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 投稿番号:100136 投稿日:2001年06月30日 16時38分48秒  パスワード
 お名前:そりちゃん
平家の関係の子孫の方の家紋って

コメントの種類 :その他  パスワード

こんにちは!前に一度おじゃましたそりちゃんです。良きアドバイスありがとうございました。父方の実家が平家の出だという言葉を信じて、いろいろ調べてみました。
まだ途中経過ですが、報告いたします。
福島の伊達郡にある本家はかなり前に帰農しているようで、養蚕の庄屋だったようです。父が思い出したそうなのですが、二度ほど姓を変えているそうで樋口〜オサダ〜
反田になったようです。そしてやはり家紋は戊辰戦争の時の焼き討ちで失われたそうです。曽祖父の代まで神主をしていた鹿島神社についてはどうやら延喜式に記載がある古社のようです。詳細は今度の秋に本家のほうへいってみようと思っているのでその時に調べてみるつもりです。

鹿島神社と平家のつながりを調べていたら、坂東平氏の鹿島氏が一時鹿島神宮をしきっていたようで、その関係かな〜と思ってみたりしています。鹿島氏についてなにか
ご存知でしたら教えてください。

現在「反田」姓は山梨と広島に多く50件程づつ有り、鹿児島にも15件程です。
しかも、鹿児島の反田姓は吾平町、姶良町に多く、吾平町は「吾は平」とかくではないですか!ただどちらのアイラ町が先にできたのかはわかりませんが。

反田姓の人はいませんか?ソリタと読みますか、他の読み方でしょうか。

でも服部さんのおっしゃっていたように、調べていると不思議な偶然が続いて少しびっくりです。テレビで関連の番組が放送したり、いろいろと。
ご先祖さまが導いてくださっているかのようです。

[1]服部 明子さんからのコメント(2001年06月30日 23時30分07秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年05月08日 15時04分07秒
[2]服部さちこさんからのコメント(2001年07月01日 03時15分54秒 ) パスワード
  

はんださんですか?
私の親戚にも半田姓がいます。
はんだ=はた=秦と思います。

最近、秦氏と服部家の関係が気になって。
平家と秦氏も繋がりがあるような・・。?

明子お姉さん。
何かご存知ならば教えてください。




[3]服部 明子さんからのコメント(2001年07月01日 10時23分29秒 ) パスワード
  

服部姓は
岡山・大阪・三重あたりが3大勢力かなと思いますが

三重の現在の服部姓は殆どが平家がらみの子孫でしょうね。
でも源 頼朝を助けた縁で源氏を名乗る服部氏もいるのでややこしいですが。
柘植系服部氏は源氏を名乗っても仕方無いでしょうね。
頼朝の命を助けた家ですから。


平家系服部姓は桓武天皇の子孫が上総に下向して1006年に伊勢・伊賀に来て
伊賀に既にいた帰化人の秦氏系服部氏を継いだというのですね。

血取りとか地取りとか呼ばれるのです。
早い話が地元の名門・豪族の「服部家」を乗っ取ったというのでしょう。

秦氏というのは昔は最先端技術を持った技術集団で
秦氏の川勝というのは超大金持ちで聖徳太子のパトロンだった人ですね。
娘が太子の晩年の最愛の妻になっています。

秦氏は桓武天皇の平安京遷都に全財産を注ぎ込んで歴史から消えることになった
と聞いています。


ですから伊賀の服部氏というのは秦氏系と平家系の2種類はいるということになりますね。
1006年に入って来た平家系服部氏に秦系服部氏は飲み込まれたというのが自然でしょうね。


平家の服部家長が忍者の先祖ということになっていますが
一説には聖徳太子が最初に使ったとも言われていますね。
やはり秦の川勝にからむ帰化人の技術の1つだったのでしょう。


平家系服部氏は家紋を見れば一目瞭然です。
並び矢です。
嫡流は並び矢の回りの○が車になっています。

平家系の服部氏の嫡流を乗っ取りたい者は○が車を使いたがりますね。
千賀地の服部半蔵の家は嫡流を力で手に入れたということになります。
家康のお墨つきですから他の服部氏はせいぜい「ウチらより身分が下だったくせに」
と悪口言って溜飲を下げたことでしょう。

だから東湯舟の藤林家は面白くなかったでしょうし
喰代砦の百地も面白くなくて、この3つが三巴の争いを続けていたけど
実際の嫡流の家は14世紀から15世紀の南北朝の対立の時には
伊勢の東端に引っ越して現在に至るということで争いから1歩静観してましたね。


平家系の服部氏も庶流ともなると並び矢を使わず他の紋を使用する事になりますから
お気の毒です。

橘紋とか矢筈紋とかいろいろあるようですね。
使い始めたのがどういう経緯か分かりませんし
並び矢紋に戻したくて申請しても却下されたりして
とうとう現在に伝わるようで
姓も戻せなかったとか
江戸時代はなかなか厳しかったようですよ。


家書が伝わっていたら、そこの経緯が書かれていますから、
本家などに尋ねたらいいですね。


司馬遼太郎によると秦氏は秦の始皇帝の一族で
その先祖はユダヤのダビデ王だ、と。
そんな事をお書きですね。
なかなか夢があっていいですけど、

貧しい日本に大陸の最先端技術を持った民族がやって来て
金堀り技術を持ってて日本の金・銀を当時は一人占めしてただろう
ということは分かりますよね。


世界中の国々が同じ事を植民地にやって来た+やりたいと願っているのですから
元祖<帝国主義者+植民地主義者>ってことになりますかね?


そういう昔の名門で零落した家の名を継いだ(乗っ取った)というのが私の先祖ってことですね。
要するに当時の成り上がり者ですね。
で名実ともに名門に納まった。正盛+忠盛+清盛3代のお蔭で。


以上が秦氏と平家との関係でしょうか?
[4]そりちゃんさんからのコメント(2001年07月01日 15時44分44秒 ) パスワード
  

ありがとうございます。愛知県ですか、調べてみます。服部さんは本当に博識ですね。私ももう一度勉強しなおします。
ところで、「蝶の星」という家紋をご存知ですか?失われた家紋はわかりずらくて覚えられなかったのかなと思ったのですが・・・。今もこの家紋を使用している方はいらっしゃるのでしょうか?

江戸時代は改名も厳しかったということですが、ならば我が家も江戸時代に改名したのではないと考えていてもよいのでしょうか?
また、教えてください。
[5]服部 明子さんからのコメント(2001年07月01日 23時09分46秒 ) パスワード
  

家紋は何万とありますから
家書に書かれていない限り子孫はどうしてこの紋なの?と
分からないですよね。

「蝶の星」ですか?
蝶と星の組み合わせということで
何か凄い意味があったと思いますね。

本来の「平家の蝶紋」に妙見信仰の「星」が組み合わさったのか?

蝶は平家の代表紋だけど
他にもいろいろな姓氏の家が使用しています。
例えば「菅原氏系の半田さん」とこも蝶だそうです。


姓も家紋も今と違って昔は勝手に替えたり名乗ったり出来なかったので
ソリちゃんさんは「反田姓で蝶に星紋」のお家の方をお捜しになると良いですね。


日本の姓と家紋だけは複雑怪奇です。
家書に書かれていなければどうしてそうなったか子孫には当惑するばかりです。
我が家はラッキーでした。
私はファックス・マシーンで巻紙の感熱用紙を利用して系図をコピーして親戚中に郵送しました。
養子に入ってのけものにされていた人などから感謝されました。
血は繋がっていなくても名前で日本は繋がると思うので親や伯父伯母から養子になんかにまで系図をあげて、と反発も受けましたが、そういう感情は私は好みません。

どなたか寛大な人がいて教えてくれるといいですね。
[6]服部さちこさんからのコメント(2001年07月01日 23時45分52秒 ) パスワード
  

お姉様
詳しくありがとうございました。
私の軽い脳みそでは少し難しいところもありましたが
すごく参考になりました。
昨日、夜更かししたのでまた明日じっくり読み返します。

私の家の家紋は元気車・・違う!(いまだに入力苦手です。)
源氏車に並矢です。八桁の車輪です。
何故なのかわかりません。
江戸時代の末期にはただの農民だったのですが。
江戸時代の中頃に弥富のうぐい浦から分家したらしいです。
干拓した土地に移り住み先祖の墓は木曽岬町(長島の近く)にあります。

うちの先祖は漢織女(あやはとり)、呉服女(くれはとり)
中国からの帰化人で機織の技術を日本に伝えたと
代々言い伝えてきたらしいです。
子供の頃にきいた時は千年以上も前の帰化人なんて言われても
アホか!と思っただけでしたけど。
これは伊賀の服部家に伝承されてきた話らしいです。

やはり秦氏と関わりがあるみたいです。

まだ
書きたいことがあるけど明日は早いのでこのへんで。

>そりちゃん
話ずれてごめんね。


[7]服部 明子さんからのコメント(2001年07月01日 23時54分46秒 ) パスワード
  

いつ反田姓にお替えになったのでしょうね?


姓や家紋は本人のアイデンティティなので自分の姓や家紋が嫌いだからと言って
勝手に替える訳にはいきません。


例えばアメリカ人で徳川氏の家紋を自分の墓に彫った人がいますが
アメリカ人だからホホエマシイで終わりますが
日本人が勝手にやったら世間から笑われるだけです。


本来の姓とか名字とか家紋を替えるというのは凄い経緯があっての事です。
勿論名誉を讃えられて天皇から「これからは赤星と名乗るよう」下賜された変更もあります。

でもたいてい姓や名字を替えるというのは悲惨な理由があると思います。
例えば落人狩りで命を助かる為に嘘をついて名乗った名前が定着したとか。
その時に本当の名前を隠す為に謎々のように名乗った名前。

でもそれを恥として理由や経緯を子孫に伝えなかった場合もあるでしょう。


日本の歴史は敗者にそういう名字の変更や家紋の変更を余儀なくさせて来た
と思います。
源平の戦い・室町の戦い・南北朝の戦い・戦国時代の戦い・関ヶ原の戦い・大坂夏冬の戦い・戊辰戦争その他
いろいろなきっかけで名字を替えたと思います。

親も子に本当の名を世間に明かしてはいけないと言い置いたという話しもあるでしょう。
特に明智光秀の子孫の人はそうらしいです。


江戸時代は庄屋は名字帯刀を許されましたが
一般人は許されませんでした。

明治になって晴れて名乗れたわけですが
200数十年の間に伝わらなかった家は適当に名乗ったでしょうけど
殆どの家は伝わってたと思います。


江戸時代は転居の自由が無かったので村の人はよその家のことも知ってたと思います。
明治時代になって申請する時、勝手にカッコいい名前は名乗れなかったと思いますよ。
素性がかなり明らかだったと思います。


でも日本の名字は複雑過ぎます。
イギリスでも名字はそんなに多く無いです。
中国や韓国は名字が極端に少ないです。
ところが日本は謎々の名字も含めてゴマンとあります。
世界中捜しても名字がこんなに多い国は他に無いのでは?


戸籍謄本で明治の初めまで調べられますから
1度御先祖さまの戸籍をお調べになったら良いと思います。
そうすれば明治の初めにどこに住んでいたか分かって
ちょっとは江戸時代の終わりに住んでた所が特定出来るかも?
[8]服部 明子さんからのコメント(2001年07月02日 00時31分04秒 ) パスワード
  

>源氏車に並矢です。八桁の車輪です。

これは服部家長が弓のコンペで優勝して六条院から褒美に車一杯の矢を頂いた事を記念に家紋とした、ということです。


>これは伊賀の服部家に伝承されてきた話らしいです。

もともと服部というのは「機織り」がつまった名字だと言われていますから
秦氏の中の機織り技術集団だったグループが伊賀に転住したのが初めですね。
何とか天皇の時代に伊賀に土地を貰って移り住んだという記事を見ました。

伊賀上野市の北部に服部という地名があって
そこのバス停の前に小宮神社というのがあります。
これが服部氏の氏神さまだそうです。


それから伊賀一の宮の「敢国神社」は秦氏が大陸から渡って来たのを記念とした神社だそうでシンボルが「少彦名命」だそうです。
帰化人秦氏(服部氏)の力の象徴ということでしょうね。忍者の守護神でもあります。

この敢国神社は全国の阿部姓の神社でもあるそうです。
[9]そりちゃんさんからのコメント(2001年07月02日 08時17分26秒 ) パスワード
  

戸籍は一応除籍の分までさかのぼれるところまで取りよせてみたのですが、今と同じところに住んでいました。江戸時代はあまり分家とかしなっかったのでしょうか?
もしも、分かれている方がいれば今はつきあいがないけれど家紋など伝わっているかも、とおもったのですが。

でも、やはりお墓に一度いくしかないですね〜。鹿島神社も調べてみようとおもってます。でも、社のなかとか開けたりしたらバチがあたるかな・・・。
[10]服部 明子さんからのコメント(2001年07月02日 10時04分48秒 ) パスワード
  

今の所にずっとお住まいでしたら
お寺の過去帳など見せて頂けるといいですね。

それからお墓には紋が彫ってありますから
墨と紙を持って行って魚拓して来るといいですね。

私は写真に撮れました。
[11]そりちゃんさんからのコメント(2001年07月03日 08時12分35秒 ) パスワード
  

過去帳は家ごとにあるのですか?いままでまったく気にしたことがないので・・・。
そして本家の墓には家紋が彫ってないそうなのです(涙)。

同県と近隣の県にお住まいのそりたさんにアンケートでもとってみるつもりです。
そして、ある程度わかったら家系図を作成して服部さんのように親戚に配ろうかと思っています。
[12]服部 明子さんからのコメント(2001年07月03日 08時55分21秒 ) パスワード
  

形はいろいろだと思いますが
仏壇の中に代々の先祖の享年とか書いたモノがしまってあったり
菩提寺にも記録がありますよ。


私の母方の明治の初めに亡くなった先祖の墓には紋は彫ってないです。
この人の孫が明治の終わりに死んだ父親の墓を建てた時は紋を彫ってます。


家紋はふくさにも使うのでお墓だけでなくても出会うことはありますよ。
当然紋付きの着物には家紋が付けてありますが。


反田さんとおっしゃる方にお手紙出すのは良いアイデアですよね。
皆さんお知りになりたいでしょうし。
[13]そりちゃんさんからのコメント(2001年07月03日 15時57分06秒 ) パスワード
  

いろいろアドバイスありがとうございます。
がんばります!
[14]服部さちこさんからのコメント(2001年07月05日 23時55分40秒 ) パスワード
  

今日、弥富のホン家さんの裏の道を通りました。

何ヶ月か前、
服部家ホン家さんのことを知り場所を確かめに行きました。
まだお訪ねしたことはないのですが。
近所の人に道を訪ねずっと裏のほうへ行ってみると
いつもよく通る道に出たので驚きました。
古い家だなとか旧家なんだなと気になって裏から眺めてた家が
服部家本家とは驚きでした。

うちの辞典によると
服部家は家長の三代めに上服部、中服部、下服部に分かれ
半蔵は上服部の直系の子孫とありますが。
どうしてこちらがホン家なのか?
ご存知ですか?

敢国神社が安部氏の神社ですか?
なんだか安部晴明との関係が気になります。

あやはとり、くれはとりは
日本書紀などによると応神天皇の頃の帰化人らしいです。
秦氏の祖の弓月の君の18年後に渡来してます。
機織の技術を伝え139才で亡くなり(?)
大阪の池田市の呉服(くれは)神社に仁徳天皇によって祀られたとか。
その後、後醍醐天皇に
呉服大明神を賜ったらしいです。

池田市は秦氏に関わる地ですが
太秦の弥勒菩薩で有名な広隆寺寺にも太秦殿に
秦河勝と共に漢織、呉織が祀られてます。
秦氏ユダヤ人説で有名(?)な大酒神社。
以前は広隆寺境内にあったらしいですが
そこにも、秦始皇帝、夕月王、秦酒君と共に祀られてます。

あやは加羅の安耶、
くれは求礼、今も韓国に残る地名です。
とりあえずは朝鮮半島からの帰化人と思いますが。

調べれば調べるほど判らない先祖です。
[15]服部 明子さんからのコメント(2001年07月06日 00時44分46秒 ) パスワード
  

ホンヤさんは庶公家の1つとして後醍醐天皇に認められた家で
服部伊賀守宗純は吉野朝廷遺臣<5名家7名字11名なんとか?>の1人として
日本史上にも認められた家で
後醍醐天皇の子供を戴いて各地を転戦し
孫が服部家で亡くなっています。

今のご当主は服部伊賀守宗純を祖とする直系です。

この時の南朝方の中心となったのが津島神社で
服部家ご当主は今でも当時を記念とするお祭を宰領なさっています。


伊賀の千賀地の服部家は「蔵人」の役職なんでずっと身分が低いのですよ。
あそこは徳川家康との関係で一応伊賀の頭領になってるから
世間はあそこがボスだと思ってるけど
伊賀では3つに分かれて権力闘争してて徳川家康の家に3代ぐらい前から仕えてたから
確立してしまったけど


後醍醐天皇が自分の子供を託したのが弥富の服部家なので
その身分の差たるや歴然だと思いますよ。
[16]服部 明子さんからのコメント(2001年07月06日 01時09分14秒 ) パスワード
  

伊賀の忍者の服部家の方は大久保家と姻戚関係にあったから
一緒に始末されてしまったけど

弥富の方は徳川家康と尾張徳川家と結び付きが深くて
尾張藩主7代目が服部家で10歳まで養育されて以来のことは
ホンヤさん宅のプライバシーに係わることだから私が書いたりしてはまずいと思うけど
今も尾張藩主のなる方とは結び付きが深くていらっしゃいますよ。

私が掲示板に書いては迷惑をお掛けすると思いますけど
織田信長の敵としても弥富の服部家の方が比重が重いので
伊賀の忍者の服部家の方は信長にしても徳川の陪臣の出身地でしかなかった
と思いますが。
[17]服部 明子さんからのコメント(2001年07月06日 10時15分52秒 ) パスワード
  

伊賀の千賀地の服部半蔵は
戸部新十郎によると東湯舟の藤林長門守の娘?姪?を妻にして
名実共に喰代砦の百地を出し抜いて
伊賀の服部氏の代表者になったように描かれているけど

息子の代に大久保家と一緒に始末される前に
大事件があったのですよ。

これは忍者達がストライキをやったということで
その理由の不満の根底に流れるのが
「千賀地の服部なんぞ俺達より身分の低い服部の出身じゃないか」という反発。

結局は伊賀という土地柄が元々力がキッコウしてたという原因があったという事。
千賀地 vs 東湯舟 vs 喰代の争い。

私が思うにはホンヤさんとこが伊勢の東端に転出した後の伊賀の主流は
(何代も前に三河に転出した)千賀地の服部じゃなくて
東湯舟の藤林家こそ伊賀の中心というか実力者だったと思うのですよ。
北伊賀の支配者であるということと長門守を名乗ったという事からなんですけどね。
後継者がいなくて消えてしまったからそこの所が曖昧になってるんじゃないかと。

藤林長門守が死んだ後は喰代砦の百地丹波守がほくそえんでいたと思うけど
徳川家康をバックにした千賀地の服部半蔵(←代々の通称)が伊賀の代表者に納まった
と思ってます。


だから「千賀地が上服部を詐称した」っていう反発があったと思います。
ま、千賀地にすれば、自分だって服部家長の子孫または一族でもあるのだから
千賀地だって正統な服部だと居直ったと思いますね。


結局は消去されてホンヤさんとこが残ったということです。
もともと実力が違うということです。
今でも特別ですから。
[18]さちこさんからのコメント(2001年07月07日 21時33分44秒 ) パスワード
  

明子さん
色々と詳しくありがとうございました。
まだお尋ねしたいことが沢山ありますが、
ここは平家。伊賀の服部家の話は忍者BBSでやれと思われそうで。
ですがもうひとつ、
服部友貞が信長のだまし討ちで自害したそうですが、
これは長島の一向一揆の最中、それともその後でしょうか?

