どうやったら その 画面を引き出すことが出きるか 教えてくださいね。
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52の稲木神社の神迎えで火をたく 佐田神社も火をたく というところ、日本古代・・・の本で、神魂尊から大国主へ火譲りをした。しかし、祝詞の内容は逆である 云々 という ページがあったのに、消化し切れていないのに コメントの内容に眼を引かれて、どのページだったかわからなくなりました。
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あと 
群書系図部集に、稲木別を探そうと思って そこを見たら 一人の人はかいてあったけど、他の人は 省略してありました。
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四位雨少特
平城天王御子大納言正三位良蜂朝臣安世任武蔵守棹武天王ノ孫長岡ノ御子良峯蔵人頭宗^ 0 四位-肉少将宗處トモ云、御子! :九郎義方、御母七郎荒田寺別当依高

平城天王御子 ・・・安世
平城天王のとき 薬子の変がおき、高岳親王は廃太子になった。

いろいろあって 安世は 桓武天皇の子にされているのかしらん?と だんだん脱線していってます。

青井阿蘇神社は 平城天皇の勅命で建てられているんですね。
市房神宮も 同じ頃 建てられた。

球磨あたりは 平城天皇の影が濃いい。
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52宗貞の子・椋橋玄理の系
http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E8%AC%8E%E3%81%AE%E5%A4%9A%E3%81%84%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%9C%9F%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E3%80%80%E4%BA%8C%E3%83%8E%E5%AE%AE%E5%AE%AE%E5%8F%B8%E3%80%80%E5%8E%9F%E5%A4%A7%E5%A4%AB%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%A6%9A%E6%9B%B8.html
謎の多い南北朝期以前の 二ノ宮宮司 原大夫系統についての覚書前野
高成( 東国 上総権介 平 広常の妹を妻にし、大縣神社 大宮司となる。生まれた娘は、平 忠盛の妻となり、平家と親戚関係を築いていた。)

ウィキで忠盛の妻を検索すると
忠盛の妻 祇園女御の妹、源信雅の娘、
藤原家隆の娘、藤原為忠の娘、
正室:藤原宗子(池禅尼)
祇園女御は、妹の子である平清盛を猶子にしたとされる。

清盛の母は 賀茂氏?

高成の孫娘は 忠盛の妻といっても 名前がのらない人?
忠盛は 京都にいた。

[60]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月23日 21時42分41秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>群書系図部集に、稲木別を探そうと思って そこを見たら 一人の人はかいてあったけど、他の人は 省略してありました。
 
別(ワケ)は和気(ワキ)なり。
垂仁帝裔氏族を探すのが早道。
山辺別、三枝乃別、稲木乃別、三野別、沙本穴太乃別を始め、名前も××別のオンパレード。
垂仁帝裔氏族綱要を参照されたし。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01218f.htm
 
もちろん皇裔に多いから、他の皇胤氏族にも別(ワケ)は多い。
[61]白石さんからのコメント(2013年10月24日 02時17分46秒 ) パスワード

ありがとうございます。
別は和気。そっちに 思いつきませんでした。

子孫様 脱線してすみません。
平川 宮原でしたね。

菊池に 固まって 私の父方に多い苗字があると 思っていましたが、良峯が菊池を頼ってきていたとは 初めて知りました。

平河を名のるのは 木上に来てからだから その前は 良峯で探すのですね。

[62]白石さんからのコメント(2013年10月24日 03時10分55秒 ) パスワード

http://trakl.exblog.jp/page/38/ スクロールして真ん中から少し上あたり 
このブログも この間の 少し オカルトめいた 所と 同じ方のものかしら と思うのだけど、参考になるなあ と 思って 見ています。

紀朝臣系図  女の系で越智氏へ 沖ノ島の娘(宗像三神の一人)と大国主の間の子から加茂氏
(昔のことは いろいろ 説があるけど 神社に伝わる話から)

彦狭島は 毛野氏から 話が出ていた。続き3の48
 
   加茂氏(高鴨神社の祭神味耜高彦根神)の母も沖ノ島の娘
   和氣姫は北九州玄海灘に浮かぶ沖ノ島の海童の娘
       ┌伊豆・・・・・・・・・・・・・・┐三艘の船に乗せれ
   和氣姫 ├吉備・・・・・・・・・・・・・・┤ 海に流される
     ‖──└伊予国和氣郡(越智氏のルーツ)・┘
┌弟 彦狭島命       
└孝元天皇ー彦太忍信命ー屋主忍男命ー武雄心命
                  ‖
                  ‖──武内宿禰(神功皇后の側近として有名)
                  ‖
       紀国造の祖(紀直)菟道彦の娘 影媛(山下影日売)

勉強になります。子孫様 越智への中味
[63]子孫よりさんからのコメント(2013年10月24日 05時15分21秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

実は、昨晩、1時30分頃まで、ある程度、自分で繋ぎ合わせた情報をコメントしようと長い長い(意味がないかもしれないけど)文章を作ってもう一息の所で、何と(*_*)消えてしまいました。(*_*)
決して謎ではありません(*_*)。前に白石様もコメントが消えたと言われていましたが、同じかも。リンクを張ったページを確認して画面を戻したら、ガッガ〜ンです。頭真っ白画面真っ白でした。(*_*)
教訓!ある程度文章をまとめたらちょこちょこアップするべし!!でした(*_*)
多分、おしゃべりの私が沈黙しているので、皆様ご心配されているのではと、早めに起きてのコメントです。(^^ゞ

では、本文はこれから (^O^)/一度アップです!
[64]子孫よりさんからのコメント(2013年10月24日 05時26分45秒 ) パスワード

追記
白石様、宮原・平川に関係する内容だけなんて、私、まっ〜たく思っていません。(^−^)
いろいろ教えて頂いて本当にありがとうございます。

とっても、勉強させて頂いています。
それに・・・

白石様のご教示は、巡り巡って・・・あっ!この話はあの時の\(◎o◎)/!と言う事が今まで何度ありましたか?\(◎o◎)/!
めちゃくちゃ楽しみにさせて頂いております。(^−^)

[65]子孫よりさんからのコメント(2013年10月24日 06時26分55秒 ) パスワード

白石様。実は、一昨日私も二ノ宮宮司 原大夫系統について、気になって来て同じ所を見ていたのですよ\(◎o◎)/!

でも、青井阿蘇神社は 平城天皇の勅命で建てられて市房神宮も同じ頃建てられた。 \(◎o◎)/!これは調べていませんでした。

う〜ん(@_@)前に平川と宮原は繋がりがあると思いますと(感)自分で言っていたのに、ここに来て、自分の調査が最初の感から外れていました。
そうか、その方向も見なくては・・・( ..)φメモメモ

でっ!今朝は、まとめる時間があまりないので、とりあえず、私がここまで調べてきて、どうも気になる(調べたら繋がりが出てきた)人物の名前をあげておきます。

平城天皇・源頼朝・平頼盛・八条院・菊池経頼・藤原 敦信(肥後守・妻→良峯氏)・良峯美村・(修理職(橘 俊綱)・→ ここから先は遡ります 良峯宗貞・在原業平・藤原 保則・藤原 隆家(ここで菊池に繋がっています)

他の方もいらっしゃるのですがとりあえず。
全く関係ないかもしれませんが、何故か気になるのですよね?(@_@)
他にも、あれっ?という方が沢山出て来てもうちょっとまとめなければ。
上記の方々がどう繋がっているのかは朝は時間がないので、夜にコメントさせて頂きます。<m(__)m>

それと長岡・・もちろん良峯安世公が関係されている場所とは重々承知していますが、その後は・・・??やはり気になります。
それと・・良峯美村 この方は今まで何処にも出てこられていなかったので何故と。似た名前で 小野美村(美材)という方が。でも、関係ないとは思うのですが・・なにせ小野小町と良峯宗貞の伝説?もあるので???と・

では、仕事に行ってきます。(^O^)/



[66]さなえさんからのコメント(2013年10月24日 11時31分31秒 ) パスワード

子孫さまへ

私も[63]経験ありますよ。そういう時は・・・「アップする必要がなかったのかしら?」「もう少し整理して、考えよう!」って思います。案外あとで・・・「やっぱりアップしなくてよかった〜」と思い当たったりします(笑)。

私も、自分の先祖のこと調べていると・・・いろいろのキーワードが出てきて・・・絡まったりはなれたり・・・

たとえば、明治の頃・戦国の頃・南北朝の頃・源平の頃・大化の改新の頃・天孫降臨と神話の世界の頃と・・・・

いろいろな時代で、いろいろな先祖と、それぞれに絡みあっていて、それこそ「縦の糸と横の糸」で、繋がっているようで繋がってない・・・

なので、もう少し、各時代ごとに整理されたらどうでしょうか?

