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 投稿番号:101490 投稿日:2015年10月11日 09時33分02秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について28

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様、こんにちは(^−^)
久しぶりのコメントです。

この数カ月の間に判明した、沢山の「事実」をコメントする為に新しいスレッドを立ち上げました。
見えてきた「事実」は、この数年間に渡る、皆様から頂いたありがたいご教示、そして自分なりの調査、全てが、「謎」を解く鍵になっていた事をあらためて認識しました。
本当にありがとうございます。

先に申し上げますと
宮原城歴代の城主家々・岡本城歴代の城主家々・木上城歴代の城主家々は
何代にも渡って、複雑な大きな蜘蛛の糸のように絡み合い、それにより、大きな蜘蛛の巣の中心となる「真実」が見えなくなっていた・・という事です。

膨大な資料や書籍を手元に置いての調査、その他、各地の古老の方々の話を伺う事で、蜘蛛の糸が少しずつ、解けてきました。

まず、最初は「親戚の武家屋敷の謎」(p_-)というタイトルでお伝えしたいと思います。

今後ともよろしくお願い致します(^−^)

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年10月11日 11時23分53秒 ) パスワード

では早速「親戚の武家屋敷の謎」(p_-) をお伝え致します(__)

先日、歴史研究会のお二人と、私の家から700メートル程先にある岡本城跡に伺いました。
岡本城については、こちらに詳しく書かれています。
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/okamoto-jyo/

転記して、補足します。
岡本城 別名 小鷹城
築城年代は定かではない。

天文年間(1532年〜1555年)には岡本頼春が城主であった。頼春は上村長国の子で岡本地頭となったことから岡本氏を称していたが、天文21年(1552年)あるいは天文19年に上村城主の上村頼興によって謀殺された。

岡本頼春を討った上村頼興は子の稲留左近太夫長蔵を岡本地頭として岡本城主に据えた。弘治3年(1557年)長蔵は実兄の上村頼孝・頼堅と相良義陽に謀叛を起こしたが、義陽によって攻められ岡本城は落城、長蔵は日向国へと逃れた。

天正8年(1580年)には岡本頼春の嫡男東駿河守頼兼が岡本地頭として岡本城主となった。江戸時代の寛永3年(1626年)には相良家の重臣であった相良清兵衛の隠居所となり、麓に城下町を整備した。
城主
岡本頼春,稲留長蔵,東頼兼,相良清兵衛

(^−^) 城主他、お一人を補足します。
岡本城城主 岡本河内守 岡本 頼氏(頼真) ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E9%A0%BC%E6%B0%8F
岡本 頼氏(おかもと よりうじ、天文6年(1537年) - 慶長11年11月13日(1606年12月12日))は、人吉藩相良氏の家臣。通称は弥十郎、源次郎。別名は頼真。官位は主馬、河内守。父は岩本隆吉。
先祖は菊池氏で、球磨郡永里の地頭職にあったことから「永里氏」を称した後、相良前続の頃、先祖が原田岩本に水田一町を賜って以後、「岩本氏」を名乗った。
頼氏は深水姓を賜り深水主馬と称したが、その後に岡本の領主であったことから岡本姓を名乗った。槍の名手で武勇に長け、歌道にも通じていたという。弘治元年(1555年)の初陣から大小19の戦いに出陣、傷を被る事31ヶ所、相良氏の主要な合戦の大半に出陣して武名を挙げた。特に永禄11年(1568年)の島津氏との戦いでは菱刈氏と共に大口城を死守し、敵将の川上久朗を討ち取るという大功を挙げている。

(-.-)相良清兵衛(犬童清兵衛)という方については皆様、ご存知の通りだと思いますが、ウィキのアドレスを(..)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%85%84

説明が長くなりましたが(..) では本題を・・
岡本城跡に歴史研究会の方々と伺い相良清兵衛さんの供養碑にお参りをしまして・・
「子供の頃、ばあちゃん(祖母)と親戚の家に遊びに行くと、私は近くの友達と一緒にここで遊んでいました」などと思い出話を・・
すると歴史研究会の方が
「岡本城には相良清兵衛は住んではいらっしゃいません。城の麓に隠居家(相良清兵衛屋敷)を造りそこに住んでいらっしゃったそうです。その居館跡には、相良清兵衛さんと一緒に岡本に来られた方の末裔の方が代々今でも住んでいらっしゃいます。日本庭園や屋敷内の梁は今でもそのままの状態です。伺ってみましょう(^−^)」
という事になりました。
城跡を下りてすぐ、道路わきの家庭菜園で野菜を摘んでいる高齢の御婦人が見えました。
歴史研究会の方から「あちらが、清兵衛屋敷に住んでいる方です」と。
研究家の方が声をかえて、「お屋敷を見せて下さい」と挨拶をされて、研究会新人の私を紹介して下さり、私も緊張しながら高齢の御婦人に御挨拶。
名前と故郷に帰ってから恒例の「○○(祖母の名)の孫です」と。(旧岡原村の中年以上の方に、祖母の名を知らない人は、まずいません(ー_ー)!!)
するとその御婦人は「あっ!」とおっしゃったのですが、研究会の方々はそのまま、少し歩いた先にある屋敷敷地内へと進んで行かれました。
私も後をついて、お屋敷の敷地に入ると、大きな日本庭園が・・
でも、この時の私の頭には・・
「わ〜お懐かしい!!池の周囲で遊んだな〜・・(?_?)・・あんれっ??」と思った瞬間!!
後ろから歩いて来られた相良清兵衛屋敷跡に住んでいらっしゃる御婦人が・・
「○○ちゃん(私の名前)、弟さんはどうなさっているの??おばあちゃんとお見舞いに一緒に行ったきりでずっと気になっていたのだけど・・」と。
一同「ええええっ!!」と後ろを振り向き・・
私は「あああああああああああああっ!!おばさんだ〜〜〜っ!!」と。
相良清兵衛屋敷に代々住んでいらっしゃる系の方に粗相があっては大変とめちゃくちゃ緊張して頭が真っ白け〜になっていて、私は全ての記憶が空っぽになってここに伺っていたのでした・・!!
「おっ!おばさん!すみません(..)私、30年以上、岡原を離れて、忘れっぽくなって・・御無沙汰しています・・(..)」と訳のわからぬ言い訳をすると
おばさんは優しく
「よかよか(^−^)、おばさんも今は何でもすぐ忘れるとよ(^−^)」と。
皆様、すでにおわかり頂けていると思いますが・・
そうです!ここは○○おじさんとおばさんの家でした!!
御婦人、いえ、おばさんは
「○○ちゃん(私)の庭の柿の木ね、○○ちゃん(私)の家を建て替える時に、うちが貰ったとよ!庭に植えかえて、今年もいっぱい実をつけてね。(^−^)」と。
相良清兵衛屋敷跡の日本庭園には、私が子供の頃、登って毛虫にかまれたという思い出の、私の家にあった柿の木が、秋の夕暮れの日を浴びて、風情のある景色をかもちだしていました・・
私は「おばさん。私、子供の頃、ここにばあちゃん(祖母)と遊びに来て、友達と一緒に御諏訪さん(岡本城)で遊んでいたよね・・」
と言うとおばさんは「そうやったね(^−^)」と。
おばさんは「○○ちゃんのお家には、おじさんがショッチュウ行って、焼酎を飲んでたの憶えとるね?」と。
そうです。そうでした(-.-)おじさんも、おばさんも、家にはよく遊びに来られていました。
言い訳ではありませんが(..)
どちらかと言うと、私は、こちらに遊びに来ると言うよりは、おじさんとおばさんが家に来られる方が断然多くて・・
ツ〜〜〜カ!!(言葉使いが悪い)
○○おじさんとおばさんの家が「相良清兵衛屋敷」だったなんて知らなかったし〜〜〜〜!!
歴史研究会の方々は「あぜん!?」とした様子で・・
ただ・・お一人のMさんが、「それでは、お庭の説明を・・」と言われた瞬間、もう一人の方が「い〜や(ー_ー)!!もうヨカでしょう・・」と。
おばさんから「○○ちゃん、帰ってきたとなら、又、遊びに来てね(^−^)」
と言われて相良清兵衛屋敷跡をあとにしました。
帰りの車中で歴史研究会の方々が「本当に忘れていたト??」と聞かれ
「ハイ(..)本当に忘れていました・・」と私。
トホホホホ・・・カ〜(からすの鳴き声)

家に帰り父に一部始終を話すと・・
「バカタ〜ン(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」
「このおっちょこちょいがっ!!何でお前は・・!」と・・トホホ(..)
あの・・本当に緊張していたのです・・(..)
ちなみに、相良清兵衛屋敷跡に住む○○家と、どうして家が親戚付き合いをしているのか・・実は父も詳しくは解りません\(◎o◎)/!
きっと、曾じいちゃん・曾ばあちゃんどころでは無い、もっと遡った所からのお付き合いではないのかな〜??
○○おじさんのお姉さんがどうのとか、○○おばさんのお兄さんの御嫁さんがどうのとか、その辺は父にも解るのですが・・??

という事で、コメント復帰第一弾?は
以前から何度かコメントしていた親戚関係の武家屋敷の一軒は
「相良清兵衛屋敷跡」でした(-.-)というお話でした。
うんがっ?(?_?)・・何処からか「ぎゃ〜〜〜っ!!」とか「トホホ(-.-)」といった声が聞こえてきたような・・(..)

では、次回は
平河氏と宮原城主「犬童十兵衛」についてというタイトルでお伝え致します。
では(^−^)
[2]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年10月12日 11時20分24秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^−^)

昨日のコメントで、次回は「平河氏と宮原城主「犬童十兵衛」についてというタイトルでお伝え致します。」と書きましたが、この重要な内容に入る前に、昨日の親戚関係のお話ついでにもう一つ解った事を書かせて頂きます。
題して「曾ばあちゃんの実家のお堂」です。

では早速(^−^)

平川の曾祖母は私が2歳になる前に亡くなりました。ですから、私には曾祖母の記憶はありません。
しかし、曾祖母は、私が生まれると、代々伝わってきた着物を使って、手毬を作ってくれました。
赤色で、金や銀の糸が施されて、とても綺麗な手毬です。
曾祖母はひ孫に女の子が生まれると、其々に手毬を作ってくれて、私よりも年上のふた従妹の二人も手毬を作ってもらっています。
曾祖母は深水家に生まれ、平川家に嫁いできました。
曾祖母の実家、深水家のお堂について研究されていましたので、今日は、ご紹介させて頂きます。
深水家のお堂は通称「深水家地蔵堂」と呼ばれています。
地蔵堂には代々深水家に伝わるお地蔵様や神様がお祀りされているのはもちろん子供の頃から知っていたのですが、地蔵堂で遊んでいると祖母から「お地蔵様に触ってはダメ!」と叱られていた記憶の方が(トホホ・・)ですから、研究内容を読んで、すごく驚きました。
もちろん、今は厳重に管理されて、セキュリティも万全です(-.-)
では、地蔵堂の研究内容を(-.-)

○木造地蔵菩薩立像
 鎌倉時代後期 檜材 一木像 掘眼 彩色像 ・・以下省略します

○銅製鰐口
 一面 永享五年(1433年)鋳銅製 撞座区は蓮華文 ・・以下省略します
 一面線刻銘 「奉大日本九州日尚国(日向国)高知尾(高千穂)横切村上寺(黄切竹上寺)」「□干時永享五年(1433年)癸丑年十一月十四日願主敬白」
 他 面線刻銘 「助宗」

○木像神像(男神像)2体

○将軍地蔵

○木像地蔵立像  室町初期の作か? と書籍に記述あり・・

(-.-)(-.-)(-.-)(-.-)(-.-)(-.-)(-.-)(-.-)(-.-)(-.-)(-.-)(-.-)(-.-)(-.-)(-.-)
何度も書きますが、今は厳重管理されセキュリティは万全です!(-.-)

ばあちゃんに「触ってはダメ!!」と何度も叱られていたはずです。当然ですね!(私は子供の頃からおっちょこちょいでしたから・・)

でも・・優しいお顔のお地蔵様が「鎌倉時代後期」の作だったとは・・・
鰐口についてですが、歴史研究家の方々の間では有名なようでして・・
某氏に伺ったのですが、鰐口は戦利品では?との事でした。

戦利品??戦利品??
父にこの事を話すと
「う〜ん(p_-)ばあちゃん(父にとっては)の御先祖様は戦に強かった?勝利したのかな??」と・・父と二人で「う〜む(p_-)」となりまして・・
でも父が
「うん??!でも何でその戦利品がばあちゃん(父にとっては)の実家の深水家に代々と継がれて・・??」と・・
二人でこれまた「う〜む(p_-)(?_?)」となりました。
さらに・・将軍地蔵様とは??
そこで調べました(p_-)

将(勝)軍地蔵 コトバンクより
https://kotobank.jp/word/%E5%8B%9D%E8%BB%8D%E5%9C%B0%E8%94%B5-531235
デジタル大辞泉の解説
しょうぐん‐じぞう〔‐ヂザウ〕【勝軍地蔵】

地蔵菩薩の一。これに念ずれば、戦いに勝ち、宿業・飢饉(ききん)などを免れるといわれ、鎌倉時代以降に武家に信仰された。甲冑(かっちゅう)を身につけ、武器を持った姿で表す。

大辞林 第三版の解説
しょうぐんじぞう【勝軍地蔵】

これに祈れば戦に勝つという地蔵。鎌倉時代以後,武家の間で信仰された。地蔵菩薩が身に甲冑(かつちゆう)を着け,右手に錫杖(しやくじよう)を持ち,左の掌(てのひら)に如意宝珠を載せ,軍馬にまたがった姿をしたもの。

\(◎o◎)/!そうです。曾ばあちゃんの実家の将軍地蔵様は「お馬」様に乗っていらっしゃいます!
祈れば戦に勝つという地蔵・・(p_-)・・曾ばあちゃんの御先祖様は「戦」にかなり関係されていたような・・(p_-)

他 将(勝)軍地蔵 しょうぐんじぞう コトバンクより
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%86(%E5%8B%9D)%E8%BB%8D%E5%9C%B0%E8%94%B5-1338897
世界大百科事典内の将(勝)軍地蔵の言及
【愛宕信仰】より

…京都愛宕山にまつられている愛宕神社を中心とする信仰。火伏せの信仰が中心である。近畿地方を中心として代参講が形成され,愛宕山へ代参を送り火伏せの札と樒(しきみ)の枝とを受けてくるほか,6月あるいは7月の24日に〈愛宕火〉と称して火祭をする所もみられる。また毎月24日に〈愛宕精進〉,つまり火伏せの祈禱のために精進をする地域はさらに広範囲にみられ,関東・東北地方では愛宕社をまつるところも多い。愛宕信仰では火伏せの信仰と地蔵信仰との結びつきが顕著に認められるが,これは神仏分離以前の愛宕山の本地仏として勝軍(将軍)地蔵がまつられていたことに由来する。

【愛宕神社】より

…京都市右京区,愛宕山上に鎮座。旧府社。火防の神といわれ,全国約800社の根本社として尊崇されている。本宮に伊弉冉(いざなみ)尊,埴山姫命,天熊人(あめくまうし)命,稚産霊(わくむすび)神,豊宇気毘売神,若宮に雷神,迦遇槌(かぐつち)命,破无(はむ)神をまつる。社伝によると,大宝年間(701‐704)に役行者(えんのぎようじや),雲遍上人が洛北鷹峰に創祀し,781年(天応1)和気清麻呂,僧慶俊が〈愛当護大権現〉として,今の山上に移したものという。…

(p_-)(?_?)・・・社伝によると,大宝年間(701‐704)に役行者(えんのぎようじや),雲遍上人が洛北鷹峰に創祀し,
役行者(えんのぎようじや)様のお名前は、以前こちらのスレッドでコメントしていましたが、子供の頃、何度も祖母からお名前を聞いて、しっかりと記憶しています。でも・・どういうお方だったのかは・・?勉強不足で理解していません(..) 勉強します(..)

という事でここまで御紹介させて頂いたのですが・・
どうやら曾ばあちゃん(曾祖母)の御先祖様は「戦」に繋がりの深い武将だったような・・(何だか強そうな感じでかっこいいナ〜(^−^)御先祖様、すてき!です(^−^)好みの男性かも・・うんがっ??(?_?)どこかで、「又、馬鹿な事を!」との声が聞こえたような・・)
でも・・しかし・・この私のおっちょこちょいのDNAは一体どこから???
(?_?)(?_?)(p_-)・・・

とっ!こんな風に先日まではなっていたのですが・・
現在までの調査で、どうも曾祖母の系も「大きな蜘蛛の糸のような絡まりあう繋がり」の「鍵」となるのでは?という事が見つかっています。

一つ一つ、精査しながら、調査を進めています(p_-)

平河氏と宮原城主「犬童十兵衛」についてを御説明する為に必要不可欠な論文と旧岡原村に残る「左近城」についてを先に次回では御紹介します。
(中々、本題に入れませんが、何せ複雑な蜘蛛の糸なもので・・)

では(..)
[3]白石さんからのコメント(2015年10月20日 18時43分44秒 ) パスワード

こんばんわ
ずいぶんお久しぶりです。調査が一段と進んでおられるようですね。興味深く読ませていただくとともに、現在前にお話ししました 熊本の弟のことでかけずりまわっております。あまりスレッドには関係ないなあ とは思いながら また しつこく お話もできないなあ とは 思いながら、菊池の方で 今まで 文字の上でしか知らなかったことを 知りましたので 書いてみます。 

 行ったのは 山鹿でした。できるだけ交通費と時間を節約しなければとしらべ 熊本空港から肥後大津駅へ出て バスで山鹿へというルートが最短コースだと知りました。
 うん?肥後大津? 大津氏・・・近江氏? と 頭が勝手に働いて 調べてみましたが 結果 大津とのつながりは ないようでした。
 でも タクシーに乗ると 肥後大津から山鹿へ出てくる道の合流点とわらに同じところへ出る海寄りの道の方との合流点のところがあり
 
昔は相良氏も 参勤交代にこの道を使ったのですよ という説明でした。
人吉(下)相良氏は 江戸時代になって球磨川の水運が開けた後 八代まで船で下りそのあと 福岡へ抜けて江戸へ向かっていったということです。

 そして 肥後大津の歴史をみると 
豊後佐伯氏の言葉が出て 大神氏の言葉も出てきます。また 毛利氏のことばも。また 

★嵯峨源氏の源久直は蒲池の地頭職になり、筑後橘氏の娘婿となり蒲池久直と名のり初代蒲池氏となる。

と とあるブログでみつけました。
ウィキに
★蒲池 久直(かまち ひさなお)は、平安時代末期から鎌倉時代初頭の武将。掃部頭。蒲池氏(前蒲池)の祖。正式な名のりは源 久直(みなもと の ひさなお)。

肥前国の皇室直轄荘園の神埼荘(鳥羽院領神埼荘)に荘官として下向した嵯峨源氏の源満末の孫(あるいは子)。源貞宗の子(あるいは弟)。

★平忠盛、平清盛と平家の知行地である★神埼荘の武士として治承・寿永の乱(源平合戦)では松浦党の諸氏と同じく当初は平家方であったが、壇ノ浦の戦いにおいて松浦党が源家方に与したのと同じく久直も源家方に立ち、その手柄により鎌倉幕府の鎮西御家人になり、源頼朝から筑後国三潴郡の地頭に任じられる。同地を支配していた★橘公頼の子孫の筑後橘氏の娘婿となり、その勢力を背景に蒲池城を本拠地として蒲池氏の初代となる。

★肥前松浦藩主松浦氏の系図とともに 平川系図もありましたが なんだか ぼ
んやりとうかんでくるものがあるのではないか?と思います。
[4]白石さんからのコメント(2015年10月20日 18時56分03秒 ) パスワード

泊まっていた宿のすぐそばは 菊池川です。
アッ 前にコメントしたことがある ばりけん がいる 川だ と 思いながら朝の散歩に出かけ 酒蔵など 見学してみました。

そうです。
熊本 山鹿(山鹿なんぞ私の故郷に似ていて山の山の奥で、看護師さんに 静かでよいところですねと 話しかけると 「物はいいようですね。静かなんてもんじゃないですよ 」と いう返事。わかります。私の故郷も 手をのばせば星がつかめそうなほどのところです。夜になると外に出るのが怖くて・・・) 菊池と 言葉だけ追いかけると とても とても 遠くて 遥か昔文化の交流など あったとは 思えないけど 川というものが 媒介の役に立っていたのですね。

佐伯藩・・・毛利高政・・・この人は毛利高丘をみていたら 出てきた人でした。
[5]白石さんからのコメント(2015年10月20日 19時49分34秒 ) パスワード

死刑制度
過去に毛利から 絶えて久しくなった 北斉の 風習として 
死刑に相当する罪を犯した人を戦わせ 最後に残った人は罪を許される ということを書いたことがあります。
ローマのコロセウムに通ずることで・・・

死刑制度の走りなのでしょうけど・・・
法律も少しづつ 賢くなり 日本でも かたき討ちなどの 廃止などをへて 現在の制度になってきているのでしょうけど・・・
しかし 
いまだもって 理不尽な事件はあとをたちませんね。

子供を殺された母の嘆きは 一生いえるものではなく ・・・
子供に先立たれた母の嘆きは わかります。弟をはやくに失った母の心は他人にはわかろうはずもなく
その標的は私にむけられて ことあるごとに 私はののしられて 
「お前は鬼子だ」と言われていました。

田舎ですから 親は昼間は家におらず 私が 弟と一緒に家にいて
隣の平川のおばが サツマイモをふかしたのを 持ってきてくれて
それを 親にいわずに 食べたのが悪くて えきりで 弟を 失ったというのですが ・・・まだ 4〜5才の私に おなかがすいて泣きわめく弟に夕方になって帰ってくる親を待てなどいえようもなく・・・

弟は疫痢で 死に 私は赤痢でかろうじて助かりました。
以来母は心をやんだ部分があり 事あるごとに 村中に響き渡るような大声でののしることが ありました。

同じころ 今の弟がうまれたのですが IQ70くらい(就学後のテストでわかりました。わたくしが IQ120でしたので 弟は少し物事の習得がおそいというくらい。)
小学一年生になってすぐ 窓から転がり落ちて 母がびっくりして 学校をやめさせました。以来 弟は教育を受ける機会をうばわれてしまいました。

休み時間にわたくしが様子を見に行ったら 運動場で 親せきの子に 弟が一人横にぶれるぶらんこに のせられ 激しくゆすられて なきさけんでいたこともあります。

そして 私が中学を出るころ 恩師から 代用教員になる道を強く勧められましたが 母は すぐすぐ 収入がある道をとり 財閥系の大会社の 昔はありましたが社内の学校で学び 会社の幹部候補生になる道に入りました。

田舎を出て都会で家土地を買うと ローンで もはや 田舎に帰るのは 不可能です。


   
[6]白石さんからのコメント(2015年10月20日 20時17分57秒 ) パスワード

我が家は昔ながらの長男意識でやっておりました。。
つまり 異母兄の長男が親の面倒見 弟のこと 家土地のことをやって 財産すべてを長男が相続して文句なし でしたが

後妻である母 明治生まれの母には 承服できない部分があったものか 財産処分をする話の頃から おかしくなり あろうことか 兄嫁に 「あんたがいわしとっとじゃろ!!」とがみついたとのことで 自分で 私に 「おがいうたったい」と いってきておりました。

いろいろあり わたくしのところへ みんなをひきとってよい ついては 引っ越し費用とか兄弟それぞれ一万円ずつ 都合 4万円の援助がほしい と いいましたが なしのつぶてでした。
母にいわせれば 誰が お前の家が良くなるためにすることか と の ことでしたが

当時 こちらは 大阪市内で 坪400万円 私のところで 坪200万円の頃でしたから 援助もなく いつまで続くかわからないことなど できようはずもありません。親は結局 どちらも  86歳でいきました。

平成3年に父がいき 一年ほど母は弟と家でおりましたが 冬にボヤを出して施設にころがりこんでいました。 
家に電話をかけても出らず となりの家にかけたら しせつにおんなっばい という返事

驚いて行ってみたら 自分でころがりこんだったい という返事で
園長先生が ヘルパーを頼めば 来月は使ったお金がもどってくるから 其のシステムで すれば大丈夫 弟さんも100パーセント大丈夫です。任せてくださいと 言われ ヘルパーさんを雇うためのお金をわたして 帰ってきてみれば 二週間もしないうちに 解約したそうな。あらあんまりようなかったったい ・・・と。

激しく呼ばれると 大会社の正社員だった兄など リストラの標的にされ 当時大学生の子を持っていたので こちらも心を病み酒におぼれ たばこにおぼれ 体はぼろぼろになってしまいました

現在要介護5まで進み 兄嫁も腰痛の体を抱え 頑張っていますが 激しいめまいで 四人がかりで担ぎ込まれて もう限界です。


  
[7]白石さんからのコメント(2015年10月20日 21時54分18秒 ) パスワード

さっきからパソコンの動作がおかしく文字を打ち込んでも入らないので 一気に本当に書きたいことを書きます。
弟の事で施設から電話が来て そのとき 交通費などものいりするので 定期預金の通帳と印鑑をかえしてほしいといいました。ところが 年金は弟に降りており 通帳は弟とともにあるべきで 年金が入ってくるのと支払いに使っている通帳はあり 他に定期預金の通帳兎があるのですが 定期預金の通帳も返せないといいます。
でもおかしいではないか?弟の私的財産にまで他人がそこまで介入するのはおかしい。
まして 兄が契約者になっていたのに 兄も役を果たせないようになり 私がかわって契約者になったら その 契約書を紛失したという。信用できない。不信感がつのります。まして
弟がかかったという国立病院の診断では 
頸椎狭窄 ビタミンK 鉄分不足とのこと。Kが不足すると筋力低下を招き 鉄分不足だと少し動いてm息切れをしてうごけなくなるのでしょう?
いつかみたテレビの報道と同じですよ。やくざが年金生活者や知的障害者をおしこめ 体力を奪って逃げられなくして 親にも合わせず年金手帳をうばって最後は貯金までうばう やり方。
あんまりおかしいと思うので 書きました。
[8]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年10月26日 07時21分32秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、お久しぶりです。コメントありがとうございました。
お返事遅くなりましてすいませんでした。
所用で鹿児島に行ったりと、数日、パソコンに向かう事が出来ていませんでした(..)