壮絶な戦いだったみたいですね。
お坊さんがお寺の鐘かぶって川に飛び込んでいまも沈んだままとか。
柵をめぐらして逃げられないようにし火をつけ何万人かを焼き殺したとか。
子供の頃にきいた記憶があります。

いぜん伊賀上野へ行った時伊賀牛のレストランへいきました。
混んでたので順番を待ってたのですが
「服部様おまたせしました。」と呼ばれて立ったとたん
まわりの人が私の顔を見てクスクス。
忍者で町おこししてるからしかたないのかもしれないけど。

忍者装束で市議会をやって少し話題になりましたが
何でだったかわすれましたがイギリスへも行ったらしいです。
忍者装束でハロッズへ買い物に行き入店を拒否されたとか。

これって、うちの服部家でなくて半蔵とこの服部家のノリですね。
[19]服部 明子さんからのコメント(2001年07月08日 00時20分24秒 ) パスワード
  

服部友貞公はいつ亡くなったのか?というのは
永禄11年(1568年)正月ですから
伊勢長島一揆の前になります。←伊勢長島一揆=元亀元年(1570)〜天正2年(1574)

服部友貞公の死は伊勢長島一揆と結び付けるより
もう少し前からくすぶっていた織田信長と石山寺の争いや
織田信長の伊勢・伊賀進攻作戦に絡める方が良いと思います。

もともと伊勢・伊賀を手中に収めようとする信長と
伊勢の名門北畠具教を中心とする勢力の攻防戦の1つで←南朝名門の北畠親房の子孫でしょ
友貞公が北畠の城に正月の挨拶に行って信長方の罠に掛かって米野で死ぬことになった。


伊勢長島一揆の指導者だった実際の人物は友貞公の弟になります。


伊勢長島一揆は織田信長の石山寺合戦の1つの局地戦ですから
織田信長が足利義昭をかついだ時から既に芽があったと捉らえる方が
歴史を誤たないと思います。


信長と服部家との争いは永年くすぶっていたモノが伊勢長島一揆で一気に火を噴いたと捉らえる方が良いと思いますよ。
[20]服部 明子さんからのコメント(2001年07月08日 00時42分20秒 ) パスワード
  

<15>の後醍醐天皇の息子の事をちょっと書いて置きます。


後醍醐天皇には子供が分かってるだけで38人。
男子19人・女子19人。
幼くして亡くなられた皇子・皇女もたくさんいたかも知れませんが。


<15>に出て来る服部家ホンヤがお預かりしてた親皇は
第8子の「宗良親皇」で1311年生まれということです。

こういうのって生母の身分とかで順位が変わるのでしょうから第8番目として登録されている親皇さん
と書く方が妥当かも。

その子供がイズヨシ親王でその子がヨシタカの王(きみ)とおっしゃるそうです。
読み方はホンヤさんの家に伝わる読み方です。


宗良親皇直筆の和歌に関する書が一昨年だったか神戸の旧家で発見されたというニュースがありました。


ちょっと関係無いですけど、蜂須賀小六の継母の大橋氏は、矢張り南朝方の忠臣の家で
津島神社の神主さんの1人です。神官さんと書くべきかも?
[21]服部 明子さんからのコメント(2001年07月08日 01時46分59秒 ) パスワード
  

ついでにヨシタカの王(君)?とおせち料理の事を書いて置きます。

後醍醐天皇のひ孫のお正月のお祝いに出したお料理が1説「おせちの始まり」と言われているそうで


料理の鉄人の服部栄養専門学校のそもそもの始まりは
永禄?年やらに(1560年頃?)武家の出陣時儀式のお料理ということで
始まったそうです。

あそこは源氏を称しているようだけど?
紋は並び矢だから一族なんでしょうね?


私の母の伯母の夫の家がもとは甲賀出身だそうで
紋が並び矢なのですよ。
名字は藤田って言います。

昔は甲賀は伊賀に含まれていたので元々は甲賀というより伊賀出身なんでしょうけど
場所からすると藤林長門守グループだったのかな?と思います。



それから忍者説のある松尾芭蕉は、あそこは百地(系)の出身だそうです。

松尾芭蕉は千賀地に行って「1里は 桜守りの 子孫かや」というような俳句を詠んでいますが

これって千賀地 vs 百地の争いを如実に表わしているのか?どうか?

私は素直に千賀地の服部家が朝廷に仕えていて桜の花の木を献上して手入れをして門院を悦ばせたという話を詠んだのかなと思ってましたが

千賀地 vs 百地の争いを考えると半蔵の家に対する劣等感とか優越感が入ってるのかな?とも思うのです。


半蔵というのは服部半六という人物が役職が蔵人で子孫も出仕して蔵人を勤めていたから
略して半蔵と代々呼ばれ称するようになった
ということです。



藤林長門守が何故長門守を名乗ったのか?という問題について
伊賀守は弥富の服部家が朝廷に認められて名乗って来ている以上
自分が名乗る訳にはいかないから
服部家が壇の浦=長門で滅びたのを記念としているのかな?と。

だいたい北伊賀は平 知盛さまが壇の浦で亡くなって
次男の子供を北伊賀で育てているのです。(この人はそれで名字を「北」と名乗ったそうです)


それで場所的にも北伊賀の藤林グループの方が千賀地の半蔵の家より私は伊賀を継ぐ者かな?と。


ところで千賀地は花垣神社のあるあたりね。
あそこの桜は八重で、今のはまだ若木です。
[22]服部 明子さんからのコメント(2001年07月08日 02時08分06秒 ) パスワード
  

数年前に服部家の歴史をコピーして父方の親戚中に郵送しましたが
服部家の方は母方河野一族とは違って
着いた・貰ったという連絡さえ一切ありませんでした。

ノー・コメントなのか関心が無いのか


弥富の服部家が乗っ取った長島城の元の持ち主の伊藤氏一族は
ホンヤさんとことは違って教育委員会に一切協力しない主義だそうです。


でも最近1997年あたりかな?少し前かな?
ご老公が一族を集めて講義なさったようです。


だけどやっぱり蔵を開けての学術調査の協力は一切しないようです。


ま、いろいろ、お家の事情、ってのがあるのでしょうね。
[23]いつも通りすがりさんからのコメント(2001年10月28日 00時18分41秒 ) パスワード
  

新参者野 いつも通りすがりです。

このスレとは直接関係しませんが

仁徳天皇陵墳丘から須恵器片。

from 産経新聞速報 10/27 14:15

> 5世紀中頃と推定。仁徳天皇の没年近く、
> これまで否定的だった埋葬者論争に影響も。

-----------------------------------
産経新聞 http://www.sankei.co.jp/
[24]さちこさんからのコメント(2001年10月28日 23時41分30秒 ) パスワード
  

私も読みました!
個人的にもっとニュースに取り上げられても?と思いましたが。
何かと話題の多い御時世ですので。

この頃の歴史にはすごく関心があります。
ほとんど神話と区別できない時代なので難しいですが、
なんか自分の先祖のルーツ探しと重なって。
ロマンですね〜。
服部家は何処から来たのか?

またなにか情報があれば教えてください。
[26]服部達哉さんからのコメント(2002年01月09日 00時14分04秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年10月01日 20時44分55秒
[27]服部達哉さんからのコメント(2002年01月09日 00時16分59秒 ) パスワード
  

すいません。上の文中の「猟師」は「漁師」のまちがいです。
ちょっとした漁師の船団の頭領だったようでいまでも、大量旗が家にあります。
[28]さんからのコメント(2002年01月10日 10時36分46秒 ) パスワード
  

服部達哉さん、どうも初めまして。
ここに時々お邪魔している隈(くま)です。

>長島一向一揆のときに、服部さへいた?とか言う人がいてそのひとが
>うちのご先祖様だとかきいたことがあるんですが・・・

長島一向一揆の時に、織田信長を相手に戦った服部氏のご子孫なのですね。
おそらく、服部左京亮(はっとりさきょうのすけ)のことだと思います。
下記のページに詳しい説明がありました。

http://www.mint.or.jp/nagashima/html/page17.htm

津島のホンヤさんとの具体的な関係(家系図のうえでの繋がりなど)は分かりませんが、同じ一族です。

伊勢平氏の系統は海に関係が深く、昔は武士で今は漁師、という人々は少なくないと思います。
ご家族揃って体格が良いのは、確かに昔は武士だった名残りかも知れないですね。
[29]さちこさんからのコメント(2002年01月10日 15時25分43秒 ) パスワード
  

達哉さんはじめまして!
仲間が増えて嬉しいです。
きっと同じ一族ですね。
専念寺というお寺は弥富の何処にあるのですか?
私の家ももとは弥富だったのです。
家紋は車輪の輪の中に矢が二本ならんでいるものですか?
それならうちと同じなのですが。

確かにうちの服部家の親戚も背の高い人が多かったです。
父の従兄弟がみな他界してしまって
つきあってる服部家系の親戚はほとんどないのですが、
明治生まれの人でも170cmはある人が多かったです。
そして鼻が妙に高い!
残念ながら私は母に似てるのでチビで鼻ペチャですが。
先祖ユダヤ人だったといわれてもそうかもしれないなと思ってしまう感じです(笑)

服部家のことについて色々調べているのでこれからもよろしくお願いします。
本能寺の変に服部家が絡んでいるのではという話もありますので、
ぜひそちらのスレッドもご覧になってください。
ご意見があればぜひお聞かせください。
[30]服部 明子さんからのコメント(2002年01月10日 22時18分18秒 ) パスワード
  

服部達哉さん

初めまして。
我が家は祖母の血統がデカくて
親戚は祖母の血を継いで全員デカいんですけど
伯父も軍服・軍靴は自前だったという非経済的なデカサでしたけど
私の父は第7子だったので栄養が悪くて?普通で165センチしかなくて
私が一族で1番チビですけど得してます。

平家は水泳が得意とされていますが
もともと平家は水軍の家で漁師になってるのは当然です。
更に伊賀の子孫でしたら猟師になってるのも当然で銃がうまくてこれも当然でしょうね。

「服部一族」の中に専念寺というのも出てましたよね。

「服部さへいた」でしたら左平太という漢字ですから
平=平家
太=長男
平家の長男という意味になります。

伊勢長島一揆の時に「服部水軍」というのが信長の敵として戦っていました。
そのご子孫でしょうね。
白子なんていかにも「平家」ですね。
[31]さんからのコメント(2002年01月15日 10時48分23秒 ) パスワード
  

あ、そうか・・・

伊勢長島一揆に参加した「服部氏」って、たくさんいた筈ですものね。
達哉さんのご先祖様は「服部左平太」とおっしゃったのかも知れませんね。

だとすると、私の早とちり。
どうも失礼しました m(_ _)m

ちなみに私の母方の祖母は、広島県向島の服部家出身で、おそらく同系統・・・ではないかというので調査中です。
私の祖母も、背中が曲がる前は結構すらっとした体型で、背が高い方でした。
私は父に似ていて、やっぱり小柄(156cm)ですけどね(笑)
[32]服部 達哉さんからのコメント(2002年01月22日 14時49分03秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年10月01日 20時46分47秒
[33]服部 達哉さんからのコメント(2002年01月22日 16時13分21秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年10月01日 20時46分14秒
[34]服部 明子さんからのコメント(2002年01月23日 00時06分29秒 ) パスワード
  

はったつさん

はったつさんの書き込みを拝見して背筋がゾォ〜っとしました。
でしょう?でしょう?
このサイトって平家のパワーが及んでる、って。

ナムコのゲームで藤原景清が
「滅びし平家の怨み」なんて言ってますが
「怨み」でなくても「滅びし平家の記憶を絶やすではないぞ」って思うのです。

平家の滅びた彦島も
安徳天皇の赤間神宮も
凄いパワーの所なのです。

私は1993年に赤間神宮に行かなかったら平家に興味を持つことは無かったです。
平家物語は文学の世界のお話で私には関係無いと思ってました。
でも赤間神宮で先祖からのパワーを感じました。
いつか彼女さんとご一緒に赤間神宮の7盛塚にいらっしゃって下さい。
なるべく朝早く人の来ない時間帯に。

1993年までは私は赤間神宮も7盛塚も「フン!」なんて思ってたのですよ。
[35]さんからのコメント(2002年01月28日 11時39分43秒 ) パスワード
  

「偶然」敢国神社に立ち寄ったり、太秦や蚕の社に縁があるなんて、
さすが「服部氏」ですね!

私も「霊感」を感じるようなタチではないし、
オカルトっぽい話については正直未だに半信半疑です。

でもこのサイトを知って、今まで(特に18〜24歳の間、集中的に)
知らないうちにご先祖ゆかりの地を訪ねていたことに気付き、
はったつさん同様驚いた経緯があります。

本当に不思議で、ゾッとするけど、後ろにご先祖様が付いててくれる!みたいな
心強さを感じる体験ですよね。

特にはったつさんは、ご家族や彼女がいっしょにこの事に関心を寄せて下さっていることが羨ましいです。

私の両親や主人は歴史だのご先祖だの、ということにはほとんど興味がなくて、
未だに「何がそんなに面白いんだ?」みたいな顔してますので。


時代劇の映画を作ってみたいとのこと、頑張って下さいね。
ご先祖様もきっと応援して下さると思います。 (^_^)/~
[36]やっくんさんからのコメント(2002年01月28日 15時38分20秒 ) パスワード
  

[3]に岡山・大阪・三重あたりが3大勢力かなと思いますが
とあるけど、岡山県総社市に吉備線の服部という駅が有るのですけど
これらの記述と関係有るのでしょうか?
[37]服部 明子さんからのコメント(2002年01月30日 01時45分07秒 ) パスワード
  

岡山は古代に於いて大和朝廷にとって上国の筆頭だったから
神代系服部氏が当然力を持ってたと思いますし

更にお隣の播磨国は聖徳太子をめぐる人々に関係するし
(太子町とか、赤穂とか)
それで帰化民族の秦氏系服部氏が巨大な力を持ってたと思いますし

源平時代は播磨国は「平 行盛」の領地で
岡山はいくつかの国に分かれていたので
総社あたりがどこに属するのか調べないと誰の領地だったか分からないのですが
当然平家の一門の服部氏がいたのは確かです。

更に岡山県あたりは後醍醐天皇の隠岐ご動座の道筋でもあれば
南朝方の忠臣である服部氏の勢力範囲だったと思いますし


地名の由来は以上4つのどれかから出ている可能性が凄くありますが
私的には古代服部氏か帰化系服部氏の土地だったと思います。

吉備さんとか、古代の大氏族が力を誇ってた名残りだろう、と思ってます。


大学が出来たので駅の名前も変わるのではありませんか?
[38]服部 明子さんからのコメント(2002年01月30日 22時17分56秒 ) パスワード
  

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100211_29.html

「古代有力帰化民族:秦氏」のスレッドも参考になさって下さい。
[39]やっくんさんからのコメント(2002年02月01日 00時23分29秒 ) パスワード
  

>後醍醐天皇の隠岐ご動座の道筋でもあれば
春になるとニュースの花見のコーナーの全国中継にもたまに登場する醍醐桜があります。
岡山県真庭郡落合町にあります。URLは以下の通りです。
トップページ http://www.lucksnet.or.jp/ochiai/
説明ページ http://www.lucksnet.or.jp/ochiai/mati/haru/haru.htm
醍醐桜の拡大画像http://www.lucksnet.or.jp/ochiai/mati/haru/daigob.jpg
醍醐天皇の隠岐ご動座の途中に植えたという話で見に行ったことがあります。
1本だけぽつんとありまして、周りには他の桜の木はないです。
[40]服部 明子さんからのコメント(2002年02月01日 01時30分23秒 ) パスワード
  

拝見しました。

大きな桜の木ですね。
幹がしっかりしてる。
まだまだ長生きしそうな木ですね。

後醍醐天皇の隠岐へのルートは記憶にありませんが
岡山から旭川沿いに北上したのかしら?

配流の途中で豪族が駆せつけた様子などが浮かびます。
岡山というと矢張り古代大!大!大豪族の吉備氏が最大で
その子孫の三宅氏とか児島氏など我も我もと南朝方に駆け付けたと思います。

児島高徳が代表してますね。この人に集約されると思います。


こういう豪族の子孫から後に例えば宇喜多秀家などの大々名が出ることになりましたから
岡山県には南朝方の武士が集まり、その子孫達がバッコしたというのが分かりますね。

そして南朝方が敗れた後には敗残の者が集まって暮らしたと思います。
住み易かったと思います。
元が南朝方の土地ですから。
[41]さちこさんからのコメント(2002年02月02日 13時00分26秒 ) パスワード
  

そういえば楠木正成の孫の楠木正儀の子孫の服部家が
備中にあるというのが系図にのってましたね。
東儀秀樹さんのファンの知り合いが岡山に多い理由が判りました!

