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 投稿番号:101742 投稿日:2021年01月01日 02時06分37秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXLT:141:甲賀服部氏とは?
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101737_65.html
長上郡の服部氏族CXL:140:いよいよ核心に‐8
の続きです。



     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


驚きましたね。
甲賀服部氏は平知忠の子孫とか。

三つ柏さんお持ちの

   『甲賀市史』第2巻 甲賀衆の中世(平成24(2012)年刊)
    編集委員 川嶋將生(立命館大学名誉教授)
 
      時代は鎌倉時代から戦国時代末期まで
      荘園の開発、南北朝の争乱、台頭する甲賀武士の活躍
      および飯道山拠点の修験道などの紹介。

是非お知らせを。

[1]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月01日 09時20分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます!

 元旦の行事として、初詣(井伊谷宮、秋葉神社)がありますので、それらが終了
した後、書き始めたいと思います。

 本年度も、よろしくご指導のほど、お願い申し上げます――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月01日 13時42分02秒 ) パスワード

三つ柏さん

明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願い致します

外は爆竹でうるさいです。
花火でコロナウイルスを退散させて欲しいものです。

[3]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月02日 00時43分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 秋葉山は標高800mほどあり、その少し下に秋葉神社があります。長野県
の諏訪湖とほぼ同じ標高です。
 秋葉神社においては気温は−2度でありまして、麓の2度と比べると、4
度も低く、雪が時々舞い落ちてきました。道路脇には一昨日あたりからの雪
が2pくらい積もっておりました。

 さて、まずは甲賀の地名についてでありますが、武山憲明氏の『戦国忍者
列伝 日本史の影で動いた男たち』の中にはこう書かれております――
 
 「甲賀は、鹿深(かふか)という地名がルーツ。近江の甲賀郡は、もともと
 鹿深と表記していた。
  敏達天皇13年に、―百済より来たる鹿深臣、弥勒石像一駆あり―の記
 述が見られる。
  鹿深臣は、百済の阿知使主(あちのおみ)に従って日本に渡ってきた一族
 だと言われる。
  弥勒菩薩は山岳密教とかかわりが深いもので、後生の忍者が山と修験に
 深く関係していたことを考えると大変興味深い。
  鹿深は、その後、甲可を経て、甲賀になった。読み方も、かふか→かう 
 か→こうか(こうが)と変わっていった。」
ということであります。

 この阿知使主が連れ帰った呉服は、伊賀の呉服大神の神職の服部貞信の系
とも関係しているものと推察されます――
[4]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月02日 10時00分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『歴史読本』編集部編の『伊賀・甲賀 忍びの謎』という本は、知りたい謎
が一杯書かれていて、いい本であります。その中で、やはり甲賀の名前の由来
について、「日本書紀敏達天皇13年に、百済から鹿深臣が渡来して、弥勒石
象一体を安置したとあり、これが甲賀の由来とされている」と書かれておりま
す。

 また、この本の中で、「甲伊一国」について、次のように触れられておりま
す――
 「伊賀と甲賀との境界線が引かれたのは、奈良時代の頃とされるが、その国
 境に立つと、そこは老年期の山ゆえに平坦な尾根で、茫洋としている。国境
 線があるよあで、ない。そんな山奥の村々では、国境の約束事など絵空事。
 低い峠を越えて、風習や婚姻、物流、小競り合いなど、二つの国が深く関わ
 り合い、伊賀の湯船では近年まで県境を意識することはなかったという。そ
 のため、伊賀と甲賀は甲伊一国と表される。」
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月02日 14時23分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「甲伊一国」

ありがとうございました。
この表現だったのか。


>伊賀と甲賀との境界線が引かれたのは、奈良時代の頃とされる

ありがとうございます。

恐らく  天智天皇・中臣鎌足・藤原不比等の時代に
律令制度
駅家
庚午年籍=天智天皇9年(670)庚午 (かのえうま) の年に作られた全国的規模の最古の戸籍=
のあたりに国境という感覚が進んでいたんだろうと想像しています。

      古代日本史  Bだったんで  自分でも古代史  全然理解出来てないと分かってるけど



>国境線があるようで、ない。そんな山奥の村々では、国境の約束事など絵空事。

平地じゃない  稲作には向かない山を挟んで北と南で暮らしていれば  現代の都市に生きる人間の土地感覚からのイメージとは違うでしょうね。

その上 山にグルッと囲まれた伊賀は「隠し国」と呼ばれていましたからね。
甲賀の人々はそんな伊賀に自由に出入りしてたでしょうね。


ワタクシ的理解による伊賀と甲賀の大きな違い:

甲賀は滋賀側というか滋賀県内で   あ、近江国か
近江と言えば佐々木氏で
甲賀は佐々木氏出身の六角に仕えたから   しょうがないよね  佐々木の領内なんだから  佐々木に仕えるか鎌倉幕府に滅ぼされるか  の二者択一だったろう


伊賀にしてみれば  自分達は伊勢伊賀平氏だから誰が佐々木なんかに仕えるものか  という意地がある。

    佐々木は平家の仇敵です
          1藤戸の戦い(平行盛さま vs 源範頼・佐々木盛綱) 盛綱ってチョー  ワル  なんですよ、コイツ!
          2平家の残党は佐々木盛綱の父の佐々木秀義を殺してる
    
    これらはわたくしの前世からの怨みですけどね


だから甲賀と伊賀は違う方向に行ったんだろうと思います。


ただ  甲賀と伊賀が仲が悪いとされるのは  アレは  ドラマの設定であって
現代日本人がドラマによって洗脳されてるだけ  と思っています。
[6]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月04日 00時24分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 佐々木盛綱の父・秀義は、甲賀の「油日合戦」(1184)で、平氏の大将・平家
継(平田入道)や主立った武将の首を取った。しかしながら、源氏側も大将であ
る佐々木秀義自身が戦死するなど、死者数百人の甚大に損害を受けたという。

 この戦いは、「近江における最後の源平合戦」とも言えるということであり
ます――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月04日 01時51分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

源平合戦の終わりに甲賀と伊賀が分かれていく過程で

伊賀は伊賀で地元の人間は伊賀平氏のアイデンティティを保って鎌倉幕府肝煎りの宗清一族には反発し

これが伊賀忍者3上忍として発展していくのかなと。


藤林長門   ← 「長門」なんてモロに平家のプライドの名乗りだなと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9E%97%E9%95%B7%E9%96%80%E5%AE%88

藤林 長門守
(ふじばやし ながとのかみ、生没年不詳)

戦国時代の忍者。
伊賀の上忍三家の一つ藤林氏の当主であり、伊賀北部で甲賀に境を接する湯舟郷を支配していた。

甲賀側にも多くの配下がおり、伊賀甲賀双方に影響力を持っていたとされる。


服部氏の服部半蔵、百地氏の百地丹波と並び伊賀の三大上忍と呼ばれる。

父は服部摂津守保信。

本名は正保、保豊など曖昧。

伊賀流の頭目という立場でありながら記録はほとんど残っておらず、その生涯は謎に包まれている。
第二次天正伊賀の乱では甲賀の多羅尾氏ともに、織田氏の手引きをして生き残ったという説もあれば、
織田の軍勢と最後まで戦い抜いた百地丹波と同一人物とする説もある。

『藤林家由緒書』には今川義元に雇われていた際、武田信玄の軍師山本勘助に忍術を教えたという記録が残っている。

長門守の子孫、藤林佐武次保武(保義)が今に忍者の姿を伝える貴重な資料と呼ばれる『万川集海』を著している。

また現在、湯船郷には藤林姓が見られることから、これらの氏族は子孫の可能性が高い。


                      「保」が通字というところがまさに伊賀服部氏のアイデンティティだなと。


                       以上から推察するに
                       母の従姉妹のオットさんが甲賀出身で丸に並び矢紋というのが 
                       やっぱり  同族なの?と思う。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%9C%B0%E4%B8%B9%E6%B3%A2

百地 丹波

百地氏は伊賀国出身の武士で出自は大江氏を自称するが、北畠氏の一族ともいう。

                       北畠と言ったら伊勢の国守で南朝方で服部家ホンヤさんの友貞の主人
                       ということは百地丹波も元々仲間か


伊賀国名賀郡喰代・名張郡竜口を領し、また大和国宇陀郡竜口の地頭職でもあった。

百地丹波の名は軍記物である「伊乱記」にしばしば見られる。
織田信長の次男織田信雄が天正7年(1579年)に伊賀攻めを始めた。
百地丹波は鬼瘤越に進軍する柘植保重らの軍勢と戦ってこれに勝利した。
この戦いで伊賀衆は、信雄の拙い指揮もあって織田軍を撃退したものの、天正9年(1581年)に信長自ら5万の大軍を率い侵攻を開始する。
これに対して丹波は諸将とともに柏原城に籠もって抵抗したが、衆寡敵せずに開城した(天正伊賀の乱)。

物語などでは石川五右衛門は百地三太夫の弟子とされ、三太夫は今日は丹波と同一視されることが多いが、根拠は特に存在しない。


百地丹波
生誕 弘治2年(1556年)
死没 寛永17年4月18日(1640年6月7日)       すっごい長生き  息子じゃないのか?
別名 正西(諱)、新左衛門
墓所 三重県名張市百地氏館
官位 称・丹波守
氏族 百地氏
父母 百地正永
兄弟 正西、正高、徳地道栄妻       名張の徳地丹後さんか、其の一族の奥さんになったのかな?
子 正高、正行、北弥兵衛妻、新右衛門、市右衛門

                      通字が服部半蔵系と同じだなと
[8]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月04日 13時07分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤林や百地についてはさらに探求して行くとして、伊賀の服部家についての
まとめが、武山憲明氏の『日本史の影で動いた男たち 戦国忍者列伝』の中に
ありますのでご紹介いたします。このまとめ、かなり"アバウト"であります。
大筋の流れをつかむのに参考にはなる思います(但し、正しいかどうかについ
ては、今後、詰めていかなくてはなりません)

 その"アバウト"について、箇条書きにしますと――

 @伊賀の上忍、服部家の先祖は、源平合戦の際に平知盛に仕えた伊賀平内左
 衛門家長だといわれる。

 A家長は伊賀者を率いて安徳天皇の親衛隊長を務め、敵将・源義経の奇襲を
 再三にわたってかわした。その神出鬼没な行動から、"煙の末"の異名をとっ
 たという。

 B源平合戦の水面下では、義経、伊勢三郎の源氏忍軍と伊賀家長率いる平家
 忍軍との間で熾烈なせめぎ合いが演じられていたのではないかと想像する。

 C『源平盛衰記』によれば、家長は壇ノ浦の合戦の際に、乳兄弟である知盛
 と一緒に手を取り合って入水したことになっている。
  しかし、「伊賀者大由緒記」によれば、家長は屋島の合戦の後、保長と名
 を改めて、伊賀の千賀地に隠れ住んだという。

 D家長は、平治の乱のときに平家型の捕虜になった源頼朝の助命に尽力した
 柘植の住人の平宗清と伊賀つながりで親しかったようで、この宗清が赦免し
 てくれるように頼朝に頼んだといわれる。

 Eそして、家長の長男・保清は頼朝に仕え、服部郷に住んだ。保清の三人の
 息子はそれぞれ上服部、中服部、下服部と称した。服部半蔵は上服部の子孫
 になるという。

 Fこれについて、上・中・下の服部家はそれぞれ別の先祖がいたのに、信長
 の伊賀攻めの際に系図などの古記録がなくなってしまったため、みんな揃っ
 て煙の末の末をしょぅするようになったとも言われている。

 G家長はその子孫と称する忍者たちによって、スーパーマン化(偶像化)され
 た可能性も否定できない。

ということであります――

[9]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月04日 16時16分03秒 ) パスワード

三つ柏さん

詳しい書き込みを感謝致します。
「だいたい」そうだろうな、と思います。

服部保清はワタシが長年(誰?この人!)と思って来た服部公清なのかな?と
だけど  保清の保は  どなたの字なのかなと思います。でも後世の伊賀の服部家は「保」の字を使ってますよね。


ということで「そうだろうな」と大筋  納得  しています。
ムカシの人は名前をコロコロ替えてますから保清の前が公清だったかも知れないし。



>「伊賀者大由緒記」によれば、家長は屋島の合戦の後、保長と名を改めて、伊賀の千賀地に隠れ住んだという。

屋島の合戦で弟の十郎兵衛尉家員が   
     (今の言葉だと半グレの伊勢の三郎に「御諚だ」と命令された)
那須与一に射殺された話が平家物語に書かれていて
その時、家員は50ばかり
と書かれているので平六家長のずっと下の弟が50代なら家長はいくつ?

ということで家長は壇の浦にはヨボヨボで同行出来なかったでしょうね。



天承2年(1132年)、上皇勅願の観音堂である得長寿院造営の落慶供養に際して、千体観音を寄進する。
その功績により内昇殿を許可された。
『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たちによる闇討ちが企てられるが、
忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す機転によって防ぎ、鳥羽上皇から賞される(殿上闇討)。


家長は16歳で平忠盛の参内にボディガードとして父の家貞と同行しているので
1132年に16歳という事はムカシは数え歳で言うから  1117年生まれ?


壇の浦の合戦は寿永4年3月24日(1185年4月25日)ですから家長は68歳あたり?
この年齢で大鎧を着て合戦の采配するのはツライよね?


     本日の「麒麟がくる」で負傷した信長?をおんぶして運んだ兵がいましたよね
     あの俳優さん、衣装とはいえ戦国時代の戦闘用の鎧兜だけでもスッゴク重いのに
     その上  信長?をおんぶして運んだ???

             ゲ~  かわいそぉ~
             なんて思いながら見てました(笑)


弟を射殺されて家長は屋島の後に千賀地に引っ込んだのかも。
壇の浦の後だったかも知れないけど。


貴重な情報をたくさんありがとうございました。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月04日 17時13分38秒 ) パスワード

本日の「麒麟がくる」
「蘭奢待」の伏線が今回のエピソードで回収されてましたね。

帝が蘭奢待を毛利に回したこと
その毛利は本願寺に協力している
つまり
帝も実は信長の味方というわけではなかった
ということを信長は知った。

    だから右府さまなんて称号はちっとも嬉しくなんかない
    三条西が信長に替わって帝にお礼を言上したなんて信長にしたら余計な事に過ぎない


信忠役は HiHi Jets の井上瑞稀でしたね。
歌の声よりずっと明るく、しっかり者の話し方で
こんなにきれいな顔をしてたのか
と3回も驚きました。
へっへっへっ

       わたしは HiHi Jets では  高橋優斗が好きですけどね


今回の信長の顔   面長になってましたね   メークさんというかカツラ係さん  頑張ったな  と思いました。

そうか、ああすればワタシも小顔に化けられるのか、と感心しました。
月代  
剃ってみるか?
まさか!

あの時代の月代は毛抜きで抜いてたんだとか。
ずっと抜いてたら20年もしたらハゲになれるものね。


明智光秀の長女の岸さんが荒木村次の妻になってましたね。驚いた?いつの間に?
これで本願寺とのゴタゴタで舅の荒木村重が処分されて光秀の怒りに火が付き始めましたね。
で、岸さんは左馬之助と再婚。

なんか尺が足りないから端折り始めたな
って感じ。

      だって明智光秀が主役なら娘の結婚は重要で荒木村重について紹介があるはずと思うけど  無かったですよね?

      わたしはドラマを見てると妄想が浮かんでストーリーを追えなくなるので見損なったのかな?


玉には安土城には面白いものがある「高櫓の上に天主閣だ」と説明してましたね。


来週は松永久秀の叛乱が描かれるみたいで楽しみです。
憎い敵役の筒井順慶役の駿河太郎    いい味出してますね。「必殺仕事人 2020」で悪役やっててビックリしました。親騙し詐欺の元締めさん役。


信長がどんどんブラック企業のオーナー化していきますね。
ま、日本中を敵に回して  その上に  帝にも裏切られてたのかと知ってしまったから
そりゃ  これまでの朝廷を敬う信長とは違いますね。

で、メンド臭いから家督を信忠に譲った。三条西さんにも事後報告。


来週九鬼水軍が出ますね。
我が家も九鬼水軍にはボロ負けしてるから   逆の意味で  どういう描き方をするのか  鉄板を貼り巡らした装甲水軍なのかな?と興味あります。
[11]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月04日 17時45分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、エアーメール届きました。ハワイの明るいエアーを感じることができ
ました。

 昨日よりウォーキングを始めました。8キロコースであります。歩き続ける
こと――これが、私の人生哲学となりました。

 さて、伊賀と平家の関係は強力なものであったということがわかるようにな
りましたが、甲賀についてさらに深く考察していきたいと思います。

 足利、光秀、信長、服部党のクロスする所――そこが甲賀だと思います――
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月05日 02時03分07秒 ) パスワード

三つ柏さん

ご連絡  感謝です。

12月16日号で、そのスグ後に郵送したので  2週間以上  かかってますね。

台湾経由で飛行機でチンタラ行ったのかな?

その前に本土に飛んだのかも。ロスかフリスコー(サンフランシスコのこと)かニューヨーク経由で。
激笑


12月にはホノルルから日本へは週に9便飛んでるとか聞いてたけど
殆どがハワイアン航空で
4便分が日本航空と全日空です。


          現在のコロナSURGE 第3波?第4波?で再び減便になってるのかも。


日本からの小包は船便しかやってないとかで未だ届いていません。
忘れた頃に届くと思います。
まだ忘れていないので当分届かないようです。
こうやって悪口を書いてれば近々届くかも。



2021年1月1日からの日本からの小包はアメリカ並みにオンラインで登録して紙に印刷してから郵便局に持参しないといけないとか聞きました。

     アメリカのオンライン申請は混雑で成功しなくて諦めたし
     窓8になったらわたしのマシンでは印刷出来なくなってオットの窓10でもダメで
     2年前にラウター?も捨ててやったし
     わたしは日本への小包は数年前に止めました。



あの記事、いろいろ驚きですよね。

確かにサンフランシスコがもの凄く寒くて夏でも毛皮を着ている人がいて  わたしは風邪を引いて日本に戻ってから寝込んだことがありました  
卒論を書かなきゃいけない時に。時差ボケもあって今でも思い出して恐怖に駆られます。

あれは北極海からの寒流のせいだったんですね

    だから冬の間  4月まで  北極海のクジラさん達にはハワイが避寒地になってるんですね

    カリフォルニア沖にサンゴ礁が無い理由がソーユーことだったんですね

    ハワイのノースショアがパイプラインやるのに絶好なのは日本からの北風  偏西風のせいだと思ってたけど  
    ハワイは冬でも温かいんですね  笑   知らなかったな~

        今のハワイの海  観光客がいないから  すっごく透明度が高くなってて  (これなら素足で渚を歩いてもいいな) と思っています
        ワイキキの海なんて大腸菌とクラゲで水に触るのさえオソロシイと思ってました



わたしは毎朝2時間  日光消毒に行ってて(布団じゃないわよ)
4面こんがり  焼きに行ってます

途中で知り合いに出会って「焼けたわね~」と驚かれています。
それで半袖Tシャツの袖をたくし上げて「ここは生焼けだけどね」と見せています。


今はステイ@ホームが推奨されているので知り合いに会ってバカ話をする機会が無くて釣り師をからかう辺りです。

       1匹も釣れて無い人には「なんだ  今日は  メシ  無しだな」
       小さいのをリリースする人には「なんだ  クジラ  釣ってたのか」
       とか言ってます


10時過ぎると膝裏がチリチリ焦げ始めるので帰宅します。

帰宅してお風呂入って洗濯して
その後はネットかテレビですね。

ネットはIEがどこかに行ってしまったので慣れないブラウザーで チンタラ イライラ やってます。

テレビは疲れるようになりました。
     トシのせいか  出演者の滑舌が悪いせいか  聴き取り難くなっているし  
     分からないハナシが多いし

     若い子達が日本人じゃない異星人のように感じます。昭和顔がいなくて  みんな なんであんなに美しいの?

     老婆心というヤツで出演者を見乍ら  この子はどういう内面なのかな  と妄想するのが楽しみです。

        SixTonesの松村北斗っていう美しい男の子  ものすごく静かな佇まいで  思わずテレビの真ん前に進出します。セクシーです。

             わたしの好みは  ?知優吾 ですが。

         関ジャニ∞の大倉忠義という子は  品があるな  って思います。
   
             わたしの好みは横山裕だけから 安田章大  それから丸山隆平へと  どんどん増えてる


つい最近まではテレビを見てそういう観方はしなかったのに  去年から  この人の内面はどういう人間性なんだろうと思うようになり
歌がうまいのは  この中の誰?と  1人1人の歌を<聴く>ようになりました。
これまでは「聞き流してた」。


こんなテレビの観方は無かったです。
コロナで暇だからでしょうね。

かと言って  加齢のせいか  集中できなくて  記憶が全く続かなくなりました。


つい先日も素晴らしいドラマを見て感動したのに  数時間後には  あれ?  どういう番組だっけ?出演者は誰だっけ?内容は何だっけ?時代背景は?  でした。


やっぱり井戸端でたわいの無いバカ話をするのが良いようです。今は井戸端はオソロシイのヒトコトです。


三つ柏さんが今年から担当なさるご町内の世話役というか雑用係のお仕事  良い機会と思います。羨ましい! 
[13]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月05日 12時14分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 毎日バイリンガルでお暮らしのことと推察いたします。English脳と日本脳
とを使い分けておられる訳ですが、前者の方が日々強化され、後者は徐々に薄
くなって行くのではないかと推察いたします。でも、あを様の書く日本語に乱
れはない。名古屋弁の残滓はあるにしても……です。これはすごいことだと思
っております。

 さて、本日、大変なニュース記事が目に飛び込んできましたので、お伝えい
たします。それは、明智光秀に関することで、「明智光秀は、本能寺攻撃に参
加せず、鳥羽(鳥羽伏見の鳥羽)に控えていた」という新説が発表されたという
記事であります!
 詳しく書くと長くなりますので、要約しますと、金沢の図書館所蔵の古文書
「乙夜之書物」―これは加賀藩の兵学者・関谷政春が、本能寺の変から87年
後に書いたものであります。それは、斉藤利三の三男で自らも従軍した利宗が、
加賀藩の甥に語ったという証言を記したもので、「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」
と記されていたということであります!

 いずれにしても、光秀の前半生の謎、本能寺の変の謎、生死・死後の謎等、
固定観念を解いて考えてみる必要があります――
 
 
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月05日 15時15分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

驚くべき情報  感謝致します。

>「明智光秀は、本能寺攻撃に参加せず、鳥羽(鳥羽伏見の鳥羽)に控えていた」という新説が発表された


明智光秀は本当に謎だらけですね。


父親の名前がハッキリしてない  から始まって  父親の存在も謎
信長の所に足利義昭を連れて来る前に朝倉家に<も>いたらしいが何をしてたかハッキリしない。

かと思うと

天海上人説もある。


斎藤道三の娘の帰蝶さんとはイトコという設定のドラマが多い
帰蝶さんが本能寺で信長と一緒に死んだという設定のドラマも多い

     イトコなのに帰蝶さんも死なせた?


今回の発掘ニュースでは  光秀は本能寺には行ってなかった説?


イヨイヨ光秀という人物の謎が深まりました。


わたしは光秀の青春時代は南蛮船で東南アジアとか大陸とかに行ってたんじゃないかなと勝手に思っています。
あれだけの人物なので南蛮に興味があったでしょうし海外に行ってみたいという願望が強くあったんじゃないかと思っています。
ひょっとするとイスパニアとかにも行ってたかも。



今日は録画してあった「陰陽師」を見ました。
主演は佐々木蔵之介(安倍晴明)と市原隼人(源博雅)で  
テーマは平将門の復活と復讐をいかに阻止し都を守るか。


俵藤太役の国広富之がおじいさんになっててビックリした。
ムカシの同僚がトミーを大好きだったので(どこかで  この俳優  見たけど  誰?)でした。

寺田農が今ではおじいさんなのは分かってたけど比叡山の浄蔵役という霊験あらたかな僧侶役に驚いた。

浄蔵について   ウイキからコピペhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E8%94%B5

藤原時平を祟っているという菅原道真を調伏しに行くが、
時平の両耳から青竜に化現した道真が現れ祈祷を制止したので調伏を辞退した。
その後、ほどなくして時平は死去したという。

935年(承平5年)から940年(天慶3年)にかけて平将門が関東で乱をおこすと、
その調伏のため修法を行い霊験があった。


     これは突風が起きて(ダウンバーストのことだと思う)矢が将門の頭に刺さったハナシでしょうね

           ドラマでは鬼となった将門から救うのに俵藤太の鏑矢と髪の毛一筋に魔法をかけるシーンが演出されてました


興世王というワルが<承平天慶の乱>のそもそもの元凶だったのか、というのは理解してなかった。

           平安時代中期のほぼ同時期に起きた
           関東での平将門の乱と
           瀬戸内海での藤原純友の乱の総称のこと。


ま、面白かったです。

特に
平貞盛が将門の怨みに苦しめられる「瘡」が  あれは  ヘルペスなのか?アトピーなのか?と勝手に想像して、外れたところ。

    出たり治ったりを繰り返すからヘルペスなのかと思い
    痒い、痒くてしかた無いということでアトピーなのかなと思った(笑)


佐々木蔵之介の安倍晴明役はカルーイ感じで実力不足で?物足りなかった。
安倍晴明が源博雅にBL傾だけど源博雅はうぶな青年で美しい娘=実は将門の娘=に恋心を掻き立てられているシーンがオカシかった。

安倍晴明役は岡田准一が重々しく演じたら良かったのに。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月06日 02時48分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

子供の時に  尾鷲出身の三鬼陽之助の書いたものを読んだことがあって  
三鬼水軍は鳥羽の九鬼水軍にボロ負けしてドータラ  
という三鬼陽之助の自虐話を読みました。

              尾鷲と鳥羽は今でも仲が悪いのかな?
   
