[1] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月23日 23時40分50秒 ) | パスワード |
はっとり かさのすけ
服部 笠之助は実在の人物でござる。ここでは、歴代笠之助についての略歴を
紹介させて頂きまする。
◆初代 笠之助 藤 正尚 ?〜1607
初名、服部平太夫正尚。仁木太郎実国の子孫というが、従兄弟である服部(北
村)保章の祖が平宗清とも考えられるので詳細はわからない。
伊賀者 服部平蔵正信の長男である。
母は三河の豪族 青山平太夫忠教の娘。元は、丹波の武士であったと
伝えられる。また、猿楽師(能役者)としての顔をも持つ。
西郷正勝の娘と結婚し、その連れ子であった於愛が徳川家康の側室に上がった事から家康に従うようになる。
『改正三河風土記』の台徳公(秀忠)御誕生付宝台院(於愛)殿の事には次のように記載されている。
「天正七年己卯正月のころ、簑笠之助といふ者夢想に発句を感得す。駿河なる富士の山にてかい(甲斐)喰て 此句目出度句とて熨斗付の太刀を賜り、句を買せ給ふ。(略) 此歌夢見たるより百日に満つる夜三郎君生れ給ふ。是台徳院殿大相国の御事なり。遠州敷地郡浜松の城にて生れ給ひ、御幼名をば長松丸と申。御首服かへ給ひて秀忠公と申奉りたり。此御母君はお愛殿といひ、西郷の局と称す。西郷弾正左衛門正勝が女、戸塚五郎太夫忠春に嫁してお愛殿を生り。忠春天文廿三年遠州大森の軍に討死しければ、其妻お愛殿を伴ひ、服部平太夫正尚に再稼し、お愛殿服部が家にて生立し後、外祖父正勝が孫右近進義勝が妻となりて、男女の子一人づつ生れたり。然るに義勝元亀二年三月、武田が手のものと戦ふて討れければ、お愛殿継父服部が家に帰りおはせしを、母方の叔父西郷左衛門佐清員やしなひて子とし、天正六年の春浜松へ宮仕にまいらせしかば、西郷の局とめされて、今年四月七日に此君をうみまいらせしなり。(略)
天正10年(1582)、本能寺の変が勃発した時、堺の町に滞在していた家康の許へいち早く駆け付け、伊賀越えの道案内をした。家康一行が柘植を通過する時、平太夫の従兄弟である服部出羽守保章が出迎えようとしたが、平太夫は出羽守に二心があるのを見抜き、家康に簑笠を着せて窮地を救った。この時、
「簑 笠之助」の名を家康より与えられた。江戸開幕の折、平太夫を側近として呼び寄せようとしたが、平太夫は老齢の理由から断り、かわりに実弟の服部七右衛門を推挙した。慶長12(1607)年、没し
た。法名 一楽。
「甲賀郡志」には、服部家(甲賀五十三家の服部家・祖は伊賀神戸の服部氏)の
項目に、伊賀越えに服部平太夫の名が見られると記載されている。笠之助こと服部平
太夫の服部家と、甲賀の服部藤太夫の服部家とは、姻戚関係があったのかもしれな
い。
◆二代目 笠之助 正長 生没年不詳
初名、庄之助。平四郎。平十郎。初代笠之助正尚の4男。長兄 惣右衛門が、松平
忠吉(家康4男、惣右衛門の甥)に付いて尾張藩士となっていた為、慶長12(1607)
年、平四郎が父の名跡を継いだ。慶長18(1613)年、大久保長安事件に絡んで(大叔父
青山成重の実子が長安の養子となっていた為)閉門となるが、後に赦され能役者とし
て四座の内の宝生座に附属された。異父姉は、二代将軍徳川秀忠の生母 西郷局(於
愛)。秀忠は甥に当たる。恐らく忍者の中で、将軍家に一番血縁が深いのは笠之助で
あろう。
◆六代目 笠之助 正高 1687〜1771.9.15
初名、庄次郎。実は松平光長の家臣小沢庄兵衛の子。1716年、能役者の宝生座に
列していた簑(巳野)兼正の養子となった。享保3(1718)年、家督を継ぐ。翌年、
岳父が農政家田中休愚(丘愚)喜古であった為、大岡越前守忠相に見出されて代官職を
務めるようになる。相模国足柄上・下郡のうち73ヶ村を支配する。宝永4(1707)年
に富士山が噴火し、酒匂川の堤防が決壊しているが、その復旧にも尽力した。田中丘
隅は文明堤、笠之助は三角土手の築造にあたったという。 寛延2(1745)年、手代に何
らかの落ち度があり職を奪われ小普請組に入れられた。宝暦6(1756)年、隠居し相山
を号す。著書に『農家貫行』がある。
◆その後の簑家
能役者としての家柄とは別に、飯島陣屋代官や奈良五條代官、石見邇摩郡代官な
どの行政官を数々に輩出していったようである。簑姓を巳野と改めた時期もあったよ
