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 投稿番号:101345 投稿日:2014年03月10日 06時04分17秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について10-1

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

平川家について10−1を立ち上げました。
題名の10−1とは、ここで苦しむことなく調査がスムーズに進むようにと願いを込めて、橘公員の十一(余一)にあやかり?10−1でございます。(^・^)

ここまで、皆様のご教示のお陰で、宮原も平川も様々な事が解ってきました。
御協力頂き、本当にありがとうございます。

前スレッドの最終日には、橘と中村氏・伊達氏・安達氏などの関係が見えてきました。なお且つ、平川においては、二階堂氏に繋がる確実な情報が見つかり、そして、宮原・平川其々が、「秋田」という土地に関わりがある事が、解りました。

思わぬ方向に進み始めた調査ですが、今後とも、どうか、ご教示の程よろしくお願い致します。

前スレッドの最終コメントを転記いたします。

みなさま\(゜ロ\)(/ロ゜)/みなさま\(゜ロ\)(/ロ゜)/

ついに、ついに見つけました!!

平河義高 二階堂氏 そして、なんと宮原ではなく平河と伊達氏を結ぶ記述を見つけました!!

久保田(窪田)氏の調査に入ろうと思うのにどうしても、二階堂久米氏の記述が気になって、googleブックで「二階堂久米氏 球磨」とキーワードを入れて検索した所、以下の記述を見つけました。

葬式仏・ - 133 ページより
球磨郡神社記」に四一社をあげているが、その社名と霊神名は、つぎのごとくである。 ... 瀬主馬) ,山田若宮(山田地頭祖) ,小山田大王(平川義高 二階堂為氏の新妻となったが、 はない。 ... 八実) ,黒肥地荒岳(相良定頼) ,多良木新八幡黒肥地新八幡(相良頼景) ,黒肥地大王(平川高(相良玄蕃) ,黒肥地若宮(相良頼観と頼仙) ,春) ,久米新八幡(相良治

★小山田大王(平川義高 二階堂為氏の新妻となったが、 はない。 ... 八実)
多分、山田大王神社の記述だと思います。平川義高が祭られています。そして二階堂為氏に何方かが新妻となったが・・・と。

早速 二階堂為氏を検索して、何故か今日一日の調査に繋がる記述が出て来たのです。
ウィキより 二階堂氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E6%B0%8F

須賀川二階堂氏[編集]

鎌倉時代の二階堂氏から須賀川二階堂氏へ至る詳しい系譜は明らかではない。

文安元年(1444年)頃、鎌倉から二階堂為氏が須賀川に下向し、命令に従わなくなった須賀川代官二階堂治部大輔を討ち、須賀川城に入ったという。この為氏が須賀川二階堂氏の初代当主ともいわれている。

天文11年(1542年)に勃発した天文の乱と呼ばれる伊達氏の内訌に端を発した大乱では、伊達稙宗の娘婿二階堂照行(輝行とも)は稙宗方となっている。

永禄年間(1558年から1570年)になると、度々蘆名氏に攻められ、二階堂盛義は息子を人質として送り講和した。

盛義の死後当主となった二階堂行親は夭折し、その跡は盛義の未亡人であり、伊達政宗の伯母にあたる阿南の方(大乗院)が継いでいた。そのため政宗も幾度となく降伏を薦めたが、阿南の方はこれを頑強に拒否。天正17年(1589年)10月26日政宗に攻められて、須賀川城は落城した。阿南の方はその後政宗を嫌って甥の岩城常隆を頼り、常隆の死後は佐竹義宣の元に身を寄せた。佐竹氏が出羽に移封されると病のため須賀川に留まることになり、1602年に62歳で没したという。

★二階堂行親の名もあります。
★日本の苗字七千傑様からご教示頂いた「佐竹義宣」の名もあります。
★二階堂行親は夭折し、その跡は盛義の未亡人であり、伊達政宗の伯母にあたる阿南の方(大乗院)が継いでいた。
★伊達稙宗の娘婿二階堂照行(輝行とも)は稙宗方となっている。
★度々蘆名氏に攻められ、二階堂盛義は息子を人質として送り講和した。

これはこれは\(◎o◎)/!今日、一日の調査やご教示が無かったら、記述されている内容はきっと意味が解らなかったと思います。

二階堂盛義については先日もコメントしていました。
ウィキより 二階堂盛義
二階堂 盛義(にかいどう もりよし、天文13年(1544年)? - 天正9年8月26日(1581年9月23日))は、戦国時代の武将で、須賀川二階堂氏の当主。二階堂照行(輝行)の嫡男。別名、行盛(ゆきもり、父と「行」の字が共通していることから初名の可能性が高い)。信濃守。

蘆名氏の当主である蘆名盛隆の実父。盛隆の他に二階堂行親、行久(ゆきひさ)、行栄、岩城御前(岩城常隆後に伊達成実継室)などの子がいたとされる(行久と行栄については「須賀川市史」などで存在を指摘しているが不明な点も多い)。室は伊達晴宗の娘の阿南(おなみ)姫。

★岩城御前(岩城常隆後に伊達成実継室)
★室は伊達晴宗の娘の阿南(おなみ)姫。

どうか、御協力、よろしくお願い致します。<m(__)m>

前スレッド
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/101343_93.html

こちらからの、続きです。

[1]白石さんからのコメント(2014年03月10日 20時36分15秒 ) パスワード

こんばんは
伊達氏
やっとつながってきた と 思っています。
伊達氏は伊佐氏と打ち込んだら 常陸入道念西なる言葉が出てきました。名前がいろいろ出ると私混乱してきます。が
常陸入道念西- Wikipedia をみると
伊佐 中村
常陸大掾一族
毛野氏
などでて 
中村はうちの川向の集落にあり、平家城跡があったあたりで、ここは親類が大きくうちの平川に嫁入ってきた尾方家もそこから男子がきたかどうだったか ともかく縁戚にあります。

それで 私は 子供の頃しらなかったのだけど、そこの同級生が やたら親しくしてきていました。この頃 親戚関係を聞いて あら〜ッと驚きました。

前に 太田亮氏の辞典で 薩摩の島津庄に関して 伊佐氏が関与していて 藤原頼通などの言葉があったと 書いたことがありましたが、あちこちにいるのですね。

子孫様 頑張ってください。
子孫様の示されるネットの文を読むだけでも楽しいです。

毛野氏
中世の武家はこの氏から分れでたという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
伊勢の外宮(月読の宮)のあたりを中村の地といって、秀吉もこのあたりでうまれたという。
秀吉の父は岡山出身だったらしく、母方つながりで加藤・石川・福島などとつながっていると本で見たことがありましたが・・・
その うちの川向の集落にも 木下・福島などの家があります。


 
[2]子孫よりさんからのコメント(2014年03月10日 21時21分53秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

白石様、ご教示ありがとうございます。

急展開してまいりました。

私が、あまりにも先に進まないので、先祖があせって来たのかも知れませんね。(マタマタ(ー_ー)!!との合唱が ♪)

ただ、今調査している所に近い所?は以前、一度グルグル回っているのですが、そのまま、別の所をグルグル回っていました。

これからは、前進あるのみです。

寒暖の差が激しいですね。
お身体お気を付け下さいね(^・^)
[3]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月10日 22時03分08秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>別の所をグルグル回っていました。
 
各個撃破を狙っている様ですが、併行して全体の把握も重要。
ネットでは目次しか確認出来ませんが、下記書籍の閲覧が必要なのでは?
「山江村誌(歴史編)」
http://www.vill.yamae.lg.jp/userimage/7/yamaesonshirekisi.pdf
[4]子孫よりさんからのコメント(2014年03月10日 23時31分38秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「山江村誌(歴史編)」
今、目次を拝見いたしました。

所蔵図書館を検索した所、福岡市総合図書館に1冊あるようです。

早速、小倉の図書館に行って、取り寄せしてもらいます。

貴重な情報を、本当にありがとうございます。

各個撃破。たしかにそうですね。
全体が把握できていないので、何故繋がっているのかが、実は今は意味を理解出来ていません。

先祖を調べていると、東北に関係している事がわかりました。

明日、東日本大震災より3年をむかえますね。

昨日コメントした須賀川市では、農業用ダムが決壊して、尊い命が失われています。

家屋の全半壊は4500戸。

福島の方々は、放射能の被害に今も苦しまれています。

明日は、この震災で、亡くなられた方々の御冥福と、少しでも早く復興が進むようにと、何も出来ませんが、心から、お祈りさせて頂きたいと思います。








[5]子孫よりさんからのコメント(2014年03月11日 07時08分47秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

白石様のご教示を読みながら、ふと、親戚の事を思いました。

先日、挙げた親戚以外に沢山の親戚を思い出しまして・・
何だか、考えると家は親戚が非常に多いですね。
それも、曾祖母が従兄だったとか、もっと先の繋がりとか、何だか、ものすごく遠いのに、今でも、しっかり両家が「親戚」として付き合いをしています。
ですから、祖母の葬儀の時は、400人近くの方がお見えになりました。
(ぼ〜っと日常を過ごしてきた私ですので、この時ばかりは、(@_@;)となりました。)

多分、宮原繋がりの親戚は
穐岡(伊藤)・星原・桑原・那須・蓑田(多分平川にも繋がっていると思います)・恒松・万江・西田(思い出したのですが、伯父が養子に行った西田家とは別に宮原繋がりの西田がありました)犬童(犬童は平川繋がりの親戚もあります)窪田・久保田・新堀・庄籠(多分宮原繋がりだったかと?)皆越(こちらは平川だったかな?)・・後、伯父さん叔母さんの顔はしっかりと思いだすのに、名前を思い出せない親戚が(この歳で!悲しい(*_*))

今後の調査の過程で、いずれかの姓が出てきたら、繋がりがわかるかな?と思い、自分の為にも(忘れやすいので)今日はここに挙げておこうと思いました。

でも、本当に親戚が多いです(@_@;)私、実家に戻って、ちゃんとやっていけるのかしら????

とりあえず、頑張ります。(^・^)


[6]子孫よりさんからのコメント(2014年03月11日 07時20分48秒 ) パスワード

追記

正月に帰省した時、父に「お父さん、宮原繋がりの親戚はあまり無いよね〜(?_?)」と言った所・・
「なんばいいよっとか!(>_<)(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」
と、めちゃくちゃ叱られてしまいました(*_*)(@_@。

こげんありますもんね、私は(@_@。

では、仕事に行ってまいります(^O^)/



[7]子孫よりさんからのコメント(2014年03月11日 22時36分02秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

日本の苗字七千傑様に「肥後久保田/窪田氏は諸流存在するが、菊池氏族の可能性が高い。」とご教示頂きまして、肥後の窪田を調べてみました。

九州地方の窪田(久保田)姓
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Roots/sub4-4f.htm

(3) 肥後の窪田(久保田)氏
 1)肥後の豪族で、正平16年(1361)の阿蘇惟澄文書に「肥後国小河守護代窪田武宗」、他にも「肥後小川城代窪田武宗」と見える。下って嘉吉3年(1443)の菊池持朝侍帳に「窪田民部允惟冬」、永正元年(1504)菊池政隆侍帳に「窪田式部允重宗」、翌2年(1505)11月18日阿蘇文書連署に「窪田大和守為宗」の名が見える。(『姓氏家系大辞典』)

 2)また相良氏家臣に久保田越後が見える。越後は木上の地頭で、老臣東長兄と丸目頼美が対立した際には多良木城を死守し丸目勢を撃退し、相良義陽から軍功を賞し知行を与えられている。(『戦国人名事典』)

 3)また肥後狩野派の2代目狩野秋則が窪田五郎を名乗ってから、秋則、則久、成信と窪田を名乗っている。また、8代目恩信の子行直も窪田善助と名乗っている。(『肥後人名辞書』[角田政治著 青潮社])(*)

菊池氏族の窪田は
窪田武宗 窪田惟冬 窪田重宗 窪田為宗 となるのかな?と。

ううん?「宗」? 通字が「宗」ですね。

宮原とは関係ないかもしれませんが、もう一つ気になる記述が
肥後狩野派。 狩野? 二階堂氏の狩野ではないですよね・・?
狩野秋則が窪田五郎と名乗り、恩信の子行直も窪田善助と名乗っている。

何だか肥後狩野派一族も、平河と同じで「行直」と言う名が「善助」だとは・・こりゃ解りませんわ(@_@;)

でも、肥後狩野派って・・??

それと、菊池氏族の窪田氏の「宗」という通字もきになりますね(?_?)

調べてみます(^O^)/

あっ!所で、朝、忘れていた、親戚の姓を思い出しました。長田です。
(でも・・宮原つながりか平川繋がりか・・わすれました。(*_*)若年性のおっちょこちょい?)

ただ、具体的に窪田(久保田)が見えて来たので、とても嬉しいです。
日本の苗字七千傑様、本当にありがとうございました。(^・^)






[8]七会の猫さんからのコメント(2014年03月12日 18時01分41秒 ) パスワード

はじめまして
かねてより平川のスレッド見さしております。
ごどの付き合いでここに書き込むことにします。

窪田姓、拝見しました。
通じ字の(春)がないかと、春で名乗りしててびっくりです。

どちらかいうと鎮の字ですね、平の声で
中華風に言えば平家の通じ字でしょうか。ごどの云う妄想ですが。
また書き込みますね。
[9]子孫よりさんからのコメント(2014年03月12日 19時05分28秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
七会の猫様、はじめまして。

ごど様のお知り合いの方なのですね(^・^)

ごど様はお元気ですか?

これからもよろしくお願い致します。(^・^)

所で、実家から持ち帰った、求麻郷土研究会発行の「郷土」に私の実家がある旧 久米郷宮原の庚申塔調査の記述があり、その当時の久米郷宮原に住んでいた方々の名前が記されていまして、その中に「有馬氏」等の名がございます。

50名程の当時の名が記されているので、折角ですから、コメントしようと準備中です。

まとまり次第、書かせて頂きます。

では、今から、夕飯の準備を致しますので、後ほど。(^・^)<m(__)m>

[10]子孫よりさんからのコメント(2014年03月13日 00時28分50秒 ) パスワード

夕方、お伝えした、球磨の久米郷宮原の庚申塔調査についてお伝えします。

私の実家付近は久米郷宮原宮麓と呼ばれる地域で、宮原城の麓となります。
(岡本城の近くは岡麓と呼んでいます)
庚申塔は丁度城山から、下りた付近に建っており、宮麓の「侍村」「門前」と呼ばれる地域の、周囲を囲む三角の点にあたる場所に(3か所)にあります。

2か所の庚申塔には、名前が彫られていて、合計65名の名がありました。
(男性の名前ばかりなので、女性、子供を含めたら、当時、宮麓の「侍村」「門前」に住んでいた人は、多分、今からは想像つかない多人数だったのだと思うのです。今は、過疎化してしまい、住んでいる人はかなり少なくなりました)

庚申塔が建立された時期は、一つが承應四乙未天(一六五五年)三月吉日そしてもう一つが承應四乙未天(一六五五年)二月彼岸となっています。

名前ですが、同姓の名が沢山あるので、姓だけをまず、挙げます。
宮原・淵田(わ〜っ昨日書くのを忘れていました。!淵田は親戚です(*_*))蓑毛・新堀・奈良木・蓑田・恒松・岩崎・須江・西・桑原・梓原・椎葉・平川・石川・上田・原・高田・有馬・吉牟田・溝口 です。

上記に挙げた姓の中に新堀がありますが、親戚の新堀は今は多良木にあります。
有馬という姓は、現在は地区には無いと思います。
原・梓原・須江も無いと思うのですが・・・

皆さん名前は右衛門とか○○衛門とか○○兵衛が多いです・・
蓑毛・奈良木(今は楢木)は私の同い年の幼なじみで、悪そ三人組と呼ばれていました。蓑毛は「玄蕃尉」「主馬正」という人もいます。(お〜っと!!今度教えてあげよう(^・^))宮原にも一人、三之丞さんがいます。

そして、平川は
平川内蔵作(何て読むのだろう?ないぞう?あれっ?くら?)
平川傳七郎(でんしちろう? 傅七郎かも? 七人兄弟の七番目?)

圧倒的に宮原姓が多いです。(今は、同地区には宮原は家とあとあったかな?(ー_ー)!!い〜や忘れているだけかも知れないので・・また父に怒られますから)

でも、あの庚申塔が一六五五年建立とは知りませんでした。
というか庚申塔と呼ばれるものだと知らなかったのです。

子供の頃は、大きな石と呼んでいました。(ー_ー)!!
かくれんぼしたり、石の下でお菓子を食べたり。
悪そ三人組の娘たちで、(特に私)庚申塔によじ登ろうとして、近所の伯父さんに「こら〜っ!ダメば〜い!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」と怒られていました。
「そこで、遊んだらいかんバ〜イ!」とよく言われて、私の顔を見て「あ〜ら!も〜う宮原の娘さんやなかね(ー_ー)!!でけんばい(ダメだよ)ばあちゃんに言うよ(ー_ー)!!」と言われて「ごめんなさい(*_*)」と言って逃げていました。

そして、懲りずに遊ぶ私でありました。(^・^)<m(__)m>
でも、400年近くも前に建てられていたとは・・本当にビックリです。

大きな石には意味があった事を、今は故郷を離れている幼馴染にも、今度教えてあげようと思います。(マサカ、知らなかったのは私だけだったりして・・)

と言う事で故郷の庚申塔のお話でした。(^・^)



[11]七会の猫さんからのコメント(2014年03月13日 07時13分33秒 ) パスワード


おはようございます。
天気が崩れています。

すっかり、自分のスレッドを忘れ
ここが気になっています。
あえて言ってみます。
多田姓をご存知でしょうか。身の回りにおられるかと。
夢で窪田がでてきて、もう少し後の世代をと
ドンぴしゃでした。
多田といえば、枚方市のイメージです。(ごどの証言より)

[12]子孫よりさんからのコメント(2014年03月13日 18時54分08秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
七会の猫様、コメントありがとうございます。

親戚につきましては、父よりも、祖母が子供の時に教えてくれていた事の方が多く、記憶を頼りに、次々と思い出しています。

多田姓はありました。そして、窪田(家に養子に来られた窪田(久保田)とは別の親戚で旧岡原村の竹野と呼ばれる地域だったと思うのですが)の繋がりで多田姓があったように記憶しています。

ただし、直接、祖母から、「親戚」と言われたかは、あいまいなのですよね(*_*)

当時、この地区に多田姓があったか他の地区の庚申塔の姓を見たのですが確認出来ませんでした。

家から、7〜800メートルくらい、下った所にある庚申塔(別府地区・「びゅう」と呼びます。)には
土肥・尾方・黒木 の姓があります。

★土肥も尾方も親戚ですね。やっぱり忘れていますね(ー_ー)!! でも宮原か平川かは覚えていません(*_*)。家の近い親戚の「黒木」はこちらの地区では無く、「きりはた」と呼ばれる地区で、最初は久米郷宮原地区だったのですが、ここは何故か、後世に湯前領の飛地となって湯前領切畑村となっています。球磨郡史では、南北朝の動乱の際に、橘(宮原)は平河氏・須恵氏・永里氏・奥野氏とともに、南朝方である上相良氏に組し、北朝の下相良氏と郡内各所で合戦となり、興国3年(1342年)久米郷木原合戦で大打撃を受けた。とあります。
上相良経頼は本領安堵を条件に北朝に転じたので、球磨郡内の戦乱は一応収まったと。ただ、その際国人の中には一部領地を失ったものもあり、この時に橘(宮原)は切畑を失ったのかもしれない。と書かれていました。(>_<)

庚申塔の話しに戻ります<m(__)m>

岡本地区の永岡にある庚申塔には
赤川・城音寺・窪田・皆越・岩坂・有馬・奈良木・権藤・田原・西・平・ の姓があります。
平は 平左衛門とありました。

他の地区の庚申塔を合わせると、あさぎり町岡原地区の庚申塔の数は現段階で解っているだけで17か所だそうです。
(よく解らないのですが、結構多い方なのでしょうか?どうなのかな?)


