[1] | takahiroさんからのコメント(2003年09月08日 23時28分36秒 ) | パスワード |
当「平家物語を熱く語る」内に『久留米の安徳天皇潜幸説』というスレッドがあります。
http://hikoshima.com/bbs/heike/100085.html
一度御覧になられては如何でしょうか。
[2] | takahiroさんからのコメント(2003年09月09日 01時00分31秒 ) | パスワード |
御質問から少し離れるかもしれませんが、
http://www1.odn.ne.jp/~cem89780/syouni.html
の「少弐家家臣団」の中に「行武長門」との名が見えますが、地理的に行武様の御先祖と由縁のある方の名ではないかと思われますが、「長門」を名乗っているのは、平家の「長門壇の浦」との関連からなのでしょうか。
[3] | takahiroさんからのコメント(2003年09月09日 08時18分48秒 ) | パスワード |
以下、筑後国山門郡の「瀬高荘」の説明に、「行武」の地名が記載されています。地名としての「行武」は、とても古い地名なのですね。
http://www.senior-net.gr.jp/arima/tanbou/setaka/kubota/setaka1.htm
『寿永元年8月16日付の鷹尾神社公文所下文案(鷹尾神社文書/平遣4045)によれば、吉里・稲富・行武・重富・小熊丸・太郎丸・楽定・弥乙丸・小太郎丸・乙丸・久富・武富・友吉・有富・新名熊丸・吉富・吉武・吉成・枝光・北鴨荘・元吉成・小犬丸・小犬男丸・犬男丸の22名に鷹尾神社の「餐膳酒肴」の調進が課されているとから、現在の下庄域から大和町・三橋町域に及ぶ一帯にその荘域が広がっていたと考えられる。』
[4] | takahiroさんからのコメント(2003年09月09日 08時37分06秒 ) | パスワード |
[1]にて紹介しましたスレッドには、久留米の平家伝承とともに、
「八女市には、知盛の子孫である旧家(平隆吉 氏)があり、知定・知時などの名前が家系図に記録されている。」
との記載もあります。上記、「行武」の地名のある瀬高町と八女市は隣接しているようですので、行武家の平家伝承と八女市の平家伝承も何らかの関連があるかもしれないですね。
行武家の御先祖は、八女市の「知盛伝承」に関連のあるお家であり、その近隣、瀬高行武の地に住まわれたから「行武」を姓とされたのでしょうか。
もし可能なら、八女市の知盛子孫であると伝承をもつ平隆吉氏に連絡を取られ、より詳細を問合せてみられては如何でしょうか。
[5] | ゆきりんさんからのコメント(2003年09月09日 20時40分34秒 ) | パスワード |
takahiroさん、さっそくの沢山の情報を、どうもありがとうございました。
行武という地名まであったとは驚きです。
母はどうやら、行武の先祖が住んでいたという場所の見当が少しはつくようなので、
さっそくいくつかの地名を出してみて、母に確かめてみます。
これも確かめてみないと分からないのですが、そういえば、八女に遠い親戚も
いたような気もします。。
ともかくこれを起点として、続けて調べてみようと思います。
[6] | 田中愛造さんからのコメント(2003年09月10日 01時45分23秒 ) | パスワード |
参考になれば・・・
行武氏(ゆくたけ)福岡の姓。筑前国早良郡行武名【福岡市】発祥。朝倉郡夜須町に集中しており、同町でわ第三位の姓である。久留米市にも多い。地名は「ゆきたけ」と読み、姓としても両方ある。(日本名字家系)とあります。
[7] | takahiroさんからのコメント(2003年09月10日 07時22分28秒 ) | パスワード |
田中愛造さんの情報を総合して考えると、筑後国山門郡の方の「行武名」は、行武氏が開発したので「名(みょう)」の称として残ったのかも知れないですね。
ゆきりんさん、行武家と平家との関係、また何か判りましたら是非お教え下さい。
[8] | ゆきりんさんからのコメント(2003年09月10日 18時44分07秒 ) | パスワード |
田中さん、takahiroさん、ありがとうございます。
今日母に確認をしてみましたが、祖父が産まれたのは久留米市高良内か、或いは「やりみず(鑓水?)」というところだったと思う、とのことでした。ですので、隠れていたのは、そのあたりの山だろうということです。
高良内は地図で見つかったのですが、「やりみず」の方は見つかりませんでした。もっと詳細な地図には載っているのか、それとも昔の地名なのか・・・。
また、この「平家物語を熱く語る」内の『平知盛伝説』というスレッドの中にも、
「久留米市の高良大社(かつての筑後一の宮で、玉垂宮もここから分かれたらしい)に落人が盲目の僧侶に扮して隠れていたとか、種々の伝説があるそうです。」という記述を見つけましたので、恐らく場所としてはこのあたりでいいのかな、
と思っています。
福岡に住むおじに聞いたらもう少し詳しく分かるだろうとのことですので、
今回の旅行で、そのおじを訪ねてみたいと思います。
亡くなった祖父は、大変ハンサムで、烏帽子でも似合いそうな何か高貴な雰囲気漂う人でした。曽祖父は直接知りませんが、料理、お華などが大変上手だったそうで、客人をもてなす際には、曾祖母ではなく曽祖父が料理を作り、お華を活けたそうです。
現在、残念ながらそういった伝統は受け継がれておりませんが・・・・。
[9] | 布袋竹さんからのコメント(2003年09月11日 00時20分23秒 ) | パスワード |
布袋竹と申します。ゆきりんさんの先祖さがし、注目しておりました。
なにか、お判りになったでしょうか・
この中の、別のスレッドにも関連あるのか・
「 道場山宗清寺:平家落人・坂梨氏 」というのもあるようです。
[10] | 田中愛造さんからのコメント(2003年09月12日 02時37分41秒 ) | パスワード |
ゆきりんさん、久留米の高良内から歩いてすぐの所に(高良大社)がの在ります。
今年5月大社所蔵・覚一本平家物語【重文】の復刻版が刊行され、社務所にあります。
是非お立ち寄り下さい、いい話が聞けるはずです。
takahiroさん
行武長門守は石井石見守忠繁の娘を妻にし、其の子茂利は石井壱岐守清左衛門を名乗り茂利の孫兵庫助孝成は倉法師を称し、孝成の弟正之は石井弥七左衛門(後・鍋島大膳)を名乗る。少弐家・石井・鍋島に深く関係しているので、そちらからも、考えて見て下さい。
[11] | takahiroさんからのコメント(2003年09月12日 03時30分39秒 ) | パスワード |
ゆきりん様
>今日母に確認をしてみましたが、祖父が産まれたのは久留米市高良内か、
>或いは「やりみず(鑓水?)」というところだったと思う、とのことでした。
「やりみず(鑓水?)」について、当「平家物語を熱く語る」内で目にした記憶がありましたので、検索すると、[73] 妹川武史さんのコメントに、
『福岡県浮羽郡浮羽町大字妹川にも、平家の末裔といわれる姓があります。私が知るところでは、「鑓水」「佐藤」「掘江」姓です。』
との記載がありました。
http://hikoshima.com/bbs/heike/100136.html
何らかの関連がおありなのでしょうか。
田中愛造さま
私の「行武長門守の長門=長門壇ノ浦=平家との関連の示唆」は、少し短絡的すぎたかも知れないですね。
(「行武」という姓の稀少さから、「少弐家家臣団」記載の「行武長門守」と、ゆきりんさんの母方の御先祖の「行武」姓とは、関連があるのではと推測しました。つまり、ゆきりんさんの母方の御先祖の行武氏が、平家落人の集落に隠棲されていたのは、「少弐家家臣団」に編入されるまでの事であったのではないかとの推測でした。もし明治期まで平家落人の集落に隠棲されていたのでしたら、「少弐家家臣団」との関連の私の推測は成立しなくなります。)
