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 投稿番号:101619 投稿日:2018年01月11日 09時08分30秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について43

コメントの種類 :その他  パスワード

2018年がスタート致しました。
私がこちらのスレッドを利用させて頂き、先祖の調査を始めたのは
2013年9月01日。

先祖の調査が5年目を迎えました。
最初は『すぐに色々と解るだろう』と簡単に考えていましたが
そんなに甘くなかった・・・とあらためて今思います。
球磨の古代から近世まで続く「謎」が大きな壁となって
立ちはだかっています。
しかし、勉強を積み重ねていく事によって
その壁の中に大きな扉を見つけて壁の向こうを見る事が
必ず出来ると私は信じています。

皆様方から頂くありがたい御教示。
ありがたいご支援の言葉。

私は感謝の気持ちと共にしっかりと胸に刻んで
今年も勉強・調査に精進してまいります。

皆様方
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

こちらは
平川家について40+2 コメント69より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101611_68.html


[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月12日 06時57分09秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

最近ブログの方で球磨の古代について調べていますが
大同年中に建立が続いた球磨の神社について書かせて頂いた際に
秋篠宮文仁親王様も御成りでいらっしゃった人吉の遥拝大明神 (遥拝阿蘇神社)と
球磨川を下り、八代市内に入る前(球磨川沿岸道路沿い)の山中に御鎮座の
豊葦原神社(遥拝神社)
この二社の神社様のトーテムが「鯰」である事に気が付きました。
「鯰」の装飾が施されたお寺や神社を私の住む地域(旧久米郷)で見かけた事が
今までにもあったので、「何故?鯰なのだろう?」と考えて
色々調べた結果、鯰をトーテムとしたのは
「古代久米族」もしくは「蘇我氏」であったのでは?と言う事に気が付きました。
よろしければ、詳しくはブログの方でご覧ください。
 ブログアドレス
@ http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12338064869.html
A http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12339558210.html
B https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12340557469.html

さらに姫姓東周霊王の太子・姫晋を祖とする太原王氏「王 允(おう いん、137年 - 192年)
この方も鯰トーテムとする家であった事にドラマを見ていて気が付きました。
この件は、もっと詳しく調べなければいけないとは考えていますが
ドラマの制作者側も時代考証を行った上での「装飾」であるはずだ・・とは考えています。
C http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12342592277.html

鯰をトーテムとする神社仏閣が見られる九州の地域は
旧肥国(熊本・長崎・佐賀)に集中しています。
さらに、奈良県では久米寺にその「鯰」のトーテムが見受けられます。
久米寺は久米族だけではなく蘇我氏を祖母方(蘇我稲目の娘様)とする来目皇子(久米王)※聖徳太子の同母弟に
御所縁のお寺であり、さらに蘇我稲目の子息「田中刀名」は「久米臣」の祖である事も解りました。
蘇我稲目の先祖となられる武内宿禰。
『古事記』では武内宿禰は許勢臣(巨勢臣)・蘇我臣・平群臣・木臣(紀臣)を始めとする27氏の祖とありますが
武内宿禰の息女に久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)と言う名の方がいらっしゃり
さらに武内宿禰の多数の後裔の中に『新撰姓氏録』では
右京皇別 久米朝臣 が見られます。

私の推測ですが
結局、古代久米族・武内宿禰を祖とする木氏(紀氏)・蘇我氏は
遡ると古(いにしえ)からの「縁」で繋がっていると考えています。
この事は、私が今まで数年間調べて来た、古代の球磨について「気が付いていた事」と一致しています。
古代の「縁」と書きましたが、「同族」もしくはそれに近い「関係」であったのでは?と考えます。
その「縁」に深く関わるのが火国山門に住したとされる呉王夫差の系であった事は「鯰」のトーテムから推測して間違いないのでは?とも考えています。

古代久米族の元祖的本拠地であったと言われる球磨郡久米郷。
喜田貞吉氏は「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」と述べているが、太田亮博士はそれに同調して、「久米族の山部連は山部の総領的伴造(とものみやつこ)である・・と言われています。

その久米族と「縁」が確実にあると私が推測する武内宿禰を祖とする木氏(紀氏)・蘇我氏、
そしてその縁に深く関わる呉王夫差の系。
謎を解くべきその場所は・・やはり球磨ではないのか・・・

知識の浅い、歴史を本格的に学んだ(専攻した)訳ではない私が言うと
非難を浴びたり、一笑される事は覚悟の上で、お許し下さい。
私は今までの調査をふり返り、現段階では
久米族とは
@モン・クメール系倭人 = 久米部
古代、沖縄の久米島経由で九州南部に。球磨に拠点(古代の国)を形成。
A天津久米尊後裔 大久米命 = 姫姓 呉王夫差の系、もしくは何れかの中国王朝の王家の系(姫姓?)※江南地方から南海経由もしくは朝鮮半島経由
※久米部を率いて神武天皇御東征に従う
★元祖的天皇家に従った方々。
B元祖的天皇家に従わず、反発をした久米族(姫姓 呉王夫差の系+モン・クメール系倭人)
=熊襲の「熊」※曽人(後の隼人)と融合
★東征には従わず肥国や曽国に残る。
C反発後、元祖的天皇家に従った(服従)した方々 = 火君の母方
D同じく反発後、元祖的天皇家に従った(服従)した方々の宗家 = 後の松野連
※後に後裔(一族)は熊本県内の菊陽や菊鹿等に定住。
(今まで書くのを控えていましたが、この事は熊本県内の歴史研究家の方々は周知の事実です)

@〜Dここまでが、現段階の私の推測です。(今後の調査でもちろん変わる可能性はあります)

さらに姫姓の方々と木氏(紀氏)さらに蘇我氏は非常に「濃密な縁がある」と推測しています。

蘇我氏は・・・久米族・姫姓の方々だけではなく、さらに曽人(隼人)とも縁が深かったのではないか・・
(ここはあくまでも推測までとはいっていません。葛城氏と曽人(日向)の縁から少し気になっています・・・)
※同族と言われる平群氏。平群は奈良だけではなく日向にも地名がある(和名妙類聚抄)

ブログの方の調査で、久米族の系の方が『太伯地名がある吉備国』
大伯国造となられている事も解りました。
※大久米命の後裔『大伯国造 佐紀足尼』と言う方です。
『大伯国造 佐紀足尼』が大伯国造となられたのは応神天皇の時代とも言われています。
ウィキの上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧を見ると
西暦270年〜西暦312年の間だと推測されます。

球磨の古代の遺跡からの出土品や墳丘墓より『吉備国』と古代球磨との関係が明白となっていますが
私は、上記の※大久米命の後裔『大伯国造 佐紀足尼』
この方が球磨と『吉備国』を繋げる線の一つであると考えました。

もちろん、私は神武天皇の御東征が2675年程前、縄文時代の頃であったとは
考えてはいません。
百済や新羅の建国等から推測した年代を以前日本の苗字七千傑様より御教示頂いていましたが、
自分でも一応勉強させて頂いて、おそらく300年代ではなかろうか・・?
と考えるに至りました。
そうすると
※大久米命の後裔『大伯国造 佐紀足尼』(西暦270年〜西暦312年の間の人物)
この方と古代球磨との関係が解った事は『非常に重要な事』であったと思います。

ここで(..)
三つ柏服部様、
私の拙い調査をご覧下さって頂ける事を願って書かせて頂きます。

三つ柏服部様御自身の御調査の妨げになってはいけないと思い
お声掛けをさせて頂く事を控えておりました。
ただ、御報告をさせて頂きたい事がありまして
今回、書かせて頂きます。
申し訳ありません。

三つ柏服部様から御紹介頂いた書籍
鷲見紹陽氏著「シュメールの天皇家」 拝読させて頂きました。
実は、購入してすぐに読み始めたのですが、数ページ進んだ時に
ふと「来年の正月に読むべきだ」と考えたのです。
何故その時そう考えたのか、自分でも全く理由が解りません。
それから、突然、ブログの方で書かせて頂いた様々な内容が頭の中を駆け巡り
精力的に、次々と閃く事を書かせて頂きました。

そして、今年の正月を迎えました。

「正月に読むべきだ」と考えた事から、早速元旦にページを開くと
最初に驚いたのは
以前読んだはずのわずか数ページが、以前とは全く異なりすらすらと頭の中に入って来た事です。
不思議な感覚を覚えながら読み進めました。

すると、本当に驚い事が多数ありました。
まず、私がブログの方に突然閃いて書いた(紹介させて頂いた)
球磨川に渡来した「かっぱ」さんの話。
以前、こちらのスレッドでも数回御紹介させて頂いていましたが、ブログの方で
あらためて書かせて頂いた時に自分自身でも「かっぱ」と呼ばれた方々は
日本の建国(大和朝廷の成立)に何らかの関わりがあるのでは?と考えていた
その事が書籍「シュメールの天皇家」に書かれていた事です。

鷲見紹陽氏は著書「シュメールの天皇家」の中で
「オーレイオーレイ デーライタ」(呉人呉人多来的)祭りの由来となる
球磨川河口に渡来した「かっぱ」に着目されて、その「かっぱ」と言われた方々は
三国時代の呉国から来た、後の「蘇我氏」であったのでは?と
推測されていらっしゃいました。
非常に驚きました。
先にも書いたように、久米寺・久米御縣神社は久米族に所縁の場所であり
さらに久米寺は「蘇我氏」を祖母方とされる(蘇我稲目の娘様)来目皇子(久米王)に御所縁の場所でした。
私は久米族と蘇我氏の関係に「縁」を感じていたからです。
最近、球磨周辺に関係する「呉国」とは、春秋時代の「呉国」と三国時代の「呉国」、両方の呉国であったのでは?
と考え始めていた矢先でしたので、書籍の記述を読んで、やはり驚きました。

次に驚いたのは
鷲見紹陽氏は著書「シュメールの天皇家」の中で
狗奴国は沖縄(場所は明記されていませんでした)にあった古代国家でありその分国が熊本にあった。
後に熊本の狗奴国が吉備に東征した。
と推測されていた事でした。

先にも書いたように古代の球磨と『吉備国』を繋げる線の一つが
大久米命の後裔『大伯国造 佐紀足尼』。
「久米族」の方が『吉備国の太伯地名』である大伯国造となられていた事に気が付いていた私は
上記の狗奴国が古代の熊本(肥国)から吉備に東征したとの鷲見氏の推測に
鳥肌が立つ程驚いたのです。

「セム系」と「ハム系」の対立と言った「この書籍」の本質部分については
未だ私はその根拠的な所を含め理解出来てはいませんが(これから勉強致します)
しかし、「人の移動」については、『様々な分野からの研究』・『多方向からの視点』が一致すると言う事は
単なる偶然と、私は思う事が出来ません。

さらに書籍の中で『「熊本県」にあった』と推測されている「古代国家」、「狗奴国」・「多羅国」等他「複数の国」が登場した事も驚きでした。
自分自身も「多数民族の集合の地」であったと推測していましたので
非常に興味が湧きました。

他にも『23日の深夜』に関わりのある行事等「驚き」が多数ありました。

三つ柏服部様、
とても参考になる書籍をご紹介して下さって
本当にありがとうございました。
勉強をさせて頂きました。

大寒波ですが、
風邪などおひきになられませんよう
お身体十分にご自愛下さい。
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月12日 08時56分05秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 お元気で何よりです。
 このところ、私は少しパワー不足となってまいりましたので、ミヤハラ様
のお声が聞けて、またパワーが湧いてきました。

 どうも、スハス(スバス)姫を中心として、謎の源がありそうな「勘」がし
ております――
[3]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月13日 08時16分41秒 ) パスワード

三つ柏服部様
ご覧下さり、ありがとうございました。

私の住むあさぎり町の今朝の気温は−8.3度。
窓が凍って開かない状況です。
ここは九州南部との境なのですが・・・
(気象庁は球磨までを九州北部とされているようです)


日葉酢媛命でしょうか・・・

垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)
皇后 日葉酢媛命
景行天皇の母君ですね。

私は以前『日葉酢』とは方喰草ではないか?と考えたのですが
三つ柏服部様の御調査を拝読して
東南アジアに分布するコショウ科の植物に「ヒハス」があると言う事を
勉強させて頂きました。

垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)・・・久米・・
皇后 日葉酢媛命
景行天皇(大足彦忍代別尊おおたらしひこおしろわけのみこと)
おおたらしひこおしろわけのみこと・・・たら・・・

垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)の前皇后は
日葉酢媛命の叔母にあたられる狭穂姫命。
狭穂姫命は火中出産をされた方でした・・

日葉酢媛命。
父君は第9代開化天皇の皇孫「丹波道主命」

不敬に当たる事かも知れませんが
第9代開化天皇様は欠史八代と言われる天皇様方のお一人で
欠史八代の天皇様方の「その八代」にあたられる御方ですね・・・

色々考える事があってウィキの欠史八代の記述を読みました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A0%E5%8F%B2%E5%85%AB%E4%BB%A3

欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)とは、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。
現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが、実在説も根強い。

実在説

記紀歴史書説
記紀を歴史書と想定し、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変とともに記紀以前の国記などの代表的な歴史書が火事で無くなったために記録が曖昧になってしまったと考える説。系図だけは稗田阿礼が記憶していたが、その他の業績の部分に関しては火事で焼失した歴史書と共に消え失せたと考える。
※乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。

葛城王朝説
初代神武天皇から欠史八代までの系譜を10代の崇神天皇の一族とは別の王朝のものと考え、その王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯)の地に比定する説。
この葛城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える。
この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連させて考えることができ、この説を発展させて邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国と考え、それが畿内に東遷したとする説もある。

プレ大和王権説
古くは賀茂真淵の説にまで遡り、崇神天皇が四道将軍の派遣等遠国への支配を固めていったのに対しそれ以前の天皇は畿内周辺のみが王権の届く範囲であったとする説。
欠史八代の多くの大王は近隣の磯城県主と婚姻を結んでおり、后妃の数も孝安天皇以前は異伝があるにせよ基本的に一名であるあることなど、畿内の一族長に過ぎなかったとも考えられる。
また、四道将軍は吉備津彦命が孝霊天皇の後裔、大彦命と建沼河別命が孝元天皇の後裔、彦坐王が開化天皇の後裔であるため欠史八代と崇神天皇に断絶を考えない説もある。
九州王朝説の古田武彦も神武天皇から武烈天皇まで歴代天皇については大和に存在した九州王朝の分王朝である近畿大王家の大王であって、継体天皇の時代まで断絶はなかったとしており、プレ大和王権説に近い立場であるといえる。
=================================================

今まで欠史八代の様々な説をしっかりと読んだ事がなかったので
ウィキの記述でおおまかに理解させて頂きました。

ただ、実在説の「葛城王朝説」・「プレ大和王権説」も其々が
鍵を握っていらっしゃるのは
垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)の父君
崇神天皇様であると言う事は解りました。

驚いたのは・・・
崇神天皇様をめぐって
@九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える説。
A崇神天皇の王朝を狗奴国に比定する説。
B崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国とする説。
C崇神天皇の王朝が邪馬台国を滅した後の狗奴国と考え、それが畿内に東遷したとする説。
等です。

私がこの数年間、調べて「感じて」「閃いて」いる事は
どうしてこんなに「謎」に包まれているのだろうと度々考えていましたが
@〜Dの説を初めて拝見して
越えてはいけない壁の向こうを自分は調べているのかもしれない・・・
そんな事を考えてしましました。

ただ、その壁の向こうを見なければ、おそらく
私が知りたい先祖の真実や故郷の古代の真実には辿りつけない。
そう考えます。

今回、三つ柏服部様からお言葉を頂いて
ふと気になり
今まで理解していなかった「様々な説」を初めて拝見しました。

パワーを頂いたのは私の方です。
三つ柏服部様
本当にありがとうございました。
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月15日 10時27分42秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 返事遅くなりました。うっかりしておりました。申し訳ありません。
 ヒバス姫のことも、うっかりして、「スバス」と書いてしまいました。
 このところの集中力の欠如は否めません。仕事、家庭、近隣、寒さ、体調
等いろいろな要素がからみますので、余り気にはしていませんが、ご迷惑を
かけないよう気をつけたいと思います。

 ヒバス姫という名前は全く理解を越えた名前で、人によるとインドの匂い
がするということですが、東南アジアの植物のヒハスと言葉がよく似ていま
すので、ひょっとしたらと思った訳であります。私は最近、この血圧に効く
というサプリメントを飲み出しました。結果としては、医者の薬程ではあり
ませんが、処方薬なしでもいいほどの一定の効果はあります。

 500年前の歴史でもなかなか真相はわからないのに、1000年、ある
いは1500年前の真相、ましてや2000年前の歴史の真相をつかむとい
うことは、実際、推測の推測……ばかりになってしまいます。
 それでも、大局的に、鳥瞰してみると、大きな流れは見えるのではないか
と感じております。

 歴史の変わり目というか、砂時計の首(ボトルネック)のところが、ちょう
ど「ヒバス姫」あたりのような「勘」がしております。表面の歴史では見え
ないですが、裏の歴史を見ると、やや透けて見えます。それは、王統、ある
いは皇統というものであると思っております。

 実は、「服部連」のルーツもそのへんでわからなくなっているのです。
 歴史はデジタルでなく、アナログの世界でありますので、数学のように解
くことはできないのが難点でありますが……。
 ただ、私が思うのは、ここらあたりが、「日本モード」と「渡来・外来モ
ード」との切り替えのターニングポイントかと思います。純日本的な歴史観
では解けない。かといってユダヤモードやシュメールモードに切り替えるの
には抵抗がある……いったいどうしたらいいのでしょぅかという訳でありま
す。

 最近斎藤忠著『裏天皇の謎と 安倍晴明』という本の理解に努めているの
ですが、なかなか歴史の把握が難しい。かいつまんで言いますと、安倍晴明
は、日本国によって滅ぼされた倭国王家の名称を継承する阿倍氏本宗の当主
であったということでありますが、これをすぐ理解せよと言われてもなかな
か難しい。たぶん、九州の地にある大和朝廷に対して抱く遺恨、失われてし
まった王国の遺恨というものを根底に持つ者達が存在し、その中に当事者と
しての安倍晴明がいたのではないかと考えます。

 皇統というものが、日本の歴史の骨格だと考えれば、ここを明確にすれば
歴史の謎は解けるということにはなります。ここが解けないから、いろいろ
な推測、またその推測に基づいた推測、というように推測の積み重ねになっ
てしまうのだと思います。でも、ここは致し方ないところであります。

 古代史探究には、茫漠の時間がかかりますので、それには没頭はできませ
んが、私は丹波王国には興味をもっております。ヒバス姫もそこに関係して
来ると思っています。

 いずれにしても、九州の球磨に絡む歴史の解明、ミヤハラ様の強い意思に
今後も期待しております――
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月15日 21時46分56秒 ) パスワード

ミヤハラ様
 
 また、うっかりでした。私の飲みだしたサプリは、「ヒハツ」でした。
 「ヒハツ」と「ヒバ(ハ)ス」の違い、いずれにしても両方とも日本発祥の
言葉ではないような感じはします。ミヤハラ様の酢漿草説の方がわかりやす
く、正解かも知れません……。
[6]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月16日 12時41分08秒 ) パスワード

三つ柏服部様、皆様 今日は。

三つ柏服部様
ご教示ありがとうございます。

〉「日本モード」と「渡来・外来モ
ード」との切り替えのターニングポイント

非常によく解りました。
まさしく、おっしゃる通りだと思います。
最近、私は記紀等で気になる方が登場すると、
この方の時代を記紀ではいつ頃の「話」だとして描いているのか?
そう考えて、ウィキの「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を見るようにしています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%9C%A8%E4%BD%8D%E5%B9%B4%E3%81%A8%E8%A5%BF%E6%9A%A6%E5%AF%BE%E7%85%A7%E8%A1%A8%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)
皇后 日葉酢媛命

時代は紀元前29年〜70年にかけて、まさしく1世紀です。

記紀を編纂した方々は外国(中国や朝鮮半島)の史書を参考にして、
年代に整合性をとったのでは?と推測する事は可能だと思っています。
(100年〜200年程のずれは発生しているのでは?とは考えています)

三つ柏服部様のお言葉
〉「日本モード」と「渡来・外来モ
ード」との切り替えのターニングポイント

このターニングポイントは1世紀〜2世紀にかけてとなり
海外からの古代日本への進出がこの時代から応神天皇(270年〜312年)まで
めざましい勢いで進んでいったのではないのでしょうか・・・

ただ、このターニングポイントはもちろん縄文時代にも度々あったとは思いますが
縄文時代末期の紀元前400年代が九州における大きなターニングポイントであったと考えます。(文明が大きく変わる)

私は自分なりにど素人ながら少し勉強して考えるのですが
中国や朝鮮半島、さらには南島からの古代日本への「渡来」に際して
海を渡って来た人達が目の前に「陸地(日本)」が見えるのに
わざわざ遠回りして畿内まで進んで上陸するのだろうか???と。
南海経由であろうが、朝鮮半島経由であろうが、遥か遠くから海を渡って来て
最初に上陸する「地」は
目の前に見える「その土地」である事は間違いないと思います・・・

そこに上陸した後「拠点」として最も適した場所を見つけ「国(勢力域)」を造り
そこからさらに勢力を広げる為に日本列島を東に向かって行く(侵攻)したと考えるのは
不思議な事ではない・・・と。
(知識の浅い私が言うのは不相応で申し訳ありません(..))

もちろんある「一行」は到着した「その地」が日本海側であれば同じくそこに拠点を造り勢力を広げていった・・・

其々の拠点となる地の選択にもっとも必要となったのは「稲作が出来る土地」であり
「鉄の生産」が出来る土地であり、
もし「鉄の生産が不可能」な土地に拠点を持ったならば、「鉄」を輸入する事が
可能な土地でなければ、勢力を広げる為の十分な基盤を得る事は出来なかった
と推測します。

※稲作(特に水稲)に必要な水(川)に恵まれている。(焼畑に適した土地でも可能)
※武器や農機具を造る為の「鉄の原料」鉄鉱石の産地である。
※もしくは製錬された「鉄」の輸入が可能な地域である。

上記に該当する地域に古代国家が次々と形成されていった・・・
その古代国家同士が時には争い、時には連合して、時には争いの末に国を譲って
日本全体が一つの国へとまとまっていった・・・

ブログの方にも書いたのですが
私は何が一番良かった!と思うかと言いますと、
やはり「朝貢」と称して他国に「人」を「生口」する事が無くなった事です。
日本が統一されて、国としてのプライドが持てた事
その国の「国民」を外国に「朝貢」する事など無くなった事
『”真”の大和朝廷』の成立は素晴らしい事だと思います。

ただ、三つ柏服部様のお言葉にある
『失われてしまった王国の遺恨』
見えない部分で、何時の時代でも引継がれた「思い」なのでしょう・・・
とても納得致しました・・・

私は最近妙な事が気になっています・・・それは
熊襲とは・・・本当に「狗奴国」の事なのだろうか???
もしかしたら「邪馬台国」の政治の中心部の人達ではなかったのか???
元祖的天皇家に従った「狗奴国」の勢力が拡大して、邪馬台国に侵攻し
邪馬台国内で元祖的天皇家に従った「狗奴国」の勢力に「従った政治中心部」と
邪馬台国内で従う事を拒んだ人達(政治の中心部)に別れ
邪馬台国内で従う事を拒んだ人達(政治の中心部)が曽国に逃れて行ったのではないか・・?
その人達が「熊襲」ではなかったのか・・?

曽国に逃れた人達の中から元祖的天皇家に従う「姉妹」が現れて
妹の方が『母国』に戻る事が出来たのではないか?(火君与う)
しかし他の従わなかった人達は、曽国以外にも南下して離島に逃れたり
北上して筑紫国に逃れたのではないか?
北上した人達が 仲哀天皇紀に描かれている北部九州の熊襲と呼ばれた方々ではなかったのか?
と。
一般的な説「狗奴国」=「熊襲」とは全く逆の発想ですが
しかし、こう考えると記紀に書かれている内容とは一致してくるような
気がするのです・・・
景行天皇の「熊襲」征伐として書かれた地域はあくまでも「襲(曽)」国です(姉妹の方が居た地域)。
6年後の記述では
熊縣の熊津彦と言う方は 景行天皇に従っています。
球磨の隣である小林(夷守)・えびのを景行天皇に従って案内した方々は
兄夷守と弟夷守です。
この方々が熊津彦の子息二人であった事は十分に考えられます。
球磨はあくまでも熊縣であって「熊襲」の域とは書かれていません。
芦北も同じくです。芦北の住人(山部氏)も景行天皇に従っています。
この方々もあくまでも芦北の人であって、芦北も「熊襲」の域とは書かれていません。
八代も同じくです。
熊本県内で「熊襲」と書かれた人が居た地域は「益城」周辺だけです。
そこ(元の国)を離れなかった人達が残っていたのでは・・?
筑紫国(北部九州)に逃れた人達(熊襲)は制圧されて、結局は元祖的天皇家に従った・・
元祖的天皇家と従う狗奴国は九州全土を制圧して、さらに北上したのでは・・

松野連系図に見られる、天皇家に従って「火国造」を賜った市鹿文(姉妹の妹)
兄弟の宇也鹿文(火国菊池評山門里住)※火国菊池の評督となる。
襲(曽)国に逃れた後に、元祖的天皇家に従って母国に戻る事が叶った
二人の方々
私はそう考えます・・・

こう言う風に考えると記紀の記述と整合性があうのでは・・・
ただ、記紀の記述は先も書いたように100年〜200年のずれが発生している事は
確かなようですが・・・

卑弥呼という女性は、産まれは北部九州で、一族の代表として選ばれて
女王として「政治の中心がある場所」に来られたのではないのでしょうか・・
まるで、徳川家の『将軍』の継承のように・・・
その後の事は今まで書いたような流れとなってしまった・・・

私も時には「大胆な推理」を書いてみよう!と思いまして
ぶん不相応ですが、書いてみました。(お恥ずかしい限りです)


所で三つ柏服部様
今回も非常に長くなっている事をお許し下さい。
一つ、気が付いた事がありますので書かせて頂きます。

三つ柏服部様からご紹介頂いた書籍
鷲見紹陽氏著「シュメールの天皇家」の中に『23日の深夜』に関わりのある「事」が書かれていました。

天皇様の主要な祭儀の中で最も重要な祭祀は11月23日夕から翌午前1時までに行われる
「新嘗祭」であり
新嘗祭で、天皇様は新穀を天照大神様など神々に供え自らもお口にされる。
とありました。

私は11月23日の深夜に「新嘗祭」が執り行われるとは全く知らなかったので
この記述を読んだ時に恐れ多い事ですが鳥肌が立ってしまいました。
頭に浮かんだのは祖母の実家の氏神様として木札に書かれた
月讀廿三夜比賣尊

木札には左から
月讀廿三夜比賣尊
天津彦火瓊々杵尊
天津彦火火出見尊
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12274474875.html

以前三つ柏服部様は
月讀廿三夜比賣尊と記された所が天照大神となるのが普通ではないか?
と言う事をおっしゃっていらっしゃいました。

実は今朝、伊勢神宮の記述から進んで初めてウィキの九州王朝説を読んだのです。
そこには「淡海は古代球磨川河口」と言う記述がありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC# 淡海は古代球磨川河口

今更知ってお恥ずかしいのですが、非常に驚いて、ここから「淡海と天皇家」のワードで色々検索していた所
天智天皇が皇都とされた「淡海大津宮」の記述を知る事が出来ました。
さらに「淡海大津宮」を調べていた時にネット公開されていた
斎藤忠氏著「あざむかれた王朝交替 日本建国の謎: 701年に何が起きたのか」
が目に留まりました。

https://books.google.co.jp/books?id=FMaKCwAAQBAJ&pg=RA1-PA33&lpg=RA1-PA33&dq=%E6%B7%A1%E6%B5%B7%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%AE%AE&source=bl&ots=pzI3jZmZNW&sig=Ra4wpeE7EbwCSetKolmQiP1VPuc&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi10PmeltvYAhUIF5QKHcAiCVoQ6AEILjAB#v=onepage&q=%E6%B7%A1%E6%B5%B7%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%AE%AE&f=false

この書籍の中(表示されたページから3ページ程先最後の2行)に
衝撃の言葉が記されていました。
『推察するに皇帝の方の斉王は倭国皇統が奉じる天照大神(月神/月讀尊)に対するものであろう。
月神は古くから内宮、外宮それぞれの別宮に祀られるが、おそらく元明(天皇)の時には倭国皇統の故地から伊勢神宮のうちに強いて勧請したことによって必要となった新規月神用斉王の派遣であろう。
天皇の方の斉王は言うまでもなく日本国皇統の奉じる日神たる天照大神に対するものだ。
天照大神については、一般に日神とされるが、しかし天は星々の世界、夜空を指し月神が本来照らすものだ。
むろん奈良時代のうちに双方は習合し、天照大神は日神なりと定められたろうが
以下略・・・』
以上 斎藤忠氏著「あざむかれた王朝交替 日本建国の謎: 701年に何が起きたのか」より

※皇帝の方の斉王は倭国皇統が奉じる天照大神(月神/月讀尊)に対するものであろう。
※天照大神については、一般に日神とされるが、しかし天は星々の世界、夜空を指し月神が本来照らすものだ。
※奈良時代のうちに双方は習合し、天照大神は日神なりと定められた・・・

私はついに祖母方の氏神様がどう言う意味を持つ神様であったのか
理解出来たような気がしました。

天照大神(月神/月讀尊)

月讀廿三夜比賣尊 は 天照大神ではないのでしょうか・・・!

鳥肌が立ちました・・・

しかし、続けて最大の疑問が湧きました。

日本全国、どこの神社様にもお祀りされていない
祖母の実家の氏神様
月讀廿三夜比賣尊

月讀廿三夜比賣尊と天照大神 同一であるとした場合
何故?この国の重要な秘密、隠された事を祖母の実家の先祖は知っていたのか!?

おそらく、知る方々はごく僅かだと思います。
公表されていない、時代の影に隠された事を何故?祖母の実家の先祖
いえ、私の先祖は知っていたのか?
何代にも渡り継承してきたのか?
おそらく、椎葉村以前、先祖代々受け継がれていたと推測しています。

私の先祖調査の最大の「謎」についに突き当たった
そんな気持ちです。

三つ柏服部様にお声掛けをして御調査をじゃまする行為をして申し訳ございません。

しかし
一番に三つ柏服部様に御報告をと考えて書かせて頂きました。

謎ではありますが、しかし、先祖の真実を見つける鍵なのでは?
とも考えています。
[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月16日 16時01分56秒 ) パスワード

追記
ウィキの九州王朝説の解説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC# 淡海は古代球磨川河口

淡海は古代球磨川河口以外の記述を読みました。
(朝は淡海は古代球磨川河口のみの記述しか読んでいませんでした(..))

感想は・・・
なるほど・・と思った所もありますが
うん?????(?_?) 納得できない・・(本音)
と言う所の方が多々ありました。(勉強不足も原因でしょうが)
父は「諸説あり」と考えるのが一番と笑っていました。

九州の古代研究はおもに北部九州のみに視点が集中しているように感じます。

私は記紀の記述を完全に無視するのは・・抵抗があります

九州中南部の勢力と九州北部の勢力が合流、吉備経由で奈良に・・
記紀の神武天皇の御東征の内容は「この歴史」を描いているのでは・・・と(..)
私自身まだまだ頑固なのかもしれません
ただ・・西暦で言えば300年代かなぁ・・とは思います。

九州の古代研究の視点が北部九州に集中しているのであれば
私は球磨からの視点で、別の方向から九州の古代を感じていたい・・
そう考えます(^'^)
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月17日 08時35分11秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 古代史についてのご見識、尊崇に値します。ヤマト政権の前後のことは、
私自身もスッキリさせたいと思っています。といってすぐに結論を出せる
訳でもないので、並行して探究して行きたいと思っています。
 今、「阿倍氏」の謎に囚われています。古代氏族ということですが、本
を呼んでも、なかなかスッキリとはわかりません……。
 古代史については、この方向からアプローチしてみたいと思っています
ので、新しいことがわかりましたらお知らせいたします――
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2018年01月18日 05時52分07秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 ミヤハラ様にはそんなことはないと思いますが、古代史は一旦理解しても、
すぐ忘れてしまいます。
 それは何故かと考えてみますに、この説は正しいと思っても、すぐに次の
説によって迷わされ、くらついてしまう。つまり、いつも半信半疑な状態の
把握であるのが原因なのかと思っています。

 私にとってこれはいい本だなと思われるものには、その本の表紙に「テキ
スト」と書いたシールを張ります。
 その一冊に、壇国大学特別教授の金容雲氏の書いた『「日本=百済」説 
原型史観でみる日本事始め』(三五館 1,500円+税 2011年)という本があ
ります。以前にも書かせていただいたかも知れませんが、この本を読むと、
九州の古代が、朝鮮半島との関係の中でよくわかります。特に108頁に出
ている「熊襲征伐の必要性」というところを読むと、狗奴、邪馬台、高千穂、
大和の関係がよくわかりますし、全体を通して半島との関係・事情がよくわ
かります。

 私にとっては、古代史本は一度読んでもすぐ忘れてしまいますので、余り
意味をなしませんが、ミヤハラ様でしたらスイスイと理解されることと思い
ますので、是非一度読んでいただきたいと思うのですが、既にお読みでしょ
ぅか?
 
[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月18日 12時48分04秒 ) パスワード

三つ柏服部様
御教示ありがとうございます。

昨日、来客がありお礼が遅れました。
お詫び申し上げます。
身に余るお言葉を頂いて恐縮致しております。
まだまだ、不勉強でお恥ずかしい限りです。

古代史の理解と迷い。
私もその繰り返しです・・・

「阿倍氏」「安倍氏」「安部氏」
武内宿禰と同じく孝元帝裔氏族であり
那須国造後裔「那須氏」とは同族ですね。

球磨視点で申し訳ありませんが
以前から、私は不思議に感じていた事があります。
九州中央山地内の球磨盆地を取り囲む山々の集落地域。
球磨の「皆越」(現あさぎり町)・「槻木」(現多良木町)には
通字を「貞」とする本姓「阿部氏」の皆越氏と槻木氏。
※麻郡神社私考には「安部氏」とあり。

山の稜線で繋がる椎葉村には「那須氏」。

両氏は時を同じくして平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて
「逃れて」来られたとの伝承があり
私は「逃れて来られた」と言うよりは古(いにしえ)の縁地に戻って来られたのでは?
と言う不思議な感覚を持っていました。
さらに皆越氏と槻木氏は「遠江国」から球磨へ・・と言う伝承が残っています。

三つ柏服部様の阿倍氏からの古代の御探求。
新しい事がお解りになられましたら
ぜひ、ご教示を頂きたいと
心から楽しみにお待ち致しております。

御紹介頂いた
『「日本=百済」説 
原型史観でみる日本事始め』

拝読した事はありませんでした。
早速購入します(^'^)
スイスイ・・・
とんでもありません。
三歩進んで二歩下がる・・の繰り返しだと思います(..)。

百済・・・
実は昨晩眠れずに、寝室で多良木町史を読んでいた時に
朝鮮半島と古代球磨との関連で「完全に見落としていた」遺跡について
記されていた事に気が付きました。

以前御紹介した「わんちゃん」の土偶とも繋がってくるので
詳しくはブログの方にまとめるつもりです。

三つ柏服部様
重ね重ね、お礼を申し上げます。
御教示ありがとうございました。
[11]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月22日 11時55分46秒 ) パスワード

勝間田様
平川家について31 コメント83より続けます。

江戸時代における相良藩(人吉藩)内の勝間田氏の記録ですが
肥後相良藩士分限帳には

勝間田八之助
元禄十五年十月朔日申付之 親平八延宝八年三月十七日於濱松頓死
此勝間田帳尾ニ有之候得共余白ニ付爰ニ記之

とあります。
元禄十五年(1702年)10月1日 申し付けとして
勝間田八之助と言う方の父「勝間田平八」。
この方が
延宝八年(1680年)3月17日に濱松(浜松)にて頓死(急死)された事が解ります。

父「勝間田平八」と言う方が濱松(浜松)で亡くなって、約20年後
勝間田八之助と言う方の相良藩士としての記録です。

もしかしたら・・・離婚ではなくて、お亡くなりになられて妻の方が御実家に
帰られたのでは・・・?(すみません(..)あくまでも、推理です・・)

勝間田八之助と言う方以降は、相良藩士分限帳では
享保三年(1718年)「勝間田藤八」
同じく
享保三年(1718年)「勝間田平助」「勝間田久左エ門」と言う方の名が並んで書かれていて
「勝間田平助」と言う方の添え書きに
正徳元年辛卯六月十五日亡父久右エ門跡式被仰付之
※正徳元年辛卯(1711年)

さらに「勝間田久左エ門」と言う方の添え書きには
享保七年壬寅養父平助跡式無相違被仰付之
※享保七年壬寅(1722年)

と書かれています。

勝間田様の御参考になればと思い書かせて頂きました。

ただ、私ごとですが
平川家について31 コメント83で書かせて頂いたように
以前から、新堀氏・横地氏・勝間田氏の繋がりが非常に気になっていました。
そもそも、新堀氏の遠江国での縁地は一説では勝田(勝間田)にあると言う事は
ネットを介して知っていました。

サイト 日本姓氏語源辞典様 より
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2479260.html

シンボリ 新堀 中略・・
A鹿児島県薩摩川内市永利町では静岡県西部(旧:遠江国)の勝麻田の新堀から熊本県球磨郡多良木町を経て来住したと伝える。時代、位置不詳。静岡県牧之原市勝田付近が比定地。

とあります。
※静岡県西部(旧:遠江国)の勝麻田の新堀。
静岡県牧之原市勝田付近が比定地。

勝間田氏と新堀氏はかなり縁が深いのでは?と推測しています。
地図 静岡県牧之原市勝田周辺
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.76527207&lon=138.17948309&ac=22226&az=8.3101a&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%89%A7%E4%B9%8B%E5%8E%9F%E5%B8%82%E5%8B%9D%E7%94%B0%E5%8B%9D%E7%94%B0%E4%B8%8B

球磨における勝間田氏について、私が今まで自分の先祖を調べる上で知り得た情報を
御紹介させて頂きました。

勝間田様の御先祖様の御調査の
ご参考の一つとされて下さい。

ミヤハラ
[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月23日 11時48分16秒 ) パスワード

皆様、今日は。

多良木町史(昭和55年1月1日発行)をじっくり読んでいた所
見落としていた多数の記述があり、その中から
内部構造が全国的にも非常に珍しい球磨の古墳についてを
ブログの方で詳しくご紹介させて頂きました。

内部構造が全国的にも非常に珍しいとは
多良木町史編纂時の昭和54年当時、国内の何処にも見つかっていない
『階段式通路』があった古墳です。
階段を持つ古墳が球磨の多良木町に存在していました。
さらに、これも全国に類が無いと書かれた玄室があり
玄室の構造
床の平面が多角形(八角形)をなすように側壁をたてめぐらした例は他に類をみない。
側壁の左側は整然とした三つの辺と角をなして立て並べられている。
と記されていました。

この不思議な古墳等の御紹介を書かせて頂いたブログのアドレスです。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12345669084.html

皆様、よろしければご覧ください(..)

