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| [1] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年06月30日 23時30分07秒 ) |
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本人によりコメントは削除されました。 2003年05月08日 15時04分07秒
| [2] | ![]() | 服部さちこさんからのコメント(2001年07月01日 03時15分54秒 ) | パスワード |
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はんださんですか?
私の親戚にも半田姓がいます。
はんだ=はた=秦と思います。
最近、秦氏と服部家の関係が気になって。
平家と秦氏も繋がりがあるような・・。?
明子お姉さん。
何かご存知ならば教えてください。
| [3] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月01日 10時23分29秒 ) | パスワード |
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服部姓は
岡山・大阪・三重あたりが3大勢力かなと思いますが
三重の現在の服部姓は殆どが平家がらみの子孫でしょうね。
でも源 頼朝を助けた縁で源氏を名乗る服部氏もいるのでややこしいですが。
柘植系服部氏は源氏を名乗っても仕方無いでしょうね。
頼朝の命を助けた家ですから。
平家系服部姓は桓武天皇の子孫が上総に下向して1006年に伊勢・伊賀に来て
伊賀に既にいた帰化人の秦氏系服部氏を継いだというのですね。
血取りとか地取りとか呼ばれるのです。
早い話が地元の名門・豪族の「服部家」を乗っ取ったというのでしょう。
秦氏というのは昔は最先端技術を持った技術集団で
秦氏の川勝というのは超大金持ちで聖徳太子のパトロンだった人ですね。
娘が太子の晩年の最愛の妻になっています。
秦氏は桓武天皇の平安京遷都に全財産を注ぎ込んで歴史から消えることになった
と聞いています。
ですから伊賀の服部氏というのは秦氏系と平家系の2種類はいるということになりますね。
1006年に入って来た平家系服部氏に秦系服部氏は飲み込まれたというのが自然でしょうね。
平家の服部家長が忍者の先祖ということになっていますが
一説には聖徳太子が最初に使ったとも言われていますね。
やはり秦の川勝にからむ帰化人の技術の1つだったのでしょう。
平家系服部氏は家紋を見れば一目瞭然です。
並び矢です。
嫡流は並び矢の回りの○が車になっています。
平家系の服部氏の嫡流を乗っ取りたい者は○が車を使いたがりますね。
千賀地の服部半蔵の家は嫡流を力で手に入れたということになります。
家康のお墨つきですから他の服部氏はせいぜい「ウチらより身分が下だったくせに」
と悪口言って溜飲を下げたことでしょう。
だから東湯舟の藤林家は面白くなかったでしょうし
喰代砦の百地も面白くなくて、この3つが三巴の争いを続けていたけど
実際の嫡流の家は14世紀から15世紀の南北朝の対立の時には
伊勢の東端に引っ越して現在に至るということで争いから1歩静観してましたね。
平家系の服部氏も庶流ともなると並び矢を使わず他の紋を使用する事になりますから
お気の毒です。
橘紋とか矢筈紋とかいろいろあるようですね。
使い始めたのがどういう経緯か分かりませんし
並び矢紋に戻したくて申請しても却下されたりして
とうとう現在に伝わるようで
姓も戻せなかったとか
江戸時代はなかなか厳しかったようですよ。
家書が伝わっていたら、そこの経緯が書かれていますから、
本家などに尋ねたらいいですね。
司馬遼太郎によると秦氏は秦の始皇帝の一族で
その先祖はユダヤのダビデ王だ、と。
そんな事をお書きですね。
なかなか夢があっていいですけど、
貧しい日本に大陸の最先端技術を持った民族がやって来て
金堀り技術を持ってて日本の金・銀を当時は一人占めしてただろう
ということは分かりますよね。
世界中の国々が同じ事を植民地にやって来た+やりたいと願っているのですから
元祖<帝国主義者+植民地主義者>ってことになりますかね?
そういう昔の名門で零落した家の名を継いだ(乗っ取った)というのが私の先祖ってことですね。
要するに当時の成り上がり者ですね。
で名実ともに名門に納まった。正盛+忠盛+清盛3代のお蔭で。
以上が秦氏と平家との関係でしょうか?
| [4] | ![]() | そりちゃんさんからのコメント(2001年07月01日 15時44分44秒 ) | パスワード |
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ありがとうございます。愛知県ですか、調べてみます。服部さんは本当に博識ですね。私ももう一度勉強しなおします。
ところで、「蝶の星」という家紋をご存知ですか?失われた家紋はわかりずらくて覚えられなかったのかなと思ったのですが・・・。今もこの家紋を使用している方はいらっしゃるのでしょうか?
江戸時代は改名も厳しかったということですが、ならば我が家も江戸時代に改名したのではないと考えていてもよいのでしょうか?
また、教えてください。
| [5] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月01日 23時09分46秒 ) | パスワード |
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家紋は何万とありますから
家書に書かれていない限り子孫はどうしてこの紋なの?と
分からないですよね。
「蝶の星」ですか?
蝶と星の組み合わせということで
何か凄い意味があったと思いますね。
本来の「平家の蝶紋」に妙見信仰の「星」が組み合わさったのか?
蝶は平家の代表紋だけど
他にもいろいろな姓氏の家が使用しています。
例えば「菅原氏系の半田さん」とこも蝶だそうです。
姓も家紋も今と違って昔は勝手に替えたり名乗ったり出来なかったので
ソリちゃんさんは「反田姓で蝶に星紋」のお家の方をお捜しになると良いですね。
日本の姓と家紋だけは複雑怪奇です。
家書に書かれていなければどうしてそうなったか子孫には当惑するばかりです。
我が家はラッキーでした。
私はファックス・マシーンで巻紙の感熱用紙を利用して系図をコピーして親戚中に郵送しました。
養子に入ってのけものにされていた人などから感謝されました。
血は繋がっていなくても名前で日本は繋がると思うので親や伯父伯母から養子になんかにまで系図をあげて、と反発も受けましたが、そういう感情は私は好みません。
どなたか寛大な人がいて教えてくれるといいですね。
| [6] | ![]() | 服部さちこさんからのコメント(2001年07月01日 23時45分52秒 ) | パスワード |
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お姉様
詳しくありがとうございました。
私の軽い脳みそでは少し難しいところもありましたが
すごく参考になりました。
昨日、夜更かししたのでまた明日じっくり読み返します。
私の家の家紋は元気車・・違う!(いまだに入力苦手です。)
源氏車に並矢です。八桁の車輪です。
何故なのかわかりません。
江戸時代の末期にはただの農民だったのですが。
江戸時代の中頃に弥富のうぐい浦から分家したらしいです。
干拓した土地に移り住み先祖の墓は木曽岬町(長島の近く)にあります。
うちの先祖は漢織女(あやはとり)、呉服女(くれはとり)
中国からの帰化人で機織の技術を日本に伝えたと
代々言い伝えてきたらしいです。
子供の頃にきいた時は千年以上も前の帰化人なんて言われても
アホか!と思っただけでしたけど。
これは伊賀の服部家に伝承されてきた話らしいです。
やはり秦氏と関わりがあるみたいです。
まだ
書きたいことがあるけど明日は早いのでこのへんで。
>そりちゃん
話ずれてごめんね。
| [7] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月01日 23時54分46秒 ) | パスワード |
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いつ反田姓にお替えになったのでしょうね?