[12] | おこじょさんからのコメント(2003年09月14日 12時14分43秒 ) | パスワード |
ゆきりんさん そしてみなさま
はじめまして、おこじょと申しまして、実は私は八女出身で(郡、市かはここでは、ぼやかさせていただきます。)私も先祖が平家と関連があるようで調べているものです。
「やりみず」という地名はありますよ。久留米市御井町です。西鉄バスの路線でバス停が存在します。(今現在でもあるかどうかはわかりません)
高良内(こうらうち)の周辺です。近くに高良山(こうらさん)があり、そこに「高良大社」があります。
平家の落人伝説では御井ー広川の一条というルートで八女に落ち延びたということもを読みました。郷土史の年表を読みましたがほんとうに、久留米・八女・筑後にはこの平家関連が多いです。
ここで、関係ない話ですが、平家関連を調べましたので読んでくだされば
幸いです。
なぜ八女に落ち延びてきたか・・・平 重盛が立派なお寺を現在の筑後市に建てた
ということも乗っていました。(寄進だったかな)宗清寺には行ったことはないのですが・・・。その時代に平家のつながりがあったのでしょうね。逃げてきても土地の人がバックアップしてくれたのか・・・自分で思いをめぐらせています。
又、現在の筑後市では落人が逃げてきた時、追っ手があり、虐殺されたそうです。
その話は伝説で伝わっていたらしいのですが、実際、江戸時代にその土地に旅篭を
作るときに、造営していたら、おびただしい朽ち果てた、甲冑、刀がでてきたそうです。そこは現在の筑後市尾島一の塚というところだそうです。
まだまだ、研究不足です。
その文献をコピーしてくればよかったのですが、また機会があったら
こちらに詳しく掲載させていただきたいと思っています。
[13] | ゆきりんさんからのコメント(2003年09月16日 17時24分21秒 ) | パスワード |
みなさん、たくさんの情報、ありがとうございます。
はじめにここに書き込みしたときには、こんなに沢山コメントを頂けると
思っていなかったので、感謝感激です。
さて、まだ私の方では新しい情報は得られてはいないのですが・・・。
おこじょさんはさすがに土地の方ですので、お詳しいですね。
「やりみず」という地はあったのですね。
虐殺されたとの話、そうかもしれません。
祖父のいた里ではかなり近い時代まで(具体的にはまだおじに話が
きけていないので分かりませんが)町に出てきていなかったようなので、
皆殺しにあうことを大変恐れていたのかもしれません。
[14] | ゆきりんさんからのコメント(2003年09月18日 23時29分29秒 ) | パスワード |
おじに少し話を聞くことができました。
私のご先祖の暮らしていたとことは、恐らく高良内の一の瀬というところの少し先だろうということです(一の瀬は高良川沿いのようです)。
ただ、現在ではとても行くことはできないだろうとのことでした。
おじも以前行ってみたのですが、よく分からなかったのだそうです。
今は人が住んでいないのでしょうね、きっと。
かなり少ない人数で住んでいたようなので、暮らしは大変だったことでしょう。
私の曽祖父にあたる人が里から町へ出てきたようですが、その人の前にも一人出てきた人がいたようです。
おこじょさんのお話に、「御井ー広川の一条というルートで八女に落ち延びた」というところがありましたが、恐らくその途中で一族だけで一の瀬から山中に命からがら逃げ込んだのではないかと想像しています。
このあたりは、源氏方についた筑後の豪族草野氏が治めており、平家の落人を追討していたという話も残っているので、長い間恐怖におののきつつ、生活していたことでしょう。
旅行では一の瀬のあたりまででも良いので、行ってみたいと思います。
[15] | nyaoさんからのコメント(2003年09月19日 02時16分56秒 ) | パスワード |
場末からですが、福岡県浮羽郡吉井町で思春期を過ごした私から、交通案内をちょいとさせていただきます。
<朝倉郡夜須町>
JR鹿児島線・二日市駅、もしくは西鉄大牟田線・朝倉街道駅から、西鉄バス・甘木方面行きに乗り換え。夜須町役場へは、急行バスも停車する「篠隈」バス停下車。自動車だと九州道・筑紫野インターから国道386号に抜けます。
<浮羽郡浮羽町大字妹川>
JR久大線・うきは駅から、両筑交通の妹川方面行きバスに乗り換え。現地は福岡県でも有数の棚田地帯。JRは1時間1本、その先のバス路線は1日数本の運行なので、タクシーを使わなきゃ行けないかも。自動車だと大分道・杷木インターから浮羽方面に抜けます。
<久留米市御井町・高良内町>
ここもJR久大線沿線で、新設された久留米大学前駅(南久留米と御井の中間)が、高良内方面への意外な早道。ここから広川町までは直線距離7kmほどです。高速道路のインターチェンジは…久留米か広川か?
[16] | 当分忙しいギャンブラーさんからのコメント(2003年09月19日 07時00分25秒 ) | パスワード |
おやおや nyaoさん
浮羽町でしたら「うきは 少年達の夏」の舞台ですね。
この映画、9月2日に見ましたが、とても素敵な風景の町でした。
[17] | 布袋竹さんからのコメント(2003年09月19日 08時12分53秒 ) | パスワード |
私も、昨夜というか、23.00から3.30にかけて
このぺーじに関連あるスレッドを探し・読んでいました。
私の平家探訪は、この「浮羽」も原因なのです。
鹿児島からアマ・カメラマンの浮羽のつづら棚田撮影会に同行しました。
あとで、訪ねた場所が、この平熱で平家縁の地と知り・
その後に出かけた、熊本の矢部・清和・そして椎葉。
佐賀から福岡・熊本にかけても平家落人伝説が多いですね。
奇しくも、昨日は浮羽郡田主丸在住のネットフレンドに
その浮羽棚田訪問1年ぶりだった事を報告。
ゆきりんさんがルーツに近づくのを、願いながら拝見しています。
点と点が繋がって、だんだん核心に
ギャンブラーさんもドラマ「うきは」ご覧になりましたか・
夏の物語でしたが、ちょうど今9月は曼珠紗華がいっぱいですよ
良かったら、平家と離れるけど写真
http://finito-web.com/hotei/tutanada.html
[18] | 当分忙しいギャンブラーさんからのコメント(2003年09月19日 09時55分33秒 ) | パスワード |
布袋竹さん
ステキな画像をありがとうございます。
棚田、「うきは」の世界ですね。
棚田を作るのに邪魔な大きな岩を焼いて割って除き易くするというのは感心しました。
昔の人の知恵ってスゴイですよね。
「本当の事を言わないと心が迷子になる」という台詞があって
大人になって心が迷子になった時に戻る所が故郷なんだって思いました。
この浮羽も平家の隠れ里の1つだったのでしょうかねえ。
なんという関連でしょうね。
私達って血の中に過去の記憶を刷り込まれているんでしょうかねえ。
しみじみ
[19] | ゆきりんさんからのコメント(2003年09月19日 18時59分12秒 ) | パスワード |
nyaoさん、詳しい交通案内、ありがとうございました。
私も今回、色々調べていて、浮羽の棚田を見つけた時には、
是非行ってみたいと思っていました。
布袋竹さんの画像を拝見して、尚いっそう、行ってみたいと思っています。
・・・が、今回の旅行、かなりいっぱいいっぱいの日程なので、
果たして行けるかどうか・・・。
高良大社でも時間が許せば是非お話を聞いてみたいと思っています。
平家の話を除いても、この辺りの地域は遺跡が多くて、なんだかわくわくしますね。
それから、どうやら広島にも「行武」さんが結構いらっしゃるようです。
私の別のおじが、広島の郷土史家の方に名刺を差し出した時(その方も平家に
関連のある方だったようですが)たいそう驚かれ、「この苗字は使ってはいけないのだと思っていた」とおっしゃったそうです。ということは、見ただけで平家方だと分かる名前だったということですよね。
