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 投稿番号:100085 投稿日:2001年02月27日 10時44分42秒  パスワード
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久留米の安徳天皇潜幸説:執行姓
キーワード:朝日寺
コメントの種類 :その他  パスワード

わたしが筑後の落人伝説の情報を得たHPは、ある大学の先生がご自分の研究テーマをまとめられたものです。
その先生に問い合わせたところ、次のような安徳天皇潜幸説を教えて下さいました。
*****抄録*****
久留米市大橋町常持「庄の前宮」には、以下の伝承がある。
初音・喜太夫」という二人の身代わりに助けられた安徳天皇は、二位の尼や平知盛らと共に壇ノ浦を脱出し、小倉・甘木を経て平家の天領浮羽郡田主丸字平(竹野村平)に入館された。
途中、飴屋と薬屋に助けられたが、実は源氏方の間諜であったという。「平」の館を源氏に急襲された一行は、知盛の身代わりとなった「伊賀平内左衛門尉家長」らの計らいで約半里の「タカヅシ」という農道を下り常持村の船着き場に逃れた。
二位の尼は「庄の前宮」に手鏡を奉納された(この鏡は、拓本が遺っている)
一行は、筑後川へ漕ぎ出し、久留米の北にある高野の浜へ到着。以降、同地松田某−鳥栖市下野立石儀右衛門−久留米小笹山藤吉種継−荒木村白口松田某別荘と転々としその間藤吉種継の娘千代と結婚し一男を出生された。
この御子が、大善寺町朝日寺開山神子栄尊である。
安徳天皇は二八歳で天然痘に罹られ崩御。亡骸は、篠山に埋葬された。菩提寺は、京の隈(現在の京町)日輪寺とされる。
元和七年(一六二一)久留米城主有馬豊氏が城を改築した時に、数々の遺物の中に宝剣があり、小森野町にある二位の尼の墓近くに埋めたとされる。
また、一説には、帝の墓は下野の老松神社とも言われる。
帝に仕えた侍女按察使局伊勢によって創建された尼御前神社が今日の「水天宮」になった。
平知盛については、田主丸に知盛塚(実は、身代わりになった伊賀家長)がある。
八女市には、知盛の子孫である旧家(平隆吉 氏)があり、知定・知時などの名前が家系図に記録されている。
*****

[1]さんからのコメント(2001年02月27日 10時45分57秒 ) パスワード
  

先日も書きましたが、久留米水天宮のHPには『平知時の四男が按察使局の養子に入って水天宮社家(真木家)の祖となった』とありました。
[2]さんからのコメント(2001年02月27日 10時47分16秒 ) パスワード
  

この説では、朝日寺開基の栄尊禅師の父は平康頼ではなく、安徳帝ということになっています。
これは突飛な説かも知れませんが、私も朝日寺開山の年(1246年)から考えると、平康頼が父親ではちょっと親子の年が離れすぎのような気がしていました。
鹿ケ谷の事件が1177年で、安徳帝は1178年生まれ。
年回りは、安徳帝を父とした方が当てはまると思うのですが。
[3]服部 明子さんからのコメント(2001年02月27日 22時16分54秒 ) パスワード
  

凄いお話ですね!
ありがとうございました。
[4]皇竹さんからのコメント(2001年03月01日 15時10分03秒 ) パスワード
  

面白いですね
各地にいろんな話が伝わってますね
特に九州は多いと思います
[5]皇竹さんからのコメント(2001年03月02日 09時32分15秒 ) パスワード
  

村松定孝氏の「落人伝説を読む」を読んでいましたら、
次のような話が出ていました

佐賀県山田郷(大和町)の水上山寺の寺伝によると、
肥前の川上村の万寿寺というお寺を開山したのは、
神子和尚で、実は安徳天皇であったというのである。
安徳帝は西海の戦いに破れ、川上に逃れ、
御年20才にて出家し、宋の国へ渡られた。
帰国後この土地に一寺を建立し、万寿寺と号したという。
又寺内には宝剣堂があり、宝剣が箱に納められていて、
これが例の三種の神器ではないかと?
しかし、「扶桑僧宝伝」には神子和尚は平判官康頼の子と書かれている

以上ですが、私には土地感がなく、地名や寺名が出てきても
どのようにつながっているのか、余りピンと来ないのですが・・・・。、
[6]服部 明子さんからのコメント(2001年03月02日 10時00分23秒 ) パスワード
  