はったつさん!
専念寺わかりました。
弥富の鯏浦(うぐいうら)です。
これもなんか不思議なんですが、
私の父が漢詩を習っていて漢詩人、服部たん風先生の資料を貰ってきたのです。
(たんは漢字なのですが変換できない・・。)
たん風先生は弥富の鯏浦の人で明治から昭和にかけて漢詩で全国的に有名な人だったらしいです。

たん風先生筆塚というのがあってそこを管理しているのが専念寺だそうです。
うちは弥富の鯏浦からでているそうで、
祖父とたん風先生とは交流があったらしいです。
先生の家紋は源氏車です。
はったつさんとは割と先祖が近いところで結びつくかも?

私のいとこ(母親が服部家)も映画関係ではないのですが、
同じ会社を辞めてます血はあらそえないということ?
鯏浦には大服部というホンヤさんに匹敵する家があったそうです。

秦の始皇帝に似てるってどんな方かしら?
蚕ノ社は日本で唯一(いや世界で唯一?)三本柱の鳥居がある神社ですね。
その不思議な形から三位一体を表したものだとか、
元糺すの池がイスラエルの洗礼の池に似てるとかいって何かと秦氏ユダヤ人説の
話題になりますが。どうなんだか。
神主さんは服部さんとおっしゃるそうですよ。
広隆寺のお祭でつかうお面を作ってるとか。(京都三大奇祭の一つだそうで)
広隆寺には昔秦の始皇帝、弓月君、秦酒公を祀った法隆寺の夢殿のような大伽藍があったそうです。
服部家の先祖とされる漢織(あやはとり)呉織(くれはとり)の別殿もあったとか。
秦氏の冨を象徴する立派なものだったそうです。
今も秦川勝とともに太秦殿に祀られてますが、
殿というより小屋か物置といった感じ?


[42]皇竹さんからのコメント(2002年02月07日 08時50分30秒 ) パスワード
  

皇竹です>
楽しく読ませて貰ってます。
鯏浦とかホンヤさんとか出て来ますと、
私としましては地元ですので少しご案内します。

そもそも当地は木曽三川(木曽、長良、揖斐)が一番接近するところで、
交通特に船便に都合よく、京都、伊勢から多度を経て尾張、美濃へ行く
交通の要所として、鯏浦などは港として栄えたところ。
10世紀頃はこれより南は殆ど海で、上流から運ばれてくる土砂が
堆積し、それが方々に島を作り、開墾し荘園として開拓していった。

平治の乱に敗れた義朝も知多の野間へ遁れる途中、ここを通った。
家臣の鷲巣玄光が、義朝を舟底へ隠し柴木を積み重ねて、杭瀬川を
舟で下りこの地点まで来て、もう安心だと舟荷を揚げたということから
この辺を荷之上村という。又柴木を積み上げたので柴ケ森として、
現在史跡となっています。
更に葦原を東へと急いだ一行は、一面に海の見える島へ上陸した。
そこは現在蟹江町に源氏島という地名で残されています。

さて服部左京亮友定さんのことですが、(以下弥富町史による)
永録年間、織田氏が彼のいる鯏浦島(城の腰)の目と鼻の先に鯏浦城を築き、
弟の信興を城主にすえた。(史跡跡あり)
左京亮さん頭にきて、信興を攻め殺した。更に頭に来た信長はこの地を始め
伊勢長島の大せん滅作戦を展開した。猫一匹生かさぬほどのものだったという。
2年後、各地に散らばった服部党の生き残りがボチボチ戻り始め、
その中の服部弥衛門尉正友(30才)が、この荒廃した村村を再興したという。
この人が荷之上服部家の先祖といわれ、代々庄屋をつとめた。

現在の服部本家は天正年間に服部祐乗氏が建てたもの。
戦国時代の民家の様式を伝えるものとしてS49年2月5日に、
国の重要文化財に指定された。現在のご当主は服部通也氏(70才)。
屋敷は南に土塀をめぐらし長屋門、主屋、住宅、茶室、離座敷、道具蔵、
文庫蔵から成り、その内土塀、長屋門、主屋、離座敷が重文。
見学は予約制だそうです。入場料300円也。
[43]服部 明子さんからのコメント(2002年02月07日 10時08分51秒 ) パスワード
  

皇竹さま

「服部家近況」をありがとうございます。
昭和48年以前あたりのドタバタを父から聞いたことがあります。
父の話は文化庁からの重要文化財指定に「受けては大変」と断った側の話ですが
「受けたお宅の大変さ」はホンヤさんから今年も伺いました。

文化庁からの指定を蹴って茅葺きの家に住む方が楽だな、と私も今頃分かります。

あの辺りは茅葺きの家が固まっていますが
旧家とは責任が大変です。
[44]服部 明子さんからのコメント(2002年02月07日 10時15分01秒 ) パスワード
  

さちこさん

たん風先生のお宅は「源氏車」ですか。
ではいつ頃分かれたのか調べていただけませんか?

確か「源氏車」の服部家のホンヤさんは「蟹江」だったと思うのです。


この人と旧姓服部、養子先が加藤で、大正時代に首相になった人
(普通選挙制や治安維持法を制定した人)
とはどのように結びつくか調べてみてください。

漢字は加藤高明だったと思います。
蟹江の代官の家の出身です。
[45]さちこさんからのコメント(2002年02月07日 12時52分16秒 ) パスワード
  

明子さん

調べるってどうやって?
たん風先生とは祖父が先生から骨董品やなんやらを売ってもらったとかそんな話が残ってるぐらいで今は何もお付き合いないし・・・・。
でも先生の息子さん服部承風先生という方が、
毎月うちの近くに漢詩を教えにいらしているらしいのでその辺りから聞いてみようかな?
でもそこの会が父の漢詩の会とあまり仲良くないので(笑)
それにしても明子さん詳しいですね。

皇竹さん

いろいろ詳しくありがとうございました。
弥富かその近くの方なのですね。
う〜ん。あまり迂闊なことは言えないな。
弥富の伊藤家の方は本当にいいかたばかりです。(汗)


[46]服部 明子さんからのコメント(2002年02月07日 14時05分09秒 ) パスワード
  

さちこさん

源氏車紋の服部系は凄く頭のいい人の系統なのですよ。
だから武(並び矢)を嫌って文(源氏車)を選んだのかな?と。
あっちは凄い賢い人が多いのでちょっと興味があるのです。

これで加藤(旧姓服部)高明が源氏紋だったら私の想像が当たりになるんです。
[47]さちこさんからのコメント(2002年02月19日 12時55分56秒 ) パスワード
  

加藤高明について弥富のパンフレットに書いてありました。
それには佐屋町出身となってました。津島と弥富の間です。
以前頼朝のお父さんが風呂場で殺されたという話をしてましたよね。
義朝が美濃から逃げてきてホンヤサンの近くへ船で来たと。
柴の森というのですがそこの記念碑の字が加藤高明だそうです。
神社にもなっているのですがホンヤサンうちの氏神だと言ってましたが。
佐屋町の一部は昔はホンヤサンの土地だったので、
一度ホンヤサンに聞いてみます。
蟹江と佐屋とどう結びつくのでしょうか?
[48]服部 明子さんからのコメント(2002年02月19日 22時22分32秒 ) パスワード
  

すみません
土地鑑が無いので
蟹江と佐屋が混乱してるんです。

源氏車紋の服部家のホンヤ?は蟹江だと聞いてたんで。


源氏車紋の服部家がどんなに頭が良いのか
でも養子に出た人が首相になったり文化勲章貰ってるので
「服部」という名前は出ないのが残念です。
[49]さちこさんからのコメント(2002年02月20日 22時04分44秒 ) パスワード
  

そうですよね。私もよく混乱します。
あのへんはなんか似てるから。
関係ないけどダラスとデトロイトも混乱してます。
佐屋町のマークは三本矢車なんですが服部家と何か関係あるのかな?

この間伊賀に行って来ました。
伊賀の歴史を研究してる方がいると思うのですが、
多分こちらの服部家のことはあまり知られて無いと思う。
一向一揆の長島の服部家を知っていても、
伊賀の服部家と結びつける人がいないのではと。
伊賀とこちらとではやはり並行して研究しないと判らないことが多いと思うのです。
それでホンヤサンの宣伝もかねて行って来ました。
とりあえず観光協会へ(笑)
資料を持っていって教育委員会やら歴史を調べてる方に渡して頂くようにしました。
とりあえずご挨拶程度で帰ってきましたが、
こんどは伊賀の歴史に詳しい方を紹介していただくつもりです。

いまのとこ一般には家康の忍者のイメージしかない伊賀の服部家だけど少しでも真実を知ってもらえればと。
真実?そりゃ私たちみたいな美しい伊賀の服部家の子孫の女性がいることでしょ!
そらもうしっかり念入りに化粧してきましたわよ。え?逆効果だって?

弥富あたりではいまだに服部家は頭がいい家系だという人がよくいます。
父のいた木曽岬でも服部家は頭がいいとされてたらしいです。
うちもI家の血筋の入ってない服部家の親戚はそれなりに頭いいんですよぉ。
私はもちろん入ってる!

[50]服部 明子さんからのコメント(2002年02月20日 22時58分45秒 ) パスワード
  

へぇ〜
3本矢ですか。

3本というのは服部家の4男以下の紋だと聞いてたような(迂路覚え)。

元上野市長さんが忍者の研究で有名だって聞いてます。
[51]さちこさんからのコメント(2002年02月21日 14時44分50秒 ) パスワード
  

元市長の奥瀬さんという方なのですが亡くなられたそうです。
もう少し話が進展したらホンヤさん宅へ来て頂くか、
ホンヤサン引っぱって伊賀に行こうかと思ってます。
またアドバイスよろしくお願いします。
ここのところ日曜日に時間がとれなくて確定申告が済んだ頃に活動開始しますね。
佐屋のほうも。

そういえばうちの田舎の墓に並び矢紋か違い矢紋の加藤家があったけど。
[52]はったつさんからのコメント(2002年03月05日 10時53分53秒 ) パスワード
  

ぞぞー!

さちこさん。専念寺とあほたれ企業を勇退(?)なされた
いとこさんのはなし。ありがとうございました。
勇気ずけられます.

並び矢と源氏車の両方の家紋を父が見たことがある
といってかなり混乱してました。
多分「ハイブリットなんだろう」とそっけなく言ってました。
やっぱり遠い遠い親戚か、かってに「服部」という名前を
つかったのかもしれないですね(笑
多分ホンヤさんとは関係ないけど、祖父はかなり裕福な家で、
女好きがたたって勘当されてしまったという話しを
聞いたことがあります。
そのあとで、養子に行っていた弟さんが呼び戻されて
実家を継いだらしいのですが、どんな家なのか、
俺も父もあまり知りません。葬式や法事の時に
ちらちらと聞かされた断片的な話しばかりです。

祖母の方は加藤という家で、こちらも大きな家だったと聞かされてます。
ただうちの祖父母は大恋愛の末、駆け落ち同然に名古屋に
逃げてきたので、二人の葬式まで実家の人達とは
交流がなかったのです。
死んだあとで、大変だったんだなーと思ったのと同時に、
うちの服部は何か因縁があるんじゃないかと思ったのを
憶えています。よく子供が亡くなったりするし…
あまり運の無い家です(涙

もともと服部と(服部同志?)加藤という遠い親戚筋に当たる家の間で、
何度か結婚や養子縁組があったらしいです。
父は関心がないというよりは、親戚関係で嫌なことが過去に
合ったみたいであまり深く話そうとすると黙ってしまいます。
なんか義理のお兄さんに殺されそうになったことがあるそうです。

あたまいいかどうかといったら、俺は本質的には悪いほうですが、
名古屋大学の博士過程で映画の勉強してました。(いまは休学中です)
でも高校は名古屋大谷(真宗大谷派)というところで、はずかしながら
暴走族系の不良でした。
高校の先生に無理やり押し込まれるように
大学に入れられて大学出た後でフリーターやってたら、
いまのアメリカ人の指導教授が、映画を勉強してみないかと誘われて、
お金が無いから国立しか行けないし、
勉強するのはこれが最後だ!とばかり勉強したら受かってしまった…
というのが事実です。その後、アカデミックなブルジョワ社会で
大変な思いをしました(苦
もう一生勉強したくありません。

で、お金と仕事面でのセンスはてんでさっぱりです。
「根性」と「筋金」だけは自信有るんですが…

また個人的なこと書きこみすぎました。
でもひょっとすると親戚なのかもしれない人達が
日本中にこんなにたくさんいると思うと、
服部の家の人も頑張ってきたんだなと思えるようになりました。

きっと大変なことがいっぱいあったんですね。

こういうので、個人的なことかいちゃいけないんですよね?
すいません。


[53]服部 明子さんからのコメント(2002年03月06日 00時02分52秒 ) パスワード
  

いえいえ、個人的な経験談からいろいろ見えて来る事がありますから
どんどん書いて行って下さい。

名古屋大谷という学校は知りませんが
浄土真宗でしたなら
まさに「伊勢長島一向一揆」に参加なさったご先祖がいらっしゃる
ということではありませんか?


だいたい名古屋では「鬼頭・加藤は太閤さま以来の名門」と表現するそうです。
鬼頭は秀吉の従兄弟の福島正則の旧姓ですし
加藤はこれまた秀吉の親戚の加藤清正の家ですし。


もともと名古屋では加藤家とか中島家とかそういう家があって(昔の豪族でしょうね)
何重にも親戚関係やってます。


平家時代・南北朝時代・戦国時代などから何重にも結婚を繰り返しているって思います。
ただ昔の事を忘れている=知らないと思うのです。
[54]さんからのコメント(2002年03月06日 10時05分18秒 ) パスワード
  

私自身もついつい個人的なことばかり書いてしまいますが、
(そういえば私も、ほとんど平家の話をしてない・・・(^^; )
そういうおまけの話が結構服部氏を考える手掛かりになってると思います。

私の先祖の服部家も、戦前までずいぶん羽振りが良かったようですが、
彼らも結構波乱万丈な人生を送ったみたい(?)です。

頭脳は・・・祖母は県立の女学校を卒業しています。
これは、明治生まれで田舎の島育ちの女性としては結構珍しい事だそうです。
もっとも、家が裕福だったから出来たことではありますが。
本を読むのが好きで新しい物好きだったので、知識は豊富な人でしたよ。
80代後半にしてワープロを始め、「パソコンもやってみたい」と申しておりましたが、
それが実現する前に亡くなりました。

え?私?
私は・・・大学受験では第一志望校を見事に・・・外しました(笑)
これでも中学生の頃は「コンピューターおねえちゃん」と異名を取るほど出来が良かったのに(苦笑)
現在は育児休業中の、一薬剤師です。

私も学生時代は名古屋に居ました。
名古屋大谷高校、という仏教系の学校があることは知っていました。
どんな高校かまでは分からないけど。

加藤さん、鬼頭さん、中島さん(「なかじま」、じゃなくて「なかしま」ですよね)、みんな名古屋の知り合いの中にいます。

名古屋で出会った人々って、何だか初めて会ったような気がしなかった。
これって、やっぱりDNAに染み付いた「記憶」なのかなって思ったりします。
[55]川口 信さんからのコメント(2002年03月06日 10時28分38秒 ) パスワード
  

隈さん、久しぶりです。

 祖母さんの話がでたので、一言。
以前他のスレッドで山藤家の出とあったので、私の姉の子供(姪)が同じ名前の山藤家に嫁いでおります。これも何か縁が深いかなと前から思っていました。その山藤家は京都・山科に住んでいる。(山科の藤原氏)かと思っていますが、なにしろ遠方のため、法事か結婚式の時しか逢えませんが今度逢ったら、家紋や謂れなど聞いてみるつもりです。
[56]さんからのコメント(2002年03月06日 11時53分53秒 ) パスワード
  

川口さん

どうもご無沙汰しています。
川口氏に関するスレッド、興味深く拝見させて頂いてるのですが、
津島・弥富に関する情報は明子さんやさちこさんの方が数段詳しいので、
私は一歩引いておりました。

>私の姉の子供(姪)が同じ名前の山藤家に嫁いでおります。

そうなのですか!

私の父方の祖母が山藤家出身です(上に書いた母方の祖母が服部家出身)。
摂津高槻藩の家老だったとか。
祖母の父は高槻に居ましたから、山科とは近いですね。
やはり、遠い親戚かも知れませんね。

ただ、うちの本家のお墓は、既に無縁墓になっているそうです。
後を継ぐ筈だった祖母の甥が、昭和16年に亡くなってしまって、家が途絶えてしまったようです。
私の伯父が高槻の菩提寺を訪ねて、山藤家の先祖の戒名を書き取って持ち帰り、
他の先祖といっしょに供養しています。

姓氏家系大辞典では、「山藤氏は、山城の藤原氏」となっています。
ただ、初めに山藤姓を名乗ったのが藤原秀郷の六男・清光で、
彼は父親と共に下野国に下向したことになっているのです。
現在でも、下野(栃木県)のすぐ隣の群馬県桐生市にたくさんの「山藤さん」がおられます。

うちの先祖はいつ、関西に舞い戻ったのか?
高槻藩主の永井氏に関東からついて来たとか?

それとも、関西に残った支流がいたのか?

それとも「山城の藤原氏」とは別流なのか?

