彦島iランド
武蔵と小次郎の決闘
 巌流島の決闘といえば、武蔵の遅刻は周知のことです。しかし、手向山(たむけやま)武蔵の碑を見ると、小次郎と武蔵「両雄同時に」島に渡ったと書かれており、武蔵が遅刻したという話はどこにも出てきません。
 その話が始めて世に出てくるのは巌流島の決闘から110年後のこと。武蔵が晩年を過ごした肥後藩(現在の熊本県)の士・豊田又四郎正剛とその子・彦兵衛正脩、孫の左近右衛門景英ら3代の手を経て、宝暦5年(1755年)に完成した「二天記」の中でのことです。そこには、小説や映画でおなじみの、遅れてくる武蔵にいらだつ小次郎の様子や、「小次郎負けたり。勝者なんぞそのさやを捨てん」と武蔵が大声を発する場面などが登場します。
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