平家納経

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(平家納経と厳島の秘宝・京都国立博物館・1972より)

 平家納経が、厳島神社に奉納されたのは長寛二年(1164)九月のことである。この動機については、「従二位行権中納言兼皇太后権大夫」の肩書をもつ平清盛納入の願文が詳しく伝えている。厳島大明神は、古来景勝の霊地に祀られ、霊験は顕著である。清盛は、この神を欽仰し利生をうることによって、久しく家門の福縁をたもち、子弟の栄達を実現した。今生の望みはかなえられ、来世の善報も疑いない。厳島神社は観世音菩薩の化現とされる。在家の身であるが、ここに報賽を思いたち、妙法蓮華経一部二十八品、無量義経、観普賢経、阿弥陀経、般若心経、各一巻を書写し、金銅箱におさめて宝殿に安置することにした。

 かくて、清盛をはじめ三品武衛将軍重盛および他の子息ら、また舎弟将作大匠頼盛、能州刺史教盛、若州刺史経盛、門人家僕ら縁者二十二人が各々一品一巻を分担して、善美をつくさせることになった。花散蓮現の経文や。玉軸綵牋の経典は、このようにして平家一門の協力と一族の同意によって成就したのである。長寛二年の秋九月、清盛みずから参詣し法華経の偏を講讃、翌年よりはじめて法華三十講を修して、年中行事とし、この功徳によって鎮護国家衆生救済の願いも成就する。

 願文の概要をたどれば、平家納経は結縁のために平家一族が丹精こめて荘厳した結縁一品経ということになる。法華経普門品に説かれたように、本地である観世音菩薩三十三応身にちなみ、右の三十二巻に願文一巻を加えて三十三巻を一具とするのである。清盛の厳島に対する信仰は、すでに久安二年に安芸守に任ぜられた頃からはじまったといわれる。彼を筆頭とする一門の信仰は次第に高揚され、ついにはこの長寛納経となった。時あたかも法華経信仰が王朝貴族の間に流行し、こぞって経典書写に心を尽すことによる結縁が求められたわけである。

厳王品(見返) 浄土教思想の発展ともあいまって、平家納経にみられる多彩な荘厳性には、平安末期の欄熟した美意識がひそめられることになった。周知のように、金銀の箔や泥をふんだんに用いた諸手法による料紙の美しさ、各種の装飾金具も用いられ、各巻の意匠はそれぞれの特色を発揮している。表紙および見返絵についても同様である。法華経の経意を絵解きするもの或は象徴したものも多く、やまと絵や唐絵で処理する場合もふくまれ、装飾経として比類のない価値を誇っている。しかし、現状の平家納経については、かならずしも願文でふれる通りの体裁を完備していないことも指摘される要がある。

 たとえば、平盛国、盛信、重康の銘は知られるのに、願文でいう平重盛、頼盛、教盛、経盛ら有力者の結縁経がさだかでないこと、高位の順に結縁するならわしに対し、清盛は法師功徳品、阿弥陀経を受け持つにすぎない。願文でいうような、一品経としての結縁例がとられていないとする見方もないわけではない。また、「仁安二年二月廿三日大政大臣従一位平朝臣清盛書写之」の奥書をもつ般若心経は長寛供養とは明かに別時のものであって、清盛自筆でありながら、料紙や軸首について荘厳形式も全く他のそれと異っている。

 願文の巻頭にある「櫛筆仁安元年十一月十八日内大臣平朝臣清盛」の三行墨書の一紙も、別時の混入と判断されるなど、長い歴史の経過には、奉納当初の姿からは、若干の変化が起っている。各巻の経意とその絵図化を対比させるとき、錯簡の明らかな場合が生じている。「無量義経」の表紙見返絵と「信解品」のそれ、「涌出品」と「妙音品」、「法師功徳品」と「勧発品」、いずれもそれぞれ入れ替っているなどは、おそらく後世の補修時にまぎれた可能性は大きい。慶長七年(1602)安芸守福島正則によって唐櫃が奉納されたが、おそらくこの時点で、「願文」「化城喩品」「嘱類品」の表紙および見返絵が描き改められたと考えられる。それらの画風はいわゆる宗達風で、長寛当時の様式とは顕著に区別される特色を示している。宗達真筆か否かはなお断定しえないとしても、時期的には宗達一派の興味ある資料とみてよい。