ご先祖の住んでいたところが大体分かったところで、今度は、落ちのびる前って
一体どういう役割を担っていた人達だったのだろう、ということへも
関心が・・・。
恥ずかしながら、実は、実は、、平家物語は通しては余りちゃんと読んでいないので(ごめんなさい)、そこから勉強しなくてはいけないなぁと思っています。
[20] | ゆきりんさんからのコメント(2003年10月01日 21時36分29秒 ) | パスワード |
ちょっとご無沙汰していました。
九州への旅行へ行って、戻ってきました。
ただ、途中でちょっと事情があって、旅行を急に中止せざるを
えなくなってしまったので、高良大社へ行ってお話を
聞いてくることなどはできませんでした。
でも、久留米の高良内町一の瀬の集落と、先祖のお墓参り(「鑓水」はお墓のある場所でした)へは、なんとか行ってくることができました。
出発直前に、母の友人の方から、高良内の住宅地図のコピーを頂くことができました。
十数軒しかない一の瀬の集落の中で、半分の家が行武姓でした。
隠れ住んでいた場所は、その集落から更に山奥に入ったところだったようです。
集落を通ったとき、80代くらいのおばあさまが歩いておられたので、
お話を聞きたい衝動にかられたのですが、空港まですぐに出発しないと飛行機に
間に合わない!という時間だったので、残念ながらそのまま帰って来てしまいました。
ちなみにお墓を見たのですが、家紋は「丸に木瓜」だと思います。
でも木瓜紋って全国的に多いのですね・・・。余り手がかりにはならないでしょうかね・・・。
[21] | ゆきりんさんからのコメント(2003年10月01日 21時45分28秒 ) | パスワード |
そうそう、上記に書いたお墓は祖父が建てた(お墓って「建てた」って言うのでしょうか・・・)もので、曾祖父の父母まで入っていました。
それ以前の方々は、今も山の中に眠っているのかもしれません。
ああ、それを確認しに、山の中まで行きたかったなぁ。
この「平熱」に書き込みされている皆さんの遠いご先祖様のお墓って
どうなっているのでしょう?興味があります。
[22] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年10月02日 00時11分18秒 ) | パスワード |
ゆきりんさん
私の先祖の墓は結局は近くに住んでる人が世話してくれてます。
ありがたい事です。
それからお寺やってるのもいますので供養のお経もあげてくれてます。
結局は人のお世話になってますね。
子孫の本人は何もやってないのに。
[23] | YUKKUさんからのコメント(2003年10月12日 23時27分45秒 ) | パスワード |
驚きました!
わたしも ゆきりんさんとおなじく 姓が 行武 です。
現在は 大阪在住ですが
父方の里が 高良内(今も親族が住んでいます)
さらにさかのぼると 祖母が一の瀬の出なのです
(行武を残すため?か、詳しい事情はわかりませんが 祖父は養子でした)
お墓も おなじ やりみず とよばれる地域にあります。
もしかして 遠縁だったりして・・・・・・!?
なんて、血がさわいでしまいました o(>_<;)o ブルブル
実際 先祖は平家の落人と きいて育ちました。
巻物があると きいたことがありますが
残念ながら 目にしたことはありません。
ちなみに親族間では
いくたけ、ゆくたけ、ゆきたけ そのあたりのよみ方は統一されておりません。
各自が自由に カナをうっています。
以前、銀行の担当の行員さんが 偶然に同じ苗字で
ルーツをたどったのですが
彼のルーツは山口にある とのことでした。
(それにしても・・・平家説は有望ですよね?)
同じ苗字をみつけると
ついつい 反応してしまいませんか?笑
[24] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年10月13日 01時10分33秒 ) | パスワード |
YUKKUさん
行武姓は非常に珍しいですからゆきりんさんと御一族でしょうね。
巻物って「系図」じゃないでしょうか?そうだと良いですね。
早めに系図を写しておくのをお勧めします。
[25] | ゆきりんさんからのコメント(2003年10月13日 23時26分05秒 ) | パスワード |
YUKKUさんのコメントを読んで、驚きの余り体が震えました・・・!
恐らく、同じ一族の方だということは、間違いないのではないかと思います。
(はじめに読んだ時、ひょっとして私のいとこか?と思いましたが、
大阪在住でおられ、ご親族が今も高良内にお住まい、とのことなので、
遠縁ということになるのだと思います)
私の母方は、曾祖父が落人の里からおりてきた時に、縁を切るということだったのか
どうかよく分かりませんが、「行武」という苗字の親戚がほとんどいないようです。
ぜひともその巻物を見てみたいですね。
お墓まで同じところにあるなんて、本当に驚きですね。
私の先祖のお墓は、鑓水のゴルフ練習場の裏手にあります。
(近くに納骨堂ができて、沢山あったお墓がほとんど残っていないようです)
一の瀬まで行ってはみたけれど、これ以上の進展は余りないかなぁと
思い始めていたので、とても嬉しいです!!
何かまたわかりましたら、教えてください!
[26] | 小林雅成さんからのコメント(2003年10月14日 14時07分04秒 ) | パスワード |
ゆきりんさんへ
久留米、佐賀方面へいってきましたよ(^^)
行武家の家紋も見てきました。そんなにめずらしくは無い紋でした。
3日間で、3000基近くの墓を見てきました。
行き帰り、阿蘇山はまるで、神がやどっているように神々しい雄姿をみせていました。
天気がよくって真っ黒黒に日焼けしてきました。
[27] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年10月14日 21時51分14秒 ) | パスワード |
小林雅成さま
3日間で3000基なんて凄い!さすが!
[28] | ゆきりんさんからのコメント(2003年10月14日 23時21分40秒 ) | パスワード |
小林雅成さま
ありがとうございました。
ほんとに3日間で3000基は、想像を絶します。
一日平均1000・・・・。
そうなんです、私の関係する行武の紋、よくある紋でした。
他の行武家の紋もご覧になったけれど、よくある家紋だったということでしょうか・・・。
私も久留米から阿蘇へ、浮羽などを通り日田へ抜けるルートで
行くはずでしたが、途中で東京へ帰ることになり、残念でした。
阿蘇は本当に素晴らしい、とみなさんおっしゃいますね。
また絶対に行けるはず、と信じています。(^^)
YUKKUさん
YUKKUさんのお家の家紋は私の母方のものとは同じものなのでしょうかね・・・。
行武も、夜須や佐賀の方や広島などにも結構いるようですが、おばあさまが一の瀬ご出身ということは、その中でも近い親戚ということになるのでしょうね。
私の親戚関係では、祖父母とももう亡くなっていますし、余り昔のことに詳しい人がいないようなので、なにとぞよろしくお願いいたします。
[29] | 小林雅成さんからのコメント(2003年10月17日 02時04分51秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラー様
>3日間で3000基なんて凄い!さすが!
ほとんど体力勝負です(笑)
ゆきりん様
>一日平均1000・・・・。
朝ホテルを5時半に出て6時前から暗い中を懐中電灯持って調べ始め、夜7時まえまで調べます。移動時間、食事時間を考えると1つにつき数秒ぐらいです。
>よくある家紋だったということでしょうか・・・。
普通の家紋でした。ただそれだけなんですけど、、。
[30] | ゆっきーさんからのコメント(2003年10月23日 20時31分15秒 ) | パスワード |
!!