まだまだ謎が多いです。


ちなみにうちの父に聞いたところ、山藤家の家紋は「桐」だったということです。
でも祖母が付けていた紋だとすると、正紋か、女紋かちょっと疑問・・・

私も今度伯父に会ったら詳しい話を聞きたいと思っているのですが、
なかなか機会に恵まれずにいます。
[57]さちこさんからのコメント(2002年03月06日 19時57分18秒 ) パスワード
  

はったつさん
今回のお話ゾットする以前に、
失礼ながら大うけしてしまいました!
これぞ我が一族という感じです。
色々書きたいことがあるのですが、
今から出かけるのでまた。
遠慮しないでこれからも近況を教えてください。
[58]Toruさんからのコメント(2002年03月07日 00時47分54秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年03月07日 08時47分44秒
[59]秦義則さんからのコメント(2002年04月19日 22時47分50秒 ) パスワード
  

はじめまして、秦といいます。名前が難しく、正しく読んでもらえなかったり、読めても正しく書いてもらえなかったりします。「泰」や「奏」とかかかれます。生まれは大阪の池田市。池田市にも伝説があります。大阪湾から渡来人が都に上がるのに水路で猪名川に入り池田に来てとどまった様子。二人の姫がいて、一人を綾服部(アヤハトリ)もう一人を呉服部(クレハトリ)と言います。猪名川で絹を洗って川原に並べた事から絹延(キヌノベ)という地名があり、五月山には絹掛けの松があります。綾羽神社、呉羽神社があり、それぞれの姫が祭られています。秦氏に関係があるようです。池田市には秦野という地名があります。池田の南、豊中市に服部と言う地名があり、服部天神の由来にむかし秦氏が住んでいたと書かれています。どちらも機織(はたおり)に由来があるようです。秦氏と服部氏は関係が深いと思います。また豊中市で開業されている秦医院の先生に出身を尋ねた所、平家と一緒に落ちていき、因島にたどり着いた一族で、因島出身らしいです。
[60]服部 明子さんからのコメント(2002年04月19日 23時05分10秒 ) パスワード
  

秦さん

初めまして。
秦一族の由来、ありがとうございました。
秦氏の中にもも平家と共に落ちて行った人達がいらっしゃったのですか。

貴重なお話ですので「秦氏」のスレッドにも転載させて頂きますね。
[61]さちこさんからのコメント(2002年04月20日 12時06分52秒 ) パスワード
  

秦さん
初めまして。
色々興味深いお話ありがとうございます。

今日から秦野市に行きます。神奈川の秦野市です。
秦氏の研究のためではないのですけど(笑)
でもなんかすごいタイミングで秦さんがいらしたので少し驚いてます。

明子さ〜ん。やっぱり私秦氏の怨霊にとりつかれてるかも?

服部も普通ではハットリとは読めないですよね。当て字です。
関東では羽鳥という字が地名や神社などによく使われてますが。
神奈川にも羽鳥神社があって秦氏の名前がありました。
福島県にも羽鳥湖というのがありました。
関東ではハドリと読むことが多いみたいです。
秦野市ハダノと読みます。

私は秦も服部も語源は同じではないかと思うのですが。
ハディ、ハティと元は発音してたかと。
英語のCITYみたいな感じですね。

秦河勝は大和の波瀬川洪水で流されてきた子と
世阿弥が風姿花伝で書いているのですが、
ハゼ川と読みます。

元は秦川、はでぃ川ではなっかたかと。
私の個人的な考えですが。

因島の秦氏?
因島といえば向島のお隣ですね。隈さん!
たしか村上水軍もあのあたりを拠点としていたとか。
村上水軍と河野氏とは関りが深いですよね。
今まで黙ってたけど河野氏も秦氏系です。多分。
村上家とはうちは古くからの親戚になります。
このへんの繋がりがきになります。

[62]服部 明子さんからのコメント(2002年04月20日 22時23分21秒 ) パスワード
  

>村上家とはうちは古くからの親戚になります。
>このへんの繋がりがきになります。


実は!実は!村上氏というのは河野家から出ているのですけど
南朝方の大親分・北畠親房が我が子を村上家に入れて乗っ取った家なのですよ。

ですから同じ南朝方という意味では同じく新田(義貞の子?義興)に従ってた
という事で服部家と村上家は繋がりがあったと思いますよ。


でもいわゆる伊予の河野氏は大三島神社の氏子でして
人皇7代孝霊天皇の子孫の(小千皇子の子孫)越智氏の子孫になります。

秦氏のご子孫で河野姓を名乗る人もいるでしょうから全面否定はしませんが。

ワタクシは母方が伊予の河野で84代目なんですよ。
だいたい現在は83代目から86代目あたりが生存しています。


河野と服部の引っ張り合いでびっくりしたのは母の従姉妹も並び矢紋の男性と結婚してるので
よくよく仲が良いのだな、と思ってます。

母方河野家も元は平家方に従ってたし、(途中で個人的感情から反平家になり)、
その後は反北条・南朝方、反信長、一向宗方、幕府方と続いたので
父方服部家と同じ傾向を頼ってます。

だからさちこさんとこも村上氏と親しい関係が出来ているなら
同じような過去からでしょうね。

ワタシは村上氏に良い感情は持ってますが向こうはワタシの事は個人的に?嫌いみたい。
そういう過去の現実があります。
[63]秦義則さんからのコメント(2002年04月21日 15時32分30秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年04月21日 15時37分11秒
[64]秦義則さんからのコメント(2002年04月21日 15時40分08秒 ) パスワード
  

池田市に秦氏が住んでいたのですが、猪名川の上流の三田市にも多く住んでいた様子。また池田の北、大阪府から京都府に入ったところに亀岡市があります。亀岡市はもともと大きな湖だったのですが、秦氏が干拓し、ここに一族の一つの拠点を置きました。亀岡から嵯峨野一帯に秦氏が住んでいたのですが、そこからさらに今の京都市内を干拓し、桓武天皇を京都に招いたようです。
僕自身は池田市出身ですが、本家は亀岡市本梅町です。
また家紋は丸に木瓜紋です。いつの頃からかわかりません。木瓜紋はすごく普及している紋の一つです。
木瓜は胡瓜の切り口を図案化したものとも、鳥の巣を象ったものとも御簾の帽額に使われた文様ともいわれています。もともとは海の彼方から渡来した貴族紋との説もあるようですが、定かではありません。
但馬の古代豪族・日下部氏一族を代表する紋で、日下部氏から分かれた諸家がこぞって木瓜紋を用い、後に武家社会に広く普及したようです。
秦氏と日下部氏とはつながりがあるのでしょうか?
[65]服部 明子さんからのコメント(2002年04月21日 21時04分39秒 ) パスワード
  

<木瓜紋>

これは織田信長の紋です。
それで尾張には多いそうです。
我が家の親戚でも中島(なかしま)姓の親戚が使用しています。
[66]秦義則さんからのコメント(2002年04月21日 21時43分33秒 ) パスワード
  

織田木瓜は木瓜紋の変形ですね。武家社会になってから武士達が木瓜紋を好んで使ったと言われているようです。
家紋の丸に横木瓜は間違わないようにか「丸に花菱、中、カン木瓜」(マルニハナビシナカカンモッコウ)と、伝えられています。
[67]さちこさんからのコメント(2002年04月24日 13時08分51秒 ) パスワード
  

秦野市から帰還いたしました。

きっと秦さんがいっぱいだろうと思ったのですがそうでもないような。
羽田、畑もありましたけど。
私の住んでる北勢の方がハタ率が少し多いかな?
北勢も秦氏の多い所なので全国的にはどうか判りません。
羽鳥さんというのがありました。
これはこちらでは見かけない名字です。

秦さんは福祉関係のお仕事をしてらっしゃるのですか?
秦氏系の名字はたくさんあるけれど秦というのは意外と少ないようですね。

服部家で横木瓜の家紋を使っているお宅がありました。
以前明子さんにお話した伊勢神戸の服部さんです。
平家ですかと訊ねたら大笑いされたけど。
源氏系になるのかな?
伊勢の服部家は矢紋だと思ってたので少し以外でした。

明子さん。
越智氏が秦氏系なのですよ。正確には賀茂氏かな。
三島神社、大山祇神社というのも越智氏の神社ですが、
大山祇神を祀っています。
大山祇というのは百済からの渡来の神様で賀茂氏の神様です。

秦氏と賀茂氏はもともとは別か同じかはよく判らないのですが、
まあ同じようなもの考えられてます。
服部氏と秦氏の関係に大雑把にいえば似ています。

秦氏と賀茂氏を繋ぐ記録は沢山あるのですが面白いところでは
秦氏の記録で秦都理(伊賀の長者で松尾大社を建てた人)と鴨の何とかが兄弟。
賀茂氏の方では鴨の何とかの子が秦都理とされてます。
いいかげんな記憶でごめんなさい。

伊予水軍、三島鴨部とかいうのですが大和の治水工事を秦氏と共に行ったらしいです。
これが大和の越智氏になったのかな?これは私の推測ですが。
南北朝時代、越智氏についていた十市氏ひきいる長谷川党というのがありますが、
長谷川党は秦河勝の子孫を称しているのです。
たしか、そりちゃんさんのお母さんが十市氏と関係ありましたね。

ごちゃごちゃ書いてるうちに時間がなくなった!
村上家とうちの関係を書こうと思ったのに。
またね。
[68]秦義則さんからのコメント(2002年04月26日 21時16分57秒 ) パスワード
  

そうです、福祉関係の仕事です。医薬品関係の仕事して、病院にも勤務して、31歳の時に独立しました。良かったらホームページを見てくださいね。
[69]秦義則さんからのコメント(2002年04月26日 23時18分23秒 ) パスワード
  

加茂氏といえば「賀茂建角身命」を思い出します。「賀茂建角身命」は八咫烏(ヤタガラス)となって神武天皇を熊野の地から大和へ道案内したと言われています。熊野神社にヤタガラスが祭られていますが、ヤタガラスと秦氏は関係があるように思えてきました。少し調べてみたいと思います。
[70]さちこさんからのコメント(2002年04月30日 12時56分38秒 ) パスワード
  

秦さん
ホームページ拝見いたしました。
とてもやりがいのあるお仕事だと思います。

秦氏について詳しく調べていらっしゃるのですか?
私は服部家関連のことばかりほんの少しかじっているという感じです。

ヤタガラスですか?
わたしはよく判らないのですが。
確かに秦氏が渡来したとされる応神天皇以前にも秦氏の痕跡はあると思います。
八とか矢とか好きですから秦氏は(笑)
角もそうですね。
漫画家の、つのだじろうさん本名角田さんだそうですが、
始皇帝の子孫と伝わっていたらしいです。
昔は秦田と書いてツノダと読んだそうです。
また調査の結果ご報告ください。

最近大阪の知人に三ツ矢サイダーの発祥の地は池田市辺りで、
その起源は平安時代に遡るという話を教えてもらいました。
(平安時代にサイダーあったのかァ?)
服部家の家紋は矢紋なので何か秦氏と何か関連があるのかなと思うのですが。
何かご存知ではないですか。

このスレッドの冒頭のほうにも書いたのですが、
うちの先祖は、あやはとり、くれはとりと伝わってきました。
以前はあまり信じてなっかたのですが、
池田市に神社があると知って昨年行って来ました。

奈良の磯崎町結崎にも糸井神社というのがあって、
観阿弥が座を起こしたのが結崎なので服部家と関連があると思います。
世阿弥作とされている謡曲、呉服(クレハ)に二人の織姫が登場するそうですね。
[71]秦義則さんからのコメント(2002年04月30日 23時37分07秒 ) パスワード
  

さちこさんこんばんは。ホームページ見ていただいて光栄です。
三ツ矢サイダーの話ですが、池田市のとなり川西市の平野が発祥の地です。平野鉱泉と呼ばれている湧き水です。源満仲が放った矢が落ちた所に湧き水が出たと言い伝えがあり、はじめは一ツ矢サイダーだったです。サイダー自体は明治に入ってから作られていますが、日本ではじめてのサイダーです。それも平家ではなく源家です。近くに多田神社があり源満仲公をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公をお祀りしていることから、源氏発祥の地と言われています。多田銀山を発掘し源家繁栄の基礎としました。頼光と言えば大江山の鬼退治の話がありますが、鬼とは?頭に角がある。秦氏ははじめ角のある神様を崇拝していたとか。大酒神社の牛祭りに見られます。ここで、大江氏と秦氏の関係が見られます。
八咫烏(ヤタガラス)=三本足のカラス:について調べるうち、九州で秦王国を築いた後熊野から大和に入ります途中で出雲の大国主とも出会うと言う話になり、神武天皇の東征とダブってきました。熊野神社の神紋がヤタガラスです。法隆寺にもあるとか。古くはやはり朝鮮半島のようで、朝鮮では太陽を背にしたヤタガラスです。ヤマタノオロチもしかり、三種の神器の一つが八咫の鏡。八幡も語源が近いようです。熊野神社のクマとは?熊襲とは?隼人(はやと)とは?
秦氏と村上氏とで築いた伊勢神宮。伊勢に残った秦氏が伊勢の服部氏となり、伊賀の服部氏となる。大和に残った村上氏と秦氏から越智氏が生まれたり。
なぜヤタガラスの足は三本なのか?太秦の蚕の社と呼ばれる神社の鳥居は足が三本。景教と関係があるとか?
そもそも太秦広隆寺は何の目的で建てられたのか?聖徳太子から賜った弥勒菩薩?朝鮮系の菩薩でわざわざ賜らなくてもよいはず。聖徳太子は実在したのか?後からつけられた名前、厩戸の皇子はイエスにつながるってほんと?
秦氏は秦の始皇帝の子孫と言う事にした方がいいから?始皇帝はユダヤ人?
貴族紋と言われる家紋の木瓜紋は唐草模様とともにペルシャ由来?
伊勢神宮のユダヤの星印、安部清明の五つ星、ソロモンとダビデ?いろんな事を言う人もいます。荒唐無稽で何が真実なのかわからなくなっています。
その土地に残っている伝説や神社仏閣の由来自体はそれとして正しく。点である事柄を線で結ぶ事までは許されるかもしれませんが、推測で面にするには根拠が少ないですね。
ただいえるとしたら、昔々大陸から何らかの都合で、海を越え島国にやってきた渡来人が沢山いたこと。様々な文化や技術を持ち込んだ事。その人たちを血縁のあるなしにかかわらず、秦氏や漢氏と名づけた事でしょう。今の僕には何も証明するものがないのですから。
[72]さちこさんからのコメント(2002年05月07日 22時07分36秒 ) パスワード
  

秦さん
三ツ矢サイダーの件詳しくありがとうございました。
まったくのいいかげんな話ではなかったのですね。
連休で書き込みが遅れてしまいごめんなさい。

でも少し気になるのは頼義の子三人

義家=八幡太郎
義綱=加茂二郎
義光=新羅三郎

なのは引っかかりませんか?
まるで秦氏三兄弟みたいですが。

甲斐の武田氏は新羅三郎の子孫です。
甲斐源氏。
服部家と武田氏の関係はここまで遡るのかしら?

村上氏が伊勢神宮に関係してるのですか?
なんとなく秦氏が伊勢神宮に関係しているのは判るのですが。
具体的にどのように関係しているのか教えていただけたら嬉しいのですが。

村上家とうちとの関係というのは大した事ではないのですが、
うちの菩提寺の住職が村上なのです。
桑名市にある長禅寺というお寺ですが、
昔は長島にあったのですが河川工事のため移転したそうです。
今は新しい檀家ができてますが元は服部家だけの寺だったそうです。
住職も服部家だったのですが
昔から村上家へ養子に行ったりもらったりとしてるうちに村上になったそうです。

「長島の服部家の寺?聞き込みに行って来い!」
と明子さんに言われそう。でもなんか今さら恥ずかしい!
何故か曹洞宗なのですよ。
長島の服部家でも違う寺の檀家があるし、
うちは弥富から出てるし詳しいことは判りません。

秦氏と角ですが牛頭天王信仰も秦氏関連でしょうか?
愛知県に津島市という所があるのですが、
尾張津島神社が牛頭天王信仰の総本社です。

夏に天王祭りと言うのがあります。
四家七名字の南朝系の武将が後醍醐天皇の孫とその子連れ各地を転戦したのですが、
北朝の連中を舟遊びに誘って騙まし討ちして追っ払った記念の祭りだそうです。
服部家は七名字のひとつですが、
今も服部家ホンヤが朝祭りを取り仕切ってます。

[73]妹川武史さんからのコメント(2002年06月23日 19時06分48秒 ) パスワード
  

 福岡県浮羽郡浮羽町大字妹川にも、平家の末裔といわれる姓があります。私が知るところでは、「鑓水」「佐藤」「掘江」姓です。家紋は「剣花菱」で統一されています。実際、家系図等もあるそうです。
 ところで、「菱」紋といえば、武田氏が始まりといわれていますが、何故、この地に流行ったのかは分かりません。今後、調査しようと思います。
 なお、私の先祖も妹川の住民でありましたが、家紋は「丸に剣花菱」です。何か関係があるのかなと、思っております。
[74]服部 明子さんからのコメント(2002年06月23日 21時42分32秒 ) パスワード
  

「丸に剣花菱」紋使用で有名どころは龍造寺家だそうです。
大友宗鱗を破ったのを記念して「杏葉紋」に替えたそうです。
その辺りが絡んでいるかも知れませんね。


昨日、仕事中にドッキリした事があります。
「揚げ羽蝶」の紋どころのカバンを下げてる人がいて
(平家関連?)
と一瞬思いましたが
なんの事はない!
香港からの客でした。

まさか平家が香港まで逃げて行ったとは思えないし
でも同じ図案でした。
[75]妹川武史さんからのコメント(2002年06月27日 21時54分22秒 ) パスワード
  

服部様
いつも楽しく拝見しております。
このサイトだと思いますが、「江戸時代に姓は変更するのが困難であった」旨あったと思います。
 私の先祖も姓を変えておりますので、お伺いしたく、連絡させていただきました。
 私の先祖は、戦国時代、戦に負け、帰農し、その時「妹川」(いもがわ)姓を「芋川」(いもがわ)姓に変えているのです。お墓には、最初「芋川」姓の記載があり、文久元年ころから「妹川」姓に変えているのです。お寺の過去帳にも文久元年から「妹川」姓が登場しておりますので、住職から「藩から公式に姓を名乗ることを許されたのでしょう。」と言われました。
 これは、藩が先祖本来の姓である「妹川」姓を名乗らせたのでしょうか。それとも、公式に姓を名乗ることができたので、先祖本来の姓を名乗ることにしたのでしょうか。
 私事で申し訳ござません。御教授方、よろしくお願いいたします。
[76]服部 明子さんからのコメント(2002年06月27日 22時55分24秒 ) パスワード
  

私の母方も大坂の役で落ち武者になり
姓を変え紋を替え

江戸時代末に(1820年あたり)姓は元に戻すことが許されました。
でも紋の方は許されなかったようです。

矢張り「妹」川姓というのは土地では由来が分かる名門だったのでしょうね。
力を失って「芋」に変えざるを得なかったけれど
江戸時代に何等かの理由で「認められた」のでしょうね。

我が家の家系書では「許された」と書かれていますから
お願いを出すというのを代々やってたのかも知れませんね。

姓には物凄い思いが込められているというのが分かりますね。
[77]さちこさんからのコメント(2002年06月28日 12時54分50秒 ) パスワード
  

妹川さん
はじめまして。

やっとスレッドのタイトルらしい話題になってきました。
そりちゃんさんのスレッド、
なんか秦氏と服部家で乗っ取ってしまったみたいで申し訳なく思ってました。
平家の家紋の話だと思ってこのスレッドを読まれた方は驚いたと思います。

香港の人が揚げ羽蝶に似た紋のカバンを持っていたお話。
平安時代初頭の薬子の変で負けた平城上皇の皇子高岳親王は出家し
いったん唐に渡りインドに行く途中マレー半島で亡くなってます。

香港に逃げ延びた平家もいたかも?まさかね・・・。
でも平家の時代宋との貿易が盛んだったので
中国に平家の子孫がいないとはいえないかも?
[78]そりちゃんさんからのコメント(2002年06月29日 10時30分45秒 ) パスワード
  

そりちゃんです。

<なんか秦氏と服部家で乗っ取ってしまったみたいで

気にしないでください。私も楽しく読ませていただいてます。
とても勉強になりますし、こうやって皆さんで会話していくうちに
いろんなことが解かっていくのが楽しいではないですか!