あの・・・ここでなのですが・・・
皆様、私が以前書かせて頂いた「夢」の話をご記憶でしょうか・・・
あの時、私は夢の中に登場した
「階段のある古墳」について書いていたのです・・・
階段のある古墳が全国的に類が無いと言う事は
今回初めて知りました。
これまた鳥肌が立ってしまいました・・・

さらに、あの時に見た「夢」の中で
今でも鮮明に覚えているのは
一人の男性(執事のような方)から
「皆に伝えなさい。大王様がお目ざめになられます」と言われた事です。
不思議だったのは、その直後に
『蘇我稲目』の古墳ではないか?と言われる古墳が見つかった事でした・・・
(妙な事を書いてすみません<m(__)m>)

人間って、何かDNAを介して不思議な夢を見る事があるのでは???
などと、科学では証明出来ない何かを
今回の調査・勉強で感じています・・・

夢の話から戻して(ー_ー)!!
今回、ブログを書くにあたって才園古墳から出土した鎏金獣帯鏡の記述を
あらためて読んで気が付いたのですが

金メッキされた鎏金獣帯鏡
中国の鏡の研究者である王士倫氏によると、三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられたものという。鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない。(一貴山銚子塚古墳:福岡県糸島市、城塚古墳:岐阜県三野)相当の実力者の墓とみられる。

日本では3枚しか出土していない。
才園古墳:熊本県球磨郡あさぎり町(旧免田町)
一貴山銚子塚古墳:福岡県糸島市
城塚古墳:岐阜県三野

そこで、日本では3枚しか出土していない内の一枚が見つかった
一貴山銚子塚古墳:福岡県糸島市
を調べた所
『九州王朝説』(あえて北部九州王朝説と私は書かせて頂きます)
の確固たる証拠であると言った記述を多数目にしました。

例えば
こちらのサイト様
http://www.torashichi.sakura.ne.jp/michikusa11shikanoshimasimpo.html
黄金鏡について

(Q)福岡の一貴山銚子塚の黄金鏡について、考古学会はあまり重要視していない。古田先生は、これこそ王墓の証拠とされる。しかし、熊本にも黄金鏡が、時代は遅れるが出土しています。そうすると、その地にもそれなりの王が存在した、ということになりますが。
(A)黄金鏡は、他に大分でも出ている。それなりの権力者の象徴であったということ。私は銚子塚の黄金鏡の金がどこからもたらされたのか興味がある。成分分析で産地が特定できたら面白い。時代的に、魏から卑弥呼が貰った金8両が使われたのではないか、と推測しているのだが

(゜-゜)
あまり、あさぎり町にはご興味がおありにならないようで・・・((+_+))

他、こちらのサイト様
倭国(九州王朝)遺産10選
http://furutasigaku.jp/jfuruta/nikki10/nikki784.html
第7〕糸島市一貴山銚子塚古墳出土「黄金鏡」
 国内でも数例しかないという鍍金された鏡です。邪馬壹国の卑弥呼が中国からもらった「金八両」が使用されたのではないかと、古田先生は推測されています。
なお、同じ鍍金鏡として熊本県球磨郡あさぎり町才園(さいぞん)古墳出土の鏡もセットで認定したいと思います。

\(^o^)/ 古賀様はあさぎり町にも視点を向けて下さってありがたい事です。(@_@。

九州王朝説は、今だ私は理解不足というか
理解してみよう(^O^)/と言う気持ちが湧いていないのが本音ですが
ただ、九州王朝説を抜きにして「北部九州」だけではなく
球磨の古代にも視点を向けて下さる方がいらっしゃったと言う事を知り
とても嬉しく思いました。

ただ、非常に残念な事は、ブログにも書いたのですが
球磨や熊本県内の古墳や遺跡は、戦後の農地構造改善等により破壊されている例が多々ある事です(@_@。

さらに球磨の古墳の中には才園古墳と同規模の古墳が、古(いにしえ)の時代に
荒らされて、むき出しの状態になっている所もあります。
もちろん出土品も不明です(@_@。

鬼の釜古墳
http://5.travel-way.net/~niemon/kumamoto/asagiri/dotyu/oninokama.html

石室は巨石を用いた単室の横穴式石室で、才園古墳群2号墳の石室とならび、球磨地方の代表的な巨石墳である。
 羨道部(古墳の玄室に通じる通路)は短く、羨門(羨道部と玄室の境にある門状の入口)は厚さ約80cmの巨石をくり抜いたもので、高度な石材加工技術がうかがわれる。

高度な石材加工技術が確認出来る写真が掲載された
山歩き 古墳巡り様 サイトより
http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-734.html


(@_@;) 確かに
約80cmの巨石をくり抜いたもので、高度な石材加工技術がうかがわれる。
と記された意味が解りました。

しかし・・・出土品等は不明でございます(@_@。

出土品はどこに行ったのだろう・・・
罰あたりな事をする人達がむか〜しから居たと言う事ですね(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

他、神殿原(こうどんばる)台地にも遺跡があったはずなのですが・・・
その遺跡発掘を含めて、江戸時代まで手つかずの状態であった神殿原(こうどんばる)を開拓した元細川藩士が主体となった
明治初頭の神殿原開拓団。
記録では遺跡発掘調査の結果「何も見つからなかった」との報告があったようです。
神殿原開拓団のメンバーの方々は
後に貴族議員になられたり、東京都知事になられたりと、とてつもない出世を遂げられた方々が多数。
さらに、旧黒田藩の藩士の方々と政治結社を結成した方もいれば・・
私が今、はまって見ている(^'^)
ドラマ「朝鮮ガンマン」に直結する事件を起こした方もいらっしゃいます・・
https://www.twellv.co.jp/event/gunman/

皆さん、多数の方が旧岡原村(私の住む)に籍を移して活動されていました。
上記の「事件」に関係した方は生涯本籍を岡原村から動かす事が無かったと言う事です・・・

何故だろう??
何故?神殿原に関わった方々は、明治以降の激動の時代に
其々が歴史の中心域に名を残す事になられたのだろう・・・??

もしかしたら、絶対に触れてはいけないパンドラの箱なのかもしれない
そんな事を考えるのは私だけなのかなぁ・・・

最後は独り言のようになってしまいましたが(..)

開けて良いのであれば
このパンドラの箱ももっと調べて見たい!と言う好奇心はあります・・

球磨の内部構造が全国的にも非常に珍しい「古墳」等について書いたブログ
あらためましてアドレスは
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12345669084.html

でございます。
皆様方、よろしければご覧ください(..)
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月27日 07時21分44秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

最強寒波が日本列島を覆っていますが
私の住むあさぎり町、今朝の最低気温は
−7.8度でした。
窓が凍って開きません((+_+))
球磨に戻って3回目の冬をむかえていますが
ほぼ毎日の氷点下の気温に身体が完全に慣れてきました。
朝の最低気温が0度の日に主人と交わす会話が
「今朝はあったかいね(^'^)」です・・・
小倉生まれの玄海そだち〜♪の主人が完全に球磨体質へと(現代の肥人体質)
変わって、氷点下の気温に慣れてしまったようです(p_-)
しかし・・・主人の御先祖様は
江戸時代までの小倉藩の庄屋家「中村家」で、縁戚の「望月家」から
主人の曾お爺さんが養子に入り「中村家」を継いだので
主人の血脈は紀氏族の滋野一族・・
球磨には御縁があったようです・・・
相良頼景。この方が球磨に来られた際に、「望月氏」は一緒に球磨に来られています。
以前は、どうしてなのか?意味がよく解らなかったのですが
最近は古代の遠祖に「地縁」があったからでは?と考え始めています(p_-)

義母や義母の兄(主人の伯父さん)、親戚の方に伺ったのは
主人の御先祖様は昭和の初め現在の小倉南区蒲生八幡の近くに住まわれていたと言う事は聞いていたのですが
主人の御先祖様「庄屋家 中村家」に関係があるのか?
小倉の大庄屋「中村家」についてネットで古文書が紹介されていました。
本当にビックリしました!

史跡訪問の日々様 サイトより
http://blog.goo.ne.jp/uemura1048/e/70d0e26c3790917a9607bcf54a6c834e

中村平左衛門は豊前国菜園場村(現・北九州市小倉北区)に生まれた。文化五年(1808)、十六歳で企救郡勘定役(人馬方)に就任した。文政五年(1822)、小森手永(手永とは小倉藩における行政区画のこと)の大庄屋に任命された。継いで富野手永、津田手永の大庄屋に転じた。天保六年(1835)、旱魃に悩まされていた下曽根村(現・小倉南区)のために大池を造成した。その後、京都郡の延永、新津両手永の大庄屋に任命された。安政四年(1857)、高齢と病身を理由に大庄屋退任したが、その二年後、城野手永の大庄屋として異例の再登板をすることになった。文久元年(1861)、ようやく退任が認められ隠居生活に入った。慶応三年(1867)、七十七歳にて没。平左衛門は、文化八年(1811)から慶応二年(1866)まで五十六年にわたって日記を残した。幕末期の小倉藩の政治動向や社会の様相が描かれた貴重な資料となっている。
 中村平左衛門の墓の隣には、平左衛門の息でやはり藩政時代に手永を務めたほか、維新後は企救郡の初代郡長を勤めた津田維寧の墓もある(維新後、地名の津田に改姓)。

他、西日本シティ銀行様のサイトにも庄屋家「中村家」について記されていました。
http://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/kitakyushu/019/

(゜-゜)
大庄屋「中村平左衛門」と言う方と、主人の御先祖様の繋がりは今の所
私は親戚に詳しく聞いていないので、よく解らないのですが
一つ聞いているのは
主人の御先祖様、戦国時代以前まで遡った方に白馬に乗られていた方がいらっしゃった・・と云う事です。

この「白馬」ですが
偶然か、平河義高、この方も白馬に乗られていたと言う事で
さらに宮原一族の八代氷川、宮原城城主「宮原公忠」、この方も「白馬」に乗られていたと言う事で・・・
何だか、「白馬」と言う言葉を頻繁に聞くのが不思議です・・

庄屋家「中村家」に「望月家」から養子に入った主人の曾祖父。
血脈で言えば、主人は「望月氏」のDNAがあり・・・
その主人と初めて会った時の椎葉のおじの言葉は
「●●ちゃん(主人)はこっち(球磨)の顔タイ(^'^)」
「こっちに(球磨)に戻ってきなったバイな!(^'^)」(球磨に戻って来られたようだ!)
でした・・・(p_-)
さらに、椎葉のふた従姉は
「わぁ〜初めて会った気がしない!懐かしい感じがする・・」
でした・・・(p_-)

でっ!その当人「主人」は以前から
「黒原山を見るとホットする」と言っています・・・(p_-)

人は確かに何かの記憶をDNAに留めているのでは?ないのでしょうか・・・
最近、色々調べていて、つくづくそう感じているのです・・・

父は日頃から私に
「宮原家を継いでくれた●●ちゃん(主人)にいつも感謝している」
「だからこそ●●ちゃん(主人)のお父さんやお母さんそして御先祖様に申し訳ない気持ちになる」
「●●ちゃん(主人)のご両親、そして御先祖様に感謝の気持ちを忘れないように」
と言います。

もちろん、私も同じ気持ちです。
毎朝、仏壇にお参りする時には主人の御先祖様へ感謝の気持ちをお伝えしています。

人の縁とは本当に不思議なものです。
その御縁に感謝して日々を過ごしています。

最後になりましたが(..)
ブログの方で全国的にも珍しい球磨の植物や生物について書かせて頂きました。

@球磨では日本で初めて野生のモクセイ(中国原産)が発見されている。
A「ツクシガヤ」が国内で初めて球磨で発見された。
※「ツクシガヤ」は長江流域の春秋戦国時代の呉国(国王姫姓)、三国時代の呉国(国王・孫氏)の領域、現在の「江蘇省」が中国での分布地であり、
日本国内ではごく限られた地域のみに隔離分布する。
★鹿児島県・九州の球磨を南端とした旧肥国(熊本・佐賀・長崎)・福岡県(旧筑紫国)・兵庫県南東部(摂津国)・奈良県(大和)・秋田県,山形県,福井県のみに隔離分布する。
B1973年に市房山で日本では初めて発見された「ゴイシツバメシジミ」(蝶)
※生息地は球磨郡・宮崎県・奈良県吉野郡のみ。

と言った事が解りました。
「ツクシガヤ」については
前原勘次郎氏が多良木町牛島集落で日本で初めてツクシガヤを発見した後、
当時日本の学者を驚かせ、1967年国立科学博物館では、再度写真入りで
中国大陸と日本との連携を示す植物として全国に紹介した。
と言う事も解りました。

詳しくはブログの方に書かせて頂いています。
皆様、よろしければご覧ください(..)
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12347579763.html

今までの私の調査で、無知識な私は
稲作について勉強した
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12334764893.html

鉄について勉強した
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12335294512.html

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12335472032.html

と様々な角度から古代について基本的な事を勉強してきましたが
今回は植物・生物といった角度から古代を理解する事が出来ました。

記録が残らない古代。
今回の調査・勉強で様々な角度から古代を理解する事は非常に大事な事だと
あらためて考えました。

では。
[14]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月28日 14時39分09秒 ) パスワード

皆様、今日は。

昨日、ご紹介した
B1973年に市房山で日本では初めて発見された「ゴイシツバメシジミ」(蝶)
※生息地は球磨郡・宮崎県・奈良県吉野郡のみ。

「ゴイシツバメシジミ」は局限分布の蝶です。
私は、さらに「ゴイシツバメシジミ」の国外生息地を追及して調べて見ました。
詳しくはブログの方に書かせて頂いています。
何故?「ゴイシツバメシジミ」に拘るのか?

それは、ブログの方でも書いたのですが
蝶が単独で、遥か遠く海を越えて日本のそれも球磨や奈良にピンポイントで飛んでくることなんて
想像出来ないからです!!!
きっと人の移動と共に海を渡って来た・・私はそう考えます。

今回の海外の生息地の調査は、かなり苦心しました。
特種な「蝶」と言う、情報はそれ程まで、一般の方が興味を持たれる事では
なく、
専門的な分野の方々の情報公開が少なかったという理由があります。
しかし、見つけました!
ウィキに記述があった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%84%E3%83%90%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%83%9F
★日本国内では熊本県、宮崎県と奈良県にのみ生息する。天然記念物なのでもちろん採集はできない。国外では中国や台湾、インドのアッサム地方などにも生息している。
この国外では「中国や台湾」と言う記述。
場所を特定する事が出来ました。

やっと見つける事が出来ました!
1973年に熊本県の市房山で発見され、分布は局限されている「ゴイシツバメシジミ」
※日本国内では熊本県、宮崎県と奈良県にのみ生息する。
海外の生息地は
台湾 台中県(現台中市)雪山渓
中国 浙江省龍泉鳳陽山
中国 浙江省遂昌県大西坑
でした。
詳しくはブログに書かせて頂いています。

国内の生息分布は
日本での生息地
※熊本県球磨郡:水上村、五木村、 あさぎり町上地区の白髪岳周辺や須恵地区
※熊本県上益城郡:山都町の内大臣峡(ないだいじんきょう)地区
※宮崎県:小林市
※奈良県:吉野郡川上村

国内の生息地はまとまっている
※球磨郡内の至る所で生息が確認。
※宮崎県小林市は白髪岳や黒原山の反対側(宮崎県側)。
※熊本県上益城郡:山都町内大臣峡(ないだいじんきょう)地区こちらは生息地の一つ球磨郡「五木村」と近い
すなわち、九州では球磨郡を中心域とした地域である。
※奈良県は吉野郡川上村(九州からかなり遠い)

と言う事が解りました。
国外での分布。インドアッサム地方については追って調べます。
しかし、
台湾 台中県(現台中市)雪山渓
中国 浙江省龍泉鳳陽山
中国 浙江省遂昌県大西坑

台湾経由か、もしくは浙江省から直接か?
いずれにしても、この地域から球磨に蝶が(ゴイシツバメシジミ)
海を渡って渡来したと私は推測しています。

中国 浙江省を調べた所
浙江省とは
※春秋時代の越国であり、戦国時代には楚に属した。
※三国時代には呉の領域に入った。
※五代十国時代には杭州を都とする呉越国が成立
※北宋が南渡して臨安(杭州)は南宋の都
※長江沿いの地域は日本の稲作伝来ルーツ地
★春秋時代の越国・戦国時代の楚国・三国時代の呉国の領域

と言う事が解りました。
非常に興味があるのは
戦国時代には楚、三国時代には呉の領域であったと言う事です。

楚国はウィキで勉強したのですが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_ (%E6%98%A5%E7%A7%8B)

※楚(そ - 紀元前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。

※始祖は 熊繹
※国姓は 羋姓熊氏

覇者荘王と呉越の興隆
※6代目荘王の時代になると、強盛な楚は陳・鄭などを属国化して中原を窺うようになる。晋の大軍を邲(ひつ)の戦いで破り、春秋五覇の一人に数えられる。また、荘王の時代に楚は呉と同盟を結ぶ。

※覇権を得た楚であったが、荘王の次の7代目共王の代に、鄢陵の戦いにおいて晋に敗れて覇権を失ってしまう。
11代目の平王の時代に伍員(伍子胥)を国外に追放したことにより、伍子胥の補佐を受けた呉王闔閭の軍に首都を陥落させられ、一時滅亡の危機を迎えたが、申包胥の必死の懇願により秦の援軍を取り付け、昭王が復帰することができた。

※紀元前334年、威王は攻め込んできた越王無彊の軍勢を破り、逆に越に攻め込んでこれを滅ぼした。

★呉王闔閭・・闔閭(こうりょ、? - 紀元前496年、在位:紀元前514年 - 紀元前496年)は、中国春秋時代の呉の第6代の王。姓は姫。諱は光。家臣の孫武、伍子胥などの助けを得て、呉を一大強国へと成長させ覇を唱えたが、越王勾践に敗れ、子の夫差に復讐を誓わせて没した。春秋五覇の1人に数えられることがある。

★呉を滅ぼした「越」。その「越」を、滅ぼした「楚」。

※秦に仕えていた昌平君が項燕に奉じられて楚王と名乗るが、秦軍に鎮圧され、紀元前223年に滅びた。

以下、ウィキの記述を読むと
★始皇帝が死去し秦の政治が腐敗すると、陳勝が反乱を起こして張楚と呼ばれる国を建てたが、陳勝が敗北したために楚の旧公族出身である景駒という人物が、留で秦嘉(中国語版)と・君らによって擁立されて楚王を称した。
・・「景駒」 他に王家一族「景氏」・・「景」
★懐王の孫熊心を擁立して祖父と同じ「懐王」を名乗らせ・・「懐王」
など
楚の記述を読むと、妙に「見た事がある”文字”」が多いな・・・と?「熊氏」とか・・他にも気になるお名前、文字が・・・
「熊」「景」「懐王」・・何故だろう???

さらにゴイシツバメシジミの生息地「浙江省」は
三国時代には呉の領域でありました。
呉国(三国) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_ (%E4%B8%89%E5%9B%BD)

呉(ご、拼音: Wú、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。
222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。

呉国(三国)の記述は今後じっくりと読むつもりですが
とても気になる記述がありました。
★歴代皇帝 諡号『景帝』廟号 姓名『孫休』 在位 258年 - 264年
 

さらに気になる記述が最後に書かれていました。
関連項目 より
★倭人 - 戦乱などを避けて呉から日本に亡命移住したという説があり、
1999年には江蘇省と太宰府の遺跡の人骨がDNA分析によって一致したと報告されている。

あっ・・・
江蘇省とは南部を浙江省に接する長江下流デルタ地帯・・・
「ツクシガヤ」が国内で初めて球磨で発見された。
※「ツクシガヤ」は長江流域の春秋戦国時代の呉国(国王姫姓)、三国時代の呉国(国王・孫氏)の領域、現在の「江蘇省」が中国での分布地であり、
日本国内ではごく限られた地域のみに隔離分布する。

どうやら、海を渡ったのは推測通り
「ゴイシツバメシジミ」や「ツクシガヤ」だけではなかったようです・・・


私はやはり
八代の球磨川河口に到着したかっぱさんがとても気になります・・・
球磨川の上流は球磨郡です・・
さらに球磨郡内の至る所でゴイシツバメシジミの生息が確認されています。
さらにさらに「ツクシガヤ」が球磨郡で自生している・・

球磨には・・・もしかしたら
異なる時代の其々の「呉国」が関わっているのでは・・・?

球磨の希少植物、希少生物を調べたら
ここまで解ってきました(..)

最後にブログアドレスをご紹介致します。

皆様、よろしければご覧ください。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12348032549.html

では(..)
[15]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年01月29日 17時41分16秒 ) パスワード

皆様、今日は。

新発見がありました。

まずは、「発見」の経緯からご説明致します。
相良氏について少し気になる事があり検索していた所
宮本常一氏著 書籍『山に生きる人びと』を偶然拝見する事が出来ました。
http://books.google.co.jp/books?id=vLw_DwAAQBAJ&pg=PT69&lpg=PT69&dq=%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F&source=bl&ots=APfhBMmNTd&sig=HE75tNX1zvSUAm1t58WUsl3cqWw&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjB1YLEvfzYAhVCT7wKHdpLC_o4HhDoAQgoMAE#v=onepage&q=%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F&f=false

宮本常一氏著 書籍『山に生きる人びと』の中に
「太宰官内志」の記述がありました。

私は「太宰官内志」をぜひ読んでみたいと探した所
国立国会図書館のデジタルコレクションに - 太宰管内志. 下巻 がネット公開されていました。

早速、読んだ所・・・見つけたのは
知りたかった「相良氏」の記述ではなく
球磨郡久米郷の項に驚くべき記述が書かれていました。

国立国会図書館のデジタルコレクションに - 太宰管内志. 下巻
コマ番号 232 をぜひ、皆様ご覧になられて下さい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766662

久米郷 
和名妙に球磨郡久米郷あり・・・
久米物部の住めりし處なるべし。

★球磨郡久米郷・・・久米物部の住めりし處なるべし。

ビックリしました!
驚き過ぎて震えが止まらなくなりました!

太宰管内志とは
江戸時代の国学者「伊藤 常足(いとう つねたり)」が
福岡藩主・黒田長溥に献上。

伊藤 常足 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%B8%B8%E8%B6%B3
伊藤 常足(いとう つねたり、安永3年12月21日(1775年1月22日) - 安政5年11月19日(1858年12月23日))は、江戸時代の国学者、歌人、教育者。筑前国鞍手の人。号は槙家など。
経歴
古物神社に奉仕する神職の家に生まれる。亀井南冥に儒学を、青柳種信(本居宣長の高弟)に国学を学び、35歳を過ぎて京周辺に遊学、伊勢参宮を果たす。松阪を訪れて本居大平の門人となり、伴信友や足代弘訓と共に学び、香川景樹ら当時一流の文人と交際した。自宅に私塾を開き、国学・和歌を教え、桜井文庫の創設に関与した。天保12年(1841年)、68歳の時に『太宰管内志』全82巻を完成し、福岡藩主・黒田長溥に献上する。なお、長男の南華は画家として、次女のゆみは文学者として、孫の直江は国学者としてそれぞれ活躍した。

著作 『太宰管内志』 - 九州全域の詳細な地誌。

上記の『太宰管内志』に
球磨郡久米郷は『久米物部の住めりし處なるべし。』と記されていた・・・・
思いもよらぬ展開となりました。

久米物部氏とは饒速日尊に従い天降った武将・軍団の中の天物部(あまのもののべ)25部に含まれています。

邪馬台國研究本編様サイト
12.文献は語る −日本神話・その5
1.もうひとつの天孫降臨 の中に先代旧事本紀を参考とした記述に記されていました。

http://inoues.net/yamahonpen10a.html

3.先代旧事本紀巻第三・天神本紀 <饒速日尊、葦原の中国に降臨す>

先代旧事本紀の中で、天孫本紀、国造本紀と並んで重要視されるのが、饒速日尊の降臨伝承が載っている、この巻三・天神本紀である。三十二人の武将、五人の随行者、五集団の供、二十五の軍団、船長・梶取など六人の名前も見え、日本書紀・神武即位前紀にある「むかし天神の子・饒速日命が天磐船に乗って天降った」という記述を具体的なものにしている。またこの巻には、出雲国譲神話も収録されている。

天物部ら二十五部の人々が、同じく兵杖を帯びて天降り、仕えた。
二田物部(ふただのもののべ)。      当麻物部(たぎまのもののべ)。
芹田物部(せりたのもののべ)。      鳥見物部(とみのもののべ)。
横田物部(よこたのもののべ)。      嶋戸物部(しまとのもののべ)。
浮田物部(うきたのもののべ)。      巷宜物部(そがのもののべ)。
足田物部(あしだのもののべ)。      須尺物部(すじゃくのもののべ)。
田尻物部(たじりのもののべ)。      赤間物部(あかまのもののべ)。
久米物部(くめのもののべ)。       狭竹物部(さたけのもののべ)。
大豆物部(おおまめのもののべ)。     肩野物部(かたののもののべ)。
羽束物部(はつかのもののべ)。      尋津物部(ひろきつのもののべ)。
布都留物部(ふつるのもののべ)。     住跡物部(すみとのもののべ)。
讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。 相槻物部(あいつきのもののべ)。
筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。  播麻物部(はりまのもののべ)。
筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。

【天物部(あまのもののべ)25部】

1.二田物部 筑前の国鞍手郡二田郷と思われる。(現福岡県鞍手郡鞍手町)。筑後の竹野郡二田郷とする説も。
2.当麻物部 肥後益城郡当麻郷。(大和説)葛下郡当麻郷。
3.芹田物部 鞍手郡生見郷芹田村。(大和説)城上、城下、平群各郡芹田。
4.鳥見物部 北九州の鳥美(登美)とすれば、豊前の国企救郡足立村富野とする説が有力。(現北九州市小倉北区富野)
馬見物部とすれば、馬見神社(福岡県嘉穂郡嘉穂町、馬見古墳群)(奈良説:奈良県大和高田市)
5.横田物部 嘉麻郡横田村。(大和説)添上郡横田村。
6.嶋戸物部 「島門は遠賀川西岸にある。埴生郷の北で垣前郷に属する村であろう。」(吉田東伍:大日本地名辞書)
高倉神社「大倉主命、菟夫羅媛命」(福岡県遠賀郡岡垣町)、
岡湊神社「大倉主命、菟夫羅媛命」(福岡県遠賀郡芦屋町)
7.浮田物部 (大和説)添上郡浮田村。
8.巷宣物部
9.疋田物部 鞍手郡疋田。(大和説)城上郡曳田。
10.須尺(酒人)物部 酒人説は、須尺は、酒人の草書を見誤ったものとする。
11.田尻物部 筑前上座郡田尻村。(大和説)葛下郡田尻村。
12.赤間物部 筑前宗像郡赤間。
13.久米物部 ★
14.狭竹物部 鞍手郡粥田郷小竹村。
15.大豆物部 筑前穂波郡大豆村。
16.肩野物部 (河内)交野
17.羽束物部 
18.尋津物部
19.布都留物部
20.住跡物部
21.讃岐三野物部
22.相槻物部
23.筑紫聞物部 「聞」は、豊前の国の企救郡を指すと思われる。(現在の北九州市小倉区・門司区のあたり)
24.播麻物部
25.筑紫贄田物部 筑前の国鞍手郡新分(にいきた)郷と思われる。(現福岡県鞍手郡鞍手町)

まだ、詳しく邪馬台國研究本編様サイト
12.文献は語る −日本神話・その5 を読ませて頂いていませんが
他のサイトでは
久米物部 本拠地を伊予と推測されていらっしゃる方もいらっしゃいました。

しかし・・
「太宰官内志」では
和名妙に球磨郡久米郷あり
久米物部の住めりし處なるべし。

とあり、「あっ!」と叫んだ後、本当に驚き過ぎて声が出てきませんでした。

まさかの急展開です・・・

今晩、じっくり考えてみたいと思います。
しかし・・今まで物部氏に中々繋がらなかったので、(宮原の一族の系の縁から考えて)
やはり、このような急展開に頭の中が同様しています・・・
[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年02月02日 10時00分04秒 ) パスワード

皆様、今日は。

コメント15で
「太宰官内志」球磨郡久米郷の項に
和名妙に球磨郡久米郷あり・・・
久米物部の住めりし處なるべし。

と記されていた事を知り、その後、久米物部について
色々調べてみました。
古代についてはブログの方で調べていますから、その流れから
詳細はブログの方に書かせて頂いています。
今回の調査、何度も何度も驚きで言葉が出なくなる事がありました・・・
調べた結果・・
球磨の久米物部。
古代の球磨と宮原の一族も含まれる「伊予橘氏」(物部氏の系でもあり紀氏の系でもある)は
無関係ではないと私は推測致しました・・・

皆様よろしければご覧ください。
ブログアドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12349112922.html

所で
「太宰官内志」には、球磨郡および周辺域の平家落人伝説にも言及がありました。
さらに、私の住む旧宮原村宮麓集落内にある切畑神社についても記されていました。
この事も非常に驚きました。
この件はまず最初に、一番に、こちらのスレッドに書かせて頂きたい!と思い
御紹介させて頂きます。
長くなる事をご了承ください。

国立国会図書館のデジタルコレクション - 太宰管内志. 下巻
コマ番号 230 以降に球磨郡について書かれていました。
PDFに落とし印刷をしてじっくり読んでみました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766662

@熊縣熊津彦について
阿蘇都(津)彦・阿蘇都(津)媛・宇佐都(津)彦・宇佐都(津)媛
兄夷守・弟夷守なども同列なり
と記されていました。

A女良(米良)主膳 平重盛ノ裔 の記述について
太宰管内志より転記します。
扶桑紀勝五巻に 中略・・この領主(米良の領主)女良(米良)主膳といふ小松ノ重盛の遠孫と称して人に屈下らず
年始に相良家に行て賀するに相良家又是を敬せらる主膳は屈せず三年に一度江戸に参勤して相良家の第に居る将軍家お目見をゆるさる
勃女良(米良)にて上使に封せし時は烏帽子下垂を着して上使と同位の體をなす
江戸に行ては俗に随って肩衣装を着る相良家の取次なり此處の人里中の外に婚姻をむすばず常足按ずるに同じ平家の落人の中にも奈須は妻良氏にて玖麻に参勤し五家山は熊本に参勤するなるべし

★米良氏は妻を菊池武重の娘とされた懐良親王の御子、「源良宗」の系「米良氏(源姓)」と、米良に逃れた菊池氏二十二代菊池能運の子息「重次」から始まる「米良氏」の二系がある事は知っていたのですが
米良主膳、この方が小松ノ重盛(平重盛)の遠孫を称していらっしゃったと言う事は初めて知りました。
ただ・・・米良氏の中には椎葉村に移った庶家もあり、椎葉の「平家落人」の方々との姻戚関係もあるので、母系を指す・・と云う事も考えられるのでは?
と・・・

B五家山(五家荘)について
西遊記に 中略・・平家の人々此處にかくれて其子孫年々に繁茂して数千 萬人となる中略・・
五カ山より五人組頭分の者替る替る年始の禮詞をつとむる為に熊本に来る
五人の者其地を五ツにわけてたもつ
其人皆純朴にして武をはげみ男子皆長き大小を横たふ 自平家高貴の人の子孫を高ぶりて人を軽んず(軽んじず)此地■なければ近比迄数百年の問題を喰?ふ者なかりしと中略・・
此地別に君とよふ者もなく年貢を納むる事もなく皆穀物は其地廣ければ手柄次第に作り取りなり又賦役といふ事もなし
夫故人の心すなほに衣食も足りて争ひいかる事も(争い怒る事)なく上古の世に似たり又平家伝来の寶物甚多し

★五家山の方々は自ら平家の高貴な方の子孫であると云う事を高ぶることもなく、人を軽んじる事もなく、武にいそしみ、心が素直である・・・とても素晴らしい事だと思いました。
さらに『平家の人々此處にかくれて其子孫年々に繁茂して数千 萬人となる』
この記述ですが、数千 萬人とはいささか多すぎかとは思いますが、おそらく緒方家の子孫の方々では?と推測しました。
八代地方に多い緒方氏と、球磨の緒方氏・尾方氏の事ではないか?と・・・
※平家伝来の寶物甚多し

C椎葉村(奈須山)について
西遊記に肥後國五カ村の南につらなりて奈須と云所あり是も同じく平家の人々のかくれがにて五カ村同前の所なり中略・・
球磨の城下よりは東北の方にあたる。球磨の城主(相良氏)の先祖五百年前球磨に入部有しより那須氏も出て客分の列に成りて久しく城下にありしが終にその家臣に入む事を願ひて今まで数十代つつがなく仕へ来る
夫故平家相傅の寶■杯も今に所持せり
此の地を那須と云よしは平家赤間■没落已後此山中にかくれすむよし、鎌倉に聞こえしかば頼朝卿より那須與市宗高が舎弟何某に命じて平家の余■追伐のために肥後に下し給ふ
那須氏此地に下りて見るに平家の人々いとかすかなる體にて二度事を起こすべきさまにあらねばあはれとかおもひ数ならぬ雑人の首少々切て鎌倉にのぼせ平家の余■悉く亡ほし候由鎌倉に披露す
平家の人々には皆那須の苗字ゆづりあたへて己か家族なりと披露す
自らも久しく其地に住けり故に平家の子孫つつがなくつたはり那須の子孫もつたはりて二家に那須を名のる
此地元来名もなき深山なれば初めて住所をなせる人々の氏をそのままに地名となせり
又斎(イツキ)谷椎葉山など云所あり皆昔の落人のかくれかの跡なりと云

★椎葉村(奈須山)に関しては非常に驚きました・・・
五カ山・椎葉村(奈須山)の記述は「西遊記」に記されている内容のようです。
東西遊記 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E9%81%8A%E8%A8%98
江戸時代後期の京の儒医である橘南谿が日本の諸地方を巡遊し、現地で見聞した奇事異聞を基に編纂して出板した紀行、『西遊記(せいゆうき[1])』と『東遊記(とうゆうき)』を併せて東西遊記と称す(以下、両書を併称する場合は「両遊記」と記す)。
両遊記は南谿が天明2年(1782年)から同8年までに断続して日本各地を巡歴した際の記録を編述したもので、寛政7年(1795年)から同10年にかけて出板され、また板本以外に自筆稿本やその写本も現存しており、板行以前から両遊記は併せて「東西遊記」や「西東遊記(せいとうゆうき)」と称されていた。
橘南谿は確かに球磨郡に来られていらっしゃいます。
以前、ブログに書いた『球磨村神瀬鎮座 磐戸熊野座神社』ブログにはアップしていませんが、手元には『天明3年(1783年)に此の地を訪れた橘南谿が、西遊記の中に磐戸熊野座神社の洞窟について書かれている』といった内容が書かれた神瀬の石灰洞窟の説明板の写真があります。

驚いた理由は
椎葉村(奈須山)に関して相良藩史の数々には一切記載されていない事が書かれてるからです。
椎葉村(奈須山)の平家の落人の方々に『須與市宗高の舎弟何某』に皆那須の苗字を譲り皆は自分の家族です!と披露した事。
※自らも久しく其地に住けり故に平家の子孫つつがなくつたはり那須の子孫もつたはりて二家に那須を名のる
『須與市宗高の舎弟何某』と云う方は椎葉村の伝承では「那須大八郎宗久」。
『須與市宗高の舎弟何某』と云う方のお陰で平家の子孫が後世まで恙無く(つつがなく)伝わった・・・
心がじ〜んとしました・・
しかし・・・
椎葉村(奈須山)の記述でもっとも驚いたのは、その那須氏と相良氏との関係です!
一切、外部いえ内部にも知られていない(相良藩の史誌には記載されていない)事!
『球磨の城主(相良氏)の先祖五百年前球磨に入部有しより那須氏も出て客分の列に成りて久しく城下にありしが終にその家臣に入む事を願ひて今まで数十代つつがなく仕へ来る』
※球磨の城主(相良氏)の先祖五百年前球磨に入部有しよりとは、
天明3年(1783年)に橘南谿が球磨を訪れた500年前、すなわち1200年代。
年代から推測すると球磨の城主(相良氏)の先祖とは「相良長頼」。
「相良長頼」が球磨に入部された時から椎葉村の那須氏(那須某氏から那須の苗字を譲られた平家の方々の一部)も椎葉山(那須山)から球磨に出てきて客分の列に加わった!
そんな事!一切、相良藩の史誌には記載されていません\(゜ロ\)(/ロ゜)/
※終にその家臣に入む事を願ひて今まで数十代つつがなく仕へ来る
数十代とはかなりの年月『つつがなく仕へ来る』と言う事です。

私はこの記述を読んだ時に本当に驚いて鳥肌が全身に立ちました・・
皆様、ご記憶でしょうか?私が昨年の夏、こちらのスレッドに書いた祖母の実家の言い伝え・・・
先祖は『相良さんが来られたから山から下りて来た』と言う話を・・・
この時、私は戦国時代の事か?と推測しておじに聞いた所、「違う!相良さんがこっちに来られた時!」と言われていました・・
祖母の先祖からの伝承と橘南谿が書かれた「西遊記」の内容が一致している・・・・
どういう事なのだろう・・
ただ・・・祖母は私に「家(祖母の実家の岡原平川家)は平家だった」と言っていました。
弟も亡くなるまでその事を言っていました・・・
親戚は今でも「みなみ(祖母の実家の岡原平川家)は平家だった」と言っています・・・
確かに、「西遊記」の内容と祖母の実家の伝承は一致している・・・
しかし、相良藩の史誌では相良藩内において「那須氏」の名が登場するのは戦国時代からです。
それも椎葉山(那須山)在の「那須氏」からです。
鎌倉時代に相良氏球磨入部後、椎葉山(那須山)から降りて来て客分となった平家の方々の「那須氏」。
つつがなく数十代に渡って相良氏に仕えたと言うその「那須氏」の名は一切登場していない・・・
何故????何故???

推測出来る事の一つは・・・“その那須氏”が別の姓を使っていたか?