 唐櫃の蓋裏にほどこされた蒔絵銘には、慶長七年の修理銘の末尾に、さらに「慶安戊子元年十一月 日芸備二州牧源光晟命近臣加重修」と書入れがみられ、修理は慶長度にとどまらなかったことを示している。明治末期にも、「薬草喩品」に改装がみられたが、昭和期の修理で、さらに安田靫彦氏の絵に改められている。平家納経は、時代の波にいささかの変化をみたとはいえ、完好の状態で、三十三巻の体裁を一貫させていることはすばらしい。技巧の極致をゆく華麗な装飾性は、絵画、工芸、写経の粋を結晶させたものとみなされる。十二世紀中葉をすぎる時期の、王朝文化の掉尾をかざる所産として、その耽美的な諸要素は、美術史的にもきわめて重要な意義をもつものと信じられる。

経意と絵解観普賢経(見返)

 平家納経の見返および表紙絵にはいくつかのタイプがみられる。一つは宝池から伸びた蓮叢を描くものを主として、具体的にその意味を明らかにしないもの、逆に如何ようにも解釈できるものである。例えば、「人記品」見返には、宝池から蓮が伸びて、二群の叢となっている情景が描かれる。蓮は実を結び、種子がこぼれ、次々と新しい生命を生み出していくことを暗示するかのようにみえる。「人記品」の経意はあたかも阿難、羅喉羅等が作仏するという物語を説くのである。そして「勧発品」の表紙絵では実際に新生児の誕生がみられる。

 第二に、大和絵的な人物を歌絵として表したものに「分別功徳品、厳正品」の見返がみられる。この両者は特に経意との関係で解釈できないことはないが、経の要文を情趣本位の物語絵風に作り出し、全く大和絵風に仕上げてしまったものであろう。他に大和絵的な見返で、経意に結びついたものに「序品、勧持品」があり、普賢十羅刹女を女性のみやびな姿に描いた見返には「涌出品、観普賢経(右図)」がある。

 第三には葦手絵といわれるものである。これは歌絵といわれるものと区別をしにくく、代表的なのは「薬王品」見返である。脇息に倚って経を持つ女人が、弥陀の光明に浴する。ここでは「薬王品」を受持する女人は命終して即ち安楽世界阿弥陀仏の大菩薩衆の回繞せる住処に往きて蓮華のなかの宝座の上に生ぜんと説くが、画面に現れた文字はこの経文をそのまま意匠化したものである。 他に「序品」見返、「方便品」見返、「厳王品」表紙も葦手絵風といってよいものであろう。なかには経意によって直ちに説けないものもあるが、絵のなかに経の真意をつくそうとする意図が窺われる。

 第四には経意を極めて直接的に表しているものである。「法師品、提婆品、安楽行品、勧持品、神力品、法師功徳品」などがそうであるが、例えば、「安楽行品」表紙には、首をめぐらして雲気を吐く獅子の上方に、遊行して畏れなき事師子王の如くとの本文を書く。また「法師功徳品」には普賢影向の最も荘厳な場面を描く。これは「勧発品」につくべきものであるが、清盛の結縁経であるが故に、二十八品中最も荘厳な絵をえらんでつけたものと考えられている。いずれにせよこれらは経意によって最も解釈し易いものである。いずれも濃厚できらびやかな大和絵的な絵図であり、こまやかで、経意をあからさまに訴えることもなく、みな法華経を受持、読誦すれば、功徳をうるという経意の絵図化と解せられる。名品の所説をことこまかに表すのではなく、大意を一場面で、しかも自らの生活感情と合致した方法でまとめたものである。

 第五は中国風の経絵である。法華経では多くの詩と比喩(故事)を使って、永遠の生命そのものの仏陀を讃えるが、この比喩を絵図化したものがかなりみられる。これは中尊寺経の紺紙金泥絵などによくみられるような、経文中の譬喩の絵解きとして描かれたものである。「譬楡品、受記品、提婆品、寿量品、観音普門品、陀羅尼品、勧発品」などがそれであるが、たとえば、「譬喩品」の見返には、大きな自然景のなかに、手に団扇をもち、背に荷を担ぐ人物と、その後から鹿とも羊ともつかぬ一獣を曳く小児が描かれている。法華経には七つの喩が説かれているが、これは七喩中の第一喩、三車一車あるいは火宅の譬と云われるものである。即ち、火宅に無心に遊ぶ子等を救うために、ある長者が鹿、羊、牛の三車を与えようと云って誘い出し、安全に避難した後に、大白牛の空車を与えたので、子供達は思いがけない立派な車に無上の喜びを懐いたという。敦煌画にみられる法華経変相以来、この比喩の絵図は業火に包まれた邸宅を中心として、地獄の如き有様を描くのが、普通である。ところが、ここでは火宅の描写はない。