皆さんの話題には関係なさそうなのでどうしようかとおもったのですが
書いちゃいます。

私の父によると以前伊達家の御用達だった蚕の繭問屋の「川勝」家と
うちは縁戚関係にあったそうです。はっきり憶えていないそうですが
どちらかの家に娘が嫁にいったとか、きたとか・・・。

この「川勝」姓を調べたら「秦氏」だったのです。
そのまんまですよね。

川口さん
HP立ち上げ、おめでとうございます。
ところで、川口さんはなぜご自分のご先祖について調べられているのですか?
差しつかえなかったら、教えてください。
[79]川口 信さんからのコメント(2002年06月29日 11時08分43秒 ) パスワード
  

そりちゃん 久しぶりですね。調査の方はいかがですか。

 何故と言えば何故だか?と言いたいのですが。最初の動機は川口家はこの三代ほど女子が多く、分家しておりません。私も初めに女子が生まれ、川口姓が絶えてしまっては先祖に申し訳なく思い、色々と調べはじめ、多くの人々に助けられ、現在に至った訳です。明治からは貧乏旗本の成れの果てみたいで、系図と過去帳しか残されていなく、あとは全部、図書館とか古本とか、歴史読本とかの読者欄に投稿したりして調査したものです。
 まだ私が調査の依頼の仕方や言葉使いのいたらない時にそんな事には関係なく親切に調査に返事やご教授を頂き、資料まで送って頂いた沢山の方々に答えるためにも、お節介かも知れませんがこうしてあちこちにコメントしている訳でいわばその時の恩返しみたいなものです。(ADSLなので使わなきゃソン見たいな気持ちもあります。)

 
[80]そりちゃんさんからのコメント(2002年06月29日 13時17分04秒 ) パスワード
  

恩返しですか、わかります。私も「平熱」でもいろんな方々に勉強させて
いただきましたし。私もがんばらなくちゃ!

私の調査ですが、大槻姓に関しては取りあえず、姓氏辞典に記載のあった出自
全件について裏づけ、というかもう少し深く調査してみようと思い立ち、現在
資料集めの段階です。それと併せて「神子姓」について調査しています。

神子家の先祖といわれている御子上(御子神・神子上とも)典膳(小野次郎右衛門
忠明)はもともとは伊勢の出身で、後に伊豆出身の一刀流の祖伊藤景久の弟子となり、家康の時に幕府につかえ、のちに母方の祖父の姓を名乗り小野姓となっています。

この典膳、大和の十市氏とも橘氏ともいわれています。この辺りをもう少し
調べてみるつもりです。

ところで、私のHPですが、画像が転送できなくて困っています。
なんでかな〜?
[81]川口 信さんからのコメント(2002年06月29日 14時23分00秒 ) パスワード
  

私も今年になってからWindowsを始めたばかりで、現在もパソコン教室に通って基礎からやっております。、やっと素人ながら立ち上げましたが、精しい人にとっては下手で苦笑ものと思いますが。

 あまり精しくお教えできないのですが、多分画像の名前を英文の半角で付けていないのではないかと思われますが(転送先に×印がでているなら転送出来ているので)頑張って試してください。
[82]妹川武史さんからのコメント(2002年06月29日 14時55分04秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年06月29日 18時06分51秒
[83]服部 明子さんからのコメント(2002年06月29日 21時47分43秒 ) パスワード
  

華陽院という絶世の美女は昔の日本でも小顔美人だったようですね。
残念ながらお顔の様子はカビがついてて?汚れがついてて
ハッキリしませんが、その方が良いのかも、ですね。
[84]さちこさんからのコメント(2002年06月29日 22時48分35秒 ) パスワード
  

そりちゃんさん
ありがとうございます。

振り返ってみるともう一年になるんですね。
このスレッドをそりちゃんさんがお立てになってから。

平家に詳しくない私にとって平熱は敷居の高いものでございました(泣)
明子さんや隈さんは雲の上の存在でした。
(いや冗談ではなくて。)
とりあえず彦熱からおじゃましたりして。

今から思うと懐かしいです。
一族だということで親しくして頂いて本当に嬉しいです。

そりちゃんさん!
川勝家とご縁があったのですね!
平熱名物。ここに復活ではありませんか?
私がおじゃまして秦氏云々言ったのももしかしたらご先祖様のお導きかも?

川勝家は秦河勝の子孫です。
千年の時を過ぎても養蚕関係のお仕事をなさってたのですね。
反田さん。やはり、はんだ=ハタのご縁があったのでは?

川口さま!
うちも女系と言うか、後継ぎがないのですよ。
父は今、83歳なのですが子供は私ひとりです。

40数年前の伊勢湾台風で嫁に行った妹以外の、
親、兄弟、妻、子供を全部亡くしました。

その後再婚して生れたのが私です。
念のため言っておきますが。
父とはすご〜〜〜〜く!歳が離れてますので。
くどい様ですが本当にすご〜〜〜く!! でございます。
服部家が長寿だ云々書いたのはこの言い訳のためでもあります。

祖父も男兄弟がなくて、(長い間男の子ができず末っ子だったそうです。)
服部家を名のったのは一人だけなのです。

ややこしいのですが父の曽祖父も水害で流されたらしいです。
子どものいなかった服部ヘ養子に入り、
同じ服部家から血筋を絶やさぬように嫁をもらったらしいいです。
田舎だから血筋というのにこだわるのかもしれませんが。
うちの系統で服部を名のっているのは私だけです。
父の妹が半田家(秦氏です)に嫁ぎ服部の血筋を残しているのもご縁だと思います。

私は独身で今のところ子供がいないなのでご先祖様には申し訳ないなと思ってます。









[85]服部 明子さんからのコメント(2002年06月30日 00時15分07秒 ) パスワード
  

さちこさんのお父さまは伊勢湾台風でそんな不幸に見舞われていたのでしたか。
そう言えば「伊勢湾」と名付けられてるので
三重県の被害が酷かったというのが命名から分かりますね。

私はやっと実感として分かりました。
[86]さんからのコメント(2002年06月30日 11時19分24秒 ) パスワード
  

レスがワンテンポ遅れがちになっている隈です。(^^ゞ

そりちゃんさん、どうもお久しぶりです。

そりちゃんさんも川口さんも、HPをお作りになってたんですねぇ!
すごい・・・
私自身はパソコンの腕に関しては進歩がなく、ちょっとしたトラブルでうろたえるので、HPを作るのは到底無理だと思います。

だいたい今使ってるパソコン、主人のだし。


ところで、さちこさん、

> 明子さんや隈さんは雲の上の存在でした。

というのは、私を買いかぶり過ぎでしょう。(^^;

実は私、平家物語は全然詳しくありません。
だってちゃんとした現代語訳すらまだ読んでないし(ホント自慢にならない)。
自分の祖先を突き止めたいばかりに、2年前に日本史の勉強を始めたばかりの人間ですので、どうか「雲の上の存在」などとはおっしゃらないで。
「面映い」を通り越して、「後ろめたい」です・・・ (^^;

それはそうと、さちこさんのお家も、いろいろと大変だったのですね。
うちの先祖(服部家)も、天災にこそ遭ってはいませんが、一時期なかなか後継ぎに恵まれなかった様で、苦労の跡が見られます。養子を迎えたり、いろいろ。
《子供が1ダース産まれる》って言われた時代にこんなに子供に恵まれないっていうのは、何かあるんじゃないかと思ったぐらいです。

うちも子供の事ではいろいろあるので、やはり気になってしまって。

そんな訳で最近、ささやかながらご先祖様を供養し続けています。そうすることで、自分自身や子供達の道も開けるような気がするので。


それから、私も最近、別スレで書いたように秦氏の事を調べています。
そりちゃんさんのお家が「川勝さん」と繋がっていると聞き、ドキッとしてしまいましたよ。

実は私にも、半分ぐらい秦氏の血が流れているみたいです。
母方の服部家だけでなく、父方の祖先も何だか怪しいんですよ。
どうも、この『平熱』にオカルトの風を吹き込んでいるのは、秦氏らしい?
[87]たまねこさんからのコメント(2002年06月30日 21時16分24秒 ) パスワード
  

みなさん、こんばんは。
だんだん、核心に迫ってきたようですね。

「秦氏」を調べていくうちに、みなさんとの繋がりが明らかになってくると思いますよ。特に、『八咫烏』『月』がポイント。このカラスは、鳥じゃありません。これは後の「忍者」にも繋がってくる”トリ”です。

余談ですが、うちの家系も、姓と子孫の人口が伸び悩んで?います。
[88]そりちゃんさんからのコメント(2002年06月30日 22時33分01秒 ) パスワード
  

こんばんは。隈さんも秦氏にいきつきましたか!
たまねこさんの云うとおり、秦氏に導かれているのですね〜。

さちこさんの家もたいへんなことを乗り越えてきたのですね。
お父様が助かったのも運命的ですね。そして、さちこさんが
「家系」について調べていることも。

たまねこさん
<これは後の「忍者」にも繋がってくる”トリ”です。
ハットリのトリではないですよね〜。なんだろう?
私は「トリ」というと神社の「鳥居」を思い浮かべてしまいました。
なぜ、「鳥居」というのかな?なんて。

カラスといえば、ギリシャ神話にも金色のカラスが出てきます。
たしかアポロンの使いで、何か失態をして、アポロンの怒りをかい、
罰として黒い羽に醜い鳴き声の姿に変えられてしまったのだと
記憶しています。

秦氏がユダヤの末裔とするとギリシャ神話も知っていただろうし、
そうするとこの「カラス」とはもの凄く深い意味を隠された何かの象徴なの
かしら。

余談ですが、うちは第二子がなかなか出来なくて悩んでいます。
[89]そりちゃんさんからのコメント(2002年07月01日 16時41分16秒 ) パスワード
  

「古事記」や「日本書記」によると、天皇家の初代とされている神武天皇は
九州から大和を平定するため戦いながら目指した道中、手助けしたなかに「八咫烏」がでてきます。
いわゆる、「神武東遷」です。

[90]そりちゃんさんからのコメント(2002年07月01日 21時38分37秒 ) パスワード
  

忘れていたけどワールドカップの日本代表チームのエンブレムにも
「ヤタガラス」がしっかりついているのですよ!
でも、なんで?
[91]秦義則さんからのコメント(2002年07月01日 22時11分40秒 ) パスワード
  

名前は忘れたのですが、サッカーを正式にはじめて日本に伝えた人が、和歌山の熊野の人で、熊野神社の祭神が「八咫烏」です。「八咫烏」は神武東征の時だけじゃなく、秀吉が出陣する時も現れたといわれています。道なき道を案内し、勝利に導くシンボルです。「八咫烏」も大陸から秦氏が持ち込んだのでしょう。日本サッカー協会にもずい分と古代を知ってる人がいたのですね。それとも協会に秦氏の末裔がいたのでしょうか?
[92]そりちゃんさんからのコメント(2002年07月02日 00時34分23秒 ) パスワード
  

すごいぞ、秦一族!W杯まで!!
日本は惜しかったけれど、韓国が3位だからよかったね。
でも、こんなに心の距離が近づいて、いいことですよね。
これも、秦氏のご先祖様たちのお導きかも。

<秀吉が出陣する時も現れたといわれています
よろしかったら詳しくお教えください。
[93]服部 明子さんからのコメント(2002年07月02日 11時10分57秒 ) パスワード
  

ここに出ています:

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Asagao/2655/

  鴉之宮(からすのみや)  


[94]服部 明子さんからのコメント(2002年07月02日 11時22分05秒 ) パスワード
  

鴉之宮(からすのみや)の所からコピーして来ました: 詳しくは上記URLへ

鎌倉時代前期、
建保3年(1215年)1月25日 土地の鏡守禅として創建、
当初は伝母頭(もりす)神社(森巣神社)と称していた。


文禄元年(1592年)、宮司が豊臣秀吉の命により
海路の平穏・武運長久戦勝の祈願をしたところ

「社頭の森中より三足の鴉を飛ばして軍戦に駕せしめ海路の方向を示し、かつ守護なさん」

との神告を得て、宮司自ら先導したそうです。
神告どおり海路は波穏やかで
しかも三つ足の鴉(八咫烏 やたがらす)が軍船の前後を飛び
水先案内をし、守護したといいます。

この戦いは大勝利に終わり
文禄2年正月
全軍無事凱旋したことから秀吉は神社の名を鴉之宮に改められたと伝えられています。


八咫烏とは 
神魂命(かみむすびのみこと)
賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)
の化身と云われています。

また中国の古代説話で太陽の中にいるという
三本足の赤色のからすのことでもあります。

八咫(やた)とは長さの単位であり巨大なものを表すのに使うそうです。 しかしただ大きさを表すばかりでなく三種の神器の第一にあげられる
「八咫鏡(やたのかがみ)」の名が示すように
尊貴の意味も含んでいます。


だそうです。
[95]そりちゃんさんからのコメント(2002年07月02日 22時52分16秒 ) パスワード
  

服部さんありがとうございました。

<また中国の古代説話で太陽の中にいるという
三本足の赤色のからすのことでもあります。

神話で鳥を神聖なものとしているお話しが中国以外にもありますよね。
インドのほうのガルーダとか、インカにもあったような。

古代の人々の崇拝していたこの「トリ」はいったい何を
意味しているのでしょうね。

ふと思ったのですが、天皇家の三種の神器のうち二種が
古代の「金属製錬製品」だ、という事実も奥深いですね。

いったい作成したのはどの一族なのか、どこから伝わった物なのか。

ドラえもんがいたら当時を覗きに行けるのになぁ〜。
[96]秦義則さんからのコメント(2002年07月02日 23時14分07秒 ) パスワード
  

賀茂神社には、上賀茂神社と下鴨神社から成り、それぞれ賀茂川の上流に位置する。平安京から見れば、北東の方で、太陽が昇る方角だから、太陽の化身である八咫烏を祀る神社が置かれたかも知れない。 
では、月はあるのか?調べてみると、それがあったのです。桂川の西、月の神様「月読命」を祀った、その名も「月読神社」。桂川にかかっている橋を、その名も「渡月橋」といいます。桂川の西は月の世界でした。
では、桂とは?月にも生えているといわれ、また、「山城風土記逸文」に月読命が豊葦原中国の保食神を訪ねる時に桂の木に寄って待つとの記述があるくらい月と関係が深いようです。
北には平安京を守護する曼荼羅の世界鞍馬寺があり、僧行基が池の中から弥勒菩薩を授かったと言う伝説のある「深泥池」(霊スポット)があり、平安京を中心に東に太陽の世界、西に月の世界があったのかもしれません。
このように、秦氏は京都を自分達の理想郷として作ったように思います。風水を持ち込んだのも秦氏なのでしょうか?風水にカバラの影響が見え隠れしませんか?
平安京を直訳すれば「エルサレム」となる。と聞いた事があります。
秦氏イコール、ユダヤ人という説を否定すればするほど、ユダヤに近づいてしまいます。隈さんの言うオカルトのように!
「とり」加茂川の「鴨」も「とり」鴨川に合流する「高野川」の鷹も「とり」
「くれはとり」に「あやはとり」
ここまでくれば、オカルト全開です!

[96]さちこさんからのコメント(2002年07月03日 00時19分53秒 ) パスワード
  

あれっ?平熱におじゃましょうと思ったら何か変わってました?
パソコンに弱い私は困ってしまった。

別のスレッドで天照大神は機(ハタ)織りの神様。
古代は機織りが呪術的な意味があってそれが縁で服部家は忍者になった。
と言う説を考えてみましたが。

西洋では鍛冶師が、
やはり、先進的な技術で神格化されシャーマンとなったらしいです。

明子さん。
スミスは鍛冶屋という意味からの姓ではなっかたですか?
記憶が違ってたらごめんなさい。

確か東南アジアにも三本足の烏があったようなきがしますが。
色んな所で繋がりますね(笑)

秦さんのお話すごいです。
確信にせまってきました。

トリとには何が隔されているのでしょうか?
[97]川口 信さんからのコメント(2002年07月03日 10時44分17秒 ) パスワード
  

 >忘れていたけどワールドカップの日本代表チームのエンブレムにも
「ヤタガラス」がしっかりついているのですよ!
 でも、なんで?

 JFAによると、八咫烏は神武天皇を助けたとされる神。中国では「日の神(太陽)」とされ、日本サッカー発展の願いを込めて一九三一(昭和六)年にJFAのシンボルに採用されたという。日本代表が試合に臨む時のユニホームの胸やストッキングには、必ず八咫烏のマークが付けられている。
 http://www.sanin-chuo.co.jp/news/2001/02/14/01.html

 今「秦氏の研究」という本を借りてきて読んでおりますが難しくて良く分からないが秦王国の「シャーマン達」という項目があり、古代社会においてはシャーマンと鍛冶師との関係は不可分な関係とあり、同一の職業であったとも書かれております。


 
[98]さちこさんからのコメント(2002年07月03日 13時05分19秒 ) パスワード
  

川口様も・・・・。
とうとう秦氏の怨霊にとりつかれたのですね。
おめでとうございます。
平家の怨霊よりも手強いかも?

大和岩雄さんの秦氏の研究ですか?
私は買ってしまいました。(笑)

都祁国というのが凄く気になってきました。
やはり都祁=柘植みたいですね。
土岐氏も同じだそううです。
[99]川口 信さんからのコメント(2002年07月03日 13時47分43秒 ) パスワード
  

そうです。同じ本です。高価な本ですのに。私は図書館からですので無料ですがお金は有効に使ってくださいね。83ページの記事が「都祁」「闘鶏」「柘植」が本命みたいですね。俗説に惑わされずもっと服部姓との関係について探って見たいとおもいますが。
[100]さんからのコメント(2002年07月03日 18時28分20秒 ) パスワード
  

> 大和岩雄さんの秦氏の研究ですか?

