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 投稿番号:101413 投稿日:2015年01月28日 22時31分34秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について22

コメントの種類 :その他  パスワード

先祖の調査も新たな局面?をむかえました。

皆様の温かいご教示のお陰です。
本当にありがとうございます。

これからも、どうぞよろしくお願い致します。

こちらは平川家について21より続きます(^・^)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101407_79.html

[1]子孫よりさんからのコメント(2015年01月29日 07時58分29秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

今、手が震えてコメントを書くのが精いっぱいです。

衝撃の事実を見つけました。

結論から言うと
宮原の先祖「橘公綱」と平頼綱(父:平盛時”または平盛綱”)は父違いの兄弟です。母が同じとなります。

橘姓藤崎氏系図(公綱以降詳細あり)を桜島町史にて見つけました。
こちらはネットに公開されています。
私は、間違っていたようです。

梶原景時の孫であり、梶原景高の娘である女性を後妻としたのは「橘公業」
橘公綱の妻は南部実継の娘。
では橘公綱の母であり橘公員の妻であった女性は・・豊田五郎景基の娘。平頼綱と母同じ・・となっています。

こちらのサイトの「126」ページに詳細が載っています。
http://www.city.kagoshima.lg.jp/var/rev0/0047/3651/2012510162537.pdf

(二)藤野村藤崎家 の項です。
麓横山の史料は、大正噴火で消滅したといわれる。爆発時の火災で三分一が焼失した藤野の藤崎家に、若干の史料が残されているのでそれを基に叙述する。
「藤野・藤崎家文書について」は、五味克夫教授が『鹿大史学』第三二号で紹介している。藤崎家系図は、藩の記録所へ提出中、元禄九年(一六九六)焼失、藤崎氏の手許に残した控により、新系図が藩から下付されている。系図は橘姓藤崎氏系図」として、「人王三十一代」敏達天皇にはじまる。
以下この系図を紹介する。なお、前半公氏までは略系図とした。

※五味克夫教授が『鹿大史学』第三二号で紹介している。
こちらの情報を私が見つけていたようです。
こちらの鹿児島市のサイトに記載された系図は「公氏」までは略系図となっていますが『鹿大史学』にはすべて記載されているのでしょう。

橘公綱においては詳細が記載されていますので転記します。

八郎、従五位下佐渡守、法名公円
宝治元年誕生、母豊田五郎景基女、平頼綱ト母ハ同ジ

※平頼綱は平盛時または平盛綱の子供。
皆様、すでにお解りと思いますが、前スレッドでご紹介しましたように
尼妙阿(相良長頼の姉または妹)は本来「良峰氏女」と呼ばれて「平河氏」に嫁いだとなっていたのですが・・
尼妙阿の夫であった可能性高い人物は「平盛綱」であり、妙阿は「平永綱」こと相良頼員(犬童氏の祖)を産んだ・・という事にもなっています。

先祖「橘公綱」の母であり、平頼綱の母でもあった女性「豊田五郎景基女」
橘公綱は平頼綱と異父兄弟であった・・

「豊田五郎景基女」・・豊田五郎景基とは何方なのか?
調べます・・

では(._.)
[2]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年01月29日 14時07分43秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>橘姓藤崎氏系図
 
藤崎氏と言えば、阿部姓、清和源氏武田氏族ほか多く存在する。
橘姓小鹿島氏族の藤崎氏を補訂しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201d.htm
宮原氏と同祖の公綱が祖。
 
羽後の藤崎氏は阿部姓ですが、橘姓新荘氏と関係がありますね。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208a.htm#003
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201a.htm
 
いずれも羽後小鹿島との関連濃厚でしょう。
羽後からの地名遷移じゃないかな?
秋田と飽田も偶然じゃないでしょう。
肥前松浦郡にも小鹿島が有り、松浦党の中にも安倍(阿部)姓系あり。
小鹿島系の後裔は肥前に栄えていますね。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01053a.htm
[3]子孫よりさんからのコメント(2015年01月29日 16時50分46秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

さらに、早急なご対応も、本当にありがとうございました。

阿部氏。前スレッド平川家について21コメント55 56でも書かせて頂きましたように
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101407_80.html

平河の一族か?と言われた三位房。
三位房日進。この方を調べた際に「御宇多天皇の御代、建治3年6月8日(1277年)宗祖日蓮大聖人の中老僧の1人三位阿闍梨日進上人の開山。日進上人は嵯峨源氏安倍貞任の後裔である。」
という記述がありました。

平川家について21コメント55では、こちらから安東氏の調査を行っていました。
「羽後の藤崎氏は阿部姓ですが、橘姓新荘氏と関係がありますね。」
拝見して、確信しました。おそらく、祖父の兜は後世に対するメッセージが込められているのでは?と・・
※安倍貞任の3才の次男高星丸は、津軽平川郡(現、青森県藤崎町)に旧臣と共に逃れ、その子孫が十三湊に居城を構えたという。そして、安倍氏季の娘、露姫が、平泉から藤原秀衡の弟、秀栄を婿に迎えた時に、「安東」と改姓したと言われている。
※安東蓮聖は、津軽半島の十三湊(とさみなと)を本拠地として、大和生駒で神武天皇に滅ぼされた長髄彦の兄、安日彦(あびひこ)が、一族の先祖だと伝え・・
※長髄彦 安日彦 この方々の妹が「鳥見屋媛」
※鳥見屋媛(御炊屋姫)は饒速日尊(越智氏・物部氏・穂積氏の祖)の妃。

球磨には以前、コメントしましたように「白鳥」の地名が数多く残っています。

「羽後からの地名遷移」秋田と飽田そして「藤崎」
全て、繋がっていたのですね。

ところで、「橘姓新荘氏」ですが橘為政 敏政 輔政は兄弟ですね・・
藤崎系図に書かれていた橘公長より遡った系は、私には意味が全く解りませんが、(為政 → 行平 → 行長 → 公盛 → 公長)ただ、本来は「行順」は伊予橘氏である橘遠保の子となっている・・この事から考えて「橘為政」「橘行平」と伊予橘氏「橘遠保」とは、何らかの繋がりがあったのでは?と素人ながらに推測したのですが・・さらに、以前からとても気になっていた「矢野氏」にも繋がりが・・
でも、私の中のDNAは確かに「物部の血」を強く感じます・・
元越智姓「橘遠保」。この方が大きなカギとなるのでしょうか・・??

ただ・・橘行平。この方の名を見て思い出した事があります。
平川家について12コメント12で調べていた事です
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101362_88.html

少し転記いたします。
============================================
以前、「須恵の平等寺」を調べていた時に、検索すると何度も「京都の平等寺」が出てきて・・
気になるので「京都の平等寺」の情報を見たのです。
「平等寺」
平安時代、1003年、橘行平が私邸(高辻烏丸南東方一町)に薬師仏を祀り、仏寺としたのが始まりという。行平の孫・光朝(橘則光の子)が初代の寺務となったという。(「因幡堂縁起」(山城名勝志))

平等寺には・・
小督局(こごうのつぼね)の遺品がこのお寺に伝わっています。

小督の琴、蒔絵硯箱(まきえすずりばこ)、
小督の髪を織り込んだ「毛髪織込光明真言」

小督局とは信西の娘(孫でした)ですね。

=========================================
小督局は藤原通憲(信西)の三男 藤原成範の娘ですね・・

さらに・・
《融流源氏》姓氏類別大観を拝見して、気がついたのですが・・
以前、見つけていた情報の中に「???」という物がありまして・・

古代文化, 第 59 巻 より
摂津渡辺党遠藤氏上西門院(統子)文覚の弟橘公広平知盛の家人橘公長の近親者
?????
ただピックアップされただけと思いまして、コメントしていなかったのですが、一応「文覚」と言う方は勉強いたしました。
文覚 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%A6%9A
文覚(もんがく、保延5年(1139年) - 建仁3年7月21日(1203年8月29日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。

摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19才で出家した。
京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。 のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺[1]、高野山大塔、東大寺[2]、江の島弁財天[3]など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。 また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する[4]。
頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、 頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、 三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流される。 通親の死後許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、 さらに元久2年(1205年)、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した[5]。

(゜-゜)
※父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)
※摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身
※文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。

日本の苗字七千傑様の【藤原式家】姓氏類別大観 から《遠藤氏》を拝見したのですが・・
こちらの系は以前拝見していました。
球磨の平等寺「永厳上人」を調べている時に、こちらも見ていました。
ただ、「永厳上人」は俗姓は平(たいら)。字(あざな)は平等房。通称は下野法印。下野守 平師季息。
と言う事で遠藤氏系図の「永厳」と言う方とは「別人」だ・・と、ここで終っていたのです・・

ただ・・今、あらためて拝見すると稲生氏の系に「平賀姓」も見えて・・少しモヤモヤしています。

朝、発見した
先祖「橘公綱」の母であり、平頼綱の母でもあった女性「豊田五郎景基女」
橘公綱は平頼綱と異父兄弟であった・・

ここまで、繋がっていたとは夢にも思いませんでした。
追跡調査を続行いたします。

では(._.)
[4]子孫よりさんからのコメント(2015年01月30日 12時38分50秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

早速ですが・・
「長崎氏」・・

私が先祖調査を始めたばかりの頃、1年以上前になりますが・・
日本の苗字七千傑様に「長崎県」の「長崎」の名の由来をご教示頂いていました。

今、考えると・・本当にビックリしています。

もしかしたら・・日本の苗字七千傑様こそが、先を見通す「能力者」であったりして・・\(◎o◎)/!

それに・・白石様は今まで、何度も「甲斐源氏」についてご教示されていました・・白石様にもビックリです\(◎o◎)/!

もしや・・お二人に私の先祖の「導き」が伝わっていたのかも・・・(+o+)

ところで・・

豊田五郎景基という方ですが、「長尾景基」。この方なのかな??と?
【桓武平氏良茂流】梶原氏と同じ「鎌倉氏」からの系ですよね・・

上杉頼成の妻が長尾景基の娘ですね。子供に長尾藤景。
長尾藤景の娘は長尾景為(景能の子)の嫡男「長尾景忠」に嫁いでいますが、「長尾景忠」の母は「佐原明連」の娘です。
「佐原明連」は三浦盛時の孫、義連の玄孫・・となります。
(゜-゜)佐原氏とも繋がっているのですね・・

豊田五郎景基とは「長尾景基」なのでしょうか??
時間軸などが合っているのか・・?

もう少し調べてみたいと思います。
では(^・^)

[5]子孫よりさんからのコメント(2015年01月30日 23時27分52秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

昨日、発見した
「先祖「橘公綱」の母であり、平頼綱の母でもあった女性「豊田五郎景基女」
橘公綱は平頼綱と異父兄弟であった・・」

この事実ですが、先日、日本の苗字七千傑様からも
「大江、大友など鎌倉幕府の中枢が養子や改姓などで、
巧妙に真実を覆い隠したのでしょう。」・・と伺い、きっとこちらに上記の「大江氏」「大友氏」などの方々が関係しているのでは?と・・・

調べてみたのですが・・やはり繋がっていました。

平頼綱の妻は大江広元のひ孫である「飛鳥井 雅有」の娘でした。
飛鳥井 雅有 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E9%9B%85%E6%9C%89
飛鳥井 雅有(あすかい まさあり、仁治2年(1241年) - 正安3年1月11日(1301年2月20日))は、鎌倉時代の公家・歌人で羽林家の飛鳥井家の当主。初名は雅名。父は飛鳥井教定。母は北条実時女、『尊卑分脈』では源定忠女。子に雅顕。養子に雅孝。 父の教定とともに関東祗候雲客諸大夫の一員として、鎌倉幕府に信用され、京都・鎌倉で活動した。

父の飛鳥井教定 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E6%95%99%E5%AE%9A
系譜
氏族 飛鳥井家
父母 父:飛鳥井雅経、母:大江広元の娘
妻 北条実時の娘、源定忠の娘
子 雅有、忠輔、宗有、基長、娘(二条為氏室)

と言う事で平頼綱の妻は大江広元のひ孫「飛鳥井 雅有」の娘でした・・
とのお話でした・・
では(^・^)
[6]子孫よりさんからのコメント(2015年01月31日 10時06分46秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

・・・・・・・(-.-)あの・・気がついたのです・・
おそらく、私は、先祖や先祖に繋がる方々の行った巧妙な隠ぺいに危なく”ひっかかる”所でした(+o+)

「それでも子孫か!!(^◇^)わっはっは〜」と遠いお空の先祖の笑い声が響いてきたような・・(@_@。

ではご説明致します。(p_-)

私が危なく引っかかりそうになった巧妙な隠ぺいのキーマンは「平盛時」。この方です。

二人の「平盛時」と言う方のトリック?に騙される?所でした・・(きっと・・いえ、おそらくですが(+_+))

実は、昨日から今朝にかけて、様々な情報を見ていて、疑念が生じたのです。
一般的には長崎氏の系は
平盛綱 → 平盛時 → 平頼綱  となっている記述を目にします。

でも、時間軸が変だ(p_-)と言う事に気がつきました。
その証拠?が・・平河の訴訟状です。

前スレッド平川家について21 コメント66をもう一度ご覧いただきたいのですが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101407_80.html

転記します(p_-)
●文治3年6月16日 源頼朝、天野遠景に、「平河師高」の所領を安堵するように命じる。
★脚注あり。 
弘安6年7月3日の関東下知状(「肥後平川文書」『鎌倉遺文』)に「曾祖父平河三郎師高右大将御時、文治3年給安堵御下文、伊豆藤内遠景令成施行畢」とあり、遠景が頼朝の安堵を施行している。
この下知状によると平河良貞は文治3年6月16日の遠景宛ての盛時奉書案とこれを施工した遠景の「同年12月月状案」を提出している。他の例からこの盛時奉書案には源頼朝の袖判があったと考えてよいだろう。また、文治5年7月17日の遠景宛ての盛時奉書案も提出している。

●文治5年7月17日 源頼朝、天野遠景に、平河師貞を京都大番役で上洛させるよう命じる。
★脚注あり。
この文治5年7月17日の遠景宛ての盛時奉書案には「御判在」と注記があるので頼朝の袖判があったのであろう。
内容は「平河次郎師貞為謹京大番、所令上洛也云々詮取」であった。

(゜-゜)日付を見て下さい
※文治3年6月16日・・・1187年6月16日
※文治5年7月17日・・・1189年7月17日
※弘安6年7月3日の関東下知状(訴訟時)・・・1283年7月3日

(゜-゜)平盛時の「盛時奉書案」は1187年〜1189年のものです。

平盛綱が亡くなったとされる時期はウィキでは「仁治3年(1242年)に出家して隠退。『吾妻鏡』により、建長2年(1250年)3月には既に死亡していることが知られているが、詳細は不明である。法名は盛阿。」とあります。
1187年〜1189年と言えば、建長2年(1250年)から逆算すると約60年前。
平盛時が平盛綱の子供であれば・・亡くなる60年前に「盛時奉書案」なるものを作成する事が出来る子供がいたと言う事で・・
(?_?)???ううん?15歳で子供が出来たとして・・「盛時」が20歳の時に「盛綱」この方は35歳で・・それが60年前であったとしたら・・没年が「95歳」・・
これが最小年齢だと思うので・・・(ー_ー)!!ありえない。

でも(^・^)日本の苗字七千傑様の【桓武平氏維盛(駿河守)流】姓氏類別大観をもう一度確認して「納得」しました(^・^)
「平盛時」は「平盛綱」の子供ではなく「父」ですね!!
平河の訴訟副進として提出された「盛時奉書案」を書いた平盛時とは平盛綱の「父」であったと言う事ですね(^・^)

(?_?)と言う事は一般的に言われている情報?たとえば・・
平盛時 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E6%99%82_ (%E5%BE%A1%E5%86%85%E4%BA%BA)
平 盛時(たいら の もりとき)は、鎌倉時代中期の武士。北条氏得宗家の御内人。侍所所司。鎌倉幕府執権、北条泰時・経時・時頼に仕える。系譜ははっきりしないが、平盛綱の子で、平禅門の乱で知られる平頼綱の父と推定されている。
生涯[編集]
史料上の初見は安貞2年(1228年)10月15日、将軍藤原頼経に進上する馬を曳く記録である。その後も歴代執権の椀飯で馬を引く役目を務めている。嘉禎2年(1229年)、鶴岡八幡宮の弓始義で射手を務める。

(゜-゜)史料上の初見は安貞2年(1228年)10月15日・・・平河の「盛時奉書案」は1187年〜1189年のもの・・40年以上前ですね・・??

続けます(-.-)
暦仁元年(1238年)、将軍頼経の上洛に随兵として従う。延応元年(1239年)、九条道家の病気見舞いに頼経の使者と共に上洛。寛元2年(1244年)4月、頼経からその子頼嗣への将軍交替を伝える使者となって上洛する。同年8月15日、新将軍・頼嗣の鶴岡放生会に供奉。
寛元4年(1246年)の宮騒動では諏訪盛重・尾藤景氏らと共に執権時頼に近侍し、将軍側近の使者に対して時頼との面会を拒絶している。騒動後の寄合に加わって事件処理を行う。翌年の宝治合戦後は侍所所司として諏訪盛重と共に罪人の尋問や三浦一族自害の様子を目撃した承仕法師から事情聴取を行い、恩賞問題や三浦遺族の戦後処理にあたった。
正嘉元年(1258年)正月、御弓始の射手となる。同年将軍宗尊親王の仁所詣随兵の奉行。弘長元年(1261年)、三浦義村の子大夫律師良賢を逮捕。近衛宰子御参の供奉人を奉行。
弘長3年(1263年)には出家して平左衛門入道と称し、子息の1人が将軍宗尊親王上洛の随兵に選ばれている。

(゜-゜)
※正嘉元年(1258年)正月、御弓始の射手となる。・・・
うんがっ!!(?_?)1187年〜1189年に「最年少」で考えて20歳としたら・・90歳以上・・(?_?)
90歳以上で御弓始の射手となる。・・(?_?)\(◎o◎)/!めっちゃお元気!!
※弘長元年(1261年)、三浦義村の子大夫律師良賢を逮捕。近衛宰子御参の供奉人を奉行。・・・
(?_?)\(◎o◎)/!・・95歳でマダマダ現役!!\(◎o◎)/!ものすごいパワー!!

(ー_ー)!!う〜〜〜な事がある訳ありません(ー_ー)!!

ここに書かれている「平盛時」とは・・本当はいったいどなただ〜〜〜〜〜〜〜〜っ\(゜ロ\)(/ロ゜)/

(-.-)「馬」さんに関係して・・弓が上手で・・(-.-)何処かで聞いた事がある内容ですね(-.-)

「隠ぺい」にはおそらく、大友氏・大江氏・中原氏など鎌倉幕府中枢部そして・・私の先祖も関係しているのでは?と思います・・

でも・・ちょっと「ヤリスギ」ですね・・100歳近い方に弓を引かせたり、逮捕劇に登場させたり・・
何だか、この「隠ぺい」には、私の中のDNAが強く関わっているような気がします・・(私がやりそうな事です・・(-.-))
本物の「平盛時」様には申し訳ないのですが・・コメントを書いていて、だんだん可笑しくなって、笑いすぎて涙が出てきました(@_@。

ふと考えたのです・・
こうなるには理由があるのかな?と。
おそらく、「宮原」の先祖や「平川」の先祖、いえ(ー_ー)!!多数の方々が「西光」に繋がる別の「平盛時」という人物の関わりを消そうとしたのでは・・と。

そこで、探したのですが・・
いらっしゃいました!!「左衛門尉平盛時」を名乗る人物が!!
三浦盛時。すなわち「佐原盛時」。この方です。

三浦介盛時  皆様、ぜひ、じっくりご覧ください。
http://www1.ka6.koalanet.ne.jp/souma/miurasoryo6.htm

三浦氏八代当主。佐原遠江守盛連の五男。母は矢部禅尼禅阿(三浦義村の娘)。妻は北条修理亮時員娘。通称は五郎、三浦介。官位は従五位下。官職は左衛門尉、相模介。法名は浄蓮。

盛時の生年は不明だが、母の矢部禅尼(三浦義村娘)は、かつて北条泰時の妻であり、北条修理亮時氏の母である。つまり北条時氏と盛時は異父兄弟ということになり、時氏が生まれたのが建仁3(1203)年であることから、その後に生まれたことになる。
中略・・
矢部禅尼は「始め左京兆室となり故修理亮を生む。のち盛連室となる。光盛、盛時、時連等母たり」とあり、盛連の子のうち、光盛、盛時、時連が矢部禅尼の子であったと推測される。
(゜-゜)三浦盛時の弟が「佐原時連」法名”観蓮”。
平河の訴訟に関連した人物が”観蓮”。平河師高を「曾祖父」と呼んだ人物です。

(゜-゜)続けます
中略・・承久4(1222)年1月7日の結城左衛門尉朝光の椀飯で、射手として「佐原太郎(経連)」が列している。盛時の長兄であり、盛連の子の初出である。彼の母親も「駿河守義村女」とされ(『系図纂要』)、矢部禅尼以前にすでに盛連は義村女と婚姻関係にあったのかもしれない。なお、彼はのちに陸奥国会津猪苗代に本拠を構え、猪苗代氏の祖となる。経連は安貞2(1228)年3月9日の由比ガ浜での犬追物でも射手として参加しており、弓の名手であった。また、彼の「経連」という諱は将軍・藤原頼経よりの偏諱と考えられることから、はじめは盛連の嫡子として扱われていたことが察せられる。

(゜-゜)弓の名手だったのですね・・
中略・・
西園寺公経と三浦惣領家は親密な関係を持っていたことが知られているが、庶流の佐原家もこの洞院流藤原氏と関係を持っていたことがうかがえる。

サイトの洞院藤原氏系譜をご覧ください
http://www1.ka6.koalanet.ne.jp/souma/miurasoryo6.htm

(゜-゜)
※昨日、コメントした飛鳥井教定の娘は「二条為氏室」
平頼綱(宮原の祖橘公綱の異父兄弟)の妻は大江広元のひ孫「飛鳥井 雅有」の娘。飛鳥井 雅有と「二条為氏室」は兄妹です。
※洞院実明の兄「洞院実泰」の妻は藤原兼高(母:藤原師高の娘) のひ孫です。
※宇都宮頼綱の妻は「梶原景時」の娘。
橘公業の妻であり橘公員の母であった「梶原景高」の娘。
すなわち宇都宮頼綱の妻と橘公員の祖父「梶原景高」は兄妹です。
※さらに・・西園寺公経。

私は、今日、重要な事に気がつきました。
西園寺公経の祖父「持明院基家」についてです。
西園寺公経 父:藤原実宗 母:持明院基家の女

持明院基家 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E6%98%8E%E9%99%A2%E5%9F%BA%E5%AE%B6

系譜を見て下さい ここです!!
妻:平頼盛の娘
男子:持明院保家(1167-1210)
女子:持明院陳子(北白河院)(1173-1238) - 後高倉院妃、後堀河天皇母
女子:藤原実宗室・・西園寺公経の母

男子:持明院保家(1167-1210) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E6%98%8E%E9%99%A2%E4%BF%9D%E5%AE%B6
官歴を見て下さい!!
※嘉応3年(1171年)正月6日:従五位下に叙爵(上西門院久寿元年御給)。
※承安4年(1174年)正月21日:加賀守に任ず(父基家秩満替)。
     8月2日:従五位上に叙す(上西門院御給。朝覲行幸賞)。
※安元元年12月29日(1176年2月11日):侍従に任ず。去加賀守。
※治承3年(1179年)11月16日:重任。

お解り頂けますか!!
加賀守の期間です!
※承安4年(1174年)正月21日:加賀守に任ず
※安元元年12月29日(1176年2月11日)去加賀守。
※治承3年(1179年)11月16日:重任。・・資料によればここで再度「加賀守」となります。

持明院保家が「去加賀守」となった1176年2月11日。以降に加賀守となった人物は・・「藤原師高」です!!

持明院保家の母は平頼盛の娘。人吉庄預所「平光盛」とは兄妹ですね・・

長くなりましたが、最初にご紹介した
三浦介盛時 http://www1.ka6.koalanet.ne.jp/souma/miurasoryo6.htm

最後にこちらの記述を転記します。
寛元4(1246)年12月5日、「左衛門尉平盛時」が「陸奥国糠部郡五戸」の「地頭代」職を得ているが、この「平盛時」は佐原盛時であろうと推測される(『宇都宮文書』)。

(゜-゜)別の「平盛時」という人物を調べたら・・
結果・・「宮原の先祖」にも、”観蓮”という人物にも「梶原景時」にも「二条為氏」にも「洞院流藤原氏」にも「平頼盛」にも「西園寺公経」にも「飛鳥井雅有」にも「宇都宮頼綱」にも、「持明院基家」にも・・皆みんな・・そして「藤原師高」にも・・皆みんな・・繋がりました・・

もう、偶然ではないですよね・・
では(゜-゜)

[7]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年01月31日 17時35分58秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

物部姓→中原姓→橘姓楠木氏の繋がり。
二重、三重に緊密に繋がっているということですよ。
 
物部大新河の後裔が繋がっていますね。
物部氏族置始連の後裔は俊永、俊風に至り、中原に改姓。花田苗字を称す。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02113c3.htm
 
後裔の花田氏は寛政譜の江戸幕臣橘姓花田氏であり、楠木正盛の裔花田正久が祖。
http://www.cyclopaedia.asia/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E7%9B%9B
花田正久は大饗正久のこと。改姓や改苗で事実がぼかされるのですよ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201c.htm#003
[8]子孫よりさんからのコメント(2015年01月31日 23時31分47秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
※物部氏族置始連の後裔は俊永、俊風に至り、中原に改姓。花田苗字を称す。
※後裔の花田氏は寛政譜の江戸幕臣橘姓花田氏であり、楠木正盛の裔花田正久が祖

すべて繋がっているのですね。中原俊永 中原俊風は実は「置始氏」であった・・

《置始氏》姓氏類別大観そして《楠木氏正儀流》姓氏類別大観を拝見いたしました。
気がついたのですが楠木正勝の子「正真」この方は「柏原氏」。

霧島神宮を中興した宮原の先祖、橘公資(橘公綱の子)三男・・真言密宗兼慶法印
霧島山略縁起には
「真言密宗兼慶法印[柏原備前守橘公資三男也、]当山を中興せり」
とあり「柏原」がとても気になっていたのですが、楠木氏正儀流にも「柏原氏」という事ですね・・

楠木氏についての記述を読んだのですが・・「長崎氏」とは繋がっていたのですね。

楠木氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%B0%8F

中略・・
東国武家集団が北条得宗家の被官として、赤松氏と共に播磨や摂津・南河内・和泉など北条氏の守護国などの得宗領に移住し、そのまま土着したとする説もある。『吾妻鏡』によると、楠木氏は元は関東にいた御家人で、玉井氏・忍氏・岡部氏・滝瀬氏ら武蔵七党の横山党や猪俣党と並ぶ家柄であり、もともとは利根川流域に基盤をもつ東国武士の有力集団の一派だったという。また、駿河国入江荘楠木村(現静岡市清水区)を出自とする武士とも言う。鎌倉幕府が1293年に楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したという記録があるうえ、当時幕府の有力御家人だった長崎氏の出自は楠木村の隣の長崎郷で河内に領地を保有していた。その関係で楠木氏が河内に移ったと言う。1333年の公家の日記に「楠木の根は鎌倉に成るものを……」と言う落首が記録されていることも楠木氏が元々東国の出身だったことを意味していると言われている。なお、現在も清水区には「楠」「長崎」の地名が残っている。(古文書には「楠木」、「楠」両方出てくる)。

※幕府の有力御家人だった長崎氏の出自は楠木村の隣の長崎郷で河内に領地を保有していた。その関係で楠木氏が河内に移ったと言う。1
※現在も清水区には「楠」「長崎」の地名が残っている。

(゜-゜)そうか・・
ご教示本当にありがとうございます。
実は・・どうしても頭の中で長崎氏 「平盛綱」「平頼綱」と先祖「橘公綱」の「縁」が理解できなかったのですが、ご教示を頂いたお陰で、しっかりと見えました。

「二重、三重に緊密に繋がっている」
中原姓に改姓した物部氏族置始連の後裔、「俊永」「俊風」花田苗字を称す・・→・・後裔の花田氏は楠木正盛の裔花田正久が祖。

上記を伺って、先祖「宮原」「平河」が繋がっている「家々」の意味が理解できました。

ありがとうございました(^・^)

[9]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年02月01日 11時50分33秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>楠木氏は元は関東にいた御家人で、
 
武蔵国橘樹郡に居た。
現在は川崎市の橘樹神社や市立橘高校に地名をとどめる。
 
向こう山吹の家紋使用家は橘姓に限られる。
武蔵橘氏、花田氏(楠木正盛裔)、岩下氏(物部姓風早連裔)、岡本氏(橘姓)、小林氏(橘姓)などが使用。
勿論他の家紋も使用するが、皆同族ということ。

称橘姓岩下氏→ http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02113b.htm#005
[10]子孫よりさんからのコメント(2015年02月01日 23時23分24秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

楠木氏は元は関東にいた御家人・・武蔵国橘樹郡に居た・・という事ですね。

岩下氏(物部姓風早連裔)。調べたのですが・・

長楽寺永禄日記
https://books.google.co.jp/books?id=WiPIrDPZ1wIC&pg=PT65&lpg=PT65&dq=%E5%B2%A9%E4%B8%8B%E3%80%80%E4%B9%8B%E6%88%BF&source=bl&ots=tMi2eX0UcQ&sig=qWTG1dDoC3mHsmkUuANwVUpzhyY&hl=ja&sa=X&ei=3S3OVKW_JeW1mwWxl4GwAw&ved=0CB0Q6AEwAA#v=onepage&q=%E5%B2%A9%E4%B8%8B%E3%80%80%E4%B9%8B%E6%88%BF&f=false

こちらにある岩下之房の「実は弟」である「之峯」の子「長久」の記述に
「長久 治右衛門 長崎又助某が養子。」
とありました。
橘姓となった岩下氏も「長崎氏」と養子縁組を結ぶような関係であったという事ですね・・

そして・・
武蔵国橘樹郡についてですが、 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B9%E9%83%A1

中世[編集]
鎌倉時代
秩父平氏の流れをくみ源頼朝の御家人となった稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり、- 1205(元久 2)年)が、桝形城に拠点を構え、北部一帯を治めるようになる。なお、現在の川崎市北部地域は摂関家の荘園であり、その荘官として治めたともいわれる。この頃より江戸時代まで、橘樹郡北部は稲毛領(いなげりょう、または「稲毛荘」)と呼ばれるようになる。
現在の川崎市南部地域は河崎領(かわさきりょう)などと呼ばれており、秩父党および横山党の諸勢力が拠点を置く。
現在の鶴見区周辺は鶴岡八幡宮の社領であり、「鶴見郷」または「大山郷」と呼ばれる。

(・_・)稲毛三郎重成・・娘は宇都宮頼綱の妻でした。
宇都宮頼綱の妻は・・ 
稲毛重成の娘(先妻)北条時政の娘、梶原景時の娘
「稲毛重成」と「宇都宮頼綱」は繋がっている・・・
宇都宮頼綱の子供は・・
時綱、横田頼業、泰綱、益子政綱、多功宗朝、
藤原為家の室、三条実房の室、笠間時朝
※藤原為家の室となった娘は二条為氏の母

このコメントを書いていて、気がつきました。
※平頼綱(宮原の祖橘公綱の異父兄弟)の妻は大江広元のひ孫「飛鳥井 雅有」の娘。飛鳥井 雅有と「二条為氏室」は兄妹
※藤原為家の妻(宇都宮頼綱の娘)は二条為氏の母。
※宇都宮頼綱の妻と橘公員の祖父「梶原景高」は兄妹
※橘樹郡北部は稲毛領。稲毛重成の娘は宇都宮頼綱の妻。

(・_・)まさしく「二重、三重に緊密に繋がっている」という事ですね。

日本の苗字七千傑様から頂いたご教示により、新たな事実を理解する事が出来ました。
ありがとうございました。(^・^)
[11]子孫よりさんからのコメント(2015年02月02日 09時37分46秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

「宮原」の祖でもあり「藤崎氏」の祖でもあった、先祖「橘公綱」。

「橘姓藤崎氏」
肥後国飽田郡藤崎庄を発祥の地とする橘姓の藤崎氏。公綱が藤崎氏を称する。この一族は薩摩・大隅にもあり。

※肥後国飽田郡藤崎庄
と聞くとピンとこなかったのですが・・よ〜〜く考えると(..)・・
藤崎八旛宮。・・調べていませんでした・・(えええええええっ!!とのあきれた声が何処から??)