と言う事で、庚申塔のお話を、マタマタさせて頂きました(^・^)<m(__)m>






[13]子孫よりさんからのコメント(2014年03月13日 19時11分57秒 ) パスワード

追記

あの・・・・・
昨日・今日と、沢山の姓を転記しましたが、何せ私、お解かりの通り、歴史が全く理解出来ていないので、その家々が歴史上でどのような繋がりがあり、又は本来、日本のどの地域から出て来られたのかも、さっぱり解りません(*_*)

有馬氏は聞いた事があるな〜と。 今はまだ、そんな感じです(゜-゜)

でも、折角、見つけた情報なので、少しずつでも、勉強して理解していこうと思っています。(^・^)
[14]白石さんからのコメント(2014年03月14日 00時07分09秒 ) パスワード

こんばんは
今日は荒れに荒れた一日でした。
久米郷木原
上村堀の角あたりが該当の地区ではないか?と思ってはいますが、古地図を見たことがないので、わかりません。祖父の葉書にこの字がありました。
岡原・深田は近くです。前に書いたことがありましたかしら?

南朝
護良親王が上相良氏を頼ってきているのですね。
木原は大蔵氏の子孫にいますね。日本の苗字7000傑大蔵氏
父の手帳に書きつけてあったのが 木原・伊津野なので、おそらくはこの筋にいる山口がうちの山口だろうと思っております。

天草氏も祖先の枝別れにおり、天草氏に養子に入った人が四郎時貞と思っております。

有馬は島原の乱で 寄せ手におり 
有馬と言う家は 父の家があった地域にありました。
おおむね 子孫様のかいておられた苗字の家が父の集落にあります。

母方の先祖の始まりの人が 島原の乱について書いてあった本で同じ名前の人がおり、
しかし 寄せ手のほうにもおり その人達が先祖か?どうか?

集落のどこにもキリストのきのじもうかがわせるものはありません。

でも うちの山口は 下益城郡の方にのびており、そこから 郡誌に 阿蘇文書に木原は源姓と書いてあり、

高岡・佐田・山口の固まりが山口にもあると本に書いてあったのを読んだことがあり、山口の資料に 清和源氏の百姓をしている山口があると書いてありました。
[15]子孫よりさんからのコメント(2014年03月14日 11時53分07秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

白石様、ご教示ありがとございます。

実は、昨日、夕方より、疲れている訳でもないのに、胸(心臓というかみぞおちの上に何かが詰まったような感じで、そして、ず〜っとドキドキして・・)鳥肌もず〜っとたってしまって、調子が悪いのかなと思い、早めに寝てしまいました・・
そして、夜中に、スマホの緊急地震速報で目が覚めて、揺れに驚いて・・
皆様のお住まいの地域は大丈夫でしたか?
北九州に住んでいてスマホの緊急地震速報を聞いたのは初めてでした。

地震前の動物の異常行動は良く聞きますが、私の場合は「人間の異常行動?」に基づいているのかも?

さて、本題です。

白石様、護良親王は上相良を頼って、球磨においでになったのですか?

知りませんでしたφ(..)メモメモ

島原の乱は「寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。」とありますね。
と言う事は、実家近くの庚申塔は「1655年」。
島原の乱終結より18年後と言う事になりますね。

島原の乱については、学校で習ったくらいで、あまり良く理解していなかったので、ウィキで調べました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1

島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。

一揆勃発に向けての流れを転記するにはかなり長くなるので、すいませんがここには今は転記しません<m(__)m>

ただ、幕府軍と一揆軍の指揮官を見ていたら、一揆軍に「赤星 道重」という方があり、「赤星」だ!と。

赤星 道重 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%98%9F%E9%81%93%E9%87%8D
赤星 道重(あかぼし みちしげ、慶長7年(1602年) - 寛永15年1月24日(1638年3月9日))は、江戸時代前期の人物。島原の乱の一揆軍の首謀者の一人。天草十七人衆の一人。

肥後赤星氏で岐阜・織田秀信の家臣・赤星主馬の孫で、肥後加藤氏、大坂豊臣氏直参・赤星親武の子。

通称は内膳。天草に逃れた後は宗帆と名乗った。

島原の乱時に徒士大将・評定衆として本丸付近を守った。

原城において、落城時寺沢家の老臣である三宅籐右衛門と一騎討ちの末、戦死した。

「赤星」は祖母の従妹。
叔母は、養子を迎えているので、と言う事は・・それ以前に平川から養子が入った可能性もあるわけです。

島原の乱とは全く関係ないのですが、庚申塔の姓に戻ると・・・

平川の親戚である「深水」「深松」「西田」の姓がこの時代は未だ無いです・・

1655年以降に宮原の地に3家とも来られたと言う事ですね。

さて、今日は、お休みです(えっ又!との声が)
その謎は・・今度じっくりコメント致します<m(__)m>(^・^)




[16]子孫よりさんからのコメント(2014年03月14日 18時45分31秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

今日は、図書館に行って参りました\(^o^)/

そして、日本の苗字七千傑様にご教示頂いた「山江村誌(歴史編)」をリクエストしてきたのですが・・・

福岡の図書館にあったのは山江村誌(自然編)でして、調べて頂いたのですがやはり、歴史編は国立国会図書館所蔵となっていて、係の方にお願いして、リクエストして参りました。\(^o^)/。
でも、もしかしたら・・館内のみ閲覧可能かもしれません(*_*)

もう1冊「中世史ハンドブック 」を探したのですが、無かったのです・・(*_*)
その代わり、「日本荘園史 四国・九州地方の荘園」と「日本荘園史の研究」「鎌倉時代の社会と文化」という本を借りてきました。
(何だか、読みたくなってしまって・・・)

早速、日本荘園史 四国・九州地方の荘園 の肥後の章をピックアップして読んだのですが・・・・\(◎o◎)/!

先日、日本の苗字七千傑様より「各個撃破を狙っている様ですが、併行して全体の把握も重要。」とのお言葉を頂いた意味がわかりました\(◎o◎)/!

なぜならば・・・・
平河を名乗っている方が、他にいらっしゃったのですから\(◎o◎)/!

それは・・・武藤(少弐)頼尚
「平河左近允頼尚」と名乗られています\(◎o◎)/!

どうして、武藤(少弐)頼尚が平河と!・・と思われた方もいらっしゃるかと思います。
でも、本を読んで行くと流れが見えてきました。
これが、「併行して全体の把握も重要」というお言葉だったのだな!と痛感しました。

でも、私、本を読んで解ったふりをしているだけです。
だって、本当は????となっています。
ですから、後ほど、内容を転記させて頂きます。

所で、全く話は変わるのですが・・・

変な言葉を書きますが、御了承下さい。
「本日起こった事は本物ではない。真の事は後で来る。」

あの・・・<m(__)m>
「伊予・伊勢・尾張」の方は、絶対にお気を付け下さい。

すいません、変な事を書いて。今までの私のスレッドを読んで下さっている皆様の中で私が何を言おうとしているのかお解かり頂けた方も、もしかしたらいらっしゃるかも知れません。

この件に関しては、申し訳ありませんが、これ以上はコメント出来ませんので・・。 すいません<m(__)m>

でっ!話を戻し(ー_ー)!!
後ほど、本の内容を転記いたしますね(^^ゞ





[17]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月14日 21時13分44秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>そして、日本の苗字七千傑様にご教示頂いた「山江村誌(歴史編)」をリクエストしてきたのですが・・・
 
肥後の守護は頻繁に代わっております。
「旧国名別苗字大観」肥後を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/map/mapf.htm
少弐頼尚が肥後守護の期間、山田城、山鹿城を拠点にしている。
山田城とは求麻郡万江邑(現:山江村)に存在。
山田城と言えば、平河(良峯)依高の子山田遠高の居城でしょう?
 
また書籍というものは、国会図書館以外では閲覧の難しいものが多い。
例えば三百部限定出版というものは尚更で、ごく稀にヤフオクに出品され高価だがすかさず落札しないと再びは入札困難なものもある。
欲しい本は多いが、なかなかヤフオクに出品されませんね。
 
それでなくてもアマゾンなどで古本が安く出品されたら、東京神田の古書店街に赴く時間とコストを考慮して即購入が結局は正しい。
本当に重要な情報が掲載されて書籍は、どこかの書架にひっそりと蔵書されているものです。
[18]七会の猫さんからのコメント(2014年03月15日 00時25分04秒 ) パスワード


こんばんは
面白い本を見つけたので紹介を

梅干しと日本刀です。

あらゆる意味で日本。日本人なんたるか
之を考えさせられます。


東京より遠い私には、この本がバイブルです。

[19]七会の猫さんからのコメント(2014年03月15日 00時30分33秒 ) パスワード

話題転換で。

子孫様、オカルトは心臓に悪く見ていません。
伊予のその話だと、私も他人事におさまりませんで
心配です。

ところで、庚申ですと、南九州のことを
さすのでしょうか。
大朝の知り合いの住む広島には
庚午という地名が
関連ありますかね。
[20]子孫よりさんからのコメント(2014年03月15日 01時16分14秒 ) パスワード

皆様、深夜です(*_*)

日本の苗字七千傑様ご教示ありがとうございます。

図書館には頻繁に行っていたのですが、荘園の研究書と先祖の調査を結びつける事まで想像が働いていませんでした。
日本の苗字七千傑様のお言葉より、私の頭は方向転換を行う事が出来きました。
本当にありがとうございます。

早速、日本荘園史 四国・九州地方の荘園を転記いたしました。
読んでいるだけでは、理解出来なかった事があらためて、転記していると、次々に頭に入り、夕方コメントした時よりは流れがより解ってきたような気がします。

では、次のコメントにて記述させて頂きます<m(__)m>
[21]子孫よりさんからのコメント(2014年03月15日 01時59分46秒 ) パスワード

講座 日本荘園史 四国・九州の荘園 より <m(__)m>

永吉荘
球磨郡。建久2年(1191年)5月3日の良峯(平河)師高領譲状案(「平河文書」)には重代の所領として、横瀬・青山村・目田村・山田村・黒田村・深水・をうかき(大柿)・平野村・永池村・中神村・渡村・目良生(もくろう)村・深田村・河辺村・尾瀬村・高野瀬村・五木村・田代村・はしかみ村をいずれも「永吉庄之内」としてあげている。
この文書自体は後述のごとく鎌倉後期に作成されたものと判断されるが、永吉荘の所在を示す点では信をおけるものである。
それぞれの村の田数を合わせると二百九十七町六反となり、深田村五十町、目良生村四十町七反、山田村四十町一反、黒田三十九町五反などが田数の多い所で、荘の中心が今日のあさぎり町すなわち中球磨の球磨川流域にあった事がわかる。しかし、荘の特質は何よりもその散在性にあり、上球磨を除く郡内各地とりわけ球磨川・川辺川・万江川の流域に点在しており、意図的な荘域設定をうかがわせる。
先の譲状案が鎌倉後期のものとみれば、荘名の所見は、建久八年閠六月の肥後の建久図田帳の一部とみなされる球磨郡田数領主等目録写(「相良家文書」)に
鎌倉御領五百丁 預所因幡大夫伴官(大江広元)
永吉三百丁(三百五十の誤りか) 地頭良峯師高息字平紀平次不知実名
須惠小太郎家基領百五十丁
とあるものである。当時永吉三百五十町は須惠小太郎家基百五十町を合わせて関東御領となり、預所は大江広元が補され、永吉分の地頭は師高子息師貞であった。
ところで広元の関東御領の預所職は「肥後国球磨庄安富領内三善并西村預所職」であり「永吉于時三善并西村可為預所職」という建久三年八月頼朝の下文によって補任されたのもであった。(弘安元年七月三日関東下知状案、「平河家文書」)。それより前、平河師高は一旦「謀反他に勝る」として幕府の没官を受けていたが、文治三年(1187年)六月関東御教書によって「其実を安堵され」、それを施行した天野遠景の下文には、「下 球磨御領 可早任御教書 被安堵平河三郎身事」とあった。これらのことから、永吉はかって三善と呼ばれ、それは球磨荘安富領=球磨御領と呼ばれる関東御領の一部であったことが知られる。関東御領の成立はおそらく平河師高の没官に伴うもので、それ以前には師高の所領は、球磨郡全体に一郡的な広がりをもつ王家領荘園球磨荘の一部を構成していたものとみられる。
以上によって、永吉荘という荘名の成立は、建久三年八月以降〜建久八年閠六月以前という事になる。
その後の預所と地頭の関係は、それが関東御領である事から、あたかも惣地頭と小地頭の関係のごときものとなり、建永二年(1207年)三月十四日には、広元は平河師忠に下文を下し、目良生(もくろう)・永池等の三ヶ村を別納とする事を認めているし、貞永元年(1232年)当時は、中神村地頭「平河良高」・目良生村地頭「平河師瀬」・平野村地頭「平河師久」というように平河一族が村毎に地頭職を知行し、領家年貢も地頭請所となっていた。
所が、嘉禄元年(1225年)、須惠尼が狼藉の咎で西村を広元の譲りを得た外孫の近衛中尉春実に召し上げられ、これを契機に春実は「永吉并西村」つまり二つの所領ではなく、「永吉西村」という一つの所領であるとして永吉分の地頭職、さらには名主職までも奪ってしまった。
師高の曾孫にあたる良貞と師時は訴訟を起こし、弘安六年(1283年)七月の関東下知状で「永吉地頭并名主職」の返付が認められた。この際春実の預所職も改替されたようで、預所職は武藤(少弐)景資に与えられた。
しかし景資は弘安八年十一月の岩門合戦で没し、その跡は備前々司入道(北条一門の佐介朝房であろう)に与えられた。
彼は預所職のみでなく、永吉西村を一所とみて地頭職を知行した。平河道照はその回復に努力したが、奉行人明石民部大夫行蓮が北条氏の意を迎えて取り上げず、事実上完全な北条氏領と化し、鎌倉幕府滅亡にいたった。
建久二年末、足利尊氏は九州下向に先立ち少弐頼尚を筑前・豊前・肥後の守護に補し、永吉荘は山鹿荘とともに守護領とされた。少弐頼尚は観応擾乱で佐殿(足利直冬)に与同して解補されたが、それは相良定頼并一族等所領注文(「相良家文書」)に「一所 肥後国 玖磨郡永吉庄半分百七十五町五百石三百貫 平河左近允頼尚跡」と見えている。
頼尚知行分がもともと半分だったのではなく、没収後の給与が半分ずつなされたのであろう。
頼尚の知行中、平時は永吉平六入道宗昌が代官として所務に当ったが、軍事的には荘内山田城が北朝方の一大拠点とされ、税所宗円一族や相良定頼らがこれを守った。
しかし荘としての実態は鎌倉幕府滅亡をもって終わったものと判断される。

以上が、永吉荘についての記述でした。<m(__)m>

時系列で表すと

@良峯(平河)師高の所領は、球磨郡全体に一郡的な広がりをもつ王家領荘園球磨荘の一部を構成していたものとみられる。(この時代までは師高の所領は永吉荘とは呼ばれていなかった)

A平河師高は一旦「謀反他に勝る」として幕府の没官を受ける

B文治三年(1187年)六月関東御教書によって師高は「其実を安堵され」る。

C永吉荘という荘名の成立は、建久三年八月以降〜建久八年閠六月以前という事になる。

D建永二年(1207年)三月十四日には、広元は平河師忠に下文を下し、目良生(もくろう)・永池等の三ヶ村を別納とする事を認めている。

E貞永元年(1232年)当時は、中神村地頭「平河良高」・目良生村地頭「平河師瀬」・平野村地頭「平河師久」というように平河一族が村毎に地頭職を知行し、領家年貢も地頭請所となっていた。

F嘉禄元年(1225年)、須惠尼が狼藉の咎で西村を広元の譲りを得た外孫の近衛中尉春実に召し上げられる。

G師高の曾孫にあたる良貞と師時は訴訟を起こし、弘安六年(1283年)七月の関東下知状で「永吉地頭并名主職」の返付が認められた。
★平河三郎入道観蓮<俗名良貞>は佐原(三浦)六郎左衛門尉時連? では師時の姓は? ここがまだ解りません。

H永吉荘預所職は武藤(少弐)景資に与えられた。しかし景資は弘安八年十一月の岩門合戦で没する。

Iその後、永吉荘預所職は備前々司入道(北条一門の佐介朝房であろう)に与えられた。彼は預所職のみでなく、永吉西村を一所とみて地頭職を知行した。

J平河道照はその回復(永吉荘預所職?)に努力した。
★平河道照は鎌倉幕府引付頭人二階堂和泉守行方

K建久二年末、足利尊氏は九州下向に先立ち少弐頼尚を筑前・豊前・肥後の守護に補し、永吉荘は山鹿荘とともに守護領とされた。
★★永吉荘内山田城が北朝方の一大拠点とされていた。

L少弐頼尚は観応擾乱で佐殿(足利直冬)に与同して解補されたが、それは相良定頼并一族等所領注文(「相良家文書」)に「一所 肥後国 玖磨郡永吉庄半分百七十五町五百石三百貫 平河左近允頼尚跡」と見えている。

M永吉荘の荘としての実態は鎌倉幕府滅亡をもって終わったものと判断される。

こうなると言う事です<m(__)m>

とても、とても長くなりましたが、今後は、ここに記載された内容をもとに以前御紹介した「平河家文書」を検証していきたいと思います。
<m(__)m>


[22]子孫よりさんからのコメント(2014年03月15日 11時00分56秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
七会の猫様、不安にさせて、本当にすいません。