              なのに鳥羽一郎が明智光秀の歌を歌ってる?「光秀(おとこ)の意地」

              https://www.bing.com/videos/search?q=%e6%98%8e%e6%99%ba%e5%85%89%e7%a7%80%e3%80%80%e9%b3%a5%e7%be%bd%e4%b8%80%e9%83%8e%e3%80%80%e6%ad%8c&docid=608005814391670871&mid=6B481F67853E1619FDDF6B481F67853E1619FDDF&view=detail&FORM=VIRE



桶狭間の戦いの前に(当時は未だ松平元康かな?が守る)大高城に兵糧や武器を運んだ服部水軍。

伊勢長嶋一揆で服部水軍は織田水軍にボロ負け。


わたしにしてみれば鳥羽の九鬼(もとは藤原氏で代々吉野朝に仕えた南朝方)が  なんで信長方なんだと思うけど  意味無いね


     とにかくヤヤこしい

   
尾鷲は日本最多の雨量の場所というのを知ってるぐらい。
年平均降水量が  4000mm弱 あたり。
そして志摩国に入るのか紀州に入るのか  はたまた奈良の吉野領域なのか  わたしは混乱する。

            この辺り  国境争いがアチコチであるから混乱する

            いちばん有名なのが紀州vs天領の国境争いがありますね

            紀州の頼方さま=後の吉宗=が出て来るハナシ 大岡忠相の抜擢話。


ま、尾鷲は当然南朝方エリアだろうな、と思う。


鳥羽は志摩市とともに志摩国。
志摩国は13の海賊衆によって治められていた。
鳥羽港は古代からの天然の良港。

16世紀後半に13海賊衆の一人であった九鬼嘉隆が織田信長の配下として戦功をあげ志摩国の領主となり1594年、鳥羽城を築城した。
海に面して建てられた鳥羽城は天然の要塞で、九鬼水軍の本拠となった。

豊臣秀吉の朝鮮出兵にも日本丸(安宅船)で参戦し、李舜臣率いる朝鮮水軍と戦かった。
関ケ原の戦いでは嘉隆自身は西軍(豊臣方)、次男守隆は東軍(徳川方)に参戦したが、
西軍の敗北により切腹した。
九鬼嘉隆は九鬼家の菩提寺常安寺に弔われている。

徳川幕府が樹立すると、鳥羽城は鳥羽城の藩庁となり守隆が初代の藩主となった。
守隆没後、家督争いが起こり、これを幕府にとがめられて領地換えとなった。

幕府の鎖国政策で水軍の重要性もなくなり九鬼水軍は消滅した。


来週の「麒麟がくる」で九鬼水軍がどう描かれるのか  負けた方としても何故負けたのか  知りたい。


参考までに  関係無いけど  頼方さまと忠相の出会いの話をコピペ:よくドラマに描かれるけどイマイチ理解出来て無かったので
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B2%A1%E5%BF%A0%E7%9B%B8


大岡忠相は、
奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での係争がしばしば発生した山田(現・伊勢市)と松坂(現・松阪市)との境界を巡る訴訟で、
紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わずに公正に裁いたという。

当時の紀州藩主で、後に将軍職に就任し忠相を抜擢する吉宗は、事実上一方の当事者だったにもかかわらず、忠相の公正な裁きぶりを認めたという。


余談ですが
お伊勢さんの近所の?  伊勢山田高校出身者がけっこう大学時代にいました。
その中の1人の家号が家長系でした。  
わたしの一族じゃん、  と思って眺めていました。

   で、女の子特有のバカ話を1つ。
   好みのワンピースのブランドが同じで  時々  かぶってたりした。
   きゃはは
      
   向こうはすっごく可愛い女の子で、今で言う  ミス大学って感じで  男の子達の憧れで
   わたしはデブスだから・・・同じ服着てても   その差   甚大

   こうして劣等感丸出しのわたしに忠清の子孫が彼女の悪口をわたしに言って  
       わたしはモロに家長の子孫って分かる方の名字なわけだからね  
   わたし達は平将門の乱以来の刎頸の家同士だから  魂で結びついてるんだなぁ  と感心した


高校卒業までは先祖のことを意識なんかしなかったけど   尾張で600年の付き合いだものね
しかし大学に入ってからはいろいろな地域から学生が集まるわけだから

出会う学生とは全くのヨソ者同士感覚だから  出会った瞬間に  あれ?  と意識するようになった。


父方母方両方の不倶戴天の敵の佐々木ってのには1人も出会わなかった。
これも不思議。

いちばん多かったのは  南朝方の子孫ですね。その次が平家がらみ。  そして家号だから分からなかった服部家の一族。
向こうは知ってたみたいだけど。


わたしは三鬼陽之助は何となく子供の時から好きだったのです。
この人の経済の本は随分読んだ。

で、九鬼のことは大嫌いだった。本能的に嫌いだった。

なるほどね~
[16]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月06日 12時56分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智光秀と忍者との関係について正面から述べた論文や本はないと思います
が、織田氏や三好氏や松永氏や松平氏が伊賀忍者伊賀忍者等を抱えていたよう
に、戦国時代においては一国一城の主ともなれば必ずや忍者を抱えていたであ
りましょう。情報を制する者が天下を制するということは、戦う者なら身をも
ってわかっているはずであります。
 明智光秀が鉄砲技量に秀で、鉄砲隊を引き連れていたということを考えると、
やはり甲賀衆(弾薬製造)との関係が深いのではないかと私は仮定します。もっ
とも甲賀と伊賀は、信長によって結果的には分断されてしまいますので、どの
時点からかという課題は残りますが……。

 甲賀郡は近江国の南部に位置しーー
 @「甲賀」の南西隣の「甲南」という所に、「服部城」があります。
 A「服部城」の1q西に「望月城」があります。
 B伊賀の「柘植」より北西4qの所に「和田城」(ほぼ油日)があります。
 C「服部城」より「和田城」までは東南方向7qであります。
 D「服部城」と「柘植」までは11qであります。
 こうしてみますと、これらの城は歩いて2時間位の中に収まります。

服部城の服部氏は平知忠よりの服部氏(もちろん伊賀からの転入)。
 柘植は平宗清よりの服部氏(中保次等)が出ている。
 服部正尚は甲賀と関係するという。
 服部中保次は甲賀和田城の和田惟政に仕える。

 明智と甲賀とをつなぐものは、足利義昭との関係である。
 義昭は和田惟政が救出・支援した。
 その和田氏に服部中保次は仕える(初めは義輝、次に信長、次に家康に仕え
る)。 
 明智光秀の妻に服部保章の娘がいる。服部保章は正尚の従弟。

 鳥瞰的にみれば、一口に伊賀衆と言うけれど、@伊賀国の伊賀衆、A甲賀内
伊賀衆、B三河伊賀衆、さらに言えばC遠江伊賀衆……というように分類でき
るのかも知れません――
[17]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月07日 12時13分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 仮定と実証という方法は、科学的手段だと思います。ただ、実証となると、
やはり「一級史料」的な証左が必要となってきます。では、一級資料とは何だ
となると、「限りなく真実を示すもの」ということで、まずは本人の書いたい
わゆる「一次資料」や、客観的な歴史史料、物的証拠等になるでしょう。明智
光秀については、特に前半生の史料がないと言われております。従って本当の
謎解きができないネックになっております。
 
 昨日、甲賀を中心として地図上で近江をいろいろ調べていましたら、安土城
の向かい側に観音寺城があり、安土城の北東15qの所に多賀神社があるのが
わかりました。

 多賀神社を調べてみますと、多賀神社と「甲賀衆」はつながりがあることが
わかりました。
 晋遊舎のムック『歴史旅人 Vol.5』には明智光秀の特集があって、その中
に光秀の生地として、「多賀町佐目」が載っておりました。これは新説(「麒麟
が来る」の直前に発表された)でありますが、Webで検索したところ、下記のサ
イトに行き着きました。
  same-jubei.com 「明智十兵衛光秀 謎多きルーツに迫る 多賀出身説」
という動画による説明があり、新たな謎解きの井戸を見つけることができまし
た。これからの探求が興味深くなってきました。
 ちなみに、この動画には前編と後編があり、前編に佐目のこと、後編に光秀
に関することが語られております。
 佐目には街道が通っていて、信長が12万の兵を連れて長島攻めに向かった
という説明もありました──
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月07日 13時58分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

same-jubei.com

見て来ました。


多賀大社は井伊直弼の愛人だった「村山おたかさん」の出身エリアだとか

ひょっとすると多賀大社の御師さん達が井伊直弼の諜報機関を務めていたのかもですね。


      「おんな太閤記」を見てた夫を連れて長浜城(や彦根城)に連れて行き
      ついでに安土城跡に行くつもりだったら  沙沙貴神社に行ってしまいました。


ということで井伊直弼が使ってたのは甲賀忍者だったかも  ですね。
[19]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月08日 12時04分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 結論から言うと、多賀大社─多賀大社の坊人─甲賀集─六角氏はつながって
いたということ。多賀大社の坊人の佐治氏は、甲賀(21家)忍者であり、多賀
大社を仕切っていたということ──澤田氏(佐目の動画の説明者)は、祖先から
の口伝、あるいは多賀神社の神主の親族からの情報でそう述べています。

 佐々木系松下氏の松下常慶(山伏風体の)は、服部中保次とも近い仲でありま
すが、多賀=甲賀つながりであった可能性が大であります──


 
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月08日 14時26分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

拝見して3つ思う所がありました:


多賀大社  ← 出身 →  村山たかさん  ← 愛人 →  長野主膳 ← 主従 → 井伊直弼  ← 愛人 →  村山たかさん

長野主膳の「長野」姓は恐らく南朝方の「長野氏」関係だろうと   吉野朝忠臣4名姓の1つの「伊勢国長野氏」ではないかと

だから南朝方の遠江時代の井伊家とも先祖がらみで関係するだろうと

長野主膳が伊勢に関係するなら当然忍者の諜報活動にも詳しいだろうと


長野主膳はお酒が入ると肥後弁が出たとかで  細川氏とも関わりがあった

     細川氏は元は足利の支流で岡崎の細川町から家号が出来た

<2>に書く佐治氏関係から肥後細川家とも関係があったかも



佐治氏

佐治さんと言ったら  ワタシ的には尾張国知多半島大野の佐治家になります。
     大野は源義朝が平治の乱で負けて大垣の青墓から舟で野間に住む家来の鎌田の舅になる長田家に庇護を求めた近所の町です。
     義朝と鎌田は長田父子に暗殺されましたが


佐治一成は信長の姪のお江さんの最初のご主人で  実は佐治一成も信長の甥です。そして知多半島の佐治水軍を率いていました。
     秀吉が離婚させた。お江さんの最後のご主人が徳川秀忠です。

佐治一成の異父兄弟が細川元勝。
細川元勝の爺ちゃんが細川晴元!   だから  三条家やら六角やら武田信玄やら足利将軍家やら一向宗の親玉の顕如とかの錚々たる家と繋がってる。

          もうワケ分からない・・・


佐治氏についてウイキ参照のこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%B2%BB%E6%B0%8F


桓武平氏系佐治氏
近江国甲賀郡佐治庄より起こり、佐治城(佐治庄佐治村)を根城とした近江国の佐治氏である[1]。
甲賀市にある佐治神社は、文明2年(1470年)2月に佐治美作守平為氏が建立したとされる[1]。
為氏は六角氏に仕えた[1]。
為氏のあとは為重、為政と続き、為政は織田信長に属して、近江国蒲生郡の市子荘・羽田荘の代官を務めた。為祐の代で滅びた[1][注釈 1]。


伴姓の佐治氏
甲賀二十一家ならびに北山九家のひとつであり、桓武平氏流の佐治氏と同様、近江国佐治庄より起こったといわれる[2]。
『中興系図』に「佐治、伴、本国近江、山岡備中守景秀の男、民部少輔昌資・称之」とある[2]。



蒲生氏族の佐治氏
蒲生俊守が桓武平氏流の佐治氏の発祥地と同じ近江国甲賀郡佐治に住んで佐治と称したといわれる[2]。
『蒲生系図』には「俊光─俊寛─俊守(佐治八郎)─佐治太郎─佐治三郎」また佐治太郎の弟に「青山三郎定俊、六郎俊清(その子彦太郎)、掃部丞能俊」とある[2]。



尾張国の佐治氏
本姓 桓武平氏[2]
出身地 近江国?[2]丹波国?[2]
主な根拠地 尾張国知多郡大野城[2]
著名な人物 佐治信方が父親で 息子が佐治一成と中川秀休。この2人の異父兄弟が細川元勝 

戦国時代に尾張国知多郡に勢力を持った氏族であり、大野城を拠点とした[2]。

『尾張志』や『佐治系図』では桓武平氏流の佐治氏と同じ近江国甲賀郡から移り住んできたとしている[2]。

また一説にはもともと足立氏族の佐治氏と同じ丹波国から出て、近江国、尾張国と移ってきたとしている[2] [注釈 2]。
明応6年(1497年)、西之口神明社(常滑市)の棟札銘に「佐治伊賀守為永」の記載があり、佐治氏の在地性が確認できる[3]。

                                へぇ~
                                佐治伊賀守?!


伊勢国の佐治氏
『太閤記』に「佐治新助が篭りし亀山の城をば、秀吉の先勢として取巻かせたまう」とある[2]。

「滝川益氏」も参照

また関家記録などにもこの佐治氏が見える[2]。

      関家は平信兼の家で、ここの娘と平資盛の間の子孫が信長ということになります



江戸幕府幕臣の佐治氏
江戸幕府幕臣に平姓の佐治氏がいた[2]。『寛政系譜』に収められており、家紋は「丸に七本骨日の丸の扇子」、「丸に鷹の羽打ち違い」[2]。



九州の佐治氏
鎮西引付に「佐治左衛門太郎」を載せ、また肥前深堀文書、正嘉元年と2年のものに「佐治左衛門尉殿」の名前が見える[2]。また福田系図に「暦応3年〔1340年〕、肥前国神崎庄内佐治右衛門次郎跡、田2町地頭職の事……」とある[2]。




何を書こうとしてたか忘れた。I have become very forgetful with age.トシです。


やっぱり伊勢伊賀甲賀は繋がっていて  それが 更に  足利家などとも繋がって 服部家の一族も足利幕府に出仕したり  戦国時代には柳生宗矩とも繋がるのですね。

[21]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月09日 12時19分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 瞬殺で落胆!
 ちょっと、気分転換してエネルギー充電!
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月09日 14時56分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

瞬殺されましたか。
残念っ


昨年わたしは瞬殺が何度も続いて最近ブラウザーのIEが突然消えました。
テクニシャンに来て欲しいのですがコロナなのでお願いしていないです。


母の従姉妹のご主人の先祖の謎が恐らく解明出来たと思います。

    元は伊賀の服部系で藤林一族で甲賀に移って屋号を替え更に河内に転居した
    こんな感じかなと思います。
    先祖が伊賀の家長ということで家紋が丸に並び矢紋なのだろうと。




ハワイは1月7日の感染者が1日で322人だったそうです。
今は1日に150人あたり感染者が増えているそうで
クリスマスとお正月のせいだろうと言われています。

本日発表のハワイの状況は感染者累数が22,895人  死者が303人です。



https://health.hawaii.gov/coronavirusdisease2019/what-you-should-know/current-situation-in-hawaii/

ハワイ州の人口の率と感染者の率


白人     人口の25%で   感染者が17%

ハワイアン  人口の21%で   感染者が18%

太平洋島人  人口の4%で   感染者が25%  (ポリネシアのサモアやトンガ、ミクロネシアのマーシャル諸島とか)

フィリピン人 人口の16%で   感染者が20%

日本人    人口の15%で   感染者が7%      日本人  減ったな~と思います。  戦前はハワイの人口の40%を占めてたのに

中国人    人口の4%で   感染者が3%

他のアジア人  人口の4%で   感染者が3%

黒人     人口の3%で   感染者が2%    人口の3%もいたとは驚きました。

他人種    人口の8%で   感染者が5%




カリフォルニア州が今は一番感染者が多くてロサンゼルス地区では助からないのが分かっている場合病院に搬送するなと救急隊員に命令が出ているそうです。

交通事故でも心肺停止だったら5分あたりで脳が終了ですからね。


人口3億3000万人あたりのアメリカの感染者数累数   22,456,902   死者数  378,149
日本の感染者数累数         265,299   死者数  3,857


カリフォルニア州
全米1位  感染者数 2,629,498  死者数  29,222


https://public.tableau.com/views/COVID-19CasesDashboard_15931020425010/Cases?:embed=y&:showVizHome=no

ロサンゼルスエリアの多いこと!感染者数  85万3000人以上  です。

サンフランシスコに比べたら圧倒的。サンフランシスコは2万5885人です。


アメリカでは8州で新しい変異コロナウイルスが見つかっているそうです。
日本でも到着した人から見つかっているそうで  オソロシイ。


しっかり紫外線消毒なさってビタミンDもサプリで摂ってビタミンCは蜜柑を1日1個は食べてください。
ロイヤルゼリーも良いですよ。だけど高価です。
[23]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月09日 21時38分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ご心配いただき、ありがとうございます。今、日本では感染爆発寸前の状態、
ちょうど火事が全国に飛び火して、一気に燃え上がる寸前といった状況であり
ます。
 経済に軸足を置いたため、感染防止が後手に回りました。いずれにしても、
政府(自民党閣僚と官僚)のやることの鈍さには、もどかしく腹立たしくさえあ
ります。大都市やまた地域によっては医療崩壊が始まりつつあり、大変危惧し
ているところであります。白鵬を初め、有名人も次から次とかかっております。
人と会わないこと、都会に出ないことが一番ですが、働く人間にとってはそう
もいかず、ジレンマとストレスにイライラするこれからの数ヶ月となりそうで
す。

 さて、エネルギーもチャージされましたので、再挑戦したいと思います──
[24]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月09日 23時27分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 多賀大社の拝殿には、「三つ柏」の神紋が掲げられておりました。何かご縁
を感じます。二十歳代の時、偶然にも多賀氏の女子に恋したこともあります。
 また、近江守護六角氏とも偶然のご縁があります。二十代の頃、「六角」通
りにある会社に通っておりました。また三〜四年前に、一休寺で偶然にも六角承
禎と義治の墓に出会いました。何か、目に見えない糸があるのでしょうか?
 いずれにしても、六角承禎については、もっと深掘りしてみます──
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月10日 08時41分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

>多賀大社の拝殿には、「三つ柏」の神紋が掲げられておりました

驚きました。
多賀大社の神紋は  フツーに三つ巴紋  かと思ってました。

その他に  「虫くい折れ柏」が多賀大社の神紋の一つ  だそうです。
https://tabi-bito.net/taga-taisha-taga-town-shiga-prefecture/
勝手にコピペ。ブログ主さん  ごめんなさい


寿命石。

案内を超訳すると
「平安時代、東大寺再建を仰せ付けられた俊乗坊重源は、寿命守護祈願のため多賀大社に参籠、
満願成就の暁に「筵」の字の虫食いのある柏葉を授かり二十年の延命を感得、遂に大事を成し遂げたという。
この寿命石は上人が霊験をいただいた際のゆかりの石と伝えられる」
このように書かれています。

「虫くい折れ柏」が多賀大社の神紋の一つとして使われているのは、この事があったからなんですね。

以上コピペ。



>六角承禎

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E7%BE%A9%E8%B3%A2

この人は伊賀の3郡を押さえてたそうですよ。
   阿加郡・阿拝郡・山田郡    (つまり名張を除く、ということで良いでしょうか?)

      阿加郡というのは伊賀郡のことかも。


         飛鳥時代に令制国設置に伴い当国域をも含む伊勢国が成立し、
         その後680年(天武天皇9年)に伊勢国から分立した。

         当初は2郡だったが、後に阿拝郡、山田郡、伊賀郡、名張郡の4郡になった。

     ということで阿加郡というのは伊賀郡か誤植?


つまり伊賀の大半が六角家には逆らえなかったということですね。驚
これは知らなかったです。


これは  意味が大きい  ですね。


つまり服部半蔵正成の父の服部半三保長はそれで三河に落ちて行ったのかもですね。
ヲイヲイ


六角の娘が土岐頼芸の正妻だったのも知らなかったです。
土岐頼芸は後に斎藤道三に追われて越前の朝倉の厄介になりました。

           「麒麟がくる」の始めのハナシですね。



家族関係も名家ゆえにナカナカ面白いです。

両親 六角定頼、呉服前       母上の名が何故に「呉服前」?笑

兄弟 細川晴元継室、義賢本人、義頼、美濃の土岐頼芸正室、北の方=これは誰?誤植?=、  武田信豊室 ⇚ この武田氏は若狭武田氏です

妻 畠山義総娘   ← 能登畠山氏

子 義治、義定、畠山義綱正室



やっぱり三つ柏さんにも何かパワーが来てたのでしょうね。


選んだ道と棄てた道。
    今!  交差しちゃいましたね。
    あの時、あの人とご縁があったら?
    三つ柏さんの人生、どうなってたんでしょうね。

遠江の井伊家について愕然とする発見をしてたのかもですね。
そしてご自分が南朝方だったか北朝方だったか興味をお持ちになっていたのかも。

でしたら鬼籍に入られた先人達にいろいろ訊けたのにね。惜



わたくしは六角氏が伊賀に多いに関わってたとは全く知らず
だから勘違いをたくさんしてたんだなと気付きました。

六角承禎、恐るべし!
[26]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月11日 01時07分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 六角義賢(承禎)が甲賀・伊賀を支配していたことと、甲伊一国であったという
観点と照らし合わせてみても、納得がいきます。
 六角義賢は、総じて「反信長」なので、特に伊賀にとっては信頼できるお方で
あったことでしょう。さらにさらに深掘りしていきたいと思います──
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月11日 02時31分25秒 ) パスワード

三つ柏さん

面白いサイトを見つけました:
方向音痴のわたしには役に立ちそうです。    まさか!


現代世界情勢同様  日本国内でも国境問題がエンエンとあって  今は  経済圏という形   に変ってきているんだろうなと。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%88%E6%BB%85%E3%81%97%E3%81%9F%E9%83%A1%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

消滅した郡の一覧




江戸以前  
年代不詳 東海道遠江国長田郡 (遠江国長上郡、長下郡に分割)
年代不詳 東海道遠江国長下郡 (遠江国長上郡、豊田郡に分割編入)

明治29年

      勝手に名前を変えるな!と言いたい

1896年3月29日 三重県朝明郡 (三重郡に編入)
1896年3月29日 三重県河曲郡・奄芸郡 (合併して河芸郡に)なるほど!こーゆーのが分かって無かったな
1896年3月29日 三重県飯野郡・飯高郡 (合併して飯南郡に)
1896年3月29日 三重県阿拝郡・山田郡 (合併して阿山郡に)あ~、なるほどね。こーゆーのが分かって無かった
1896年3月29日 三重県名張郡・伊賀郡 (合併して名賀郡に)へぇ~。こーゆーのが分かって無かったな~



わたくしにとって興味のあるのは奄芸郡で
奄芸郡(あんきぐん、あんげぐん)は、三重県(伊勢国)にあった郡。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%84%E8%8A%B8%E9%83%A1

場所は出っ張りの辺りだと脳内解釈してた。
伊勢北部にあったのか
結構尾張というか四日市の方に近いんだなと驚いています。

    こんな基本的なことも知らず  ご先祖様の出身地はどこだ?  と勝手に空想して迷子になってました。
    そりゃ迷子になるわ。


1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、以下の区域にあたる。

鈴鹿市の一部(概ね白子本町、白子駅前、白子町、東旭が丘、野町東、野町中、野町西、野町、稲生町、鈴鹿ハイツ、御薗町、長法寺町、三宅町より南東[1])

津市の一部(概ね上浜町・島崎町・大谷町の各一部[2]および江戸橋、一身田各町、夢が丘、大里各町、高野尾町、芸濃町椋本、芸濃町忍田、芸濃町楠原以北)

亀山市の一部(関町萩原・関町福徳)



歴史
近世以降の沿革

「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り[3]。●は村内に寺社領が存在。(64村)

入り乱れてるね

知行 村数 村名
藩領 紀伊和歌山藩 30村 木鎌稗田村出作、稲生村出作、徳田村、徳田村出作、中瀬古村、郡山村、御薗村、上野村、大別保村、徳居村、長法寺村、三行村、赤部村、南黒田村、秋永村、中別保村、野崎山田井村、小野田村、野田村、今井谷村、小川村、久知野村、木鎌村[4]、稗田村、白子村、寺家村、稲生村、野町新田、野村新田、磯山村

伊勢津藩 16村 ●一身田村、大部田村、松本崎村、●窪田村、高野尾村、高野尾無里、椋本無里、忍田無里、中縄村、楠原村、楠原無里、萩原村、福徳村、椋本村、忍田村、粉川村

伊勢久居藩 6村 北黒田村、端村、川北村、山室村、林村、楠平尾村[5]

和歌山藩・津藩 8村 中瀬村、平野村、中野村、大古曽村、上津部田村、中山村、町屋村、白塚村

和歌山藩・久居藩 4村 越知村、三宅村[6]、高佐村、浜田村



明治4年
7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が和歌山県、津県、久居県の管轄となる。

11月22日(1872年1月2日) - 第1次府県統合により、全域が安濃津県の管轄となる。

明治5年3月17日(1872年4月24日) - 安濃津県が改称して三重県となる。

明治初年 - 高野尾無里が高野尾村に、椋本無里が椋本村に、忍田無里が忍田村に、楠原無里が楠原村にそれぞれ合併。(60村)

明治8年(1875年)(54村)
木鎌稗田村出作・稲生村出作・徳田村出作・木鎌村・稗田村が合併して五祝村となる。
大別保村が千里村に、松本崎村が大部田村にそれぞれ合併。
中別保村が豊津村に[7]、野崎山田井村が睦合村にそれぞれ改称。

明治9年(1876年) - 今井谷村・田端村が合併して豊野村となる。(53村)

明治12年(1879年)2月5日 - 郡区町村編制法の三重県での施行により、行政区画としての河曲郡が発足。「河曲奄芸郡役所」が白子村に設置され、河曲郡とともに管轄。

          この「白子」で過去を思い出しました。

          白子出身の人が随分助けてくれて  向こうは  わたしの事をしってたからだったのか  と今頃気付きました。
          
          名字からすると  その人は  平忠盛さまの刎頸の友ですから  平将門以来の関係だから  当然だったんだな  です。

          向こうはわたしの出自を100%把握してたんだな、土地的に。
          でもワタシは名古屋人だし  三重県のことは木曽3川の向こうの「外国」みたいな世界としか捉えて無かった



町村制以降の沿革

1.白子町 2.稲生村 3.天名村 4.合川村 5.栄村 6.上野村 7.豊津村 8.黒田村 9.白塚村 10.栗真村 11.一身田村 12.大里村 13.高野尾村 14.椋本村 15.明村(紫:津市 桃:鈴鹿市 赤:亀山市 21 - 27は河曲郡)


明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。(1町14村)
白子町 ← 白子村、寺家村、河曲郡江島村(現・鈴鹿市)
稲生村 ← 稲生村、野町新田、野村新田(現・鈴鹿市)
天名村 ← 徳田村、御薗村、越知村[字北浦](現・鈴鹿市)
合川村 ← 徳居村、三宅村、長法寺村(現・鈴鹿市)
栄村 ← 磯山村、五祝村、秋永村、郡山村、中瀬古村、越知村[字北浦を除く](現・鈴鹿市)
上野村 ← 上野村、千里村、久知野村、中瀬村(現・津市)
豊津村(単独村制。現・津市)
黒田村 ← 北黒田村、三行村、浜田村、赤部村、南黒田村、高佐村(現・津市)
白塚村(単独村制。現・津市)
栗真村 ← 小川村、中山村、町屋村(現・津市)
一身田村 ← 一身田村、豊野村、平野村、大古曽村、中野村、上津部田村、窪田村[一部](現・津市)
大里村 ← 窪田村[大部分]、川北村、睦合村、小野田村、野田村、山室村(現・津市)
高野尾村(単独村制。現・津市)
椋本村(単独村制。現・津市)
明村 ← 忍田村、楠原村、中縄村、楠平尾村、林村(現・津市)、萩原村、福徳村(現・亀山市)
大部田村が津市の一部となる。

明治29年(1896年)4月1日 - 郡制の施行のため、河曲郡・奄芸郡の区域をもって河芸郡が発足。同日奄芸郡廃止。


脚注
[脚注の使い方]
^ 近鉄名古屋線・白子駅周辺の住居表示実施地区については不詳。本項では白子本町周辺を除き、現在の鈴鹿市の地域区分によった。
^ 津駅周辺の町名変更実施地区については不詳。
^ 「旧高旧領取調帳」に本郡は記載されておらず、全村が河曲郡に含まれている。所属郡の判別は木村礎の注釈による。
^ 本村以下8村は「旧高旧領取調帳」には記載なし。
^ 楠平尾村・楠平尾無里に分かれて記載。
^ 三宅村・三宅無里に分かれて記載。三宅無里は全域が久居藩領。
^ 中別保村と枝郷として扱われていた影重村・一色村が統合して改称。



江戸幕府政策時代の移動の禁止で  自分の周りしか  分からなくなってたから  というのを感じる。



ロス空港で働いてた時にアルゼンチン人の田中というのがいて
父親と祖父が海軍軍人で  海軍が陸軍と喧嘩した時に海軍を辞めて帰農して  戦後  アルゼンチンに移民して田中が生まれたのだけど

鈴鹿で350石取りだったとか言ってたのを記憶している。


この人が初対面の時に父にソックリで驚いた。

母親は愛媛出身とか言ってて

今  思うと  わたしと田中は父方母方で繋がってたのか  と感慨深い。

     物凄くクチの悪いオトコで正面切って当人の悪口を言い放つ人で
     だけどわたしの事は悪口を言わないどころか一目置いてくれてた

             今は   なるほどな~  と思う。


     ハワイ土産に  田中に大きな雨傘を上げたら(笑)  喜んでくれた(笑)  それも色はグレイで(普通、男性用の雨傘は黒だろうけど)。
           わたしは合理的な人間なので。  
           田中もすっごく喜んでくれた。


田中が  猪狩とか瀬古とかのハナシを紹介してくれた。
瀬古選手のことを何か言ってたけど意味が分からなかった。瀬古は元は桑名の人なのかな?
田中の日本語は時々意味不明だから。


で、最近の俳優で大河に出てた田中哲司のことが妙に気になって「軍師 官兵衛」の時にスゴイ俳優だと思った。荒木村重役。

この人も鈴鹿の出身だそうで  それでシンパシーを感じるのかな?