うであるが、また簑に復している。「文政武官」には御能役者の宝生座の列に、巳野
助次郎、同善太郎、同市右衛門などの名が見られる。子孫の方は東京世田谷区に現存
なされているとの事。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月23日 23時47分45秒 ) | パスワード |
◆服部 笠之助 正長 [はっとり かさのすけ まさなが]
※笠之助伝に記載。
◆服部 笠之助 正尚 [はっとり かさのすけ まさひさ]
※笠之助伝に記載。
◆服部 七右衛門 忠頼 [はっとり しちえもん ただより] 1549〜1615
平八郎。青山図書助成重。伊賀者 服部平蔵正信の次男。妻は北条家家臣 恒岡越後守常自の娘。元亀
2(15)年母方の縁者である青山忠重の養子となり、青山平八郎を名乗る。天正12(1584)年、兄 平太夫の推
挙により江戸に召されて徳川秀忠の傳役となる。慶長8(1603)年従五位下に叙し図書助に改める。江戸開
幕期には、秀忠付きとして参政し老職(老中)となり、1万石を領し大名の列に連なる。慶長18(1613)年大
久保長安の三男 権之助成国を養子に迎えていた為、長安の死後に発覚した金銀横領事件(大久保長安事
件)に連座し7千石を減封され、下総国香取郡の采地に閉居する。大坂冬の陣の折、密かに本多佐渡守正信
の指揮下に従って出国した所、勘気を受けている身である事を咎められ掛川宿より帰国する。夏の陣にも
参陣したい旨を本多正信を通じて願い出たが、病気を患った為適わなかった。その年の9月に死去する。
法名 英徹。嫡男 成次がいたにもかかわらず、なぜ大久保長安の子を養子に迎えたのかが謎である。大久
保長安と服部半蔵家とが血縁関係を結んだのと同じように、能役者と忍者を結ぶ何かがあったのかも知れ
ない。
◆服部 甚右衛門[はっとり じんえもん] (印代判官)
◆服部 出羽守 保章 [はっとり でわのかみ やすあき] 生没年不詳
保光。のち喜多村(北村)氏。服部平太夫の従兄弟。伊賀柘植(一説に名張)城主。娘は明智光秀の後妻
で、天正10(1582)年一月には坂本城で光秀の末子(内治麻呂)を出生している。天正伊賀ノ乱で恨みを抱い
た出羽守が、明智光秀を唆し本能寺で信長を襲わせたのではないかとも考えられる。徳川家康の神君伊賀
越えでは、柘植城で家康一行を迎えて謀殺しようとしたが、従兄弟である服部平太夫に見抜かれて未遂に
終わった。この為に柘植城を追われ、近江国北村に隠れ棲み北村(のち喜多村)と改姓した。他に明智光
秀の後妻となったとする伏屋姫の伝承があるが、父親の名を服部鳥羽守としている。鳥羽守という呼称
は、国司の官位名としては誤伝(あるいは鳥羽一国という見方があるのか?)のような気もするが、出羽
守と同一人物を指すのかは不明である。服部出羽守の出自については不明であるが、伊賀の地誌などから
推測できる。
平頼盛(清盛の弟)の家臣平宗清が、平氏滅亡後に流浪の果てに旧領地の柘植郷に棲みついたが、宗
清には3人の子があり、長男は日置氏を称し下柘植を本拠とした。この日置氏が柘植一族の祖で、松尾芭
蕉もこの一族である。次男は天正伊賀ノ乱に名が出てくる福地伊予守宗隆の祖で上柘植を本拠とした。三
男が北村氏を称し中柘植を領したが、これが服部北村氏の祖ではないかと考えられる。しかし出羽守は、
近江の北村に移り住んでから北村(喜多村)氏と称したとも伝えられるからはっきりとはしない。
秦造酒公の子孫で、伊賀国阿山郡の城土佐守秀友が服部出羽守を名乗ったというが、同一人物あるい
は血縁者である可能性はある。この出羽守の弟は菊永右近太夫を称して、一族の兵部という者は兵術を以
って世に聞こえた剛の者であったが、朝鮮役で戦死したという。
◆服部 半蔵 正重 [はっとり はんぞう まさしげ] 生没年不詳
長吉。伊豆守。妻は大久保石見守長安の娘。半蔵正成の遺領のうち3千石を継ぐ。関ヶ原の戦いで抜
駆けの罪に問われたが、結城秀康の口添えで許された。その後、家康の命で服部半蔵3代目を襲名する。
舅の金山奉行 大久保長安と交互に佐渡金山を統制した。慶長18(1613)年 、大久保長安の死後に金銀
の不正蓄財が発覚して一族が処罰される事件(大久保長安事件)が起った時、正重は任地の佐渡に居た