平家または平氏系の貴人の家の出であることは確かだったのでしょう。


なかなか面白いですね。
[7]さんからのコメント(2001年08月22日 11時02分59秒 ) パスワード
  

久留米市民図書館で検索して頂いたところ、久留米の安徳帝潜幸伝説はかなり資料が多いそうで、幾つか適当なものを選んで送ってもらいました。
ご報告しなくてはと思っていたのですが、私事で忙しく、つい先延ばしになってしまってすみません。
取りあえず、まとめて紹介します。
*******************

神子栄尊出生譚には幾つかのパターンがあって、帝を匿ったと言い伝えられる立石家の「遺言書」や執行家の「旧記」には安徳帝の御子であると記され、「朝日寺縁起」には平康頼の子、とあります。
なお、立石家の古文書では、源氏の追捕の手から逃れるため、栄尊の初節句の時に平康頼の子であると偽った、と記されています。
その他にも古文書によって、栄尊の母の名も「千代」、「玉江姫」の二通りあるし、母の父(つまり帝からみると義父)の名も「藤吉」種継だったり「藤原」種継だったりして一様ではありません。
ただ、潜幸経路を「下野〜長門石〜大善寺(=荒木村白口)」と記すなど、その他の話の筋はおおむね一貫している、ということです。

最近『佐賀県の歴史(山川出版社)』を読んでいたら、元寇の頃、肥前佐賀庄の土豪に「安徳氏」が存在した、と書かれていました。
地理的にも近いし、荒木村白口の「安徳さん」の祖先ではないかと思います。

ちなみに、何故筑後・肥前で平家一門の霊が盛んに祀られるようになったのか、というのには理由があると言われています。
もちろん、この辺りが平家の荘園(筑後・三潴荘、肥前・神埼荘など)だったことも関係しているのですが、高良山の信仰とも深く関わっているのだとか。
高良大社や玉垂宮がそもそも祀っているのは、宇佐神宮でも祀られている高良玉垂命(神功皇后)=水の守り神。
この辺りは昔から筑後川の恩恵を受けてきましたが、その一方で水害にも悩まされ、地域住民は何とか水難から逃れたいと思ってきた訳です。
そのため彼らは平家一門の鎮魂と筑後川の水難防止を兼ねて、彼らを水の守り神として祀った(水天宮等)。
それがもともとあった高良山信仰と重なって広まった、というのです。
庶民にとっては、遠い昔の神様より、身近な支配者であった平家一門の方が分かりやすかったので、高良山側でもこれを巧みに取り入れ、新しい信仰として広めたという訳です。
このHPでも紹介されていましたように、高良大社には平家物語「覚一本」というのが伝わっています。
高良大社にはかつて盲目の琵琶法師や巫女がたくさんいて、筑後版の平家物語や落人伝説を広めてまわっていたようです。
高良山西麓の国分町には、平家落人の塚も存在したようです(少なくとも昭和40年代までは)。

「筑後地区郷土研究」より〜
彼(栄尊)は肥前水上山の真言寺を再興して、水上山(または川上)万寿禅寺と名づけたが、このすぐ近くには「二位尼村」がある。「神子栄尊」の称号は宇佐八幡から授かったという。

肥前の万寿寺・・・現在の佐賀県佐賀郡大和町川上。
佐賀市の西隣の町。川上川の河岸から少し山手に上ったところです。
道路地図を見たら、今ではゴルフ場の敷地内。
川を少し下ると、確かに対岸に「尼寺(にいじ)」という地区があります。
[8]嘉村孝さんからのコメント(2002年07月28日 20時54分40秒 ) パスワード
  

初めまして。書き込みしてみます。万寿寺は福岡承天寺の末寺で、中国の万寿寺から寺号が採られています。今、大和不動カントリークラブの隣です。元は今よりずっと広かったらしい。鍋島氏の祈願所で滝不動があるので今もお不動さんと呼ばれています。先日も行ってきました。
神埼の庄と福岡の那珂川方面とは古代以来関係が深く、那珂川町に安徳天皇が逃げてきて、旧安徳村です。今も安徳小学校あり。
神埼の北脊振村鳥羽院には、ご陵あり。後鳥羽上皇の墓ともいいます。
執行さんは今もいて、神埼の庄の総鎮守櫛田宮の神事を執行するから。京都の八坂神社と関係あり。もちろん33間堂も神埼の庄の揚がりが寄与しています。
などなど書きたいことは山々ですが。取り急ぎ情報提供します。
なお、私の「博物館」にご来館いたただけると嬉しいです。
武士道バーチャル博物館と申します。関係の資料もあります。サーチエンジンで一発です。
[9]服部 明子さんからのコメント(2002年07月28日 21時57分15秒 ) パスワード
  