弟様は山鹿にいらっしゃるのですね。
御兄弟の方々の御心配で、白石様も体調を崩されないようにして下さいね。

〉★蒲池 久直(かまち ひさなお)は、平安時代末期から鎌倉時代初頭の武将。掃部頭。蒲池氏(前蒲池)の祖。正式な名のりは源 久直(みなもと の ひさなお)。
肥前国の皇室直轄荘園の神埼荘(鳥羽院領神埼荘)に荘官として下向した嵯峨源氏の源満末の孫(あるいは子)。源貞宗の子(あるいは弟)。

御教示を拝見して、「そうか!!」と気がつきました。
球磨各地の墓石調査の結果を見ていたら、えっ!?こちらの系が球磨に??という、様々な「系」に関する事が解ってきました。
相良氏の球磨入りより以前から、すなわち荘園の荘官として?という方々の事実も見えてきています。
今後、まとめながらコメントさせて頂きます。

秋も深まってまいりました。
お身体には十分お気を付け下さい。

今後とも、よろしくお願い致します。
[9]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年10月26日 10時40分52秒 ) パスワード

皆様、すいません(..)

コメント2で「平河氏と宮原城主「犬童十兵衛」についてを御説明する為に必要不可欠な論文と旧岡原村に残る「左近城」についてを先に次回では御紹介します。」
と書きましたが、この事を御説明する為には、さらに、前もって旧宮原村についてを御説明する必要があると思いまして・・まずは以下の事を御紹介させて頂きます(..)

旧宮原村について

ウィキでは人吉藩の記述に「人吉藩は薩摩藩とよく似た中世の名残を残した行政機構となっていた。その1つは外城制である。領内には14の外城があり、それぞれに数人の家臣が居住し領地と領民の支配を行った。兵農分離がなされておらず、半農半兵の無給郷士が人口の約1/3を占めていた。」とあります。
郷士が人口の約1/3を占めていた「人吉藩内」において、さらに旧宮原村は人口の1/2が郷士でした。

球磨郡誌(現代語訳)より
宮原村
東は久米村・槻木谷村(現多良木町)、西は免田村(現免田町)※補足 現あさぎり町 、南は岡本村、北は奥野村(現多良木町)に接する。湯前村(現湯前町)の飛地の切畑村(現岡原村)※補足 現あさぎり町 、があった。
山林と平野部に分かれ集落は幸野溝・百太郎溝沿いを中心に点在する。
鎌倉時代には「豊富5百丁」に含まれていたと言われる。
正平二十一年(1366年)三月九日の橘薩摩公多譲状(肥前小鹿島文書)に
「ひこのくにくまのこほりくめのかう東方下ふんみやのはら、ふせんのくにそへたの志やうのうちたいやしき并ニちとう志きの事」とあり、宮原村は久米郷東方に含まれ、橘氏の支配を受けていた。
慶長国絵図(1604年)には四六二石四斗余とある。寛永十一年(1634年)の郷村高辻には本田高五三五石四斗・新田畑高六三三石三斗余とあり、田畑の開発が急速に進んでいる。
同十八年の検地帳によると、(中略・・)合計一三四町一畝余、分米一千一〇一石九斗余で、(中略・・)諸郷地竃万納物寄によれば享保二年(1717年)には水田二三四町一反九畝余・畑七一町六反三畝余、計三百五町八反畝余で、寛永十八年の耕地の二倍以上になっており、幸野溝・百太郎溝開削による新田開発が絶大なものであった事が知られる。
同年の分米一千二四四石余、銀三貫七九九匁余、上羽綿一〇七匁余、下茶八〇斤余、漆三貫八三七匁余、下楮一貫余、万銀三四二匁余などを負担している。
同物寄によれば、安永三年(1774年)には軒数二八四、うち諸奉公人一三・寺社七・郷士一四二・修験道三・百姓一〇三・又百姓一六・人口一千三二二とあり、郷士の軒数が全体の半分を占める。

と記述されています。
(-.-)(-.-)(-.-)
安永三年(1774年)宮原村 軒数二八四のうち、諸奉公人一三・郷士一四二。
郷士の軒数が全体の半分を占める村・・・
全国的にはどうなのでしょう??珍しいのでしょうか??普通なのかな??勉強不足ですが、何やら普通じゃないような・・気はするのですが・・??

まだまだ、勉強不足なので、よく解らない事がありまして・・
諸郷地竃万納物寄によれば享保二年(1717年)には水田二三四町一反九畝余。
一町とは10反かな?とすれば・・二三四町とは2340反??かな?
一反で収穫される米はおよそ一石?でしょうか?
すると・・水田二三四町一反九畝余で収穫される米は2341石余???
水田二三四町一反九畝余・畑七一町六反三畝余、計三百五町八反畝余。

分米一千二四四石余・・年貢米の事ですね。
その他に年貢として銀三貫七九九匁余、上羽綿一〇七匁余、下茶八〇斤余、漆三貫八三七匁余、下楮一貫余、万銀三四二匁余などを負担していた・・という事か・・
数字では何となく解るのですが、それがどういう意味なのか、村としては年貢は重い方だったのか?どうなのか?村は潤っていたのか?生活が厳しかったのか?全くイメージが出来ません。
基本となる事が理解出来ていないからですね・・勉強しなければ・・

宮原村は郷士が村民の半分を占めていた・・
というお話を御紹介・・でした(-.-)

では。
[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年10月27日 08時26分30秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。(^'^)

現在、日本遺産認定記念と致しまして、「熊本県立美術館」で「ほとけの里と相良の名宝−人吉球磨の歴史と美」が開かれています。
人吉・球磨の仏像や文書など史料150点が展示公開されています。

昨日、地元紙「熊本日日新聞」18ページでは一面「ほとけの里と相良の名宝−人吉球磨の歴史と美」についての特集でした。

表題に(熊本日日新聞 10月26日 18ページより)
※仏像や文書など多彩な史料約150点で地域の風土や動乱の歴史を伝える同展には、仏像の由来やお家騒動など、多くの「謎」が潜んでいた。
とあります。

「誰がどうやって造ったか」仏像編 では平安時代に権勢を誇った在地領主の須恵氏、平河氏が競って残した仏像の数々について記載されています。
数年前からこちらのスレッドで御紹介していた、あさぎり町の勝福寺毘沙門天立像は今年、国の重要文化財に指定されました。紙面では、仏師の「謎」などが書かれていました。

「700年統治 相良氏とは 文書編」では 相良氏の「謎」について書かれています。
実は!私が、皆様に「順をおってお伝えします。」とお話していた「蜘蛛の巣」のような繋がりの「謎」(勝手な表現ですが・・)に必要不可欠なキーマンの一人は「相良(永富)長続」この方です。
「相良(永富)長続」の「謎」に気がついた事が「蜘蛛の巣」のような繋がりに気がつくきっかけだったのです。

その「相良(永留)長続」の「謎」に10月26日付けの「熊本日日新聞」18ページでは迫っていました。

紙面では
1448年、相良家を襲った大事件、下相良は「永富長続」という相良家の庶子とみられる人物に取って代わられ、さらに上相良も滅ぼされてしまう。この騒乱は「文安の内訌(ないこう)」と呼ばれる・・とあります。
(p_-)いいでしょうか(p_-)皆様!※「永富長続」という相良家の庶子とみられる人物 紙面に書かれているこの表現が重要なのです(p_-)。
謎をクンクンと嗅ぎとられたからこそ、書ける表現です・・

さらに紙面では
相良家を統一した永富長続とは一体・・とありまして
県立美術館の学芸員の方の話として「よくわからない人物」との答えが書かれています。
さらに紙面では「研究者の間では”長続の壁”とささやかれる」とあります(p_-)

さらに、紙面では、注目点をあげて
○相良尭頼の死の謎
○南北朝時代に120点もの文書が存在するにもかかわらず、南北朝以後から文安の内訌までの約50年間の文書が殆ど残っていない
上記について
意図的に文書の選別や廃棄がなされたと考えられる・・・と書かれています。

(p_-)そうです!!そうなのです!!
紙面に書かれているように空白の「時」があり、この事が実は!!わが故郷「旧宮原村」の歴史が「A時代からB時代への転換期が全く見えない」原因なのです!

紙面でも「謎の人物」となっている「相良(永富)長続」。
この方は「山田城」に居城した「永富氏」で、長続も山田城に居城・・が一般的な話ですが・・
「麻郡神社私考」(元禄12年青井阿蘇神社第51代大宮司大神惟董 編纂)には「相良(永富)長続」が居城した「城」として、山田城では無い別の城について書かれています。
それが「左近城」です。左近城は旧宮原村の「宮原城」と旧岡本村の「岡本城」のちょうど中間にありました。(岡原霧島神社の後方丘の上)
其々の城は「宮原城」「左近城」「岡本城」は直線距離だと約500メートルくらいの間隔ではないでしょうか・・(正確な数値は解りませんが)
左近城に居城した「相良(永富)長続」が城近くに建立した神社が「藤崎八幡宮」です。
※このお話は後々書こうと思っていたのですが、新聞の記事の御紹介と共に、今日書いてしまいました。左近城そして藤崎八幡宮の建立に関するお話は、おいおい書かせて頂きます。

10月26日付けの「熊本日日新聞」18ページには最後にこう書かれています。(すごくありがたい文なのであえて転記させて頂きます。すいません)

「人吉球磨は、我々の想像を超える豊かさがあったのでは」と山田さん(※県立美術館学芸員の方です。)
平安時代末の土地の書き上げ「良峯師高所領譲状案」には、球磨川や川辺川沿いの石高や、現存する史料で最も古い「茶」の記載がある。
球磨郡宮原(現在のあさぎり町)からは銀が産出し、貿易船も造られた。
そんな地が優美な仏教美術を育んでも、何ら不思議はない。

(^'^)とこう結ばれていました。
(p_-)・・平河氏と「茶」の話が書かれていますが、球磨の茶は貿易の対象だったのです。その対象は「琉球」です。
偶然、数ヶ月前に私も知りました。
御紹介します。
目からウロコの沖縄・琉球史
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2015/04/post-7823.html
転記させて頂きます(..)

当時の琉球人はどのようなお茶が好みだったのでしょうか?最近の研究によると、熊本県人吉市と球磨(くま)郡一帯で作られた求麻茶(くまちゃ)が人気だったといいます。求麻茶は士族から庶民まで広く好まれ、薩摩藩を通じて琉球に大量に輸入されていました。その理由は、求麻茶が緑茶のなかでも香りが強い種類だったこと。どうやら琉球の人々は、サンピン茶のような香りのあるお茶が好きな傾向があったようです。

(^'^)とあります。球磨茶の琉球への輸出に関して、論文を見つけていたのですが、今、探せないのでこちらも、後々御紹介致します。

宮原村の銀山については以前も御紹介しました。
我が地元では多数派が「あれはアンチモニだった」と言われています。アンチモニ派?の方の論文もあります。
私も「やっぱり、そうなのかな・・」と思ってはいたのですが、でも実は・・何かひっかかりまして・・
宮原銀山に関係した「相良長滋(相良長唯)」の室(豊永氏の娘)の菩提寺であり、お墓が建立された旧宮原村の庭柏寺(明治初頭に廃寺)。
(豊永氏は犬童氏から名を変えた一族です。「相良長滋(相良長唯)」の母も豊永氏で・・)
・・・・・(-.-)(ー_ー)!! いえ・・まだ書きません(ー_ー)!!

何事も順を追って御説明を・・

という事で今朝は昨日の「熊本日日新聞」記載の「ほとけの里と相良の名宝−人吉球磨の歴史と美」の特集について御紹介いたしました。
※この事で、今後のコメントの繋がりが皆様にご紹介しやすくなりました。ありがたい事です(..)

では(^'^)
[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年10月27日 10時42分11秒 ) パスワード

追記

コメント10で御紹介したお話の追記にしては妙だと思われるかもしれませんが・・

ここで「家」の親戚の姓をお伝えします。
※遠い親戚も含まれます

宮原家繋がり
宮原・平川(祖母の実家)・穐(秋)岡※旧姓伊藤(実は・・氷川町宮原に歴代の墓所がある細川藩士伊藤家です) 久保田・新堀・窪田・星原・蓑毛・豊永・那須・中村・小池・石川・鬼塚・佐牟田・柳瀬(平川繋がりも有りか?) 等他
平川家繋がり
平川・深水・椎葉・黒木・西田・渕田・犬童・尾方・緒方・永田・桑原・蓑毛・赤星・深松・山北・愛甲・田山・黒肥地・星原・ 等他

宮原・平川・久保田何れかの繋がりかは不明・・岡本家
※実は庭柏寺跡に「岡本代々先祀」他、二名の方の法名と「享保年中の日付」等刻まれたりっぱなお墓(供養碑か?)がありまして、岡本城の城主「岡本河内守頼真」に繋がる岡本家なのですが、つい最近まで、こちらのお墓はいったい何処が??と歴史研究家の方々の間では「謎」だったのです・・
所が、こちらのお墓(供養碑か?)に、子供の頃その人の母親と一緒にお参りしていた人物が判明致しました。
それは・・私の父でした\(◎o◎)/!
家で歴史研究家の方々と上記の庭柏寺跡の岡本家のお墓(供養碑か?)について話をしている時に偶然父も同席していまして・・
父が「あれっ??その場所は・・?」と。
その後、写真を父に見てもらうと・・「間違いないな・・」となりました。
そこで、歴史研究会の方々と私と父は・・一同????となりまして・・
何で家がお参りをしていたのだろう??と。
父も、「ばあちゃんにしっかりと聞いておけば良かった」と悔やんでいます。
宮原か?平川か?久保田か?新堀か?と繋がりはどこだ??(?_?)と早速調査したのですが・・
これが、大きな蜘蛛の糸・そして「謎」に気がつくきっかけの一つになったのです!

(-.-)今後、御紹介していく「蜘蛛の糸」のような繋がりは・・おそらく現在も続いているような・・これも、「おいおい」お伝えします(..)

上記に書いた宮原家繋がりの中村家ですが、中村家繋がりの中に矢野家(あさぎり町)がありました。(うちとは直接の繋がりはありませんが)
矢野家には代々受け継がれた系図が残っています。
免田郷土研究会 郷土 第一号 に記載されていました。
勝手ながら御紹介します。

矢野家系図。
橘姓矢野氏系図とあり、三十代敏達天皇より出て橘諸兄をへて上野国(栃木県)宇都宮城主であったが、信貞の時、伊予国(愛媛県)矢野城主となり矢野伊予守と称した。
「貞広代従菊池肥後守武朝公筑後国三原於中村之庄十二丁賜之同於三池郡六丁預給之都合十八丁領代々住中村仍而改矢野苗字号中村氏」と記されている。

と免田郷土研究会 郷土 第一号に記述されていました。
「信貞」という名をもとに探していると・・日本の苗字七千傑様の《伊予橘氏》 元越智姓 行順(矢野姓)から進んだ《駿河橘氏/矢野氏》姓氏類別大観に矢野 行順 → 貞高 → 信貞 ・・と見えます。
もしかしたら・・

ただ、免田郷土研究会 郷土 第一号 矢野家(旧免田町在)系図を見て、あらためて球磨の橘氏は「宮原姓」だけではなく、様々な「橘の系」そして「姓」が球磨に来られてそして今でもしっかりと球磨の地にその名が残っていらっしゃる事が理解出来ました。(本当に勉強になります(^'^))

最後に
沢山の親戚関係の「姓」を挙げましたが、今後の私のコメントには必要不可欠の情報ですので・・あえて書かせて頂きました。

では(^'^)
[13]白石さんからのコメント(2015年10月28日 01時26分17秒 ) パスワード

こんばんわ
メールに気づき少し返信の文を書いていたら 突然飛んでいってしまいました。たあいのないことですが。

ご調査頑張ってくださいね。
[15]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年10月28日 07時06分37秒 ) パスワード

おはようございます。(^'^)

白石様、コメントありがとうございます。
メール届いていましたよ(^'^)
拝見致しました(^'^)

スレッドをしばらく休んでいましたので、復帰の御挨拶のメールを、先日お送りしていました。

今後とも御教示よろしくお願い致します。
[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年10月28日 14時34分03秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

昨日のコメントで「麻郡神社私考」(元禄12年青井阿蘇神社第51代大宮司大神惟董 編纂)について御紹介しましたが、すいません、言葉足らずでした。

正確には「麻郡神社私考」には旧岡原村岡本の藤崎八幡宮の由来が書かれていて、相良長続公が旧岡原村に居したという内容は「歴代 嗣誠獨集覧」や他の書籍に書かれています。

御紹介致します。
「歴代 嗣誠獨集覧」より
岡本長岡藤崎八幡建立之事
此八幡宮草創之起ヲ尋ヌルニ、其前当国飽田郡熊本藤崎村ノ住人長岡播磨守季有ト云う人背ニ国主ノ命、
頼ニ当郡長続公当地山居ノ処、寛正六年乙酉為ニ国郡太(泰)平御当家擁護一産神八幡ヲ此処ニ勧請也、自レ然以来毎年十月初卯日于レ今祭礼有レ之、昔ハ放生会有レ之由也、

「麻郡神社私考」(元禄12年青井阿蘇神社第51代大宮司大神惟董 編纂)より
藤崎八幡 岡本長岡
當国熊本藤崎八幡同體
寛正六年乙酉草創
社家傳記日寛正年中熊本ノ士長岡播磨守藤原秀有大家ヲ頼テ當郡ニ来ル 藤原長続公ノ命ヲ以テ岡本野口ヲ賜フ■後當社ヲ勧請メ大家長久ノ祈壇トス

他、「南藤蔓綿録」にも同様の記載があります。
「歴代 嗣誠獨集覧」「南藤蔓綿録」には長岡播磨守季有
「麻郡神社私考」には長岡播磨守藤原秀有とあります。

(-.-)・・そういえば・・私の地元旧岡原村には「長岡」という集落があります・・???

熊本県文化財調査報告第30号「熊本県の中世城跡」より
左近城
「求麻外史」によれば、城主は相良長続という。地元では「長続が日向・薩摩勢に備えて築いた城」と伝える。
城跡は、岡本城跡の西側に谷一つへだてて横たわる丘陵末端部に位置する。
地元の人の話によれば、かって丘陵地の背面は長方形状の平坦地となっており、丘陵斜面には幾段にも階段状地形が重なっていたらしいが、現在は岡原村の共同桑園となり、殆ど旧形地を止めない。
わずかに階段状地形の一部と城跡東側麓に左近城道と称される古道を残すのみである。古道については、遠く宮崎・鹿児島両県に通じる山越道となっている。
城跡の北西側300メートルの地点には長続が寛正(1465年)に建立したと伝わる藤崎八幡宮が祀られている。

と記述されています(-.-)

しかし・・??
※当国飽田郡熊本藤崎村ノ住人長岡播磨守季有ト云う人背ニ国主ノ命、頼ニ当郡長続公当地山居ノ処、・・・
(-.-)長岡播磨守季有・・この方は・・国主の命に背いたのですね・・
※飽田郡 ※藤崎村 ・・・ナルホドな〜 (皆様も、こちらのスレッドで何度も目にされていらっしゃいますよね〜(-.-)・・・)
御参考までに
平川家について22 をチラリと皆様ご覧下さい(..)
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/101413_83.html

(..)・・私はもう「偶然かな?」何て言わないようにします。ハイ(..)

相良長続 
改名 永留長重→相良長続
別名 通称:藤五郎、初名:長重

あっ?!忘れていました。このコメントを書いていて思い出しました。
先日、ブログに平河氏系図をアップしています。
山江村誌からスキャンした系図をコピーしてワードに張り付けて拡大したのですが、上手にスキャン出来ていません。すいません(..)御了承下さい(..)

という事で、昨日のコメント10の訂正を兼ねて、左近城の詳細についてを御紹介致しました。

では(^'^)
[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年10月28日 14時44分18秒 ) パスワード

おっちょこちょいです(..)