調べて解ったのですが、藤崎八旛宮の創建の際より「橘氏」はご縁がありました。
幾つかのサイトをご紹介致します(^・^)

http://yumeko2.otemo-yan.net/e597660.html
ピックアップして転記致します。

藤崎八旛宮創建
社記によると、承平5(935)年、第61代朱雀天皇が平将門の乱[注1]平定を祈願され、山城国男山石清水八幡宮(やましろのくにおとこやまいわしみずはちまんぐう、京都府八幡市)を国家鎮護の神として、肥後国飽田郡宮崎庄茶臼山(現・藤崎台球場)に勧請創祀(そうし)された九州五所別宮[注2]のひとつである。
創建年については承平2年説、承平3年説があり、勧請についても宇佐八幡宮を勧請したとの説もある。

茶臼山に鎮座の日、勧請の勅使・左少弁 平宗定(さしょうべん たいらのむねさだ)が藤の鞭を三つに折って、三ヵ所に埋めたところ、やがて鞭から芽が出て枝葉が繁茂したので、ここを『藤崎』と名付け、社殿が築造されたと伝えられる。

中略・・
注2]九州の石清水五所別宮
 ・肥後藤崎宮 藤崎八旛宮
 ・筑前大分宮 大分八幡宮(だいぶはちまんぐう) 福岡県飯塚市大分1272
 ・筑紫千栗宮 千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう) 佐賀県三養基郡みやき町大字白壁字千栗
 ・薩摩新田宮 新田神社(にったじんじゃ) 鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2
 ・大隅正八幡宮 鹿児島神宮(かごしまじんぐう) 鹿児島県霧島市隼人町内2496

ご祭神
応神天皇 住吉大神 神功皇后

※神功皇后(じんむこうごう)
木造女神座像(もくぞうめがみざそう)(国指定重要文化財)
髪を垂れ宝冠を頂き、膝の上の両手には蓮華台の宝珠(ほうじゅ)を捧げ持っている。女神像の胎内には応永25(1418)の黒書名が残っているという。

藤崎宮の名称『八旛宮』
藤崎八旛宮は八幡の代わりに八旛の字を当てている。
天文11(1542)年、後奈良天皇宸筆(しんぴつ)[注3]の勅額を賜り、その文字に『八旛藤崎宮』とあったことによるものである。明治以降は常時『八旛』の文字を用いるようになった。

(・_・)『八旛』に関係した方が「橘能員」という方です。(後ほど別のサイトでご紹介いたします)
藤崎八旛宮境内 荒人社(あらひとしゃ)
祭神 左中将 橘能員神霊
由緒 神託により之を祀る、本宮創祀の際、神輿を奉じ総官として下向、其のまま神官に補任。社家の長官たり。
例祭 12月1日

続けます(・_・)

肥後国守らの尊崇(そんすう)
創建以来、国家鎮護の霊験(れいげん)あらたかな社として、また武運を守る神を祀る社として、朝廷はもとより時の国守らの尊崇厚く、多くの人々の信仰を集めた。その間、幾度も火災や暴風に遭ったが、その都度、勅命により当時の支配者が修築してきた。

・菊池武光 造営1357年
・鹿子木親員(かのこぎちかかず) 造営1522年
・加藤清正 神領寄進
清正は神領100石を寄進し、朝鮮出兵に際しての戦勝祈願と無事凱旋によって100石加増した。
・細川氏 神領寄進

(・_・)※鹿子木親員(かのこぎちかかず) 造営1522年
ここで・・鹿子木親員(かのこぎちかかず)のちの寂心(じゃくしん)・・
寂心さんの樟(じゃくしんさんのくす)
http://yumeko2.otemo-yan.net/e380198.html

ピックアップして転記致します。
熊本県の指定天然記念物  寂心さんの樟(じゃくしんさんのくす) 
幹回り 13.5m、樹高 29m、枝張りは東西 47m、南北 49mにおよぶ樹齢800年の大木。
戦国時代、菊池氏の重臣であり、現在の熊本城の南側に位置していたといわれる『隈本城』の城主となった鹿子木親員(かのこぎちかかず)のちの寂心(じゃくしん)の墓をその根元に巻き込んでいると伝えられていることから、『寂心さんの樟』と呼ばれるようになりました。

寂心(じゃくしん)さん
鹿子木(かのこぎ)氏は鎌倉幕府の斉院次官・中原親能の後背で鹿子木荘の地頭として頼朝の命を受けた三池貞教が姓を鹿子木と改め室町時代の明后五年十代目鹿子木寂心が隈本城に移るまで統治した。

寂心は三河守観員と称し入道して厳松軒寂心と号し楠原城を本拠地として飽田託摩玉名山本の五百六襦つ町を領した。

豊後の大友氏と親交を結び肥後国の中心人物で紛争仲介など国内安定に尽力し寺社の後興や造営を行い謡曲『檜垣』『藤崎』等を作り和歌も四百残されており文武に秀いでた中世の豪族である。

この樹齢800年の大楠に墓石が巻き込まれており里人はこの樹を『寂心さん』と呼び毎年1月11日は命日として神事を行い北迫地区の政事の始まりとして敬んでいる。(現地案内板より)

(・_・)皆様、もうすでにお気づきでしょうが・・
「楠原城」は・・平河の先祖「良峰安則」が居住していた跡地に建てられた「城」であります・・・
「楠」「檜」「楠原」「橘」「鹿子木氏」「藤崎」・・全ての”言葉”が繋がっているような気がしています・・

(・_・)八旛藤崎宮公式サイトの中に境内にある「楠」の描かれた絵縁起が紹介されていました。
http://fujisakigu.or.jp/shrine/

藤崎八旛宮絵縁起
画面は七段からなり、絵巻物のかたちを一幅のなかに上から下にならべる。
第一段 平将門の乱を描く
第二段 八幡神勧請、藤を持つ勅使の行列を描く
第三段 藤崎八旛宮の建立、鐘を地中に見出し、
第四段 鐘桜にかけるところ。磐座や藤井垣の藤、楠の大樹も描く
第五段 南北朝時代の菊池氏と文禄慶長の役の加藤清正を描く
第六段 御神幸を描く
第七段 放生会を描く

(・_・)こちらのサイトもご覧下さい
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hachi-fujisaki.html

社名・藤崎の由来について、縁起では「当社鎮座の日、勅使の持つ藤の鞭を三つに折り三ヶ所に挿して、奇瑞によって神宮の感応を求めたところ、此処に挿した鞭に枝葉が生じたので藤崎と名づけて宮居を定めた」とある。しかし、旧社地が和名抄にいう“宮前郷”にあること、古墳の上にあったことなどから、藤崎宮勧請以前から宮(神名不明の地主神)があったと思われ、事実、古図によれば本殿の右側に「御崎殿」との社名が記されているという。なお、現藤崎宮社殿の脇にも「御崎社」があり、地主神を祀ると説明されている。

※末社
 神域左右の境内には末社9社(10座)が並んでいる。(画面をご覧ください(..))
◎荒人社
 本宮創祀のとき、御輿を奉じ総官として下向、そのまま神官に任ぜられ、
 社家の長官だった左中将・橘能員を祀る

(・_・)藤崎宮秋季例大祭より
http://plaza.rakuten.co.jp/nakadake/008001/

藤崎八旛宮の「旛」:八幡宮は一般に「幡」と書くのに、藤崎宮は「旛」と書いている。なぜだろうか。それは石清水八幡宮を分請下向した時、即ち藤崎宮の起源であるが、三位左中将橘能員らが供奉した神輿の前後に「旛」を立てて神幸行列を盛んにしたことから「旛」と書くようになった。後奈良天皇奉納の鳥居の額も「八旛藤崎宮」なっている。ちなみに「幡」は矢旗のような半巾の薄い旗をいい、「旛」は刺繍した大巾の厚みのある旗のことである。

(・_・)

三位左中将橘能員という方を調べてみたのですが・・未だ何方なのか解りません。(..)

「後奈良天皇宸筆の勅額」

後奈良天皇 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%A4%A9%E7%9A%87

後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇(在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))。諱は知仁(ともひと)。
後柏原天皇の第二皇子。母は、勧修寺教秀の娘、豊楽門院・勧修寺藤子。
系譜を拝見したのですが・・
今までの調査で確認出来た「姓」の方々がずらりと・・

後柏原天皇 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%A4%A9%E7%9A%87
後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、寛正5年10月20日(1464年11月19日)- 大永6年4月7日(1526年5月18日))は、室町時代、戦国時代の第104代天皇(在位:明応9年10月25日(1500年11月16日) - 大永6年4月7日(1526年5月18日))。諱は勝仁(かつひと)。
後土御門天皇の第一皇子。母は、庭田重賢の女、庭田朝子(蒼玉門院)。
典侍:勧修寺藤子(豊楽門院)(1464-1535) - 勧修寺教秀女

「後柏原」は、桓武天皇の別称柏原帝にちなむ。

(・_・)すごく長くなりましたが

「肥後国飽田郡藤崎庄を発祥の地とする橘姓の藤崎氏。公綱が藤崎氏を称する。この一族は薩摩・大隅にもあり。」
という事から「藤崎八旛宮」を調べました・・というお話でした・・

では(^・^)
[12]子孫よりさんからのコメント(2015年02月02日 15時10分52秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

朝、藤崎八旛宮についてをコメントさせて頂いたのですが・・

実は、今年の正月、球磨に帰省している時に、私が急に思い出した事があって、父と叔父と従弟と大盛り上がりになったのです。
それは・・
私が中学一年生の時に、親戚の結婚式が藤崎八旛宮でありまして、その時に、いまや、りっぱな3児の父となった従弟がまだ、3歳くらいで、私は従弟の子守担当となり、披露宴の間、少しぐずったら、外に出て境内で一緒に遊び、機嫌が戻ったら、中に入りの繰り返しをしたのです・・
その事を思い出して、話したら、従弟が「その節はお世話になりました(..)」と覚えていないのに言うので・・皆で大笑いをしたのでした・・(^・^)

今年の正月、元旦でのお話です・・
思えば、元旦から藤崎八旛宮の話をしていたのだな〜〜っと・・

所で、もう一つ・・
あまりの偶然に驚いている事があります。
藤崎八旛宮で私が子守?をした従弟の「兄」。すなわち、私の3人の従弟の長男(オーストラリア在)の子供の名前は「マサシゲ」です。従弟が子供の頃から尊敬する「楠木正成」の名にあやかって「マサシゲ」と付けています。

この頃の調査で解った事を考えると・・最も驚いている事の一つです。

では(^・^)
[14]子孫よりさんからのコメント(2015年02月04日 22時11分29秒 ) パスワード

白石様へ(^・^)

白石様、明日から、入院とお伺いしましたが、お身体の方はいかがですか。
入院中は、検査の連続など、とても大変だと思いますが、しっかりと治療をお受けになって、お元気なコメントを頂く事をお待ち致します。

宮原の先祖と「宇都宮氏」との繋がりが見えてきました。
このような形で、白石様のご先祖様と、繋がっていくのだろうと、今はとても楽しみです。

先日も書きましたが、今度、球磨でお会いしましょうね(^・^)

では(^・^)
[15]子孫よりさんからのコメント(2015年02月05日 10時01分03秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

一昨日は、節分、そして昨日は旧暦の元旦でした(^・^)
思い出すとこの時期、祖母が生前、毎年星まつりに伺い、お札を頂いて私に送ってくれていたのでした。
「今年は、あなたは白星とか黒星とかハン黒(半?)だ」とか、言って、いろいろ説明してくれていたのですが、その時はあまり意味が解りませんでした・・
でも、今考えると祖母は私(孫)やひ孫の幸せを毎年祈ってくれていたのだな〜と・・とても感謝しています。
あの時代に、感謝の気持ちをしっかりと持っていれば、もっと話を聞いていたのにと、後悔するばかりです。

そう思いながら、ふと・・
星まつり・・妙見信仰・・あっ!宮原三宮社!と・・
何だか、急に宮原三宮社が気になりはじめまして・・あらためて、今までの調査を確認したのですが・・

まず・・宮原三宮社についておさらいを(..) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8E%9F%E4%B8%89%E7%A5%9E%E5%AE%AE
宮原三神宮(みやのはらさんじんぐう、みやはらさんじんぐう)は、熊本県八代郡氷川町にある神社である。旧社格は郷社。八代北部全域の守護神として尊崇されている。
由緒[編集]
1159年(平治元年)、二条天皇の勅命により、平重盛が越中前司平盛俊に命じて社殿の造営がはじまる。1161年(応保元年)、社殿が竣工。平盛俊の弟である平盛房を社司に任じ、勅使平重盛らと共に神輿を報じて神霊を勧請し創建された。伊勢神宮内宮(天照大神)、日吉大社(国常立命)、下鴨神社(神武天皇)の3神を祀ったので三宮社と称した[1]。
1588年(天正16年)、キリシタン大名小西行長の焼討ちにより社殿が焼失した。1602年(慶長6年)、加藤清正公により復旧し、後の細川氏より手厚い保護を受ける。1661年(寛文元年)、神蔵寺をはじめ六坊が建立され、八代の妙見宮にならい宮原妙見社となる。
明治維新以降、神仏分離令により、神蔵寺を廃し、社号を宮原三神宮と改称し、郷社に列した[2]。

年表[編集]
1159年(平治元年) - 二条天皇の勅命により社殿の造営がはじまる。
1161年(応保元年) - 社殿が完成し、伊勢神宮内宮、日吉大社、下鴨神社の神霊を勧請、創建。はじめは、三宮社といった。
1588年(天正16年) - キリシタン大名小西行長の焼討ちにより社殿が焼失。
1602年(慶長6年) - 加藤清正により、復旧する。
1624年(寛永元年) - 以降、細川氏より手厚い保護を受ける。
1661年(寛文元年) - 神蔵寺をはじめ六坊が建立され、八代の妙見宮にならい宮原妙見社となる。
明治維新以降 - 神仏分離令により、神蔵寺を廃し、社号を宮原三神宮と改め、郷社に列する。[3]
御祭神[編集]
天照大神
国常立尊
神武天皇

(・_・)
※1159年(平治元年)、二条天皇の勅命により、平重盛が越中前司平盛俊に命じて社殿の造営がはじまる。
※1161年(応保元年)、社殿が竣工。平盛俊の弟である平盛房を社司に任じ、勅使平重盛らと共に神輿を報じて神霊を勧請し創建された。
※1161年(応保元年) - 社殿が完成し、伊勢神宮内宮、日吉大社、下鴨神社の神霊を勧請、創建。はじめは、三宮社といった。
※1661年(寛文元年) - 神蔵寺をはじめ六坊が建立され、八代の妙見宮にならい宮原妙見社となる。
(・_・) 最初は三宮社と呼ばれていて・・後に宮原妙見社・・明治維新以降に社号を宮原三神宮と改める・・

宮原城
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/miyanohara-jyo/
歴史
詳細不明。天正年間(1573年〜1592年)に相良家臣の宮原左衛門尉橘公忠が在城していたという。
宮原城は三宮社(宮原三神宮)の南側一帯に築かれていたという。現在は宅地や田畑となって遺構はないが、「浜殿」の地名が残る。 未確認だが、城主の宮原公忠の奥方の墓が隣の氷川町有佐に残っている。

三宮社は応保元年(1161年)に越中前司平盛俊の弟平盛房を兵庫頭従四位に叙し社司に任じて勧請したものという。
城主 宮原公忠(宮原40余町を治めたとの事です・・)

(・_・)宮原三宮社は現在の八代郡氷川町(八代郡竜北町と宮原町が合併)ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E7%94%BA
地名[編集]
旧竜北町
網道(旧和鹿島村) 鹿島(旧和鹿島村) 鹿野(旧和鹿島村) 島地(旧和鹿島村) 大野(旧吉野村) 新田(旧吉野村) 高塚(旧吉野村) 吉本(旧吉野村) 河原(旧野津村) 野津(旧野津村) 若洲(1967年、干拓地より新設)
旧宮原町
今 栫 立神 早尾 宮原(合併時、宮原村より改称) 宮原栄久(合併時、宮原町より改称) 有佐(1955年、鏡町より編入) 中島(1955年、鏡町より編入)
※「鹿島」・・名跡が残っているのですね・・「中島」先祖の調査をしていると「中島」という地名をよく目にします。
私の故郷、球磨郡旧岡原村宮原にあった神社も「中島霧島神社」です・・

(・_・)
越中前司平盛俊の弟平盛房・・そして先祖宮原公忠。
平盛俊 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E4%BF%8A
父母 父:平盛国
兄弟 盛俊、盛信、盛久
妻 厳島内侍
子 盛綱、盛嗣

系は違いますが・・こちらも「父は盛国」で子供に「盛綱」。(あ〜〜〜何かモヤモヤします・・)

※平盛俊の弟平盛房。 平盛房は「平業房」の父でした。
コトバンクより 平業房
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E6%A5%AD%E6%88%BF-1086790

没年:治承3.12(1179)
生年:生年不詳
平安末期の後白河院の北面の武士。斎院次官平盛房の子。後白河法皇の寵妃高階栄子(丹後局)の前夫。ふたりの間には業兼,教成ら数子がある。治承1(1177)年に鹿ケ谷の変で平清盛に捕らえられたが,法皇の再三の請いによってひとりだけ放免され,同3年に正五位下左衛門佐となる。その出世は妻の存在によるところが大きいが,自身も今様を学び,下北面から身を起こして院に近習し,「御寵人」とまでいわれた。同年11月の清盛のクーデタで解官され,伊豆へ配流されるが途中で逃れ,再び捕らえられて殺された。<参考文献>米谷豊之祐「後白河院北面下臈」(『大阪城南女子短大研究紀要』11号)

(・_・)
※宮原三宮社の社司「平盛房」の子「平業房」。
※平業房の子「教成」は藤原家成の子「藤原実教」の養子となり「山科家」を継ぐ。
※藤原実教の子「公長」の妻は「藤原師高」の娘。
※平業房の娘(「教成」の兄妹)は藤原長方(妻:信西の娘 藤原師高の娘)の子「藤原宗隆」の妻。
※平盛房は「平盛国」の子「平盛俊」の弟。こちらの「盛国」この方は父:平盛康(または平盛遠、平季衡)。
※「平盛俊」の子供に「平盛綱」(高橋左衛門尉)
※先祖「橘公綱」と異父兄弟であった「平頼綱」。父は「平盛綱」(三郎兵衛尉)。祖父は「平盛時」で曾祖父は「平盛国」。
(先ほどの平盛俊。こちらの系とは違いますが・・)
※後世において・・平盛房が社司を務めた八代の「三宮社」南側一帯の宮原城に居城した先祖「宮原公忠」(橘公綱末裔)・・

(..)何だか本当にモヤモヤします・・・
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏維盛(駿河守)流】姓氏類別大観を拝見しました。
\(◎o◎)/!平盛俊と平盛房は兄弟ではありません!!

(?_?)(p_-)・・・もしや私のモヤモヤは的中しているのでは・・(p_-)???

とにかく「盛綱」「盛国」というお名前が、先祖の調査をしていると「至る所」に登場するのです???

※平頼綱の父や曾祖父「盛綱」「盛国」という方々。
※平河に嫁いだはずの妙阿の夫と呼ばれた方が「平盛綱」。
※先ほどご紹介した「平盛俊」の系と言われた「盛綱」「盛国」・・こちらの方々
※小笠原長経の妻の父「藤原邦綱」の父も「右馬権助・藤原盛国」・・盛国で、藤原盛国の父も「藤原盛綱」・・盛綱です・・??

(・_・)補足ですが「右馬権助・藤原盛国」の母は「源頼国の娘」。
源頼国の娘は、他の方々が「師実妻は左大臣家忠(花山院家祖)、為房妻は参議為隆(吉田家祖)、権中納言顕隆(葉室家祖)らをそれぞれ生んだ・・」

※左大臣家忠の子は・・藤原忠宗 尋覚(平河師高に関わりあり) 養子:藤原家光(須恵小太良こと藤原家基の父) - 橘俊綱の子
(?_?)という事は・・「藤原邦綱」の父「右馬権助・藤原盛国」と藤原家忠と藤原為隆と藤原顕隆は従兄弟という事ですね・・
(みなさん、今までの調査で登場して、平河の訴訟内容から解った系に繋がっていました・・???)

もとに戻りまして・・
何故か?私の祖父方「宮原」の先祖と、祖母方「平川」の先祖を調査すると、沢山?の「盛綱」「盛国」という「別々の系」の方々に遭遇?してしまうのです・・

(?_?)(p_-)・・もしや?まさか?これも?い・ん・ぺ・いに関わっていたりして・・まさか(ー_ー)!!ですよね・・

だって・・平家物語にもちゃんと書かれている内容もありますし・・
そういえば・・平家物語も気になる所があるのですよね・・(..)・・でもマサカ(ー_ー)!!ですが・・

先日から気になって・・平家物語の作者はどなた?なのだろう?と思ってしらべたら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E
作者については古来多くの説がある。最古のものは鎌倉末期に成立した吉田兼好の『徒然草』で、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする記述がある[1]。
「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。」(徒然草226段)
その他にも、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したことや、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなど、その記述は実に詳細である。
この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(はむろときなが、藤原氏)が作者であるとされている。尚、藤原行長とする説では「信濃前司は下野前司の誤り」としているが、徒然草では同人を「信濃入道」とも記している(信濃前司行長=信濃入道=行長入道)。

(・_・)・・・あれっ?!平家物語の作者と言われる方は・・
藤原顕時の孫にあたる・・藤原行長もしくは葉室時長。
藤原顕時・・藤原顕時の祖母は先ほどお話した源頼国の娘です・・
      妻は藤原信輔の娘。藤原信輔の妻は藤原家光の娘、すなわち球磨の須恵小太良こと「藤原家基」の兄妹です・・
葉室時長・・葉室時長の曾祖母は藤原信輔の娘
藤原行長・・母美福門院女房藤原行兼女。藤原行兼(基信)は藤原信輔の伯父です。(藤原信輔の父「藤原経忠と藤原行兼(基信)は兄弟)

何だか、上記の方々は、今までの調査で何度も登場した方々で・・・・
(ー_ー)!!何も考えないようにします・・

という事で。長くなりましたが、今朝は「星まつり」だな〜(*^_^*)・・と思ったら、最後は「こうなりました・・(..)」というお話でした・・

では(・_・)
[16]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年02月06日 22時39分08秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>平家物語の作者と言われる方は・・
藤原顕時の孫にあたる・・藤原行長もしくは葉室時長。
 
顕時ー時光ー時長ー光遠
 
一般的には時長が平家物語の作者とされるが、系図纂要に拠れば光遠が平家物語作者とされる。
 
行長、時長、光遠ほか複数の作者による合作が真実かと思われる。
[17]子孫よりさんからのコメント(2015年02月07日 00時39分42秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「行長、時長、光遠ほか複数の作者による合作が真実かと思われる」

全国各地に残る伝承を皆様、苦労して聞き集めたのでしょうね・・

ウィキには上記の方々以外に
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E

親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とする説がある。この西仏は、大谷本願寺や康楽寺(長野県篠ノ井塩崎)の縁起によると、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む海野小太郎幸親の息子で幸長(または通広)とされており、大夫坊覚明の名で木曾義仲の軍師として、この平家物語にも登場する人物である。ただし、海野幸長・覚明・西仏を同一人物とする説は伝承のみで、史料的な裏付けはない。

※海野小太郎幸親の息子で幸長(または通広)
海野 幸親 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%87%8E%E5%B9%B8%E8%A6%AA
出身は中原氏(中原広季の子)で、義仲の乳母父中原兼遠と兄弟で初めは中原兼保と名乗ったという説や、木曾義仲の四天王の一人根井行親と同一人物とする説があるなど、今もなお謎の多い人物である。

(・_・)
関連項目[編集]
人物[編集]
覚明…源義仲の右筆。
中原信康…源義経の右筆。
これら右筆が書いた合戦記が平家物語に採用されたと見られている。
史料[編集]
『吾妻鏡』 - 鎌倉幕府編纂の歴史書。平家物語と同時期の出来事を描く。
『玉葉』 - 同時代の大臣である九条兼実の日記。
『愚管抄』 - 天台座主慈円による史書。

※中原信康 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E5%BA%B7
中原 信康(なかはら の のぶやす、生没年未詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の文官。信泰とも記される。大外記・中原有象の後裔で、少内記・中原信仲の子とする系図がある[1]。源義経の右筆。官職は少内記。

安元年(1176年)正月、算道の挙により左京進に任じられる。その後源義経の右筆となり、壇ノ浦の戦いの合戦記をまとめ、鎌倉の源頼朝の元に届けられた事が『吾妻鏡』(元暦2年(1185年)4月11日条)に見られる。これ以前の源義仲追討の際には義経や源範頼ら大将軍からの報告は口頭で行われ、頼朝から不興を買っており、それ以降右筆の存在が重視された。また、義経は畿内近国の武士に関わる訴えや寺社・権門に関する内政・軍政にあたり、多くの事務をこなす必要性から、文筆の才を持った信康が義経に雇われて合戦に従軍し、義経の推挙によって内記に任じられたと見られる。義経の失脚後、文治元年(1185年)に「結構衆」(企てた者たち)の一人として、頼朝の要請により解官された。
『平家物語』に義経の合戦記録が多いのは、信康の合戦記録が採用されたためと見られている。また、腰越状を執筆した可能性も指摘されている。

(・_・)
※壇ノ浦の戦いの合戦記をまとめ、鎌倉の源頼朝の元に届けられた事が『吾妻鏡』(元暦2年(1185年)4月11日条)に見られる。

(・_・)壇ノ浦の戦いの合戦記をまとめた方は「中原信康」。この方だったのですね。

「複数の作者による合作」というお言葉を伺い、あらためて調べてみました。
ご教示、ありがとうございました(^・^)

[18]子孫よりさんからのコメント(2015年02月07日 23時27分51秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

昨日から今日にかけて、様々な記述を見つけて、何からコメントしようか・・と悩む程なのですが・・

まずは、私にとってこれまた「衝撃の事実」を発見した事からお伝えいたします。

平河の訴訟に関連した人物”観蓮”。平河師高を「曾祖父」と呼んだ人物です。
佐原時連も法名”観蓮”。

先日、コメント6でご紹介したように「「左衛門尉平盛時」が「陸奥国糠部郡五戸」の「地頭代」職を得ているが、この「平盛時」は佐原盛時であろうと推測される」
とあり、上記の佐原盛時の兄弟が佐原時連 法名”観蓮”でした。

では衝撃の事実とは・・
佐原時連 法名”観蓮”の子「佐原(杉本)宗明」の妻は・・平頼綱の娘でした。
平頼綱と宮原の先祖橘公綱は異父兄弟。
すなわち・・橘公綱の姪である平頼綱の娘は、佐原時連 法名”観蓮”の子「佐原(杉本)宗明」の妻・・という事になります。

補足・・書籍「相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで」281ページをご覧ください
https://books.google.co.jp/books?id=MFJI9SU6RaAC&pg=PA278&lpg=PA278&dq=%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%B6%B1&source=bl&ots=fObBun3KuV&sig=wC2dV2HcbZZ9988ENYGv2zdWP9o&hl=ja&sa=X&ei=PBLWVJW-H8bLmwXF6oII&ved=0CCoQ6AEwAzgU#v=onepage&q=%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%B6%B1&f=false

日本の苗字七千傑様の《佐原氏》姓氏類別大観そして杉本系三浦氏 姓氏類別大観を拝見致しました。
あれっ・・「近藤氏」が見えます・・・

平川家について21でもご紹介しましたが、実家にあった大正時代の書類から平川と杉本家は当時縁戚関係であったことを確認しています。

でも・・今のところ、「佐原氏」「杉本氏」と確実な縁戚関係をもっているのは、宮原の先祖「橘公綱」の系です。

しかし・・
昨年、平河の訴訟状から展開した調査に挙がってきた”観蓮”こと佐原時連が、このような形で、「平川」ではなく「宮原」と繋がっていたとは・・
昨年、”佐原時連”という方の法名が”観蓮”である事を知った時には、「平川」との繋がりは見えないし・・球磨とは縁がありそうもないし・・
と、半分は法名が”観蓮”と言うだけの「偶然」かな?と思っていたのですが・・
もう「偶然」ではない(ー_ー)!!と確信してきました・・(おかしいでしょうか?)
※橘公綱の姪の舅は「佐原時連(観蓮)」
というお話でした・・(..)
では(・_・)
[20]子孫よりさんからのコメント(2015年02月08日 08時43分16秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、「橘公綱の姪の舅は「佐原時連(観蓮)」という私にとっては衝撃の事実が解った所で、今朝は、宮原の先祖「橘公綱」と異父兄弟であった「平頼綱」という方について、色々な情報を見ていました。
(もちろん、この頃、大まかな事は勉強はしていたのですが・・御内人の筆頭格として時宗の専制体制を補佐した。時宗死後に対立した有力御家人の安達泰盛を霜月騒動で滅ぼし、内管領として時宗の嫡子貞時を擁し幕府内外で絶大な権勢を振るうが、頼綱の恐怖政治に不安を抱いた貞時の命によって誅殺された(平禅門の乱)。)

ただ、知れば知るほど、先祖「橘公綱」の当時の状況?が不思議に感じたのです・・

※平頼綱・・・生年は不明だが、次男助宗の生年(1267年)や、「頼」の字が執権・北条時頼(在職期間が1256年まで)からの偏諱であることから、頼綱の生年は1240年前後で、時宗と泰盛の中間の年代と推定される。
※橘公綱・・・宝治元年(1247年)(誕生、母豊田五郎景基女、平頼綱ト母ハ同ジ
(・_・)二人の年の差は7歳〜8歳という所でしょうか。「頼綱」が兄という事ですね。

※平頼綱・・・文永8年(1271年)9月、元寇に際して御家人に鎮西下向の命が下される中、頼綱は他宗攻撃と幕府批判を行っていた日蓮の逮捕・佐渡国への流罪、門徒の弾圧を行った。この時に日蓮が頼綱に宛てた書状では、頼綱を「天下の棟梁」と書いている。日蓮は斬首に処される所を直前で回避されているが、これは時宗の妻(堀内殿)の懐妊と、その養父である安達泰盛の進言があった事によるものとの見方もある。建治元年頃には父盛時が没しており、その跡を受けて建治3年(1277年)には時宗が幕府の重要事項を決める寄合衆のメンバーとなっている。

※橘公綱・・・妻は南部実継の娘。
南部実継は弘安5年(1282年)、父実長が身延山に匿っていた日蓮が老衰による疲れの為に下山を希望し、池上宗仲の邸宅に身を寄せる際、随行する役を命じられた。
南部実継の父、南部実長は文永6年(1269年)頃、鎌倉での辻説法を聞いて深く感銘し日蓮に帰依した。同11年(1274年)には、流罪を解かれ佐渡から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたった。弘安4年(1281年)、十間四面の堂宇を建立寄進し「妙法華院久遠寺」と命名、また実長も出家し法寂院日円と号した。弘安5年(1282年)9月、病身の日蓮は病気療養の為常陸の湯に向かう途中現在の東京都大田区池上に着くと病体が更に悪化し、実長への9ヶ年の感謝と死期の近いことを知らせる最後の手紙を送っている(『波木井殿御報』)。10月13日朝、61歳の生涯を閉じた日蓮の遺言通り遺骨を身延の澤に埋葬し実長を中心に六老僧等で護った。

七宮・三は、鎌倉幕府に迫害された日蓮を庇護し信仰したその事績から、信念を貫徹する気骨のある人物であったろうと推測している。実長の気概の形成には日蓮と共通するものがあり、日蓮宗の教義の影響があった。そしてその気質は、子の実継や外孫の師行にも引き継がれたと指摘している[1]。 日蓮の死後、身延山初祖日興と実長の間に、日蓮によって禁止されたと思われる「神社参詣、神社への寄進、釈迦立像建立の可否」についての論争を生じ、その結果日興は身延を離山した。この論争については、未だに富士系日蓮の派(いわゆる勝劣派)と身延系日蓮の派(いわゆる一致派)との決着をみていない。はじめは日興によって教化され、日興が身延の初祖の時は師としていたが、次位の日向が神社参詣、神社への寄付などを認めたので、日向に師を変更した。このため、日興との間に確執を生み、日興は身延を去って、富士に移った。

(・_・)
日蓮聖人を平頼綱は他宗攻撃と幕府批判を行っていたと、逮捕・佐渡国への流罪、門徒の弾圧を行った。
しかし・・
日蓮聖人を庇護し信仰した「南部実長」の孫であり、「南部実継」の娘である女性を妻とした橘公綱。

(-.-)二人は兄弟であっても敵対していたのでしょうか・・?