昨日、変な言葉を書いてそのままにして、そういうのはやはり、あまりにも無責任かと思いまして、本当に皆様、申し訳ありませんでした。

皆様、もちろん、現在、防災意識はしっかりお持ちだと思います。
かく言う私の方は、とてもいい加減な部分があります。
ですから、自分でも、今後は、防災意識をしっかりと高めて行きたいと思っています。

「すぐに、何かが起きるという事ではなく、もし、何か発生した時の為に、しっかりとした防災意識を持って対応できるようにしていく。」

そういう、意味の言葉であり、私も含めた、沢山の方々への、願いのような言葉だと思います。

地域の特定は、よくないですね。すいません。

日本という国は、火山もあれば活断層は至る所にあり、台風の直撃も頻繁に受け、今はゲリラ豪雨にもみまわれる。古代から、先人は、沢山の困難に遭遇し、そして、今がある訳ですよね。

国内で、いつ何が起こってもおかしくない状況で、何千年も過ぎてきた。
だから、其々が、住んでいる土地で、災難が起きないようにと祈りを捧げて、様々な風習も受け継がれてきている。
と私は考えています。

きっと、あの言葉は、先祖が、普段ぼ〜っとして、ましてやおっちょこちょいの私に、もっとしっかりしなさい!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!と願いを込めて伝えてくれた言葉だと思います。

不安になられた皆様、本当にすいませんでした。


[23]子孫よりさんからのコメント(2014年03月15日 11時43分41秒 ) パスワード

追記

オカルトというお言葉があったのですが・・

やはり、皆様には私の言葉はオカルトという風に感じられて、怖いと思われる方もいらっしゃると言う事ですね。

本当にすいませんでした(*_*)

もし、今後、私が皆様からオカルトと感じられる言葉を書いた時は
マタマタ(;一_一)(ー_ー)!!と聞き流して下さい<m(__)m>

よろしくお願い致します。<m(__)m>


[24]七会の猫さんからのコメント(2014年03月15日 21時49分23秒 ) パスワード

こんばんは。
特に面白いドラマがなかったので
こちらに

録画番組
薩隅方言のコーナーがありました。

頭のことをビンタとよぶそうで
いつしか転じて平手打ちのことを指すようになったとか。
方言はも、おもしろいですね。
[25]子孫よりさんからのコメント(2014年03月15日 23時13分02秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

七会の猫様、頭の事を「ビンタ」と、球磨地方でも言いますよ(^・^)

それと、変な話ですが、お尻のことを・・「ひゅ〜たぶら」と言います。
(若い人はあまりもう言わないと思うのですが、高齢の人なら多分、まだ言っていると思います(^・^))

私は、地元を離れてかれこれ30年ですので、完全に忘れていましたが、七会の猫様のコメントを見て思い出しました。(*^。^*)

以前コメントしたのですが「ありがとうございます」を「だんだんな〜」
ちなみに「だんだんな〜」は百済の言葉でした。

所で、今日は一日中、本を読んでいました。

「鎌倉時代の社会と文化」と言う本の中に、天野遠景に関する研究があり、天野遠景が源頼朝より受けた支持の内容が表になっていて、内容は10件。
その中の2件が「平河」に関するものでした。

●文治3年6月16日 源頼朝、天野遠景に、「平河師高」の所領を安堵するように命じる。
★脚注あり。 
弘安6年7月3日の関東下知状(「肥後平川文書」『鎌倉遺文』)に「曾祖父平河三郎師高右大将御時、文治3年給安堵御下文、伊豆藤内遠景令成施行畢」とあり、遠景が頼朝の安堵を施行している。
この下知状によると平河良貞は文治6年6月16日の遠景宛ての盛時奉書案とこれを施工した遠景の「同年12月月状案」を提出している。他の例からこの盛時奉書案には源頼朝の袖判があったと考えてよいだろう。また、文治5年7月17日の遠景宛ての盛時奉書案も提出している。
φ(..)メモメモとありました。

●文治5年7月17日 源頼朝、天野遠景に、平河師貞を京都大番役で上洛させるよう命じる。
★脚注あり。
この文治5年7月17日の遠景宛ての盛時奉書案には「御判在」と注記があるので頼朝の袖判があったのであろう。
内容は「平河次郎師貞為謹京大番、所令上洛也云々詮取」であった。
φ(..)メモメモとありました。

この2件が、天野遠景が源頼朝より受けた指示10件の中にあった訳です。

何気なく、図書館の書棚から選んだ書籍の2冊とも、「平河」に関する記述があったと言う事になりました。

私、今まで、何をしに図書館に行っていたのかな?と。

でも、良かったです。結果、荘園の研究書には、かなりの確率で平河の研究が記述されている事が解りましたから(^・^)

では、

っと、終わろうと思ったのですが、コメントに本の内容を転記して、気が付いたのですが「盛時奉書案」の「盛時」とは・・どなた? あれっ?

「盛時」・・・ありましたよ(>_<)見ましたよこちらの名前は(>_<)
ううううん(>_<)  調べます。

では<m(__)m>




[26]子孫よりさんからのコメント(2014年03月15日 23時57分56秒 ) パスワード

追記
間違えました(*_*)すいません。

先ほどのコメントで平河師貞は文治6年6月16日の遠景宛ての・・・
ではなく 文治3年6月16日の間違えです。
お詫びして、訂正いたします<m(__)m>

と言う事でこうなります。

●文治3年6月16日 源頼朝、天野遠景に、「平河師高」の所領を安堵するように命じる。
★脚注あり。 
弘安6年7月3日の関東下知状(「肥後平川文書」『鎌倉遺文』)に「曾祖父平河三郎師高右大将御時、文治3年給安堵御下文、伊豆藤内遠景令成施行畢」とあり、遠景が頼朝の安堵を施行している。
この下知状によると平河良貞は文治3年6月16日の遠景宛ての盛時奉書案とこれを施工した遠景の「同年12月月状案」を提出している。他の例からこの盛時奉書案には源頼朝の袖判があったと考えてよいだろう。また、文治5年7月17日の遠景宛ての盛時奉書案も提出している。

です。 すいませんでした。<m(__)m>
[27]子孫よりさんからのコメント(2014年03月16日 00時19分05秒 ) パスワード

追追記<m(__)m>

盛時は平盛時でした。

本をよく読んでみると解りました(^・^)

所で、私、良く解らないのですけど・・
盛時奉書案は天野遠景宛てに送られたものですよね。
それと、「同年12月月状案」は施工した天野遠景が作成しているものですよね・・・・。
この二つの書を、訴訟の為に良貞は提出している。
でも、何故、良貞は、この二つの書を持っていたのでしょうか?
こういうものは、良貞(平河)が持っておくものなのでしょうか?
いえ、持っていても良いものなのでしょうか?

よく解らないのですが、この部分が、私何だかひっかかるのですが・・

[28]子孫よりさんからのコメント(2014年03月16日 07時33分18秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨日の最後にコメントした??の部分は、私の知識不足なのかとは思いますが(書の管理について)未だ、何故か、みぞおち?の辺りに引っかかっています。?

所で、今朝は、日本の苗字七千傑様からご教示頂いた「肥後の守護は頻繁に代わっております」とのお話しがとても気になり、先日も拝見したのですが、再度「旧国名別苗字大観」肥後を拝見しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/map/mapf.htm

安達氏は肥後の守護だったのですね。

安達氏について、もう一度調べてみました。
安達氏の祖 安達盛長 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E7%9B%9B%E9%95%B7
安達 盛長(あだち もりなが)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉時代に繁栄する安達氏の祖で、源頼朝の流人時代からの側近である。

『尊卑分脈』では小田野三郎兼広(藤原北家魚名流)の子としているが、盛長以前の家系は系図によって異なり、その出自ははっきりしていない。足立遠元は年上の甥にあたる[1]。盛長晩年の頃から安達の名字を称した[2]。

源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。妻がかつて宮中で女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、京都の情勢を頼朝に伝えていたと言われている。また『曽我物語』によると、頼朝と北条政子の間を取り持ったのは盛長とされる。
★妻が比企尼の長女・丹後内侍 と言う事ですね。

では、安達盛長の子 安達景盛について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%99%AF%E7%9B%9B

安達 景盛(あだち かげもり)は鎌倉時代前期から中期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人。安達盛長の嫡男。
宝治合戦
宝治元年(1247年)、5代執権・北条時頼と有力御家人三浦氏の対立が激化すると、業を煮やした景盛は老齢の身をおして高野山を出て鎌倉に下った。景盛は三浦打倒の強硬派であり、吾妻鏡によれば「三浦一族、傍若無人の勢い」と憤り、三浦氏の風下に甘んじる子の義景や孫の泰盛の不甲斐なさを厳しく叱責した[1]
景盛は三浦氏との妥協に傾きがちだった時頼を説得して一族と共に三浦氏への挑発行動を取るなどあらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み、三浦一族500余名を滅亡に追い込んだ。
★挑発行動を取るなどあらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み・・・
ううううん・・・φ(..)メモメモ

あれっ?おや?! あっ!\(◎o◎)/!

妻が  武藤頼佐の娘  武藤氏と繋がっていたのですね!

( 一一)めちゃくちゃ気になり始めました・・

では、安達景盛の子 安達 義景 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E7%BE%A9%E6%99%AF
安達 義景(あだち よしかげ)は鎌倉時代中期の武将。安達景盛の嫡男。鎌倉幕府の有力御家人。子に安達泰盛、覚山尼(北条時宗室)がいる。
義景の「義」の一字は義景が15歳の元仁元年(1224年)に没した北条義時からの拝領と思われ、義時晩年の頃に元服したと思われる。北条泰時から経時と時頼三代の執権を支え、評定衆の一人として重用された。幕府内では北条氏、三浦氏に次ぐ地位にあり、4代将軍藤原頼経にも親しく仕え、将軍御所の和歌会などに加わっている。この頃の将軍家・北条・三浦・安達の関係は微妙であり、三浦氏は親将軍派、反得宗の立場であるのに対し、義景は北条氏縁戚として執権政治を支える立場にあった。
★三浦氏は親将軍派 そして安達氏は北条氏縁戚として執権政治を支える立場にあった。φ(..)メモメモ

続けます<m(__)m>
時頼の得宗専制体制に尽力した義景は格別の地位を保ち、時頼の嫡子時宗は義景の姉妹である松下禅尼の邸で誕生している。義景の正室は北条時房の娘で、その妻との間に産まれた娘(覚山尼)は時宗の正室となる。また、長井氏、二階堂氏、武藤氏など有力御家人との間にも幅広い縁戚関係を築いた。建長5年(1253年)5月に出家し、翌6月に44歳で死去。

父景盛と義景が築いた安達氏の地位は、子の泰盛の代に全盛を迎え、時宗政権下で権勢を振るうこととなる。
★長井氏、二階堂氏、武藤氏など有力御家人との間にも幅広い縁戚関係を築いた φ(..)メモメモ・・・(?_?) 球磨の「平河」に関係する姓が沢山出てきました(?_?)

あぅ!あああああああああああっ!みなさ〜〜〜ん!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
安達義景。この方の子供たちの中に!!!!!

頼景、大室三郎、泰盛、時盛、重景、顕盛、長景、時景、公義、覚山尼、
長井時秀妻、宇都宮景綱妻、北条朝直妻

★北条朝直妻と\(◎o◎)/! 北条朝直は、あの方の父!!

北条朝直 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E7%9B%B4
北条 朝直(ほうじょう ともなお)は鎌倉時代前期から中期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府の評定衆。父は初代連署北条時房。母は正室の足立遠元の娘。大仏流北条氏の祖。

北条朝直の子は・・・北条朝房 \(゜ロ\)(/ロ゜)/
そうです! 備前々司入道 朝房 です\(◎o◎)/!

これは、どうなっているのでしょうか?!

安達氏を調べたら、先日からお話している、球磨の永吉荘 に関係する方々に繋がってしまいました!。

今までもグルグル現象は何度もありましたが、今回のグルグルは今までと違いますよ(ー_ー)!!

だって、研究された内容をもとに作成された書籍に書かれていた内容とグルグル繋がっているのですから(>_<)

球磨永吉荘 いえ「平河」と言う姓に関わりがあったのは
「佐原氏(三浦氏)」「二階堂氏」「武藤氏」「北条氏(朝房)」「北条氏(重時)」
そして、全て「安達氏」に繋がっている。と言う事ですね。
というか、何処から入ってもグルグル繋がっていると言う事ですね。

でも・・何で、鎌倉の上記の方々が 球磨の「平河」に繋がるのだろう?

やはり、「良峯依高・深田盛高・山田遠高・平河師高・横瀬高実」 に秘密がありそうです(>_<)

では<m(__)m> と言いたい所ですが、とても素敵なお話が載っていたので御紹介。
北条朝直について ♡
正室は伊賀光宗の娘だったが、貞応3年(1224年)6月の伊賀氏の変で光宗が流罪となり、嘉禄2年(1226年)2月、執権北条泰時の娘を新たに室に迎えるよう父母から度々勧められるが、21歳で無位無官の朝直は愛妻との離別を拒み、泰時の娘との結婚を固辞し続けた(『明月記』2月22日条)。翌月になっても、朝直はなおも執権泰時、連署である父時房の意向に逆らい続け、本妻との離別を哀しむあまり出家の支度まで始めるという騒動になっている。その後も抵抗を続けたと見られるが、5年後の寛喜3年(1231年)4月、朝直の正室である泰時の娘が男子を出産した事が『吾妻鏡』に記されている事から、最終的に朝直は泰時と時房の圧力に屈したと見られる。なお、この都の公家にまで届いた北条一族の婚姻騒ぎは幕府編纂書の『吾妻鏡』には記されていない

本当に愛されていたのですね。このお話はロミオとジュリエットみたいです。
(*^。^*)

では<m(__)m>

[29]子孫よりさんからのコメント(2014年03月16日 08時29分16秒 ) パスワード

あの・・・・皆様・・・あの・・・

安達氏には良峯の血が流れています!(皆様御存じだったかも(*_*))

見つけてしまいました。

藤原北家 山蔭流
http://www.geocities.jp/keizujp2011/fujiwarahokkeyamakageryuu2.html

転記します<m(__)m>
藤原山蔭 ふじわらのやまかげ 藤原高房の次男 母:藤原真夏の娘 生没年:天長元年(824年) - 仁和4年2月4日(888年3月20日)
 藤原有頼 藤原山蔭の子
 藤原在衡 ふじわらのありひら 如無の子 母:良峰高見の娘 藤原有頼の養子 生没年:寛平4年(892年) - 天禄元年10月10日(970年11月11日)
   藤原国光 藤原在衡の子
   藤原正妃 藤原在衡の子
   藤原忠輔 藤原国光の子
   藤原相任 藤原忠輔の子
   藤原相継 藤原相任の子
   藤原相国 藤原相継の子
   藤原国重 藤原相国の子
   小野田兼広 藤原国重の子
★安達盛長 あだちもりなが 小野田兼広の子 安達氏の祖 
生没年:保延元年(1135年) - 正治2年4月26日(1200年6月9日) 没歳:66

私、かなり前に良峯氏を調べていて藤原在衡まではたどり着いていたのですが、その先は見ていませんでした(*_*)
というか、その時に、先の部分を見ても多分??だったと思うのです。
今だから、やっと理解できるようになったのだと痛感します。

と言う事で 安達氏は良峯の流れでもあったと言う事をお伝え致しました。
<m(__)m> 




[30]子孫よりさんからのコメント(2014年03月16日 11時29分50秒 ) パスワード

皆様、またまた、登場です。

あの・・・
オカルトと言わないで下さいね(*_*)
朝、コメントした後にウトウトしていたら、夢の中で男の人から「こだまをききなさい?」(ここが、はっきり覚えていないのですよね。聞きなさいか、行きなさいか?)

でも、こだまだったら山に登って「ヤッホー\(^o^)/」と言うと聞こえてくるから、聞きなさい?

でも、行きなさいなら・・・
何処かの山の話かな?とも・・・・

(@_@。・・・解らんです(@_@。 先祖様。

脱線しましたが、不思議な夢でした(?_?)(゜-゜)
[31]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年03月16日 14時23分07秒 ) パスワード

こんにちは。

夢って自分の願望が多分に出てくるものじゃないでしょうか。
例えば、地震があってそれに不安を抱いていたらそれに関連する夢を見る可能性はありますし
先祖の事を考えていたら、自分が描く先祖像が何かを語りかけてくる夢をみる事もあるでしょうから、不思議なことではないと思います。

私も祖父が亡くなった時には、祖父が夢に出てきましたが
それも、自分の意識の中で二度と話す事が出来ない祖父ともう一度話してみたいという思いが心のどこかにあった為にみた夢でしょう。

夢というのはそういうものだと思います。


地震については、南海トラフ地震も30年内に70%でしたっけ。
この国にいて、人並みの寿命があれば大きな地震はいつか遭遇するレベルだと思います。

仮に私が「大地震よ起これ!」と地面を蹴飛ばしたところで
それが原因で地震が発生するわけもないですからね。

起きたら起きたで仕方ないですし、それで生きるも死ぬも運次第です。
別に地震に限らず、人なんて何かが原因で確実にいつか死にますから
いつ死ぬとしても高々数年数十年の誤差だと大らかに構えてるくらいがいいと思いますね。


[32]子孫よりさんからのコメント(2014年03月16日 15時38分55秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。

公忠公の末裔様、コメントありがとうございます。(^・^)

夢のお話ですが・・
多分、朝、ウトウトして見た夢は「こだまを聞きなさい」じゃあ無くて(ー_ー)!!
「言葉を聞きなさい」かな?と思っていました。
何せ、人の話をよく聞かないでビュ〜ンと一人でアラレちゃんのように(古い)突っ走るからかな?と。
そう思いながら、スレッドを見ると、公忠公の末裔様のお話があったので、
なるほど(゜.゜)と。

自分でも、人の話を聞かなきゃなぁ〜と思っているのだと思います(^・^)

丁度、公忠公の末裔様からコメントを頂けた所で(今日はお休みかな?)皆様に発表があります。(^・^)<m(__)m>

私は、今月いっぱいで、今の仕事を退職いたします。(^・^)

そして・・・
出来れば夏までには、球磨の実家に帰るつもりです。
色々と考えたのですが、父もかなりお爺さんになって来て、今まで、親孝行を何もしていないので、これからは、父の側にいたいな!と思いました。

今までの人生で、仕事をしていない期間は殆どなかったので、退職したら、しばらくは北九州に居て、ちょっとだけゆっくりしようかな〜と思っています。
(娘の事も心配ですし・・)

球磨に帰ったら、私の大好きな山口県の長門市や宇佐・国東から離れてしまうので、今のうちに堪能したいと思っています。
伊予(四国)にも行ってみようと思っています。(^・^)

父には2月初めにそれとなく電話で話してみたのですが、聞くなり父は電話の向こうで、耳が痛くなるような大きな声で
「バンザ〜イ!!バンザ〜イ!!」と叫んでいました。

まあ、離婚した時に父から「帰ってこい!」と言われたのを、仕事を理由に帰らなかったので、そんなに父が私の帰りを待っていたとは思っていませんでした。

球磨に帰ったら、早速、みやはらトラベルミステリーツアーを立ち上げて、すでに、完全なる山と化した宮原城をテーマに「サバイバル!!宮原城探検ツアー。あなたも、御一緒に宮原城の真の姿を復元しませんか?」を企画します。

なんて(ー_ー)!!冗談です<m(__)m>(^・^)

オーガニック野菜を栽培して、カフェを開きます(^・^)
(ー_ー)!!これも冗談です<m(__)m>

「鼻に土を付けて大根を手に写真を撮り、ここに送ります(^・^)」と仕事場の人に言うと、みんな「ばか!」と言って笑っていました。
でも、「ドジドジで、ぽわ〜っとしているから、マムシに噛まれないようにね」と言われ、「はっ!」としました。
そうです、あの場所にはそういう、都会にはいない危険生物がまだ生息していたのでした。
それに、空からは「先祖の乗った宇宙乗り物」が遊びに来るかもしれません(*_*)
橘が連れて来た「カッパさん」も「おかえりなさい(*^。^*)」と遊びに来るかも知れません(*_*)

エステも近くにないし・・好きなブランドショップも・・・お気に入りのカフェも・・・ 大好きな関門海峡の景色も遠く離れてしまいます(*_*)

でも・・・・温泉があります(*^。^*)

はっ!(我に返って)これ以上言うと本当に皆様があきれてしまいそうなので・・

でも、大好きな白髪岳と市房山そして、大事な父がいますので(^・^)

と言う事で、「わたくし宮原は故郷に帰ります」の御報告でした(^・^)

追記
先ほど、図書館から電話が入り、やっぱり、「山江村誌」は国立国会図書館の館内のみ閲覧可能でした。
でも、国立国会図書館の御好意で、北九州市立図書館までは郵送して頂けて、北九州市立図書館内で2週間の閲覧は可能となりました\(^o^)/
やった〜\(^o^)/
図書館に通いつめて、しっかり読んできます(^O^)/

何でも、この本は国内の図書館では3冊のみの所蔵だったそうです\(◎o◎)/!