さらに、推測出来る事は
相良氏は上記の事を隠し通した・・・と言う事です。

他、とても気になった事があります。上記の椎葉山から下りて来た「那須氏」の方々が
※夫故平家相傅の寶■杯も今に所持せり
『平家相傅の寶■杯』(■の文字は表示出来ませんでした)
私がこちらのスレッドをお借りして、先祖の調査を始めたばかりの頃、書いた事ですが
生前の祖母の元へ、祖母の実家の当主(祖母の長兄の長男、私の父の従兄)が来られて
歴史研究家の方が家に訪ねて来られて祖母の実家の事を色々話された時に
「剣(刀)が家に伝わっているはずだ」と聞かれたので、おじが今はもう無いと言う事を伝えると(祖母の長兄が戦時中、朝鮮半島に居た某方に渡した)
その歴史研究家の方が
「本来ならば国宝級の剣(刀)なのに!何てことを!」と非常に残念がっていらっしゃった
と言う話です。
私は国宝級の剣(刀)とは一体何なのだろう?と、こちらのスレッドで疑問を書いていたのですが、それ以降、この事はあまり考えてはいませんでした。
しかし、五家山の平家落人の方々と、椎葉山(那須山)から、相良氏の入部後に降りて来られた同じく平家落人であり那須の姓を譲られた「那須氏」の記述にあった
※平家伝来の寶物甚多し(五家山)
※夫故平家相傅の寶■杯も今に所持せり
を見て、祖母の実家に伝わっていた「本来ならば国宝級の剣(刀)」の話が頭に浮かびました・・
祖母の実家に伝わっていたのはこの「国宝級であった」と言われた剣(刀)と
数巻の絵巻物でした。しかし、この絵巻物は当主以外は決して見てはいけない物でした。
ただ、その絵巻物の一つを見てしまった人がいました。
その絵巻物に書かれた「男の子」は美しい着物を着た女性と共に描かれていて、周りには従者の方々が描かれていたそうです。
絵巻物を見てしまった人が、『見てしまった事』を当時の祖母の実家の当主に素直に話し、詫びると
「この男の子が家の御先祖様だ」と言われたそうです。
さらに、その絵は「平川家(祖母の実家)の先祖の家にその“男の子”が来られた時の絵だ」と教えてもらったそうです。
しかし、その絵巻物は火事で燃えてしまいました。
この絵巻物の話。本来ならば祖母の実家の当主となった人のみしか知ってはいけない話だったのですが・・・
その絵巻物を見た人が次の代の方にも伝えて・・・結局その「次の代」の方が祖母の姉妹にも伝えて・・・と言った具合に親戚が知る事となりました(トホホ)
その「次の代」の方が祖母にコソコソとこの話を伝えているまさにその時、私の父も近くにいて、立ち聞きしてしまい・・・
後でその事を祖母に聞くと「お前は知らんでいいと!」と、すごく叱られたそうです。
私はこの話、冷静に考えて・・・きっと何処かで伝承が変わったのじゃないのかな?と推測しています。
その“男の子”がどなたなのか?は解りませんが、
「平川家(祖母の実家)の先祖の家にその“男の子”が来られた時の絵」の話がいつの間にか
「その“男の子”が御先祖様だ」と言う話に代わったのではないのかなぁ・・・と。
私はそう推測しています。

太宰管内志にあった西遊記の記述等とどう繋がるのかは解りませんが、もう一つ気になる事があります。
この話も以前、こちらのスレッドで書かせて頂いたのですが・・
私が球磨に戻って来たその年の秋、地元の歴史研究家の方から伺った話です。
私が住む旧宮原村の宮麓地区の古老の方が聞いていたと言う“伝承”を教えて下さったのですが、その話とは
『ここ(宮麓)には最初に平川家が来られた。平川さんは相良さんに土地とお金を頂き“ここで大人しくしていて下さい”と言われて来られた。
その後に星原家が来られた。平川さんは星原さんに土地を分けてやった。
最後に来られたのが宮原家だった』
と言う内容でした。
私はこの話を聞いた時に、自分が知り得ている相良藩・球磨郡の史誌等の内容とは異なっているので、妙な伝承だなぁ・・・と思っただけで
深く考えた事はありませんでした。
しかし・・・今回、太宰管内志を読んで、この“伝承”、もしかしたら非常に重要な事ではないのか?と考えるようになりました・・・

太宰管内志には、その私が住む“宮麓”集落の切畑地区についても書かれていました。
此の事も非常に驚きました・・・

D私の住む集落“宮麓”切畑地区について
太宰管内志より
西遊記に景清か墓は日向ノ國にありて世の人の知る所なり然るにいかなる故にか景清か母は玖麻の人吉城下より五六里ほど東の切幡村(きりはた)村に祭れり
此所に景清か娘のはかもあり切幡神社(切畑神社)とて一村の神に祭れり
此村甚盲人をいむ座頭たる者は他所よりも入来る事ならず
もしおして(押して)いる時(入る時)は惣大なるたたりありて難儀に及ふとなり
世にいふ如く悪七兵衛景清に盲人と成し故にや

★以前から何度も書かせて頂いている切畑大明神(切畑神社)の御祭神として藤原景清(平景清)の母君が合祀である・・と言うお話です。
太宰管内志にも書かれていたとは驚きました・・・
景清姫のお墓も切畑地区にあります。お墓をお守り続けていらっしゃるのは切畑地区の宮原家の方です。
さらに切畑大明神(切畑神社)の代々の宮司家一族が、家の親戚の星原家(本姓大神氏)です。
ブログにも写真をアップしていました。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12280176184.html
家の宮原家に養女に入った私の祖父の従姉。嫁ぎ先の星原家の御先祖様は写真の中央
『奉切畑社人 星原権大夫大神惟吉』と言う方です。
『星原権大夫大神惟吉』と言う方の非常にりっぱな大きな御位牌が星原家にあります。
この御位牌、実は、上記の星原家の現在の当主であるおじさんが、私に見せたい!と何故か?家にわざわざ持って来られた事がありました。(おじさんはテーブルに御位牌をポンと乗せられたので、私はビックリして、そこで思わず手を合わせました・・・面白い親戚が多いのも家の特徴?かな・・・)
(このおじさんのお父さんの弟が、私の祖父の従姉の夫となる方で、このご夫婦が、私の祖父母が中国に渡る時に、宮原家の全てを継いで下さりました。)
この星原家は宮麓地区の古老の話では、祖母の実家の「平河氏」が相良氏に「ここでおとなしくしていて下さい」と言われて宮麓に来られた後に、この地に来られた星原家です。
私は、御祭神として藤原景清(平景清)の母君をお祀りの切畑大明神の宮司家が星原家であった事も本当は重要な意味があるのでは?と考え始めています。
星原家は本姓大神氏。球磨近隣の大神氏と言えば宮司家尾方家。
家の親戚の尾方家は代々宮司家で『本姓大神 氏尾方』15代前の方の名は「緒方太郎右衛門(元禄十二年)」。代々「惟」と「清」の通字を持つ方々です。
15代前までは「緒方氏」でした。
緒方氏と言えば、先のB五家山(五家荘)についてで書いた『平家高貴の人の子孫』と太宰管内志・西遊記に記された「緒方家」。
私は太宰管内志を読んで、家の親戚関係、全て太宰管内志記載の内容に繋がっているのではないか?そう考えはじめました・・・

さらに切畑地区の伝承には、恐ろしい事も記されていました。
『此村甚盲人をいむ座頭たる者は他所よりも入来る事ならず
もしおして(押して)いる時(入る時)は惣大なるたたりありて難儀に及ふとなり』

父とも話したのですが、このような言い伝えは聞いた事がありませんでした。
(黒猫を切畑では飼ってはいけない・・の伝承は800年近く受け継がれていますが・・・)
今から300年近く前までは残っていた伝承のようです。
ただ・・・普通は怖い伝承・・と言う事で終わりそうなのですが
私は、この伝承の奥を考えたのです・・・
目の不自由な方(盲目の方)は切畑には入ってはいけない・・・
もし、この事が鎌倉時代初頭からの伝承であれば・・・どうなのだろう?と・・・
『他所よりも入来る事ならず』
すなわち目の不自由な方(盲目の方)が他所から切畑には入ってはいけない・・
鎌倉時代初頭で目の不自由な方々で(盲目の方)他所に移動する事が出来る方々とは・・・?
もしかしたら・・・琵琶法師の方?
琵琶法師の方は切畑には決して入ってはいけない。もし押して入り来ることがあったならば惣大なるたたりありて難儀に及ふとなり。
考えすぎでしょうか・・しかし・・・此の地は平景清(藤原景清)の母君、姫君が来られた土地。
さらに、お供の方のお墓もあり、さらに切畑にほど近い親戚の椎葉家では此の地でお亡くなりになられた「平家十八の神」をお祀りさせて頂いています・・・

でも、もし琵琶法師の方を指すのであれば、何故?此の地に入って来てはいけない!と言われているのか・・・・

考えると頭が混乱します・・・

混乱しながら、頭に浮かんだのは宮原観音堂の御詠歌です。
〇露のみや 野はらにおくと 詠ふらし  うき身も終の 宿ぞここなる(井口武親)
〇秋草の 葉すへにむすぶ 露のみや  のはらのかぜに 明日も散りなん(井口美辰)

共通の言葉は『露のみや』『野はら』
最も気になるのは 『うき身も終の 宿ぞここなる』
うき身とは『憂き身』・・?『憂き身』も終の宿ぞここなる・・・
『露のみや』・『野はら』・『うき身も終の 宿ぞここなる』・・・
以前から考えていたのですが、此の地にはやはりどなたか来られて、終の宿、すなわちここに住まわれたのはないのでしょうか・・・?

皆様、
非常に長くなりました申し訳ございません。
ただ、私は今まで自分なりに調べて来た事、幼い頃から聞いてきた事、等
それらは全て、太宰管内志を読む為のステップだったような気がしています。
まだまだ、気が付いていない事が多々あると思いますので、これからも、太宰管内志の記述の検証は続けて行こうと思っています。
少しだけ・・・平安時代以降の自分の先祖の姿が見えてきたのかもしれません・・・

では(..)

[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年02月03日 11時32分10秒 ) パスワード

皆様、今日は。

昨日のコメントに書いた切畑大明神(切畑神社)のお話追記します。

切畑神社が岡原霧島神社に合祀された後
藤原景清(平景清)の母君の御魂、そして景清姫の御魂は
現在、切畑地区にお堂が建てられて
そちらでお祀りになられています。

年に一回御供養祭りがあります。

その時のお参りの際の礼儀は
『決して自らの願い事をしてはいけない』
と言う事です。

あくまでも、お二人の御魂に礼を尽くす
と言う事に徹してお参りをする
それが、習わしです。
(集落の方や、父に聞きました)

さらに、もう一つとても不思議な話が集落にあります。
平成の世になってからの出来事です。

お堂の横に建立されていた景清姫のお供の方のお墓を
「集落内のお寺にて御供養しては」と言う話が出て
お墓を動かす事になったのですが
いざ、移築となったその時
お墓の石を動かそうとしたら、それほど大きくない石が
突然重くなり
大人3人がかりでも重くて動かす事が出来ず
何人もで抱えようとしても重くて動かず・・
お寺の方と集落の方々がその場で
「お供の方は姫様のもとを離れたくないと言われていらっしゃるのではないか」
と言う事になり
結局、お墓の移築は行わない事となりました。

平成に入ってからの話です。
現代でも、こう言う事が本当にあるのだと
集落の方はつくづく
お供の御方の姫様に対する忠義の心に
とても感動されたそうです。

このお話は集落の方々、殆どご存知です。

(..)
[18]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年02月25日 16時02分20秒 ) パスワード

皆様、今日は。
久しぶりにコメントを書きます(..)

今朝、松葉宗益 後裔 平賀氏について3の方で
白石様からのコメントに対して、私の今の頭の中に描いている事の一部を
書かせて頂きました。
この事を引き出して下さったのは白石様です。
白石様には感謝申し上げます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101577_57.html

白石様がこちらのコメントをご覧下さっている事を祈りながら
白石様、皆様
今朝、松葉宗益 後裔 平賀氏について3のコメント56・57で書いた事。
その中で書いた「大隅(薩摩)石井氏(おおすみ/さつま いしいし)」について
ブログで書く前にまず、皆様に御紹介させて頂きたい事があります。

私はこちらのスレッドをお借りして、調査を数年間続けさせて頂いている中で
何度も「三浦氏」について書かせて頂いてきました。

@平河氏の訴訟に関連した法名観蓮と言う人物。
※法名観蓮とは佐原時連の法名と同じである事。
A佐原氏と相良氏は姻戚関係が存在している可能性が高い事。
※相良長頼の兄弟に佐原頼忠あり。
B平河氏が居城した木上城(岩城)は平河氏の後に窪田(久保田)氏が城主となり
窪田(久保田)氏の元へ、南朝方であった「新宮氏」が来られた事。
※佐原時連の後裔にも新宮氏あり。
C遠江国笠原庄。三浦義明の子「佐原義連」は紀伊、和泉両国の守護であり、また遠江国城飼郡笠原荘(静岡県掛川市辺り)の惣地頭兼預所でもあった事。
※遠江国笠原庄に平川あり
Dうちの親戚の椎葉家に丸に三つ引き紋の和鏡が伝わっている事。
佐原氏の家紋 ウィキhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%8E%9F%E6%B0%8F

等、様々な事をこちらのスレッドで書かせて頂いていました。
さらに
E家の縁戚関係には平良文流「中村宗平」を祖とする「土肥氏」・「土屋氏」がある事。
F宮原の一族の先祖「橘公業」の後妻は梶原景時の孫娘にあたる方である「梶原景高の娘」である事。
※梶原氏は三浦氏と同じく桓武平氏平良文流。
G同じく宮原の一族の先祖「橘公綱」の母は豊田五郎景基の娘であり、長尾氏の可能性が高い事。
※長尾氏も三浦氏と同じく桓武平氏平良文流。
等も書いてきました。

皆様、
「大隅(薩摩)石井氏(おおすみ/さつま いしいし)」ウィキの記述をもう一度
こちらに転記します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%85%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F

大隅国大隅郡垂水中俣・海潟(垂水市)の領主に石井氏があった。石井氏は相模の豪族で源頼朝をたすけ、鎌倉幕府の創立に尽力した三浦義明の子孫である。
三浦氏は宝治元年(1247年)に法華堂にて一族のほとんどである五百余人が自害して滅亡したが(宝治合戦)、三浦員村(自害)の次男盛明は無事であり、その子義継は相州三浦郡石井庄(現在の神奈川県横須賀市平作町に小字石井がある)に居城し石井と号した。
石井氏は宝治合戦を生き延びた三浦氏の一族であるが、建久3年(1292年)、大隅守護職は千葉氏から北条氏に代わっていることから、北条氏の御内人となり垂水地頭として赴任してきたものと考えられる。
鎌倉時代末期(1330年頃)、義継の子石井重義が下大隅に下向。垂水城を再興し、石井氏を名乗りここを居城とした。


『橘氏との関係』の項の記述です。

ウィキより
義継以前の石井氏の系図をさらに遡ると為通のところに「此時三浦と号し始め」とあり為通が三浦氏の初代となっている。その為通の父忠通についてであるが、平良文の末子ということになっているが、父である平良文の没年(天暦6年(953年))と子の三浦為通の生年(寛弘7年(1010年)頃)から推定して、平良文と忠通の間に実の親子関係があった可能性はほとんどないものと思われる。

系図には忠通のところに源頼光朝臣四天王也と記載されている。
源頼光四天王の一人に碓氷貞光という人がいるが、最近の研究で、この人物が忠通又はその父親であったといわれている。
碓氷貞光(橘貞光)は、碓氷貞光霊社の霊社記によると、碓氷周辺を領土とする武将であった橘貞兼の子で、姓橘氏、代々文武の誉れ高い家柄であったという。碓氷峠山中にて生まれ、その後京に出て活躍、源頼光に仕えてその四天王の一人となり、大江山の鬼退治などで活躍した。

このことから、宝治合戦を生き延びた数少ない三浦氏嫡流の末裔である石井氏は、本来橘氏の子孫で、何らかの事情で平姓を名乗る前は、橘姓であったのではなかろうかと推定される。
橘紋を定紋として使用している石井家が現存しており、家紋がより真実を物語っているのかもしれない。また、系図で三浦氏(石井氏)と同じ忠通を祖とする鎌倉氏、長尾氏、伊作氏(薩摩平氏)などにも橘紋の使用例が見られる。

さらに平姓石井氏略系図 をご覧ください。
桓武天皇─葛原親王─高見王─高望王(平姓)─良文─忠通─★為通(三浦姓)─為継─義継─義明─義澄─義村―朝村─員村─盛明─★義継(石井太郎)─1.重義(大隅下向)─2.重信─3.久義─4.孝義─5.元義─6.重義─7.義春─8.義定─9.義辰─10.義高─11.義泰(鹿児島移住)─12.義知─13.義家─14.義教─15.元明……才援─元亭(医師)─元信(教育家)

ウィキの記述から推測すると上記の系図は
平良文─忠通(橘貞光)─★為通(三浦姓)となります。
三浦姓を名乗られた為通と言う方が三浦を名乗る以前に「橘為通」であったと
推測した場合・・・

皆様にぜひご覧頂きたい系図があります。
日本の苗字七千傑様 【良峰氏】(良峯氏)姓氏類別大観です。
良峯氏は椋橋姓の丹羽玄理以降、一度良峯に復姓して、すぐに「橘姓」に変わっています。
橘姓に変わって二代目の方の名前に着目して下さい。
日本の苗字七千傑様 【良峰氏】(良峯氏)姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm

「橘為通」です・・・・・・

「橘為通」(椋橋氏・良峯氏・丹羽氏)については大田亮博士も姓氏家系大辞典の遠江橘氏の項のすぐ横に
書かれていらっしゃいました。

私はこの事を単純なる偶然とはどうしても思えないのです。
何故ならば
@平河氏(良峯姓)と相良氏と佐原氏(三浦氏)との姻戚関係。
A1年以上前にこちらのスレッドに書いた橘薩摩一族と書かれていた
「橘為通」後裔の「橘公兼・橘公俊」この方々と橘薩摩氏との関係。
B橘薩摩一族と平良文・平忠通(橘貞光)後裔との姻戚関係。
これら@ABが全て、偶然とは思えない理由です。

さらに「石井氏」は私の住む旧宮原村宮麓地区に住されていました。
稲積妙見の由緒がちゃんとその事を伝えています。

稲積妙見 久米領稲積山 (稲積妙見は宮麓地区内にある旧久米領の飛地でした)
社人 椎葉久左衛門 ★@
八代郡白木社妙見同體
草創年紀未考 此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ
※球磨・人吉地方においての妙見宮勧請の最初となる社です。
明應五年(1496年) 藤原為續公同長輔公 御祈願トソ
 ※藤原為續・・相良為続 相良氏第12代当主(父:相良長続)
代官 最取式部少輔綾(アヤノ)末繼 宮原出雲橘續久 及
★A宮守石井太郎兵衛 阿部貞豊等 再興
天文廿一年(1552年) 地頭阿部貞次修造 國郡泰平 藤原晴廣公武運勝利 并富役藤原長陸安全ノ願辞アリ
 ※藤原晴廣・・相良晴広 相良氏第17代当主
 ※藤原長陸・・上村長陸 奥野村地頭(父:上村頼孝)


★@椎葉久左衛門  
★A宮守石井太郎兵衛

皆様、もう一度「大隅(薩摩)石井氏(おおすみ/さつま いしいし)」ウィキの記述をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%85%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F

石井を名乗られた義継と言う方の通称は「石井太郎」です。
さらにウィキの系図考察を見ると
義継(石井太郎)以降7代目の「義治」と言う方以降、大隅(薩摩)石井氏嫡流は『子孫不明』となっています。

明應五年(1496年)球磨郡久米郷宮原の稲積妙見の宮守は
★石井太郎兵衛

さらに中興した人物の中に薩摩・大隅に勢力を持っていた「最取式部少輔綾(アヤノ)末繼」こと税所末継、「税所氏」の名が残されています。
私はこの事も決して偶然とは思えません・・・・

★@椎葉久左衛門  
★A宮守石井太郎兵衛
★三浦氏から改姓「石井義継(石井太郎)」 嫡流は7代目以降行方不明・・・

椎葉家には丸に三つ引き紋の和鏡が伝わっている・・・
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12134511121.html

今までずっと調べ続けていた「謎」の一つがその前にあった重たいカーテンを
大きな風が開いてくれた
そう願いたいと思います・・・

私の住む集落に住していた本姓三浦氏は「石井氏」だけではありません。
馬鞍金兵衛と言う方もその一人です。
馬鞍氏(馬倉氏)も、実は「三浦氏」がその系を継いだ方々でした。
(以前、コメントを書いています)

この事も、橘氏と三浦氏との関係を暗示しているのだと思います。

ただ、今日書いた事は単純な話ではないと・・そう考えます。
おそらく・・・古代が深く関わっていると・・・
その事は今朝、白石様宛てに書いた私の言葉通りです・・・

皆様
最近、ブログと並行して調査を進めていました。
こちらのスレッドを介して、拙い私を応援して下さって頂いている皆様には心から感謝申し上げます。
さらに、ブログの方でも、私を応援して下さっている方々が沢山いらっしゃいます。
本当にありがたい事だと心から思います。

今回書いた事を含め、私の頭に中にある事を「一つ一つ」まとめて精査しながら
ブログの方へ書いて行くつもりです。
進捗情報は必ず、こちらに御紹介させて頂きます。

これからもよろしくお願い申しあげます。
[19]たけぽんさんからのコメント(2018年02月27日 14時56分48秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
長らくこちらに来れなくて
すいませんでしたm(_ _)m

年はじめから寒さとインフルエンザで
身体がショートをおこしかけ
やっと馴れて来たと思ったら
今度は杉花粉(>_<)

まだまだ試練が続きそうな
予感です(苦笑)

ミヤハラ様はお体の具合いは
如何ですか?(・・;)

少し来れなかったですが
こちらの調査の方は
またしても色々順調に進んでる
様ですね(^-^)

もう少し体調が良くなったら
じっくりと読んで勉強させて
頂きますm(_ _)m

いつも、ミヤハラ様の調査に
頭が下がります

うちも、まだまだ
ミヤハラ様に追い付ける位には
頑張らなくては(-_-;)(汗)
[20]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年02月28日 05時14分54秒 ) パスワード

たけぽん様 お久しぶりです(^'^)

インフルエンザの後に花粉症・・

実は
そろそろ花粉症の季節で、たけぽん様お辛いだろうな・・・と
最近、思っていました・・・
(去年も体調をくずされていた事を記憶していました(..) )

待ち遠しかった春を迎えるのは嬉しい事ですが、
花粉症をお持ちの方は一番苦しい季節ですね
花粉症が引き金になって、体調がすぐれなくなるのは
尚更、きついですね。
御無理なさらないで下さいね。

インフルエンザと言えば、実は家も主人が治った後、
2週間くらい後に父がかかったのです。
主人はA型で父はB型でした。
二人とも、外出時は必ずマスクをしていたし、手洗い、うがいもちゃんと・・・
今年のインフルエンザは何と言うか・・・感染力がすさまじかったですね
しかし・・・二人の看病をした私には
うつりませんでした\(◎o◎)/!
2回とも病院では「奥さん(娘さん)も感染していると思います」
と言われたのに・・です。
一番身体が弱い私なのに・・・何故だろう?と思ったのですが
おそらく・・・寒波に対応出来る「肉襦袢」がしっかり付いていたからだと
そう思います(p_-)
・・・・・・・・・・あはっ( ^)o(^ )

父のインフルエンザ・・何だか家らしい?エピソードがありまして・・
父はその症状「しゃっくり」から始まりました(p_-)
「しゃっくりが止まらなくなった」のです。
ある日・・突然しゃっくりが始まって・・・中々止まらない・・
でっ!私はネットを駆使して「止まる方法」を父に試してもらったのですが・・
止まらない・・
まる一日経過しても止まらない・・ので「病院に行こう!」と父に言っても
「大丈夫!(-.-)」と頑固・・言う事を聞かない(ー_ー)!!
主人も「お父さん病院に行った方が良いですよ」と優しく言っても
「大丈夫だから」と聞かない(ー_ー)!!

二日目には「薬を買ってこい!」と私に・・
ここでも「病院に行こう!」と言っても・・言う事を聞かない(ー_ー)!!
この時に本人は「少し風邪気味だ」と言っていました・・
「熱を測って!」と行っても
「熱はない!(ー_ー)!!」と測ってくれない・・
病院には行かない!の一点張りで・・とは言っても、大騒ぎで・・
私は心配で心配で・・
しかし、歳を重ねると、人はこうまで頑固になるのか?と言うくらい
私の言葉を聞いてくれませんでした(@_@。
三日目・・(普通の人はこの時点ではすでに病院に行ってるはずなのに)
父は「私が暖房をケチっているから部屋が寒い!だからしゃっくりが止まらない」と
訳の解らない事を言って怒りだし・・
寒い寒い((+_+))と・・
暖房はちゃんと入っているのに・・それに言う事が「理不尽」な事ばかり・・
でも、いつもはこんな父じゃないのに・・・
そこでついに!私は頑固な父に我慢の限界が(>_<)
「どんなに心配してると思ってると!娘の言う事を全く聞かないで!」
「こんな事だったら、私達がここに帰って来た意味がないでしょう!!」
「今すぐ熱を測りなさーーい!!」(−−〆)
と大きな声を出してしまいました。
「ひぇ〜!お前は怒るとばあちゃんや曾ばあちゃんみたいだ、怖いよぉ・・」
と言う父に対して無理やり熱を測ると・・38.8度
「おっお父さん!!」\(゜ロ\)(/ロ゜)/
父も自分の熱にビックリ!
すぐに病院へ・・(初めから素直に聞いてくれていたら・・・)
早速インフルエンザの検査。
しかし・・結果待ちの間、ずっと
「お父さんは若い頃身体を鍛えているからインフルエンザにはかからない(ー_ー)!!」と・・
そして
結果は「B型」でした・・・

私は、父が高齢なので肺炎を併発していないか心配で
「ああ・・もっと早く連れて来れば良かった・・」と反省。
そんな私に父は
「お前がネットでしゃっくりが止まる方法を調べた時にインフルエンザの症状とか書いてなかったのか?」
「お前の検索不足だなぁ(p_-)」と言うので
私は・・ギロッ(;一_一)・・ピッキ〜ンとキレテ(−−〆)
テーブルをバーン!と思わず叩き・・
低い声で「これからは娘の言う事はちゃんと聞く事!解った!」と言うと
「はい(..)」と言っていました・・・
帰りの車の中で父は
「やっぱり、怒ると怖い・・怒ると怖いのは遺伝だぁ・・」と
独り言を繰り返していました
(−−〆) (-_-)/~~~ピシー!ピシー!

ありがたい事に肺炎を併発する事はなかったのですが
しゃっくりが止まったのは、解熱後二日目で・・
このしゃっくり約1週間続いていて、本当に苦しそうでした。
(その間、救急外来にも心配で連れて行きました)

治ったら、いつもの父に戻り、そんなに理不尽な事は言いません・・
(あの頑固も症状だったのか?(p_-)・・・(ー_ー)!! )

父も反省してくれて
先日も、別の件ですぐに病院に行ってくれました(^'^)

だけど・・・主人や会う親戚達に「私は怒ったら怖い(@_@。」と言うので・・
止めて欲しいです(;一_一)
(皆、笑っています)

今回は父のしゃっくり騒動を書きましたが
マダマダ、宮原家の面白騒動は続きます(^O^)/
じゃなかった(ー_ー)!!
マダマダ、御先祖様の調査、精力的に頑張ります(^O^)/

たけぽん様
いつもの合言葉(私はいつも心に(^'^))
無理せず出来る事をボチボチ頑張りましょう(^O^)/

たけぽん様も無理をなさらないで下さいね。
お互いに身体は十分に気を付けましょうね(^'^)
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月09日 10時42分42秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

今朝、過去の私の調査を御検証下さっていらっしゃる方のサイトを
発見致しました!!
とてもビックリ致しております。
資料の声を聴く様 サイト 近衛中将藤原実春について
http://zisaku.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-ff32.html

御検証の結果は
「私の推理は当たっていたようです」(^'^)

鎌倉時代の平河氏の訴訟の相手は
「徳代寺実春」に間違いないようです(-.-)

やった!!\(^o^)/

ここで(..)
資料の声を聴く様
私の拙い調査、ご覧頂きまして本当にありがとうございます。
これからも、私は先祖の調査に励んでまいります。
お気づきの点がございましたら
ぜひ、コメントを頂ければ幸いです。

皆様
私は新燃岳の噴火による降灰等で気分が滅入っていたのですが
先も書きました通り
これからも私は先祖の調査に励んでまいります。(^'^)
[23]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月13日 12時55分59秒 ) パスワード

皆様、今日は。

最初に
私は、今まで数年間に渡る私の調査を温かくお見守り頂いた皆様に
お詫びを申し上げなければいけません。

私は、こちらのスレッドをお借りして、先祖の調査を始めた
「平川家について」の最初の「文章」の中に「祖父の真実」を書いては
いませんでした。
祖父が中国で仰せつかった「任務」について、真実を書く事を躊躇して
今まで書かせて頂く事を控えていました。
さらに「平川家について」の最初の「文章」の中に
『祖母がお優しくして頂いた』方々について「華族」の方々と書きましたが
本当はもっと別の「御方々」でした。
この事も、調査を始めるきっかけとなる「文章」に、真実を書く事を
最初に躊躇して「華族の方々」と書かせて頂いていました。
2013年9月1日以降、私は「この事」を皆様にずっと隠して、先祖の調査を行ってきました。
申し訳ございませんでした。
皆様、本当にごめんなさい。

今回、祖父が「仰せつかった任務」について「やはり、書いておくべき事だ」と考えて
ブログの方に「私は何故?先祖を調べるのか」と題し、その中に「初告白」と項を付けて「祖父の任務」について書かせて頂きました。
さらに、祖母が何故亡くなる前に、私に祖父が負傷した後の事を話してくれたのか?その「きっかけ」も「本当の事」をブログの方に書かせて頂きました。
その「きっかけ」も、私は最初から書いていませんでした。
皆様、本当に ごめんなさい。

こちらのスレッドにコメントとして書かなかった理由はその「内容」によって
こちらのスレッドの運営事務局様に御迷惑をおかけする事を恐れたからです。
ブログであれば、その内容は「私の責任に於いて」書く事が出来る そう判断したからです。

今まで、皆様に明かしていなかった「祖父の任務の真実」を書きました。
ブログ アドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12359064164.html

ブログでは祖父がお側にお付きした御方のお名前を書いてはいません。
もちろん、私も父も親戚も皆知っていますが、この御方のお名前だけは
書かせて頂く事を控えさせて頂きます。

父は、私が球磨に戻ってすぐに
「じいちゃんの任務についても、書いたのか?」と聞きました。
私が詳しくは書いていない事を説明すると
「人に軽々しくお話する事ではない」
「お前の書く文章によってはそれを”自慢”だと受け止める人もいるだろう。
じいちゃんは、きっと”自慢”だと受け止められる事を嬉しくは思わないはずだ。
この事はお前の心の中でじいちゃんに対する”誇り”として、持っておく事にしなさい
じいちゃんに対して恥ずかしくない生き方を今からすればいい」
と言っていました。
私も、父の言葉通り、自分の胸の中にある祖父への誇りとして今まで胸に秘めてきました。
しかし、ブログの方にも書きましたが
氷川の宮原城城主「宮原公忠」、この方の直系にあたられる「宮原様」に書かせて頂いたコメントへの宮原様から頂いた「お言葉」
その内容は
『橘公業の替地の球磨郡久米郷や氷川町その他の領地はどうも元々橘氏が発祥した土地のようである』と言う事、さらに
『古代の橘は沢山のグループがいて、九州王朝をお支えした氏族であると宮原様が伺われている』と言う事でした。
私は『九州王朝をお支えした氏族である』と言うお言葉に、震えがきました。
祖父が恐れ多い御方のお側にお付きした「その任務」が、『九州王朝をお支えした氏族である』と言うお話と重なって感じたからです。
「祖父の任務」今だからこそ、本当に書くべき時ではないか・・・
そう感じて、今まで「他の人に伝える事は恐れ多い事だ」と書く事を躊躇していた、隠していた「祖父の任務」を初めて「書かせて頂こう」そう決心する事が出来ました。

三つ柏服部様、ご覧下さる事を心より祈りながら書かせて頂きます。
以前、三つ柏服部様は私へのコメントの中で
私が先祖の調査を進める、その原動力が何かを知る為に、
私の調査「平川家について」を最初から読んで見られた・・・
と言う内容をお書き下さいました。
私は、このお言葉を読んだ時に、本当は「先祖の調査を始めるきっかけとなった」
祖母との会話。そして子供の頃から知っていた「祖父の任務」について
書かせて頂こうか・・と本当は悩みました。
だけど、やはり躊躇してしまいました。
内容があまりにも恐れ多い方にお繋がりしてしまう事なので
やはり、本当の事を書く事が出来ませんでした。
申し訳ありませんでした。

皆様、私は今まで、祖父の事を断片的にですが、数回書かせて頂きました。
椎葉のおじと祖父の関係についてもそうですし
ノモンハン事件に関連する事についてもそうです。
祖父が大事にしていた掛軸(書)についてもそうです。
時折、祖父の生きた証を思い、祖父の”誇り”を胸に思い
書かせて頂いていました。
ブログの方では、幾つか書かせて頂いた内容をまとめて書いています。
ただ祖父の仰せつかった任務について、祖父が御頂戴した「御手紙」・「御品」については、全く今まで伏せて来た内容です。

皆様
私の調査を応援して下さり本当にありがとうございます。
心から感謝申し上げます。

そして、心からお詫び申し上げます。
今まで、隠していて本当に申し訳ございませんでした。

ミヤハラ
[24]たけぽんさんからのコメント(2018年03月20日 02時45分45秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
うちの花粉症も、やっとこさ慣れて
来たかな?と言う所です(^^;

先日、ちょっと鹿本町に用事がありまして
そこにあるうちの宗派のお寺にお参りに
行きました(^^)

そう言えば
旧?山本郡?がどこら付近にあったのか
急に思い出して・・・

さて、目が覚めたついでに今から
探すかな?(^^;(笑)

ミヤハラ様

言いたい事と言わなくて良い事
言いたくても言えない事は違うと
うちは思います

誰にでも、聞かれたくない事も
あるだろうし、絶対に言っては
いけないこともあると思います

あまりご自身を責められますな

本当に必要性があるものは、必ず
どこかでその様に回って行くと
思うのです

うちは、ただ純粋に
平川家の歴史が知りたい

義高公の事が知りたい

こう、強く思ったのは
祖母が亡くなり、従兄弟に子供が
生まれた事がきっかけでした

子供達に、平川家の事を、祖母の
代わりにとは言えませんが
キチンと伝えて行かなければと
思ったからです

うちも、祖母に色々聞いておけば
良かったと、今更ながら後悔を
している所です

しかし、少しばかりでも、探せる
手がかりを残してくれた祖母には
感謝しています

祖母が平川の話をしてくれてなければ
こうして、ここでミヤハラ様と
知り合えなかったのですから(^^)

とは言うものの
殆ど平川の事を知らないうちには
調査は至難の技です(苦笑)

でも、まだまだ負けませんよ〜(^皿^)

諦めの悪いおなごですから(笑)

あ、それと

いつか、ミヤハラ様とは
ゆっくりお話したいですねぇ〜(^^)

うちが知らない、色々な事を
教えて頂きたいです(〃∇〃)♪
[25]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月20日 14時42分36秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

たけぽん様
花粉症の症状、お辛いですね。
身体が慣れて来られた・・・人間の身体って不思議ですよね。
私も、最近は喘息は完全に治まっています(^'^)

たけぽん様のコメントを拝見して、朝から勇気が湧いてきました。
〉本当に必要性があるものは、必ずどこかでその様に回って行く

そうか・・そうなのですね!
書いて良かったのか・・と実は内心不安でしたが
今、ようやくその時が来たのだ・・と「本当に」考える事が出来ました。
ありがとうございます。

山本郡
良峯安則について
永吉荘と平河氏嫌倉将軍家領たる永吉荘地頭職平河師高は、良峯安世「桓武天皇皇子、延暦二十一年(802)に良峯朝臣の姓をえて臣籍に入る)の末孫で、良峯四郎安則の代に、菊池経頼をたよって肥後国山本郡(鹿本郡植木町山本.楠原附近)に住んでいた ...
かなり、以前、私は平河義高の祖父である「安則」と言う方が居城された
山本郡の城についてコメントに書いています(^'^)
ブログにも地図をアップしていますのでご覧ください。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-11931315528.html

★「良峯(平河)安則」居住跡地 楠原須屋城跡
実は、私の弟が6歳から過ごしていた病院のすぐ近くだったのです。
コメントは確か2014年の9月〜10月頃書いていたと思います。
山本郡楠原は現在、「熊本市北区楠原」となっています(^'^)

たけぽん様、私もぜひお会いしてゆっくりお話したいです(^'^)
実現しましょうよ!たけぽん様\(^o^)/
私、人吉にはショッチュウ行っています(^'^)
鮮度市●によく出没しているのですよ(p_-)・・・・(^O^)/

私、和●おばさんのお家にはまだ行けていません(@_@。
(行けそうだ!\(^o^)/と言う時に主人や父がインフルエンザ(@_@。
私の都合の良い日は椎葉のおじが難しい(@_@。・・と言った具合です)
こちらも早く実現出来るように椎葉のおじに話します(^O^)/

所で・・
先程も書きました「その時が来た・・・」
たけぽん様、皆様(..)
実はブログの方に、ここ数日間、家に残っている祖父の思い出の品々を見ていて
気が付いた事等を書かせて頂きました。
祖父の叙勲賞状やトランクケース等の写真も載せました。
それと・・・
ブログ最後の方に、私がまだ小倉に住んでいた時、4年前に里帰りした時に
気が付いた「衝撃」もついにブログに写真を載せました・・・
こちらもずっと胸にしまい込んでいた事です。
床の間に飾ってある刀掛(兜)です。

たけぽん様、皆様
よろしければ、ブログをご覧ください(..)
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12361471048.html

刀掛(兜)について
里帰りした時に、刀掛(兜)のホコリを取ろうと掃除していて、偶然「前立て」の部分が
取り外せる事に気が付いて・・・
実は・・おっちょこちょいなので、触っていたら少し傾いて、ヤバイ\(◎o◎)/!と思い
真っすぐにしよう(p_-)と又触ったら・・・前立てが抜ける事に気が付いたのです・・・
な〜んだ(^'^)と思い、一旦抜いて、前立ての後ろ(兜)を掃除して・・
前立てを拭きながら・・裏側も拭いていたら・・・
見つけました・・
この時は本当にビックリしました!
こっこんな所に何故!!??って腰が抜ける程驚きました。
すぐに父に見てもらうと、父も「あれっ?本当ねぇ〜」と言いましたが
父は「何かあるとだろう(笑)」と言うだけで
そんなに気にした様子もありませんでした。
そのかわり「このおっちょこちょいが!あまり触るな」とは言われましたが・・
おっちょこちょいは・・どっちだ(-.-)
兜の左側がパキーンと割れているのは、子供の頃の父と叔父に関係あるのは
聞いています(-.-)
其の後、叔父やいとこ、椎葉のおじや、ふた従兄等に見てもらったのですが
皆「本当だ!でも何でだろう??」と言うだけで
理由は誰も知りませんでした・・・

だけど・・
最近、ブログの方で球磨から移動した「久米氏」と鯰さんを調べて
久米寺に聖徳太子の弟君であられる来目皇子(くめのみこ)※久米王が関係されている事が解り
聖徳太子・来目皇子(久米王)の父君であられる用明天皇は
和風諡号は、『日本書紀』では橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)、『古事記』では橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)
であられる事を、氷川宮原城主「宮原公忠」の直系でいらっしゃる「宮原様」のブログで勉強させて頂いて
家の兜の前立ての裏に刻まれた「十字架」がすごく気になったのです。
用明天皇 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛。同母妹に推古天皇。また、高向王(寶女王(のちの皇極天皇)の最初の夫)の祖父とされる。

第二皇子:厩戸皇子(諡号は聖徳太子。上宮太子・豊聡耳皇子・法主王ともいう) - 同母妹の推古天皇の皇太子・摂政
第四皇子:来目皇子(または久米王) - 撃新羅将軍。登美真人の祖(→山村王)

厩戸皇子(諡号は聖徳太子) 妻は橘大郎女(たちばな の おおいらつめ)
ウィキの聖徳太子の頁を拝見すると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

厩戸前にて出生したので厩戸(うまやど・うまやと)と命名されたとの伝説がある。また母が実母・蘇我小姉君の実家(おじ・蘇我馬子の家)にて出産したので馬子屋敷に因み厩戸と命名されたとする説や、生誕地・近辺の地名・厩戸に因み命名されたなど様々な説がある。

とあり、さらに脚注を見ると中に
※久米邦武は、学僧が日本に持ち帰った景教(ネストリウス派)の知識が太子誕生説話に付会されたのだろうと推定している。
佐伯好朗は、1908年に論文「太秦を論ず」において聖徳太子と関係の深い秦氏と景教とユダヤ人の関わりについて論じ景教博士と呼ばれた。

とあり、「橘」・「久米」の文字がお付きになられる名を持たれた「方々」が
周囲にいらっしゃる聖徳太子が「十字架」の鍵を持たれているのかもしれない・・
そんな事を考えてしまいました。
遡った所に家の兜の前立てに刻まれた「十字架」の意味があるのかなぁ・・と。
正史で言う所の「橘氏」とは別に、本当は「橘」と言う「言葉」・「名」には
もっと、別の「意味」があるのではないか? そんな事に最近気が付き始めました。
そこに繋がるのが「久米」。「久米」と言う「言葉」・「名」なのではないか・・?

もちろん、宮原の一族だけではなく「橘」には平河氏も無関係ではありません。
何せ、良峯氏系図では、「良峯氏」は「良峯」から一旦「橘氏」に変わり、その後「良峯」に復姓しています。

結局、私の調査の周囲には「橘」・「久米」の「言葉」が溢れかえっているようです。

それと、もう一つ気が付いていたのですが(p_-)
厩戸皇子(諡号は聖徳太子) 妻は橘大郎女
橘大郎女 ウィキを見ると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%A4%A7%E9%83%8E%E5%A5%B3

橘大郎女(たちばな の おおいらつめ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。
聖徳太子の妃。父は尾張皇子(敏達天皇の皇子)で推古天皇の孫にあたる。
子に白髪部王、手嶋女王。

白髪部王

聖徳太子の弟君は来目皇子(くめのみこ)※久米王
子息は白髪部王

久米・白髪・・・
なんだろう・・そのままのような・・・
何がそのままかと言うと・・
私が住む場所は旧球磨郡「久米郷」で・・
家から見える山は「白髪岳」・・・
うううぅん・・・
父に、上記の事や垂仁天皇様「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」
仁徳天皇の曾孫様となられる清寧天皇
御名は白髪皇子(しらかのみこ)。和風諡号は
白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)
のお話をすると・・
父は
「古(いにしえ)に御所縁の地の名を御記憶されていらっしゃるんだよ」
と良く解らない事を言いながらニコニコ笑っていました。
(父が言わんとする事は何だろう・・??)
確かに「藤原氏」が台頭する時代より以前の事を調べると
何だか不思議と「球磨」の地名や「山の名」に関わりがあるような
記述が多数見受けられます・・・

ただ・・私より「妙な感」が強い父ですが
DNAからの発信?なのか何なのか?良く解らないのですが・・・
「藤原不比等」 この方を父は物凄〜く嫌っているのです(..)
何かあるとすぐに「藤原不比等のせいで!」と言います・・(@_@。
私が「お父さん、家は相良氏の一族の血が入っているのだから繋がっているとよ!」と言っても
「それでも、好かん!」と言います・・・
何様なのか?父上?と思ったりします・・・
初めて書きました(@_@。

何だろう?父の記憶のDNAの中によっぽど「藤原不比等」この方を「嫌う」何か?が残っているのかな〜(?_?)
と思うほど、まるで「藤原不比等」この方が「最近の人」のように嫌うのです・・
そう言う父を見ながら私は
面白い(p_-) ・・と感じています。
あの父が言う事だからきっと何かあるのかもしれません(p_-)
(マタマタ(ー_ー)!!と全国から声が・・(;一_一))

話を兜の十字架に戻しますが(..)
古代に繋がる話だけではなく、確かに戦国時代から江戸時代初期にかけても
家の兜に十字架が刻まれる要因となる「可能性」がある事は多々ありまして・・
家の宮原家がある旧宮原村の川を挟んだ向こう側の旧岡本村。
岡本村の岡本城主であった相良清兵衛こと「犬童頼兄」。
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%85%84

最後に記されている相良清兵衛屋敷
頼兄の屋敷は、通称「御下(おしも)」と言い、相良清兵衛事件(=御下の乱)の際に、田代半兵衛(犬童半兵衛)が藩主から誅殺されるのを恐れて叛乱を起こし、屋敷に立て籠もって戦った末に火を放ったために焼失した。
後年、その遺構から地下室が発見された。絵図によると、屋敷内にあった2階建ての「持仏堂」と書かれた位置から発見されており、地下室の構造は、石積みの階段、踊り場、長方形の井戸、黒い小石敷き、その下にスギ板が敷かれていたが、これとほぼ同じものが、嫡子・頼安の屋敷内の蔵に当たる位置からも発見されている。
井戸を持つ地下室の発見例は世界的に例がなく、またこの地下室が作られた目的はいまだ解明されていない。
========================================

上記の地下室について、球磨郡では沢山の推測がなされています。
最も有力視されているのは
「キリスト教の礼拝所であったのでは?」と言う事です(..)