が、この変事を知り佐渡に留まる事を憚って出国してしまった。正重が越前国出雲崎までに至った時、幕
府よりのお構い無しの奉書が届き、これを受け取ったが、許可無く任地を離れたる事が不届きであるとさ
れ村上周防守義明に預けられた。村上家が断絶後は堀丹後守直寄に預けられ、その後に赦免の沙汰があり
堀家の家臣となる。しかし堀千介直定の代で断家し流浪する。その後は、兄嫁の弟である松平越中守定綱
に仕えた。
◆服部 半蔵 正成 [はっとり はんぞう まさなり] 1542〜1596
※この絵は森郁さまから提
供して頂きました。
石見守。服部保長(正種)の6男。「鬼半蔵」・「槍半蔵」などの異名を取
り、徳川16将のひとりに数えられている。伊賀組頭領。16歳で初陣し、伊賀
者6、70人を率いて、三河宇土城の夜討に成功したと言われるが、信憑性に乏
しい。武田の間者・竹庵という者が岡崎信康に接近した時、その者を討ち取った
という。謀反の疑いから信康に切腹の命が下った時には、その介錯役として信康
の許へ赴いが、主君の息子を討つ事が出来ず、検死役の天方山城守通綱が代わっ
て介錯したという。のち江戸の麹町に安養院(西念寺)を建立し信康の霊を弔っ
た。三方ヶ原の戦いでは、伊賀者150人を率いて奮戦した。天正10(158
2)年、本能寺の変が勃発した時、堺の町に遊んでいた徳川家康を伊賀越えにて
脱出させた。もっとも異説もあり、半蔵が伊賀越えに随行していなかったとして
いるものもある。山岡荘八の小説「徳川家康」には、伊賀越えの話しに半蔵は登
場していない。伊賀越えで家康を護衛した伊賀者200人余りの者は、半蔵に預
けられ「鳴海伊賀ノ衆」と呼ばれた。慶長元(1592)年病没し、安養院に葬
られた。法名 西念。安養院は、のちに半蔵に因んで西念寺と改名され、四谷へと
移転している。
[小] 服部 半蔵 全5巻/戸部 新十郎 著/毎日新聞社刊
[コ] 半蔵の門 全14巻/小池 一夫・小島剛夕著/角川書店刊
男弐 (おに) 全7巻/小池一夫・伊賀和洋著/集英社刊
◆服部 半三 正就 [はっとり はんぞう まさなり] 1565〜1615
源左衛門。石見守。妻は松平隠岐守定勝の娘・松尾姫。半蔵正成の遺領のうち5千石を継ぎ、与力7
騎・同心200人を預かる。しかしながら正就は不肖の二代目だったらしく、伊賀同心を私兵のように扱
い、そしてついには慶長9(1604)年、伊賀同心たちが正就の罷免と自分たちの待遇改善を訴え四谷の長善
寺に立て篭もったのである。忍者の起したストライキに対して幕府の下した処分は、伊賀同心を大久保甚
右衛門忠直・久永源兵衛重勝・服部中保正・加藤勘右衛門正次の旗本4名に分属され、首謀者10名は処罰す
るというものであった。しかし、首謀者のうち2名が逃亡し、これに怒った正就が伊賀同心と誤って伊奈
備前守次の従者を斬殺してしまったのである。正就は閉門となり松平定勝に預けられた。大阪の陣におい
て家名再興をかけ松平上総介忠輝の陣に参戦するが、5月7日天王口において討死する。一説によると、大
坂の陣の後に越後国萩城下に逃れた後、正就の読み名を[まさちか]と改め、燕に移り百姓となって暮らし
75歳で没したという。
◆服部 半三 保長 [はっとり はんぞう やすなが] 生没年不詳
正種。浄閑入道。服部は北伊賀の知賀地に本拠を持つ服部一族の長 保長は、伊賀を離れて将軍 足
利義晴に仕えてのち三河の松平清康・広忠・家康に仕えた。某年、岡崎において死去する。
[小] 魔界の忍者 服部 半蔵 保長/竹内 勇太郎著/光風社刊
◆服部 平太夫 正尚 [はっとり へいだゆう まさひさ] 生没年不詳
※笠之助伝に記載。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月23日 23時49分14秒 ) | パスワード |
以上は下記のURLよりコピー
http://village.infoweb.ne.jp/~shinobi/ninbetsu-h.htm# 服部半蔵正重
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月23日 23時54分51秒 ) | パスワード |
「忍者の学校」より
服部半蔵の実像
猿飛佐助や霧隠才蔵は架空の人物だが、服部半蔵は実在した人物だ。
疑問その一 半蔵は伊賀者ではない?!