平河氏系図を載せたブログのアドレスはこちらです(..)

http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

相良長続 
改名 永留長重→相良長続
別名 通称:藤五郎、初名:長重

そうか・・・・(..)
では(..)
[19]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年10月31日 13時27分25秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

コメント16・17の補足です。
相良長続 
改名 永留長重→相良長続
別名 通称:藤五郎、初名:長重

上記はウィキ記載の相良長続 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E7%B6%9A
から転記しました。

先日からの「流れ」とは関係ありませんが、旧宮原村と旧岡本村を分ける境界線ともなる「井口川」を地元の人は「鶴の川」と呼んでいる事を以前御紹介しました。(宮原村下地では、井口川は「久米川」と書かれています)
なぜ「鶴の川」??と疑問だったのですが、「岡原村旧字位置図」が手に入りまして、じっと見ると「天子鶴」という字名が井口川沿いにありました。
「岡原村旧字位置図」をブログにアップしましたので、よろしければ皆様もご覧下さい(..)
ブログアドレス
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12090249542.html

ちなみに、地図でいうと上方向「北」は球磨川に近い方で、宮原城があった場所や宮麓地区は地図の下方向、すなわち「南」に記されています。
「宇土山」に切畑城跡があり、「城山」(旧宮原村字名宇土谷)に宮原城跡があります。
ついでに・・
私の祖父が、曾祖父より家督相続で相続した土地に関する書類が複数枚家に残っています。
昭和10年の書類なので、文字が薄くなり読めなくなっている物が大半なのですが、とりあえず読める書類の中で解っている相続した土地は「岡原村旧字位置図」でいうと
馬場田(字全域の3/2)外園(字全域の1/2)※番地が記されています。
その他は書類に「字名」しか書かれていません。
字「五反田」「和田」「高鳥」「三反田」です。その他「山林がどうの・・」とか書かれているのは読めます。今後、読めない書類も読めるように解読していこうと思っています。
「宮原姓」は「熊野」「惣頭」(字名惣頭は今は通称”熊野”と呼ばれています)や「竹野」「長岡」に多いです。(親戚も含め)
ちなみに「貝崎」は岡原弁では「キャンサキ」と呼びます。

「稲積妙見(稲積神社)」は馬場田に鎮座されていました。
昭和の初めまでは馬場田は「おじゃんじ」と呼ばれていたそうです。(推測ですが”おじゃんじ”は”御社地”の球磨弁ではないのかな?・・と)
そして不思議な話も残っていまして・・
馬場田にあった「宮原家」(祖父の実家。うちの宮原家が元あった場所で、今は星原家に譲られています)
うちの宮原の家は昭和の初めまで地元の人達からは「高神屋敷(こうじんやしき)」と呼ばれていたそうです。???(?_?)
何だろう「高神屋敷(こうじんやしき)」とは??と父とも(?_?)不思議がっていたのですが・・
全くの別件を調べていて偶然「高神様・高神さん(こうじんさま)」と呼ばれていた方を見つけました。
その方が「岡本城城主 岡本河内守 岡本 頼氏(頼真)」です。
求麻郷土研究会発行 郷土(第二十一号 別冊)に岡本河内守 岡本 頼氏(頼真)の研究論文が記載されています(犬童敏春氏)

岡本河内守 岡本 頼氏(頼真)は岡本城から人吉に近い七地村へと移られたのですが地元の方の話が記載されていました。
勝手ながら転記して御紹介致します。

求麻郷土研究会発行 郷土(第二十一号 別冊)岡本河内守 墓碑周辺の石塔調査 (犬童敏春氏) より
最近村の人から聞いた話で河内守のことを、村の人は「高神さん」と呼んでいるという事で、意味は位の高い人、高い神様ということだそうだ・・。

(-.-)・・他の書籍にも同様の内容が記載されていました。
岡本河内守 墓碑周辺の石塔調査では岡本家の墓所から「久保田(窪田)姓」の墓石が見つかっていておそらく岡本氏と久保田氏は姻戚関係にあったとみられるそうです・・
私の調査では、久保田(窪田氏)の系図を見ると、木上城主窪田越後の末裔である久保田九八という方が「七地の岡本家養子」となっているのが解ります。
さらに久保田九八の兄弟が七地村に移ったとの記録もあります。
岡本河内守 岡本 頼氏(頼真)の系図が渋谷敦氏著「岡本河内守頼真小傳」という本に記載されています。ウィキの記述(コメント1に書きました)も合わせてみると

岡本河内守の系は・・菊池→合志→永里→岩本となり、岡本河内守頼氏(頼真)は深水姓を賜り深水主馬と称したが、その後に岡本の領主であったことから岡本姓を名乗った。という事です。
ちなみに岡本河内守 岡本 頼氏(頼真)の後妻となった方は系図には
「薩摩宮原殿息女」とあります。
渋谷敦氏は「薩摩」の「宮原」という記録から
「まったく雲をつかむような話だが・・中略・・あえて想像を遑しくするならばと前置きの上で、島津藩「宮原筑前守景種」との繋がりを推測されているようです。
「薩摩」で「宮原」か・・
「薩摩」・「宮原(橘)」と言えば「橘薩摩」・・あんれっ??(ー_ー)!!考えすぎました・・

(-.-)・・
○昭和の初頭まで高神屋敷(こうじん屋敷)と呼ばれたうちの宮原の家。
○私の曾祖父は「久保田家」から子供の頃(12歳頃)宮原家に養子に入る。
○高神様(高神さん)と七地村の住民から呼ばれた、岡本城城主 岡本河内守 岡本 頼氏(頼真)
○妻は「薩摩宮原殿息女」
○木上城城主窪田(久保田)越後守の末裔が岡本家に養子に入る。
○庭柏寺跡の「岡本代々先祀」と刻まれた墓碑。お参りしていたのは・・私の父と祖母。????
先日は書かないと決めた言葉ですが「偶然かな???」と思いまして・・その後調査しました(p_-)
上記の件の調査をきっかけに多数の事実を見つけていますが、そのお話はこれまたおいおいにさせて頂きます。

今回のスレッドの調査の流れからは若干ずれましたが、今後、私が御紹介する「蜘蛛の巣の糸のような繋がり」には、今日のコメントは重要な「糸」になっています。

では(^'^)
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月01日 09時57分45秒 ) パスワード

コメント19の追記です(..)

先ほど「不思議」な話「高神やしき(こうじんやしき)」のお話をさせて頂いたついで(ついでって書いたら曾じいちゃんに叱られるかな?(..))にもう少し書かせて頂きます。

私の曾祖父「宮原留蔵」についてです。
曾祖父「宮原留蔵」は別に「久保田雲平」とも称していたようです。
岡原村誌に記載されている話で解りました。
うちの宮原家の土地であった「馬場田」の畦修理に関して土地の所有者名(届け出人)に「久保田雲平」とあります。
「久保田雲平」?????
ちなみに馬場田の1/3は万江家の土地でして、残りは宮原家の土地でした。
畔の修理には土地所有者の名が書かれているのが通常で、色々な方にこの記述を見て頂いたのですが
@他の同様の馬場田(宮原家所有地)畔修理の記述には土地の所有者として届出人の名は「宮原留蔵」と書かれている事
Aうちの宮原家の下男は数名いらして、家の執事として働いていた方も含め皆さん「久保田姓」ではない事
B近隣の久保田家(1件あり)には「雲平」という方はいなかったという事
C曾祖父「宮原留蔵」が久保田家から養子に入っていたという事
D書類に「久保田雲平」と書かれた書類は、私の祖父が生まれる丁度一年程前からだった事。(祖父の出生の話は以前コメントに書かせて頂いています)※この時期のうちの”宮原家”内での事情が関係している可能性もあり。
等をふまえ、先にも書いたように色々な方々とこの「久保田雲平」について推測した結果、おそらく「久保田雲平」とは曾祖父「宮原留蔵」が称した別名だったのでは・・となりました。
ちなみに・・曾祖父は慶應元年生まれで、当時(明治45年頃)選挙で選ばれた「宮麓地区」の区長でして・・何等かの融通が効いたのかもしれないな・・??とも思われるのですが・・(-.-)

(新堀家から嫁いでこられて、祖父を我が子のように大事に育てた曾祖母を私は心から尊敬しています)

所で・・何で曾祖父は「雲平」という何だろう?変わった?名前を称したのかな??と。
父は「もしかしたら、曾じいちゃんは久保田家から宮原家に養子に入る前の名前が”雲平”だったのじゃないか?」と言っていたのですが何だか「雲平??」って・・普通名前で使うかな??と・・私・・
そこで「雲平」ってそもそも意味は?と調べたのですが・・
偶然かな「雲平」で見つかったのは秋田の古からの郷土菓子の名前でした。
http://blog.livedoor.jp/wagashibuyer/archives/42143575.html
転記させて頂きます(..)
秋田や青森など、東北の北部で多く見受けられる、郷土菓子『雲平』(うんぺい)。
工芸菓子で使用される砂糖に、みじん粉と寒梅粉を加えて練るものも「雲平」と言いますが、パリッと割れて砕けるこれらの干菓子とは明らかに印象も異なります。
秋田や青森で見られる『雲平』は餅菓子のような弾力と、干菓子としての甘みとシャリ感。
餅粉は加えているものの、甘みが強く、シャリ感のある不思議な菓子。
(^'^)とあります。 おいしそうです(^'^)・・・
天国で曾じいちゃんが「雲平の名の由来はお菓子じゃナカ(ー_ー)!!」と言っているかもしれませんが、何だろう偶然にも「秋田や東北の郷土菓子」の名前が「雲平」でした。
(^'^)( ^^) _U~~ふぅ〜〜〜〜・・・
とこの「雲平」と称した曾じいちゃんの話はここで終わりそうだったのですが・・
先日、肥後国誌を読んで「あんれっ????(?_?)」となりまして・・
肥後国誌
※大正 5年(1916)に,後藤是山(ぜざん)が,『肥後國元始大略』,『天草島鏡』,『求麻(くま)外史』,『南郷事蹟考』,『(旧肥後領)豊後三郡等』の新しい史料を増補して,『肥後國誌』上・下二巻を出版した
の『肥後國誌』の記載です。転記します(..)
宮原城跡
當村西南ノ田間ニアリ城主ハ相良家家臣宮原左兵衛尉橘公忠天正年中迄居城ス 公忠ノ墓ハ當郡拵村ノ山阿ニアリ傳ニ云宮原左兵衛尉公光代々相良家ノ家臣トシテ宮原ニ在城ス終ニ佛道ヲ修メ入定其墓宮原南ノ山ニアアリテ奇異アリト云 其子十郎公吉十八歳宇土岩屋ノ城主也(私考 宇土岩屋城迹未詳之)南郷高森城ニテ討死子孫尚相良氏ニ仕ヘテ當今宮原雲平ト號スト云

(?_?)・・「當今宮原雲平ト號スト云」・・ここでも「雲平」さんです・・
大正 5年(1916)に,後藤是山(ぜざん)が出版した『肥後國誌』上・下二巻。
當今宮原雲平ト號スト云・・当時、誰か「宮原雲平」と称していたようですね・・(?_?)
『肥後國誌』ではその他
事跡考云其子左兵衛佐公光(一作公信)其子十郎公吉(一作公重)相繼テ城代タリ・・とあります。
その他「宮原町郷土誌」に伊藤家古写本抄 宮原橘公忠伝が記載されています。
その中に
其子修理太夫公信、関ヶ原ニテ討死。其子十郎公重十八才、岩屋ニテ討死ス
とあります。

古保山宮原家系図では宮原公忠公から筑前守公久 → 治部大夫公重 → 十郎公家(高森戦死)となっています。(一作と言う事は名前が他にもあったと言う事ですね)

家はどちら(宮原家には複数の系があり)の「宮原家」に繋がるのか(分かれてきているのか)今の所解りません。
しかし・・実は先ほど書いた「宮原町郷土誌」の「伊藤家古写本抄」の伊藤家は家とは偶然かな・・繋がっています。
というか・・親戚です(-.-)
父の弟が養子に入った穐岡(秋岡家)の先代は、こちらの伊藤家に生まれて、母方の「穐岡(秋岡)」姓を名乗りました。(本来「秋岡」になるはずだった所、当時の伊藤家の執事の方が、穐岡(秋岡家)の先代に「秋岡もしくは穐岡どちらでも良いと」の話をされて、穐岡を選ばれてしまった・・という事です。秋岡家は松橋方面ですが、元々は大分県から来られたそうです)
伊藤家は氷川町宮原に代々のお墓があり墓守の方がいらっしゃる・・という家です。
おじは結婚前に伊藤(秋岡)の先代と一緒に「御先祖様へのご報告」をと伊藤家のお墓参りに行ったそうです。
その時に「岡原の宮原家からの養子」と言う事で氷川地域に住む、伊藤家一族の方々が沢山集まって来られた・・とおじ(父の弟)が話してくれました。

伊藤(秋岡)の先代は、大正時代にアメリカに留学して写真技術を習得し、氷川ではなく球磨で写真館を開きました。
当初から、うちの宮原家とは交流があったそうです。
私の祖父が早くに亡くなり、祖母や平川の曾祖父母から育てられたおじが成長し・・伊藤(秋岡)の先代から「ぜひ養子に頂きたい」との話が来たと言う事です。
ちなみにおじが養子に入った伊藤(秋岡)の先代の従兄は昭和40年代、衆議院議長(第64代)、法務大臣(第40代)、防衛庁長官(第33代)、文部大臣(第91・92代)、厚生大臣(37代)、衆議院議員(17期)等を歴任した某氏です。
お名前を書くとちょっといけないかな〜と思うので、ウィキのアドレスだけでご勘弁下さい(..)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E7%94%B0%E9%81%93%E5%A4%AA

○曾祖父が称した「雲平」・・偶然かもしれませんが、『肥後國誌』の記述。「雲平」という名には何か共通した意味が?
○宮原橘公忠伝 伊藤家古写本抄の伊藤家。・・偶然かもしれませんが親戚。

この件については、父とも「なんじゃろ??偶然やろうね??」と話していました。
(父は相変わらず、平安時代以降は”新しい時代”と呼ぶ、風変りな人で、あまり自分の系などは興味はもたず・・でも、私が故郷岡原村全体の歴史を調べる事はとても応援してくれています(^'^))

さて・・今後は、コメント「本題」に入ります。
がんばります(^'^)
[22]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月12日 14時29分56秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)
お久しぶりでございます(..)

先日のコメントの続きを書こうとするのですが・・
自分の頭の中ではまとまっている内容が文章となると中々・・
(何せ、今後のコメントは700年間に渡る「謎」に向かっていくので若干の躊躇もありまして・・でも必ず書きます)

その前に・・
我が故郷「旧岡原村宮原」についてを本日は(^'^)

一昨年、こちらのスレッドを通しての調査で「宮原銀山」についてを知る事が出来ました。
でも、当時は、ネットで検索してもわずかな情報しか出てこなくて・・
その後、故郷に戻り、宮原銀山についての論文等も拝見する事が出来ました。
ただ、知っている人は地元でも殆どいませんでした・・

しかし・・
先日、コメントした地元紙熊日新聞に記載の内容など「何だか宮原銀山がクローズアップされてきたような・・?」という気がする今日この頃だったのですが・・

ナント!!8月出版の書籍にも「宮原銀山」に関して記述されているではあ〜りませんか!!\(◎o◎)/!
先ほど気がつきました\(◎o◎)/!

東京新聞の書評です。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2015101102000188.html

アジアのなかの戦国大名:西国の群雄と経営戦略 鹿毛敏夫氏 著
◆武力より国際感覚を磨く
[評者]渡邊大門 氏=歴史学者

著者は、「アジアン大名」の提唱者として知られる。「アジアン大名」とは、「守護大名」や「戦国大名」という定義の枠組みを越え、中国大陸に近い九州の地の利を生かし、アジア史の史的発展の中に領国制のアイデンティティーを追求した大名と定義される。そして、本書の主人公は、主に九州に勢力基盤を置く諸大名である。
 銀といえば石見銀山、生野銀山などが有名である。しかし、肥後・宮原でも銀が産出されると、相良(さがら)氏は独自に銀を遣明船で輸出し、シルバー・ラッシュに沸いた。相良氏は肥後の中小大名であるが、武力ではなく交易により活路を見出したのである。

\(◎o◎)/!・・・載っている・・みやはらのぎんさん・・(ー_ー)!!銀山について書かれている!!

全く話は違いますが・・
せっかく「肥後・宮原」と書いて頂いているのに・・悲しい事に我が故郷あさぎり町にこの「宮原」という地名は現在もう存在していないのです((+_+))
今じゃ「岡原北」ですよ!!なんじゃこの岡原北って!!宮原は何処に行った!!と先日も父にワ〜ワ〜言うと父は
「岡本も今じゃ岡原南・・」と・・
「岡本も宮原も相良700年の歴史の中で度々登場する重要な地名でしょう!!それが今では”北”とか”南”とか・・何なんだろういったい(−−〆)」と私。
すると父は
「合併当時、こっちに居なかったのだからお前は何も言う資格はない(ー_ー)!!」と。
(..)確かにそうです。当時は故郷の事や地名についてあまり興味が無かったのは確かです・・今更、何も言う資格はないですね(..)
「宮原」や「岡本」という地名は、後世に言葉や記憶で伝えていかなければいけません(-.-)

という事で
アジアのなかの戦国大名:西国の群雄と経営戦略 鹿毛敏夫氏 著
こちらの書籍に熊本県球磨郡旧宮原村の「宮原銀山」に関して書かれています\(◎o◎)/!(^'^)
というお話でした。

では(^'^)
[23]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年11月12日 17時00分25秒 ) パスワード

>「宮原」や「岡本」という地名は、後世に言葉や記憶で伝えていかなければいけません。
 
そのようなことは、既に率先して実現している人が多くいますよ!
例えば「コトバンク」をご利用下さい。
朝日新聞、朝日新聞出版、講談社、小学館などの辞書から、
用語を一度に検索できるサービスです。
 
https://kotobank.jp/
 
他にも国会図書館を始めとして、同様なWebサイトは山ほどあります。
ただし検索をひとひねりしないと到達出来ないことも現実です。(笑)
例えば旧村名は「旧高旧領取調帳」で解るが、小地名は「荘園志料」等との照合作業が必須。
[24]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月12日 22時06分17秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様
御教示ありがとうございます。

コトバンクで「岡本村」と入力するとちゃんと旧岡原村についての情報が登場しました。「1889年岡本村,宮原 (みやはる) 村が合体して発足」と記述されています。(消えてしまった地名なのでやはり嬉しいです)

>例えば旧村名は「旧高旧領取調帳」で解るが、小地名は「荘園志料」等との照合作業が必須。

大変な作業なのですね・・

御教示本当にありがとうございました。
[25]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月18日 14時33分46秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

今日は、先日からのコメントの流れからは外れますが
「祖父の掛け軸」についてを書かせて頂きます。

実は、以前、家にある明治時代から昭和初期にかけての様々な書類等を古文書を専門的に読まれる方に解読して頂いたのですが、その方が昨日別件で家に来られる事になりました。(書類の内容についてはおいおいコメントさせて頂きます)
そこで、私は以前から気になっていた祖父の掛け軸を読んで頂こうと思い立ちまして・・
この掛け軸は祖父がとても可愛がって頂いて親しくさせて頂いた上官の方から頂いた「書」だと祖母から聞いていました。
ただ、全て漢文で書かれていて「何と書かれているのだろう??」とずっと気になっていたのです。
祖父はこの掛け軸をとても大切にしていたそうで、祖母も事ある毎に、掛け軸を床の間に掛けては、私に祖父の思い出を語っていました。

早速、しまってあった掛け軸を座敷に広げてみたのですが、掛け軸の「書」には、祖父を可愛がって下さった上官の方のお名前が書かれています。
「北満陣中作 為宮原君 陸軍中将 小林恒一 」
私は、「陸軍中将 小林恒一」という方はどのようなお方だったのだろう?と。
今まで、祖父あての「書」を下さった上官の方を調べてみようと思った事は無かったのですが、実は一昨日、球磨の戦争遺産を見て、戦争についてあらためて考えたばかりで・・
軍人(陸軍中尉)であった祖父の事そして上官の陸軍中将 小林恒一という方を調べなければという何だろう使命感のような感情が急に湧きあがってきました。

陸軍中将 小林恒一 という方を調べました。
ウィキペディア他、様々な辞典に「陸軍中将 小林恒一」という方について記述されていました。
早速、ご紹介致します。

祖父が宝物にしていた大事な「書」を書かれた方です。勝手ながら全文転記させて頂きます。
ウィキペディアより 陸軍中将 小林恒一 より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%81%92%E4%B8%80
小林 恒一(こばやし こういち、1888年(明治21年)8月21日 - 1950年(昭和25年)5月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴[編集]
茨城県出身。1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第10連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。
1922年12月、歩兵第10連隊中隊長に就任。1923年(大正12年)12月、第10師団司令部付となり、同師団参謀に異動し、1926年(大正15年)3月、歩兵少佐に昇進。1927年(昭和2年)4月、第14師団参謀に転じ、歩兵第36連隊大隊長、第9師団司令部付を歴任。1930年(昭和5年)8月、歩兵中佐に進級。1932年(昭和7年)2月、留守第9師団司令部付となり、第9師団参謀を経て、1935年(昭和10年)8月、歩兵大佐に昇進し広島連隊区司令官となった。
1937年(昭和12年)8月、歩兵第78連隊長となり、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し第23師団歩兵団司令官に就任。1939年(昭和14年)5月、第23歩兵団長となりノモンハン事件に参戦。重傷を受け、1939年8月、第6軍司令部付となった。1940年(昭和15年)8月、東部軍司令部付に転じ、同年12月、東京湾要塞司令官に着任。1941年(昭和16年)3月、陸軍中将に進み太平洋戦争を迎えた。1943年(昭和18年)6月、待命、翌月予備役に編入され、満州国高等軍事学校長に就任。戦後、シベリア抑留となり、1950年5月、シベリアで戦病死した。
参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

※1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し第23師団歩兵団司令官に就任。1939年(昭和14年)5月、第23歩兵団長となりノモンハン事件に参戦。重傷を受け、1939年8月、第6軍司令部付となった・・

実は・・
以前から「祖父は大陸で負傷した」と書いていましたが、本当の事を書きます。
祖父はノモンハン事件で負傷し、生死の境をさまよい、戦場から東京の陸軍病院に運ばれて奇跡的に命を取り留めました。
昭和12年に結婚したばかりの祖母は岡原村に軍の方が迎えに来られて、一緒に東京に行き、祖父の看病をしたそうです。
小林恒一陸軍中将も、ノモンハンで重傷を負われたという事ですね。
回復した祖父は祖母と一緒にしばらくは千葉県に住んでいたと聞いています。父は「おそらく配属が変わったのだろう」と言っています。
以前、祖父の写真をブログにアップしてご紹介しましたが、皇居前で学生の方々と一緒に写真に写っている祖父は、負傷して回復した後の勤務中の姿です。
ウィキの記述にあった
※1940年(昭和15年)8月、東部軍司令部付に転じ、同年12月、東京湾要塞司令官に着任。
東京湾要塞司令官とは?
東京湾要塞 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%B9%BE%E8%A6%81%E5%A1%9E
東京湾要塞(とうきょうわんようさい)とは、東京湾周辺の防衛を目的に設置された要塞。東京湾の砲台及び海堡等の建築物を東京湾要塞司令部が管理をした。終戦時は第12方面軍隷下の東京湾兵団に属している。明治時代に建設が始まり、逐次設備を増やしつつ、太平洋戦争(大東亜戦争)の終了時まで運用された。
概要[編集]

第一海堡の遺構(1974年撮影)[1]

第二海堡の遺構(1988年撮影)[1]

第三海堡の遺構(1983年撮影)[1]
東京湾要塞は、帝都東京を脅かす海からの攻撃に備えるため、明治政府によって1884年より建造開始された東京湾周辺の軍事施設の集合体で、最初は清国北洋水師、次にロシア太平洋艦隊の来攻が想定しての施設であった。主要な設備は、千葉県館山市の洲崎から富津市の富津岬にかけての沿岸と、浦賀水道を囲む形で神奈川県三浦市の城ヶ島から横須賀市の夏島にかけての沿岸に建造された沿岸砲台、三つの海堡(かいほう)からなる。

小林恒一陸軍中将 ウィキより
※1941年(昭和16年)3月、陸軍中将に進み太平洋戦争を迎えた。1943年(昭和18年)6月、待命、翌月予備役に編入され、満州国高等軍事学校長に就任。

「祖父は昭和15年〜16年頃、軍をやめて大陸で役人として勤務した」と以前から書いていましたが、父いわく、祖父は上記の小林恒一陸軍中将の記述にもある”予備役に編入された”のではないか・・という事です。

「北満陣中作 為宮原君 陸軍中将 小林恒一 」
祖父の宝物である「書」。”書”をかいて下さった、小林恒一陸軍中将。
小林陸軍中将はシベリア抑留となり極寒の地で戦病死・・亡くなったのですね。
私の祖父は終戦後、家族5人で引き上げ船に乗り帰国する事は出来ましたが、やっと球磨に戻れたのも束の間、数か月後に亡くなってしまいました。
ノモンハンで負傷した際に祖母がお医者様より受けた宣告は「回復しても余命は後8年ぐらいでしょう」。
宣告の8年より1年早く祖父は他界しました。

戦争は絶対にあってはならない事です。
戦争により何百万の尊い命が犠牲となりました。
本当は・・私は祖父が負傷したノモンハン事件から目をそむけてきたのです・・
祖父が陸軍の将校として参加したノモンハン事件の記事や書籍を目にすると、後ろめたい気持ちになっていたのが事実です。
今回「祖父の宝物」であった掛け軸をきっかけに「ノモンハン事件」について初めて調べました。事実から目をそむけずに当時、何が起こったのかをしっかりと理解する事が重要だった・・という事に初めて気がつきました。
沢山の尊い命が犠牲となる戦争は絶対にあってはいけません。
極寒のシベリアでお亡くなりになられた小林恒一陸軍中将の「書」。
真実を知り、祖父が宝としていた掛け軸がいかに大切な物なのか・・これからは私の宝として大事にしていきます。

最後に「書」の内容ですが「北満陣中作」という言葉もあり
強風吹き荒れる戦場で負傷した祖父そして同じく負傷された小林恒一陸軍中将の心の内が書かれているようです。
書の最後に「納木汗」という字があります。
これは「ノモンハン」の当て字ではないのか?と・・・。

私の家にあった一つの「戦争遺跡」である「書」をブログにアップしました。
よろしければ、皆様ご覧ください。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12096630483.html

最後に・・私らしいと主人が笑ったエピソードを一つ(..)