偉そうに・・・ごめんなさいね。


ちなみに、私の今気になっていることの一つが「九州から東北までの中央構造線上の聖地と言われる場所と、各時代の偉人(神話の神々・後醍醐天皇と皇子たち・役行者・空海・徳川家康など)たち」です・・・、そこに何故か服部(はとりべ?忍者?)が、各時代で絡まってくるので・・・はてな?ですが・・・きっと支えるような、影のお役目があったのかもですね(笑)。

九州などは、わたしは地理的にわかりませんが・・・天孫降臨の始まりの地、中央構造線も始まりの地、なので重要な土地だと思います。

現在私の住んでいるところも、伊勢神宮あたりから中央構造線上の三河湾から蒲郡市・豊川市・新城市(長篠・大野)・分杭峠・諏訪湖・・・とつづいておりまして、気になるところです。

徳川家康などは、江戸の(風水)結界など有名ですが、こちらの三河地方の聖地(神社・仏閣)など、逸話が数多くありますし・・・、長篠の古戦場あたりも・・・何か結界のようなもの知っていたのかしら・・・?なんて、思ってしまって・・・。絶対この人スゲー霊力もってたんじゃね?なんて、一人でおもってます。

ここまで、また、変な話を書きましたごめんなさい。

でも、私はふつーのおばさんですし、霊感マニアでも、何かの信者でもありません。こんなこと、ほかではなかなか言えないのです。ありがとね。ごめんなさいね。
[68]子孫よりさんからのコメント(2013年10月24日 20時59分26秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^−^)

さなえ様コメントありがとうございます。

中央構造線なのですが、私の実家のある熊本県の球磨郡、球磨川沿岸八代より、芦北(このスレッドで何度か出ました)付近が、四万十地溝帯です。
沖縄まで続いているそうですよ。

あの、実は私、中央構造線とは関係ないですが、実は地層・地質学マニア?なのです。(特別に勉強した訳ではありませんが)
九重高原とかご存じないかもしれませんが、山の地層がはっきりと解り、ゾクゾクします。いつも一緒に出かけるMさんと言う人がいるのですが、初めて九重高原一緒に出かけた時、私が思わず「わぁ〜地層よ地層!!\(~o~)/」と言ったのを見てビックリしていましたが、その後、娘と一緒に同じ場所に3人出かけた時「おかあさん!!地層よ!地層!!\(~o~)/」と娘が喜んだのを見てMさんが「ものすごい遺伝」と言ってびっくりしました。
親の、私もマサカ娘も\(◎o◎)/!と驚きました。
その他、奇岩群など見るともうドキドキ・ワクワクで(^◇^)

多分ですが、どうも私(娘も)は磁気の強い場所に反応するのではないかな?と思います。
さなえ様も同じような反応を示す能力(どう表現すればよいのか?)をお持ちなのではと思います。

役行者・・\(◎o◎)/!祖母がよくこのお名前を出していました。
国東半島の六郷満山でも役行者の由来が沢山残っていますよ。

三河地方は、私の先祖も関係があった地縁の場所だと思います。
これからも、いろいろ伺うと思いますがよろしくお願い致します。(^.^)
[69]白石さんからのコメント(2013年10月25日 00時00分41秒 ) パスワード

こんばんは
前に アラム から 主として 後に サダ 尾方に出る話を書きましたが、インドドラビダ族とマヤ ドラビダ族と巨石 アーリア人の聖火信仰など ネットの表題だけですが、ひろってみました。

古代日本の領土の起源 桜井光堂
p47火継ぎ行為
  大国主の神の出雲における国譲りの儀式に見られる祝詞(古事記)は 櫛の八玉の神(中略)火を切り出でて申しけらく、「この吾が切れる火は高天之原には神産巣日ノ御祖の命の、とだる天の新巣の煤の八拳垂るまで炊き上げ云々」

大国主の命の出雲側が、高天原への新支配権を獲得したことを祝うノリとをあげる。

つまり
タケミカヅチ側は 浜に剣をつき立て 国譲りに勝利したけど、あざむかれたのだと いう。

その後
皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の降臨
後に神武といわれた人の 時代が始まる。

そしてまた 神武は 婿養子の形になり、代がおりていく。

古出雲族の子孫だという人は 奈良時代まで重要な位置を占めていたと 別のスレッドで コメントしておられた。

天穂日命も婿養子となった と。

・・・・・
聖火信仰を統治権力の継承の不可欠的要件とすることは、土着人(倭人)社会の特徴であり、統治権力を掌握した諸国の王が聖火信仰者であることを示すための王族の称号の例はわが古代文献例えば記紀の記すところである。

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ネットの表題より
聖火信仰
インドを知る−宗教2
当時の★アーリヤ人は、供物や犠牲獣を聖火に投じ、天神にささげて福を得るということを行っていました。これは同じくアーリヤ人が侵入したイランのゾロアスター教とも共通する聖火信仰であり、日本の★真言密教の護摩(ごま)祈祷も、アーリヤ人の言語である ...

ヴェレスラグナ信仰
ヴェレスラグナ信仰が最も栄えたのは紀元前ではなく、むしろ紀元後のサーサーン朝においてである。聖火信仰と習合し、「勝利の聖火」として崇められた。 ゾロアスター教のところに書くべきかもしれないが、かつてゾロアスター教の聖火とは供物 ...

ゾロアスター教
紀元前3世紀に成立したアルサケス朝のパルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアフラ・マズダーへの信仰は守られ、3世紀 ... ゾロアスター教の祭司は、白衣をまとい、伝統的な帽子をかぶって、さらに、聖火を汚さぬよう白いマスクをして儀式に臨む。

パールシー
神官団はサンジャーン定住5年にして、使者を陸路イラン高原のホーラサーン州に派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサン ... 父親がゾロアスター教でなければ信徒となれず、女性が異教徒と結婚した場合は、信仰を捨てなければならないからである。

歌舞伎美人 第14回 火焔文様2/5
もともと★火焔文様は、西アジアを期限とする拝火教(ゾロアスター教)の聖火信仰から生まれたとも言われています。その流れがやがてシルクロード沿いに伝わり、仏菩薩の放つ光明をシンボライズするものとして★仏像の光背に取り入れられるようになり、以来、仏教 ..

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[70]白石さんからのコメント(2013年10月25日 00時02分13秒 ) パスワード

アーリア人に占めだされたインドのドラビダ族。
古代出雲族は ドラビダ族。

インドの起源
www.ontrackindia.com/japan/indiaataglace/‎
インダス文明の人々は浅黒い肌をした★ドラビダ族(Dravidian)であり、そのインダス文明社会の豊かさに目を向けたのが、人種では★アーリア人(Aryan)に当たる色白のペルシャ人(Persian)であった。アーリア人はインダス盆地を侵略攻撃し、ドラビダ族を打ち負かし・・・

先住民族ドラヴィダと巨石 | 日本人はどこから来たのか
Teacup6309.teacup.com/kobutu/bbs/431‎
古代インド・ドラヴィタ族による★ダイヤモンドの発見。 インドがダイヤモンドの唯一の産出国。

ドラヴィタ文化の象徴は建物の構造が中国の建造物に似ている。
★マヤ文化と酷似している。

《ドラヴィタ様式》
ドラヴィダと★巨石は繋がりがあります。
石が関わるのがそうです。
支石墓にも石の様子が見られるのが、ドラヴィダの特徴になります。

タミル語とミッシングリンク
南インドの巨石時代と日本の弥生時代は3000年前、同時期に始まり ・・・
[71]子孫よりさんからのコメント(2013年10月25日 01時11分44秒 ) パスワード

白石様、ご教示ありがとうございます。
後ほど、めちゃくちゃ楽しそうな内容で・・・(後ほどゆっくり読ませて頂きます(^O^)/)

ところで、今1時過ぎですが・・(*_*)
私、やっとの思いで、見つけた、”国立国会図書館デジタル化資料”この中に続群書類従(原文)を見つけ、必死に目録を確認して良峯家系譜!!が174巻にある事を探る事が出来てやった!!と見て行ったら・・・
なんと!!(*_*)163巻から196巻まで・・!!飛んでいました。
無かったのです(*_*)国立国会図書館でまで・・ガ〜ン(*_*)

なんでなんで??この前もそうでした私が見たい所だけ、何かの意図でもあるかのように無いのです(*_*) ひどい(*_*)

