■■■■大正時代の大港湾計画における彦島の位置づけ

 大蔵省(当時)の命令により、この時の門司税関長 古田忠徳さんは門司港在職中のそれまでの10年間に将来の港湾設備を研究し永遠の大計画とも言える「関門港湾の統一的整備計画」と名付けた提案を大正8年に提出しました。

 同じ頃山口県においても海峡港湾に対する方針が求められ、当時の山口県知事中川望さんの提案で山口県臨時港湾調査会が設立されていました。古田さんもこの調査会の委員に名を連ねており、中川県知事の依頼によって関門港湾の統一的整備の重要性について何度かの説明を行ったとのことです。大正9年、調査会は前年に発表された古田さんの整備計画を採択し、関門海峡を挟んだ両地域の統一的な港湾整備がスタートしました。

 古田さんは関門海峡の地形的特徴やアジアにおける位置づけなどを詳細に検討しているのみならず、将来の海運・貿易の盛衰までも考慮に入れた一大論文とも言える広範な計画を立案していました。

 大正14年に発行された書籍「海峡大観」に、古田さんが関門港湾の特質として次の項目を列挙したことが記されています。

1.関門は我が国西部の代表的港湾である
2.関門は極東交通系統の中心である
3.関門は中継貿易港である
4.関門は対アジア貿易港である
5.関門は対朝鮮貿易港である
6.関門は船舶用炭港である
7.関門は遠海漁獲物の集散港である

 これらをふまえて次のような関門港が備えるべき要件を示しました。

1.関門の将来の設備は、外に対しては東亜の生産地と市場との連絡を考え、内にあっては下関、門司、若松、小倉の各港と交通が便利な位置を選ぶこと。
2.我が国の鉄道幹線と直接連絡できること。
3.海上では世界的航路と直接接触できること。
4.最大水深が12メートル以上の泊地を得ることが容易であること。
5.現在の泊地に対して3倍以上の面積を持ち、かつ、潮流や風波に対して安全であること。
6.輸出入貨物の荷さばきのため、順次に8500メートル以上の有効岸壁を築造することができること。
7.船舶35隻以上を同時に繋留することができる繋船所を築造することができること。
8.現在の工業地達とは隔離しないこと。かつ、将来、工業をスタートさせることができる背後地域その他の条件を備えていること。
9.倉庫の経営に適当な臨港地域が得られること。
10.爆発物、危険物の荷役や蔵入れに適当な隔離箇所があること。
11.ドックの経営に適当な隣接港湾が存在すること。
12.関門が東亜交通網の中心であることから関釜連絡船に対する新設備を同一港域内に築造する余地があること。
13.漁港を付属経営するだけの余地があること。
14.船舶用炭の浜出しおよび貯蔵に便利であること。
15.臨港市街の経営に適当な土地があること。
16.近くに将来、飛行機または飛行船の着陸できる設備を持ちうる余地があること。
17.設備工事が容易に施行できること。

 これらの求められる要件のほとんどが現在の関門港湾地域に実現していることは明白ですが、大正時代の門司から若松にかけての地域のみで実現が可能であったかと言えば疑問が残ります。というのも、門司の沿岸はすべて世界の公道とも言える関門海峡に面しており、そこに大規模な施設を建設する余地はなく、潮流風波も強く、泊地としての安全性には大きな問題がありました。小倉港は水深が浅く、潮流を避けるための大規模な防波堤を築くと潮流がさらに早くなることが予想されました。若松港は潮流は避けられるものの、大型船が入港するには狭く、鉄道幹線・幹線道路・国際航路から離れていることも問題でした。

 そこで古田さんが着目したのが彦島でした。

 古田さんの統一的計画は彦島を挟んだ東西も当初より含まれており、東西・両海域の活用と小瀬戸海峡の埋め立て、さらには、それらを結ぶ運河の築造までも考えられていました。ここでいう東部とは現在大和町と呼ばれている内務省の埋め立て地、巌流島、下関細江沿岸を含めた水域、330万平方メートルを差し、西部とは彦島の北方南風泊から本州の金比羅山の麓までの推定660万平方メートルの広大な水域を指し、完全に彦島を一周する形で大港湾計画に彦島は完全に組み込まれていました。

 南風泊という地名は一般には帆船の時代に北陸から荷を積んで大阪に向かう船がここで風待ちをした(南風ではここから先に進めない)ことが由来といわれていますが、婆庚泊(はえどまり)が由来だという説もあり、その意味するところは風神が大暴れする際の船舶の泊所です。彦島と六連島の間の海域は北側に開いてはいるものの、六連島を中心とする諸島と彦島、本土の山々によって守られ、北風が吹いてもさほど波は高くなりません。実際に現在でもこの地は六連泊地として数十隻の大型船が同時に安全に停泊できる海域として使用されています。