 また「無量義経」の見返の絵図は本来、「信解品」の長者窮子の喩を描いたものであり、また「寿量品」の良医の譬、あるいは「受記品」の繋珠の譬、いずれも永い時間の経過の物語である。大和絵風の絵では法華経の功徳を描くのに、一場面一話の形式をとっているが、ここではいわゆる、異時同図法を用い、これはまさに変相図であり、もっとも経絵にふさわしい表現を示すのである。また「普門品」の見返は『宇治拾遺物語』に「僧伽多行羅刹国事」として語られているものの絵図化であり、この説話は『大唐西域記』などによって、古くから伝承されてきたものである。経巻の見返、表紙という小さく限定された画面にいかに効果的に経意を定着させるか、大画面のいわゆる法華経変相に比べれば、これらは少なくとも極めて象徴的であり、その理解のためには仏教的教養が必要であっただろう。そしてそれだけにまた経意の絵図化に際して、かなりの困難がつきまとったであろう。にもかかわらず、これらには従来の経絵の型にとらわれないで、自由に、しかも素朴な味を残しているのである。

堤婆品(表紙) 以上、平家納経の見返および表紙絵を経意との関係で述べてきた。絵画としての表現がいかに具象的であっても、これらは経意を表すという点では極めて比喩的、象徴的な方法をとらざるを得ないだろう。しかし仏教の世界ではおそらく象徴こそもっとも深く真実の姿をあらわし、もっともリアルでもあったといえる。法華経の文学的詩的性格という特色に助けられたとは云え、平家納経の見返および表紙絵は、当時の信仰の姿をもっともリアルに描いているものだといえる。料紙と装飾平安時代に数多く書写、奉納された装飾経は日本美術の歴史の中で最も優美なものといえよう。

 平家納経は現存する装飾経のうちで多様さと複雑な美しさをもつ点で最たるものである。表紙。見返。料紙の表と裏の全てに文様や絵を描き、軸首・題箋・発装などに施される水晶や金具などの細工も一つとして同じものがないほどである。以下三十三巻の料紙と技法を中心に素晴しい装飾の特徴をあとづけてみよう。料紙は全て鳥子(とりのこ)紙である。楮(こうぞ)と雁皮(がんぴ)の皮をもって漉いた紙で、温かで筆の走りがよい特色をもち、強い。卵色を呈していることから鳥子紙の名がある。これに漬染、引条、隈取などの手法でさまざまに着色したものを用いている。おなじ鳥子でもその紙質は一定ではなく、たとえば全面に銀泥、銀箔で装飾した「安楽行品」などは、銀箔そのもののような感触をもつほど薄い。また「嘱累品」や「般若心経」に用いられる漬染による紺紙は、鮮明さを保つために長時問水中に浸して灰分(あく)を抜く作業にたえた強さをもっている。漬染・引染などを重ねて行なう場合、とくに表裏に異った装飾を行なう場合、漬染をした料紙を一旦二枚に刺し、各面にそれぞれ引染・箔蒔・文様を刷る・下絵を描くなどの装飾を施し、再び表裏を合せて料紙とする。第一紙銀紅色の地に梅鉢文、第二紙金泥の上に銀で唐草を摺出すなど、一紙ごとに色変りの「提婆達多品」や「観音品、涌出品」は料紙の最も美しいもので、また経文も「提婆達多品」は「序品」とともに金・紺青・緑青と料紙の色の変化に応じて書き分けている。

 砂子・切箔の多様さとその効果的な用い方も特色の一つである。金銀の微塵砂子、大小さまざまの切箔、野毛、裂箔などの種類がみられる。金箔は凡そ銀割であり、銅割のものは少ない。打ち方は比較的厚手で、しかも光線を透過する無数の微小孔を全面にもっているために光線を乱反射し、これが表面に独得の輝きをもたせる因となっている。銀箔は小量の金を含む当時の通常の技術によったもので、やけて、紫色に変色する種のものであるが、殆ど変色せずに当初の美しい銀色を保っているのは、一に保存の良さに負うところが大きい。

 「宝塔品」や「安楽行品」の料紙裏はこの効果が最もよく発揮され、銀泥地の上に施された金銀切箔・砂子・銀野毛などが型抜き・摺文・葦手風下絵などの文様を一段と引き立たせている。型抜き文様は「安楽行品」表紙の獅子や料紙裏の火車六器、花瓶の牡丹花などに典型的にみられるように、形象の紙型を料紙上においた上から砂子を振って形を表わし、その後に紙型を取り去る手法である。これは源氏物語絵巻にも用いられたように、当時常用された手法であるが、ここでは非常に多用されている装飾法である。もう一つの型を用いた文様は刷出しの手法で、「無量義経」見返の銀泥の市松文様や「薬王品」料紙裏の波にみるように、裏に木型を当て、表面に砂子を蒔き、上から文様型を擦って磨き出すものである。この刷出しの手法はおなじ当時の装飾性をもって知られる西本願寺本の「三十六人歌集」の雲母刷りと同じ手法で、双方の波型が全く同じであることも興味深い。