驚きです。
僕もゆきりんさんやYUKKUさんと同じく姓が 行武 です。
福岡出身です。
生前の父の話では、戦国時代の長曽我部の家来であったものが
命からがら福岡に逃げ延びた、と聞いていました。
でも、平家のことがとても気になってしまい、さっきおばに
「先祖は平家だったの?」と電話で聞いたところ、あっさりと
「そうよ」と返事がかえってきました。
長曽我部の話も父から聞いたことがあるけれど、信憑性があまりなく、
おそらく戦国時代のどさくさで話がこじれてしまったのではないか、
行武家はそれ以前から朝倉にいて、先祖は平家と聞いている、とのことです。
おばの話と生前の父から聞いていた話を総合すると、
・戦に負け、朝倉の山中に落ち延びた。
(朝倉に行武姓が多いので朝倉に逃げ延びたと思っていましたが、
高良内なのかもしれません)
・「行武」とは戦に負けたことを代々肝に銘じるためか「武士に行き惑うな」
という意味で付けた(祖父談)。
・もしくは、武士であったことを伝えるために名前に「武」を残したのではないか。
・落ち延びて以来、「行武」という姓はずっと隠していた。
・先祖の墓がないのは隠してきたからではないか。
・行武家は代々正義感が強かった。
・貧乏でも教育に関してとても熱心であった。
などです。
おばや父の話によりますと、里から町へ出たのは僕の曽祖父の時で、曽祖父は
警察官だったそうです。里から町へ出たのはゆきりんさんのご先祖様と
同じタイミングになりますね!
それともその前に町へ出た人を指しているのかもしれません。
記憶が定かではないのですが、曽祖父かそのまた前の玄祖父は、困った人を
助けるのには労を惜しまなかった人だったと、父から聞きました。
僕の行武は「ゆくたけ」と読みますが、おば曰く、祖父は「ゆきたけ」や
「いくたけ」と呼ばれても気にしておらず、呼び方はどうでもいいと言っていたそうです。
YUKKUさんの「各自が自由にカナをうっていた」という話と少し似てるのかも
しれませんね。
ゆきりんさんやYUKKUさんと遠い親戚なのかもしれないと、
とっても驚いています。ほんと、血が騒ぎます(>_<)
おばが博多でタクシーに乗った際、運転手さんは行武(ゆきたけ)さんだったそうで、
その方は久留米出身で、おばは朝倉の夜須にルーツがあると言うと、朝倉に「行武」さんが
いることは知っていると言ったそうです。さらに、東北にも平家の落人である「行武」さんが
いらっしゃると言っていたそうです。
行武姓の人口がどれだけいるのかを
http://www.myj7000.jp-biz.net/6000/5100f.htm
で調べてみますと、約2100人だそうです。
この人数では滅多に「行武」さんに会わないわけですよね。
今日は自分のルーツのことが分かり、すっきりしました。
ゆきりんさん、YUKKUさん、これからもよろしくお願いします!
追伸:
僕の後輩の先祖は堀越公方の足利茶々丸だそうで、
墓には茶々丸と彫ってあるそうです。身近にもこんな話があって
ご先祖様の話は興味深いですね。
[31] | ゆきりんさんからのコメント(2003年10月26日 01時24分45秒 ) | パスワード |
ゆっきーさん、はじめまして、こんにちは!
ここに思いきって書き込みしてみて、ほんとに良かったです。
こんな風に、同じ姓の方が集まってきてくださるのですね!
そうして少しずつ情報が集まってきて・・・。
朝倉の夜須は、特に行武姓の多いところですから力強いです。
ゆっきーさんのご親戚には行武姓の方が多くいらっしゃるのですか?
私の母方の場合は(ですので、私自身は実は行武姓であったことはないのですが)
私の祖父には一人だけ女性のきょうだいがいたのですが、お嫁に行く前に亡くなっていることもあり、親戚がとても少ないようなのです。
朝倉の夜須と高良内は、ひょっとしたらそれぞれ別々に落ち延びたのかもしれませんね。ご親戚の方に、どのあたりに隠れていたのかをお聞きになってみたら、分かるかもしれませんね。里へ出てきた時期もかなり最近ですから、どなたかがご存知かもしれません。
行武の姓を隠していた、という話は興味深いですね。
行武の姓は、やはり落ち延びた後でなく落ち延びる前からあったもの、ということでしょうか・・・・。
ちなみに、私の曾祖父(この人が里へおりてきた人とされています)は「信吉」、信吉の父は「善四郎」という名前だったようです(お墓によると)。
ご親戚にお問い合わせの際、この名前を出してみてもいいかもしれません・・。
ぜひとも、これからも一緒にご先祖を探していきましょう!!
[32] | YUKKUさんからのコメント(2003年10月27日 17時19分06秒 ) | パスワード |
目眩がしてきました
すごい。なんか、背筋がゾワゾワ〜するのは 気のせいでしょうか?(+_+)
うちの祖父母、父の兄弟は やりみずにある寺の納骨堂に葬られています
>ゆっきーさん おばさまがタクシーにお乗りになられたのは
いつごろのことでしょう?
10〜30年前の間であれば その運転手は
私の叔父かもしれません。
(残念ながら 既に他界いたしましたが・・・)
うちの行武は 父方の祖母の系なのですが 祖母の妹は健在です。
話を聞く機会があったら 詳しいことをきいてみます。
[33] | ゆきりんさんからのコメント(2003年10月28日 10時17分19秒 ) | パスワード |
YUKKUさん
わたしの先祖のお墓は、恐らく、その納骨堂の周りに数基だけ残ったお墓のうちの1つです。
祖父が、どうしても納骨堂には入りたくない、と言って頑張ったのだそうです。
先日お墓参りに行ったときは、納骨堂の中は見ませんでした。
お寺で頼んで見せてもらっていたら、他にも行武姓の方々がいらっしゃったのかもしれませんねー。
それにしてもタクシーの運転手さんの話、なんか私も背筋がぞわぞわしました。
先祖達が大事にしてきた、しかも珍しい「行武」という名字だから、子孫の我々をいまだに強く結びつけることができるのですねぇ。
[34] | YUKKUさんからのコメント(2003年10月30日 00時18分34秒 ) | パスワード |
父に記憶をたどってもらうと いろんな単語がでてきました
整理して また 書きますね。
ちなみに 一の瀬に住んでいた 曽祖父の名前は 利吉(りきち)といい
ガッチリとした体型で 村の世話役のようなことをしていたそうです。
その曾祖父母が他界した後
祖父母は高良内町にでてきたそうです。
[35] | YUKKUさんからのコメント(2003年10月30日 00時31分41秒 ) | パスワード |
納骨堂の件ですが
うちは 寺にはいっておりますので お寺の納骨堂になります
昔 お墓をまとめるために納骨堂が建造されたそうですが
入らなかった ゆきりんさんのご先祖様のほか
寺があるところはお寺にとりまとめたそうです。
うちは、お寺にはいっています。
げんしょうじ≠ニ言う名前だそうです
(いつも行くのにすみません。漢字がわかりません)
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=33.18.6.745&el=130.33.12.664&la=1&sc=4&CE.x=261&CE.y=266
ここの位置でおそらくあっているとおもうのですが・・・・・。
行武一族のほか 行武から姓がかわったうちの祖母の妹の一族も
ここにとりまとめられています。
お墓は 2箇所あったそうですよ。
ゆきりんさんがおっしゃっている 高台になっている(父談)ところ と
あと 一箇所べつにあるそうです
あと 余談ですが 弓削という名前も 高良内に多いそうです。
名前からして なにかしら 関係があるのでは?と 父がもうしておりました。
[36] | YUKKUさんからのコメント(2003年10月30日 00時46分31秒 ) | パスワード |
全く 関係ないとおもうのですが
うちの母方の姓は 高良≠ニいうのです。
もちろん 久留米出身です。
高良大社 高良山 高良内 ・・・・・
なんだか 気になってしまい かかせていただきました。
こちらの家紋は 羽が2枚たっているもの(名前を忘れました)
残念ながら 行武の家紋を 父は思い出せずにいます。
何かわかったら また お知らせしますね。
ゆっきーさんが おっしゃっている 正義感!