ロス時代、三重県繋がりの同僚で、ものすごく美しい女の子が入って来た時に
彼女の出身地を最寄り駅とその後のバス路線で当てたのは
彼女が時代が時代なら天皇のお手がついて当たり前の美しさと聡明さに一瞬で気付いたからで

彼女は平家の美女の1人にもなれた人。

空港の司法省の役人でも「あの子は本当に日本人か?」とわたしに訊いたほどの美女。

     わたしも日本人だよぉ~(泣)
     それに  DNAも共有してるんだよぉ~  たぶん(泣)

この彼女は例えて言うなら仲間由紀恵より3倍は美しいです。


今は仲間由紀恵と田中哲司が夫婦なのが  (だろうな~)  です。
[28]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月11日 11時54分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 横山高治氏の『信長と伊勢・伊賀』によりますと、戦国時代、伊勢の北部には
大小の土豪がひしめき、それぞれ父祖伝来の城砦を固め、兵を養っていて、その
数48家に上り、「北勢四十八家」または「北方諸家」「北方諸侍」と呼ばれ<
南北朝時代を乗り越え、天下の形勢、特に北畠氏、関氏、長野氏の北勢進出に備
えてきたと言う。『伊勢軍記』によると、それらの諸氏は──
 @三重郡ー千種、宇野部、後藤、赤堀、楠
 A庵芸群ー稲生
 B朝明郡ー南部、加用、梅津、富田、浜田
 C員弁郡ー上木、白瀬、高松
 D桑名郡ー持福、木股
 以上諸侍48家あり、各々足利氏の侍たり。一味同心の者なり。
とあると言う。
 これらの中で、ずば抜けて力を持っていたのは、赤堀氏と千種氏、木俣氏で、
いずれも50騎から100騎の兵を蓄え、外敵の侵入に備え、また隣同士でしの
ぎを削ったということであります。

 ここで休憩ーー
 (次は北勢48家と並んで武威を誇った「長島門徒」について記します。)
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月11日 14時24分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


伊勢48家
ありがとうございました。


>それぞれ父祖伝来の城砦を固め

はい
北伊勢は四日市とか桑名とか菰野あたりで  そこら中に城砦というか砦というか城というか  今でもその名残りがあります。石垣とかもね。

わたしの従姉がヨメに行ってる家も伊勢48家に入る家で
まさに  小規模なお城のような家で、   壁は白漆喰で塗ってて

従姉の姪が留学時代ロスの我が家に遊びに来た時「あなたの家の写真、絶対にアメリカ男に見せちゃダメよ」と言いました。

        時 既に遅し     とっくに見せてた

              彼女がハワイで日本の家族に会ってから、ロスに戻った時、ロス空港にオトコ達がクルマで迎えに来てて・・・

                    バカだね、逆玉狙いやられてるじゃん
                    でした。


        この彼女=わたしの従姉の姪=が子供時代わたしの子供時代にソックリで
        彼女の子供時代の写真を見せてくれた時に(なんでワタシの写真を持って来た?)と思うほど似てました。

             今は痩せてすっごい美女になっててムカシの面影はありません
                 ご主人がものすごいハンサムです
                 SixTonesの松村北斗をもっとスッキリとハンサムにした感じです

        従姉の姪はすっごいアタマの良い子で、日本からNYの私立大学に奨学金で留学したものの
        NYの冬の寒さに「こんな所  イヤだ」ということで
        その奨学金でカリフォルニアの州立大学に転校したというアタマの使い方の出来る子で
        日本に里帰りするのに「隣の郡の全く別の州立大学の日本遠征の通訳として」日本に行ったような脳味噌の使い方をする子で
        彼女の留学時代はビックリさせられ続けました。


           従姉の母親=わたしの母の姉=が「あをちゃんに似てるスゴイ子だ」なんて言ってましたが
           わたしにはとても彼女のような発想も行動力も実行力も遂行能力も無いです。
                女子に生まれたのが惜しい!

              彼女が戦国時代に男子として生まれていたら
              蒲生や滝川や藤堂のようなひとかどの大名になれたのかも

                  わたしは  真っ先に犬死にだろうし
                  一隊を率いていたら  わたしの部隊は玉砕だ


伊勢国は4つの勢力があって
中勢=の北畠氏、安濃郡の長野氏、鈴鹿の関氏、北伊勢の48家
でした。


     服部友貞は北畠に正月の挨拶に行って滝川一益に謀殺されました
     安濃の長野氏は井伊直弼の懐刀だった長野主膳の先祖でしょう
     鈴鹿の関さんは平信兼の家で、信長の先祖の家
     北伊勢はほとんどが元平家一門の子孫でしょう


> @三重郡ー千種、宇野部、後藤、赤堀、楠 

           赤堀は吉野朝忠臣4名姓の1つ。元は藤原秀郷の子孫ですから平将門討伐以来のお仲間
           菰野の千種は後醍醐天皇の側近の公家の千種に子孫で伊勢48家の頭領です
           後藤は平宗盛だったか重衡だったかの乳兄弟の家
           楠は河内のおっちゃんの一族系かも

           宇野部は全く知らなかったです

> A奄芸群ー稲生

           奄芸郡稲生村出身です。

> B朝明郡ー南部、加用、梅津、富田、浜田
           朝明郡は赤堀の勢力下
           浜田は赤堀の一族。

> C員弁郡ー上木、白瀬、高松
> D桑名郡ー持福、木股



伊勢国の北畠氏(中勢地方)・神戸氏(鈴鹿郡)は信長の息子達に(信雄と信孝に)乗っ取られ滅びました。


わたしの北海道の友人が三重県出身で顕如の親戚で当然伊勢長嶋一揆の仲間です。



平家時代・南朝方時代を経て
室町幕府時代になり現実には逆らえないから足利幕府に仕え
その後
戦国時代で信長と戦い
そして
秀吉の死後、
北伊勢はすぐ近くに美濃の大垣があって、関ケ原の戦いがあり石田三成が入城し
そして
平家の一門や南朝方の家々が没落して行きました。


そしてワタシは三重県のことは外国のように遠い世界となり


だけど三つ柏さんの紹介してくださった伊勢48家の名前の数々を見て
これまで100%赤の他人じゃないのと思ってた従姉の婚家が   藤原秀郷の子孫だとハッキリしました。


平将門を共に討った刎頸の家だったとは驚き以外のナニモノでもありません。

やっぱり「宿命」なんでしょうね。日本人の20%の世界の宿命なんでしょうね。

      母方の従姉が三重県のオトコと結婚したと聞いた時は  三重のオトコ?  なんで? なんで三重のオトコ?   遠過ぎるじゃん。

母の従姉妹が甲賀の丸に並び矢のオトコと結婚し
私の従姉が伊勢48家の1つと結婚してた。

源平合戦があり南北朝の戦いがあり戦国時代があり信長に負けた。
一体何度負けたんだ?
こういう負け続きの血って運命を引き寄せるんでしょうかねぇ?


なんかね  今はね  従姉の姪の娘=小学生=をワタシは一人前に育てなきゃいけない運命だったのかな?です。
すっごい可愛い女の子ですよ、父親がハンサムだから、子供の時からデブスじゃない。
[30]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月12日 22時56分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 横山高治氏の『信長と伊勢・伊賀』によると──

「北勢四十八家と並んで武威を誇ったのが、尾張と国境をなす木曽・長良の河
口、長島に勢力を張った「長島門徒」である。
 明応十年(1501)、真宗の蓮如上人の第十三子、蓮淳が桑名郡長島町杉江に願
証寺を開いた。
 願証寺は、長島御坊あるいは「長島城」として十万石の所領を支配し、次第
に勢力を拡げ、天文年間(1532〜1554)には、大坂の石山本願寺の支城として、
伊勢国内に七つの道場を持ち、北勢の諸豪族とも連携を保った。
 永禄年間(1558〜1569)、尾張で信長が勢力をつける頃には、尾張国津島の「
服部右京進」が、願証寺のまわりに長円寺、善明寺、誓妙寺、源行寺の四つの
堅固な砦を築き、水郷の中の大鳥居、条橋、唐櫃山、中江、水島にも要塞を設
け、城の守りを固めた。
 この城砦は、今日の長島町、桑名市にかけて広がるが、ここに水谷与次兵衛
(大鳥居)、後藤弥五?(南別所)、中島将監(太夫)、伊荘右衛(中津原)、大島内
蔵頭(大島)、片岡掃(片岡)らの名だたる地侍が入城した。
 これを中心に付近に四十カ所を越える城砦および道場が建てられ、本願寺
から派遣の僧侶、武士をはじめ、地元の農民門徒三千人がいつでも戦えるよ
う結束した。
 戦国の様相が激しくなるにつれ、下間三位法橋を大将に、伊勢、尾張、美濃
から農民、地侍の信徒十万人が武装して入城、やがて一揆を起こし、「仏敵
信長」を迎え撃つのである。」

ということであります。

 「服部右京進」というと「服部政光」のことになりますので、たぶんこれは
兄の「服部左京亮」(即ち「服部友貞」)が正しいと思います。
 長島一向一揆というか、信長の長島攻めは、第一次(1571)、第二次(1573)、
第三次(1574)と続き、第三次で「根切」、即ち「殲滅」「虐殺」を行います。
私は、このような残虐行為は、信長が「小心者」だったがゆえの「反逆の恐怖
心」にかられてのものだったと思っています──
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月13日 01時27分58秒 ) パスワード

三つ柏さん

上記レスに出てる名称・地名・名字  まさに  ワタクシの回りの人々の名字のオンパレードであります。

        笑った〜


個人情報になるから書いちゃいけないんでしょうけど  (本心はバラしたい気マンマン)
子供の時からの馴染みの  名字  ばっかりです。

まさに親戚の名字も並んでるし。


    さち子さんのお家のことでもあるし。


        子供の時  父方祖母が生きてる間 
        正月とかお盆に
        どーゆー関係かサッパリ分からないけど  雁首並べてたジジババの名字のオンパレードです。

        NYの(はっきり続柄は知らない)親戚の名字も出てるし。
                 ああ、やっぱりな〜  でした。



服部政光については  服部政信・政重の兄弟の家の部分を復習なさると  分かります。

いろいろ錯綜しているものの
服部権大夫左京亮信発(のぶひで)のちの政家の子が左京亮友貞と政光で
政光の子が政信・政重と簡単に書いておきますね。


最初は信長の父に仕えてたけど大橋崩れで(今 住んでる所あたりに)転居して蟄居してた。



長谷川博己の祖父になる人だったかは養子さんで元の名字は中島(なかしま)だそうで
    それを知って
ああ、元は尾張出身ってコトか
と分かりました。

     秀吉の家老の1人の堀尾家の下級武士が帰農して長谷川家の養子に入って
     建築や美術に造形が深かったので
     昭和天皇の御幸の宿所になる玉造温泉最高の宿屋にした
     というハナシでした。


            この堀尾家に「南部氏」も関わるし
                わたしは「南部氏」と言ったら岩手の南部さんしか知らなかったけど 
            北伊勢48家に関わるハナシに南部氏の名前って出て来るのよね



クリスマスの時の「チコちゃんに叱られる」に杏(渡辺謙の娘)が出てて
     「歴史は好きか?」という質問に
「歴史は好きです。自分と繋がるから。知らないことなのに知ってる感じがする」
というような事を答えてました。


渡辺姓なんて日本で5番目に多い姓だけど
    下の名前が1字というところには
あの名家の渡辺家がらみなのかな?と思うところがあります。

    下の名前が2文字とか3文字だと  「なんだ、仮冒の渡辺さんか」  と思います。
    「あの名家の渡辺さんならアイデンティティから下の名前は1文字にしろ」って思う「プライドは無いのか?」と。


新潟の人が「渡辺謙って新潟訛りが出るな」と言ってましたが「へぇ〜」でした。


杏が急に身近になりました(そうか、繋がりを杏も感じる人なのか)と。


      なのに先祖は近江出身?の東出昌大に裏切られて  先祖は熊本出身?の唐田えりかに取られて  渡辺謙の一家って  結婚運には恵まれていないね。
      父親の渡辺謙が女をとっかえひっかえするというのは抑えられない先祖の血なんだろうと思うけど。笑   イヤイヤ  ただのオトコってコトか?



信長が伊勢長嶋一揆で虐殺をやった理由の1つに  最愛の弟・信興を殺されたというのもあります。



今回の「麒麟がくる」の回
予想外の展開でした。


松永久秀がどうしてこんなに丁寧に描かれるのかと疑問でしたが   (なかなか面白い人物だから、ぐらいに、勝手に解釈してました)   今回で伏線が回収されましたね。


あ、そうそう秀吉の大返しで明智光秀が堀尾に負けた  ということで
長谷川博己が驚いてましたね。

長谷川博己の父親と坂東玉三郎は交流があって
「麒麟がくる」で共演して
長谷川博己が驚いてましたね。


要するに  場所が日本で  人間が日本人の皆さん  ですからね。
異民族の蹂躙を受けなかったって  こーゆー事か  としみじみです。


レス<30>の情報に母と私の2代に亘る知り合いの<宿命>が改めて信長がらみだったのかと納得です。
ありがとうございました。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月13日 07時50分03秒 ) パスワード

メールで頂きました。
以下コピペ:



「加賀」について。

加賀の潜戸(くけど)はご存じないかと思います。
加賀の国とは関係は有りません。

       ある意味では有名な観光地です。

加賀は島根半島の土地名で地名「加賀」は神話の由来から「かか」と読みます。
「加賀」は、佐太大神(さだのおおがみ)猿田彦の誕生の地。

潜戸は海水浸食の洞窟です。


『出雲国風土記』では、
佐太大神の母神であるキサカイヒメが、暗い岩屋の中で黄金の矢を射た時に光り輝いたから、加賀と名が付いたとする。



        ・・・・私見; 
        輝く・輝いたの「かが・かか」で厳しく照りつける日差しを言う神話なのかもですが
        下記の様に説話や神話では無くて
        土地柄や地形から名付けられた可能性が高いです。

        抱えて包み込むの意味あいもあるとも考えられます。



加賀:
(前半 略)
「出雲風土記」嶋根郡の加賀郷は磯浜で、岬や島に囲まれた地で、これと同義語とみられる。
「カカ(懸・抱)」の意で、加賀郡のあった河北潟が砂州で抱えられ、囲まれた地形による名称と思われる。
また、「カゲ(陰)」の意味が考えられる。



さが・さか地名は:スカ(州処)では無く背後に急崖・急坂のあるところ、山地の険しい所を「サカ・サガ」と言う。

:::::::::::::::::::::::::::::::::



「甲賀」について。

カフカ(鹿深・甲賀): 「敏達紀」一三年に鹿深臣が見え、「和名抄」近江国甲賀(カフカ)郡の地かという。
「カフ(傾)カ(処)」で傾斜をした土地の意か。(日本地名事典より)


     私的な考えの「カハク」

     河伯(かはく、ホーポー、Hébó)は、中国神話に登場する黄河の神。
     朝鮮語ではハベクと言って、鴨緑江の川べりの部族(高句麗を構成する部族の一つ)と成って居ました。

     日本語読みは隋や唐より以前の漢音と見れば「カハク」に近い発音だと思います。


また「加(ガ)」が高句麗の五大部族と呼ばれていました。
諸加(チョガ)各々の部族の意味。


相加(サンガ)部族連合の代表者で宰相的意味合いで使っていましたね。



       どうも黄河流域の漢民族の部族集団をさして居るような気がします。
       いまの中国には漢民族は消滅しています。
       名残のものは居ますけど、周辺に散逸していますからね。

       旧新羅とか加耶国にも漢族がいたとも言われて居ますから。

       加や賀や河などの地名には関係しているかもですね。

       隋や唐の「唐」は「トウ」ですね。でも(カラの国)のカラですもんね。



河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、河伯を「かっぱ」と訓ずることがある。
また一説に、河伯が日本に伝わり河童になったともされ、
「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。

高句麗や東扶余では、建国者の母方の祖父である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%BC%AF   



:::::::::::::::::::::::::::::::::

伊賀: 

伊賀は伊勢のくに風速国で「吾我」が伊賀に転じたと言う。
和名抄伊賀国に阿我郷が見える。
これが国名に成ったか。

「記伝」は「記崇神」の五十日帯日子(イカタラシヒコ)王に由来するかという。

「出雲風土記」飯石郡に「伊我山」などがみえ、
もとから「イカ」という地名であろう。

大和国の東の聖地として「イカ(厳)」の意とみられる。

伊我山・伊賀塚という地名の神社の森があるのも、この意味であろう。(日本地名事典より)



      私の私見・・・・(厳)で険しく荘厳で神々しいところの意味がありそうですね。
      イカ地名では草木であったり?だったりと別の意味が有るので注意が必要。

以上コピペ


ありがとうございました。
[33]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月13日 11時59分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

伊賀・甲賀の由来については、諸説あって決定的なものがないようです。

 歴史読本『伊賀甲賀 忍びの謎』では、甲賀については敏達天皇時に百済
から「鹿深臣」が渡来して弥勒石像一体を安置したことが由来とあり、伊賀
については、大和言葉で「イ」は「命」、「ガ」は「人々」で、伊賀は「命
育む人々」の意味であるという。

 また、奥瀬兵七郎氏は『忍術 その歴史と忍者』の中で、伊賀(IGA)は「山
の中」、伊勢(ISE)は「平野」を意味する呼称であった。漢字が入ってきて、
IGA、ISEに、伊賀(香)、伊勢という字が当てられることになった。
 伊賀郡から甲賀郡が分郡したのは、おそらく奈良朝に入ってからのことと
思われる。その当時の為政者は、崩し字では「伊」と同形に見える「甲」を
選んで、新郡を「甲賀」とした。従って、甲賀は漢字の当て字であるので、
甲賀という言葉には全然意味はないのであるという。

 いずれにしても、真実は何か、なかなか納得がいきませんので、今後も探っ
て行きたいと思っております。
 私は、加賀から伊賀へのラインに何か意味があるのではないかと勘ぐって
いるのですが──
[34]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月14日 12時24分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 横山高治氏によると──

「北勢四十八家や長島門徒とともに、伊賀では伊賀衆六十六人の"連邦共和国"
が組織されていた。平清盛が築いた平楽寺跡の館に、仁木氏の一族の仁木友梅
入道を国守としてまつりあげていた。
 そして、伊勢平氏・平家長の裔・服部大隅守(服部城)、平宗清流の福地伊予
守(柘植城)、平信兼流の河合兵蔵(河合城)、大江氏の血を引く安保弾正左衛門
(阿保城)という「伊賀四人衆」(「伊賀四大将」ともいう)が支配した。」

ということであります。

 この「服部大隅守」は「服部城」を拠点としているようですが、一体誰なの
でしょう?
 「伊賀四人衆」って初めて聞きますが、あを様ご存じですか?──
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月14日 16時09分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

全く知らない情報ばかりです。
ありがとうございます。


だいたい仁木氏って、そもそも敵だったのに
この時代には仁木氏に大将をお願いしてたの?
と驚いています。

     柘植宗家は戦国時代仁木氏に反抗して戦い
     宗能・清広兄弟(父子?)は信長に反抗したが
     伊賀越えで徳川家康を助け旗本となった

            と過去にメモしています
            昨日までの敵は今日の味方  というのですね



戦国時代の伊賀の勢力図.gif
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f5/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%BC%8A%E8%B3%80%E3%81%AE%E5%8B%A2%E5%8A%9B%E5%9B%B3.gif
この図によれば

伊賀は3つの勢力に分かれていて   出るかな?  やってみますね
%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%BC%8A%E8%B3%80%E3%81%AE%E5%8B%A2%E5%8A%9B%E5%9B%B3.gif

六角派・仁木派・北畠派の3つですね


六角派には藤林長門守や稲増・城戸・木津・奥・内保氏など
北畠派には百地氏など
守護仁木義視の仁木派には千賀地服部・服部半蔵・町井・百地丹波
の名前が書かれてますね。



伊賀四人衆
  伊勢平氏・平家長の裔・服部大隅守(服部城)、  

       どなた?
       甲賀の服部城?伊賀の服部城?
       服部一族の藤林さんのことみたいですね

       伊賀中北の服部氏城:http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/nakakitahattori.htm
       全文はURLへ
     
       所在地: 三重県伊賀市東湯船字中北
       東湯船の手力神社(伊賀上忍藤林長門守の氏神)北側の丘陵最頂部に築かれている。 

       東湯船農業センターから集落の中へと市道を登っていくと、正面に民家背後に高土塁が姿を現す。

       服部氏宅の家屋が建っているところが二の曲輪、背後の畑地となっている所が一の曲輪だ。
       この一の曲輪を取り囲むように土塁が良く残っている。

       服部氏城は、築城年代は定かでないが服部氏によって築かれた。 
       服部氏は、天正伊賀の乱では雨乞山城へ立て籠もって織田氏と戦っている。
       


  平宗清流の福地伊予守(柘植城)、   松尾芭蕉のご先祖さまでしょうか?

  平信兼流の河合兵蔵(河合城)、    芭蕉の随伴者の河合曽良が養子に入った河合さんでしょうか?

  大江氏の血を引く安保弾正左衛門(阿保城)
   

北畠家臣団
http://www.amigo2.ne.jp/~fuchisai/home/kasin.htm

コレ
面白いですよ。

北畠具教の次男が長野家に入ってます!
つまり井伊谷の井伊家と後醍醐天皇の側近の北畠親房の関係があって
さらに長野家とも関係が(当たり前ですが)あった
だから
井伊直弼と長野主膳は戦国時代からのエニシによって結ばれていた?!



仁木主水正 清和源氏  平楽寺館   伊賀守護家

服部伊賀守  平氏   服部城     伊賀衆

福地伊予守  平氏   柘植城     伊賀衆

河合兵庫頭  平氏   河合城     伊賀衆



松永弾正少弼       松永久秀その人?


服部民部少輔   平氏   長栗一色城   侍所


へぇ〜


伊賀の服部城とか服部大隅守はどうやら藤林一族の誰かでしょうね。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月15日 04時37分18秒 ) パスワード

好きなオトコの名前を間違って書いてしまったので書き直し:わたくしともあろう者が大事な人のお名前を間違うなんて



一晩経って書いています:


この家臣団に出て来る橘氏。

まさに(平知盛さまのお子さまの)平知忠さまの庇護者だったのが橘氏。
そして  伊予橘氏?
服部一族に関係する人物が伊予橘氏の名前と同じ名前で服部家の系図に出て来る。

そして橘と言えば  楠正成。


               そしてワタクシの母方にも繋がる。


それで甲賀服部氏が平知忠さまの子孫という話が一段と胸に迫りました。
作用郡にも藤原氏の娘との間に子供がいて  藤本姓を名乗って今に至る
とか。



そして遡れば吉備真備一族にも繋がる。

ムカシっからエンエンと繋がるのですね、日本人。



昨日は上記メールで頂いた  加賀の潜戸  のお話を
録画してあった神々の道というNHKの神話の世界を尋ねる番組で見ました。

         わたしは出雲と日向がこんがらがってるし
         日向と薩摩がこんがらがってるし

             天孫降臨の場所が日向なのに薩摩だと思ってたし

                薩摩って熊襲 (くまそ) 国と日向 (ひむか) 国にもまたがる?から勘違いした?

         でも鵜戸神宮は修学旅行で行って記憶にしっかりあるけど   
         録画で見たようなパワースポット観には   全く   気付かなかった


わたしにとっての一番最初の記憶と確信は人皇7代孝霊天皇がらみの岡山からだと思う。
それ以前の日向国も  それよりずっと前の出雲国も  わたしには  神話であり伝説でありフィクション でしか無いようです。



やっぱり神話と伝説とフィクションはピンと来ない。
だけど  木曽3川の向こうの三重県もやっぱり   実感としては遠い。


上総国で平将門の馬蹄にかけられ蹂躙される恐怖とか    自分の一族の方がワルだと思ってる自責の思いがあるだけに

伊勢の久居から伊賀の西端の予野の花垣神社に行った前世の記憶とか=千賀地だね
      予野の桜を見に行った記憶だけど千賀地に逼塞した家長爺さまに会いに行ったのかな?

平家が没落してから伊賀の北にいた記憶とか

北条仲時さまの死に後追いした記憶とか

そういう思いは湧いて来るけど  出雲と日向は  無い  全く無い!  きっぱり


加賀の潜戸を教えて貰って  録画番組を見て  えぇ〜っ?!  大黒様とヱビス様って父子だったのぉ〜?!  でした。 
                      袋と鯛の違いしか分かってなかったよぉ〜


出雲と日向の  日本人の世界観は  わたしには無い。
全く  無い。  わたしにとっては異民族って感じがする。


北畠家臣団の一覧を見てて  あ、この人アソコのアイツだ!  この人とわたしは!  とか思った。   
なんか苦労や悲しみが湧いて来るし。


10世紀半ばの平将門討伐以降  平家から南北朝  そして  伊勢長嶋一揆から関ケ原あたりしかピンと来ない。
[40]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月15日 23時54分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊賀東湯舟中北に「服部氏城」があり、それが藤林長門守にどうやら関係し
ているということがわかったということは、次の論理に結びつく大きな手がか
りとなります。
 この服部氏城の北西7qの所に甲賀「服部城」があります。
 つまり、服部氏族は伊賀と甲賀にまたがって根を下ろしていたということの
一つの証明であります。それはまた、甲伊一国であることの一つの証明でもあ
ります。あるいは、小さい甲賀が大きい伊賀の中に含まれていた、つまり伊賀
郡の中の一つの村が甲賀だったということの証かも知れません。
 これらにより、伊賀忍者も甲賀忍者も区別なく大きな概念で伊賀忍者と言わ
れた時代があったということも推測されます。
 家康と半蔵の関係より、伊賀と関係が強かったように思われていますが、そ
の実、甲賀との関係が非常に強かったということ、この謎がこれで解けてくる
のかも知れません。

 今晩はこれくらいにして、次回にその件について記したいと思います── 
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月16日 02時15分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

レス<35>に書いた  長栗一色城  について書きます。
泣けて来る。


https://blog.goo.ne.jp/idealblog2/e/618937dcf8698ba001288a886fcedbf2
ブログ主さん
勝手にコピペ
ごめんなさい。


画像:館があったと思われる現久居西中学校

     久居はわたしの琴線だ。
     源平合戦の時  幼い私は  ここら辺りにいたのかな?