姓や家紋は本人のアイデンティティなので自分の姓や家紋が嫌いだからと言って
勝手に替える訳にはいきません。
例えばアメリカ人で徳川氏の家紋を自分の墓に彫った人がいますが
アメリカ人だからホホエマシイで終わりますが
日本人が勝手にやったら世間から笑われるだけです。
本来の姓とか名字とか家紋を替えるというのは凄い経緯があっての事です。
勿論名誉を讃えられて天皇から「これからは赤星と名乗るよう」下賜された変更もあります。
でもたいてい姓や名字を替えるというのは悲惨な理由があると思います。
例えば落人狩りで命を助かる為に嘘をついて名乗った名前が定着したとか。
その時に本当の名前を隠す為に謎々のように名乗った名前。
でもそれを恥として理由や経緯を子孫に伝えなかった場合もあるでしょう。
日本の歴史は敗者にそういう名字の変更や家紋の変更を余儀なくさせて来た
と思います。
源平の戦い・室町の戦い・南北朝の戦い・戦国時代の戦い・関ヶ原の戦い・大坂夏冬の戦い・戊辰戦争その他
いろいろなきっかけで名字を替えたと思います。
親も子に本当の名を世間に明かしてはいけないと言い置いたという話しもあるでしょう。
特に明智光秀の子孫の人はそうらしいです。
江戸時代は庄屋は名字帯刀を許されましたが
一般人は許されませんでした。
明治になって晴れて名乗れたわけですが
200数十年の間に伝わらなかった家は適当に名乗ったでしょうけど
殆どの家は伝わってたと思います。
江戸時代は転居の自由が無かったので村の人はよその家のことも知ってたと思います。
明治時代になって申請する時、勝手にカッコいい名前は名乗れなかったと思いますよ。
素性がかなり明らかだったと思います。
でも日本の名字は複雑過ぎます。
イギリスでも名字はそんなに多く無いです。
中国や韓国は名字が極端に少ないです。
ところが日本は謎々の名字も含めてゴマンとあります。
世界中捜しても名字がこんなに多い国は他に無いのでは?
戸籍謄本で明治の初めまで調べられますから
1度御先祖さまの戸籍をお調べになったら良いと思います。
そうすれば明治の初めにどこに住んでいたか分かって
ちょっとは江戸時代の終わりに住んでた所が特定出来るかも?
| [8] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月02日 00時31分04秒 ) | パスワード |
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>源氏車に並矢です。八桁の車輪です。
これは服部家長が弓のコンペで優勝して六条院から褒美に車一杯の矢を頂いた事を記念に家紋とした、ということです。
>これは伊賀の服部家に伝承されてきた話らしいです。
もともと服部というのは「機織り」がつまった名字だと言われていますから
秦氏の中の機織り技術集団だったグループが伊賀に転住したのが初めですね。
何とか天皇の時代に伊賀に土地を貰って移り住んだという記事を見ました。
伊賀上野市の北部に服部という地名があって
そこのバス停の前に小宮神社というのがあります。
これが服部氏の氏神さまだそうです。
それから伊賀一の宮の「敢国神社」は秦氏が大陸から渡って来たのを記念とした神社だそうでシンボルが「少彦名命」だそうです。
帰化人秦氏(服部氏)の力の象徴ということでしょうね。忍者の守護神でもあります。
この敢国神社は全国の阿部姓の神社でもあるそうです。
| [9] | ![]() | そりちゃんさんからのコメント(2001年07月02日 08時17分26秒 ) | パスワード |
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戸籍は一応除籍の分までさかのぼれるところまで取りよせてみたのですが、今と同じところに住んでいました。江戸時代はあまり分家とかしなっかったのでしょうか?
もしも、分かれている方がいれば今はつきあいがないけれど家紋など伝わっているかも、とおもったのですが。
でも、やはりお墓に一度いくしかないですね〜。鹿島神社も調べてみようとおもってます。でも、社のなかとか開けたりしたらバチがあたるかな・・・。
| [10] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月02日 10時04分48秒 ) | パスワード |
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今の所にずっとお住まいでしたら
お寺の過去帳など見せて頂けるといいですね。
それからお墓には紋が彫ってありますから
墨と紙を持って行って魚拓して来るといいですね。
私は写真に撮れました。
| [11] | ![]() | そりちゃんさんからのコメント(2001年07月03日 08時12分35秒 ) | パスワード |
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過去帳は家ごとにあるのですか?いままでまったく気にしたことがないので・・・。
そして本家の墓には家紋が彫ってないそうなのです(涙)。
同県と近隣の県にお住まいのそりたさんにアンケートでもとってみるつもりです。
そして、ある程度わかったら家系図を作成して服部さんのように親戚に配ろうかと思っています。
| [12] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月03日 08時55分21秒 ) | パスワード |
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形はいろいろだと思いますが
仏壇の中に代々の先祖の享年とか書いたモノがしまってあったり
菩提寺にも記録がありますよ。
私の母方の明治の初めに亡くなった先祖の墓には紋は彫ってないです。
この人の孫が明治の終わりに死んだ父親の墓を建てた時は紋を彫ってます。
家紋はふくさにも使うのでお墓だけでなくても出会うことはありますよ。
当然紋付きの着物には家紋が付けてありますが。
反田さんとおっしゃる方にお手紙出すのは良いアイデアですよね。
皆さんお知りになりたいでしょうし。
| [13] | ![]() | そりちゃんさんからのコメント(2001年07月03日 15時57分06秒 ) | パスワード |
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いろいろアドバイスありがとうございます。
がんばります!
| [14] | ![]() | 服部さちこさんからのコメント(2001年07月05日 23時55分40秒 ) | パスワード |
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今日、弥富のホン家さんの裏の道を通りました。
何ヶ月か前、
服部家ホン家さんのことを知り場所を確かめに行きました。
まだお訪ねしたことはないのですが。
近所の人に道を訪ねずっと裏のほうへ行ってみると
いつもよく通る道に出たので驚きました。
古い家だなとか旧家なんだなと気になって裏から眺めてた家が
服部家本家とは驚きでした。
うちの辞典によると
服部家は家長の三代めに上服部、中服部、下服部に分かれ
半蔵は上服部の直系の子孫とありますが。
どうしてこちらがホン家なのか?