家は岡本村の岡本城主であった相良清兵衛こと「犬童頼兄」とは無関係ではありません。
犬童頼兄、この方は岡本城主ではありましたが、城には住まず
城の麓の「居館」に住んでいました。
「犬童頼兄」が津軽に配流された後、その「居館跡」に代々住んでいるのは
家の親戚です(..)
以前から書いていました。

他にも・・
兜を曾祖父が久保田家から持参した可能性も捨てきれません(..)
こちらも以前から書いていましたが
窪田大蔵(頼豊・木上地頭)は「晋州」にて戦死、残された二人の子息は
大村に移り住み他家に養われて成人したとあります。
「大村」とは、現相良村内にある旧深水村・旧柳瀬村を指します。
当時の旧深水村・旧柳瀬村の地頭は「深水氏」と「平河氏」です。(其々のむらに深水氏・平河氏あり)
さらに、実は・・犬童頼兄(相良清兵衛)居館跡に住んでいる親戚の名は「柳瀬家」です(..)

窪田氏(久保田氏)十五代 九介の弟 甚助 初、加藤清正に仕う。後、中川内膳正に仕え五百石を賜う。

窪田(久保田氏)甚助が仕えた中川内膳正。
この方は中川 久盛。

中川氏を調べたら「十字架」に繋がる記述があったのですが・・・
非常に長くなりましたのでこの続きは次回に(..)

ただ・・・この1年近くの間に調べた事が、今回書かせて頂こう!と
思っている事に繋がっている事は驚きでした。
詳しくは次回に(__)

兜の事も、もっと早く書こうか・・と思った事もあったのですが
内容が内容だけに・・やはり躊躇していました(..)
でも、きっとようやくその時が来たのかな・・と思います。
その時とは「私が少しは理解出来るくらいの勉強ができた時」なのだと思います。(あくまでも”少しは”なのですが・・)

たけぽん様、皆様
今回も非常に長くなってしまいまして申し訳ございませんでした。

続きは出来るだけ早く書きたいと思っています(..)
[26]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月27日 08時56分44秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

前回の続き、「出来るだけ早く書きたい」と書いてはいますが・・・
今、ちょっと忙しくて中々コメントに集中する事が出来ません(..)
理由は・・・
私、農作業のアルバイトを始めました(^O^)/
(ええええっ!との声が・・・)

実は、御近所の「斉藤家」の幼なじみのK君(私より一つ年が上)が2月の末に家に来て
「暇してるなら、家でアルバイトする?」
「H美(私)ちゃんは、農作業はもちろんやった事は無いのは知っているけど
興味があるならやってみる?」
「でも、お父さんに聞いてみて了解を得てからね」
と言う話になり
私は、今までやった事が無い農業のお手伝い、めちゃくちゃ興味があり
久米郷の土地に触れて見たい!との気持ちが沸々と込み上げてきました(^O^)/
さらに(p_-)
仕事を辞めて、球磨に戻り専業主婦を初めてやってきたこの3年間・・・
家で家事の傍ら先祖の調査をやりながら、歴史研究会にも参加して・・と
父や主人から私の好きなようにさせてもらっていましたが・・
一つ「モヤモヤする事」が・・(..)

今まで読みたい本があれば、自分が働いたお金で好きに買っていたのですが・・
専業主婦ともなればそうはいきません(ー_ー)!!
買いたい本があれば主人や父に相談して買ってもらったり
こっそりと貯めた「へそくりさん」で買ったりと
肩身が狭いなぁ〜(@_@。と・・
何せ私が欲しい本や資料はお金がかかります・・・
今まで相良藩史の数々や、麻郡神社私考、他、地元の研究会(3会)が発行した本を全巻揃えたりと・・・
かかったお金は・・実は総額二十万円を越える・・・
殆ど父や主人に買ってもらっていました・・・
このまま成果を出せずにいたら
「ただの道楽」と言われてしまいそうで・・・
本当に肩身が狭いかったのです・・
主人は優しいので何も言いませんが・・
父は「お前の本分は主婦だろう!”家事の合間に歴史”じゃなくてお前は”歴史の合間に家事だ”!!」
と叱られたり(..)
最近は、パソコンをボ〜ッと見ていると
「今のお前は●●ちゃん(主人)とお父さんのお陰でそうやってパソコンをボ〜ッと見る事が出来ているんだぞぉ〜」
何て言われたりして・・
父や主人にもちろん感謝の気持ちはあるのですが・・
こんな事を言われると「何だかめちゃくちゃムカツク・・」って思ったりもしていました。
こんな調子で過ごしていた私に「天の声」のように
斉藤さんちのK君からの誘いが・・やった!!\(^o^)/
となった訳です。

早速父に話すと・・・父は今まで「嫌味」を言ってたのに
「何で!働かんでも良いから・・」と・・
さらに
「お前・・お父さんが曾じいちゃんに叱られる・・」とか
訳の解らない事を言い出したのですが
私が「やりたい!」と言った事を絶対に諦めない、言い出したら聞かない・・
と言う性格である事をよ〜く知る父は結局
「そんなにやってみたいなら、無理をしないようにやってみなさい」
「そのかわり、お前の興味本位での仕事のお手伝いじゃ斉藤さんに御迷惑をかける」
「やるんだったら、ちゃんとやりなさい!」
と言ってくれたので
やった\(^o^)/と・・
ただ・・親戚にも言わなきゃな(p_-)
と思い、椎葉のおじにも相談すると
「何でも経験する事は大事だから、無理をせずに頑張りなさい(^'^)」
「でも、農作業は甘くないぞぉ!(ー_ー)!!」
と言われました(^'^)
椎葉のおじに話した事から、すぐに椎葉のふた従兄から
「H美(私)、農作業を甘く見たらだめよ(ー_ー)!!
H美(私)は身体が農作業が出来るようには生まれていない、身体が弱いのだから
朝”ラジオ体操”をして身体をほぐしてから仕事に行きなさいね」
と電話がありました。
家だけではなく(ー_ー)!!親戚をも巻き込んで皆が心配するなか
皆、私の我がままを聞いてくれて、最後は応援してくれました(^'^)

と言う事で(p_-) 私は斉藤さんの家でアルバイトを始めたのであります。
斉藤家のK君には以前ちょっとだけ今の状況を話していたので
アルバイトに誘ってくれたのだと本当に感謝しています(..)
K君は
「御主人がお休みの時とか家の用事の時とか、H美ちゃんの都合に合わせて
働いてくれたらいいからね」
と言って下さったので、本当にありがたいと思っています(..)

最初は「煙草の苗の植え付け」や「畑に煙草を植える」作業をお手伝いしたのですが・・
筋肉痛が凄かった(@_@;)
でも、黒原山や白髪岳を見ながら、何だろう達成感がありました(^'^)
(斉藤さんちは田畑を今は5町以上を抱えているそうです)

煙草って農産物なんだなぁ・・ってつくづく解りました。

そして今は(p_-)
何棟も連ねたビニールハウスで育った「サラダスナップ」の収穫のお手伝いをしています(^O^)/
まるで「ジャックと豆の木」みたいな感じの豆がずら〜っとハウスに何列も植えられて、プックリ美味しそうな豆だけを見つけながら収穫するのですが
本当に楽しいです(^O^)/
この「サラダスナップ」が絶品で、本当に美味しい!!!
採れたての規格外を頂いて、家で食べています(^O^)/
何と贅沢な\(^o^)/

農作物のありがたさを痛感して
本当にアルバイトを初めて良かった〜と感謝しています。

さらに・・・
「サラダスナップ」だけじゃなく(ー_ー)!!
新しい収穫もありました(p_-)

ここからが本題です(p_-)
斉藤家のK君は、農業だけじゃなく、様々な事に興味を持つ人で
子供の頃から「すごいな!」って思ってはいました。
めちゃくちゃ頭の良い人です。
日本刀に関しても知識が深く、他、明治以降の日本と海外との関係等も興味を持つとトコトン調べなきゃ気が済まないと、ビックリする程詳しく勉強していました。
他、政治の事や、自衛隊の戦闘機等についても「何で知ってるの?!」と
話していると驚く事ばかり・・
「百科事典を読むのが子供の頃から大好きだった!、興味が湧くと本を買ったり、今はすぐにネットで調べる」と笑いながら言うK君の顔を見ながら
「斉藤氏恐るべし(p_-)」と私は再認識していました(p_-)

そんなK君は私が球磨の歴史を調べている事はもちろん知っているのですが
親戚関係に謎を解く鍵があるとの私の考えも理解してくれて
私に「斉藤家」の縁戚関係を教えてくれたのです。

本題「斉藤家」と「永田家」

斉藤家のK君のお母さんの御実家は「永田家」でした。

私は知りませんでした\(◎o◎)/!
だって・・おばさん(K君のお母さん)の御実家の事を家の親戚一族は皆
「地名」で呼んでいたからです!
(家の親戚は姓ではなく地名で家を呼ぶ風習?があります)
その「地名」とは・・宮原の一族の先祖に関わりのある「地名」で
なお且つ、最近「古代」の事をブログで書いていて頻繁に登場していた
あの「地名」・・ヒントは「モォ〜」です(p_-)
橘公業の後裔にその「地名」の姓があり、家の親戚にも”その姓”があります。

その「某地」の永田家がおばさん(K君のお母さん)の御実家でした!
私、ビックリして
今まで、皆様方から頂いた御教示「斉藤氏と永田氏の関係」をK君に話した所
「面白いね!」と言っていました。
さらに、この事がきっかけでK君から教えてもらった「斉藤家」の縁戚関係にも驚きました。

K君のおばあさんの姉妹の方の嫁ぎ先は、家の遠縁にあたる「平川家」でした!
(こちらの平川家は湯前の平川家と繋がっています)
知らなかった!!!\(◎o◎)/!
私の曾曾ばあちゃん(高祖母)は湯前の「永田家」から嫁いで来られている事を
K君に話して
私が「何か全部繋がっているような気がする・・」と言うと
K君は「何か面白いね・・」って言っていました。

うん!!本当に「面白い」(p_-)
思わぬ展開になりました(p_-)

しかし・・この事を知ったのも私がアルバイトを始めたからこそで・・
何だか導かれているのかな・・と
感じました・・・

と言う事で、長くなりましたが
以前から何度か書いていた、御近所の「斉藤さん」こと「斉藤家」。
永田家と姻戚関係にあった事が判明した・・

と言うお話でした(^'^)

いやぁ〜実に面白い(p_-)
では(..)
[27]たけぽんさんからのコメント(2018年03月29日 12時10分53秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

山本郡の情報、ありがとうございます(^^)

早速調べてみたら・・・

現在地と照らし合わせると・・・

(間違ってなければ)城跡の近くの
お寺に、年三回位お参りに
行ってますΣ(・ω・ノ)ノ

不思議なご縁を感じました(゜_゜;)

ミヤハラ様

お話し出来るとは
嬉しいですね(〃∇〃)

是非、宜しくお願い致します(^^)

お仕事大変ですね(^^;
無理せず、頑張って下さいね(^^)b

新しい゛収穫゛もあったみたいで
喜ばしい事ですね(^^)

[28]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年03月30日 07時22分41秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、おはようございます。

たけぽん様
山本郡の楠原城近くのお寺様に年に三回お伺いされていた・・・
本当に、不思議な御縁ですね。
私も、弟の病院の近くだった事に気が付いた時は
本当に、不思議な御縁だなぁ〜と感じたのでした・・

お会い出来る事を楽しみにしています(^'^)

新しい収穫。
たけぽん様、皆様。
こちらも、人と人の繋がり、御縁とは不思議な物だと感じました。
地元旧宮原村の同じ集落「宮麓」の中のさらに同じ地区「侍村(まちむら)」の
御近所の方々との御縁。
もちろん、「ここ」は、私が調べている、江戸時代までわずか3%に過ぎない
ネットワークの方々が居住する地域なので
「何かある」とは思ってはいたのですが・・・
皆様方に御教示頂いてきた事、自分が今まで色々勉強して来た事、に
繋がってくる事がようやく見えてきたのかな?と、そう感じた時に
やはり、先日書いた「その時がきた」のだと思いました。

私の住む集落「宮麓」の中の地元の呼称「侍村(まちむら)」には
明治の廃藩置県の後、宮原村の役場が置かれました。
さらに、府本小学校が創立されました。
いずれも、今は田んぼです・・・
宮原城があった「城山」の下から、遅くとも鎌倉時代には存在した道があり
その道なりに「表(おもて)」「門前(もんぜん)」「侍村(まちむら)」と言われる小集落が繋がっていて
江戸時代までは、「門前」「侍村」にかけて百軒以上の武家屋敷が建ち並んでいたそうです。
今は、三十軒程しか家はありません(@_@。
後は、全て田んぼとなりました(戦後の農地改革、構造改善により)
1600年代の庚申塔に残る「数々の姓」の方々や、分限帳等に残る「姓」の方々の中で
今は集落には無い「姓」も多数あります。
近隣の町等で、その「姓」を見かける事があるので、移られた事が解ります。
曾祖母の実家の「新堀家」も今は「侍村」にはありません・・
「宮麓」・・麓地区は以前から書いているように
在郷の藩士や郷士の方々の居住地域で相良藩内では
『人吉の麓』『上村の麓』『岡本村の岡麓』『宮原村の宮麓』があり
『岡本村の岡麓』には相良清兵衛こと犬童頼兄が、人吉城下より商人の方々等を
多数連れて来られて「城下町」を形成した事で有名です。
(この事が引き金となり、犬童頼兄は津軽に配流となりました)
『上村の麓』には家の親戚が数軒今もあり、こちらは最近『上村の麓・武家屋敷群』として、脚光を浴びています。
な〜んも(何も)残っていないのは「ここ」、宮麓だけです(@_@。 悲しい・・
肥後宮原銀山があった場所なのに・・本当に残念です(@_@。
でも・・私が「ここ」に帰ってきて3年経ちましたが
集落内の方々と話していて痛感した事がありました。
皆、自分の御先祖様にとても関心を持っていた!と言う事です。
私が歴史研究会に加入させて頂いた事を知ると、皆さん
「今の時代に言う事じゃないけれど・・実は家はね・・」と言ったお話を聞かせて下さいます。
例えば・・
家や親戚一族と代々とても親しくお付き合いをさせて頂いている「村山家」。
先日、「村山家」の奥さんが家に遊びに来られて聞いたお話もとても興味が湧いた「お話」でした。

「村山家」の奥さんは、嫁いで来られてすぐに御姑さん(私は村山のおばさんと呼んでいました)から
古文書を見せてもらって
「相良の殿様が、米良経由で参勤交代に行かれる時には、家に必ずお立ち寄りになられていらした」
「家は御殿様の御宿泊所にもなっていた」
と言った話や「代々伝わっていた刀」の事などを聞かれていたそうです。

この話を聞いて、私はすぐに「ピン!」と、きました。
以前、宮原村の江戸時代末期から明治初頭にかけての資料の中に僧 村山何某(資料が今手元に見つかりません(..))と言う方のお名前を見た事があり
さらに
人吉市誌記載の旧士族の氏名の中に宮原村「村山良吉」と言う方のお名前があったからです。(この資料はすぐに見つかりました(..))

村山家は旧庭柏寺のすぐ前・・
もしかしたら・・・村山さんのお家は「庭柏寺」に関わる「家」だったのではないか???
私はそう考えて「村山さん」の奥さんに話すと・・
「心当たりがあるので、今度、また調べて来るね!」と言われていました。

このように・・集落の家々には何かしら「言い伝え」が残っている事が
最近、解ってきました。
皆さん、ずっと「心に秘めていた」事があるようです。

同じ集落の「別府家」の私の同級生も御先祖様についてちゃんと調べていました。
別府家は、相良藩士分限帳の補足資料にも記載されている宮原村の在郷藩士のお家で
同級生によると、御先祖様は
佐賀県(場所は詳しく聞いていません)から天草に移り、その後宮原村に来られていた事が解っているそうです。

色々な地域から宮原村に来られている「3%のネットワーク」が存在する事も
見えてきました。

最後になりますが
実は先日コメントさせて頂いたK君のお母さんが、お亡くなりになられました。
私がコメントを書いた日の夕方でした。
私はK君のお母さんの具合が悪い事を知っていました。
K君、奥さん、妹さんは献身的な看護を続けられていました。
おばさん(K君のお母さん)とおじさんは
きっと、出会うべきして出会われて、結ばれるべきして結婚されたのだと
私は思い、K君に、皆様から伺っていた御教示を話していたのです。
この時、K君は「教えてくれてありがとう」って言ってくれました。

隣邦班として、お通夜、ご葬儀のお手伝いをさせて頂きました。
おばさん(K君のお母さん)は、お花がとても大好きな方でした。
私が子供の頃から、家にも沢山のお花を下さっていました。
祖母が亡くなってからも、父にお供え用のお花を届けて下さっていました。
桜の花が満開の中、おばさんは天国へ旅立たれました。
昨年、K君はお父さんも亡くされています。
妹さんは「お母さん、お父さんと会えるね。天国でも仲良くね」と言われていました。

おばさんの御冥福を心から祈っています。
今日から、斉藤さんのお家で豆ちぎりのバイトが再開です。
私も、少しでも斉藤さんのお手伝いが出来るように頑張ります。
[29]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月02日 10時53分27秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は。

先日、椎葉村の上椎葉に行って参りました。
本当は、西都市の西都原古墳群に行って菜の花と桜と古墳のコラボレーション?
を見に行きたかったのですが・・・
西都市に向かう国道219号線が、
横谷(球磨郡湯前町)と宮崎県児湯郡西米良村の間で山崩れがあり通行止めとなっていました(@_@。
横谷峠まで行って、球磨に引き返す事となり・・・
(湯前に通行止めの表示があったのですが、迂回路があるはずだ(p_-)と無謀にも進んでしまいました(..) )
引き返して・・唯一の迂回路となっている国道388号線は
水上村の市房ダム湖横を通り、「湯山」から椎葉村大河内矢立に進む道で
1年ぶりに先祖所縁の地、標高約1000mの「矢立」を通過、そこから山を下り、
途中で「西米良」に向かう道と「上椎葉」に向かう道とに分かれていました。
そこで、主人が突然
「右と左、どっちに行きたい?」と聞いたので・・・
思わず「左(上椎葉)」と答えると、主人も「僕も左に行きたかった・・」と・・不思議な事を二人で会話し・・・
西都に向かう予定が突如、上椎葉行きに変更!となった訳です。
(この間に見た矢立川の美しい景色等はブログに写真を載せるつもりです(^'^))
それから・・椎葉村大河内矢立地区は、思った以上に広かったです(p_-)
地図で周辺を見ていて、地名だけ理解していたので、見ると行くとでは大違いでした。
私が地図を見て「大河内」と理解していた所は・・国道の道路標識上ではずっと「椎葉村 矢立」であり、「椎葉村 矢立」を過ぎると、そこは「椎葉村 平」でした。
「椎葉村 矢立」から「美郷町(百済の里)」は道で繋がっていました。
椎葉村大河内矢立から上椎葉までは約30分程で行けたのですが・・・
分かれ道からまた、グルグルと山を登り、めちゃくちゃ標高の高い道を進みました・・・高所恐怖症の私は手に汗が・・・
山を越えて、今度は下ると・・そこが上椎葉でした。
鶴富屋敷の横には厳島神社が御鎮座。
そこで色々ありまして・・
詳しくはブログに書かせて頂きます(..)。
ぜひ、行かれて下さい!と係りの方に紹介して頂いた「椎葉民俗芸能博物館」へ・・
「椎葉民俗芸能博物館」には「矢立」にお住まいの方がいらっしゃり
ここでも「矢立集落」に関する貴重なお話を伺う事が出来ました!
御親切にお話を聞かせて下さった事務局の方には心から感謝致しております。
(この事も詳しくはブログの方で書かせて頂きます)

「椎葉民俗芸能博物館」で拝見した椎葉村の方々の伝統や暮らし・・
一言で言えば、椎葉村の方々は神様と共に生きていらっしゃる・・そう感じました。
神社での御神事はもちろんですが、日々の暮らしの中で、現代の日本では忘れ去られた
古代からの風習が今も残っている!そう感じました。
各家々の日々の暮らしの中に、厳粛な神様への御神事が今に受け継がれている・・
そこが椎葉村だ!・・そう感じました・・・
源平の合戦等、書きたい事は山積みなのですが・・追々書かせて頂きます(..)
その中で、私、過去の調査に繋がる「大発見!?」をしたので
次回のコメントは「この事」を書かせて頂きます。

何せ”じいちゃん”(父)が家事の合間に歴史!とうるさい(-_-)/~~~ピシー!ピシー!ので
お掃除を済ませて・・その後で(p_-)
[30]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月17日 16時00分21秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)
今日は、豆ちぎりのアルバイトがお休みなので
椎葉村で発見した事等を精力的に書きたいのですが・・
先に、最近知った、家の親戚の「森氏」について等を
松葉宗益 後裔 平賀氏について4 コメント13
の方に書きましたので、よろしければご覧ください。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101630_13.html

親戚の「森家」が細川藩士の「森氏」だった事が解り・・
肥後細川藩藩士でいらした田辺城籠城衆の「森氏」について勉強させて頂いた所
何故か!!?
宮原の一族の先祖と関わりのあられる方々が田辺城籠城衆でいらした事が解り
さらに田辺城籠城衆には良峯姓前野氏もいらした事が解り・・
宮原の一族と同族の「楠木氏」もいらした事が解り・・
何だコレハ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
となった、わたくし「ミヤハラ」でございます(..)

ただ・・さらに!!
松葉宗益 後裔 平賀氏について4 コメント13を書いた後で・・
気が付きました!!!

籠城衆・・籠城・・丹波の籠城
どこかで・・見た事があるような・・(?_?)

あああっ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
こっこだい!!古代に繋がっている!!!!

新羅国 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85

昔氏の始祖説話
昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)
倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側と比定される)の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。

多婆那国の比定地
この脱解の出身地である多婆那国は、脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、日本列島内の地域に比定されている。比定地は、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡などの説がある。『三国遺事』では龍城国とされる。

えええええっ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
脱解の出身地である多婆那国
※比定地は、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡などの説
※『三国遺事』では龍城国とされる。

丹波の龍城衆・・宮原の一族と同族の方々・・さらに良峯姓前野氏・・

そう言えば!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
昔氏は鳥人クマソの族なり!・・と書かれた書籍・・
ああああっ・・書かなきゃと思いながら、中々書くまでに至っていなかった
あの書籍・・

新羅の建国に古代の球磨の人達が関わったと明記されていた、あの書籍・・
あの書籍には龍城国とは、その球磨の人達が以前住んでいた縁故の地「沖縄」だと書いてありました!
さらに、沖縄には「中国」から渡られた・・と書かれていました!
私のあまりにも乱雑な説明に頭が(?_?)となられた方々申し訳ありません(..)
詳しくは、必ず後日書かせて頂きます。

つまり(p_-)
『古代の球磨』と『新羅の建国』と『昔氏』と『多婆那国』と『龍城国』は繋がっていて・・
戦国時代に下ると・・
球磨の久米郷と丹波の龍城には・・同族の方々が其々住していた!
と言う事が解った!と言う事です。
な〜んだコレは!!!!(p_-)

家の親戚関係のネットワークを調べたら・・
結局「古代」に繋がってきます・・

今まで接点が無いと思っていた
「肥後国久米郷」や「肥後細川藩藩士」と「丹波国龍城」にはちゃんと「人」を介して繋がりが(接点が)あった!と言う事が解りました!

やはり 古代 ⇒ 中世 ⇒ 近世 は繋がっている!と私は思います。

さらに
松葉宗益 後裔 平賀氏について4 コメント13で書いたのですが
宮原の一族が阿弥陀堂を建立した球磨村遠原とは
山を越えればそこは、和名妙類に記された「伴郷」であった事も解りました!
遠原は・・それはそれは・・ビックリする程「山の中」で
めちゃくちゃ標高の高い場所で・・
鹿児島県大口(伊佐)と芦北郡伴郷に隣接する地であり・・
しかし(p_-)
そこは・・
鉄鉱石の取れる山や砂鉄が取れる川が流れる
古代の鉄の民が住まう場所でもあり!

古代久米族の元祖的本拠地「球磨郡久米郷」を所領地とする「宮原氏」が
古代元祖的「伴氏」に繋がるであろう和名妙類に記された「芦北郡伴郷」に隣接する地に
何故?「阿弥陀堂」を建立したのか!?
私は、きっと、重要な「理由」がある!と考えました。

写真等を近くブログにアップさせて頂きます(..)
写真を見て頂くと解るのですが・・実際に行って見て
「阿弥陀堂を建立した宮原氏は何故?ここまで来る必要があったのか?」
と思う程「遠原」は山のまた山奥でした。
でも・・山の頂上付近なのに・・そこが標高の高い場所とは思えない程
平坦で、田園が広がる・・とても素敵な天空の地でした。

ここを古代に開発した人達と、椎葉村を開発した人達は同族のような気がします・・
その方々が平家の方々をお助けしたのだと私は確信する事を(あくまでも私が・・ですが)
椎葉村誌で見つける事が出来ました。
この事もブログの方で書かせて頂きます(..)
この方々はきっと「黒原山」を権利の象徴・守護山とする方々だったのでしょう・・
椎葉村にも・・「黒原山」がありました・・

前回の続きも書きたい!ブログも書きたい!と色々書かせて頂きたいのですが
今はあせらず、バイトをこなしながら・・何事にも一生懸命前向きに
進んで行くつもりです。
先祖からも「そんなにあせるな!」と言われている気がします・・

あせらなくても、次々と「鍵」となる事に遭遇している
最近の私です(^'^)

では(^'^)
[31]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月22日 08時57分10秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

「新発見」がありました。
あまりの驚きに茫然としてしまうような「新発見」でした・・・

昨日、求麻郷土研究会の例会で八代方面の探索に伺いました。
八代妙見神社にもお伺い致しました。
こちらでも「発見」はあったのですが
このお話は後日、ブログの方に書かせて頂きます。

本題に入ります。

ついについに!!大友能直に繋がる系の方を「球磨」で発見致しました。
大友能直
父:近藤能成、母:利根局(波多野氏)
養父:中原親能
叔父:大江広元

御本人からスレッドで書いても良いとの御了承を頂きましたので
書かせて頂きます!

昨日、御一緒させて頂いた「槻木様」(普段、槻木さんとお呼びしているので、以下、槻木さんと書かせて頂きます )
私が、球磨に戻り求麻郷土研究会に参加させて頂いて以来
大変、お世話になっている方です。

こちらの槻木さんと車中で色々お話していて、御先祖様の系図を調べて欲しいと
依頼を受けました。
槻木さんのお家に伝わる系図(原本)は、以前、某大学の方に調べて頂いたとの事で、車中にて説明書きが付箋で付いた系図のコピーを拝見しました。
(かなり古い系図で、読めない文字等を某大学の方に解読して頂いたとの事でした)
私は恐縮して「私なんかで良いのか?」と伺ったのですが
「宮原」さんとは縁がありそうだから、大丈夫と笑って言って下さいました。

私は、車中で「系図のコピー」をチラッと拝見した際に
「藤原冬嗣」、他「藤原忠平」と言った方々の名が記されている事に気が付きました。
「確か、槻木氏は阿倍氏のはずでは・・?」と考え
そこで「槻木さん」に
「もしも、相良史の正史とは異なる事が”真実”が解っても大丈夫ですか?」と
確認したのですが、「それは大丈夫!」と了承して頂けました。

槻木さんのお家に伝わる系図のコピーを頂き、
早速、家に帰り拝見しました。

そこには驚愕の事実が記されていました・・
私は驚きのあまりしばらく茫然としてしまいました・・

私が・・私が・・ずっと追い求めていた「系」に槻木氏が完全に繋がっていた事が解ったからです。

槻木氏系図

大織冠鎌足内大臣を祖とする槻木氏系図には、以降
藤原不比等 ⇒ 藤原房前と藤原北家の方々の名が記されていました。

藤原冬嗣以降の方々の名前は以下のように記されていました。

冬嗣 ⇒ 良房 ⇒ 基経 ⇒ 忠平 ⇒ 師輔 ⇒ 兼家 ⇒ 道長 ⇒
長家 ⇒ 忠家 ⇒ 俊忠 ⇒ 光家 ⇒ 光能 ⇒ 親能 ⇒ 
能直 ⇒ 泰廣 ⇒ 基直 ⇒ 直貞 蔵人三郎法名正雲 ⇒ 某(以下安部姓)

私は、こちらのスレッドで、何年も何年も「調査」してきた方々の名が列記されていた事に驚きました・・
「平川家について」を立ち上げて以降、初期からの私の調査をご覧頂いて下さっている皆様には私の驚きがお解り頂けたと思います。

着目して頂きたいのは
「藤原長家」以降の方々です。
長家 ⇒ 忠家 ⇒ 俊忠 ⇒ 光家 ⇒ 光能 ⇒ 親能 ⇒ 
能直 ⇒ 泰廣 ⇒ 基直 ⇒ 直貞 蔵人三郎法名正雲 ⇒ 某(以下安部姓)相良長頼公を頼り球磨に入られる(系図には経緯が詳細に記されています)
※某大学の方からの解読文より
皆越の元祖の名は欠けている。おそらく安陪蔵人三郎直貞から出たのであろうか。
そののち数代は虫食いがあって判然としない。
その家記がわずか残ったものを採って記録しておく。
相良三郎長頼公が、建久九年(1198年)遠州(現在の静岡県西部)から当郡に来て
のち安陪なにがしがその徳を慕って家族みな従え、山海の険、遥かな路を越えてきた。
公はその義に感じて、これに住所を与え、白髪野(※宮原補足 皆越)の辺りに置いてみな越してきたことから、その地を名付けて皆越といい
それをそのまま氏としたのである。代々地頭となった。
数代を経て、弘治の乱で皆越一族はことごとく早死にし、幸いその渦が及ばなかった者が地頭となった。
と記されています。

某(安陪氏)と記された方の後は『長門守 槻木地頭奉命 槻木為氏 米良山小原稲荷母方氏神・・以下略します』
兄弟の方々が『皆越地頭 安芸貞當』『越前 貞継』 と言った方です。
『長門守』の後が『出羽守』と続きます。

※『長門守 槻木地頭奉命 槻木為氏 米良山小原稲荷母方氏神』とあるように
早期に米良山の某氏との姻戚関係があった事が解ります。
さらに槻木氏系図には、早期の『緒方氏』と『笹木氏(佐々木氏)』との姻戚関係が記されていました。

※『皆越の元祖の名は欠けている。おそらく安陪蔵人三郎直貞から出たのであろうか。』

「藤原長家」以降の方々。
長家 ⇒ 忠家 ⇒ 俊忠 ⇒ 光家 ⇒ 光能 ⇒ 親能 ⇒ 
能直 ⇒ 泰廣 ⇒ 基直 ⇒ 直貞 蔵人三郎法名正雲

日本の苗字七千傑作様のサイトより
【藤原氏長家流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004.htm
※那須氏は同族。

槻木氏系図とほぼ「一致」!!
さらに
槻木氏系図 光能 ⇒ 親能 ⇒・・
ここで、私は気が付いたのです・・『「広元」「親能」』・・この方々は・・
えっ!えええええっ!!!と・・

大江広元と中原親能!!!!

さらに槻木氏系図では
親能 ⇒ 能直 ⇒ 泰廣 ⇒ 基直 ⇒ 直貞 蔵人三郎法名正雲(安陪蔵人三郎直貞)


日本の苗字七千傑作様のサイトより
《近藤氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020b4.htm#004

「近藤氏」「武藤氏」「少弐氏」「三池氏」・・同族
私は・・何度何度、今までこちらの画面を見て来た事か・・

さらに
日本の苗字七千傑作様のサイトより
《大友氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c1.htm

大友氏 大友能直 ⇒ 泰広(田原氏へ)
槻木氏系図
能直 ⇒ ★泰廣 ⇒ 基直 ⇒ 直貞 蔵人三郎法名正雲(安陪蔵人三郎直貞)

完全に一致!!!

さらに
日本の苗字七千傑作様のサイトより
《立花氏/田原氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c1.htm#007

田原泰広 ⇒ 基直 ⇒ 直貞
槻木氏系図
能直 ⇒ 泰廣 ⇒ 基直 ⇒ 直貞 蔵人三郎法名正雲(安陪蔵人三郎直貞)

完全に一致!!!

何と言う事だろう・・ナント言う事だろう・・
私が平河氏に繋がる系ではと考えて何年にも渡り調べ続けてきたこちらの「系」の方々は・・
実は「槻木氏」に繋がる系であった!!
そう確信しました・・

しかし、 直貞 蔵人三郎法名正雲(安陪蔵人三郎直貞)
この方の役職「蔵人」と法名「正雲」が一致しなければ、完全一致とは言えない・・
そう考えて調べました。

その答えは
武家家伝様 サイト 田原氏にありました・・
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tahara_k.html
田原氏は志賀・詫摩氏と並ぶ大友三大支族(大友三家)の一つで、大友氏初代能直の庶子泰広が始祖である。泰広は京都で生まれ、豊後国国東地方に地頭職を得、国東郡田原別府に定住して田原氏を称した。のち沓掛田原・武蔵田原氏を分出し、さらに吉弘・如法寺・生石・田口氏などの庶流を生じた。

系図を拝見すると「答えが見つかりました」
http://www2.harimaya.com/sengoku/kz/tahara_k.jpg

直貞 田原豊前蔵人三郎正雲
槻木氏系図
直貞 蔵人三郎法名正雲(安陪蔵人三郎直貞)

完全一致・・・完全に一致した・・一致した・・
「一致」と言う言葉が頭の中で何度も何度も繰り返されていました・・

先日、私はコメントの中で
『あせらなくても、次々と「鍵」となる事に遭遇している』
と書きましたが・・
本当に、あせらなくても「偶然」に『遭遇』してしまいました・・・
鳥肌が立って・・こんな事って本当にあるんだ・・と・・

私が追い求めていた「系」は「槻木氏」だったのか?・・・
「槻木氏」は系図より
「近藤氏」「武藤氏」「少弐氏」「中原氏」「三池氏」・・と同族であった事が判明。
さらに田原氏は立花氏と同族である・・
先日、私は集落内にいらっしゃる「立花氏」について
松葉宗益 後裔 平賀氏について3 コメント81以降で書いたばかりでした・・
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101577_93.html

さらにさらに、以前から書いていますように「田原氏」は家の親戚にもあります・・
祖母の従妹の嫁ぎ先で、昨年の末には、父のふた従弟となる「田原のおじさん」が家に来られて私は「田原のおじさん」と色々お話をしています・・

こんな事って・・本当にあるんだ・・きっと、必ず・・そう・・私は何かに導かれている・・

私が何故「近藤氏」「武藤氏」「少弐氏」「中原氏」「三池氏」等の方々を調べる事になったのか・・
そのきっかけ・・原点は・・
初期に感じた私の妙な「感」より
平河師高と藤原師高は同一人物ではなかったのか?・・
ここからが始まりでした・・

しかし、系図で判明した上記の方々に繋がる系は「槻木氏」であった・・
本当に・・驚いています・・

しかし、何故?槻木氏は「安陪(阿部)」を本姓としているのか・・?
一つ気になる事がありました。
槻木氏系図より
大友能直 ⇒ ★泰廣 ⇒ 基直 ⇒ ★直貞
★泰廣・★直貞 「泰」の文字と「貞」の文字・・

皆様、
日本の苗字七千傑作様のサイトより
【安倍氏/那須国造/膳 氏/佐々貴山氏/難波吉士氏】姓氏類別大観 以降の
安倍氏をご覧ください。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208.htm#000
※安倍氏と那須氏は同族・・
※安倍氏と

《安倍氏》姓氏類別大観
★通字が「泰」である方々が多数見えます。
さらに「貞行」と言う方の名も見えます。「貞」の文字。

「貞」の通字と言えば・・
陸奥安倍氏 「安倍貞任」
日本の苗字七千傑作様のサイトより
《陸奥安倍氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208a.htm

槻木氏系図より
大友能直 ⇒ ★泰廣 ⇒ 基直 ⇒ ★直貞(安陪蔵人三郎直貞)

上記の事より、槻木氏が本姓を安倍とされた経緯として
大友能直以降の方々と安倍氏との姻戚関係が「その理由」ではなかったのか・・?
と私は推測いたしました。

では・・皆越氏に残る「平家落人伝説」は一体・・?
と考えた時に
槻木氏(皆越氏と同族)の、球磨に来られた当時に発生した「米良山」の某氏との姻戚関係。
さらに早期に発生した緒方氏(五家荘緒方家か?)との姻戚関係に
何らか関わりがあるのでは?と分不相応の私ですが、推測しています。

他にも、源氏の追及を避ける為・・との考えも浮かびましたが・・
しかし、系図では、皆越の「某氏」までは、名前がはっきりと記載されている事から、この考えはいかがなものなのか・・?とも・・頭をよぎります・・

皆越・槻木と言う、球磨を取り囲む山の地域より、尾根続きで繋がっている椎葉村に、
安倍氏と同族であり、さらには「藤原長家流」である「那須氏」が在している事も
私は、どうしても偶然とは思えません・・

ただ・・私の信念は あくまでも
古代 ⇒ 中世 ⇒ 近世は繋がっている! です。

私が系図をお預かりした「槻木さん」の御先祖様は・・
槻木から、球磨村の遠原に程近く、さらに芦北郡伴郷と隣接する
球磨村三ケ浦(さんがうら)に知行地を拝領して移られていらっしゃいます。
さらに、その後
球磨村の遠原に程近く、球磨村三ケ浦(さんがうら)そして芦北郡伴郷と隣接する
鹿目(かなめ)※旧山口村に移られています。

私は芦北郡伴郷と隣接する地域に「大友氏」や「波多野氏」の系をひく
「槻木氏」が住された事を単なる偶然とは思いません・・

そして、コメントを書いて、ようやく気が付きました。
私が、最近訪れた「場所」、そこで知った事、感じた事は・・
今回の「発見」の前の「周囲の状況」を理解する為の勉強であった・・
と言う事を・・

科学では証明出来ませんが
私は、見えない大きな力の存在、お導きを身を持って感じています。

所で・・
旧槻木村(現多良木町)に御鎮座の神社様の宮司家は代々「宮原氏」です・・
私は、一つ、気になる事があります。
槻木氏の系図に記されていた方・・
「長門守」「出羽守」・・

宮原の一族の先祖「橘公業」は
「長門守護」の後、承久の乱の軍功により「出羽国」の秋田県男鹿市、他現在の秋田市等を所領・・

槻木氏の系図に記されていた
「長門守」「出羽守」・・長門と出羽・・

槻木氏の系図には、「宮原の一族」の先祖「橘公業」との目には見えない関係を
感じてしまうのは、私だけでしょうか・・

槻木さんには、簡単にですが、「大友氏」との繋がりを電話で御報告させて頂きました。
槻木さんは、とても冷静に「大友氏・・か」と言われていらっしゃいました。

最後に槻木氏の祖でもある
大友能直 のウィキペディアの記述を
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%83%BD%E7%9B%B4

大友 能直(おおとも よしなお)は、鎌倉時代初期の武将・御家人。近藤氏の出で、大友氏の初代当主。父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能。

出自
相模国愛甲郡古庄郷司であった近藤(古庄)能成の子として生まれ、当初は古庄能直と名のり、次いで父と同じく近藤能直と名乗った。その後、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗る。また父・能成が早世したためか、母の姉婿の中原親能の猶子となり中原能直とも名乗った。
父・能成の弟(叔父)が武藤頼平とされ、頼平の猶子が少弐氏の祖となった武藤資頼である。また頼朝旗揚げ以来の御家人であった近藤国平は又従兄弟とされるほか、弟・田村仲教の子孫が後の水谷氏に繋がるとされている。