コピーも図書館職員の方がされるそうです\(◎o◎)/!

本当に、日本の苗字七千傑様、貴重な情報をありがとうございました。


[33]子孫よりさんからのコメント(2014年03月16日 16時10分04秒 ) パスワード

追記

先ほど山江村誌は国内の図書館に3冊だけあったと書きましたが「歴史編」は1冊のみ国立国会図書館所蔵のようです。\(◎o◎)/!

どうしよう(-_-;)

ドキドキしてきました。

もしも、ビリッ って・・・・・・きゃ〜!(>_<)

わっ私には、宝治合戦で前夜から三浦氏の家に忍び込んで手柄をたてようと一晩頑張ったのに、結果・・・
の方のDNAが色濃く流れているのですよ〜
おや?(;一_一)笑っていませんか?公忠公の末裔様?

公忠公の末裔様にも同じDNAが流れていますよ〜
(でも、私とは全然違いますね(*_*) いいな〜(*_*))

でも、先祖、橘公員は弓を射ればビシッ!と当たる名手でした(^・^)
私も、ここぞと言う時は、ビリッと(ー_ー)!!違いますビシッと決めます。
(^・^)

では<m(__)m>
[34]子孫よりさんからのコメント(2014年03月16日 17時56分28秒 ) パスワード

皆様、今回のコメントは脱線しませんので<m(__)m>

先ほどから、日本の苗字七千傑様の《菊池氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm

をじっと見つめていまして・・・

菊池経宗の流れから「赤星氏」が。
菊池経頼 → 菊池経宗 と繋がっていますが、菊池経頼を頼って、良峯四郎安則がいずれからか来られて肥後国山本庄に住んでいたと言う事でしたので・・

もしかしたら「赤星氏」と「良峯四郎安則」は何らかの繋がりがあったのでは?と思ってしまいました(゜-゜)

そして、《菊池氏》姓氏類別大観 には、黒木氏もあります。
「西郷氏」「合志氏」は球磨にもありますね? あれっ?

そして、二階堂氏の《二階堂氏行村流》にも「西郷氏」が。(繋がりは・・?)

赤星も黒木も祖母の実家「平川」の近い親戚なので、とても気になります。

それに「迫氏」ですが、平河義高が居城した「岩城」跡は現在、「迫」という地名です。
そして、多良木の平川の親戚は「迫田」という場所にもあります。

かなり気になったのでコメントいたしました。<m(__)m>


[35]子孫よりさんからのコメント(2014年03月16日 19時44分41秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

球磨の実家に帰る事を皆様にお伝えしたからには、私が、今まで、お話していなかった事も、お伝えしようと考えました。

多分、皆様の中には、「この人は宮原なのに何故、そこまで平川にこだわるのか?」と思われていた方もいらっしゃると思います。

実は・・・・

平川の現在の当主である伯父が、人吉に家を建てて、先祖代々の平川家跡を私の従兄が継いだ時に、伯父は仏壇も全て人吉に移したのです。

その時、私の祖母はまだ、元気でして、伯父と話し合い、お寺にお頼みして、私の実家すなわち宮原の仏壇に平川の先祖の分霊を致しました。

祖母としては、何百年もこの土地、旧久米郷宮原で代々お守りして来た、平川の先祖の霊を違う土地に移すのが辛かったのだと思います。
ですから、実家の仏壇には「宮原家」と「平川家」両家の先祖の霊が祀られているのです。

父は、何故か私が子供の頃から仏壇にお参りする時は「宮原家・平川家そして両家にゆかりの皆様・・・」と言って手を合わせてきました。

この頃、先祖の事を調べていて、父の言葉の意味が解ってきたような気がします。

先ほどお話した事により、私は、実家に帰り「宮原家」「平川家」両家の先祖をお守りしていく事になります。

もしかしたら、祖母は、私が帰って来るのが解っていたのでは?とこの頃強く感じていました。

と言う事で、今後も「宮原」「平川」の先祖の調査はしっかりと継続していきたいと思っています。

どうか、皆様、御協力の程、よろしくお願い致します。<m(__)m>


[36]子孫よりさんからのコメント(2014年03月17日 06時44分09秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨日より、日本の苗字七千傑様の《菊池氏》姓氏類別大観を拝見しながら、球磨の私の故郷旧岡原村に関係する姓が沢山あるので非常に興味が湧いてきました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
藤原氏 隆家流 菊池氏 → 赤星氏

《合志氏/赤星氏/甲斐氏》 姓氏類別大観 には
赤星氏以外に、岡本氏・永里氏が見えます。

実家近くを流れる井口川の向こう岸からの土地を岡本と呼び、岡本城があります。

そして、岡本より先、現在では永岡と呼ばれる場所から旧上村にかけて、永里と呼び、永里氏が所領していたと聞いています。

旧岡原村の岡本氏と永里氏が日本の苗字七千傑様の《合志氏/赤星氏/甲斐氏》姓氏類別大観に見える、岡本氏・永里氏となるのでしょうか?

岡原村(現あさぎり町)は岡本村と宮原村が合併して出来た村でしたから、流れが見えてとても勉強になりました。

私のように、歴史が苦手な子供達も、故郷にはいるかも知れません。
でも、このような形で、自分たちの故郷の地名に関わる流れが理解できたら、もっともっと、みんな歴史が好きになるかもしれないな〜と思いました。(^・^)
それと・・・
甲斐氏ですが、実は宮崎の母方の方に甲斐と言う親戚が沢山あったと記憶しています。宮崎の甲斐氏は別の流れかとは思いますが、母方の方は、甲斐・児島・富田という親戚の記憶は残っています。
(先祖が合わず?に両親が離婚しているので、何か理由がわかるかな?と(*_*))

平川(平河)の話に戻りますが、以前、日本の苗字七千傑様より平川発祥の地名について、遠江国城飼郡平川郷(現:静岡県菊川市上平川および下平川)と伺いました。

菊川・菊池・・・菊が共通です(あまり関係ないかも知れませんが(*_*))

ただ、【藤原氏隆家流】姓氏類別大観に見える、水無瀬家に進むと、家紋が「菊」の紋?でしょうか? (私には理由は全く理解できていませんが)

素人考えで、「菊」に何かあるのかな?と思ってしまいました。(?_?)
(すいません、何も理解出来ていないもので<m(__)m>)

と言う事で、とても、興味をもって、菊池氏の流れを拝見していた・・というお話でした<m(__)m>

では、仕事に行ってきます(^O^)/







[37]子孫よりさんからのコメント(2014年03月18日 07時21分58秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

山江村誌を早く読みたいな〜\(^o^)/とワクワクしながら過ごしています。

でも、ふと、もし記述されている内容の意味や登場人物の名が解らなければ読んでいてもチンプンカンプンになってしまうので、昨日から、今まで、調べて来た方々の確認をしてきたのですが・・・

げげっ!!(はしたない(ー_ー)!!)っと。

ある人を調べていませんでした(>_<)

菊池氏関連のサイトで以前それもかなり以前に見つけていた名前

貞家八郎

平河師里や行親などの名前と一緒に記載されていました。
こっこれは・・・・やばい(>_<)(はしたない(ー_ー)!!)

早速調べると
「肥後国人の平河貞家軍忠状」(平河文書)という記述が沢山出て参りました。

その他にgoogleブックで検索すると 
足利直冬 - 第 240 巻 - 118 ページ より
瀬野精一郎. 泰を大将として、日向.大隅寄郡の軍勢を率いて大隅国に打入り、税所介以下国中の^ 107 献方と直冬方との合戦が行われている。道猷方として合戦に参加した肥後国平河貞家,隈の合戦ひらかわさだいえ^前^ &忠観応三年^文和元年 5 霊)十一月
...★ この表示は文字化けしています<m(__)m>

118 ページ
貞広,子息氏貞,豊前国西郷有政らが軍忠を抽んじており、特に貞広,氏貞父子は討死が軍忠を抽んじており、道猷方としては肥後国平河貞家,肥前国綾部幸依.豊後国田原の合戦突し、道猷軍を敗走させた。この合戦で武光方として筑後国草野永行.肥前国安富  泰 ...

★道猷方・・・一色 範氏 

平河貞家。この方は、多分、今までの流れで言うと、一族うんぬんとかは解りませんが、「名跡」を継いだ方なのかな?と
(私、だいぶ、しっかりしてきたと思いませんか?皆様?(^・^))
えっ? マダマダ(ー_ー)!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!の大合唱が!

もう一つ、平河貞家と関係はないとは思うのですが
武田氏一条時信と三浦貞連についてのお話がありました。
まだ、じっくり読んでいないので、夜、しっかりと読んでみたいと思います。(^・^)

では<m(__)m>
[38]子孫よりさんからのコメント(2014年03月18日 19時00分12秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

と〜〜〜ってもうれしい〜御報告です(^・^)

北九州市立中央図書館の方が一生懸命「山江村誌・歴史編」を探して下さり、何と、九州にも1冊ありました\(^o^)/
(ネット情報では解らなかったのかな?)

何処の、図書館かと言いますと・・・・
人吉市立図書館です\(^o^)/
というか、完璧に故郷・地元でした(>_<)(^・^)

そして、人吉市立図書館様は、なんと!貸出可能と言って下さいました。
\(◎o◎)/!

と言う事で、私は有給休暇を利用して、じっくり山江村誌を読む事が可能となりました。やった〜\(^o^)/

は〜やくこい!は〜るよこい!じゃあなくて(ー_ー)!!

有給休暇の消化は21日からです。
北九州から球磨の方向を見て、先祖に手を合わせ、感謝の気持ちを持ちながら
読ませて頂きます(^・^)


[39]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月18日 20時43分25秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>道猷方・・・一色 範氏
 
清和源氏丹羽氏は、公式には一色範氏の曾孫氏宗の子氏明を祖としている。
しかし丹羽氏の出自は良峰姓で、従って長塩氏と同じ「桧扇」を家紋としているのでは?
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217a.htm#002
 
丹羽氏は良峰氏、清和源氏、村上源氏、日下部氏の諸説があるが、丹羽→椋橋
→良峰→橘→丹羽を改姓してきたのが真実ではなかろうか?
従って、平河氏についても同様のことが想定される。
山江村誌で、何らかの情報が得られると良いですね。 
[40]白石さんからのコメント(2014年03月18日 21時05分34秒 ) パスワード

こんばんは
岡本 永里 永岡など おもしろいですね。
永里は私の地域にもおり、
武家家伝岡本氏やウィキを見ていたら

岡本 頼氏(おかもと よりうじ、天文6年(1537年) - 慶長11年11月13日(1606年12月12日))は、人吉藩相良氏の家臣。通称は弥十郎、源次郎。別名は頼真。官位は主馬、河内守。父は「岩本隆吉」。

先祖は「菊池氏」で、球磨郡永里の地頭職にあったことから「永里氏」を称した後、相良前続の頃、先祖が原田岩本に水田一町を賜って以後、「岩本氏」を名乗った。

頼氏は深水姓を賜り深水主馬と称したが、その後に岡本の領主であったことから岡本姓を名乗った。

岡本 父・岩本 先祖・菊池氏 永里 深水

というのがありました。
岩本は 父が戦後買い求めた家の下にあり、そのおじ(故人)が 私に 
「あんたのおとっさんの出は 只んもんじゃなかったっじゃで」
と教えてくれました。

その頃の私のしらべでは 熊野の方にいってしまいましたが・・・


武家家伝_岡本氏
www2.harimaya.com/sengoku/html/hag_okam.html‎
岡本氏は、宇都宮氏の家中で「紀清党」と呼ばれて、その勇猛振りを謳われた清原(清)姓芳賀氏の一族である。ちなみに、紀は紀姓益子氏をいう。 清原氏は天武天皇の皇子舎人親王の末裔といい、高重の代に下野国に流されて芳賀地方と関係を持ったもので・・・

宇都宮 紀清党 紀姓益子氏 芳賀氏
この 宇都宮 紀 益子氏 などは 母方からでる氏族で(まだつながるのかどうかはわかっていませんが)

山口の方の上士・益子氏の家来?に佐田がおります。
そして
うっ と 前に思ったのが 天草氏郎時貞に関して 確か 養父が益子なのでした。

ここらあたりが なんとも 枝分かれした先の方でキリシタンに関与していたのかしらん?と 思っています。

永岡は長岡と書く時 細川の通称ですね。
そして 
球磨の河童は 相良氏に味方して 相良氏は細川氏に勝利したのですね。
細川も 島津も サダと大きくくくられるようです。。

なんだか 同じ苗字のお家がでているので 書いてみました。

[41]子孫よりさんからのコメント(2014年03月18日 23時15分31秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「清和源氏丹羽氏は、公式には一色範氏の曾孫氏宗の子氏明を祖としている。
しかし丹羽氏の出自は良峰姓で、従って長塩氏と同じ「桧扇」を家紋としているのでは?」

やはり丹羽氏が重要な鍵なのですね。
清和源氏丹羽氏が一色範氏の曾孫氏宗の子氏明を祖としているとは・・
何も知らずにコメントしてお恥ずかしいです(*_*)

丹羽氏(良峯氏)の繋がりで、平河貞家が道猷方として戦ったと言う事であれば、理解出来ます。

鎌倉幕府の流れから今度は南北朝の戦いへと先祖の調査が進んできました。

ご教示の中に丹羽→椋橋→良峰→橘→丹羽を改姓というお話が出てきましたが、私、宮原の先祖「橘薩摩」も何故か「良峯安世流」と記述されていて、もしかしたら、こちらの流れの「橘」と何らかの関係があるのでは?と思っています。
何故ならば・・・
祖母の行動がやはりとても気になるのです。
平川の先祖の分霊を行って、宮原の先祖と一緒に平川の先祖を家で祭っているとお話しましたが、いくら自分の実家の先祖だとはいえ、通常は行わない事だと思うのです。
それに、お寺様も普通は、あまり賛成されない行為と思うのですが、平川の伯父も、お寺様も祖母の意見に賛同した結果なので・・
きっと先祖に共通の流れがあるからだとしか考えられないのです・・
あくまでも、推測ですけど・・

それと、もう一つ勝手な推測をしてしまいますが・・
(歴史を知らないからこのような事が平気で言えるのかもしれませんが)

私は平河を調べていて、南北朝の戦いを調べる事になってしまった訳ですが、多分、皆様とは違った視点をもっているのかも知れません。
私は「血」の繋がりを見ているのかも知れません。

もちろん「名跡」を継いだ結果、かも知れませんが・・・
何故か、同族同士で戦っているように感じるのですが・・
それも、かなり近い「血」の繋がりがある家同士が戦っている(争っている)ような気がします。

先日、お話した本の記述から
平河左近允頼尚は少弐頼尚。
そして道猷方・・・一色 範氏
平河貞家はこちらの道猷方として足利直冬と戦っている。
少弐頼尚(平河左近允頼尚)は一色 範氏と戦っている。
でも少弐頼尚は観応擾乱で佐殿(足利直冬)に与同して解補された・・・

戦ではありませんが、永吉・西村庄をめぐる争いでも
平河弥五郎入道々照(道照)・・二階堂和泉守行方
平河三郎入道観蓮・・・平河良貞
禅門道我・・・・二階堂出羽守行藤
そして、平河師時

上記の人達は、
広元の譲りを得た外孫の近衛中尉春実と訴訟を起こし返付が認められた。
しかし、永吉荘預所職は武藤(少弐)景資に与えられた。
その後、永吉荘預所職は備前々司入道(北条一門の佐介朝房であろう)に与えられた。彼は預所職のみでなく、永吉西村を一所とみて地頭職を知行した。
平河道照はその回復(永吉荘預所職?地頭職?)に努力したけど、認められなかった。
★補足
北条氏。平河観覚すなわち平河宮内左衛門入道観覚は極楽寺重時(北条重時)甥が 平河又三郎師里。
でも、平河観覚は良峯(平河)阿夜の書状をもとに、未亡人となった阿夜を守って下さいました。(日本荘園史の研究という本を読みました)

続けます・・
少弐頼尚(平河左近允頼尚)は永吉荘内山田城に居城し、山田城は北朝方の一大拠点とされていた。
しかし、少弐頼尚は観応擾乱で佐殿(足利直冬)に与同して解補された。
そして、永吉荘の荘としての実態は鎌倉幕府滅亡をもって終わった・・

調べて行くと上記に登場する人物は全て、繋がっています。

先祖を調べていて、このような内容に遭遇するとは、はっきり言って、本当は思っていなかったのです。
最初は、もっと簡単に解るのではと楽観的でした。
平河家文書も、読めなくて意味が解らなかったときは、もっと単純な内容なのかな?と思っていました。

直接自分に関係しているのかどうかは解りませんが、「ドンドン調べたい」という好奇心のような物でいっぱいです。

山江村誌、本当に楽しみです(^・^)





[42]子孫よりさんからのコメント(2014年03月19日 00時06分19秒 ) パスワード

白石様、今晩は(^・^)
ご教示、ありがとうございます。

球磨の岡本氏は深水からの流れでもあったのですね。

旧岡原村の宮麓に岡原の「深水家」の本家があり、そこから、曾祖母が平川に嫁いできています。
永岡と永里の境界には岡原「深水家」の土地があり、そこには祖母の従兄(もう亡くなりましたが)が分家として住んでいました(今は、父のふた従兄の代になりました)
地縁があるのかな〜?と思いました。

「細川も 島津も サダと大きくくくられるようです」
こちらにある「サダ」は白石様のお父様の佐田氏と言う事なのですか?