ご存知ですか?
敢国神社が安部氏の神社ですか?
なんだか安部晴明との関係が気になります。
あやはとり、くれはとりは
日本書紀などによると応神天皇の頃の帰化人らしいです。
秦氏の祖の弓月の君の18年後に渡来してます。
機織の技術を伝え139才で亡くなり(?)
大阪の池田市の呉服(くれは)神社に仁徳天皇によって祀られたとか。
その後、後醍醐天皇に
呉服大明神を賜ったらしいです。
池田市は秦氏に関わる地ですが
太秦の弥勒菩薩で有名な広隆寺寺にも太秦殿に
秦河勝と共に漢織、呉織が祀られてます。
秦氏ユダヤ人説で有名(?)な大酒神社。
以前は広隆寺境内にあったらしいですが
そこにも、秦始皇帝、夕月王、秦酒君と共に祀られてます。
あやは加羅の安耶、
くれは求礼、今も韓国に残る地名です。
とりあえずは朝鮮半島からの帰化人と思いますが。
調べれば調べるほど判らない先祖です。
| [15] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月06日 00時44分46秒 ) | パスワード |
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ホンヤさんは庶公家の1つとして後醍醐天皇に認められた家で
服部伊賀守宗純は吉野朝廷遺臣<5名家7名字11名なんとか?>の1人として
日本史上にも認められた家で
後醍醐天皇の子供を戴いて各地を転戦し
孫が服部家で亡くなっています。
今のご当主は服部伊賀守宗純を祖とする直系です。
この時の南朝方の中心となったのが津島神社で
服部家ご当主は今でも当時を記念とするお祭を宰領なさっています。
伊賀の千賀地の服部家は「蔵人」の役職なんでずっと身分が低いのですよ。
あそこは徳川家康との関係で一応伊賀の頭領になってるから
世間はあそこがボスだと思ってるけど
伊賀では3つに分かれて権力闘争してて徳川家康の家に3代ぐらい前から仕えてたから
確立してしまったけど
後醍醐天皇が自分の子供を託したのが弥富の服部家なので
その身分の差たるや歴然だと思いますよ。
| [16] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月06日 01時09分14秒 ) | パスワード |
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伊賀の忍者の服部家の方は大久保家と姻戚関係にあったから
一緒に始末されてしまったけど
弥富の方は徳川家康と尾張徳川家と結び付きが深くて
尾張藩主7代目が服部家で10歳まで養育されて以来のことは
ホンヤさん宅のプライバシーに係わることだから私が書いたりしてはまずいと思うけど
今も尾張藩主のなる方とは結び付きが深くていらっしゃいますよ。
私が掲示板に書いては迷惑をお掛けすると思いますけど
織田信長の敵としても弥富の服部家の方が比重が重いので
伊賀の忍者の服部家の方は信長にしても徳川の陪臣の出身地でしかなかった
と思いますが。
| [17] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月06日 10時15分52秒 ) | パスワード |
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伊賀の千賀地の服部半蔵は
戸部新十郎によると東湯舟の藤林長門守の娘?姪?を妻にして
名実共に喰代砦の百地を出し抜いて
伊賀の服部氏の代表者になったように描かれているけど
息子の代に大久保家と一緒に始末される前に
大事件があったのですよ。
これは忍者達がストライキをやったということで
その理由の不満の根底に流れるのが
「千賀地の服部なんぞ俺達より身分の低い服部の出身じゃないか」という反発。
結局は伊賀という土地柄が元々力がキッコウしてたという原因があったという事。
千賀地 vs 東湯舟 vs 喰代の争い。
私が思うにはホンヤさんとこが伊勢の東端に転出した後の伊賀の主流は
(何代も前に三河に転出した)千賀地の服部じゃなくて
東湯舟の藤林家こそ伊賀の中心というか実力者だったと思うのですよ。
北伊賀の支配者であるということと長門守を名乗ったという事からなんですけどね。
後継者がいなくて消えてしまったからそこの所が曖昧になってるんじゃないかと。
藤林長門守が死んだ後は喰代砦の百地丹波守がほくそえんでいたと思うけど
徳川家康をバックにした千賀地の服部半蔵(←代々の通称)が伊賀の代表者に納まった
と思ってます。
だから「千賀地が上服部を詐称した」っていう反発があったと思います。
ま、千賀地にすれば、自分だって服部家長の子孫または一族でもあるのだから
千賀地だって正統な服部だと居直ったと思いますね。
結局は消去されてホンヤさんとこが残ったということです。
もともと実力が違うということです。
今でも特別ですから。
| [18] | ![]() | さちこさんからのコメント(2001年07月07日 21時33分44秒 ) | パスワード |
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明子さん
色々と詳しくありがとうございました。
まだお尋ねしたいことが沢山ありますが、
ここは平家。伊賀の服部家の話は忍者BBSでやれと思われそうで。
ですがもうひとつ、
服部友貞が信長のだまし討ちで自害したそうですが、
これは長島の一向一揆の最中、それともその後でしょうか?
壮絶な戦いだったみたいですね。
お坊さんがお寺の鐘かぶって川に飛び込んでいまも沈んだままとか。
柵をめぐらして逃げられないようにし火をつけ何万人かを焼き殺したとか。
子供の頃にきいた記憶があります。
いぜん伊賀上野へ行った時伊賀牛のレストランへいきました。
混んでたので順番を待ってたのですが
「服部様おまたせしました。」と呼ばれて立ったとたん
まわりの人が私の顔を見てクスクス。
忍者で町おこししてるからしかたないのかもしれないけど。
忍者装束で市議会をやって少し話題になりましたが
何でだったかわすれましたがイギリスへも行ったらしいです。
忍者装束でハロッズへ買い物に行き入店を拒否されたとか。
これって、うちの服部家でなくて半蔵とこの服部家のノリですね。
| [19] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月08日 00時20分24秒 ) | パスワード |
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服部友貞公はいつ亡くなったのか?というのは
永禄11年(1568年)正月ですから
伊勢長島一揆の前になります。←伊勢長島一揆=元亀元年(1570)〜天正2年(1574)
服部友貞公の死は伊勢長島一揆と結び付けるより
もう少し前からくすぶっていた織田信長と石山寺の争いや
織田信長の伊勢・伊賀進攻作戦に絡める方が良いと思います。
もともと伊勢・伊賀を手中に収めようとする信長と
伊勢の名門北畠具教を中心とする勢力の攻防戦の1つで←南朝名門の北畠親房の子孫でしょ
友貞公が北畠の城に正月の挨拶に行って信長方の罠に掛かって米野で死ぬことになった。
伊勢長島一揆の指導者だった実際の人物は友貞公の弟になります。
伊勢長島一揆は織田信長の石山寺合戦の1つの局地戦ですから
織田信長が足利義昭をかついだ時から既に芽があったと捉らえる方が
歴史を誤たないと思います。
信長と服部家との争いは永年くすぶっていたモノが伊勢長島一揆で一気に火を噴いたと捉らえる方が良いと思いますよ。
| [20] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月08日 00時42分20秒 ) | パスワード |
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<15>の後醍醐天皇の息子の事をちょっと書いて置きます。
後醍醐天皇には子供が分かってるだけで38人。
男子19人・女子19人。
幼くして亡くなられた皇子・皇女もたくさんいたかも知れませんが。
<15>に出て来る服部家ホンヤがお預かりしてた親皇は
第8子の「宗良親皇」で1311年生まれということです。
こういうのって生母の身分とかで順位が変わるのでしょうから第8番目として登録されている親皇さん
と書く方が妥当かも。
その子供がイズヨシ親王でその子がヨシタカの王(きみ)とおっしゃるそうです。
読み方はホンヤさんの家に伝わる読み方です。
宗良親皇直筆の和歌に関する書が一昨年だったか神戸の旧家で発見されたというニュースがありました。
ちょっと関係無いですけど、蜂須賀小六の継母の大橋氏は、矢張り南朝方の忠臣の家で
津島神社の神主さんの1人です。神官さんと書くべきかも?