コピペ  そのまま:

城名 七栗一色館
読み ななくりいっしきやかた
住所 津市久居一色町馬屋敷
築城者 服部民部少輔
形式 居館
遺構 消滅
城主 服部民部少輔


                      服部氏は北畠国司に仕え
                      特に服部民部少輔の頃栄えた。

                      その子の孫三郎はなぎなたの名手で
                      弓の船木三右衛門、剛力の潮田長助らとともに
                      北畠三勇者といわれ大河内城の戦いで武勇をとどろかせたが親子とも討死した。

                      子孫には本居宣長の高弟の一人・服部中庸がいる。


標高 47m 比高 0m
環境 榊原川と長野川の間を北から南へせり出した丘陵の先端に館はあった。
一族 北畠家臣
書籍 三重の中世城館
現地 久居西中学校の校庭内が館跡で現在は何一つ残らず地名に馬屋敷、堀の下がある。
考察 学校の周辺の一部に土塁らしき形状があるが後世のものと判断した。
 
地図


以上コピペでした。


「三重の中世城館」のご本  手に入ると良いですね。



久居かぁ
あのド田舎
あそこにいたのかなぁ


わたしはココで異次元の世界に入りますからね。
それも1度や2度じゃないし。
何十年経ってても  入っちゃう。

    なんだ?ココ!

って  だけど  原風景があるんですよ。
わたしの源平時代の思いは久居から始まっていますから
久居に行かなかったら
いろいろ感じることは無かった。


日本人にとって   「久居」なんて  ナナクリの湯  でしょ?
清少納言が書いてる  「湯は  ななくり」  っての。
温泉は七栗が日本一って話。

    今は榊原温泉かな?   ココ  頑張ってるから。


なんかねぇ   服部民部少輔の館跡に行ったら  服部友貞と北畠具教の正月の宴会の席にワープしそう。


ここに行ったら  平家一門の子孫の皆さんのことを  知らないのにムカシっから知ってたみたいに  懐かしく不思議に思った過去を全部  思い出しそう。


藤原秀郷(俵藤太)の墓   円墳の方ね  神社じゃない方  に行った時
晴天に突然雷鳴が轟いた時の感触を思い出しました「挨拶  痛み入る」と返された時。


久居の温泉宿から全てが始まったのかな?
伊勢の藤原一族との関係の記憶も。
その前に   夫から「前世は蟹だった。海にいた」という変な話を聞かされていたのが  何のハナシか分かっていった。


こうして  今は  わたしは半蔵さんの家より  奄芸郡出身の服部伊賀守友貞系なんだ  と確信になります。

藤林さんの方もちょっと違うし。コッチにシンパシーがあったら甲賀出身の丸に並び矢紋の河内の親戚についてもっと早く気付いたろうし。


伊賀の服部城ってアチコチにあったんだと思いますよ
   湯舟の中北服部城を始め藤林家を取り巻く一族の城砦
   阿拝郡服部村=伊賀の二の宮の小宮神社=あたりの服部城
   山田郡の平田農協あたりの服部城=明昌寺の前身=平田家継の屋敷跡
   柘植宗清の館跡     福地さんとか
   千賀地の服部半三の館跡
   家長出身地の荒木の屋敷跡

       ざっと言ったら数百あったろう城砦の半数は伊賀の服部家系だろうなと


次に久居に行ったらどんな感触を得るのか  ちょっと  コワイ。
だけど服部伊賀守宗純が住んでた所が特定できるといいな。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月16日 06時36分50秒 ) パスワード

三つ柏さん

いろいろ調べていると  自分の家の過去のことがいろいろ分かって楽しいです。
別にわたしの家の事を調べてるわけじゃないのに。


http://npo-tsushima.org/otera/schedule.html

このサイトで津島のお寺さんのことが紹介されていますが
書いてくださってる方は  御縁の無い方なのかな?  と思います。

      読んでいると  あの人この人  混乱してるみたいで
      当事者に伝わってる読み方と違ってたりしていて

尾張南西部に600年住んで来た家の方じゃないね
と思います。


でも参考になります。
感謝しています。



沿革 鏡池山 瑞泉寺
場所 船戸町  40

浄土宗西山禅林寺派 

創建は永正4年(1507年)移建
当寺は、後醍醐天皇のひ孫良王(りょうおう)親王様菩提寺。

浪合記、良王君伝、信濃宮伝に記されています。

茶席は椿園(ちんえん)江戸後期の津島神社の神主家で京都歌壇、桂園派の四天王と称された氷室長翁の茶席を明治に譲り受ける。

芭蕉句碑あり(草びれて・・・)     ← 知らない  たぶん  コレ? ↓

                       草臥て宿かる比や藤の花



                       出典は『笈の小文』。
                       貞亨5年(1688年)4月11日、大和八木で詠まれた句。

                       旅の具多きは道ざはりなりと、物皆払捨たれども、
                       夜の料にと、かみこ壱つ、合羽やうの物、硯、筆、かみ、薬等、昼餉なんど物に包て、
                       後に背負たれば、いとヾすねよはく、力なき身の跡ざまにひかふるやうにて、
                       道猶すゝまず、たヾ物うき事のみ多し。


津島川祭り佐屋村に台尻大隅守(だいじりおおすみのかみ)という北朝方の武家にあり祭りにさそい台尻を討つ。この台尻からだんじり船という。稚児門は川祭り祭礼当日に稚児が門より小船で本番に向う。


                      黒宮台尻守のこと?

                      この一族なら知ってたよ
                      げ〜

https://www.bing.com/search?q=%E5%8F%B0%E5%B0%BB%E5%A4%A7%E9%9A%85%E5%AE%88&form=ANNTH1&refig=81b56e7d44394976a3e928bca13a5c92&sp=-1&pq=%E5%8F%B0%E5%B0%BB%E5%A4%A7%E9%9A%85%E5%AE%88&sc=0-5&qs=n&sk=&cvid=81b56e7d44394976a3e928bca13a5c92

大隅守の一族は残らず討たれ、水に溺れて死んだ者が多かった。 宇佐美、宇津宮、開田、野々村は陸にいて、水を泳いで上がって来た者を討ち取った。そのために、この者らは祭の船は出していなかった。 大矢部主税助は台尻の一味の者であったが、良王 ...

津島神社・天王祭 - Coocan
muromachi.movie.coocan.jp/namiai/tusima/maturi.html
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浪合記には、天王社(津島神社)の祭礼の日に、良王の仇敵の台尻大隅守の船を11艘の船で襲ったことが書かれており、それが津島祭の元になったと書かれています。朝祭が、それにちなんだもののようで …

第三次長島攻め - fc2web.com
tenkafubu.fc2web.com/ikko/htm/nagashima0302.htm
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この祭礼が天王祭の起源である。ところが「浪合記」では津島に土着した南朝の艮王親王を守る津島武士(四家七名字)が北朝方の佐屋村の台尻大隅守(=黒宮台尻守)を舟遊びに誘いだして討ち滅ぼしたのが天王祭の始まりとしている。
[43]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月17日 08時18分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 日本語は難しい──「祭り上げる」というのは、「神様にしてしまう」とい
うこと、つまりおだてあげて、実権を伴わない名前だけの役職・地位に上げて
しまう、つまり「実質、はずしてしまう」ということでした。

 伊賀甲賀には服部氏族関連の城砦がたくさんあったということ、これは事実
であったと私も思います。ただ、服部城、服部氏城のように、「服部」の名前
で呼ばれた城がいくつあったかは未知数であります。

 津島の瑞泉寺や大龍寺が、浄土宗西山禅林寺(永観堂)派であったということ、
こちらの笠井の定明寺も西山派で、住職は西山氏と名乗り、寺の字も西山であ
り、いずれにしても平家と南朝に関係しております。

 西山(せいざん)派は、法然の高弟の「証空」が開きました。この証空の出自
は久我氏(但し村上源氏より養子に入る)で、なかなかの家格でありました。
平家とも関係していて、平頼盛の子・光盛の娘(三条局、西蓮)は、久我通忠の
妻となっており、頼盛の旧領地の一部(尾張海東荘、播磨這田莊等)を久我家に
譲っております。ちなみに、久我美子は正に久我家の出身でありました。

 さて、私は伊賀、甲賀、忍者等の書物を沢山備えておりますが、どの本、ど
の著者の情報を信じていいのか疑心暗鬼になります。歴史学者の論文のように
出典が書かれていれば、安心できるのですが、なかなかそういう書き方の本は
少なく、困ってしまいます。もっとも、忍者は秘密裏に動き、証拠を残さない
のが仕事ですので、実態を証明する書物は少ないことは明らかではあります。
 そんな中で、時代にもよりますが、伊賀・忍者についてのオーソリティーは、
奥瀬平七郎氏であると思います。明治四十四年三重県生まれで、早稲田大学政
治経済学部出身。伊賀上野市役所に勤め、上野市長を二期八年務め、忍術観光
の基礎を築く。忍術研究五十年。もちろん既に物故していますが……。
 上野市長を二期務めているということで、ウソは書けないはずであり、それ
がある意味信頼感となっています。書き方としては参考とした書物名を最後に
まとめて示すというやり方であります。
 その奥瀬氏の代表作は、『忍術 その歴史と忍者』であります。
 その本の中で、奥瀬氏はこう言っております──
「この甲賀の地侍たちが、多量に服部氏の部族を含んでいるのは当然の話で(
両者はもともと一つの地域に住んでいて、その地域の最も強大な勢力は服部氏
であった)、その血縁的な関係が長く甲賀と伊賀の忍家を結ぶ、見えざる紐帯
となっていることは、特に留意すべきことである。」
ということです。

 ちょっと用事で中断、続きはまた後で──
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月17日 11時21分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


浄土宗西山禅林寺派って354もお寺さんがあるそうで・・・
驚きました。
わたしの通学路上の、いくつかのお寺さんが該当してました。
知らなかった〜


家康の家が浄土宗だったから家康方の武家は皆さん浄土宗に改宗?乗り換えた?のかもです。

本多正信は一向宗で、一向一揆では家康の元を出奔して反旗を翻して家康と戦っていますから
家康に従う決心をした武士は浄土宗に改宗した人が多かったかも。
半蔵の菩提寺の西念寺も浄土宗です。




村上源氏ですが
千種氏・北畠氏  ともに村上源氏の出です。

        ♪It's a small world!♪

千種家

家紋は笹竜胆。

羽林家の家格を有する公家。
村上源氏久我流岩倉家庶流。
堂上源氏十家の一つ。

久我晴通の孫で、岩倉具尭の四男有能を家祖とする。
家名は、南北朝時代に六条家から分家した六条有忠の次男千種忠顕が千種家の祖。



北畠家

家紋は笹竜胆。

公家の一つ。
村上源氏中院家庶流。
武家としての通字は「具(とも)」。

南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、
伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、
公家大名、戦国大名として戦国時代まで命脈を保った。

また、大名化しても公家としての意識は持ち続け、
伊勢国司家の歴代当主の花押は武家ではなく公家のものであった。

なお、明治維新後、北畠家の家名は中院流久我家の分家として再興され、
男爵に叙されている。


奥瀬平七郎なんて  平家なんだな  です。
平家の七郎   でしょうけど  実際には次男だったそうで
父上は平十郎というお名前だったそうです。



で、いろいろ調べていたら
ひょんなことから
甲賀出身で丸に並び矢紋の親戚の名字と同じで  ホンモノの  甲賀流忍者の子孫にぶち当たりました。
    浄土宗のおっちゃんは死んでしまっているし息子は浄土真宗の僧侶だし  訊けないのが残念

え?ホンモノの忍者の一族だったの?
かも、です。
    
やっぱり  藤林家から分かれて甲賀に行って河内に落ち着いた   という流れのようです。



レス<34>の三つ柏さんお書きの「伊賀4人衆」の  大江系の家(安保弾正左衛門 阿保城じゃなくて)は  まだ思い出せないです。

レス34の直前あたりに  「へぇ〜  大江系ねぇ」と思ってて  三つ柏さんが伊賀四人衆とお書きになって、  
ヲイヲイ ちょっと気になってたのに  誰だっけ?
と記憶が飛んでいます。

            ムカシは記憶力は抜群だったのに
            特にオトコがハナシを変えると「アンタ、あの時XXXって言ったよね」と正確な日付とバショと時間と内容で問い詰めたものなのに。
            アハハ
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月17日 13時13分45秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございました。
本日!頂きました!2冊!
本当にありがとうございました。

9月25日から実に4か月近くかかって  SURFACE メールで届きました。
長旅で  さすがに  真っ白い封筒が垢まみれ状態になって  息も絶え絶え  という感じで
でもしっかり鎧をまとってましたから封筒が破損とかは無かったです。


一向一揆
家康の妻子の死

拝読いたします。


本当にありがとうございました。

     今日は郵便箱を開ける時に全く期待してなかったので
          すっかり忘れていたので
     「忘れた頃に届く」が実現でした。     
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月19日 01時42分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

「古城の風景  II」を読んでいるところです。

知ってる場所だらけで
ああ、ここ?西郷弾正の屋敷跡?  行ったよ〜
という感じです。


作者の宮城谷昌光
本の中からは東三河の人だなというのは分かりましたが
三谷   蒲郡の出身だそうで   え?蒲郡は西三河じゃないの?と思ったのですが
高校は時習館だそうですから   東三河の超優秀な学生だったのか
でした。

                       やっぱり方向音痴かも


宮城谷氏は三河の旧家のようで   豊川とか豊橋あたりの出身のようです。
読んでて  豊橋の近くかな?  せいぜい新城あたりかな?  と思ってましたが  蒲郡の出身なら  やっぱりわたしは方向音痴ということでした。


この人の漢字の使い方は  遥か雲の上で   なかなか難しい。

印象としては
司馬遼太郎みたいな作家だなと思いました。


内容が高度で  なかなか  ついて行けない。
三河の一向一揆のハナシはまだとっかかりを読んだところなので
家康との関係が  まだ  です。


今日は「土井城」を読みます。
ムカシの仕事仲間の家のハナシでもあります。


三河には暫く住んでたので (浜松にも短期間住んでたのを思い出した)  あの時のあの同僚の家のハナシだな  と結構分かり易いです。


明大寺には幼稚園以来の親友が住んでたし。
   でもアソコって東岡崎?
   え?そうなの?
と方向音痴丸出しで迷子になってます。


石川家のハナシが思ってたのと違ってて
やっぱりワタシはヨソ者だから三河武士軍団の根本が分かってなかったな
です。


一応  場所感覚は有るので(本当か?)楽しみに読めます。

ありがとうございました。
[47]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月19日 10時57分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 方向音痴とか土地勘がないだとか、やはり我々は地図といえども立体的にで
はなく、平面的にしか捉えられないことが一番大きいと思います(もっとも京都
のように東西南北碁盤の目のようになっていれば別ですが……)。
高低差を表した三次元立体色彩地図があれば、より画像的に記憶に残るのです
が、その立体パノラマ地図、ずっと以前に本屋さんで見たのですが、今は売って
いないようです。でも、欲しいので、また探してみます。結構高い値段だとは
思います。
 
 さて、昨日は多賀町の十兵衛会の澤田女史とメールのやりとりをしていまし
た。光秀の6番目の出身地としての「多賀町佐目」。ポイントは「多賀大社」
にあります。大きく言えば、交通(陸・水)のスクランブル交差点の近江、そこ
を支配した「六角氏三代」、多賀大社を支配した「不動院」、そこに集まった
山伏(甲賀・伊賀衆)であります。
 1880年代に木村重要が書いて彦根井伊家に献上したという『淡海温古
録』に、明智光秀のたぶん祖父か父にあたる明智十左衛門が、はじめ美濃土岐
成頼に属していたのが、後に成頼に背いて浪人し、六角高頼を頼って近江国に
来て寄生したと書かれています。
 そして、光秀については、ここ近江国多賀佐目にて六角氏の加護の下に育ち、
器量優れていたため、やがて朝倉家に仕えることになったという。
 多賀大社の位置は、六角氏の「観音寺城」や信長の「安土城」の北東15q、
「甲賀」からは北北東25q、「日野」からは北20qであり、「彦根城」か
らは南東7q、「員弁」からは北西30qあたりです。
 また、多賀大社から関ヶ原までは、彦根ルートで30q、員弁ルートで35
qであります。近江の要衝に位置し、近隣の諸国の情報が一堂に集められたも
のと思われます。
 光秀が六角氏から朝倉氏に仕えるようになった理由には、何か深い謎がある
ように思います。おいおい探求して行きたいと思っています──
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月19日 14時43分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


>明智光秀の、たぶん祖父か父にあたる明智十左衛門が、
>はじめ美濃土岐成頼に属していたのが、
>後に成頼に背いて浪人し、
>六角高頼を頼って近江国に来て寄生した

でしょうね。


>>>美濃土岐成頼

この人物の時代あたりに足利将軍家のゴタゴタがあり
       ちょうど本日「土井城」あたりを読んでいた時に  
足利義視・義材の父子の名前など  出てました。

そして美濃国の中もゴタゴタしていく。

       ↓

十兵衛の家が美濃を見限った



そういう背景があって
    明智十兵衛が  教養を積み  諸国を巡り  外交手腕を磨き
    遂には信長に仕えていくようになった
のでしょうね。


だから十兵衛の出生の年が確定してなかったり父の名が不明だったりするんでしょうね。
     ド田舎の明智の庄で生活してたら、あれだけの能力を開花させるのはムリですから。
     それに帰蝶が十兵衛の従姉妹というハナシもフィクションだろうと思います。


__________________

宮城谷氏の作品で  一向一揆を知るのに  三河の事情がちょっと分かりました。


https://syukatsulabo.jp/obosan/article/2157
真宗高田派は浄土真宗の一派で、開祖親鸞の弟子の真仏が開いたと伝えられています。

     ふむふむ  これは知ってる  しかし  内容は知らない

浄土真宗では本願寺派、大谷派が大きな規模をもつ分派ですが、

     ココで迷子。   本願寺派と大谷派?  え?  です。


つまり浄土真宗って3つどころか  10派もあるんですって。



つまり浄土真宗も
一向一揆で暴れた戦う教団と   距離を置いた派があって

三河で距離を置いた真宗高田派には本山と本寺があって
     本山が三重県津市一身田の専修寺  (国宝)
     本寺は下野国高田(現在の栃木県真岡市高田)の専修寺

       本山の住職が本寺の住職も兼ねている



もうワケ分からない。
   うちは西本願寺。これは秀吉から堀川に土地を貰ってお寺を建て
   東本願寺は家康から烏丸に土地を貰って建てたお寺さん
この違いしか知らない分からない。

やっぱり宗教というか宗派というか  ワケ分からない。
[49]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月19日 23時58分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:1880年代に木村重要が → 1680年代に木村重要が

 さて、甲伊一国で区別のなかった甲賀と伊賀の忍者が、伊賀流と甲賀流と
呼ばれ、一般認識として区別されるようになったのは、「鈎の陣」(1487)で
の甲賀忍者の活躍が全国にとどろいてからではないかと、奥瀬平七郎氏は
『忍術 その歴史と忍者』の中で言っています。
 ただ、それは一般概念上のことで、実態としては信長の伊賀侵攻近くまで
は、外敵に対しては伊賀・甲賀一体であったようです。
 
 奥瀬氏はその本の中でこうも述べております。要約すると──

 @甲賀者は、六角氏と一体になって、高頼─定頼─義賢(承禎)と三代にわ
 たって仕えた。
 A義賢の時代に天下急を告げ、甲賀忍家の間にも六角氏に対する微妙な変
 化が現れる。
 Bそれは、鎖国的な甲賀のあり方・結束から、外界に出ようとする動き、
 即ち甲賀者の大量出国という現象が起こったことである。
 Cその原因となったのは、清康より仕え、家康の家臣としてその隠密活動
 の部局を担当した服部保長で、家康に甲賀忍者の雇用を勧めている。
 D保長は息子の半蔵を伊賀の藤林長門に派遣し、長門を通じて甲賀者の説
 得、つまり将来家康は天下を取るであろうということを言い聞かせ、説得
 した。
 Eその結果、半蔵に同心して三河に行く者がぞくぞくと現れ、二百有余人
 に及んだと言う。

 一般的には、保長は伊賀を出国して清康に仕える時、二百人くらいの一族
郎党を引き連れて岡崎に行ったと言われていますが、上記の甲賀者はそれと
は別だろうか。それに半蔵正成が藤林長門と折衝したということは本当なの
か。甲賀者が二百人も岡崎に来ただろうか。伊賀を出国した保長であるので、
伊賀者からは反感をかっていたのだろうか。だから、甲賀者に目をつけたの
だろうか。あるいはここで言う甲賀者とは、伊賀者も含めた形の甲賀者を言
っているのだろうか。
 奥瀬氏のこの情報は本当であろうか。出典はどの書物からであったのだろ
うか、本人はもういないので訊くことはできない……。
 ただ、いずれにしても甲伊一国、甲伊一体というのは、ある時代まで、そ
してある時代を超えてから─は事実だったとは思います──

 
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月20日 02時04分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

今は行政単位で区切って考えるからワケ分からなくなるけど
土地の人にしてみれば
甲賀も伊賀も地続きの隣村感覚で  行き来どころか  通婚もしてたろうし

六角が足利家と喧嘩した時に  小遣い銭稼ぎにアルバイト感覚で応募して甲賀の人が暴れてみた  そしたらウマくいっちゃった  あたりの感覚だったのかも。

で、都の優雅な人々なんて、ワイ等・山で足腰も方向感覚も鍛えた住民にはチョロイもんだぜ
これからも現金稼ぎに精出すか
だったのかなと。



頂いたご本の中に20歳あたりで旅に出て自分を鍛え磨くのが良いと書かれていましたが

山の中でくすぶっていた甲賀や伊賀の若者は自分捜し?自分の実力を発揮したい?と考え外の世界に出たのかな
などと思いました。


それで服部保長も伊賀から出て、足利将軍家に仕えたり、行きついた先が新興勢力の三河の清康のところだったのかなと。

     今川家では幕府内の身分が高過ぎるし組織がしっかりし過ぎて自分の活躍の場は無い、と思ったのかなとか。


だけど半蔵正成が藤林の所にいたというのは考えたことが無く
でも修業に伊賀の藤林家に送られて数年を送った  かも   というのは有り得るのかなとか。


           空想するのは楽しいです


昨夜は一向宗の件でワケ分からなくなって  目が醒めた時は夢を10本立てぐらいで見て疲れて  目が醒めたと同時にどんな夢を見てたかコロッと忘れたので  
寝疲れは無いです。



奥瀬という苗字
三重県山田郡あたりが  発祥か絡むのか   
と想像しています。

平田家継の城について教えてくれた人が  奥瀬氏と一族かな  と想像しています。

         つまり平家の末裔だろうな、と。

    残念ながら  個人的な確認の質問はしなかったので 恐らく一族<だろう>な  です。


母の従姉妹のオットさんの一族(親の世代)には中野学校で教えてた人の名前があったのでヲイヲイでした。
ただし母の従姉妹のオットさんは20歳あたりで終戦で砲兵隊にいた記憶です。だからか60歳代あたりで難聴になってました。


百地というのは    大江氏出身のようです
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%99%BE%E5%9C%B0
現奈良県である大和国宇陀郡の豪族にして北畠氏の武将。
近年、三重県名張市に多数みられる。

百地さんの多い地域 TOP5

都道府県         人数
三重県 およそ160人
奈良県 およそ80人
大阪府 およそ60人
静岡県 およそ30人
東京都 およそ30人

市区町村別        人数
三重県名張市 およそ120人
三重県伊賀市 およそ40人
奈良県宇陀市 およそ30人
奈良県奈良市 およそ20人
奈良県宇陀郡曽爾村およそ10人


ということは百地も元は南朝方だったということでしょうね。
[51]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月21日 00時43分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 静岡県は百地氏が4番目に多い県ということは、どういうことなのでありま
しょうか? ちょっと興味が湧きました──
 
 
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月21日 01時44分20秒 ) パスワード

三つ柏さん!!!
ビックリですよ!!!


      ま、百地氏が静岡に結構いらっしゃるということは
            元は南朝方  後には徳川家がらみか?  その後現在に至るのは  幕末に江戸にいられなくなってか?  
      と思いますが


検索したら
女性天皇反対派?の

百地 章氏がヒットしました:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%9C%B0%E7%AB%A0

生誕 1946年10月4日(74歳)
研究分野 法学(憲法学)
研究機関 日本大学
出身校 静岡大学(学士)
京都大学(修士・博士)

で!!!!!!ここからですよ!!!ビックリマーク多用は!!!!

静岡県[1]出身。

1965年 - 静岡県立浜松北高等学校卒業[5]     だって!!!!!
1969年 - 静岡大学人文学部(2012年から人文社会科学部)法経学科[6]卒業[3]
1971年 - 京都大学大学院法学研究科修士課程修了[3]
1971年 - 愛媛大学法文学部助手(のち助教授)
1985年 - 愛媛大学法文学部教授
1993年3月23日 - 博士(法学)取得(京都大学、論文博士(乙号)、タイトル『憲法と政教分離』」)[7]。
1994年 - 日本大学法学部教授[3]( - 2016年)
2009年 - 国士舘大学大学院客員教授[4]       ま、そうだろうな  と思います
2017年 - 日本大学名誉教授
2017年 - 国士舘大学特任教授[8]
静岡大学では「生長の家学生会全国総連合」で民族派学生運動に関与[9][10]
以下略


ということは  遠江の超優秀な人  ということでしょうね。



なんかね   伊賀で大江氏出身のどなただったかが  すっごく  気になるんだよなぁ
〜  と思ってたのですが   この件だったのかな?