ほんと、それ、あるような気がします。
親族をみていても 正しいことは どんなにぶつかろうと まっこうから
正しいんだ!と言ってしまうようなところが あるようにおもいます。
まさに 私もそうです(笑)
他界した叔父は 高良内町近辺にゴミ処理場建設が計画されたとき
反対運動の先人をきっておりました。ニュースになったりもしたようです。
他界したときには大変たくさんの弔問の方にきていただき
感涙でした。こんなに叔父が慕われていたことが嬉しかったです。
送別式にはげんしょうじ≠フお寺さんのほかに
納骨堂のあるところのお坊さんもこられておりました。
この方は 叔父の友人にあたる方だそうです。
この方もなにかご存知かもしれませんね。
もうすこしはやければ 叔父に直接いろいろきけ
もっと詳しいことが すぐわかったんですが
残念でなりません。
[37] | YUKKUさんからのコメント(2003年10月30日 00時55分41秒 ) | パスワード |
いい忘れました
落人の話ですが
ここで出ている以外に 東北へおちのびた人たちもいるようです
他トピの ー平家一門のなれの果て:隈さんロムして!ー を拝見していて
おもいだしました。
[38] | YUKKUさんからのコメント(2003年10月30日 01時02分59秒 ) | パスワード |
↑ 書き方がおかしかったですね。正確に言うと
"行武"姓で 落ち延びた落人が 東北にもいる ・・・・・ という意味です。
[39] | YUKKUさんからのコメント(2003年10月30日 01時09分55秒 ) | パスワード |
先日 巻物と申し上げていたものは 系図でした
16代ほど さかのぼれるそうです。
どこかのお寺にあるとのことなのですが・・・
わかる範囲でのものなので
中途半端な情報で ほんと申し訳ないです。
[40] | ゆきりんさんからのコメント(2003年10月30日 18時37分39秒 ) | パスワード |
「げんしょうじ」というのは、恐らく「源正寺」ではないかと思います。
http://www.senior-net.gr.jp/arima/mii/3-6simomati.html
この中に「行武利吉」さんのお名前が見えますね!
ここの御井町誌、ちょっと読んでみようと思っています。
ゴミ処理場建設の問題は、今回いろいろと調べていて、初めて知りました。
私も近くに住んでいたら、何らかの形で参加していただろう、と思っていました。
そうですか、叔父様はその運動をされていたのですか。
お会いしてみたかったですね。残念です。
私の関係の「行武」の人々は、「生真面目」というキーワードが
ぴったりするような感じです。
家紋は、下記のページがいいのかしら、と思います。
http://www.harimaya.com/kamon/index2.html
[41] | 田中愛造さんからのコメント(2003年11月02日 03時03分44秒 ) | パスワード |
ゆきりんさん 『石は語る』では、明治・大正期の近い御先祖さんが、多く出てますね。行武グループ皆さんの除籍簿で大半繋がると思います。
さて、先日、下副田氏を調べていましたら、祖・入来院氏の処で、行武名に出会い、
地名として、中世鎌倉期に見える名(みょう)の名、筑前早良郡のうち、正応元年(1288)10月3日の蒙古合戦勲功賞配分状によると、弘安四年の蒙古合戦恩賞地として
薩摩国の渋谷平四郎有重法師跡地に、行武名・若国名内の田地10町、行武名内の屋敷二宇の地頭職が与えられている。(入来院文書・鎌遺16784)これによると・・・樋井郷内地名で現在の福岡市南区柏原の地である。と。
弘安の役で戦死した、平有重の子孫に対して、幕府は樋井(比伊)郷の行武名・若国名
の田地と屋敷二ヶ所を与えた。詳しくは、(東京大学史料編纂所)及び(入来院文書
一〜四十)参考下さい。
[42] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月02日 07時39分55秒 ) | パスワード |
田中愛造さま
すっごぉ〜い!
蒙古で?!
ここから行武姓になったのかしら?
名誉ですね!
[43] | ゆきりんさんからのコメント(2003年11月04日 17時15分10秒 ) | パスワード |
田中愛造様、ギャンブラー様、
コメント遅くなってしまいました。
段々お話が難しくなってきて(いえ、基本的なことなのだと思いますが、そもそも「名(みょう)」がどういうものだか良く分からなかったもので)、ついていくのが大変に・・・。
あんまりトンチンカンなことを言ってもいけないので、少し調べたりしておりました。
このスレッドの中の、
・筑後国山門郡(瀬高荘)に行武名があった(ということでいいのかな?)
・筑前国早良郡発祥との情報
・「少弐家家臣団」の中に「行武長門」の名が見える
・行武という名前は、落ち延びて以降は隠していた可能性がある
・東北にも落ち延びた「行武」姓の人がいる(山口・広島にも・・)
といった情報を総合すると、
・筑後か筑前か或いはその両方にかなり古い時代から行武名があった
・落ち延びた「行武」姓の人々がいなくなってからも、地名として「行武」名は残った(だから恩賞地として与えられた)
ということが考えられるのでしょうか。。解釈、間違っていたらすみません。
さて、新たに少しだけ分かったことがありました。
・高良内の一の瀬の集落には、「ゆくたけどん」と呼ばれる人(だと思いますが)が、行武姓の人々によって、塚のような形で祀られているらしい。塚には、古い石が置いてある。
・いつの時代かは分からないが、「行武3兄弟」がいたらしい。
・一の瀬で、一族の面倒を見る、長老のような方がいたらしい。
・(一の瀬の「行武」姓の人で)長生きをしている人が少ない。
やはり系図を探し出したいですね!
[44] | ゆっきーさんからのコメント(2003年11月04日 18時16分34秒 ) | パスワード |
みなさま
お返事が遅れてしまいました。。
みなさまからのたくさんの情報を興味深く拝見させていただきました。
色々な情報があるものですねー。正直、驚きの連続です。
YUKKUさん> 伯母がタクシーに乗ったのは、けっこう前のことですから
YUKKUさんの叔父様のタクシーであった可能性は
大いに考えられます。もしそうだとしたら、なんだか不思議な
めぐり合わせですよねー。
ゆきりんさん> こちらの行武の家紋は「丸に剣花菱」でした。
ゆきりんさんの行武の家紋「丸に木瓜」とは違うようですねー。
曽祖父、玄祖父の名前まで分かるとよかったのですが
今のところ分かっていません。どうにかして調べて
みたいと思っています。
「行武3兄弟」の話、実は幼い頃から何度か父から聞いてはいましたが、
作り話ではないかと半ば疑っていましたので、前回の投稿には書きませんでした。
ゆきりんさんからその話が出てきたときにあまりの驚きに「えぇっ!」と声が出て
しまいました。
「行武3兄弟」は長男が坊さん、次男が農民、三男が商人で
(ここらへんの記憶は曖昧ではありますが、確かそうだったと思います)
こちらの行武の家系は次男であると聞きました。この話を父から聞いたとき、
幼い頃は面白く聞いたものですが、年を取るにつれて、そんなに昔のことがよく
いい伝わってるなーと、うまくできた作り話ではないかと思っていましたが、
まさか父以外の方から「行武3兄弟」の言葉が聞けるとは思いもよらず、
とても驚きました…
その3兄弟がどのような人であったかは記憶にありません。おそらく父も
知らなかったと思いますが、兄弟3人の中に武士が1人もいなかったのは、
戦で負けたことが理由であり、武士には決してなりたくなかったのではないか
と父は申していました。
長男が坊さん、次男が農民、三男が商人だなんてあまりに出来すぎた話ですよね。
実際のところ、「行武3兄弟」はどんな人たちだったのでしょう。
系図があるらしい、実際自分の目で確かめてみたい、と父が申していたのを
思い出します。系図を見てみたいですよね!