ただ・・平頼綱は日蓮聖人に対して強硬な姿勢をとっていたという事でしたが、日蓮聖人が流罪を解かれ佐渡から鎌倉に戻った際に、平頼綱は日蓮聖人と対面し、その時、平頼綱の態度は、以前とは異なり、温和であった・・と書かれた記述を目にしました・・・

(+o+)ここで脱線をしますが・・
色々情報を見ていたら、大河ドラマ「北条時宗」で平頼綱を演じていたのは「北村一輝」さんだったのですね。
私、皆様、おわかりの通り、当時は歴史には全く興味がなく、「北条時宗」も殆ど(数回)しか見ていません(+o+)
でも、数回見た理由は・・その頃「北村一輝」さんが大好きだったからです(*^_^*)
北村一輝さんを見る為に大河ドラマをちょろっと見た・・というような・・
ですから北村一輝さんが演じていた役が「平頼綱」だったと知って、ビックリしました。
でも、ウィキでドラマの内容を見たのですが「八郎→平頼綱:北村一輝 素性不明であり・・」とあり、「粗暴かつ権謀術数を厭わぬ性格だが、時宗に対してだけは自身の出自と長時暗殺の真実を全て打ち明けた上で絶対の忠誠を誓い、崇拝しており、時宗の死を知ると、感情を抑えきれずに泣き叫んだ程であった。」とありまして・・
「自身の出自の真実」とは何じゃろかい??と・・ドラマを見れば良かったかな??
でも、これはあくまでも「ドラマ」ですよね・・

(+o+)(?_?)うん??という事は・・もしかして・・
今回、発見した平頼綱の母が「豊田五郎景基女」という事実は、ドラマを見ていた人にとっては、私とは「別」の「衝撃」だったのかな???(+o+)

もとに戻ります(..)
北条貞時の外祖父である安達泰盛は将軍権力の強化、得宗・御内人の権力を抑制する改革(弘安徳政)を行い、貞時の乳母父で内管領である頼綱との対立は更に激化する。弘安8年(1285年)11月、ついに鎌倉市街で武力衝突に至り、執権貞時を奉じる頼綱の先制攻撃によって泰盛と安達一族は滅ぼされ、泰盛与党であった御家人層は一掃された。 これを霜月騒動という。

(・_・)霜月騒動
弘安8年(1285年)11月4日と14日に頼綱は日光山別当源恵に依頼し、泰盛討伐の祈祷を行った。合戦の状況を語る唯一の一次史料である霜月騒動覚聞書によると、11月17日の午前中、松谷の別荘に居た泰盛は、周囲が騒がしくなった事に気付き、昼の12時頃塔ノ辻にある出仕用の屋形に出かけ、貞時邸に出仕したところを御内人の手勢に阻まれ、死者30名、負傷者10名に及んだ。これをきっかけに大きな衝突が起こり、将軍御所が延焼、午後4時頃に合戦は安達方の敗北となり、泰盛、嫡子宗景、弟長景以下一族は自害・討ち死にして果てた。
安達時景は飯山に逃亡したが殺害された。安達一族500名余りが自害し、騒動は全国に波及して各地で泰盛派が追撃を受け、自害に及んだ。安達氏の基盤である上野国・武蔵国の御家人の被害は多く、武蔵では武藤少卿左衛門、遠江国では安達宗顕、常陸国では安達重景、信濃国では伴野彦二郎らが自害した。九州では泰盛の子安達盛宗が岩門合戦で敗死した。これだけの人数が一気に討ち死に、自害に追い込まれたのは用意周到な計画の元で時間を定めて一斉に襲撃したためと見られる。
泰盛与党として罹災したのは泰盛一族の他、小笠原氏、足利氏、伴野氏、伊東氏、武藤氏(少弐氏)、その他は藤原相範、吉良満氏、殖田又太郎(大江泰広)、小早川三郎左衛門、三科蔵人、天野景村、伊賀景家、二階堂行景、(大井)美作三郎左衛門、綱島二郎入道、池上藤内左衛門の尉、行方少二郎、南部孫二郎(政連?)、有坂三郎、鎌田弥藤二左衛門尉、秋山人々など、幕府創設以来の有力御家人層の多くが見られる。一方頼綱方の討手として得宗被官化した御家人の佐々木氏、今川氏、千葉氏なども加わっており、同族内でも頼綱方と泰盛方に分かれるなど、幕府を大きく二分した争乱であった。泰盛と縁戚関係のあった金沢顕時(泰盛の娘婿)は下総国に蟄居の身となり、宇都宮景綱、長井宗秀[2]らは失脚した。

(・_・)同族内でも頼綱方と泰盛方に分かれるなど、幕府を大きく二分した争乱であった。
確かに頼綱方と泰盛方、双方に先祖の調査で登場した「名」の方々が見えます・・

(・_・)岩門合戦 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E9%96%80%E5%90%88%E6%88%A6
岩門合戦(いわとかっせん)は、弘安8年(1285年)11月、鎌倉時代中期に九州博多郊外の岩門城(福岡県筑紫郡那珂川町)で起こった戦い。鎌倉幕府の内乱である霜月騒動の影響で、地元守護少弐氏を中心に九州御家人の間で合戦となり、少弐景資と安達盛宗が景資の兄・少弐経資の軍勢に滅ぼされた。
概要[編集]
鎌倉幕府の幕政を主導していた安達泰盛が、霜月騒動で内管領・平頼綱によって滅ぼされると、その影響は九州にも波及した。少弐景資は元寇で九州に下向していた泰盛の次男・安達盛宗に呼応して挙兵し、居城である岩門城で頼綱方に付いた兄・経資率いる軍勢と戦って敗れ、景資、盛宗は敗死した。合戦の背景には、霜月騒動の地方への波及と同時に少弐氏内部の対立があった。
景資、盛宗方に加わった武士は筑前の水城氏、箱崎社執行成直、豊前高並氏、他に金田・永利氏、筧氏。
経資方には武藤氏一族の他、筑前の野介氏、青木氏、佐伯氏、豊前の宇都宮氏、肥前の白石氏・土々呂木氏、斑島氏、松浦氏などが加わっていた。
肥前国守護は得宗家の北条時定で現地に下向しており、経資方には時定の指揮があったものと推定される。肥前国御家人に反安達が多いのは、鎌倉への直訴を禁じられ、時定の元に所領問題で参上しており、霜月騒動の1ヶ月前に弘安改革で設置されていた「鎮西特殊合議訴訟機関」への不満を募らせていた事によると見られる。
合戦の翌年、頼綱方の武士達に、滅ぼされた少弐景資とその与党の所領が恩賞として給与された。これと同時に、4年前の弘安の役での恩賞として25人の武士にも給与された。恩賞地不足に悩み、九州支配の強化を考える幕府にとって好都合な事件となった。
この合戦の結果、少弐氏の勢力は削られ、鎮西探題が設置されて北条氏得宗家の九州支配が強化された。

(・_・)頼綱方の武士達に、滅ぼされた少弐景資。
平河の訴訟により、永吉庄と西村の預所となった方が「少弐景資」。
この方が岩門合戦で亡くなった事により、さらに平河の領地問題は揉めたのでした・・・

(・_・)
今までの調査で何度も読んだ事があった上記の記述ですが、今、あらためて読むと、今までとは、全く違った心境になります・・

平禅門の乱 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%A6%85%E9%96%80%E3%81%AE%E4%B9%B1

得宗家の執事である平頼綱は、8代執権北条時宗が死去し、その子貞時が9代執権となった翌弘安8年(1285年)、政治路線で対立していた有力御家人安達泰盛や泰盛派の御家人を霜月騒動で討伐した。その後しばらくは、頼綱は追加法を頻繁に出すなど手続きを重視した政治運営を行っていたが、弘安10年(1287年)に、7代将軍源惟康が立親王して惟康親王となった時期に政治姿勢を一変させ、恐怖政治へと邁進した。

(・_・)・・・どうして・・平頼綱という方は、このような「恐怖政治」を行うまでになってしまったのでしょうか・・・
でも・・
※頼綱一族ら御内人の勢力は一時後退して、貞時の専制政治が始まる。金沢顕時や安達氏など霜月騒動で没落を余儀なくされた勢力も徐々に幕府中枢に復帰した。また、頼綱の一族でも頼綱の弟(または従兄弟)とされる長崎光綱は引き続き貞時に重用された。
※正応6年(1293年)に平禅門の乱で頼綱が貞時に誅された時は貞時方についたと思われ、頼綱誅殺後は、頼綱に代わって光綱が一門の総領となり、内管領に就任した。しかし、侍所所司は頼綱の長男・宗綱が任じられている。
※長崎円喜の娘は「安達高景室」。
※長崎 円喜(ながさき えんき)は、鎌倉時代後期から末期にかけての武士。北条氏得宗家被官である御内人・内管領。長崎氏の一族。父は長崎光綱。円喜(圓喜・円基)は法名で、俗名は系図類では高綱(たかつな)とされる[1]が、当時の文書では盛宗(もりむね)と記されている[2]。
『太平記』や『保暦間記』において、嫡子高資と共に絶大な権力をふるい、鎌倉幕府を滅亡に導く悪役として知られる。

(・_・)・・・・
平頼綱なき後も「長崎氏」は鎌倉幕府内で絶大な権力をふるい・・結果、鎌倉幕府を滅亡に導く・・・

(・_・)
私が、先祖の調査を始めて、この一年半の間に見つけた様々な情報は、本当に、教科書には絶対に載っていない、歴史の「裏側」だった事を今日、あらためて再認識しました・・・
[21]子孫よりさんからのコメント(2015年02月12日 11時49分29秒 ) パスワード

皆様、今日は。

実は、10日に、病気にかかって一生懸命頑張っていた大事な猫「ミーちゃん」を家で天国に見送りました。
本当のことを言うと先月は、赤ちゃん猫の時から、哺乳瓶でミルクをあげて育てていた「メイ」ちゃんを天国に見送りました。
二匹とも、生まれた時から先天性の病気があって、母猫が子育てを放棄してしまい、私がママがわりになって育てていました。

二匹とも、とても可愛く、おりこうさんの優しい子に育ったのですが、病気は、容赦してくれませんでした。

メイが亡くなって、私が泣いてばかりいるのをミーはとても心配してくれていたのですが、その時点でミーも病院で余命二週間の宣告を受けていました。
私は、ミーが生まれてきて幸せだったと思ってくれるように、その後はミーのそばにいつもいて、ミーが好きな事だけをさせていました。
亡くなる2週間前からトイレが上手に出来なくなり、色々な所に粗相をしてしまい、でも、決して叱らずに、お尻を拭いてあげて、片づけをしていると、いつもミーはごめんなさいという表情をしていました。
だから、私はニコニコ笑いながら、ミーに話しかけながら片づけをしていました。

余命二週間の宣告を受けて1カ月と二日目にミーは天国に旅立ちました。
ミーは、きっと私が泣かないように頑張ってくれたのだと思います。
そう、思っても・・涙はずっと止まりませんでした・・

命の尊さをメイとミーがあらためて私に教えてくれました。

私がパソコンに向かってコメントを入力しているのを二匹はじ〜っと見つめながら、気がつくと膝で眠っていたりしました・・
だから、いつまでもメソメソしていたら、メイとミーが心配しますので・・

調査開始です。

実は、幾つかの情報を見つけていました。
次のコメントでご紹介いたします。
では。
[22]子孫よりさんからのコメント(2015年02月12日 13時50分49秒 ) パスワード

さあ、調査開始です(^・^)

気がついた事が幾つかあります。
@尼妙阿から相良頼俊に譲られた鎌倉釈迦堂前の土地について
A平河道照の系について
B木上岩城について
です。さっそく(._.)

@尼妙阿から相良頼俊に譲られた鎌倉釈迦堂前の土地について
尼妙阿が相良頼俊に譲った鎌倉釈迦堂前の土地。この土地を相良頼俊は「宇葉伊路」という女性に譲りました。その譲状に、私の見落としがありました。
中に「やのとの」という言葉があったのです。「やのとの」・・「矢野殿」?
矢野という姓は伊予橘氏をはじめ、今まで、宮原の先祖に関する情報を調べていると頻繁に見かけていたのですが、実際に釈迦堂前の土地の譲状に「やのとの」という言葉があった事を私は完全に見落していました。
以前ブログにアップしていますので、皆様もご覧いただければと思います。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11891911666.html

相良頼俊譲状を見て頂くと・・

鎌倉の釈迦堂の前地事 在四至 東限 てんかくか地 西限 (転記出来ません(._.))
北限 やのとのの地 南限 太郎殿地 

(゜-゜)※北限 やのとのの地 南限 太郎殿地 ・・・やのとのの地
「矢野殿」と読む事は可能でしょうか?「矢野」?・・?????
もしも、「矢野」であれば、尼妙阿から相良頼俊へ譲られた「鎌倉釈迦堂の前の地」は矢野氏の領の隣であったという事でしょうか・・?
しかし・・「宇葉伊路」という女性は一体・・どなた?なのか??
(p_-)今後も調査を続行いたします(._.)

続けて・・
A平河道照の系について
平河の訴訟において中心人物と言っても過言でない”平河道照”。
道照とは二階堂行方の法名です。
二階堂行方 法名”道照”の系なのですが・・
二階堂行方の子二階堂行章。母は佐々木信綱の娘。
そして・・二階堂行章の娘は佐々木頼綱(六角頼綱)の妻となり六角頼明や六角時信などの子供を産んでいます。
という事で・・
”道照”の孫は六角頼綱の妻。・・・という事でした・・

B木上岩城について
平河義高が居城していた木上岩城なのですが・・
「岩城」は球磨弁で「いわんじょう」と呼ばれているのですが・・
本当の呼び名は「いわきじょう」のようです。

新訳求麻外史を読んでいて気がつきました。コマ番号25の最後の行をご覧ください。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959084

岩城城主 平河右衛門義高 (いはきじょうしゅ ひらかはうえもん よしたか)

ず〜っと球磨弁の「いわんじょう」という言葉が「木上岩城」のイメージだったのですが、もしかしたら、これも大きな躓きの一つだったかもしれません。

まず、日本の苗字七千傑様の【桓武平氏繁盛流】《岩城氏》姓氏類別大観を拝見しました。

まず、驚いたのですが・・「椎葉氏」。
それから岩崎氏 姓氏類別大観 の中に「荒川氏」と「富田氏」が見えるのですが・・
実は、祖母の姉が養女に入った「椎葉家」のお隣は「荒川家」なのです・・
遠い親戚だったと聞いています・・?? 偶然かもしれませんが・・

(゜-゜)かなり気になってさらに調べたのですが・・
岩城成衡(隆行)
始隆行。海道次郎。天永元(1110)年生。平治2(永暦元)年2月25日(ユリウス暦:1160年4月3日)卒。
号乗佐。
室藤原清衡養女〔実真衡女〕。
継室鎮守府将軍源頼義女。

藤原清衡 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B8%85%E8%A1%A1
藤原 清衡(ふじわら の きよひら)は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏の祖。
出自[編集]
陸奥国(後の磐城国)亘理の豪族亘理経清と、安倍頼時の娘の有加一乃末陪の間の子として生まれる。幼名不詳[2]。なお、亘理経清は、藤原北家の藤原秀郷(俵藤太)の子孫とされており、1047年(永承2年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に、「経清六奥」(六奥は陸奥の意)と名前が見えていることから、当時藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏からも認められていたようである。
父・経清は前九年の役で源頼義に反旗を翻し安倍氏に味方したが厨川の戦いで敗れた安倍氏と最後をともにした。この時清衡は七歳であった。敵将の嫡男であったので本来は処刑される運命にあったが、母が安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男清原武貞に再嫁することになって危うく難をのがれ、連れ子の清衡も清原武貞の養子となった。
系譜
父:藤原経清、母:有加一乃末陪(安倍頼時の娘)
養父:清原武貞
兄弟 清衡、刈田経元[1]、経衡
義兄: 清原真衡、異父弟:清原家衡
妻 正室:北方平氏
子 惟常、基衡、正衡、家清、清綱、
娘(佐竹昌義室)、養女:徳姫(岩城則道室)

\(◎o◎)/! 母:安倍頼時の娘!
という事は・・藤原清衡の母は安倍貞任と兄妹!!?

(゜-゜)あれっ?岩城氏を調べていたら・・宮原の先祖に関連していた、こちらに繋がりました??

岩城成衡(隆行)の系に戻りますが・・
継室鎮守府将軍源頼義女 ・・あっ!なっナント!!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E7%BE%A9
源 頼義
系譜
父: 源頼信、母:修理命婦
兄弟 頼義、頼清、頼季、頼任、義政
   源為満室、源信忠室
妻 正室:平直方娘
子  義家、義綱、義光、親清?、快誉
   平正済室、清原成衡室?

\(◎o◎)/!皆様すでにおわかりのとおり・・
子孫[編集]
源氏一門は数多いが、武門の棟梁、源氏の大将と称される有力なもの、名流とされるものの多くは頼義を祖としている。代表的な子孫としては、長男八幡太郎義家からは、源為朝、源頼朝や源義経、源義仲の他、後の新田氏の祖となる源義重や足利氏の祖となる源義康といった源氏の代表的な武将が輩出される。また、次男賀茂次郎義綱からは、美濃や河内などに石橋氏を輩出している。また、三男新羅三郎義光からは、源義業の子・佐竹昌義を祖とする佐竹氏、義業の弟源清光の子からは武田信義を祖とする武田氏やその弟加賀美遠光の子・小笠原長清を祖とする小笠原氏が輩出されている。伊予の河野氏の伝承では女婿となった河野親清は頼義の四男三島四郎親清であるとされている。

・・・・・・そうか・・!!

岩城成衡(隆行)の系に戻りますが・・
子息の岩城隆祐と岩城隆義の母ですが
隆祐(太郎。称楢葉。母二階堂宗祐女。法名常信)
隆義(四郎。称椎葉。法名昌信。母同隆祐。家臣白土家祖)
※母二階堂宗祐女 二階堂氏なのですね・・

というか・・椎葉隆義の母は二階堂宗祐の娘。
\(◎o◎)/!・・・偶然かもしれませんが・・・・・
でも、正月に椎葉のおじから聞いた言葉
「姓が違っても、みんな堅い絆の”同族”タイ!!」という言葉が頭の中で響いています\(◎o◎)/!

という事で・・
木上岩城は「いわんじょう」じゃなくて本当は「いわきじょう」であったという事から始まって、調査したら・・
「藤原清衡」「源頼義」「阿部氏」「清原氏」「平直方」「二階堂氏」さらに「椎葉氏」「荒川氏」・・「源頼義」?という事は・・「宮原の先祖」にも繋がってしまいました!!
というお話でした・・
「姓は違ってもみ〜んなかた〜い絆の同族タ〜〜〜イ!!(^・^)」

椎葉のおじさん!もしや、重要な事を言っていたのかも・・
でも偶然かもしれませんが・・
では(._.)
[23]子孫よりさんからのコメント(2015年02月13日 09時02分56秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、コメントした
岩城成衡(隆行)の子「椎葉隆義」の母は二階堂宗祐の娘。

そこで「二階堂宗祐」という方を調べたのですが・・
そもそも二階堂氏は・・ウィキより
二階堂氏は藤原姓で、南家藤原武智麻呂の子孫を称している。工藤行政が文官として源頼朝に仕え、二階堂が存在した鎌倉の永福寺周辺に屋敷を構えたので二階堂氏を称したという。行政には行光と行村の二人の子がいた。行光は鎌倉幕府の政所執事に任命され、一時親族の伊賀光宗が任じられた以外は二階堂氏から同職が補任される慣例が成立した。当初は行光を祖とする「信濃流」と呼ばれる一族が執事職を占めていたが、鎌倉時代中期に信濃流嫡流の執事の相次ぐ急逝によって信濃流庶流や行村を祖とする「隠岐流」を巻き込んだ執事職を巡る争い[1]が発生し、鎌倉時代末期には信濃流の二階堂行貞の系統と隠岐流の二階堂行藤の系統が交互に執事の地位を占め、前者は室町幕府でも評定衆の地位にあった。[2]
二階堂氏の子孫は実務官僚として鎌倉幕府、室町幕府に仕え、その所領は日本全国に散在しており、多くの庶子家を輩出した。

(゜-゜)という事は・・?
岩城成衡(隆行)の子「椎葉隆義」の母は二階堂宗祐の娘・・
椎葉隆義の時代に二階堂氏は「二階堂」を名乗っていたのかな????
岩城氏の系図が作成された時期が後世であるから・・という理由でしょうか・・

二階堂宗祐・・「宗祐」・・「祐」の字ですね・・・?
ちょっと気になって探したのですが、藤原南家為憲流では、見つける事が出来ませんでした。
ただ、藤原南家真作流、常陸守・藤原師長の子「陸奥守 藤原登任」の系に「宗祐」という方が見えます。

藤原長宗
生没年:1016-1085
父:陸奥守 藤原登任
能登守
越後守
主殿頭
妻:
-1096 後朱雀院判官代 為宗
右馬助 敦仲
勘解由次官 雅俊(子:有俊)
勘解由次官 実兼
二条院判官代 清兼
長真
宗禅
宗祐 ・・・こちらです。

ちなみに・・
藤原 登任 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%99%BB%E4%BB%BB
藤原 登任(ふじわら の なりとう、永延元年(987年) - 没年不詳)は、平安時代の貴族。藤原南家真作流、常陸守・藤原師長の子。官位は従四位下・大和守。
長和2年(1013年)六位蔵人、のち主殿頭・出雲守などを歴任する。また、『栄花物語』において、藤原教通室となっていた藤原公任の娘が出産にあたって、しばしば登任の三条の邸宅に移っていたとの記載があり[1]、公任に家人として仕えていたとも考えられる。
永承5年(1050年)に陸奥守として下向。翌永承6年(1051年)に安倍氏が衣川の柵を越え勢力圏を拡大しようとしたため、陸奥守であった登任は、秋田城介平繁茂(繁成/重衛)らと安倍氏を討伐しようするが、逆に鬼切部で大敗を喫し更迭された。この事件が「前九年の役」の発端となる。当時の状況は後任の源頼義による上奏文に、「東夷蜂起シ郡県ヲ領シ以ッテ夷地トナシ、人民ヲ駆使シ蛮虜トナシ六カ郡中、国務ニ従ガワズ、皇威ヲ忘ルルガ如シ」とある。
康平2年(1059年)3月29日出家。

系譜
父:藤原師長
母:播磨守光孝(姓不明)の娘
妻:周防守憲忠の娘(又は平兼忠の娘)
男子:藤原長宗(1016年-1085年)
男子:藤原長明(1018年?-1099年)
妻:四条宮官女二条殿
男子:任尊
生母不明
男子:実覚

(゜-゜)「藤原宗祐」の父「藤原長宗」の母は周防守憲忠の娘(又は平兼忠の娘)
平兼忠・・?  ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%85%BC%E5%BF%A0
平 兼忠(たいら の かねただ、生没年不詳)は、平安時代中期の「兵(つわもの)」と呼ばれる受領層の軍事貴族。桓武平氏、鎮守府将軍・平国香の孫で、陸奥守・平繁盛の子。官位は従五位上・出羽守または上総介。大掾兼忠とも呼ばれる。
父:平繁盛
母:斎部俊成の娘
妻:不詳
男子:平維良
男子:平維茂[1]
男子:平高衡

(゜-゜)日本の苗字七千傑様の【桓武平氏繁盛流】姓氏類別大観を拝見いたしました。
「岩城氏」と同族という事ですね。
「藤原宗祐」の父「藤原長宗」の母は周防守憲忠の娘(又は平兼忠の娘)
という事は・・岩城氏の系図にあった”「椎葉隆義」の母は二階堂宗祐の娘”・・こちらの「二階堂宗祐」とはもしかしたら・・藤原宗祐の可能性もなきにしもあらず・・????
「斎部俊成」・・「斎部」・・この方も勉強します(._.)

所で・・時間軸でみるとおそらく全くの別人だと思われる「二階堂宗祐」という方の情報なのですが・・
鶴岡八幡宮年表に同姓同名の「二階堂宗祐」という方の記述があります。
https://books.google.co.jp/books?id=2NmdrPZwD-MC&pg=PA1396&lpg=PA1396&dq=%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E3%80%80%E5%AE%97%E7%A5%90&source=bl&ots=XjGjcTPPCj&sig=qkLawxJ2n5rzZYZCUZ_quCvJl8Y&hl=ja&sa=X&ei=0HDaVM2kJ6TCmwXtqIHAAg&ved=0CEIQ6AEwCw#v=onepage&q=%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E3%80%80%E5%AE%97%E7%A5%90&f=false

185ページに
応永 二月一三日
外方供僧、頓学坊にて衆会あり、鶴岡八幡宮領駿河国楠木、長崎郷代官に山臥 二階堂宗祐を補任のこと内定す・・・

(゜-゜)・・偶然の同姓同名とはいえ・・
※鶴岡八幡宮領駿河国楠木、長崎郷代官に山臥 二階堂宗祐を補任・・
これは・・何だか・・偶然とは思いますが・・何だか・・モヤモヤ・・出来すぎ?のような・・・・????

という事で、勉強のために

岩城成衡(隆行)の子「椎葉隆義」の母は二階堂宗祐の娘・・という記述を調査しました(._.)

では・・次のコメントでは豊田五郎景俊の系と大友氏の関係について・・という内容を(._.)