嘉村さん

ありがとうございます。
またよろしく。

安徳小学校というのがあるというのが凄いです。
[10]服部 明子さんからのコメント(2002年07月28日 22時08分45秒 ) パスワード
  

嘉村さんのHP面白かったですよ。↓


葉隠武士道と徳川武士道とのちがいはどこにあるのかといいますと、
東大名誉教授の相良亨先生も述べておられますが、
前者は仏教(特に禅宗)をバックボーンとし、
後者は儒教(ただし、日本化されたそれ)をバックボーンとしている点にあります。
[11]服部 明子さんからのコメント(2002年07月28日 23時37分09秒 ) パスワード
  

嘉村さん

ありがとうございました。
地元ならではの情報は大変参考になります。
下記に付きまして、また書き込み・転載などよろしくお願い致します:


>そういえばユズリハ日向の守のことまであって感激。
>少弐政介からの手紙の名宛人で、
>政介が多久へ逃げて自刃した経路が天山の裏の山間部かな、
>それにはユズリハ日向の守などの勢力が関係?とか思いをめぐらしているところです。

地元ならではの土地鑑はヨソ者にはございませんのでよろしくお願い致します。
[12]さちこさんからのコメント(2002年07月29日 21時37分21秒 ) パスワード
  

嘉村さん

HP拝見致しました。
とても興味深く読ませていただきました。
私には一度読んだだけではとても理解できそうもないので、
お気に入りに加えさせていただきました。

後鳥羽上皇の墓といわれるものがあるのですか?
色々な伝説の残る所なのですね。

後鳥羽上皇は隠岐でお亡くなりになり、
火葬された唯一の天皇だったという話を聞いたことがありましたが。

上皇とこの地はどういう関りがあったのでしょうか。
是非また色々と教えてください。
本当にありがとうございました。

明子さん
確か伊賀の局が後鳥羽上皇の寵姫でしたね。
承久の乱の発端が彼女の領地のことでした。
隠岐に流された上皇について行き最期までずっと一緒だたとか。
何かありますね。(笑)

隠岐で後鳥羽上皇の墓を代々守ってきたのが村上家です。
歌手の西川峰子が嫁いだ家です。(関係ないか)

吉野の後醍醐天皇陵はしっかり宮内庁管轄地と書いてありましたが。
後鳥羽上皇の墓は民間で管理しているのしょうか?
[13]嘉村孝さんからのコメント(2002年08月03日 22時17分52秒 ) パスワード
  