だからだから、京都から球磨の平河(平川)に繋がる情報が見つからないのでしょうか(*_*)
もう、本当に疑ったら何か隠したい情報でもあるのかと・・(*_*)

でも、色々見ていて良峯の新しいメンバー(ごめんなさい)を見つけました。
ご紹介いたします。(^O^)/

良峯英材 ・・・藤原敦信の妻のお父様です(^O^)/
この方の子供で 良峯美村

球磨の平川とは関係ないかも知れませんが、発見いたしました。
ううん?良峯系譜の中の何処かにいらっしゃるかも。その場合はごめんなさいです。<m(__)m>

では、めげずに頑張ります。(^◇^)
追記・・・
おおおおおおおおおおおおおおお・・・・・・・・おおじい様の良峯安則様へ
私は必ずあなた様をお見つけ致します。   子孫より

[72]子孫よりさんからのコメント(2013年10月25日 06時18分02秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

今朝は昨日、偶然見つけた”続日本後紀から第十八次遣唐使派遣の記録”
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yurusu240/homepage/zokunihonkouki.htm
を読んでいました。

遣唐使・・・学校では単に歴史上の出来事として、○○○年遣唐使派遣といったように学んだような気がします。
でも、この内容を読んだら、どのような困難が遣唐使にあったのかよくわかりました。日本に帰ってこれた人はごくわずか。
役職・家など関係なく、数百人(もしかしたら数千人)の方が犠牲となって、日本に帰れた人々も、とてつもない困難を乗り越えての帰国だったと言う事・・
一行を派遣した国内に残った人達の苦悩(沢山の尊い犠牲を伴ってしまった事)・家族を派遣した人達の不安・・など、教科書には載っていない現実的な事・当時の方の苦労が痛いほどよく解りました。

そして、このサイトでの文章は最後に良峯長松公が大隅に着いたとの内容で終わり日本後紀の編纂に参画した良峯安世公の、父親としての気持ちが伝わってきて、とても切なくなりました。

私は、今まで、当時の父親の気持ちがよく解らなかったのです。(あたりまえですが・・)
現代では考えられない、沢山の奥さんや女性がいて、それぞれに子供が生まれて。系譜やネットでの情報では、何かその関係が淡々としたイメージになってしまっていたのですが、今朝、初めて、母親が違う沢山の子供がいても、其々の子らに父親は愛情を慈しみを持っていたんだな〜と感じてとてもうれしくなりました。

こういう風に歴史を考えると、とても楽しく?なってきました。(^◇^)


[73]白石さんからのコメント(2013年10月25日 22時08分06秒 ) パスワード

舞樂の青海波
太田麿あるいは大戸清上が曲を,★良岑安世が舞を作ったと云われています.盤渉調で作曲されたものが,後に黄鐘調に移調されたと云われています.
舞は寄せる波,引く波を表す振りが多く用いられていて,二人でゆったりと袖を振りながら優美な舞で,★源氏物語の「紅葉賀」の巻に,光源氏と頭中将が帝の前で舞ったと記されています.
又 平家の公達も舞ったといいます。

装束は,甲から足先まで千鳥の文様が施されています.一番上の袍は萌黄顕紋紗六分波形の文様を幾重にも重ねたもので,その上にも千鳥の刺繍が施されています.
正式には「輪台」に続けて舞われるものです.番舞は「敷手」です.
以上ネットより

太刀は螺鈿細工で 
唐楽に属し、天竺にて婆羅門僧正が聞いて伝え、漢の帝都がこれを見て舞曲に伝えたとい­われている。ということです。

又 青海波はチベットの塩水湖に浮かぶ千鳥が遊んでいる様とも、きらきら光る波とも 読んだことがある と 思っているのですが・・・

安世は いろいろ 活躍しているのですね。
[74]子孫よりさんからのコメント(2013年10月25日 22時36分18秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、聖火信仰は、真言密教の護摩(ごま)祈祷に繋がっている。
そうなのですね。
本来の形があってそして日本特有の形に変わってきたと言う事ですね。
今朝、コメントした遣唐使も中国の先進的な技術や仏教の経典等の収集が目的とされたとありました。第十八次遣唐使派遣で空海も唐に渡って、そして、真言宗を開祖したわけで、日本の様々な宗教・文化は古人の大変な努力によって今に伝わっている事を強く感じました。(^・^)

やっぱり歴史を理解する事はとても大事な事ですね。
様々な事に対する感謝の気持ちが湧いてきます。(^−^)

では、明日は休みなので今から、調査調査(^O^)/
がんばります。(^−^)
[75]子孫よりさんからのコメント(2013年10月25日 22時52分59秒 ) パスワード

またまたコメントしています。

白石様!!実は私も舞樂の青海波を興味を持って調べていました。\(◎o◎)/!(^−^)

同じ事に興味を持った\(~o~)/
やっぱり、私と白石様、脳波?が繋がっていると思います。\(~o~)/

個人的な見解なのですが良峯安世は、舞楽に関する仕事が一番楽しかったのではないのかな?って思います。
本当にやりたかった事。
でも、現実にはそれだけではいけなかった訳ですから。

遠い遠いひひひひひひひひ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ひ孫の私の息子も、形は違いますが、様々な舞踊をやっていて、今の世界に入る前は、この子はどうなって行くのだろうと心配してきた時もありますが、舞踊と出会ってからは天職を見つけたように、生き生きとして、本当に不思議なものです。

人間のDNAとは、とてつもない繋がりを持っているのですね。
ちなみに、私は、ディスコには行きましたが、舞踊はダメでした。
(子供の頃に祖母から日舞を習いましたが、自他とも認める程まったく無理でした(ー_ー)!!(ー_ー)!!(^◇^)





[76]白石さんからのコメント(2013年10月26日 02時13分03秒 ) パスワード

そうでした。ご子息もこういう系統がお好きなのでしたね。
やはり 血はあらそえない ということなのか?

>私は、ディスコには行きましたが、舞踊はダメでした。
・・・
私とどこで DNAが 繋がるのでしょうね?
私も 舞踊はダメでした。

子供の頃 近所の人から 教えていただいたことがあるのですが、まずもって腰を落とすところがダメで、 顔がだめで(つい にいーっとなるのです)、2〜3回で 素質なしの烙印をおされました。

ディスコも まるで 興味なしでした。

ピアノを習いましたが、
木を割る手斧で、左人差し指を切り、そちらも アウト。

激しく指を動かすと 痛いのです。
今も 冬になると 痛くなります。

母もおばも あきれていました。

それにしても
青海波の踊り?を 見ていると、ロマンを感じます。
そして
遣唐使 その前の遣隋使
命がけだったのですね?

そして
薩摩に流されてきたという話 海流の関係だったのでしょうか?

昨夜は 
2 松野連姫氏系図の考察 - 新・古代国家論
http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-2/2-1-2.pdf
を 見ていました。
解釈を加えたものはいろいろ 説もあるだろうけど
火の国山門に住む。菊池郡」とあるが、「孝昭三 年」は「皇暦」では「紀元前. 四七三年」に当たる。
と いうことならば、孝昭の 認識だけど、孝昭天皇のときならば すでに わが国には その人が 存在していたということに なりますね。

???です。
[77]白石さんからのコメント(2013年10月26日 03時58分33秒 ) パスワード

雑学
>34舒明天皇はウガヤの真実を知っていた。

ウィキで
良峯安則を検索していたけど 収穫がなく、関連するキーワードをみると、仁子内親王があったので、みると

嵯峨の皇女・母・大原浄子。
大原氏は新撰姓氏録によれば、「出自謚敏達孫百済王也」とある。皇族百済王の子孫。

『日本高僧伝要文抄』所引の「音石山大僧都伝」は平安時代初期の元興寺僧明詮の伝記であるが、その冒頭に「和上諱明詮。俗姓大原氏。左京人。彦人皇子之後也。祖弾正尹従四位下桜井王。天平十一年賜姓為大原氏。」とある。

百済王
敏達天皇の孫。父は押坂彦人大兄皇子と推定

押坂彦人大兄皇子
敏達天皇の第一皇子で、母は広姫。子に舒明天皇、茅渟王

忍坂部や丸子部といった押坂彦人大兄皇子伝来の私領は「皇祖大兄御名入部」と呼ばれ、以後も息子である舒明から孫の中大兄皇子(後の天智天皇)らへと引き継がれて、大化の改新後に国家に返納された(『日本書紀』大化2年3月壬午条)と考えられており、彦人大兄の死後においても、皇子の系統が蘇我氏や上宮王家に対抗して舒明即位から大化の改新の実現を可能にしたのは、こうした財政的裏付けの存在があったからだと言われている。