あああ・・平河氏ではなく・・槻木氏であった・・

リフレインしています・・

皆様、御教示、そしてお感じになられた事等
ぜひ、コメントを頂ければ幸いです。

私の頭は、今、少し混乱しています。
しかし・・近藤氏・中原氏の姻戚関係を持つ系の方々が球磨にいらしたと言う事は
椎葉村で「発見」した事にも繋がっていきそうな気がします・・
それは「藤原師高」に繋がるお話です・・

あらためて、
皆様方からのお言葉を私はぜひお伺いしたいと願っています。
[32]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月22日 09時57分56秒 ) パスワード

追記

とても重要な事を忘れていました。

槻木さん(御系図を所有)の御先祖様が、旧槻木村(現多良木町)より移られた
現球磨村一勝地三ケ浦・さらに球磨村渡とは・・
平安時代末期の平河師高の所領地 一勝地村であり渡村であった・・
重要な事を忘れていました・・

平河師高の所領地跡を
父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能である
大友能直の後裔となる「槻木氏」が継いで所領していた・・
と言う事を、とても大事な事をスルーする所でした・・

さらに、宮原氏との関係において
とても大事な事をスルーしていました・・

大友能直 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%83%BD%E7%9B%B4

父・能成の弟(叔父)が武藤頼平とされ、頼平の猶子が少弐氏の祖となった武藤資頼である。また頼朝旗揚げ以来の御家人であった近藤国平は又従兄弟とされる・・

★武藤資頼は梶原平三景時(梶原景時)の娘婿
※梶原景時の次男「梶原景高」の娘は宮原の一族の先祖、橘公員の妻※梶原景時の次男「梶原景高」の娘は橘公綱の母。

すなわち!「槻木氏」と「宮原氏」は元々『縁戚関係にあった!』
何と言う事だろう・・

私の今までの疑問が、全て解け始めました・・
[33]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月24日 15時09分35秒 ) パスワード

皆様、今日は。
今日は、御近所の「斉藤家」でのアルバイトはお休みです。

槻木氏は皆越氏と同族であり、御近所の斉藤さんは、皆越から
私の住む集落「宮麓」に来られました。
さらに、私の住む集落「宮麓」には「皆越家」もいらっしゃいます。
さらに、さらに、「立花家」も私の住む集落にはいらっしゃいます。

槻木氏・皆越氏は系図から、大友能直の後裔(田原氏※立花氏とは同族)でいらっしゃった事が解り
縁戚には大江広元、さらに武藤頼平(大友能直の叔父)・武藤資頼。
武藤資頼と宮原の一族の先祖「橘公員」「橘公綱」は「梶原家」を介し縁戚関係であった事から
大友能直の後裔「皆越氏」と「槻木氏」は宮原の一族とは縁戚関係にあった事も
判明致しました。

この結果、先に書いた、私の住む集落に「皆越氏」「立花氏」そして、皆越に代々住された「斉藤氏」が来られた事は、単なる偶然ではなかった・・
と私は考えました。

ここで・・
先日のコメントで、私は「頭が混乱している」と書きましたが
最も自分自身で混乱した理由は
「何故?今まで、私がどうしても気になって仕方ないと思う方々は結局自分の先祖に関わりがあり、繋がっている事が判明するのだろう・・」
と言う事だったのです・・
何度もこういう事は確かにありました。
例えば・・
宮原の一族との関係が、全く解らなかった時期に、私は・・
「梶原景時」この方が気になって仕方ない!とコメントに何度も書いていました・・
その時に「梶原景時」の縁戚関係等も含め「梶原氏」を勉強して調べたのですが
自分の先祖との関わりは全く不明でした・・
所が・・ネットで鹿児島市史を拝見した事によって「突然」その関係が判明したのでした・・
宮原の一族の先祖「橘公員の妻」は梶原景時の次男「梶原景高」の娘であり
梶原景時の次男「梶原景高」の娘は橘公綱の母であった事が、同族の鹿児島の藤崎氏系図に記載されていました!
この事を知った時も、私は驚愕して・・どうして私は、何も知らないのに「梶原景時」が気になって仕方なかったのだろう??
と、これは一体どう言う事だろう??と自分自身が恐ろしくなった事があります。
そして、今回の槻木氏(同族※皆越氏)系図により
数年間、どうしても気になって仕方なかった方々と、槻木氏(同族※皆越氏)が繋がっていた事が判明・・
実は、今回も、先に書いた「梶原景時」との繋がりを知った時と同じように
これは一体どう言う事だろう??と自分自身が恐ろしくなっていたのです・・

しかし、今朝、三つ柏服部様の御調査「長上郡の服部氏族C[(課題確認51):108」を拝読させて頂いて、やっと心を落ち着かせる事が出来ました。

三つ柏服部様、ご覧頂けている事を願って書かせて頂きます。
三つ柏服部様がお書きのコメントについて、こちらで私が書かせて頂く事を
お許し下さい。

「エピゲノム記憶」。
私が今まで経験してきた事、お名前を見て「どうしても気になる」と言う方が
度々登場する事。
これは、おそらく三つ柏服部様が御紹介なさっていらした「エピゲノム記憶」に
基づくものではないか!?
私はそう考えました。
以前から、自分のDNAに何か関わっているのでは?「記憶のDNAか?」とは書いていましたが
それが「エピゲノム記憶」であったと言う事を初めて知りました。
三つ柏服部様の御調査を拝読させて頂き、大変勉強になりました。
そして、ようやく、心を落ち着かせる事が出来ました。
自分自身が恐ろしい・・と言う考えを払拭する事が出来ました。
こちら側からで、恐縮ですが
本当にありがとうございました。
以前、近江との関係を三つ柏服部様から御教示頂いた事があります。
ようやく、球磨と近江を結ぶ明確な「証拠」が出て参りました。(近藤氏との関係等)
これからは、今までのように
気になるけれど「ではなかろうか?」とか「偶然か?」といった調査を脱却して
「証拠」に基づく調査、関するコメントを書く事が出来るようになりました。
もちろん「平河氏」との関係は未だ不明ですが
しかし、宮原の一族、相良氏、相良氏族、そして、槻木氏、皆越氏といった
平安時代から鎌倉初頭にかけての繋がりが明確になった系の調査を基に
私は平河氏の謎に挑んでいくつもりです。
もちろん、自分のDNAに関わる、椎葉村の系も含めて
「証拠」を基に、しっかりと調査、コメントを書いていきます。

オカルトチックな闇に危なく入りそうだった私をお助け頂きまして
三つ柏服部様、本当にありがとうございました。

ミヤハラ


追記
皆様、私は皆越氏・槻木氏と平家落人伝説との重要な関係、その「根拠」となるかもしれないを事を
危なくスルーしてしまう所でした。
次のコメントで書かせて頂きます。
[34]たけぽんさんからのコメント(2018年04月25日 02時33分48秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

最近、花粉症も落ち着き
大分楽になってきました・・・
が、朝晩の寒暖差に少し身体が
反応し始めている今日この頃です(^^;

ミヤハラ様
凄い発見ですねΣ(・ω・ノ)ノ

うちも、ゆっくり読み返して
勉強させて頂きますm(_ _)m

凄いビックニュースなので
よく読まなきゃ・・・
o(T△T=T△T)o(汗)
[35]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年04月25日 10時52分00秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 お久しぶりです。いつも貴レス拝読しております。

 記憶とは何かというのは、難しいですね。コンピュータの記憶のメカ
ニズムと形としては同じように思われますが、コンピュータは二進法の
デジタル信号としての記憶=記録であります。人間や生物のはアナログ
であります。これをどう説明するのか、ホログラムというのがあります
が、それだけですべてを説明できるものでもありませんが、光の波動・
波長が基本ベースとしてあるのではないかとは推測いたします。また、
ホルモンというのもよくわかっておりませんが、伝達物質として、記憶
に関係しているものと推察いたします。

 「類は友を呼ぶ」……統計的な法則ですが、ここには同じ波長のもの
の共振作用が働いているのではないか……つまり、DNAやゲノムにも
波長があり、共振すればくっつき、共振しなければくっつかないという
ミクロの原理。
 人間の肉体も波動を発信していて、目に見えないけれども同じDNA
を持つ人とは共振するのではないか、親子・兄弟、祖先・子孫……目に
みえない糸とは、波動の共振能力なのではないか……?

 自論を勝手に展開してしまいました。すみません。忘却希望――
[36]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月25日 17時11分51秒 ) パスワード

丸三つ柏服部様、たけぽん様、皆様、今日は。

今日は、所用でアルバイト早めに切り上げて参りました。

丸三つ柏服部様
ご覧下さってありがとうございます。

DNAやゲノムの波長。
共振すればくっつき、共振しなければくっつかないという
ミクロの原理。
人間の肉体も波動を発信していて、目に見えないけれども同じDNA
を持つ人とは共振するのではないか、親子・兄弟、祖先・子孫……目に
みえない糸とは、波動の共振能力なのではないか……?

丸三つ柏服部様のご推論
素晴らしいです。
私、共感致しました!

『同じDNAを持つ人』 すなわち、先祖の記憶が現代人にも
しっかりと伝わっていて、例えば、名前を見ただけでも反応する・・
そう言う事ではないのでしょうか。

科学では解明出来ない事と良く言いますが
結局、本当は最新の科学を持ってすれば解明出来る事なのかも
しれません。

御教示、ありがとうございました。

所で、丸三つ柏服部様に御報告させて頂かなければならない「発見」がありました。

私の祖母方の先祖に所縁の椎葉村大河内矢立集落に御鎮座の雪矢神社(征矢神社)についてです。

雪矢神社(征矢神社)の御神紋はちょっと変わった形の「丸に違い矢」でした。
画像  大河内森林ガイドの会様のサイト内『大河内の伝統文化、まつり』 より
https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fookawauchi_iyashinomori%2Fimg_access%2Fhaiden.jpg


先日、「椎葉民俗芸能博物館」に伺った際に、雪矢神社(征矢神社)での御神事の写真が展示されていたのですが
神事に参加されていらっしゃる方々の装束の背中に施されていた御神紋は、
御神殿の御紋とは異なり、一般的にお見かけする「丸に違い矢」の御紋でした。
代々宮司家を務める方のお家が火事に遭われたそうで、由来等が古文書で残っていたと言う伝承があるそうですが
「今は、何もその由来を探るすべが無いので残念です」と
「椎葉民俗芸能博物館」の方が言われていました。

椎葉村の矢立集落に何故?「丸に違い矢」の御神紋が伝わっているのか・・?
かなり、気になってはいたのですが、御報告が遅れてしまった事を
お詫びもうしあげます。

コメントに書こうかどうしようか・・と迷っていたのですが
やはり、どうしても気になるので、今回書かせて頂きました。

椎葉姓の由来について
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%A4%8E%E8%91%89

伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。

平知盛公の遺児のお一人「平 知宗(たいら の ともむね)」
この方を庇護されたのは鎮西奉行「武藤資頼」と乳母の「惟宗氏(秦氏)」です。

詳しくは、次回、コメントを書かせて頂きますが
私は、雪矢神社(征矢神社)の御神紋の話
平知盛公の遺児のお一人「平 知宗」と言う方
「武藤資頼」と乳母の「惟宗氏(秦氏)」
私の祖母方の氏神様『月讀廿三夜比賣尊』
何と言うか・・全て繋がっているような気がしてなりません。

これから、しっかりと検証していくつもりです。
私の中の「波動の共振能力」を少し信じてみたい・・
恐縮ですが、そのような考えも出てまいりました。

丸三つ柏服部様、ありがとうございました。

たけぽん様 お久しぶりです。
朝晩の気温差は・・球磨は中東の砂漠並みですよね((+_+))

新発見
先も書きましたように、全ての線がようやく繋がり始めたのでは?と
考えています。

頑張って検証しますね(^'^)
[37]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月29日 13時54分08秒 ) パスワード

皆様、今日は。

実は、私、コメント31を書いた後に、ずっと・・
私はバカだ私はバカだ・・と繰り返し独り言を言っていました・・

コメント31で私は
『では・・皆越氏に残る「平家落人伝説」は一体・・?
と考えた時に
槻木氏(皆越氏と同族)の、球磨に来られた当時に発生した「米良山」の某氏との姻戚関係。
さらに早期に発生した緒方氏(五家荘緒方家か?)との姻戚関係に
何らか関わりがあるのでは?と分不相応の私ですが、推測しています。』

と書いていたのですが・・
私は本当にバカです((+_+))
槻木氏・皆越氏は武藤頼平の甥「大友能直」の系であり、武藤頼平の猶子が少弐氏の祖となった武藤資頼。

そして・・
武藤資頼、この方こそが・・
平知盛公の遺児のお一人「平 知宗」この方を庇護された方であった・・
武藤資頼と従兄弟となる「大友能直」の系である槻木氏・皆越氏。
これらの事が判明した「現在」、
『では・・皆越氏に残る「平家落人伝説」は一体・・?』などと・・
今更、そう今更考えてしまった、私は本当にバカです!!

さらに・・武藤資頼は梶原景時の娘婿。
梶原景時の孫娘さんは宮原の一族の先祖「橘公業」の妻。
つまり、武藤資頼の妻方の姪は「橘公業」の妻だった!と言う事です。

私は・・本当にバカだ・・と思いながらも・・
ブログに何度も書いたように「家の親戚は球磨を取り囲む、皆越・椎葉村・五家荘・五木に繋がる系が多いのは何故なのか?」と言う疑問・・
この疑問、そしてこの事が「何らかの鍵ではないか?」そう推測していた事が
間違ってはいなかったようだ・・
と考える事も出来ました。
悲しい事ながら『単なる根拠の無い「伝承」』と唱える方もいらっしゃる「平家落人伝説」
しかし、「落人」と呼ばれた方々を擁護する環境・人脈があれば
それは「根拠のある伝承」となりうる・・
その人脈が「鎌倉幕府の中枢」であったと判明したからには・・
尚更「根拠のある伝承」となりうる訳です!

私は、かなり以前から、球磨を取り囲む山々に残された「平家落人伝説」について
この事を「鎌倉幕府の中枢は知っていたのではないか?」
知った上で「黙認」していたのではないか?
幕府中枢が隠していたのではないか?
と言う疑問を度々、コメントの中で書かせて頂いていました。
その疑問が、「槻木氏系図」によって解き明かされてきたようです。

私に御先祖様を調べて欲しいと言って下さった「槻木さん」には
心から感謝致しております。

先日のコメントで書いた椎葉姓について
椎葉姓の由来について
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%A4%8E%E8%91%89

伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。

椎葉村は球磨を取り囲む山々の「尾根」続きで「米良」「槻木」「皆越」さらには
隣接する「五木」「五家荘」に繋がっています。

椎葉村の「平美宗や平知盛公の遺児」
この方々の確固たる「証拠」はありませんが・・
しかし同じ「平知盛公の遺児」でいらっしゃった「平 知宗」
この方は「伝承」ではなく実際に存在した、それも「太宰大監」であった方です。

「平 知宗」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E5%AE%97

平 知宗(たいら の ともむね)は平安時代末期から鎌倉時代中期の平家の落人。
平家一門の平知盛の四男。惟宗 知宗(これむね ともむね)や宗 知宗(そう ともむね)、武藤 知宗(むとう ともむね)とも名乗っている。
寿永3年(1184年)、平家の都落ちで各地を転々としている時期に誕生。
元暦2年(寿永4年/1185年)に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、
長門国斎藤兵庫を経て鎮西奉行武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。
その後、武藤資頼の養子になり、正治2年(1200年)に太宰大監に任官する。
建長7年7月5日(1255年8月8日)、大宰府北殿で死去。享年72。死去した日については異説あり、建長7年7月3日(1255年8月6日)とする説もある。
対馬の宗氏は知宗の子孫と称した。

※長門国斎藤兵庫を経て鎮西奉行武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。
※武藤資頼の養子になり、正治2年(1200年)に太宰大監に任官する。

私、考えたのですが・・
平 知宗。この方が太宰大監に任官された「後」の九州の「平家落人」の方々は
太宰大監と言う九州内における「絶大な力」によって「守られる事となった」
のではないでしょうか・・

さらに気が付きました!
平知盛公の遺児「平 知宗」。
「平 知宗」を擁護して養子とされた武藤資頼。
ウィキの記述をあらためて読むと、その記述の深い深い「意味」にようやく気が付いたのです。
★マークを付けた所に着目しました。
武藤資頼 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E8%B3%87%E9%A0%BC

武藤 資頼(むとう すけより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人・守護。
略歴
資頼は、藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となり武藤氏の名跡を継ぐ。
★初め平知盛の部将であったが、一ノ谷の戦いのおり知人の梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けられ、後に赦されて源頼朝の家人となる。
頼朝の嫡男・頼家の元服の式典において有職故実の指導をし、ついで奥州合戦に出陣し功を立て、★出羽国大泉庄の地頭に任ぜられる。この在任期間中、修験道の本拠・羽黒山領を侵し、羽黒山衆徒と抗争する。
★建久2年(1191年)には頼朝の命を受けて、平盛時と共に役人を伊勢国・志摩国二国に派遣し平家没官領を巡検させている。
★同建久年間、九州に派遣されて大宰府の少弐職に任ぜられ、猶父・頼平の甥に当たる大友能直と共に鎮西奉行に就任。
さらに、肥前国、筑前国、豊前国、壱岐国、対馬国の守護となった。
★一介の御家人の身分でありながら、本来公家の官職である大宰少弐に任ぜられたのは資頼が初めてであった。
大宰少弐職は資頼の子の資能に継承され、以降世襲となる。資能は少弐を称し、その子孫は北九州の名族の少弐氏として発展した。



槻木氏系図が「出現」した現在、何度も読んだ事のある「武藤 資頼」の記述をあらためて読んで
私は先に書いた「深い深い意味」に気が付く事が出来ました。

@武藤 資頼は元は平知盛公の部将であったが後に知人の梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けられた。
武藤 資頼と同じく、元は平知盛公の部将であったのは
宮原の一族の先祖「橘公長」「橘公忠」「橘公業」の親子。
武藤 資頼は梶原景時の娘婿であり、橘公業の妻は梶原景時の孫娘であった。

A武藤 資頼は建久年間(1190年〜1198年)に九州に派遣されて大宰府の少弐職に任ぜられ、猶父・頼平の甥に当たる大友能直と共に鎮西奉行に就任。
「平 知宗」が武藤 資頼に擁護されて養子となられた後の事です。
※一介の御家人の身分でありながら、本来公家の官職である「大宰少弐」に任ぜられたのは資頼が初めてであった。
そして、「平 知宗」は「大宰少弐」の上官である大宰府の最高権力者「太宰大監」に正治2年(1200年)に任官。15〜16歳の頃の話です。
この事から、「平 知宗」は九州で育っていらしゃった事が解ります。

私は、かなり以前、日本の苗字七千傑様より
「勝った、負けた論ではだまされる・・」と言うお言葉を頂いた事がありました。

「勝った、負けた論ではだまされる・・」
本当だ・・本当だ!・・とあらためて痛感致しました。
さらに日本の苗字七千傑様よりかなり以前頂いたお言葉を思い出しました。
「大江、大友など鎌倉幕府の中枢が養子や改姓などで、巧妙に真実を覆い隠したのでしょう。」

日本の苗字七千傑様より頂いたお言葉の数々が「槻木氏系図」の発見より
「現実のもの」として、私の目の前に現れました。

あらためて「平 知宗」この方のウィキの記述から
※長門国斎藤兵庫を経て鎮西奉行武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。
※武藤資頼の養子になり、正治2年(1200年)に太宰大監に任官する。

斉藤氏・武藤氏・・武藤資頼の甥の系である「皆越氏」「槻木氏」。
皆越には肥後では少ない姓である「斉藤氏」が代々住されていた。
その皆越一族の「皆越家」と「斉藤家」は、旧宮原村に皆越から来られて、私の住む集落の宮麓に住されています。

この事も単なる偶然ではなく
「深い深い意味」に繋がっているのではないか?

私は最近、頻繁に
日本の苗字七千傑様のサイト
《宗 氏》 姓氏類別大観をじっと見つめています・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102a1.htm

「平 知宗」この方の御兄弟・・
平知忠。この方の乳母でいらした方は「橘氏」の妻であった「西光(藤原師光)」の娘・・

「巧妙な隠ぺい」・・・
「守る為」の「隠ぺい」・・・

守られた方は「平知盛公」の遺児。
守った方は「元 平知盛公の部将」であった「武藤資頼」。

武藤氏は平河氏に繋がってきます・・

まだまだ、書きたい事は沢山ありますが
本日は休みで家事も「山積み」、外出もしますので
この続きは後日に(..)

では。
[38]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月01日 06時09分11秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
今朝も、「斉藤家」で豆ちぎりのアルバイトです(^'^)
スナップエンドウはゴールデンウィークとは関係無く(ー_ー)!!
成長を続けているのであります。・・(^'^)
最近、農作業用のグッズ?にはまっていて・・(何でも形から入ってしまう・・)
農作業で女性が被る帽子(日よけ用)も今は様々なデザインがあって
気に入ったらすぐに買ってしまいます・・(あ〜私は何故こうあるのだろう・・(..))
今回、初めて農作業に挑戦して気が付いたのですが、農作業用のグッズはめちゃくちゃ機能的なデザインです。
ただ・・
私が帽子を被ったその姿は主人曰く、「年齢の進んだ”あかちゃんまん”の実写版」だそうです。(;一_一)
「ばいきんまんゆるさないでちゅよ〜!!」
脱線致しました<m(__)m>

と・・冗談から始めたのは、今から書こうと思う事に、未だ躊躇しているからで・・
このまま、今朝は冗談を書いて、アルバイトに行こうかな・・と心が・・

でも・・やはり書く事に決めました。
続きは次のコメントに
(..)
[39]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月01日 07時11分28秒 ) パスワード

先のコメントで、「書く事に決めた」事・・

書かせて頂きます。

今から1年ほど前、求麻郷土研究会の某方から、平河氏の霊社「荒田大王神社」について
知らなかった事を伺う事が出来ました。
それは
『「荒田大王神社」のお宮を守って来られた家は代々「高田家」である』
と言うお話でした。
※補足
麻郡神社私考によると宮司は永井氏とあります。
つまり「荒田大王神社」は
宮司 永井氏
宮守 高田氏 となる訳です。
現在は、家の親戚の「尾方家」が近隣の神社様と同様に兼ねた「宮司」を務めていらっしゃいます。


その方は
「自分は高田家も平河氏の系だと推測している」
ともおっしゃっていました。

実は、数十年前にお亡くなりになられた球磨の著名な歴史研究家の「高田氏」の「高田家」は
家の親戚である「椎葉家」とは親戚関係にあります。
(椎葉家には祖母の姉が平川家から養女に入りました)
平川家から養女に入った「私の祖母の姉」の「義母」にあたる方。
つまり、椎葉家に嫁いで来られた、「椎葉のおじの祖母の実家”犬童家”」の繋がりです。
以前も書きましたが、椎葉のおじの祖母の弟の方は熊本県内の学校で使用されている「道徳の教科書」にも書かれた方で
椎葉のおじの祖母の方の甥も明治時代の熊本県内では著名な政治家でした。

椎葉家と親戚の「高田家」と「荒田大王神社」の宮守を代々務めていらっしゃる「高田家」は縁戚関係となる事も
この時、伺う事が出来まして
私は某方がおっしゃった
「自分は高田家も平河氏の系だと推測している」と言うお言葉に上記の「縁戚関係」から推測して、自分も同感だと・・考えました。

このお話を伺ってしばらく経ったある日。
平安時代において王家領であった「球磨御領」の開発を行った「平家一門」の方々のお一人「平頼盛」
鎌倉幕府成立後の球磨・人吉。人吉庄の預所は平頼盛から子息「平光盛」に続いています。
球磨・人吉に深く関わりを持たれた「平頼盛」この方について調べていた所「ある記述」に気が付きました。

御紹介致します。
「摂津名所図会」様 サイトより
安徳天皇行宮(あんとくてんのうぎょうぐう)
http://bittercup.web.fc2.com/08yatabe_ge/antokugyougu.html

勝手ながら転記をさせて頂きます。

安徳天皇行宮(あんとくてんのうぎょうぐう)荒田村にあり。
もとは池大納言頼盛(よりもり)の領地にして、山荘あり。福原遷都の時、しばらくここに幸(みゆき)あって、仮皇居としたまふ。

荒田八幡神社(あらたはちまんじんじゃ) 神戸市兵庫区荒田町3-99
当八幡神社h古くは高田神社といい、荒田村字一町田に鎮座し、熊野権現を祀っていたからその森を権現の森といったが、のちに、すぐ西にある宝地院境内にあった八幡社を神仏混淆をさけて、明治31年2月24日兵庫県知事の許可を得て、ここに合祀して荒田八幡神社となった。
この土地は池の大納言平頼盛(清盛の弟)の山荘であり、治承4年(1180)6月3日の福原遷都のとき安徳天皇の行在所となった。いわゆる今日でいう皇居であり、今の境内に行在所跡の標石が建っている。
この頼盛の別荘については、高倉天皇の「厳島御幸記」に「申の刻に福原に着かせ給う云々、あした(荒田)という頼盛の家にへ笠懸(かさかけ)、やぶさめなど仕うまつらせ、御覧せらる。日暮れ帰らせ給う。」と記しているので広い邸内であったことがわかる。
邸内は一段高く、昭和13年7月の神戸大水害の時にも附近一帯泥海のなかに島のように見えた。こうした日本歴史の一端をにない、又神戸の史蹟として重要な役割を果し、「平家ゆかりの地」として日本国民から崇敬を集めている。ところが昭和20年3月のあの神戸大空襲のため社殿を焼失してしまい仮社殿を再建し40年を経過したが、昭和60年6月、氏子・崇敬者のなみなみならぬ努力により、現在の新社殿の建立をみている。
昭和55年6月3日、神戸にとって歴史的意義のある福原遷都800年を迎え、神戸市及び郷土史家の手によって「福原遷都800年記念碑」が建設された。

本殿 祭神:応神天皇・素戔嗚尊・安徳天皇

宝地院(ほうちいん) 神戸市兵庫区荒田町3-17-1
薬王山 宝地院(浄土宗)
安徳天皇の御菩提を弔うため弘安2年(1279)に創建さる。
当寺域はもと平頼盛の山荘にして治承4年6月3日安徳天皇入御あり。
高倉上皇は雪の御所に入御ありしが、御所を替り給い、高倉上皇も6月4日より其年10月までこの山荘に居給いしなり。

★荒田八幡神社
古くは高田神社といわれていた。
★この土地は池の大納言平頼盛(清盛の弟)の山荘であり、治承4年(1180)6月3日の福原遷都のとき安徳天皇の行在所となった。いわゆる今日でいう皇居であり、今の境内に行在所跡の標石が建っている。

私は・・こちらの記述を拝見して、パソコンの前から立ち上がる事が出来ない程
驚いてしまいました。
しばらくは、動けなかった事を記憶しています・・

球磨は平頼盛を主体に平家一門の方々が開発を行っていた王家領「球磨御陵」であった・・

その球磨の「荒田」に御鎮座の「荒田大王神社」
代々の宮守は「高田家」。

★荒田八幡神社
古くは高田神社といわれていた。
★この土地は池の大納言平頼盛(清盛の弟)の山荘であり、治承4年(1180)6月3日の福原遷都のとき安徳天皇の行在所となった。いわゆる今日でいう皇居であり、今の境内に行在所跡の標石が建っている。

どう言う事なのだろう!
一体どうなっているのだろう!・・
単なる偶然か?

しかし・・球磨の荒田大王神社。「大王」と付くのは何故!?
「大王」(だいおう)は・・「大王」(おおきみ)でもある・・

何故? 一体どう言う事なのだろう・・!?

この事を知った時に、私の頭は混乱して、言葉がまとまりませんでした・・
しかし・・その後、冷静に分析をしたのですが
ただ・・その事をコメントに書こうとは「この時」は考える事が出来ませんでした。

ただ・・闇雲な考えを持つ事は避けました。
そう・・冷静に分析する事を心がけました・・

そして、私なりに考えた事があります。
その事については次回書かせて頂きます。

今からアルバイトに行って参ります。
[40]たけぽんさんからのコメント(2018年05月01日 18時22分51秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

今、丁度、人吉球磨月刊誌を読んでいた
所です(^^)

荒田大王神社の事が載ってたので
即買いでした(^^)

ミヤハラ様
またまた貴重な情報があったのですね
Σ(・ω・ノ)ノ

ところで
その荒田大王神社の件なのですが

鳥居に【詞宦・藤原重貨】?
っ彫り物があるのですが・・・

相良一族に関係する方
なんでしょうかね?(゜_゜;)
[41]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月03日 10時15分34秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

たけぽん様、お返事遅くなりまして
申し訳ございません<m(__)m>

頂いたお話
〉鳥居に【詞宦・藤原重貨】
(神社ですので”詞宦”とは”祠官”ですね(p_-))

この方について、分限帳等で調べていたらコメントまで
辿りつけずにいました<m(__)m>

まず(p_-)
鳥居の建立時期が重要だと思いますが・・
この方は”祠官”でいらっしゃるので・・
麻郡神社私考を青井神社第51代大宮司の青井惟董が元禄12年(1699)に編纂された時点の
荒田大王神社の社人は「永井氏」です。
永井氏が代々務めていらっしゃるのであれば「藤原重貨」とは永井氏となりますが・・(p_-)

ここで「重貨」・・「貨」? この文字も何だか妙ですね(?_?)
【詞宦・藤原重貨】って「某地元紙」に書かれていたのでしょうか・・(?_?)
私も買って読みたいと思います(p_-)

ちなみに・・
木上領の神社様、社人は殆どが「永井氏」です(p_-)
むむむ〜っ(p_-)

ただ、荒田大王神社と同じく木上領に御鎮座の「平川大王神社」の社人は「尾形氏(尾方氏)」です。

”祠官 藤原重某”
永井氏の可能性が高いのではありませんか?
たけぽん様 貴重な情報ありがとうございました<m(__)m>

所で・・(p_-)
麻郡神社私考では「荒田大王神社」の草創について
藤原頼親公御願ニ依テ草創 一曰 藤原頼俊公之時草創
とあります。
藤原頼親とは相良長頼の長男 相良氏の第2代当主「相良頼親」
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%A0%BC%E8%A6%AA
生誕 建久8年(1197年)
死没 文永元年5月22日(1264年6月17日)
藤原頼俊とは相良長頼の三男相良氏の第3代当主「相良頼俊」
ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%A0%BC%E4%BF%8A
死没 不詳、一説に延慶4年1月25日(1311年2月14日)

荒田大王神社の草創に関わりがあられるお二人の年代が解りますね(p_-)

たけぽん様、皆様 !!
このお二人をたけぽん様からのコメントで調べたら・・
私、気が付いてしまいました\(゜ロ\)(/ロ゜)/

相良長頼嫡男 相良氏の第2代当主「相良頼親」
名前に・・「親」が付かれる(p_-)

「親」の文字と言えば・・・!
「中原親能」
「大友能直」を養子に迎えた「中原親能」です!
あれれれれ〜っ!!

相良長頼。この方を初めとする初期の「相良氏」の母系、つまり「母方」の記述は
系図等には全く記されていません。
だから、姻戚関係等が見えてこないのですが・・
しかし! 「槻木氏系図」が登場したからには!
相良氏と「中原親能」の間に姻戚関係があったのでは?と想像しても
それは、全く不思議ではない!と言う事になりますね(p_-)

お〜ほっほっほっお〜(-.-) (あっ!妙な笑い声が出てしまいました)

そうか(p_-)そう言う事か(p_-)

これも、全てたけぽん様のお陰です!
私、気が付きました。本当にありがとうございます(^◇^)

あらためて、日本の苗字七千傑様のサイトから
《相良氏》姓氏類別大観をじっと見つめていたのですが・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022b1.htm#005

やはり、初期の方々の母系(妻方)はかなり見えてくるような気がします。
姓でみると
相良頼景。この方の弟にあたる「頼尭」。『伊藤氏』
伊藤氏といえば・・私の住む集落にお来こしになられた「景清姫」
景清姫の父君は「平景清」こと「伊藤景清(藤原景清)
相良頼景の弟、「頼尭」(伊藤氏)
この伊藤氏を私は「伊東氏」かな?と勝手に推測していたのですが・・
もし、違っていたら・・藤原景清「伊藤景清」この方の系である「伊藤氏」であったならば・・
宮原村切畑地区の伝承と関係してまいります!!

さらに「相良氏」と「佐原氏」との姻戚関係も『まる見え』です!!

さらにさらに・・犬童氏! 何だか怪しいです\(゜ロ\)(/ロ゜)/
犬童頼員・犬童頼元
「員」・「元」・・・・あああああ〜っ\(◎o◎)/!

「中原親能」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E8%83%BD

父母 父:中原広季(藤原光能?)
兄弟 親能、大江広元、章弘
子 季時
養子:大友能直、師員

あああああ〜っ\(◎o◎)/! 怪しいぞぉ〜!!!!

相良氏
「相良頼親」・「犬童頼員」・「犬童頼元」

お〜ほっほっほっお〜(-.-) (あっ!又、妙な笑い声が出てしまいました)
ちなみに「員」の文字と言えば・・
宮原の一族の先祖「橘公員」
「中原 師員」・「犬童 頼員」・「橘 公員」

お〜ほっほっほっお〜(-.-) 何かありそうです(-.-)

そして、さらにさらにさらにぃ〜!!
気が付きました\(゜ロ\)(/ロ゜)/ !!!!

上相良氏(多良木氏)です!!
相良頼氏(多良木頼氏)の子息のお名前はぁ・・・!!!
「相良頼宗(多良木頼宗)」
あああっ!!
「宗」の文字です!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

み〜つけた!!!
「宗」の文字が・・!!

そうか・・そう言う事か!!
おそらく(p_-) 相良氏は平家落人伝説に繋がっているようです!!!!!

ちなみに、
相良頼宗の弟「相良頼吉」この方が窪田氏(久保田氏)の祖、相良頼吉(窪田頼吉)
私のDNAに繋がっています!

「槻木氏系図」のお陰で、本当に色々見えて参りました!

槻木氏系図と言えば・・「田原氏」
私、こちらのスレッドで、かなり早くに「田原氏」と自分の住む「旧岡原村」との関係を書いていたのです
\(◎o◎)/!

田原氏が登場した時にすぐに気が付くべきでした((+_+))
私は、やはりおっちょこちょいだ(@_@。

平川家について10-1で地元の皆越氏と田原氏について書いていたのです!
コメント12です。
http://hikoshima.com/bbs/heike/101345.html

『岡本地区の永岡にある庚申塔には
赤川・城音寺・窪田・皆越・岩坂・有馬・奈良木・権藤・田原・西・平・ の姓があります。
平は 平左衛門とありました。』

と書いていました!
そうです!岡本の永岡地区の庚申塔に「皆越氏」も「田原氏」も
名前を残されていたのです!

宝永二年(1655年)建立の庚申塔には
皆越七郎右衛門 と皆越氏の名前が残り

文化十年(1813年)建立の庚申塔には
田原忠助 と田原氏の名前が残っています。
しかし・・皆越氏の名はありません・・
つまり!復姓された可能性があるのかな?・・(p_-)と・・

相良藩士分限帳の江戸末期の補足資料の中には岡本村の田原氏の名が記されています。
でっ!思いだしたのですが・・私の同級生の田原君、名前に「泰」の文字が付いていました・・

分限帳で田原姓が確認出来るのは「岡本村」のみです(p_-)

さらにスルーしてしまっていました(@_@。
田原忠助と言う方のお隣に刻まれていた方のお名前は「平左衛門」

やっと気が付いて、頭の中にあった疑問が解けました。
それは・・
岡本村には「厳島神社」が御鎮座であったからです!

麻郡神社私考より
福神明神 岡本福本山
社人 尾形忠七

藝州厳島神社同體 草創年紀未考
社家傳云延徳三年辛亥再興
天文十八年巳酉 地頭相良相模守藤原頼春修造
寛永十二年乙亥 拝殿蔵替

地頭相良相模守藤原頼春とは
岡本城主「岡本 頼春」この方です。 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E9%A0%BC%E6%98%A5

岡本 頼春(おかもと よりはる、永正7年(1510年)[ - 天文19年4月14日(1550年4月30日))は、戦国時代の肥後国相良氏の武将。官位は相模守。父は上村長国。子は東頼兼、東藤左衛門、娘(詳細不明)。

上村長国の子として生まれるも、岡本の地頭に任じられたことから岡本姓を名乗った。妹婿は相良氏17代晴広の実父上村頼興であるが、この頼興が頼春の暗殺を企てる。頼興は相談ありとして、自らの城である上村城へ頼春に来訪するよう求めるが、頼春臣下の上田杢之丞は頼興の芳しくない評判を語った上、昨晩は夢見が悪く、また本日が返報日であるからと頼春に行かないよう諌めた。しかし頼春は、返報日であるならば頼興が自分を害せば上村の家の命運も長くは続くまいとして、天文19年(1550年)4月14日[2]に上村城へと上がったが、頼興の命により玄関口に潜んでいた峯山讃岐と栗幡六郎左衛門の両名により殺害された。享年41。法名は「雲庭清栄」。
頼春死後の弘治2年(1556年)、相良氏18代義陽は頼春を弔うべく、岡本の大吹山に社壇を立て正八幡として崇めた。また、頼春には男子二人と女子一人があったが、頼春殺害時は全員が幼少であったことからその命は助けられた。長男の頼兼は相良氏に仕え朴河内城主を経て岡本地頭になり、次男の藤左衛門も相良氏に仕えたが、永禄10年(1567年)の大口城での戦いで討ち死にしている。
===================================================

上記に記されている「正八幡社」の御神紋が「丸に違い矢」です。

福神明神 岡本福本山
藝州厳島神社同體
天文十八年巳酉 地頭相良相模守藤原頼春修造
岡本頼春公の霊社「正八幡社」御神紋は「丸に違い矢」

岡本村の庚申塔には
皆越七郎右衛門 田原忠助 平左衛門 と言う方々の名前が残っている・・

こうなります。
ちなみに「福神明神」御鎮座であった「地」は
私の家から川を挟んで300mくらいの場所でした・・

おっちょこちょいの私ですが
反省しながら、あらためて調べた事をまとめて書きました。

でも・・ようやく「ネットワーク」がしっかりと見えてきました。
本当に嬉しいです(^'^)

先日のコメントの続きは・・
今から外出しますので・・後日書かせて頂きます。
[42]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月05日 07時03分18秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

先日、のコメント39の続きを書かせて頂きます。
かなり長くなりますが御了承下さい。

球磨は平頼盛を主体に平家一門の方々が開発を行っていた王家領「球磨御陵」であった。
球磨の「荒田」に御鎮座の「荒田大王神社」
代々の宮守は「高田家」。
摂津国の『荒田八幡神社』
古くは高田神社といわれていた。
★この土地は池の大納言平頼盛(清盛の弟)の山荘であり、治承4年(1180)6月3日の福原遷都のとき安徳天皇の行在所となった。
いわゆる今日でいう皇居であり、今の境内に行在所跡の標石が建っている。

先日書かせて頂いたように、上記の事を
闇雲な考えを持つ事は避け、冷静に分析する事を心がけ
私なりに考えた事を書かせて頂きます。

私が調査を始めたばかりの頃から何度か書いていたように
祖母の実家の「平川家」には、代々「長男しか見てはいけない」と言われた
「絵巻物」がありました。
描かれていた内容は、
『祖母の実家の平川家の御先祖様の家に、小さな男の子が沢山の従者の方々と共に来られた時の絵(美しい着物を着た女性も描かれていました)』
と、祖母の実家には伝わっていました。

私は、祖母の実家の平川家の御先祖様の家に来られた、この「絵巻物に描かれた男の子」とは「”どなた”なのだろう?」と
ずっと考え続けていました。

しかし、先にも書いた
※球磨の荒田大王神社(宮守は代々高田家)
※摂津国の『荒田八幡神社』
古くは高田神社といわれていた。
★この土地は池の大納言平頼盛(清盛の弟)の山荘であり、治承4年(1180)6月3日の福原遷都のとき安徳天皇の行在所となった。
この事を知った時に、私は
祖母の実家に伝わった「絵巻物」の内容とは
安徳天皇様が平頼盛の山荘にお出でになられた時の模様が描かれていたのではないか!?
そう考えたのです。

祖母の実家に伝わった『平川家の御先祖様の家」とは「平頼盛の山荘」の事では
なかったのか?と。

「平川氏」は平頼盛とは無関係ではありません。
平頼盛の子息「平光盛」。
平光盛の子息「八木盛定」と「平川景家」。この方々は薩摩に来られていらっしゃいます。

つまり、「平川景家」の祖父『池の大納言平頼盛』の山荘が、
治承4年(1180)6月3日の福原遷都のとき安徳天皇の行在所となった。
と言う事になります。

祖母の実家の「平川家」に伝わる「絵巻物」の伝承
『祖母の実家の平川家の御先祖様の家に、小さな男の子が沢山の従者の方々と共に来られた』
と一致します。
『小さな男の子』とは・・恐れ多い事ですが『安徳天皇様』ではなかったのか?