伊賀の服部半蔵、という認識が世間では一般的だな。
服部家は伊賀上忍三家の一つだ。もともと広く各地に分かれ住んだ家筋らしく、服部姓は多いのだが、他
二つの百地・藤林家も、服部筋の流れをくむものらしく、ようするに、伊賀者全てが服部筋になってしま
うことになる。
しかも伊賀には「黒党祭り」がある。この祭りに加わった者は、服部姓を名のることが許されていたの
で、その数は...ああ、ややこしい!
ともかく、半蔵は上服部家の血筋をくんでいるのは間違いないようなのだが、問題は出生の場所で、半蔵
が生まれる前、彼の父、服部半蔵保長は伊賀を出国している。
保長はいったん将軍足利義晴に仕えるが、すぐに扶持がもらえなくなる。
その後、徳川家康の祖父、三河の松平清康につかえることになる。
半蔵は、このころの流浪の前後に生まれたと思われる。
半蔵の墓には「三河の住人」と彫られている。
疑問その二 われらが先祖よりは下の服部なり
江戸時代の「慶長見聞書」に面白い記述がある。
半蔵に仕える伊賀同心の連中が半蔵を称して「伊賀にてはわれらが先祖よりは下の服部なり」と言ってい
るのである。これは身分、格式みたいなことを言っていると思われるが、これは、国を捨てた親父の息子
じゃないか、というのがあったと思われるな。
ま、早い話がやっかみというところだろうが、忍者は一人の大名に生涯仕えることはしないというプライ
ドみたいなものがあった。それを服部はなんだ、あれじゃ宮仕えだ、忍者にあるまじき者だ、と思われて
いたようにも感じられるな。
疑問その三 伊賀者と半蔵の管理能力
半蔵が「下の服部」にすぎないとすれば、どうやって伊賀者を集結することができたのか?
「伊賀越え」での伊賀者家康への協力は自発的なもので、半蔵の働きとは関係ないものだという説があ
る。それを裏付けるように、「徳川実紀」には伊賀越えに加わった人物の名が数多く記載されているの
に、服部半蔵の名はどこにも登場しないのだ。
半蔵の働きは、伊賀越えそのものではなく、その裏処理にあったと推定される。
つまり、半蔵はもともと伊賀者を統率していたのではなく、家康の使者として伊賀を訪れ、自分の血筋を
利用して、伊賀の地侍との交渉により、初めて彼らを徳川の配下に組み込むことに成功したと考えられる
のだ。
シナリオ的に書くと、
伊賀者にとって、秀吉は、伊賀を滅ぼそうとした織田信長に近く、家康は、敗走した伊賀物を保護してく
れた恩人である。
半蔵は「伊賀越え」の際に、ある程度、伊賀地侍の協力は予想していただろう。
そして予想通り、伊賀者は進んで家康に協力を申し出た。そこには伊賀者たちの計算があった。
信長亡きあと、家康の助けを借り、伊賀の独立を死守しようとしたのであろう。しかし、その目論見も秀
吉の攻撃によって危うくなっている。頼みの家康は表向き秀吉に従っている。
そこに半蔵が現れた。家康の狙いは、最終的に秀吉を倒すことにある。今のうちに家康に従ってはどう
か...。
追い詰められた伊賀者に、選択の余地はなかった。
服部半蔵最大の功績は、家康の元に忍者を集結させ、戦国最強の忍者の軍団を作りあげたことだったので
はないだろうか?