知り合いが伊賀にいた時   高校生の男の子で「百地姓」がいて  「すっげぇ子だった」  と聞きました。
並みの子供の目力じゃなかった、って。


      ワタシはムカシ伊賀上野駅のプラットホームで車座になって喫煙中の高校生達をからかったことがあります。

         「なんだ  何やってるのかと思ったらタバコなんか吸ってるのか。アンタ達ねぇ  ○○知ってる?知ってるよね。  あの人  ワタシの知り合いだよ」

             鉄パイプで殴られるぜ
             でした。



https://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/momoti.htm
伊賀 百地丹波城
三重県伊賀市喰代字城谷

この城の百地氏の菩提寺、青雲寺が建っている所と西側の墓地は、今は細い道によって分断されていたが、元は一つの曲輪であったと思われる。

天正9年、織田信長の伊賀侵攻に対して、百地丹波守正西など伊賀の国人たちは信長に抵抗し、この百地城も落城。 百地丹波のその後の足取りはわからない。 

詳しくはURLへ。


https://kojodan.jp/castle/543/
こちらには詳しい紹介や地図も載ってます。




こちらは  服部家長や平田家継にも行きつくブログかなと想像します。
恐らくワタシはこのブログに行き着きたかったのかな?と今は思っています。

     甲賀のおっちゃんの家は  真言宗だったのかな?宗教のことは分かりません。
     息子は浄土真宗の僧侶だけど。


https://www.igaueno.net/ninjaroad/?p=59
伊賀忍者回廊第十番   永保寺

忍者との関わり
真言宗豊山派寺院。百地氏ゆかりの寺院で百地砦と隣接する。

由来
喰代(ほおじろ)は上野市の東端に位置し、阿山郡大山田村に境を接している。

久米川の源流・妹瀬川は喰代郷の東部の山中に発して西に流れ、
岩坂川は中部に発して北へ流れ、服部川に合流する。

村の集落は両河川の流域、とくに岩坂川に沿って展開し、
今日もなお、農家の多い素朴な郷のたたずまいを保っている。


この印象的な地名は、
早くも『日本霊異記』中巻の
「高橋連東人は伊賀国山田郡噉代(はみしろ)の里の人なりき。
大きに富み財は饒なりき」
の記述に登場している。


当地から大山田にかけて散在する古墳などの遺跡から鞴(ふいごう)や鉄器等が出土しており、
「連(むらじ)」族に特有の技術集団という性格からも、当地一帯に職人の集う村があったとする説もある。


また中世の南北朝期に悪党として活躍した記録の残る喰代彦次郎は当地の豪族・百地氏の祖先とされ、

『宗国史』には、百地氏の鎮守である南浦の津島神社の牛頭(ごず)を村の氏神にしたとされている。


                津島神社?牛頭さん?
                バリバリ尾張の津島神社に繋がるじゃないですか。
                ここで南朝方繋がりだったのかなと想像が行きます。


同書には、牛頭と並んで、麻柄神社、永宝寺(現・永保寺)、正光寺、青雲寺の五社寺の名前が登場している。


当時は『伊水温故』に
「昔八十八町奥東峯ト云山ノ内ニ有リ、野火ニテ本仏ト堂トモニ焼失、其後霊現ニ依(より)今ノ地ニ迂ス 山上十町余ニ旧跡有」
とあり、

『三国地志』にも
「東峯山観音院、按本尊観音古仏、聖武天皇ノ創建ニシテ、永保年間、白河院ノ勅ニ依テ永保寺ト号ス、
後世宝ノ字ニ更ム……天正ノ兵火ニ塔舎悉ク亡テ今存スルモノハ後世修スル所ナリ」
と記されている。

(著書「伊賀百寺」より)



永保寺データ

代表的な周辺名所・史跡等
百地砦
式部(樒)塚
永井城跡

詳しくはURLへ。


麻柄神社などについて次に書きます。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月21日 02時12分56秒 ) パスワード

続き


麻柄神社について検索をかけたら  全く期待してなかったこのURLがヒットしました。
http://www.466-bun.com/f-mie.html


三重県の城(伊勢・伊賀・志摩・紀伊) 
訪城数277城+途中断念10城+未訪城21城=309城+番外3
訪城数更新:2020/09/22
個別ページ追加・更新日 2020/10/25

      ブログ主さん
      勝手にコピペ  ごめんなさい。


ちょっと眩暈がぁ〜

だって何百とあると聞いてた三重県の城砦の一覧表の中で  たった1つに  目が最初に行ったし
従姉の姪の家の城もあるし
志摩に甲賀?
ということで  日本の歴史  今に至るじゃん!
でした。


163 藤林長門守城+藤山摂津守城+城ノ谷館+服部氏城 伊賀市(阿山町)東湯舟城ノ谷 丘城 郭・土塁・碑 ○ 2152 凸凸


258 甲賀城 志摩市阿児町甲賀(甲賀漁港・崎ノ城) 丘城 なし
× 3584 凸


志摩国にも「甲賀」なんてあったの?
と不思議でしょ?

ひょっとすると山の中の甲賀の皆さんは水軍も持ってたのかな?



各地域にジャンプ⇒
 北伊勢(いなべ・四日市など) 
 中・南伊勢(鈴鹿・亀山・津・松阪など)
 伊賀(旧:伊賀上野など・名張) 
 志摩・紀伊    


いやぁ〜
もう今日は熱が出そう。


麻柄神社については
今や  伊勢麻は滅亡寸前のようです。
https://www.facebook.com/iseasa
[54]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月22日 01時22分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 百地章氏は四つ上の先輩でありました。

 いずれにしても、ここ浜松は、徳川家康が29歳(1570)から46歳(1586)ま
で在城していた所。天正伊賀の乱も、本能寺の変もその時代に起こっておりま
す。
 百地さんは記憶にあまりありませんが、甲賀さんとか柘植さんの名前の人は
浜松におり、話をしたことがあります。実際には、伊賀や甲賀から人が結構来
ていたと推察いたします。
 
 清水昇氏の『戦国忍者列伝』によりますと、百地丹波は藤林長門であったの
ではないかと推理しています。藤林氏は東湯舟、そこには服部氏城がありまし
た。つまりは、百地氏も藤林氏も服部族ということなのか──
 いずれにしても、甲伊一国の中で、通婚により、みんなつながっているのか
もしれません。

 多賀市佐目の澤田女史から、服部氏は佐治氏と関係が深いと示唆されました。
 調べてみますと、甲賀の佐治氏は平氏国香流、というかその子である貞盛の
子、維将と維衡の内、維将の系統でありました。平家とも北条氏ともつながっ
ていることになります。
 佐治氏は甲賀の佐治城を拠点としておりました。佐治城は甲南にあり、同じ
く甲南の服部城の東北東5qのところでありました。知多大野の佐治氏はここ
の分かれのようです。服部氏とどのような関係・ドラマがあったのか、知りた
いものです──
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月22日 02時03分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

甲賀さん
なんて名字の方もいらっしゃるのですか。

      たまにテレビで拝見しますが  
      徳川幕府系の所には  甲賀氏  は結構いたんでしょうね。


だいたい  同心は伊賀忍者系  与力が甲賀系忍者で
伊賀系は  半蔵門の守備なのに対して  甲賀系は大手門の守備だった
甲賀系の方が身分が上だった
なんて聞いたことがあります。


      恐らく  大久保長安事件で服部家も連座したから  伊賀系の役割が貶められたのかも  ですね。


駿府や遠江に百地姓が結構いらっしゃるというのは幕末に明治政府によって追い払われたからでしょうね。
駿府に留まったり遠江まで落ちて来たり
かな?

望んで遠江に移ったというなら  もともと  ご先祖が今切の関の警備に関係してたかも知れないし。

     もっと古い時代だったら南朝方に遠江に来てたかも知れないし。


佐治さんという名字は名古屋に結構いらっしゃいます。
クラスメートにいたし母の知り合いにもいたし
尾張の知多半島の佐治水軍もあったし。

平氏系なら  まさに  伊勢平氏=平家は  水軍の家だし。日宋貿易やってるしね。

川や海って  ムカシのハイウエイ  ですものね。


歴史の荒波を乗り越えて  今に至る
ですね。
[56]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月23日 13時01分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智憲三郎氏の『本能寺の変 四二七年目の真実』をもう一度読んでみまし
た。今回はすらすらと読め、明智氏の言っていることが素直に納得できました。
 
 煎じ詰めて、まだ残る謎は光秀の前半生であります。
 本能寺の変の謎はほぼ憲三郎氏により解けたけれど、それは海の上に浮いた
氷山の一角。本当は、海の下に潜っている部分が、まだ隠されている。
 「起承転結」のストーリーでいえば、「起承」の部分が落ちているというこ
とであります。

 どこで生まれ、どう育ち、誰とどうしてきたかという問題。
 そして、服部氏との関係。
 その謎を解く鍵は、「甲賀」「六角」「義昭」「藤孝」──総じて「甲賀に
関係あり」と直感しています。甲賀に一番近い「多賀市佐目」……さらに深く
探ってみたいと考えております──
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月24日 02時27分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


本能寺の変の謎はご本人に尋ねるしかないと思っています。


わたしの友人は「麒麟がくる」は天海僧正の話だと言ってました。
      わたしには分かりません。


1月になってから「麒麟がくる」の展開が早くなって驚いています。
      2か月中止になってたから  巻いてるねぇ〜、です


「平蜘蛛の釜」事件で長谷川博己の明智十兵衛が「罠だ!これは罠だ!」と叫んでいて
      それで    松永久秀  がクローズアップされて来てたのか、です。

      バレてから平蜘蛛の釜を信長に差し出したって
      信長にしたら「そんなもん  どーでもいい。イランから金にでも替えるか」の心境は良く分かります
             わたしも結構ひねくれてるんで  (今更  そんなもん  イラン!)  です。    


      松永久秀にしてみれば頑張って来た自分は認められず名家出身だからと筒井順慶が重宝されるなんて  信長は自分と同じ実力主義じゃなかったのか?!(怒)

            気持ちは分かります。
 
            駿河太郎の筒井順慶  ホント  品が良くて  なるほどなァ〜  でした。


      だけど  これまで誠心誠意の人だった明智十兵衛が信長に「平蜘蛛の釜なんかどうなったか知りません」とウソを言うことになってしまった件

      秀吉の種違いの弟の探りで  信長にウソを言ったことになったのは  大きいな  と。


            あそこから信長は光秀を見限ったのかな?と。


菊丸が家康の諜報機関だと分かった明智光秀が「秀吉には気を付けろ」と逃がすシーン。
菊丸は家康に  「秀吉はヤバイ奴だ」 と報告したでしょう。

       ココで家康と光秀の<確かな>関係が出来たのかな?
       家康にとって光秀は信頼できるオトコ   になった?   


           家康のパパの広忠って「麒麟がくる」では信長に首を取られてましたよね
           この広忠の死因もいろいろ語られてて・・・家康にとって信長は父の仇で妻と子の仇でもある?

               信長の横死は家康にとって内心   ザマァ〜  だった?



信長の「謀反が光秀によるものならば  是非に及ばず」の【是非に及ばず】の意味は何だった? 


帰蝶さんは美濃に帰って  ずっと  美濃にいた?
どうして光秀は帰蝶さんが美濃に帰ったのを知らなかった?
あのストーリーなら帰蝶さんは光秀に「あたし  美濃に帰ろうかと思ってるの」と言いそうなのに。


       いったい「お駒さん」は何なんだ?
       全然必要無いのに

       それに  光秀の娘の「たま」は  ただのバカ娘みたいな扱いだったし


すっごいハナシが飛ぶなぁと  その割に   必要の無いハナシが多いし
とにかく2月の初めに最終回に持っていかないといけない観が見てとれて
ヲイヲイ
です。



明智光秀ほどの人物の父親が不明ということが   アリエナイ!
つまり勝者によって
    秀吉によって完璧に消され
    徳川幕府にも  弑逆は大罪とされ
    さらに
    明治政府によっても  光秀は許されざる人物  とされ

結局我々には   光秀とは何者か  全く分からない  で終了  なのでしょう。


細川家なら光秀についての本当の姿は書き残されていると思うのですけどね。



石田三成は徳川幕府には大犯罪者ですが   彼は  「義の人」  という部分は結構伝わっているし
大谷刑部にとっての大親友  それこそ  刎頸の友  だし。   この部分  日本人は好きだと思う。


光秀は結局は今に至るも「謎」のまま
いえ
逆に「謎」が深まった。


とにかく築城の天才だし教養人だし交渉がうまいし
美濃のド田舎からのポッと出なんて描写はアリエナイ。


     「平蜘蛛の釜事件」でドジったのかなぁ?
      ソコんとこを見抜いたスパイを持ってた秀吉の方が1枚上手だった
      かな?
[58]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月24日 08時35分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松永久秀という人間、過小評価というか、最後に信長に背いた結果、おとし
められていると言った方がいいと推察しています。光秀も弑逆の輩として、お
としておとしめられています。

 この松永久秀と明智光秀、一般的にはその交流はあまり書かれていませんが、
本質的にはこの二人は気が合うというか、そんな質を持っています。私が思う
に、この二人、かなりの交流があったのではないかと推察しております(大河
でも交流は表現されていますが……)。

 藤岡周三の『松永久秀の真実』という本がありますので、この中からこれは
と思われる箇所を拾ってみます──
[59]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月24日 22時09分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松永久秀という男、明智光秀と似ているところが大いにあります。
 まずはその@、前半生(39歳まで)が不明であるということ。
 明智光秀と同じ現象。
 これは、知られたくない不都合な事実があり、削除・歪曲されたと推察いた
します。しかしながら、ただ今のところ、それが誰にとって、どんな体制にと
って、何が都合が悪かったのか、見つけ出せれておりません。これから見つけ
てみようと思います──
 
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月25日 01時42分51秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございました。


明智光秀の方が出自はハッキリしてるでしょうね
    土岐氏の流れ
    しかし美濃に内訌があって斎藤道三の父親と道三への反発があって
    叔父さんが明智の庄を守って
    パパと祖父ちゃんは美濃には戻らなかった

    美濃出身者だから美濃からスグ近くになる京都や越前やら若狭やら近江やら摂津あたりには土地勘とかあったと思う

       土岐氏の出自ということで足利幕府の面々には伝手があったからこそ
       近江やら越前やら丹波やらには自由に往来した?
       六角や朝倉や細川やらとは親交があった?
       当然朝廷にも何らかの繋がりがあったろう

          だから足利幕府での礼儀なんかは知ってただろうし
          朝廷での公家に対する振る舞いとか饗応の仕方とかも知ってただろう


一方松永久秀の家はもっと零落してたんだろう

たぶん南朝方だったんじゃないかな?      ワタシはココにシンパシーを感じる
それで河内とか阿波とか奈良とか京都とかの土地勘はあったんじゃないかな?
そのために三好家を利用した?



平蜘蛛の釜事件で   エッ  と驚いた。
わたしは松永久秀は平蜘蛛の釜と心中したとばかり思ってた。
ところが  違う解釈に  エッ?  と驚いた。


平蜘蛛の釜は  松永久秀から光秀に託された「バトン」?


ま、「麒麟」が明智光秀なんだろうけど   
           光秀は足利義昭を麒麟にしたかったろうけど   ← 意外
           これでは光秀はやっぱり足利幕府の構成員の土岐の庶流でしかない
           だから自分が「麒麟」になる決意をして信長を殺した?  


                だからタイトル通り「麒麟」は主役の光秀
                
                    だけど秀吉の方がずっとカシコク  ウワテ  なんだよね

                          つまり  アホか  って感じ。


で、実際の「麒麟」は家康だった、と。

        え?
        ボロボロじゃん。
        あ〜あ。


今日  午後3時から放送です。
今日入れて3回ですよ。
3回でどうやってハナシを纏めるの?

やっぱり光秀がドラマ並びに歴史の主役というのはムリがあるなぁ
と思う。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月25日 16時29分04秒 ) パスワード

「麒麟がくる」
すごかった。   「日本だな」  と思った。
光秀  気の毒。 あれが日本人の本性なんだろうな  それを後2回で視聴者に突き付ける?


みんなに期待されて
光秀はその気になって信長を斃して
そして  その後みんなに裏切られる  ってシナリオ。

あれは、結局、光秀は裏切られるってコト=  つまり  日本  =だと思う。

   慣用句では  二階に上がって梯子を外される  とか  掌返し  とか。


みんな光秀に信長への不満をぶちまけて  「光秀  なんとかしてくれよ」「お前だけが頼りなんだよ」  とお願いしておいて  
光秀を裏切るんだ。

「麒麟がくる」って  そーゆーハナシか。


これはロスで働いてた時によく見てた景色。
蔭でブツブツ文句を言うくせに  「じゃ、一緒に立ち上がろう」   と言うとみんな逃げる。
コレ  日本人。

    もっと悪い例をいくらでも見た。


中国人や韓国人は  1人のために みんなで  徒党を組んで  斃しに行くのを見てた。
    あ〜
    日本人とは違うな
    って。


前回  「たまさん」の描き方に  なんでこんなバカ娘の姿にしてるんだ? と思った。
関ケ原であんな死に方をしたガラシャを  ただの小娘  としか描いていないのに  とっても残念だった。
なんでこんな安っぽい脚本?と。


前回既に関ケ原での「たまさん」の姿の前哨戦として、カシコイ「たまさん」を描いてたら良かったのに  と残念です。
だって後2回しか残ってないんだもの。


でも今回のドラマで  「日本人とは」  を描いてたから   
ま、いいか。


だけど来週?再来週?の放送で  まさかの細川父子にも裏切られる光秀が気の毒過ぎる。


今回の「岸さん」の言葉  「荒木の家で死にたかった」のせりふ  なるほど「ガラシャ」が細川邸で死んだのは姉の言葉があったからか?

    でも岸さんは左馬之助と再婚するから  その時は  荒木の家で死ななくて良かった  と思ったのかな?
    それとも
    荒木一族が族滅されたトラウマに苦しんで  光秀の死で左馬之助に殺して欲しいと頼んだのかな?



      あの荒木村重と息子達は毛利に逃げてるのよね   後に秀吉に仕えてるし
      村重も喰えないヤツだけど
      秀吉は光秀を討つのに毛利と講和してるから
      やっぱり秀吉ってウワテを行くヤツってことだったんだな  
      と妄想した。
      案外村重が毛利と秀吉の講和の仲介をしたのかもね。

           村重にしたら自分の一族や重臣達を惨殺した信長より
           かつては親戚だった光秀に憎しみを持ってたかも知れないし。

  

天皇も公家もみ〜んな秀吉の大返しで光秀を裏切るんだから  あと2回  気の毒で見てられるかなと思うけど
作者はどういう驚きの「救い」を用意しているのかな?と脚本に期待もしている。


まさか光秀にとっての最期の救いになる女が「お駒ちゃん」じゃないよね
げ〜


あと2回
こんなに最終回での  主人公の姿  が想像出来ない大河ドラマって  あった?  です。


家康
ずっるぅ〜

コイツが一番ずるい
と思った。

一番信長を殺したかったヤツじゃん。


今回の家康と 堺から逃げて伊賀越えする家康が まだ結びつかないです。
本日の謎でした。



将軍義昭
自分は名のみの将軍であって
毛利にも自分は実はメンド臭いヤツと思われてると分かっていると光秀に告白するところが
良い脚本だった。

演出の鯛釣り
あれは本当だったのかな?
魚釣りなんてムカシの最高の暇潰しよね。


鞆へ義昭に会いに行ってたのも信長にバレてたんでしょうね。
天皇に会ってたのもバレてた。


オソロシイね
みんなバレてる。
これも「日本」だよね。

本人だけがバレてるとは気づいてない。


今回の「麒麟がくる」
日本と日本人について久し振りに職場の権力闘争を思い出した。
[62]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月26日 00時55分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松永久秀の三悪─悪人のイメージは仕立て上げられたものであると藤岡氏は
言う。もっとも、信長も光秀も、そのイメージは仕立て上げられたものであっ
た。つまり、その時の権力者、あるいは後の権力・思想、あるいは学説等によ
り、人物像は変えられてしまう。信長と光秀は両方とも死んでしまい、生き残
ったのは秀吉と家康、プラス藤孝である。つまり秀吉がそのイメージを作り、
家康と藤孝が協力した形であると明智憲三郎氏は言う。
 松永久秀の場合は、悪者にすることによって得する者は信長、それに家臣の
秀吉、家康、光秀、藤孝が協力したと推測いたします。たぶん、そこには隠さ
れた謎がいくつもあるのではないかと推測いたします。
 松永久秀は、@前半生が謎、A家格が高い、B教養が高い、C築城の技術に
たけている等、考えてみれば光秀と全く同じ状況なのであります。久秀と光秀
は絶対気が合う者同士であったのではないか。立場上、久秀と光秀は戦うはめ
になってしまったが、底通していたのではないか。
 それは、久秀が、柳生宗厳の家臣となっており、伊賀忍者と通じているとい
うこと。光秀は服部家の妻を召されているということ。これらの事実はそれを
物語っていがるような気がいたします──
[63]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月26日 01時01分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正です:久秀が、柳生宗厳の家臣となっており → 久秀が、柳生宗厳を家臣
      としており
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月26日 01時49分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


詳しく書いてくださって  ありがとうございました。


やっぱり久秀は南朝方だったろうという思いが強くなりました。

戦国時代末期は南朝方だ北朝方だなんて既に過去のハナシですから
南朝方が負けてから久秀の家が零落して歴史から松永氏の名が消えていたんだろうと思ってます。


久秀は実力でのし上がって
光秀や信長に築城について教える能力を身につけ
教養に磨きをかけ

    それにしても筒井順慶役の駿河太郎のステキなこと!
    鶴瓶の息子だなんて  ガチョウが丹頂鶴を生んだ  みたいで
    信じられない  今でも   これが突然変異?


久秀は苦労したんだろうな、自分磨きに励んだんだろうな

光秀との共通点がいろいろ有りますね

死にざまも良く言われないし。



今回の「麒麟がくる」には伏線がいっぱいで
家康が三条西の爺ちゃんにお歌を習ったというシーンがありましたよね

          習ったのはお歌だけじゃないだろうし

春日局が家光の乳母になるのは三条西公国に養われてた縁の伏線なのかな?と。
だから家康が斎藤利三の娘を3代将軍家光の乳母に抜擢したのかなと


とにかく1月になってから  伏線多過ぎ!
後2回でどうやって回収するんだ?
です。


昨日の回だって「離れゆくこころ」だって
いろいろな武将たちが「信長さまにはついていけない」と離反する
天皇も信長には危うさを感じている

光秀にはすごいプレッシャーだなと。


だけど「麒麟がくる」の配分はメチャメチャでしたね
   でも斎藤道三のハナシは素晴らしい出来だったしモッくんも素晴らしい俳優だった。

ドラマのアタマは素晴らしかったのに  竜頭蛇尾で   バタバタと本能寺の変に畳みかけて来てる

こんなドラマの作り方って  アリ?  です。
それにワケ分からない架空の人物が多過ぎて  重要な役割をやらせ過ぎだし


肝心の主役の諜報機関はマヌケだし。

     なんだよぉ〜(怒)
     とガッカリの連続。


今は  家康の伊賀越えについて  
     光秀の軍勢から逃れるとか  野盗から逃れるとかじゃなくて  
秀吉から逃れるためだった?  とまで勘繰ってます。



うちの近所に朝比奈さん系の人と久秀の子孫がいて   両者とも  北海道(屯田兵)の出身です。

   朝比奈さん系は家康を良くは言わない
   久秀の子孫は(ケーブルテレビを契約してないから)令和の久秀像は悪人扱いじゃないというのを知らずにいる


今回の「麒麟がくる」はこれまでの先入観をぶち壊す素晴らしい作品だと思います。

我々日本人は  秀吉 → 家康 → 明治政府 → 旧日本軍  が押し付けて来た歴史観に縛られて来たけど
みんな  人間には  奥行きがあるんだ  と「麒麟がくる」で教えられました。 


松永久秀
本当におもしろい人物でしたね。

くわしく書いてくださってありがとうございました。     
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月27日 01時14分32秒 ) パスワード

昨日月曜日スネイル・メイル(原始メール)で雑誌の切り抜きを郵送しました。
2−3週間後には届くと思います。


ところどころ和訳が変だったり  計算間違いしてるかも。

28x2=  58  とかね(赤面) 気がついたけど。

そろそろ確定申告の記入を始めるんですが
電卓を使うと我が家の収入がアメリカの歳入より大きかったりします。
      ♪夢はデッカイ方がいい〜♪
これで元銀行員、それも日本の誇るメガバンクに腰掛けてたなんて
元尾張藩ご家老の家にはしっかり泥を塗りまくりました。


他に3点ほどお送りしたかったハナシもあったのですが
      捜すと、見つからない!
      断捨離してたのかも   高貴なお方達のプライバシーに関わるから
      もう1つはブラジルのサッカーチームの件(この時にワールドカップってすっごく小さいと知った)

湿度と火山灰と埃の3点で手がガサガサネトネトになったので諦めました。
ま、出て来たら、送ります。   
[66]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月27日 23時16分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智憲三郎氏の『明智家の末裔たち』(大河ドラマの直前2019年12月に出版)
を読んでみました──

 氏は、2009年に『本能寺の変 四二七年目の真実』、そして主だった本と
しては、2015年に『織田信長四三三年目の真実』、2016年に『本能寺の変は
変だ』、2018年に『光秀からの遺言』を矢継ぎ早に出版しております。

 明智光秀、特に「本能寺の変」の原因説としては、1958年に出版した高柳
光寿氏の『明智光秀』による「野望説」が戦後の原点となっております。こ
の高柳氏は偶然にも私の高校の先輩であります。
 まぁそれはさておき、憲三郎氏の思考方法は、理系の論理、数学的論理に
よって遂行されており、私も同じような論理思考でありますので、ほとんど
において共感を持っております。この場においては「本能寺の変」について
の論考は避けておきますが、憲三郎氏の推論で大筋いいのではないかと思っ
ております(第一冊目の図書に書かれています)。
 もっとも論理で割り切れないものも、人間や歴史の中にはありますので、
そこには想像・ロマンの入り込む余地があります。私はどちらかといえば、
その想像・ロマンは謎解きの最後の砦(想像=推理=仮説立て→実証)として
大事にしたいとは思っております。 
 
 さて、憲三郎氏の膨大な情報収集と情報分析能力には、今やかなう者は誰
もいないのではないかと思われます。光秀の子孫と言われる方々からも、口
伝や時には関連すると思われる遺物が伝えられております。大変貴重な要素
を持った情報だと思います。点と線をつなぐ推理の状況証拠であるとも言え
ます。
 一つだけ、情報として逸しているのは、明智光秀の出身地についての第六
番目の説であります。タイミング的には、「多賀市佐目」が表に出たのは、
大河ドラマの直前でありますので、憲三郎氏も一度これを検討する必要があ
るかと思います。

 憲三郎氏は、服部家出身の光秀の妻についても、最大限の情報を収集し
ていました。これにはさすがだと畏敬の念を抱きました。
 氏は、「どのような経緯で伊賀の国衆の娘を光秀がめとったのであろうか
?」と考え、推理した結果、「信長は伊賀支配のために国衆との融和を進め
る必要があった。その一環として、喜多村出羽守の娘を光秀にめとらせて姻
戚関係を作ったと考えられる。」としている。
 この推理、概論的にはそうかも知れません。でも、論理的世界に出てこな
いいわゆる忍者の存在というものが、戦国時代には常識的にあり、どの武将
も採用しております。ただ、影の存在ゆえ、論理、実証からはかけ離れてい
るところがやっかいな所であります。
 明智家と服部家の関係、そして光秀と服部党との関係、それは信長の介在
するものであっただろうか、偶然の出来事であったのだろうか?
 その謎解きの鍵となるのは、光秀の「多賀佐目出身説」だと私は睨んでい
ます。つまり、南近江の多賀と甲賀のつながり、南近江の支配者六角氏と甲
賀衆とのつながり、甲賀にも服部氏支流がおり、甲賀五十三家、二十一家の
一家ともなっております。
 光秀の前半生が南近江多賀佐目であるならば、蓋然性はかなり高まるとい
うことになります──


 
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月28日 02時32分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


重要人物を忘れていらっしゃいますよ。


わたしは  光秀と喜多村の娘との結婚は  信長ではなく家康の仲介だった  と思っています。

      その背景=家康に2人の結婚を進言した人物=は服部正尚と母方の青山家に養子に行った青山成重兄弟=ではなかったのか?と。さらに半蔵も!