(^・^)
[24]子孫よりさんからのコメント(2015年02月15日 09時00分14秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

先日お伝えした「豊田五郎景俊の系と大友氏の関係について」こちらのお話の前に・・

実は、昨日、M田さんと下関の彦島八幡宮にお参りに伺いました。
球磨に帰ったら、中々、北九州近辺にも出かける事が出来ないからと、ドライブに出かけたのですが・・
M田さんが突然、「私が、ず〜っと気にしていた彦島八幡宮のペトログラフを見に行こうと(^・^)」伺う事に・・

何度か、訪れている彦島八幡宮でしたが・・
今まで、皆様から頂いたご教示による勉強のお陰で、今回伺って、初めて、私がこちらに引かれていた理由が解ったような気がしました。

まず、到着してすぐに目に入ったのが神社前にある酒屋さんの大きな屋号?でした。
「稲葉酒店」・・・「稲葉」・・「稲葉?」
平川家について20コメント50で日本の苗字七千傑様より頂いたご教示
「もっと大きな流れは、物部氏→越智氏→伊予北条氏→河野氏→稲葉氏」

彦島八幡宮の前にある大きな酒屋さんは「稲葉酒店」・・あれっ??と思いながら、境内にある御由緒を読んでみると・・
公式サイトにも書かれているのでご紹介いたします(゜-゜)
http://www.hikoshima-guu.net/yuisyo.html

御由緒
当宮は平治元年(1159)十月十五日、本当開拓の主祖・河野通次自ら祭主となり宇佐神宮より御祭神を勧請、祭祀なされたのであります。一名灘八幡と言っただけに宮の沖合を通過する船は必ず「半帆」の札をとったと云われる事から造船、漁業関係者の崇敬が厚く、又、安産の神として別名子安八幡と崇められて併せて式神、文化神、生産神として御霊験あらたかな神様であります。尚、秋の例大祭「十月二十一日」には八百四十余年伝来の無形民俗文化財「サイ上リ神事」があり由緒の深さを示しております。

河野通次の来島と彦島十二苗祖
河野通次は人皇第五十一代平城天皇の子孫、三位中将大江正房の摘子で伊豫水軍の祖・越智高縄城主河野通清の末裔で伊豫勝山城主でありましたが人皇第七十七代後白河天皇御代保元元年保元の乱(1156)に藤原頼長と共に崇徳上皇と結び天皇方と戦い白河殿の夜襲に惨敗した通次は残党の園田一覚、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平と率いて西奔比の彦島に逃避して隠棲農夫漁夫を装い再起を謀って居りましたが朝に興り夕に亡びる武士の生活に無常を感じ農耕漁釣に浮世を捨てたのであります。
 それから二十有余年後、植田治郎、岡野将監、百合野民部、和田義信、登根金吾、富田刑部が来島して住むようになり彦島開拓の祖となりました。これを「彦島十二苗祖」と云っております。

\(◎o◎)/! 勉強のお陰で御由緒の意味がやっとわかりました!!

彦島八幡宮は平治元年(1159)十月十五日、本当開拓の主祖・河野通次自ら祭主となり宇佐神宮より御祭神を勧請、祭祀なされた。
河野通次という方は・・
人皇第五十一代平城天皇の子孫、三位中将大江正房の摘子で伊豫水軍の祖・越智高縄城主河野通清の末裔

\(◎o◎)/!「河野氏」でした!!越智高縄城主河野通清の末裔!!

そうか!!ペトログラフは・・
http://www.hikoshima-guu.net/petoro.html
彦島のペトログラフ
杉田遺跡は、「彦島神殿」か?
 この遺跡の岩から、合計三十個のペトログラフが検出され、それらの文字は、セム語系(シュメール、バビロニア文字)と北方ツングスのエニセイ文字系のものが入り混じったものである事が指摘された。 その多くの文字は、紀元前2千年から紀元300年頃までの幅広い年代のもので、発掘品がないために、絶対年代の特定は出来ない。
 しかし、「古代のいつの時代か、シュメール文字を知っていた集団が何らかの形で彦島に上陸し、祭祀(さいし)をした神殿ではないか。」と推定する学者もいる。

境内にある7つの岩の解読
以上の解読により杉田丘陵した海岸神殿のものと見られるこれら7個の岩は「日の神や大地の女神、大気の神、天なる父神などに、豊穣をもたらす雨を、男女神にかけて、日の王(日子王=古代彦島の王)が祈り奉った」と解釈できる。
「泳ぐ岩」1個ならまだしも、多くのペトログラフが三菱下関造船所前から見つかり、造船所構内からも出土しているところからも、古代には、杉田丘陵頂上の彦島神殿の他に、これを遥拝する形での「彦島第二神殿」とでも言うべきものが、現在の三菱造船所前小公園あたりの海岸部にあった事が推定できるのである。

\(◎o◎)/! 繋がっています!!
越智高縄城主河野通清の末裔で伊豫勝山城主であった河野通次。この方が創建された彦島八幡宮に古代シュメール文字の書かれたペトログラフが御祀りされている!!
やっと!!やっと!!球磨に帰る前にやっと!!何故、私が、こちらにとてもひかれていたのか!やっと意味が解りました。
実は、彦島と言えば、壇の浦の戦いと関係があり、私は先祖の調査を行って、少し伺い辛い感じがあったのです・・
でも、どうしても、彦島八幡宮には、伺いたい!という「力」のようなものがあって、何度もお参りに伺っていました・・

さらに・・
帰ろうとした時に、M田さんが猫ちゃんの鳴き声に気がつきまして・・
「石塔の下で猫ちゃんが鳴いて呼んでいるよ(^・^)」と近づいたのですが・・
M田さんが「あっ!!宮ノ原って書いてあるよ!!」と・・
私もその石塔の文字を初めて読んだのですが・・
「宮ノ原遺跡」と書いてありまして・・ええっ!!「宮ノ原」??!!
http://www.hikoshima-guu.net/petoro.html
■彦島 宮の原遺跡
境内には、昭和33年8月に、山口大学考古学小野教授(当時)発見による宮の原遺跡があり、縄文前期後期の土器や石族、石斧、石錘、石砥等三千余点が出土し、古代人の居住が確認された。
昭和34年に発掘調査が行われ、「曾畑式土器」が多く出土した。
その多くは、下関考古学資料室に委託収容されている。
※曾畑式土器とは、熊本県宇土市曾畑貝塚から出土する土器を指標として名づけられた

\(◎o◎)/!彦島 宮の原遺跡からは曾畑式土器(熊本県宇土市曾畑貝塚から出土する土器)が多く出土した。・・

越智高縄城主河野通清の末裔で伊豫勝山城主であった河野通次。この方が創建された彦島八幡宮に古代シュメール文字の書かれたペトログラフが御祀りされていて、さらに境内には「宮の原遺跡」があった・・

M田さんが昨日、彦島八幡宮に連れてきてくれなかったら、おそらく、この事を理解せぬまま、私は球磨に帰っていたのでしょう・・

先祖が「やっと理解したか(^・^)」と喜んでくれているような・・

でも、今回もすべてM田さんがきっかけでして・・どう考えてもM田さんは私をナントいうのか「導いて」くれているような・・?

所で・・M田さんですが・・
実は、昨日、M田さんのお母様方の御親戚の方々とお食事をさせて頂きまして・・

その時にM田さんの叔母様から・・
「うちはね、中村だけど、本当は望月なのよ。私達のおじいさんが望月家から中村家に養子に入ったの。望月家は代々武家の家系で、小笠原家の家臣となり、その望月家から、庄屋家であった中村家に、おじいさんが養子に入って、だから今は中村。でも、父からは”うちは望月だったという事を覚えておきなさい”と言われてきたの(^・^)」
と伺いました。

つまり・・M田さんの曾おじい様が望月家から中村家に養子に入られたと言う事です。
さらにM田さんのお母様の御先祖様には「白馬に乗った武将」の方がいらっしゃったそうです。(私の祖母の先祖である平河義高も白馬に乗っていたという伝承があるのでとても御縁?を感じました(^・^))

今まで、おっちょこちょいでポワ〜ンとした私を、いつも支えてくれて、温かく見守ってくれて、色々な場所に導いてくれたM田さん。
M田さんのお母様は「望月氏」の系であったという事がわかりました。

「望月氏」については、まだ勉強していませんが、もしかしたら・・
私の先祖(何故か?宮原の方じゃないのかな?と感じているのですが・・)とも、何か御縁があったのでは??とつくづく感じています。

という事で今朝は、彦島八幡宮にお伺いしたというお話とM田さんの御先祖様について・・
というお話でした。(^・^)
[26]子孫よりさんからのコメント(2015年02月17日 08時23分37秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

「御縁」が気になりまして、「望月氏」について、もう少し調べてみたのですが・・
「望月姓」は圧倒的に静岡県に多いのですね・・(何だか?私は確実に静岡県に御縁があるような・・)
調べましたら、9104軒。すごい数ですね\(◎o◎)/!
ところが・・
福岡県内の現在の「望月姓」の方は66軒と少ないです。内、北九州が21軒。
北九州の人口が約100万人。そのうちの21軒・・

偶然とはいえ・・出会う事が出来る確立を考えると・・やはり、科学では証明できない事・「縁」は存在するのでは?と思います。

先日、コメントした中にあった「甲賀上忍53家」とは何だろう?と勉強しました。
甲賀五十三家 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E8%B3%80%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%AE%B6
甲賀五十三家(こうがごじゅうさんけ)は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

「鈎の陣」? ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%AB%E3%83%BB%E5%BB%B6%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

(゜-゜)上記の「鈎の陣」で六角氏に味方した「甲賀の地侍五十三家」。
こちらを見ると・・
※多喜(滝)家 - 一族の著名人物として中村一氏・多喜勘八・瀧飛騨守がいる。
とありました。\(◎o◎)/!
平川家について20コメント46で調べていました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101403_82.html
武家家伝 中村氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakamura.html
大田亮氏の『姓氏家系大辞典』では、中村氏を橘姓として「甲賀郡杣荘発祥の豪族にして、秀吉に仕えて有名なる中村一政、同一氏を出す。此の中村氏は橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれると云ふ。

\(◎o◎)/!
という事は・・
甲賀五十三家には望月氏があり上記の中村氏(橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれる)があったという事ですね・・
あんれっ??よ〜〜〜く考えてみると(゜-゜)
M田さんの曾お祖父さんは「望月家」から「中村家」に養子に入った・・
偶然かな?????
でも、まさかまさかとは思うのですが、M田さんのお母様方の「中村氏」が上記の「中村氏」にもしも関係しているのであれば・・
(゜-゜)・・(?_?)・・(?_?)・・\(◎o◎)/!
なっなんということかぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜\(゜ロ\)(/ロ゜)/
もしももしも!!あくまでも”もしも”ですが・・もしもそういう事であれば・・
「望月家」から橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれる「中村氏」の系に養子に入った方のひ孫が「橘右馬允公長の裔」である「宮原家」に婿養子に入る!!という事になります\(゜ロ\)(/ロ゜)/
(ー_ー)!!あくまでも「もしも」ですが・・

でもな〜・・私の今までの人生は振り返れば、何だかすべて、「先祖の縁」が関係しているような・・
と・・言う事は・・上記の「もしも」が「もしも」ではない「本当だよ〜ん」という可能性も・・少しはありえるかもしれないような・・

何で、こんな事を言うかというと・・
実はM田さん・・私の祖父の顔にソックリなのです\(゜ロ\)(/ロ゜)/

出会いは、私が以前勤めていた民間の会社でして・・
一応、私が上司でして・・採用されたM田さんの顔を初めて見た時に
「ぎゃっ!!じいちゃんに似ている\(◎o◎)/!」と。
実家にある軍服を着た祖父の写真とお顔がソックリで、めちゃくちゃビックリしたのでした・・
それからしばらくしてM田さんを北九州の事業所から、当時、混乱していた田川郡の添田町と川崎町の境にある事業所に転勤をお願いしたのも私。
添田町・川崎町・・と言えば「橘公業」が西園寺公経と替地をして所領した「副田荘」でございます(゜-゜)・・今思えば不思議?です。
そこで、M田さんは頑張って事業所の立て直しを行ってくれて、ナント毎日片道45キロの通勤をしながら、約7年間、事業所を安定させて下さいました(._.)
(私は、M田さんを転勤させてしばらくしてその会社を退社しました(._.))
M田さんは、球磨に私と一緒に帰って、仕事は今の会社のまま、転勤する事になりました。
転勤先は・・霧島山の麓「えびの市」でございます(._.)

お付き合いは、会社を辞めてしばらくしてからなのですが・・
M田さんにはず〜っと「私のじいちゃんにソックリなのよね(^・^)」と言い続けまして・・
M田さんはいつも「?????」としていました。
所が、先月、球磨に初めてM田さんと帰って、実家の仏壇に最初にお参りした時に部屋に大きく飾られている祖父の写真をM田さんが見て・・
「わっ!!お祖父さん、本当に自分に似ていらっしゃる!」と本人が驚いていました。

さらに・・父にも以前から「M田さんがじいちゃんに似ている」と言っていたのですが、父は「マタマタ(ー_ー)!!(^・^)」と笑っていたのですが・・
初めてM田さんに会った父は、後で私に・・
「本当に似ているね・・\(◎o◎)/!」と言いました\(゜ロ\)(/ロ゜)/

どう考えても・・M田さんと私の祖父の顔は似ている・・というよりソックリです(?_?)(?_?)
(じいちゃんとソックリの人とお付き合いする事を選んだ私にもビックリという声が聞こえたような・・(?_?))
でも余談ですが・・娘婿は・・私の父によ〜く似ています(?_?)これは息子も「義兄さんは宮原のじいちゃんそっくり!!」と言っています・・(?_?)

\(◎o◎)/!これは!!もしや!同族で系を繋げるための女性の本能かなっ!!
脱線しました(._.)

所で・・「望月氏」は「中原氏」とも繋がりがあったのですね・・
望月国親 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E5%9B%BD%E8%A6%AA

望月 国親(もちづき くにちか、? - 寿永3年1月21日(1184年3月5日))は、平安時代に活躍した武士。
始祖は望月重俊?(系譜に顕れる最初の滋野御三家望月家棟梁)、望月則重(望月太郎)(望月重俊の5代後の嫡孫の海野為通(滋野為通)の次男、子に海野重通、根津通直、望月廣重の父、安土桃山時代の棟梁望月信雅まで続く望月家の祖。則重は国親の曽祖父)。
本名は望月太郎滋野朝臣国親。通称は次郎。名は秀包とも。官位は従六位上左衛門尉。
滋野御三家望月家八代目棟梁(望月重俊を初代と見た時。望月則重を初代と見た時は四代目棟梁)。
信濃国佐久郡望月城城主望月国重(望月蔵人頭)の次男として生まれ、兄弟に根井行親、子に望月重隆がいる。

木曾源氏への従軍理由[編集]
当時の望月家の勢力は同じ滋野御三家の海野家、祢津家を圧倒しており、信濃国佐久郡一帯と小県郡の一部にまで勢力を持ち、平安時代末期(源平時代)には常時1500頭の良馬を有しており、それを飼育放牧する農民の動員数は、後に挙兵した源義仲にとって魅力的であり、望月家を招いた理由であるという。事実、滋野党の軍事・経済・政治の中枢を担い御三家の中心にいた望月家の軍事力は徒武者・騎馬武者1000騎に上り、白川横田河原合戦では滋野党全軍で2000騎を率い木曾軍と合流している。
更には、源義仲が幼少の頃、平家に追われていた時斎藤別当実盛は佐久郡に立ち寄り、佐久郡領主で信濃守を務める滋野御三家(御三家の本姓である滋野家当主が歴任してきた。(主には御三家の宗家筋の海野家が滋野家の当主であるが、吾妻鏡や平家物語には海野家は“海野家”と表記されているが、望月国親は“望月秀包(次郎)”・“滋野次郎”や“滋野國親”、望月重隆は“望月三郎”或いは“滋野三郎”と表記されていることから、世間の認知は望月家が滋野家の主筋と思われていたか、望月の駒で飼育されている望月の馬の知名度故に海野家や禰津家を差し置いて滋野一族望月家の名が通っていたのではという説が強い。[1]))の望月国親と木曾を治める信濃権守の中原中三権守兼遠に駒王丸(源義仲の幼名)を預け[2][3]、後事を託した。
この時、中原兼遠と望月国親に相談したのは、信濃國の領主に多大な影響力を持ち、なおかつ朝廷との繋がりのある上級貴族の中原家と滋野貞主の嫡流である滋野御三家の望月家が互いに協力関係にあり、両家の中継ぎ役をしたのが、滋野御三家の海野家に中原兼遠の弟である中原兼保が海野家当主海野広道に養子入りし、[4]海野家の当主となり、滋野御三家有力筋の望月家との中継ぎを取り持った為、中原家と望月家との繋がりが生まれた。この事から、後の平家方(平宗盛)や源義朝方(源義平)からの引き渡し要求を両家は拒否し守り抜いた。
後に挙兵した時に源義仲軍の中核(望月家の傍流の根井行親と行親の子、楯親忠(楯六郎)は源義仲四天王の一員である。)にあったのは前述の頃からの忠節も関係してくる。[5]
望月国親は治承4年(1180年)に以仁王の令旨を受けた木曾義仲挙兵に際して、長男望月重忠、次男望月重義、三男望月重隆らと共に木曾義仲に招かれて従軍している。
中略・・(゜-゜)

平家と望月家・中原家との繋がり[編集]
平家方の平宗盛からの引き渡し要求が来た理由については、中原兼遠が平家の家人で在ったが為だとする説が在り、 其れに附け加え、承平8年(938年)、平将門に追われ東山道を京に脱出しようとした平貞盛が、2月29日に追撃してきた将門の軍勢100騎と信濃国分寺付近で戦った記録が残されており、このとき貞盛は、信濃国海野古城を拠点とする信濃御牧の牧監で旧知の滋野恒成の下に立ち寄り、滋野氏のみならず小県郡司他田真樹らの信濃国衙の関係者達も貞盛に加勢したが将門軍に破れ、平貞盛は付近の山中に逃れ危機を脱したといわれる(一説には平貞盛に加勢した信濃勢の総兵力は4000騎、対する平将門の兵力は100騎にも満たないともいわれる)。この戦い(千曲川合戦)により、信濃国分寺が焼失したと云う。
これらの経緯から平宗盛の祖先(平貞盛)と望月国親の祖先(滋野恒成(滋野善淵))との共闘時からの平家との縁続きによる経緯や、元々関東には坂東八平氏と呼ばれる平氏の流胤(下総の千葉氏や越後の長尾氏、梶原氏、伊豆の北条氏、陸奥の相馬氏(平将門の流胤説)等々)が存在する様に東国に土着した平氏は数多く在り、関東上野国と隣接する信濃国司信濃守の滋野氏や信濃権守の中原氏が平氏と関係を持つのは自明の理であり、後に関東を支配した八幡太郎義家(源義家)の子孫である源義朝との関係もあるが以前からの関係から平家から味方意識されたという。

\(◎o◎)/! あんりゃ〜〜!!
※平貞盛と望月国親の祖先(滋野恒成(滋野善淵))との共闘時からの平家との縁続きによる経緯
※下総の千葉氏や越後の長尾氏、梶原氏、伊豆の北条氏、陸奥の相馬氏(平将門の流胤説)等々)が存在する様に東国に土着した平氏は数多く在り、関東上野国と隣接する信濃国司信濃守の滋野氏や信濃権守の中原氏が平氏と関係を持つのは自明の理
※後に関東を支配した八幡太郎義家(源義家)の子孫である源義朝との関係もある

\(◎o◎)/!
「平家と望月家・中原家との繋がり」に書かれている記述の内容は・・
まるで・・「宮原」や「平川」の先祖に関する記述を読んでいるみたいです!!
何だか「ソックリ」です。

さらにこちらの記述にもすごく興味がわきました。
※中原兼遠と望月国親に相談したのは、信濃國の領主に多大な影響力を持ち、なおかつ朝廷との繋がりのある上級貴族の中原家と滋野貞主の嫡流である滋野御三家の望月家が互いに協力関係にあり、両家の中継ぎ役をしたのが、滋野御三家の海野家に中原兼遠の弟である中原兼保が海野家当主海野広道に養子入りし、[4]海野家の当主となり、滋野御三家有力筋の望月家との中継ぎを取り持った為、中原家と望月家との繋がりが生まれた。この事から、後の平家方(平宗盛)や源義朝方(源義平)からの引き渡し要求を両家は拒否し守り抜いた。

(゜-゜)
M田さんの母方の系である「望月氏」を勉強したら・・
当時の事がより鮮明に理解出来ました。

という事で・・今朝は、甲賀五十三家を調べたら・・
甲賀五十三家には望月氏があり上記の中村氏(橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれる)があったという事がわかり、M田さんは「私の祖父の顔にそっくり」で、
「望月氏」は平家と中原家と八幡太郎義家(源義家)の系と繋がっていた・・
という内容でした。

では(^・^)
[27]子孫よりさんからのコメント(2015年02月18日 12時59分42秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

実は、数日続けて同じ夢を見まして・・
「矢瀬」という地名がとても気になって調べてみました。
矢瀬遺跡 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E7%80%AC%E9%81%BA%E8%B7%A1

矢瀬遺跡(やぜいせき)は群馬県みなかみ町にある縄文時代後期から晩期の遺跡。国の史跡に指定されている。

利根川沿いの河岸段丘の上にある。1992年(平成4年)から3年間にわたって発掘が実施され、日本で最初の出土例となった四隅袖付炉を持つ住居を含む22か所の竪穴住居跡群からなる居住域、敷石・立石列や水場・水路を持つ共同作業場、110基近い配石墓群が集まる墓域、直径50センチメートル前後の巨木を半切して並べた巨木柱列(関東地方では初の出土例)とその内側に3つの立石からなる石組の祭壇をしつらえた祭祀場が近接して発見された。住居・作業場・墓地・祭祀空間という縄文時代の集落遺跡の特徴を示す区域が狭い範囲から分かりやすい形で発掘されたこと、加えて水場近くに散乱したトチ・クルミなどの木の実、祭祀場・墓地・居住域から出土した石冠・土偶・管玉・勾玉、その他土器や石鏃など、縄文時代の集落の再現を容易とする構造であることが注目されている。
遺跡を含む一帯は親水公園として整備されている。また、出土品はみなかみ町月夜野郷土歴史資料館にて展示されている。

(゜-゜)矢瀬遺跡(やぜいせき)は群馬県みなかみ町にある・・
みなかみ町 ウィキより
みなかみ町(みなかみまち)は、群馬県利根郡の町。2005年10月1日、利根郡月夜野町・水上町・新治村が新設合併して誕生した。群馬県最北端にして最も広い面積を持つ町域には、水上温泉郷や猿ヶ京温泉といった温泉が多数ある。

歴史[編集]
縄文時代 - 現在のみなかみ町域内で定住が開始。旧月夜野・水上両町域で同時代の遺跡が発掘済み。
713年(和銅6年) - 律令体制の整備に伴い、現在の町域が上野国利根郡となる。
8世紀末〜9世紀初?(約1200年前) - 三国峠を越え、上野国と越後国を結ぶ街道(後の三国街道)沿いに法師温泉が開削されたと推定。弘法大師空海による開削伝説を持つ。法師温泉長寿館ホームページ内 「法師の歴史」
1492年(明応元年) - 沼田氏により、沼田城の支城として旧月夜野町内に名胡桃城が築城されたと伝えられる[3]。
1560年(永禄3年) - 越後の長尾景虎(上杉謙信)が初めて三国峠を越え、同町域を通って上野国へ侵攻。後北条氏を追い、利根郡一帯は謙信の支配下に入る。その後も三国峠や清水峠を利用して上越国境を抜け、関東に度々侵攻する。なお、謙信が猿ヶ京温泉(旧新治村)を名付けたとされる。
1578年(天正6年) - 謙信が病死。その後の御館の乱に乗じ、武田勝頼の部将だった真田昌幸が沼田城を落とし、利根郡地域を支配。昌幸は武田氏の滅亡後も領地の維持に成功。
1590年(天正18年) - 小田原征伐後、利根郡一帯は昌幸の子、信幸の支配地となり、沼田藩が実質的に成立。

(゜-゜)歴史・・
※8世紀末〜9世紀初?(約1200年前) - 三国峠を越え、上野国と越後国を結ぶ街道(後の三国街道)沿いに法師温泉が開削されたと推定。弘法大師空海による開削伝説を持つ。法師温泉長寿館ホームページ内 「法師の歴史」
※1492年(明応元年) - 沼田氏により、沼田城の支城として旧月夜野町内に名胡桃城が築城されたと伝えられる[3]。

(゜-゜)沼田氏・・? ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BC%E7%94%B0%E6%B0%8F

沼田氏(ぬまたし)は、日本の氏族。主な流れとして次の一族がある
上野沼田氏 - 本姓不詳で上野国を本拠とした一族
若狭沼田氏 - 上野沼田氏の庶流で若狭国に土着し、沼田祐光を出した一族
越中沼田氏 - 藤姓秀郷流波多野氏を称した一族

上野沼田氏
出自[編集]
先祖は諸説あって不詳。『沼田町史』によれば、鎌倉時代に大友氏の一族・太郎実秀(大友能直の母方の叔父)が沼田氏を名乗ったが、その後、三浦氏系の沼田氏が入り、以後戦国時代まで続いたという。三浦氏系の沼田氏は、三浦泰村の次子・景泰が宝治合戦で自害せず逃亡し沼田氏の祖となったという(「加沢記」)[1]。
このほかにも、『沼田町史』『沼田市史』は有力と見ていないが、緒方氏説(『上毛故城塁記』)と山科氏説(『上毛沼田伝記』)がある。前者は緒方惟秀の子・惟泰を、後者は鎌倉氏の一族・山科景正の子・景泰を沼田氏の先祖とする。
(゜-゜)・・????
※鎌倉時代に大友氏の一族・太郎実秀(大友能直の母方の叔父)
※三浦氏系の沼田氏は、三浦泰村の次子・景泰が宝治合戦で自害せず逃亡し沼田氏の祖となった
※緒方氏説・・緒方惟秀の子・惟泰を先祖とする
※山科氏説・・鎌倉氏の一族・山科景正の子・景泰を沼田氏の先祖とする

(゜-゜)大友氏・三浦氏・緒方氏・鎌倉氏一族山科氏・・??
何だか、すごく気になってきました・・

(゜-゜)転記を続けます・・
『吾妻鏡』に初出するのは沼田太郎で、文治元年(1185年)10月24日の頼朝随兵として登場する[2]。沼田太郎は建久元年(1190年)11月にも随兵としてみえる。その後、沼田氏は和田合戦に参加している。どちらの陣営だったかは不明。この戦いで沼田七郎・次郎が戦死したと記載される。承久の乱では幕府方として参加した。[3]
『沼田市史』によれば、鎌倉時代後期には大友氏が沼田を支配しており、大友一族が入っていたと見られる。そののちに三浦氏後裔を自称する沼田氏が登場した。[3]
鎌倉末期以降は、沼田氏は元弘3年(1333年)の千早城・赤坂城攻めに鎌倉方として見え、結城合戦では沼田荘を本領とする沼田上野三郎が上州白旗一揆の成員だったとある[4]。文明3年(1471年)5月30日には沼田彦三郎の子が足利義政から感状を得ており、一揆構成員から独立した武家になっていたとみられる。[3]
享禄・天文年間には沼田中務大輔顕泰がいた[5]。顕泰は享禄4年(1531年)に同族の発智氏と争っている。沼田城を築城し幕岩城から移って居城としたという[3]。山内上杉憲政が後北条氏に敗れると、沼田顕泰はこれを迎え越後国へ落ち延びさせたが、隠居していた顕泰と当主・弥七郎(顕泰次男または三男)との間で内紛が起こる[6]。弥七郎は北条氏側につき、顕泰は上杉氏側で家中が分裂したためであった。この内紛は、弥七郎が顕泰によって討たれ、その顕泰も北条方の厩橋長野氏によって攻められ越後に逃亡したことで、沼田領を後北条氏が手に入れ、沼田氏が没落して終わった。沼田氏の名跡は永禄2年(1559年)8月以前に北条綱成次男・北条康元が沼田城に入って継承した。[5]
しかし永禄3年(1560年)、越後の上杉謙信が越山してくると、沼田康元は敗れ、沼田顕泰は復権して上杉配下で沼田衆を率いる立場になった[7]。だが要衝・沼田城は上杉謙信家中の城代支配とされてしまった。
その後、沼田城は御館の乱の混乱で後北条氏側に奪回され、次いで武田勝頼配下の真田昌幸により調略された。一方、沼田顕泰の子・平八郎景義は後北条氏方となった由良氏について上野女淵城に復権していたが、天正9年(1581年)由良氏の支援を得て武田方となった沼田城の奪還を図った。しかし景義は真田昌幸の意を受けた金子泰清により沼田城で謀殺されてしまい、これによって沼田氏は滅亡した。

(゜-゜)享禄・天文年間には沼田中務大輔顕泰がいた・・
沼田中務大輔顕泰・・ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BC%E7%94%B0%E9%A1%95%E6%B3%B0

沼田 顕泰(ぬまた あきやす、生没年不詳)は、戦国時代の武将。上野国利根郡沼田の領主であった沼田氏の当主。 
沼田泰輝の実子。正室は長野業正の娘[要出典]または長尾景春の娘。万鬼斎、勘解由左衛門尉。
左衛門尉三郎(憲泰)・弥七郎朝憲(則安、正室との子)・平八郎景義(側室との子)らの父(『沼田町史』)。(他に沼田祐光の父とも)。娘には安中越前守重繁室と、長野業正室があったとみられている(『戦国大名と外様国衆』黒田基樹、1997年)。また、長尾景春の娘は子・憲泰室とも伝わるが、景春の室は顕泰の妹であり、世代から合わないとされる(『戦国大名と外様国衆』)。

\(◎o◎)/!長尾景春の娘は子・憲泰室とも伝わるが、景春の室は顕泰の妹であり・・
「長尾氏」に繋がっています・・
長尾景春・・ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B0%BE%E6%99%AF%E6%98%A5

長尾 景春(ながお かげはる)は、戦国時代の武将。北条早雲と並ぶ関東における下克上の雄の一人である。
嘉吉3年(1443年)、長尾景信の子として生まれる。景春の白井長尾家は、祖父の景仲が山内上杉家の家宰を務めてから筆頭家老となり、父も家宰として勢力を伸ばした。景春も山内上杉家の家臣として享徳の乱で古河公方・足利成氏と戦い、文明3年(1471年)に父と共に成氏の古河城攻めにも参戦している。

氏族 白井長尾家
父母 父:長尾景信、母:長尾頼景の娘
(゜-゜) 母:長尾頼景の娘・・越後長尾氏

夢を見て「矢瀬」という地名を調べたら、長尾氏に繋がっています・・

宮原の先祖「橘公綱」と平頼綱の母であった「豊田五郎景基の娘」
こちらのスレッドコメント6で・・・
転記します(._.)

豊田五郎景基という方ですが、「長尾景基」。この方なのかな??と?
【桓武平氏良茂流】梶原氏と同じ「鎌倉氏」からの系ですよね・・

上杉頼成の妻が長尾景基の娘ですね。子供に長尾藤景。
長尾藤景の娘は長尾景為(景能の子)の嫡男「長尾景忠」に嫁いでいますが、「長尾景忠」の母は「佐原明連」の娘です。
「佐原明連」は三浦盛時の孫、義連の玄孫・・となります。
(゜-゜)佐原氏とも繋がっているのですね・・

豊田五郎景基とは「長尾景基」なのでしょうか??