あぁ!買ったんですかぁさちこさん!!
それ、ちょうど今私が読みたい本なんです。

昨日ネットで購入しようかと散々迷った挙句、
「こんな高いの、ダンナに怒られそう」と他の秦氏関連の本で我慢したんです(涙)。
いいなぁ、うちの近くの図書館に置いてないかな。
図書館で見つからなければ・・・やっぱり買っちゃおうかな(笑)

> 都祁国というのが凄く気になってきました。
> やはり都祁=柘植みたいですね。
> 土岐氏も同じだそううです。

え!そうなんですか?
土岐氏といえば、昨日明智光秀に関する本を買ったのですが、結構興味深い事が書かれているのですよ。
光秀は妻木氏の娘と結婚し、それ以外に妻を持たなかったと一般的には言われていますが、
実は服部(北村)氏から後妻をもらった、という話が以前ありましたよね(本能寺の真相関連のスレッド)。
昨日読んだ本によると、さらにお妾さんが居たという説もあり、あるお寺にはその事を記した系図が残っているそうです。
お妾さんが産んだ子の一人が出家してそのお寺に入った関係だとか。
そのお寺に入った人物の兄弟のうちの一人が、後の服部笠之助だというんです。

服部笠之助・・・覚えていますか、さちこさん?
本能寺の変をいち早く徳川家康に報せ、伊賀越えのお供をしたといわれる人物!
その系図の真贋が分からないので断言できませんが、
もし本当に服部笠之助が、明智光秀の実子だったとしたら・・・
怪しすぎる!!

・・・と話が反れましたが、やはり明智家と服部家は姻戚関係にあったということで、秦氏に繋がりがあるらしいですね、というお話でした。


> 秦氏イコール、ユダヤ人という説を否定すればするほど、ユダヤに近づいてしまいます。
> 隈さんの言うオカルトのように!

やっぱりそうですかぁ。
私、初めて聞いた時は「秦氏ユダヤ人説=トンデモ説と片付けていましたが、
最近、秦氏とユダヤ人はあながち無関係ではないような気がしてきました。
仮に秦氏=ユダヤ人ではないにしろ、密接な関係があったのではないでしょうか?

なんだか最近、私の周辺も「オカルトラッシュ」なんですよ。
やたら秦氏に繋がるんです。

そりちゃんさん、他のスレッドで読みましたが、女紋は抱き茗荷だそうですね。
わ〜い仲間だ、握手! \(^_^)/
お家が養蚕業にご縁があるということは、やはり秦氏にもご縁があるのでしょう。
[101]たまねこさんからのコメント(2002年07月03日 19時49分03秒 ) パスワード
  

私の記憶が確かなら、秦氏=イスラエルの民で、日本だけでなく、今のアメリカを牛耳っているのも、この一族なんじゃないですか?
まさか、この中に「石屋」さんはいないと思いますが…
全国の秦さんには申し訳ないのですが、「世界一怪し〜い一族」です(笑い)。

どういうわけか、うちの親戚や友人がアメリカに行ってしまうんですよね〜。
テロの直後に、家族揃って転勤した友人もいましたが、「リストラ?」とは聞けませんでした。

「秦氏」の足跡を辿って、謎を解明した上で、「平家物語」を読むのが、正しい読み方?

みなさんとは、近年まで、蚕の糸で繋がっていたみたいなのですが、時代が変わったので、ネットで繋がったみたいですね。
[102]そりちゃんさんからのコメント(2002年07月03日 20時57分15秒 ) パスワード
  

こんばんは!

<そりちゃんさん、他のスレッドで読みましたが、女紋は抱き茗荷だそうですね。
<わ〜い仲間だ、握手! \(^_^)/
<お家が養蚕業にご縁があるということは、やはり秦氏にもご縁があるのでしょう。

隈さん
私もなんだか、びっくりです!実は島津氏や大友氏についてちょっと調べていたり
したので、このスレで話題にのぼっているのを見て驚きました。

秦氏が「角のある人」を祭っていたということですが、神話のなかでは
ゼウスや北欧神話のオーディーンにも「牛の角があった」という話があります。

また古代大秦王国という国がローマの近くにあったそうです。始皇帝はその
国の末裔などという説も。始皇帝がカーテンみたいな冠をつけていたのは
赤い髪と青い目を隠すためだったというお話しも。

秦氏=ユダヤ人だったとしても、その移動は徐々に時間をかけてアジアに
やってきたのではないでしょうか。それこそ行く先々で血を混ぜながら。
だから純日本人なのにすごいバタ臭い、何人なんだという日本人もいるのでは
ないでしょうか、先祖返りして。

こんなホムペを見つけました。

http://www.st.rim.or.jp/~yujifuru/night/back/0009.htm

なぜ、秀吉とヤタガラスなのか不思議に思っていたので、
少し疑問が解けました。

<「秦氏」の足跡を辿って、謎を解明した上で、「平家物語」を読むのが、正しい読<み方?
そう、不思議になってきたことが、ひとつ。
なぜ、清盛は市杵島姫命(漢字ちがうと思う)を祀っていたのか。

この神は宗像三女神の一人で、宇佐神宮に祀られています。
宇佐は古は邪馬台国であったナゴリという説もあり、宇佐神宮の御神体の山は
卑弥呼の墓所との説もあります。
その邪馬台国を乗っ取ったという説もある秦氏、やはり宇佐と関係あるのでしょうか。
(参考「邪馬台国は秦族に征服された」徳間書店・安藤輝国著)

あと、たまねこさんがいっていた「月」についても、ひとつ。
神話に出てくる月読命、他の神々に比べて本当に説話がなさすぎる!
まるで、わざと書かなかったかのように。(考えすぎ?)

当時は太陰歴ですし、「常識」としてあえて記録されなかったことも
あるのでは。ちなみに月読命=月を読む=太陰歴のことのようです。
この神は占星術の神でもあるそうです。ということは、呪術かな。

そうそう、法隆寺の玉虫厨子にある絵にやはり「ヤタガラス」があって
しかもそれは月のなかに描かれているそうです。

[103]さちこさんからのコメント(2002年07月03日 21時23分31秒 ) パスワード
  

隈さん
明智光秀の本を買ったのですね。
私も気になって少し立ち読みしましたが、
川口様に無駄づかいと叱られそうなのでやました。〔笑)

都支国  とき 闘鶏、奈良県添上郡都祁に当たる。山岳部族の拠点。美濃の土岐氏に続く。
 都祈は漢音でトキ、呉音ではツゲと発音する。

都支国というのは魏志倭人伝に書かれた邪馬台国にあったくにですが、
邪馬台国、大和説をとった場合都祁にあたるのではと考えられているみたいです。

去年岐阜城に行ったのですが、
2代目か3代目の城主が伊賀のなんとかと言う人で、
後はずっと土岐氏でした。
この頃から土岐=柘植かもと思ってたのですが。

その本には光秀の母が武田氏の人とか、
光秀の娘が川勝家へ嫁いだというようなことも書いてありませんでしたか?

まあそれはまた本能寺の変のほうで。

秦氏の研究の本ですが、
大変役立ってます。
昼寝の枕にもなるし、漬物石にも使えるし!

私は一年ぐらい前に買ったのですが、
観阿弥、世阿弥と秦氏の関係に関心があって。
でも筆者が服部家を秦氏としていないのでその点が残念。
厳密にいえば服部家は秦氏ではないかもしれないけど、
かなり密接な関係だったのは間違いないのだけれど。

観世阿弥は楽戸秦氏で伊賀の服部家ではないという説があったらしいですが、
この本では伊賀の服部家であって秦氏ではないとしてます。

こんなこと研究していてメシ食えるなんて羨ましいです。

川口さま
この本にでてくる糸井神社糸井氏と服部氏は同族と考えていいと思います。
糸井神社には伊賀の服部家の先祖アヤハトリ、クレハトリが祀ってあります。
先日守屋のスレッドに書いた古墳に関係ある神社です。

http://www.kamnavi.net/ym/hiboko/naraitoi.htm

奈良県磯崎町にあるのですが、昔は十市郡磯崎だったみたいです。
そう十市氏の本拠地だったらしいです。
そりちゃんさんまたきましたね。

太秦の蚕の社、木島神社。
天照大神を祀ってますが、
天御中主も祀ってます。
これは新撰姓氏録では服部家の先祖となってます。
あとは御手代氏がありますがこの神を祖としてるのはふたつだけだそうです。
全ての神の筆頭の神様で神話には登場しない別格の神らしい。
例の三本柱の真中の石、天御中主を祀ってあるものだそうです。
頭がまたまた???ですがよろしければ参考に。

http://www.pandaemonium.net/menu/devil/Minakanu.html


[104]そりちゃんさんからのコメント(2002年07月03日 23時41分27秒 ) パスワード
  

<奈良県磯崎町にあるのですが、昔は十市郡磯崎だったみたいです。
<そう十市氏の本拠地だったらしいです。
<そりちゃんさんまたきましたね。

神子姓も関係してきているのかしら。妙氏家系大辞典には「ミコ」の
読みで記載されていますが、「職名から起るか」としかなく、
その後の調べで千葉県富津市あたりに現在多く住んでいるということが
わかりました。

御子上典膳が祖であるならば、彼は現在の千葉県丸山町宮下元御子神という
ところが昔御子神村で彼の出身地ですのであの辺に多いのもわかるのですが。

ただ、典膳の出自が姓氏大辞典では「橘氏」で、本によっては「十市氏」に
なっており???です。
千葉県は東金の木刀塚や成田山新勝寺など彼に縁の場所が多いので、やはり
神子姓は彼から分かれたものかと思っています。

でも、ぜんぜん関係ないと思っていたことが不思議とつながって
いきますね。

あ、それと私のHPに「大槻氏について」と「家系図」を
つけましたので、間違い指摘してください。(汗)
[105]秦義則さんからのコメント(2002年07月03日 23時49分53秒 ) パスワード
  

鞍馬寺の話に戻ると、鞍馬寺は盲目の唐僧で有名な鑑真和上の高弟だった鑑禎が、770年に毘沙門天を本尊として創建しました。
伽藍の造営は20年後だったのですが、度重なる火災で多くの堂宇を焼失していて、現在の堂宇の多くは、昭和になって再建されたものです。
「枕草子」や、牛若丸が修行した寺として有名な古刹で、本堂には千手観音菩薩や毘沙門天王、護法魔王尊からなる三身一体の鞍馬山尊天を安置しています。
ここでも「三身一体」という言葉が出てきます。
また、護法魔王尊とは 秘仏とされ、その姿形は、まさに赤い顔に白い髭、背には翼、手には団扇をもった天狗なのです。つまり鞍馬天狗!
魔王尊の正式な名前をサナート・クマラといい。今から約450万年前、金星から地上、すなわち鞍馬に降臨し。地球の霊王として君臨したといわれています。一説には、チベット密教の経典『カーラ・チャクラ・タントラ』に記された地底帝国シャンバラの王だともいわれています。
鞍馬天狗とは闇の秘密結社ではないでしょうか?
聖徳太子が間者として秦河勝を使ったように。
闇を司る秦氏一族、服部氏が忍者で有名なのもうなづけます。
源義経が幼名を牛若丸と名乗ったのもわかるような気がします。
陰陽師も秦氏一族。
奥州にも鉄と金を求めた秦氏一族がいて、その日の目の当たる部分には奥州藤原氏が・・・
義経が奥州藤原氏を頼ったわけが見えてきます。
源平の合戦の裏でうごめく秦氏もいたのでは?
戦争を起こす事により利益を得ようと考えた一族がいたとすれば?
ユダヤの血を引くとすれば・・・・ユダヤの商人です。
[106]秦義則さんからのコメント(2002年07月03日 23時58分56秒 ) パスワード
  

京都、太秦と妙心寺にはさまれて、双ヶ岡古墳があります。
奇妙な古墳で、丁度南北一列に北から大中小の三つの古墳があります。
秦氏が眠っているようです。
その南西に松尾大社があり、また、南東の方角には稲荷神社があります。
稲荷神社から松尾大社まで線を引き稲荷神社を起点に30度方向に愛宕山
松尾大社を起点に30度方向に比叡山があり、
それぞれが夏至の時の日の出と日の入りの地点だといわれています。
不思議ですね?
[107]さんからのコメント(2002年07月04日 17時50分08秒 ) パスワード
  

そりちゃんさん

> さると河童

出ましたねぇ!河童。
今私が『明智光秀』と一緒に買って読んでいる本が、

『河童よ、きみは誰なのだ』大野 芳著

・・・もう片っぱしから繋がる(笑)
河童の正体って、九州では渡来人だと言われているんですよ。
九千坊の伝説というのがあるそうです。
これを読んだ時、絶対うちの主人の祖先も秦氏だ!!と確信しました。

中国(三国時代の呉)から渡来した河童達は、球磨川(熊本県八代市)に住み着いて
大陸の医学や土木、織物の技術を伝えた。
今日私達が使っている、呉服、胡瓜(!)、焼売、骨接ぎ、膏薬などは、八代から入り、全国に伝わったともいう。
しかし数百年を経て、加藤清正がこの地を治めた時、彼の小姓に悪戯し、川に引っ張り込んで殺してしまったことから河童一族は八代を追われ、筑後川(久留米)に来て、水天宮の眷属になった。

ちなみに、水天宮に祀られているのは安徳天皇、二位の尼、建礼門院徳子、それに天御中主神(!)だそうです。

さらに、河童はなんと、祇園祭や牛頭天王に関わりがあるんです!
そう、木瓜(=胡瓜)紋繋がり!
いや、ただの駄洒落じゃないんですよ。本当に。
だから祇園祭の間、氏子や神官は胡瓜を食べない習慣があるんです。

どうです、『秦氏らしい』でしょう?

うちの主人の先祖は熊襲=秦氏=筑後の河童かも(笑)

さちこさん

『明智光秀』に載っている系図のことは、ちょっと時間が無いので
また後日『本能寺』スレに書きます。

確かに光秀の母は武田氏の娘で、娘の一人は川勝家に嫁いでいます。
それから筒井氏や、浅野家との縁組があったと書かれています。
[108]秦義則さんからのコメント(2002年07月04日 22時36分14秒 ) パスワード
  

隈さん僕も九州には河童を祭る神社があると聞きましたよ。そこではキュウリを食べないそうです。キュウリは神様の紋所であるからです。
キュウリを輪切にした紋、木瓜紋です。僕の家も木瓜紋。
キュウリを家紋とするのは、八坂神社に多いですね。信長もですね。
 八坂神社の主祭神であるスサノオ命は、地上に降臨するとき、最初に新羅に降り立ちました。そこから船に乗って、日本にやってきたとされています。スサノオ命は新羅と関係が深いですね。
スサノオ命は新羅からの渡来人が崇拝した神です。
河童もまた、新羅に関係あるのでしょう。
九州の熊本八代には、河童が中国から渡来し、治水工事を行ったという伝説が残っています。
これは渡来人ですね。倭人が始めて渡来人を見た時の印象だったのか?
とすると、少し倭人とは顔立ちが少し違っていたのでしょうか?
妖術を使ったのかもしれません、倭人にとっては妖術に見えたかも?
青銅器しかなかった時代に鉄器など新しい武器を持ち込んだかも。
熊本に上陸した河童の正体は、秦氏だったと思います。
八代という地名も、ハッタイ、ハタと読めます。
また、妖術を使う河童とは、「カッバーラ」のことだったのか?
カッバーラ、つまりカバラ。カバラ、風水、密教と繋がります。
倭人とは違う顔立ち、鞍馬寺では金星から光臨したとされる魔王尊。
やはりユダヤ人の顔立ちだったのでしょうか?
河童と鞍馬天狗、カラス天狗、似ていませんか?カラス、ヤタガラス、様々に繋がってしまいます!
カラス天狗の姿は修験者の姿。
この姿はユダヤ人の姿に似ていると聞いた事があります。
また、秦氏とユダヤがつながってしまうのです。
平安の世、魑魅魍魎の世界から守護してきた闇の一族。
太陽と月と(金星)星を司った秦氏。
天皇家、平氏、源氏、藤原氏が表舞台にいますが、
秦氏はその裏で蠢いていたのではないでしょうか?
百済系の天皇家と新羅系の秦氏
表の皇子と闇の皇子なのです。
オカルトです!
[109]そりちゃんさんからのコメント(2002年07月04日 22時54分12秒 ) パスワード
  

隈さん

九州の河童のお話し、すごいですね〜!
河童まで「秦氏」に繋がるなんて!!
でも、河童=水の精霊=竜神信仰につながっていくのでしょうか。
古代でいうと海洋系の民が竜神(蛇神)を祀っていたといいますし、
大陸からやってきたという説はかなり説得力あるのでは。

そうそう、烏を検索していてこんなHPを見つけました。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/3163/sinwa.htm#A-4

隈=太陽でできる影というのも、なんだか象徴的ですよね〜。

それと、私が気になっていた出羽三山の信仰についても烏つながりでした。
出羽信仰の開祖のお話しが、次です。

出羽三山の一つ羽黒山の開祖、能徐仙崇峻天皇の第三皇子が、天皇が蘇我馬子に
殺されたため、流浪行脚の末、羽黒山に入ったと伝えられている人物で蜂子皇子
とも呼ばれております。

そして、この皇子の母である小手姫は現福島県川俣町まで皇子を探しに来た時、
「ここは良い桑が取れる」
と、里人に養蚕と機織を伝授しているのです!

実は私はだいぶ前にこのことを知っていたのですが、そのときこの二人の
ことがなぜか気になって、プリントアウトして取って置いたのですよね〜、ゾゾ〜!
[110]たまねこさんからのコメント(2002年07月05日 01時09分38秒 ) パスワード
  

本当に、オカルトですね。
調べていただきたいことを、みなさんに順序良く調べていただいているような…
ありがとうございます。「河童」と「キュウリ」も出てきたことですし。
猿田彦と二見蛙も関係あるのだろうか…?

頭のてっぺんに、手を乗せてみて下さい。…カッパ!
ではなくて、ツムジの辺りに受信装置がありますから、ここに意識を集中してみると、知りたいことを教えてもらえますよ。正史で語られていることが、事実とは限らない。

木瓜の家紋は、全国的に多いものなのでしょうか。秋田県の家紋も、圧倒的に木瓜紋が多かったです。遠野の河童伝説は「秦氏」ではないと思いますが。

>源平の合戦の裏でうごめく秦氏もいたのでは?
>戦争を起こす事により利益を得ようと考えた一族がいたとすれば?