 葦手文字による装飾法も当時の流行で、「檜扇」や久能寺経などにも類例がみられ、「宝塔品、厳王品、寿量品、陀羅尼品」などの見返、料紙の天地や裏面の装飾に用いられている。のちには単に画中に文字を散したものも葦手絵と総称されるが、本来は水辺に葦を描く場合に、波や葦の形に似せて文字を描きこむものである。一例を上げれば「宝塔品」料紙裏の「長者我」などの葦手文字は水辺の景、四季草花などを描いたもっとも美しい風景描写の一つであるこの巻を、さらに美しく荘厳している。まさに文字と絵画が自然にとけ合って一体になり、文字の絵画化、あるいは絵画による文学的表現の一つの接点を示すものといえよう。なお経文の罫線には切金と金泥・銀泥が併用されて変化をみせている。

20000325-2.jpg (23454 バイト) 装飾金具についても、まず題箋は銅製短冊形、魚子地(ななこじ)に高肉彫りで外題を記し、これに金銀鍍を施したものである。多くはこの下に蓮台がつくが、なかにはさらに金銅透彫りによる三鈷繁ぎ文(随喜功徳品)、唐草文(厳王品)でこれを縁取ったもの、あるいは外題の一字一字を蓮台の上に載せたもの(厳王品)や、頭に雲唐草文を配したもの(涌出品)など、意匠に多様な変化をつけている。この内「提婆口」は特に異色で、墨書による外題に瑠璃板を貼り、群緑色の透明ガラスのフィルターを透して墨書をみせるという手のこんだ趣向をとっている。

 次に経巻の発装の縁金具であるが、これには不動明王の持物である倶梨迦羅竜(化城喩品・随喜功徳品)、密教法具の独鈷杵(宝塔品)や三鈷杵(分別功徳品)、或いは化生蓮生(観普賢経)、三巴(提婆品)などの文様を透し彫りにしたもの、宝相華唐草(授記品・厳王品)、蓮唐草(涌出品・勧持品)を透し彫りや魚子地に線彫りで表わしたものなど、これ又一点一点実に巧緻な作域を示している。しかもこれら縁金具では、金鍍・銀鍍を実にうまく使い分け、華麗な色彩効果を出している。その繊細な彫金の技術は、我国彫金の最高水準をゆくもので、特に唐草文の蔓茎の表現は眼をみはるほど細緻である。

 経巻の軸首の多くは水晶製で、五輪塔(提婆品)、宝珠形(化城喩品)、或いは八角柱形(宝塔品・不軽品・妙音品)などの形に仕上げ、これに金銀透し彫りの唐草文(宝塔品・薬草喩品・妙音品)、蓮花文(随喜功徳品)、三鈷、輪宝文(不軽品)などの金具を装着したものである。軸首の変化に富んだ形式に加えて、透明の水晶を台に金銀透金具がその美しさを遺憾なく発揮している。さらに経巻には緑と白を基調とし、これに紫、萌葱、紅などの色糸を加え、これらを一枚平に組み上げた優雅な色調の紐がつき、その巻紐の端に、蓮花文(勧持品・涌出品)、蓮把文(授記品)、八双金具文(随喜功徳品)の銅製金銀鍍の露金物をつけるなど、隅々に至るまで細心の考慮が払われている。

 表紙・見返に描かれる絵画の主題、技法も実に多彩をきわめるが、これらの中から人物と風景の描写、蓮池を描いたものをとり上げると、「序品、涌出品、厳王品」各見返に描かれる大和絵風の人物の表情はいずれも伝統的な引目鉤鼻の手法によっている。しかしここでは源氏物語絵巻にみるような深みのある表現力は後退し、やや定形化するうらみがある。

 一方「寿量品」や「陀羅尼品」見返の唐風の人物は描線も活達で、柔かい表情をもっている。風景描写は「厳王品」の表紙の金雲の浮ぶいぶし地の空を背景に、銀地に緑青を刷いた丘の間から白銀の月が登り、手前に木立と水辺の土披、水鳥を配する図が最も特徴的である。しかしこれらの対象の取扱いは風景描写という意識よりは、各々が装飾的な素材として用いられている感が強く、彩色、筆致ともにややおおまかである。一方「勧発品」見返の岩窟中に行者が読経するさまを描いた図などは構図的にも作為性が少なく、大和絵風俗画としても優れている。