[45] | 田中愛造さんからのコメント(2003年11月04日 20時56分52秒 ) | パスワード |
皆さん。 あまり力になれず、ややこしい事を書き申し訳ありません。
残念ながら、平忠頼以来、重国より渋谷庄司を名乗り、子光重より(本家渋谷以外・東郷・高城・入来院・鶴田・祁答院)の五氏に別れ、各家の分流が異常に多く、説明外です。五郎四郎重経や後家妙蓮尼・重道(通)・重員・公重は、行武の土地と屋敷を領有したるものの、行武を名乗った証拠が出ない。先にtakahiro氏が調べた〈鷹尾神社文書〉瀬高荘の説明で『寿永元年(1182)』のほうが100年弱古くに名乗っていた
事実を考えると、まだまだ古いと思い巡らさずにはおかない。関連としては、桓武平氏秩父流渋谷氏が近いが、判明に至りません。今年中には夜須の近くに行く予定が有るので聞き及んでみます。
[46] | ゆきりんさんからのコメント(2003年11月05日 14時10分38秒 ) | パスワード |
田中愛造さま
とんでもありません。こうして少しでも関連のある情報を色々頂くことにより、全然見えなかったご先祖さんの姿や、現在にいたるまでの歴史の流れが、少しずつ少しずつ見えてくるような気がしてきます。本当にありがたいと思っております。
行武の関係者だけだと、ご先祖の生きた時代がどういうものだったのか、その後の時代がどう流れて今日につながるのか、というところまで全然広がっていきませんが、田中愛造様はじめ色々な方からもっと広い視野での情報を頂くことにより、本当のご先祖の姿が見えてくるものだと思っています。
そこが本当に面白いところですよね。
学生のころは日本史って全然面白いと思わなかったのですが、こんなに面白かったなんて・・!他のスレッドも膨大な情報量ですが、少しずつ読んでいます。
これからも是非ともよろしくお願いいたします!!
[47] | ゆきりんさんからのコメント(2003年11月05日 14時21分28秒 ) | パスワード |
「行武3兄弟」・・・。面白くなってきました。
これで確実に結びついてきましたね!
私のところは兄弟のうちの誰の系統なのだろう・・・。
YUKKUさん、ゆっきーさん、そして私がそれぞれの兄弟の末裔だったとしたらす
ごいよなぁ(恐い?)、とか想像してしまいました。
まあ、それはきっとできすぎでしょう。
もう1つ、情報がありました。
こちらの行武家のお正月のお雑煮は、「あずき雑煮」なのだそうです。
母の話では、落ち延びてきたのが年末だったため、お正月の用意が何もできなかったのですが、たまたまあずきを持っていたのでそれでお雑煮を作った、ということだそうです。祖母が一度作ったのだそうですが、甘くはないため人気がなく、それ以降は作っていないそうです。でも本来は「あずき雑煮」ということです。
先日、うちの親戚の者が一の瀬へ行って、住んでいる行武さんを訪れてお話を聞いてみたそうなのですが(「ゆくたけどん」「3兄弟」はその時に聞いた話)、やはり「あずき雑煮」だということでした。
YUKKUさんとゆっきーさんのところではいかがでしょうね・・・。
[48] | YUKKUさんからのコメント(2003年11月06日 10時40分44秒 ) | パスワード |
父にきいたところでは
『ゆくたけどん』
『行武3兄弟』←ネーミングにウケてました(笑)
については 知らないとのことです。
こんど親戚に聞いてみますね。
『ゆくたけどん』と言ったとたん
[どん]とつけるのは 目上、尊敬に値するひとにつける言葉なので
えらい人だったんだろうね。とのことです
バタバタしてまして まともなレスできなくって ゴメンなさい。またきます〜。
[49] | YUKKUさんからのコメント(2003年12月29日 18時32分13秒 ) | パスワード |
あずき雑煮の件ですが 父は 記憶がないそうです
[50] | 石井平五郎さんからのコメント(2004年04月28日 21時17分55秒 ) | パスワード |
はじめまして。
「行武」姓についての議論が行なわれていたので、興味を持ち参加させていただきます。というのも、私の生家石井家の中で、石井石見守忠繁の娘を妻にした行武長門守という人物がいます。
この系統は、石井姓を名乗り、佐賀藩家老をつとめています。佐賀では「行武石井家」と称され、石井寄合衆の総領となり幕末に至ります。
行武長門守の先祖は私も知らなかったため、とても勉強になりました。これからも宜しくお願いします。
私もHPを開設しておりますので、是非遊びにきてください!!
[51] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月28日 23時19分16秒 ) | パスワード |
石井平五郎どの
素敵なHPですね。
新しいスレッドを立てて「うちにも来てください」と書き込んでくださってたら
もっと嬉しかったです。
○に三つ鱗紋を「山型」と呼んでいたというのは知らなかったです。
馬印に鳩が使ってるというのも初めて拝見しました。
ありがとうございました。
[52] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月28日 23時20分34秒 ) | パスワード |
ゆきりんさん
タイトルをちょっといじらせて頂きますね。
[53] | やすべえさんからのコメント(2004年10月03日 23時01分29秒 ) | パスワード |
うおぉぉぉぉぉぉ!
自分の姓をキーワードに検索してたどり着きました。
ちょっと記念の書き込みをしておきます。
現在東京に居ます。
平家?そうなのか???
日本史にあまり興味が無く歴史上の人物くらいにしか思ってませんが!
今度実家に帰ったら、ちょっと親父に尋ねてみるか?
(全く聞いたことが無い)
フリガナはユクタケです。
もちろん、実家は久留米市高良内町です。
無くなった祖父母の葬式は源正寺でした。
[54] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月03日 23時17分12秒 ) | パスワード |
やすべえさん
是非御先祖さまについて長老の方達などからお聞きになって書き込んでください。
高良大社
〒839-0851 福岡県久留米市御井町1番地
高良大社所蔵、覚一本『平家物語』(重要文化財・旧国宝)
やすべえさんの御先祖さまはバリバリの平家だったかもです。
[55] | ゆきりんさんからのコメント(2004年10月05日 16時25分51秒 ) | パスワード |
ものすごく久しぶりにここを開いたら、たまたま新しい書き込みがあったので
びっくりしました。
やすべえさん、
ここのところ新たな手がかりがないので、是非、今度お父様にお尋ねになってみてください!