天智天皇の系が現在に継がれている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
敏達天皇の系には 橘氏もいて
良峯氏の系の 前野系図には 子孫 良峯朝臣 橘朝臣を 名乗るようになった
とあり、

たどれば 同族?と からまりからまりしているかも知れない。
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善峯寺の住所は
京都府京都市西京区大原野小塩町1372

お寺を2〜3キロ下ってきたら 
長岡京の熊谷直実の光明寺

あと一ヶ月ほどで紅葉の季節ですね。その頃に ここらを 回ってみたいものだと思います。きれいですよ。どこもここも。都会でこんなところがあると ホッとします。




 
[78]子孫よりさんからのコメント(2013年10月26日 06時23分32秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
松野連姫氏系図の考察 - 新・古代国家論
とても興味深く読ませて頂きました。
北九州に住んでいるので、良く知っている地名が出て来てびっくりしました。ちなみに、九州の地図で言うと門司から東側の海岸線を苅田・行橋方面に見て頂くと解るのですが、ここを周防灘と言って、こちらでは今でも”企救の海”と呼びます。
企救丘は今ではモノレールの終点駅があります。
開発されて郊外の住宅地ですが、その中に古墳が普通に点在しているのです。私も、ずっと前からここには何かあるな!と思っていたのですが、やはり!でした。それにしても、企救丘・企救の海・・・あれ?菊の紋章??
きく・・キク・・・?そう言えば、単なる噂(ー_ー)!!だと思うのですが、古代では企救丘から私の住んでいる妙見山・足立山・小文字山の麓までの一帯を本当は宇佐と呼んでいたとの話をチラッと聞いた事があるのですが・・。
その時はマタマタ(ー_ー)!!と思ったのですが、松野連姫氏系図の考察 - 新・古代国家論を見て、あれあれ??と。
上記にあげた山々は中腹より少し下に道が通っていて、今はドライブコースやウォーキングコースで有名なのですが、行くとパワーがすごいのです。
すぐ下は小倉の市街地なのに、その喧騒とは逆に、何て言うのだろう、あっ!神社に行くと誰でも何か違う空気に包まれる事は解ると思うのですが、それと同じパワーがあるのです。 うううんん?

やはり、熊襲(狗奴国・球磨国)は古代の日本において対外(外国)にも認められる、国家だったのですね。とっても嬉しいです。\(~o~)/
白石様。私も、白石様もそのような場所に故郷があるという事は、本当に不思議な縁ですね。(^・^)

でも、やはり重要な系図などは国立国会図書館に保存されているのですね。
私が探している、続群書類従174巻も、本当はちゃんとここに保管されているのではないかな〜と思います。
でも、ネットで公開したら、国内だけではなく世界中の人も閲覧できる訳で・・。やはり、何か意図があって公開されていないように気がします。
国立国会図書館に行ったら読めるのかな? でも、折角行っても制限があれば意味が無いし。(*_*)

善峯寺。私も、この場所がとっても気になって見ていたので、やはり白石様との脳波の連携は行われていたと思います。\(~o~)/
善峯寺は元々は良峯寺で、”長元7年(1034年)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。”とありますから、私が探している良峯安則公の時代より100年程前の創建です。私も是非行ってみたい場所です。

まだまだ、書きたい事があるのですが、前回の頭真っ白・画面真っ白事件?の事もあるので一度アップします。(^O^)/
続きは後ほど。(^◇^)





[79]子孫よりさんからのコメント(2013年10月26日 08時34分54秒 ) パスワード

またまた、登場です。(^O^)/

あの先ほど書きたかった事なのですが・・・
姫氏→紀氏 の”紀”なのですが・・・

以前、平河と紀氏の姓を取って紀平という姓があったとのお話をしたと思いますが、その時コメントしようかどうしようか迷った事があって・・

あの、私の弟の名前なのですが・・・
3歳の頃に病気(筋ジストロフィー)が解って、6歳から、菊池の合志にある国立の病院に入院している弟です。

生まれた時は、もちろん大変元気で、宮原の跡取りが生まれたとそれはそれは親戚一同(宮原の祖父は早くに亡くなっているので殆ど平川の親戚ですが)、平川の曾祖母も大喜びだったようです。(平川の曾祖父が存命していたのかは良く解りませんが)弟の名前は父が付けたのですが、平川の伯父(祖母の兄)などにも相談はしたみたいで・・・・・
弟の名前は 晃紀(あきのり) です。
だから、紀平や紀氏の”紀”という字が出た時はあれっ?と思ったのです・・
ううんん??まあ関係は無いとは思うのですが・・・・?

弟は一人で菊池に幼い頃からいるのですが・・・
父は32歳で離婚して、その後は、毎週土曜日に宮崎の新富町(新田原)から球磨の私の所に帰って来てくれて、そして翌日曜日に菊池の弟の所に行く。そして翌朝月曜日の3時に起きて宮崎に帰る。これを何年も続けていました。久留米に転勤になってからは毎週久留米から弟の所に行ってました。その後に球磨に帰ってきてくれてと。私と弟は、本当に父の愛情をいっぱい受けて育ちました。(寂しい思いをさせているといつも心配してくれていたのです。)
今思えば、仕事を終えた週末に、毎週何百キロも運転して私と弟に会いに来てくれていたわけですから、大変な苦労をかけたと、本当に感謝しています。
でも・・・弟は20歳の時に自分の姓を選べる事が出来るようになり、母の姓を名乗る事を決めたのです。
私はとても信じられなかったです。父の落胆は見ていられない程で、体重もガクッと落ちて、しばらくは食事も出来ませんでした。何故何故なぜ!!と。
ただ、弟は母が心配だったようです。離婚して、一切私たちに会う事が出来なくなり、一人で苦労して辛かっただろうと・・・
弟は20歳になる前に一度、親族が覚悟しなければいけない程具合が悪くなり、気管切開に至りました。その時、父が初めて母を病院に呼んだのです。
弟はもう二度と声が出せなくなる。その前に、母と話をさせてあげたいとの父の配慮でした。
そして、奇跡的に弟は回復して、そして、選んだ決断が母の姓を名乗る事だったのです。それからは母が弟の事を全て対応して、父は会いに行かなくなりました。

私はその後、弟に会いに菊池の病院に行き思わず訊ねました。「何故?!」と。
すると弟は「僕はこんな身体だから、宮原を継ぐ事は出来んやろ?宮原の子孫を残す事も出来んのよ。これ以上お父さんに苦労をかけたくない。姉ちゃん、宮原を頼みます。」と。
この話は、父にも母にもしていません。弟から絶対に二人には言うなと言われていますから・・・
(でも、私はその後さっさと結婚して・・・本当に馬鹿姉です。でも、結局、宮原に戻ったわけです。私が離婚した事を母から聞いた弟は、私が結婚後苦労していた事を薄々感じていたようで、「良かった(^・^)」と喜んだそうです。)
弟の身体はその後病気がどんどん進行して起き上がる事が出来なくなり、手足を動かす事が出来なくなり、今は首から下は全く動かなくなっています。
唯一の楽しみだった食事も2年前からは胃瘻(いろう)に変わりました。
父は殆ど会いに行く事はなく、いつも私から弟の事を聞いています。
弟も、いつも父の事ばかり話を聞いてきます。
父に一度「晃紀が、お父さんの事ばかり聞いてくるよ」と行った時、父が本当の気持ちを話してくれました。
実は父は弟の所に何度か機会を見つけて会いに行ってたようです。私に黙っていたのは、母への配慮でした。今は、母が弟の事で大変なのだから、父が顔を出すと母が気分を害するのではという気持ちだったようで、弟にも言うなと言っていたようです。
ただ、行くたびに進行していく弟の姿を見るのがつらくなったと・・
そして「今の晃紀の姿を見たら、お父さんは多分心が切り裂かれそうな気持になる。心が張り裂けてしまう。だから、晃紀には申し訳ないけど会いに行けない。お父さんは今、晃紀に会ったら、心が砕けて生きていけなくなる。晃紀にはそんなお父さんの姿を見せる訳にはいかんとよ。おまえやお母さんばかりに負担をかけて本当にごめんね・・」と泣きながら父は話してくれました。
母は弟が岩切になってからずっと弟の事をみています。
北九州の若松から毎月、2度ほど泊まりがけで菊池に行き、3〜4日は一緒にいます。
いつも、母は、弟が自分の生きがいだと言っています。
弟がいなければ自分は生きていけないと・・・
弟は温厚で本当に賢く、心がとても清らかで病院の方々からも「仏様のような人だ」と言って頂けています。
でも、弟と母は口げんかもするのです。もちろん、弟はしゃべれませんから言いたい事は唇の動きでわかるのですが、「ねえ・ちゃん・お・か・あ・さ・んが・また・どじ・をした(ー_ー)!!。す・ぐ・に・おもい・こむ。はっ・き・り・いって・あ・げ・て(>_<)」とか(^・^)
言いたい事を言いあえる中です。
母は父が弟をみている時は逆に病院には一切顔を出しませんでした。
この前、申し訳ないけど理由を聞いたら
「お父さんが一生懸命晃紀の事をみているのに自分が顔を出したら申し訳ないと思っていたの。お父さんが気分を害すると思って・・」と。
二人とも、全く同じ事を双方に対して思っていた事がこの時初めてわかりました。