(゜-゜)っと、ここから先を調べていたのですが中々すすんでいませんでした・・

とても「長尾氏」が気になり始めました。
※沼田 顕泰・・正室は長野業正の娘[要出典]または長尾景春の娘。
※長尾景春の娘は子・憲泰室とも伝わるが、景春の室は顕泰の妹であり・・

さらに調べたら・・
長尾景春の祖父「長尾 景仲」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B0%BE%E6%99%AF%E4%BB%B2
長尾 景仲(ながお かげなか)は、室町時代中期の武将。山内上杉家の家宰で上野・武蔵守護代。上野群馬郡白井城主。鎌倉(足利)長尾氏の長尾房景の次男で、母は白井長尾氏の長尾清景の娘。母方の伯父である長尾景守の婿養子となって白井長尾氏の家督を継いだ。子に景信、忠景、景明、娘(太田道真正室)。孫には長尾景春(嫡孫)・太田道灌(外孫)がいる。

\(◎o◎)/! 太田道灌に繋がりました!!
江戸城(平河城)を築城した太田道灌に繋がりました!!
太田道灌は長尾 景仲の外孫であり、長尾景春のいとこです。

夢から進めたら・・何故か太田道灌まで繋がってしまいました・・

どのような夢を数日見たのかといいますと・・(マタマタ(ー_ー)!!という声が・・)

夢で、何度も聞かれたのです・・「何故?矢瀬なのか」と・・
「矢瀬」??何だろうと考えてみると、もしや「矢瀬主馬祐」この方のお話かな?と思ったのですが・・
でも「何故?矢瀬なのか」と言われても・・?ですから「矢瀬」という地名が気になったのです(?_?)

ここまでの調査を整理します(._.)
「矢瀬」という地名を調べたら・・
※群馬県みなかみ町にある「矢瀬遺跡」
※みなかみ町は「沼田氏」が所領していた
※「沼田氏」の祖は複雑で・・
  ※鎌倉時代に大友氏の一族・太郎実秀(大友能直の母方の叔父)
  ※三浦氏系の沼田氏は、三浦泰村の次子・景泰が宝治合戦で自害せず逃亡し沼田氏の祖となった
  ※緒方氏説・・緒方惟秀の子・惟泰を先祖とする
  ※山科氏説・・鎌倉氏の一族・山科景正の子・景泰を沼田氏の先祖とする
※沼田中務大輔顕泰の妻「長尾景春の娘」
※長尾景春・・太田道灌は長尾 景仲の外孫であり、長尾景春のいとこ。

(?_?)・・「矢瀬」→ 「沼田氏」 → 「大友氏」「三浦氏」「鎌倉氏」「緒方氏」「長尾氏」「太田道灌」「平河城」・・
橘公綱と平頼綱の母は・・豊田五郎景基。「長尾景基」?

ものすごくモヤモヤしています・・(._.)

ふと・・思ったのですが・・
相良長頼が人吉城に入城した際の「平河義高」も関連する記述ですが・・
本当に「真実」だったのかな・・???

「矢瀬」という地名のある「沼田氏」が治めた土地には、相良長頼が人吉城に入城した当時(鎌倉初期)「大友氏」「三浦氏」「鎌倉氏」「緒方氏」が繋がっていたという事ですよね・・
さらにその後は「長尾氏」も繋がっている・・
今年見つかった様々な情報から考えても・・ものすごくモヤモヤしています・・

もしや??とは思うのですが・・太田道灌が築城した「平河城(江戸城)」
「平河」・・??・・偶然ではないような気がしてきました・・

今日は、夢からの調査を御報告致しました。
では(._.)
[28]子孫よりさんからのコメント(2015年02月23日 13時42分58秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)
久しぶりの登場です。
引っ越しの準備に追われて、コメントしたい情報は沢山見つけているのですが、中々、まとめられずにいます。

所で・・
わたくし、初めて「肥人書(くまびとのて)」という存在を知りました。
(うそ〜〜〜〜!!という声が・・(._.))

球磨に帰るので、今まで私が知らなかった沢山の「球磨」に関する記述を見ていたのですが「肥人書(くまびとのて)」とはナンジャラホイ??と思い調べました。

謎の文字・神代文字とは 阿比留文字
http://matome.naver.jp/odai/2141317479524361701
阿比留文字
神代文字の一種である。肥人書(くまびとのて)とも呼ぶ。
対馬国の卜部氏・阿比留氏に伝わったといわれ、江戸時代の国学者・平田篤胤は「日文四十七音」とも呼んだ。
太占の兆形から出来たともいわれる。古代の肥後国球磨郡(球磨川流域・球磨盆地)に住んでいた人(肥人、くまびと)が使っていた文字とされる事から「肥人書」とも呼ばれる。
ハングル文字に影響を与えたのでは?という意見もある。

\(◎o◎)/!ナンデスト!!
古代の肥後国球磨郡(球磨川流域・球磨盆地)に住んでいた人(肥人、くまびと)が使っていた文字とされる

かなり以前、平河家について(続5)コメント12
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101333.html
こちらで日本の苗字七千傑様より「神代文字は存在したか?」という御教示を頂きました。
※偽書と言われる「先代旧事本紀」でさえ平安時代の「日本紀私記」に引用されているが、これらの古史古伝書写本の存在が確認できるのは、平田篤胤が「神字日文伝」を著わした国学興隆時代以降である。
※多くの神代文字を見るとハングル文字(朝鮮)、タガラ文字(フィリピン)、カローシュティ文字をはじめとするインド系諸文字に似ており、鎖国以前の朱印船渡航時代にアジア各地から渡来した文物を基に復古神道思想に感化された古社の神官などが神代文字を偽作したもの思われる。

(゜-゜)「平田篤胤」という方が「『神事日文伝』で「阿比留文字」として紹介し「日文四十七音」とも呼んだ。」
とウィキにありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%94%E7%95%99%E6%96%87%E5%AD%97
また、平田篤胤が『神事日文伝上』で『釈日本紀』に述べられていた「肥人之字」であると書いたのは、篤胤が阿比留文字の草書体と考えていた「阿比留草文字」である[2]。篤胤は「阿比留草文字」は「阿比留文字」の草書体であるとしていたが、現在は一般的に別の文字であるとされる。

(゜-゜)平田篤胤・・阿比留文字・・「肥人之字」・・「肥人書」・・古代の肥後国球磨郡(球磨川流域・球磨盆地)に住んでいた人(肥人、くまびと)が使っていた文字・・????

(?_?)変な発想をしてしまいました・・
何故??平田篤胤という方は「球磨の人」という「球磨」という言葉が頭から出てこられたのかな??

(゜-゜)すごく「平田篤胤」という方に興味が湧きました・・
平田 篤胤 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4

平田 篤胤(ひらた あつたね、1776年10月6日(安永5年8月24日)-1843年11月2日(天保14年閏9月11日))は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては玄琢を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。
復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。

\(◎o◎)/!ええええええええっ!!!!
出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。・・ナンデスト???!!

1776年(安永5年)8月24日に出羽久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤の四男として久保田城下の下谷地町(現在の秋田市)に生まれる。

系譜[編集]
生家は千葉氏の一族で戦国期に佐竹氏に仕えた大和田家胤を祖とする大和田家であり、養子先は平家の武将・平家継の末裔を称する平田家で、どちらも桓武平氏の流れを汲んでいる。

\(◎o◎)/!・・(?_?)
平田篤胤という方は・・出羽久保田藩(現在の秋田市)出身
出羽久保田藩(現在の秋田市)・・この場所は・・先祖「橘公業」が所領していた土地ですね・・
(もちろん、関係ないとは思うのですが(ー_ー)!!(?_?))
平田篤胤という方と「球磨」は直接結びつきませんが・・
もちろん「橘公業」と「球磨」は、御存じの通り「肥後国球磨久米郷」で繋がります・・
何だか「モヤモヤ・むずむず」してきました・・

所で「阿比留文字」「肥人書」でとても興味ある記述を見つけました。

大内神社 古代文字「阿比留文字」の考察 丸谷憲二氏
http://b.saidaiji.org/wp-content/uploads/2011/03/110302ahiru.pdf

(゜-゜)こちらに・・
4.3 長尾神社の阿比留文字
4.3.1 長尾神社
長尾神社(倉敷市玉島長尾 2287・小字宮原)は、応永年間(1394〜1428)に宇佐八幡宮から再勧請された。天正年間(1573〜1593)には毛利備中守隆元の祈願所であった。その後松山城主池田備中守、同出雲守の新田開墾の祈願所となった。頭番祭(75 膳の神饌を調製し神前に供えた後、直会として参列者が戴く。膳は握り飯、頭付きの魚、竹箸)。
4.3.2 長尾神社の阿比留文字 「カムナカラ」

(゜-゜)私には、難しい研究に関しては意味は解りません・・
でも・・解るのは・・
こちらに書かれている「阿比留文字」「肥人書」に関係された方々の姓は・・
今までの先祖調査で頻繁に登場した「姓」の方々ばかりです
\(◎o◎)/!

大内氏・・故郷「旧宮原村」にあった「宮原銀山」に関わりがありました。
長尾氏・・橘公綱の母は「長尾景基の娘」の可能性あり
さらに「伊予」や「松山藩」「池田氏」・・・

何だろう・・私がど素人だけに普通の人が興味を持つ所とはポイントが違うのだと思うのですが・・

古代の肥後国球磨郡(球磨川流域・球磨盆地)に住んでいた人(肥人、くまびと)が使っていた文字とされる・・
「阿比留文字」「肥人書」に関わる「方々」や「神社」・・
すべて、繋がっているような気がするのですが・・???
(素人の素朴な疑問でございます(._.))

あの・・こちらのサイトには・・
http://worldsecrets.webcrow.jp/column21.html

※現存する阿比留文字ですが、インターネットで見つけた『大内神社 古代文字「阿比留文字」の考察』(丸谷憲二:著)という論文によると、岡山県備前市の大内神社や倉敷市の長尾神社、福岡県添田町の英彦山神宮などには現在でも阿比留文字が残されているそうです。
(゜-゜)と書かれています・・
「大内神社」「長尾神社」・・\(◎o◎)/!「福岡県添田町の英彦山神宮」

\(◎o◎)/!えええええええええええええっ!!ナント!!
何度も伺っている「英彦山神宮」にも「阿比留文字」

でも・・よ〜く考えてみると・・「福岡県添田町」こちらも橘公業が所領した「豊前国副田庄」でございます・・
考えすぎかな・・???

だけど・・英彦山神宮に伺った時に「故郷は熊本県球磨郡のあさぎり町、旧宮原村です」と宮司様にお伝えした時に・・すごく驚かれていました・・??
考えすぎかな・・???

という事で
もうすぐ「肥人くまびと」の里に帰り「球磨人」に戻る私が、「肥人書(くまびとのて)」を初めて知りました・・
というお話でした。
では(^・^)
[29]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年02月26日 11時34分42秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

子孫よりさんへ
 
>『神事日文伝上』
 
以前は国会図書館特別閲覧室でしか閲覧不可だったが、
現在はWeb上で閲覧出来ますよ。
 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562730
 
しかし阿比留文字が神社にしか遺されていないのは、おかしいとは思いませんか?
[30]子孫よりさんからのコメント(2015年02月26日 13時19分26秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、御教示本当にありがとうございます。

さっそく、「神事日文伝上」を拝見いたしました。
知識の無い私には、かなり難しいですが、ただ、少しだけ読み進めてみると

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562730
コマ番号 10 に

鹿島神宮 大三輪神宮 彌比古神社 鶴岡八幡宮 大和国法隆寺

そして「奥書」「草書」
肥人の書 縦横父母の字原も記し傅え・・

どういう意味なのでしょうか・・?
とても興味が湧いてきました。

「しかし阿比留文字が神社にしか遺されていないのは、おかしいとは思いませんか?」

何故なのでしょうか???

球磨に戻る直前に「肥人の書」を知り、日本の苗字七千傑様にご教示を頂いた・・
これは、確実に何かの「縁」だと思います。
しっかりと、勉強したいと思います。

今までは、球磨から離れた環境で手探りの調査でもありましたが、球磨に戻りましたら、精力的に、身体を使った「足」を使った調査を行います。(^・^)

所で・・
私は本当に何も知らなかった事を痛感する出来ごとがありました。

自分の本籍地の場所についてです。
父に確認したところ、実家の住所ではないので「ここは?」と聞くと
「古の宮原家代々の城主が住んでいた居館跡だ!!」
と言われました\(◎o◎)/!

本当にビックリです。っと言うか祖父の生家には名残があって何となくそうかな?とは思っていたのですが、父からは今回、初めて聞きました。

祖父は生家を離れましたが、宮原一族の一致団結?した意見より、本籍地は、そのままで、なおかつ、私の父・私・今後、実家の「宮原家」を継ぐ者は、必ず本籍地は、「居館跡」になる・・というか、そうしなければいけない!という事でした・・

父は、今まで何も教えてくれていませんでしたが、やっと「娘」が家に戻る事になり、初めて教えてくれました。
聞いて、身の引き締まる思いです。

何も出来ない私ですが、先祖の調査も、私なりに頑張りたいと思います。(^・^)

では(^・^)

[31]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年02月26日 20時22分46秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

子孫よりさんへ

神代文字の存在自体がヨタ話だがらですよ!
 
万葉仮名が八母音で、その後に現代の五母音に移行した。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/8boin.htm
 
現代の学会でも、神代文字は否定されている。
神代文字が八母音だったら、馬脚を顕さずに済んだんだけどね!

[32]白石さんからのコメント(2015年03月08日 02時21分42秒 ) パスワード

こんばんは
お久しぶりです。やっと 下界に降りてこられました。(^<>^)病院は山の上にあるのです。
久しぶりに買い物ついでに見えた ここらの共同墓地をのぞいてみました。それは 赤大路にある墓地で こちらに引っ越してきたときに目につき 入ってみたところです。ちなみに 私が住んでいる家の地番も赤大路です。
その頃 何が目についたというと 大きな自然石でしたが 見ると 代官の墓と彫り付けてあったのです。
ところが しばらくして 行くとそれはもうなくなっていて あれっと 思いながら 30年位立ちました。今度 おばあさんが そのあたりで 墓の周りの草むしりをしていたので 入ってみたのです。もうすぐ 自分も入ると まだ お彼岸でもないのに ひまさえあれば訪ってご先祖様と話をしながら きれいにしているのでしょう。
それで ずっとまえだけど ここらに 自然石で代官の墓と書いてあるお墓をみたのですが と 伺うと
ああ それは 宮さんとこでしょう という返事。
私「宮さん?」
「そう そこにお宮さんがあるでしょう。北川さんとこのお墓ですよ。 今は この 奥の方に移っています。私も よそからきたから詳しくは知らないけど・・・北川さんとこですよ」ということでした。なので奥の方に行ってみると ひときわ大きなお墓があって北川家奥都城とありました。
[33]白石さんからのコメント(2015年03月08日 02時25分34秒 ) パスワード

こちらの北川という家は 他に茨木の方で 大きな本屋をしている家があり 祖先の頃枝分かれしているようです。
こちらに 菅原道真の側室に由来する「子安神社」があり、そこと「鴨神社」とを兼ねて宮司を勤めているお家に北川家があり
私過去にもう一軒 神社関係で 下村という家も鴨・子安神社の神主さんと聞いた記憶があり とにかく 北川家は神道の家のようです。
道真の側室が「赤大路」の町名の由来になった人です。
ちなみに この辺りは 藤原の荘園だったところで 私がすんでいるところも 地番は 赤大路でした。すぐそばに富田があり 溝ひとつで 茨木総持寺です。
[34]白石さんからのコメント(2015年03月08日 02時32分59秒 ) パスワード

富田にも 総持寺にも 墓地はあり 大きさは 総持寺墓地(藤原山蔭公の墓がある)>富田>赤大路ですか。ただ 開発の関係で土地がせばめられたこともあろうかと 思います。近所の工務店の人に聞くと 昔は 高槻駅あたりまで田んぼ 田んぼだったということで 今は そんなこと 想像もつかないほど びっしり家が立ち並んでいます。又 江戸時代の頃は 富田地域は 全国一位の酒どころだったのに 鉄道を通すのに反対をしたので その後 地盤沈下。鴨神社のところには 賀茂郡富田郷だったか 反対の富田郡加茂郷だったか とにかく 賀茂と富田は くっついた言葉で 石の目印があります。

共同墓地の北川家の墓のそばに 同じ大きさで 越智家の墓があります。三つ折敷紋です。賀茂 大山祇の関係でしょうか?
[35]白石さんからのコメント(2015年03月08日 02時43分17秒 ) パスワード

北川家のルーツをざっと見ると 
中富鎌足に発して 姉小路流とか秀郷流とか いろいろあるようですが 熊本細川家家臣の家もあり 
私の故郷にも 同級生の家に北川家はあり 下村家もありました。
川向には 溝口家があり そこは 熊本城の柱を持ってきて家の柱にしているというところで 細川藩に関係しているのかな ? とも思われます。

北川家女子は これまた 美人で 私の家の者とは顔立ちはちがうのですが すこし 肌が黒いようでしたが 細面で くっきりはっきり という感じで髪は直毛
背は高かったです。運動会できれいだから といって 大原女の衣装をつける競争のモデルにして着付けたりしました。女は男しだいという言葉がありますが 上阪して大手会社の社員と結婚して穏やかに楽しく暮らしている様子が 去年の電話でわかりました。家族でスキーなどしています と 子供の頃の内気そうな感じからはほどとおい 変わりようでした。
下村の方を見ると
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系 である平氏(桓武平氏)、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷 流、古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい) ...etc

肥前の下村氏は藤原北家_秀郷流で少弐政資の次男の長光が肥前国下村を領したの に由来する。
とあり
下村は しもぶくれの顔立ちでした。
色は白いほうです。
[36]白石さんからのコメント(2015年03月08日 02時46分55秒 ) パスワード

ところで
私今度 山のことで 四浦の尾方と話をしたことがあるのですが 子孫様 ごめんなさいです。私 集落の尾方のおじ(親戚ではなく 同じ集落というところで 橘紋を使う)が どこかのお寺から来られている と 前に書きましたが 間違いで 「吉田」という家からきているのでした。尾方の息子から聞きました。吉田は 同じ集落にいました。そばに 松本という家があり そこも 尾方と近い関係で 親戚。松本のことは 子供の頃聞きました。
尾方は初神に茶畑を持っていて 初神の尾方からうちの平川に祖母の代に嫁入ってきて その女子と高岡の息子と結婚。婿入り。
という関係で平川の 隣に父が戦後買い求めた家は 尾方が本籍にしている地番だと このたび 知りました。
[37]白石さんからのコメント(2015年03月08日 02時57分17秒 ) パスワード

ちなみに 父の生家がある 萩(葉木の佳字)は四軒でしたが 一帯の山も 萩という地番です。
尾方は 高岡と同じく お墓があるのは 深田善正寺です。深田という地名は 
現福岡県北部である筑前国宗像郡深田郷が起源(ルーツ)である、宗像氏がある。ほか 清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする 源氏(宇多源氏)などにもみられる。

宗像氏が 「上記」を持っていたのですね。確か 洪水で先ごろ紛失されたと記憶していますが・・・
[38]白石さんからのコメント(2015年03月15日 21時09分28秒 ) パスワード

病院では 妻が 平野という家の人だという人とも話したことがありますが
滋賀県やす というところに 平野ばかりの墓が いっぱい 100以上くらいか立ち並んでいて
一年に一回みんなで集まって 墓掃除をしているそうです。
平家のどなたかの子孫なのだと いう話でした。
四浦でも 
母が言うには 平がつく家は さしずめ 平家の流れ ということで
平野は 小山家があるところの もう少し坂をあがったところにあります。

遠く離れているのに 
同じ 平家の子孫と 伝えているところは 興味深いものです。

福岡県 やす の 方は 児島高徳の話があるところですね。児島の宮。
[39]子孫よりさんからのコメント(2015年03月21日 18時27分56秒 ) パスワード

皆様お久しぶりです。
白石様、ご退院おめでとうございます。(^O^)
私はついに球磨に戻りました^_^
引越しの後片付けや部屋の模様替えに日々忙しく動いています。
ただ、残念な事にネットがまだつながっていません。
本格始動?は四月中旬からになります
今日は宮原観音堂のご開帳がありまして、お参りしました。
少しづつ球磨人に戻ってきました。(^O^)
それと私勘違いしていました。
稲積神社は祖父の実家のすぐそばにあったそうです。
とても大きなお鏡があったという事を椎葉のおじから聞きました。
ネットがつながるまで中々コメント出来ませんがこれからもどうぞよろしくお願いします。
球磨の地から
子孫より^_^
[40]白石さんからのコメント(2015年03月21日 20時51分52秒 ) パスワード

子孫様 こんばんは
お元気そうですね。
私 病院にいるとき いろいろ 考えました。
たわいないことですが

どうしえ 健康に気をつけ 頑張って 家庭を維持しようとこの年でもパートに出て働いているこちらが 病気になり 
煙草を すぱすぱ 部屋がくさくなり 煙のカーテンができるほど煙草を吸い上げ
アルコールを飲みあげるあちらが 何ともないのか ?
同じようなことは 一緒に入っていた人も言っていました。
おまんじゅうを 一日に5〜6個食べる知り合いは何ともなく
夫が亡くなった後 生活を支えるために必死で働き そんなにばかばかしく食べることもなかった自分が病気になるなんて ・・・と。そして 遺伝?と考えが走るのです。

また
もう 40年位前になるのですが
新聞でみたのですが 若い女の人が人に席を譲らず 大きな顔で座って 降りてしばらくの間足が悪そうにして見せて 場所を離れたら さっさと 歩いて行った
というのです。

それを読みながら 人は人のことを本当にはわからないのだ と 思いました。
というのも
私も 足が悪く 外からはなんともないけど 座っていて 立った後 しばらく油切れしたみたいに こくん こくん という感じで歩くのです。
当然 電車などでたっていると ひりつくような痛みになるので 席があいていると座ります。

そのようなことを 新聞で書かれた人に同情します。

なんだか 平川から はなれた話ですみません。

 
[41]子孫よりさんからのコメント(2015年03月24日 11時13分30秒 ) パスワード

皆様こんにちは(^O^)
スマホでのコメントです。

先日、いとこと会った時に昔いとこの家の住人だったとても賢い猫ちゃんの話しになりまして・・
彼の名前は「かげとら」
メチャクチャ賢くて強いかげとら君だったのです。
デモふと、何で「かげとら」?という名前が付いたのかな?
と思い従兄弟に聞くと
「長尾景虎のかげとらタイ^_^」との答えが(°_°)
ええっ!!?
メチャクチャビックリしました。
と言う事で、昔いとこの家にいた勇敢で強く賢い猫の「かげとら」は
長尾景虎の「景虎」が名前の由来だったと言うお話しでした。
では(^o^)
[42]白石さんからのコメント(2015年03月29日 03時04分49秒 ) パスワード

こんばんは
山口県の松下村塾があった場所は 「松本村」というのですね。

故郷の尾方つながりにみえる 尾方・吉田・松本

今度 萩の山の地図をみていて 小松という家をみつけました。
小松は 小野という集落にあった家で 今は 誰も住んでいません。

改めて 故郷を眺めると やはり 古くにさかのぼると 歴史にある人たちがでてくるなあ と 思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まったく話が変わりますが
人は人のことを本当にはわからない 2

退院して 健康器具の宣伝をしているところを教えてもらい 出かけました。
話の通り 私の体の状態に良く聞くものでしたが とにかく高い。
手がでないと あきらめています。

しかし
姓名を聞かれ 説明するのが面倒で 用紙を受け取り 自分で書き込みました。
その様子を知り合いが見ていたらしく 後日
「あそこにいたなあ 苗字を書くとき こう 人にわからないように 隠しながら 書いていたやろう」 
などと 言うのです、

えーっと なりました。
別にかくすわけでなく 口で説明するのもなんだから 自分で書き込み
眼がうすくなっているから 見えるように少しかざして書いただけなのに

人は 勝手に 自分の思い込みで 解釈するものだと 思いました。
そして
さらに
マスクで顔をかくして
というのです。隠すも何も 住んでいるところの近くは車の往来の激しいところで 排ガスがすごいので 年中つけています。

仕立て上げる人がいる ということを 知った 一事でした。 

[43]白石さんからのコメント(2015年03月29日 17時50分50秒 ) パスワード

歴史に出てくる家 2
今日 姉からメールが入っていて
岩崎というひとから電話が入るよ とのこと。

あねに電話して確認したら
私の一学年下ー岩崎

姉の嫁ぎ先・山口(いとこどおし で 夫婦)
その妹が岩崎と 昔 学校が一緒
山口の妹というのは 過日子孫様に送ったメールの 女子の母親です。

ということで
うちとは 岩崎家は親戚つながりではないのですが
その人が私を覚えていて 今度 電話をしたい と 言う話

まさに 世間はせまし です。
私もおぼろげながら あの子かなあ と 思う人があり
そして
地域に岩崎という家が あった ということを 他のスレッドで 書いたことがあります。
地域から出てくる
岩崎
市房神宮の御鏡を預かっている田山と同じ集落にある恒松と結婚している岩崎

恒松は 球磨では 相良氏に関与し 島津に関与する

島津は サダであり
私の母・佐田はなにやら 高岡(父)と 昔からの縁があって 結婚している。

サダの家系に 岩崎につながる系図がある。
これは うちの家の系図ではなく 一般にある系図。

ということで 
高岡の山・萩の地域に 小松や 岩崎があって なにやら ゆかり 縁 というものを 感じたという話でした。

この 岩崎は 今は東京に住んでいるそうです。




[44]白石さんからのコメント(2015年03月29日 18時01分46秒 ) パスワード

若年認知症
おれの金 おれの家 おれの年金 etc

おれの おれの おれの と 騒ぎ立て はてには 妻に暴力をふるう
これは 若年認知症だと 聞いたことがあります。

年食ってくるとどうしても こういう話になるのですが
人とはなしていると あそこも 自分の知っている人も 舅 姑も と いろいろと出てきます。

そして 暴力
どうして こんなにも 妻が そのおかげで 生活に困っているのに 対策がないものか?と 思います。

施設もあるには あるのですが
差額ベッド代など とても 払えず 怖い思いをしながら 生活している人が結構います。

中には それが 息子に向かい 息子が自殺する ことも。
こういうことも 悠久の歴史をきざんできた 日本人の持つ血に関与しているのか?と 思うのです。

死んでしまってからでは 警察は動かないではなく もっと 早い時点でその兆候が出た時点で 妻も生きていける方向で 解決の道がないものか?と 思います。
[45]子孫よりさんからのコメント(2015年04月06日 09時08分37秒 ) パスワード

皆様こんにちは(^O^)
白石様、士族岩崎氏は私の実家近くにも以前あったようですよ(^O^)

所で、家にあった古い文書を整理して色々わかりました。
まず、葦原様と書かれていた手紙ですが、実は宮原家宛でした。
大正末期から昭和初期にかけての書類が沢山見つかりその内容から判明しました。
縁戚関係かもしくは由縁のある家々なのかはわかりませんが連名のある手紙などで確認出来ました。
でも、何故、葦原様なのか??全くわかりません??
それと
祖父を育ててくれた宮原の曾祖母はやはり新堀家から嫁いでこられていました。
古い戸籍が家で見つかりそこに
岡原村宮原 士族新堀⚫️⚫️長女となっていました。
親戚に聞いた所、新堀家は祖父の実家近くに代々あり、明治時代に曾祖母の兄弟の方が病院を開業してその後、多良木に移られたそうです。
今は新堀家は宮麓集落にはありません。
他にも、書類等で昭和初期の宮原の縁戚がわかったのですが佐無田(さむた?)という姓もありました。

ところで
球磨郡誌を図書館で借りて読んでいて面白い記述を見つけました。
球磨各地に残る太鼓踊りの歌の歌詞についてです。
知らなかったのですが歌詞は各村々によって違っていて村のオリジナルソング?が沢山残っているようです。
その中に異風と呼ばれるものがあり、岡原村の異風な?歌詞も書かれていました。
ご紹介します
岡原村 太鼓踊 歌名 「豊後」
豊後の国の兼平様よ ハ萬餘騎でお立ちやる 立花殿は少しの武士で 槍と太刀とで手向ひめど 無勢多勢で手も合ひ召さぬ 攻め落されておいとし様よ。

何故?我が故郷にこの歌が残っているのか??
よくわかりません?( ̄▽ ̄)?