俺が思うに、服部半蔵は伊賀の忍者ではなく、伊賀と忍者ををよく知る三河の武将だったのではなかろう
か。
武勇に秀で、人材管理能力に長けた半蔵。有能者を見抜く目を持っていた家康。
伊賀者たちの思惑...。
全ては家康の手の内にあったとも見えるのだが、あまり突き詰めると、歴史は面白くない。
今回は、このくらいにしておこうか。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月23日 23時56分52秒 ) | パスワード |
以上は下記のURLより
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/2348/index.html
[6] | 服部孝徳さんからのコメント(2000年07月24日 01時09分00秒 ) | パスワード |
はじめまして。
家紋が丸に並び切り竹矢筈の服部です。
服部明子さんが紹介されていた家紋のページに今治に行った経緯がちょっと載ってましたよ。中部、東海の武将のところです。
戦国時代、服部半蔵の名が知られている。服部半蔵という人物は一人ではない。初代服部半蔵保長は、はじめ足利将軍義輝に仕え、石見守を称し、義晴を経て三河国に至り、家康の祖父清康・広忠に仕えたという。
保長亡き後、家督を継いだのが、嫡子半蔵正成(まさなり)である。家康の独立後、遠州掛川城・高天神城攻略、姉川合戦などに従った。元亀三年(1572)三方ケ原合戦ののち、伊賀者150人を預けられた。天正七年、織田信長に疑われ、家康の嫡男信康が遠州二俣城で自刃したとき、介錯を命じられたが、「三代相恩の主に刃は向けられない」と落涙するばかりであった。そこで、変わって天方通綱が苦しむ信康の首を落とした。正成は無念の最後を遂げた信康の菩題を弔うため、のち江戸麹町に安養院を建立している。
天正十年六月、本能寺の変が勃発する。家康は少数の家臣を従えただけで、伊賀を越えて三河へかろうじて帰国できた。このとき、家康一行を先導したのが正成であった。以後も小牧.長久手の役などで戦功を重ね、槍の渡辺半蔵と並んで「鬼半蔵」と称された正成は八千石を領した。小田原の役後、家康が関東入国すると、正成は与力三十騎・伊賀同心200人を支配し、慶長元年に没した。
正成の嫡子正就は、与力七騎・伊賀同心200人を預かった。だが、正就は組下の同心を酷使して反感を買い、同心一同が寺院に籠るという不祥事を起こして、改易となった。正就はこれを恥じ、大坂夏の陣に加わり汚名挽回をはかったが討死した。そのあとを継いだ弟の正重は、舅の大久保長安事件に際し、進退が将軍秀忠の忌諱にふれ、慶長十八年に除封処分となった。結局、服部氏嫡流は改易処分となる。
さきの正就の室は桑名藩主松平定勝の娘だったことから、息子たちは松平家に仕えた。定勝の息子の代に松平家は、松山、桑名、今治に分かれたことで、服部家の息子たちも三つの地に分かれて仕えた。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月24日 04時14分59秒 ) | パスワード |
最後の3行:
さきの正就の室は桑名藩主松平定勝の娘だったことから、息子たちは松平家に仕えた。定勝の息子の代に松平家は、松山、桑名、今治に分かれたことで、服部家の息子たちも三つの地に分かれて仕えた。
これですね。今治に移ったというお話は。
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月24日 04時18分36秒 ) | パスワード |
服部さん:
ありがとうございました。
「丸に並び切り竹矢筈」をアップしてみようと思っています。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月24日 04時25分14秒 ) | パスワード |
私の技術では無理でした。
その内向上してアップ出来るかも。
いろいろ無い知恵を出してやってみます。
[10] | 隈 さんからのコメント(2000年07月24日 09時10分21秒 ) | パスワード |
服部考徳さん、どうも初めまして。
そして貴重な情報を有難うございます。
明子さん(みんな”服部さん”なので、今回はファーストネームで失礼しますね)、いつも沢山の情報を有難うございます。
せっかく岡山の服部姓に関する情報をいろいろ寄せて下さったところへ今治の事を持ち出して、何だか振り回した格好になってしまって、申し訳なく思っています。
皆さんが下さった情報を無駄にしないように、頑張って調査しなくてはと思います。
今まで調べたところでは、3年程前に今治で服部家墓所の修復が行われたということです(愛媛新聞の記事より)。
服部家墓所は、明治に入ってから服部家の子孫が今治を離れたために手入れする人がいなくなり、痛みが激しかったそうです。
「今治藩筆頭家老 服部家墓所を守る会」なるものも結成されていた様ですので、代表の方に連絡が取れれば、と思っています。
[11] | 福地 隆徳さんからのコメント(2001年03月12日 03時43分08秒 ) | パスワード |
はじめまして、福地家のル-ツ調べてたらここに来てしまいました。
もしかすると、伊賀が発祥の地かもしれないですね。福地家は・・・・
なにか知ってることありましたら、教えてください。ではでは。
[12] | 源三さんからのコメント(2002年01月20日 23時05分24秒 ) | パスワード |
肥前佐賀の竜造寺氏家老の福地氏は以前は福益を称していました。
何かの文献に載っていましたよ。
熊本の豪族・内空閑氏は伊賀の服部氏系で藤原姓です。藤原北家・日野氏族
藤原鎌足−不比等−房前(北家祖)−真楯−内麻呂−●真夏(冬嗣の兄弟)−浜雄−家宗−弘蔭−繁時−輔道−有国(参議)−●日野資業(山城国宇治郡日野村法界寺に隠棲)−・・・・・つづく。
確か伊賀の近くの近江側に★日野町ってあるのは何か藤原日野家と関係あるのかな?ということは、伊賀には伊藤姓藤原氏のほか、日野姓藤原氏も勢力もって一族住んでいたのでしょう。
服部半蔵などと同族なのかな?