 経の性格上多く描かれる蓮池は多少の差はあれ、いずれも蓮の葉脈、花弁の脈に金泥、金の切金を用い、水面を銀泥で塗りこめる手法は共通していて、非常にみやびやかな装飾的効果をもたらしている。このように表紙・見返・料紙の天地などに描かれる絵は構成、画風ともに極めて多彩ではあるが、やはり総じて絵画的であるよりは色彩、とくに金銀の効果による装飾性が優っているものといえ、精巧な工芸的な技術をつくした料紙の荘厳と相まって感覚主義美術の極点に達した作品、当代装飾経の最高峰を示す作品となっている。

書風

清盛願文の内容によれば、平家納経は、平清盛以下重盛、敦盛、経盛ら平家一門の三十二人が、おのおの法華経一品、一巻を分って書写した一品経であったとされる。ところが、この平家納経すべてを書風の上からみると、一人一筆がきの一品経の体裁ではなかったように思われる。なかでも「阿弥陀経、法師功徳品、薬王品、五百弟子受記品」などに見られる一群の納経は、北宋写経の影響も窺えるような、筆線の肉太な謹厳端正な書風を示すもので、納経中最も多く、これは一人もしくは数人の専門の写経生の手になるものではあるまいか。

 また「方便品、化城喩品、観音品」などに見る筆蹟特徴は、当時の書風に大きな影響を与えた藤原定信風で、ぽぽ同一人の筆になると目されるし、また「随喜功徳品、湧出品、厳正品」の一群も、別手の特徴ある書風を示す。ところで、納経のうち「分別功徳品」の巻末には「左衛門少尉平盛国」、「薬王品」の巻末には「左衛門少尉平盛信」の官位署名があるが、いずれもその経の本文の書風とは一致せず、その位署名のみ自筆と認められる。

 また「法師功徳品」の巻末には「長寛二年九月一日従二位権中納言平朝臣清盛」とあり、また阿弥陀経の巻末にも「権中納言平清盛」とある。しかし、この位署名の書風は他の清盛の自筆資料と比べ、同筆とは認め難いように考えられ、またそれぞれの写経の本文の書風とも別である。ところで、「厳王品」の巻末には「長寛二年六月二日右兵衛尉平朝臣重康」との位署名が見られる。この筆跡特徴は、前述の「法師功徳品」、並びに「阿弥陀経」、さらに後で述べる「清盛願文」中の櫛筆と呼ばれる滴盛の位署名に見るそれと、極似し、したがっていずれも、平重康が、清盛に代って署名をしたのではないかという推察もできる。

 清盛願文の本文は、一行十字から十三、四字程度、全五十四行にわたって横書、または行書で、その堂々とした筆致は、藤原伊行筆の葦手絵和漢朗詠集に見るそれに近く、当時、手書第一の能書家として尊重された伊行が浄書したのではなかろうかといわれている。なお願文の巻末には「長寛二年九月 日、弟子従二位行権中納言兼皇太后権太夫平朝臣清盛敬白」とあるのも、本文と同筆であるが、清盛の二字のみは別筆なので、これは清盛の自筆と認められる。

 またこの願文の巻首には「櫛筆仁安元年十一月十八日内大臣平朝臣清盛」との三行書がある。しかしこの部分の料紙は、願文のそれとは異なり、本文とは関係ない。願文の見返しは、慶長七年修補の際に付替えられているので、その時に誤って他の納経の一部が継がれたものらしい。ところでこの櫛筆と題する一紙の清盛の位署名の書風は、他の清盛の自筆資料と一致せず、むしろ「厳正品」の巻末にある平重康の位署名の書風と、ぽぽ同じと目されるところからこれもその代筆ではないかと思われる。また納経中の般若心経は、金泥で界欄を施した各行に十七層の宝燈、その下に蓮台を画き、装飾した紺紙に同じく金泥で各宝燈に一字一字を丁寧に書写したいわゆる宝燈蓮台経であるが、その巻末尾には、「仁安二年十二月廿二日、太政大臣従平朝臣清盛書写之」と二行に書いてある。この仁安二年(1167)は、清盛願文にある長寛二年より四年後であり、またこの般若心経の料紙は、ほかの三十一巻とは全く違っている。したがってこれは平家納経とは別手のもので、平家納経に、何らかの事情によって欠が生じたので、別の般若心経をもって、補充したことも考えられる。この般若心経に見る筆致は、本文、署名共に同じで、他の清盛の自筆資料と比し、これは清盛の自筆と認めてもよいように思われる。

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