| [21] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月08日 01時46分59秒 ) | パスワード |
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ついでにヨシタカの王(君)?とおせち料理の事を書いて置きます。
後醍醐天皇のひ孫のお正月のお祝いに出したお料理が1説「おせちの始まり」と言われているそうで
料理の鉄人の服部栄養専門学校のそもそもの始まりは
永禄?年やらに(1560年頃?)武家の出陣時儀式のお料理ということで
始まったそうです。
あそこは源氏を称しているようだけど?
紋は並び矢だから一族なんでしょうね?
私の母の伯母の夫の家がもとは甲賀出身だそうで
紋が並び矢なのですよ。
名字は藤田って言います。
昔は甲賀は伊賀に含まれていたので元々は甲賀というより伊賀出身なんでしょうけど
場所からすると藤林長門守グループだったのかな?と思います。
それから忍者説のある松尾芭蕉は、あそこは百地(系)の出身だそうです。
松尾芭蕉は千賀地に行って「1里は 桜守りの 子孫かや」というような俳句を詠んでいますが
これって千賀地 vs 百地の争いを如実に表わしているのか?どうか?
私は素直に千賀地の服部家が朝廷に仕えていて桜の花の木を献上して手入れをして門院を悦ばせたという話を詠んだのかなと思ってましたが
千賀地 vs 百地の争いを考えると半蔵の家に対する劣等感とか優越感が入ってるのかな?とも思うのです。
半蔵というのは服部半六という人物が役職が蔵人で子孫も出仕して蔵人を勤めていたから
略して半蔵と代々呼ばれ称するようになった
ということです。
藤林長門守が何故長門守を名乗ったのか?という問題について
伊賀守は弥富の服部家が朝廷に認められて名乗って来ている以上
自分が名乗る訳にはいかないから
服部家が壇の浦=長門で滅びたのを記念としているのかな?と。
だいたい北伊賀は平 知盛さまが壇の浦で亡くなって
次男の子供を北伊賀で育てているのです。(この人はそれで名字を「北」と名乗ったそうです)
それで場所的にも北伊賀の藤林グループの方が千賀地の半蔵の家より私は伊賀を継ぐ者かな?と。
ところで千賀地は花垣神社のあるあたりね。
あそこの桜は八重で、今のはまだ若木です。
| [22] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月08日 02時08分06秒 ) | パスワード |
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数年前に服部家の歴史をコピーして父方の親戚中に郵送しましたが
服部家の方は母方河野一族とは違って
着いた・貰ったという連絡さえ一切ありませんでした。
ノー・コメントなのか関心が無いのか
弥富の服部家が乗っ取った長島城の元の持ち主の伊藤氏一族は
ホンヤさんとことは違って教育委員会に一切協力しない主義だそうです。
でも最近1997年あたりかな?少し前かな?
ご老公が一族を集めて講義なさったようです。
だけどやっぱり蔵を開けての学術調査の協力は一切しないようです。
ま、いろいろ、お家の事情、ってのがあるのでしょうね。
| [23] | ![]() | いつも通りすがりさんからのコメント(2001年10月28日 00時18分41秒 ) | パスワード |
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新参者野 いつも通りすがりです。
このスレとは直接関係しませんが
仁徳天皇陵墳丘から須恵器片。
from 産経新聞速報 10/27 14:15
> 5世紀中頃と推定。仁徳天皇の没年近く、
> これまで否定的だった埋葬者論争に影響も。
-----------------------------------
産経新聞 http://www.sankei.co.jp/
| [24] | ![]() | さちこさんからのコメント(2001年10月28日 23時41分30秒 ) | パスワード |
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私も読みました!
個人的にもっとニュースに取り上げられても?と思いましたが。
何かと話題の多い御時世ですので。
この頃の歴史にはすごく関心があります。
ほとんど神話と区別できない時代なので難しいですが、
なんか自分の先祖のルーツ探しと重なって。
ロマンですね〜。
服部家は何処から来たのか?
またなにか情報があれば教えてください。
| [26] | ![]() | 服部達哉さんからのコメント(2002年01月09日 00時14分04秒 ) |
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本人によりコメントは削除されました。 2004年10月01日 20時44分55秒
| [27] | ![]() | 服部達哉さんからのコメント(2002年01月09日 00時16分59秒 ) | パスワード |
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すいません。上の文中の「猟師」は「漁師」のまちがいです。
ちょっとした漁師の船団の頭領だったようでいまでも、大量旗が家にあります。
| [28] | ![]() | 隈さんからのコメント(2002年01月10日 10時36分46秒 ) | パスワード |
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服部達哉さん、どうも初めまして。
ここに時々お邪魔している隈(くま)です。
>長島一向一揆のときに、服部さへいた?とか言う人がいてそのひとが
>うちのご先祖様だとかきいたことがあるんですが・・・
長島一向一揆の時に、織田信長を相手に戦った服部氏のご子孫なのですね。
おそらく、服部左京亮(はっとりさきょうのすけ)のことだと思います。
下記のページに詳しい説明がありました。
http://www.mint.or.jp/nagashima/html/page17.htm
津島のホンヤさんとの具体的な関係(家系図のうえでの繋がりなど)は分かりませんが、同じ一族です。
伊勢平氏の系統は海に関係が深く、昔は武士で今は漁師、という人々は少なくないと思います。
ご家族揃って体格が良いのは、確かに昔は武士だった名残りかも知れないですね。
| [29] | ![]() | さちこさんからのコメント(2002年01月10日 15時25分43秒 ) | パスワード |
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達哉さんはじめまして!