要領がわからず、自分の書き込んだ話がどこへいっちゃったのか不明で失礼致しました。電車の中のpdaから知る範囲の地元のことを書き込みます。

そもそも神埼の荘は鳥羽上皇以来の院の荘園でして現在も政所や鳥羽院といった地名が残っています。その西に佐賀市が入り込み、その西が万寿寺のある大和町です。これらの町を東西に貫き律令時代の官道が通っています。
大和町は律令時代に国府があったところですから、国分寺があり国分尼寺がありました。尼寺(にいじ)の地名はその名残です。
元へ戻して、この神埼の荘という穀倉地帯に目をつけたのがご承知のとおり平家で、平家はそのあがりを今の東脊振村の坂本峠などを使って博多方面に運んだらしい。このことは五味文彦先生の本にありますが、実際はそれ以外にも何本も有明海側から博多方面につながる道があったと思われます。それは近代でもそうですし、室町時代の朝鮮の「海東諸国紀」に明らかです。
そして坂本峠を越えると福岡県の那珂川町で、那珂川が流れています。神埼の櫛田宮は博多の祇園山笠で有名な櫛田神社の本家とよくいわれますが、そうでしょう。博多の櫛田神社は古くは南の神埼の方を向いていました。
そして、その平安末期、ここを仕切っていたのが原田種直で、彼は平家により太宰の少弐に補されていたので、安徳帝をかくまったというわけ。その後この那珂川ルートは極めて重視されたようで、鎌倉時代、少弐どおしの岩戸合戦もあったわけです。
この少弐と謝国明が開いたのが博多駅そば、御笠川沿いの承天寺で、聖一国師円爾で名高い。円爾はその後、京都に東福寺を開くために上洛しますが、弟子栄尊に開かせた寺が万寿寺(九大・川添昭二教授の書かれた承天寺の説明)。寺号のいわれは、中国浙江省の北にある、円爾の先生・無準師範のいた万寿寺からとる。京都五山の万寿寺もこちらが元というわけ。
ただ、実際は神子和尚が開いたというのもわかるわけで、もっと古いでしょう。大和町の説明板にもたしか康頼の子神子和尚とあったような。
さて後鳥羽上皇ですが、全くの伝承ですが、神埼町の北、もちろん神埼の荘の一部脊振村鳥羽院の山の上に土饅頭があり、隠岐を脱出してきた上皇が村人の進めたヒエを食べて感激。「かくばかり身の暖まる草の名をなどてか人はヒエというらん」と読まれたとか。
このあたり、正に山ですが、かつては脊振千坊といわれた修験道の山、あるいは貿易ルートであり、更には蒙古襲来の時、迷い込んだ蒙古の軍勢と戦をしたなんて話もあります。
またおいおいと書かせていただきます。
なお私、防府、北九州方面も多大なる関心と若干の縁故あります。
[15]服部 明子さんからのコメント(2002年08月04日 00時06分52秒 ) パスワード
  

どこに行ってしまったか分からなくなりましたら検索機能をご利用になって下さい。
このサイトは検索機能がついてますけど・・・
どういう語で検索したら良いのか・・・
そういう問題がありますね。
ふふふ


埋もれては惜しいので新しいスレッドで
防府・北九州方面も是非お書きになって下さい。


>神埼の荘

母方先祖(伊予国河野氏)が神埼に土地を貰ってたという話を読んだことがあります。
九州に土地を持ってたから蒙古来襲に召集されたとか。
どういう所だったのかよく分からなかったのですけど豊かな土地だったのですねぇ。

>後鳥羽上皇ですが、全くの伝承ですが、
>神埼町の北、もちろん神埼の荘の一部脊振村鳥羽院の山の上に土饅頭があり、
>隠岐を脱出してきた上皇が村人の進めたヒエを食べて感激。
>「かくばかり身の暖まる草の名をなどてか人はヒエというらん」と読まれたとか。

後鳥羽上皇隠岐島脱出伝説ですか?
おとなしく隠岐の島にいるような方ではないとも思います。
島の人でもお止め出来ないでしょうし。
亡くなった事にして脱出させたのかもですね。


>この少弐と謝国明が開いたのが博多駅そば、御笠川沿いの承天寺で、
>聖一国師円爾で名高い。

「時宗」に出て来た人物ですね。



安徳天皇の「宋」国への脱出というのはしんぴょう性が出て来ました。
もともと何代にも亘って宋と貿易してたのですものね。
宋と日本を行き来してたかも知れないですしね。

平知盛さま3男の、対馬だか壱岐だかを乗っ取った話も、
半島や大陸(宋)が近いから有り得たのかも。
[16]嘉村孝さんからのコメント(2002年08月04日 13時34分28秒 ) パスワード
  

神埼の荘は、院の領地から承久の乱で正に後鳥羽上皇側がアウトになってしまって、三浦一族が領有。しかし、それも1247年の宝治合戦で滅んで、北条氏直轄に。そして、元寇の恩賞地不足から各「保」単位みたいな形で御家人に分かたれました。
河野さんもそれじゃないでしょうか。
私のとなりの家も中原(はかばると読みます)さんですが、関東の御家人と思います。大分の大友(本来中原。小田原の大友郷に由来)と同じ姓ですし。
[17]嘉村孝さんからのコメント(2002年08月04日 21時06分02秒 ) パスワード
  

失礼しました。前前回に勘違いあり。万寿寺を開いた人、「神子栄尊」です。つまりこれが康頼の子か安徳帝の子か第三者かが問題なんですよね。
当時の偉い坊さんには貴種の子が多いし、第三者じゃないかも。
でもその程度は文献にないのでっしょうか。
[18]服部 明子さんからのコメント(2002年08月04日 21時13分44秒 ) パスワード
  