      服部正尚!忘れていませんか?
      西郷局の養父ですよ。   2代目将軍秀忠の生母の養父ですよ〜

      そして青山成重は秀忠の後見役ですよ〜


名張城主服部出羽守保章は正尚・成重の叔父さんですからね。
      正尚・成重兄弟の従兄弟の保光は若死にしてるので
      忘れ形見のその娘を保章の娘として明智光秀と娶せた   
      のでは?と。


さらに書けば
千賀地<中>服部家保遠の子が

A半三保長で  その息子が半蔵正成
B正清で    この息子が 

                     (1)平蔵正信 → 正尚・青山成重
                     (2)保章で  → (保光若死に) → 光秀後室


人間関係がヤヤこし過ぎるから  ツイツイ  我々は忘れちゃいますが
人間関係の基礎は    血と友情      友達の輪っ  ですよ。

特に武士(とか公家とか)の基盤は血縁関係姻族関係です。これをいかに広げるか。


      1人の人間を語るのに  どこでどう  誰と繋がってたか
      これを忘れてはいけません(あはっ)

                  わたしもコロっと忘れてた
                  ツイツイ近視的に見てしまいますね



光秀の「多賀佐目出身説」については
光秀のパパと祖父ちゃんは足利幕府ガタガタの時に畿内とその周辺をアチコチしてたんじゃないか
           将軍義輝でも京都に居られずアチコチ放浪してますからね

だから光秀のパパや祖父ちゃんがいたであろう所では
光秀が<いた・生まれた>場所伝説というのがあっても当然と思っています。


母親の名前がハッキリしてないというのはムカシは当たり前だったろうけど
父親の名前までハッキリしてないって   どうなの?  
それだけ光秀に関しては秀吉の徹底した粛清改竄隠滅があった ということでしょうね。


光秀子孫で明星姓というのが有るそうです。岐阜県の山県市だったかな?


ロス時代の同僚で石田三成の子孫という人がいました。
ま、わたしが「うちは信長にボロ負けして、村の人達は大量虐殺されたけど、それでもウチは許されて、わたしが存在してるわけだけど」と言ったから教えてくれました。

      服部姓でも西軍方の人物はいましたからね。


出会った瞬間に  わたしは  互いの先祖の関係が分かりますからね。

     と言っても日本人の当時の人口の20%のそのまた一部エリア限定の人間についてですけどね。


石田三成の子孫の人はロスからニューヨークのカリスマ美容師にアタマを刈ってもらいにワザワザ行ってましたね   黒柳徹子の美容師かな?

帰りの便に乗り損ねたら満額払ってロスに帰らなきゃ仕事に間に合わないのにとコッチはハラハラしてましたが
デルタは便数が多いから  ま  いいか  と思って 大先輩のやることを見てました。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月28日 02時44分28秒 ) パスワード

さて  散歩に行くか  と読み直したら  気付きました!


なんで  服部中保次  なんだ?  この<中>ってどこから来てるんだ?   と長年不思議でしたが
答えの1つが分かりました。


上のレスで書いた   千賀地<中>服部家  という意味の<中>か?と!


服部中保次は  宗清子孫で宗純子孫  と家譜に書いてるけど  <中>服部の出  ということだったのか。

へ〜
[69]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月28日 11時02分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがです。たぶんあを様の言われることは正解に近いと私も思います、つま
り、服部と明智の間の介在者、もう一つは服部「中」の問題。
 いずれにしても、もう少し、具体的な状況、要件を詰めて行きたいと考えます。
 
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月29日 01時33分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

スネイル・メールで送った情報の  ソーディアム = ナトリウム = 塩  ですが
男の人には  分からないかな   と思い  補足です。


ナトリウム塩は   1000r=元専売公社の  イワユル塩の 2.54g に相当です。


だから食品のナトリウム=ソーディアムは摂り過ぎ注意です。


もう一方のポタッシアム=カリウム塩=の方は
身体から塩分を排出するのに必要なので
     摂れ!
と言われています    (アメリカの推奨量は日本の倍!)


しかし!
腎臓の悪い人は別で   カリウム摂取がヤバイので  ブロッコリでも食べるな  と言われます。

つまりバナナもヤバイわけだ。


     バナナは免疫力を上げるのに玉葱と並んで最高の食材なのに
     それに脚がこむら返しを起こす人には最適な食材なのに
          だけど剣の刃でポタッシアムが多いからヤバイ(笑)


わたしは  イワユル塩   ムカシ専売公社が扱ってた塩  は台所にはありません。

    持ってるのは  ヒマラヤのピンクソルトと  ハワイの赤い塩です。
    それでも工業的に作られてるので  「自分で作れ!」  だそうですよ。

       庭で塩田作るか?
       花崗岩由来のビーチの砂があれば  最適!だね(笑)



とバカ話を書いてて1つ思い出しました:

今回の「麒麟がくる」で光秀が丹波攻略に苦労しているハナシに
「丹波の赤井」と出てましたね。

あの  俳優の  赤井英和のご先祖さま  です。
丹波の悪党  赤井氏  です。



次回  赤井英和がご先祖さま役で出演したら  面白いのに。
[71]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月29日 06時56分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 信頼できると思った史料も、ガチガチの真実(リアリティ)で構成されている
ものではないということを最近つくづく感じます。つまり、歴史には表と裏が
あり、立場によっていずれかに振れるものであり、どこに真実があるかという
ことは、今の我々の想像・推理により形成されるということを、最近つくづく
感じております。
 そういった意味では、一次資料(本人等直接史料)で一級資料(客観的に検証
された史料)というものは、いかに大事かということはよくわかります。が、
かと言って、そういう史料はざらにあるものではありません。
 そうした中で探求し続けて行くということは、人生と同じ。ひたすらに歩き
続けること。歩けなくなったらば、夢の中でも歩き続けるということ。それし
かない……。
 タイムマシンに乗って、本能寺の変直後に行って世間のうわさ話を聞いてみ
たい。明智光秀をみんなどう思ったのか……悪者と罵られただろうか、それと
もよくやったと拍手喝采を浴びただろうか? 一般民衆は、概して後者の方で
はなかったのかと私は推察するのですが……。
 
[72]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月29日 07時05分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

訂正:明智光秀をみんなどう思ったのか→明智光秀はみんなからどう思われたのか
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月30日 02時18分41秒 ) パスワード

昨日長々と書いて削除しました。


日本の歴史の一番簡単な「真実」の出し方は  天皇陵の公開調査  じゃないでしょうか?

そして歴代天皇の遺髪とか遺歯とかから  いろいろな国の医療機関にお願いしてDNA検査をしてもらう。   当然  除:日本の機関(笑)


日本国・日本民族の基盤とするアイデンティティは 「 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 」 「万世一系」 なのだから
これがどの程度のハナシなのか  科学的に検証して欲しい。


まずココからじゃないでしょうか?


神武以来126代に亘る天皇   もうすぐ皇紀2681年を迎える
だから今こそ   ココんとこ  しっかり科学的に検証して欲しい。  


日本の歴史って  神話と事実がゴチャゴチャ。  
日本人は今に至るも伝説とか説話とか大好きだし。
だからウワサがいっぱいある。


だけど真実の追及って   宮内庁が絶対に一番  反対するよね。
天皇自身  自分のY染色体がどうなってるか  知りたくもアリ知りたくもナシ  だろうし。

       事実が分かったらコワイよね
       いろいろある噂が本当だったらヤバイし

わたしだって10年以上前にDNA検査をしてるから天皇もやってるかもね。


今回のコロナの件で  ネアンデルタール人のDNAのアルファベットがどーたらだから なんちゃら  なんてNHKがやってたけど

     そんな何万年もの前のネアンデルタール人がホモサピエンスと交雑したハナシより

たった2681年間の真実の追及の方が日本人には意味有るだろうに

     と、見てて思いました。



昨日おバカなことを知りました:
先祖が元寇に参加せねばならなかったのは九州に土地を持ってたから(肥前国神埼荘)。
佐賀って知ってたよ。

だけど土地勘が無いから  佐賀のどこ?
佐賀佐賀言うけど佐賀のどこだよ

と思ってたら

     なんと佐賀市の東隣だったんだね   久留米の西  糸島のずっと南の方


博多湾の石築地=元寇防塁=は見に行ったから  先祖はここで「後ろ築地」で頑張ったんだなと。


過去の先祖のせいか 佐賀の男の子とは何か引き合うものがある。

最初は小学校の時の同じ班の玉葱にそっくりな男の子
最後はロス時代の知り合いの江藤新平先生のお宅のお隣さん 

    特に江藤新平先生は 正式な名のりは平胤雄  本姓平姓、俗姓千葉氏  家号が江藤ということ


わたしは女性だからY染色体は持ち合わせて無いけど  佐賀のオトコには基本的に惹かれる
      (美形だなと思うのは福岡男子だけど)

DNAを共有してるのかな?
江藤新平ちゃんの場合は父方母方でどっぷり繋がってるんだし。


ホント!天皇のY染色体について公表して欲しい。
日本の歴史を語るのはソコからだ。



     江藤新平ちゃんの隣の家の男の子の住所を失念して
     「江藤新平先生のX隣の男の子」
     と書いて郵送したら  ちゃんと  届いた。
     笑

     水沢の友人に手紙を送るのに「高野長英先生のお宅のX隣の○○さん」もやったことがある。
     この時もちゃんと届いた。  


     なのに姉に手紙を書いた時は  1字書き忘れて  戻って来た。
     1字違いで慶応大学の場所になるから。


ま、歴史的事実の裏付けが失われているからこそロマンが生まれ小説の出番。
そして大衆の支持を得られれば虚像が独り歩きする。

やっぱり天皇の実体をハッキリさせることではないでしょうか?
[74]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月30日 12時06分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊賀上野観光協会発行の『伊賀流忍術秘伝の書 煙りの末』という本を読ん
でいましたら、「甲賀の山岡美作守景隆は、明智光秀と親類関係にある」と書
いてある部分に出くわしました(但し、それについての説明はなしです)。
 もしこれが本当なら、私が待望する「光秀と甲賀をつなぐ架け橋」となり得
ます。
 すぐにその件について調べてみましたが、なかなかどっこい、その証左を見
つけ出すまでには至っておりません。

 あを様のお力を是非お借りいたしたく、お願い申し上げます──
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月30日 14時19分08秒 ) パスワード

三つ柏さん

甲賀の「山岡氏」が明智と親戚になるハナシは知らないのですが  
接点は   確かにありますね。


山岡氏はもともと近江国の名家出身ですね。
山岡景隆も光秀を裏切ってますね。


       このブログによると  三河から甲賀に移ってますね
        https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/4f0aa6e5ad6db2238a35d36c3789f8a2
       山岡氏は「新訂寛政重修諸家譜」によれば、
       鎌倉期の貞景の代に三河国より甲賀郡大原村に移って大原氏を称した。
       子孫の景廣は甲賀郡毛枚村に住し、毛枚氏を称した。
       さらに景通の代に大鳥居氏、資広の大に栗田郡瀬田城に移って山岡氏を称し、
       以後栗田郡を拠点とした。
       室町期の事である。


________________________________________

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E6%99%AF%E9%9A%86
全文はURLへ

大永5年(1525年)、山岡景之の子として誕生。
当初は六角氏及び足利義輝に属していた。
なお、浪人していた山内一豊を家臣として召し抱えたこともある。


永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、信長から降伏勧誘を行われるが、これを拒否し、近江南部の国人の旗頭として抵抗した。

しかし、永禄12年(1569年)には織田軍の攻撃を受けて大和国柳生氏の領内へ逃亡、
一時は松永久秀に人質を差し出しこれに属したが(『柳生文書』)、後に信長に降伏し、その家臣となる。

                   柳生氏や松永久秀とも関係もあったんですねぇ

織田家では佐久間信盛隊に配属された。


景隆の信長に対する忠誠心は厚く[3]、また信長も先祖が甲賀出身である景隆の家柄などを顧慮して、甲賀衆の指揮権を与えていたという。

元亀4年(1573年)からの信長と足利義昭との戦いでは信長側に付き、槇島城攻めなどで戦功を挙げた。

天正3年(1575年)頃には、上洛の行き帰りに信長・信忠親子が度々、勢多に宿泊するなど、かなりの信用を得ていた様子である(『信長公記』)。

天正5年(1577年)の雑賀攻め、天正9年(1581年)の伊賀攻めにも従軍した。

天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が死去すると、明智光秀から味方になるように勧誘されたが、景隆はこれを拒絶して瀬田橋を落として明智軍の進軍路を妨害するなど抵抗し、山岡一族は山中へ逃走。


羽柴秀吉方に逐一光秀軍の行動を報告し、このために明智軍は安土城に進軍するまでに手痛い被害を受け、また時間的余裕を失ったとまでいわれている。

その後は織田氏擁護の立場から柴田勝家に与して、台頭していた羽柴秀吉と敵対する。

しかし天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで勝家が討たれると秀吉に降伏。
助命はされたが弟・景佐と共に所領を没収され、以後は甲賀に隠遁した。

天正13年(1585年)正月14日に死去。享年61。

_______________________________

次に名家としての山岡家について:

まず  「山岡」姓は  近江国甲賀の大伴氏の末裔  だそうです。
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%B1%B1%E5%B2%A1
以下コピペ:

@現滋賀県である近江国甲賀郡山岡村が起源(ルーツ)である、伴氏(大伴氏の子孫、古来の大族)。

Aほか葛野連。

B清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)頼政流。

C中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
などにもみられる。


___________________________________


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yamao_k.htm

以下コピペ

山岡氏は伴大納言善男の後裔といわれ、     スゴイ!
近江国甲賀郡山岡邑から発祥したと伝えられる。

『近江栗太郡志』所収の「山岡系図」によれば、「伴姓、紋丸の内横木瓜なり。景行天皇の末葉、伴大納言善男の九世の孫・伴四郎資兼が末孫資業」が近江国大原に住んだとあり、世にいわれる近江伴氏四党のうちの大原一族である。

                    略


山岡氏は近江勢田城を本拠として佐々木六角家に仕えて、乱世を生きたのである。
とはいえ、山岡氏の動向が確実な資料に現われるのは、戦国末期であり、
中世を通じた歴史は不詳というしかない。

戦国時代末期の山岡景隆は、足利義晴、足利義輝らに仕え、「功名が辻」で知られる山内一豊を召し抱えたこともある。

                      凄いね!

永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛、信長に抗した六角氏は没落した。
このとき、山岡景隆は江南の旗頭として信長に抵抗した。

翌年、信長は三好三人衆を討伐、山岡景隆にも参陣を命じた。
しかし、景隆はそれに応じなかったため、信長の攻撃を受け大和に奔るということもあった。

                       ココで柳生や松永久秀と関係が元々あったというのが分かりますね

元亀二年(1571)九月、織田信長が延暦寺焼き討ちを敢行した頃に織田氏に臣従したと推定されている。


                 略

景隆には景佐・景猶・景友らの弟があり、景友は園城寺光浄院の僧侶であったが還俗、
元亀三年(1572)、足利義昭から山城半国の守護に補任され、山岡道阿弥の名が知られる。

天正元年(1573)義昭が信長に反旗を翻すと、西近江で呼応し、近江の一向一揆を糾合して石山・今堅田に城郭を築いて呼応したが、あえなく落城、
明智光秀の軍に降伏したようだ。


                      ↑
                   ココで明智光秀と山岡家との関係が出来た  ということですね

                   ところが!
                      ↓

景隆は織田氏に仕えて瀬田に在り、
本能寺の変に際しては瀬田橋を焼き落して光秀を苦しめた。

二男景佐も膳所城主として信長に仕え、天正十一年には秀吉に属して伊勢諸城の攻撃に参加している。


ところが、同年四月、賤ケ岳の合戦に際して、景隆・景佐の兄弟は神戸信孝・柴田勝家に内通して発覚、所領を没収されたが景佐は家康に仕えて家名を全うした。

景隆の子景宗も信長・秀吉に仕えて馬廻りを務めて近江・河内に千五百石を与えられ、大坂落城後に家康に仕えた。

景宗の弟景以は豊臣秀次、のち秀吉に仕え、関ヶ原戦後は家康に仕えて九千石を領する旗本となった。

また、景佐の系も徳川家旗本として続いた。

山岡家諸氏は挙って「石持ちに木瓜」を家紋に用いたが、これは近江伴氏に共通した家紋である。

また、祖先が筑前多々良浜の戦功によって足利尊氏から与えられたという「二つ引両」の紋も使用した。
  


________________________________
探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -4 公方屋敷跡、山岡城跡
https://plaza.rakuten.co.jp/asobikokoro2/diary/201712160001/


大原村はJR甲賀駅の東方一帯にあたるそうです。
甲賀駅の南東にあり、午前中に2番目に訪れた大原城が大原氏ですから、この山岡城跡もかつては大原同名中惣の中に含まれていたのでしょうか・・・・。
甲賀五十三家には、毛枚氏、大鳥居氏、山岡氏という家名は存在しませんので。


     このブログ主さんと
     最初の方にコピペしたブログ主さんのお話が呼応しますね

              もう1度コピペしてみますね

     https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/4f0aa6e5ad6db2238a35d36c3789f8a2
       山岡氏は「新訂寛政重修諸家譜」によれば、
       鎌倉期の貞景の代に三河国より甲賀郡大原村に移って大原氏を称した。
       子孫の景廣は甲賀郡毛枚村に住し、毛枚氏を称した。
       さらに景通の代に大鳥居氏、資広の大に栗田郡瀬田城に移って山岡氏を称した。


_________________________________

https://akechi1582.com/193/
明智家の館
麒麟がくる・明智光秀の一族や明智家臣・織田家などの武将・城郭などの情報

瀬田城〜琵琶湖の浮城〜甲賀衆を祖とする山岡景隆。本能寺の変後、光秀の行く手を阻む。

             山岡氏が大伴氏・伴氏の末裔ということで
             下記をコピペします

             甲賀・伊賀・柳生の繋がりを感じますね。


【伴家】
伴氏は、甲賀五十三家の一つです。
甲賀五十三家は、「鈎の陣」にて
六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、
後の甲賀流忍術の中心となった家々です。

★★あの落語家・女優も甲賀の末裔★★
甲賀五十三家には「美濃部」家も含まれています。
「美濃部」家は江戸時代には、旗本の家格でした。
落語家の5代目古今亭志ん生とその一族は旗本美濃部家の子孫です。

NHK大河ドラマ「いだてん」に
5代目古今亭志ん生の妻・りん(ご自身の祖母)役で
出演している女優の池波志乃さんも子孫です。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月30日 14時42分06秒 ) パスワード

<レス75>

山岡景隆は1585年に、甲賀郡毛牧村(もひら)にて死去しています。享年61。

    もひら
    って読むんですね

    それに  枚じゃなくて  牧 でしたか? 
    部首は「牛」でした?
    忘れた

___________________________________

このブログ
分かり易く書かれています

https://hajimete-sangokushi.com/2019/03/16/%E5%BF%8D%E8%80%85/

山岡景隆は元々甲賀出身の戦国大名です。
山岡景隆は甲賀忍法帖・バジリスクで有名な甲賀衆の棟梁としても知られる大名でしたが、織田信長に反抗していました。

しかし山岡景隆は織田信長に勝てないと考えたのか、彼に降伏。
その後山岡景隆は織田信長に対して忠誠を尽くして仕えたそうです。

その後山岡景隆は明智光秀が本能寺の変で織田信長を殺害した時、近江・勢多城の城主としてこの地を治めていました。



明智光秀は本能寺の変で織田信長を殺害した後、近江勢多城の城主で甲賀衆を束ねる忍者の棟梁・山岡景隆を味方に付けようと使者を派遣。

しかし明智光秀は山岡景隆から「お前の味方になんかなるか!!」と拒否されてしまいます。

山岡景隆は明智光秀の味方にならないことを示すため、勢多の唐橋を焼き落としてしまいます。

明智光秀は山岡景隆を味方に付けられなかった事が滅亡へつながっていくことになります。


            橋の復旧に3日を要したそうです



明智光秀は山岡景隆を味方に付けようと試みますが、失敗に終わってしまいます。
どうして明智光秀は山岡景隆を味方に付けようとしたのでしょうか。

それは山岡景隆が保有していた領土が交通の要衝だったからです。

勢多城は北陸街道(北陸方面へとつづく道)と東山道(美濃(現在の岐阜県)へ続く道)へ続く道にありました。

この勢多城を味方につけると自軍を羽柴秀吉の居城・長浜城や安土城へ移動することができ、二つの城を時間をかけずに制圧できる交通の要衝と言える場所でした。



そのため明智光秀はどうしても勢多城の山岡景隆を味方につけたかったのです。
しかし明智光秀は山岡景隆に断わられ、勢多の唐橋を焼かれてしまったため、唐橋を修理するために時間が掛かり、安土城制圧までに無駄な時間がかかってしまうのでした。

さらに明智光秀は山岡景隆を味方にすることができなかったため大きなデメリットを被ることになります。



一つ目のデメリットは明智光秀サイドの情報が羽柴秀吉側にダダ漏れだったことです。
山岡景隆は明智光秀サイドの情報を羽柴秀吉に流し続けていたそうです。


デメリットその2としては徳川家康を本拠地へ脱出させてしまったことです。
山岡景隆は甲賀衆を束ねる棟梁であったことから、甲賀を越えて脱出しようと試みている徳川家康を援助。


徳川家康は山岡景隆の援助のおかげでなんとか本拠地へ脱出することに成功します。
徳川家康は山岡景隆の援助がなければ、本拠地に帰ることができずに途中で亡くなっていたかもしれません。


____________________________________

逆に考えれば

家康は山岡景隆から秀吉が大返しで光秀を討つことをを知らされていたのかも。


やっぱり明智光秀より秀吉の方が1枚も2枚もウワテだったかも。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月30日 14時59分14秒 ) パスワード

レス<73>にメールを頂きました:
以下コピペ

御先祖様は日本全国で活動されていたのですね。

                      北限は北上山地の江刺から
                      南限は大隅半島までですね
                      先祖の跡を追うのにJRのお世話になりました


肥前神崎荘・・・・たぶん、ここだと思います。
真北に在る元寇の防塁跡まで約30キロ位かな。
福岡の山地の背振山地を越すことになります。


あまりにも注目を浴びた地名の一つです。

そうです、
卑弥呼の国か?
で有名に成った、環濠集落の吉野ヶ里遺跡が神崎市に半分入って居るのです。

                      吉野ヶ里遺跡は長崎に行く時にいつもJRの窓から見ていました
                      へぇ〜、あ、そうだったの


神崎市は南北に広がり福岡県に接し、南は有明海の近くまで有ります。

旧の神崎町は吉野ヶ里遺跡南西1キロ地点です。
佐賀城の北東7キロほど。

                      へぇ〜、そうだったの
                      だったら「佐賀」で良かったのか
                         方向音痴なので

当時は有明海の海岸線にかなり近かったと思いますね。
直ぐ南には水郷で有名な柳川が有りますよ。

                      立花氏は好きですよ



「コロナとネアンデルタール」の報道を診ると、
ヨーロッパ人にネアンデルタールの遺伝子が受け継がれて居る。
だから凄いんだ、っと言った論調に成っていますね。


下記の発表(沖縄の大学・世界のトップの研究施設)にも有る様に、
南ヨーロッパで発見されたネアンデルタールの遺伝子を持って居ると発表していますね。


多くはウラル山系のネアンデルタールで
遺伝子の中心あるYAPハプロタイプでY染色体のD系統はチベットインド洋アンダマン島と日本列島に存在しD2の集団が日本人である。

人間世界では、ネアンデルタールの遺伝子を色濃く受け継いで居るのが日本人と言うのが抜け落ちていますね。



コロナとネアンデルタール

新型コロナの重症化はネアンデルタール人から受け継いだ

https://www.oist.jp/ja/news-center/press-releases/35499  

沖縄科学技術大学院大学(OIST)2020-09-30


抜粋コピペ

年齢や持病の有無など、重篤な反応を起こしやすいかどうかに影響を与える要因はいくつかあります。

遺伝的要因も影響を与えることがわかっており、数ヶ月前に発表されたCOVID-19ホストジェネティクスイニシアチブによる研究では、
3番染色体のある領域の遺伝子多様体(バリアント)が、重症化リスクを高めることが示されました。

そしてこの度、国際科学雑誌ネイチャー誌に掲載された新たな研究では、
この遺伝子領域が南欧で発見された5万年前のネアンデルタール人のものとほぼ同じであることがわかりました。

さらなる解析で、これらのバリアントは約6万年前にネアンデルタール人との交配によって現代人の祖先に渡ったことも明らかになりました。


以下難しいからコピペ止めておきます。
[78]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月30日 23時10分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さっそくお調べいただき、ありがとうございます。情報量が多いので、これ
からじっくり解読いたします。
 まずは、取り急ぎお礼まで──
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月01日 11時09分19秒 ) パスワード

「麒麟がくる」を見終わったところ。

光秀、メンタル  しっかり「打倒暴君信長!」「造反有理!」になったじゃないですか。

わたしは先週「光秀は二階に上がって武将仲間から梯子を外される」と思ったけど
木に登って月に行こうとする信長に   「戻って来るなぁ〜!」  と梯子外すのを決めたのは光秀自身だったのか!

この展開は読めなかったな〜
惜しい!
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月01日 11時49分31秒 ) パスワード

頂いた「古城の風景 II」
まだ半分  やっと半分です。


中味が深すぎて  三河には数年住んでたから地名は分かるけど  人物がフクザツに絡んでて
1章読んではグッタリです。


とはいえ   400年以上経ってるのに  「ヱェ〜?!」  と思う人物名=知り合いの先祖の名=に出会って驚いています。 

ホント!
向こうは東三河の人だから尾張人のワタシはウチとの関係を全く知らなかったけど
      先祖同士  知り合いだった!  
それどころか一蓮托生の関係だった!