私は、子供の頃から、「何故、自分たちは家族は他の家庭と同じように普通に生きる事が出来ないのだろう」と思ってきました。
でも、この頃感じるのです。
何かの巡り合わせ。もしかしたらずっと以前(何百年・何千年かは解りませんが)に起こっていた家族の形を再度繰り返しているのではないかと・・

菊池・紀・・・・
弟の不思議な縁です・・・・。

脱線してすいませんでした。<m(__)m>




3年前に一度弟は危険な状態になった事があるのです。その時のお話です。




[80]子孫よりさんからのコメント(2013年10月26日 09時35分24秒 ) パスワード

追記
先ほどのコメントの最後の一行
3年前に一度弟は危険な状態になった事があるのです。その時のお話です。
は、書かないでおこうと消したつもりだったのに何故か残ってしまっていたので、やはり・・・書かせて頂きます。

マタマタ(ー_ー)!!と皆様から言われるのは覚悟の上です。<m(__)m>

では最初から・・
3年前に一度弟は危険な状態になった事があるのです。その時のお話です。

弟は肺炎を併発して心臓が異常(脈拍が120くらいを継続)になり、危篤状態になりました。
もう、難しいだろう、あと1日・・・と言われた夜の事です。
その場には、私・母・主治医の先生・看護師さんがいました。
弟は痰が鼻から吹き上げてくる程で、少しでも楽な体勢にと頭を窓の方に少し横に向けて寝かせていました。
すでに、瞬きも殆どせずに、まるで窓の外をじっと見つめているような状態で、私と母はただ泣く事しか出来ずに・・・
長年(40年近く)入院しているので沢山の看護師さんも泣きながらそばに来て下さっていました。
すると弟が急に窓に向かってニコッと笑ったのです。
しばらくはずっとニコニコして・・。私たちは、もう脳に影響がでたのかと思っていました。
その時、弟が窓に向かって唇を動かし始めたのです。(声が出ていたらはっきり聞こえたとおもいますが・・)
その動きを、誰ともなく、その場にいた皆が思わず声にだして読んだのですが・・
「はい。わかりました。まだですね。わたしはがんばります」
皆、一斉に窓の外を見たのですが誰もいなくて真っ暗でした(もちろんですが)
でも、外は真っ暗なのですが、何か白いフワッとしたかすかな光が沢山集まっているように私は感じて、何なのだろうか?と・・・
翌朝、なんと弟は奇跡的に回復したのです。
主治医の先生の口からも「奇跡です!医学では解明出来ません」という言葉が出ました。
弟が回復して落ち着いた所で、やっと皆、昨夜の事に触れ始めました。
あの出来事はなんだったのだろうと?体験したのは私だけではなく、母も看護師さんも先生もだった訳ですから。
私が、「何か沢山窓の外にいた(いらっしゃった)ような気がする。」と言ったら、母も「私もそう感じた」と。(母は自分には霊感は無いといつも言っています)そして、看護師さん達も「わたしも・・」「わたしも・・」と。
その中の一人の方が「自分は窓の外に沢山の人がいらっしゃったように感じました。そして晃紀さんを応援しているように見えました」と言われたのです。
普通はその場で皆ゾッとしていると思うのですが、この時は、皆それぞれ穏やかな気持ちで「そう思います」と話をしました。
数日後、弟に「晃紀が一番大変だった夜ね、窓の外に何かあった?」と聞いたら、全く憶えていない。記憶にないと言うのです・・・?

弟はその後、とても順調です。(^・^)
主治医の先生は変わりましたが3週間ほど前、母に「3歳で病気が発覚して、気管切開を行って25年以上です。完全に首から下は硬直されてもうすでに15年以上。それでも意識もはっきりされていて状態が安定している。このような症例は今まで世界中のどこにもないのです。医学では解明出来ない何かがあるとしか考えられません」と言われたそうです。
この頃母はいつも「晃紀は何かに守って頂けている」と言っています。

私は、以前にもお話したように弟が楽しみにしている、”私たちの先祖について”をこれからも、頑張って調べて行きます。
これは、祖母との約束を果たせなかった後悔もありますが、何だか私に課せられた使命のような気がしています。

よ〜し!今日もがんばりま〜す(^O^)/




[81]子孫よりさんからのコメント(2013年10月26日 18時37分09秒 ) パスワード

皆様今晩は。
本日の中間報告です。(^・^)(でも、成果と呼べる物は何もありませんが目は真っ赤です)

国立国会図書館デジタルデータで良峯と入力して出てきた文書を徹底的に読んだのですが・・・
良峯氏系譜・・はあったのですが、丹羽の系で惟頼・惟頼 両公止まりで球磨の平河(良峯安則公孫)に繋がる物は何も無でした。(*_*)

でも、ひとつ面白い内容を見つけました。
”輪池叢書”に佐々良峯(宗淳)という名前が在って、ううん?どなた?と思い検索したら、ドラマ水戸黄門に出て来るスケさんのモデルとなった人物でした。(^O^)/
わ〜い(^・^)スケさんだ〜と思っていて・・・ううん??はてな?
スケさん?のお名前は佐々宗淳。 何でわざわざ良峯と??
そう言えば、今まで検索している時に佐々良峯と言う名が良く出ていたのですが、その人の名前が偶然”良峯”なんだろうなあ〜(^◇^)と軽く流していたのですがどうも違うようで・・・?
佐々さんは良峯さん??と頭が混乱(@_@。してきたので検索!

佐々氏・・ちょっと長いです

出自に諸説はあるが、一般的には宇多源氏佐々木氏の一族とされる。又六角氏の庶流ともいわれる。他に菅原氏とする説もあるがこれは成政の父盛政が一時母方の菅原姓余語氏を名乗っていたことによる。佐々成政が出て有名になった。

一説には、佐々氏の祖は鎌倉時代後期の六角泰綱の末子佐々権僧都頼起(良輝)にはじまる。頼起の子時綱が伯父六角頼綱の養子になって佐々氏を興したという。他に、応仁の乱で主家に背いて戦死した六角政堯の子成義に始まるとする系図も伝わる。また、佐々木盛綱の子加地信実の八男氏綱が上総国佐々庄に住み、佐々氏を称したとするものもあるが、上総国には佐々庄なるものは存在せず、こちらは信憑性が低い。

一方では、藤原氏説もある。かつて尾張国高田寺にあった大永5年(1525年)銘の梵鐘に、檀那として「比良佐々下野守藤原貞則」と刻銘されており、当時は藤原氏を名乗っていたことが知られる。貞則は成政らの父に当たる可能性がある。信長の重臣佐々良則と諱の一部が共通している。また佐々氏の子孫には藤原氏を名乗る家もある。

ううん!!?諸説がありすぎて中々ややこしいぞ(-_-)

でも、佐々氏は豊臣秀吉から肥後国を与えられているのですよね(?_?)??
佐々氏 → 肥後国 ← 良峯(平河) ・・・?

またまた長いですがすいません(*_*)

祖の佐々木秀義は保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱において、天皇方の源義朝軍に属して戦った。平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝軍に属して戦うが、義朝方の敗北により伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受ける。秀義の4人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた。

治承4年(1180年)に頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、佐々木4兄弟はそれに参じて活躍し、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17ヶ国の守護へと補せられる。

源頼朝公が出てきたぞぉ・・・!!???
ただ・・何処にも良峯は出てきません(*_*)
それと、平河義高公の祖父良峯安則公の時代はもっと前だし・・
無駄骨だったかな〜(*_*)

それと、上記の話とは全く関係ありませんが・・
花山天皇(かざんてんのう)の諱は師貞(もろさだ)なのですよね〜
。 
平河師貞・・当時のはやりの名前だったのかな〜((ー_ー)!!すいません)
あっ!依高公が尊敬をしていた人物だったから!・・・?