お寺の方に聞いてみるのもいいかもしれません。
よろしくお願いします。
[56] | 酔兵衛さんからのコメント(2004年10月05日 21時33分55秒 ) | パスワード |
行武をキーワードに検索したらこのサイトにたどり着きました
私、福岡県朝倉朝倉郡夜須町在住の行武です
伝承ですが、平家の落人ということで聞いています
夜須 行武 は現在、全部が一門ということにはなっておりません。
私の一門は、寺院を一門に抱えております
しかし、過去の記載を見ますと、皆さんの調査のすごさに
驚いております
[57] | やすべえさんからのコメント(2005年01月01日 13時26分10秒 ) | パスワード |
新年明けましておめでとうございます。
久留米の実家に帰省中です。
早速、親父に聞いてみました。
行武の姓は、高良内と朝倉郡夜須町の他、佐賀県小城にもあると...
みなさんご指摘の通り、やはり「平家の末裔」と聞いてるとのことでした。
[58] | やすべえさんからのコメント(2005年01月02日 12時22分46秒 ) | パスワード |
追記です。
親父が言うには家紋は花木瓜だそうです。
[59] | ユージLOWさんからのコメント(2005年03月28日 03時13分22秒 ) | パスワード |
URL=http://www.teamauroradesign.com |
はじめまして
偶然このサイトを見つけ
つい書き込んでしまいました
僕のひいおじいさんは
浮羽郡妹川出身の槍水源八さんと言います
母から平家の末裔だと聞かされていました
こちらに来て拝見した所
かなり聞いていたキーワードと一致して
驚いています
壇ノ浦で敗戦して槍を水に流したので鑓水だと聞いています
僕はずっと大阪にいますがいつか
ルーツをたどりたいと
今はドキドキしています
歴史の大きな流れの中で心が揺れてきます
[60] | ユージさんからのコメント(2005年03月28日 03時15分30秒 ) | パスワード |
URL=http://www.teamauroradesign.com |
たびたびすみません
確か家紋は検花菱だと聞きました
剣花菱?
[61] | いくちゃんさんからのコメント(2005年05月14日 00時02分30秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2007年02月05日 19時14分19秒
[62] | 「丸に抱き茗荷」で佐賀鍋島藩さんからのコメント(2005年05月14日 01時29分12秒 ) | パスワード |
はじめまして九州特に北部には○武という武が付いた名前よく
見かけます。安武、力武、百武などなどさすが武の国・九州
です。行武氏はあまりしらなかったけど聞いたことはあったり
なかったり、何か又あれば書かせていただきます。
あと気になったのは江戸期の佐賀藩主鍋島家の家紋は(鍋島)杏葉紋
だと思います。戦国期に大友軍を破ったときに記念して敵の大友家の
家紋の杏葉紋に改める。
http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-enmt/indextop/kamon.html
浄土宗の寺院も杏葉を寺紋として宗祖法然上人
の生家、美作国の漆間氏が大友能直の弟親茂の末という豊後国国東郡立石庄
に起こる立石氏の支族の故という。(?これは漆間氏に立石氏から養子が
入った、のだろうか?)
行武氏は珍しい名前なので他氏はなさそうだしある程度わかれば
急速にわかりそうですね。九州の他の氏族から探ってみると
面白いのではないでしょうか。しかし何かに載ってた様な・・・。
[63] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月14日 02時27分42秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
行武の地名について
筑後国山門郡瀬高庄行武
筑前国早良郡行武名
肥前国基律郡堺別符行武名
の三カ所があり、行武姓の分布は福岡県に多く特に朝倉郡夜須町東小田に集中。
しかし佐賀県東部にも集中が見られる。
筑後で発祥して筑前、肥前と地名が遷移したのか、
別々に発祥したのかは不明である。
平家の落人説だが、似たようなケースとして平教盛の子門脇教満が鎮西に下向、筑前姪浜に居住。その後、肥前国小城郡に移り納富を称して藤原に改姓。子孫は鍋島藩士。
[64] | 武ちゃんさんからのコメント(2005年08月14日 11時26分59秒 ) | パスワード |
はじめまして!
今日は、御盆です。
源正寺へお参りです。
ここの納骨堂には、行武家が、結構ありましたよ。
何件有ったかは、数えてないんですけど。
あと、家紋も色々と有ったような・・・・。
[66] | まりもさんからのコメント(2005年10月07日 08時00分18秒 ) | パスワード |
はじめまして、突然参加します。
私も行武(ゆきたけ)の一人です。
私のルーツは広島の県北「三次(みよし)」というところです。
小さい頃から、先祖は平家の落武者だったと聞かされていたので、ここに書き込まれている皆さんの情報を読んで、とても実感がわきました。うちはわかっているだけでは15代ぐらい続いています。下問は下がり藤だったような…。
なんだか偶然見つけたサイトだったのですが、感動と驚きと鳥肌が止みません!九州の行武さんたちとも、きっとどこかで繋がっているのでしょうね。
[67] | まりもさんからのコメント(2005年10月07日 08時27分25秒 ) | パスワード |
ひとつ思い出しました。
父から聞いていたこと…うちの先祖は「一の谷の合戦で敗れて逃げ延びた」ということです。(調べたことがないので、正否は明らかではありませんが)
ということは、九州の行武さんたちとは少し違うのかも。
[68] | Sithさんからのコメント(2006年03月06日 16時05分28秒 ) | パスワード |
源正寺の先代ご住職が亡くなったのですね。
母の葬儀の時には、本当にお世話になりました。
謹んでご冥福をお祈りします。
[69] | さださんからのコメント(2009年03月20日 23時41分39秒 ) | パスワード |
自分も行武です。現在も福岡に住んでいます。祖母に聞いた話ですが、先祖は高良山(久留米)から出て来たそうです。その時の正月は何もなかったため、小豆の雑煮と鰯を並べたそうで、今でも正月は鰯を出します。さすがに小豆の雑煮は食べませんが・・・(おいしくなかったため)。あと、うちのお墓は今でも鑓水にありますし、家紋は丸に四方木瓜です。
[70] | いっくんさんからのコメント(2009年07月16日 18時51分16秒 ) | パスワード |
突然おじゃまします。遅すぎたかもしれませんが、お仲間に入らせて下さい。私も行武(「いくたけ」。以前は「ゆくたけ」でした。)ですが、本家は久留米市の高良内町です。ご先祖さんの墓は一ノ瀬にあるそうです。大昔の話ですけど、本家には家系図があって、それを祖父が三潴郡(現在福岡県久留米市三潴町など)の人に売ってしまったそうです。父によると、最初の方に「行武さまのじょう(字はわかりません)」という名前があったそうです。
[71] | ゆゆゆさんからのコメント(2009年08月16日 17時14分29秒 ) | パスワード |
こんにちは。
私も行武(ゆくたけ)です。
佐賀生まれ佐賀育ちです。
興味深く読ませていただきました。
何やら全国の「行武」が集合しつつありますね。
ちなみに、うちの正月は「あずき雑煮」です。
[73] | 武 坊さんからのコメント(2010年05月02日 08時43分07秒 ) | パスワード |
一昨日実名で投稿しましたところ、身内から、「ヤバイ」のではないかとの指摘を受け急遽削除しましたので、改めて投稿させて頂きます。
私は午年生まれで、79歳と半年になる男性です。
祖父は『利吉」と申し6尺豊かの大男(昔の基準)眉が濃く田舎相撲の「大関」を張ったことがあると聞いております。