仲間が増えて嬉しいです。
きっと同じ一族ですね。
専念寺というお寺は弥富の何処にあるのですか?
私の家ももとは弥富だったのです。
家紋は車輪の輪の中に矢が二本ならんでいるものですか?
それならうちと同じなのですが。
確かにうちの服部家の親戚も背の高い人が多かったです。
父の従兄弟がみな他界してしまって
つきあってる服部家系の親戚はほとんどないのですが、
明治生まれの人でも170cmはある人が多かったです。
そして鼻が妙に高い!
残念ながら私は母に似てるのでチビで鼻ペチャですが。
先祖ユダヤ人だったといわれてもそうかもしれないなと思ってしまう感じです(笑)
服部家のことについて色々調べているのでこれからもよろしくお願いします。
本能寺の変に服部家が絡んでいるのではという話もありますので、
ぜひそちらのスレッドもご覧になってください。
ご意見があればぜひお聞かせください。
| [30] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月10日 22時18分18秒 ) | パスワード |
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服部達哉さん
初めまして。
我が家は祖母の血統がデカくて
親戚は祖母の血を継いで全員デカいんですけど
伯父も軍服・軍靴は自前だったという非経済的なデカサでしたけど
私の父は第7子だったので栄養が悪くて?普通で165センチしかなくて
私が一族で1番チビですけど得してます。
平家は水泳が得意とされていますが
もともと平家は水軍の家で漁師になってるのは当然です。
更に伊賀の子孫でしたら猟師になってるのも当然で銃がうまくてこれも当然でしょうね。
「服部一族」の中に専念寺というのも出てましたよね。
「服部さへいた」でしたら左平太という漢字ですから
平=平家
太=長男
平家の長男という意味になります。
伊勢長島一揆の時に「服部水軍」というのが信長の敵として戦っていました。
そのご子孫でしょうね。
白子なんていかにも「平家」ですね。
| [31] | ![]() | 隈さんからのコメント(2002年01月15日 10時48分23秒 ) | パスワード |
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あ、そうか・・・
伊勢長島一揆に参加した「服部氏」って、たくさんいた筈ですものね。
達哉さんのご先祖様は「服部左平太」とおっしゃったのかも知れませんね。
だとすると、私の早とちり。
どうも失礼しました m(_ _)m
ちなみに私の母方の祖母は、広島県向島の服部家出身で、おそらく同系統・・・ではないかというので調査中です。
私の祖母も、背中が曲がる前は結構すらっとした体型で、背が高い方でした。
私は父に似ていて、やっぱり小柄(156cm)ですけどね(笑)
| [32] | ![]() | 服部 達哉さんからのコメント(2002年01月22日 14時49分03秒 ) |
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本人によりコメントは削除されました。 2004年10月01日 20時46分47秒
| [33] | ![]() | 服部 達哉さんからのコメント(2002年01月22日 16時13分21秒 ) |
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本人によりコメントは削除されました。 2004年10月01日 20時46分14秒
| [34] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月23日 00時06分29秒 ) | パスワード |
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はったつさん
はったつさんの書き込みを拝見して背筋がゾォ〜っとしました。
でしょう?でしょう?
このサイトって平家のパワーが及んでる、って。
ナムコのゲームで藤原景清が
「滅びし平家の怨み」なんて言ってますが
「怨み」でなくても「滅びし平家の記憶を絶やすではないぞ」って思うのです。
平家の滅びた彦島も
安徳天皇の赤間神宮も
凄いパワーの所なのです。
私は1993年に赤間神宮に行かなかったら平家に興味を持つことは無かったです。
平家物語は文学の世界のお話で私には関係無いと思ってました。
でも赤間神宮で先祖からのパワーを感じました。
いつか彼女さんとご一緒に赤間神宮の7盛塚にいらっしゃって下さい。
なるべく朝早く人の来ない時間帯に。
1993年までは私は赤間神宮も7盛塚も「フン!」なんて思ってたのですよ。
| [35] | ![]() | 隈さんからのコメント(2002年01月28日 11時39分43秒 ) | パスワード |
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「偶然」敢国神社に立ち寄ったり、太秦や蚕の社に縁があるなんて、
さすが「服部氏」ですね!
私も「霊感」を感じるようなタチではないし、
オカルトっぽい話については正直未だに半信半疑です。
でもこのサイトを知って、今まで(特に18〜24歳の間、集中的に)
知らないうちにご先祖ゆかりの地を訪ねていたことに気付き、
はったつさん同様驚いた経緯があります。
本当に不思議で、ゾッとするけど、後ろにご先祖様が付いててくれる!みたいな
心強さを感じる体験ですよね。
特にはったつさんは、ご家族や彼女がいっしょにこの事に関心を寄せて下さっていることが羨ましいです。
私の両親や主人は歴史だのご先祖だの、ということにはほとんど興味がなくて、
未だに「何がそんなに面白いんだ?」みたいな顔してますので。
時代劇の映画を作ってみたいとのこと、頑張って下さいね。
ご先祖様もきっと応援して下さると思います。 (^_^)/~
| [36] | ![]() | やっくんさんからのコメント(2002年01月28日 15時38分20秒 ) | パスワード |
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[3]に岡山・大阪・三重あたりが3大勢力かなと思いますが
とあるけど、岡山県総社市に吉備線の服部という駅が有るのですけど
これらの記述と関係有るのでしょうか?
| [37] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月30日 01時45分07秒 ) | パスワード |
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岡山は古代に於いて大和朝廷にとって上国の筆頭だったから
神代系服部氏が当然力を持ってたと思いますし
更にお隣の播磨国は聖徳太子をめぐる人々に関係するし
(太子町とか、赤穂とか)
それで帰化民族の秦氏系服部氏が巨大な力を持ってたと思いますし
源平時代は播磨国は「平 行盛」の領地で
岡山はいくつかの国に分かれていたので
総社あたりがどこに属するのか調べないと誰の領地だったか分からないのですが
当然平家の一門の服部氏がいたのは確かです。
更に岡山県あたりは後醍醐天皇の隠岐ご動座の道筋でもあれば
南朝方の忠臣である服部氏の勢力範囲だったと思いますし
地名の由来は以上4つのどれかから出ている可能性が凄くありますが
私的には古代服部氏か帰化系服部氏の土地だったと思います。
吉備さんとか、古代の大氏族が力を誇ってた名残りだろう、と思ってます。
大学が出来たので駅の名前も変わるのではありませんか?