源頼朝→平頼盛→八条院→佐々木氏→ 藤原 敦信 → ↓
↑   良峯安則   ← 菊池経頼  (ぐるぐるグル)

何処かで繋がっているのかな?
ううん(ー_ー)!! めげずにとりあえず頑張ります。(^O^)/   


[82]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月26日 21時43分31秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>良峯氏系譜・・はあったのですが、丹羽の系で惟頼・惟頼 両公止まりで球磨の平河(良峯安則公孫)に繋がる物は何も無でした。
 
良峰依高に系が繋がる保証は無いが、他に良峯氏系図は下記の書籍がある。
いずれも閲覧が困難と思われる。
 
「良峯、源氏、・・系図」の良峯氏系図(東大史料編纂所蔵)
「中興武家諸系図」の良峯氏系図(宮内庁書陵部所蔵)
「良峰氏系図考」蔵中スミ 「日本歴史」第375号所載
[83]子孫よりさんからのコメント(2013年10月26日 22時42分06秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

早速、頂いた情報を元に書籍を探してみます。

球磨は百済に繋がる地ですから、例えば単に戦利の褒美としてと言ったような何の意図もなく源頼朝公が、先祖にこの地を治めるようにつかわす事は無いと思うのです。
以前、読んだ情報では、依高公は、相良氏が人吉に入られる18年前から球磨の地に来られていたとの事でしたから、きっと何かが見つかる事を信じています。

がんばりますね。(^・^)


[84]白石さんからのコメント(2013年10月26日 23時17分55秒 ) パスワード

こんばんは
いろいろ 良峯系図があることはあるのですね。
私は 検索の段階で はじきとばされるので、皆様の お調べになったことから知るだけですが・・・

77で 出た 大原氏
良峯系図が見れないので 仕方なく関連キーワードで出た人から出てきたわけですが・・・なので ぴったし 良峯につながる ということでは ないのですが、何となく からまって いるので、

昨日コメントした 大原という言葉について

佐々木秀義ー定綱ー信綱ー大原重綱・・・大原氏
庶長子だから 多分 母方を名のった?

他に宇多源氏の流れを引く 堂上家の大原家がある。

ウィキの大原氏
大原氏(おおはらし)は、日本の武家。宇多源氏の一派近江源氏 佐々木氏流。佐々木信綱の庶長子大原重綱を祖とする。近江国坂田郡大原庄より発祥。

新撰姓氏録によれば、「出自謚敏達孫百済王也」とある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
佐々氏の祖は
>宇多源氏佐々木氏嫡流の流れを汲む 鎌倉時代後期の六角泰綱の末子佐々権僧都頼起(良輝)にはじまる。頼起の子時綱が伯父六角頼綱の養子になって佐々氏を興したという。

佐々木(六角)泰綱は大原重綱、高島高信の弟、京極氏信の兄。


佐々木信綱ー六角泰綱(佐々木泰綱)ー佐々権僧都頼起(良輝)ー時綱
                            /
                           /
                          / 
                  六角頼綱ー時綱・・・佐々氏へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
近江源氏=佐々木源氏=宇多源氏は
沙沙貴神社に関与する。

根底に 安陪 高田 事代主 がある。安陪高田のことばもあり、高田は 高藤の観修寺に関して 前に出た。

高田専修寺もあり、藤原の高田は 真夏流。親鸞の宗派。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

沙沙貴神社は 
『新撰姓氏録』の左京皇別の条に「佐々貴山君阿部朝臣同祖」とあり、摂津皇別にも「佐々貴山君、阿部朝臣同祖、大彦命之後也」

近江のササキ氏は『和名抄』の蒲生郡篠笥郷を本貫とし、『神名帖』にみえる佐々貴神社を氏神として祭っていた。

古代の神社は氏族の祖を祭祀する「氏神」であることから、安倍氏の氏神が祭られている土地は、かつて安倍氏族の支配地だった証となる。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-3-7.htm
「安部氏族を祀る神社」に出てくる 
6事代にかかる 月の神 日の神の話
は 前に紹介した「皇室と壱岐氏」に出る話で 

http://09270927.at.webry.info/201307/article_12.html
高良大社 香椎宮の社家系図に
壱岐真根子女子・豊子と武内宿禰と結婚する話が 高良大社にある。

高良神社の神職は丹波・物部・安曇・草壁・★★百済の五姓があったという。
高良神社では★★「安曇磯良」を「アントン・イソラ」と読む

高良山文化研究所『高良山雑考』に次のような記載がある。
『 山本家の家伝によると、高良の神は朝鮮半島から凱旋ののち、本山の地を開かれて「蓮の池」という所にお住まいになっていた。
大社には
記紀(正史?)と異なる神話が伝承されている。


高良神社では★★「安曇磯良」を「アントン・イソラ」と読む



[85]子孫よりさんからのコメント(2013年10月27日 10時23分26秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございます。
佐々木 → 大原  そうなのですね。何だか色々な所に繋がってきていて
私も、これは?これは?と様々な情報がでてきて・・・
ただ、中々平河には到達できません。

昨晩は日本の苗字七千傑様から伺った「良峯、源氏、・・系図」の良峯氏系図(東大史料編纂所蔵)を全て読みました。
が、やはり丹羽の系が殆どで・・・繋がりませんでした。
でも、東京大学のフルテキストデーターベースを利用できる事がわかり、今後の調査にとても助かります。(^・^)

そのページで、相良家の文書に何かあるかもと検索を行い、マタマタ夜中というか明け方まで見ていたのですが、五節舞についての記述があり、中に高階氏の名前が頻繁に登場していました。
1199年の話だったのですが、相良という名称は全くなく、殆どの名前は藤原○○となっていました。
そして愛染王のお話が出ていたので、あっ!寺だと思い平河義高 寺 と入力してgoogleで検索をしたのですが・・・
出てきたページの一つに”菊池家”とあって何で?と思い情報を見ると

平河師里相良流平川又三郎

師頼小三郎三郎左衛門

貞家八郎

行親

多分これはかなり近代ではないのかな?と(*_*)ガックリ来た所でふとすぐ下の記述を見てビックリ\(◎o◎)/!

新堀頼政頼重子頼益孫頼宗曾孫頼兼玄孫相良頼景耳孫

頼良  頼代   頼里相良四郎?  頼光  頼門  頼秀  頼重 頼光

しっ新堀家だっ! 宮原の曾ばあちゃま\(◎o◎)/!
そして・・・相良頼景耳孫? 相良頼景ってどなた??と思いウィキで検索して・・ぎゃあ!!ぎゃあ!!エエエエ〜ッ!ビックリ!!\(◎o◎)/!

藤原南家の流れを汲み、遠江相良荘に住んだことから相良を苗字とした。相良頼景の時代に、伊豆で兵を挙げた源頼朝に協力せず、その後も不遜な振る舞いを続けたため、鎌倉幕府が成立すると、頼景は肥後国多良木荘に追放された。しかし頼景はその後、頼朝に許され、多良木荘の地頭に任命された。さらに、頼景の長男・長頼も二俣川の合戦で手柄を立て、人吉荘を与えられた。多良木荘の相良氏は上相良氏、人吉荘の相良氏は下相良氏と呼ばれる。

アレ〜ッ!!!
なんでっ!ウソだ〜っ!
私には上相良の血も流れています。\(◎o◎)/!・・・??!!でも(*_*)
相良頼景 →長男 相良長頼 そして ・・・・
相良長頼は 平河(平川)の先祖を・・・・・・(*_*)(*_*)(@_@;)

宮原は平川のペアだとずっと思ってきたのに・・・・(*_*)
まさかこんな展開になるなんて夢にも思っていませんでした。(*_*)

それも、宮原の先祖が解ったから今度は平川と頑張ってきたのに・・・
自分の身体に流れる先祖の血の複雑さに今、言葉も無いほど驚いています。
そう言えば、祖父と祖母は恋愛結婚でした。

このコメントは、画面を検索しながらリアルタイム?で内容を記録するつもりで、書いてきたので、入力しながら手が震えています。

あの・・・今、いつもの感のようなものがすごく働いて・・・
そう言えば、以前(最初のスレッドの65)白石様とのやりとりで、相良氏は藤原南家と言われているけど、藤原冬嗣公の子孫だったと言う話がありました・・

平川家について コメント 65
”キーとなる人物は相良家の祖となった藤原周頼公です。
この方の父が藤原道隆公その父が藤原兼家公でここからは→でいきます。
藤原兼家→藤原師輔→藤原忠平→藤原基経(ここで最大のポイントこの方は藤原良房公の養子にこられて実の父は・・・・)→藤原長良公です!!この方が藤原冬嗣公の長男!!やったー!!!(^^)!”
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