>大分の大友(本来中原。小田原の大友郷に由来)と同じ姓ですし。

小田原でしたか・・・
では早速友人に知らせなくては。
[19]嘉村孝さんからのコメント(2002年08月05日 00時35分08秒 ) パスワード
  

服部明子さん、さちこさん、その他の皆様

そうか、はじめにまるまるさん、とつけるのがテーマが定まってよいわけですね。
これからだんだん流儀を勉強させていただきます。パソコン通信やインターネットの経験は古いんですけどね。
ついでに一つ、神埼の荘の後身、JA神埼郡は現在でも事業量佐賀県1です。昔は佐賀県の主たる産業は米と石炭でした。その米が平家の注目するところだったんですね。
全国的にみても沖縄、千葉の次に平坦な県で、米つくりに向いているんです。
[20]服部 明子さんからのコメント(2002年08月05日 04時07分43秒 ) パスワード
  

>平坦な県で、米つくりに向いているんです。

あ〜
それで「豊かな国」(米どころ)という事だったのですね?!


ご自分が使い易いように新しいスレッドをお立てになって書き込みを始めて下さい。
それが1番良いと思います。
私も時々自分がどこに何を書いたか忘れてしまって途方に暮れてしまいます。
検索機能を利用するのは面倒ですし。
[21]さちこさんからのコメント(2002年08月06日 13時29分06秒 ) パスワード
  

嘉村さんありがとうございました。

後鳥羽上皇隠岐脱出説ですか?
面白いですね。
後鳥羽上皇だけが火葬だったというのは確かに不自然ですよね。
後醍醐天皇の隠岐脱出ドタバタ劇と重なってまうのですが。

村上家というのは水軍ですが、
服部家とは古くから繋がりがあったのではないかと思ってます。
今もうちの菩提寺の住職が村上家で古くからの親戚だったと伝わってます。
これらの村上がどう繋がっているのかは判りませんが。
たしか南北朝時代吉野で
護良親王の身代わりになくなったのが村上義光とかだったと思います。
切腹の手本を見せてやるとか言って、
切った腹から自らの内臓を取り出して敵に投げたとか。
うちの坊さん、こういう系統?

書き方の流儀というのは気になさらなくていいと思います。
私は初対面のご挨拶のつもりであのような書き方をしましたが。


[22]嘉村孝さんからのコメント(2002年08月23日 01時45分56秒 ) パスワード
  

さちこさん
 脊振村史から後鳥羽上皇の伝説を引用します。
 「昔この地は絹巻の里と呼ばれ、後鳥羽上皇の陪臣西川左衛門大輔源家房の領地であった。承久の乱によって隠岐の島に流された上皇は、ひそかに遷幸を希望されたという。家房は.鎌倉・六波羅へはばかりながラも、後難を恐れず、左金入道等とともにひそかに船を仕立てておつれ奉った。
 そして、信教寺(現・善信寺)を補修して仮の宮とした。上皇は、延応元手〈1239年)2月22日、60歳で崩御され、宮のうしろの丘に葬ラれたが、その場所を後鳥羽院の山陵.俗にΓ塚」という。」
 と以上でして、上皇が脊振(以前は背振)へ来られた時、読まれたのが「かくばかり」の歌です。
 今も西川さんはいて、私の遠い祖先にもいます。
 話は飛びますが、このあたり、徳川さんなんて多くて、多分将軍家より古いはず。鎌倉時代にやってきた新田の分かれでしょう。天野遠景などもたしか鎮西奉行でしたか、やってきてますしね。
 瀬野精一郎先生に「鎮西御家人の研究」というのがありますが面白くてしかたありません。
[23]執行 泰幸さんからのコメント(2004年01月13日 20時23分04秒 ) パスワード
  

私の住んでいる長門石町は、久留米市の西の端、筑後川沿いです。
地名の由来は、平家が落延びて来たとき、長門の国から持って来た石に船を繋いだ事が由来とされ、今でも八幡神社には、その碇石が存在しています。
詳細は知りませんが、執行という姓が多く、平家とも関係があるとも言われています。
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月14日 01時55分16秒 ) パスワード
  

執行 泰幸さま

「執行」とは珍しい御苗字ですね。


どんなの役職だったのでしょうね?
朝廷で働いていらっしゃったのでしょうか?
それとも寺院系で事務なさってたのでしょうか?