| [38] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月30日 22時17分56秒 ) | パスワード |
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http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100211_29.html
「古代有力帰化民族:秦氏」のスレッドも参考になさって下さい。
| [39] | ![]() | やっくんさんからのコメント(2002年02月01日 00時23分29秒 ) | パスワード |
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>後醍醐天皇の隠岐ご動座の道筋でもあれば
春になるとニュースの花見のコーナーの全国中継にもたまに登場する醍醐桜があります。
岡山県真庭郡落合町にあります。URLは以下の通りです。
トップページ http://www.lucksnet.or.jp/ochiai/
説明ページ http://www.lucksnet.or.jp/ochiai/mati/haru/haru.htm
醍醐桜の拡大画像http://www.lucksnet.or.jp/ochiai/mati/haru/daigob.jpg
醍醐天皇の隠岐ご動座の途中に植えたという話で見に行ったことがあります。
1本だけぽつんとありまして、周りには他の桜の木はないです。
| [40] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年02月01日 01時30分23秒 ) | パスワード |
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拝見しました。
大きな桜の木ですね。
幹がしっかりしてる。
まだまだ長生きしそうな木ですね。
後醍醐天皇の隠岐へのルートは記憶にありませんが
岡山から旭川沿いに北上したのかしら?
配流の途中で豪族が駆せつけた様子などが浮かびます。
岡山というと矢張り古代大!大!大豪族の吉備氏が最大で
その子孫の三宅氏とか児島氏など我も我もと南朝方に駆け付けたと思います。
児島高徳が代表してますね。この人に集約されると思います。
こういう豪族の子孫から後に例えば宇喜多秀家などの大々名が出ることになりましたから
岡山県には南朝方の武士が集まり、その子孫達がバッコしたというのが分かりますね。
そして南朝方が敗れた後には敗残の者が集まって暮らしたと思います。
住み易かったと思います。
元が南朝方の土地ですから。
| [41] | ![]() | さちこさんからのコメント(2002年02月02日 13時00分26秒 ) | パスワード |
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そういえば楠木正成の孫の楠木正儀の子孫の服部家が
備中にあるというのが系図にのってましたね。
東儀秀樹さんのファンの知り合いが岡山に多い理由が判りました!
はったつさん!
専念寺わかりました。
弥富の鯏浦(うぐいうら)です。
これもなんか不思議なんですが、
私の父が漢詩を習っていて漢詩人、服部たん風先生の資料を貰ってきたのです。
(たんは漢字なのですが変換できない・・。)
たん風先生は弥富の鯏浦の人で明治から昭和にかけて漢詩で全国的に有名な人だったらしいです。
たん風先生筆塚というのがあってそこを管理しているのが専念寺だそうです。
うちは弥富の鯏浦からでているそうで、
祖父とたん風先生とは交流があったらしいです。
先生の家紋は源氏車です。
はったつさんとは割と先祖が近いところで結びつくかも?
私のいとこ(母親が服部家)も映画関係ではないのですが、
同じ会社を辞めてます血はあらそえないということ?
鯏浦には大服部というホンヤさんに匹敵する家があったそうです。
秦の始皇帝に似てるってどんな方かしら?
蚕ノ社は日本で唯一(いや世界で唯一?)三本柱の鳥居がある神社ですね。
その不思議な形から三位一体を表したものだとか、
元糺すの池がイスラエルの洗礼の池に似てるとかいって何かと秦氏ユダヤ人説の
話題になりますが。どうなんだか。
神主さんは服部さんとおっしゃるそうですよ。
広隆寺のお祭でつかうお面を作ってるとか。(京都三大奇祭の一つだそうで)
広隆寺には昔秦の始皇帝、弓月君、秦酒公を祀った法隆寺の夢殿のような大伽藍があったそうです。
服部家の先祖とされる漢織(あやはとり)呉織(くれはとり)の別殿もあったとか。
秦氏の冨を象徴する立派なものだったそうです。
今も秦川勝とともに太秦殿に祀られてますが、
殿というより小屋か物置といった感じ?
| [42] | ![]() | 皇竹さんからのコメント(2002年02月07日 08時50分30秒 ) | パスワード |
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皇竹です>
楽しく読ませて貰ってます。
鯏浦とかホンヤさんとか出て来ますと、
私としましては地元ですので少しご案内します。
そもそも当地は木曽三川(木曽、長良、揖斐)が一番接近するところで、
交通特に船便に都合よく、京都、伊勢から多度を経て尾張、美濃へ行く
交通の要所として、鯏浦などは港として栄えたところ。
10世紀頃はこれより南は殆ど海で、上流から運ばれてくる土砂が
堆積し、それが方々に島を作り、開墾し荘園として開拓していった。
平治の乱に敗れた義朝も知多の野間へ遁れる途中、ここを通った。
家臣の鷲巣玄光が、義朝を舟底へ隠し柴木を積み重ねて、杭瀬川を
舟で下りこの地点まで来て、もう安心だと舟荷を揚げたということから
この辺を荷之上村という。又柴木を積み上げたので柴ケ森として、
現在史跡となっています。
更に葦原を東へと急いだ一行は、一面に海の見える島へ上陸した。
そこは現在蟹江町に源氏島という地名で残されています。
さて服部左京亮友定さんのことですが、(以下弥富町史による)
永録年間、織田氏が彼のいる鯏浦島(城の腰)の目と鼻の先に鯏浦城を築き、
弟の信興を城主にすえた。(史跡跡あり)
左京亮さん頭にきて、信興を攻め殺した。更に頭に来た信長はこの地を始め
伊勢長島の大せん滅作戦を展開した。猫一匹生かさぬほどのものだったという。
2年後、各地に散らばった服部党の生き残りがボチボチ戻り始め、
その中の服部弥衛門尉正友(30才)が、この荒廃した村村を再興したという。
この人が荷之上服部家の先祖といわれ、代々庄屋をつとめた。
現在の服部本家は天正年間に服部祐乗氏が建てたもの。
戦国時代の民家の様式を伝えるものとしてS49年2月5日に、
国の重要文化財に指定された。現在のご当主は服部通也氏(70才)。
屋敷は南に土塀をめぐらし長屋門、主屋、住宅、茶室、離座敷、道具蔵、
文庫蔵から成り、その内土塀、長屋門、主屋、離座敷が重文。
見学は予約制だそうです。入場料300円也。
| [43] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年02月07日 10時08分51秒 ) | パスワード |
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皇竹さま
「服部家近況」をありがとうございます。
昭和48年以前あたりのドタバタを父から聞いたことがあります。
父の話は文化庁からの重要文化財指定に「受けては大変」と断った側の話ですが
「受けたお宅の大変さ」はホンヤさんから今年も伺いました。
文化庁からの指定を蹴って茅葺きの家に住む方が楽だな、と私も今頃分かります。
あの辺りは茅葺きの家が固まっていますが
旧家とは責任が大変です。
| [44] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年02月07日 10時15分01秒 ) | パスワード |
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さちこさん
たん風先生のお宅は「源氏車」ですか。
ではいつ頃分かれたのか調べていただけませんか?