以前からとても興味がありました。
ぜひ「サダ」(佐田氏)について、ご教示下さい。(^・^)

宇都宮氏についても、もっともっと勉強したいと思っています。

山江村誌で、球磨の歴史がより深く解ると思います。
白石様のご先祖様に繋がる沢山の情報も出て来ると思います。
楽しみにされて下さいね(^・^)

では<m(__)m>(^・^)







[43]白石さんからのコメント(2014年03月19日 01時54分53秒 ) パスワード

目が覚めてしまって 何となくパソコンをあけたら子孫様のコメントが。楽しく読み進みました。

この間も 目が覚めてしまったら 地震でした。
何もなければと 思います。我が家の犬は地震にはまるで反応がなく、阪神大震災のあの頃は別の犬でしたが、激しい揺れで、抱いてどうしよう どこへ逃げようとがくがく震えていたのに、犬は「んっ どうしたの?」という顔でけろっと私の顔をぺろぺろなめていました。

余り 不安を誘発するようなことは これ以上書きませんね。

サダ
という族にくくられる ということだと 思います。
本で見たのですが、金姓・紀姓はすっきりはっきりわけられるものではなく 中国何千年のぼうぼうたる歴史に分け入っていく と ありました。

そして 
父方は高姓で黄帝へ
母方は神農氏(赤帝・炎帝)へ
私はこうしてお話しすると 学を究めていない事がわかるなあ と 思いますが、祖先をたどっていると どうしても そのように思えます。

一色
丹後男山で 一色の陣代をつとめていた高岡氏。結局自刃するのですが、枝葉に分かれた一門の人が、九州にも来ていた可能性がある ようにも思います。

ここの高岡の系図が天照国照彦天火明櫛玉饒速日命につく系で、池田氏と同祖になります。系図公開されています。
この系をたどると 馬場下野守仲政という人が出ますが、この人の系に足利・世良田などの苗字?があり、世良田に関わって徳川・佐田・新田などが関与してきます。

南北朝期
前にも、うちは南朝方だとばかり思っていたけど、どうやら北朝方だったのではないか? と この頃 思うと書きましたが 
父の先妻の家に嫁入っている山口という家
その山口は上村の白石(木上から来ていることになっている)にも嫁入っていて

白石へは高岡から複数代嫁入っていて ついには 父(高岡)が 母とともに 夫婦養子

姻戚関係の家の顔が 大きくでるとき 南北朝どちら方にもでるようです。

山口によると南朝方が濃い。

ごめんなさい
私事ばかり書きましたが、子孫様 だんだん 具体的にわかってきていますね。
私も 平川へ高岡から婿に入っている(父のいとこ)ことが とても 興味あります。そして 彼等親戚のおじたちが 「平家城のあったと」 と 集まりで話していたこと。この城のことは 余り地域の人でも忘れたみたいに知らない人がいる世代のことで、
市房神宮のお鏡を預かる家があることも 村の古老でさえ 知らなかったことでした。





[44]子孫よりさんからのコメント(2014年03月19日 08時28分43秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

古代中国に繋がっている「サダ」という族なのですね。

白石様のお父様方は高姓で黄帝へお母様方は神農氏(赤帝・炎帝)
よくお調べになられていますね。とても驚きました。
多分、私の父が興味があるのはこういうお話ではないのかな?と思いました。

あの・・
何故かふと。色をイメージしたのですが
金姓・紀姓・・・金・黄色
黄帝・・金・黄色
神農氏(赤帝・炎帝)・・赤色

そして、一色氏・・・

これは、私、素人の目からイメージしたものですから、すいません。

白石様、古代に関わるお話、これからも、沢山ご教示お願いします(^・^)

あっ。私も今朝はというか夜中から物凄い震えがきて・・朝まで続きました。
私の場合は今回はどうも、風邪のようです。

今日は出勤が遅いシフトでしたので、今から、仕事に行ってきます(^・^)
[45]白石さんからのコメント(2014年03月19日 20時20分22秒 ) パスワード

こんばんは
九州は桜の開花がはじまったのですね。
子供の頃 村の公会堂で 集まって 花見の宴を皆でしていました。
戦後の困難の時ではあったけど、よき時代でした。
村の成立は 1600年代くらいになっていますが、その前 縄文時代からいやもしかしたらそれ以前から住み着いていたようです。
江戸時代なども 貧しくはあったが渡世に困らず とあり、おそらく 折に触れては皆で集まって宴会を繰り広げ 楽しく暮らしていたのだろうと 思います。
父は 私たちが就職をする頃 昔はどこもここもあんまり差がある生活ではなかった と 言っていました。
人口も大きく膨らんで、都会はいざしらず 田舎は人の手がものをいうので、秋ともなれば収穫の季節でおなか一杯食べていました。

子孫様 おうちに帰られるとのこと 良い決断だと思います。
ゲームもおしゃれも 旅行も 縁遠くなるかもしれないけど
それにもまして 楽しい生活があると思います。
子孫様
地産の作物をつかって おいしいケーキやパンやお料理や夢が広がりますね。
ネット販売で 焼酎や山の幸など集めて世界に販売もできるでしょう。
私 もう ずいぶん前に地域に向けてネットを活用した販売を話したことがあります。田舎はなにか 考えなければね。

我が家もうれしいことがありました。
むすこがやっと 就職したのです。
近所の人も働こうとしているのだから 欲をかいてはいけない と 喜んでくれました。
考えようによっては 早くに親元を離れる子より もうこの年までそばにいてくれてうれしいです。そばにいてくれることが幸せでした。

子孫様のお父さまが ばんざい を 叫ばれたのも よくわかります。
わたくしが帰省するたびに 父が笑いながら ぽろっと涙を流していたのを思い出しました。子供が病気にやられないか?つらい目にあっていないか?毎日案じていたのだろうと思います。

[46]子孫よりさんからのコメント(2014年03月19日 22時46分50秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、コメントありがとうございます。

息子様、ご就職、おめでとうございます。
ずっと、側にいてくださって、親孝行の息子様ですね。

家の息子は、家庭で色々あって、登校拒否になってしまい最終的には学校を辞めました。
この先、この子はどうなるのだろうと心配で眠れない事もありましたが、
「やりたい事がある!」と言って家を出て、今は、自分の道をやっとみつけたのかな〜と思っています。
子育てをして、自分も一緒に成長してきたのかな?とこの頃感じています。(お解かりの通り、私はいつまでも子供みたいな所があるので、いつの間にか精神的には子供に追い抜かれました(*_*))

子供の事を私が、心配するように、父も、私の事を心配していたのでしょうね。

白石様からのお言葉のように、今後は、球磨の自然を満喫して、田舎の暮らしを楽しんで行きたいな〜と思います。

ネット販売。素敵なアイデアですね(^・^)
考えれば、色々な生活ができるかもと思いました。

明日1日出勤したら、3月いっぱいは有休消化になります。
昨日までは、その日が待ち遠しかったのですが、今日、仕事場の方から其々、言葉をかけて頂き、かなり、寂しくなってしまいました。

でも、自分で決断した事ですから、明日は、一日、「発つ鳥跡を濁さず」で、しっかり最後の仕事をさせて頂きます。
(ドジドジな終り方をすると、きっと「やっぱ、宮原だぁ〜」と笑われそうなので)

では<m(__)m>(^・^)




[47]子孫よりさんからのコメント(2014年03月20日 06時39分25秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、携帯の留守番電話に「山江村誌御準備が出来ました」との図書館からのメッセージが入っていました\(^o^)/

早速、今日、仕事が終わったら図書館へ行って参ります\(^o^)/

すご〜く楽しみです(^・^)

明日からは、時間だけはたっぷりありますので、じっくり読みたいと思います。

でも、かなりドキドキです。

何せ、先祖の調査は「謎解きの連続」で、今まで読んだ、どの推理小説よりも、不可解?で難しいので、これで、答えが見つかれば良いのですが。


答えが見つからなくても、今後の足がかりが出来ればそれだけでも、とてもありがたいと思っています。


所で、先日、「貞家八郎」こと「平河貞家」。この方を調べている時に、偶然、このようなお話を見つけました。

サイト 一条信長流
http://ameblo.jp/katsuyori/entry-10103003633.html

三浦貞連(六郎・左衛門尉)

一条時信の3子。『系図纂要』に会津の三浦政盛養子とある。同時代に三浦六郎左衛門貞連(?−1336)がいる。『横須賀系図』には安芸守時明の子とある。

系図に異説がある人物なので詳細は不明。三浦貞連≠ニいう人物は、1335年足利尊氏の京都進攻の際これに従い、同年12月侍所であったことが確認されている

★一条時信の3子 三浦貞連?

でっ!この方の弟が
一条貞家(八郎) ?−1333 一条時信の5子。
???でも平河の「貞家」とは関係ないとは思いますが・・

興味が出たので、もっと調べてみました。

三浦貞連の位置づけ
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/miurasada/miurasada1.htm

(問い)元亨三年(1323)、北条貞時13回忌に銀剣一振などを奉納したと円覚寺文書にある三浦甲斐六郎左衛門尉(貞連)の系譜についての質問です。
 以前、馬場美濃守の系譜についての樹童様の論考において、三浦貞連についての記述があり、三浦行連(従五位下、甲斐守、十郎左衛門尉)の子として貞連(六郎左衛門尉)があり、この者が武田氏一条時信の養子となり、諸子として宮田太郎貞明、芦名大夫判官貞清などがあるとしています。しかしながら、貞連については、ほぼ同時代に佐原盛連を祖とする者が3名、盛連の弟・政連を祖とする者が1名、合計四名が系図に見えます。盛連を祖とするのは、@会津葦名一族の三浦政盛の子、貞連(六郎左衛門尉)、A甲斐守行連の子、貞連(六郎左衛門尉)、B安芸守時明の子、貞連(六郎左衛門尉、因幡守)であり、政連を祖とするのはC少納言房実雅の子、貞連(十郎)です。
 
質問1:冒頭に挙げた三浦甲斐六郎左衛門尉貞連は、@、A、B、Cのいずれの貞連にあたるのでしょうか。
質問2:また貞連については、武田一条氏時信から佐原流三浦氏の養子となったと主張する系図(@−系図纂要、A−a諸家系図纂、b清和源氏740氏族系図(千葉琢穂著)、c群書類従 武田氏系図、巻121)と、逆に三浦氏から武田一条氏時信の養子となったとする系図(郡書類従 武田氏系図、巻122)があり混乱しています。さらに@〜Bの貞連が全て六郎左衛門尉と記述(系図纂要、諸家系図纂)など不自然な印象があります。

φ(..)メモメモ「貞連」と言う人が4名。 と言う事ですね。
サイトでは、この質問に対しての回答が記述されているのですが・・(長くなるので、転記はしません。<m(__)m>サイトをご覧下さい)

所で、ありゃりゃ??と。
★佐原盛連の子供は・・ 佐原時連・・? あれれ〜っ?! 
佐原(三浦)六郎左衛門尉時連・・・観蓮
と言う事は・・観蓮すなわち佐原時連と三浦貞連は上記の@〜Cのどのパターンをとっても繋がっていると言う事ですね。

???????(?_?)

ちょっと整理します。

@一条時信の3子は「三浦貞連」 一条時信の5子が「一条貞家(八郎)」
A三浦貞連は佐原流三浦氏の養子となった(又は逆)
★佐原盛連を祖とする「貞連」が3名。盛連の弟・政連を祖とする者が1名、合計四名が系図に見える。
B佐原盛連の子供は六郎左衛門尉時連(観蓮)

関係ないかもしれませんが、平河では
平河三郎入道観蓮(平河良貞) そして 平河貞家(貞家八郎)の名があります・・・・。

??????(?_?) ・・・(゜.゜) あれれっ??(@_@;)
何でだろうな〜。やっぱり偶然かな〜??

仕事最終日の朝から頭が??となっていてはいけませんから(ー_ー)!!
気持ちを切り替えて では 仕事に行ってきま〜す(^O^)/






[48]白石さんからのコメント(2014年03月20日 20時11分16秒 ) パスワード

41
★補足
北条氏。平河観覚すなわち平河宮内左衛門入道観覚は極楽寺重時(北条重時)甥が 平河又三郎師里。
でも、平河観覚は良峯(平河)阿夜の書状をもとに、未亡人となった阿夜を守って下さいました。(日本荘園史の研究という本を読みました)

師里・貞家八郎は
菊池氏系図についていますね。
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/kikuti.html
子孫様はすでにみておられるのに 私がとんちんかんなことを書いているのかもしれませんが、
内田高通頼国子頼貞孫重頼曾孫頼重玄孫山井宗頼耳孫頼忠耳孫?相良頼景昆孫

内田も先生が集落におられました。
そして 山井は高岡の嫁方です。
頼景のすじであるなら 私たちの姻戚関係が上相良氏がいたあたりに親戚があるのが理解できます。

この子孫に
青井前成====1394人吉貞頼子青木九郎
などがおり 人吉青井阿蘇神社宮司の筋なのでしょうか?
山北も集落にいます。

1500年代なら 少し 時代が合わないとは思いますが
頼豊長辰子相良玄蕃仕島津義弘
長信頼豊嗣岩切信房子杢之助
と 玄蕃 岩切の文字が見え
玄蕃とは 職名なのでしょうか?

平河師里相良流平川又三郎が子孫におります。
[49]白石さんからのコメント(2014年03月21日 00時13分50秒 ) パスワード

子孫様のコメントを探していたら やはり すでに 見ておられたようで、菊池系図にある と コメントが前にありました。

[50]子孫よりさんからのコメント(2014年03月21日 01時31分54秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

ついに、明日から有休消化に入ります。(^^ゞ
そして、・・・・\(^o^)/
「山江村誌」が私の手元にやってきました〜\(^o^)/

まだ、読み始めたばかりなのですが、最初から??????です。
想像通り、「平河」の名の付く?人々が・・・

そのお話の前にまず、良峯としての平河の説明から始めます。
「山江村誌」によると、球磨に来るまでの良峯系の平河は、異なる複数の記録(平河伝授巻・求麻外史・熊風土記)が残っていました。

まず、求麻外史
木上岩城城主平河右衛門義高、歴代私鑑、族蹟備考に平河氏の系図を引きて曰く、義高の先は平河三郎師康にして良峯大納言安世二十八世の孫なり。師康数世の孫師澄、康平六年肥後球磨郡永吉庄を賜ひ遂に徒りて居る。

所が平河氏系図(熊風土記)では(数世飛ばしている可能性大)
平城天皇(桓武天皇)→ 良峯大納言安世 → 良峯蔵人頭宗貞 → 良峯左近少尉義孝(両九郎) → 良峯貞時(三郎) → 良峯安則(四郎)

上記の開設として以下の記述がありました。「山江村誌」より
弘安六年七月三日の関東下知状によると「如良貞等申者、件永吉地頭併名主職者、八代相伝開発之地也」と見え、良貞より数えて八代前、師高より四代前の「相伝開発之地」であった事がわかる。
そして、八代前が良峯四郎安則であるかわからないが、安則が頼った菊池経頼は則隆の孫にあたる。
藤原則隆と子息蔵隆は、肥後に在住していて大宰府権師藤原家隆の第一の郎等であった。この事から良峯安則は大宰府・肥後との関係で、球磨郡と関わりをもってくるのだろうか。
この点について工藤敬一氏は「この文書は各地の反国衙行動を報告し、然るべき処置を求めたものであるから、この守高(師高)は国衙系に属する勢力であったかと思われる。(守高=師高が草部氏に襲われた件。後日転記します<m(__)m>)良峯氏が中央貴族の流れで、まず、肥後山本郡に下向したものとすれば、収納使などの国使として球磨郡に下向土着し、球磨郡衙の中にその地位を確立していった可能性がかんがえられよう」と推測されている。
安則の後は「求麻外史」にいう三郎師康、師澄と続き、康平六年(1063年)に球磨郡へ下向。その後、両九郎義孝(又は、義方)三郎貞時と続いている。
しかし、「良峯姓先祖書」によると
義孝(高)から荒田寺別当依高、師高と相続されたと考えられる。
これまで、登場した人々を良峯姓平河氏系図の中に収めてみると、次のようになる。

平城天皇 _ 良峯安世 _ 宗貞 _ 安則 _ 師康 _ 師澄 _ 良峯左近少尉義孝 _ 依高・貞時 _(依高) _ 高実・師高・東高(藤高)・盛高 ・・・以下は次回転記します<m(__)m>

★と言う事でした<m(__)m>

所で、最初にお話した
想像通り、「平河」の名の付く?人々が・・・ についてですが・・

全容は今度きちんと転記しますが、ちょっとピックアップしますね(゜-゜)
良峯師貞の子 良峯師良が「沙弥観阿」・・・\(◎o◎)/!
三位房・・良円? 師良(沙弥観阿の子供のような・・?) 
良峯三郎良貞・・良峯法師・法名観蓮

そして良貞の流れから
平河頼貞・・・相良弥三郎頼貞
平河長貞・・・相良藤三郎長貞

他に、平河高政・・犬童彦右エ門
逆に犬童姓を名乗っている人もいるので、養子縁組なのかなと?

そして・・・
あの・・宮原と平河(平川)は想像通り、何度も婚姻関係を結んでおりました\(^o^)/

系図の名には詳しい説明はありませんでした。
でも・・まだまだ、本を読み始めたばかりです。これからの展開がとても楽しみです。

では<m(__)m>(^・^)



[51]子孫よりさんからのコメント(2014年03月21日 01時38分39秒 ) パスワード

白石様、コメントありがとうございます。
ずっと転記していて、お返事出来ていなくてすいません。

白石様が書かれていた「頼貞」の系は多分、今日、私が書いた平河頼貞・・・相良弥三郎頼貞の系となるのですね。

こっ!これは\(^o^)/
白石様と私の連係プレーでした\(^o^)/
[52]子孫よりさんからのコメント(2014年03月21日 06時23分49秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
ちょっと寝不足です。

がっ!私には楽しみがあるんだな〜♪\(^o^)/と。

所で、昨晩コメントした内容に
三位房・・良円?と書きましたが何故?かと言うと
師時と三位房の間に(良円)と書かれていて、師時が(良円)なのか三位房が(良円)なのか良く解らなかったもので・・・(゜.゜)

でも、「良円」と言う名は僧の方かな?と、それで三位房(良円)?と書きました。(でも、師時も僧だったりして・・??)