以前、祖父が27歳の時に「明治勲章 単光旭日章を叙勲」した時の「証書」(というのかな?)のお話を書かせて頂いていました。
従7位宮原○○に勲六等(従五位)単光旭日章を叙勲(もっと詳しく書かれていますが・・省略しました)・・と書いていたと思います。
その「証書?」の中に「”宮城にて叙勲”」のような言葉がありまして(何せこれまた漢文で何がなんやら・・)私はず〜っと
「(p_-)むむっ!じいちゃんは当時、東京や千葉に居たと聞いていたけど本当は宮城県にいたのでは?!(p_-)・・」
と思っていたのですが・・
今日のコメントで最初に書いたように以前、こちらの「証書?」も読んで頂きまして・・
私が「祖父は宮城県に当時住んでいたのですか?(p_-)」と聞くと
読んで下さった方が
「違います!!(ー_ー)!!。”宮城”とは”きゅうじょう”すなわち”皇居”の事です!!皇居にて叙勲を受けたという意味です。」
と、私の「トホホ」ぶりにかなり呆れたような・・「おっちょこちょい」ぶりになんじゃこの人は?と・・いうような表情で答えて下さいました。
本当に「トホホ・・・」です。
他の方からは「そんな事を言っていたらおじい様ががっかりされますよ・・」と笑いながら言われてしまいました・・
トホホホホ・・・(..)
さらに・・
「こんなにクルクル丸めて保管して・・(ー_ー)!!。額に入れて飾って置かれないと!(ー_ー)!!」と。
それから数日後・・
主人と一緒に百円ショップに行くと、そこに「額」が売られていて、私が「じ〜っと」その額を見つめていると・・
主人が「ダメ!ダメでしょう!ここでは額は買ってはダメ!」
と叱られてしまいました・・
(..)(..)・・マタマタ「トホホ(..)」です・・

こんな私ですが、なぜかこの頃、いつも祖父がそばで守ってくれている感じがします。
いえ(ー_ー)!!
じいちゃん(祖父)はいつも、私の傍で守ってくれています!!

という事で今日は
「じいちゃん(祖父)の大切な掛け軸」というお話でした。

では(^−^)
[26]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月22日 17時20分00秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

最初に・・・フゥ〜と大きく深呼吸をして・・
以前から「必ずコメントします」とお伝えしてきた本題に進んでいきます。
では、早速(..)

平成四年十一月発行の「熊本史学 第六十八・六十九合併号」。
こちらに記載の論文”永富相良氏の出自について 原田史教氏著”を御紹介致します。

全文を転記する事は出来ませんので、概要をお伝えします。
原田史教氏は論文”永富相良氏の出自について”の項〈はじめに〉の中で
中略・・相良家は人吉を本拠とする下相良氏と多良木を本拠とする上相良氏に分かれ争うことになる。そして、この戦いに終止符を打ち人吉球磨を統一したのが、下相良第十一代相良長続である。
この長続以降、相良家は次第に勢力を増し、ついには芦北から八代までを支配し、その絶頂期を迎えることになるのである。
人吉球磨を統一し相良家発展の契機を作った相良長続は、相良史によれば、下相良の庶家である山田城永富家の出身で、文安五年(一四四八年)に下相良家を継いだといわれている。
ところがこの永富氏(永留とも書く)については不可解な点が多く、以前から多くの疑問や異説が唱えられてきた。これは、長続以後明治まで続く相良家の出自が不明であるという事であり、まさに相良史上における大きな謎の一つということができる。
この永富氏に関しては、すでに惣領制という観点から服部英雄氏によって研究がなされており、その成果を踏まえつつ、以下この永富氏の出自について考察してみたいとおもう。
”永富相良氏の出自について 原田史教氏著”より
※先日、ご紹介した地元紙「熊本日日新聞」では「長続の壁」と称されていた「謎」です。すでに皆様おわかり頂けたと思いますが原田史教氏著 論文”永富相良氏の出自について”はこの「謎」に迫る内容となっています。
続けます(..)

さらに同論文、項〈伝承としての永富氏〉では
永富氏の出自が記述されている最も古い史料は、永富長続が下相良氏を継いでから八十八年目に当たる天文五年(一五三六年)十一月二十二日に書かれた「沙彌洞然長状写」である。中略・・
下相良第二代頼親は、その嫡子が幼少であったため、三代目を弟の頼俊に譲り、頼親の嫡子は永富を名乗ったとある。
次ぎに永富氏についての記述がみられるのは、江戸時代に編纂された「南藤蔓綿録」等の史書である。その「南藤蔓綿録」には「山田永富家御系図」が載せられており、永富初代頼明から九代長続までの永富家当主の名前が挙げられている。中略・・
以上の伝承をまとめれば、永富家とは下相良第二代相良頼親の嫡子頼明を初代とする、本来ならば下相良直系としてその家を継ぐべきであった家柄であり、頼明以降は永富を名乗って山田城主となり、代々山田の地(球磨郡山江村山田)を領してきたというのである。
しかし、この伝承には大きな問題点があるのである。それは永富初代頼明から第八代実重(長続の父)までの当主の名前が「相良家文書」等の当時の史料に全く出てこないということである。
また、永富(永留)氏は山田城主として九代も続いたという伝承にもかかわらず、その当主の墓やその痕跡を示す遺物が山田に全く現存していないことである。
また、奇妙なことに、この系統は相良宗家として明治維新まで続いたにもかかわらず、その本姓である永富を名乗る人が人吉球磨に全く存在しないということである。
さらに、問題であるのは、下相良第二代相良頼親も当時の「相良家文書」等の史料において、その存在が全く確認出来ない謎の人物なのである。すなわち永富氏の出自に関しては、すべて後世に編纂記述されたもので、当時の史料で確認できるものは現在のところ一つもないのである。
”永富相良氏の出自について 原田史教氏著”より

(..)私も「南藤蔓綿録」記載の「山田永富家御系図」をじっくり見ました。
気がついた事が数々あるのですが、今後、ご紹介致します。
続けます。

さらに同論文、項〈史料に現れた永富氏〉より
すでに述べた様に、相良史において言い伝えられてきた永富氏についての伝承は、多くの点で疑問とせざるをえない。しかし、それはあくまでも永富氏についての伝承に関してであり、永富氏の存在まで否定するものではない。
正平二十三年(1368年)八月五日付けの「相良前頼同氏頼連署契状」によれば・・(契状中略)
とあり、下相良第七代相良前頼と弟氏頼は正平二十三年に永富殿へ契状を出している。
この契状で分かることは、永富殿は前頼の父定頼の代から有力な下相良の一族であったということである。
ところが不思議なことに、このように下相良惣領が契状を出さなければならぬほど有力な一族であった永富殿は、この史料以外にはその名を全く見出すことが出来ないのである。
このような事態について、まず第一に考えられる理由は、永富氏関連史料の破棄が行われたということ。第二に、永富氏は普段別姓を名乗っていたのではないかということである。
第一の理由については、永富長続が下相良家を継いで以来、その系統が相良家を受け継ぐことになったわけであり、先の伝承の成立にともない、それと矛盾する文書類は当然破棄されたと考えられるからである。その痕跡は、下相良第八代実長、第九代前続、そして第十一代を継いだ長続自身の文書数の異常な少なさとして残っている。
すなわち、以上の事実から導かれるのは、永富氏を称した一族は確かに存在したものの、その事実は先の伝承とは大きくかけ離れたものではなかったかということである。
”永富相良氏の出自について 原田史教氏著”より

(..)・・ここまでご紹介させて頂いた内容より
※永富(永留)氏は山田城主として九代も続いたという伝承にもかかわらず、その当主の墓やその痕跡を示す遺物が山田に全く現存していない
※まず第一に考えられる理由は、永富氏関連史料の破棄が行われたということ。
※下相良惣領が契状を出さなければならぬほど有力な一族であった永富殿は、この史料以外にはその名を全く見出すことが出来ない
 @※まず第一に考えられる理由は、永富氏関連史料の破棄が行われたということ。
 A第二に、永富氏は普段別姓を名乗っていたのではないかということである。

”永富相良氏の出自について 原田史教氏著”では続けて項〈山田と永富氏〉で平河氏の所領地であった永吉庄内山田について検証されています。
上記については、今までこちらのスレッド”平川家について”で再三ご紹介させて頂いていました。
さらに「永富相良氏の出自について」項〈山田と永富氏〉では南北朝期の「相良定頼并一族等所領注文」を挙げ、平河氏が相良定頼より”一族”として永吉庄に関係した「平河左近允」そして少弐頼尚について記述されています。
それにより 
「これから考えれば、平河氏は南北朝初期にも永吉庄にその影響力を依然として保持していたということになる。つまり、永吉庄に含まれる山田も、この時期までは平河氏の影響下にあった可能性が高いのである。
すなわち、山田は鎌倉初期から南北朝期にかけて、依然として開発領主平河氏の支配もしくはその影響下にあったと考えられるわけであり、山田が相良氏によって支配されるのは下相良第六代相良定頼以降ということになる。すなわち、山田の支配という観点からみても、先の永富氏についての伝承は成立せず、むしろ平河氏が深く関わっていたのが明確になったのである。」
”永富相良氏の出自について 原田史教氏著”より
と記されています。

(..)・・
さらに同論文、項〈永富名と永富氏〉では
永富氏が名乗る永富という名称を鎌倉後期に人吉庄にあった永富名に由来しているとし、この「永富名」は、尼妙阿(犬童女の法号。相良長頼の娘。※平河氏”良峯氏”に嫁ぐ)に関係した「平河観覚書状」にある「なりとみ名のてつき状三通内」のなりとみ名こそ「永富名」であると書かれています。
※同論文〈註〉18より
服部英雄氏は前掲載論文において、大日本古文書がよむところの「なりとみ」は、「人吉庄起請田以下中分注進状」等の史料に基づき「なかとみ」とすべきであると判断されており、これに従う。
とあります。
さらに同論文同項〈永富名と永富氏〉では「なりとみ名(永富名)の手継・訴陳状等により永富氏が所領していたと思われる永富名には平河氏が深く関わっていたのである」と記されています。
さらに平河宮内左衛門入道観覚が日向馬関田庄(宮崎県えびの市)の預所であった事、さらに
「平河観覚の預所職を相続した甥の平河又三郎師里とは、先に揚げた”相良定頼并一族等所領注文”の中に、『平河又三郎分、一所、日向国真幸院引田弐拾町、頼尚跡』とあり、下相良第六代相良定頼の一族であった事が確認できる。すなわち平河観覚も相良氏と姻戚関係にあったという事である。」と記述されています。

さらに同論文〈平河氏と相良氏〉では「永富名の考察で明らかになった様に、平河氏は相良氏と深く婚姻関係を結んでいた」とあり、
建長四年(1252年)の「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」が紹介されて、系図には「女子 字牛 法名妙阿」そして「女子 阿夜 法名光妙 訴人」の名が見えます。
「下相良初代相良長頼の子として平河三郎長貞なる人物が記載されている」
「この系図は、人吉庄南方の寅岡名地頭職に対する相論への証拠として作成されたもので、信憑性は高い。おそらく、平河三郎長貞とは、相良家から平河家へ養子に行った人物ではないかと想定される」
とあります。

さらに「相良長頼女尼妙阿代道観申状并具書案」が紹介されていて、こちらのスレッドでこちらも再三に渡りコメントしてきました「平河氏(良峯氏)」に嫁いだ「尼妙阿」そして「息女良峯氏字阿夜」について書かれており、相良氏と平河氏の婚姻関係は鎌倉初期からであった事が書かれています。
同項〈平河氏と相良氏〉より
先に揚げた「相良定頼并一族等所領注文」の中にも「平河小三郎分、一所、日向国三俣院南方内田地拾五町」とあり、先に述べた平河又三郎師里の外に、その師里と血縁関係にあると思われる平河小三郎なる人物も、下相良第六代相良定頼の一族として登場する。この平河小三郎とは、貞和二年(1346年)十二月付けの「平河師頼軍忠状」に、「肥後国球磨郡人吉庄一分地頭平河小三郎師頼申軍忠事」とあり、その名に相良家の「頼」の一字を持ち、しかも人吉庄一分地頭職であった事がわかるのである。
以上の様に平河氏は相良氏が球磨に入部した鎌倉初期から代々相良氏と姻戚関係を結び、南北朝期には下相良氏の所領である人吉庄にも地頭職を保持し、下相良氏を惣領と仰ぎ共に行動していたのである。
”永富相良氏の出自について 原田史教氏著”より

(..)平河小三郎師頼・・
私がブログにアップした平河氏系図をご覧頂くと、おわかり頂けると思います。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html
系図画像Aに
※相良藤三郎長貞 とありますが、こちらが論文内にあった「平河三郎長貞」ですね。
※小三郎二男 貞継 とは平河小三郎師頼の二男 貞継 であった事が解りました。
「永富相良氏の出自について」には書かれていませんが、平河氏系図を見て頂くと解ります・・「相良弥三郎 頼貞」。
こちらはおそらく相良氏系図にある稲冨氏の祖「相良頼貞」ではないかと私は推測しているのですが・・

「永富相良氏の出自について」ご紹介続けます。
項〈平河氏と永富氏〉より
永富氏を考察すればする程、そこには平河氏が深く関係しているのが明確になった。そこから、永富氏の実態は相良氏の血を引く平河氏ではないのかという考えが浮かんでくるのである。
平河氏は南北朝期には人吉庄一分地頭職として、下相良惣領相良定頼に従っているが、これは、先に揚げた「相良前頼同氏頼連署契状」の中の、永富殿が定頼の時から有力な一族であった事実と一致している。
この契状は正平二十三年(1368年)に永富殿へ出されているが、実は同じ年に造られた石碑が、山田の山田大王神社の境内裏に立っているのである。
それには「正平二十三年申戌、一結所衆」とあって、一族等の団結を暗示しており、服部英雄氏はその内容から見て、永富氏への契状と深く関連していると指摘されている。
中略・・
永富氏に与えられた契状の年号と一致し、かつ、同じく一族等の団結を暗示していると思われる石碑が、山田を支配したという平河氏の霊社に建てられているのである。
中略・・
さらに、伝承であるが、永富氏は平河氏を祀る大王神社を二つ建立したことになっている。
その一つは山田大王神社であり、もう一つは永富初代頼明の父である下相良第二代相良頼親が建立したと伝えられている木上の木上大王神社である。
これらも永富氏と平河氏の関係の深さを物語っているといえよう。
”永富相良氏の出自について 原田史教氏著”より

そして・・
同論文は〈おわりに〉と続き、原田史教氏は球磨を統一した「相良(永富)長続」を出した「永富家」について私的な推論を導きだされています。
「永富家」とは実は・・・

この内容はあえて書かせて頂かない事とします。
”永富相良氏の出自について 原田史教氏著”は国立国会図書館でご覧いただけます。

真実の程は、今だ謎ですが、確かに平河氏系図には「長重」という名はあります。
この事はかなり以前(二年以上前だったかな?)のこちらのスレッドで、私も気になってご紹介いたしました。

ただ・・
”永富相良氏の出自について 原田史教氏著”では「相良定頼并一族等所領注文」より相良定頼の一族としての平河氏を書かれていますが・・
相良定頼の一族として注目すべきは「平河氏」だけではないようです・・
相良定頼を調べると見えてきました。「平河氏」以外に深く関わったであろう「某氏」があります。(私がこう書くと、皆様、おそらくすぐにおわかりになるのでしょうが・・)
今後、ご紹介致します。

”永富相良氏の出自について 原田史教氏著”を今日は御紹介しました。
こちらの論文を読み、あらためて平河氏系図をじっくりと見た事によって発見した事があります。
それが、故郷旧宮原村にあった宮原城の最後の城主と言われる「犬童十兵衛(宮原十兵衛」です。
必ずコメントします!!
ヒントは(何を言うやら(ー_ー)!!の声が・・)でもヒントを(..)
犬童十兵衛(宮原十兵衛)は「宮原氏」でも「犬童氏」でもなかった・・です。

では(^−^)
[27]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月23日 17時19分04秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

ふぅ〜今日も、まず深呼吸から・・・

早速、私の地元「球磨郡旧宮原村」の宮原城、最後の城主であったと言われる
犬童十兵衛(宮原十兵衛)について 書かせて頂きます。

寛永十二年(1635年) 宮原十兵衛 菩提 心涼祐傳禅定門 三月二十八日 宮原谷中 敬白 
※あさぎり町岡原北 宮麓地区 庭柏寺跡

寛永十二年(1635年)心涼祐傳禅定門 宮原城主 犬童十兵衛  三月二十八日
※※人吉市浪床町中尾墓地

上記のように「球磨郡旧宮原村」の宮原城城主であった犬童十兵衛(宮原十兵衛)の墓碑・供養塔は二か所にあります。
旧宮原村の庭柏寺跡そして人吉市の中尾墓地です。

犬童十兵衛(宮原十兵衛)と名乗った人物はいったい「どなた」だったのか?

肥後国相良藩士分限帳 佐藤光昭氏編
こちらには4069名の相良藩士の「氏名」が記されています。
その4069名の中で唯一、お一人「犬童十兵衛」と名乗った人物を見つけました。

貞享分限帳に
犬童彦右エ門同十兵衛 と記載されています。

犬童彦右エ門同十兵衛とはどういう意味なのか?と様々な方に確認しました。
結論は犬童彦右エ門は同じく十兵衛と名乗った。すなわち犬童十兵衛である。・・という事です。

早速、犬童氏系図・宮原氏系図を調査したのですが「犬童彦右エ門(犬童十兵衛)」を見つける事は出来ませんでした。
ところが、昨日コメントした”永富相良氏の出自について 原田史教氏著”を偶然某方から頂き、山江村誌に記述されていた、平河氏系図をあらためて見直していた時に大変な事に気がついたのです。
わたしは・・・・
ナント!!今まで数回にわたり、こちらのスレッドで「犬童彦右エ門」についてコメントしていました\(◎o◎)/!
平川家について10-1 コメント 50
http://hikoshima.com/bbs/heike/101345.html

平川家について15 コメント「33」「38」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101367.html
脱線しますが・・こちらのコメント「38」では私は
「犬童彦右エ門高政の命日 11月13日は、平河の曾祖母の命日で、なお且つ、11月13日は私の息子の誕生日でもあります。
ちなみに曾祖父の命日は5月19日。なお且つ5月19日は私の娘の誕生日です。
何だか、不思議な感じがします。(-_-)」
・・などと此の時に書いていたのでした・・
(なのに何故名前を忘れる!!?との合唱が聞こえたような・・(..)トホホ)

ブログにアップした平河氏系図を再度ご覧ください。
系図画像Aの左端に 高政 犬童彦右エ門 の名があります。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

肥後国相良藩士分限帳 佐藤光昭氏編
こちらに記述されている4069名の相良藩士の中で唯一「犬童十兵衛」を名乗った
犬童彦右エ門とは・・
犬童彦右エ門 高政 すなわち 「平河高政」だったのです。

この事に気がついた時の衝撃は、体中が震えて言葉に出来ないほどでした。

その後の調査結果をお伝えします。
犬童彦右エ門高政( 元禄十一 十一月十三日死 法名 康宅永安)
犬童彦右エ門高政の墓は「中尾墓地」の平河家墓所域にあり、さらにすぐ傍に建っていたのが
心涼祐傳禅定門 宮原城主 犬童十兵衛 の墓石でした。
すなわち心涼祐傳禅定門 宮原城主 犬童十兵衛の墓石は中尾墓地平河家墓所に隣接していた・・いう事です。
犬童彦右エ門高政(犬童十兵衛)は元禄十一 十一月十三日(1698年)84歳で亡くなっています。
宮原城主(球磨郡旧宮原村) 犬童十兵衛の墓碑には寛永十二年(1635年)三月二十八日と刻まれている事から63年の差があり、寛永十二年(1635年)は犬童彦右エ門高政(犬童十兵衛)が21歳の時である事から推測して、宮原城主(球磨郡旧宮原村) 犬童十兵衛は犬童彦右エ門高政(平河高政)の父もしくは祖父であった可能性が推測出来ます。

平河高政(犬童彦右エ門)の父と思われる人物は系図では「平河源兵衛 頼重」です。

犬童彦右エ門高政(犬童十兵衛)の事実が見つかった事により、先日からコメントしていた大きな蜘蛛の巣のような繋がりが次々と見つかっています。
今後、こちらのスレッドでは調査結果を随時コメントしていきます。
では(..)
[28]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月24日 09時22分39秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

コメント26で
「犬童十兵衛(宮原十兵衛)は「宮原氏」でも「犬童氏」でもなかった・・です。」
と書きましたが、正確には「姓」は「宮原氏」でも「犬童氏」でもなかった・・でもないな・・
う〜ん・・どう言えば良いのか・・
実際には・・「平河氏」「宮原氏」「犬童氏」・・だけではなく犬童氏から変わった「豊永氏」他に「佐牟田氏」「久保田氏(窪田氏)」「岡本氏」「深水氏」「新堀氏」そして「稲留氏」「永富氏」さらに「上村氏」「三池氏」は複雑に絡み合った関係である事が現在までの調査で見えていますので・・(今後コメントします)
おそらく・・
旧岡原村(宮原村・岡本村)いえ、久米郷東方および西方に関係した「家々」は鎌倉時代初頭から始まる「謎」、すなわち相良700年の「謎」に直接繋がるのでは?と現時点の調査により推測できるので・・
そうですね・・
「宮原城(球磨郡旧宮原村)の城主の系は様々な”姓”が絡み合っているようです」
この言葉が私が皆様に伝えたい言葉として一番ぴったりくるようです。
「相良定頼并一族等所領注文」
この文書が「謎」を解く鍵の一つだと思います・・
データは持っていますから、今後ブログにアップします。

ただ・・
「皆」古代に繋がる「同族」だったのでは・・

相良定頼。この方が母の菩提寺として建立された「無量寿院」は一遍上人開祖の「時宗」のお寺でした。
ちなみに相良長続の姉「妙高禅尼」の墓所も「無量寿院」です。
相良定頼以降、相良家当主は数代に渡り、年末の大晦日から元旦にかけて「無量寿院」で過ごす習わしとなっていました。
今後のコメントで、上記の内容は詳しく書かせて頂きます。

では(..)
[31]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月25日 17時51分16秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

相良定頼并一族等所領注文は東京大学史料編纂所データベースで閲覧そしてPCに保存が可能です。
東京大学史料編纂所のアドレスは
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html
です。
相良家文書を見るには
@画面下の「データベース選択画面」をクリック
A全文の検索 から「古文書フルテキストデータベース」をクリック
Bキーワードに「相良」と入力
C「検索」をクリック
D表の項目「刊」の「画」ボタンをクリック(一番上のボタンで構いません)
E「ファイルを開く」が出るので「キャンセル」をクリック
F左横の表示されたナンバーをクリックすると文書が開けます。
相良定頼并一族等所領注文は左端の表示されるファイルナンバーの「0189」〜「0195」までです。
相良家文書は上記の手順で見れます。良峯女代廣安軍忠状 等もこちらで見る事が出来ます。
相良定頼并一族等所領注文により
相良定頼分として
肥後国球磨郡永吉庄半分 百七十五町 五百石 三百貫 平河左近允 頼尚跡
日向国嶋津庄北郷百六十町 三百石 上杉左馬助殿跡
肥後国球磨郡人吉庄北方半分
日向国真幸院内田地■拾五町 百五十石 上杉左馬助殿跡
肥後国球磨郡久米郷西方上村 三十五町 八十石 三池兵庫助妻女跡
日向国飫肥北郷弁分同嶋津庄北郷弁分
等が記述されています。

六郎・孫次郎・孫四郎 分として其々に
肥後国球磨郡久米郷下村内田地(三池兵庫助跡)と日向国三俣院内南方田地
さらに同孫四郎 分として
日向国北郷南方内田地 上杉香松丸跡 除先給 と記述。

左京亮分・彦三郎・彦四郎分として其々
日向国三俣院内南方田地

同一族討死分として
式部丞跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地貳拾町
日向国三俣院内南方田地

木公左衛門尉跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地貳拾五町
日向国財部郷田地

中務丞跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地拾五町
日向国三俣院内南方田地

同新三郎跡
肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地拾五町
日向国財部郷田地

須恵彦四郎跡
肥後国球磨郡須恵庄壹田地
などか記されています。
さらに続けます(..)