服部半蔵正成はは本姓・藤原氏です。
保長−−−保元−−−−−重保(藤原直勝)
正成(★服部半蔵)−正就(服部半蔵の名継ぐ)−−−−−−−
−−−長男(四国松平家に)
次男(桑名松平家に)
三男(四国松平家に)
四男(伊賀上島家に)
五男(越後の別の服部家に)
保蔵(越後服部家・父継ぐ)・・・・・・・・・・・・・
七男(越後で分家)
・・・・・・服部孝成(現在・長岡市の団体職員)
●伊勢あたりに→服部という地名はあるのでしょうか?
もしあらばそこを時代々々に支配した氏族が領して色んな系統の服部氏が出現したでしょう。
古代の部民・各豪族服部氏に養子を入れた系統より、こちらの系統のほうが多いと思いますがどうでしょうか。多くの部民が服部姓を名乗ってるとは思わない、彼らの大半は下の名はあっても上の姓はなかったと思う、姓をもっていたというには彼らの首長や支配しているトップ層が服部姓を名乗っていたでしょう。
★僕の家の菩提寺は佐賀市の中心にあるs寺なんだけど、800年くらいの歴史ある名刹だそうです。墓は堤氏、伊東氏、相良氏で全体の4割は占めていると思います。あとは色々な名前があります。基本的に佐賀藩士の系統が多い。そこに服部姓を発見しました。墓碑を見ると江戸期の浅野家と同じ様な鷹の羽がクロスしてエックスになった形です。
結構古い立派なお墓です。肥前佐賀の服部家は結構肥前佐賀の戦国期に龍造寺の家臣
などで出てきます。それ以前も多分、九州治乱記や太宰管内誌、など多くの九州の平安、鎌倉、戦国期の歴史書で調べればすぐどんな経緯で九州に下ってきたのかわかるでしょう。調べておこうっと・・・。他に太田、龍(太田)→太田道灌後裔や少弐氏の一族の重松氏(名跡は菅原道具後裔)や下村、内田、武藤。佐々木、原田(大蔵朝臣)田尻、古賀、石井、、三好、佐藤、西原(源為朝後裔)、蒲原(足利今川族)、
またまだいっぱいですからこれくらいでやめます。福地氏は竜造寺から鍋島にかわり
江戸期はあまり振るはなかったようです。
[14] | 登坂 進さんからのコメント(2009年12月30日 11時33分37秒 ) | パスワード |
URL=http://plaza.rakuten.co.jp/tosaka |
埼玉の蕨市に服部という方がおられます。数年前に行われた。伊予今治での墓前、本堂内での読経の写真を拝見しました。我が丈母方の300年蔡の写真です。
[15] | 子孫さんからのコメント(2010年08月11日 15時56分22秒 ) | パスワード |
服部について何を書くのも自由ですが・・
半三、半蔵の名を汚さぬようにお願いいたします。
徳川将軍に仕え、泰平の世を生み出した影の実力者、服部の名を汚すことは
全国の子孫が許しません。
どうかひとつよろしゅう。
[16] | 相良四郎さんからのコメント(2023年03月18日 18時02分35秒 ) | パスワード |
良く纏めておられて感服致しました。
しかし私は読み違えをしましたでしょうか。
その後をお願い致します。
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