それと、全然関係ない(ー_ー)!!かもしれませんが・・・
実は私の娘の名前を決める時に、候補が幾つかあってその中に「沙弥」(超偶然です)があったのですが、私の父がその候補を見た時に、何故かめちゃくちゃ怒って「沙弥」は絶対にダメ(ー_ー)!!意味も解らずに名前をつけるな!と怒られたのです。
意味も解らずにって・・だってその時松田聖子ちゃんの赤ちゃんの名前が「かわいいな(*^。^*)」と思って、ちょこっとパクッただけなのに・・
と産後の私は、悲しくなった事を思い出しました。(??何故、父は激怒したのかな?)と今思えば・・そう言えばあの頃は祖母(ば〜ちゃん)も元気でした。?????

結局、娘の名は、いまどきの名ではなく、すっごく古風な感じの名前に決定しました。「○○子」です。
息子にいたっては、芸名は今風ですが、実は本名は「○一郎」でございます。<m(__)m>

朝から雑談となりましたが、今日は一日本を読みます\(^o^)/
では<m(__)m>
[53]子孫よりさんからのコメント(2014年03月21日 13時21分22秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

昨晩、師高後の系図の事をお話しましたが・・
何だか、これは、親子・兄弟の関係と言うよりは、「一族」を表しているような気がします。(系図には、名前の挙がった人をとりあえず当てはめていると書いてあります。歴史学者の方がどうお考えになっているかは記述がありません(*_*))

何故、「一族」と思うかというと・・
一人一人を調べていると・・・・
何だか、怖くなってきました。何故、ここに名前が?と・・
名跡を継いだのかな?としか考えられない人の名も出て来て・・???と。

それか、偶然、同じ名前や法名だったのかも?しれませんね。
うん<(`^´)>きっとそうだっ(^○^)・・きっと。

と言う事で調査をつづけます(^O^)/
[54]子孫よりさんからのコメント(2014年03月21日 15時02分07秒 ) パスワード

皆様、平河家系図(師高以降)を、平河伝授巻と良峯姓平河家系図に分けて、「山江村誌」より転記いたします。

平河伝授巻より

平河三郎師高・・良峯師貞(平次)より〜

良峯師良(沙弥観阿)・・・・・・
    ・     ・    ・
    ・     ・    ・
  良峯三郎良貞  四郎師時 三位房
    ・     ・     
    ・     ・     
    ・    永池−永吉−目良生師瀬−中神良高−平野師久         ・            
  良峯法師(法名観蓮)
    ・
    ・
 頼貞(相良弥三郎)−− 長貞(相良藤三郎)−− 弓削田貞行(六郎)
    ・
    ・
   貞継(小三郎次男)−−忠浪(三郎・打死)
    ・
    ・
   長時−− 貞家(八郎)−− 貞世(弥三郎)
    ・
    ・
   長重 −− 師久
         ・
         ・
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     ・       ・        ・     ・
師光(木上但馬守)  師実(伊予守)   藤五郎   河内守
     ・       ・              ・
     ・       ・              ・
  宗義(雅楽助)   周防守        式部少輔−−−中務少尉
     ・       ・              
     ・       ・              
     師親     蔵人佐 
     ・       ・
     ・       ・
    源兵衛入道   刑部−−出家−−新十郎
     ・
     ・
    又□郎−−−弥三郎
           ・
           ・
         平河弥兵衛頼秀
           ・
           ・
         平河飛騨守頼重
           ・
           ・
  ★ とりあえずここまで<m(__)m>(ちょっと疲れました(゜.゜))

続けて 良峯姓平河氏系図に入りますが、ちょっと休憩します(^・^)
                  
                   
              

[55]子孫よりさんからのコメント(2014年03月21日 15時06分19秒 ) パスワード

(ー_ー)!! あ〜〜〜〜〜〜〜
系図が(@_@。アップしたら崩れてしまいました(*_*)

すいません。中々難しいですね(*_*)

お解かり頂けますでしょうか?(@_@。
[56]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月21日 15時30分42秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>何だか、怖くなってきました。何故、ここに名前が?と・・
 
人口増殖の統計的見地からも、見た方が良いでしょう。
球磨郡多良木町に絞ってみても、
1位椎葉(93軒)〜4位尾方(70軒)〜5位那須(67軒)〜6位久保田(46軒)〜8位宮原(39軒)〜36位平川(17軒)
 
平川姓が少ない様に思われますが、
鎌倉初期(1軒)〜室町−江戸初期(2軒)〜江戸末期(4軒)〜現代(16軒)
が標準的な増加傾向なので平川家はごく標準的なものです。
もちろん多良木だけでなく中心域の人吉や球磨郡全域にも進出しているわけですから、時間の経過とともに肥後全域に平川姓が拡がり名跡だけを継承する平川姓が増殖したことも念頭に置くと良いでしょう。
例えば久保田姓の中にも、相良氏族多良木支流に名跡を嗣いだと思われる久保田氏も有る模様。
またこの地域に椎葉(平姓)、尾方(大神姓)、那須(藤原姓)が多いのが特徴。
 
※何故このようなことが起こるかは、類例として「加賀美氏の全ては加賀美遠光の裔か 」をご参照下さい。

http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kagami.htm
[57]子孫よりさんからのコメント(2014年03月21日 20時38分02秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

平川姓
鎌倉初期(1軒)〜室町−江戸初期(2軒)〜江戸末期(4軒)〜現代(16軒)
平川は標準的なのですね。
とても、勉強になりました。
しかし、日本の苗字七千傑様から頂く情報は、本当にびっくり致します。

だって、各時代の平川の軒数まで、御存じなのですから\(◎o◎)/!
私には想像できない、膨大な情報の調査をされていらっしゃるのですね。

私はというと・・やっと、手元にきた大事な情報に対して、ちょっと躓いただけで、すぐにへこたれて・・・
とても、恥ずかしい事です。反省致しました。

頑張ります(^・^)

久保田家も多いのですね。いつ頃宮原に窪田(久保田)から養子がこられたのか?という情報も必要という事ですね。

所で、ご教示頂いた姓 椎葉(平姓)、尾方(大神姓)、那須(藤原姓)

全て親戚にある姓です。実は椎葉家(旧岡原村・宮麓)には祖母の長姉(5人兄弟の長女)が養女に入っています。
椎葉は平姓だったのですね。

子供の頃、正月には、正装して他親戚一同で、平川と椎葉に挨拶に行っていました。
ちなみに、平川と椎葉のどちらに先に行ったかで、実は、椎葉の叔母(姉)と平川の伯父(弟)は子供の私には解らない、目に見えない争い?があったようです(-_-;)

椎葉の叔母は平川家長女のプライド。平川の伯父は平川家当主のプライドがあったのかな?(^・^)と今年の正月に父と話ました。
ちなみに、その件は、ある年から、両家に挨拶に行く順番が、年毎に変わるようになって解決いたしました(^・^)
私は、毎年、先にお年玉がもらえるのは椎葉のばあちゃんか平川のじいちゃんかの違いだけだったのですけど(*^。^*)
椎葉のばあちゃんも平川のじいちゃんも、本当に大好きでした(^・^)

日本の苗字七千傑様のお陰で、気持ちを切り替える事が出来ました。
ありがとうございます。

もうひと頑張りいたします(^・^)(何せ、ずっと休みですので(*^。^*))





[58]白石さんからのコメント(2014年03月21日 21時11分47秒 ) パスワード

こんばんは
いっぱい 調査されたのですね。
椎葉 尾方 那須
尾方は嫁が来ているけど、椎葉 那須は同級生にいました。

ほんと 近いところに 子孫?が いるのですね。

良円 は もしも 良円という人が開いたから良円寺となったらうちのお寺様です。といっても
父母死後兄が名古屋に墓を求めてしまって、
すぐ 脳梗塞でたおれて、故郷のお寺には余りいけないようですが、姉が今年帰省するといっているので たずねてくれると思います。

私も 2年前帰ったきりです。
[59]子孫よりさんからのコメント(2014年03月21日 21時30分26秒 ) パスワード

もう一つの系図
「山江村誌」の中で登場している、良峯姓平河に関連する人物を系図に納めて作られた「山江村誌」オリジナル?良峯姓平河氏系図です

良峯師高・・師貞 −−− 師忠
      ・       ・
      ・       ・
      師良     師瀬
      ・
      ・
良貞・・・・・・・・・・師時・・・・・・三位房(良円)
・           ・
・           ・
観覚−−−師種  永池−−永吉−−目良生師瀬−−中神良高−−平野師久
・     ・  ・   ・  
・     ・  ・   ・
頼貞   師里  長貞  貞行
・     ・  ・   ・
・     ・  ・   ・
貞継   師門  貞家  貞世


長将


長重 −− 師久
・     ・
・     ・
○○   師光 −− 師実 −−−− 河内守 −− 藤五良
・     ・    ・       ・    
・     ・    ・       ・
女子   宗良  周防守−−伊勢守  式部少輔−−−中務小輔
      ・    ・    ・
      ・    ・    ・
     師種   蔵人佐   右衛亮


となっていました(^○^)
                          
[60]子孫よりさんからのコメント(2014年03月21日 21時35分31秒 ) パスワード

が〜〜〜ん(-_-;)

また、崩れていました(>_<)

すいません。ラインがずれています。

むっむずかしい(-_-;)
[61]子孫よりさんからのコメント(2014年03月21日 21時47分23秒 ) パスワード

白石様、今晩は。
コメントありがとうございます。

良円寺があるのですね\(^o^)/

良円に縁があるお寺様なのですね。

お姉さまが帰省されるのであれば、御先祖様もお喜びになられますね(^・^)
[62]子孫よりさんからのコメント(2014年03月21日 23時48分31秒 ) パスワード

皆様、(^・^)
「山江村誌」を読み進めると、先日お話した、「大江広元の外孫、近衛中将実春朝臣に対して平河三郎入道観蓮(俗名は良貞)が永吉庄地頭をめぐる訴訟」に関して、新たな情報が記述されていました。
訴訟の中心人物は平河三郎入道観蓮と平河弥五郎入道道照(二階堂和泉守行方)そして道我(二階堂出羽守行藤)。
永吉庄は「道照等先祖開発私領也」と訴えていたのですが、この道照等の「等」の部分です!
道照は越訴状の中で
「依実春朝臣之押領、良貞乍帯御下文等、一類六十余人令侘傺交山野、永削御家人名字事、生涯愁歎也」
と、平河一族「六十余人」の苦情を述べ、
「御下知状 弘安六年七月三日 法光寺殿御代被成一門六十余人中畢」を提出しました!

とここまで、本を読んで、私は単純に六十余名ってすごい!!と思ってコメントに転記していたのですが・・・

ああああああああ〜っ!!! 見つけた!!見つけました!!\(◎o◎)/!
書いていて、今、気が付きました\(◎o◎)/!

平河一族の署名六十余名 = 法光寺殿御代被成一門六十余人 
何でしょうか?法光寺殿御代被成とは?ちょっと調べます(ドキドキφ(..)メモメモ

今、ネットを見たのですが、何も出ません。
何方か教えて下さい。お願い致します。(*_*)

「法光寺殿御代被成」とは何ですか?!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

やっと、平河一族の本当の意味がわかりそうです\(◎o◎)/!
[63]子孫よりさんからのコメント(2014年03月22日 00時21分29秒 ) パスワード

皆様・・・ガクン(-_-;)

多分、法光寺殿御代被成とは北条時宗が執権の期間?と言う意味でしょうか?

もう、あわてました。

一族の事を指しているのかと?思いました。

え〜ん(*_*) 泣きそうです。

でも、めげません、だって、当時、平河一族と呼ばれる人達が60人以上いたという事がわかったのですから。

それと、今の大慌てで、偶然見つけた記述がありました。

七転び八起きです(^・^)
[64]白石さんからのコメント(2014年03月22日 02時39分17秒 ) パスワード

こんばんは
つぎつぎと 新しい情報があるのですね。
良円寺が 子孫様の良円に関係あるのかどうか?まではわかりません。
お寺の呼び名は 何だか そこを開基した人の名がついているように思っているので 書いたのですが。

そのお寺の住職の方の姓も 私 前から気になっていて「川津」というのですが、古代の后妃に「川津媛」ってあるのです。
住職は佐賀から婿に来たとのことで、前の防守様は八代から嫁に来たそうです。
山号は近くの深田のお寺と同じで、その深田のお寺は高岡もお願いしていて、私の娘も7歳の折、高岡のおばが連れて行ってくれて「稚児まいり」をしました。
このお寺には 明から持ち帰った経典1000巻があるはずです。
父は白石へ夫婦養子。
うちのお寺は 白石の祖父が 明治になって 家を出たので、新しくお願いしたものです。本家の跡取りだったのに、親に早く死なれて家を出て、家土地を新しく買い求めた話は前にしましたが、本家のほうは 人吉「永国寺」の流れの 明治の頃村役場が置かれたところにお願いしているそうです。

良円寺のほうは 尾方が親戚と聞いています。
昭和5年(1930)、種田山頭火が親交のあった了円寺二世寸鶏頭を訪れた
などの文字が ネットで拾えました。
[65]子孫よりさんからのコメント(2014年03月22日 06時28分54秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

白石様、コメントありがとうございました(^・^)

稚児まいり。懐かしいですね。
球磨では、今でも風習が残っていますよね(^・^)

着物を着て赤い口紅をちょこっと付けてもらった記憶があります。
(その後の事はよく覚えていません(*_*)でも、小さくても化粧をした事を覚えているとは、女性は子供の頃からやはり「女」なのですね(*^。^*)

所で、「明から持ち帰った経典1000巻」とは何ですか\(◎o◎)/!
何方が持ち帰られたのですか?
すごいですね。びっくり致しました。

ところで「山江村誌」には、とてもありがたい事に、球磨の、通常は絶対にお目にかかる事が出来ない、神像・仏像の写真が沢山掲載されています。

そして・・・ 不思議なのですが・・
井手口十王堂の木造十王像は全て、どう拝見しても、お姿が日本の方ではないようです。
古代の中国か百済・新羅すなわち海外の御方のお姿なのです・・・
帽子?冠?をかぶられて、とても威厳のある表情をされて座られています。

他にも、様々な神社の神像・女神像そして仏閣の仏像の写真が掲載されています。
写真のページはあまりにもおそれおおく、じっと、お姿を拝見する事が私には出来ないくらいです。

「山江村誌」は国立国会図書館では、館内閲覧のみで、コピーも職員の方が対応されると言う事でしたが、写真のページをあげて見ても、粗末な扱いは出来ない本だと言う事を痛感しています。

<m(__)m>





[66]子孫よりさんからのコメント(2014年03月22日 08時48分19秒 ) パスワード

マタマタ登場です。

昨晩、偶然見つけた情報なのですが・・

訴訟に提出された状の一通です

観蓮陳情 本名良氏 於宰府 弘安八年番之

★観蓮こと良貞は本名を「良氏」と名乗ったと言う事ですね。
 でも、「良氏」とは「良峯氏」の略称?
 ヘヘン(*^^)v 日本の苗字七千傑様のQ&Aの中にある通称一覧で勉強致しました(^・^)

 於宰府 弘安八年番之とは?・・・大宰府で弘安八年に番?勤めています?かな?


この訴訟の全文は必ず、転記して保管しようと思っています。
本では訴訟の内容に関しての解説に留まっていて、全体に何と書いてあるのかの「訳」は載っていません。

5ページに渡る漢文なのですが、何度も何度も読んでいくと、少しずつ意味が見えてきます(マダマダ(ー_ー)!!ですが)

それと・・
「山江村誌」の記述で、永吉庄に関わる大江広元と平河の関係が記述されていたのですが・・
「鎌倉領御領」永吉庄の預所の任じられた大江広元なのですが、何故か、永吉庄地頭平河師貞の弟「師忠」を惣領すなわち「師貞」の支配体制から独立させているのです。(これは先日もコメントしました)
「これは惣領の現地支配権が及ばない「別納」の村を設定し。庶子の分村独立を速めた事を意味する。」とありました。
★別納について
大江広元は「師忠」に対し、目良生・永池以下三カ村を「別納」として「御年貢以下別当御得分臨時課役」を「京庫」(京都にある倉庫)に直接納入させた。 とあります。
続けます<m(__)m>
そして、領家年貢は地頭平河氏の請所納入であった。これは、領家が年々の豊凶のいかんに関わらず、毎年一定額の年貢を地頭に請け負わせる方法で「地頭請所」と呼ばれている。
この請け負わされた一定の年貢を「請料」という。
地頭にとっては、一定の年貢を納める以外はすべて、地頭の得分ができた。
また、本所・領家側の荘官が荘に在住する必要もなくなり、永吉庄の支配はすべて地頭平河氏の委ねられていた、考えられる。
と言う事でした。

最初はとても強い結びつきがあったのだと言う事がわかります。
それが、何故?これ程までの訴訟に繋がる状態になったのか?
大江氏と平河の間に重大な亀裂が入ったと言う事なのでしょうね・・

ただ、外孫(実春朝臣)が、かわいくて、権限を譲っただけとは考えられないのですが・・

奥が深い内容のようです。

では<m(__)m>









[67]子孫よりさんからのコメント(2014年03月22日 20時46分55秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

今日の夕方、お彼岸と言う事で、M田さんのおじい様のお墓参りに私も御一緒させてもらいました。

そして・・
やっとM田さんのおじい様(中村家)の家紋が解りました(*^。^*)
(何をしにあなた付いて行ってるの?って言わないで下さいね)

家紋は・・・三つ扇でした\(゜ロ\)(/ロ゜)/
(以前、銀杏紋とお伝えしたような(*_*)しっかり間違っていました<m(__)m>)

中心がドラえもんの竹コプターのように見える、「三つ扇紋」です

わたくし、やっぱり、扇には縁があるようです。

では、読書を続けます(^O^)/
[68]子孫よりさんからのコメント(2014年03月23日 01時50分43秒 ) パスワード

皆様、今晩は。と言っても夜中です。

あの・・
ひょんなことから・・宮原(橘薩摩)を「良峯安世流」と呼ぶのか、見つけてしまいました。

偶然です。師高を師隆と記述されているのを見て、義高を義隆と入力してgoogleブックで検索して見たのですが、このような情報が表示されました。

平安朝の乳母達: 『源氏物語』への階梯 - 57 ページより
源正子,藤原都子〈使〉,橘等子,藤原五福子藤原輔子,某姓頼子〈典〉,良峯美子〈典三〉 右近〔橘敏政室〕,中務〔平祐之女〕 1 ... 一一〉,藤原盛子〈典〉藤原朝子〈典使一一〉,藤原基隆女,源師隆女平時子〈典使三〉,源師子〈典三〉,源重子〈典〉,源保子藤原成子〈典使三

お解かり頂けますでしょうか。
良峯美子〈典三〉 右近〔橘敏政室〕

ウィキより橘則光
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%89%87%E5%85%89

橘則光の父は 橘敏政
    母は 右近尼 - 花山院乳母・・・良峯美子

となる訳です。

すなわち橘則光より、橘(宮原)は良峯安世裔となる訳です。

良峯美子とは

大鏡研究序說 - 360 ページ より
左近少将良峯宗貞の男。,〔注〕 0 素性法師 I 生没未詳。僧正逼昭の子で、俗名を良岑玄利という。貞観から ... 0 多美子 I 『一代要記』には「美子」とある。貞観六年正月に・和帝の女御となる

良峯宗貞にかなり近いような・・ 娘?孫?