木上にも興味のある歌が残っていました。
こちらはまたいずれかにて^_^
早くネットが繋がって欲しいです。
では(^o^)
[46]白石さんからのコメント(2015年04月06日 19時41分20秒 ) パスワード

こんばんは
久々ですね。
近頃 なつかしい電話など 鳴り響いています。
同級生がほとんどですが すぐに むかしにかえって話がつうじるのがうれしいですね。

一年下の岩崎さんの家は薬を売っていて お父さんは 村役場の防災課長を勤めていて その前は 高原の飛行場にも いたとか? で 
ダム建設の計画の頃 あと 一歩で建設ごー まで こぎつけたというひとだそうです。

ダムについては 親戚同士でも 賛成反対に分かれていたし
漁業組合が強かったし で
なんとも言えませんが 清らかな水 澄みきった空がうれしいです。

岡原の太鼓踊りの歌 おもしろいですね。
兼平って 今井兼平でしょうか?
ウィキから ひろいましたが 
今井 兼平(いまい かねひら)は平安時代末期の武将。正式な名のりは中原 兼平(なか はら の かねひら)。父は中原兼遠。木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人。兄に樋口 兼光がいる。信濃国今井の地を領して今井を称した。
とありました。

あさぎり町あたりは 中原のうす太鼓踊りもありますが 県の重要文化財ですね。




[47]白石さんからのコメント(2015年04月09日 20時27分38秒 ) パスワード

こんばんは
豊後 兼平様のうす太鼓踊りは 別府 の ものなのですね。
この別府は「びゅう」と よぶのでしょうか?
[48]白石さんからのコメント(2015年04月13日 07時21分22秒 ) パスワード

おはようございますと
昨日は先日おはなしした岩崎さんと電話でおしとゃべりしていました。
同郷というのはすぐに話が通じてまるで今までの空白の時間はなかったかのようにしゃべることができるというのはうれしいものです。

過日お話したあちらの地域で 広い姻戚関係を持っているという中村家ともつながっており
堀川家ともつながっており
岩崎家には 祖母が深田・神瀬家からある家に嫁いできて 
出来た子が 岩崎家に嫁に来ているということで

とにかく
集落全体がぐるぐる つながっていて
平家の子孫といっていて
もとは 
五木・五家荘から広がってきた と しています。

私の子供の頃 人吉に行くと 四浦は 平家んしいのおらいたところじゃもんな
と言われていました。

五木・四浦はもとはひとつ

阿蘇氏支配の頃二つに分けられた
という話と合致するものを 普通の家の子供が知っていたわけです。
[49]子孫よりさんからのコメント(2015年04月18日 07時49分11秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

白石様、御教示ありがとうございました(^・^)
別府の太鼓踊り。別府だったのですね。知りませんでした。
別府は岡原では「びゅう」と呼びます。

別府の太鼓踊りについてネットに紹介されていました。
http://www.asagiri-town.net/q/aview/54/709.html

(?_?)でも、兼平という人物と「立花氏」について調べたのですが、何もわかりません。 何だか・・不思議な歌だと思います・・

っという事でナント・・ネットが繋がりました!!(^・^)
わが、あさぎり町にはNTTのフレッツ光が対応していませんでした・・(._.)
でも、ナント町オリジナル?「あさぎり光ネット」がありまして、契約して、昨日やっと工事が終わりました(^・^)

これからは「あさぎりネット」を利用しての調査?です(^・^)
メールアドレスも変わりましたので、このコメントから、新アドレスになります(^・^)

さて・・・
球磨での生活ですが・・とても快適です
大型の商業施設や量販店が沢山出来て、車さえあれば、全く不自由はありません(ー_ー)!!
雄大な山々に囲まれた景色を堪能しています。
岡原霧島神社前を通る県道43号線沿いの上村と岡原の境「神殿原(こうどんばる)」地域の上付近で、かなり距離が離れている「黒原山」と「市房山」がナント、並んでいるように見える場所を見つけました。
何故かこの場所では、先に書いたように「黒原山」と「市房山」は隣あって並んでいるように見えます。
この場所を偶然見つけた時には、あまりの景色に感動しました(^・^)

ちなみに岡原霧島神社前を通る県道43号線沿いは湯前から錦町「一武」まで繋がっていて、沿線には沢山の神社が建立されています。
県道43号線は、ちまたでは「神域ライン」と呼ばれているようです。

私が住む旧岡原村宮原宮麓地区のすぐお隣多良木町久米奥野地区の県道43号線沿いには白木神社があります。
宮麓と久米地区の境界線からわずか200〜300メートルの場所です。
御祭神は天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)。

散歩していて気がつきました(^・^)

神社と言えば・・
一昨日、鹿児島の霧島神宮にお参りしました。
えびの市では悪天候で土砂降りだったのですが、山に入る前にふと何故か
「大丈夫(^・^)到着したらきっと頭の上は青空になるから・・(^・^)」
と言ってしまい・・
霧島山や高千穂峰を望むポイントで本当にピタッと雨がやみ、上空に青空が・・
(今は、火山警戒の為、火山を望む事が出来る霧島〜小林間のルートは閉鎖されています)
さらに、神宮を目指して進むと、途中は大雨でしたが、霧島神宮に到着するとこれまた雨がピタッとやみ、頭の上だけに青空が広がり、太陽が真上にピカ〜ッと・・
この時ばかりは主人(きゃ〜(*^_^*)言っちゃった〜)も「すごい!!この状況を当てちゃったね〜!!」と驚いていました・・
さらに、大きな鳥居をくぐる瞬間には、青空の下で「ドド〜ン!!」と雷鳴がものすごい音を響かせまして・・何だか不思議な気分になりました。

霧島神宮には初めて伺いました。
すごく神聖な場所である事が、体中に感じられました。
お参りをして拝殿を見ると、装飾?に「象」さんが・・
「あれっ??象さん!!」と大きな声を出してしまったので、周囲の人も皆「象」が!!っと・・
「インドに関係しているのかな??」との声が聞こえましたが、何故か私は「インド」じゃないような気がしまして・・
象さんは色々な地域にいますよね・・カンボジアやパキスタンやタイや・・
(?_?)そういえば・・宮崎の高千穂峡にある高千穂神社にも「象さん」の装飾がありました・・(?_?)

家に帰り、一日の出来ごとを父に話しまして・・
すると、父から別経由での霧島神宮への道を教えてもらいました。
ナント、私が住む宮麓地区のお隣、多良木の久米地区から宮崎の小林に抜ける道があり、そこから現在閉鎖されている、高千穂峰下を通る道を超えて霧島神宮へ行けるそうです。
えびの経由より、断然「近い」との事でした。
この道は「むか〜〜し」からある道のようです・・(p_-)

球磨に戻り、小倉に住んでいた時とは真逆?の凛?とした生活を送る事となりました(^・^)
毎朝の、神棚・仏壇・観音様へのお水かえ・お参りなど(父は、外の氏神様へのお参りもかかしません)
先日、4月8日はお堂でお釈迦様のご誕生をお祝する「甘茶」の行事「花祭り」にも、今年は侍村(まちむら)地区が担当となっていましたから、参加して、参拝する方々を御接待いたしました(^・^)
前日にはお釈迦様のお家?(皆そう呼んでいました(?_?))を色とりどりの花びらで飾り、当日の準備を行い、4月8日は男性陣が神聖な薪を使って「甘茶」を沸かし、参拝した方々は、甘茶をお釈迦様の像におかけして無病息災をお祈りされていました。

地区の人たちと話しをしていると
「伝統を守る事は、簡単な事じゃない(ー_ー)!!色々大変だけれども、昔からの「宮原(みやはる)」ここの領主がこの村を守る為に沢山のお堂や神社を残して下さった。そのお陰で、村は大事なしに無事に過ごす事が出来た。感謝せんばんね〜」
と言われていました。
村を大事に思う心と、その心に感謝する心。
すごく勉強になった一日でした。
私も、球磨の人達のように純粋で清らかな心に早く戻りたいです(^・^)

という事で今朝は
「ネットが我が家に開通しました\(◎o◎)/!(^・^)」
というお話でした。
では(^o^)/



[50]子孫よりさんからのコメント(2015年04月18日 08時04分02秒 ) パスワード

追記・・

地区の人達は皆、旧岡原村宮原地区の事を「みやのはる」又は球磨弁で縮めて「みやんはる」と呼んでいます。
「みやはら」ではありません(ー_ー)!!

ちなみに、親戚、某家がある「森園」地区は現在の地名は「もりぞの」ですが正式?には球磨弁で「モイノソン」と呼んでいます。
私は「モイノソン」が「森園」と書く事を初めて知って衝撃\(◎o◎)/!を受けたほどでございます\(◎o◎)/!

では(^・^)
[51]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年04月18日 12時14分33秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

子孫よりさん へ
 
>「みやのはる」又は球磨弁で縮めて「みやんはる」と呼んでいます。
 
宮原の「はら」を「はる」と呼ぶのは、馬韓(百済)系地名の証拠です。
豊筑肥地域が、馬韓(百済)語からの影響が大きい為です。
森も百済語の「ムイ」が訛って「モイ」になったものと思われます。
 
詳しくは、仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」を参照の事。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/hypothesis.htm
[52]子孫よりさんからのコメント(2015年04月18日 22時47分11秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。

≫宮原の「はら」を「はる」と呼ぶのは、馬韓(百済)系地名の証拠
≫森も百済語の「ムイ」が訛って「モイ」になったもの

「モイノソン」や「みやのはる」にはこのような意味があったのですね。
驚きました。

故郷の地名や言葉にいっそう興味が湧いてきました。

食べ物に関してもおかずを「シャ〜」と呼び、かかとは「アド」
怪物などを「ガゴ」 おしりは「ヒュ〜」など、あらためて考えると、とても面白い言葉が残っています。
寂しい事を「トゼンナイ」漢字で書くと「徒然無い」となるそうです。
大変な事を「ジャ〜ジィ」これは「大事」かな?

仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」を拝見いたしました。
初めて拝見した時とは、今は違います。
御教示のお陰で私にもかなり「見えて」きました(^・^)

「球磨郡久米郷」を所領する事となった物部氏族の宮原の先祖。
何故なのか?何故「久米郷」を・・?????
でも、故郷に建立されていた神社を知った事により、必ず意味があったのだと確信しています。

所で
今日、家に配布されたあさぎり町の「あさぎり 5月号広報」に
「勝福寺跡荒茂毘沙門堂の3立像 国の重要文化財へ」
という内容が記載されており、特に興味を引いたのが、以前からコメントしていました「木造毘沙門天像」の胎内にあった言葉の中にある人名です。
藤原家永 そして「多治 助則」。

以前は「多治氏」としか解らなかったのですが、きょうの町広報紙に「多治 助則」と記載されていて驚きました。

「多治氏」ですね・・・・
勉強したいと思います。

日本の苗字七千傑様、御教示本当にありがとうございました。
[53]白石さんからのコメント(2015年04月19日 09時46分50秒 ) パスワード

おはようございます
子孫様 ネットがつながったのですね

球磨の方も 桜が散ったら 一気に初夏の日差しが照りつけるのではないか?と思います。白石の祖母の家に遊びに行ったとき そばの農業用水の水際にしげっている草の青々しさに見とれ 見はるかす先の木々の葉の色まで 美しくはっきりtいてとれたことを思い出し
子孫さま こういうところに住んでいたら 心も清らかに それこそ
「よかあ においのとんでくっでしょう」と のどかに昼下がりを楽しむことができますね

久米から宮崎へ抜ける道
大口越えが参勤交代の道でしたが、もうひとつ 米良越えも参勤交代に使われていた。ただ とても険しく難儀を極めていた と いうことです。
そこに ? だったか 白石 門 があり 百姓ばかりで かためていたそうです。この道が 久米ー小林を結ぶものかどうか?です。私も通ったことはありません。菊池は久米・米良にも関与していました。
毘沙門天は上杉が毘沙門天の生まれ変わりだと言っていましたね。

上杉の戒名に使われている 高岳の文字。
上杉に入る長尾。長尾市の話に 新羅・天日鉾。
長尾市は市磯長尾市で 市磯は大和国十市郡(桜井町)とされる。
このとき
市磯の言葉にはサダが関係していて たかおか・さだ が 微妙にからまりあっていることが  みえているのですが 
何分 昔の事で ・・・
長尾市は崇神天皇の頃の人のようです。



崇神天皇7年2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。

三輪山に関与して尾方があり 太田に関してたかおか・平川がありました。
そして たかおかをかいして さだ。




[54]子孫よりさんからのコメント(2015年04月19日 10時17分00秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、コメントした「勝福寺跡荒茂毘沙門堂の3立像 国の重要文化財へ」こちらの記述がとても気になって調べていたら、先日「後日コメントします」とお伝えした、球磨太鼓踊りの異風と呼ばれる「他地域」の歌に何だか繋がっているような気がしてきました。

まず、岡原以外の異風と呼ばれる球磨太鼓踊りの歌詞を御紹介致します。

木上村 阿蘇せんりゃうの歌
阿蘇せんりゃう強情な 一條殿には二條殿 三條下りの千口殿
一枝折りてお手にもち 二枝折りて腰にさし 三枝さすまに日がくれて

免田町 二子部落 羅生門
音に聞えし羅生門 さて又聞えし大江山 大江山と申するは 鬼人が住んでわざをなす
上公様にきこしめし 頼光討手とかかりやる 渡邊殿のお出やるに 五人の人を召し連れて 軍の装束華やかに 鬼と軍をなされしが 
いばらぎ童氏と申するは 受けつ流しつ戦ふに 足利将軍忠義公 金時助太渡り合ふ 鬼の討首はなやかに 頼光手柄と聞えたり。
引いてもろの様子見は 御庭の御遊び引いてよし。

木上村 阿蘇せんりゃうの歌 そして 免田町 二子部落 羅生門 を御紹介いたしました。

木上村は平河義高の居城「岩城」があった場所であり、免田町は相良氏球磨統一前、鎌倉後期までは先祖橘氏が所領した「久米郷東方下分」に含まれていました。
(免田川までが久米郷東方下分となります)
図を加工してブログに以前アップしていたのですが、かなり解り辛いです・・(._.)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11815058189.html

木上村 阿蘇せんりゃうの歌 にある人物?名は
「一條殿」「二條殿」「三條殿」「千口殿」

免田町 二子部落 羅生門 にある人物?名は
「上公様」「頼光」「渡邊殿」「いばらぎ童氏(人物かな??)」「足利将軍忠義公」「金時助太」
ちなみに・・「足利将軍忠義公」が何故登場するのか・・???謎です??

おそらく「頼光」とは源頼光 「渡邊殿」とは渡辺綱 ではないかと・・

では早速、上記の歌の人物と昨日コメントした内容が繋がっているのでは?と考えたのか、私の「自論?」をお聞きください(__)

「勝福寺跡荒茂毘沙門堂の3立像 国の重要文化財へ」にて記されていた人物名「藤原家永」「多治 助則」

以前、平川家について6 コメント6でもこちらの内容について触れていました。
http://hikoshima.com/bbs/heike/101337.html

転記します
あさぎり町の広報より
今回、発見された墨書銘には、木造毘沙門天立像を、いつ、だれが、何の目的で作ったのかが判明しました。その内容は、「当郷の領主の藤原家永が、藤原氏の災いをなくし、命を延ばし、福寿を増長することを目的とし、勧進にあたった僧は源与で、仏師は僧の経助で、この地にて成就し、多治治助ならびに藤原氏の一家の平安を願って久寿三年(1156年)四月二日に安置した」ということが書かれています。久寿3年の年は保元元年にあたり、あの源平モノの大河ドラマなどではよく耳にする「保元の乱」という事件がおこった年です。「藤原家永」という人は、先ほど述べた『図田帳』の「藤原家基」の一族に強い関わりがあると思われます。

※「藤原家永」という人は、先ほど述べた『図田帳』の「藤原家基」の一族に強い関わりがあると思われます・・

では、あさぎり広報5月号より 中略
一つは、平安時代末期に造られた事を示す墨書があることです。木造二天王立像の一方で、木造毘沙門天像の胎内に久安3年(1147年)の年号と制作者の仏師の名前があります。
また、本尊の木造毘沙門天立像には、久寿3年(1156年)に造られた事や制作者の仏師の名前があり、造像目的として当時の領主藤原家永と妻が願主となり、一族に災いがなく、命がますます長く延び、幸せで長命な事を願って造られた事が書かれています。
それに勧進僧の名や多治助則と藤原氏の一家平安も後書きして願っている事がわかっています。
藤原家は地元豪族須恵氏とほぼ判断でき、地元の古代の歴史に新風を吹き込むことになりました。以下省略

※「藤原家永」という人は、先ほど述べた『図田帳』の「藤原家基」の一族に強い関わりがあると思われます・・

藤原家基に強く関わりのある「藤原家永」

あらためて調べたのですが・・
藤原家長 ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E9%95%B7

藤原 家長(ふじわら の いえなが、生没年未詳)は、平安時代末期の廷臣。藤原北家魚名流、参議・藤原家保の子
元永元年(1118年)白河院判官代と鳥羽天皇の蔵人に任ぜられる[2]。美濃・土佐・備中・能登などの国司を歴任。また、藤原忠実・頼長父子に近侍し、その外出の際にはしばしば前駆を勤めている。その関係からか保元元年(1156年)の保元の乱においては崇徳上皇方に参じたと言われ、『保元物語』においては乱の後に出家・降伏した公家の中にその名が見える。ただし、その際の処罰を含め、その後の具体的な動静については不明である。
系譜[編集]
父:藤原家保
母:不詳
妻:不詳
男子:藤原家輔
男子:藤原隆雅 - 藤原忠雅の養子

(゜-゜)藤原家成と藤原家長は兄弟。保元の乱に関与。とここまでは以前調べていたのですが、見落していました(._.)
男子:藤原隆雅 - 藤原忠雅の養子
藤原忠雅 とは ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9B%85
藤原 忠雅(ふじわら の ただまさ、天治4年(1124年) - 建久4年8月26日(1193年9月23日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家花山院流・藤原忠宗の次男。
忠雅は幼少時に父を亡くし、母方の叔父藤原家成に引き取られて育った。

系譜[編集]
父:藤原忠宗
母:藤原家保の娘
妻:藤原家成の娘

父:藤原忠宗は・・ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%AE%97
藤原 忠宗 (ふじわら の ただむね) は、平安時代後期の公卿。左大臣・藤原家忠の長男。
兄弟 忠宗、忠能、忠兼、尋覚、覚観 そして義兄弟は藤原家光 - 橘俊綱の子

やはり、こちらに繋がっていました。
※尋覚。「平河師高」に対して、文治三年十二月三日の天野遠景下文は、「謀反他人に勝る」として宇野御厨小値賀島地頭職に補任とあったが、実際に補任されたのは「尋覚」。
※藤原家光。 藤原家基の父。

なるほど・・(゜-゜)そういう事なのですね・・

そして・・藤原家忠に至っては ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E5%BF%A0
系譜[編集]
父:藤原師実
母:源頼国の娘
妻:藤原定綱の娘

なるほど・・母は源頼国の娘
源 頼国 ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%9B%BD
源 頼国(みなもと の よりくに、生年未詳 - 天喜元年(1058年)?)は、平安時代中期の武将・官人。源頼光の長男。母は藤原元平、あるいは藤原元尹の娘。

説話上では、父頼光の酒呑童子退治に四天王や藤原保昌らと共に同行し、茨木童子の住居であった「鬼ヶ城」を攻め落とす武士として描かれるが、史実上の頼国に武人としての目立った事跡はなく、寛仁3年(1019年)に暴漢を逮捕したことなど、主に京周辺の警察的活動に従事した。

(゜-゜)・・球磨太鼓踊りに繋がってしまいました・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%A8%E6%9C%A8%E7%AB%A5%E5%AD%90
酒呑童子一味は大江山(丹波国にあったとされるが、現在の京都市と亀岡市の境にある大枝山という説もある)を拠点にし、京の貴族の子女を誘拐するなど乱暴狼藉をはたらいたが、源頼光と4人の家臣たち(頼光四天王)によって滅ぼされたという。 しかし茨木童子は逃げ延びたとされ、その後も頼光四天王の一人である渡辺綱と一条戻橋や羅生門で戦った故事が後世の説話集や能、謡曲、歌舞伎などで語り継がれている。

(゜-゜)・・という事です

歌や文化財に「謎」の解明の糸口が残っているのでは・・??という私の自論でした(._.)
では(^・^)
[55]白石さんからのコメント(2015年04月19日 13時08分15秒 ) パスワード

先ごろ 岩崎さんという人が私の 同郷の人に加わりました。
岩崎家は中村家と連なっており 中村(同級生)の家はつながりが大きく地域一帯にぐるぐる と つながっていて
中村は 伊勢では 中村の地が渡会の地でした。月読み神社があり、いざなぎ・いざなみが祭られる。

岩崎家の母方に深田の神瀬(こうのせ)という家があり
ここの苗字が球磨では 芦北郡にあり
前に 7000傑様が くだらぎ に関して 芦北を教えてくださっていたとおもっております。

神瀬(こうのせ)は 八代あたりの 白石駅の近くにあります。
坂本駅のちかくでもあり 芦北郡には やっぱり うちの家から出る苗字の家と同じ地名があると思います。
葉木もあります。
深田の善正寺にうちの高岡も入っており、同じ集落の尾方も入っており 
住職・前原氏。

深田に良峯師高の墓もあったんですよね。そこに荒田と書いてあったと・・・
球磨の方は こうのせ と 読みますが 伊勢の方でかみぜと読む地域を 他のスレッドでみました。NO2までしかコメントはありませんが

 投稿番号:101344 投稿日:2014年02月28日 20時45分29秒
 お名前:堀江 平家らしい
三重県多気郡大台町神瀬
Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!-教えてください
神瀬に住んでいる堀江さん
『神瀬はもともと平氏が先におり、後に源氏方が入植。その折り血生臭い事もあったらしい。』
★堀江はもとは薩摩の武士だったとのこと
★堀江は平維盛の子孫または従者だったかも
球磨の神瀬には
熊野座神社と神瀬の石洞窟という言葉あり日本最大級の大きさとのこと。
熊野座神社。伊邪美命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまをのみこと)、事解男命(ことさきをのみこと)が祭られている。

★江戸・藩政時代から明治以前までは、人吉から球磨川づたいに下り、途中神瀬(こうのせ)で方向を変え、最も海に近い港町である佐敷に出るルートが人吉街道でした。(ネットより)

辰韓のうちの斯蘆が後の新羅になった。辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。

7000傑様サイトより
後漢書東夷伝韓条に「大なるは万余戸、小なるは数千家、各々山海の間に在り、地は合わせて方四千余里、東西は海を以て限りとなし、みな古の辰国なり。馬韓は最大、共にその種を立てて辰王となし、月支国に都し、尽く三韓の地に王となる。その諸国王の先は、皆これ馬韓の人なり。」の記述がある。

馬韓のあとが百済になっていくのですよね

葦原中津国の地図をみれば越地方も含まれると思われるが
ネットより
蛇神を崇める越のオロチ族(越王勾践の子孫、夏后帝小康庶子末裔)が江南から襲来

史記』によれば夏少康の庶子である無余が会稽に封じられ越の始祖






 



[56]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年04月19日 15時29分20秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>辰韓のうちの斯蘆が後の新羅になった。辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。
 
馬韓については、後の皇室につながるわけだが、
辰韓の方は秦始皇帝後裔であり、西暦396年弓月君が来朝帰化。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03001.htm
 
この辺りが混乱するのは、日朝両国が紀年延長により正史を変造したことが原因。
両国ともうまくやったつもりが、多くの矛盾を増産させていることですよ。
更に中朝間の歴史年代にも矛盾を醸し出していることは事実。
 
完璧では無いが下記書籍が、ある程度は参考になるだろう。
日朝古代史 嘘の起源 (別冊宝島)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%9D%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%B2-%E5%98%98%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E5%88%A5%E5%86%8A%E5%AE%9D%E5%B3%B6-%E5%AE%A4%E8%B0%B7-%E5%85%8B%E5%AE%9F/dp/4800236215/ref=sr_1_23?ie=UTF8&qid=1429424294&sr=8-23&keywords=%E5%88%A5%E5%86%8A%E5%AE%9D%E5%B3%B6

[57]子孫よりさんからのコメント(2015年04月19日 21時36分09秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)
日本の苗字七千傑様、白石様、御教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様!!御紹介して頂いた書籍、父が持っています!!
びっくりしました\(◎o◎)/!
球磨に帰った時から何度も父より「読んで見たらいいよ。」と言われていたのですが、まだ読んでいませんでした(._.)
早速、読みます(^・^)

白石様
〉米良越えも参勤交代に使われていた。・・この道が 久米ー小林を結ぶものかどうか?

すみません。おそらくこちらの道ではないと思います・・
久米より槻木を超えて、黒原山の裏に廻り、小林に抜ける道との事です。
小林は、山は重なっているけれど、黒原山の裏?と言えばそうなるようです。
えびの(主人の仕事先・原田)までは、大畑(おこば)を通る国道経由だと、私の家からは1時間はかかるのですが、久米〜小林のルートは1時間はかからないとの事で、びっくりしました。
(昔の人は近道を作っていたのですね)

所で、今日は山江村「丸岡公園」のつつじ祭りに行ってきました。
丸岡公園は山江村の山田にあります。
かなり標高の高い場所で、球磨を一望できる景色も堪能してきました(^・^)

帰りには丸岡公園を下った場所にある高寺院の横を通り山江村歴史民俗資料館に立ち寄りました。
ちなみに、高寺院と山田大王神社はものすごく近く200メートルくらいしか離れていません。
実家に戻ったすぐ後の3月初旬に山田大王神社にお参りして、高寺院にも寄りました。思ったよりも近い場所で、その時は驚きました。
高寺院は平貞能ゆかりのお寺です。
http://yumeko2.otemo-yan.net/e366444.html
※二躯が平安時代後期の作で大正時代に国宝の指定を受けた優作です。
一躯は平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天を、滅後家人の平貞能が供養の為に躯内に納めて祀ったものと云われ、もう一躯は人吉市下原田町の真福寺から寛永18年(1641)に遷座されたものと伝えられています。

山江村歴史民俗資料館には初めてうかがいました。
入館の際にノートに記名をしていると、係の方が色々説明をして下さいました。
私は「山江村誌」が展示されていないか尋ねると・・
ナント!!ここに、あの「山江村誌」が販売されていたのです!!
\(◎o◎)/!
すご〜く嬉かったです(^・^)
でも、あまり手持ちのお金が無かったので、後日購入する事にしました。(ヤッタ〜(^o^)/)
以前図書館で借りた事などを係の方にお話しすると
「また、どうしてこの本に興味を?」と聞かれたので、「祖母が平川家から家に嫁いできています(^・^)」と答えると、記名した私の住所と名前を見た係の人が
「宮原家に平川家から・・なるほど、今でもそぎゃん事なんですな〜」と言われました・・??
そう言われてよ〜く考えてみると・・現在の祖母の実家平川家を継いだ、ふた従兄と私は、平川の系で言うと「ふた従兄」ですが、実は、宮原の系で言うと「はとこ」となる関係なのです。(二重三重の縁戚関係です)

山田城跡は現在は九州自動車道山江パーキングエリアとなっていて、工事の際に発掘調査が行われ、縄文式土器などが見つかったそうです。
紀元前6000年以上だと書かれた土器が沢山展示されていました。
その他「宋銭」や「明」のお金が出土して、それらも展示されていました。

山田大王神社にお祀りされていた男神像・女神像などもナント展示されていました。
山田大王神社にあった大きな板に書かれた縁起文(室町時代)も展示されていたのですが・・何故か?多良木大王 平河師高 とあったのです・・??
さらに、山田大王神社は創建ではなく中興が(1546年)「相良氏」でして、では建立はと言いますと・・ナント1299年。1299年から2年をかけての建立で、完成は1302年。ただし、創建・建立した方は誰なのか?は書かれていませんでした。

しかし・・1299年といえば・・
先祖「橘氏」が久米郷宮原に入部した年なのです・・???

その他、様々な事が解ったのですが、おいおいコメント致します。
では(^・^)


[58]子孫よりさんからのコメント(2015年04月20日 09時56分42秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日の山江村民俗歴史資料館訪問?の続きです(^・^)

山江村民俗歴史資料館では、
第1展示室が「九州自動車道建設工事に伴う発掘調査によって出土した、旧石器時代・縄文時代・古墳時代・そして歴史時代(中世)の遺物を中心に紹介」となり
縦30センチ以上の大きな壺?や石器(ナイフのようなものや鏃など)も展示されていました。山田城跡にこのような出土品があると言う事は、古代より、この地には沢山の人が住んでいたという事ですよね・・??でもすごい山の中なのですが・・?? すごいです\(◎o◎)/!

第2展示室では、「山江村の歴史と民俗を紹介する展示室です。歴史コーナーでは山田村、万江村について、解説パネルや写真、実物で紹介します。主に国重文の山田大王神社を中心に村内の社寺仏閣の神像・仏像・狛犬・棟札などを展示しています」となっていて・・
山田大王神社に奉納する球磨太鼓踊りに使用した400年前の兜が展示されていました。
しかし・・私は、この兜の前で足がピタ〜ッと止まりまして・・
まず、驚いたのが、兜に付いている「髪」だったのです。
すごく長い「ロン毛」がかつらのように付いているのですが、この髪がナント「すごい金髪」でした。
本当にリアルに再現?された金髪で、所々、ブラウンに近い金髪も混ざっていて、まさに「髪の毛」のような。何の毛で作られているのかは解りませんが、この兜を被ったら、顔立ちの濃い人は、日本人には見えない(ー_ー)!!と思いました。(家の父はまさしくそうだと思います。色々な役職を持っていた父ですが、様々な方から「コーヒーのBOSSのCMに出てますよね?!」とかふざけて言われています。
トミー・リー・ジョーンズによく似ているのです\(◎o◎)/!
父は年齢を重ねて、痩せたせいもあり、トミー・リー・ジョーンズよりも、顔立ちは「外人」です。トミー・リー・ジョーンズよりも父の方が鼻は小鼻が小さく高いのです(^<^)

兜に金髪??(?_?)(゜-゜)となった所で、兜の装飾で付いている「家紋?」にも興味を持ちました。
扇紋で真ん中に大きな丸が付いていました。
日の丸扇の下の柄?の部分が無いタイプ?でした。・・??

山田大王神社に奉納する球磨太鼓踊りに使用した400年前の兜には扇紋で真ん中に大きな丸が付いて、髪は金髪だった・・という事です(^・^)

さらに山田大王神社にあった室町時代の呪術用の御札他一式?も展示されていました。
その他、印鑑のように文字が反転して彫られた板?もあり、紙に写されていたのですが、漢字の内容が全く読めませんでした。でも「后」がナントカ?と書いてあるのは解りました。
その他手書き?の紙には上と下に星が書かれて間は何かのサイン?のような記号のようなものが・・すべて続き字?で書かれていました。

さらに・・
平安時代・鎌倉初期・鎌倉後期・室町時代における、球磨の勢力図もそれぞれ、壁に大きく貼られていて・・
岡原村の位置には「宮原氏」さらに「橘氏」についても記されていました。((゜-゜)もっと早くここを訪れていたら良かった(*_*))

でも、知らなかったのですが、「宮原」の横、多良木の久米あたりは「小田氏」となっていました。小田氏・・小田??

所で、昨日は帰りに深田の天子の水公園にも寄りました。
http://www.asagiri-town.net/q/aview/39/768.html

マタマタ、ここで私は???と。天子神社に書かれていた由緒書きなのですが・・
他のサイトにも紹介されています
http://www.ayunosato.jp/kanko/2012/05/post-18.html
公園の名前にもある「天子の水」。
※神話時代の伝説によると、九州南部にいた一族、クマソを親征するために景行天皇が天子神社に留まったことがあり、景行天皇が愛飲したとされるので、地元の人々が「天子の水」と名づけたそうなのです。
とありますが・・天子神社の由緒書きには
「熊襲(ハヤト)」とあり、上記に書かれているように「景行天皇が親征された・・」とあったのです。

熊襲で何でハヤト??
親征とは ウィキより (勉強しました(._.))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E5%BE%81
親征(しんせい)は、本来は漢語で「親(みず)カラ征ク」こと、すなわち天子が自ら遠征に出ることを言い、一般には、皇帝、天皇、王などの君主が、自ら軍を率いて戦争に出ることを広く指す。

なるほど(゜-゜)そういう意味なのですね・・

天子の水公園を出て、少し進んだ所で気がつきました。
ナビを見ると・・右側の地域名は「平川」。
\(◎o◎)/!あっ!!ここは以前、日本の苗字七千傑様より「地図」を御教示頂いた、球磨の「平川」地域でした!!
ナント!!気がつかずに、頻繁に通っていました(._.)
この地区には大きな「三階菱」の紋が倉に付いた大きなお家がありまして・・鯉のぼりにも「三階菱」。
以前から、「三階菱」は小倉でよく見ていた(豊前小笠原藩)な〜〜と思っていました・・あれっ??

地元に帰って、日々の生活に追われていて、中々調査は進んでいませんが、偶然訪れた場所で色々勉強する事が出来ています(^・^)

それから・・
昨日、日本の苗字七千傑様にご紹介して頂いた書籍を父が持っていた事はお話しましたが、日本の苗字七千傑様の【物部氏/石上氏】姓氏類別大観 推奨書籍にある「物部氏の正体―大豪族消滅に秘められた古代史最大のトリック」他も実は父が持っていました\(◎o◎)/!