私は、以前より、平安時代の球磨の「良峯氏」を後世「複数の系」が平河氏として
継いだのではないか?と考えてきました。
この考えは、こちらのスレッドでも何度も書かせて頂いています。
そうすると、祖母の実家の「平川家」の先祖は、「平頼盛」に繋がる、もしくは
”非常に近い”関係にあったのではないか?
私は、そう推測したのです。
その「平川家」を、椎葉村に何処から来られ、大河内矢立で地主神としてお祀りされている方の末裔「矢立氏」から高祖父が養子に入って継いだ・・と。

実は、祖母の実家の現在の当主である「平川のおじさん」(祖母の兄の長男)は
今は私の住む集落ではなく、所有されていた「土地」
旧「原田村」、現在の人吉市内に住んでいます。
私の住む集落内には、おじさんの長男(私のふた従兄)が住んでいて
平川のふた従兄も「家は平家の末裔だった」とは理解されていました。
おじのもとに、数十年前、「ある方」が訪ねて来られて
「代々”刀”が伝わっていたはずだ」と聞かれたそうですが
その「刀」を祖母の兄が戦時中「朝鮮半島で某方に渡して今は残っていない」という事をおじが話したら
「その刀は、国宝級の刀であったのに」と「その方」が非常に残念がっていらしたという話は、以前にもコメントに書いていました。
さらに、その「ある方」が祖母の実家の平川家の先祖について話をしている途中で
おじが「恐ろしくなるので、それ以上話さないで下さい」と聞くのを止めた
と言う事も書いています。
実は私は、以前、おじに電話をして「先祖」について聞こうとした事があったのですが
私が歴史研究会に入っている事を話すと、おじからは、先祖についてあまり語りたくないという雰囲気が伝わってきて
私はそれ以上、言えなくなった事がありました。(初めて書きました)

私は考えたのですが、伝承とは時に変わっていくものです。
祖母の実家に伝わる「もう一つの伝承」
「絵巻物の男の子が御先祖様である」この話は、700年以上も伝承をたった一人、”長男のみ”が聞いて伝えていくうちに
いつしか、「平川家の御先祖様のお家」の話が「男の子」の話へと
変わってしまったのではないか?そう考えています。
だから、以前、コメントに「その考え」を少しだけ書いていたのです・・
(お気づきであった方もいらっしゃるかもしれません)

何故?ここまで書いてきた「内容」を、気が付いていたのに、今まで一切書かなかったのか。
それは、球磨や球磨を取り囲む山々の地域に伝わる「平家落人伝説」
さらには、平安時代の王家領「球磨御陵」を開発された「平家一門」の方々について
伝承等はあっても「実証」する「証拠」が見つかっていなかったからでした。
頭の中では、沢山の「点」が見えていても、それを「実証」する「証拠」が
見つかっていなかったからでした・・

しかし、突然わたしの目の前に「登場」した「槻木氏系図」によって
事態は一変しました。
ようやく「実証」する「証拠」が見つかったのです。

そして、私はやっと「今まで頭の中にあった事」を書く事が出来るようになりました。
何度も何度も「次回書かせて頂きます」と書いていながら、書けなかった(躊躇してしまった)事を
書く事が出来るようになりました。

槻木氏系図により、判明した事。
それは、一例として
大友能直さらには
養父:中原親能
叔父:大江広元

平頼盛、子息「平光盛」この方を結ぶ「人物」について等
様々な、私の頭の中にあった「点」と「線」の解明でした。
実は数年前に調べていた事が全て繋がっていました。

さらに、現在まで続く「家の一族の親戚関係」についても
自分なりに理解する事が出来ました。
一例をあげると
親戚の「久我家」との関係等です。
現在、調べた所、熊本県内全体でわずか29軒しかない「久我家」
その29軒の内、8軒は家の親戚や親しくさせて頂いている「縁家」です。
どうして「久我家」と家は繋がりが深いのか?
その事も、ようやく見えて参りました。
この事も、以前から調べていた「点」の一つであり、「線」が私なりに理解出来たと言う事です。

詳しくは、後ほど書かせて頂きます。
今日はアルバイトはお休みです。
しばし、休憩後、家事の後で(..)
父が言うのです「家の事をちゃんとしないで何が先祖調査だ!そんな事では御先祖様はお喜びにはなられない!」
と。
しっかり、家の事を済ませた後、
続きを書かせて頂きます。
[43]たけぽんさんからのコメント(2018年05月05日 14時10分48秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
お返事遅くなりすいません(..)

某地元紙に、バッチリ写ってました
( ̄▽ ̄)ゞ♪

うちも、貨?で調べたのですが
何処にも出てこずΣ(ノд<)

ミヤハラ様なら、何かご存じでは?
と、思い書き込みしてみた
のですが・・・(..)

よこやり、すいませんでしたm(_ _)m
[44]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月05日 16時16分23秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

たけぽん様
某地元紙、私も買ってみます(^◇^)
「貨」の文字・・
ううん・・何かなぁ・・妙に気になりますね(p_-)
南藤蔓綿録や求麻外史、歴代嗣濁集覧等、私が所有する書籍に何か記載が
あるかもしれません(p_-)
私は”祠官”でいらっしゃる事からおそらく「永井氏」では?と考えています。

よこやり、だなんてとんでもありません(ー_ー)!!
たけぽん様、私が書く事を他人事なんて考えてはいけませんよ(ー_ー)!!

家の親戚の「久我家」とコレマタ家の親戚の「林田家」は親戚関係にあります。
たけぽん様の御親戚も「林田家」

さらに(p_-)
たけぽん様のお母様の従姉でいらっしゃる「和●おばさん」(須恵平川家の娘さん)
嫁ぎ先は広●家。
御主人の●●おじさんのお母さんは宮司家尾方家の娘さんです。
「椎葉のおじとおば」は●●おじさんとは従弟同士です(p_-)
和●おばさんと●●おじさんの間を取り持ったのは宮司家尾方家の清●おじさん。
椎葉のおばさんのお兄さんです。椎葉のおじの従兄でもあります。
この椎葉家を継いだのは岡原平川家から養女に入った祖母の姉。

さらにさらに(p_-)
上記の宮司家尾方家の清●おじさんと、椎葉のおばさんの従兄弟は岡原平川家の
先のコメントに書いた現在人吉に住む「平川のおじ」です。
母方が姉妹となります(中村家の娘)
もちろん、椎葉のおじと「平川のおじ」は従兄弟。

そして(p_-) この二人と従弟であるのは、宮原家の私の父。
宮司家尾方家と家の宮原家は父が子供の頃から親戚関係が続いています。

この親戚の宮司家尾方家は十五代遡る御先祖様の名前は緒方太郎右衛門(元禄十二年)
代々「惟」の文字と「清」の文字を通字とされています。

たけぽん様、こちらをご覧ください。
日本の苗字七千傑様 サイト【桓武平氏清盛流】 より
《重盛流》姓氏類別大観 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102.htm#001

平重盛 ⇒ 清経 ⇒ 清国(緒方)

こちらの緒方家は五家荘の緒方家です。

私は親戚の宮司家尾方家の初代「緒方太郎右衛門」と言う方は、通字「清」「惟」から
判断して、平重盛流「緒方家」である
と考えています。

たけぽん様、お解り頂けましたでしょうか(p_-)
私達はこのネットワーク、それも非常に近いネットワークの一員なのです。

さらにさらにさらに(p_-)
平河氏系図にある「蓑毛家」(平河氏から養子に入られて継ぐ。後に子息を一人置いてこの方は平河家に戻り家を継ぐ)
こちらの「蓑毛家」は家の宮原家とは親戚です(p_-)
曾祖父の養女に入られた方の夫は上記の蓑毛家の方(p_-)
二人の間に産まれた長女も、同じく宮原家に養女に入り、嫁ぎ先は
本姓大神氏の「星原家」

ううん(p_-) 見事なネットワークです(p_-)

つまり
須恵平川家・岡原平川家・宮司家尾方家・椎葉家・蓑毛家・うちの宮原家は
ものすご〜い近い「ネットワーク」で結ばれているのです。

たけぽん様、あらためて(p_-)
お解り頂けましたでしょうか?(p_-)

よこやりではないのです(ー_ー)!!
私は、「私達二人の御先祖様」について私は調べているのでありま〜す!!

平家落人伝説に関わりがあるのは
家の方だけではなく、たけぽん様も「そうなのだ!」と言う事を
あらためて、お伝えいたしました。

しかし・・
にゃんとまあ〜 違った(ー_ー)!!
何とまあ〜見事なネットワークではあ〜りませんかぁ〜
( ^^) _旦~~  ふぅ〜

おっと!(;一_一)
のんびりしてはおれません(ー_ー)!!

真実に近づいているようですよぉ〜
御先祖様の隠ぺい工作には、騙されないぞぉ〜!!
マテマテぇ〜御先祖さまぁ〜

私は追いかける為に、次のコメントの文章を考えている所です(p_-)

たけぽん様 お待ち下さいね(^◇^)
[45]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月05日 17時08分57秒 ) パスワード

追記(..)

『須恵平川家・岡原平川家・宮司家尾方家・椎葉家・蓑毛家・うちの宮原家は
ものすご〜い近い「ネットワーク」で結ばれているのです。』

まだまだ書き足りていません(ー_ー)!!

林田家と久我家の親戚はもう一軒!
私の曾祖父の実家の久保田家でした!!

そして、この久保田家から多良木の平川家に養子が入り平川家を継いでいる(p_-)
そしてさらに、久保田家が養子に入った多良木平川家と「林田家」・「久我家」は、コレマタ姻戚関係をさらに結んでいます(p_-)

と言う事は・・
上相良氏、久保田氏もこのネットワークの一員だぁ〜!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/

さらに、家の方の親戚は椎葉家に犬童家から嫁いで来られていて・・
さらにさらに、平川の曾祖父の弟の娘さん(つまり祖母の従妹)は
犬童家に嫁いでいます!
平河氏系図では、平河氏が犬童姓を名乗っていらっしゃる事が明確。

それと・・もう一つ、めちゃくちゃ大事な事を忘れていました。
一昨日のコメントに書いた「相良頼宗」。
一昨日のコメントでは・・
「相良頼宗(多良木頼宗)」
あああっ!!
「宗」の文字です!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

み〜つけた!!!
「宗」の文字が・・!!

などと書いていましたが・・
この御方・・曾祖母の御先祖様でした!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

サイト 「菊池家」様より相良氏族「新堀氏」には
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/kikuti.html

新堀頼政頼重子頼益孫頼宗曾孫頼兼玄孫相良頼景耳孫
頼良
頼代
頼里相良四郎?
頼光
頼門
頼秀
頼重
頼光

とあり(p_-)
私の曾祖母の実家「新堀家」の御先祖様は
新堀頼政頼重子・頼益孫・頼宗曾孫・頼兼玄孫・相良頼景耳孫
つまり(p_-)相良頼宗、この方は・・
新堀家の御先祖様でもありました\(゜ロ\)(/ロ゜)/

あああっ(;一_一)
み〜つけたぁ〜とか・・書いてしまいました・・(@_@。 トホホ
曾ばあちゃん(曾祖母)の御先祖様、ごめんなさい(@_@。

そう言えば・・新堀氏は皆越集落の庄屋さんでもありましたよ(p_-)
怪しいな(p_-)

話しを戻して(p_-)
平河氏系図には「黒木氏」との姻戚関係も記されていて・・
私の曾祖父の弟は「黒木氏」に養子に入り継いでいるのですが・・
実は(p_-)
椎葉村矢立集落に住する方々の姓は「椎葉氏」と「黒木氏」なのです・・
むむむっ(p_-) 怪しい・・

つまり
見事なネットワークとは
『須恵平川家・岡原平川家・宮司家尾方家(初代緒方)・椎葉村繋がり(椎葉家・黒木家)・蓑毛家・犬童家・うちの宮原家
多良木平川家・林田家・久我家・そして上相良氏「久保田家」・上相良氏「新堀家」』
となりま〜す!

このネットワークが持続されたのも、全て「相良御法度」のお陰<m(__)m>
相良の御殿様が認める姻戚関係しか、藩内では許されなかったお陰でございます。

御先祖様の隠ぺい工作には、騙されないぞぉ〜!!
マテマテぇ〜御先祖さまぁ〜

私は追いかける為に、次のコメントの文章を考えている所です(p_-)

がっしかし・・
本日は、先程主人が仕事から帰って参りましたので・・
買い物を兼ねて「おデート」に出かけて参ります(*^_^*)

たけぽん様、皆様
この続きは 明日書かせて頂きます<m(__)m>
では(^'^)
[46]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月09日 18時02分44秒 ) パスワード

皆様、今日は。

コメント45の続きの前に(..)

実は、今月2日。
父の幼なじみで大親友の服部さんが岡原に帰省されて、父の親友の方々が集まって
懇親会が開かれました。
服部さんは、旧姓「吉●」さんで、三重県四日市市の服部家に
婿養子に入られたそうです。
服部さんを囲む会の中で、縁もたけなわ、焼酎もかなり進んだ所で・・
何故か?皆さん御先祖様の話となり・・
コレマタ、父の大親友である「橋本」さんから、突然父に
「家(橋本家)の先祖と母方の柳瀬(簗瀬)家の先祖を娘さんに調べてもらいたい」
との以来があったそうです。
でっ!父は「よかよぉ〜(^◇^)娘に言っておく〜」と・・なったそうで・・
何でそう言う話になったのかよ〜く聞くと((+_+))
「お前が郷土の歴史研究会に入っている事を言ったのと・・
 お前が球磨の歴史の猛じゃにナットルと話したからぁ〜ヒクッ」と父・・

翌日、忘れているかな(;一_一)・・と思った所・・
「早速調べろ!」と父・・

「お父さんも非常に興味がある!」と・・

理由は・・
父と橋本さんと服部さんは大親友で、子供の頃からお互いの家を行ききする間柄で・・
橋本家は旧岡本村の麓にあります。
ただ・・橋本家との御縁は父に始まる事では無く(ー_ー)!!
実は、私の祖父と橋本さんのお父様も大親友で幼なじみ。
橋本さんのお父様は、私の祖父が亡くなった後も、残された宮原家の祖母や父や叔父を大変気にかけて下さっていました。
この事は、私も「ある書類」を見て良く存じていました。
さらに、橋本さんのお母様の御実家の「柳瀬家」とは・・
家の親戚の「柳瀬家」で、相良清兵衛(犬童頼兄)居館跡に代々住するあの「柳瀬家」です。
この柳瀬家には、私の曾祖母(新堀家の娘)の弟が継いだ「久保本家」からも
曾祖母(新堀家の娘)の弟の孫が嫁いでおられて・・何重もの姻戚関係があります・・

だから父も
「●●ちゃん(橋本さん)が知りたいと言うのだから、お前、ちゃんと調べなさい!」
「家の宮原家とも何か固い絆がありそうだ!」
と私に言うのでありました。

そこで・・今朝、少し調べてみたのですが・・

ぎゃお〜!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/ と、いつもの如く
叫び声をあげる程、驚く情報が登場致しました。

ので(p_-)
書かせて頂きます<m(__)m>
(橋本さんには後日、もっと調べた上でちゃんとした文章で御報告を致します(..))

まず、
@「柳瀬家」について
分限帳で調べた所、柳瀬氏は「簗瀬氏」から「柳瀬」へ変わっていた事が
解りました。

現在の相良村柳瀬を本拠地とした方々なのですが・・
私は・・鹿児島に御縁のある方々ではないのかな?・・・?
と考えていました。
理由は・・
以前、平川家について13 コメント2から書いていた「肥後国簗瀬宮」のお話が
ずっと頭に残っていたからです・・
そこで、「肥後国簗瀬宮」に関連して当時調べた事を今朝あらためて
読み返してみたのです。

平川家について13 コメント2以降です(..)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101585.html

本日は、あらためて読み返して非常に気になる所をさらに検証致しました。

PDF 鹿児島市史 第三編 中世編 第一章 鎌倉時代の鹿児島 より
http://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/documents/2012510154859.pdf

当時の薩摩地方の郡司他の勢力が理解できる内容 抜粋します。
129ページより
建久図田帳建久八年(一一九七)六月注進の薩摩国図田帳によれば
「鹿児島郡三百二十二町内島津同御庄寄郡、寺領三十七町五段安楽寺下司僧安静、社領八十町 正八幡宮領、府領社七町五段下司前内舎人康友、公領百九十七町郡司前内舎人康友地頭右衛門兵衛尉 但し本宮(郡司平忠純)」
とある。この中、安楽寺領とあるのは具体的には薩摩国分寺領であり、正八幡宮領とは大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)領荒田庄で地頭は掃部頭、 すなわち源頼朝の信任をえた斎院次官中原親能である。
正八幡宮領は大隅国において一二七〇町余を数えたが、薩摩国においても荒田庄を含め二二五町余を数える。正八幡宮領には一円領と正税官物は国衙に弁済し、公事は正八幡宮に納入する応輸田すなわち半不輸領とがあるが、荒田庄は一円領で両者共正八幡宮の収納である。現在の荒田八幡社付近一帯がその庄域であったと推定される。
中原親能の有する荒田庄地頭職はその後正八幡宮寺の愁訴によって廃されたが、また山北六郎種頼が補任され、元久元年(一二〇四)に至ってさらに正八幡宮寺の訴えによって大隅国帖佐郷地頭肥後房良西、万得名地頭馬部入道浄賢ら共々その職を止められている。
以後鎌倉時代を通じて荒田庄には地頭はおかれなかったのであろう。府領社とは大宰府所管の神社で薩摩国内に中島宮、新田宮、開聞宮、伊佐知佐の四社とここ鹿児島郡郡本社で府領五社とよばれる。郡本社は現在の郡元一宮神社であろう。

★この中、安楽寺領とあるのは具体的には薩摩国分寺領であり、正八幡宮領とは大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)領荒田庄で地頭は掃部頭、 すなわち源頼朝の信任をえた斎院次官中原親能である。
(p_-) ここで
「皆越氏・槻木氏系図」により、皆越氏・槻木氏は「斎院次官中原親能」の後裔
である事が現在判明致しました。
さらに安楽寺領・・
★府領社とは大宰府所管の神社
大宰府と言えば・・
平家一門の平知盛の四男「平 知宗」。
「平 知宗」この方は
※長門国斎藤兵庫を経て鎮西奉行武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。
※武藤資頼の養子になり、正治2年(1200年)に太宰大監に任官する。

つまり!
正八幡宮領とは大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)領荒田庄で地頭は中原親能。
府領・・当時の大宰府の最高権力者「太宰大監」は「平 知宗」。
となります。
さらに・・荒田庄
球磨の平河氏の所領地は球磨郡の荒田庄・・
絶対に何かある!
と考えながら・・さらに「梁瀬」の地名に由来する内容を(p_-)

矢上氏についてはその後、比志島文書所収、弘安九年(一二八六)閏十二月二十八日の関東式目案に付属した勲功賞受領者交名并所領注文に鹿児島郡司職矢上孫三郎泰継の名がみえる。すなわち河辺次郎には肥後国簗瀬宮・矢上孫三郎泰継跡が与えられ、次に同勲功賞として臼木七郎兵衛尉氏家子息をはじめ、米生又三郎種盛子息、田尻次郎種宗子息、同三郎子息、同四郎種継跡、米生九郎種有子息、矢俣兵衛尉跡信成子息野中左衛門三郎宗通法師、香西又太郎定慶跡等計九名にそれぞれ「薩摩国鹿児島郡司職内十分一矢上孫三郎跡」を分与しているのである。簗瀬宮・職については明らかでないが、鹿児島郡司職については九名に十分一あての配分となっている。

そう言えば・・球磨郡内に残された文書には・・
一、為宗人々
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡 
とは・・
※一、為宗人々 (武藤景資及び与党人の没収地)
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡(少弐資能跡)
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡(平姓鹿児島郡司の一族)
でした!!
肥後国相良領 少卿入道殿跡(少弐資能跡)
少弐資能とは・・武藤資頼の子息です!!!!!!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
繋がった!!繋がりました!!
つまり!肥後国簗瀬宮は武藤資頼の子息「少弐資能」の所領地であった!!
さらに!!
嶋津大隅大炊助長久法師
そう言えば・・「平 知宗」の妻は島津氏の娘様でしたねぇ・・(p_-)

簗瀬氏(柳瀬氏)・・きっと何かある!!
私はそう確信して、さらに調べました(p_-)

そして・・ついに
ビックリしてテーブルの下で足をバ〜ン!と打ってしまうような
衝撃の画面を目撃したのです・・

皆様! 日本の苗字七千傑様 サイトより
【酒井氏】(酒井勝裔)姓氏類別大観 ご覧ください!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/04/04006.htm

豊前の酒井勝の後裔にして、兼雄の孫奉直に男子が無く藤原親能の異母兄友親が女婿となり嗣ぐ。
歴代、大隅正八幡宮祠官修理所検校職を世襲、為助の時桑原郡隈元城に移り隈本を称する。

★兼雄の孫奉直に男子が無く藤原親能の異母兄友親
すなわち「中原親能の異母兄友親」と言う方が女婿となり酒井氏を継ぎ
歴代、大隅正八幡宮祠官修理所検校職を世襲!
後裔に「簗瀬氏」!!

すごい!!今まで調べてきた事が全部繋がった・・
今朝、テーブルで打った足には青〜いアザが薄っすらと残っています。
衝撃の強さを物語る・・((+_+))

むむっ(p_-)
じゃあ何故?家の宮原家や祖母の実家の平川家や曾祖母の弟が継いだ久保本家は「簗瀬家(柳瀬家)」と親戚なのかなぁ〜?
さらに、橋本家との関係は??

橋本家には簗瀬家(柳瀬家)から、おじさんのお母様が嫁いで来られている・・

と・・ここで、さらに橋本家について調べたのです(p_-)

すると・・コレマタさらに驚いて、お尻(尾てい骨)を強打してしまう
画面と遭遇してしまいました!

橋本氏を日本の苗字七千傑様のサイトで検索していた所・・
その衝撃の画面が私の目の前に広がったのです。

皆様、ご覧ください(..)
日本の苗字七千傑様のサイトより 西園寺公経 後裔
《今出川家/橋本家》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02010c.htm

最初に目に飛び込んできたのは!
楓紋でした!!

かっカエデ!!楓紋だぁ〜!!
と私はお尻を強打したのであります・・
こちらの楓紋に剣を付けたのが
家の親戚一族に多い、「楓の紋」です!!
家の親戚一族とは・・曾祖母(新堀家の娘)の弟が継いだ「深松家」。
深松家一族は「楓の紋」の他に「丸に三つ柏紋」と「梶の葉紋」を使用されています。

家の親戚が使用する楓の紋がこちら
画像
https://ameblo.jp/hirom0211/image-12317704907-14021398743.html

私、ブログでこの楓紋の謎を調べていました!
「楓紋」を今まで調べて解った事は
★他の紋と比較するとその普及度は相当に低いようである・・と言われている事でした。

ブログは2回に渡って書いていました。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12317196195.html

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12317704907.html

この時、調べて解った事
【主な使用家】を書き出します。
球磨郡久米郷宮原村に関わりが見える「家」には※を付けました。

【主な使用家】
@※公家の今出川氏
西園寺公経の後裔。西園寺公経と宮原の一族の先祖「橘公業」は伊予宇和郡と球磨郡久米郷(宮原村も含む)を替地した。

A※伊予の西園寺氏を支えた穂積氏流の土居氏が「一つ楓紋」
伊予の西園寺氏・・・
橘公業の本領地であり替地となった伊予宇和郡に入った西園寺公経の後裔

B※日下部(くさかべ)氏流の八木氏が使用
★西園寺公経の曾祖父である平頼盛。この方の子息「平光盛(八木光盛)」は八木氏を名乗り、さらに「平光盛(八木光盛)」は人吉庄の預所でもあった。
★「平光盛(八木光盛)」の子息が「平川景家」。

球磨郡久米郷宮原村に関わりが見える「家」には※を付けました。
と書きましたが・・
なんじゃあ〜!!(はしたない言葉が・・思わず・・)
全て・・球磨郡久米郷宮原村に関わりが見えるんじゃああ〜りませんか!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/

簗瀬氏を調べたら「中原親能」に繋がって・・
橋本氏を調べたら・・「楓の紋」が登場し・・西園寺公経に繋がる・・

結局、こうなる訳ですね・・

そう言えば・・今年のお正月
橋本さんのお父様から、叔父(父の弟)が聞いていた話を
叔父が私に教えてくれていました。

橋本さんのお父様と私の祖父が子供の頃のお話です。

祖父と遊ぼうと、橋本さんのお父様が家の宮原家に誘いに行くと(橋本家は旧岡本村です)
祖父は食事中で・・
橋本さんのお父様は、家の執事の方に「坊ちゃまの食事が終わられるまで待っていて下さい」と言われて

橋本さんのお父様が少し離れた所から見ていたその「食事」の様子は・・
曾祖父と曾祖母が上座に並んで座り
下座には、祖父と家の養女であった公江(きみえ)おばさんが並んで座り・・
皆の前にはお膳が其々並び
祖父が早く遊びたいと、ソワソワすると・・
曾祖父が「石蔵!食事中よそ見をするのはやめなさい!!はしたない!」
(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
と叱られていたそうで・・
橋本さんのお父様は、曾祖父がめちゃくちゃ怖く・・
この出来事以降、私のひいじいちゃん(曾祖父)は
「めちゃくちゃやかましい!(厳しい)じいちゃんだった!」との
伝説が残った・・
と言うお話でした・・((+_+))
(私の食事風景を天国から見ている曾祖父は・・トホホ〜!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
と嘆いている事でしょう・・(@_@。)

だけど・・橋本家の息子さんが遊びに来る事を、曾祖父は歓迎していたそうです。

今回、父の親友の橋本さんから、橋本家と簗瀬家(柳瀬家)を調べて欲しいと
依頼を受けて
初めて、本格的に橋本家と簗瀬家(柳瀬家)を調べたのですが
まさか、このような結果に繋がるとは夢にも思いませんでした。

しかし、
私は最近「あせらなくても遭遇する」と書いてきましたが・・
今回の「遭遇?」は「父の御縁」からであり・・
やはり、父も恐るべし「類は友を呼ぶ」でございました(p_-)
いや(ー_ー)!!
父だけではなく・・祖父も恐るべし「類は友を呼ぶ」でございます。
いや(ー_ー)!!
祖父だけではなく・・曾祖母の兄弟の方々も祖父も恐るべし「類は友を呼ぶ」でございます。
(曾祖母の実家旧宮原村の新堀氏は宮原金兵衛こと宮原公行、この方が養子に入った可能性大)

あれっ(?_?)
結局・・皆が「類は友を呼ぶ」でございました(p_-)

「中原親能」「大江広元」「西園寺公経」「平頼盛」
「武藤資頼」「平 知宗」
そして、球磨郡と鹿児島
「皆越氏・槻木氏系図」
「簗瀬氏(柳瀬氏)」「橋本氏」「楓の紋」
さらには・・宮原の一族の先祖「橘氏」

ようやく見えてきました!
でも・・良かった(@_@。 集落の楓紋が気になって仕方なくて
調べていて本当に良かった(@_@。

もちろん、もっと検証が必要ですが・・
しかし、今回の調査で、前回に続けて、私が「書こう」としていた事が
より「証拠」として書きやすくなりました(^'^)

皆様、お待ち下さい(..)

あせらなくても「遭遇」致します<m(__)m>




[47]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月11日 13時18分55秒 ) パスワード

突然ですが・・

たけぽん様、皆様
わたくし、「ミヤハラ」ずっと皆様に隠していた事「二つの話」を
松葉宗益 後裔 平賀氏について4 コメント65に書きました。
よろしければ、ご覧ください(..)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101630_65.html

ずっと・・隠していて
皆様、本当に、ごめんなさい。
[48]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月12日 06時33分09秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 興味深いお話、じっくり読ませていただきます。それにしても、九州の
歴史は複雑で私の"勘ビュータ"ではオーバーフロウしてしまいます。
 でも、こちら側と何かつながっているという感じは、ヒシヒシと共振し
ております――
[49]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月12日 09時44分08秒 ) パスワード

三つ柏服部様、皆様、今日は。

三つ柏服部様、
ご覧頂いてありがとうございます。

〉でも、こちら側と何かつながっているという感じは、ヒシヒシと共振し
ております

こちらで「服部氏」について書かせて頂く事を御了承下さい。

先日、コメントに書いた、父の親友の「服部さん」。
実は、父の友人には服部さんが私が知っているだけで3人いらっしゃいます。

お一人は、父が「国家公務員」(言わんとする事ご察し下さい(..))頃の友人の方で
退職後、地元に帰られていて御実家は「三重県」。
お名前には「正」の文字が付いていらっしゃいます。

他お二人は先日書いた、父の子供の頃からの友人の方で、こちらも三重県の服部家に養子に入られています。
さらに、もうお一人、父の高校の友人の方も同じく三重県四日市の「服部家」に養子に入られていらっしゃる方が。
この方の旧姓は相良氏族の「姓」の方です。
皆さん、比較的近い「地域」にお住まいのようで、
お一人は四日市の・・地域名をずばり書くと支障があるかもしれませんから暗号で失礼致します。
Mountain One Color ・・お解り頂けましたでしょうか・・

今まで、あまり深く考えた事は無かったのですが、最近、人の御縁とは・・?と考える事が多く
不思議な感じがして、書かせて頂きました。

そう感じる「元」となるのは
先日から、書かせて頂いていた、親戚の「柳瀬(簗瀬)家)を調べている時に
江戸時代の「柳瀬(簗瀬)」村にはどのような方々が住していたのかを
分限帳で確認した事にあります。

「柳瀬(簗瀬)」村には「西小路氏」「平川氏」「新宮氏」「赤坂氏」「高畠氏」
「別府氏」「早田氏」「豊原氏」「稲冨氏」「西氏」「西橋氏」「宮原氏」「石田氏」
と言った、在郷藩士の方々の名前が見えるのですが
この方々を取りまとめる?役として「外城 簗瀬城」の城代でいらした方は
「服部氏」です。

寛政十年(1798年)  服部惣助
天保元年(1830年)  服部宗助
安政年間(1854年〜1859年) 服部宗助

こちらの服部氏は「宗助」を通称とされているようで「宗」の文字が付きます。

この簗瀬(柳瀬)から、おそらく相良清兵衛(犬童頼兄)と共に岡本村に移られたと推測出来る、家の親戚の「柳瀬(簗瀬)家」
この岡本村には正八幡宮が御鎮座で、不遇の最後を遂げられた岡本城主「岡本頼春」、この方の霊社であります。
岡本の正八幡宮の御祭紋は以前書かせて頂きましたが「丸に違い矢」です。
鹿児島の正八幡宮とさらに正八幡宮領。さらには鹿児島の永吉庄。
鹿児島の正八幡宮領、永吉庄と球磨の繋がりは、先日コメントさせて頂いた通りで
「中原親能」「大江広元」「西園寺公経」「平頼盛」
「武藤資頼」「平 知宗」(平知盛子息。武藤資頼の養子となり太宰大監に任官)
球磨の肥後国相良領 少卿入道殿跡とは「少弐資能跡」であり
少弐資能とは武藤資頼の子息であり、つまり養子となられた平知盛子息「平知宗」とは義理の兄弟となります。
上記の方々は全て繋がっている事が解ります。

さらに、武藤資頼子息「少弐資能」を預所とする球磨の永吉庄の地頭は「平河氏」
武藤資頼は梶原景時の娘婿でもあり、宮原の一族の先祖「橘公業・橘公員」とは
縁戚関係にあたる・・

ようやく、ここまで理解する事が出来たのですが・・
ここに球磨の「服部氏」が繋がっている事、さらに球磨の神社に見える「違い矢」の御祭紋は
一体、何を意味するのか・・?

違い矢」の御祭紋は、岡本村の正八幡宮だけではなく
私の先祖(DNA)に直接関わる、椎葉村大河内矢立に御鎮座の征矢神社(雪矢神社)の御神紋も「違い矢」でした。
椎葉村の椎葉姓の由来には「平知盛」この方が関係されています。

矢立集落の直下は球磨の「湯山」。 湯山の湯山城城主「湯山氏」は
本姓「平」で、代々通字として「宗」の文字を使用。

先日、椎葉村に伺った際に、記念館の方が
「矢立と湯山は、戦国時代よりかなり以前から交流があったそうです」
とおっしゃっていたのですが
この「言葉」が凄く胸に残りました。

「服部氏」が何故球磨にいらっしゃるのか・・
違い矢の御祭紋の「神社」様・・

私・・平安時代末期から鎌倉時代の初頭まで遡る「お話」に繋がっているような
気がしてなりません・・

皆越氏・槻木氏の系図によりお陰様で色々見えて参りました。

球磨・人吉の平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて関係した人物。
球磨の平家没官地は、平頼盛この方に返還され
良峯氏(後の平河氏)にも、一旦没官された所領地は安堵されました。
人吉庄の預所は「平光盛」この方となりました。
そう言えば・・「平光盛」この方の所領地は「伊賀」も含まれていたのですね・・

球磨郡久米郷は球磨の「久米氏」の所領のように記されていますが
おそらく領家は「平頼盛」であったのだと推測しています。
何故ならば、宮原の一族の先祖「橘公業」は久米郷を平頼盛の曾孫である「西園寺公経」と替地をしているからです。

「平光盛」この方の所領地は「伊賀」も含まれている・・
この事が気になって仕方ありません。

こちらをご覧ください。
著者: 岡野友彦氏 中世久我家と久我家領荘園
http://books.google.co.jp/books?id=B9sZ1jxtm8UC&pg=PT205&lpg=PT205&dq=%E5%B9%B3%E5%85%89%E7%9B%9B+%E4%B9%85%E6%88%91+%E4%BA%BA%E5%90%89&source=bl&ots=cKY-06ZOAU&sig=fVUc8-2aesC5_mbAhyFQcQ5kr9M&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwil_pHl8P7aAhWDVrwKHRa4BfcQ6AEIJzAA#v=onepage&q=%E5%B9%B3%E5%85%89%E7%9B%9B%20%E4%B9%85%E6%88%91%20%E4%BA%BA%E5%90%89&f=false

さらに、こちらをご覧下さい。
角川地名大辞典(旧地名) 球磨荘(中世)より
http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7451387

弘安6年7月3日の関東下知状案(平川文書/県史料中世3)に引用された建久3年8月の下文に「肥後国球磨庄安富領内三善并西村預所職事」と見え,
「三善」はのちの永吉荘,「西村」はのちの須恵荘にあたる
また寿永3年4月5日の池大納言(平頼盛)家沙汰荘々注文案(久我家文書)に
「球磨臼間野庄〈肥後〉」,
寛喜元年6月日の円性(平光盛)処分状(同前)に「一,五女 冷泉局……肥後国球磨人吉荘〈同(蓮花王院)領〉」と見える

久我通忠の妻は「平光盛」の娘でいらっしゃいます。
久我家文書により肥後国球磨人吉荘は平光盛から「冷泉局」へと譲られた事が解ります。

私は、家の親戚に「久我家」がある事、何故?球磨に「久我家」があるのか?と言う事を
以前は不思議に感じていたのですが
上記の「円性(平光盛)処分状」に気が付いて以降は
上記の事は「不思議」ではないと思うようになりました。

平光盛の所領地は久我家(村上源氏)へと移り、その領地には
『伊賀国六箇山』と『肥後国球磨人吉荘』があった・・・

全てのラインが浮き彫りになってきた・・そう感じています。

ただ・・一つ気になるのは
著者: 岡野友彦氏 中世久我家と久我家領荘園 にも記されていたように
『伊賀国六箇山・大和国長原荘・肥後国球磨人吉荘・安芸国安摩荘が久我家領になった形跡を全く残していない為・・』
この記述です。

ラインを何らかの理由で隠しているような・・そんな気がします。

色々、書かせて頂きましたが
肥後国球磨人吉荘と伊賀国は、平光盛によって「繋がって」います。
この事に最近ようやく気が付きました。

三つ柏服部様、
服部氏について、こちらで書かせて頂いた事をお詫び申し上げます。

ただ「御縁」は、現代の私達が気が付いていなくても
しっかりと「古(いにしえ)」から繋がってくるものだと
私は考えています。

遠江国との繋がりについても「平頼盛」この方の「ライン」で気が付いた事がありますが
内容は、次のコメントで書かせて頂きます。

三つ柏服部様
お声掛けを頂きましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
[50]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月12日 15時44分43秒 ) パスワード

皆様、あらためまして 今日は。
本日2回目の再登場です。

まず(p_-)
今日、新たに
発見しました!!大発見致しました!!!!
お伝えいたします。

実は、昨日、深水家の父のふた従兄の奥さんから(この方静岡県から嫁いで来られています)
父のふた従兄(私は●●兄ちゃんと呼んでいます)が、弓道の県の某大会で優勝した!と連絡が入り、私は早速ネットに何か書いてないかな(^'^)
とワクワクしながら、検索していたのです。
(この事と、発見した事は関係ありません(ー_ー)!! )

深水の●●兄ちゃんの事はまだ、どのサイトにも書かれていなかったのですが・・
所が・・この「検索」により、全く別の「情報」に気が付く事となりました!

旧深水村には・・「松葉」という集落が存在していました!
石橋巡り様 のサイトでこの事に気が付いたのです!
石橋巡り様 サイトより 橋谷(はしたに)橋 球磨郡相良村(役場敷地内)
をご覧ください。
http://www.nihonkai.com/niemon/040612nisimare-yamae.html

勝手ながら転記させて頂きます。
「この石橋は 明治末期 深水松葉の石工 石本豊吉の手によって作られたもので本村に現存する唯一のアーチ式石橋である。
 もともとこの石橋は、村道永江〜瀬馳線の橋谷川に架設されていたものであるが昭和58年度村道改良事業に伴い、現在地へそのままの姿・形で移転復元したものである。 尚、石本豊吉会心の作といわれる「大正橋」は、今も深田村鷺巣の銅山川でその雄姿を見ることができる。」
相良村教育委員会

★深水松葉の石工 石本豊吉

深水松葉・・えっ!
松葉の地名が球磨に存在した事を、初めて知りました!