何だか、驚きすぎて・・

橘薩摩の系譜には疑問があると言われますが、でも、もしこの流れから「良峯安世流」と言われているのであれば・・・

平河より先に、答えが見つかってしまったかもです。
でも・・平河を調べている訳ですから・・

う〜ん、複雑な気分です。

でも、こうなるとやはり、先祖が同じと考えていたのは当たっていたのかな?

と言う事で、何故かこうなりました<m(__)m>



[69]白石さんからのコメント(2014年03月23日 05時02分49秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年03月23日 06時21分33秒
[70]白石さんからのコメント(2014年03月23日 05時48分58秒 ) パスワード

おはようございます
子孫様
ごめんなさい
お寺 良円寺は 了円寺でした。
葉書を見て あれっと・・・
書いている時違和感があったのですが、確かめなければいけませんでした。

その代わりと言っては何ですが、
子孫様が 書いておられた 仏様が異国の方のような という部分で
http://loco.yahoo.co.jp/place/8c56db1a4e32d732bcdc2deeca6f0017a0ea7fa9 を見てみてください。

半島あたりとは 違うようにも思いますが、これも日本の観音様とは違うようにも思えますが・・・

この宗派に関わって 聖子ちゃんや裕次郎さんがいるとネットでみたことがあります。
聖子ちゃんはご先祖様が阿蘇氏に関わり、 神功皇后に仕えていたといっていたと思っているので、
記憶に半島をとおってきた人達があるのでしょうか?
かなり あやふやな 話でした。が、そうだとすると大変ロマンティックなことですね。





[71]子孫よりさんからのコメント(2014年03月23日 08時21分10秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

白石様、ご教示ありがとうございます。
とても、すてきな仏様ですね。
お顔立ちが、美しいです。

球磨に、このようなすてきな仏像があるとは知りませんでした。

球磨に戻ったら、お寺巡りをにしたいと思います。
(国東の六郷満山や宇佐・豊前方面の寺院仏閣めぐりは頻繁に行っていたのに、私、球磨地方では、大人になって全く行っていませんでした。今年の正月に初めて従兄弟とめぐったくらいですから(-_-;))
でも、楽しみが出来ました(*^。^*)

すてきな情報ありがとうございました。(^・^)
[72]白石さんからのコメント(2014年03月23日 10時27分36秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年03月23日 10時31分15秒
[73]白石さんからのコメント(2014年03月23日 10時32分45秒 ) パスワード

お顔立ちが美しい
有難うございます。11面観音のように頭の上に顔がたくさんついていないのとか頭にすけすけのひれのようなものをかぶっておられないので(大阪茨木の総持寺の亀観音はかぶっています)、えっ これが 観音様?と 思いましたが、

そして
かくれ念仏に通じているようです。
隠れ念仏は空也上人 や 真言念仏にも通じているようで
ウィキの隠し念仏の一番下の画像にも似ているように思います。

子孫様
ガンダーラの影響ではないでしょうか?
子孫様の 調査力でときあかしていただきたいです。

ウィキのガンダーラのページの下の方の画像の仏頭(2世紀)が上の隠し念仏につかわれている画像と同じです。

ガンダーラ
三蔵法師が行ったときは すでに ガンダーラは滅んでいたという。
三蔵法師は唐の皇帝の弟。
[74]白石さんからのコメント(2014年03月23日 10時37分24秒 ) パスワード

一方 前原氏とは
子孫3 30 紀氏大野氏で
http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub11-45.html
紀氏のルーツ 玉名郡
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※大野氏 祖:紀国隆 玉名郡
       ・1241-6 玉名郡司 紀氏を称する大野氏
       ・1581 小代氏により大野氏は滅亡と伝えられる

※大野一族・築地氏(下築地に郡司の館あり)
        ・岩崎氏、中村氏、田島氏、二塚氏
         ・「蒙古襲来絵詞」に大野小次郎国隆が従軍したこと           が描かれている。
         ・その一族,岩崎・中村・田島・築地・二塚などの
          従軍した軍功賞の配分にあづかっている。(東妙寺           文書)

    ※前原氏 大野氏の後裔

とあり、免田築地に尾方があり、
深田村の寺の住職。前原氏が熊本からこられているという記録にもあうのではないか?と 思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本の苗字7000傑坂本氏のページに 属流は不明だが として 大野氏・前原氏がついているが 上の流れではなかろうか?と推測しています。あさぎり町の坂本が鰐口の話をもっていて、九州右上部に 繋がっていくような話もあった。
ーーーーーーーーーーーーーーー

[75]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年03月23日 11時16分57秒 ) パスワード

こんにちは。

橘薩摩氏の項目に良峯安世流と書かれているのは下記のサイトでしょうか?

http://www.yumechiyo.jp/yatsushiro/hitoyoshi2.html
[76]子孫よりさんからのコメント(2014年03月23日 21時07分32秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

白石様、公忠公の末裔様、コメントありがとうございます。

実は、今日は山口県長門市の青海島と日置町の千畳敷などに出かけて
先ほど帰って参りました。

お返事遅くなりましてすいません。

公忠公の末裔様、そうです!このサイトです。
以前から、情報がだいぶ更新されてきましたが、ただ、「良峯安世流」と言う所は変わらず、昨年、公忠公の末裔様に何故「良峯安世流」と呼ばれるのか御存じですか?とお尋ねした時も、このサイトを見たからなのです。
ただ、「1197年(建久8年)」というのは変ですよね?
ずっと「何故かな?」と思ってきました。
でも、橘遠保の流れから来ると、意味がわかりませんよね?
もっと、調査してみますね。

白石様、井手口十王堂の木造十王像は、天竺系ではなく、あきらかに、古代中国もしくは、古代朝鮮半島です。

専門的に言うと何と呼ぶのか解りませんが、帽子のような・・
あっ!そうです。古代中国や古代朝鮮半島をテーマにした壮大な映画などがありますね。
そこで王(帝?)と呼ばれる方がかぶっているあの帽子のようなものです。

でも、大野氏と平河は明らかに何か関係があるハズです。
先日、コメントしましたように(三位房について)、「平河一族」と呼ばれる人々と何か関係があると思います。

必ず調査しますね(*^。^*)

★「山江村誌」ですが、表紙の裏は山田大王神社で始まり、内容は全ての時代に相良氏と平河についてが書かれているようで。
今、じっくりと読んでいます。
がんばります。

[77]子孫よりさんからのコメント(2014年03月23日 21時24分07秒 ) パスワード

追記
「平河家文書」および「永池文書」に何か書かれているのかも知れません。
(?_?)
[78]子孫よりさんからのコメント(2014年03月24日 01時04分19秒 ) パスワード

皆様、「山江村誌」の内容を読み進めていまして、ただ今、球磨は南北朝の戦いへと突入致しました\(゜ロ\)(/ロ゜)/

そこで、まず当時の球磨の情勢から御説明致します。
「山江村誌」より
球磨郡の国人領主たち
南北朝時代、球磨郡内には、相良・永里・岡本・橘(宮原)・小田・平河・須恵・牧・植田・源氏などの国人がいた。
彼らは、南北朝の内乱により、所領を本拠地に集中させることで、より強固な領域支配を展開しようとした。
この時代、一つ間違えば、たちまち家が滅びる危険性がある為、一族が二つに分かれて家を保持した。
例えば、相良・永里・岡本・平河・須恵氏などがそれである。
その為、国人領主は、一人ひとりの力が弱いので、力の弱い者が何人か集まり、互いに守り、協力しあう国人連合「国人一揆」を結んだ。
これを球磨郡の場合「一同之儀」と称している。
国人一揆内の「一同之儀」には、主従関係は無く、皆対等な関係であった。
しかし、その中でも一歩抜きん出て、周囲から押し立てられたのが、多良木の上相良氏であり、人吉の下相良氏であったと考えられる。もちろん、彼らが選ばれるからには、周囲を納得させるだけの情勢を持っていた為である。
★多良木と人吉の相良氏
南北朝の内乱において、下相良氏が人吉庄の他に永吉庄半分、久米郷西方・須恵庄・永里村などの所領を獲得。球磨郡の大半を手中にした。

では、その南北朝の内乱について 「山江村誌」より抜粋します。<m(__)m>
球磨郡では、人吉の相良定頼が九州の少弐・大友・島津らとともに足利尊氏に呼応した。
ところが・・
多良木の相良孫三郎経頼・須恵彦三郎・永里彦次郎・岡本・奥野・橘佐渡八郎・橘遠江入道道公らは、南朝方として挙兵。
「相良孫三郎以下凶徒」と呼ばれる事となる。
球磨郡の南朝方の拠点は、永吉庄木上城。そして、北朝方の拠点は山田城であり、いずれも、少弐頼尚領である。
★相良縫殿充祐長の挙兵
1340年3月27日、人吉の相良一族・相良縫殿充祐長が南朝方の相良孫三郎経頼に同心し、北朝方の山田城を奪取する事件が起きた。
相良縫殿充祐長は相良長氏の子息で相良定頼の伯父にあたる人物である。
相良祐長は離反した理由は述べず「一族家督相良因幡権守経頼」「経頼令同心」と言っている。
下相良一族が相良定頼を中心に行動してきただけに、庶子の相良縫殿充祐長の離反は意外なものであった。
しかし、南北朝の内乱の中で一族が二つに分かれて戦う事は決して珍しい事ではなかった。
事実、球磨郡内でも平河・須恵・岡本・小田氏などの一族も二つに分かれて対立している。
\(゜ロ\)(/ロ゜)/あああああああああっあったー!!
祖母の実家の「平川」が何故、「みなみ」と呼ばれるのかの疑問に、以前、日本の苗字七千傑様より、南北朝の内乱が関係しているのでは?とのご教示がありました。
これですね\(◎o◎)/!

まだまだ、球磨の南北朝内乱の記述は続きますが、今晩はここまでと致します。<m(__)m>
では(^・^)
[79]子孫よりさんからのコメント(2014年03月24日 05時52分57秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

本日は、弟の所に行って参ります(^O^)/

所で、昨晩お話した、球磨の国人の中には一族が南朝と北朝に分かれて戦った件ですが・・

様々な理由はあるとしても根本は、家(流れ)を絶やす事を避けたからなのでは?と思うのですが・・(素人目線かな?)

一族を二つに分けているのですから、もしも、どちらかが(南朝であったとしても北朝であったとしても)負けて、家が絶たれることになっても、必ず、勝った方に付いた家は、残り、恩恵も受ける事になる。

すなわち、必ず、二つに分かれたどちらかの一族は残るわけであり、血は絶える事は無いと言う事ですよね。

その場合の決断はたいへん苦しいものであったと思いますが、子孫を後世に伝える為に手段だったと考える事は出来ないでしょうか?

そして、大変興味があるのですが、どうも、宮原(橘)は一族を分ける事はしていないようです。
もちろん、球磨に来て間もない訳なので、球磨における一族と呼べる家が当時少なかったのかもしれませんが・・
「もう、その時はその時よ(ー_ー)!!」と言った考えも、もしかしたらあったのかな?と。
もちろん、同族(橘)の楠正成が南朝方として戦った訳ですから、球磨の宮原(橘)も考えがあっての行動だと思いますが。
今は、まだ、本の内容は途中までしか読んでいないので、これから先がどうなるのか・・うん?知らないのって?そうですよ(゜-゜)・(開き直り)言うなれば、甲子園の決勝を録画していて、リアルには見ていなくて、周囲の人が勝利学校の話をしているのに、自分は知らずにワクワクしている状態のような感じです。・・・・(ー_ー)!!(勉強していなかっただけです<m(__)m>)

では、出発までもう少し時間があるので、本を読みま〜す(^O^)/
[80]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年03月24日 18時29分05秒 ) パスワード

こんばんは。

あのサイトについて気づいたのですが、隣の「須恵氏」「三池氏」も本拠以外は縦で同じ記述で
上段の氏族の事柄が下段の氏族にも書かれています。平河氏、橘薩摩氏も同様です。
という事で、サイト運営者さんの誤記(ミス)ではないのでしょうか。


あと、楠木正成と同族となると、当方も橘遠保後裔という立場にならないですかね。

私自身は、橘遠保の後裔であってほしいという思いはなく
少なくとも橘薩摩氏が中央橘氏に結びつくと考えるには矛盾が多く、信ずるに値するものではないと思っています。

橘遠保自体、中央橘氏に結びつけるものがありますが、それにしては承平・天慶の乱以前は「散位」とありますし
乱後の官職・位階も、他の勲功者に比べて劣るものですから、いくら理由を並べ立てようが貴種の流れと考えるのは贔屓目な見方であり信憑性に欠けますね。
人間心理として貴種に結びつけようとする作為が働く事を何故考慮に入れないのか理解に苦しむところです。

と言っても大体は理解出来ますけどね。

「三人言いて虎を成す」という言葉がありますが、私は市場に「虎が出た」と三人申そうが何人申そうが
市場に虎が出るわけがないと分かっているので、その現場に案内されるか、その虎を連れてこられない限り信じることはありません。
それよりも、虎が出たと報告した人間は一体どういった理由でそう言ったのか、誰のどういう思惑が働きそのような噂が立ったのかなどに興味がいきますね。

系図に関してもそういうところです。
[81]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年03月24日 20時57分38秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>すなわち橘則光より、橘(宮原)は良峯安世裔となる訳です。
 
祖先遡上系図的発想なら、間違いでもありません。
大半の祖先は天御中主尊に行き着くわけですから。
偽系、仮冒と盛んに騒ぎ立てるほどのことではありません。
源義家の祖も天御中主尊はもちろんのこと百済武寧王、漢高祖劉邦などに遡れます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/clan_derivation.htm
 
多くの考え方は「家系と血系とを混同した思想」であり、厳密に男系を辿れば全ての家系に万世一系などは絶対存在しません。

http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kakei_ron.htm
 
多くの家系を輩出している皇別にしても、太安万侶にたぶらかされていますが天忍穂耳尊は天照大神の実子ではなく辰韓系からの養子なのです。
詳細は「古代日本領土の起源」を熟読のこと。
[82]子孫よりさんからのコメント(2014年03月24日 21時40分17秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

弟の病院から帰って参りました。
顔色も良く、ちょっと驚いたのが、年齢を重ねてきたからか、顔が平川の祖母の兄(伯父)にもそっくりになってきていて、ギョギョッ(゜-゜)としました。
父・伯父(父の弟)よりも、良く似ていて、こんなに似ていたかな〜と。
きっと、弟が元気だったら、「もっともっと色々な調査を積極的にするのだろうな」と思うと、まだまだ、頑張らなくてはとあらためて思いました。
それと、パソコンに新しいプログラムが入っていました。
顔の唇の下にセンサーを付け、唯一動く顔の筋肉を使い文字を入力する事が出来る機能で、口の中で舌を上下左右に動かすとセンサーが働いてマウス機能に変わり、入力が可能となります。

私が弟の唇の動きを読むのが下手でいつも「姉ちゃん、違うちがう(ー_ー)!!」と言われていた事がこれで解消されました。

病院について、最初に出て来た言葉が「姉ちゃん、身体の調子は大丈夫?」だったので、本当に弟は、自分の事より、私の事をいつも気にかけてくれているのだな〜と思うと、本当にしっかりしなければと。
「僕の代わりに頑張ってもらってありがとう」と言われると、ボヤボヤ出来ませんから(-_-;)(^・^)

公忠公の末裔様、コメントありがとうございます。
本当に、内容が同じですね??
やっぱり誤記なのでしょうか?

系図は本当に良く解りません(-_-;)
平河の系図も何種類もあって、何がなにやら解らない事ばかりです。

系図云々はどうか解りませんが、祖父の生家に蔵があり、代々保管されているものもあるようなので、帰郷したら、すぐにでも見せてもらおうと思っています。
(以前は、何もそのような事に興味が無かったので、蔵の事も忘れていました)
何か見つかれば嬉しいですけど(^・^)
では(^・^)
[83]子孫よりさんからのコメント(2014年03月24日 22時30分26秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

家系と血系とを混同した思想を拝見しました。

家系とは家督と先祖祭祀を継承するものであり、必ずしも血系の継続を伴うものでなく・・

父の考えはこちらのお言葉そのものだと思います。
先日もコメントしたように父は、私が子供の頃から(きっと父自身が子供の頃からだと思います)毎朝、仏壇に手を合わせて「宮原家・平川家そして両家にゆかりの皆様、お見守り頂きありがとうございます・・・」と言って、感謝の言葉を述べながら、お参りしています。

ですから、日本の苗字七千傑様の「家系と血系とを混同した思想」の記述を読ませて頂いて、改めて、父が私に長年何を伝えようとしているのか、よく解りました。
ありがとうございます。

田舎で色々な風習が残っているからか、家は学校に出かける前は、必ず、神棚にお参りして、観音様にお参りして、仏壇にお参りして、が日課でした。

父は、さらに、家の外にある氏神様にもお参りしています。

祖母と一緒だった、子供の頃は、顔を洗い身支度をして、お参りするまでは、水も飲んではいけなかったのです。
それが、当り前と思って成長したので、家を出てからは、一般の家庭での日常が嘘のようで、逆に驚いたものでした。
(これを読まれた方々の中には、私は何時代の人?と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね(*_*))

こうやって、コメントを書いていて、先祖の事以外に祖母が私に伝えたかった事は、もっとあるのだろうな〜と考えました。

毎年4月になれば、宮原観音で、お釈迦様のお誕生日に甘茶?あまちゃづる?だったかな?をおでこに付けてもらった後に飲んだ記憶があります。

今は、父や宮麓地区の皆様が宮原観音をお守りしています。
4月の行事も、毎年行われているようです。
宮原観音については、他にも色々あるようですが、私は習わしを何も知りません(*_*)
これからは、少しずつ、私も古き習わしを覚えていこうと思っています。

帰郷したら、凛とした心をもてるように心がけていきたいです。
(でも、あくまでも、理想なので、出来るかな(-_-;))

がんばります(^O^)/





[84]子孫よりさんからのコメント(2014年03月25日 07時17分31秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨晩、宮原観音堂のお話をさせて頂いたので、懐かしくなり、ネットで検索した所、今は、沢山のサイトでご紹介されていて、とても嬉しくなりました。
以前にもお話したかとは思いますが、観光に来られる方が増えていると父から聞いた事があります。

http://wrd2425.ciao.jp/244miyaharu.html

茅葺なので、保全管理が大変なのだろうなと今さらながら、地域の方々の観音様への崇拝をあらためて感じました。

そして、気が付いたのですが、こちらの写真をご覧ください。
http://washimo-web.jp/Trip/HitoAsagiri/a04.jpg

天台宗の宗章、三諦章(さんたいしょう)

故郷の観音様は天台宗だったのだな〜と・・
(本当に私、何も知らないでしょう(*_*))

うううん??今、急に思い出した事があります。

家の仏壇や宮原観音堂にお参りする時のお唱えは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) 」

でも、家にある観音様にお参りする時は「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう) 」とお唱えしています。

ず〜っと、何でだろうな??と思って来たのですが(宗教の意味が全く解っていないので)

家にある観音様は・・・・
今、調べたのですが、「日蓮宗」と言う事になるのかな?
「日蓮宗」と言えば、この頃「三位房」に関連して調べましたね(*_*)

家の観音様に関しては、年に数回、何やら、宮原か平川に代々関連する、鹿児島の出水か川内かどこかのお寺様がわざわざお越しになっていました。(子供の頃の記憶で以前もコメントしていたと思います)

こりゃいかん(ー_ー)!!
祖母が亡くなってからかれこれ11年。
多分、父は何もしていませんね(-_-;)
お寺様も、ありゃりゃ(>_<)とお思いだったのではないでしょうか?