現在の六連泊地

停泊する多数の船の間を市営の渡船が竹崎へ向かっています。

 現時点で実現はしていないものの、古田さんの計画では竹ノ子島の北端と金比羅山の麓に巨大な防波堤を築造し、外国貿易設備、関釜連絡設備、漁港設備を建設し「新港」と呼ぶ計画になっていました。

「海峡大観」では、この彦島を大改造する「新港」のメリットを次のように列挙しています。

1.自然の水深が10〜18メートルあるため大型船舶の航行や停泊に支障がない。
2.海峡内と異なり干満の差が小さいため港が使いやすく、かつ、海底が砂であるため浚渫・埋め立て工事が容易。
3.陸上では鉄道幹線と直接接続することができ、海上では世界的航路に接している。
4.関釜連絡船の起点として現在の下関港と比較すると距離で13,000メートル短く、時間では2時間短く、かつ海峡通過の不安を避けることができる。
5.小倉・若松両港との連絡は鉄道、海運共に自由に行うことができ、門司港よりも距離が短くなる
6.下関港と連絡する場合運河で門司と共に事実上一港として利用でき、運河を使用すれば小瀬戸海峡を埋め立てることによって小型船舶が彦島を大回りする必要が無くなる。
7.繋船岸壁その他の海陸運輸の連絡設備は、予想以上にこれを利用することができる。
8.現在の工業地達とは近い上、新しく広々とした背後地域を得ることができるため、倉庫・工場などを十分に造ることができる。
9.隣接港湾に西山、福浦、安岡などがあり、規模は大きくないもののドック、その他の港湾設備を作ることができる。
10.六連群島を埋め立てて連絡すると新港に対する外防であるばかりでなく、沿岸に少し手を加えれば暴風の際に船舶が仮泊できる場所として適当な補助港的役割ができる。
11.筑豊地方及び山口県宇部炭田との交通が自由にできるため、石炭の浜出しには都合が良く、船舶用炭の供給に便利であることは門司港と変わらない。

 また、これとは別に彦島の地形について丘陵はあるものの問題になるほどではないため海峡の防風上必要な物を除いて開墾し、230万平方メートルの広大な平地を作ることができ、将来、下関市と合併して道路、水道などの設備を作れば文化的な市街地ができる。また、絶好の工業地帯となる。貿易政策の如何によって大規模の仮置き場また自由港区を設定しようと思えば我が国で例を見ない適地ともなる、とも述べています。このようにして、横浜・神戸・関門の三大港湾を建設し世界的交通体系における日本の拠点として開発しようと考えられていました。

 しかし、この壮大な計画もいざ実行に移そうとすると様々な問題が発生しました。

 そもそも下関港の修築が始まったのは明治45年までさかのぼりますが、市の事業として始められたために、市議会議員の顔ぶれ、市民の世論、市長の改選などでたびたび紛糾し、中止された経緯もありましたが、大正7年になると対岸の門司港が国港となり、それに刺激される形で当時の不破下関市長が帝国議会に大下関築港の請願をするに至りました。

 けれど、当時の下関市が立てた計画は関門港湾の大成という観点からは不備な点が多く、古田税関長らによって不備な点がたびたび指摘され、関係省庁からも多くの異論が出ました。「海峡大観」によると、この計画は物流拠点としての関門港の開発という観点よりはむしろ、都市計画を港湾問題にすり替えた物であると論じられており、急峻な山地が直接海に沈み込むという下関特有の地形問題を解決して都市整備を行いたいものの独力ではそのような膨大な計画に取り組めない苦悩が読み取れます。

 下の地図は「関門港湾ノ統一的設備計画図」と名付けられた図面で、大正14年1月7日下関要塞司令部検査済みとあります。緑色の丘陵地は開墾し、赤色の海域を埋め立てて港湾設備を築造することが計画されていました。竹ノ子島と金比羅山を円弧でつなぐように巨大な防波堤が作られ、六連群島も埋め立てによってつながっています。また、この時代の鉄道路線は現在の下関警察署付近にあった旧下関駅につながるものですが、現在の筋川付近で分岐する鉄道路線が赤線で描かれており、1本は新港地区に伸び、もう1本は人工島(実際には旧下関市と陸続きになった大和町として埋め立てられた)に作られた新しい下関駅を経由して関門鉄道トンネルにつながる幹線です。新しい下関駅周辺の路線は計画ですが、関門鉄道トンネルの路線はすでに決定していました。従来の下関港(彦島東部)の埋め立てや開墾はあまりなく、彦島北部の潮流風波の穏やかな地域を中心に開発し、門司・関西よりもむしろ、小倉・若松・朝鮮との関係を重視したプランであることがわかります。


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下関港の修築計画

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この時代の実際の彦島周辺地図

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 2005/11/28 公開

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