確か「源氏車」の服部家のホンヤさんは「蟹江」だったと思うのです。
この人と旧姓服部、養子先が加藤で、大正時代に首相になった人
(普通選挙制や治安維持法を制定した人)
とはどのように結びつくか調べてみてください。
漢字は加藤高明だったと思います。
蟹江の代官の家の出身です。
| [45] | ![]() | さちこさんからのコメント(2002年02月07日 12時52分16秒 ) | パスワード |
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明子さん
調べるってどうやって?
たん風先生とは祖父が先生から骨董品やなんやらを売ってもらったとかそんな話が残ってるぐらいで今は何もお付き合いないし・・・・。
でも先生の息子さん服部承風先生という方が、
毎月うちの近くに漢詩を教えにいらしているらしいのでその辺りから聞いてみようかな?
でもそこの会が父の漢詩の会とあまり仲良くないので(笑)
それにしても明子さん詳しいですね。
皇竹さん
いろいろ詳しくありがとうございました。
弥富かその近くの方なのですね。
う〜ん。あまり迂闊なことは言えないな。
弥富の伊藤家の方は本当にいいかたばかりです。(汗)
| [46] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年02月07日 14時05分09秒 ) | パスワード |
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さちこさん
源氏車紋の服部系は凄く頭のいい人の系統なのですよ。
だから武(並び矢)を嫌って文(源氏車)を選んだのかな?と。
あっちは凄い賢い人が多いのでちょっと興味があるのです。
これで加藤(旧姓服部)高明が源氏紋だったら私の想像が当たりになるんです。
| [47] | ![]() | さちこさんからのコメント(2002年02月19日 12時55分56秒 ) | パスワード |
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加藤高明について弥富のパンフレットに書いてありました。
それには佐屋町出身となってました。津島と弥富の間です。
以前頼朝のお父さんが風呂場で殺されたという話をしてましたよね。
義朝が美濃から逃げてきてホンヤサンの近くへ船で来たと。
柴の森というのですがそこの記念碑の字が加藤高明だそうです。
神社にもなっているのですがホンヤサンうちの氏神だと言ってましたが。
佐屋町の一部は昔はホンヤサンの土地だったので、
一度ホンヤサンに聞いてみます。
蟹江と佐屋とどう結びつくのでしょうか?
| [48] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年02月19日 22時22分32秒 ) | パスワード |
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すみません
土地鑑が無いので
蟹江と佐屋が混乱してるんです。
源氏車紋の服部家のホンヤ?は蟹江だと聞いてたんで。
源氏車紋の服部家がどんなに頭が良いのか
でも養子に出た人が首相になったり文化勲章貰ってるので
「服部」という名前は出ないのが残念です。
| [49] | ![]() | さちこさんからのコメント(2002年02月20日 22時04分44秒 ) | パスワード |
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そうですよね。私もよく混乱します。
あのへんはなんか似てるから。
関係ないけどダラスとデトロイトも混乱してます。
佐屋町のマークは三本矢車なんですが服部家と何か関係あるのかな?
この間伊賀に行って来ました。
伊賀の歴史を研究してる方がいると思うのですが、
多分こちらの服部家のことはあまり知られて無いと思う。
一向一揆の長島の服部家を知っていても、
伊賀の服部家と結びつける人がいないのではと。
伊賀とこちらとではやはり並行して研究しないと判らないことが多いと思うのです。
それでホンヤサンの宣伝もかねて行って来ました。
とりあえず観光協会へ(笑)
資料を持っていって教育委員会やら歴史を調べてる方に渡して頂くようにしました。
とりあえずご挨拶程度で帰ってきましたが、
こんどは伊賀の歴史に詳しい方を紹介していただくつもりです。
いまのとこ一般には家康の忍者のイメージしかない伊賀の服部家だけど少しでも真実を知ってもらえればと。
真実?そりゃ私たちみたいな美しい伊賀の服部家の子孫の女性がいることでしょ!
そらもうしっかり念入りに化粧してきましたわよ。え?逆効果だって?
弥富あたりではいまだに服部家は頭がいい家系だという人がよくいます。
父のいた木曽岬でも服部家は頭がいいとされてたらしいです。
うちもI家の血筋の入ってない服部家の親戚はそれなりに頭いいんですよぉ。
私はもちろん入ってる!
| [50] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年02月20日 22時58分45秒 ) | パスワード |
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へぇ〜
3本矢ですか。
3本というのは服部家の4男以下の紋だと聞いてたような(迂路覚え)。
元上野市長さんが忍者の研究で有名だって聞いてます。
| [51] | ![]() | さちこさんからのコメント(2002年02月21日 14時44分50秒 ) | パスワード |
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元市長の奥瀬さんという方なのですが亡くなられたそうです。
もう少し話が進展したらホンヤさん宅へ来て頂くか、
ホンヤサン引っぱって伊賀に行こうかと思ってます。
またアドバイスよろしくお願いします。
ここのところ日曜日に時間がとれなくて確定申告が済んだ頃に活動開始しますね。
佐屋のほうも。
そういえばうちの田舎の墓に並び矢紋か違い矢紋の加藤家があったけど。
| [52] | ![]() | はったつさんからのコメント(2002年03月05日 10時53分53秒 ) | パスワード |
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ぞぞー!
さちこさん。専念寺とあほたれ企業を勇退(?)なされた
いとこさんのはなし。ありがとうございました。
勇気ずけられます.
並び矢と源氏車の両方の家紋を父が見たことがある
といってかなり混乱してました。
多分「ハイブリットなんだろう」とそっけなく言ってました。
やっぱり遠い遠い親戚か、かってに「服部」という名前を
つかったのかもしれないですね(笑
多分ホンヤさんとは関係ないけど、祖父はかなり裕福な家で、
女好きがたたって勘当されてしまったという話しを
聞いたことがあります。
そのあとで、養子に行っていた弟さんが呼び戻されて
実家を継いだらしいのですが、どんな家なのか、
俺も父もあまり知りません。葬式や法事の時に
ちらちらと聞かされた断片的な話しばかりです。
祖母の方は加藤という家で、こちらも大きな家だったと聞かされてます。
ただうちの祖父母は大恋愛の末、駆け落ち同然に名古屋に
逃げてきたので、二人の葬式まで実家の人達とは
交流がなかったのです。
死んだあとで、大変だったんだなーと思ったのと同時に、
うちの服部は何か因縁があるんじゃないかと思ったのを
憶えています。よく子供が亡くなったりするし…
あまり運の無い家です(涙
もともと服部と(服部同志?)加藤という遠い親戚筋に当たる家の間で、
何度か結婚や養子縁組があったらしいです。
父は関心がないというよりは、親戚関係で嫌なことが過去に
合ったみたいであまり深く話そうとすると黙ってしまいます。
なんか義理のお兄さんに殺されそうになったことがあるそうです。
あたまいいかどうかといったら、俺は本質的には悪いほうですが、
名古屋大学の博士過程で映画の勉強してました。(いまは休学中です)
でも高校は名古屋大谷(真宗大谷派)というところで、はずかしながら
暴走族系の不良でした。
高校の先生に無理やり押し込まれるように
大学に入れられて大学出た後でフリーターやってたら、
いまのアメリカ人の指導教授が、映画を勉強してみないかと誘われて、
お金が無いから国立しか行けないし、
勉強するのはこれが最後だ!とばかり勉強したら受かってしまった…
というのが事実です。その後、アカデミックなブルジョワ社会で
大変な思いをしました(苦
もう一生勉強したくありません。
で、お金と仕事面でのセンスはてんでさっぱりです。
「根性」と「筋金」だけは自信有るんですが…
また個人的なこと書きこみすぎました。
でもひょっとすると親戚なのかもしれない人達が
日本中にこんなにたくさんいると思うと、
服部の家の人も頑張ってきたんだなと思えるようになりました。
きっと大変なことがいっぱいあったんですね。
こういうので、個人的なことかいちゃいけないんですよね?