父よりは「お父さんが持っている本を色々読んでみなさい」と言われていたのですが、実は・・全く読んでいませんでした(._.)
家事が忙しくて・・と言うのは言い訳です(._.)

昨日、日本の苗字七千傑様にご紹介して頂いた書籍の話を父にすると・・
「全く!!お前はお父さんが何度言っても興味無さそうに『うん、読むよ〜』と言っていたのに、日本の苗字七千傑様から伺えばすぐに興味を持って・・全く親の言う事は聞かなくても日本の苗字七千傑様のお話は聞くんだな〜」
と焼きもち?を焼いていました(^・^)

という事で、本もしっかり読んで勉強いたします(^o^)/
では(^・^)
[59]白石さんからのコメント(2015年04月21日 00時21分11秒 ) パスワード

こんばんは
7000傑様 ご教示ありがとうござます。
半島の中は ややこしいです。
桓武天皇が「朕の先祖が三韓ではない」といったのは 何を意味するのか?

>扇紋で真ん中に大きな丸が付いていました。
日の丸扇の下の柄?の部分が無いタイプ?でした。・・??

山田大王神社に奉納する球磨太鼓踊りに使用した400年前の兜には扇紋で真ん中に大きな丸が付いて、髪は金髪だった・・という事です(^・^)

子孫様 
扇の柄の部分がないタイプ って 私 しりませんけど(家紋は詳しくないのです。)
開扇に月紋は 佐竹氏  でみました。
それから
確か 鹿児島の坂本もそうでした。

私も 一身のことで 図書館に行けてませんが 確か 本で前に 見ました。

いずもる | 神々大集合、溢れる物語、縁切りも? をみますと
「佐田(佐太神社)神社」の神紋(扇)は 柄の部分がないように思います。
紋は「扇地紙紋(おおぎじがみもん)」と呼ばれる。

扇でつながっている白石・坂本・佐田 うちの白石・坂本は橘紋 佐田は三つ巴ですが。


瓊々杵尊(ニニギノミコト)が祀られているこの北殿の神紋は丸印が二つ入り組んだ形で「輪違紋(わちがいもん)」と呼ばれており、天照大神とその弟である月読大神(ツクヨミノオオカミ)を陰陽として表わしたものとされている。
のだそうで

この神社の田中神社には
ここには二つの社が背中合わせで立っており、東を向くのが姉神の磐長姫命(イワナガヒメノミコト)、西の佐太神社を向いて
いるのが妹神の木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)です。とのこと。

田中は 
天津日子根命 曽我 に 出る筋があります。
四浦萩の集落にも田中はありました。曽我は相良氏との姻戚関係も?あったように思っています


先のブログには  
次に左にある南殿の屋根の紋は出雲大社でも見られる六角形の亀甲紋ですが、ここは二重亀甲紋となっています。祀られているのは素盞鳴尊(スサノヲノミコト)秘説四座(ヒセツヨンザ)の五柱の神々です。亀甲紋はスサノヲの神紋との説もあるようだ。

そして
いざなみをまつる神魂神社は「二重亀甲に有の字」。大庭の大宮さんと呼ばれる。

前に球磨の採物神楽から出雲の大庭大宮にたどりついたことがあります。
大庭氏=鎌倉氏=上杉氏=桓武平氏=長尾氏

橘氏・猿田彦は母方で髪魂神にいきつく。

[60]子孫よりさんからのコメント(2015年04月21日 05時36分21秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)
かなり早い時間ですが、今日は主人が3時過ぎの出勤でしたのでかなり早起きです(^・^)

白石様、御教示ありがとうございます(^・^)

兜に付いていた装飾の紋ですが、「紋」なのかどうかは解りませんが、何だろう?あっ!そうだ!「愛」と付いた兜?のような・・それくらい大きな飾りで「扇の真ん中が丸」の紋の様な「装飾」が付いている・・
と言った感じです(^・^)

佐竹氏の紋は、私も拝見しました。
まさしく、「それ」です。(大きな装飾だから柄が無いのだと・・?だって柄まであったら前が見えません(ー_ー)!!)

でも、一概に佐竹氏に結び付けるわけにはいきませんが・・
しかし、佐竹氏は ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%B0%8F
江戸時代以降[編集]
詳細は「久保田藩」を参照
江戸時代を通じて久保田藩を支配する外様大名として存続した。転封時点で明示されていなかった石高は、寛文4年(1664年)4月2日付で20万5,800石と決定された(実高40万石)。うち5,800石は、慶長10年(1605年)10月17日に追加で与えられた下野国河内郡・都賀郡の飛び地11ヶ村分である[2]。
元禄14年(1701年)に佐竹氏第21代当主で久保田藩第3代藩主の佐竹義処は弟の佐竹義長に2万石を、甥の佐竹義都に1万石を分与し、久保田新田藩として立藩させた(新田分知のため久保田藩の石高に変化はなし)。そのうち、佐竹義都を初代藩主とする久保田新田藩は、享保17年(1732年)に義都の子の佐竹義堅が久保田藩第5代藩主の佐竹義峯の嗣子となったために廃藩となり、封地は久保田藩に還付された。一方、佐竹義長を初代藩主とする久保田新田藩は、歴代藩主が壱岐守に叙せられたので佐竹壱岐守家とも呼ばれ、明治2年(1869年)に岩崎藩と改称した。

(゜-゜)あんれっ?マタマタ、久保田藩ですね・・???
そう、この場所は・・鎌倉初期に先祖「橘公業」が所領した場所です・・
その後、宮原の祖となる「橘公員」が所領して・・そのあと・・橘公員は球磨郡久米郷東方下分を所領して・・
????グリグリこれまた繋がります・・??

久保田という名や名称と・秋田。・・??本当に私の周囲?に付いて回っています・・??

〉大庭氏=鎌倉氏=上杉氏=桓武平氏=長尾氏
(゜-゜)・・コレマタ・・あんれっ??でございます・・(何だろうな〜何だか全て・・うううん??)

所で話題は変わりますが・・
家にあるお観音様についてです。
子供の頃から、鹿児島より家のお観音様の繋がりで来られていたお寺様ですが、「日蓮宗」のお寺様でした(^・^)
(やっと解りました(^・^))

もちろん、現在の家のお寺は浄土真宗の地元のお寺様ですが、家にある観音様の繋がりで来られていたお寺様は「日蓮宗」のお寺様・・と言う事です。

日蓮宗と言えば・・
宮原の先祖「橘公綱」の妻は南部実長の子「南部実継」の娘。
南部実長と言えば、以前、コメントしたように
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E9%95%B7
南部 実長(なんぶ さねなが)は、鎌倉時代中期の御家人。南部光行の三男。八戸氏(根城南部氏)の祖。日蓮の有力壇越として知られ、また甲斐国波木井(はきり)に居住したことから波木井実長とも呼ばれる。

父光行から甲斐国巨摩郡飯野御牧内にある波木井郷(現在の南巨摩郡身延町梅平一帯)を割譲され、地頭職を兼ねた。嘉禎4年(1238年)、4代将軍藤原頼経が上洛した際には、兄実光と共に随兵を務めた。文永6年(1269年)頃、鎌倉での辻説法を聞いて深く感銘し日蓮に帰依した。同11年(1274年)には、流罪を解かれ佐渡から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたった。弘安4年(1281年)、十間四面の堂宇を建立寄進し「妙法華院久遠寺」と命名、また実長も出家し法寂院日円と号した。弘安5年(1282年)9月、病身の日蓮は病気療養の為常陸の湯に向かう途中現在の東京都大田区池上に着くと病体が更に悪化し、実長への9ヶ年の感謝と死期の近いことを知らせる最後の手紙を送っている(『波木井殿御報』)。10月13日朝、61歳の生涯を閉じた日蓮の遺言通り遺骨を身延の澤に埋葬し実長を中心に六老僧等で護った。
後代、長男実継の家系は陸奥国を地盤とする八戸氏(根城南部氏)として存続し、本拠地である甲斐国波木井郷は四男(一説には長男とも)長義の家系が継承した。

(゜-゜)
宮原の先祖「橘公綱」の妻の父「南部実継」
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E7%B6%99
弘安5年(1282年)、父実長が身延山に匿っていた日蓮が老衰による疲れの為に下山を希望し、池上宗仲の邸宅に身を寄せる際、随行する役を命じられた。

(゜-゜)・・あらためて・・そうか・・

家にあるお観音様・・日蓮宗・・すでに800年近い年月を経ていますが・・もしかしたら何かあるのかな〜と(._.)

宮原家そして大事な家族をお守り頂いている、我が家の観音様にはいつも感謝申し上げています(^・^)

では(^・^)
[61]子孫よりさんからのコメント(2015年04月21日 15時12分48秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

免田の才園古墳について、御紹介致します。

まず、私の最大の勘違いから(._.)

免田の才園古墳は6世紀末から7世紀頃の築造と推測されています。
http://www.asagiri-town.net/q/aview/50/317.html

がっしかし!!こちらの2号墳から発見された「鎏金神獣鏡(りゅうきん・しんじゅうきょう)」の鋳造は古墳築造の6世紀末から7世紀頃ではなく(ー_ー)!!・・
二世紀から三世紀半ばにかけてのものでした。
\(◎o◎)/!

家にあった「あさぎり」という本(あさぎり町発行)に詳細が書かれていました。(「あさぎり」では才園古墳群と鎏金神獣鏡は分けて紹介されています)
転記致します(^・^)

鎏金獣帯鏡一面
昭和13年2月14日、才園古墳群・2号墳から出土したもので、精緻な神獣文様と43文字の銘文が刻まれています。
白銅鏡の背面全体に厚く金メッキが施され、大和朝廷当時の歴史をうかがう貴重な出土品として注目をあびました。
当初は5世紀前半ごろ鋳造されたと推定されましたが、その後2世紀から3世紀半ばかけて鋳造されたものと位置づけられました。
なお、この古墳からは他に、玉類、金環、馬具、銅鈴、鉄刀剣類、鉄キョウなどが出土しています。(国指定考古資料)

(゜-゜)※当初は5世紀前半ごろ鋳造されたと推定されましたが、その後2世紀から3世紀半ばかけて鋳造されたものと位置づけられました。

あんにゃ〜〜!!\(◎o◎)/! 私は完全に勘違いをしていました!!

あらためて、鎏金獣帯鏡一面をご覧ください(._.)
http://www.netpia.jp/history/ryukinjutaikyo.htm

さらに、43文字の銘文について解析されたサイトもあります。
(._.)でも、こちらのサイトの方もおそらく私と同じく、「才園古墳群」の築造年代と「鎏金獣帯鏡」の鋳造年代を「同じ」と勘違い(ごめんなさい)されているようです・・
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51568075.html

こちらに
※この鏡は中国南朝の諸国豪族へ下賜した鏡で、日田市ダンワラ古墳の朱龍紋鉄鏡に匹敵する豪族が九州南部にいたことを証明。
※「鏡の内区には12、外区に32の銘文があり、「この鏡を持てば諸侯に抜擢される」と、極めて珍しい内容の呪文が刻まれている。

ううううん(゜-゜)そうか・・
我が故郷、球磨の地にはこのような鏡を手にする事が出来る人々が「いた」と言う事ですね・・なるほど・・

さらに、才園古墳群・2号墳からの出土品の黄金の馬具についても、以前御紹介致しましたが、あらためて(._.)

サイトが表示されなければアドレスバーにURLをコピーして頂くとご覧頂けると思います。

熊本県あさぎり町才園古墳出土馬具の組み合わせと装着想定図について
http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/mugiamnews/No25-11kenkyu.pdf

才園古墳出土馬具(国指定重要文化財)の装着模型製作について(報告)
http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/mugiamnews/No26-07kenkyuu1%20%28p29-34%29.pdf

熊本市ホームページより
http://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=2875&sub_id=1&flid=16380

※の藤ノ木古墳と同じころ、これらに勝るとも劣らない豪華絢爛な馬
具が、熊本の古墳にも副葬されています。球磨郡あさぎり町に所在する
才園古墳です。
とも記載されていました(゜-゜)

でも・・ですね・・
このような、出土品があるにも関わらず、あまり着目されないのは・・何故?かな〜〜と。
球磨の古代はあまり、日本中の?世の人々は興味がないのでしょうか??

私のあくまでも自論(素人なりの)ですが・・
この地には、やはり「何かある!?」と思います。(あなただけでしょう(ー_ー)!!という声も聞こえてきそうな・・(._.))

という事で、才園古墳群(築造6世紀末から7世紀頃)・2号墳から出土した「リュウ金獣帯鏡一面」の鋳造は「後2世紀から3世紀半ば」というお話でした。

では(^・^)
[62]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年04月22日 01時18分33秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

子孫様 へ
 
>その後2世紀から3世紀半ばかけて鋳造されたものと位置づけられました。

正確には3世紀中葉でしょう。
肥後国菊池郡山門里に本拠があった邪馬台国時代ということ。
西暦238年(曹操の孫明帝の治世)、倭の卑弥呼は魏に使者を送り親魏倭王に封ぜられる。
西暦243年(斉王の治世)、倭の卑弥呼は再度魏に使者を送る。
 
邪馬台国は列島の九州の一部(熊国)に過ぎないが、明帝と卑弥呼の祖は同じということ。
「魏」と「倭」の国名の違いは「鬼」と「人」。

「松野連」の系譜
 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03026.htm
「上村主(魏王裔)氏族綱要」 
 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03008.gif
 
>このような、出土品があるにも関わらず、あまり着目されないのは・・何故?かな〜〜と。
 
神武東征物語も、肥後は何故か外されていますね。
出土品だけでなく、文献も無視されているのが実情。
邪馬台国(地方政権に過ぎないが)の所在地を巡って学界も百家争鳴。
大きくは九州説と近畿説の根深い対立も一因。
[63]子孫よりさんからのコメント(2015年04月22日 22時57分39秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。
今日は、朝から外出していて、お礼が遅くなりまして、申し訳ありません。

〉肥後国菊池郡山門里に本拠があった邪馬台国時代ということ。

時代が、合うのですね・・

〉明帝と卑弥呼の祖は同じということ

「松野連」の系譜そして上村主(魏王裔)氏族綱要、拝見致しました。
偶然かもしれませんが、「上氏」。
白髪岳の麓には同名の「上氏」が・・偶然でしょうが・・

〉神武東征物語も、肥後は何故か外されていますね。
〉出土品だけでなく、文献も無視されているのが実情。
〉大きくは九州説と近畿説の根深い対立も一因。
素人が生意気な事を言うようで、本当は良くないのでしょうが、でも・・
そういう事を続けていたら、きっと真実にはたどり着けないと思います。

絶対に肥後・そして球磨は無視出来ないと・・実は今日あらためて感じた事がありました。

今日、外出していたのは、生駒高原です。
単純に生駒高原のポピーの花を見に行っただけなのですが・・

生駒高原から正面に見える、小林・えびの方面の山々も雄大で、とても感激したのですが、その中で、ひときは目をひく一番高い威厳のある山がありました。
その山の手前横に見える山とその隣にそびえるなだらかな山・・
どこかで、見た事があるような??と。
この3つの?山が周囲の山々を圧倒しているような風景に見えました。

ポピーの咲く高原から、高千穂峰や霧島そして韓国岳に向かう道は先日コメントしたように、現在、火山規制により通行できません。
しかし、中腹の展望台までは通行出来ると言う事で、先日とは別の小林生駒高原より、高千穂峰方面へ行くルートで、通行可能な展望台まで行ってみる事にしました。

10キロ程、山を登って到着した展望台で見た景色はとてもすばらしかったです。
標高がかなり高い展望台で、遥か下には「小林」や「えびの」の市街地が小さく見えます。
高千穂峰や韓国岳を後方に、真正面に先ほどコメントした山々がそびえたっていました。
展望台にはその山々の写真と説明が書かれていたのですが・・
真正面に見えるもっとも高く威厳のある山こそ「市房山」でした。
その横手前に見えるのが「黒原山」
そしてそのとなりに見える裾野の広い大きなやまこそ「白髪岳」だったのです。

私は、自分の故郷そして今や地元となった山々が、こちら霧島屋久国立公園の展望台より真正面に見えるとは夢にも思いませんでした。
すごく、感動しました。

そして、あらためて、市房山が九州で2番目に高い山である事を実感しました。

記紀に書かれている事に真実が多く含まれているのであれば、古代の人は、霧島連山の方から見て、もっと高い山が前方に見えた時にどう感じられたのかな・・??
な〜んて事も考えるほど、私は、その景色に誇りを感じました。
(故郷自慢のようになってしまいましたが、本当に感動したのです(._.))
写真を撮ってきましたので、後日、ブログにアップ致します(^・^)

以前、山は権力の象徴であったという事を御教示頂きました。

今日は、本当に「見てよかった!!」という景色と遭遇できました(^・^)
では(^・^)

[64]白石さんからのコメント(2015年04月23日 01時54分43秒 ) パスワード

いずもる の つづきですが
スサノオ他秘説四座を祀るこの南殿の左手奥には裏山の三笠山に続く石段があり、これを50メートルほど上ると、開けた場所に出ます。そこに磐境(いわさか)があり、

母儀人基社(ハギノヒトモトシャ)が祀られています。これは出雲の国と伯耆の国の境なる比婆山に葬られたと言われる日本の国を生み出した神の伊弉冉尊(イザナミノミコト)の陵墓である比婆山の神陵を遷し祀ったと場所と云われ、中世にはずいぶん信仰されていたとのこと。

はぎ と いう 発音に 葉木がかさなり いざなみ は ににぎ や 天火明にもつながる神です。

神魂神。
縣犬養橘三千代の先祖。猿田彦のせんぞにも 入る人。
橘氏もそうだけど 平川の先祖にもいると思われる人。母方ではないか?と思うけど・・・


[65]子孫よりさんからのコメント(2015年04月24日 16時08分14秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

白石様、御教示ありがとうございます(^・^)
(お礼が遅くなりましてすみません(._.))
〉橘氏もそうだけど 平川の先祖にもいると思われる人。母方ではないか?と思うけど・・・

中々、平川の調査は進んでいなくて・・すみません(._.)
でも、「出雲の国と伯耆の国の境なる・・」と「伯耆の国」が登場していますが、球磨郡誌に平川義高の家臣「柏木氏」について「伯耆」の文字が付いていました。
(今、手元に本が無いのですが、この内容を見つけた時に父に確認したのでしっかりと覚えています)
ちなみに、平川義高家臣「柏木氏」は永里の地頭とあって、ビックリしたのでした・・(?_?)どうなっているのやら???・・??

別件ですが、先日、霧島連山から市房山や黒原山や白髪岳が見えた!!とコメントしましたが、この内容を椎葉のおじに話したら
「黒原山の展望台まで登ったら、霧島連山が真正面にみえるぞっ(^・^)。あたりまえバッテン向こうからも見えるとタイね〜(^・^)」と。
ちなみに主人の勤務先はえびの市の「原田」。飯野という場所との境でして、ナント、山を越えた裏側(こちらから言うと)でした。
出勤はグルット廻って1時間以上かかりますが、もし「トンネル」でもあれば、あっという間に着きそうです・・

所で・・
霧島神宮にお参りした事もあり、以前コメントした「柏原氏」がすごく気になって調べたのですが・・
島津家家臣団人名録というサイトを見つけて「柏原氏」を探したのですが、島津家家臣の中には「橘公業」の末裔の一族が複数あるようです・・
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/simadu.html

転記させて頂きます(._.)
柏原資家時家子信家孫信貞曾孫季村玄孫橘公業流矢野氏
  行資資家子嘉慶頃
  好資行資子豊前仕島津元久執事応永頃
  知資好資子
  公資知資嗣資世子備前
  公喜公資子
  公昌公喜子

  公頼公資子備前文明頃
  公成公頼子
  公弥公成子
  公隆公弥子仕島津忠広永禄頃
  公倍公隆子
  公親公倍子
  公直公親子
  公政公直子
  公国公直子公根嗣

  公実公資子文明頃

  資世行資子
  公世資世子

  有国左近
  公盛左近周防入道有閑
  将監公盛子弥太右衛門
  市右衛門将監孫
  市之丞公盛子
  兼慶公資子文明頃
  永好文安頃

押川対馬橘公業流
  公近対馬子強兵衛慶長頃
  市之丞公近子
  近方宇右衛門

「柏原氏」と「押川氏」が私「宮原」と同祖の「橘公業」と言う事になります。
※柏原資家時家子信家孫信貞曾孫季村玄孫橘公業流矢野氏
(゜-゜)橘公業流矢野氏・・あれっ??
柏原資家は「時家」の子で「信家」の孫で「信貞」の曾孫で 「季村」の玄孫で橘公業流矢野氏・・

「季村」??どなただろう??「季」の字以外に「信」「家」「時」の付くお名前が多いですね・・
でも「公資」と言う方以降は「公」が付いています・・
「公資」と言う方は「公資知資嗣資世子備前」となっていて、「公資」と言う方までは「資」という字が通字かな???
こちらの「公資」と言う方の子供が「兼慶法印」ですね。
という事は「宮原」の先祖「公資」とは別人と言う事ですね・・そうか・・

藤崎氏もそうですが、鹿児島の「橘公業」の末裔の方々は「隠ぺい」が感じられずに、何だか「気持ちいい」です。(^・^)・・変な言い回しになりました(._.)

他にも押川氏。
押川対馬橘公業流・・押川対馬子息「公近」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E5%B7%9D%E5%85%AC%E8%BF%91
押川 公近(おしかわ きみちか、元亀2年12月1日(1571年12月17日) - 寛永6年4月29日(1629年6月10日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。通称は、鬼三郎、弥七、六兵衛、郷兵衛(強兵衛とも)。押川対馬守の次男。兄は押川河内守。妻は浜田経重の娘。子は押川近尚。

元亀2年(1571年) 、押川対馬守の次男として生まれる。幼少の頃より力が強く水練に達者で、鉄砲の上手であった。一生の間に160人以上を撃ち取り、切り捨ては数知れずと記録される程の剛の者であった。祖父の押川讃岐守は、永禄7年(1564年)に島津義弘の飯野(宮崎県えびの市)入りに従った60人の内の一人で、父の対馬守は球磨との国境を守る番として大口に配された9人の内の一人。公近も祖父や父、兄と同様に義弘の家臣として仕えた。

あんにゃ??今、気が付いたのですが「飯野(宮崎県えびの市)」って書いてあります\(◎o◎)/!
本当に・・まか不思議??コレマタ、何だか「同族」の方の由縁の地に御縁があるようです。??先日「飯野」は通りました(^・^)主人の勤務先は「飯野」のすぐ近くです。
妻は浜田経重の娘。

関係は無いのかも知れませんが・・「柏原」を名乗っている方は他にもあります。
「祁答院」氏です。別の記述で「橘流」と書かれた「祁答院」氏もあったのですが・・別の系かな??
祁答院氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%81%E7%AD%94%E9%99%A2%E6%B0%8F
祖は桓武平氏秩父氏で、相模国渋谷荘を領し渋谷氏を名乗った一族。当主渋谷重国の長子である渋谷光重が、本貫地である渋谷荘を長男の重直に与え、次男から六男には宝治合戦の恩賞として与えられた薩摩国の領地をそれぞれに分与、三男の吉岡重保には祁答院を与えた。宝治2年(1248年)に他の兄弟ら共々薩摩国へ下向、その地名を称したのが祁答院氏の始まりとなる。なお祁答院氏と固定されるまで、吉岡・恩馬・柏原・平川などの姓を称しているが、系図上は重保を初代に数える。
重保は最初、柏原(現:鶴田町)へ館を築き柏原氏を称した。この地に館を築いた理由は、同じ渋谷一族である東郷氏が本貫地である筈の東郷に館を築かなかったのと同様、在地郡司である大前氏(おおくまし)が一帯に大きな勢力を有していたからである。大前氏と祁答院氏は対立を深くし、この戦乱で重保の嫡男朝重が戦死している。大前氏が滅びると祁答院氏はその拠点の一つである虎居城に入り、以後ずっとここを本拠とした。また、この地を領していた大前氏の分家も祁答院氏を称していたが、没落すると時吉氏を称するようになった。

あんれっ(?_?)こちらは・・「なお祁答院氏と固定されるまで、吉岡・恩馬・柏原・平川などの姓を称しているが、系図上は重保を初代に数える。」
あんにゃっ(?_?)・・何だか他のお家の系でも「柏原」と「平川」ですよ・・?? 何だかムズムズしてきました・・何だろうこれは??

(p_-)・・・・(?_?)・・・(p_-)

所で・・長くなっていますが、もう一つ島津家家臣の橘公業流「柏原氏」で気になる事が・・
「公盛左近周防入道有閑」
「周防入道」という言葉?が何だかすごく気になりまして、調べたのですが、「周防入道」と名乗った方は、時代を遡ると今調べただけで「2名」いらっしゃいまして・・

まず、お一人目は「藤原親実」。以下に紹介するサイトの103ページをご覧ください(._.)
六波羅探題の研究
https://books.google.co.jp/books?id=2zW9qJR-X90C&pg=PA57&dq=%E5%91%A8%E9%98%B2%E5%85%A5%E9%81%93&hl=ja&sa=X&ei=eNA5VdvhJ5Di8AWJq4CIBQ&ved=0CB0Q6AEwAA#v=onepage&q=%E5%91%A8%E9%98%B2%E5%85%A5%E9%81%93&f=false

※厳島神主家藤原氏の場合も・・「周防入道」は初代神主の「親実」に・・
「周防入道跡」は親実子孫・・「親定」

藤原親実という方を調べたのですが・・
コトバンクより
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E5%AE%9F-1137805
藤原親実

生年:生没年不詳
鎌倉前期の幕府吏僚。明経道の中原忠順の子。評定衆中原師員の叔父。仁治2(1241)年の安芸厳島社神官等申状は,親実が70歳を超えていたことを記す。摂家将軍藤原頼経に仕えた諸大夫で,将軍御所の儀礼や祭祀などの奉行を務めた。確認できる官職は,周防守。文暦2(1235)年,厳島社造営の人事として,周防守護から安芸守護に転任,厳島神社の神主に任ぜられた。寛元2(1244)年には上洛して,六波羅評定衆となる。その後,周防守護に戻り,寛元3年から建長3(1251)年までの在職がみとめられる。建長5年の法勝寺阿弥陀堂供養では,在京人として西二階門を警固した。

(゜-゜)この方は「中原忠順の子。評定衆中原師員の叔父。」なのですね・・「周防入道」・・・

もう一人の『周防入道』と名乗った方は「藤原 能盛」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%83%BD%E7%9B%9B
藤原 能盛(ふじわらのよしもり、生没年不詳)は平安時代末期の貴族。藤原良門流の藤原盛景の子とも、盛景の義弟である藤原成景の子で盛景の猶子とも。法名は能蓮。なお、平清盛の家司を務めた同姓同名の人物(安芸守能盛)を同一人物とする説もあるが、経歴的に別人説の方が有力である。
後白河天皇に仕えて雙六・今様を通じて近臣となり、後白河天皇の在位中は滝口、院政開始後は北面に属した。また、法皇の御幸のほとんどに供奉し、法皇の影響下にあった仁和寺法金剛院領である筑前国怡土荘預所などを務めている。

保元の乱の時には藤原頼長の検死役を務め、仁安2年(1167年)に左兵衛尉に任じられ、翌年には検非違使に任ぜられる。承安元年(1171年)までに叙爵を受けた事が知られる。承安4年(1174年)に出雲守、治承元年(1177年)に周防守に任ぜられるが、治承三年の政変で周防守を解官されたのを機に出家、以後「周防入道」と称して後白河法皇が没するまで近侍した[1]。『千載和歌集』と『新勅撰和歌集』に各1首ずつ採録されている。

(゜-゜)あれっ??藤原成景・・この方は藤原師光(西光)と共に信西の家臣であった「藤原成景」とは別人なのでしょうか???同姓同名??

橘公業流「柏原氏」の「公盛左近周防入道有閑」という方の「周防入道」を調べた結果、関係はないでしょうが、遡った時代の御二人の「周防入道」を名乗った方「藤原親実」と「藤原能盛」を勉強しました・・
というお話でした。

(゜-゜)・・(?_?)・・では(^・^)



[66]子孫よりさんからのコメント(2015年04月24日 21時04分19秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

昼のコメントが長かったので(._.)手短に。

我が、あさぎり町を含む「人吉・球磨10市町村」が
「日本文化遺産」に選ばれました\(゜ロ\)(/ロ゜)/ワ〜イ\(^o^)/

今年から始まった文化庁が認定する「日本文化遺産」18件に選ばれました。
テーマが決まっていまして「人吉・球磨」のテーマは
『相良700年が生んだ保守と進取の文化 〜日本で最も豊かな隠れ里人吉球磨〜です(^・^)

(?_?)(p_-)・・むむっ!!「日本で最も豊かな隠れ里」???

まあさておき・・
故郷に帰ったばかりでの「日本文化遺産」決定。
すごく嬉しいです(^・^)
では。
[67]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年04月24日 22時02分31秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>吉岡・恩馬・柏原・平川などの姓を称しているが、
 
吉岡、恩馬は相模国高座郡の地名、柏原、平川は薩摩の地名を負っている。
吉岡は後世の徳川大奥総取締春日局の領地。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02017e2.htm#007
母方の稲葉氏は越智姓で、伊予橘氏に繋がる。

>もう一つ島津家家臣の橘公業流「柏原氏」
 
おそらく橘薩摩家の支流でしょう。
[68]子孫よりさんからのコメント(2015年04月25日 04時57分18秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)
(今朝は3時に起きました・・)

日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。

〉吉岡は後世の徳川大奥総取締春日局の領地。
美濃斎藤氏 姓氏類別大観を拝見致しました。
※母方の稲葉氏は越智姓で、伊予橘氏に繋がる。
物部氏の影が「吉岡」にはちらついて?いるのですね・・・

昨日、コメントした内容を、もう一度見直していたのですが・・

祁答院氏の祖となる「渋谷重国」について、
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E9%87%8D%E5%9B%BD

渋谷 重国(しぶや しげくに、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。河崎重家の子。桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族。子に渋谷光重、渋谷高重、渋谷時国、渋谷重助、渋谷重近、女(佐々木秀義室)。
『畠山系図』によると、父・重家や祖父・基家は武蔵国橘樹郡(川崎市川崎区)に住して河崎(を称した。重国の代の応保年間、武蔵国豊嶋郡谷盛(東京都渋谷区・港区)から相模国高座郡渋谷荘(神奈川県綾瀬市・藤沢市・大和市)までを領して渋谷荘司と称した。

(?_?)『畠山系図』によると、父・重家や祖父・基家は武蔵国橘樹郡(川崎市川崎区)に住して・・
※武蔵国橘樹郡・・と言えば・・

こちらのスレッド、コメント9にて、日本の苗字七千傑様より
>楠木氏は元は関東にいた御家人で、
 
武蔵国橘樹郡に居た。
現在は川崎市の橘樹神社や市立橘高校に地名をとどめる。

と御教示を頂いていました!!