そこで、地図で確認をすると
深水松葉周辺地図
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E130.48.8.620N32.14.3.490/zoom/9/

拡大 松葉公民館分館周辺
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E130.48.15.962N32.14.7.561/zoom/11/


大字深水字松葉地区は
最近、私が調べていた「柳瀬(簗瀬)」と接している事に気が付きました。

すごく気になり、別のサイトでこの辺りに住する方々の姓を見ると、目にとまったのが「早田氏」でした。

「早田氏」・・そう言えば、今朝、三つ柏服部様へのコメントを書かせて頂いた時にも
「早田氏」があったはず・・

『「柳瀬(簗瀬)」村には「西小路氏」「平川氏」「新宮氏」「赤坂氏」「高畠氏」
「別府氏」「早田氏」「豊原氏」「稲冨氏」「西氏」「西橋氏」「宮原氏」「石田氏」
と言った、在郷藩士の方々の名前が見えるのですが
この方々を取りまとめる?役として「外城 簗瀬城」の城代でいらした方は
「服部氏」です。』

と私は書かせて頂きました。
確かに「早田氏」は現在の大字深水字松葉と川を挟んで接する「柳瀬(簗瀬)」の在郷藩士として名前が残っていらっしゃいます。

大字深水字松葉だけでも「発見した!」と考えていたのですが
どうしても「早田氏」が気になって、調べてみたのです。

日本の苗字七千傑様のサイトで「早田氏」を検索すると2件の「早田氏」が・・
いつものように・・「えええっ!」と叫ぶほど驚いてしまう画面が登場致しました。

皆様、ご覧ください
まずは、《井伊氏/赤佐氏/貫名氏》 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm

今まで何度こちらの画面を拝見してきたのだろう・・
早田氏は井伊政保子息「赤佐俊直」の系になられる事が理解出来ました。
井伊氏の画面右上の「三国氏へ戻る」をクリックすると・・そこは・・

そうでした・・そうでした!
「松葉氏」を調べる為に何度も拝見したその画面でした・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233.htm#002

大字深水字松葉の周辺には「早田氏」がいらっしゃった・・
物凄い「衝撃」でした・・

さらに・・別の系の早田氏は・・
《宗 氏》姓氏類別大観 に記載が確認出来ました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102a1.htm

平 知宗 子息「頼勝」。この方の分流姓氏に「早田氏」が見えます・・

大字深水字松葉を発見して「早田氏」を調べたら
「松葉宗益」と同族の「井伊政保」この方の後裔に「早田氏」
さらには
「平 知宗」この方の後裔にも「早田氏」

偶然とは到底考えられない・・
2系とも・・私が今まで調べてきた方々だ・・

「早田氏」が気になって仕方なかったのは・・
DNAの記憶から「姓」に反応したのかな・・・?
とは思うのですが・・
しかし、「大字深水字松葉」に気が付いたのは・・
深水の●●兄さんの弓道大会優勝の知らせを受けての「検索」が発端で・・

何だろう・・やはり「DNA」だけじゃないような・・気がするのは何故だろう・・

今回も、あせらなくても「偶然」に遭遇した「大字深水字松葉」の発見だったのですが
しかし、「早田氏」に意識が向いたのは
今朝、三つ柏服部様へのコメントを書かせて頂いた事がきっかけでもあり
今回は三つ柏服部様よりお導きを頂いたのだと思います。

きっと縁(えにし)が反応し合った事による「偶然」だったのでは
「偶然」が導かれた・・そう感じます。

「松葉」地名は球磨には存在しない・・
そう考えていた私は、浅はかでした。
「大字深水字松葉」が球磨には存在致しました。

では(..)
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月13日 00時55分16秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 本日は名古屋に行っており、夕方浜松に帰ってまいりました。ただ今、
レスを拝読させていただいておりますが、同時に宮崎の黒木酒造の「百年
の孤独」という焼酎をチビチビとやっております。
 平家がらみ、南朝がらみで色々つながっていることは明白であると思っ
ています。「百年の孤独」どころか「千年の孤独」の歴史空間に光を灯す
ということは、並々ならぬことでありますね……。

 三国氏、酒人氏の七千傑様の系図を見させていただきましたら、私が今
ちょうど探求しております猿楽師関係―世阿弥の観世(服部)、宝生(服部)、
金剛の系図が酒人氏の後裔に交わる形で出ておりましたので、目をみはり
ました。
 また高安氏もその系図に出ておりましたので、さらに目をみはりました
―大変気の合う友人がおります。

 何か不思議な感じがしていますが、こちらは平頼盛に仕えた平宗清を祖
としている服部に近いのかなということで、それを追及しているところで
あります。宗清は伊賀の柘植に隠棲しました。書き出すと長くなりますの
で止めておきますが、私の方のスレッドの主目的はそこにあります。
 四日市には服部姓がとても多いですが、まだ調査を終えておりません。
先日、桑名の服部氏については現地調査に行って来ました。いずれにしま
しても、伊賀系が多いのではないかと思っています。但し、伊賀系でも、
色々な系がありますので単純ではありません。

 今後も、時々横レスをさせていただきますが、ご容赦いたたけましたら
幸いです――
[52]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月13日 07時06分58秒 ) パスワード

三つ柏服部様、皆様、おはようございます。

三つ柏服部様
コメントを頂き、ありがとうございます。

〉今後も・・

もちろんです。
と言うか、私から、お願い申し上げます。
今まで三つ柏服部様から御教示、コメントを頂いた後に
私が気が付いていなかった事が見えて来る・・
と言う事が何度もありました。
私の調査でお気付きの事がありましたら
(何か”感じる”事がありましたら)
ぜひ、お声掛けを頂きたいと心からお願い申し上げます。
よろしくお願い申し上げます。

〉黒木酒造の「百年の孤独」
私の母の実家のある宮崎の高鍋の黒木酒造さんですね。
黒木酒造さんから少し海の方に向かった所
高鍋の蚊口浦が私の母の実家です。
近くに別の酒造会社さんがあり
父と浜を散歩する時に工場から「不思議な香り」がしていたのを
しっかりと記憶しています。
大人になって解ったのですが(笑)「不思議な香り」とは
焼酎を醸造される時の「香り」だったのですね。

蚊口浦(蚊口浜)は、歴史を勉強してようやく漢字が解ったのですが
子供の頃、父や母は、母の実家の事を「カグチ」と呼んでいて
私、母の実家は姓が「岩切」なのに何故「カグチ」なのかなぁ?・・って
思っていました。
よろしければ、私がオンギャーと生まれた場所の地図をご覧ください。(笑)
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E131.32.17.192N32.7.16.106/zoom/10/

地図の一番上に見えるのが「鵜戸神宮」です。
母方の岩切家はこちらの鵜戸神宮の宮司家一族です。
実は、今までコメントした事が無かったのですが・・・
私の母方の曾祖父は「宮大工」をされていました。
祖父は継がなかったのですが、曾祖父の仕事を今は私の従兄が継がれて
今は神具の製造を行っています。
九州内の著名な神社様(こちらで神社名をお書きする事は控えますが)の社殿修復工事にも
従兄は携わりました。
もしかして・・驚きになられるかもしれませんが、従兄が携わったお仕事とは
こちらです。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASJC15H8V_V10C17A9ACW000/

私は色々隠している事がある・・
と書いていましたが、最近、その事をちゃんと書いて、そこからさらに前に進む事が
重要なのではないか・・とようやく考える事が出来るようになりました。

今日は、母方のDNAについて初めてちゃんと書きました。
知ってはいたのですが、こちらもずっと書けずにいました。

鵜戸神宮の宮司家一族とだけ書いていたので、
三つ柏服部様も、「あいまいな表現だ」とお思いでいらしたかと思います。
申し訳ありませんでした。

父方も母方も、おそらく古代に遡る「歴史」の中に先祖の形跡が見えるのでは・・
とは以前から考えていましたが
母方は特に、ある一系の「DNAが濃い」のではないか・・
とも推測しています。
(紛らわしく書きまして申し訳ありません)

黒木酒造の「百年の孤独」から、懐かしい高鍋の風景を思い出して
色々書いてしまいました。
脱線致しましたね、すみませんでした。

〉四日市には服部姓がとても多い

そうなのですね。
父の友人の方々が四日市にいらっしゃるのも、きっと何かの「御縁」だと
思います。

〉三国氏、酒人氏の七千傑様の系図

私もあらためて拝見して、びっくり致しました。
さすが三つ柏服部様です。
しかし、私の調査が三つ柏服部様の御調査に繋がっているとは・・
本当に、不思議な御縁ですね。

あらためまして
三つ柏服部様、
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月13日 07時56分42秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 いろいろありがとうございます。実は、私の息子が、この連休中に熊本、
宮崎、大分へ行っていて、「百年の孤独」は宮崎酒造の店で買ってきたもの
でありました。地図でみますと、たしかに鵜戸神社がありますね。私にとっ
てこの「うと」も研究テーマの一つなので、高鍋というところにも大変興味
を持ちました。

 九州というところ、歴史の宝庫、古代より重層的に歴史が積み重なってい
て、ある意味歴史のガラパゴス(純粋なという意味)であるような感じがいた
します。また、球磨というところ、ある意味、歴史のヘソ(いい意味)である
のかも知れませんね。平家も南朝も南の九州へ向かったということ、今の常
識とは違った想い・考え方が人々の心の中にあったということだと思います。
それは何だったのかというところを、今後探求してみたいと思います――
[54]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月13日 11時38分40秒 ) パスワード

三つ柏服部様、皆様 今日は。

三つ柏服部
御子息が南九州を御旅行されていらっしゃったのですね。
心に残る旅となられたら、嬉しい限りです。

〉「うと」も研究テーマの一つ

確かに「ウト」「ウツ」はシュメールに繋がる言葉でしたね。

〉高鍋というところにも大変興味を持ちました。

ありがとうございます。

母方は高鍋の鵜戸神社の宮司家一族ですが
高鍋の鵜戸神社の御由緒は宮崎神宮公式ホームページに詳しく記されています。
http://miyazakijingu.jp/modules/gnavi/index.php?lid=5

鵜戸
鵜戸は神武天皇ご東遷の際御駐輦された所として顕彰されている。
鵜戸神社の創建は年代が詳かでないが、古来鵜葺草葺不合尊御上陸の旧地に、社殿を建設したと伝称し、境内本殿の西側にある高さ三尺、縦横九尺五寸の小丘は、尊、御上陸の旧址と伝えられる。
当社は景行天皇熊襲征伐の際、海陸安全、全戦勝祈願の為、天皇十二月十月行幸あらせらると伝えるも拠るべき史料なく、確証し得ざるを遺憾とす。
古来海上鎮護の神とせられ、社伝旧記には其の鎮座地を、日州高鍋領内河口村と記している。

子供の頃に見ていた海の景色が載ったサイト様もありました。
https://ameblo.jp/awagihara/entry-11972785141.html

私が着目しているのは
★古来海上鎮護の神とせられ、社伝旧記には其の鎮座地を、日州高鍋領内河口村と記している。

この記述です。

母方の叔母は「御先祖様は古代の水軍のような人達だった」と
子供の頃に宮司様から聞いていますので、上記の記述には、なんでしょうか・・
すごく納得致します。

岩切氏は元日向日下部氏です。
こういった御由緒の神社様の宮司家一族ですから、
先にも書いたように・・おそらく、古代からの複数の系の内の一系の「DNA」が非常に「濃い」ようだ・・
と、私は推測しているのであります。

〉球磨というところ、ある意味、歴史のヘソ(いい意味)である
のかも知れませんね。

表現がとても的確でいらっしゃると思います。
おヘソは大事ですね。おヘソを出しているとお腹が冷えて体調を崩してしまうので
祖母からも、いつも「おヘソはちゃんと隠しなさい」と言われていました。
『身体を守る為にヘソを隠す』
『何かを守る為にヘソを隠す』

それに、「おヘソ」は母体で母から栄養を補給してもらう、世に生を受けるまでの
無くてはならない大事な器官の形跡。
母と繋がっていた証。

三つ柏服部様のおっしゃる通り
結局、こう言う事なのかもしれませんね。

偶然ですが、今日は母の日。
この世に生を受けた事を父母に感謝致しております。

三つ柏服部様
コメントを頂きありがとうございました。
[55]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月14日 07時43分20秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

コメント46で
※府領社(大宰府所管の神社)と鹿児島との繋がり
※「簗瀬宮(柳瀬)」を含む、球磨の永吉庄と鹿児島の永吉庄との繋がり
さらに
コメント49で、三つ柏服部様に
※球磨の服部氏について私が気になっていた事
を書かせて頂いたのですが
お陰様で、その事により、今まで気が付いていなかった事を再発見する事が出来ました。
その事を含め、今朝、一気に書かせて頂きます。

@簗瀬宮について

先程も書いたように
コメント46で
※府領社(大宰府所管の神社)と鹿児島との繋がり
※「簗瀬宮(柳瀬)」を含む、球磨の永吉庄と鹿児島の永吉庄との繋がり
が理解出来たのですが・・この時、気が付くべきでした!
だから、私はおっちょこちょいなのです・・
「簗瀬宮(柳瀬)」とは・・平川家について38 コメント2で書いたように
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101585.html
山江村誌歴史編 66ページには
★「肥後国簗瀬宮・」とは人吉庄内簗瀬(柳瀬)、十島天満宮宮司のことではないだろうか。
と書かれていたのであります。
「十島天満宮」はつまり府領社(大宰府所管の神社)であったのではないか!?
何故?コメント46を書いた時に、私はこの事に気が付かなかったのか・・
お恥ずかしい限りです。

平川家について38 コメント2で、私は山江村誌歴史編により、真相に迫る事を転記させて頂いていたようです。
〉「為宗人々」は、武藤景資及び与党人の没収地と考えられる。少卿入道殿跡とは誰であろうか。
ここで思い当たるのが、弘安の役後まもない弘安六年(1283年)十月に関東御領永吉庄預所職、西村地頭職を得た「豊前前司景資」である。
そして、弘安九年(1286年)時点では少弐経資であるから、注進写に見える「少卿入道殿跡」とは景資・経資の父、資能を指していると考えられる。
また、「肥後国相良領」とあるから人吉庄の事と考えられる。
人吉庄は寛元元年(1243年)十二月二十三日の関東下知状によると、人吉庄の半分が中分されている。
寛元四年(1246年)三月五日の沙弥(相良)蓮仏譲状には「尼御前之御領」とあり、尼御前は少弐氏の関係者であろう。
そして、正和元年(1312年)十二月二日鎮西下知状には「人吉庄北方 得宗御領」とあり明らかに北条得宗領である。
=======================================
※一、為宗人々 (武藤景資及び与党人の没収地)
  嶋津大隅大炊助長久法師 / 肥後国相良領 少卿入道殿跡(少弐資能跡)
  川辺次郎 / 肥後国簗瀬宮・ 矢上孫三郎泰継跡(平姓鹿児島郡司の一族)
でした!!
肥後国相良領 少卿入道殿跡(少弐資能跡)
少弐資能とは・・武藤資頼の子息
「平 知宗」この方は武藤資頼の養子になり、正治2年(1200年)に太宰大監に任官する。
つまり肥後国簗瀬宮(十島天満宮)は太宰大監「平 知宗」の義兄弟「少弐資能」の所領地であった!
そして、少弐資能とは・・ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%BC%90%E8%B3%87%E8%83%BD

『大宰府の責任者として大宰少弐の地位にあった』

肥後国簗瀬宮(十島天満宮)に関係するのは、ずばり!『大宰府』である!

※武藤資頼は平知盛子息「平 知宗」を擁護し、その後養子とした後に本来公家の官職である大宰少弐に任ぜられた。
※平知盛子息「平 知宗」は武藤資頼の養子となった後に1200年「太宰大監」に任官する。
※武藤資頼子息「少弐資能」は大宰少弐であり、さらには弘安六年(1283年)十月に関東御領球磨の永吉庄預所職、西村地頭職を得た。
簗瀬宮(十島天満宮)も含む。

そして、ここに平河氏が関係してきます!
「少弐資能」が関東御領球磨の永吉庄預所職、西村地頭職を得た背景には
平河氏と徳大寺実春の訴訟があったからです!
しかし・・私は平河氏の『訴訟』の裏側を・・真実を理解してはいないのではないか・・?
最初から・・決まっていたのではないか・・
私の妙な感が・・そう言っているのは何故だろう・・

上記の事に気が付いて、私は更に気が付きました!!!!!
『平河氏』の訴訟に関連して、平河氏から幕府に提出された「資料」の中に
「大宰府」の影が色濃く滲んでいた事を・・
思いだしたのです。 今から数年前、平河氏の訴訟について何度もコメントしていた時に、私が「疑問」を数回書いていた事を・・
平川家について10-1 等で何度か「疑問」を書いています。
http://hikoshima.com/bbs/heike/101345.html

疑問1 平河良貞が訴訟において提出した一通の「状」の名
観蓮陳情 本名良氏 於宰府 弘安八年番之
観蓮こと良貞は本名を「良氏」であり『於宰府 弘安八年番之』である。

疑問2 平河氏の訴訟状にあった言葉
訴訟状の中にあった数々の言葉「六十余名による署名」や「師高の冤罪により一族の中には大宰府にある者あり、十分忠義は果たした・・」等
この件も、当初から疑問を持ちあらためて平川家について38でも取り上げていました。
平川家について38 コメント45です。
私の「疑問」を転記します。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101585.html

あらためて、以前ご紹介した訴訟の文書を転記します。
依実春朝臣之押領、良貞乍帯御下文等、一類六十余人佗傺、交山野、永削御家人名字事、生涯愁歎也、但難無以歩(前?)所帯、遺子息宰府、勤宿直事、著到無其隠、是随分忠節也、可然者、任右大将家御下文并相伝知行八十余年々紀、返給彼永吉。欲令勤仕重代御家人役云々、爰如良貞等所進遣于遠景(天野)・盛時(平)時六月十六日付文治三年奉書案者、平河三郎師高謀反勝他人由有其聞、然而冤罪程、給暇天所下遣也、早可安堵ノ由可下知也云々、如同所進遠景同年十二月状案者、下球磨御領、可早任御教書、被安堵平河三郎良貞身事、右去六月十六日御教書今月三日到来、子細云々者、早任状如本可令安堵云々・・

★20.平河三郎師高謀反勝他人由有其聞、然而冤罪程、給暇天所下遣也、
★21.遺子息宰府、勤宿直事、著到無其隠、是随分忠節也
遺子息は宰府にて勤務を行い忠節は十分尽くしていると書かれているのでしょうか?(と「平川家について10 コメント63では私、書かせて頂きました(゜-゜))

この「遺子息宰府、勤宿直事、著到無其隠、是随分忠節也」から
平河師高の遺子息は宰府で勤宿直事。

中略・・
同じく訴訟で使用された文書で
観蓮陳情 本名良氏 於宰府 弘安八年番之
とあります。
ただ、以前もご紹介したか?と思うのですが、訴状の中で平河良貞は、何故か「良貞」本姓?本名?に関して「今は憚る」とあったのです。
==================================================

私が平川家について10 辺りから何度も疑問としてあげていた
『平河氏と大宰府との関係』

そして、私は、以前から「武藤資頼」「平 知宗」「少弐資能」この方々
さらには「大江広元」「中原親能」「大友能直」この方々が
球磨に色濃く「影」として見える事を何度も何度もコメントに書いてきました。
しかし、その時と、「今」は全く違います。

「皆越氏・槻木氏 系図」が発見されたからです。

「影」ではなく、完全に繋がっていました。

『平河氏』も完全に『大宰府と繋がっている』・・確信致しました!

続けて、気が付いた事

A西小路氏について
コメント49で「簗瀬(柳瀬)」在郷の江戸時代の相良藩士の方々を書きました。
コメント49より
『「柳瀬(簗瀬)」村には「西小路氏」「平川氏」「新宮氏」「赤坂氏」「高畠氏」
「別府氏」「早田氏」「豊原氏」「稲冨氏」「西氏」「西橋氏」「宮原氏」「石田氏」
と言った、在郷藩士の方々の名前が見える』

上記の方々の中で「早田氏」についてはコメント50で調べました。
しかし、非常に気になったのが分限帳で「平川氏」(2名)の『前』に記されていた
「西小路氏」(2名)についてでした。
「西小路氏」については、以前、ちょっとだけ「疑問」を持って書いた事があります。
平川家について31 コメント19での事でした。
転記致します。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101516_84.html

平川家について31 コメント19より

@相良長頼、球磨入部の際の随行者「姓氏」
求麻外史に記載の相良長頼、球磨入部の際の随行者「姓氏」を書きます(..)
●弟四郎宗頼 ●五郎左衛門尉頼平●譜代の士森某●長某(おさ某)●廣田某●杉前某●今井某●原田某●平田某●大石某●愛甲某(愛甲九郎景元是なり)●田野某●満木某(みつき某)●西河路某(西小路)●野間某●窪田某(今久保田に作る國讀相通す)●赤川某●富田某●吉村某●河端某●矢津留某
以上十九人名■ぐ。(■は文字が読み取れませんでした(..))
●宗像(今宗方に作る國讀相通す)兵衛太夫(其の先は筑前の人世世宗像に察す、因りて兵衛太夫に至りて相良に客たり・・略)●僧弘秀(遠江常福寺の住持)●譜代の卒井福●萬蔵●金田●赤川●雑賀●庶人橋口●四郎丸(四郎丸大村に家す後因りて里名と為す)●藤井●徳永●山口等(歴代私鑑に永原を加えて六人と為す)従う。
首めに萬江式部則純(今の萬江氏《万江氏》の祖)を得て郷導と為す。

本で読むより、こうやって書きだしてみると色々見えてきました。
●窪田某・・(p_-)窪田(久保田)氏は随行者の中に最初からあったようですね・・むむっ(p_-)
●満木某(みつき某)・・満木氏・・みつき氏・・まんげつ・・!・・もしや?
 かなり気になりますが・・(私の想像に対して・・勝手に読み替えるな!との声が何処から・・(..))
●西河路某(西小路)・・後世の相良藩士分限帳にも「西小路氏」の名はありました。 西小路・・?
==============================================

相良長頼、球磨入部の際の随行者に見える「西小路氏」
後世、江戸時代においては一貫して「簗瀬(柳瀬)」にその「姓」が見える「西小路氏」

最近の調査の流れから「西小路氏」も、重要な「キーマン」のような気がして来て
初めて調べてみたのです。

所が、最初は「西小路氏」についての情報は殆ど見辺りませんでした。
例えば、こちらの苗字由来ネット様 サイトの記述では
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%A5%BF%E5%B0%8F%E8%B7%AF

現大阪府北部と兵庫県の一部である摂津国豊島郡西小路村が起源(ルーツ)である。近年、京都府に多く特に長岡京市に多数みられる。西を抜ける象徴的な通りが語源である。

とあります。

近年・・しかし、西小路氏が球磨に来られたのは鎌倉時代初頭・・

西小路氏とは一体??
急に興味が湧いてさらに調べた所「重要な情報」を見つける事が出来ました。

京都風光 様 サイトより 長岡天満宮
https://kyotofukoh.jp/report748.html

勝手ながら転記をさせて頂きます。

長岡京市の長岡天満宮(ながおか てんまんぐう)は、「見返り天神」ともいわれた。平安時代、太宰府に左遷される菅原道真がこの地に立ち寄り、腰かけた石(見返り石)に因むという。学問の神様で知られている。「開田(かいでん)天満宮」とも呼ばれた。

中略・・・
平安時代、この地は、菅原道真(845-903)の領地だったという。また、長岡は、道真が歌人・在原業平らと共に遊び、詩歌管弦を楽んだ地ともいう。
 901年、道真の太宰府左遷時に、この地に立ち寄り、「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜んだともいう。その後、道真自作の木像を祀ったのが創起ともいう。また、道真一族の中小路、東小路、西小路の三家により、道真の聖廟を祀ったともいう。

★道真一族の中小路、東小路、西小路の三家

ようやく・・西小路氏が登場しました!
菅原道真公の一族!

菅原道真公の一族「西小路氏」についてさらに、調査を進めました。

徘徊の記録様サイトより 長岡天満宮
http://vinfo06.at.webry.info/201302/article_4.html

勝手ながら転記をさせて頂きます。

長岡天満宮の公式HPでは、道真は配流の途上にこの地を訪ね名残を惜しんだとしている。配流に際しては道真の一族であった中小路宗則、西小路祐仲そして東小路祐房の三人も大宰府にお供している。そして道真の没後、一寸八分の道真手造りの像と護持本尊を持って帰洛し、この乙訓郡開田村に聖廟を建て、道真を祀っている。これが長岡天満宮の始まりと考えられている。中世の長岡天満宮は、その地名より開田天満宮と呼ばれ、中小路宗則の末裔が神官を務めている。中小路氏は次第に土豪として勢力を拡大し、応仁の乱において細川氏の被官として中小路遠江守が登場する。
 明応7年(1498)10月18日付で中小路宗数が開田天満宮の社殿を造営したことは、社殿の棟札から知られている。これには応仁の乱により社頭が退転したために建立したと記されている。次いで文禄4年(1595)の棟札も現存している。さらに慶長の大地震で崩壊した天満宮の造営に中小路宗俊らが尽力したことが、慶長3年(1598)棟札からうかがえる。この宗俊は開田城主中小路氏の後裔と考えられているが、その系図上のつながりは不明のようだ。

中略・・
配所にお供した三家の中で西小路家と東小路家は既に断絶している。そのため道真手造りの像は中小路家に伝わり、元禄3年(1690)に本殿に合祀されている。なお本殿には古くから祀られてきた三尺五寸の神体があったことや、大宰府への途上にこの地に立ち寄り、腰掛けた石を見返り岩と謂ったことより、「見返り天神」の名が付いたことなども、この元禄の時に記録されている。

================================================

★配流に際しては道真の一族であった中小路宗則、西小路祐仲そして東小路祐房の三人も大宰府にお供している。
★配所にお供した三家の中で西小路家と東小路家は既に断絶している。

驚きました!
鎌倉時代初頭の『大宰府』と深い関わりが確認出来た簗瀬宮(十島天満宮)御鎮座の「簗瀬(柳瀬)」
相良長頼と共に球磨に入部された「西小路氏」
「西小路氏」は江戸時代においても、その「名」が簗瀬宮(十島天満宮)御鎮座の「簗瀬(柳瀬)」に見える!

そして、「西小路氏」の名前は
菅原道真公、大宰府配流の際にお供した『中小路宗則、西小路祐仲、東小路祐房』の中に見えている・・

本当に、驚きました。
また・・「大宰府」で繋がりました・・

しかし、西小路氏で二つの疑問が湧きました。

まず一つ目は
『菅原氏系図には「西小路氏」の名が見えない事』です。
道真公の一族であったと「記されている」西小路氏であるにも関わらず・・
何故?系図には見えないのか・・
菅原道真公の一族とは一体・・・

二つ目の疑問は
鎌倉時代初頭に相良長頼と共に球磨に入部された「西小路氏」
江戸時代まで綿々と続いた「西小路氏」
であるにも関わらず!
「西小路姓」は球磨には2軒ほどしかいらっしゃらない・・
何故???? 何故!?

色々推測したのですが・・
西小路氏は「西小路」の姓を嫡男しかお継にならなかったのではないか?
他の方々は、それぞれ「別の姓」を代々名乗られたのではないか?

あくまでも、私の推測にしかすぎませんが・・
この例は、球磨の相良氏でも言える事です・・・・

ただ、非常に気になるのは「菅原道真公」の登場にあります。

道真公の姻戚関係に見えるのは「百済姓の宮原氏」です。
道真公の妻となられています。
さらに、「百済姓の宮原氏」は良峯安世子息「良峯宗貞」の妻でもありました。
菅原道真公の一族という「言葉」が何故か非常に気になります・・

ここまで、一気に『気が付いた事』を書かせて頂きました。

所で・・この流れに「平頼盛」この方はどう繋がってくるのか・・
それは、先日、コメントの最後に書いたように
「平頼盛」「平光盛」この方々と「大江広元」そして「平河氏」を繋ぐ
「キーマン」を見つけています(p_-)

次のコメントで書かせて頂きます(..)
[56]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月18日 09時55分01秒 ) パスワード

皆様、今日は。

コメント55で
「次のコメントで書かせて頂きます」と書いた事を
今日はお休みですので、「もちろん」精力的に書きたいと思っています。

しかし、その前に
皆様に、私が経験した「人の御縁」について、「感動の出来事」を
お伝えしたいと思います。

実は、「ある事」がきっかけで、白石様と私の「御縁」が判明いたしました。
松葉宗益 後裔 平賀氏について4 コメント81以降で詳しく書かせて頂きました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101630_88.html

白石様のおじい様「白石秀蔵」氏は、私の祖父「宮原石蔵」の在学中の「学び舎」の先生であり
「宮原石蔵」の孫である「私」は、
ネット上で偶然にも「白石秀蔵」氏のお孫さんの「白石様」と出会い
歴史に関して全くの無知識であった「私」は
「白石様」から一つ一つ、歴史を学んできた

と言う事が判明致しました。

私は、とても、とても感動しています。

このような事が実際にあるのだ・・と心から感動致しております。

人の御縁・出会い・・不思議な事を
実は、私は経験して参りました。

白石様のおじい様と私の祖父の御縁。
白石様と私は、実は、祖父の代からの「御縁」であった。

さらに、実は、もう一つ「不思議な御縁」があるのです。

槻木氏系図を私に託して下さった「槻木さん」
私の調査を最初からご覧頂いている方々であれば、私が個人的に「槻木氏」の名前を
出すのは、初めてではない事にお気づきかもしれません。
数年前、まだ小倉に住んでいた時にコメントに書いた事があるのですが
私は、北九州で前々職で勤務していた会社で「槻木さん」と12年間一緒に働いていました。
コメントでは、この方を「槻木君」と書いた記憶があります。
「槻木君」のニックネームは「ツッキー」でした。
一緒に仕事仲間と遊びに行ったり、飲みに行ったりと、とても親しくしていた「槻木君」。
実は・・
槻木氏系図を私に託して下さった「槻木さん」の「甥っこ」さんだったのです!!

3年前に球磨に戻り、求麻郷土研究会に入会して「槻木さん」と出会い
親しくさせて頂いていましたが
ある日、突然、仕事仲間であった「槻木君」が「槻木さん」の「甥っこ」さんで
あった事が、会話により判明致しました。

私が知っている「北九州の槻木君」の話を「槻木さん」に話すと・・
「勤務先は?」「住所は?」となり
最後に二人で声を合わせて・・「槻木君」の名前を言うと・・
全く同じ!・・つまり、槻木さんの甥っこさんが、
私が親しみを込めて「ツッキー」と呼んでいた「槻木君」だったのです!

この時も、あまりの「偶然」に「ええええええっ!!」と大きな声を出すほど
驚きました。

槻木さんは、私に系図を預けられた時に
「宮原さんとは御縁がありそうだから、調べて(^'^)」
と言って下さいましたが
実は、先に書いた経緯がその「お言葉」の中に含まれていたのです。

今朝、私は、あらためて
今まで私が出会ってきた「方々」との御縁を考えました。

きっと・・人は、目に見えない「御縁」の元で「出会い」を繰り返しているのではないでしょうか・・

その御縁は先祖の御縁であり、「御縁」を授けて下さった「先祖」に
心から感謝します。

最近、頻繁に「あせらなくても遭遇する」と書きますが
その事にも心から感謝しています。

実は、松葉宗益 後裔 平賀氏について4で
私の祖父と白石様のおじい様の「御縁」に気が付いた「事」がきっかけとなり
曾祖父の実家の「久保田家」と「田原家」との姻戚関係。
親戚の「横瀬家」と「田原家」との姻戚関係。
推測していた
「斉藤家」と「田原家」との姻戚関係。

に気が付く事が出来ました。
詳しくは『松葉宗益 後裔 平賀氏について4』の方に書いていますが
槻木氏系図により「槻木氏・皆越氏」が
大友能直子息「田原泰広」この方の後裔である事が判明した後で
私が「久保田家」「横瀬家」「斉藤家」と「田原氏」との姻戚関係に気が付いた事
この事は、単なる偶然ではなく、やはり、そう言う「運命」・「流れ」になっていたのだ・・
と私は考えます。
「お導き」・・科学では証明出来ませんが、「意識が繋がる」事による「流れ」
なのではないか?そう考えています。

きっと・・この「流れ」から言うと
私が、ずっと「今度書きます」と言っていた事は、
昨日、私が気が付いた事を「先に書いた」事により、より「絆」・「繋がり」が
見えるのかもしれない・・
そんな「予感」もしています。

皆様、今回は
私が経験を続ける「不思議な御縁の判明」を
書かせて頂きました。

おや(p_-)
後ろから「家事をちゃんとしてから」と何方か綺麗好きの御先祖様から
言われたような・・(p_-)
(父は、二階で猫のにゃんと遊んでいますし・・むむっ(p_-))
冗談です(^'^)

家事をしっかりこなして「調査」の御報告を致します(^'^)
[57]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月18日 10時36分47秒 ) パスワード

皆様、家事をこなす前に追記です(..)

松葉宗益 後裔 平賀氏について4 コメント83以降で書かせて頂いたのですが・・
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101630_88.html

以前、こちらの方で調査を始めて間もない頃にも書いたのですが
私の祖父は、
球磨郡中から集まった「宮原の一族」の親戚「宮原衆」(表現が・・)や
平川の一族、久保田の一族、他、親戚一同
さらには、人吉・球磨郡内の政財界の方々の前で
「自分は馬族の長になります!」
と言っていたのでした・・

補足すると(当時の時代背景があるので、あまり書きたくは無かったのですが・・)
祖父は、最初から自分は「大陸に渡る」と宣言した後での
「自分は馬族の長になります!」
この言葉だったのです・・

ちなみに・・
馬族は馬賊じゃありませんでした((+_+))
椎葉のおじや親戚にちゃんと聞きました。
私は「賊」だと思っていた事を言うと・・・・
「このバカタンが!盗賊の賊じゃなか!何で、お前のじいちゃんがそんな事を言うか!」
「馬族の”ばぞく”タイ!」
と叱られました。

大陸に渡って・・「自分は馬族の長になります!」

一体どう言う意味なのだろう・・
皆の前で・・祖父は何を言おうとしていたのだろう・・
「馬族」って一体何なのだろう・・
??????

昨日から、ずっと考えています・・

所で、別件ですが・・
実は「久保田家」「横瀬家」「斉藤家」と「田原氏」との姻戚関係に気が付いた
だけではないのです・・

「久保田氏」と「宮原氏」の関係にも気が付いていました。

曾祖父の実家とは別の「久保田家」
旧姓が「宮原」の方がいらっしゃいました。
明治時代の事です。

「久保田氏」と「宮原氏」の関係。
家の「宮原家」だけでは無かった事に気が付きました。

上相良氏一族である旧宮原村の「新堀氏」を「宮原氏」が継いでいる事はほぼ間違いないようですし・・
同じく上相良氏一族「久保田家」から旧宮原村の家の「宮原家」に曾祖父が養子に入っている・・
さらに妻(私の曾祖母)は旧宮原村の「新堀家」の娘である・・

私、やはり、上相良氏一族と「橘姓 宮原氏」は何らかの「繋がりがあった」と
考えています・・

所で・・先日「新堀氏」系図について書きましたが
『新堀頼政頼重子頼益孫頼宗曾孫頼兼玄孫相良頼景耳孫』

※新堀氏は相良頼景耳孫である
※久保田氏も相良頼景の後裔である

父と二人で話しながら「二人とも納得」したのですが(この時ばかりは親子で意見が一致しました)
私達「親子」の御先祖様(DNA視点)は「相良頼景」この方でもある事は
間違いないよね・・
と、二人で妙に「納得」したのでありました・・

確かに・・そうなのですよね・・
私達親子の御先祖様は「相良頼景」この方です・・
さらに「相良長頼」この方も御先祖様です・・・

解っている事なのに・・意識が向いていなかった事を反省しています(..)
では。
[58]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月19日 10時58分49秒 ) パスワード

皆様、今日は。
昨日は急な来客があり、コメントを書くに至りませんでした(..)

今日は、午後からアルバイトです。
今日は、生まれて初めての(何でも初めてですが(^'^))
斉藤さん家の麦刈り作業のお手伝いです(^O^)/
父が、めちゃくちゃ私の身体を心配していたのですが
大丈夫(^'^) 主に運搬だそうです(^'^)
私はやった事の無い事に、何でも挑戦した〜い!と思っています(^◇^)
それに、御両親を立て続けに亡くされた斉藤君(幼馴じみ)
人手が足りないのですから、私の微力でもお手伝いになるのであれば
と思い、頑張っています(^'^)

所で・・昨日、さらにビックリする事に気が付きました!
祖父のクラスメートの方々の中にナント
「西小路」さんがいらっしゃいました!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
球磨でも1軒(2軒だったかな?)しか、現在いらっしゃらない「西小路氏」が
祖父のクラスメートの方だったのです!
こんな事ってあるんだ・・私、めちゃくちゃ「西小路氏」が気になって調べたけれど・・
こんな事って本当にあるんだっ・・!! と
いつもの如くビックリしました。
いつもの如く・・・何で・・いつも「こう言う事」があるのかな・・???

さらに所で・・(変な日本語ですが)
昨日、祖父の言葉
”大陸に渡って・・「自分は馬族の長になります!」”

馬族って何だろう??と考えていたのですが・・一つ気が付いた事が・・
うちの宮原家が元々あった場所(今は星原家ですが)
住所は・・旧宮原村であり、合併後は岡原村大字宮原字馬場田
でした。
大字宮原字馬場田・・馬場田・・「馬」
こちらの字馬場田には、家は一軒、うちの宮原家のみです。
他は神社様のみ。
こちらの大字宮原字馬場田に御鎮座であった神社が
稲積妙見(稲積神社)
御祭神は天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)

私、以前、日本の苗字七千傑様から御教示で
天之御中主神様は馬韓の国王で、豊葦原中津国を間接統治されていらっしゃった
とお伺いしたと記憶しています。

今朝、気が付いたのですが・・馬韓・・「馬」 あれっ!?と・・

つまり、まとめますと
天之御中主神 様は馬韓(※馬)の国王
であり
大字宮原字馬場田(※馬)に御鎮座の稲積妙見(稲積神社)は
御祭神 天之御中主神 様
であり
その大字宮原字馬場田(※馬)に住した「宮原家」の私の祖父は
”大陸に渡って・・「自分は馬族の長になります!」”
と言った・・

と言う事になります。
「馬」さんが私の周りを囲んでいます・・

馬韓とは後の百済ですね・・・

何だか解りませんが・・私の後ろで、「ようやく気が付いた」と声が
したような・・

もしかしたら・・もしかしたら・・
祖父の言葉は・・古代と何か関係があるのでは・・???

古代・・と言えば
何故?曾祖父は「葦原様」と書かれたのか・・???

書いていなかった事ですが・・(やはり書かなきゃいけないような気がします)

祖父を「葦原様」と書かれた方
は・・
「那須氏」でした・・

別の手紙には複数の方々の連名があり・・
複数の「那須氏」
他には「佐無田氏」もありました・・

こちらの「那須氏」の方は・・実は
平川家について40+2のコメント7の中で
★マークをつけて「初めて書く事です」
と書いたお話の「那須氏」の後裔の方なのです・・

平川家について40+2 コメント 7 です(..)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101611_69.html

何故?こちらの那須氏の方は、私の曾祖父を「葦原様」と書かれたのだろう??

「馬族」・・
「葦原様」・・

何だろう\(゜ロ\)(/ロ゜)/ えええっ??何だろう???
と叫びたくなりました・・(..)

今日は「麦刈り」のお手伝いなので
コメントは夕方にしよう・・と思っていたのですが
どうしても、気になって書いてしまいました・・


さらに・・平安時代末期以降の気が付いた事も沢山あり
中々、前に進んでいない事を
皆様、お詫び致します。

必ず、ちゃんと書きますので
お待ち下さい。
[59]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月20日 12時22分09秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

昨日、お手伝いした麦刈り。
収穫した「麦」を軽トラックに乗せて「ライスセンター」に
運搬する作業をわたくし行いました(^O^)/

めちゃくちゃ広い麦畑を3枚、斉藤君が収穫(場所は上村です(^'^))
後、何町かの麦畑が残っているそうです・・

私は、腰をかがめて鍬・・違った鎌で収穫するのかな?(p_-)
と思っていたのですが・・違いました(ー_ー)!!
「ここはアメリカか?(p_-)」と思うような大きな「ナントカ言う機械」に
斉藤君が乗って、グゥワ〜ンと収穫。
「ナントカ言う機械」からビヨ〜ングゥ〜ンと大きな筒?が軽トラの巨大な袋に伸びて・・
バ〜サバサバサ〜と麦が落ちて来る・・
(中々、専門用語が解らないので・・伝わりましたでしょうか(-.-) )
その麦をセンターに私は数回に分けて運んだのであります(p_-)

でっ!ここから(^'^) (何故?このような事を書いたのか・・と言うと・・)
この収穫された麦。
センターから何処に向かうかと言いますとぉ〜
ナント!麦焼酎の原料になるそうです!!
\(◎o◎)/!

それも・・麦焼酎愛好家?の方ならおそらく御存じの銘柄です!
それは・・名前はこちらでは書かずに(控えます)
私が収穫をお手伝いした「麦」さん達は
この「焼酎さん」になります!(^O^)/
http://www.kagurashuzo.co.jp/index.php?id=30

ビックリしました\(◎o◎)/!
そうだったんだぁ〜と驚きながら、この事を知った私は
大量の麦が入った袋をナデナデしながら
「お〜いしい焼酎さんになるんだよぉ〜」と声をかけました\(^o^)/

こちらの「焼酎」を今後お召し上がりになられる方がいらっしゃったら
私が愛情を込めて
「お〜いしい焼酎さんになるんだよぉ〜」と声をかけた麦さん達が入った
「焼酎」さんかもしれません(^'^)

知らない事ばかりで・・すごく楽しいです\(^o^)/

しかし(p_-)
家に帰って、ふと考えました(p_-)

朝から「馬」さんの話しをコメントに書いたばかりなのに・・
焼酎でも「馬さん」繋がりだった・・ウホ〜ッ(^'^)と・・・・・

私が「馬さん」に拘ったのは「この事を知る為か?」(p_-)
(ー_ー)!! いえ 違うでしょう・・(p_-)

マダマダ、麦刈りは続きます(^'^)

私も、今日は、必ず精力的にコメントを書きます(^O^)/
[60]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月23日 16時54分54秒 ) パスワード

皆様、今日は。

実は、一昨日の夜から体調を崩してしまいました。

昼間は元気なのですが・・・
夜になると、原因不明の症状が出ます・・
布団に入り、ウトウトすると、顔面に激痛が走る・・
そんな感じです。
起き上がってリビングに行くと症状が治まります。
横になって寝ようとすると、また、同じ状態に・・
一体これは何なのだろう・・?
と、殆ど寝ないで、昨日はアルバイトへ・・
でも、昼間は全く問題なく・・
今日は大丈夫と思い、眠りにつくと・・又、あの激痛で目が覚める・・

さすがに、二日続けて寝れないのは・・と思い、壁に寄り掛かって
寝ました・・

でも・・不思議なのですが、激痛が走って目が覚める時は必ず夢を見ています。
二日続けて、同じ「男の人」が出て・・
昨晩は、この人が言った言葉を、ウトウト状態だったからしっかりと覚えていました。
夢の話を父にも話したのですが・・
この「男の人」の他に何人かの人がいて
この「男の人」は、正面に座っている「私」(だけど私じゃない・・何なのだろう?)
に向かって
「足利が・・」その後、「ナントカ・・」と報告?されているうちに・・
激痛で・・目が覚めました。

激痛は、寝ている状態では続くので、すぐに起き上がって、父が居るリビングへ。
父は大変、私の事を心配したのですが、
先にも書いたように、部屋に戻り、壁に寄り掛かっていると
いつの間にか寝てしまいました。

朝、父が私に
「娘が苦しい思いをしている事をお救い下さいとお願いして般若心経をお唱えしたから、あれからは大丈夫だっただろう?」
と言ってくれて
あ〜良かった、父さんのお陰で、あの後、ゆっくり眠れた・・
と思いました。

今日は、めちゃくちゃ「妙な事」を書きました。
皆様、申し訳ございません(..)