何で、私、この時不思議と解ってしまったのだろう・・
藤原冬嗣公で今、気がつきました。

私は・・1000年以上も経って、宮原・平川の先祖の双方の血から一人の人物が祖になっています。この人がいなかったら絶対に私はこの世に生まれてこなかった。

藤原冬嗣公・そして桓武天皇との間に良峯安世公を産んだ方

百済永継

父は全て男兄弟(長男の伯父は子供の頃に亡くなったので父が家を継いだのです)そして、伯父の子供すなわち従兄も全て男兄弟。祖父と祖母の孫では私が唯一の孫娘です。祖母からもいつも「女の子はあんただけやけんね」と可愛がってもらいました。

宮原の先祖(橘)が解った時点でもう調べなければ良かったのかな・・
でも・・・いつもの感が言っています。そうしなければ見つける事はできなかったのだと・・。
きっと、百済永継さんが(こういう呼び方は変ですかね)が、私に強く知らせたかったのだと思います。
早く事実をみつけなさい・・と。でも、強く守って頂けている事を今まで以上に感じています。

日本の苗字七千傑様にお伺いします。
地元に住んでいた方同士の地元の先祖というのならば解りますが、宮原(橘)も全国を転々としていましたし、平川(良峯)同じです。
そして、1000年以上経って、双方の子孫が結婚によって一人の人物に繋がる。
日本の苗字七千傑様は今まで、数えきれない様々な家の事をお調べになってこられていらっしゃいますが、このような事は頻繁に起こるのでしょうか?


私はこのまま、平川(良峯)の系譜をたどっていいのかな?・・・・
悩んでいます。

以前にもコメントしましたが、祖父と祖母は戦時中に韓国に行きました。
その事を今、考えています。
その頃の二人は何を考え、何を夢みたのだろうと。きっと祖父は自分の母方(新堀家)の事はよく解っていたのだと思います。そして、それでも、祖母と結婚した。
よっぽど愛していたのでしょうね。

そう考えたら、とっても気持ちが落ち着いてきました。
だって、二人が愛し合ったから、父や伯父が生まれて。
そして、私や弟そして従兄が生まれた訳ですから(^・^)

私、頑張ります。(^・^)
本当の事を言うと、このコメント書き始めてからすでに4時間経過しているのです。
すいません。ちゃんとまとめて書き込めば良いものを、毎回、行き当たりばったりでコメントしていたから、今日は、リアルタイム?に皆さまに動揺をお伝えするはめになってしまいました。<m(__)m>




 

 

 





[86]白石さんからのコメント(2013年10月27日 11時56分50秒 ) パスワード

おはようございます。

平川家子孫2
88 三善姓平川氏は居るが、良峰姓平河氏(平川氏)とは関係なし。
肥後には他に異流の頼盛流平川氏(薩摩から進出)や★佐々木氏族平川氏も居るから、さらに勘違いするむきも多い。に関与してくるかも・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今までに出てきたお話で 系図に出来そうなものをまとめてみました。
そして
宗貞の系ではありませんが、どうかしら? というものがありました。
年代のつきあわせが私には出来ないので???ですが。


良峰安世ー良峰宗貞ー前野系図へ
良峯安世 ー★★良岑晨直ー良岑衆樹ー義方 ?−957
良峯安則ー○ー平河義高(相良氏に攻められた。つまり1192よりあと。)
良峰★依高 子に深田太郎盛高、山田次郎遠高、平河三郎★師高、横瀬四         郎高実。
良峰依高ー平河三郎師高ー師貞・永池師忠

良峯安世
父:桓武天皇
母:百済永継 - 飛鳥部奈止麻呂女
妻:丹治氏
三男:良岑清風(820-863)
生母不明
長男:良岑木蓮(806-849)
男子:良岑高行
男子:良岑良松(長松)(814-879)
男子:良岑遠視
男子:良岑宗貞(816-890) - 法名遍昭、三十六歌仙
男子:★良岑晨直(農直) - 良岑衆樹の父
男子:良岑晨省(農省)
男子:良岑晨茂(農茂)
男子:良岑行振 
良峯安世 ー良岑晨直ー良岑衆樹ー義方 ?−957
       ★義方は従四位で右少 承平7年 天慶8年・・
                ・承平は931年から938年天慶は938年から                  946年まで
              右中 天慶8年 天暦4年
              左中 天暦4年 天暦9年・・・947年から957年                 まで村上天皇の元号

      
http://books.google.co.jp/books?id=VmssJ8Zv87wC&pg=RA1-

PA71&lpg=RA1-PA71&dq=%E8%89%AF%E5%B3%AF%E7%BE%A9%E6%

96%近衛府補任 1 - 71 ページ - Google ブック検索結果

良岑衆樹(よしみねのもろき、貞観(日本)4年(862年)-延喜20年9月

25日(旧暦)(920年11月8日))は平安時代前期の貴族。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
良峰依高ー平河三郎師高ー師貞・永池師忠

四位雨少特宗貞郎戎方、御母七郎荒田寺
別営(※当)★(続き3−45)

良峰★依高 子に深田太郎盛高、山田次郎遠高、平河三郎★師高、横瀬四     郎高実。・・・・7000傑様より

良峯★師高 子息:紀平次不知実名・・・次男★永池師忠(3の28)
     (3の29)・・・・・・・・・・・7000傑様より
良峯師高 子息字平※★師貞
[87]白石さんからのコメント(2013年10月27日 12時32分12秒 ) パスワード

私も夜から 書き直し書き直しして、アップしたので こんにちわ ですね。
そして 子孫様 良かったですね。アップして 確認しようと 一覧を出し見たら 子孫様のコメントがありました。

平川がわかって。
橘(薩摩氏)と 相良氏は 仲がよかった。どこへでも 一緒に行ったと姓系辞典に書いてありました。

その始まりは 南家武智麻呂と義兄弟の諸兄は 実の兄弟以上に仲がよかった。

橘は宮原。道隆は 菊池へ。

私のほうでも 父(橘紋を使う)方と 相良氏が使った(藤原南家でよく使われた)山井と 姻戚関係があります。

昔のつながりが 
相良氏700年の治世のおかげで、忘れずに生きていたのでしょうね。

ところで
相良氏が 平川を名乗るのは どうしてでしょうか?
平川という家と 結婚したから?
教えてくださいませ。
[88]子孫よりさんからのコメント(2013年10月27日 13時46分46秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。
あの・・・白石様、ちょっと違うのですが・・・・
コメント85が解りずらかったですよね(*_*)
何せ、混乱していましたので・・・・(*_*)

平川(良峯)の系譜はまだ、なにも解っていません(*_*)

上相良の血が入っていたのは、私、宮原家にです(*_*)

すなわち私の中には、上相良の血と平川の血が流れていると言う事で・・・
お解かり頂けましたでしょうか

どなたでも混乱するとおもいます。
私自身でも、訳がわからず、呆然としているのですから(*_*)


[89]管理者 aさんからのコメント(2013年10月27日 14時32分50秒 ) パスワード

重くなって来ました。
早めに新しいスレッドに移行してください。

99になり次第閉めます。


今後はこのアドバイスは掲載せず99になり次第閉めます。
[90]子孫よりさんからのコメント(2013年10月27日 14時41分07秒 ) パスワード

追記
先ほどの私のコメントはダメですね(ー_ー)!!

本当は、朝から混乱したり、悲しくなったり、何故何故(*_*)となったり、一人で精神状態が不安定になっていました。
でも、だいぶ事態を受け止める事が出来るようになってきました。

白石様、私のコメントの85をもう一度お読み下さい。
私は、{橘(宮原)+藤原(相良)}+良峯(平川) の愛の結晶?でございます。あっ!平川のひいばあちゃま(深水家)を足していなかった・・
(平川のひいばあちゃま、ごめんなさい)

先祖を探している方は日本国中に沢山いらっしゃる訳で、でも、中々解らないという人が殆どだと思います。
だから、私のように、解っている範囲では、はっきりと(あまりにも沢山の家々のオンパレードですが)しているのはとても珍しいのでは・・と。
逆に、ありがたいと思わなければいけないですよね。
そう、思ったら感謝はしても、いじけてはいけないなっと・・・

心の動揺が無いといっては嘘になりますが、でも、こうなれば何でも受け止めます!
私の身体はめちゃく小さいのですが(この頃横には大きくなってきています)もう、ドントこい!!<(`^´)>です。

あ〜!前からよく先祖のDNAが騒いでいる(@_@;)と言っていましたが、これからは皆仲良く?、喧嘩しないようにグループのリーダーを変えます。

血の気が多い男性陣を抑え込むには、女性が適任です。
当時の役職・立場など関係ありません(ー_ー)!!