私が帰郷してからの役割が一つ増えました。
多分、先祖もハラハラされている事でしょう。(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
しっかりしなさいとの声が聞こえたような・・

家に伝わる習わしは、受け継がねばなりません(>_<)
きっと、今の状態だったら、(バックミュージックはテレビの笑点でかかる曲)鎌倉の頃からの、古の記憶が台無しになってしまいます。(*_*)

でも、何故、現代においても、家はこんなに色々関わっているのかな〜??

ただ、先祖伝来、800年以上の土地に戻る事に決めたのですから、身を引き締めてしっかりしなきゃと思うこの頃でございます(-.-)

では<m(__)m>(^・^)










[85]子孫よりさんからのコメント(2014年03月25日 08時24分22秒 ) パスワード

追記

あまちゃづるを、私のおでこにいつも祖母が付けてくれていたと言う事は・・

ありゃ\(゜ロ\)(/ロ゜)/

頭が良くなるようにとの祖母の願いだったのかな?

トホホ。(-_-;)

では(^・^)<m(__)m>
[86]子孫よりさんからのコメント(2014年03月25日 16時59分08秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

今日は、夕方から、題して「解散会」を仕事場の気が合う人達が行って下さるとの事で(飲み会です(*^。^*))出かけます。
本当にありがたい事です(^・^)

皆様、「おもり」をする事が必要なくなるので「解散会」なのかな? ありゃ?
こっかのこうむに携わる仕事もこれで終わりです。
(えええええっ??!!と言う叫び声が・・何も聞かないで下さい(-_-;)ちゃんと仕事は別人のようにしていましたから(-_-;))

さて、話は先祖の調査に戻します(^O^)/

まず、平河家伝授巻に名があがっていた「沙弥観阿」こと良峯師良ですが、この「観阿」という法名は、当時はやっていたのかな?(又、バカな事をとの声が聞こえたような(-_-;))と思いまして・・・

北条泰時の改名が「観阿」でした。
北条康時 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B3%B0%E6%99%82
父母 北条義時、阿波局
兄弟 泰時、朝時、重時、有時、政村、実泰、竹殿、一条実雅室、他
妻  正室:矢部禅尼、継室:安保実員の娘、他
子  時氏、時実、公義、三浦泰村室 足利義氏室、北条朝直室、他

何だか、今までの調査で挙がって来た方々ばかりで??

平河宮内左衛門入道観覚・・・北条重時
備前々司入道・・・・北条朝直の子供で 北条朝房
矢部禅尼の再婚ご生まれた子供が・・・佐原時連(新宮時連)
他の方々も、辿っていけば、今までの登場した人達ばかりで????と
何でだろう?頭の中を例の歌が駆け巡っています♪なんでだろう・・・<m(__)m>すいません。

でも、ウィキより北条泰時の記述ですごく心ひかれた内容がありました

「御成敗式目」、あるいは元号をとって「貞永式目」に関して。
完成に当たって泰時は六波羅探題として京都にあった弟の重時に送った2通の手紙の中で、式目の目的について次のように書いている。

★多くの裁判事件で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは『ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うか』と笑う人があるかも知れないし、またその規準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。この『式目』は漢字も知らぬこうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝をつくすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ。

では<m(__)m>(^・^)

[87]白石さんからのコメント(2014年03月26日 01時14分13秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様のところの観音様は 半島・古代中国がしのばれるものとか。
観音様にもいろいろあって いまさらふ〜んと いう思いです。
ふ〜ん とは 勉強しなならんな と いう。

観音様も仏教の世界の人だから 何かつながりがあるかしらん と 思ってネットでみてみました。ただ 子孫様のおっしゃってる血流には余り関係ないだろうとは思いますが・・・
十王
閻魔様はもとは、ヒンドゥー教の神様で、
死後の世界の王様でした。
閻魔様が唐の時代の役人の服装をしているのは、
仏教が中国を経由するとき、
道教の影響を受けた為だと言われています。
ところで十王思想というのを御存知でしょうか?
十王とは、道教や仏教で、地獄において
亡者の審判を行う裁判官です。

この思想は、
平安末期に仏教由来の末法思想や
冥界思想と共に広く浸透したらしく、
鎌倉時代には十王をそれぞれ十仏と相対させるようになり、
江戸時代には十三仏信仰なるものも生まれるに至ったということです。

閻魔 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/閻魔‎
音訳は閻魔羅闍(えんまらじゃ)、意訳は閻魔大王(えんまだいおう)。 .... 平安時代になって末法思想が蔓延するにしたがい源信らによって平安初期には貴族、平安後期には一般民衆と広く布教されるようになり、鎌倉初期には預修十王生七経から更なる偽経の『 ...

閻魔大王とは、イン ド最古の神話「リグ・ベーダー」における「ヤマ」のことです。「ヤマ」は人間として最初に生ま れ、死後には楽園の主となりました。

インドの「ヤマ」が仏教とともに中国に伝わり「エンマ」となり、道教のの影響により閻魔大王を 中心とした「十王思想」となりました。

「十王思想」は室町時代に「十三仏信仰」よなり、日本仏教独自の宗派を越えた葬儀・法要の元と なっています。

と 上の文言を それぞれ コピーして検索をかけるとその表題が出ます。


[88]子孫よりさんからのコメント(2014年03月26日 06時44分10秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

白石様、ご教示ありがとうございました(^・^)

十王思想について、とても勉強になりました。

法要の元になっているのですね。
そう言えば、祖母の13回忌も、来年かな?
こういった思想からの儀式だったとは全く知りませんでした。

元はヒンドゥー教の神様だったのですね。

先日お話したお写真からみると、球磨の神様は中国などの影響が強いと言う事ですね。

道教の影響というお話がありましたが、先日お話した庚申塔も、道教の影響だと記述されていたものを読みました。
昔の人は、そういう心の教えも、しっかり生活の一部として取り入れていたのですね。
本当に教えて頂いてありがとうございます。

所で・・
昨日の「解散会」ですが、皆さん、私にとっては恩人で、人間関係に苦しんでいる時など、アドバイスを頂いたり、時には、叱られたり、励まされたりと、この人達がいなければ、私は、多分私生活も含めて、乗り切る事は出来なかっただろうと、本当に心から感謝している方々でした。

そして、昨日、とてもビックリする事がわかったのです。

特に、私に、兄(と言うには年が離れていて、父というには申し訳ない(-_-;))のように接して下さる方と、年下ですが、ものすごくしっかりした頼りがいのある姉さん(こちらにも申し訳ない(-_-;))のような方がいるのですが、
この兄のように接してくれた方のお母さんの出身地がなんと!
「球磨郡錦町西村」だったのです\(◎o◎)/!
私が、実家に帰るので、皆、遊びに来てくれるとの話になり、実家が「球磨のあさぎり町旧岡原村」と伝えると、その方が「ええええっ!!」と驚いて。
「自分のお袋は錦町の西村出身よ!」と。
わたしも「えええええええっ!!\(◎o◎)/!」となりました。
何でも、お母さんは、里帰りをしてその方を産んだとの事で、「俺は錦町で産まれた」と言っていました。
門司で育ったけど、子供の頃は、春・夏・冬の休みは殆ど錦町で過ごしていたそうです。
お母様は84歳になられて、今でも年に数回は錦町に家族で帰っているそうです。球磨の事も、私よりも詳しく知っていました。
何年も一緒に仕事をしてきたのに、二人とも故郷の事は知らずに、今まできました。
そして、年下だけどとてもしっかりした姉のような存在の彼女とは以前、偶然訪問着の話から、家紋の話になって彼女は「家は下がり藤よ」と言っていたのですが、昨日、田舎の話で盛り上がっていると、彼女のご両親は「上毛町出身よ(^・^)」と。そして「何か、良く解らんけど、家も、先祖は人吉か球磨に縁があると思うけど・・?」と。
なっ何に〜〜!!となりました。

どうも、私たち3人は偶然というより、何かの縁で繋がっていたようです。
知らずに何年も一緒に仕事して、一番心を許せる二人です。

人の出会いは、不思議なものだとつくづく感じた昨晩の会でした。(*^。^*)




[89]子孫よりさんからのコメント(2014年03月26日 07時40分06秒 ) パスワード

追記
今、ふと考えたのですが、北九州市は人口約100万人。
「その中でも、偶然に出会い近しくして来た3人が、何故か3人とも球磨に関係していた。」
という確率は何パーセントくらいになるのかな?と。

それも、一人の方はピンポイントで「錦町西村」。
この確率?はどれくらいなのかな?と。

あっ!いかんいかん(ー_ー)!! もう、しばらくは統計的な数字の事は何も考えないでおこうと思っていたのに(-_-;)

仕事せずにぼ〜っとするのが夢だったのに・・

さっ!!本を読もうっと(^・^)
失礼しました<m(__)m>
[90]子孫よりさんからのコメント(2014年03月26日 08時57分22秒 ) パスワード

またまた、登場です<m(__)m>

あの・・・
私の平河の調査に関しての最大の疑問は・・

荘園の研究書などを読んで解ったのですが、球磨の「平河」はかなりの方々が過去に研究をされていらっしゃった事が解りました。
菊池寛が新聞の小説に「平河」の研究を記載していた事など全く知りませんでした。
近衛中将実春朝臣に対して平河三郎入道観蓮(俗名は良貞)が行った、永吉庄地頭をめぐる訴訟および越訴に関しては、「提出した書も含めて、当時の裁判の流れや、当時の政権下における御家人の苦労などが解る研究資料として有名である」と記述されているものもありました。

がっ!しかし!です!
私が今まで読んだ4冊の荘園の研究に関する書籍、さらに「山江村誌」にさえも、あの事件、そうです「血敷原の戦い」に関する記述が全く記述されていません。
というか、「寛喜年間に、相良氏より平河氏が殲滅された」などという記述は何処にもないのです\(◎o◎)/!(?_?)
何故?何故なのでしょうか?
先日もお話しましたように、先日読んだ本に記述されていた「天野遠景に対しての源頼朝よりの指示内容10件中2件は平河に関してだった。」にも関わらず、師高以下平河一族が一旦殲滅されたのであれば、当時の記録に何らかの記述があっても、おかしくないはずなのに、どう探しても出て来ません?!
球磨が鎌倉から遠いから情報が伝わらなかったなんて考えられませんよね。
辺境の地と言う訳ではないと思うのです。肥後の守護も着任されている訳ですから。

国内の地方の豪族の話だから、何も残っていないのでしょうか?
googleブックで検索しても、記述されている内容は、全て、記録に基づいてではなく「伝承」としてでした。

全く解りません(?_?)。
私の調査不足なのでしょうか?

私の最大の疑問をお話しました<m(__)m>

[91]子孫よりさんからのコメント(2014年03月26日 16時52分50秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

「山江村誌」を読みながら、解らない言葉を検索して(何せ勉強不足で(-_-;))いたら、不思議な言葉を見つけてしまいました。

それは・・・「平河党」です。(何だ?これは?と)

googleブック検索にて
新編岡崎市史: Chūsei - 93 ページ より
本宗の貞氏に累は及ばなか^〈吉良満氏)と尾張三郎宗家(斯波家氏の子)がいた。この事件は、泰盛を中心とする御家人派卩執権政治擁護派が、平河党もろともに討伐された霜月騒動が勃発したのである。泰盛与党として誅殺された者の中に、足利一族の上 ...

何でしょうか「平河党」とは?
霜月騒動にて執権政治擁護派が、平河党もろともに討伐された。
泰盛与党・・安達泰盛の事でしょうか?

早速、霜月騒動を調べました。

霜月騒動 ウィキより
霜月騒動(しもつきそうどう)とは、鎌倉時代後期の弘安8年11月17日(1285年12月14日)に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。8代執権北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。

源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した。

安達泰盛は幕府創設以来の有力御家人安達氏の一族で、北条氏得宗家の外戚として執権北条時宗を支え、越訴頭人、御恩奉行などの重職を歴任した幕政の中心人物であった。平頼綱は時宗の嫡子貞時の乳母父で、北条氏得宗家の執事内管領であり、得宗権力を具現する立場にあった。幕府では外様御家人を支持勢力とする泰盛と、頼綱を筆頭とする得宗被官勢力が拮抗していた。弘安7年(1284年)に両者の調停役となっていた執権時宗が死去し、14歳の貞時が9代執権となると、蒙古襲来以来、内外に諸問題が噴出する中で幕政運営を巡って両者の対立は激化する。貞時の外祖父として幕政を主導する立場となった泰盛は弘安徳政と呼ばれる幕政改革に着手し、新たな法令である「新御式目」を発布した。将軍を戴く御家人制度の立て直しを図る泰盛の改革は御家人層を拡大し、将軍権威の発揚して得宗権力と御内人の幕政への介入を抑制するもので[1]、得宗被官である頼綱らに利害が及ぶものであった。

泰盛与党として罹災したのは泰盛一族の他、小笠原氏、足利氏、伴野氏、伊東氏、武藤氏(少弐氏)、その他は藤原相範、吉良満氏、殖田又太郎(大江泰広)、小早川三郎左衛門、三科蔵人、天野景村、伊賀景家、二階堂行景、(大井)美作三郎左衛門、綱島二郎入道、池上藤内左衛門の尉、行方少二郎、南部孫二郎(政連?)、有坂三郎、鎌田弥藤二左衛門尉、秋山人々など、幕府創設以来の有力御家人層の多くが見られる。一方頼綱方の討手として得宗被官化した御家人の佐々木氏、今川氏、千葉氏なども加わっており、同族内でも頼綱方と泰盛方に分かれるなど、幕府を大きく二分した争乱であった。泰盛と縁戚関係のあった金沢顕時(泰盛の娘婿)は下総国に蟄居の身となり、宇都宮景綱、長井宗秀らは失脚した。

\(◎o◎)/!あの!長井宗秀は、「山江村誌」に記述されていました!!

「山江村誌」より
正応二年(1289年)備前々司入道殿代官と平河三郎入道観蓮が相論した「地頭名主職」については、越訴頭人「長井宗秀」・「二階堂行藤」があたったが、在職中には結審をみなかった。
そして、正安二年(1300年)には幕府有力者の諏訪左衛門入道真性の「奉行執沙汰処」となり、二番引付に与奪された。
その後、越訴期限の超過などを理由に越訴が棄却された。
この旨は奉行人明石民部大夫行宗によって伝えられた。
★そして何度も道照は不服として申状案(越訴)を提出したが、その後北条得宗被官の奉行によって裁許されて行く事となる。
★石井進氏は「このようにして当御領は鎌倉御領から北条氏一門領へという経過を注目したい」と別書籍で述べている。

とありました。<(`^´)>

★泰盛与党とは上記にあった
小笠原氏、足利氏、伴野氏、伊東氏、武藤氏(少弐氏)、その他は藤原相範、吉良満氏、殖田又太郎(大江泰広)、小早川三郎左衛門、三科蔵人、天野景村、伊賀景家、二階堂行景、(大井)美作三郎左衛門、綱島二郎入道、池上藤内左衛門の尉、行方少二郎、南部孫二郎(政連?)、有坂三郎、鎌田弥藤二左衛門尉、秋山人々など・・・となる訳ですね。

何でしょうか「平河党」?

それに上記に挙がった方々の姓は・・あれっ?!

★「当御領は鎌倉御領から北条氏一門領へ」
平河の系譜は、北条の作為によって作られたと言う事はないでしょうか?
飛躍しすぎでしょうか?

(-_-;)<m(__)m>


[92]子孫よりさんからのコメント(2014年03月26日 19時35分20秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

先ほど最後に「平河の系譜は、北条の作為によって作られたと言う事はないでしょうか?」と書いたものの・・・

冷静に考えてみました(゜-゜)
永吉・西村その他の球磨の土地において、最終的に領主となり現代まで繋がる平川の流れとなったのは・・・何処?と。

そうなると、その一連の訴訟の結果、最終的に領主となった家の系図が現代に残るのは、確かに不思議ではないですよね・・

すなわち、平河師高の名跡を継いだ「平河」と言う事です。
それであれば、確かに永吉庄と西村は鎌倉御領から北条一門領へ変わったわけですから、北条に関する名が平河の系図に残っていてもおかしくないという事ですね。

ううううん・・・でも、どうなのでしょうか?

それと・・先ほどコメントした「平河党」と球磨の平河の関係が気になります。
では<m(__)m>

[93]管理者 aさんからのコメント(2014年03月26日 22時03分21秒 ) パスワード

レスが90を超えました。
キリの良いところで新しいスレッドに移行してください。
[94]子孫よりさんからのコメント(2014年03月27日 06時55分16秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

今回の平川家について10−1は、とても、早くコメント90を突破したように感じます。

沢山のご教示により、本当にありがとうございます。

新しいスレッド平川家について10を立ち上げました。
今後とも、ご教示の程、どうかよろしくお願い致します。<m(__)m>

新スレッド 平川家について10
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