平河又三郎分
日向国真幸院引田貳拾町 頼尚跡
日向国三俣院内南方田地伍拾町

木野太郎左衛門尉分
肥後国球磨郡久米郷下村内田地(三池兵庫助跡)
日向国三俣院内南方田地

岡本又次郎分
肥後国合志郡内高永田地拾五町 永里彦次郎跡 加庶子
肥後国球磨郡永里村 同跡 (永里彦次郎跡 加庶子)

牧伯耆左衛門四郎分
肥後国球磨郡久米郷下村内田地(三池兵庫助跡)
日向国三俣院内南方田地
肥後国高橋郷内早瀬小中嶋田地

野口平次入道分
日向国嶋津庄北郷内田地
日向国真幸院西郷内田地

齋藤十郎分
肥後国隈庄内有安名田地 佐伯六郎左衛門尉跡
肥前国佐賀郡内田地 安徳古川小太郎跡
同郡(肥前国佐賀郡)田地 安徳乕丸跡
肥前国大田庄内田地 牟田部眞如房跡
筑前国穂波郡大豆田村田地 武藤大豆田小五郎跡
同郡川津村田地 川津三郎太郎跡

温(湯)浦四郎次郎分
肥後国芦北庄内湯浦田地

山田左衛門四郎分として
肥後国八王子庄内 大崎太郎跡田地 他 山田左衛門四郎という方は各地に領地が点在していまして・・(このあたりはじっくり相良定頼并一族等所領注文をご覧頂ければ・・)
※大崎太郎・・大崎氏ですね・・

平河小三郎分
日向国三俣院南方内田地

税所孫兵衛尉分
日向国三俣院南方内田地

薭田了仙房分
日向国真幸院西郷吉田村田地

ざっくりとピックアップしました。
久米郷東方橘遠江入道跡 が三か所ありました。
相良定頼并一族等所領注文は年月日不詳とあります。おそらく1350年代の事かと推測されているようです。
その後、久米郷では1366年に橘薩摩公多所領譲状で、橘公多が橘左衛門に久米郷東方下分宮原を譲与している事がわかります。
1368年には薩摩の祢寝氏に八月二十二日多良木(相良)前上総介頼仲・橘前佐渡守公頼・相良近江守前頼等が書状を出し、さらに1377年「一揆神水契状案」では球磨郡内の複数の名が書かれていて久米郷からは「久米代 大善亮為頼」「奥野代 源助景」「岡本 筑前守頼季」「宮原 橘公冬」の名が記されています。

久米郷東方とは現在の湯前町から現あさぎり町上村の免田川付近までと言われていますが、歴史研究家の方々の中には旧岡本村あたりまでではなかったのか?という方もいらっしゃいます。
湯前町には今でも「東方」という地名が残っています。ちなみに「東方」とは「ひがしかた」と読みます。

時代が下り、1448年相良(永富)長続により球磨は統一され、久米郷は文明年間に、多良木・奥野・西方等の田地を給地として一族や平河氏等に与えられたと「佐藤光昭氏著 久米郷の橘薩摩氏」では記されています。
さらに城泉寺(浄心寺)関係年表という冊子には、相良為続 「求麻郡久米郷西方」の田畠地一町二丈を平河但馬守に宛行うとあり、久米郷西方と平河氏との関係が見えています。

今日は「相良定頼并一族等所領注文」の詳細をメインでお伝えしました。

では(^'^)
[32]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月28日 13時37分39秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

コメント31では「相良定頼并一族等所領注文」についてご紹介致しましたが、こちらの詳しい検証については後日コメントさせて頂きます。
先日、ご紹介した書籍「アジアのなかの戦国大名:西国の群雄と経営戦略 鹿毛敏夫氏 著」。早速読みました。
やはり・・我が故郷球磨郡旧宮原村には「宮原銀山」が存在して、「銀」は採れていたようです。
宮原銀山で採れた「銀」を財源及び商品とした遣明船が相良藩の「市木丸」である事も解りました。
ちなみに・・
銀鉱石発見の際に歓喜した相良義滋。相良義滋の妻(豊永氏の娘)の菩提寺として建立されたのが、旧宮原村にあった「庭柏寺」です。(明治初頭廃寺となる)
庭柏寺を建立したのは「嗣誠濁集覧」によると「稲留某氏」とあります。(嗣誠濁集覧に記載された内容は後日、きちんと転記します)
尚、同書籍では、今は「岡原霧島神社」に合祀されている、旧宮原村の中島霧島神社(宮原神社)と旧岡本村の大炊霧島神社の中興にも「宮原銀山」が大きく関わっている事も記されていました。
相良義滋は「銀石現出」を「御 神慮」と位置付けて「家繁栄の心懸け」に励むよう子の相良晴広に伝え(諸篇の御 神慮疑い無く候の間、家繁栄の心懸け申し及ぶまでも無く候)その言葉通りに相良晴広は旧宮原村の中島霧島神社(宮原神社)と旧岡本村の大炊霧島神社の中興を行い、銀鉱石が現出した宮原地区の神社を敬い、相良家の家運をかけて、宮原銀山を開発した・・という事です。
ちにみに・・
相良晴広。この方の次男徳千代(のちの頼貞)は十三歳で剃髪し、名を齋雲祖英と改め、先に紹介した旧宮原村の庭柏寺住職となっています。
(-.-)・・今まで私がこちらのスレッドで御紹介してきた故郷に関する情報。
やっと、・・全て繋がっていた事が解りました。

後年、銀よりもアンチモニを多く含有する鉱石が増えてきたのは事実のようですが、当時「アンチモニ」も今でいう所のレアメタルとして、貴重な鉱物資源であった事も記されていました。(含金銀アンチモニー鉱脈)と呼ぶそうです(p_-)

今日は「アジアのなかの戦国大名:西国の群雄と経営戦略 鹿毛敏夫氏 著」から、「宮原銀山」はやはりありました(^'^)というお話をお伝えしました。
ところで・・
何度も今日御紹介した「庭柏寺」は相良義滋の妻(豊永氏の娘)の菩提寺であり、建立したのは「稲留某氏」。
「稲留氏」は旧宮原村に地縁があったのでしょう・・

次のコメントは
古文書等には書かれていない、我が故郷旧岡原村宮原地区に伝わる言い伝えについて書かせて頂きます。
では(^'^)
[33]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月29日 09時01分48秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

あの・・・・・・・(..)
私、妙な事に気がついたのです・・

おそらく、これは、以前、日本の苗字七千傑様より御教示頂いた「ヒラメキ」という言葉に近いものから来るのかもしれませんが・・

昨日、コメントを書いた後、「アジアのなかの戦国大名:西国の群雄と経営戦略 鹿毛敏夫氏 著」を読み返していて、中に「岡原鉱山」について書かれていました。
岡原鉱山と呼ばれた場所は以前こちらのスレッドでも御紹介しましたが、父が子供の頃遊んでいた井口川上流の「岡本」の山にありました。すなわち旧岡本村です。(写真が書籍に載っていましたが、ここは紛れもない岡本の鉱山近く)
こちらでも、昭和初期まで「アンチモニ」が採れていました。
でも宮原銀山とは全く別の場所です。
宮原銀山があった場所は、旧宮原村の「宮麓」の山です。
場所は知っています。
宮原銀山跡は、地元のごく一部の古老の方々しかしらない通称「金山(かなやま)」と呼ばれている場所です。

という事は・・・・・
旧、岡原村には二つの鉱山があったという事です。
旧宮原村には「宮原銀山」(昭和初期までアンチモニ鉱山として稼働)。そして旧岡本村には「昭和初期まで稼働した、やはりアンチモニ鉱山」。

旧岡本村の鉱山では「銀」は採れなかったのかな・・??

というか・・
この頃、ありがたい事にクローズアップされてきた「宮原銀山」ですが、「岡本の鉱山」については、文献・古文書等に何も記されていません。
もしかして・・「岡本の鉱山」は”遡った時代”には隠されていたのかな・・??などと妙にムズムズしてきました・・。(マタマタとの声がいずこから・・)

あと・・何で旧宮原村宮麓の「宮原銀山跡」は通称「銀山(ぎんやま?)」では無くて、通称「金山(かなやま)」だったのでしょう・・?

「含金銀アンチモニー鉱脈」・・か・・・・

というわけで久しぶりに妙な感がムズムズしてきまして、コメントに書いてしまいました。(私の”妄想”かもしれませんが・・)

次のコメントは「旧宮原村に伝わる言い伝え」を御紹介致します。

では(-.-)
[34]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月29日 09時54分10秒 ) パスワード

追記

先ほどのコメントでは「旧宮原村の宮原銀山」と「旧岡本村の鉱山」について書きましたが・・
昨日のコメントで書いた「庭拍寺」ですが場所は「宮麓」です。
山を切り開いた広大な敷地跡がいまでも残っています。堤(大きな池)もあり、きっと風情豊かなお寺だったであろう事は容易に推測できます。
庭拍寺は相良氏の第16代当主、相良義滋の妻(豊永氏の娘)の菩提寺として稲留氏が建立して、相良氏の第17代当主相良晴広(第16代当主相良義滋の養嗣子で、実父は上村頼興。初名は籐五郎頼重)の次男徳千代(のちの頼貞)は十三歳で剃髪し、名を齋雲祖英と改め、庭柏寺住職となっています。
こちらの庭柏寺に宮原城主 犬童十兵衛(宮原十兵衛)の墓碑(供養塔)が建立されています。
ちなみに、父が子供の頃、祖母と一緒にお参りしていた「岡本家」のお墓(供養碑か?)も庭柏寺跡に建っています。
平川家も宮原家も椎葉家も深水家も、親戚は皆庭柏寺が廃寺となるまでこちらのお寺にお世話になっていました。

庭柏寺跡から幸野溝を渡り、まっすく下に300メートルほど水田が広がり、水田を抜けた場所が私の祖母の実家「岡原の平川家」です。
平川家から庭柏寺跡までは、先ほども書きました通り、水田が広がっていて、家は一軒も建っていません。
こちらの水田は昭和初期まで平川家の土地でした。(今も数反は残っているようですが)
明治時代に廃寺となった庭柏寺は、きっと江戸時代までは祖母の実家「平川家」からよ〜く見えたと思います。
(ダイエットの為、この頃散歩するのですが、庭拍寺跡と平川家の旧所有地の間を通る県道を歩きながらいつも考えていました)

という事で
庭柏寺についての追記でした。
では(^'^)
[35]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月30日 12時26分46秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

今日は、「古文書等には書かれていない、我が故郷旧岡原村宮原地区に伝わる言い伝え」についてを書かせて頂きます。

先日、犬童十兵衛を名乗った「犬童彦右エ門」(平河高政)についてコメントしましたが、実は、旧岡原村の宮原地区には「平河家」に関する言い伝えが残っていました。
地元の歴史研究家の方が、「今は別の場所に住んでいらっしゃいますが、古くから宮原観音堂のすぐ近くに住んでいらっしゃった家」(お名前を書くのは控えますが、かなり、以前、私はこちらの”家長”が代々継承するある”事”についてコメントしています)の現在80歳代になる今の家長となる方より、聞かれた話です。
この方は、今から御紹介する事を子供の頃から聞いていて覚えていらっしゃいました。
では、早速(..) 地元の古老の方のお話です。
昔、相良さんがこっち(球磨)に来られたあと、球磨で一番勢力を持っていた”平河さん”に、ここ(旧岡原村※旧久米郷東方)でおとなしくしとってくだい(大人しくしていて下さい)と、土地と膨大なお金を平河さんに渡して、平河さんはこっち(旧岡原村※旧久米郷東方)に移ってきなったげな(移って来られたそうです)。
その後に平河さんに続くように星原さんが来なった。平河さんは土地のいくらかを、星原さんにあげなった。(星原さんに土地のいくらかを譲渡した)
その後に来なったのが宮原家タイ。

(-.-)というお話でした。
最初に、この事を地元の歴史研究家の方から伺った時には「(?_?)????なんじゃソレは」と私は思ったのですが・・
相良700年の歴史には大きな「謎」が隠されていると、こちらもクローズアップされて来て、私も様々な論文等を読んでみると、上記の言い伝えが「なまじ全てが違う」訳でもないのかもしれないな〜(p_-)と・・
そう言えば・・
変貌する須恵村 80ページより
さて、次の攻撃目標は平河義高その人である。平河伝授巻に
「伝に曰く、義高その前は川辺川より東、河北の地頭なり、南は久米殿と称して、以上両人これある由、又、下もは平家御代官所にて候処、蓮仏公(長頼法名)御下向遊ばされ、義高を御頼み、矢瀬殿を御退治なされ、即刻、人吉在城遊ばされ候故御当地大方三が二は割々に随い奉り候え共、義高一家盤石故聢と御安堵も無く、依って、数年の御計略を以て寛喜年中(一二二九〜一二三一)終に義高を謀り、御追伐成され候、それより義高一門段々追伐故、郡中一統仕り候」
とあるように、平河氏を制圧しない限り一円知行の実は挙がらないとして、寛喜年中、血敷原(球磨川と川辺川の合流する地点、現在の錦村木上・高原台地“たかんばる”)で剪滅したのである。

(p_-)上記の”話”にあるこの一文がどうしてもやはり気になります。
※伝に曰く、義高その前は川辺川より東、河北の地頭なり、南は久米殿と称して、以上両人これある由、
「南は久米殿と称した」・・・
※宮原村下地について前スレッドのコメント31に書いていましたが
祖父の実家下の領域から「侍村」にかけて横に広いだ円で囲まれていまして・・
要は馬場田とそれを取り囲む「森」の地域の「下方三分の一」程を横広いだ円で囲み、なお且つ色分けされていて、そこに「久米氏」と書かれている。
「久米氏」です・・そのだ円で囲まれた領域一番右側(方角でいうと南西側?)がどう見ても祖母の実家「平川家」です・・(?_?)・・と私は書いていました・・
※球磨・人吉に広がる親戚からは祖母の実家の「平川家」を皆「南」と呼んでいる。
※(初めてコメントします)湯前(旧久米郷東方)の城泉寺(浄心寺)の鎌倉初期の住職は「林氏」です。平河氏建立の荒田寺の僧の方も「林氏」。ちなみに庭柏寺の歴代住職の墓碑から解ったのですが江戸時代初期からの僧の方々の姓に「林氏」が数名いらっしゃいます。
※平河氏の所領地は”永吉庄”(旧深田村や旧木上村、旧山田村等)と固定観念を持ちがちですが、実は「平河師高重代所領田数 注文」には
●目田之村田地十四町五反
●黒田之村田地三十九町五反
とあり上記の「目田之村」とは旧免田村、そして「黒田之村」とは、旧免田町黒田地区です。岡留熊野座神社(黒田地区)は平河氏居城の城跡に建てられた神社でした。(ちなみに岡留熊野座神社の宮司を代々務める「家」は親戚です。(次のコメントで詳しくお話します)

ただ・・平河氏の所領地で言うと・・先ほども書いた
「伝に曰く、義高その前は川辺川より東、河北の地頭なり、南は久米殿と称して、以上両人これある由、」
川辺川より東、川北の地頭なり・・
旧川辺村ですが、後年、この川辺地区には「宮原一族」が多数住んでいらっしゃいます。(この事も、ずっと気になっていました)

旧岡原村に伝わる「平河氏の言い伝え」に戻りますが・・
平河家に続いて星原家が入ってきた・・この部分は(-.-)(?_?)・・どうなんだろう??とは思うのですが・・
しかし、数年前、ちょっと気になって「星原氏」について少しだけ調べてみたのです。その時に見たブログに「星原氏」は種子島発祥との記述があって「種子島??どういう事だろう???」と思った記憶がありました。
良くは解りませんが、調べた限り、現在星原姓は鹿児島の霧島地方や伊佐(大口)薩摩川内地方に多いようです・・

さらに時代を遡り、鎌倉中期の旧岡原村の土地は「尼妙阿」と繋がっているようです。
相良長頼の娘(尼妙阿)が持っていた「田地」の一つ「一丁三反三畝六歩の化粧田」は旧岡原村長北(永北)から旧久米村円八重にかけてであったとの検証が歴史研究家の園田健昌氏によって行われていました。

旧岡原村に伝わる「平河氏の言い伝え」は、代々旧宮原村に住まわれている家の方から伺った言い伝えですから、もちろん古文書等が残っている訳でもなく・・でも・・昔から「火のない所には煙はたたない」とも言いますし・・言い伝えが真実かどうかは解りませんが、ただそう言う言い伝えが起こりうる「何かがあった」のでは?と・・

という事で、まずは古老が知る旧岡原村に伝わる「平河氏の言い伝え」というお話でした。

次のコメントでは、親戚のおじからスレッドに「書いても言い」と許可を受けた大事なお話を書かせて頂きます。
では(..)
[36]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月30日 16時21分25秒 ) パスワード

先ほどのコメントに補足を(..)
祖母の実家の岡原の平川家が「南」と呼ばれているのは、土地の通称ではありません。
祖母の実家「平川家」のお隣に遠い昔に分家したと言われる別の「平川家」があるのですが、こちらの「平川家」のおばさんも、隣の祖母の実家の「平川家」を「南」と呼んでいるからです。
私は、この事により、「南」は土地の通称や名称ではないと確信しました。

親戚のおじから「書いてもいい」と許可を受けたお話の前に・・
私の家の敷地前にある「湯川」と呼ばれる湧水について解った事があります。
かなり、以前、こちらのスレッド「平川家について」で家の前の「湯川」について「湯川の神様は、祖母の実家の”平川家”とうちの”宮原家”がお守りしてきた」とコメントした事がありました。
湯川は「ゆがわ」と私や父は呼んでいますが、80代以上の人は湯川を「ゆご」と呼んでいます。
こちらの「湯川(ゆご)」は元々「殿さまの水」と呼ばれる場所でした。
椎葉のおじがしっかりと覚えていました。
椎葉家には平川家の長女(祖母の姉)が子供の頃に養女に入り、その息子が「椎葉のおじ」です。つまり、私の父と「椎葉のおじ」はいとこ同士となります。
椎葉のおじは、平川の曾祖母(私から見ると高祖母にあたります)から湯川(ゆご)について以下のように聞いていました。
昔、宮原の砦の殿さんは、湯川(ゆご)の水しか飲みなれんかったげな。(他にも湧水は数か所あるのに、殿さまは湯川の水しか飲もうとはされなかったそうです)毎日、家臣二人が大きな樽を棒に下げて、湯川の水を汲みに来ていたげなタイ。湯川(ゆご)の水は殿さん専用の湧水やったとタイ。

(..)もちろん、私が子供の頃は、近所の皆さん湯川の水が美味しいと、お茶やコーヒーを沸かす為に汲んでいましたし、私も、冬は暖かく、夏はキンと冷たい湯川で朝は顔を洗ったりしていました。
でも、今は湯川を利用していた”世代”は皆、亡くなってしまって、「湯川の神様」をお守りしているのは私の父です。
毎月「1日」と「15日」は湯川の掃除をし、神様の榊やお神酒をお換えして、お参りさせて頂いています。
湯川には樹齢数百年の「椿の木」と「タブの木」が立っています。タブの木の根元近くから水が湧き出ています。
この「タブの木」の根元に大きな穴が開いていまして、椎葉のおじから聞いて初めて知った事ですが、この大きな穴の奥は洞がお祀りされていたそうです。
しかし・・
子供の頃から慣れ親しんできた「湯川(ゆご)」が殿さまの水だったとは、知りませんでした。
椎葉のおじはこの事を地元の歴史研究家の方にも話していまして、「湯川(ゆご)は大事な歴史を持っている湧水だから、後世も守っていかんばイケン」と言っています。

所で・・
私のスレッドでよく登場するこちらの「椎葉のおじ」ですが、椎葉のおじの「椎葉家」は、明治初頭に別の系が「椎葉家」を継ぎました。ですから、江戸時代までの椎葉家の血統は残っていません。
明治初頭にこちらの椎葉家を継いだのは・・
永田家の娘と、日向高岡の城主であり島津家の家老家であった「家」の男子との間に生まれた「源一」氏です。

椎葉のおじが「書いてヨカぞ」と許可をくれたので、次のコメントにてお話させて頂きます。

では。
[37]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年11月30日 18時27分40秒 ) パスワード

では・・親戚の「椎葉家」について書かせて頂きます。
コメント「36」で書いた
明治初頭にこちらの椎葉家を継いだのは・・
永田家の娘と、日向高岡の城主であり島津家の家老家であった「家」の男子との間に生まれた「源一」氏です。

上記の”事”は、私は子供の頃に祖母に「何となくですが」聞いていましたし、父や他の親戚は皆知っている「周知の事実」です。
椎葉のおじは、私がこちらのスレッドに書く事を快く承知してくれました。
理由は、「私が書いたコメントを見て頂いた方々に、情報をぜひ頂きたいから」という事でした。
では書かせて頂きます。

江戸末期、日向高岡の城主であり、島津家の家老であった「家」に生まれた男子。
この方は、幕末の混乱を嫌い動乱を避けるように「家を捨てる覚悟」で、椎葉のおじが称する「我が堅い絆の一族」を頼って一人球磨に来られました。
その後、その方と恋に落ちた相手が永田家の娘でした。
そして・・二人の間には男の子が生まれました。その「男の子」が「源一」氏です。
親子三人で数年間幸せに過ごしていたのですが・・それも束の間
日向高岡から「その家」の家臣であった数人の方が、球磨に来られて、ついに「源一」氏の父である方は見つかってしまったのです。(球磨に居られるとの情報が入り、家臣であった方々はほうぼうを探し回り、やっとお見つけした!と言う事だったそうです)
家臣であった方々は「高岡に帰るように」と説得したのですが、最初は「源一」氏の父である方は球磨に残ると頑なに拒まれたそうです。(椎葉のおじ曰く、「きっと”戦い”や”混乱”を好まない人だったのだろう」と・・)
しかし、国の事情などを聞き、最後には納得して「源一」氏と共に帰郷する事となりました。
明治維新の動乱のさなか、「源一」氏の母である「永田家の娘」を動乱の真っただ中にある島津藩である高岡に行かせる訳にはいかないと、永田家の反対もあり、「永田家の娘」は泣く泣く球磨に残る事になったそうです。
そして、母子は離ればなれになりました。
所が・・
高岡に帰る途中の日向須木村(現在の小林市須木)に立ち寄った際、周囲の目をすり抜けて「源一」氏は子供の足で夜通し山道を歩いて球磨に戻ってしまいました。
その後、すぐに迎えが来て、高岡に連れ戻されたそうですが・・
また、「源一」氏はきっと母が恋しかったのでしょう、今度は、高岡から歩いて球磨に一人戻って来たそうです。
母である「永田家の娘」も、子供心を思い、「動乱が安定するまでは」と「源一」氏と二人、永田家に残る事になりました。
そして西南戦争・・
高岡に戻った「父」とは連絡が取れなくなり、ついに音信不通となりました。
西南戦争により、亡くなったとの話があったそうです。

それから数年後、母である永田家の娘は「源一」氏を連れて再婚しました。
再婚先は深水家。
深水家に嫁いだ「永田家の娘」はその後、一男二女をもうけました。
その一人が平川家に嫁いだ私の曾祖母です。
すなわち・・「永田家の娘」とは私の高祖母の事です。
深水家で育った「源一」氏は成人して子供のいなかった椎葉家の後継ぎとして養子に入りました。
「源一氏」の妻は、上村城の近く「麓」の犬童家から嫁いでこられました。
椎葉家は昭和初期まで三町は下らない土地を所有していました。
「源一」氏は、岡原霧島神社建立の際の世話役人として奮闘し、庭柏寺廃寺後の旧宮原村宮麓の浄土真宗のお寺の誘致にも奮闘、わざわざ、自ら八代の宮原村のお寺にも行かれたそうです。
源一氏と妻の間には残念ながら子供が出来ませんでした。
そして、二人の養女となったのが、平川家の娘(私の祖母の姉)です。源一氏からは姪にあたります。