藤原伊周に天下執行の宣旨下し・・・・云々
法勝寺の執行俊寛僧都と申す人・・・・云々


普通名詞から固有名詞化して姓になった?
由来が分かるといいですね。
[25]田中愛造さんからのコメント(2004年01月15日 01時17分41秒 ) パスワード
  

執行泰幸さん
肥前執行氏は、大伴氏族(伴氏)です。神埼郡櫛田荘の執行別当職として下向した伴兼定が執行氏を称して、この地に土着し、戦国時代は江上氏に仕えたとあり。
佐賀県神埼郡神埼町の出で、佐賀・福岡南部・特に鳥栖・久留米に多く、職業姓。
因みに、『姓氏家系大辞典』には、土佐の執行氏、大隈の執行氏、も載せ、(肥前の執行氏)藤津庄の執行職なりしが如し。家譜には藤原姓にして、筑後より来ると云う。大村藩士にあり。)とあります。
寺社で実務管掌する職を執行といい、これを世襲した家が姓とした。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月15日 05時49分57秒 ) パスワード
  

という事は古代日本のかなり古くから日本史に出ていらっしゃるお家だったのですね。

神埼郡櫛田荘の資料を取り寄せなさいましたら詳しく分かるかもですね。

[27]田中愛造さんからのコメント(2004年01月16日 01時28分33秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん
何時も、有難うご座居ます。執行氏は三者とも、そう古くは有りませんが、皆さんの御先祖様は、古代日本から連綿と繋がり、名を変え・姿を変えて生き抜いて来られたのが現実です。ん?現在・現代。たかが田中でも、されどです。75世で500該以上の先祖がいます、この内一人でも(今は苦しいから)と躊躇されていたら、私たちはこの世に存在しません。ご先祖の有難さは広大無比ですね。
さて、執行氏に関してネットを覗いてもよく出ています。(少弐家臣団大蔵党・江上氏・勢福寺城・田手畷の戦・他)佐賀姓名には執行氏伴兼直系とも、又、江上武種は竜造寺氏に属したが・・・重臣執行氏の進言で和議を取付け・・とあり、執行越前守種兼(種直)ー嫡男武直や老臣式部大夫・四郎兵衛・与三右衛門・と多く見られます、執行泰幸さんご健闘祈ります。
[28]嘉村孝さんからのコメント(2004年01月17日 14時56分16秒 ) パスワード
  

 大変ご無沙汰しております。
 私の親戚にもある執行さんのことが載っていましたので、一言。

 佐賀の平家の根拠地・神埼荘の中心にある櫛田神社は博多の櫛田神社の元ともいわれますが、その宮司さんは今も執行さん。
 遠く、京都の八坂神社に行き着き、葉隠にも出てきます。
 執行越前の守という人も有名です。
 
 安徳天皇を匿った太宰の少弐原田種直あたりが神埼から博多へ櫛田神社を勧請したともいわれ、昔の博多・櫛田神社の地図を見ると、確かに神社は佐賀向きに那珂川へ南面しています。いずれにせよ、今や本家の櫛田神社より博多の方が有名になりました。
 しかし、いずれも祇園さんで有名で、京都も祇園さん。もちろん小倉の祇園さんも同様(昔の小倉祇園さんは、今の場所の北、海に近いところですよね)。

 なお、私の親戚の執行さんは筑紫山地の中で、多分神埼と博多とを結ぶ交易ルートに昔、配置されたのだと思います。なかなか良い田んぼを持っております。
[29]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月18日 02時00分44秒 ) パスワード
  

嘉村孝さま

そうしますと執行家はやはり平家と深く関わりますか。



隈さんへ
「執行姓」をタイトルに加えさせて頂きますね。
いつもながらごめんなさい。
[32]嘉村孝さんからのコメント(2004年01月18日 22時17分49秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様

(失礼しました。間違いがあったので貼りなおします)

平家の関係は正にそうだと思います。神埼の櫛田神社の執行さんが本まで、出されていますからあとで見てみますが。

国史大辞典にあるように執行そのものの歴史はもっと古くからですが、特に祇園社・天台宗・真言宗との関係は深いのではないでしょうか。
国史大辞典の末尾にも天台、真言との関係があります。古事類苑までみればもっとはっきりするでしょう。