祖父の代に「一ノ瀬」から、高良内の「井堀」と言うところへ降り来て晩年まで過ごしました。「利吉」は村の世話をしていたようで、紋付袴の正装をしてよく出かけていたことを記憶してます
祖父は次男坊の私を良く可愛がってくれましたが、ルーツに関する話は一度もしてくれませんでした。神棚の横に「槍」と「箱に収めた手鏡(金属製)」を置いてましたが、戦時の「金属供出」の要請から、父が供出してしまいましたので、何も残ってません。お正月は我が家でも、「アズキ入りのお雑煮」で鰯が添えてありました。その鰯は7日に焼いて食べさせられました。又、「元服」の祝いのときは「鯛}が添えてありました。「利吉」は昭和16年12月8月4日に70歳で没しましたが、亡くなる前の約1週間入院をしてましたが、「俺は今晩死ぬから、お世話になった方々にお礼の挨拶をせねばならぬから」と医者が止めるのも聞かずに退院し、その晩に亡くなりました。父は養子でしたので、ルーツに関することにウトイのか、或いは「口止め」をされていたのか、全く話を聞くことはありませんでした。今現在で把握出来てることは「利吉」の父は、徳右ェ門(明治35年22月27日没)その前が「徳兵衛」(明治元年辰年12月16日没)「徳兵衛」の父「文左ェ門」となりますが、この先については、目下調査中です。判明次第ご披露いたします。
それから、小学校には(在校生約600名)「行武」の姓を持つ者は兄弟を除き1名だったと記憶します。又、鑓水には「田中」「内藤」「古賀」の姓が多く同姓はいませんでした。一方「一ノ瀬」にも同姓は1軒のみでした。
予断ですが、「一ン瀬」手前の「カラタニ」にダムを作る計画が持ち上がり,「一ノ瀬」が水没の危機にさらされろところでしたが、予算の都合で立ち消えとなりホットしたところです。情報をお持ちでしたら教えて下さい。
[74] | 武 坊さんからのコメント(2010年05月02日 22時03分31秒 ) | パスワード |
ゆきりんさ
高良内一ノ瀬の「行武3兄弟」と言うのは、多分私の祖父「利吉」の兄弟を指すのではないかと思います。確信はないのですが。子供の頃は一ノ瀬へ度々行っておりしたが、人様から3兄弟のことを耳にしたことはございません。
一ノ瀬には、昔、銅山(3年前行った時には採掘を再開してました)がありますが、実家が村へ降りる前は、銅山への入口の手前の橋のところに住んでおりました。(集落からは多少離れた一軒家です。)祖父の兄弟の家へ行ったことはございませんので、或いは祖父とは別人かもしれません。ちなみに今現在で把握してます先祖は、「利吉」−【徳右ェ門」−【徳兵衛」−「文左ェ門」までです。「文左ェ門」になりますと「文化時代」の頃になりますので、お寺の
「過去帳」「源正寺」にあるかどうか、現在御井町に居住の妹が、アレコレと手をつくしておるところです。間違いであればご免なさい。調査結果新事実が判明したら、即刻お知らせいたしますが。先祖を辿る上で参考になる情報をお持ちでしたら教えて下さい。
[75] | 武 坊さんからのコメント(2010年05月03日 11時41分36秒 ) | パスワード |
「利吉」に聞いた話です。久留米には終戦まで師団があり、歩兵隊・戦車隊・予備仕官学校(他にも騎兵隊・工兵隊・野砲隊等々)と国分・御井町から高良内にかけて在りましたが歩兵隊の兵舎を建て明日は兵隊が入ると言う前の晩に全部倒れたとい言うことでした。私が小学生の時に「予備仕官学校」が出来ましたが、私達も駆り出されました。その時に見たのは広大な敷地の隅から隅まで掘り返されており、相当量の人骨を始め鎧・刀剣類の武具でした。仕官学校が完成した折には、校庭の一番東に当たる場所に立派な「慰霊碑」が建ててありました。戦後直ぐに「進駐軍」が仕官学校に駐屯しましたが、取り壊されること無く現在も建っております。高良内と言う地が昔かなりの激戦地であったこよを物語っているように思います。斯様なことから落人達は奥へ奥へと逃げざるを得なかったのではないでしょうか。兵舎が倒壊したのは、戦のよる犠牲者の怨念によるような気がしてなりません。
[76] | 武 坊さんからのコメント(2010年05月05日 07時53分41秒 ) | パスワード |
ゆきりんさん
始めまして。私は高良内は「井堀」(小学校から東へ3〜400mの所)の出身ですが、ゆきりんさんのコメントを読みますと何か共通するところあるように思います。まずお雑煮にアズキがはいること・家紋が確か「丸に木瓜」「行武姓」とあったこと。(勘違いかな)我が家も「家紋」「アズキ」「行武」は同じです。今日までルーツを辿る手懸かりを得ることが出来ませんでしたが、今回出会うことが出来て意を強くしてます。教えて頂きたいことが沢山ありますので、お差支えなければ、下記のアドレスへご連絡賜れば大変有難く存じます。79歳で先行きが短いので、今のうちに貪欲に情報を仕入れたいと思ってます。よろしく
bajgq200@jttk.zaq.ne.jp
[77] | 行武さんからのコメント(2010年05月29日 23時11分51秒 ) | パスワード |
私も行武(ゆきたけ)です。祖父は佐賀に養子に入り行武姓になったようです。私は現在神奈川に住んでおり、2人の男子がおり 関東で行武の増殖をもくろんでおります。
[78] | ゆっきィさんからのコメント(2010年09月08日 16時10分10秒 ) | パスワード |
私もなんとなく このあまり聞かない
姓をキーワードに検索してみましたら、
見つけてしまいましたあああ!!
すごい。
私も、佐賀県ですが、久留米市のすぐ隣町に
住んでおります。 行武(ゆくたけ)です。
近所には、3件ほど同じ行武姓の方がいらっしゃいますが、
親戚ではありません。
平家だったんですね〜
余談ですが、久留米市〜佐賀市に行く国道に
「行武橋」
と、言う橋があります。
なにか、いろいろな話に
この橋もなにか意味があるのでは?
と、気になってしまいました。
[79] | YUKKUさんからのコメント(2010年12月03日 00時49分57秒 ) | パスワード |
武坊さま
はじめまして。
[34]で私が投稿させていただきました内容を転記させていただきますと
>一の瀬に住んでいた 曽祖父の名前は 利吉(りきち)といい ガッチリとした体型で 村の世話役のようなことをしていたそうです。その曾祖父母が他界した後 祖父母は高良内町にでてきたそうです。
つまり・・・・
私のひいおじいちゃん = 武坊さんの おじい様
同一人物ということですよね?
武坊さまのお父様と 私の祖母(他界いたしております)が 血縁関係(きょうだい)だということになりますよね。
祖母には 妹しかいないと思っておりましたが
もしかして まだ知らない血縁関係が存在しているということなのでしょうか。混乱いたしております。
それにしても、利吉さんには なにか底知れぬエネルギーを感じますね。
ご自分の他界される日がわかるというのはすごいことですね。
ダムの話といえば 20年以上前にも ありませんでしたか?
[80] | ぎょうぶさんからのコメント(2011年08月11日 00時14分12秒 ) | パスワード |
福岡県北の行武(ゆくたけ)です。
我が家の家紋は「大根」です。「違い大根」
皆さんとは違うようですね…
[81] | ゆきたけさんからのコメント(2011年11月17日 23時27分46秒 ) | パスワード |
広島県北部の行武です
我が家の家紋は下がり藤がついております。
66さんと同じく三次の付近が本家です。
同じような方がいてびっくりしました
[85] | ゆくゆくさんからのコメント(2019年01月24日 21時28分52秒 ) | パスワード |
行武・平家・高良内・高良大社...。高良内で育った私は「平家の末裔」だと言われて大きくなりました。壇ノ浦から落ち延びた一派で、知盛の家臣だったと聞いています。ちなみに高良大社の参道にある鳥居は、私の祖父が寄贈しました。
行武・平家・高良内。実に興味深いです!
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