「源一」氏が四十代になった頃の事です。
突然、高岡から使者の方が「源一」氏の父の形見を受け取って欲しいと
椎葉家を訪ねてこられました。
形見として
※西郷隆盛氏から源一氏の父が受けた「書簡」数枚
※西郷隆盛氏から源一氏の父が頂いた「瓢箪」
※島津家の殿様から源一氏の父方の「家」が頂戴した刀
  土佐正宗(とさのまさむね)という刀で、「源一」氏の父の守り刀だったそうで、源一氏の守り刀にして欲しいという事でした。
ところが・・「源一」氏は何故か刀だけは受け取られなかったそうです。
この時に高岡からの使者の方と「源一」氏、そして椎葉家の方々と一緒に撮った写真が今でも残っています。
それからしばらくして、源一氏は亡くなりました・・

今から数十年前、椎葉家に保管されていた「西郷隆盛氏からの書簡」をぜひ見せて欲しいとある人物が椎葉家に来られました。
椎葉家では、源一氏が、殆ど父の事を語らなかった事もあり、調べて頂けるならばと、その書簡をその人物に預けたのですが・・その後、その書簡が行方不明となってしまいました。
10数年前に椎葉のおじと私の父とで、九州中の博物館や資料館等を廻って”書簡”を探したのですが、見つける事は出来なかったそうです。
椎葉のおじは、源一氏が大事にしていた、「父」との絆でもある”書簡”を失くした事を、今でもとても後悔しています。
この話をする時は、椎葉のおじはいつでも目に涙を浮かべています。

おじは、私が、「皆の先祖」の事を調べる事をとても喜んでくれています。
「きっとお前は、そういう使命を持って生まれたんだと思うよ」と言っています。

ちなみに、椎葉のおじの父は「岡留熊野座神社」(平河氏居城の城跡に建てられた神社)の宮司家「尾方家」から椎葉家に婿養子に入られました。
椎葉のおじの妻は同じく「尾方家」から嫁いでこられています。
熊本県神社誌に椎葉のおじの妻である「椎葉のおばさん」の兄の名前が載っていまして・・尾方○○(尾方のおじさんの名)「姓 大神 氏 尾方」と書かれています。
大神氏・・通字は「惟」ですね。
実は平河家系図にある、二度に渡って平河氏と姻戚関係を結んでいる「宮原権左衛門」氏ですが、二世に渡って「宮原権左衛門」を名乗っているこちらは本名「宮原権左衛門惟矩」。墓所は青井家墓地です。
青井家の通字も「惟」。青井家墓地には「大神姓」で「惟」の字を持つ方の墓碑が多数建立されています。

椎葉家の系について戻りますが
椎葉のおじは「一番の疑問は、源一じいちゃんの父である方は、何故こちらを頼って来たのか?という事」と言っています。
私も、今後おじの調査に協力していく事を約束しました。
おじもとても喜んでくれています。

今日は、親戚の椎葉家について書かせて頂きました。
皆様のご教示どうかよろしくお願い致します。
[38]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月01日 16時46分22秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

昨日のコメントに補足します。

まず、日向高岡の城主で島津家の家老の家
江戸時代の末だから、「城」は無かったのじゃないのかな?と・・
おそらく、当時の日向高岡の、「相良藩で言う所の地頭」と呼ばれる立場の方ではなかったのかな?と。私は推測しています。

それと・・気になる事がありまして・・
椎葉家にはすごく古い「西郷隆盛」氏を描いた「絵」が飾られています。
(飾られているというか・・何だろうお祀りしているような感じです)
この絵は、源一おじいさん(私の曾祖母の兄なのでこう呼ばせて頂きます)の妹(私の曾祖母の姉)が特別に絵師の方に描いてもらったようです。
普通、西郷隆盛さんの絵と言えば皆様「西南戦争」に絡んだ「絵」を想像されると思うのですが・・
椎葉家の「絵」は違います。(私は子供の頃しかじっくり見た事がないので父から聞きました)
絵の御説明を(..)
西郷さんは「舟」に乗っています。一緒にいらっしゃる人は、父いわく「お坊様」だそうです。
西郷さんとお坊様が舟に乗っている?「絵」です。
どう言う場面なのか?父に聞いたのですが父も解らない??そうです。
父は「舟」と西郷さんなので、種子島(だったかな?)に行かれる時じゃないか?と言いますが、あまり大きな舟ではないようなので・・小さな舟で種子島にいくかな??と私。それにお坊様と一緒に?と。
その辺がよく解りません。
いつもの妙な感がどうも、この「絵」でムズムズとするのですよね・・(マタマタとの声が聞こえた様な・・)

故郷の調査を今まで優先していましたが・・
西郷隆盛という方の事を全く勉強していないので、椎葉のおじの調査の為にも、勉強しなくては・・と思っています。
では(..)
[39]酒井ともさんからのコメント(2015年12月02日 10時21分18秒 ) パスワード


はじめまして、横レスします。

扁額の「南洲翁と僧侶」は幕末期の尊皇攘夷派の僧侶。
成就院月照でしょうか?

安政の大獄で追われた南洲翁と僧月照は共に錦江湾に入水。
南洲翁は一命を取り留めました、残念ながら僧月照は亡くなってしまいます。

辞世の一首は、
大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも
[40]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月02日 11時49分27秒 ) パスワード

はじめまして、酒井様。
御教示、ありがとうございます。

西郷隆盛氏と成就院月照。
〉安政の大獄で追われた南洲翁と僧月照は共に錦江湾に入水。
南洲翁は一命を取り留めました、残念ながら僧月照は亡くなってしまいます。

私自身、薩摩について全くの無知識で、ご教示を頂き大変勉強になりました。
重ねて、お礼を申し上げます。ありがとうございます。

実は、昨日父に「椎葉家」の「絵」についてとても気になるという事を話した所、
「そんなに気になるのであれば、自分の目でしっかりと確かめてきなさい。それによって、糸口が見つかるかもしれない。」
と言われたばかりでして、今日にでも椎葉家に行くつもりでした。

まずは、父の言うとおり自分の目で「絵」を確かめて参ります。

ただ、万が一にも、御教示頂いた「南洲翁と僧月照」に関わる「絵」だとした場合、日向高岡に生まれた源一氏の「父」とどう関わってくるのか・・

万が一と考えるよりも・・しっかりと「絵」を見て参ります。

酒井様、今後ともご教示よろしくお願い致します。
[41]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月02日 16時50分57秒 ) パスワード

皆様、
椎葉家に行って「絵」を見て参りました。
まず、訂正ですが、こちらの絵は絵師の方に描いてもらったのではなく、明治時代に源一氏もしくは妹(曾祖母の姉妹)が何処からか買ってこられた版画絵のようです。申し訳ありません。

結果は
西郷隆盛氏と成就院月照の絵でした。
小舟に向かい合って座る二人の男性と、もう一人付添人?らしい男性が書かれています。
絵の上には「西郷と月照」と右側から読む字で書かれていました。
版画だから、何か情報がないかネットで検索したのですが、全く同じものがありましたのでご紹介致します。明治30年代の作のようです。
http://auctions.wing.c.yimg.jp/sim?furl=auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/bi276/users/4/0/9/8/torandot23jp-org-143989904760888031625&dc=1&sr.fs=20000

あと、紛失した「書簡」ですが、私は複数枚と書きましたが、おじに今日詳しく確認すると「かなりの束だった」と言っています。
西郷隆盛氏と源一氏の「父」は何をやりとりしていたのでしょうか・・・?

椎葉のおじに「その手紙は西南戦争中もしくはそれ以前?どっちなのだろう?」と言うと、その辺りも全く解らないとの事でした。
ただ・・
椎葉のおじ・おばは、「西郷隆盛氏と成就院月照の入水」については、ちゃんと知っていました。
だから、おじは、「何でこういう絵を飾っているのだろう?」と子供の頃から不思議だったそうです。
さらに、源一氏(椎葉のおじの祖父)の父と西郷隆盛氏は「交友」があった事は確かだと言っています。
源一氏が受け取らなかった「刀」の事ですが、先日は「土佐正宗」と書きましたが、(正式名称はよく解りません)通称「正宗」と呼ばれる「刀」だそうで、刀を持って来られた「高岡からの使者」の方は、日本に数本しかない事を言われたそうで、今でも、皆「何で受け取らなかったのだろう?」と苦笑いしながら話しています。(きっと源一おじいさんのポリシーだったのでしょう・・私見です)

あらためまして
酒井様の御教示により、「絵」の内容が解りました。
本当にありがとうございました。
[42]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月03日 10時36分58秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

あの・・コレマタ一つどうしても気になる事がありまして・・
コメント37で書いた
〉高岡に戻った「父」とは連絡が取れなくなり、ついに音信不通となりました。
西南戦争により、亡くなったとの話があったそうです。

この話なのですが・・
源一おじいさんのもとに高岡から父の形見分けと使者が来られたのは源一おじいさんが四十代になってからという事で・・
西南戦争で源一おじいさんの「父」が亡くなっているのであれば・・使者の方が訪ねて来るのが何だか、遅いような気がしまして・・
椎葉のおじにこの事を言うと、おじも
「おじさんも実は、何だか変だな・・?とは思っていた」と。
「実際の所はよくわからんよ・・」とも。
ただ・・訪ねて来れない事情があった可能性もありますし・・(..)

話を変えます。
西郷隆盛氏と成就院月照の入水の背景について勉強しました。(手元には相良藩関係の書籍等は多数持っているのですが、「薩摩藩」関連の書籍は持っておらず、現在はネットに頼るしかありません。お恥ずかしい(..))

様々な情報を見ました。「日向高岡」との関係も解りました。
一番解りやすく?書かれていたサイトを一つご紹介します(と言うか・・皆様、歴史にお詳しいので、すでにご存じの事だとは思いますが・・)

鹿児島 天まちサロン
http://www.tenmachisalon.com/2015/07/%E5%A4%A9%E6%96%87%E9%A4%A8%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8A%EF%BC%88%E7%AC%AC5%E5%9B%9E%E7%9B%AE-%E3%80%80%E6%9C%88%E7%85%A7%E5%83%A7%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%A2%91%EF%BC%89/

天文館史跡めぐり(第5回目  月照僧人の碑) より 勝手ながら転記させて頂きます(..)

安政の大獄では、京都清水寺の月照僧人は全国の僧侶中すぐれた勤王の僧でしたが、身は僧侶でも幕府は見逃さず、日々日々危険が迫ってきました。そこで当時京都にて倒幕運動に励んでいた西郷さんを頼って一緒に薩摩へ難を逃れたのです。薩摩は有名な勤王の藩でしたが、勤王派でした島津斉彬が亡くなってしまい、その反動として家老をはじめ、藩を上げ幕府に対し「事なかれ主義」の空気がみなぎっていました。その後、密告により西郷さんと月照僧人は捕まってしまい、現在の山形屋前の鹿児島銀行の所にあった「俵屋」という宿に押し込めたのです。それが今回紹介した場所になります。
その後、西郷隆盛と月照僧人は船便で日向(宮崎県)の国高岡郷の「法華寺」へ追放すると申し渡したのですが、実は上べの話で実際は「東目送り」とか「永送り(ながおくり)」とか言って去川の関所(宮崎県)で切り捨てる慣わしになっていました。
安政5年11月の十六夜、海路で日向の高岡へ身を隠す為に船をやっと出発させたのですが、西郷隆盛と月照僧人は既に運命の尽きたことを覚悟をし、相抱いて花倉(鹿児島市三船)の沖で入水したのです。幸いにも西郷さんだけは蘇生されましたが、哀れにも月照僧人は45歳で幕を閉じました。
===================================================

西郷隆盛氏と成就院月照は
※日向(宮崎県)の国高岡郷の「法華寺」へ追放すると申し渡しを受けた。
※実は上べの話で実際は「東目送り」「永送り(ながおくり)」と言って去川の関所(宮崎県)で切り捨てる慣わしになっていた。
※安政5年11月の十六夜、海路で日向の高岡へ身を隠す為に船をやっと出発させ、西郷隆盛と月照僧人は既に運命の尽きたことを覚悟をし、相抱いて花倉(鹿児島市三船)の沖で入水した。
※幸いにも西郷隆盛氏は蘇生されたが、残念ながら月照僧人は45歳でお亡くなりになった。

さらにこちらのサイトも(..)
http://samuraiworld.web.fc2.com/satsuma_geshou.htm
薩摩紀行 月照 入水の地より 勝手ながら転記させて頂きます(..)
史跡の碑文は《近衛文麿》の手になるものです。これは、月照が近衛家と密接な関係の中で幕末の活動をしていたことを物語るものでもあります。
月照はもともと清水寺成就院に住持する一祈祷僧です。その彼が幕末の動乱に巻き込まれていったのは、ひとえに彼が成就院に身をおいていたからです。
清水寺を統括支配しているのが興福寺です。興福寺とは、藤原氏すなわち近衛家の祈願寺です。
 幕末当時の勤皇運動家であった近衛忠熙とのつながりが指摘されていますが、月照は好むと込まざるとに関わらず勤皇運動家たちとの関係に巻き込まれていきます。
島津氏と近衛家との繋がりは、端的に言えば、島津氏の発祥が近衛家の藩屏という形から興ってきたのだと類推していますが、島津氏の参勤交代の折には成就院などを介して京都を通過する際接触する慣例があったようです。成就院は、薩摩と近衛家とのパイプ役を果たしていたようです。そのような文脈の中で、斉彬の下で外交的雑事に奔走していた西郷隆盛との接触が始まったもの当然と言えます。
 安政の大獄が始まり、京都守護代酒井忠義が赴任してくると、京都では勤皇運動に関わったものが次々と捕縛され始めます。月照の身に危険が及ぶのを危惧した近衛忠熙が西郷にその護衛を託し、西郷は薩摩に連れて行きます。
 しかし当時、主君斉彬亡き後で、斉彬の父で先代の藩主斉興が藩政の実権を再び握り、斉彬の進めた改革を悉くつぶしていました。西郷は月照が薩摩に入るまでに、何とか彼を受け入れるよう根回しを試みますが、藩内の空気は幕府から睨まれることを恐れ、月照を日向口から追放することに決まります。
 当時、薩摩から他国に出入りする関所は、薩摩路の野間関、大口の小川内関、日向高岡の去川関の3つがあり、《薩摩飛脚》という言葉に表現されるように、一度入れば生きては出られない、という意味ですが、近郷の郷士たちが集まってきては、関を出ようとするものをなぶり殺しにする習慣があったと伝えられています。したがって、月照の日向口追放とは、つまり《死》を意味していたわけで、西郷は月照城下立退きを命じた藩命が届いた11月15日の夜、月明るい錦江湾に供に入水します。それが自分を信頼し薩摩路までついてきてくれた月照に対する西郷ができる、せめてもの義であったのでしょう。
 しかし運命とは、残酷なもので、月照だけが死して、西郷は助けられ蘇生します。その西郷隆盛蘇生の宿はこの史跡の近くに残されています。

======================================================

上記のお話が椎葉家にあった石版画に繋がっているという事ですね。

このような状況を「源一おじいさん」の父は嫌って、球磨に逃れてこられたのかな・・と思ったのですが・・
あの・・当時の高岡郷地頭を調べたのですが・・こちらの系はその後「相良氏」と繋がっていた事が解りまして・・
謎が深まっていくばかりで・・

この件は、次のコメントで(..)
では。
[43]白石さんからのコメント(2015年12月04日 20時11分16秒 ) パスワード

こんばんわ
お久しぶりです。
風がきつくなってきて 首をすくめてもあつぎをしても寒いです。

子孫様 たくさん お宝!! ^^ が あるのですね。

ところで
この頃 知り合った人が 本多氏の末裔のめい といいう人で おじさんところ の 伝来のものを 「姫路城」に 出しているのだ と いうことで
ええーっと 話が盛り上がりました。

おじさんとこは 明治の頃は 華族様?とか 言っていましたよ。
そして
家紋は 葵 クローバーみたいに 下に くきがあって 上に 三つ葵の葉っぱがついているもので

家康は藤原氏を名乗っていたこともあるけど 本多氏も藤原氏で こちらが 実は古くて 家康は将軍になって 三つ葉葵をつかうようになったのだとか 言っていました。

家康は三河の国賀茂郡松平郷で生まれていて 賀茂といえば 賀茂氏?が古くにいたのでは?と思うのですが
賀茂氏は 葵紋をつかいますね。そして 平清盛の母は 賀茂氏の女子。

家康は 平氏でもあって
母方をたどって 賀茂氏に系をつないでいたとか。

話の中で 私 ほんだ
 と 発音する人は 篤姫に つながってくる 母方の血筋の人にも ほんだ という人がいたようですよ。
島津氏の女子を生む 千手の局という人がいて この人のお父さんが ほんだ というひとだったようです。私の出身地の熊本県球磨郡にそういう話があります。そして 川の上流には 豊後の方から入ってきた 平家の落人伝説があるのです と 申しますと 

うちのホンダのご先祖は 九州豊後です 真田氏とも かんけいしているようで 戦の時は 兄弟別れて 血筋を残すことをしたようです
と 言っていました。

来年は 真田幸村が 大河ドラマに登場するみたい ということで 話がもりあがり わいわい やっていると

どこかの おじさんが
じぶんとこは 紀子様お妃ご内定のとき タンスの注文がきたのだ と 割って入り 皆
「ハッ!!?」と。
しかし まあ こちらは 結構 そこらの おじさん おばさん の おうちに 昔をたどれば という人がいて こんなに 多くの人が暮らす世の中で 袖すりあうも の ようなことが あるものだと 思いました。

  




[44]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月05日 11時29分39秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

白石様、お久しぶりです(^'^)
御教示ありがとうございます。

わたくし共にはお宝などありません(ー_ー)!!
ちなみに、椎葉のおじの息子(私のふた従兄)嫁が(私は普段○○姉ちゃんと呼んでいますが)、
「瓢箪にお名前でも書いてあれば良かとばってんね〜(p_-)」と言いまして、その時は大笑いとなりました。
この○○姉ちゃんの実家は、父方も母方も「山北家」でございます。
○○姉ちゃんから先日聞いたのですが、実家に古い「系」をあらわす物(系図かな?)があって、「うちの最初の先祖さんは”藤原ナントカ”って書いてあったよ。何かうちは”藤原”のごたんね(みたいね)〜あははっ( ^^) _U~~」
と言っていました。(いつも本当に明るい優しい○○姉ちゃんでして、私は○○姉ちゃんの事が大好きです(^'^))
でも・・(p_-)「藤原ナントカ」とはおそらく「相良氏族」かな?と(私見ですが)
○○姉ちゃんの実家とはどうやら家の一族は遠い親戚らしく、椎葉のふた従兄と○○姉ちゃんを結びつけた”愛のキューピッド”は、私の祖母です。(^'^)

白石様の御教示にあった「豊後ホンダ氏」。
この頃地元の調査ばかりをやっていて、ちょっと忘れていましたが・・
以前コメントしていました
そう言えば、私の主人の叔父さんも「豊後」の「ホンダ氏」でした。
叔父さんの話では、叔父さんの御先祖様は「四国の水軍」と繋がっていたとの事でした(p_-)

白石様のおっしゃる通り「袖すりあうも・・」確かにそうですね(^'^)

全く話は変わりますが・・
私が所有する書籍「南藤蔓綿録」の巻末に「肥後国志略」による「肥後国求摩郡之図」が載っていまして・・
以前からこの「肥後国求摩郡之図」を見て「なんじゃ??これは??!!」と思っていたのです。
今の地図と比べたら一目了然で、明らかに「変!!」です。

まず・・
※球磨盆地が描かれていない(ー_ー)!!
 人吉城のすぐ上に免田川が流れていて・・と言うか!!球磨川が無い!!
 球磨川はあたかも”人吉”が源流?のような描き方です!
 ”湯前村”が人吉城のちょっと上に描かれています(?_?)「上村」は人吉城の斜め上方向。
 と言うか・・「湯前村」と「上村」が向かい合っている\(◎o◎)/!
※久米村が・・「超!!山の中!」に描かれています
 実際の久米村は広大な田畑が広がっています(ー_ー)!!
※「宮原村」も「岡本村」も描かれていない\(◎o◎)/!
 こういう図を見れば、おそらく「肥後宮原銀山」の場所など到底藩外の人には解るまい(ー_ー)!!と思います。

結局、「肥後国求摩郡之図」には「人吉盆地(現在の人吉市他周辺)以外の相良藩領は全て山の中」で球磨盆地(人吉盆地の数倍の面積です)は描かれていない(ー_ー)!!という事です。

先ほども書きましたが
こういう図を見れば、おそらく「肥後宮原銀山」の場所など到底藩外の人には解るまい(ー_ー)!!
肥後国に「宮原」という地名は数か所あります。(以前から日本の苗字七千傑様より”阿蘇の宮原”等の御教示を頂いていました)
「アジアのなかの戦国大名:西国の群雄と経営戦略 鹿毛敏夫氏 著」では「肥後宮原銀山」の場所の特定に関して肥後国内の「宮原」の地名は「阿蘇小国町宮原」「阿蘇町の宮原」「鹿本郡菊鹿町の宮原」と複数存在するが相良氏の支配領域は「八代郡氷川町の宮原」と「球磨郡あさぎり町の宮原」に限定される。
とあります。
つまり、「相良藩領で銀山が見つかったそうだゾ!!!!」と
全国の大名家に「話」が伝わったとしても、実際に何処で採れたのか?は上記の内容でお分かり頂けるように「部外者には解らない」訳です。
おそらく、大半の方々は「氷川町宮原」を「宮原氏」が所領している事もあり「こちらかな?!」と思っていたのでは??(p_-)

で〜もしかし(ー_ー)!!
相良藩内でしか知り得ない史料「八代日記」にはちゃ〜〜んと描いてあるのです(-.-)(ムフフッ)
ちなみに八代日記とは
ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%BB%A3%E6%97%A5%E8%A8%98
八代日記(やつしろにっき)は、文明16年(1484年)から永禄9年(1566年)5月までの球磨相良氏の歴史を、日記風に記録したものである。
成立年代は不明、著者も不明であるが、史学者の勝俣鎮夫は、家臣としての個人的記事が多く、的場内蔵助宛ての書状が記されている事から、的場内蔵助による作ではないかとしている。
史料編纂所が底本にした本は写しで、『八代日記 乾』と『八代日記 坤』の二冊に分けられており、元号及び干支の間違いや、永禄2年(1559年)に起こった「獺野原の戦い」の記事があるべきところが空欄になっているなどしている。またこれの異本も存在する。
原本は長らく所在不明となっていたが、2005年に慶応義塾大学にて発見された(原本の原題は『当家日記』)。

あっ\(◎o◎)/!「「獺野原の戦い」の記事があるべきところが空欄になっているなど・・」
そう言う事か!!!!(何がそう言う事か!なのかは、追々コメントさせて頂きます(-.-))

話を戻しまして・・
こちらの「八代日記」には
「求广(球磨)にて洞雲銀廿五匁 吹出し候」とちゃんと書いてあるのです(-.-)
とっ言う事は「藩外」(大内氏以外)の人々には、この「日記」は見られる事は無いのですから・・「肥後宮原銀山」が「球磨郡旧久米郷宮原」だとは「よそ様」には「だ〜れも解らない」訳です。
(恐るべき工作だっ!相良藩!・・何が工作なのか・・皆様もよ〜くお考えになって見て下さい(-.-)ニヤッ)

何だこの「図」は??!と不思議な絵(図)が描かれている「肥後国求摩郡之図」をブログにアップしました。
出来るだけ忠実表示出来れば・・と横向きの図を縦向きにアップしていますので、もしよろしければ、保存して画面を横向きにして見て頂くのが一番かな?と思います。(画面そのままだと首を横に曲げて見て頂く事になりますので・・首が痛くなります・・(..))