それで、京都の場合、三十三間堂を支配している妙法院は、比叡山つまり天台の出店みたいなもので、また、朝廷との関係深い門跡寺院です。

一方、平家と関係深い神埼荘は元々院の領地。今も、鳥羽院、政所といった地名があります。三十三間堂は平家の神埼荘の「揚がり」でできています。

などなど考えると、平家とは極めて関係深いと言えるのでは。
[33]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月19日 03時08分34秒 ) パスワード
  

嘉村孝さま


>三十三間堂は平家の神埼荘の「揚がり」でできています。

これは驚きでした。
さすが地の利で、地元の方ならではの情報でございますね。


隈さんの「久留米の安徳天皇潜幸説」
なるほどと感じ入ってしまいました。
[34]田中愛造さんからのコメント(2004年01月19日 22時13分38秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん・嘉村 孝さん
執行職を見ると(総検校)の下に属する職とあり。古くは、淳仁天皇(天平宝字四年)僧位として設けられて修行位「法師位・伝灯位・修行位・誦持位」四位の内で
荘園の管理にあたり、執行職として重んじられたらしい。私の表現が間違いかも知
れまませんので、他で調べて下さい。櫛田宮のhpでは、永久3年(1115年)鳥羽
天皇が櫛田宮を修造され、伴兼直(執行家の祖)本告道景(本告家の祖)が勅使別
当職として、京より下向せられた。としており、さらにこの荘園(神埼御庄)を実
質治め巨利を独占したのが平正盛・平忠盛であり、その子平清盛が平家全盛の時代
を迎える財政的な基を、神埼の地で築いた。とあります。
[35]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月20日 09時24分12秒 ) パスワード
  

>この荘園(神埼御庄)を実質治め巨利を独占したのが平正盛・平忠盛であり、
>その子平清盛が平家全盛の時代を迎える財政的な基を、神埼の地で築いた。とあります。

神埼荘というのは元々豊かな土地だったのでしょうね。
執行さんは元々何を執行するために下ったのでしょうね。

ロマンがありますね。
[36]嘉村孝さんからのコメント(2004年01月21日 00時37分41秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん 田中さん

今日も缶詰状態で、櫛田宮の本はみていませんが、江戸時代の佐賀の本「九州治乱記(一名「北肥戦史」)から引用します(やや省略)。

かの執行越前の守が先祖は元来下( )にて神埼櫛田宮の執行職なり。そもそも櫛田と申すはかたじけなくも聖主の勅願に異国の賊船退散のため往古より三社の大明神を肥前神崎郡に崇め奉らせらる。  これ即ち稲田姫を祭るところ、最も九州の大社なり。

されば今の執行越前の守が先祖は天忍日命の苗えい伴国道十二世の孫伴兼資と号し、人皇八十四代順徳院のご治世、建暦年中当社の執行別当職に補せられ、初めて下向し、  いよいよ当社の司職たり。
(そして、蒙古襲来の時、その東に東妙寺を建て、別当を置く)
また、その後、東山殿義政将軍の  修理上棟のとき、本告(もとおり)弾正資景をもって宮柱となせる。  云々

結局、地元では、「神事を執行するので執行(しぎょう)」といわれています。本告(もとおり)さんとセットでして、今も、本告さんもおられます。本告牟田という地名まであります。

なお、忠盛の話は極めて大事で、1133年、宋の船が有明海に来た時、院宣を工作して、太宰府の介入を廃し、私貿易を営んだ、これが私は中世の始まり、といつも言っています(長秋記にある長承事件)。
つまりは、平家がここから財産作りを始めて、三十三間堂に至ったということですよね。
吉野ヶ里遺跡のそばの「鶴」という地名など、本来「津留」つまり船着場であったといわれています。
[37]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月21日 01時33分35秒 ) パスワード
  