わたしがこれ迄に思ってた以上に  先祖の糸で  アチコチ  結ばれていました。
やっぱり日本ってスゴイわ。

      そうか、あの2人が恋に落ちた理由と はからずも 別れた理由はそういう事だったのか、とかね。


現世に生きてる我々の人生って  先祖によって影響がある  って  占いの世界限定のハナシだと思ってたのに。
[81]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月01日 12時24分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智憲三郎氏は、信長が光秀に服部氏の娘を娶らせて姻戚関係を作ったと
書いていましたが、よくよく見ると、その後で光秀の年齢からいって無理な
話だろうと打ち消しておりました。のりのりの勢いで書いている傾向はあり
ます。

 別冊歴史読本『伊賀甲賀 忍びのすべて』の中で、辻直樹(忍術研究家)は、
「葵の忍者・蓑笠之助」という題目で、四ページ程の文を書いております。
 この中にいくつか興味深いことが書かれております──

 @光秀は、服部出羽守の娘を後妻にし、伊賀にも強い影響力を持っていた。
 A服部平太夫正尚はもと丹波の武士で、猿楽師(能役者)であったという。
 B平太夫は京都留守居役として在京しており、本能寺の変の第一報を堺の
  家康にもたらした。
 C服部出羽守は、柘植城主(一説に名張城主)とあり、城氏、あるいは菊永
  氏を称した可能性もある。
 D光秀の正室煕子が天正四年(1576)に他界し、出羽守の娘(一説に伏屋姫)
  がその後添えになった。つまり、坂本城で自刃したのは出羽守の娘とい
  うことになる。

 @は憲三郎氏の考えたことと同じでありますが、憲三郎氏は信長の光秀へ
の婚姻を勧めなかっただろうと否定した。でも実際は結婚して、伊賀の服部
党と関係を築いたということになります。
 天正四年といえば、丹波攻め、本願寺攻め等、また病に倒れる等大変な時
期で、しかも煕子が他界。そして亀山城の築城と休む暇もない時代であった。
 でも、何故服部氏の娘でなければならなかったのかは、依然不明でありま
す。やはり、甲賀・伊賀のコネクションが既にあったと考えた方がいいと思
われます。もっともその上で、家康から服部党を通しての働きかけがあった
可能性はあります。

 A以降は次回に──
[82]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月02日 11時50分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 @の伊賀との関係強化、そして伊賀への影響力ということですが、煕子が亡
くなったのが1576年、第一次天正伊賀の乱が1578〜1579、第二次天正伊賀の乱
が1581年であり、本能寺の変が1582年であります。伊賀に本拠を置く服部党と
のパイプを持つことは、逆に伊賀から言えば信長の重臣とのパイプを持つこと
であり、双方のメリットは増すことは間違いないことであります。ただ、信長
の伊賀へのスタンスもあり、そこが妻子の存在に影響しないわけがなく、謎解
きの問題の箇所であります。
 もう一つは、妻木氏の本質の問題であります。妻木氏と服部氏との関係がわ
かれば、新たな視点が開けます。
 
 次にAに関連して、丹波というところ、服部家にとっても明智家にとっても
象徴的な所であります。
 まず服部平太夫正尚の出身地ということはどういう意味を持つかということ
ですが、丹波は能楽のルーツとされる「丹波猿楽」が栄えていた地域で、平太
夫は猿楽氏であったということと結びつく。ではなぜ丹波かということであり
ますが、服部氏であった観阿弥は少年時代、猿楽を勉強するため、猿楽の盛ん
な大和、摂津、丹波の国々を旅したということであります。丹波猿楽がどのよ
うな政治的つながりがあったのか、それを知ることは平太夫と丹波の関係を解
明する上で大事であると思います。平太夫が何を考えていたのかも大事です。
 明智家にとっても丹波は二重に特別な所であります。明智家のルーツは摂津
源氏り源頼光でありますが、頼光は丹波の酒呑童子の退治で有名であります。
 そして、明智光秀は丹波の制圧を成し遂げて領土としております。
 丹波が服部家と明智家の関係を解くキーワードなのかも知れません──
 
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月02日 15時08分49秒 ) パスワード

三つ柏さん

前々から  「猿投の服部氏」  が気になってました。

         昨年、酔さまより、猿投の服部さんを数軒ほどご紹介頂きましたっけ

この「猿投の服部氏」について知ったのは
服部半蔵正成の父の服部半三保長が三河からアチコチするのに
この猿投の服部家に寄る
という話を読んだことがあったからです。
一宿一飯みたいな?


で、妻木ですが
1    土岐市妻木のずっと(ちょっと?)西に定光寺=初代尾張藩主義直公のお墓があります
          https://www.mapion.co.jp/m2/35.29837357,137.19557941,16

          https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%85%89%E5%AF%BA
     定光寺(じょうこうじ)は、愛知県瀬戸市定光寺町373にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は応夢山(おうむざん)。
     寺域に隣接して尾張徳川家初代徳川義直の廟所である源敬公廟がある。
     しかし尾張徳川家の菩提寺ではない。

     義直のママですが  お亀の方さまは  家康最愛の側室お愛の方さま=秀忠のママ=西郷局=にそっくりだったとか。それで略奪した?

     お亀の方さまは初めは竹腰正時に嫁ぎ、竹腰正信を生む。
          正信は尾張藩の付け家老です。(香淳皇后の体操の先生=竹腰美代子の先祖と聞いている)
          義直のハーフブラザー=異父兄です。
          で、兄ちゃんは 美濃国今尾藩 初代当主で尾張藩の筆頭家老。

     夫と死別後、奥勤めに入る。
     その後石川光元の側室となり石川光忠を生むが、離縁後、
     文禄3年(1594年)、22歳の時、家康に見初められ側室に入り、(略奪婚かしら?ふっふっふっ)
     文禄4年(1595年)に仙千代(6歳で夭折)、
     慶長5年(1600年)、尾張徳川家の祖である五郎太(後の徳川義直)を生む。



2    妻木の近くって   徳川家の出身地の松平に結構近いですよ
                       というか土岐市の真南が松平城跡
       https://www.navitime.co.jp/maps/poi?code=02025-318630




3    猿投って妻木のずっと南です。結構  まっすぐ  南  でいいかな?
    https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E137.10.55.809N35.14.52.402/zoom/7/  

     もっと南に行くと  岡崎  (笑)   方向音痴のわたし・・・ごめん



ということで   半三保長は岡崎から猿投経由でどこに行ってたんでしょうね?美濃の探索?
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月02日 16時02分59秒 ) パスワード

http://hikoshima.com/bbs/heike/100019.html
20年前のスレッドのタイトル:今治の服部氏

以下コピペ
全文はURLへ

出典のURLが壊れているようです。削除されたのか事故に遭ったのか?謎ですが
取り敢えず概要についてコピペします(コピペのコピペ   笑)


はっとり   かさのすけ

服部 笠之助は実在の人物。

他に歴代笠之助についての略歴も紹介。



◆初代 笠之助 藤 正尚 ?〜1607
初名、服部平太夫正尚。仁木太郎実国の子孫というが、

                     註
                     仁木氏(につきし )
                     清和源氏の一族で、
                     足利氏の祖義康の長子義清の系統に属す。

                     鎌倉時代に、足利氏嫡流の義氏が承久の乱の功で三河国の守護に任ぜられると、
                     義清の孫実国は三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)に移り住み、仁木太郎を称した。

                     実国の弟義季は、隣接する細川郷を領して細川氏の祖となり、

                     ともに足利氏嫡流の譜代被官となった。


                         このずっと前の平家滅亡後  仁木が伊賀を治めてて  
                         旧平家方はゲリラ戦をやってて(嫌がらせだね)
                         戦国時代は伊賀国は六角と北畠と仁木の3つの勢力になってた(前のスレッドに書いた)

                         


従兄弟である服部(北村)保章の祖が平宗清とも考えられるので詳細はわからない。
伊賀者 服部平蔵正信の長男である。
母は三河の豪族 青山平太夫忠教の娘。           ←  弟が青山家に養子に行きました
元は、丹波の武士であったと伝えられる。          ←  ココですね                       

また、猿楽師(能役者)としての顔をも持つ。


西郷正勝の娘と結婚し、その連れ子であった於愛が徳川家康の側室に上がった事から家康に従うようになる。

『改正三河風土記』の台徳公(秀忠)御誕生付宝台院(於愛)殿の事には次のように記載されている。

「天正七年己卯正月のころ、簑笠之助といふ者夢想に発句を感得す。駿河なる富士の山にて  かい(甲斐)喰て 此句目出度句とて熨斗付の太刀を賜り、句を買せ給ふ。(略) 此歌夢見たるより百日に満つる夜  三郎君生れ給ふ。是 台徳院殿大相国の御事なり。遠州敷地郡浜松の城にて生れ給ひ、御幼名をば長松丸と申。御首服かへ給ひて秀忠公と申奉りたり。此御母君はお愛殿といひ、西郷の局と称す。西郷弾正左衛門正勝が女、戸塚五郎太夫忠春に嫁してお愛殿を生り。忠春天文廿三年遠州大森の軍に討死しければ、其妻お愛殿を伴ひ、服部平太夫正尚に再稼し、お愛殿服部が家にて生立し後、外祖父正勝が孫右近進義勝が妻となりて、男女の子一人づつ生れたり。然るに義勝元亀二年三月、武田が手のものと戦ふて討れければ、お愛殿継父服部が家に帰りおはせしを、母方の叔父西郷左衛門佐清員やしなひて子とし、天正六年の春浜松へ宮仕にまいらせしかば、西郷の局とめされて、今年四月七日に此君をうみまいらせしなり。

(略)

天正10年(1582)、本能寺の変が勃発した時、堺の町に滞在していた家康の許へいち早く駆け付け、伊賀越えの道案内をした。家康一行が柘植を通過する時、平太夫の従兄弟である服部出羽守保章が出迎えようとしたが、平太夫は出羽守に二心があるのを見抜き、家康に簑笠を着せて窮地を救った。この時、「簑 笠之助」の名を家康より与えられた。江戸開幕の折、平太夫を側近として呼び寄せようとしたが、平太夫は老齢の理由から断り、かわりに実弟の服部七右衛門を推挙した。慶長12(1607)年、没した。法名 一楽」


「甲賀郡志」には、服部家(甲賀五十三家の服部家・祖は伊賀神戸の服部氏)の項目に、伊賀越えに服部平太夫の名が見られると記載されている。笠之助こと服部平太夫の服部家と、甲賀の服部藤太夫の服部家とは、姻戚関係があったのかもしれない。


◆二代目 笠之助 正長 生没年不詳

初名、庄之助。平四郎。平十郎。初代笠之助正尚の4男。長兄 惣右衛門が、松平忠吉(家康4男、惣右衛門の甥)に付いて尾張藩士となっていた為、慶長12(1607)年、平四郎が父の名跡を継いだ。慶長18(1613)年、大久保長安事件に絡んで(大叔父青山成重の実子が長安の養子となっていた為)閉門となるが、後に赦され能役者として四座の内の宝生座に附属された。異父姉は、二代将軍徳川秀忠の生母 西郷局(於愛)。秀忠は甥に当たる。恐らく忍者の中で、将軍家に一番血縁が深いのは笠之助であろう。



◆六代目 笠之助 正高 1687〜1771.9.15
初名、庄次郎。実は松平光長の家臣小沢庄兵衛の子。1716年、能役者の宝生座に列していた簑(巳野)兼正の養子となった。享保3(1718)年、家督を継ぐ。翌年、岳父が農政家田中休愚(丘愚)喜古であった為、大岡越前守忠相に見出されて代官職を務めるようになる。相模国足柄上・下郡のうち73ヶ村を支配する。宝永4(1707)年に富士山が噴火し、酒匂川の堤防が決壊しているが、その復旧にも尽力した。田中丘隅は文明堤、笠之助は三角土手の築造にあたったという。 寛延2(1745)年、手代に何らかの落ち度があり職を奪われ小普請組に入れられた。宝暦6(1756)年、隠居し相山を号す。著書に『農家貫行』がある。 


◆その後の簑家

能役者としての家柄とは別に、飯島陣屋代官や奈良五條代官、石見邇摩郡代官などの行政官を数々に輩出していったようである。簑姓を巳野と改めた時期もあったようであるが、また簑に復している。「文政武官」には御能役者の宝生座の列に、巳野助次郎、同善太郎、同市右衛門などの名が見られる。子孫の方は東京世田谷区に現存なされているとの事。



◆服部 七右衛門 忠頼 [はっとり しちえもん ただより] 1549〜1615
平八郎。青山図書助成重。伊賀者 服部平蔵正信の次男。妻は北条家家臣 恒岡越後守常自の娘。元亀2(15)年母方の縁者である青山忠重の養子となり、青山平八郎を名乗る。天正12(1584)年、兄 平太夫の推挙により江戸に召されて徳川秀忠の傳役となる。慶長8(1603)年従五位下に叙し図書助に改める。江戸開幕期には、秀忠付きとして参政し老職(老中)となり、1万石を領し大名の列に連なる。慶長18(1613)年大久保長安の三男 権之助成国を養子に迎えていた為、長安の死後に発覚した金銀横領事件(大久保長安事件)に連座し7千石を減封され、下総国香取郡の采地に閉居する。大坂冬の陣の折、密かに本多佐渡守正信の指揮下に従って出国した所、勘気を受けている身である事を咎められ掛川宿より帰国する。夏の陣にも参陣したい旨を本多正信を通じて願い出たが、病気を患った為適わなかった。その年の9月に死去する。法名 英徹。

嫡男 成次がいたにもかかわらず、なぜ大久保長安の子を養子に迎えたのかが謎である。大久保長安と服部半蔵家とが血縁関係を結んだのと同じように、能役者と忍者を結ぶ何かがあったのかも知れない。


◆服部 甚右衛門[はっとり じんえもん] (印代判官)


◆服部 出羽守 保章 [はっとり でわのかみ やすあき] 生没年不詳
保光。のち喜多村(北村)氏。服部平太夫の従兄弟。伊賀柘植(一説に名張)城主。娘は明智光秀の後妻で、天正10(1582)年一月には坂本城で光秀の末子(内治麻呂)を出生している。天正伊賀ノ乱で恨みを抱いた出羽守が、明智光秀を唆し本能寺で信長を襲わせたのではないかとも考えられる。徳川家康の神君伊賀越えでは、柘植城で家康一行を迎えて謀殺しようとしたが、従兄弟である服部平太夫に見抜かれて未遂に終わった。この為に柘植城を追われ、近江国北村に隠れ棲み北村(のち喜多村)と改姓した。他に明智光秀の後妻となったとする伏屋姫の伝承があるが、父親の名を服部鳥羽守としている。鳥羽守という呼称は、国司の官位名としては誤伝(あるいは鳥羽一国という見方があるのか?)のような気もするが、出羽守と同一人物を指すのかは不明である。服部出羽守の出自については不明であるが、伊賀の地誌などから推測できる。

平頼盛(清盛の弟)の家臣平宗清が、平氏滅亡後に流浪の果てに旧領地の柘植郷に棲みついたが、宗清には3人の子があり、長男は日置氏を称し下柘植を本拠とした。この日置氏が柘植一族の祖で、松尾芭蕉もこの一族である。次男は天正伊賀ノ乱に名が出てくる福地伊予守宗隆の祖で上柘植を本拠とした。三男が北村氏を称し中柘植を領したが、これが服部北村氏の祖ではないかと考えられる。しかし出羽守は、近江の北村に移り住んでから北村(喜多村)氏と称したとも伝えられるからはっきりとはしない。


秦造酒公の子孫で、伊賀国阿山郡の城土佐守秀友が服部出羽守を名乗ったというが、同一人物あるいは血縁者である可能性はある。この出羽守の弟は菊永右近太夫を称して、一族の兵部という者は兵術を以って世に聞こえた剛の者であったが、朝鮮役で戦死したという。

                           弟が「菊永姓」ですね




◆服部 半蔵 正重 [はっとり はんぞう まさしげ] 生没年不詳
長吉。伊豆守。妻は大久保石見守長安の娘。半蔵正成の遺領のうち3千石を継ぐ。関ヶ原の戦いで抜駆けの罪に問われたが、結城秀康の口添えで許された。その後、家康の命で服部半蔵3代目を襲名する。舅の金山奉行 大久保長安と交互に佐渡金山を統制した。慶長18(1613)年 、大久保長安の死後に金銀の不正蓄財が発覚して一族が処罰される事件(大久保長安事件)が起った時、正重は任地の佐渡に居たが、この変事を知り佐渡に留まる事を憚って出国してしまった。正重が越前国出雲崎までに至った時、幕府よりのお構い無しの奉書が届き、これを受け取ったが、許可無く任地を離れたる事が不届きであるとされ村上周防守義明に預けられた。村上家が断絶後は堀丹後守直寄に預けられ、その後に赦免の沙汰があり堀家の家臣となる。しかし堀千介直定の代で断家し流浪する。その後は、兄嫁の弟である松平越中守定綱に仕えた。


◆服部 半蔵 正成 [はっとり はんぞう まさなり] 1542〜1596
石見守。服部保長(正種)の6男。「鬼半蔵」・「槍半蔵」などの異名を取り、徳川16将のひとりに数えられている。伊賀組頭領。16歳で初陣し、伊賀者6、70人を率いて、三河宇土城の夜討に成功したと言われるが、信憑性に乏しい。武田の間者・竹庵という者が岡崎信康に接近した時、その者を討ち取ったという。謀反の疑いから信康に切腹の命が下った時には、その介錯役として信康の許へ赴いが、主君の息子を討つ事が出来ず、検死役の天方山城守通綱が代わって介錯したという。のち江戸の麹町に安養院(西念寺)を建立し信康の霊を弔った。三方ヶ原の戦いでは、伊賀者150人を率いて奮戦した。天正10(1582)年、本能寺の変が勃発した時、堺の町に遊んでいた徳川家康を伊賀越えにて脱出させた。もっとも異説もあり、半蔵が伊賀越えに随行していなかったとしているものもある。山岡荘八の小説「徳川家康」には、伊賀越えの話しに半蔵は登場していない。伊賀越えで家康を護衛した伊賀者200人余りの者は、半蔵に預けられ「鳴海伊賀ノ衆」と呼ばれた。慶長元(1592)年病没し、安養院に葬られた。法名 西念。安養院は、のちに半蔵に因んで西念寺と改名され、四谷へと移転している。


◆服部 半三 正就 [はっとり はんぞう まさなり] 1565〜1615
源左衛門。石見守。妻は松平隠岐守定勝の娘・松尾姫。半蔵正成の遺領のうち5千石を継ぎ、与力7騎・同心200人を預かる。しかしながら正就は不肖の二代目だったらしく、伊賀同心を私兵のように扱い、そしてついには慶長9(1604)年、伊賀同心たちが正就の罷免と自分たちの待遇改善を訴え四谷の長善寺に立て篭もったのである。忍者の起したストライキに対して幕府の下した処分は、伊賀同心を大久保甚右衛門忠直・久永源兵衛重勝・服部中保正・加藤勘右衛門正次の旗本4名に分属され、首謀者10名は処罰するというものであった。しかし、首謀者のうち2名が逃亡し、これに怒った正就が伊賀同心と誤って伊奈
備前守次の従者を斬殺してしまったのである。正就は閉門となり松平定勝に預けられた。大阪の陣において家名再興をかけ松平上総介忠輝の陣に参戦するが、5月7日天王口において討死する。一説によると、大坂の陣の後に越後国萩城下に逃れた後、正就の読み名を[まさちか]と改め、燕に移り百姓となって暮らし75歳で没したという。



◆服部 半三 保長 [はっとり はんぞう やすなが] 生没年不詳
正種。浄閑入道。服部は北伊賀の知賀地に本拠を持つ服部一族の長 保長は、伊賀を離れて将軍 足利義晴に仕えてのち三河の松平清康・広忠・家康に仕えた。某年、岡崎において死去する。
[小説] 魔界の忍者 服部 半蔵 保長/竹内 勇太郎著/光風社刊
[85]三ツ矢さんからのコメント(2021年02月03日 02時54分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

初めまして、尾張地区に住む三ツ矢家紋の庄屋の9代目です。

いつも楽しく勉強させて頂いております。
先祖の調査をしていてこちらに辿り着きました。
正就さんの改易の理由が余りにもおかしくて・・・。
何でしょうか・・・ウチの本家も三代目が夜逃げしているのですよ・・・(笑)


[86]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月03日 07時20分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様章

 今から21年前のスレッド「今治の服部氏」のご紹介、ありがとうございま
す。この中では特に「服部平太夫正尚(蓑笠之助)と服部出羽守保章」に関する
情報に興味深いものがありました。この二人は、服部半蔵正成や服部中保次と
比べて控えめな存在ですが、いわゆる忍者に武闘派と諜報派があるとすれば、
後者の方に属する、つまり「猿楽師系」の色合いが強いのではないか。いずれ
にしても、諜報派は後に主流となる隠密のさきがけであったのかも知れません。
服部半蔵正成と服部平太夫正尚との関係がどんなものであったのか、つまり対
等のライバル関係にあったのか、上下関係にあったのか、それとも逆の上下関
係にあったのか……そのへんも見極めておく必要があります。何と言っても、
正尚は二代将軍秀忠の祖父になりますので。

 2代目半蔵正就は何かピエロのような描き方をされておりますが、本当の所
どうだったのか深掘りしたい気持ちはあります。妻は家康の母とつながります
ので、そこがおごりにつながったのか、五千石での経営の実態も気になるとこ
ろであります。

 話は服部出羽守保章に戻りますが、「秦造酒公の子孫で、伊賀国阿山郡の城
土佐守秀友が服部出羽守を名乗ったということ、そしてその弟が菊永右近太夫
を称し、一族の兵部という者は兵術に長け挑戦の役で戦死」ということですが、
ここも深掘りしたい事柄であります。
 菊永氏を調べますと、伊賀の上友田に菊永氏城(跡)があり、服部出羽守の弟
が築いたとあります。上友田は藤林氏の湯船のすぐ側で、正に伊賀服部氏の中
心地であります──
 
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月03日 07時40分54秒 ) パスワード

三ツ矢さん

初めまして。

尾張南西部ですか?
南西部は並び矢系かと思ってましたが
家紋は微妙な違いを示していますから
下記の示すアイデンティティ
ということでしょうね。



「関岡家始末」に記していう。

「伊賀国服部党は大名にて、北部に威を振るい
信楽の多羅尾も相従いける。
2000人の大将にて国司(伊勢の北畠家)の与力なれば、
関岡家と水魚の交わりを為す」と。


或いは其の家紋に関して左(下記だね)の如く伝えたり。

「服部平内左衛門家長なる者、
武芸の誉多く、
その名  遠近に隠れなく、
人々是を尊敬せり。

是より服部氏益々盛んになりて、国中に充満す。

或る時、清涼殿の弓場殿にて弓箭の勝劣を顕わす。

時に家長、名誉ありて、79代六條院より、眞羽の矢1000を手車に積みて宣下あり。

家長自他の面目是に過ぎず。

是よりして矢筈車の紋を平氏服部一族の惣紋と為せり。
その紋、3男迄は丸に二つ矢にして
4男以下は丸に三つ矢を用う。



「又、伊賀服部氏に2流あり。
共に(秦の)酒公の後也。
その1は織榎を以て徽章と為し、
その1は箭羽を用う。
宗族州内に蕃衍す」と。



以上

関岡氏:
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E9%96%A2%E5%B2%A1%E6%B0%8F

関岡氏(せきおかし)は、新田氏(上野源氏)流大舘氏一門で、伊賀源氏とも呼ばれた。
伊賀国名張郡関岡郷[1]を拠点とした。
同族に綿打氏・金谷氏があった。


大舘氏明[2]の次男の氏清が、伊勢国の国司の北畠顕能[3][4](村上源氏北畠家(伊勢源氏)の当主)に仕えて、
1361年に伊賀国名張郡関岡郷を拠点をかまえて、関岡氏と称した。
氏清は1412年8月19日に77歳で逝去した。

関岡氏は戦国時代まで存続して、
義元・義末兄弟の代に、織田信長・信雄父子が起こした『天正伊賀の乱』に巻き込まれたために、
止むなく伊賀国から撤去して惣領家の大舘晴光を頼って山城国に移住したが、
ともに嗣子がなく関岡氏は断絶した。


歴代当主
1関岡氏清 : 大舘氏宗[5]の弟、大舘義冬[6]・金谷成氏[7]の兄。
2関岡氏隆
3関岡氏則 : 氏元の弟。
4関岡清祐 : 氏光の弟。
5関岡義実 : 義重・実氏の兄。
6関岡義元 : 義末の兄。


脚注
1 現在の三重県名張市神屋町関岡大字
2 大舘宗氏の子、幸氏・宗兼・氏兼・時氏の兄。
3 読みは、あききよ/あきたか/あきのぶ/あきのり/あきひさ/あきみち/あきむね/あきやす。
4 北畠家の宗家である中院定平(義定/良定(ながさだ))の子、定清・雅平の弟、木造顕俊・顕泰・大河内顕相の父。族父の北畠親房の婿養子となった。
5 氏親の父。
6 氏信(満信(氏冬)・満冬の父)・義信・忠則(貞忠の父)の父。
7 族父の金谷経氏(重氏の子)の後を継ぎ、阿波国守護の細川頼之に仕えた。



関岡(せきおか)さんの由来と分布
https://name-power.net/fn/%E9%96%A2%E5%B2%A1.html

福岡県、三重県、大阪府。
地形。

三重県伊賀市・名張市(旧:伊賀国)で1372年から1375年(文中年間)に関戸を設けて往来を監視した大館氏にあった「関岡の屋形」の呼称からと伝える。

大館オオダテ参照。

三重県名張市神屋の北畠具親(別名:関岡)城の城主に南北朝時代、福岡県福岡市中央区城内が藩庁の福岡藩士に江戸時代にあった。




三つ柏さん

伊賀甲賀の「杣五人衆」という表現を思い出しました。
望月と服部と  あと3家  どこだったか。
その内に。

ココ1週間で  雪崩3回  起こしています。
[88]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月03日 08時23分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

伊賀甲賀の「杣五人衆」という表現について書きます:


室町時代後期の長享元年(1487)に足利義尚将軍と六角氏とが戦った時
甲賀衆は六角氏の先鋒として奮戦し
この時の甲賀衆に53士あり。

「淡海放録」に

「世に甲賀の忍の衆と名高く言うは鈎陣に神妙の働きあり。
日本国中の大軍が眼前に見及びし故
それ以来名高く誉を伝えたり。
いよいよ鍛錬して伊賀甲賀衆、誉多し」

と見ゆ。


此の53士の内に  平姓服部藤太夫なる人あり。
望月・鵜飼・内貴・芥川及び服部の5氏を  杣五家と称して尊崇せられたり。


「伊乱記」にも、此の頃の様相として

「不断未明より午の刻までは士農工商各家業の所作を励まし
午の刻より暮迄は  ひたすらに武芸弓道の道を磨き
別して惻隠術を鍛錬す。

上代より伊賀の遺風とて其の古の御色多由也=おいろたゆや=より謀術を伝えて
楯岡の道順、甲賀太郎兵衛、高山次郎太郎、小串、大串、城戸などと言へる名誉の者、
国中に充満して其の流  今に至る迄  間諜の通力を伝へ
如何なる堅固の要害にも 忍び入らずという事なし。

他国にても伊賀忍としてこれを重宝せり」
と伝えたり。

御色多由也とは上古の壬申の乱の時
天武天皇の忍者として活躍せし人なりという。
[89]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月03日 12時12分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 @伊賀国阿山郡の「城(土佐守)秀友」が「服部出羽守」を名乗った。
 Aその弟(服部氏)が「菊永右近太夫」を名乗った。

 前者@の城が「城氏城(跡)」。また、阿保にも城氏城(跡)がある。
 後者Aの城が「菊永城(跡)」。

 いずれも、「上友田」にあり、ここは服部氏族の領地であり、藤林系も多
い。『伊乱記』を見ても、上友田、中友田には服部氏が住むとある。

 ちなみに、下友田には藤原氏族が住む。藤原系忍者となっていると言える
かも知れないし、藤原氏族内空閑系服部氏(九州)の祖であるかも知れない。
 ひょっとすると、遠江森町三倉の服部家は、友田家と親戚になるというこ
とも考慮すると、この藤原系の服部氏の可能性もあるような気もする──
 
[90]三ツ矢さんからのコメント(2021年02月03日 14時01分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様
丸に三つ柏服部様

私は尾張北部在住です。
家紋は丸に三ツ並び矢です。
中部地区ではさして珍しくは無い藤原南家二階堂流の名字を持ちます。
我が家は恐らく隠密だったと思います、ですから現代の業務に支障が出ないように今の処は名字は伏せさせて頂きます。(笑)
因みに私は偶々スクナヒコノミコトを祭神とする職種に就いております。

しかし、お二方を筆頭にこちらのサイトの皆様の調査能力は凄まじいですね!
誠に敬服の至りでございます!
余りにも内容が深くて素晴らしいと感じたので、本当は隠密らしく黙って楽しませて頂こうと考えていたのですが・・・つい出しゃばった真似をしてしまいました(笑)
[91]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月03日 14時52分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

>下友田には藤原氏族が住む。藤原系忍者となっていると言えるかも知れない

全く分かりませんが

信濃のヒバリさんの家は元は伊勢の藤原系の服部忍者だった記憶です。

信濃の佐久の豪族の望月氏の一部が甲賀に来て甲賀53家の筆頭になった。

         ひょっとすると元々服部家と望月家は関係があったのかも


望月千代さん       元祖ハニートラップの元締めさん(当時の言葉だと  やり手ばばあ  の方かな?)
https://senjp.com/chiyo/
以下コピペ

(?年〜?年)
武田信玄の甥、望月盛時(望月遠江守盛時)の妻。
甲賀忍者 を構成する 「甲賀五十三家」 の筆頭である上忍の家柄 「望月家」 の出身で、
信濃の豪族であり同じ苗字である 望月盛時に嫁入りしていた。

第4次川中島合戦(川中島の戦い)で望月盛時が討死したあと、
武田信玄の命にて甲斐・信濃の巫女の統帥となり、「歩き巫女」 を養成。
信州・小県郡弥津村古御館に居住した。

                   小県郡真田町を連想しますね

孤児、捨て子などの少女200〜300人を集め、
彼女らに強い仲間意識と忠誠心、女であることを生かしての情報収集、色香で男を惑わす法などを教え、
諸国を往来できるよう巫女としての修行も積ませた。

この事から、望月千代は甲賀の忍術を学んだ女忍者(くノ一)であったと言われている。


当時、巫女は口寄せ(いたこ)や祭事を行ったり、各地を回って舞や楽曲を披露したりしていたため、各地の関所を自由に通行することが出来た。

一人前になると全国各地に送り、知り得た情報を全て自分の手元に集め、有力な情報を武田信玄に伝えたと言われ、武田家の情報収集に大きな役割を果した。



ヒバリさんの家は諏訪大社系だから当時は武田信玄と対立関係にあったわけだ。


で、

ここで   服部半三保長が岡崎から豊田(猿投や足助の服部家)に寄って  どこに行ってた?  と考えると

当時小国の松平家は存続のために西の織田・東の今川に挟まれ
さてどうするか?