ブログアドレス
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12101843347.html

では。
[45]白石さんからのコメント(2015年12月07日 20時03分29秒 ) パスワード

こんばんわ
山北家は相良氏宗家の中にいるのですね。

私の故郷の袴谷集落にある恒松の家の同級生に学生時代 先生が「恒松の家は昔は武士か?」と尋ねたのに大して 本人がうなづいていた と 前にコメント書きましたが その集落に山北はありました。

川の位置が違うとか 村がなんでこんなとこに とか いろいろ 不思議が出てきますね。子孫様の調査力に 期待して わくわくしています。

ところで 弟に関して4親等以内の父母方の親族の戸籍取り寄せをする必要が生じてきました。
ここで 母から聞いていたことが 役立つことになろうとは・・・
我が家は女でつながっているので 戸籍では 先がちょんぎれているのですね。

弟の戸籍にいる母はひょんなところで生まれているのですね。
兄の戸籍にいる母は もう 父と夫婦養子に入った祖父母の籍におり
私の戸籍にいる母は 山口県の戸籍にいます。

そして おばは 山口の本籍でうまれています。
つまり 祖父も山口の人だった。
母から 14代前までの人の事 母の父母が 山口から半島へ渡って そこで 大喧嘩の挙句祖母が帰ってきたこと 
お寺様の事 叔母から見て祖母になる人は(又は私からみて祖母)毛利様から院号をいただいた というはなし

子孫様の頭の中で整理される球磨の昔の話ももとは 何が何だか というものだったのだろうと思われます。当人たちには それで つうじていたのでしょうけど・・・

佐田の話も他の人にはどうなっているのか?でしょうけど
しかし 母から聞いていた人の名を探すと ちゃんとある。
豊後佐伯氏に関しての話の中でも そこからははずれる家のことだけど 昔は女系だったと書いてあります。

銀山の位置も 川の位置もその当時 知っている人には ふふふ・・・というものでしょうね。










[46]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月12日 08時51分46秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

白石様、コメントありがとうございました。
お返事遅くなりましてすみません(..)

お母様の「佐田家」、様々な戸籍調査から、手掛かりが見つかりそうですね。(^'^)

〉銀山の位置も 川の位置も・・・

当時の藩内の事情で、隠されていた”事実”は、現代の「情報化社会」を予測出来るはずもなく・・
今こそが全ての事実を知りえる”機会”を持つ事が出来る時代に入った・・という事ではないのでしょうか。

御親戚に80代以上の方がおいででしたら、「家に伝わる言い伝え」が聞けるかもしれませんね。

私も調査がんばります(^'^)
[47]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月12日 10時11分12秒 ) パスワード

皆様、(..)
先ほどのコメントで
〉御親戚に80代以上の方がおいででしたら、「家に伝わる言い伝え」が聞けるかもしれませんね。

と白石様にお伝えしましたが・・
実は・・やっぱり80代以上の方からの「話」はすごく重要だ!と痛感する事がありまして・・

こちらのスレッド「コメント12」で、免田の橘姓「矢野家」のお話を書かせて頂いた時に
〉上記に書いた宮原家繋がりの中村家ですが、中村家繋がりの中に矢野家(あさぎり町)がありました。(うちとは直接の繋がりはありませんが)
って書きましたが・・
間違っていました!うちの「強い絆の一族」は皆繋がっていました\(◎o◎)/!

椎葉のおじの父、そして椎葉のおじの妻(椎葉のおばさん)の実家である「尾方家」が、上記の中村家と矢野家と同じ免田の某地区にあるので、コメント12で書いた事を「椎葉のおじ」に言ったところ・・
「(ー_ー)!!本当に○○(私)はな〜んも知らんとやな〜」と。

椎葉のおじから聞くところによりますと・・
※免田某地区の中村家本家と矢野家はず〜っと昔からの親戚関係
※上記の中村家には御大師様や仏像などが伝わっている
※免田某地区には上記の”中村家”の分家が沢山住まわれている。
そして・・近代で言いますと・・
上記の免田某地区の中村家本家から尾方家に嫁いでこられたのが「椎葉のおばさん」のお母さんで・・その方の姉が・・免田某地区中村家本家から平川家に嫁いできた「みなみのおばさん」。
すなわち、「みなみ(平川)のじいちゃん(私の祖母の兄)」の妻「みなみ(平川)のばあちゃん」は免田某地区中村家本家から嫁いで来られていた!と言う事です。
あんにゃ!!知らなかった・・と言うか・・私、みなみ(平川)のばあちゃんは「尾方家から嫁いで来られていた」と勘違いをしていました(ー_ー)!!

整理しますと
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇔尾方家⇒椎葉家
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇒平川家(椎葉のおじの妻である椎葉のおばさんの母と平川家の私の祖母の兄嫁は姉妹で其々中村家から嫁いで来られた)
橘姓「矢野家」⇔「中村家」⇔うちの宮原家

と言うわけです(-.-)

コメント12から転記します(..)
中村家繋がりの中に矢野家(あさぎり町)がありました。
矢野家には代々受け継がれた系図が残っています。
免田郷土研究会 郷土 第一号 に記載されていました。
勝手ながら御紹介します。

矢野家系図。
橘姓矢野氏系図とあり、三十代敏達天皇より出て橘諸兄をへて上野国(栃木県)宇都宮城主であったが、信貞の時、伊予国(愛媛県)矢野城主となり矢野伊予守と称した。
「貞広代従菊池肥後守武朝公筑後国三原於中村之庄十二丁賜之同於三池郡六丁預給之都合十八丁領代々住中村仍而改矢野苗字号中村氏」と記されている。

コメント12ではさらに・・
「信貞」という名をもとに探していると・・日本の苗字七千傑様の《伊予橘氏》 元越智姓 行順(矢野姓)から進んだ《駿河橘氏/矢野氏》姓氏類別大観に矢野 行順 → 貞高 → 信貞 ・・と見えます。

(p_-)と書いていたのでありました・・

椎葉のおじさんは
「何でも解らん事はおじさんに聞かんばんぞ!(聞きなさい)」とあらためて言ってくれました。

トホホ・・(..)本当に親戚関係をまだまだ理解していません・・

実は親戚関係どころか・・自分の曾祖父(曾じいちゃん)の事も解っていませんでした・・

以前、コメントしましたが、家には明治時代からの古い書類が沢山残っています。
郷土歴史研究家の方々にその文書や書類を見て頂いた時に
「明治・大正・昭和初期の岡原村の村営に関連する書類が沢山残っているけれど、お宅の曾おじい様は何か村の”役”をされていたのではありませんか?」
と聞かれたのですが・・
私と父は「いや(ー_ー)!!家はな〜んもされとらんと思いますよ(^'^)」と答えたのです。
その後「明治後期に、選挙で選ばれた宮麓の”区長”だった」という事が解ったので
「区長さんでした(^'^)」とは答えていたのですが・・

一昨日、図書館で「岡原村史第二巻」を見たのですが(岡原村史は一巻から四巻まであり、家にあるのは一巻だけです。明治以前の記述が載っていないので興味が無くて・・一巻しか読んでいませんでした(..))
「岡原村史第二巻」には明治〜大正にかけての歴代の村長の写真と・・
明治45年〜大正14年にかけて就任していた村会議員の方々が載っていまして・・
中に「宮原留蔵」と・・
あんれっ??宮原留蔵・・みやはら・・
あっ!!「曾じいちゃん」!!

・・・・(..)「曾じいちゃんは村会議員だった・・あんにゃどうしよう、郷土の歴史研究家の方々に”家は、おそらくな〜んもしてません”と答えてしまった・・(..)」
と・・
椎葉のおじにその事を話すと
「曾じいさんも、今まで○○(私)が何もおがこと(俺の事)を調べん(ー_ー)!!って天国でハラハラしよんなったかもしれんぞ!」と笑って言っていました。
ちなみに、椎葉のおじは知っていたそうです・・
「何でも聞かんばっ!!(聞きなさい)」とあらためて言われました・・
トホホ。(父も知らなかった・・親子でトホホ・・)

と言う事で
古老の方(おじさんに叱られるかな?)のお話を聞く事は大事だな〜(p_-)と痛感しています。

では(^'^)
[48]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月14日 12時21分50秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

椎葉家に島津からの使いの方が見えた時の写真と深水家の写真をアップ致しました。

よろしければ、ご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12106070122.html

写真の説明を(..)
椎葉家の写真で右端に写っている方が島津からの使いの方です。
椎葉の源一おじいさんとその横に写っている男児。深水家の写真前列に写っているめがねの男性がこの男児の成長した姿で、深水家の長男です。
ちなみに、この方(深水のおじさん)は70代後半に瑞宝章を受賞されました。この方(深水のおじさん)は数年前に亡くなったのですが・・何故かお墓は岡原ではなくて、深水宗房のお墓がある人吉の「中尾墓地」(現東林寺)にあります。(理由は・・わかりません(?_?))
椎葉の源一おじいさんの妻は着物姿の女性です。上村の犬童家から嫁いでこられました。
源一おじいさんの妻(犬童氏の娘)の兄弟は熊本県会議員でした。

椎葉のおじから、「島津からの使いの方の写真が何か手掛かりになれば」と言われて。ブログにアップしました。

所で・・
私、間違っていた事があります。
椎葉家にあった、源一おじいさんの父が西郷隆盛氏から頂いた「書簡」と「瓢箪」は、上記の使いの方が持ってこられたのではありませんでした。
源一おじいさんが子供の頃から持っていたものでした。
ちなみに、「瓢箪」は鹿の角のふたが付いていて、赤い紐が付いていました。形が変わっているので、ネットで探したのですが、少し似ている写真を見つけました。
http://blogs.yahoo.co.jp/hjbby485/GALLERY/show_image.html?id=62140503&no=8
ここまで、大きくはありません(ー_ー)!!でも、形が似ています。「房」?みたいな形なのです・・
さらに・・
島津からの使いの方が持って来られた刀についてですが・・
この刀は当時「三本しか残っていない」という事を使いの方がおっしゃったそうです。(何だかとても貴重な刀だったようです)

さらにさらに・・
先日、コメント42で
〉あの・・当時の高岡郷地頭を調べたのですが・・こちらの系はその後「相良氏」と繋がっていた事が解りまして・・
謎が深まっていくばかりで・・
と書いてしまったのですが、私「系」を間違っていました。高岡郷地頭の系と別の系を勘違いしていました。すみません(..)
でも・・間違っていた事に気がついた時から「何だか変だな?・・」と言う事にも気がつきまして・・(何を言っているのか皆様もちろんおわかりになりませんよね・・すみません。今後、この件はコメントさせて頂きます(..))

ブログの写真についてに戻ります(..)
深水家の写真は昭和10年代後半のようです。懐かしい深水家が写っています。
深水家は鍵型の造りでした。
集合写真は何かのお祝いの写真のようです。
椎葉のおじが「五木の親戚も写っている」と言っています。
平川の曾祖父も後ろに写っているので、おそらく、この写真は「深水家」主体に一部の親戚が集まっているようです。
鍵型の家なのですが、集合写真では解らない右側の造りが見える写真もアップしました。こちらは昭和初期の写真のようです。(別のおじさんとおばさんの結婚式に撮られた写真です)

椎葉の源一おじいさんを訪ねて来られた方なのですが・・
私、何だかとても気になります。
椎葉のおじも、「この方が手掛かりになるのでは?」と言っています。

今日は、椎葉家と深水家の写真についてご説明させて頂きました。

では(..)

[49]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月14日 15時55分41秒 ) パスワード

追記

先ほどのコメント誤字がありました。すみません(..)
深水宗房ではなくて「深水宗芳」でございます(..)

うんがっ?(-.-)
天から「この子はトホホホホ〜ッ」との声が聞こえたような・・・・(..)

では(..)
[50]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月14日 16時38分44秒 ) パスワード

再々追記(..)

コメント48で書こうと思っていたのに忘れていました(..)

大事な事かもしれません・・

椎葉のおじから聞いたのですが、源一おじいさんが子供の頃、父と一緒に父方の家に帰った時に、その家の女の人から
「あなたが長男なのですから」と言われたそうです。
事ある毎にその女性から「長男なのですから!」と言われるのが子供心にすごくつらくなったような事を、生前源一おじいさんは語られていたそうなのです。
球磨にいる「母」がとても恋しくなったようで「この家には住むごとナカ!(住みたくない)」と言って家を出て球磨に帰って来たと言う事でした。

父方の家にいた、その女の人が誰なのか?椎葉のおじにも解らないそうです。

でも、椎葉のおじと話したのですが、源一おじいさんがその時「長男」だったのであれば、父方の”家”は誰が継いだのかな・・?と。

「きっと誰か継ぎなったとやろ(^'^)」と椎葉のおじ。

何か、この話も手掛かりになるのでは?と私は思うのですが・・・

と言う事で、書き忘れていた
「源一おじいさんは、父方の家から見ると長男だった・・」
というお話でした。
では。(..)
[51]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月17日 09時41分59秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

コメント48の補足を(..)
私の曾祖母の実家、宮麓の深水家には広大な農地がありまして、昭和30年代までは、沢山の人を雇って農業を手伝って頂いていました。
そして・・
深水家の長男で写真前列のめがねをかけた男性。
70代後半で瑞宝章を受賞された「深水のおじさん」なのですが・・
こちらの「深水家の長男のおじさん」は学校の先生だったので、宮麓の深水家は弟である次男が継いで、「深水家の長男のおじさん」は深水家の土地があった旧岡原村岡本の”長岡”に別に家を建てて住んでいました。
旧岡原村岡本の”長岡”と言えば、こちらのコメント16でもご紹介していました。
ピックアップして転記します(..)
「歴代 嗣誠獨集覧」より
岡本長岡藤崎八幡建立之事
此八幡宮草創之起ヲ尋ヌルニ、其前当国飽田郡熊本藤崎村ノ住人長岡播磨守季有ト云う人背ニ国主ノ命、
頼ニ当郡長続公当地山居ノ処、寛正六年乙酉為ニ国郡太(泰)平御当家擁護一産神八幡ヲ此処ニ勧請也、自レ然以来毎年十月初卯日于レ今祭礼有レ之、昔ハ放生会有レ之由也、

「麻郡神社私考」(元禄12年青井阿蘇神社第51代大宮司大神惟董 編纂)より
藤崎八幡 岡本長岡
當国熊本藤崎八幡同體
寛正六年乙酉草創
社家傳記日寛正年中熊本ノ士長岡播磨守藤原秀有大家ヲ頼テ當郡ニ来ル 藤原長続公ノ命ヲ以テ岡本野口ヲ賜フ■後當社ヲ勧請メ大家長久ノ祈壇トス

さらに・・転記します(..)
熊本県文化財調査報告第30号「熊本県の中世城跡」より
左近城
「求麻外史」によれば、城主は相良長続という。地元では「長続が日向・薩摩勢に備えて築いた城」と伝える。
城跡は、岡本城跡の西側に谷一つへだてて横たわる丘陵末端部に位置する。中略・・
城跡の北西側300メートルの地点には長続が寛正(1465年)に建立したと伝わる藤崎八幡宮が祀られている。

(..)・・この辺りが「深水家の長男のおじさん」が住んでいた深水家の土地がある場所です・・???あれっ??(?_?)
コメントを書いてみて、あらためてモヤモヤしてきました。
長岡播磨守季有(秀有)・・この方・・「長岡」と肥後の関係を調べたのですが、「長岡」は細川氏と繋がる”名”なのですね・・
細川忠興 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88
細川 忠興(ほそかわ ただおき)/長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。
足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。
足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。

(?_?)何で深水家は岡本の長岡に土地を持っていたのだろう・・??
細川(長岡)・・長岡・・深水・・細川・長岡・深水・・何だかこの言葉の繋がりがすごく気になります。

さらに・・「深水家」でもう一つ解った事があります。
椎葉の源一氏を連れて永田家の娘であった私の曾曾ばあちゃん(高祖母)は宮麓の深水家に嫁いできたのですが・・
源一氏の父との出会いも実は「深水家」が関係していた事が解りました。

源一氏の父は島津藩家老家の男子。
この方が頼った家は、宮麓の深水家とは別の”深水家”だったそうです。
そこで「永田家の娘」であった、私の曾曾ばあちゃん(高祖母)と出会って、恋に落ちた・・と言う事です。
別の”深水家”と書きましたが・・何処の深水家かは、椎葉のおじさんも良く解っていないそうでして・・(場所は何処なのだろう??高祖母の実家永田家は今は湯前なので・・湯前かな???)
椎葉の源一氏と私の曾祖母(平川家に嫁ぐ。椎葉のおじさんから見ると祖母にあたります)は父違いの兄妹。
親戚は皆「椎葉の源一氏の父は島津藩家老家の男子」である事を知っています。ですから、適当な妄想でも何でもありません。事実です。

椎葉の源一氏の父と深水家の関係は何だったのだろう?何故、島津藩家老家の子息が深水家を頼って来られたのだろう??

コメントを書くと、ありがたい事に頭が整理されてきます。
でも、それによって益々「モヤモヤ」が増長してきているのです・・??
島津家・・細川家・・長岡・・深水家・・何かが繋がっているような気がするのですが・・(考えすぎかな??)

次回のコメントは、コメント48で書いた「系を間違えてしまった経緯」も含めて、「今まで解った事」を書かせて頂きます。

では(..)
[52]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年12月17日 17時11分41秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>島津家・・細川家・・長岡・・深水家・・何かが繋がっているような気がするのですが
 
日本歴史の本流に近づいて来た様ですね。
孝霊天皇から明治の伊藤博文首相までが本流で、宮原家も本流周辺部に存在しているのですよ。
 
日本の苗字七千傑「姓氏類別大観」の下記系図の流れが本流なのです。
 
「越智氏」(孝霊帝裔氏族綱要) http://www.myj7000.jp- b8iz.net/clan/01/012/01206.htm
→「越智氏」 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206.htm#001
→「伊予北条氏」 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206.htm#002
→「河野氏」 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206a.htm#002
→「河野氏(室町期以降)」 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206a.htm#003
→「林氏・稲葉氏」 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206b.htm#003
 
「林氏・稲葉氏」が重要で、齋藤・織田・徳川・池田・明智の戦国勢力が勢揃い。
さらに「宇多源氏吉田氏」 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051d2.htm#007
細川・明智・齋藤・稲葉・蜷川・角倉が繋がりますね。
ここに角倉財閥がある。
徳川政権をあやつった陰の豪商金座後藤家も、利仁流齋藤伊博の後裔。
相良氏は養子関係で池田氏・島津氏・徳川氏とは親戚。
[58]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月17日 22時57分29秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、御教示本当にありがとうございます。

島津家・・細川家・・長岡・・深水家・・何かが繋がっているような気がする・・
御教示を頂きその「何かが」の意味が自分なりに見えて参りました。

さらに「河野氏」「河野氏(室町期以降)」を拝見して、宮原村との繋がりが見えました。
以前コメントしましたが、宮原村は郷士の軒数が全体の半分を占める村。
宮原村の公人(藩士)は分限帳そして郷士の中の数十人の名が分限帳の補足資料に記録されています。
その中にあった「石川氏」・「野島氏」・「別府氏」の名が「河野氏」「河野氏(室町期以降)」の系図に見えます。

〉細川・明智・齋藤・稲葉・蜷川・角倉が繋がりますね。
「宇多源氏吉田氏」の系図を拝見しました。
以前から日本の苗字七千傑様より御教示頂いていた事ですが、実際に自分の親戚関係の調査を行った結果、やっと上記の系図の”意味”が理解出来ました。
本当にありがとうございます。

さらに、宮原村の公人(藩士)と西郷氏の関係も日本の苗字七千傑様の《菊池氏》姓氏類別大観を拝見して理解出来ました。
宮原村の公人(藩士)、通称地頭と呼ばれる家々「新堀氏」「宮原氏」「平河氏」「深水氏」他数名の中にあった名が「出田氏」です。
今は出田家は旧岡原村にはいらっしゃらないのですが、岡原霧島神社境内前の灯篭二基には其々「新堀」氏の名「出田」氏の名が刻まれています。こちらの灯篭は1700年代に中嶋霧島神社(宮原神社)に奉納されたものです。
「出田氏」と「西郷氏」は同族なのですね。さらに「岡本氏」「永里氏」も同族。
系図を拝見して「繋がり」がしっかりと見えてきました。

ところで
コメント51を書いた後、「島津家・・細川家・・長岡・・深水家」が、どうしても気になって調べたのですが、以下の事を知る事が出来ました。
細川家と深水氏 http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/92ecf1c1eac1d9b5d6833f56fb612903
勝手ながら転記させて頂きます。
深水氏については私は余り知識を持たない。人吉相良氏の一族だとされる。県南・水俣あたりが本貫の地らしい。
細川藩政時代はこの地方の惣庄屋等を務めていたようだ。

細川護久の生母が深水氏である。すなわち細川齊護の側室・田鶴である。齊護の11人の子女の内、護久と夭折した女・眞を産んでいる。
深水氏女、田鶴 天保十二年辛丑五月十九日卒ス 法号興願院 熊本西福寺ニ葬ル ィ(養母 峯) ィ(生母 家臣加藤氏養女 実ハ水俣氏女・乃婦 延)

その護久の側室が、深水氏女・縫である。護成、嘉壽、宣、志津の一男三女を産んだ。
高田泰史氏の御労作「平成肥後國誌」の「細川志津子」の項をみると、次のようにある。
深水頼寧三女・ヌイ 嘉永四年正月十九日水俣に於いて出生、大正十四年六月十九日没
慈雲院浄法妙充日洽大善尼 小沢町西福寺に墓がある
護成は47歳で死去、その継嗣が細川護立氏である。嘉壽は22歳、宣は21歳で死去した。
志津は明治19年、阿蘇惟孝と結婚したが 同30年に離婚復姓し、その後は海を臨む三角の細川別邸で過ごした。昭和7年没、61歳。
この母子は、志津の離婚後は一緒の生活をしたのではなかろうか。

江戸末期、「細川氏」と相良氏族「深水氏」には二重の姻戚関係があったのですね・・
※細川護久の生母が深水氏である。すなわち細川齊護の側室・田鶴である。
※細川護久の側室が、深水氏女・縫である。護成、嘉壽、宣、志津の一男三女を産んだ。

「椎葉家の源一おじいさんについて」を調査する事によって、様々な事が見えてきました。

日本の苗字七千傑様、今後ともご教示の程よろしくお願い致します。
ありがとうございました。
[60]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月18日 15時20分53秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。

椎葉のおじから聞いていた西郷隆盛氏からの手紙の内容についてですが、おじに聞くと、「西郷さんが源一おじいさんの父に”帰って来て下さい!”という内容だった」そうです。
つまり、その手紙(書簡)は何等かの手段を使って「源一氏の父」に送られてきた・・

椎葉のおじが記憶していた言葉があります。
書簡に書かれていた言葉は

「島津」「吉家」(何と読むのか解らないそうです)「深水」そして
「よしがい」もしくは「よしがえ」もしくは「よしがや」です。
「よしがい」もしくは「よしがえ」もしくは「よしがや」という言葉には「吉」の字が付いていたと言っていました。(子供の頃に見た文字ですが”吉”と言う字はしっかりと記憶していると言っていました)

上記の言葉をもとに検索していたのですが、すごく気になる記述を見つけました。
深水家文書 あさぎり町公式ページより
http://www.asagiri-town.net/q/aview/52/429.html

元、深水家は吉賀江姓。天正9年(1581)島津氏の北上によりに水俣城は落城。その時、城代犬童美作に従って上村に来住し、以来郷士として続いてきた家柄。

水俣・深水氏(本姓「吉賀江」)・上村・・
めちゃくちゃ気になるので椎葉のおじに今からこの事を伝えに行ってきます!

では!!
[61]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年12月18日 22時28分32秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>深水氏については私は余り知識を持たない。人吉相良氏の一族だとされる。
 
深水氏は、表面上は相良氏一族とされるが、実は豊前宇都宮氏族が真実。
宇都宮氏の家紋は、左三つ巴。 豊前深水氏は興房が始祖。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02007a.htm
 
豊前の深水氏は豊前宇都宮氏族、家紋は五つ瓜に左三つ巴。
肥後の深水氏も豊前宇都宮氏族、家紋は左抜け巴、三つ雁木扇。
 
深水は深見と通じ、豊前国下毛郡深水庄が発祥地。
[62]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月19日 13時04分30秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。

〉深水氏は、表面上は相良氏一族とされるが、実は豊前宇都宮氏族が真実。

すごく驚きました!