結構、儲けていたと思いますよ。(錬金術を使って?)

[111]そりちゃんさんからのコメント(2002年07月05日 10時39分39秒 ) パスワード
  

早速猿田彦を検索したら、下記を発見!

http://horse.shrine.net/samurai/sarutahiko.html

こわ〜い!八咫鏡とつながっちゃたよ〜。
しかも、この絵の容貌は倭人とは思えないし、天狗にも通じそう。

ふと思いついたのは、烏は世界中の神話で偉大なる神の眷属のように
表されているので、八咫烏の意味は「八咫鏡を祀る一族に使える者」という
ことなのでしょうか。

酉の意味は「西」だそうです。大和から見て西に・・・九州かな?
[112]さちこさんからのコメント(2002年07月05日 12時59分21秒 ) パスワード
  

そりちゃんさん
磯崎ではありませんでした。
磯城でした。
結崎と混乱してました。ごめんなさい。

日本の雅楽の音階に一番似ているのがケルト音楽だそうです。
バグパイプを想像してください。
ねっ!なんかおさまりが悪いというか。ずれた感じと言うか。
フランスのケルト人は乾杯のことを「やまと」と言ってました。

ポルトガルではケルト人はローマ帝国が攻めてきた時、
得意のゲリラ戦で応戦したとか。
ゲリラ戦ね・・・。

雅楽の篳篥に一番似ているものはトルコにあるそうです。
[113]そりちゃんさんからのコメント(2002年07月05日 15時21分45秒 ) パスワード
  

テレビで東儀秀樹さんがいってましたが、
笙は天から射す光を表し「天」の意味、篳篥は人の声で「地」の意味、
竜笛は天と地の間を吹く風=龍を表しているのだとか。
風水みたいですよね。

昨日近所の神社に子供と遊びにいったときに、
ご縁起書をいただいてきましたら御祭神で天御中主神・高皇産霊神・
神皇産霊神そして「天日鷲神」となっていました。


天日鷲神(あめのひわしのかみ)の説明は
「一般に御酉様として知られ豊漁、商工業繁栄の守護神として
古来郷土の人々の篤い信仰をあつめてまいりました。」
とありました。

どうやら海部系の神様らしいです。商売繁盛なんてユダヤの商人にも
つながりそうだし。帰宅して鳥肌でした。
[114]さちこさんからのコメント(2002年07月05日 20時13分46秒 ) パスワード
  

そりちゃんさん
そういえば福島の羽鳥湖が気になって色々調べていた時に見つけました。

http://www.town.kawamata.fukushima.jp/bunkazai/11.html

蜂子の蜂はハタかも?
太秦の広隆寺も蜂岡寺ともいったそうです。

隈さん
秦さん
河童には色々とあるのですね。
驚きました。

渡来人を見た印象?
河童というと、目が一重で唇が薄い感じの人のイメージですが。
有名人だと、間カンペイ(?)とか島田シンスケとか。
う〜ん これではユダヤ人にほど遠いような。(笑)

小泉総理は烏天狗のイメージがあるのですが。
いかがですか?

東儀秀樹さん(秦氏)。
コンサートのアンコールで、
七つの子とか鳥の歌をよく演奏するのですが何か意味がある?

ところで、秦さん、たまねこさん。
トリとは何ですか?
もしかしてエジプトに関係あるトリのお話?
[115]秦義則さんからのコメント(2002年07月05日 23時46分56秒 ) パスワード
  

もう少し河童の事を調べてみました。
河童は地方で様々な呼び名があるようです。
河童,河公,ガタロウ,エンコ,エンコウ
気になるのはエンコウ、漢字で「猿公」
河童は川の中の「サル」なのです。
木下藤吉郎は一夜で敵陣の前の川の中州に「墨俣城築城」築き手柄を立てました。
その時に手伝ったのが、河童だといわれています。
その藤吉郎は信長から「さる」と呼ばれていました。
また藤吉郎は常に信長の居室の中庭に控えていたこと言われています。
つまり、お庭番(忍者)のような存在だったのかもしれません。
藤吉郎を助けた蜂巣賀小六の一党も特殊技能を以て支配層に奉仕する異能集団かもしれません。蜂や八は秦氏と関係があります。
藤吉郎にはヤタガラスの話も絡んできます。
河童もサルも特殊な技能集団につけられた蔑称だったのではないでしょうか?
古くは猿田彦も藤吉郎も蜂巣賀小六も秦氏に関連するかもしれません。
使う側と使われる側、
陰と陽。
白拍子、忍者、田楽、猿楽、旅芸人、松尾芭蕉は秦氏であり忍者であったとも言われています。
義経の母の白拍子も秦氏では?
権力者にとっては、使う時は都合がいいが、平和な時には必要がない者。
まして、国家を転覆させるだけの力をもつ集団の身分を低くしておく必要があったのでしょう。
だから秦氏は歴史の闇に潜んだ。そして度々国家の転換期に現れるのでしょう。
一向一揆のように!
秦氏は始め新羅出身だという事を隠したとか。
新羅出身じゃないなんて「しらじらしい」渡来人!
百済じゃない「くだらない」渡来人だと!
名前を変え、しかし巧妙に、符号でわかるようにしながら、消えていった。
符号とは「家紋」「サル」「とり」「いぬ」(神社の狛犬)「カッパ」「カバラ」「天狗」「密教」「松尾」「服部」「アヤハトリ」「クレハトリ」など様々に。
さる、とり、いぬ、とくれば桃太郎です。
桃太郎伝説にも何か秘密が隠されているかもしれませんね。
すごいことになってきました。
オカルトです!
[116]さちこさんからのコメント(2002年07月06日 00時08分53秒 ) パスワード
  

桃太郎=吉備団子=岡山=秦氏=秦河勝=川から流れてきた。
私にはそんな貧弱な発想しかありません。

岐阜県だったかにも桃太郎伝説があって、
桃太郎の生れた桃のミイラみたいなものがあった神社に行ったことがあります。

行きながらミイラになった僧とかも見た記憶があります。

奥州藤原家もそうでしたね。

東北は秦氏パワーが強そうですね。
[117]たまねこさんからのコメント(2002年07月06日 02時03分26秒 ) パスワード
  

凄過ぎる!「秦熱」!

鱗関係から、龍蛇信仰を調べていたのですが、これも繋がってくるのですね。

「神武東征図」を見ると、九州から瀬戸内海を東進して、勢力を拡大し、浪花に上陸して大和に入ろうと、紀伊半島をぐるりと廻っていますが、…何だか、この逆のルートを源平合戦の時にやっていたような…
勢力が衰えて、西に後退し、九州で落ち延びた平家一門の運命とダブってしまうのは、私だけ?
因みに、神武天皇に敗れた長髄彦は、兄の安日彦とともに奥州に逃げ、後の安倍一
族、安東氏の先祖となったという説もありますね。

長髄彦は、スネが長い(渡来人?)ではなく、「ナーガ」という龍蛇信仰集団の意味ではないかという説も。当て字が多いですからね〜。本来の意味と外れてくる言葉も多いでしょう。駄洒落で辿った方が、真相に近付くのかも。

>河童もサルも特殊な技能集団につけられた蔑称だったのではないでしょうか?

なるべく人を寄せ付けないように、怪しい名称を付けていたのかもしれません。
神武天皇時代の八咫烏も、烏の格好をした黒装束の偵察隊だと思います。
広島県呉市に、「八咫烏神社」があるのですね。呉は母(松尾)の実家なので、びっくり。

『七つの子』と言えば、野口雨情。まさか、この人も秦氏?なわけないですよね。

『桃太郎』と言えば、岡山の吉備地方の吉備津彦が退治した鬼は、百済の王子「温羅」でしたね。温羅は身長が4mあった…そんな馬鹿な、何かの間違いでは?と思ってしまいますが、誇張と歪曲の中に、怪しい真実が隠されている物語ですね。

>権力者にとっては、使う時は都合がいいが、平和な時には必要がない者。
>だから秦氏は歴史の闇に潜んだ。そして度々国家の転換期に現れるのでしょう。

秦さん、座布団3枚!
[118]そりちゃんさんからのコメント(2002年07月06日 15時46分05秒 ) パスワード
  

うーん、皆さんすごいですね!

秦さん
「桃太郎」気になってきました。「サル・トリ・イヌ」を「吉備団子」で
家来にするじゃないですか。これって「吉備一族」のことを表しているのかな、
なんて。そして退治する鬼=角がある=牛?あー、わからなくなってきた。

陰陽師と義経を調べていた時にこんなのがありました。

http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/kiiti.html

<その陰陽師ですが、国家公務員の技官は
<ともかく、他にも多くの陰陽師の存在が
<知られています。晴明につながる安倍吉平、
<安倍吉昌、安倍泰、賀茂家の系譜になる
<賀茂忠行、賀茂保憲、賀茂光栄、他にも
<智徳法師、滋岳川人、弓削是雄、吉備真備、
<晴明のライバルとも云われる蘆屋道満、
<そしてこの鬼一法眼(きいちほうげん)も
<陰陽師に名を連ねます。

関係者が勢ぞろいって感じですね。

確か平安時代に鬼の腕を切り落とした源氏の武将がいましたよね。
それも何か秦氏と関係あったりして・・・。

さちこさん
蜂=秦ですか。うーん、やはりオカルトパワー全開ですね!
一説によると蜂子皇子は容貌が非常に醜かったため、
人里離れたところで育てられ、父王が亡くなりそこに留まることも出来ず、
陸奥へ流れたといいます。
人に会わせられないほど容貌が醜悪だったのではなく、特殊な能力が
強すぎて人との接触をはばかったのだとしたら?
そして、月山は太陰信仰があったらしいです。

たまねこさん
巨人の伝説っていったいどうゆうものなんでしょうね。
ナガスネヒコ、サルタヒコ、スサノオ、本当に人のこと?それとも一族を
擬人化したの?

河童でふと思いついたのは、ザビエル。教科書のザビエルの絵は
頭ハゲてましたよね。あれは頭を剃るキリスト教の宗派だったのかなと
思って。ユダヤ教はキリスト教のモトじゃないですか。一説には弓月の君が
キリスト教をもちこんだので聖徳太子の出生の話がイエスと酷似しているとも
いいますし。
みんな頭をそっていたから河童の皿みたく伝わったとか。
[119]さちこさんからのコメント(2002年07月06日 19時40分07秒 ) パスワード
  

たまねこさん
ナーガとはヒンズー教の蛇の頭をした神様ではなかったですか?
偶然の一致?それともインド辺りから信仰だったのですょうか?

桃太郎関連伊賀にもありました。

http://www.kansai.gr.jp/yukarinochi/mie.html

伊賀国の一の宮である敢国神社は、658年に創建された神社です。祭神は大彦命、少彦名命、金山媛命の3神で、この内、少彦名命は秦氏の信仰する神でした。秦氏は新羅系の渡来人で、当時伊賀地方にも数多く住みついていました。また、伊賀の組紐、伊賀焼などの伝統工芸や酒造の技術は彼らが当地に伝えたもので、その技術は今も脈々と受け継がれてきています。なお、境内一隅には桃の形の桃太郎岩があり、祈ると安産になるといわれています。

敢国神社は昔は伊賀の阿拝(あべ)の阿部、阿倍などアベ一族の神社でしたが、
服部家がのっとったというか阿倍氏とは結びついたのでしょうね。
陰陽道とは関係ありでしょう。

岡山には抱き茗荷紋の服部家(隈さんのご先祖)もあるし。
桃太郎とはご縁があります。

武士のあのチョンマゲというの。
いつからあんな風になったのでしょうか。
あっれて見慣れているので特に変とも思わずにTVみてますが。
頭の真中は剃ってあるのですよね、
あれも河童ぽいなとおもいませんか?
公家はどうなのでしょうか?
烏帽子の中はどうなってるのか。
ご存知の方教えてください。

秦さん
水軍の九鬼家が金星の石を持ってるらしいという話を思い出しました。
熊野水軍から出ているのですが、服部家とは縁があります。
村上水軍と違い一向一揆では信長に寝返ってくれましたが。

そういえば熊野水軍も平家につくか源氏につくか、
闘鶏で占って源氏についたという話もあります。

金星の石はたぶん隕石でしょうけど。
鞍馬山に落ちたらしいです。
[120]さちこさんからのコメント(2002年07月06日 19時46分09秒 ) パスワード
  

天皇、皇后両陛下が東欧へいかれましたが、
特別機のタラップを上がった所の入り口にヤタガラス発見しました。
[121]秦義則さんからのコメント(2002年07月06日 23時28分56秒 ) パスワード
  

平安時代中期において、大江山に酒天童子という鬼が配下の鬼と住んでいた。人をさらい、喰っていたが、そんな時期に、池田中納言の娘が行方不明になる。陰陽師の阿倍晴明の占いで、大江山の鬼と出る。
時の天皇、一条天皇に、酒天童子征伐を命じられたのが、源頼光と四天王。渡部綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光。
と、藤原康昌の6人。
まず6人は石清水八幡、住吉、熊野の三神社に加護を求める。
途中1千騎以上の武者が仲間になるが、6人は少数精鋭で山伏姿に変装して大江山に向かう。
途中で、遅咲きの桜をめでるために足を止めると、三人の老爺に、神便鬼毒酒と、星兜を授かる。
そして鬼の住処を教えると三人は消えてしまうのだがこの三人が八幡、住吉、熊野の三神であったのである。
ちなみに、神便鬼毒酒は鬼に対してのみ猛毒となり、人間には妙薬となる。
一行が鬼の住処に着くと、当然疑われたが神酒の香りと頼光の弁舌もあり、盛大な酒宴が開かれる事となる。
頃合いをみはからって、酒天童子の寝間に忍び込みんだ。酒宴の間は童子姿の酒天童子もそのときには、身の丈3m、真っ赤な頭髪から2本の角という本性のままで、眠りこけていた。
刀を抜いて迫ると目覚めてしまうが、酒宴で飲んだ神便鬼毒酒の毒により、体が動かず、
頼光の一閃で、首を落とされる。しかし、その時宙に舞った首が頼光の頭めがけ噛み付いてくるが、
神便鬼毒酒と共にもらった星兜によって、難を逃れる。
そして、襲いかかってきた他の鬼も一行の手により神酒の助けもあり退治してしまう。
この時名刀髭切を持つ四天王の一人、渡辺綱により茨城童子も討ち取られている。
これが酒天童子伝説です。
渡辺綱は平安京の羅生門に隠れていた鬼の腕を切り落としています。
陰陽師といい、鬼といい、八幡・熊野といい、秦氏と関連していますね。

安倍晴明は鹿島神宮で婆伽羅龍王から鳥薬を授って、鳥たちの言葉がわかるようになり、陰陽師として成長していったといいます。
この婆伽羅龍王の婆伽羅が迦波羅=カバラのアナグラムになっています。

鬼、とは何でしょうね?退治される側の人間なんでしょうか?
<特殊な能力が強すぎて人との接触をはばかったのだとしたら?
時の権力者がじゃまな存在を退治しようとしたら。
秦氏の中でも、日の目を見たものは、同族でも退治しようとした可能性があるように思います。

池田市の近く川西市の多田神社には源満仲公をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公が祀られていることから、源氏発祥の地と言われています。多田銀山を発掘し源家繁栄の基礎としたようです。

さちこさん、九鬼家が金星の石を持ってるのですね。秦氏つながりですね。

そりちゃんさん、僕もザビエルの頭の事、思い出しましたよ。
アルシンドの事も。「アルシンドになっちゃうよ〜」で有名でしたね。
ユダヤ人も頭に烏帽子のようなものをかぶっていたようですよ。
宗教のしきたりで頭をそっていたのか?
帽子をかぶっていて蒸れて禿げたのか?
どちらにしろ、河童頭ですね。

ユダヤ人といえばユダヤ教だと思い込み易いのですが、そうとも限りません。
キリスト自体ユダヤ人です。ユダヤ教が成立するまでに、
ユダヤ人はシルクロードを通ってアジヤと交易していたに違いありません。

秦氏イコールユダヤ人とは信じたくないのですが、
ユダヤ人の文化も持ち込んでいたに違いないと思います。

「平家の家紋」に話をもどさないといけないのに、なかなか戻りません。
すいません。

秦氏の話にはずい分と動物が出てくるので、秦氏関連で十二支が作れるかも?
子(?)牛(牛頭天王)もトラ(ミトラ=弥勒菩薩)兎(月の玉兎)龍(龍神信仰)
巳(秦氏の蛇塚)午(聖徳太子)羊(?)さる(サル=河童)鳥(ヤタガラス・加茂氏)
犬(狛犬)亥(熊野の猪垣・池田の猪名川)

う〜ん、子と羊、どっかにいないかな〜
[122]さちこさんからのコメント(2002年07月07日 17時54分45秒 ) パスワード
  

半島に昔馬韓があってあとから辰韓きたと言う話がありますが、
馬韓が百済に、辰韓が新羅になった。
はっきり記憶してないので、大雑把でごめんなさい。

去年韓国に行ってきたのですが、
慶州でボランティアガイドしていた大学生からきたのですが、
百済は中国の影響を多くうけているが、
新羅は中国文化の影響が少なくルーツは中央アジア、中東と考えられているそうです。

日本で調べたら新羅のルーツを今の段階で特定することは難しいが、
地中海辺りまで考えられているらしいです。

勿論東に向ううちに混血もするし、
時が経つにつれ文化も変わってしまっているのでしょうが。

ユダヤ人と日本人との共通てんがあるるとすれば、
秦さんのおっしゃるようにユダヤ教以前のユダヤ人か、
先祖がユダヤ人と同じ文化を共有する人たちだという可能性はあると思います。
[123]秦義則さんからのコメント(2002年07月07日 21時03分11秒 ) パスワード
  

大阪の寝屋川市にも秦氏ゆかりの地があります。
秦や太秦という地名、それに八坂神社、春日神社、加茂神社、八幡神社、太秦廃寺(廃寺跡に熱田神社)太秦寺があり、秦河勝の墓まであるという、すごい所です。
その春日神社には狛犬ではなく、狛羊?(コマヒツジ)があるようなんです。
当時の日本に羊はいたのでしょうか?
秦氏ゆかりで十二支の羊を探していたら、とんでもないところに行き着きました。
そういえば、イエスは「迷える子羊」といったとか・・・
神社はキリスト教と関係あるのでしょうか?
またまた、とんでもないことに。


[124]さちこさんからのコメント(2002年07月07日 22時11分52秒 ) パスワード
  

お暇ならみてよね〜

http://www.page.sannet.ne.jp/s-endo-kyoto/flame01/katudoukiroku/shijounawateneyagawa/shijounawateneyagawa.htm

南朝と河勝。

シナイ半島のシナイ山で神のお告げをきいたモーゼは、
日本の宗教に関係してるでしょうね。
山岳信仰。

キリスト教は(も?)勿論私は判らないですが。
私の幼稚園はカトリック系でした。
近くではプロテスタント系の幼稚園があって、
近所のの子供同士で悩んでました。
いや?ケンカしてました。

プロテスタント系幼稚園のガキが言う。
「手を合わして祈るのはうちのじいチャンと同じ、
 仏様に南無阿弥陀仏と言ってるのと同じだ。
 キリスト教では手を握って祈るのが正しい。」

そんなこと言ってもうちの幼稚園ではマリア様が手を合わせてるし〜。
マリア様の前で祈るのだい〜。

などともめながら、
アーメン、ソーメン、冷やそう麺。
天にまします我がが神よ。ラーメン!
と話がまとまるのでした。
めでたし、めでたし!