すいません。
| [53] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月06日 00時02分52秒 ) | パスワード |
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いえいえ、個人的な経験談からいろいろ見えて来る事がありますから
どんどん書いて行って下さい。
名古屋大谷という学校は知りませんが
浄土真宗でしたなら
まさに「伊勢長島一向一揆」に参加なさったご先祖がいらっしゃる
ということではありませんか?
だいたい名古屋では「鬼頭・加藤は太閤さま以来の名門」と表現するそうです。
鬼頭は秀吉の従兄弟の福島正則の旧姓ですし
加藤はこれまた秀吉の親戚の加藤清正の家ですし。
もともと名古屋では加藤家とか中島家とかそういう家があって(昔の豪族でしょうね)
何重にも親戚関係やってます。
平家時代・南北朝時代・戦国時代などから何重にも結婚を繰り返しているって思います。
ただ昔の事を忘れている=知らないと思うのです。
| [54] | ![]() | 隈さんからのコメント(2002年03月06日 10時05分18秒 ) | パスワード |
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私自身もついつい個人的なことばかり書いてしまいますが、
(そういえば私も、ほとんど平家の話をしてない・・・(^^; )
そういうおまけの話が結構服部氏を考える手掛かりになってると思います。
私の先祖の服部家も、戦前までずいぶん羽振りが良かったようですが、
彼らも結構波乱万丈な人生を送ったみたい(?)です。
頭脳は・・・祖母は県立の女学校を卒業しています。
これは、明治生まれで田舎の島育ちの女性としては結構珍しい事だそうです。
もっとも、家が裕福だったから出来たことではありますが。
本を読むのが好きで新しい物好きだったので、知識は豊富な人でしたよ。
80代後半にしてワープロを始め、「パソコンもやってみたい」と申しておりましたが、
それが実現する前に亡くなりました。
え?私?
私は・・・大学受験では第一志望校を見事に・・・外しました(笑)
これでも中学生の頃は「コンピューターおねえちゃん」と異名を取るほど出来が良かったのに(苦笑)
現在は育児休業中の、一薬剤師です。
私も学生時代は名古屋に居ました。
名古屋大谷高校、という仏教系の学校があることは知っていました。
どんな高校かまでは分からないけど。
加藤さん、鬼頭さん、中島さん(「なかじま」、じゃなくて「なかしま」ですよね)、みんな名古屋の知り合いの中にいます。
名古屋で出会った人々って、何だか初めて会ったような気がしなかった。
これって、やっぱりDNAに染み付いた「記憶」なのかなって思ったりします。
| [55] | ![]() | 川口 信さんからのコメント(2002年03月06日 10時28分38秒 ) | パスワード |
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隈さん、久しぶりです。
祖母さんの話がでたので、一言。
以前他のスレッドで山藤家の出とあったので、私の姉の子供(姪)が同じ名前の山藤家に嫁いでおります。これも何か縁が深いかなと前から思っていました。その山藤家は京都・山科に住んでいる。(山科の藤原氏)かと思っていますが、なにしろ遠方のため、法事か結婚式の時しか逢えませんが今度逢ったら、家紋や謂れなど聞いてみるつもりです。
| [56] | ![]() | 隈さんからのコメント(2002年03月06日 11時53分53秒 ) | パスワード |
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川口さん
どうもご無沙汰しています。
川口氏に関するスレッド、興味深く拝見させて頂いてるのですが、
津島・弥富に関する情報は明子さんやさちこさんの方が数段詳しいので、
私は一歩引いておりました。
>私の姉の子供(姪)が同じ名前の山藤家に嫁いでおります。
そうなのですか!
私の父方の祖母が山藤家出身です(上に書いた母方の祖母が服部家出身)。
摂津高槻藩の家老だったとか。
祖母の父は高槻に居ましたから、山科とは近いですね。
やはり、遠い親戚かも知れませんね。
ただ、うちの本家のお墓は、既に無縁墓になっているそうです。
後を継ぐ筈だった祖母の甥が、昭和16年に亡くなってしまって、家が途絶えてしまったようです。
私の伯父が高槻の菩提寺を訪ねて、山藤家の先祖の戒名を書き取って持ち帰り、
他の先祖といっしょに供養しています。
姓氏家系大辞典では、「山藤氏は、山城の藤原氏」となっています。
ただ、初めに山藤姓を名乗ったのが藤原秀郷の六男・清光で、
彼は父親と共に下野国に下向したことになっているのです。
現在でも、下野(栃木県)のすぐ隣の群馬県桐生市にたくさんの「山藤さん」がおられます。
うちの先祖はいつ、関西に舞い戻ったのか?
高槻藩主の永井氏に関東からついて来たとか?
それとも、関西に残った支流がいたのか?
それとも「山城の藤原氏」とは別流なのか?
まだまだ謎が多いです。
ちなみにうちの父に聞いたところ、山藤家の家紋は「桐」だったということです。
でも祖母が付けていた紋だとすると、正紋か、女紋かちょっと疑問・・・
私も今度伯父に会ったら詳しい話を聞きたいと思っているのですが、
なかなか機会に恵まれずにいます。
| [57] | ![]() | さちこさんからのコメント(2002年03月06日 19時57分18秒 ) | パスワード |
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はったつさん
今回のお話ゾットする以前に、
失礼ながら大うけしてしまいました!
これぞ我が一族という感じです。
色々書きたいことがあるのですが、
今から出かけるのでまた。
遠慮しないでこれからも近況を教えてください。
| [58] | ![]() |