《豊前宇都宮氏》姓氏類別大観を拝見しました。
宇都宮宗房の子「興房」が豊前深水氏の始祖!
「成恒氏」も見えますが、豊前の「成恒庄」は・・相良氏と繋がる土地\(◎o◎)/!
相良長頼 コトバンクより
1177−1254 鎌倉時代の武将。
治承(じしょう)元年生まれ。源頼朝につかえた。元久2年畠山合戦の功で,肥後(熊本県)人吉荘の地頭に任命され,肥後相良氏の祖となる。さらに建長元年豊前(ぶぜん)上毛郡(福岡県)成恒名(なりつねみょう)の地頭に任じられた。建長6年3月10日死去。78歳。通称は三郎。法名は蓮仏。

相良定頼の父「相良頼広」に関係する土地!
相良 頼広 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%A0%BC%E5%BA%83
相良 頼広(さがら よりひろ、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。鎌倉幕府御家人。相良氏の第5代当主。第4代当主相良長氏の長男。通称は弥三郎。
嘉暦元年(1326年)、父長氏より家督を譲られ、鎌倉幕府より所領である人吉荘、成恒荘らの地頭職に任じられ継承した。しかし父が後見人として残って強い影響力があり、しばらくは惣領としての実権はなかったようである。
元弘の乱が起きると後醍醐天皇勢力に味方し、当時東国にいた[2]頼広は、元弘3年(1333年)の新田義貞の挙兵に馳せ参じて、鎌倉攻めに加わった。山田城主で一族の永留頼常[3]は、このとき奮戦して戦死している。しかし尊良親王が大宰府近くの山で九州の武士団を糾合する旨を出されたことから、頼広はこれに従って新田の陣を離れ、兵を率いて九州に下向した。
球磨から来た弟朝氏と祐長の手勢と合流して、少弐貞経の配下で尊良親王の警護の任についた。その後も度々出兵要請に応じて大宰府に兵を送った。これら功により朝廷は、人吉・成恒の相良家の所領を安堵する宣旨を下し、次いで、肥後国、豊前国の他の相良家所領についても安堵された。

\(◎o◎)/!「深水氏」「成恒氏」・・と言う事は・・
豊前宇都宮氏と相良氏は姻戚関係を持っていた!と言う事でしょうか!?

すると・・「深水氏」は・・中原氏とも繋がっている!!
こちらのスレッドを立ち上げて以来、祖母の先祖(平河氏)には「中原氏」の影が確実に見えるのに中々その事実を見つける事が出来ないでいたのに・・まさか!平川家に嫁いだ曾祖母の実家”深水氏”いえ「深水一族」に中原氏が繋がっていたとは・・

明治時代の親戚の調査から、日本の苗字七千傑様より御教示を頂き、そして、私がスレッドを立ち上げて以来最も知りたかった”真実”に繋がろうとしている・・
興奮して心臓がドキドキしています。

日本の苗字七千傑様、御教示本当にありがとうございました。

昨日、コメントした
〉元、深水家は吉賀江姓。天正9年(1581)島津氏の北上によりに水俣城は落城。その時、城代犬童美作に従って上村に来住し、以来郷士として続いてきた家柄。

あさぎり町のページを印刷して、早速椎葉のおじの所に行ったのですが・・
あの・・・
上村 麓の上記の”深水家”は・・
椎葉家の親戚でした!!!!!!!\(◎o◎)/!
ここでも腰が抜けるかと思うほど私はビックリしてしまったのです・・
おじは
「上村麓の深水家は親戚ばってん、ここが旧”吉賀江”姓とは知らんかった・・」
と言っていました。(もちろん、普通は「本姓」がとかいうような話は普段の生活や付き合いの中で一般的にはしないでしょう・・)
さらにおじは
「でも・・上村麓の深水家には子供の頃しょっちゅう泊まりに行っていたけど、ばあちゃん(椎葉のおじの母)は何も言っていなかったから、おそらく源一おじいさんの父が頼った”深水家”はここ(上村麓の深水家)じゃ無かったんじゃなかかな・・」
と推測していました・・
でも、椎葉のおじも今の所はよく解らないとも言っています。
椎葉のおじは「手紙(書簡)さえ残っていたら・・」とあらためて、口惜しそうに言っていました。
ちなみに・・源一おじいさんの妻の実家、「上村の犬童家」と「上村麓の深水家」はコレマタ親戚だそうです。上村犬童家⇔上村麓深水家

所で・・
椎葉家には明治時代発行の書籍が沢山残っているのですが、その中の三冊の写真を撮ってきたのでブログにアップしました。

一冊は「何と言うタイトルか良く解らない書籍」でして
二冊目は「真宗法要 頭書」と書かれた五巻の本?で
三冊目は本の題名に「二十四輩順拝記」という文字が書かれている本です。
全て明治時代に発行されているようです。

ただ・・
「真宗法要 頭書」と書かれた五巻の本と本の題名に「二十四輩順拝記」という文字が書かれている本なのですが・・
私がつい、椎葉のおじに「お寺見たい!?」と口走ってしまって・・
でも、椎葉のおじにも言ったのですが、こういう”本?”は当時一般家庭に普通に常備?していたものなのでしょうか???
その辺がよく解りません(?_?)

ご紹介した「椎葉家にあった三冊の本」について、皆様何か御存じでしたら、ぜひご教示の程よろしくお願い致します。

椎葉家の古い本の写真をアップしました、ブログアドレスです。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12107923495.html
[63]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年12月19日 14時17分01秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「深水一族」に中原氏が繋がっていたとは・・
 
中原氏とは朝廷と鎌倉幕府統合化の家系。
 
中原氏閨閥図を参照すれば、明解!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213.htm#003

幕府の補任状だけで天下を統治できるわけもなく、閨閥がこそが統治の要。
このような事実は、教科書的な歴史解説では絶対に辿り着かないことも当然。
[64]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月19日 22時35分08秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。

中原氏閨閥図を拝見致しました。
〉幕府の補任状だけで天下を統治できるわけもなく、閨閥がこそが統治の要。
このような事実は、教科書的な歴史解説では絶対に辿り着かないことも当然。

中原氏閨閥図を拝見し、あらためて、そこに繋がる「姓」を見ると「自分が今何に気づこうとしているのか」がよく解りました。

さらに《中原氏(親能以降)》姓氏類別大観を拝見すると・・
「田原氏」が見えます。
偶然かとは思いますが・・先日ブログにアップした曾祖母の実家「深水家」の新郎新婦の写真ですが、実は「深水家」と「田原家」の結婚になります。
《近藤氏》姓氏類別大観に進むと・・
三池氏・少弐氏・・
相良定頼并一族等所領注文を先日コメントしましたが
※肥後国球磨郡永吉庄半分 百七十五町 五百石 三百貫 平河左近允 頼尚跡 平河左近允頼尚とは少弐頼尚であり・・
※平河又三郎分 日向国真幸院引田貳拾町 頼尚跡
平河又三郎師里とは平河師里。頼尚とは少弐頼尚である・・

系図をあらためて見ますと・・
やはり・・全て繋がっているとしか思えないのですが・・

日本の苗字七千傑様、御教示本当にありがとうございました。
[68]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月20日 12時03分38秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

昨日、コメントした椎葉家の古い書物についてです。

ブログにアップした写真
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12107923495.html

一番上の「畜」という文字が「本の題名?」となっている書物については、調べてみたのですが、全く情報はネットにはありません・・(..)

しかし、「真宗法要 頭書」という書物?についてはネットに情報がありました。
京都女子大学図書館 OPAC より
http://lib.kyoto-wu.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/TW50011710?hit=-1&caller=xc-search
頭書真宗法要
フォーマット:図書
責任表示:顕道書院編輯局編
言語:日本語
出版情報:
京都:顕道書院, 1918
形態:4冊 ; 19cm
著者名:顕道書院編輯局

(p_-)上記には四冊とあるのですが、ブログの写真を見て頂くとお分かり頂けるように椎葉家には5冊ありまして、Bと付けた写真の濃いグレーの今風に言うとパッケージ?のような堅い紙に題名付きで包まれていました。
写真CとDはそのパッケージ?を広げた状態です。

写真Eを拡大して読んで頂くと解るのですが・・
「真宗法要 頭書」こちらは、僧の方がお読みになる「書物」のような気がするのですが・・(一般人が普通読む本なのかな・・???)

椎葉の源一おじいさんが、お寺様から頂いたのかな?とも推測したのですが・・
でも、何だか違うような気がして・・
「真宗法要 頭書」をネットで検索してみると・・一般家庭に普及した書物じゃないような・・貴重な書物のような・・

Fの写真。本の題名に「二十四輩順拝記」という文字が書かれている本ですが・・
こちらも、一般家庭に普及していたような書物ではないような・・?
近代デジタルライブラリにもデジタル公開されていました。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/822250

出版日が明治44年4月となっているので、まさしく椎葉家にある書物です。

Amazonでも検索したのですが
親鸞聖人二十四輩順拝記 − – 1911/1/1 大峰貫道  興教書院
という情報はありました。

辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書 より
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E8%BC%A9_%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E8%BC%A9%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81
二十四輩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/01/12 23:45 UTC 版)
全国に3巻現存する「二十四輩牒」が元となっている。時代が下り、親鸞の教えに背き誤った教義を広める者が増えたため、本来の教義を広め伝えるために、正しい教えを受け継ぐ直弟子を選出したものといわれている。数多い門弟から24人が選ばれた基準や経緯は不明な点も多く諸説あるが、いずれにせよこの24人が、関東における布教の上で重大な地位を占めていたことは間違いない。正慶元年(1332)、如信の孫である空如が大網の願入寺に覚如を招き、如信の三十三回忌法要を行った。この時に空如によって執筆された。

なお、長年の間に移転・再建を繰り返したり、元の寺から分流するうちに、二十四輩格を持つ寺院は180ほどに増えた。その後、「二十四輩会」によって正統の二十四輩寺院43ヶ寺が選定され、現在それらの寺院が二十四輩寺院を名乗っている。

(?_?)・・・・何故?椎葉家に「親鸞聖人二十四輩順拝記」があるのだろう??
「親鸞聖人二十四輩順拝記」は明治時代の一般家庭に普及した書物なのでしょうか?
ちなみに「椎葉家」はお寺ではありません(ー_ー)!!

他にも椎葉家にある古い書物なのですが
椎葉のおじが「すごく大事な本らしい」と言っていたのが
「植物事典」らしいです。すごくきれいな植物の手描きの絵や写真、そして植物の説明が書かれているそうなのですが・・
数年前まで他の書物と一緒に保管していたそうなのですが虫食いがひどくて、別の場所にしまったかもしくは捨てたか?、椎葉のおじは私に見せてあげたいと探してくれたのですが、先日は見つかりませんでした。
「何処かにあると思うので、もう一回探してみる!」とおじが言っていました。

ちなみに上記の植物事典?は私の父も子供の頃椎葉家で見た事があるそうです。
でも・・(?_?)何で植物事典が大事なのだろう???
おそらく明治時代に発行の「植物図鑑」で写真が載っているから貴重なのかな??と。

謎おおき椎葉家の古い書物の数々です・・(?_?)

私、いつもの妙な感なのですが・・”本”に何か意味があるのでは?と(マタマタ!!の合唱が・・聞こえたような・・(..))

でも、おそらく当時一般に皆様持っていらっしゃった本なのかもしれませんね。

私は知識不足です。皆様、どうかご教示の程よろしくお願い致します。
[69]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月21日 09時05分43秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

先日、ご紹介しました、椎葉家にずっと飾ってあります「西郷隆盛氏と成就院月照」の石版画の写真をブログにアップしました。

ブログアドレス
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12108556498.html

額に入れて大切に飾られています。
ちなみに、すぐ近くに「ミレーの落穂拾い」の絵も飾られているので、子供の頃は「椎葉の亡くなったおじいちゃんは絵が好きだったんだな〜」という風に単純に考えていました。(和洋折衷・・ですので、さらにこちらの石版画の内容ももちろん知らなかったので大切な石版画だった事は酒井様からの御教示でやっと解りました・・(..))

所で・・
先日、ブログにアップした深水家の写真についてさらに補足を・・
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12106070122.html

前列に着物姿で座って写っているちょっと渋めの男性は、椎葉の源一おじいさんの父違いの弟になる深水家の「源吾おじいさん」です。
永田家の娘であった私の曾曾ばあちゃん(高祖母)は源一おじいさんを連れて深水家に嫁ぎ一男二女を生んだ・・と以前コメントしましたが、平川家に嫁いだ私の曾祖母の弟が深水家を継いだ「源吾おじいさん」です。
「源一」「源吾」と「源」という文字が其々名前に付いています。

永田家から深水家に嫁いだ私の「高祖母」。
高祖母の実家、湯前の永田家の写真はかなり以前にこちらのスレッドでご紹介しましたが、あらためて(..)
山と音楽 上球磨南 というサイトに高祖母の実家が紹介されています。
サイトの一番下に洋風の高祖母の実家の写真がありました。
http://yamatoongaku.fc2web.com/kamikumaminami.htm

父からは「永田家」は江戸時代から「医者」だったと聞いているのですが・・
球磨に戻ってから、様々な文献を見ているのですが・・相良藩時代の球磨に「医者の永田家」の記述は無くて・・????と・・
私の勝手な推測なのですが・・
永田の御先祖様は、「球磨・人吉」の医者だったのかな??と。
別の場所で「医者」をしていたのでは?と。
(父は、「それは勝手なお前の推測だろ!真実を知りたければちゃんと調べなさい!」と言っています・・)
父に「明治時代からの医者?じゃないの??」と尋ねるのですが(うちの宮原家に新堀家から嫁いできた「宮原の曾祖母」の兄弟は明治時代に医院を開業しているので・・)
父は「違う!江戸時代からだ」と・・・??
父の言うように真実を知りたいのでもっと調査してみます(..)

今朝は「源一おじいさん」の弟「深水の源吾おじいさん」と、高祖母の実家「永田家」の写真を御紹介しました。

では(^'^)
[70]白石さんからのコメント(2015年12月21日 22時16分46秒 ) パスワード

こんばんわ
おひさしぶりです。弟は逝ってしまいました。静かな眠るような最後でした。
前日夕方までいて いつもとかわらずの状態なので 長丁場になると思い 大阪に帰って 翌日昼でした。

行ったとき 「姉ちゃんが来たデー。もうこわくはないからな」というと こくんとうなづいていたので 意識はちゃんとあったのです。その後 私の方ではなく どこかをむいて 何か ○▽※★□ ○○※※☆☆ などと 意味不明の言葉を何語か発しているので 

「えっ 何?何?」と聞いても 答えず 唇に 小さなスポイトで水をたらすと
ばちっと 目を開けて 私を見てはげしくかぶりをふりました。

職場でそのことをいうと 死期を悟るという言葉があるけど それかな? お父さんお母さんが迎えに来たんじゃないか? と 言っていました。
不思議なことでしたが 安らかに逝って よかったです。

こんどは 兄です。過去からの心配ごとに酒たばこにおぼれた結果のことで どうして ここまで とは 思いますが こうなれば 
限られた生活の中で最大限の楽しみを ・・・ と 思い

来春 陽気がよくなれば 花見にでも 繰り出そうと 計画中です。
会えば悪態ばかりを口に出すようになって あんな兄ではなかったのに と 悲しいことですが・・・

子孫様 
弟様の闘病生活も ながきにわたり さぞ おつらいことと お察しします。
寝ている方の 体を動かすことも 自由にできないつらさ が ですね。
おこころ 強く 励ましてさしあげて 下さいませ。
[71]白石さんからのコメント(2015年12月21日 22時33分32秒 ) パスワード

「畜」の字
わかりませんが
その下のは 樺山でしょうか?
この 姓なら 
篤姫をたどると 確か ありましたね。

華族でしたね。

深水は宇都宮であり 中原
なるほどです。私の家は系図がない
ので しらべようがありませんでしたが、母(佐田)は 山口出身なので四浦に知り合いはないと思っていましたが 

同級生の二人いた 深水さんが いやに なつかしそうに 学生時代接してくれていたのです。あのころは
子孫様おっしゃっていた 
80代以上くらいの人のいうことを 聞くと良いですよ
というとおり
それくらいの人がまわりに たくさんいて 
うちの場合 父母の遅いときの子がわたくしなので 
今なら 100才くらいの人の話をきく
[72]白石さんからのコメント(2015年12月21日 23時13分05秒 ) パスワード

またパソコンがおかしいです。
100才くらいの人の話をきくべきでしょうが 皆 いってしまって
私が前にコメントしていたのは その頃の古老からの話を聞いて 書いたものです。
お寺様や神社からとか うちの佐田の本家からいただいたものとかの お手紙だったり・・・そして 私が入院している間に 夫が家探ししたみたいで家の中で行方不明でしたが 二〜三日前に ひょっこり 一部がでてきまふした。

深水は深見に通じて いる。
深見は渤海の 読み。
深水は細川氏と姻戚関係を持つ。
細川も島津もサダで金だと 過去に見た本にあった。

私 前からうすらうすら と 高姓。(王姓)と金姓・(紀姓)のせめぎ合い(姻戚関係)だと思っていましたが やはり・・・という感がいたします。

はるか昔につながっていくのですね。

永田の爺様が 私の飛び火を治してくれた話。他のスレッドだったとは思いますが この話を書いたことがあります。何か草をたいたものをぱたぱたとやはり草でたたきながら皮膚につけてくれて ふっ ふっ と ふいて はい 終わりでしたが 

何か 知識があったのでしょうね。









[73]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年12月22日 12時48分50秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

白石さんへ
 
深見氏は渤海王高歓の苗裔と伝え、始祖高寿覚は明の福建の人。慶長年間に薩摩へ来たり、島津家久に仕える。
 その後福建に帰るが子の但有は薩摩へ再来して島津光久に仕え、始め渤海を称してのち深見に改称する。
 渤海の訓読みがフカミなるにより称すると伝える。貞恒は徳川家宣に仕え儒者となり、代々幕臣となる。
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03018.htm
[74]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月22日 13時03分16秒 ) パスワード

白石様

弟様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

白石様もご心労より身体を壊される事のないように
お気を付け下さい。

>来春 陽気がよくなれば 花見にでも 繰り出そうと 計画中です。

きっとお兄様もお寂しいのでしょう。
かけがえのない御兄妹ですから、白石様が帰って来られる来春の花見を楽しみにお待ちの事だと思います。

年末年始と女性は家の事など大忙しとなりますが、
お身体御無理なさらないようにして下さい。

[75]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月26日 17時50分20秒 ) パスワード

皆様、こんばんは(^'^)

日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。
>深見氏は渤海王高歓の苗裔と伝え、始祖高寿覚は明の福建の人。慶長年間に薩摩へ来たり、島津家久に仕える。
 その後福建に帰るが子の但有は薩摩へ再来して島津光久に仕え、始め渤海を称してのち深見に改称する。

渤海=ふかみ=深見
渤海王高歓 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%AD%93
高 歓(高 歡、こう かん、496年 - 547年)は、中国の南北朝時代の北魏末から東魏にかけての権臣。北斉の基礎を築いた。字は賀六渾。本貫は渤海郡蓨県(現在の河北省景県)。
※本貫は渤海郡蓨県
渤海郡 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%83%E6%B5%B7%E9%83%A1
勃海郡(ぼっかい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。現在の河北省滄州市一帯に比定される。
前202年、前漢により幽州の下に勃海郡が設置される。後漢が成立すると冀州に移管された。386年(登国元年)、北魏により渤海郡と改められた。
渤海=訓読みで「ふかみ」

「渤海」という「土地」がとても気になりました・・北斉とは離れますが「渤海(国)」にも興味が湧きまして・・
「渤海と日本の関係」についてウィキで少しだけ勉強致しました(..)
渤海 (国) ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)

日本との関係[編集]
詳細は「渤海使」および「遣渤海使」を参照
渤海と日本の関係は当初は新羅を牽制するための軍事的性格が強く、唐に対抗するため奈良時代から日本に接触した。唐から独立した政権を確立した渤海であるが、大武芸の時代には唐と対立していた。その当時の周辺情勢は黒水部は唐と極めて親密な関係にあり、新羅もまた唐に急速に接近しており渤海は国際的な孤立を深めていた。この状況下、大武芸は新羅と対立していた日本の存在に注目した。727年、渤海は高仁義ら[2]を日本に派遣し日本との通好を企画する。この初めての渤海使は、日本に到着した時、当時の日本で蝦夷と呼ばれていた人々によって殺害され、生き残った高斉徳他8名が出羽国海岸に漂流し、翌年聖武天皇に拝謁した。この年引田虫麻呂ら62名を送渤海客使として派遣するなど軍事同盟的な交流が形成された。しかし渤海と唐の関係改善が実現すると、日本との関係は軍事的な性格から文化交流的、商業的な性格を帯びるようになり、その交流は926年渤海滅亡時までの200年間継続した。 日本海側の、金沢、敦賀、秋田城などからは渤海との交流を示す遺物が発掘されている。

文化[編集]
渤海は唐に対して何度となく使者を送り、それに付随して留学生を唐へ送り文化を吸収させ、持ち帰らせた。この事により渤海の上層部は儒教的な教養を得、それを元に国政に当たったと思われる。
前述したように日本との通使も行われており、初期は新羅・唐に対する軍事的な牽制の意味合いが強かったが後半になると儀礼的・商業的な意味合いが強くなっていった。実態は別として渤海からの使節を日本は朝貢であると認識しており、日本側は渤海側の使者を大いに歓待をしており、この財政的負担がふくらんだために後期では12年に1回と回数の制限も行われている(遣渤海使)。また、その際に日本との文化交流が積極的に行われている。一例として菅原道真と渤海の使者との間で漢詩の応酬が行われたとの記録がある。
宗教的には仏教の信奉が篤く、首都上京の遺跡からは多くの寺・仏教関係の建物が発見されている。
渤海文化は唐の影響が非常に強いが、靺鞨文化の継承もされており、他には高句麗文化の影響も窺える、三つの文化から独自の文化を作り出している。
教育制度[編集]


渤海使 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E4%BD%BF
渤海使(ぼっかいし)は、渤海より日本を訪問した使節である。728年から922年までの間に34回(このほか遼による派遣が1度)の使節が記録に残っている。
渤海は698年に大祚栄により建国されたが、大武芸の時代になると唐や新羅と外交的に対立するようになり、これらの勢力を牽制する目的で日本への遣使が計画された。初期には軍事同盟としての色彩が強い使節であり、また日本側もこれを朝貢であると捉え、使節を非常に厚遇している。
しかし大欽茂の時代になり、唐との融和が図られる時代になると軍事的な意味合いは薄れ、もっぱら文化交流と経済活動を中心とした使節へとその性格を変化させていった。特に問題となったのは朝貢貿易の形態を取ったことで、これにより渤海からの貢物に対して日本側では数倍の回賜でもって応える義務が生じ、渤海に多大な利益をもたらした。日本側は、朝廷の徴税能力が衰え、使節供応と回賜のための経費が重荷となった後は、使節来朝を12年に1度にするなどの制限を加えたが、その交流は渤海滅亡まで継続した。
唐渤関係の安定化に伴い、日唐間の交通の仲介として機能した。
貿易品目[編集]
8世紀後半以降はもっぱら北方産の獣皮と日本から繊維製品や金・水銀の交易が主目的。

遣渤海使 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E4%BD%BF
遣渤海使(けんぼっかいし)とは、日本が渤海に派遣した使節であり、728年から811年までの間に14回(うち1回は渤海経由の遣唐使。このほか操舵手等の派遣が1回。)の使節が記録に残っている。

(..)北斉ではありませんが、「渤海国」にも興味が湧きまして・・というか
「渤海」=訓読みで「ふかみ」この事がとても気になりました。

日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございました。

[76]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年12月27日 14時45分47秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

日本の苗字七千傑様、白石様、酒井様
本スレッドへの御親切な御教示ありがとうございます。

新しいスレッド「平川家について28+1」を立ち上げました。

皆様のお陰で今回のスレッド「平川家について28」においても様々な知識を習得させて頂きました。
ありがとうございます。
今後とも御教示の程よろしくお願い致します。

新スレッド「平川家について28+1」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101506.html
に続きます。
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