そう、百済永継女氏!!

宮原を辿っても、平川を辿っても、どちらにも共通の
私の ひひひひひひひひひひひひひひ・・・・・・・・ひひ曾ばあちゃまです!!

皆様、今後とも新しいリーダー共々よろしくお願い致します。<m(__)m>


[91]子孫よりさんからのコメント(2013年10月27日 15時11分27秒 ) パスワード

またまた追記
すいません。忘れていました。
日向日下部氏(岩切) このままだと先祖のDNAがもめる所でした。(^^ゞ

ちなみに、この前母に会った時に、刺繍の話が出て、「お母さん、不器用だけどね、刺繍だけは出来るのよ(*^。^*)。岩切の家紋もねぇ(^・^)自分で金の糸を使って刺繍して、高鍋の実家に飾ってあるのよ(^・^)」

私は、超不器用な母が刺繍?・・・・?と驚いて、ついでに・・
「家紋は何?」と聞いた所
母から「桐よき・り!先祖代々、うちは桐(^・^)」と・・・・???

あれれれれ〜っ(@_@)??ここにもきっと何かが繋がっているようです。


[92]白石さんからのコメント(2013年10月27日 21時11分58秒 ) パスワード

こんばんは^^
またまた 私のはやとちりが とんだことを!!

平河師里相良流平川又三郎 が 目に飛び込んで・・・

ところで 
何故? と 思って
私 子孫様が書いておられた 東京大学データベースでしたっけ
に 検索をかけたら

http://kaken.nii.ac.jp/pdf/2010/seika/mext/84601/20720181seika.pdf 科学研究費補助金研究成果報告書より
平河氏とその氏寺(荒田観音福田寺など)・大王社のあり方は注目される

相良氏が球磨郡に入部し、矢瀬氏や久米氏などを追伐し、その鎮魂のために大王社を祀ったという。また平河氏も相良氏と姻戚関係を結んでいた。

ということが 書いてありました。
相良氏と平河氏と姻戚関係。

そして 
荒田観音福田寺  ? 七郎荒田寺 って 書いてあったようだった。と 思ったけど
https://www.google.co.jp/search?q=%B9%D3%C5%C4%B4%D1%B2%BB%CA%A1%C5%C4%BB%FB&button.x=45&button.y=12&ie=EUC-JP&oe=UTF-8&hl=ja&domains=asagiri-town.net&sitesearch=asagiri-town.net
あさぎり町役場広報 文化財 町指定文化財でみると

『内うちやま山』
 @内山観音堂は、久寿元年(1154)の昔、平川三郎師高が建立した
★有智山寺(萬福寺)の本堂があった所で、本尊は千手観音菩薩でしたが、明治15 年(1882)と明治32 年(1899)の二度の火災にあい、建物
は同年に再築、昭和43 年(1968)9 月18 日に改築して今日に至って
います。本尊も焼けこげて、堂内に残されています。あらたに本尊とし
て請来されたのが聖観音立像でしたが、平成8 年、古町の★深水一雄氏が千手観音座像を寄進されました。従来、19 番札所は、錦町木上の★荒田大王神社境内にある★福田寺観音でしたが、いつの頃からか、この観音がはずされ、21 番札所であった内山観音が19 番札所に変わりました。

と書いてありました。

有智山寺(萬福寺)の言葉があります。もとは 有智山寺だったのが 萬福寺になった? 

内山観音は 千手の局の話があったところでしたよね。
平川家子孫続き72
室町時代に下相良氏に滅ぼされた上相良氏(多良木)の分家の肥知岡(ひぢおか)氏

島津家家老本田丹波守親泰 などの 言葉がありましたが、肥知岡家って今もあるのでしょうか?

そして
福田   うちの 白石の家には 福田からも養子が入っています。
えっと思いました。^^

木上の人です。
福田と言う地名からお寺の名がついた?
福田さんのお寺?

私が良く知っていなければならないことなのに ・・・ 今まで知りませんでした。





[93]子孫よりさんからのコメント(2013年10月27日 22時53分19秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、気にされないで下さい。私が解りずらいコメントをしたからです。
すいません。

所で何故?と言う事でしたが・・・・
もう一度コメント85をご覧いただきたいのですが・・・
ちょっと解りずらいですよね。ネットでは2行目からは各名前が立てに表示されていたのを私が横にコピーしたのです。
解りやすくしますね。

”新堀頼政→頼重の子・{頼益の孫・頼宗(上相良3代当主)の曾孫・頼兼の玄孫・相良頼景(上相良初代当主)の耳孫}
     →頼良・頼代・頼里相良四郎?・頼光・頼門・頼秀・頼重・頼光”

この先頭左端の名字をご覧ください。

”新堀” そうですこれは偶然みつけた新堀家の系譜です。
新堀は宮原の曾祖母の実家。
曾祖母はこの新堀家から宮原に嫁いできているのです。

そして右端に表示されているのが相良頼景この方の長男が 相良長頼
相良頼景は、相良氏が初めて球磨に入り、多良木にて地頭になった方。
相良長頼はご存じの通り 平川の先祖平川義高公と・・・・・・・・

お解かり頂けましたでしょうか。

前にも一度「曾祖母の実家(新堀家)は上相良でした。」とはコメントしていましたが、初代上相良そのものの血だったとは夢にも思っていなかったのです。
単に相良の家臣だったのかな?くらいの感覚だったのです。

だから私には相良氏と平川(良峯)双方の血が流れているわけです。(先祖様、仲良くしてね(*_*))
でも・・これまたコメントしましたように・・
宮原と平川両方の先祖から、不思議にも百済永継に繋がっている訳です。

朝は、混乱しましたが、もう大丈夫です。
先祖のDNAは私の中で「よかったね相良さん。お宅もこの子(私)に先祖だって解ってもらったバイ。」と話が盛り上がっている?事と思います。

本当に、解りずらいコメントですいませんでした(*_*)<m(__)m>




[94]子孫よりさんからのコメント(2013年10月28日 06時50分26秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

ご報告です!!
平川の出口をついに見つけました\(◎o◎)/!

きっかけは夢です!マタマタ(ー_ー)!!って言わないで下さいね。

昨日、混乱の中やっと落ち着いた私は、いつもより早くぐっすり寝ました。
そして、見た夢で・・・・
城か神社か良く解らない場所で、男の人から「折角、教えているのにまだわからんか!」と言われました。
そこで、「相良の事は解りました」と答えると
「違う!何も見ておらぬ!」と。で、その人は最後にニコッと笑って消えたのです・・・・???
朝、起きて「見てないものって何?」と・・・・ア〜ッ!\(◎o◎)/!
昨日、新堀家に視点がいってスルーしたものは!平川の系譜!!
そう言えば、あの系譜はタイトルが”菊池家”だった!!
菊池と言う事は平川の先祖が頼って来た場所!!

平河師里相良流平川又三郎

師頼小三郎三郎左衛門

貞家八郎

行親

これってもしかしたらウェブの製作者がコピーを間違えたのかも?!と思い、そう考えたら見た事の無い名前そうです 貞家八郎 !!この方誰??
と、早速検索。すると、沢山!い〜っぱい出てきました!!

貞家八郎
実は貞家は名前で姓は 一条!!
すなわち一条貞家八郎
武田氏の祖信義の五世の孫一条源八時信の八男(八郎。※武田系図作では三男) →貞家

一条家でした!!

一条貞家八郎公 は 平川依高公より100年ほど後の人ですから、良峯安則公から考えると150年ほど後の人。ですから考えられるのは 一条信長公あたりかもう少し前に関係しているのではと思います。

昨日は相良氏の件で、混乱して一番大事な事を完全に見逃していました。
そして系譜の
行親 は、仕事から帰ったら調べます。

反省したのに、マタ調べながらのコメントなので(反省していないな!と言わないで下さいね。仕事なので時間が・・(^^ゞ)、まだ、全く一条家については調べていません(@_@) 一条家????
あっ!先ほどコピーした文章に武田氏とありましたね??
その一条氏と良峯氏がどう関わってくるのか・・・?

では、仕事に行ってきます。


[95]子孫よりさんからのコメント(2013年10月28日 06時58分08秒 ) パスワード

皆様、新しいスレッドを立ち上げました。
今後とも、どうぞよろしくお願い致します。

平川家について(続4)
http://hikoshima.com/bbs/heike/101330.html
です。<m(__)m>
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