>吉野ヶ里遺跡のそばの「鶴」という地名など、本来「津留」つまり船着場であったといわれています。

電車で吉野ヶ里遺跡を遠望しましたよ。
櫓など。
あの近くに船着場があったのですか。

今地図で確認しましたが玄界灘に目が行って有明海というのは失念しておりました。
それで神埼が、なるほど、と。


夢が広がりますね。
[38]田中愛造さんからのコメント(2004年01月21日 03時33分23秒 ) パスワード
  

神埼櫛田宮を見ると、「皇室領のため〔神埼御庄〕と尊び称せられ、正応5年(1292)頃には約3000町歩の大荘園だった」とあります。
 執行職又は、執行氏に付いては(勅使別当職)を見てください、(執行一平)氏が詳しく載せておられます。氏によりますと。「〔葉隠〕聞書第6には、お国執行名字根本の事、昔神埼櫛田宮の祭礼に毎歳勅使下向あり、数度下向の公家衆神埼に住宅し社務を勤められ候、社務を執行と申し候、年を経て社務の執行を其の儘家の名字と定められ候」とあり、執行名の始りについて、「彼の執行越前守伴朝臣種兼が先祖は元来下り衆にて・・天忍日命の苗裔伴国道十二世の孫伴兼資と号し、建暦年中当社の執行別当職に補せられ、始めて下向・・その子伴太郎兼篤朝臣変わらず父の職を受けて肥前に在国し、爾爾当社の司職たり・・近代江上氏に招かれ竹原に在城、今の越前守が祖父治部大輔兼貞が時、始めて名字を執行とす、其の子執行摂津守直明其の子越前守にありける。執行というのは、朝廷や幕府の支配する社寺に置かれし別当(長官)の職名であり、建暦元年(1211)伴兼資が神埼櫛田宮の別当として京より下向、以来子孫代々この職を継承した、大永三年兼資から10代目兼貞に至り別当職を辞し戦国武将として旗揚げした時従来の職名を家名とした」とあり。又、執行種兼(1530−84)は祖父兼貞が執行を名乗りて以来、神埼竹原の地の小豪族として居城を構え、初め少弐氏に後に竜造寺氏の重臣となり、勇名を馳せ天正十二年(1584)隆信が島原で島津義久に敗れ討死した時、これに殉じて一族郎党共に壮烈な戦死を遂げ、世に武人の鑑として「葉隠」に取り上げられる。尚、神埼櫛田宮は「神埼御庄」と呼ばれる天領の荘園だった頃、其の総鎮守として建てられし神社であり、現在も、宮司執行武典氏・禰宜執行安正氏(画家)が務めて居られる。長くなり、隈さんの覧で申し訳け無く、系図、又私見は省きます。
[39]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月21日 04時59分44秒 ) パスワード
  

田中愛造さま

どうぞ御遠慮なく。
隈さんのスレッド「久留米の安徳天皇潜幸説」に条件が出揃って来て
なるほどと納得いくばかりです。

有職故実の社会の人達ですから条件の揃った所に御動座なさるのは当然でしょうから。

それで平家の落人伝説が近辺にあっても当然なんだと。
[40]嘉村孝さんからのコメント(2004年01月21日 21時29分05秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様  田中様

そうなんですね。
先ずは、今の長崎本線の南は往時海だったといわれております。
そこへ、宋の船などがやってきたんですね。

そして、櫛田宮はもう一つの東妙寺と元々セットです。東妙寺は奈良の西大寺の末寺で、神埼御荘三千三百町歩を治めていたともいわれます。

また、江上は私が昨年3月、「原田種直の縁者と葉隠」というスレッドを立てさせていただいて書いたとおり、漢の劉邦の末裔を称し、神埼の山ぎわを拠点に活躍した一族。
執行越前の守もその家来で、その城原(じょうばる)衆は後、現在の佐賀市蓮池町に移り、現在、城原町の名があります。

江戸時代、会津に移った江上が戊辰戦争を戦ったなんて話もあるわけです。
[42]嘉村孝さんからのコメント(2004年01月22日 14時03分34秒 ) パスワード
  

ごめんなさい。

ちょっとよくわからないんですが、1133年の件は長秋記。
瀬野精一郎先生編の「肥前国神崎荘史料」が便利かと存じます。
[43]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月22日 15時28分07秒 ) パスワード
  

1133年というと北条執権一族が滅亡して後醍醐天皇+足利尊氏のあの動乱あたりですね。
その頃の肥前も揺れに揺れていたんでしょうね。(わくわく)
[45]相良四郎さんからのコメント(2023年03月18日 17時51分04秒 ) パスワード


本告の表記に未だ慣れておりませんですが
本居神社が近いということを踏まえ愛読させて頂きます。

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