[125]たまねこさんからのコメント(2002年07月09日 00時30分11秒 ) パスワード
  

昨日(7月7日)、図書館で『瓜と龍蛇』というタイトルの本を見つけました。家紋の由来が書いてあるのかと思い、借りてまいりましたが、「天稚彦の草紙」という絵巻物から始まる、神話、説話、伝説を集めたものでした。
”天稚彦”は彦星、牽牛のことで、娘は七夕、織女星。お話の登場人物は、鬼、大蛇、瓜、牛、等々。

「七月七日の河童」という話もありました。河童は七夕と縁が深いようです。

長野県の北小谷では、河童は龍神の使徒であり、龍神は蛇体という説も。

祇園祭の牛頭天皇と胡瓜の関係が、近年になって、河童の話にすり変わっているという話も。

謎だらけの「瓜子姫」の話には、カラスが出てきました。

「蚕になった姫君」の話も、秦氏と関係有りですね。

以下、「日光泉小太郎」という長野のお話の中から。
昔々の信州のことである。まだ郡の名前なども決まっておらず、村もなかった頃のこと、わずかばかりの人家はみな山にあった。その頃、有明山の麓に有明の里と呼ばれるところがあった。有明山は戸放ガ岳ともいわれた。その昔、天照大神が天の岩戸に隠れてしまった時、世の中が真っ暗になったので、手力雄命が岩屋の戸を開け放って投げたところ、落ちたのがここだという。それから再び世の中が明るくなったことから、この山を有明山とも戸放ガ岳とも呼ぶ。また、鳥放ガ岳ともいわれる。そのわけは、鶏に似た鳥がいて。時を告げて鳴くからだという。別の説では、この山は満月の頃には、すみずみまで照らし出されるから有明山という。

何のことはない、山の名前の由来なのですが、この山の辺りは、景行天皇の頃までは湖の底だったとか。この湖に、犀龍という諏訪大明神の化身が住んでいて、息子の小太郎を背に乗せて、人が住めるような地を作っていったという…
何だか、「日本昔ばなし」のオープニングの坊や〜と龍を思い出してしまいました。

この本、まだ殆ど読んでいないのですが、面白いですよ。ここで出ている話題に因んだ話がいっぱいあるようですし。火のないところに煙は立たないと申しますから、信仰や習慣のきっかけになる出来事があったのだと思います。遡っていけば、角や鱗のある人の祖先は…トリケラトプスだったりして?

烏帽子の話もありました。昔、成人男子が冠や烏帽子をかぶらずに人前に出ることは、「髻を放つ」といって、忌むべきことだったそうです。烏帽子を落とされるということは、辱めを受けること、普通の人間でなくなることを意味したそうです。寝る時にもかぶって寝ていたということは…アルシンドになっても、ザビエルになってもおかしくない状態だった?真ん中、剥げちゃったんだから、剃り込み入れようということになっていったのかも。
[126]さんからのコメント(2002年07月12日 09時55分05秒 ) パスワード
  

平熱の皆さん、こんにちは。
書きたいことはいっぱいあるのに、忙しくてなかなか書けないでいます。
そこで今日は、皆さんのコメントを読んで思い出した事、感じた事を、まとめて書きたいと思います。


秦さんのコメント

> 隈さん僕も九州には河童を祭る神社があると聞きましたよ。
> そこではキュウリを食べないそうです。キュウリは神様の紋所であるからです。

九州では河童=水神のようですね。筑後川周辺では、庄前神社が河童を奉っています。
この河童、実は平清盛の化身だという説も・・・水天宮信仰繋がりです。
筑後川は水害が多いので、古代から水神信仰が盛んだったのです。
久留米と同じく川沿いの、福岡県浮羽郡田主丸町は「河童の町」で有名だとか。

> スサノオ命は新羅からの渡来人が崇拝した神です。
> 河童もまた、新羅に関係あるのでしょう。

私が読んだ本では、【河童=河伯=神農=疫病=牛首=牛頭天王=須佐之男命】と繋がる、なんて書かれていました。
まさしく新羅人でしょう(笑)

> 天皇家、平氏、源氏、藤原氏が表舞台にいますが、
> 秦氏はその裏で蠢いていたのではないでしょうか?
> 百済系の天皇家と新羅系の秦氏
> 表の皇子と闇の皇子なのです。

最近、『消された王権・物部氏の謎』という本を読みました。
題名の通り物部氏についての話題が中心ですが、それ以外の古い豪族についても、天皇家とは裏表の関係で、
歴史の表舞台から姿を消して落ちぶれた後も、陰で天皇家&藤原家を操った、と書かれていました。

どうしてそんな事が可能だったか?というと、

藤原氏によって律令体制が整えられ、多くの民がそれに組み込まれた後も、
政争に敗れて『消された』人々はそれに属さず、定住を避けて遍歴漂白の民となったといいます。
すなわち、芸能民あるいは鋳物師、木地屋(盆や椀を作る人)、薬売り等の行商人、それに修験者(神仏に仕える人々)等々、身分的には低いとされた人々です。
身分は低い代わり、彼らは法律に束縛されず、自由に行き来し、同族ネットワークで情報交換しました。

彼らを潰そうとすれば、そのネットワークで逆に消されてしまう。
天皇家にとって彼らは不気味な存在でしたが、彼らの持つ情報は充分利用価値のあるものでした。
例えば天武天皇は、彼らを上手に利用しました。

著者曰く、『この闇の社会を本気で潰しにかかった人物は、歴史上織田信長一人と考えられる。
ただ多大の犠牲を払いながら、野望は完璧に成し遂げられた訳ではない』と。

・・・これって、まさしく忍者のことですよね!?

そして、得体の知れない闇社会の人間達は、『鬼』と呼ばれたのです。
この世で人間ではないのは、天皇=神と、闇の人間達=鬼だったという訳です。
人間ではないから、税を納めなくても良いんですって。


そりちゃんさんのコメント

> 河童=水の精霊=竜神信仰につながっていくのでしょうか。

そのようです。河童=河伯、と書きましたが、これには『蛟(みずち=水霊とも書く)』という妖怪も繋がるそうです。

『蛟』・・・青森地方で河童をメドチと呼ぶその語源が「蛟」である。形はヘビのような格好をし、
頭に角、胴体には短い手足がある。
姿形は似ていないが、災いをもたらす妖怪変化の類として現れ、河童の別称になった。

ですって。何だか竜みたいでしょう?

> 隈=太陽でできる影というのも、なんだか象徴的ですよね〜。

確か、奈良の明日香村には「日隈」って地名がありましたよ。そのまんまですね。
そこは渡来人・漢氏がたくさん住んでいた場所だとか。

> 「桃太郎」気になってきました。「サル・トリ・イヌ」を「吉備団子」で
> 家来にするじゃないですか。これって「吉備一族」のことを表しているのかな、

こんなサイトを発見しました。

http://www.infonet.co.jp/nobk/okym/inu-saru-kiji.htm

桃太郎は吉備一族だけど、「サル・トリ・イヌ」は違うみたい。
ちなみに私、トリの鳥取部は、うちの父方の先祖ではないかと思っています。
鳥取氏も、極めて秦氏に近い一族らしいです。少彦名命を祖神として祭っているのです。
鳥取氏については、また後日改めて書きたいと思っています。


さちこさんのコメント

> 水軍の九鬼家が金星の石を持ってるらしいという話を思い出しました。
> 熊野水軍から出ているのですが、服部家とは縁があります。
> 村上水軍と違い一向一揆では信長に寝返ってくれましたが。

九鬼家といえば、私の祖母(父方)の弟が養子に行きました。
養父は摂津三田藩士だった人です。
大名の九鬼家は鳥羽藩主でしたが、外様大名だったため、お家騒動が起こった時に
家康が「これ幸い」とばかりに九鬼家を三田藩と丹波綾部藩に分裂させて転封。
しかも、移った先は山の中。まさに「陸に上がった河童」状態にしてしまったということです。

> 私の幼稚園はカトリック系でした。
> 近くではプロテスタント系の幼稚園があって、
> 近所のの子供同士で悩んでました。
> いや?ケンカしてました。

私が最初通った幼稚園はカトリック系。担任の先生以外に、ちゃんとシスターが居ました。
ところが途中で引っ越す事になり、転居先で通ったのはプロテスタント系。
うちの母曰く、「近くにカトリック系がなかった」・・・宗教に無節操な日本人(笑)。
私は転園当初、「イエズス様」と呼んでいたのが「イエス様」だったり、
お祈りの手の合わせ方が違うので「どうして??」と思いましたが・・・すぐに慣れました。
日本人ですから(笑)。


たまねこさんのコメント

> ”天稚彦”は彦星、牽牛のことで、娘は七夕、織女星。お話の登場人物は、鬼、大蛇、瓜、牛、等々。
> 「七月七日の河童」という話もありました。河童は七夕と縁が深いようです。

そうだったんですか〜
牽牛と織女っていうぐらいだから、七夕って秦氏に関係ありそうだとは思っていました。
今年は娘と一緒に園で七夕飾りを作ったので、思わず本気で息子の病気治癒をお願いしてしまいましたよ。
[127]大志万(おおしまん)さんからのコメント(2002年07月16日 03時00分12秒 ) パスワード
  

服部 明子様 平家に由来のある皆様

はじめまして。私、大志万(おおしまん)と申します27歳の青年です。
このHPを拝見して、共通点が多く、大変背筋の凍る思いがしました。
皆様のご先祖様と私家が、ひっとすると関係あるかもしれません。

何かわかることがあれば、ご指導戴ければ幸いです。
私の勉強不足も多いかと思います。
しばらく、拙い私の話に耳を傾けてくださいませ。

大志万の家紋は「丸に揚羽蝶」であります。
本家等の集合地は、京都府北部の福知山市と綾部市にある私市(きさいち)にあります。私市は、戦後に市制合併により2つに分けられ、現在は両市にある状態です。
大志万家の本家は、福知山市の私市にあります。

地理的にいうと、京の都より追われてきたことは明らかです。
先祖は、捲土重来を狙っていたかもしれません。
名前の由来は、足利尊氏公より「大志万」を拝受したと
聞いたことがあります(これは怪しいですが…)。

大志万家の菩提寺である長圓寺(ちょうえんじ・曹洞宗)は、残念ながら、
昔、天災に遭遇し、詳細な過去張が焼失してしまいました。
しかし、かなり離れた別の寺院にて、過去張の一部分がが出てきましたが、
よくわからないことが多いということです。

小生の家は分家であり、西暦2018年で分家開祖命日300年を迎えます。
分家の100M先に大志万本家があります。
本家は、もっと昔から続いていますが、武家の前は何だったのか、
よくわかっておりません。

毎年、大志万家では、4月1日に「先祖講」という集まりがあり、
各大志万家の代表者1名(私の祖父)が集まっています。
そして、開祖の戒名が書いてある掛け軸をかけて、
般若心経を読んでいるらしいです。
(私には、まだ出席権がありません)

ちなみに、関係ないかも知れませんが、本家の伯父様は、
現在、京都府北部にある元伊勢神宮の宮司(神主?)を務めております。
これは、世襲制ではありません。

私の一族は、晴明神社(安倍氏)で名前をつけることが多いです。
私も、ここで名付けられました。

以上、よく分からないことばかり書いてきましたが、
私の勉強不足、かつ、専門外でよく存じません。すみません。
もし、何かあれば教えてくだされば幸いです。

それでは、失礼します。


追伸:関係のない話です。
明智光秀公に関してですが、福知山では、
彼の政治力を批判している口承は、あまり聞きません。
むしろ、良政だった聞いております。



[128]そりちゃんさんからのコメント(2002年07月16日 12時23分35秒 ) パスワード
  

実は私も幼稚園はキリスト教系でした。
さちこさんだけなら偶然ねー、で終わりますが
隈さんもだなんて、やはり秦氏に引かれてるんでしょうか?
最終学歴もキリスト教系だし、実家の隣に教会はできるし、
賛美歌なんて歌詞みなくても歌えるし。

隈さん
さてさて、七夕についてですが、私もおや?と思いました。
「牛」と「機織」ですものね。
うちの本家のあるところに半田沼というのがあって、言い伝えによると
その沼の主は大きな赤い牛で、金売り吉次が金を運んでいる時に
沼に落ちた牛が主になったと言い伝えられています。
のちにその牛は近くの美しい娘を見初め妻としますが、村人が
沼に潜って助けに行くと娘は機織をしていたという話です。

ちょっと「七夕」っぽいですよね。

最近気づいたのですが、本家のある土地には「西鍛冶町」「金谷神」という
地名が残っています。半田銀山があるからその関係だと思いますが、
不思議とその地域には「言い伝え」や「昔話」の類が残されていないのです。
隣接した地区にはたくさんあるのに、です。不自然だと思いませんか?
今回秦氏についていろいろ皆さんのお話しを聞いていて考えたのは、
その地域は秦氏のように出自をあきらかにできない人々が居住していた
土地だったのかな、ということです。うちの先祖はその人々に関わっていたのかな
と。もしかしたら、直接そうなのかもですが。

鬼について
6月だったかな?6チャンの「不思議発見」でおもしろい題材が放送されました。
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/mystery781_1.html

役の小角(また角だ!)の配下で前鬼と後鬼がいたそうですが、これで本当に
「修験道」と「鬼」が結びつきましたね。
役は加茂氏の副姓だそうです。小角は「額に小さな角があったため」そう
呼ばれたそうです。
誰か思い出しませんか?そう、「ツヌガアラシト」。
ということは、役の行者も「新羅」関係者?
ということは、加茂氏も・・・。

余談ですが、星座のからす座は28宿というグループに分けると
南方七宿に属し、宿名「軫(みつかけ)」で音読みだと「シン」です。
方角は「西」だとか。
「シン」=「西から来た人」という意なのかな?
[129]そりちゃんさんからのコメント(2002年07月16日 12時31分51秒 ) パスワード
  

「漂白の民 サンカ」についてのHPです。
参考までに。

http://www.kumanolife.com/History/kenshi1.html
[130]川口 信さんからのコメント(2002年07月16日 13時40分12秒 ) パスワード
  

そりちゃん HPもだいぶヒットしましたね。私もgeocitiesのハートランド・あさがお通りに出先機関を持っております。お近くなので、ついでの折お立ち寄り下さい。

 キリスト教が出てきましたが、実は私も高校時代はミッションスク−ルで賛美歌や礼拝でしごかれました。毎朝チャペルでの礼拝が嫌で校舎の後ろに隠れサボって教師に見つかり、結局は礼拝をする熱心なクリスチャン(?)でした。音楽の時間は賛美歌、聖書の科目があり、今でも「主の祈り」は出来ますが、宗派は法華宗です。
 
 皆さんがキリスト関係にあって、また平氏に興味があるなんてこれまた不思議ですね。

 サンカの話には興味が大変あり、「南朝とサンカ」の項など是非読んでみたいです。掲載有難うございました。
[131]さちこさんからのコメント(2002年07月16日 20時29分28秒 ) パスワード
  

大志万さん

はじめまして。
めずらしい名字ですね。

今別のスレッドで古事記に関った秦氏系の多氏についての話題があります。
オオシですが、大志万さん何かかかわりがあるのでは?

このスレッドは本当に千客万来ですね。そりちゃんさん。

今から出かけますのまた明日にでもコメント入れさせていただきますので
よろしくお願いします。
[132]そりちゃんさんからのコメント(2002年07月16日 22時54分11秒 ) パスワード
  

大志万さん、ごめんなさい、カキコミ遅れました。

またまた珍しい姓なのですね。さちこさんの言うように、多氏に関係
ありそうな。でも平家に関係あるかわかると良いですね。
せめて、足利尊氏との関係がはっきりわかれば、すごいですよね。

うちなんて今の本家はたぶん本当は分家であろうと思っているので、
もう過去のことはさっぱりわかりません。
大志万さんの本家さんはきちんと子孫に自分達のルーツを
つなげていこうとしていらっしゃるので、すごいことだと思いますよ。
大志万さんも呼ばれるようになったら、是非自分のお子さんや孫に
ずっとつないでいってください。
何にも変えられない資産だと思います。

川口さん
ひえ〜、川口さんもキリスト教つながり!
ちょっと怖くなってきました。
そうそう、私のホムペですが、
なんとか見てくださっている方がいるようで、(汗)
でもなぜか画像が小さくなってしまい(汗)
もう私の力不足が全開です!

さて、サンカについてたいへん興味深いHPなので、私もゆっくり
見ていこうと思っています。
そうそう、私も「秦氏の研究」図書館で借りました。
おバカさんなので3回ぐらい読まないと、頭に入っていかないです。
ははは。

<このスレッドは本当に千客万来ですね。そりちゃんさん。
本当にそうですね。
いま、これを読んで「うちもそんな話だよ」と、
画面の前でドキドキしているあなた、
ぜひコメントしてくださいね!
って宣伝してどうする!?
[133]服部 明子さんからのコメント(2002年07月16日 23時31分55秒 ) パスワード
  

大変重くなって来ましたので
このあたりで新しいスレッドにして下さい。

以下に書き込み出来ないように切りますね。
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