私、「夢」について、今までどうしても気になる「夢」だけ数回書いていた
と思うのですが・・
ただ・・私の気になる「夢」は・・
お菓子の神様をはじめ・・全て、後で調べると何らかの「意味」があった事は
今まで、皆様も御存じの事だと思います(..)

と言う事は今回の夢・・
「足利が・・ナントカ・・」と言った「男の人」の言葉・・
一体、どう言う事なのだろう・・?と・・

「足利が・・」と言う事は・・
その場に居た人達は「足利が」と言われた「人達?」とは「別の人達」・・
と言う事は何となく解るのですが・・

私・・最近の調査で「足利氏」について書いた記憶は殆ど無く・・
何故?だろう・・??

夢の話を書いて、さらに分析して「何だコイツは!」と思われた方、申し訳ございません(..)

でも、最近、気になる事や、書けていなかった事を
書いた事によって、急展開を迎える事が非常に多いので・・
夢の内容ですが、書かせて頂きました。

所で・・
体調が悪い上に・・さらに、気分が滅入ってしまうような事を見つけてしまいました。

私がブログに書いた内容を「丸ごとコピー」された
意味が良く理解出来ないブログさんを発見してしまいました((+_+))

この方の目的は一体何なのだろう・・?
ブログのタイトルを読ませて頂いても意味が良く解らないし・・
何故?この方は、私のブログを「丸ごとコピー」して載せているのか・・?
やはり、意味が全く解りません。
この方がブログでお書きになっている内容を色々拝見したのですが、
そう「まるで人を喰う」ような内容でした。

http://skincare.s500.xrea.com/awp/archives/138

途中から、私のブログの「丸ごとコピー」です。

ブログでの調査・・辞めようかな・・って
気が滅入っています。

でも・・そんなんじゃ、前に進めない!

父にもこの件を伝えました。

私は御先祖様の調査を愚弄するような行為をされるのは好きではありません。

体調不良も重なって・・
久しぶりに(何年ぶりだろう・・)
心の底から怒りが込み上げています。

皆様にお伝えしたい事が山積みなのに、
とても、辛いです。

(..)
[61]たけぽんさんからのコメント(2018年05月24日 00時10分33秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

うちも、最近はこの天気で体調が
おもわしくありませんでした(つд;*)

調査の方は、益々進んでいるようですね(^^)

アルバイト、楽しそうでなによりです(〃∇〃)

しかし・・・

うちも拝見させて頂きましたが・・・

人様のご先祖様を何だと思って
らっしゃるんでしょうかね?(-_-;)

あくまで個人的な意見ですが

人のご先祖を自分のご先祖と言って
自慢したいだけなのでしょうかね?

同じ平河の子孫としても、憤りを
隠せないですね(-_-;)

義高公や橘のご先祖方々が
お知りになったら
何だ?Σ(゜Д゜)
と、思われるでしょうね(-_-;)

あの仕様からは

ご先祖を敬う気持ちも
尊敬の念も
何も感じれませんね(-_-;)

嘆かわしい世の中になったモノですね

うちなら、管理者に(余り酷いようなら)
通報しますね(-_-;)

平河本家の子孫としても
見るに耐えない書き込みでした
(ノ-_-)ノ~┻━┻
[62]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月25日 09時17分50秒 ) パスワード

たけぽん様、今日は(^'^)

御心配下さって、本当にありがとうございます。
お返事おそくなりまして申し訳ございませんでした。
体調不全、父の念力?で治りました。
(-.-)

たけぽん様
平河一族伝来?の念力「メッセージ」を送りました。
私の念力「メッセージ」お受け取り下さい(-.-)

しかし・・全く、昔から
「人を喰ったような話」と言いますが・・その通りだと思います。

読解力がいりますね(p_-)

こちらのスレッドをご覧の皆様は、真摯に歴史を追及されている方々ばかりです。
ただ、ブログはそうでは無く、不特定多数の人達が閲覧の対象となり
私も、こちらのスレッドに書かせて頂くような、そんな気持ちでブログを
書いていた事を反省しています。

私のブログの内容を悪用するような、それも「危険な思考」に基づく引用
このような事が続くようであれば、今まで書いた事がない親戚のお一人
「国家●力」の方に相談しようと思っています。
でも、あの内容以降、更新はされていないようですが・・

この数日、とても、気分が滅入っていたのですが、立ち直りました。
こんな事で、落ち込んでいたなら、御先祖様から
「今まで、お前は何のために頑張ってきたのか!?」と
叱責を受けてしまいます。

私は、頑張ります。

(^'^)
[63]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月25日 23時02分32秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今晩は。

実は、白石様からの御教示に御縁を感じて調べた事で
私が理解出来た事があります。
さらに、私が実際に沢山の方々の目の前で体験した出来事についてを
松葉宗益 後裔 平賀氏について5 コメント5の方で書かせて頂きました。
よろしければ、ご覧ください。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101634_5.html

所で
たけぽん様、先程「念力」をお送りいたしました。
お受け取り下さい。
よろしくお願いもうしあげます。

たけぽん様、皆様
私は・・全ての事が一気に「不思議な力」によって
繋がった・・と思っています。
[64]たけぽんさんからのコメント(2018年05月25日 23時54分16秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
またまた何かを発見された様ですね(^^)

実は・・・

以前から平河とは違う、個人的な事なので
お聞きするのに躊躇してたのですが・・

球磨の【三宅】について
何かご存知でしょうか?(・・;)
[65]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月26日 08時47分30秒 ) パスワード

たけぽん様、おはようございます(^'^)

〉球磨の【三宅】について
何かご存知でしょうか?

私・・「三宅氏」が登場して、本当に鳥肌が立ちました。
驚き過ぎて、自分がどうかなるのでは?
と思いました。

実は・・半年程前から、色々調べていて遠江の三宅氏、岡山の三宅氏が
どうしても、気になっていたのです。
「次回、コメントします」と書いてきて、未だ書けずにいた事の一つが
「三宅氏」についてでした。

だから・・
たけぽん様から「三宅氏」のお言葉が登場して
本当に驚いたのです。

詳しくは、後ほど書かせて頂きます。
実は、猫のにゃんが右手(右足)に怪我をして(@_@。
父が目が覚めたら、病院に連れて行くつもりでいます。
父はきっとめちゃくちゃ心配するだろうなぁ(@_@。

たけぽん様
沢山、「三宅氏」について沢山書きたい事がありますので
どうか、お待ち下さい(..)
[66]たけぽんさんからのコメント(2018年05月26日 08時53分45秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

連投すいません(汗)

実は、親戚に【三宅】を見つけましてf(^^;)

で、多良木出身らしいのですが・・・

こちらでは、何の資料も無く調べようの無い
お手上げ状態になっておりまして(-_-;)

で、もしかしたら球磨の研究をしている
ミヤハラ様なら、なにかご存知ではないかと
おききし次第ですm(_ _)m
[67]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月27日 11時30分29秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

昨日は、我家に色々「騒動(珍騒動?)」がありまして
コメントを書く事が出来ませんでした。
申し訳ございません(..)

さっそく
三宅氏と球磨の関係。 書かせて頂きます。
内容は、私が、今まで「書きます」と何度も言いながら書けていなかった事であり
一連の流れを御理解頂く為に非常に長くなりますが御了承下さい。
一気に書かせて頂きます。

三宅氏について、最初に着目したきっかけは、私の住む集落旧宮原村宮麓に
明治初期まで御鎮座であった中嶋大権現(中嶋神社)について
調べた事から始まります。

@中嶋神社について
数年前から何度か書いていた先祖の調査を始める後押しとなった「夢」の話。
「お菓子の神様」とは?
いつも、この事は頭から離れずにいました。
中嶋大権現(中嶋神社)は御鎮座地を正確に書くと
旧宮原村麓中嶋に御鎮座であり、大同元年(806年)大神惟基創建の神社様であります。
しかし、地元の古老の方々の話では、「創建は実はもっと古い」との話も伝わっています。

中嶋大権現(中嶋神社)と同名の神社様は兵庫県豊岡市に御鎮座の中嶋神社。
ウィキによると http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B6%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE
中嶋神社(なかしまじんじゃ)は、兵庫県豊岡市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。「菓祖・菓子の神」として製菓業者の崇敬を受け、日本各地に分社がある。
祭神(御祭神)
田道間守命を主祭神とし、天湯河棚神(あめのゆかわたなのかみ)を配祀する。
田道間守命は天日槍命の5世の子孫で、『日本書紀』に記される垂仁天皇の命により常世の国から「非時香果(ときじくのかぐのみ)」(橘のこと)を持ち返ったとされる人物である。橘は菓子の最上級品とされたことから、菓子の神・菓祖として崇敬される。また、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから、養蚕の神ともされる。
天湯河棚神は中古に合祀された安美神社の祭神で、鳥取連(ととりのむらじ)の祖神である。『日本書紀』によれば、垂仁天皇の命により皇子誉津別命の為に鵠(くぐい。白鳥のこと)を捕えた人物で、一説には、『古事記』に記される鵠を捕らえた地、和那美之水門(わなみのみなと)の近くに祀られたものであるという。

歴史
『国司文書』によれば、推古天皇15年(606年)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのに創まるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命の墓が垂仁天皇陵の池の中に島のように浮かんでいるからという。
============================================

※1.「田道間守命」・・垂仁天皇の命により常世の国から「非時香果(ときじくのかぐのみ)」(橘のこと)を持ち返ったとされ
橘は菓子の最上級品とされたことから、菓子の神・菓祖として崇敬される。
※2.『国司文書』によれば、推古天皇15年(606年)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのに創まる。

夢の話を書くのはナンセンスですが、私は「ようやくお菓子の神様をお見つけした」
と・・感動した事を記憶しています。
しかし、其の後数年間の私の調査に、「田道間守命」が度々「御登場」されるとは
此の時は、全く考えてはいませんでした。

注目★三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのに創まる。
田道間守命の後裔は【三宅氏】【蝮橘氏】【橘戸氏】【橘守氏】【橘氏】【椿戸氏】【椿氏】
(日本の苗字七千傑様 サイトより 参考にさせて頂きました)

A難升米と田道間守命
球磨の古代について、何度かコメントを書いている内に久留米地名研究会様が
ネット公開されていらっしゃる「松野連 倭王系図」に気が付きました。
「松野連 倭王系図」 画像
※3. http://chimei.sakura.ne.jp/f32-1223.gif

※4. http://chimei.sakura.ne.jp/f32-1223.gif

東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に登場する「難升米」この方の名前、さらに
日本書紀 景行天皇紀(十七条)に登場する「熊縣」(現在の球磨郡・人吉市)
の「熊津彦」この方のお名前
「松野連 倭王系図」では「熊津彦」の子として「難升米」が位置づけられている事を
知った時の「驚き」は、今でも明確に記憶しています。

しかし、驚きはこれだけではありませんでした。

「難升米」をウィキで調べると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E5%8D%87%E7%B1%B3

難升米(なしめ、生没年不詳) または難斗米(なとめ)は、3世紀の人物。邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫。
中略・・
245年に突然、(卑弥呼やそれを補佐する男弟ではなく)難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられていることは注目される。
同時期、魏の帯方郡に対して、三韓が反乱を起こして帯方郡と楽浪軍の太守によって鎮圧される事件が発生しており、難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられたことの関連性が注目される。
京都大学教授だった内藤湖南の説では、難升米を垂仁朝に常世の国に使者として赴き景行朝に帰朝した田道間守としている。
中略・・
田道間守に関しては、『日本書紀』『古事記』の説話に基づいて菓子神・菓祖とする信仰があり、中嶋神社(兵庫県豊岡市、位置)では「田道間守命」の神名で菓子神として祀っている。
この中嶋神社の分霊は、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都府京都市)など全国各地で祀られ、菓子業者の信仰を集めている。
また、奈良県高市郡明日香村の橘寺の寺名は田道間守伝説に由来すると伝わるほか、
田道間守の上陸地の伝承がある佐賀県伊万里市では伊萬里神社には田道間守命を祀る中嶋神社が鎮座し、
和歌山県海南市の橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は田道間守が持ち帰った橘が初めて移植された地であると伝える。

※補足 「三韓」とは
三韓(さんかん)は、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した種族とその地域。
朝鮮半島南部に居住していた種族を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
衛氏朝鮮の「辰国」である。
遼東郡の公孫氏が独立してからは、三韓諸国は公孫氏に服属した。

★松野連系図に熊縣「熊津彦」の子として位置づけられた「難升米」
京都大学教授だった内藤湖南の説では、難升米を垂仁朝に常世の国に使者として赴き景行朝に帰朝した田道間守としている。

この記述を読んだ時の、驚きも、今でも忘れる事は出来ません。
ここまでをまとめると
古代久米氏の元祖的本拠地、さらには古代久米物部氏の元祖的本拠地と言われる
球磨郡久米郷。球磨郡は太田亮博士の説によると「球磨は久米である」とあり、すなわち球磨郡=久米である。
その、球磨郡久米郷宮原村麓中嶋に御鎮座の「中嶋大権現」(中嶋神社)
この球磨郡は日本書紀では「熊縣」と記され、此の地に「熊津彦」が在していた事が記されており
さらに、その「熊津彦」の子として「難升米」を位置づける「松野連系図」
そして
内藤湖南説によると「難升米」を橘の実を持ちかえった「田道間守」としている。
球磨郡久米郷は鎌倉時代以降、橘公業の所領地となり、南北朝時代以降
球磨郡久米郷宮原村は橘氏の支配が続いていた。
しかし、上記の「橘氏」は橘諸兄後裔の「伊予橘氏」であり、田道間守の後裔の「橘氏」とは異なる。
となります。

私は、この一連の流れを「単なる偶然」とは決して思う事は出来ずにいました。

B不思議な偶然。橘公業の所領地と「田道間守」

先に、ウィキより転記した「田道間守」をお祀りの神社様は
中嶋神社(兵庫県豊岡市)
中嶋神社の分霊は、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都府京都市)など全国各地
田道間守の上陸地の伝承がある佐賀県伊万里市では伊萬里神社には田道間守命を祀る中嶋神社が鎮座。
和歌山県海南市の橘本神社

こちらにコメントを数回頂いている「人吉宮原家」様は
八代氷川宮原城城主宮原公忠直系でいらっしゃる宮原様です。
「人吉宮原家」様の御調査をブログで拝見して、不思議な偶然に気が付きました。
https://ameblo.jp/mmmhide/entry-12341202876.html

私は宮原様のブログを拝見して、ようやく気が付きました。
橘公業の所領地には「中嶋神社」の”名称”の「神社様」が2か所あったのだ・・と言う事を。

佐賀県
香橘神社(こうきつじんじゃ)
垂仁天皇の代に天皇の命で常世の国から不老長寿の妙薬と称された非時香菓(ときじくのかぐのこのみ、橘のこと)を持ち帰った田道間守命が帰途この地に非時香菓を一株植えたことから、日本における橘の初渡来地として「橘の宮」と称されたことが始まり。
田道間守命を祀る中嶋神社が境内社として本殿近くに合祀されている。

球磨郡
球磨郡久米郷宮原村麓中嶋に御鎮座の「中嶋大権現」(中嶋神社)
御祭神 霧島神宮同體

実は、球磨郡にはもう二か所「中嶋神社」が御鎮座です。
●旧田代村(現人吉市)の中嶋神社(中嶋大明神)。★永正年中 藤原長毎こう御領ニ依テ林田氏某再興
御祭神 阿蘇神社同體
●旧河辺村(現相良村)の中嶋神社(中嶋権現)。
御祭神 霧島神宮同體
球磨郡の名称”中嶋神社”の御祭神は「田道間守命」ではありません。
旧河辺村・旧田代村は橘公業の所領地「久米郷」ではありません。
しかし・・不思議なのですが旧宮原村・旧河辺村・旧田代村には「宮原氏」が非常に多く住まわれています。
何故なのだろう???
★特記 太宰府天満宮(福岡県太宰府市)にも「田道間守命」をお祀りの菓祖中島神社九州分社が御鎮座

ナンセンスと思われる方もいらっしゃるかと思いますが・・
私は調査を初めてすぐにコメントに夢の話を書きました。
お菓子の神様が夢に出られて、その方に「あなたはどなたですか?」と尋ねると
大きな四角い帽子?を被られた方が、私の側で「知りたかったら調べなさい」
とおっしゃいました。
その夢が、長年ずっと気になっていた祖母の言葉を調べようとする「後押し」を
して下さいました。
今思うのは・・やはり「お菓子の神様」は本当にいらっしゃった、そして「お菓子の神様」をお調べするのは、非常に重要な事であった・・
そう、自分で納得しています。

C橘遠江入道道公を調べた際に繋がった「田道間守命」

南北朝時代、一貫して南朝方であった球磨郡久米の領主「橘遠江入道道公」
私は、この方と上相良氏との繋がりが非常に気になっていました。
今まで、コメントに書いていた通りです。
そこで、遠江の橘氏と相良氏の関係を含めて、調査していました。
(以前のコメントを御参考下さい)
太田亮博士の説から、橘紋を使用する「井伊氏」そして「日蓮聖人」と
橘公業を含む「伊予橘氏」が何らかの関係を持っている事は推測出来ました。
さらに「井伊氏」と縁戚関係を持つ「相良氏」。
「井伊氏」を調べている際に非常に興味を抱く記述を目にしました。

古樹紀之房間様 サイト 遠江井伊氏の系譜 宝賀寿男氏を拝読している際に
「球磨郡久米郷宮原村」との共通点、さらに「田道間守命」「三宅氏」との繋がりに
気が付きました。
それは井伊氏が奉祀された神社様の記述にありました。

古樹紀之房間様 サイト 遠江井伊氏の系譜 宝賀寿男氏 より
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/iishik1.htm

勝手ながら、抜粋して転記させて頂きます。

井伊谷での祭祀の中心となる渭伊神社は式内社で、『三代実録』にも見える。もとは龍潭寺の境内にあったとされ、井戸・井水を祭祀対象として水神の罔象女神(瀬織津姫、白山比・)を祀る神社である(中世に正八幡宮、井伊八幡とも称した影響で、祭神を玉依姫命・品陀和気命・息長足姫命とする)。地域の産土神で、井伊氏の氏神であり、境内社には水神社もある。本殿背後の丘には、古墳時代の巨石祭祀の遺跡・天白磐座遺跡(薬師山の巨石群)がある。龍潭寺の西方近隣には、白山神社もある。
 これら祭祀・伝承から見て、井伊氏の先祖は海神族の流れを引いたとみるのが自然である。

※気が付いた事
渭伊神社 御祭神 水神の罔象女神

宝賀寿男氏は
祭祀・伝承から見て、井伊氏の先祖は海神族の流れを引いたとみるのが自然である。と説く。

※旧久米郷宮原村との共通点
旧宮原村にそびえる黒原山(古代久米族の守護山であり権利の主張)
山頂にほど近い場所に御鎮座の雨引山王(あまびきさんのう)
雨引山王 宮原中峯山王山 とあり
社家傳云 垂跡神三所
雨引明神 山王権現 八大龍王
傳云雨引明神ハ罔象女命ミツハメノミコト

久米の領主「橘遠江道公」の所領地である「黒原山」の頂上近くには
御祭神 罔象女命(ミツハメノミコト)雨引山王(雨引神社)が御鎮座

さらに
古樹紀之房間様 サイト 遠江井伊氏の系譜 宝賀寿男氏 より転記

井伊谷には家紋を橘とする二宮神社があり、これが引佐郡式内社の三宅神社の論社とされる。井伊郷の荘司であった三宅氏の始祖「多道間守」を祀る神社であったが、南北朝期には宗良親王を合祀して現社号となったという。同社の創祀者を九世紀末頃の三宅篤茂と伝えたり、延喜年間にこの地の荘司として着任した三宅好用の三代目の井端谷篤茂の娘が藤原共資との間に生んだのが共保だとも伝える。境内の伊雑宮も、志摩や三河の同名社同様に海神族により奉祀された神社である。天文年間に井伊直盛が二宮神社を再建したという。三宅神社の論社は、同市北区細江町気賀の屯倉水神社にもあって、こちらが式社ともされる(もとは小字大鳥居にあった屯倉神社が水神社に合祀されたという)。この地は伊福郷域とされ、井伊谷の南方近隣で、都田川の南岸に位置する。

※井伊谷「家紋を橘とする二宮神社」・・井伊郷の荘司であった三宅氏の始祖「多道間守」を御祭神とする。

転記はしませんが、其の後の記述を拝読すると遠江国には
※「田道間守」を先祖とする「三宅氏」
※「八田毛止恵」を先祖とする海神族系の「三宅氏」
の二系の「三宅氏」があった事が理解出来ました。


D「田道間守」の系譜と「球磨」

日本の苗字七千傑様の【昔 氏】姓氏類別大観 及び《田道間守裔》をご覧ください。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03025.htm

次々雄に始まる新羅王の家系。
「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」で有名な児島高徳は、天日槍命を遠祖とする田道間守の後裔と称する。
 高祖神社に崇敬の厚かった恰土県主五十迹手も、天日槍命の裔。
 承和7年(840)勅により田道間守裔の橘戸、蝮橘、橘連、伴橘連、橘守、橘の六姓は、仁明天皇の生母檀林皇后(橘嘉智子)の本姓橘字を避け椿字に改称することとなる。

新羅国の王家・・
神宮皇后様の母君は同系図に見える「葛城高顙媛命」でいらっしゃいます。
神宮皇后様は応神天皇様の母君でいらっしゃいます。

皆様、私が今から書く事は大変、「不敬」にあたる事かもしれません。
だから、今まで書く事が出来ないでいました。
しかし、今日は、意を決して書かせて頂きます。

私は、皆様にぜひお読み頂きたい書籍がございます。

大正十五年に出版された浜名寛祐氏 著 日韓正宗溯源 です。

私は、この書籍を、かなり以前、球磨の古代を調べていて知る事になりました。
紹介されていたサイトがかなり過激な発言をされているサイトであった事もあり
その時、真剣に読む事はしませんでした。
しかし、球磨の古代を調べている内に、一度、じっくり読んでみようと言う気持ちが出ました。
読んでみると・・そこには、驚愕の記述が書かれていました。
古代の球磨の方々と新羅建国の謎が書かれていたのです・・

現在、この書籍は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。
特に、「球磨」「曾於」と係りのある記述からを
ぜひ、皆様にじっくりお読み頂ければと思います。

浜名寛祐氏 著 日韓正宗溯源 コマ番号236 第十八章からです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/236

特に コマ番号239からは 金・朴・昔氏は球磨曽於族である・・との
浜名寛祐氏の説が詳しく記されています。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/239

『箔箘籍(朴・金・昔)をクマソの姓氏と考證するに至った』・・
との記述・・
『宇豆・・當時噌唹玖摩(曽於・球磨)の二郡は熊襲の本拠なれば、宇豆の名は遠く海外に聞こえたものと察しされる』
との記述・・
さらに「多婆那」国の検証等の記述が続いています。

私は、この書籍、特に「球磨」に関わりのある記述を読んで、
変な感覚ですが、驚くと共に「どうしたらいいのだろう・・」と考えてしまいました・・

しかし・・コマ番号249を読み、また・・球磨は影の存在として利用されている
と感じました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/249

仲哀天皇様の熊襲征伐
神宮皇后様の征韓・・新羅征韓
『いずれも熊襲の主體を新羅にみとめられたからである』

書籍では、古代朝鮮半島に進出した「球磨曽於」の行為を、当時の朝鮮半島の方々にお詫びする内容と共に
「だからこそ!」・・
仲哀天皇様は熊襲征伐を進め、神宮皇后様は新羅を攻められたのですよ・・
と言う内容が書かれています・・

大正十五年・・当時の時代背景が色濃くみえます。
日本の海外進出・・
もちろん、その後の時代は、私は「自分とは無関係」とは到底言えない事は
十分に解っています・・

ただ・・対外的な事が書籍に綴られていた事で
国内の古代がしっかりと見えたような気がします・・・

神宮皇后様の母君は「葛城高顙媛命」・・新羅国王家の家系。

不適切な発言、不敬があればお詫び致します。
しかし・・私は、球磨の古代の真実が本当に知りたい・・

「田道間守」この方は同じく繋がる「新羅国王家の家系」

「球磨」と「田道間守」
私が調べていた事を、ここまで皆様に御紹介させて頂きました。

「田道間守」の後裔の「三宅氏」の本拠地の一つが備前(岡山県)である
と言う事も調べていました。

しかし・・ここまで、調べていたにも関わらず、球磨には三宅姓はあまり
多くはいらっしゃいません。
だから・・
非常に驚いたのです!

たけぽん様の「お言葉」が・・
『球磨の【三宅】について何かご存知でしょうか?』
『実は、親戚に【三宅】を見つけまして』

たけぽん様、最後に御質問があります。
御親戚の「三宅家」様は多良木ご出身との事ですが
江戸時代以前から球磨にいらっしゃったのですか?
それとも、別の地域からお越しになられたのでしょうか?
ぜひ、お聞かせ下さい。<m(__)m>

たけぽん様、皆様
今日は、今まで頭の中にずっとあったけれど「書いていなかった事」の一つを
一気に書かせて頂きました。
長くなりましたが、お付き合い下さった方々にお礼を申し上げます。
ご覧下さって ありがとうございます。

ミヤハラ





[68]たけぽんさんからのコメント(2018年05月27日 21時06分36秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

三宅について、沢山の御教示
ありがとうございます(^^)

うちの調べでは、知る限りの
ご先祖様の中で、計算が正しければ
江戸ギリギリに生まれてる方が
いてます 。

ミヤハラ様ならお調べになればすぐに
お分かりになると思いますが
昔、九電前辺りから映画館があった
辺りまで土地があったそうです。

残念ながら、いつからかは
わかりませんでしたm(_ _)m
[69]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月27日 22時18分07秒 ) パスワード

たけぽん様、今晩は(^'^)

御親戚の三宅家様。

いつからか・・と言う事は、球磨とは別の場所から
来られた・・と言う事ですね。

三宅家
どこから来られたのかは御存じないでしょうか?
御存じであれば、お教え下さい(..)

[70]たけぽんさんからのコメント(2018年05月27日 22時51分56秒 ) パスワード

ミヤハラ様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

聞いた話では、元々
岡山の出だそうです。

で、昔は地主?みたいな感じの
家だったらしいです(・・;)

多分、豪族ではないと
思いますが・・・(..)

[71]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月29日 12時20分56秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

たけぽん様、三宅家
〉聞いた話では、元々岡山の出だそうです

えっええええええ〜っ!!!!!\(◎o◎)/!
ビックリしました!!!!

岡山の三宅家・・・えええええ〜っ!!

そうでしたか(p_-)
何だろう・・納得しました・・何だろう・・やっぱりな!(p_-) 
と言う感じです(p_-)

日本の苗字七千傑様の【三宅氏】姓氏類別大観をご覧ください。

新羅の王子、天日槍命の後裔と称するが、孝霊天皇裔の吉備氏族説なども存在する。
備前国児島郡発祥の南北朝時代の武将児島高徳を始め、豊臣時代の宇喜多氏などが著名である。
また、千姫の大阪城救出で憤死した坂崎出羽守直盛が世に知られている。
大名家の三宅氏(三河田原藩主)は、児島高徳の末裔と称する。
また、三宅の地名多く、周の霊王裔、多氏族、越智氏族など各地より発祥の異流三宅氏も頗る多い。 

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03017.htm

先日、コメントした、
「田道間守」「神功皇后」「応神天皇」様方の御関係が見えます。
「田道間守」の後裔の方々が「橘」を名乗られた事も解ります。

さらに
日本の苗字七千傑様の《三宅姓和田氏》姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03017.htm#001

宇多源氏「佐々木盛綱」に繋がる方々と、越智姓「河野通信」に繋がる方々との
姻戚関係が見えます。

さらに
日本の苗字七千傑様の《三宅姓児島氏》姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03017.htm#002

藤原氏公季流「三条実親」「三条公泰」に繋がる系の方々と
「宇喜多氏」との関係「三宅氏」との関係が見えます。

三条実親、この方は ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E8%A6%AA

系譜より
父:三条公房
母:中山忠親の長女
妻:西園寺公経の次女(?-1235)
長男:三条公親(1222-1288)
次男:三条公泰(1231-1305) - 実五男か

★妻:西園寺公経の次女

「平頼盛」曾孫、「西園寺公経」の次女の方を母とする三条公泰の系が
宇喜多氏である事が解ります。

その宇喜多氏と三宅姓児島氏、「三宅氏」が姻戚関係にある事も解ります。
田原三宅氏もこちらの系となります。

★この方々の多くが「岡山県」に関わる「三宅氏」です。

私が調べていた「三宅氏」とはこの方々「岡山の三宅氏」の事でした。
だから!たけぽん様の御親戚の「三宅家」様が「元々岡山の出」でいらした
と伺って腰が抜ける程、驚いたのです・・・

実は、岡山の三宅氏を以前、調べていて、以前からすごく気になる事に気が付いていました。

ウィキの三宅氏の記述は、色々な推測等が書かれているので、
私は、日本の苗字七千傑様の「三宅氏」姓氏類別大観を拝見するのが
全体を把握するには最も解り易かったのですが
ウィキの三宅氏の記述に、「一つ」とても気になる事が書かれていました。

ウィキ 「三宅氏」より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E6%B0%8F

備前三宅氏の項より
★家紋は宇喜多氏の代表紋である、剣片喰(剣酢漿草)が伝わっている。[注釈 5]
★)[注釈 5]  主に丸に剣片喰

宇喜多氏の代表紋・・確かに「剣片喰(剣酢漿草)」です。
宇喜多氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E6%B0%8F

出身地 備前国児島半島
主な根拠地 備前国岡山

奇妙な偶然を見つけてしまいました・・・
私の住む集落には「丸に剣片喰紋」と「楓紋」の親戚が集結?している・・

「楓紋」はブログやこちらでコメントしたように
平頼盛・平光盛の後裔の方々や
西園寺公経に繋がる方々の使用する「紋」である事が解っています。

「剣片喰(剣酢漿草)」・「丸に剣片喰紋」の紋は
平頼盛の曾孫である西園寺公経の次女を妻とする「三条実親」に繋がり、「田道間守」の後裔でもある「宇喜多氏」の代表紋であり
「田道間守」の後裔「三宅氏」も
「剣片喰(剣酢漿草)」・「丸に剣片喰紋」を使用されていた・・

そして・・この「楓紋」・「剣片喰(剣酢漿草)」・「丸に剣片喰紋」を使用する
家々が多数住する、旧宮原村麓。
旧宮原村麓中嶋には「中嶋神社(中嶋大権現)」が御鎮座。

そして・・此の地は旧球磨郡久米郷であり、太田亮博士は球磨は久米であると説き
さらにその球磨は日本書紀には熊縣と記され
熊縣には熊津彦が縣主として住されて、その子息として難升米が松野連系図に記され
「難升米」と「田道間守」は同一人物と内藤湖南氏は説く・・

これは・・本当に偶然なのか!?

私、本当に着目すべき「人物」がどなたなのか・・少し見えたような気がしています。
その方は「熊津彦」この方ではないのか・・?

「熊津彦」は景行天皇に従いました。
この時に景行天皇が神輿をおとめになられた場所が天子神社。
天子神社のある地域から、球磨川を隔て、遥か真正面に見えるのは「黒原山」です。
「熊津彦」。この方は、球磨の内の何処に住まれていたのか!?
球磨の何処に古代の城を持ち、何処から景行天皇の元に行かれたのか!?

何故?球磨に御鎮座の数か所の中嶋神社は「中嶋権現」であるのに対し
旧久米郷宮原村麓中嶋の中嶋神社は「中嶋大権現」なのか・・

私、全て・・そう全て繋がっているような気がしてならない・・

そうずっと考えていた所に
たけぽん様から「三宅氏」のお話があり、
さらに御親戚の「三宅氏」が元々「岡山」にいらした・・とのお話があり
だから、本当に、本当に驚いたのです・・

たけぽん様の御親戚「三宅氏」と家の親戚一族との関係は
たけぽん様と私の「念力」のやりとりで、色々「解って」きました(^'^)・・


たけぽん様、皆様、私がここ数日書いてきた事、どうお考えになられますか・・
ぜひ、御教示を頂きたいと思います。

たけぽん様
岡山の「三宅氏」が何故?岡山から江戸時代末期に多良木に来られたのか・・
私は古代から推測すると、まるで「里帰り」のような気がします・・
がっ!
きっと、この裏には「相良氏」「池田氏」が繋がっていると推測しています。
詳しくは次回に(p_-)

岡山・・実は家とも無縁ではありません。
私の(宮原の)高祖母の系を調べたら・・「岡山県」に繋がる記述を実は・・
見つけていたのです。
太田亮博士が「教えて」下さいました・・
何の事やら・・と皆様お考えでしょう。
このお話も次回に(..)

今日は外出致します。
続きは明日以降にさせて頂きます<m(__)m>
[72]たけぽんさんからのコメント(2018年05月31日 10時53分56秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
三宅に関する情報
色々ありがとうございます(^^)

三宅に関する物は、ほぼ0なので
何処の系かは解りかねますが
江戸ギリギリに産まれた方がいる

と、言う事は
その前には既にこちらに
来ていた筈ですが、いつとは
わかりませんでしたf(^^;)
[73]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月01日 10時31分07秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は。

二日続けて来客があり、コメントの続きを書く事が
出来ませんでした。
申し訳ございません。

たけぽん様
〉江戸ギリギリに産まれた方がいる
〉と、言う事はその前には既にこちらに来ていた筈

ここが、とても重要なのだと思います。

おそらく、「相良家から池田家に養子に入られた」・・
この時期が関係しているのでは?と私は推測しています。

実は、私の(宮原の)高祖母の実家、久保本家も
何時から球磨に来られていたのか、私も解らなかったのです。
久保本氏は太田亮博士の姓氏家系大辞典では
備前や美作(三輪庄)の名族と記されています。
(今日は外出しますので詳しくは明日にでも書きます<m(__)m> )

備前や美作は岡山県です。
実は美作の三輪庄を調べたら、地頭を務めた「系の方々」と三吉氏の姻戚関係も解りました。
三吉氏は江戸時代末期、私の住む集落にいらっしゃいました。
かなり、以前、曾祖母の実家「新堀家」の御堂の御神像の銘文に三吉氏の名前が記されていたをコメントに書いていました。
高祖母が久保本家から、家の宮原家に嫁いで来られた後、
「新堀家」の私の曾祖母の弟の方が、私の高祖母の実家「久保本家」に
養子に入られています。

おそらく、家の場合、高祖母の久保本家が球磨に来られた時期は
「池田家から相良家に養子に入られた方」と関係しているような・・
そんな推測をしています。

さらに、先に書いた美作三輪庄の「地頭の方の系」と
宮原の一族の先祖「橘公長」の系はおそらく無縁ではない・・と言う事も
調べた結果見えてきました。
旧宮原村の曾祖母の実家「新堀家」は江戸時代初期に、宮原氏が養子もしくは婿養子に入って
継いでいる可能性が非常に高い事も解っています。

私は、たけぽん様が「三宅氏」について書かれた事により
自分の方の先祖についても、繋がりが見えるようになりました。
久保本家については、以前から気になっていたのですが、本格的に調べようと
思ったのは、たけぽん様からの「お言葉」があったからです。
心よりお礼を申し上げます。
ありがとうございます。

でも・・
こう言う風に全てが「何かをきっかけ」に繋がってくると言う事は
たけぽん様の御先祖様、私の御先祖様のお導きだと
私は、心から感謝しています。

明日は、詳細をしっかりと書くつもりです!
たけぽん様、皆様、お待ち下さい<m(__)m>
[75]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月03日 09時19分20秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、おはようございます(^'^)

三宅氏が球磨に来られた時期・・

私は肥後人吉藩の第15代(最後の)藩主「相良 頼基」
この方の繋がり、御兄弟が関係しているのでは?と推測しています。

「相良 頼基」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%A0%BC%E5%9F%BA

父母 父:相良頼之、母:慶寿院(頼之の侍女)
養父:相良長福
兄弟 長福、準之助、於栄、於保(米良則忠室のち宮原健之助室)、
池田章政、於英(相良中務室)、頼基、貞四郎
妻 正室:上杉斉憲の娘
継室:徳大寺公純の娘・永

池田章政 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E7%AB%A0%E6%94%BF

池田 章政(いけだ あきまさ)は、備中鴨方藩の第9代藩主、のち備前岡山藩の第10代(最後の)藩主。岡山藩池田家宗家の第12代当主。栄典は従一位勲一等侯爵、麝香間祗候。
肥後人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。正室は戸田氏正の娘鑑子。子は政保(長男)、詮政(次男)。備前守、侍従、左近衛権少将。幼名は満次郎。鴨方藩主時代の名乗りは池田 政詮(いけだ まさのり)。
頼之の祖父の相良長寛は岡山藩の第4代藩主池田宗政と正室(宝源院・黒田継高の長女)の次男であり、章政は宗政の男系の玄孫にあたることから、鴨方藩池田家、のちには岡山藩池田宗家の養子に迎えられることになった。

時は、江戸末期・・
私は三宅氏が球磨に来られた時期と重なっているのでは?
と・・推測しているのですが・・・

三宅氏の推測は・・このようになっているのですが・・
実は、私の高祖母の実家「久保本氏」の球磨に来られた時期の推測は・・
外れていたようです・・

先日、コメントを書いた後、あらためて調べたのですが・・・
沢山の事を知る事が出来ました。
現在の推測は「小豆島」から宮原村に180名の移住者の方々が来られた時期・・
ここに「鍵」があるような・・そう推測しているのです。

小豆島が登場したからには、この話は「ブログ」で(p_-)
と思いました。
現在、まだ「その調査」は@と題して書いているのみですが
Aも、続けてここ数日の間に書くつもりです。

たけぽん様、皆様
家の方の親戚関係はやはり「橘氏繋がり」であるように感じています。
岡山県と家の親戚がどのように繋がっているのか
詳しくはブログの方に書きましたのでよろしければご覧ください。
ブログアドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12380666475.html

今回も、あらためて思った事があります。
今まで、私が調べてきた事・・それは、無駄ではなかった・・
と言う事です。
何がどう繋がるのか解らない「点」ばかりを見つけてきたような調査ですが
無駄ではなかった・・そう感じています。
きっと、今を過ごすと言うのは、近い未来への足がかりなのだと
思います・・
[76]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月07日 06時37分26秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます。

ブログの方で、
「美作 津山藩」と「小豆島」との関係や
私の住む旧宮原村の田地登記上の「大字 宮野」からの
地名「宮野」について勉強した事
等を書かせて頂きました。

「美作 津山藩」繋がりで「三次」の久保元氏についても
気が付いたのですが、その事は、まだブログには書いていません。
今後、書かせて頂くつもりです。

よろしければ、皆様、ご覧ください(..)
ブログアドレス

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12381169789.html

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12381680126.html

まだ、ブログには書いていませんが
吉備と球磨の古代からの繋がりは非常に強固なものであった
そう言う気がしています(゜-゜)

では(..)
[77]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年06月15日 09時05分09秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

新しいスレッドを立ち上げました。

今回も、温かいお言葉、ありがたい御教示の数々を頂きまして
心よりお礼申し上げます。
ありがとうございます。

今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

こちらは、「平川家について 44」に続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101636.html
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