と思案した時   
美濃の東部のそのまた東の甲斐には武田信玄がいるわけです  

              そして三国同盟があった(武田+今川+北条)

その頃は武田と諏訪が喧嘩してた時かな?ヒバリさんのご先祖も忙しかったでしょう。


美濃の土岐家やその後の斎藤道三にすれば三国同盟を背景にした東の武田信玄は脅威であったろう。

土岐家や道三は美濃国でも「西美濃」なわけで   
明智や妻木の属す「東美濃」は不安定だったのではないか?現在の多治見、土岐↔妻木、瑞浪、恵那↔明智、中津川があるエリア。
すぐ東が信濃国なわけで。

          
ということで半三保長は東美濃に行ってたかもね
そして
信濃の望月氏とも情報交換をしてたのかもね。


そして森の三倉からも北上して諏訪に行ってた?


あの動乱の時代、伊賀や甲賀の人々は「技術」があるから転職し易かったかもね。
そして元々知り合いだから情報交換も容易だった?
[92]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月05日 23時03分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス[86]の訂正:挑戦の役→朝鮮の役

 「湯船」と「友田」はおおよそ半径3q圏内の隣「村」というよりも、字(あ
ざ)の違いくらいなのかも知れない。その内でも特に、「東湯船」と「上友田」
はほぼ一体と言ってもいい地帯であります。そして、「東湯船」には「服部氏
城」、「上友田」には「城氏(服部氏)城」及び「菊永氏(喜久永とも 服部氏)城」…のように、服部氏の牙城であります。
 湯船は甲賀と境を接しており、湯船から北西7qの甲賀甲南に服部城があり
ます。

「北伊賀の服部は、伊賀の平左衛門家長の代になって平清盛の子・知盛の家人
となって実際上の伊賀代官にのぼった。甲賀・伊賀を含めて、服部にかなうも
のはなくなった。甲賀・伊賀を制することは、服部一族を制することであった
」と杜山悠氏は『忍者の系譜 漂泊流民滅亡の叙事詩』の中で言っています。
 もっとも、家長の生まれたのは、湯船から南西12qの荒木ではあった──
[93]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月06日 03時31分25秒 ) パスワード

三つ柏さん

服部家と城家の関係ですが

    歴史学者の言う「正しいところ」は全く分かりませんが

平姓城氏の    当時越後(その前が出羽=秋田にいて越後に逃亡した一族   笑)の城氏は   まさに平家方  です。

    ここから  名古屋の城氏は「たち」さんと読みます  「たち」は「舘」とも書きます

    それで  俳優の「舘ひろし」は元は三重の出と聞いてるので  尾張藩士になる前は  そーゆー関係  だったのかな?と。
      舘さんは名古屋の医者の家庭。新井白石の子孫と同じく。



で「城」氏について引っ張って来ました:早速  雪崩を起こしました  ごめんよ階下の皆さん


平家方で有名どころをお2人限定で

城助長
城資職

              お願い!名前はコロコロ替えるな〜  漢字も変えるな〜  引っ越しもするな〜



城 資永(じょう すけなが)
平安時代末期の越後の武将。
父は越後平氏の一族である城資国。
母は清原武衡の娘。
別諱は助長 。


城 助職(じょう すけもと)
仁平2年(1152年) - 建仁元年2月22日(1201年 3月28日)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。
本姓は平氏。
白川御館(しらかわみたち)



ということで平家が  城氏が負けて  伊賀にも移動したのだろうなと思います。
城氏については  すっごく  泣けるので  心象風景を思い出したいところです。



越後城氏について
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_42_16.html
「兵の家各流・平氏     越後城氏」
詳しくはURLへ


平兼忠
上総介・出羽守 (尊卑分脈)

鎮守府将軍・平維良の父、関白・藤原道長に仕えていたとも。

「今昔物語」(巻第二十五 第四「平維茂が郎党、殺され話」 には余五将軍平維茂の父とも書かれる。

野口実『武家の棟梁の条件』(中公新書)p123には「兼忠が出羽城介に任じたのが天元3年(980年)であることからすると」とあるが、その出典までは記載されていない。

『桓武平氏諸流系図』か。

p125には「「兼忠が出羽城介であったことは確実であり」とかなり確信をもって書かれている。




平維良
平兼忠の子
1003年(長保3)に下総国府を焼討ちし官物を掠奪したかどで押領使藤原惟風の追補を受け、越後に逃亡した。

 
1014年(長和3)小右記の2月7日条には陸奥国鎮守府将軍の重任を得るため、道長に馬20疋他豪華な貢ぎ物を行い、門前にはそれを見ようとする見物人が列をなしたと。
それ以前に鎮守府将軍であったことが解る。

尊卑分脈には見えない。



平維茂(これもち)余五将軍
「尊卑分脈」では 鎮守府将軍(或非将軍云々)・信濃守・従五位上
「桓武平氏系図」によれば将軍出羽介(出羽城介)

「今昔物語」では平貞盛の弟陸奥守繁盛の孫で上総介兼忠の子、または繁盛の子とするものもある。

                 バリバリ平家のお仲間!

叔父平貞盛の養子となり、貞盛の数多い養子の中で15番目にあたることから余五(よご)、
長じて信濃守、出羽介(秋田城介)、を歴任し鎮守府将軍となったことから余五将軍と呼ばれる。

                 信濃とも関係があったことが分かりますね

東国の武者藤原諸任(ふじわらのもろとう)との合戦他一話が「今昔物語」にある。
山城(やましろ)の鬼女退治などの伝承もあるが、
それ以外には同時代の記録に見えないことから、野口実氏他は平兼忠の子鎮守府将軍平維良と同一人物と見る。

「今昔物語集」巻第25 第4 「平維茂が郎党、殺され話」 第5 「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」
『中世東国武士団の研究』 「平維茂と平維良」 野口 実



惟貞
維茂−繁貞−繁清−惟貞−繁賢
従五位下・右衛門尉・石見守 (尊卑分脈)


繁賢 
維茂−繁貞−繁清−惟貞−繁賢
従五位下・壱岐守(尊卑分脈)


平繁成、(繁茂、重衛)
維茂の子、秋田城介 尊卑分脈には従五位下出羽城介とあるが、秋田城介と同義
陸奥守藤原登任は秋田城介平重成と安倍頼良を攻めるために軍を起こしたのが「鬼切部の戦」(1051年、永承6年11月)で、平繁成は2000の兵を出羽(秋田)方面から多賀城へと向かい、藤原登任は3000の兵隊で北上を開始。
この両軍が合流して、鬼切部で安倍頼良と衝突。
秋田城介平重成(繁成)が余五将軍平維茂(これもち)なら陸奥にも領地・利権・権益・利害関係が深く、藤原登任の誘いに乗って出兵したことは理解できます。また平繁成の秋田城介任命そのものが奥州攻めの為の朝廷の布陣だったとの説もあるようですが。

後三年の役 清原氏・平氏説によると、その子である平貞成は子は海道成衛ですなわち「後三年の役」の清原真衛の養子。越後城氏の祖と云うことになります。ただし、確たる証拠はありません。

後三年の役 清原氏・平氏説

清原氏は平氏である可能性が高い説も存在している。この説は桓武平氏諸流系図(中条家文書)所収にみえるものとされ、史料的には信憑性が高いものとされているようです。
 この系図によると清原武則の父は平安忠とされ、この系統は海道平氏と呼ばれ現福島県浜通り地方に勢力を持っていたと一族である。さらに前九年の役の発端となった陸奥守藤原登任の援軍として参戦した秋田城介、平重衛は父、平維茂もまた秋田城介で、さらに重衛の子である平貞成の子は海道成衛で、すなわち清原真衛の養子となった清原成衛で清原氏、海道平氏系は何かしらのつながりがあるとの見解もありますが、中央官人清原氏、平氏と存在する説をみますと清原氏は俘囚の出ではないとの結論が生じます。

「清原氏・平氏説」と言うと誤解を生みそうな気が。清原氏は清原氏で養子に入ったと言うことでしょう。ただそうすると清原氏は武則以前にこの地に勢力を張っていて、婿養子?の武則がその勢力を引き継いだと言うことになりますが、清原氏がこの地に勢力を張っていてたと言う史料は皆無です。ともかく断片的にしか情報が残っていない。ただし平氏の一流が出羽・奥州に勢力を広げていたことは確かなようです。

清原武則自身も海道平氏から清原氏に入った人物であることを示唆する系図がある。かなりに信頼度が高い系図とされる「桓武平氏諸流系図」には(野口実「平安期における奥羽諸勢力と鎮守府将軍」『古代世界の諸相』1993)、清原武則を平貞盛の弟の繁盛の孫と表記し、それが清原氏に入ったとされている。この系図によれば清原武則の系統の清原氏は平繁盛の系統のなかでも、とくに海道平氏と一体のものだったということになる。ちなみに前九年の合戦の発端時に、陸奥守藤原登任とともに安倍氏と戦った出羽城介・平繁成も平繁盛の孫(『尊卑分脈』)である。
真衡は養子に迎えた成衡の妻として、源頼義と常陸の多気権守平宗基むねもと(致幹むねもと)の娘との間に生まれ、宗基に養われていた女性を迎えることにした。多気権守致幹は常陸大掾系図に「為幹(常陸大掾) ――繁幹(上総介)――致幹(薩摩守・多気権守)」とある人物である。源頼義は前九年の合戦の折に多気権守のもとに立ち寄ったことがあり、その際に娘をもうけ、その娘を多気権守は大事に育てていたのである。為幹は平繁盛の孫(『尊卑分脈』)とも平貞盛の孫【桓武平氏諸流系図】ともされる人物である。清原氏と平繁盛の系統の平氏とのこのような関係をふまえると、清原真衡が養子として平氏から成衡を迎えたことも、その妻として平宗基(致幹)の孫娘を迎えたことも自然であろ (世界遺産講座・平泉への道:平泉藤原氏の時代)

野口実氏は同じようなことを『武家の棟梁の条件』(中公新書)p122でも書いています。


城貞成(城太郎)
繁成−貞成(尊卑分脈)



海道成衛(不明)
妻、清原武衡娘、つまり源頼義と常陸の多気権守平宗基むねもと(致幹むねもと)の娘との間に生まれ、宗基に養われていた女で、後三年の役の清原武衡の養子となった海道成衛がこの資国。が、清原武衡が突然死んで事実上養子の意味が無くなったのだろう。 『白河の御館』と呼ばれる

網野善彦氏が発見した例の『大中臣氏略系図』(鎌倉時代末)に記載があり、「海道小太郎業平(なりひら=成衛)が「御勘気」を蒙った際に大中臣性中部氏の祖にあたる中部権守頼経が下野国氏江(氏家)風見楯」にこれを討ったとある。網野氏も野口氏も「御勘気」は源義家であろうとしている。尚、海道氏はその後の奥州藤原氏の代におうても、藤原氏の下で一種独特の地位を保ったようであるとする。(野口実『武家の棟梁の条件』 中公新書p126)



城資国
平繁成−貞成−永基−城九郎助国(尊卑分脈)
平維茂−−−−−−−助國(城九郎)−長茂(越後守城四郎) (桓武平氏系図)
                長茂弟 助永(従五位下越後守) −資盛(城長茂)

城資国(じょうすけくに,助国,九郎)
[父、城永基。養父、城永家]妻、清原武衡娘。『白河の御館』と呼ばれる平家方人物辞典  
これはちょっと変、海道成衛=城資国? これ以下は系図は混乱



城資長(資永とも)
資国嫡男、越後瀬波川流域奥山荘を収める。越後守



城資長(じょうすけなが,助長,資永,助永,資元,太郎)
[城資国嫡男]越後豪族(瀬波川流域奥山荘)。越後守。伯父宮禅師と乙宝寺の純金三重の塔を建立。養和元年(1181)1/16、頼朝追討の宣旨。2/25(or9月)、病死平家方人物辞典 



城資職 
資職は信濃に侵入、初め華々しく木曽勢を討ったが、やがて反撃されて会津に逃れた。平家はこの資職を越後の守に任じ、奥州藤原氏とともに、頼朝・義仲を挟み撃ちにしようとしていた。資職は”白河の御館”とよばれるようにその本拠は白河荘(水原町)であった。白河荘は、奥山荘とならんで殿下渡領(摂関家領)であり城氏はその開発領主であった。

「新潟県の歴史」井上鋭夫 1970山川出版

以下も同一人物なのかどうか、全く混乱!

城長茂(本名資盛)
資国4男?、阿賀野川流域白河荘. 1181/6/14、横田河原の合戦で源義仲軍に敗戦、8/15、従五位下・越後守。1188年(文治4)源頼朝に御家人にと懇願、梶原景時に預けられ、頼朝は文治4年(1188)9月に御所に召し出して対面した。

吾妻鏡 文治4年(1188)9月

尊南坊僧都定任熊野より参向す。これ年来御本尊(愛染王像)並びに御願書を給い置き、御祈祷の薫修を積むなり。二品偏に二世の悉地を恃ましめ給う。
而るを城の四郎長茂 は、平家の一族として関東に背くの間、囚人として景時に預け置かるる所なり。
これまた定任を以て師檀と為す。仍って参上の次いでを以て免許有り。御家人に召し加えらるべきの由、頻りに執り申すの間、二品召し仕うべきの由仰せらる。今日定任御所に参る。簾中に召し入れられ、世上の雑事を談り給う。御家人等侍(二行、東を以て上と為す)に着座す。南の一座は重忠、北の一座は景時なり。爰に長茂参入す。
諸人目を付けるに、長七尺の男なり。白の水干・立烏帽子を着す。二行着座の中を融り参進し、横敷に着し、簾中を後に宛つ。その内より二品御一覧、是非を仰せられず。
定任この躰を見て頗る赭面す。景時長茂に対して云く、彼の所は二品御坐の間なりと。
長茂存知ざるを称し、座を起ち即ち退出す。その後定任執り申すに及ばずと。この長茂(本名資盛) は、鎮守府将軍維茂(貞盛朝臣の弟なり)の男、出羽城介繁茂七代の裔孫なり。
維茂の勇敢上古に恥じざるの間、時の人これを感じ、将軍宣旨以前に、押して将軍と称す。而るを武威を以て大道を為すと雖も、毎日法華経八軸を転読し、毎年六十巻(玄義文句止観)一部を一見す。また恵心僧都に謁し住生極楽の要須を談る。
繁茂生まれて則ち逐電す。悲歎を含みながら四箇年を経て、夢想の告げに依って捜し求むの処、狐塚に於いてこれを尋ね得て、家に持ち来たる。その狐老翁に変ぜしめ忽然と来たり、刀並びに抽櫛等を嬰児に授くと。翁深窓に於いて養育せしめば、日本の国主たるべし。今に於いては、その位に至るべからずと。嬰児は則ち繁茂なり。長茂遺跡を継ぎ彼の刀を給い、今にこれを帯すと。

尊卑分脈と桓武平氏系図をつなげれば確かに平維茂から7代目が資盛(城長茂)になる。

平維茂−平繁成−貞成−永基−城九郎助国−助永(従五位下越後守)−資盛(城長茂)

奥州攻めに参加し、このとき、自分の旗を掲げれば逃亡の郎党が群集するだろうと公言した。旬月を経ずして200人の郎党が馳せ参じたのをみて、さすがの頼朝も驚かされたとか。

「新潟県の歴史」井上鋭夫 1970山川出版

吾妻鏡 1201年 (正治3: 建仁1) 3月4日
京都の飛脚参着す。去る月二十二日、城の四郎長茂並びに伴類新津の四郎以下、吉野の奥に於いて誅せられをはんぬ。長茂先立って出家を遂ぐ。同二十五日、長茂並びに伴党四人の首大路を渡さると。



城長茂(じょうながもち,永茂,永用,長用←助職,助元,資茂,四郎)
[城資国4男]越後奥山荘豪族(阿賀野川流域白河荘)
保延7年(1141)頃(or1152)誕生。養和元年(1181)6/14、横田河原の合戦で源義仲軍に敗戦、越後→会津へ敗走、4,50人で越後へ。助職から長茂と改名。8/15、従五位下・越後守。文治4年(1188)源頼朝に御家人にと懇願、梶原景時に預けられる。文治5年(1189)7月、奥州出兵参戦。正治2年(1200)1/20、梶原氏滅亡→御家人になれず。建仁元年(1201)1/23、小山朝政を攻撃。関東追討宣旨もらえず。2/22、潜伏先の吉野で討死。平家方人物辞典 



城資茂 (城資盛とも)
長茂の反乱に呼応して、越後でも城資茂が鳥坂城(中条町)に兵をあつめて背き、幕府がたの追討軍を追い散らすという事態を引き起こした。越後にはしかるべき御家人がいないため、幕府は上野にいた佐々木盛綱に命じて越後御家人の総大将として、討たせることにした。

「吾妻鏡」1201年(正治3:改元・建仁1)5月14日には越後国において資永の子城資盛の挙兵が見え(建仁の乱)。これは坂額御前の兄の城長茂の鎌倉幕府打倒計画に呼応したものであり、長茂自身は1201年2月22日に吉野の奥に於いて討ち取られるが、城資盛は要害の鳥坂城に拠って佐々木盛綱らの討伐軍を散々にてこずらせたが敗走。

鳥坂城については別記。


坂額御前             *「板額」表記が今は一般的になってますね
城資永の娘。
坂額は同時代の巴御前と並び称される程の武勇の持ち主で、「吾妻鏡」では

女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。 中たるの者死なずと云うこと莫し

と書かれている。

しかし最終的には藤沢清親の放った矢に当たり捕虜となり、それとともに反乱軍は崩壊する。坂額は鎌倉に送られ、将軍頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾される。


         *『吾妻鏡』(2003年時点で現存する、当該人物が登場するおそらく唯一の一次資料 )では「坂額」とされていたが、
          のちに古浄瑠璃などの文学作品で「板額」と表記され、
          現代では辞書も含めほぼすべてでこれに準じている 。
[94]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月06日 11時10分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「城」氏と言えば、私の京都時代、城さんという知人がいましたが、九州の
柳川の出身でありました。調べると、菊池系の城氏もあるということがわかり
ました。

 それから「資盛」ということで、調べましたところ、資盛の子で信長の祖と
される「親真」は資盛の子ではなかったという、新たな説が浮上したというこ
とであります。福井県にある墓石の刻印から、親真は壇ノ浦の戦いの105年
後に亡くなっており、年代的な整合性がとれないようであります。

 さて、服部平太夫正尚でありますが、現実に存在し、また従兄弟らしき者で、
その娘を光秀の妻(先妻・後妻、正室・側室・妾か不明。子供は生まれている)
としている者がいたことは、ほぼ間違い事実なのでありましょう。
 ただ、問題はその情報が、本能寺の変のすぐ後でなく、かなり経ってから出
てきたということであります。そこに、隠された秘密・理由があると思われま
す。

 1700年代に作成された『柳営婦女伝 四』の宝代院(秀忠の母)伝之伝系
には──
 @服部平大夫(蓑笠之助)の一報(本能寺の変)についての記述あり。
 A「服部出羽守保章」(平大夫一族)への用心の記述あり。

 1700年代の終盤に作成された『寛政重修諸家譜』には──
 @服部正尚(蓑笠之助)の一報についての記述あり。
 A光秀の舅で正尚の親族の「喜多村出羽守」についての用心の記述あり。

 1800年代前半に作成された『改正 三河後風土記』には──
 @茶屋四郎次郎の一報(本能寺の変)についての記述あり。
A光秀の妻は「服部出羽守保章」の娘という記述あり。

 同じく1800年代に作成された『続群書類従第五編下』には──
 @明智系図あり。
 A光秀末子・内治麻呂の母は、「喜多村保光」の娘の記述あり。

 その他にもいろいろな史料があると思いますが、今の所、全部は把握して
おりません。
 情報というのは、ある時点から一斉に流れ出すということはよくあります。
いわゆる「おとぼりが冷めた」頃ということでしょぅか。体制がすっかり変
わり、人々もそのことについてもはや感情的に左右されなくなった頃からと
いうこと。

 これらの史料より、服部家と明智家には姻戚関係があり、「服部出羽守」
とみられる人物がいたことがほぼ示されます。「出羽守」とは一体何でつけ
られたのでしょうか──上友田の城氏の祖の平繁成は、「出羽(秋田)城介」
であったということに関係するのかも知れません。

 できれば、さらなる情報が見つからんことを願い、さらなる探求をしてみ
たいと思います。

 ところで、本能寺の変を家康に伝えたのは、服部平大夫正尚であるのか、
それとも「茶屋四郎次郎」であるのか──ここにも何か秘められた理由があ
るのかも知れません──
[95]A.AKECHIさんからのコメント(2021年02月06日 11時11分07秒 ) パスワード

 丸に三つ柏服部様
 空の青海のあを様

 お久しぶりです。

 (甲賀に接する)北伊賀を取り上げていただき、ありがとうございます。

 我が家の家伝には、「山崎の戦」に敗れ、湯舟に落ち延びて一年半(=1584年まで)。と、「上野に移る」(家伝にはありませんが、おそらく藤堂高虎移封の1608年)までの24年の空白があるのですが、これまでは、その間は柘植あたりにいたのでは?と考えましたが、[89][92]のご指摘で、鞆田(当時は、こちらの字ではありませんか?)の可能性もあると気付かされました。

[96]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年02月06日 11時26分08秒 ) パスワード

A.AKECHI様

 お久しぶりです。じつは、A.AKECHI様が登壇していただけるのを心待ちにし
ておりました。すごいタイミングであります。ありがとうございます!

 「友田」は、ご指摘のように「鞆田」であります。
 このへんはあを様が詳しいので、あを様に譲ります──
[97]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月07日 06時23分02秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101744.html
長上郡の服部氏族CXLU:142:甲賀服部氏とは2
を立てました。

切りの良いところでどうぞ。
[98]空の青海のあをさんからのコメント(2021年02月07日 07時25分05秒 ) パスワード

わたしの持っている情報では 
古くは「鞆田」で戦国時代には「友田」かなと思います:


以下コピペですが  筆で書かれてて癖のある字なのでイマイチ  分かりません。


鎌倉時代の中頃には服部兵衛次郎定康、服部弥藤次など「東鑑」に見ゆ。
けだし時定の子孫なるべく
同じ頃の人、服部広元の子に僧の円覚あり。
京都の法全(?金?)剛院清涼寺などの住侶となり應長元(1311)年に入寂せり。


                   有名な「融通念仏」の円覚さんと同一人物?


この一族は伊賀国鞆田荘を中心に居住し山尾・鷹山・中谷などに分かれたり。
鎌倉時代末期には断片的なるも左(下記のこと)の伝系あり:

I)
服部一族====太田仲滋の養子
杉木家長 ー 家信 − 家光(猿楽大夫となる)


II)
こちらの一族の系図はややこしいのでザッと記します

服部一族===阿佐小田庄預所(浅宇田庄とも記さる)
上島景盛 ― A元盛
       B服部次郎左衛門元就(妻は楠正成の一族の正遠の娘) − 清次(観世丸)観阿弥という − 世阿弥


                               世阿弥の弟の安春の実父は服部平左衛門保春で後に千賀地の保連の嗣となる 

__________________________________


戦国時代の記録に「矢筈車は服部」と見え
一族の住する所は
「服部・羽根・高畠・荒木・寺田・千蔵(歳?)・佐奈具・槇山・比土・古郡・猪田・神戸・四十九院・安保・別府・柏尾・岡田・寺脇・川上・諸木・沖才(戈?)・良依・那具・市部郡・上友生・下友生・西村・西明寺・内保・上友(反?)田・中友(反?)田・古山・七郷」の村々なりという。
                      
                   ココでは  上友田・中友田  と記されています(癖字なので上反田・中反田かも)



ということなのでネットで以下を拾って来ました:親切なワタシ(拍手)



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%86%E7%94%B0%E8%8D%98

鞆田荘(ともだのしょう)
伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市上友田・中友田・下友田)にあった荘園。


概要
元は湯船荘の一部であったが、
東大寺領の玉滝杣の住人が開発したことから、
11世紀中期には国衙より東大寺の寺封に対する便補とすることが認められていたが、

一方で伊勢平氏も同地への進出を図っており、
承徳元年(1097年)に平正盛が白河院の愛娘媞子内親王の菩提を弔うために創建された六条院に寄進した。

このことが、伊勢平氏と東大寺の対立を招き、
保安2年(1121年)以降、長い相論に至った。


寿永2年(1183年)平家(伊勢平氏)が京都を追われてその所領が平家没官領として没収されると、
東大寺と六条院、それに没官を機に公領回復を目指す国衙が対立したが、

後白河院が東大寺領として認め、
続いて貞応元年(1222年)には後高倉院が改めて六条院の主張を却下した。


以後、東大寺領として展開されていくが、
南北朝時代には悪党の押領が進み、応永年間(1394年から1428年まで)を最後に姿を消すことになる。


________________________________


https://ameblo.jp/keith4862/entry-12631107946.html
鞆田神社

「鞆田(ともだ)」の地名由来については不明、
他に近くの「友生(ともお)」がかつて「鞆生」であり、
「鞆」のように細長い地形であったということを由来としており、
当地もそうであったのかもしれません」



結論
古くは「鞆」が使われていて「友」に変ったのかも。
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