こちらにも「伊予橘氏」(楠木氏)・・物部氏ですね・・

わ〜!!何だろうこれは???!!

そして、もう一つ「物部氏」の姿がちらくつく記述が昨日のコメントに繋がっていました。

押川 公近(橘公業流)の妻「浜田経重の娘」
浜田経重 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E7%B5%8C%E9%87%8D
浜田 経重(はまだ つねしげ、天文3年(1534年) - 慶長16年2月20日(1611年4月3日))は薩摩国島津氏家臣。別名は重門。通称は民部左衛門。法号は栄臨(永林とも)。浜田重好の三男。子は浜田重昌、娘(押川公近室)。

(゜-゜)こちらのウィキの記述下方にある内容を・・
尚、後醍院宗重の嫡子である高橋頼次は、武功多く秀吉も名を知る経重の清貧ぶりを見て、自身を恥ずかしく思い、また島津で立身することは叶わないと感じ、出奔し池田輝政に仕えたとの逸話がある。

(?_?)池田輝政・・
まず、「後醍院宗重」と言う方を調べたのですが・・
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%99%A2%E5%AE%97%E9%87%8D
後醍院 宗重(ごだいいん むねしげ、天文20年(1551年) - 寛永元年4月 6日(1624年5月22日))は戦国時代から江戸時代の武将。始め肥後国相良氏家臣で、後に薩摩藩島津氏の武士。幼名は松童丸。通称は八郎、図書助、喜兵衛、官位は淡路守。入道名は淡斎。父は後醍院良任。妻は愛甲氏。子は高橋頼次、後醍院義信。
後醍醐天皇の皇子懐良親王の貞治2年(1363年)生まれの子という後醍院良宗(越後守)の子孫。後醍院備後守良任の長男として肥後国八代で生まれ、相良義陽や佐々成政、小西行長、島津義弘に仕える。
生涯[編集]
天正はじめに相良義陽に仕え、佐敷量石の戦いで島津家の物頭・大磯平内左衛門を討ち取った武功により、相良義陽より弟とともに相良氏の庶流高橋姓を賜姓され、一時高橋氏を称す。『南藤蔓綿録』によると、高橋氏を賜った後、あるとき宗重が他の侍と共に的場で矢を射っていた際、大友氏の使者が的場に乗り打ちした事に怒り、その夜にその使者を殺害したとある。義陽はそれに激怒し、宗重の首を大友に差し出すべく討ち手を放ったが、宗重は既に薩摩国へ逃れていた。宗重は島津家に仕えたが、数年後に暇乞いし備前国の池田家に仕えたと記述されている。

\(◎o◎)/!この方、「始め肥後国相良氏家臣」だったのですね!!
※宗重は島津家に仕えたが、数年後に暇乞いし備前国の池田家に仕えたと記述されている。

アレレ〜ッ!!(p_-)「備前国の池田家」

記述の最後に
※長男・高橋半右衛門頼次は最終的に池田輝政に仕え、500石を知行する。次男・義信が後醍院氏を相続している。

とあります・・・

(゜-゜)何だろう??過去に調べた情報に全て、繋がっているようです・・

そういえば「池田輝政」の兄妹は・・
安養院 - 森長可正室。長可の戦死後、中村一氏正室。
※森長可は、宮原と同じく「橘公業」に繋がり・・
※中村一氏はコレマタ「橘公長」に繋がっていました・・

「橘公業」流れとなる「柏原氏」の調査をしていただけなのに・・
何だかみ〜んな?繋がっているような・・

「伊予橘氏」「物部氏」繋がりですね・・

様々な歴史の裏に・・

では(^・^)




[69]白石さんからのコメント(2015年04月25日 19時52分35秒 ) パスワード

こんんば
人吉球磨地方の文化庁日本文化遺産認定大変光栄なことですね。

それと
トンネルができたらいいのに・・・
私も ずうっと 思っていました。
産物を送るにも 九州内だけでの移送も結構時間がかかっていますね。

橘氏 サダ の遠祖は母方つながりで神魂神 いざなみ。

川辺川沿いは 阿蘇神社がある。
五木阿蘇神社の神主は尾方氏。他の緒方・尾形を書いても皆 通じている。
肥後の山と伝説より
予章記
伊予にも河野通清が大蛇と人間の女の間に生まれその顔面と両脇に鱗のようなものがあった。緒方三郎惟義も河野通清と同じ時代に活躍した。河野通清、河野親清の子、伊予権介。瀬戸内海に強大な水軍力を持つ。
河野通信、平安時代末期〜鎌倉時代初期の伊予国武将。河野通清の子。伊予水軍の将。子に通政、通久、出家し観光と号す。一遍の祖父。

この一遍上人は 「別府氏」なのですね。

ともあれ 河野氏は越智氏。越智氏は大山祇神。



[70]白石さんからのコメント(2015年04月25日 20時23分00秒 ) パスワード

河野氏にも 白石は末苗にありますが
残念ながら その子孫はわかりません。

山部姓について
太古以来の大民族」である山部姓はなぜか今日、
「古代阿蘇君の故地にのみ集中しているというわけだが、阿蘇神社の禰宜、宮川正也さんは「実は社家の宮川一族も本当の姓は山部なんですよ。宮川は神官としての姓です」
・・・
神話では、この日子八井命は、阿蘇都媛の父である草部吉見神(国龍神) のことであり、甥で婿でもある健磐龍命とともに九州平定に尽くしたとなっている。阿蘇家を補佐する社家集団である宮川一族が祖神としてあがめているのも実はこの草部吉見神で、阿蘇神社の「田作り祭」など一貫した農耕祭事も本来は社家の祭りといわれる。
※ 伊予来目部小楯、山部連となる(日本書紀 顕宗記): 弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を難より逃れさせたのは日下部連使主−吾田彦親子の功績であったが、播磨国に逃れ名を変え身を隠していた二皇子を見出し救い出したのは伊予来目部小楯であった。後に小楯はその功績によって顕宗天皇より山官の役職を貰い、姓を改め山部連となった。
浦島子伝承と日下部氏: 余社(与謝)郡には浦島子説話が伝わり、その子孫が日下部首等であると書紀には記されている。恐らく、使主-吾田彦親子は二皇子を匿うのに同じ日下部氏の拠点があった丹波国余社郡を選んだのであろう。


日本の苗字7000傑
【久米氏/波多門部氏/山部氏】
 度会氏と同じ神皇産霊尊を祖とする大久米命の後裔と伝える。
 日本武尊東征時、七掬脛命が膳夫となり従軍する。子の八甕命は尾張国氷上祝となる。
 他に皇別久米氏(天足彦国忍人命裔や蘇我稲目裔)、尾張国造裔など異流も多い。
 三十六歌仙の山部赤人は久味国造の後裔である。

神魂神の子孫である 山部氏は大久米命の末と伝え、伊予来目部小楯が山部に改める。
宮川一族が祖神としてあがめているのも実はこの草部吉見神で、草部は日下部。
日下部=草部=山部=神魂神へ

ぐるりんぐるりんまわって つながっていって・・・




[71]白石さんからのコメント(2015年04月25日 20時36分36秒 ) パスワード

先ごろ新聞で 銀行通帳を忘れたら 認知症みたいに書いていました。が、単なる物忘れは認知症ではありませんよ。
それでは あなたもこなたも認知症です。

それより もっと ひどい本当に治療が必要な人がいるのに そんな人は近所も知らぬ顔です。

暴力に走るほうに出てくると 大変です。
[72]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年04月25日 20時39分27秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>何だかみ〜んな?繋がっているような・・
 
世の中は、偶然と奇縁により繋がっているものなのです。
 
小生の祖先は藤原氏利仁流の美濃齋藤利三の後裔ですから、
春日局と同祖となります。
春日局領地の御殿があった近くには春日局ゆかりの臨済宗済運寺があり、
自宅からは車で15分程度かな?
http://www.shonan-sh.jp/leisure/cat39/kasuganotsubone/
 
済運寺は山号を吉岡山と称し、臨済宗建長寺の末寺です。
本尊は木造釈迦如来坐像で、貞和五年(1349)卒の栢庵宗意禅師大和尚により開山され、中興開基は元和四年(1618)卒の渋谷平次郎某で渋谷庄司重国の子孫といわれています。
 
何も昔から当地に住んでいたわけでもないので、偶然に過ぎませんが?
また現在、福岡県に居る親戚の苗字が「吉岡」なのも奇縁ですね。
[73]子孫よりさんからのコメント(2015年04月25日 23時08分33秒 ) パスワード

皆様、こんばんは(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様、
「山部」について、かなり以前「平川家について10」コメント16でご紹介いたしました。
http://hikoshima.com/bbs/heike/101347.html
転記します。
私の故郷球磨郡。そして旧久米郷。
この土地に関して太田亮氏が述べられていた事を研究した情報「山部の系譜 谷川健一著『古代学への招待』2010年より 」を以前御紹介致しました。
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage8.htm

抜粋します<m(__)m>
太田亮は『姓氏家系大辞典』の「山部」の項目に次のように述べている。「〔山部〕は太古以来の大民族、否氏族と云ふよりは寧ろ種族と云ふ方、穏当ならんか。されど此の部は早く散乱して、諸豪族私有の民となりて、その名の下に隠れしもの多く、なほ品部として残りし山部も、早く統一を失ひ、加ふるに桓武天皇の御名を避け奉りて、其の称呼中絶せしかば、これを研究する事甚だ難し」
山部の源流は海部と匹敵するほど古いものである。それなのに、山部の名が中世以来消滅した原因の一つは、桓武天皇が山部皇子を名乗っていたことから、その名を侵すことを避けたためである、という。ともあれ海部の地名が今日まで残っているのに対して、山部の地名が海部の地名ほど見当たらないところから、山部が海部に比べて注意を払われていないのは紛れもない。
★桓武天皇は山部皇子と名乗っておられた。

応神天皇の時代に海部と山部は初めてヤマト政権の傘下に組み入れられ、組織されたのであるが、それ以前は独立の集団であった。
山部は太古以来の大民族であり、さきの指摘のごとく、氏族というよりはむしろ種族と呼んだほうが適切な存在であった。

★山部は九州の山地にひろく存在した。『日本書紀』によると、景行帝は巡狩の途次、肥の国の熊県に立ち寄っている。熊県は『和名抄』の肥後国球磨郡である。
そこに熊津彦という兄弟がいて、兄は天皇に従ったが、弟は出頭しなかったので殺したとある。それから海路で葦北の小島にとどまって食事をしたが、そのとき山部阿珂古を召してつめたい水を奉らせた。そこが水嶋であると云う。水島は球磨川の河口にあり、今は八代市に含まれ陸つづきとなっている。

 この話に出てくる山部阿弭古はおそらく球磨川上流の球磨地方と関係があった人物と思われる。これは山部が九州の山岳地帯にいたことのたしかな例である。この山人集団について、喜田貞吉は「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」と述べているが、久米部は南九州の、肥人であって、『魂志倭人伝』の狗奴国の地域がこの久米部の本拠であろう。ここから太古の山人集団の存在が浮び上がる。太田亮はこれに同調して、「久米族の山部連は山部の総領的伴造」であると云う。太田亮は南九州の山岳地帯に住んでいた久米部は、山部の総領的な管理者だったとするのである。
★「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」

久米族の変遷のあとを辿ってみると、『和名抄』に肥後国球磨郡久米郷がある。多良木町やあさぎり町須恵に含まれる地域である。球磨郡久米郷は久米部と関係がある。
久米族の本拠については諸説がある。土橋寛の「大和東南の山間部」(『古代歌謡論』)あるいは上田正昭の「大和高市郡より宇陀をへて伊勢地方」(「戦闘歌舞の伝流」)という大和を中心とした近畿説である。これらは久米部の近畿地方における活動の拠点であるにしても、久米族の源流とは云い難い。つまり久米族はそもそも肥人や隼人に近い関係をもつ南九州の異族であった。

==============================================

(-.-)あの・・すごい私的な考えで、大変申し訳ありませんが・・
地元、旧球磨郡久米郷宮原・・この地に戻ってきて、すごく感じている事があるのです。
この地で「何方かが」お生まれになったのでは?ないのかな・・と。
以前もコメントしましたが、「宮原」はそもそも「宮の原」であり実は「宮の腹」という意味があったと・・
何方かをお産みになった「母」の故郷、もしくは、そこに、その「母」が住んでいらした・・??
実は・・いつもの変な感のようなものがあって、故郷に戻ってきてから「大久米命」という方がとても気になって仕方ありませんでした。
というか古代の方々の中で「久米」という文字が付く「どなたか」に、私の故郷は関係しているのでは?と・・
あくまでも、単なる「感」であり、何の根拠もありませんが・・

それと・・日下部氏・草部氏・・なのですが
平安時代末期の記録に1144年平河氏は草部貞倫とその弟に城を襲われ、様々な食糧なども含めて奪われています・・
草部氏と平河は敵対関係にあったような記述が残っていますね・・??
(う〜ん解らない(p_-)(?_?)・・?)

日本の苗字七千傑様。
〉小生の祖先は藤原氏利仁流の美濃齋藤利三の後裔ですから、
春日局と同祖となります。

\(◎o◎)/!そうだったのですね!!
藤原氏利仁流の美濃齋藤氏。平河の調査で、以前から「何らかの繋がりがあるのでは?」と思い、勉強していました。
さらに!
日本の苗字七千傑様にも私と同じく「物部氏」の流れがおありになると言う事ですね。

さらにさらに
「済運寺は山号を吉岡山と称し」
「中興開基は元和四年(1618)卒の渋谷平次郎某で渋谷庄司重国の子孫」

という事は私は昨日、「偶然」にも、日本の苗字七千傑様ご自身に繋がりのある情報を調べていたという事なのですね・・

「何も昔から当地に住んでいたわけでもないので・・」
本当に、不思議ですね・・私も、先祖に関係する由縁のある場所に何故か繋がっています・・??

地元のお寺様から頂いたカレンダーの今月の言葉です。
「つながれてきた いのちを 大切に 生きていこう」
今、すごくこの言葉が心に響いています。

「世の中は、偶然と奇縁により繋がっている」・・本当に痛感しています。

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示本当にありがとうございました。(^・^)
[74]子孫よりさんからのコメント(2015年04月26日 11時59分01秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、日本の苗字七千傑様より「世の中は、偶然と奇縁により繋がっている」というお言葉を頂きましたが、今朝は、さっそくマタマタ「偶然?」という内容に気がつきました。

渋谷 重国(しぶや しげくに、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。河崎重家の子。桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族。子に渋谷光重、渋谷高重、渋谷時国、渋谷重助、渋谷重近、女(佐々木秀義室)。
『畠山系図』によると、父・重家や祖父・基家は武蔵国橘樹郡(川崎市川崎区)に住して河崎を称した。

「橘」と「河崎」という言葉が何故か頭をぐりんぐりん駆け巡り・・
あっ!そうか!奇縁ではありますが、以前からお話していたように、私が前々職で担当していた事業所は添田町(旧副田庄)とお隣の川崎町の境界にあったからだ〜と。(何故か、主人をその場所に配属したのは私です・・??)

副田庄は、先祖橘公業が西園寺公経と替地をした「肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷」に含まれます。

そういえば、「川崎町」の歴史は調べた事がありませんでした・・
でも、以前「副田庄」については調べていました。

豊前佐々木氏
http://homepage3.nifty.com/ganryu/sub/soeda.htm

大蔵姓原田氏
 
 郷土史家の原田夢果史氏によると豊前佐々木氏は本姓を添田(副田)氏といい、大蔵姓原田氏の一門だという。大蔵氏は漢の高祖の末裔を自負し、朝廷で大蔵の職に任じられたことからこの姓を称したという。大蔵春実という人物が藤原純友討伐に功績があり、対馬守に任じられて初めて九州に下った。後に筑紫の原田郷に住んで、子孫が原田姓を名乗ったという。
 戦国時代の国人領主、秋月種実や高橋元種はこの一族である。そして、この二人の名に共通する「種」の字が大蔵姓原田氏に代々受け継がれたという。天正十五年十月、岩石城に立て籠もった一揆勢を率いたのは佐々木雅楽頭(うたのかみ)種次であった。

(?_?)あんれっ??「戦国時代の国人領主、秋月種実や高橋元種はこの一族である。そして、この二人の名に共通する「種」の字が大蔵姓原田氏に代々受け継がれたという。」・・「種」の字ですね・・そう言えば、遡る時代において、人吉庄預所は中原遠盛(もしくは中原盛通)から「平河師種」に受け継がれました。「種」・・「種」?? まあ気にしないことにします。(ー_ー)!!
(-.-)続けて転記します。

田川郡副田庄地頭副田氏
 
 副田氏が副田庄の支配者として記録に現れるのは鎌倉時代である。
 『到津文書』と呼ばれる古文書に正応五(1292)年三月十六日、副田四郎左衛門尉法師(法名西念)、同六月に「副田二郎左衛門入道の名が見られる。『田川市史』によると、副田氏は鎌倉幕府の御家人であったという。
 次に文保元(1317)年の『島津文書』には、副田二郎三郎種信の名がある。この時、副田庄は副田氏の手を放れ、島津忠宗に地頭職がゆだねられた。
 さらに『姓氏家系事典』や『応永戦乱』に、応永・正長の頃、副田九郎の名があるという。地頭職は追われたが、在地勢力として生きながらえたのであろう。その後も時代の波にもまれながら有力地場勢力として戦国時代を迎えるのである。

(-.-)
@副田氏が副田庄の支配者として記録に現れるのは鎌倉時代
A正応五(1292)年三月十六日、副田四郎左衛門尉法師(法名西念)、同六月に「副田二郎左衛門入道の名が・・(?_?)1292年となっ??あんれ〜っ??
B『田川市史』によると、副田氏は鎌倉幕府の御家人であった
C文保元(1317)年の『島津文書』には、副田二郎三郎種信の名がある。この時、副田庄は副田氏の手を放れ、島津忠宗に地頭職がゆだねられた。
(?_?)(1317)年「副田二郎三郎種信」・・やはり「種」の字が・・??
(?_?)副田庄は副田氏の手を放れ、島津忠宗に地頭職が・・
(?_?)島津忠宗・・父:島津久経、母:浄温夫人(相馬胤綱の娘)妻は(三池道智の娘)
D相馬胤綱は宮原の先祖「橘公業」の娘「薬上助局」が嫁いだ「源(毛利)頼定」の父「源頼隆」を育てた
E島津忠宗の妻「三池道智の娘」は尼しんねん。尼しんねんの譲渡状で橘公業が替地として得た「肥後国久米郷」の土地の一部が「三池貞家」に譲渡された事がわかっています。(平河の系図に同名の貞家あり)
F同じく橘公業が所領した豊前国「副田庄」は文保2(1318)年3月15日『島津忠宗譲状』にて「豊前国副田庄 副田三郎次郎種信跡」として嫡子三郎左衛門尉貞久に譲渡されました。
G三池道智とは「三池師時」(平河の訴訟の中心人物の名は「平河師時」)
H嫡子三郎左衛門尉貞久・・島津貞久(妻:大友親時の娘)の孫「島津元久」の執事は橘公業流「柏原行資」とその子「柏原好資」です。
(-.-)先日、ご紹介した島津家家臣団人名録に「好資行資子豊前仕島津元久執事応永頃」とありました。
I中原遠盛(または盛通)から「平河師種」に人吉庄預所職が変わったのは徳治二年(1306年)より以前。1200年代末(1290年代後半)〜1306年にかけてです。
J先祖「橘薩摩」が久米郷宮原に入部したのは「1299年」
K平河師種の後・・「平河師頼」が人吉荘の「預所」となり、平河師里は日向国真幸院・馬関田荘・他吉田村などの、預所となった。

先祖「橘薩摩」(伊予橘氏)と「三池道智(師時)」「三池貞家」「島津忠宗」「島津貞久」「島津元久」「柏原氏(橘公業流)」・・完全に繋がっているようです。
「中原氏」そして「種」の字が付く「平河師種」・・
「橘薩摩」・橘公業と「中原氏」との関連は・・ありました。

橘公業が地頭職となった「肥前国杵島郡長島庄」の前地頭は・・
※嘉禄(1225〜27)の頃長島庄「惣地頭駿河守季時法師」。この方は中原親能の子で豊後大友氏の祖能直の兄「中原季時」
※「中原季時」についで橘公業が嘉禎2年(1236)2月長島庄の惣地頭となった。・・

\(◎o◎)/!あっ今気が付いたのですが!!
「中原季時」は中原親能の子!!
中原師員(師貞)は中原親能の養子だから・・橘公業の前の「長島庄」地頭職は中原師員(師貞)の義兄弟「中原季時」だったという事ですね!!
ウィキより
中原 師員(なかはら の もろかず、元暦元年(1184年) - 建長3年6月22日(1251年7月12日))は鎌倉時代の人物。大江広元(中原広元)を出した明経道中原氏の庶流貞親流で、師員の父師茂は中原親能(藤原親能)、広元(大江広元)兄弟の従兄弟にあたる(師茂の父である忠順と親能・広元の父とされる広季の兄弟が貞親の曾孫にあたる)。

\(◎o◎)/!・・なんじゃ〜これはっ!!

今朝は、「川崎町」が気になっただけなのに・・
橘公業が所領した「球磨郡久米郷」「副田庄」「長島庄」には私が今まで「平河」の調査で調べていた事実に全て繋がりました!!

実はもっと、「真実」を掴んだ?のですが、長くなりましたので、このコメントはこのあたりで・・

では(^・^)






[75]子孫よりさんからのコメント(2015年04月27日 23時30分26秒 ) パスワード

皆様、こんばんは(^・^)

昨日、別の事実を掴みました・・と書きましたが、今日はおそらくそれ以上の!?事実にたどり着いたのかも?知れません。

先日、日本の苗字七千傑様より頂いたご教示の中にあった
「済運寺 中興開基は元和四年(1618)卒の渋谷平次郎某で渋谷庄司重国の子孫といわれています。」
このお話にも登場する「渋谷庄司重国の子孫」この言葉がどうしても気になりまして、色々調べていたのですが・・

結論から言いますと「祁答院氏」と先祖「橘薩摩」そして「橘公業」は「秋田」で繋がっていました!!

まず、日本の苗字七千傑様の祁答院氏/入来院氏 姓氏類別大観をじ〜っと見つめていてすごく気になる人物がいらっしゃいました。
入来院明重に続く「公重」という方です。「公」・・公??
見渡しても「公」の付く方は「公重」この方しかいらっしゃいません・・?

「公」の通字と言えば・・
ここから・・気になり始めたら止まらない状態になってしまいまして・・

先日、ご紹介した「島津家家臣団人名録」を再度見ていたところ
祁答院行重柏原重松嗣重尚孫吉岡重保曾孫渋谷光重玄孫大井頼郷子中津川惟重孫渋谷重直曾孫柏原平次郎入道行意
重実行重子大井頼郷子?千代寿丸?次郎左衛門三郎左衛門
公重重実子重成平川出羽
重茂公重子出羽

(?_?)※公重重実子重成平川出羽・・「平川」ともあり「出羽」ともあり・・
「出羽」??「出羽」とは「秋田」!?

さらにこちらをご覧下さい
http://siori20120901.blog.fc2.com/blog-entry-485.html
祁答院
初代・重保〜渋谷光重の三男。別名:重直。鶴田柏原に下着し柏原と号する。
・-----朝重〜重保の嫡男。吉岡と号する。大前氏と戦い戦死。
・-----経重〜朝重の子。中津川氏の祖。
・-----惟重〜重保の次男。中津川貞重後嗣。

・2代・重尚〜重保の三男(養子)。祖父・光重の嫡男・重直の子(一説に朝重の次男)。吉岡と号する。
・-----将重〜重尚の嫡男。吉岡と号する。

・3代・重松〜重尚の養子。惟重の子(一説に惟重の弟)。

・4代・行重〜重松の養子。大井頼郷の子(中津川重雄の別腹の弟)。建武2年2月29日に蒲生で没。

・5代・重実〜行重の嫡子。貞治元年6月12日没。
・-----重氏〜重実の次男。久富木氏の祖。

・6代・公重〜重実の嫡子。別名:重成。平川城主。平川と号する。

(-.-)「公重」という方は鹿児島?の平川城主で平川と号する・・

さらに・・入来院氏の項では
3代・公重〜明重の次男。文永2年に惣領職。
・-----長徳丸〜公重の嫡男。早世。
・-----祐重〜公重の三男。曽司と号した後、岡本と号す。

・4代・重基〜公重の次男。興国6年11月26日に所領譲与。妻は到重(致重の誤記?)の娘・弥陀童女。

「公重」という方は「平川」を号しなおかつ・・祐重〜公重の三男。曽司と号した後、岡本と号す。 と・「岡本」???

偶然でしょうが、私の家の真正面は「岡本城跡」が見え、山の上を見上げれば「宮原城跡」、斜め遥か前方には「平川家」・・何だかすごい偶然だと・・

岡本城についてですが
肥後・岡本城
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/okamoto-jyo/
築城年代は定かではない。

天文年間(1532年〜1555年)には岡本頼春が城主であった。頼春は上村長国の子で岡本地頭となったことから岡本氏を称していたが、・・・

(?_?)「岡本地頭」となった事から「岡本氏」・・という事は、それ以前からこの地は「岡本」という名だったという事ですね・・
相良氏球磨統一前の、「岡本」の地は・・久米郷東方に含まれ・・先祖橘薩摩の所領地でした・・

※公重重実子重成平川出羽・・出羽??出羽??

そして見つけた記述が
品川区史: 通史編 - 49 ページ googleブックより ※こちらにヒントがありました!!
斑目氏は出羽国斑目(郷)地頭橘元長を祖とし、惟広とその子広長は宝治合戦に討死した。広長の弟惟基も連坐して所領を没収された。祁答院重松の弟泰基へ^ ^ )が惟基のあとを継ぎ、斑目姓を名のっ・・

※斑目氏は出羽国斑目(郷)地頭橘元長を祖とし広長の弟惟基も連坐して所領を没収され、祁答院重松の弟泰基が惟基のあとを継ぎ、斑目姓・・

(?_?)出羽国斑目(郷)の地頭であった「橘氏」とはいったい??

見つけました!!
http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/3065/1/HirodaiKokushi_89_21.pdf

津軽平賀郡曽我氏前史についての疑点 22ページ
当時は秋田郡・ 小鹿島・斑目郷の橘公業をはじめとして、米沢地方の三庄一 郡や寒河江圧に大江広元・・・

あった!!ありました!!
「秋田郡・ 小鹿島・斑目郷の橘公業」

斑目郷は橘公業の所領地であり、その後・・祁答院重松の弟泰基が惟基のあとを継いで「斑目氏」を名乗った!!

繋がりました!!

祁答院重松とは
祁答院行重柏原重松嗣重尚孫吉岡重保曾孫渋谷光重玄孫大井頼郷子中津川惟重孫渋谷重直曾孫柏原平次郎入道行意
重実行重子大井頼郷子?千代寿丸?次郎左衛門三郎左衛門
公重重実子重成平川出羽

すなわち「柏原重松」の子「祁答院行重」・・その孫が「公重」・・平川を名乗った・・公重重実子重成平川出羽

偶然かな鹿児島の地名?「平川」を名乗った「公重」という方を調べた結果です・・

では(^・^)
[76]子孫よりさんからのコメント(2015年04月28日 07時54分38秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨晩の続きですが・・

橘公業が所領した「斑目郷」を後世に継いだ「祁答院氏」。
さらに「公重」という方と「平川」の姓、そして「出羽」。

「斑目郷」とはどの辺りなのか、勉強しようと調べていたのですが・・
こんな地名?を見つけました。

「秋田県 秋田市 太平目長崎字斑目沢 」
http://www.excite.co.jp/map/m/?lng=140.201495&lat=39.738661&scl=17

「太平目長崎字斑目沢」・・って・・ええ〜〜っ!!
『長崎』そして『斑目』・・なんですと〜!!

何という偶然?かな?「長崎」と言えば「長崎氏」・・
先祖、橘公綱の母は「長崎氏」平頼綱と同母。豊田五郎景基の娘。

あんにゃ〜〜??

所で、昨日見落としていた事があります。
「公重重実子重成平川出羽」
「公重」という方は「重実」という方で「重成」出羽・・

「重成」・・?? 見落としていました。
※・6代・公重〜重実の嫡子。別名:重成。平川城主。平川と号する。

「重成」とは「祁答院公重」の別名です。

うんがっ??(?_?)
「重成」=「公重」・・「重」は祁答院氏の通字 「公」は先祖「橘薩摩」の通字
なおかつ「重成」・・「成」・・「成」?・・橘公業は「橘公成」でもあり・・
あれっ??!「成」

素人の推測で申し訳ありませんが・・本当にコレッて偶然??!!

以前から、ず〜っと不思議だった事があります。
球磨の「平河氏」は、訴訟の結果がおもわしく無かったにも関わらず・・
1200年代末期から1300年代初頭にかけて突然?「復活」?しました・・?

平河師種は人吉庄預所となり後を継いだ平河師頼。
平河師里は日向国真幸院・馬関田荘・他吉田村などの、預所となった。

1200年代末期に球磨に変わった事は無かったのか??
ありました・・先祖「橘薩摩」が1299年久米郷東方下分宮原に下向。

平河「師種」「師頼」「師里」
「師」の通字と言えば「中原氏」。
「中原氏」と言えば・・先日コメントしたように
@橘公業流 押川公盛左近周防入道有閑・・周防入道を名乗った別の方に「藤原親実」鎌倉前期の幕府吏僚。明経道の中原忠順の子。評定衆中原師員の叔父。厳島神社の神主に任ぜられた・・偶然かな??
A「中原季時」についで橘公業が嘉禎2年(1236)2月長島庄の惣地頭となった。
※中原季時は中原親能の子。中原師員(師貞)の義兄弟

「平川」姓を名乗った「祁答院公重」(渋谷重国の後裔)
他の平川姓は・・「平光盛(平頼盛子息)」の子供が「平川景家」。平頼盛も平光盛も人吉庄「預所」。
他には「佐々木氏」。佐々木信綱の子「六角泰綱」の後裔に「平川」姓が・・

あの・・繋がりました(..)実は先日から気になっていたのです。
佐々木信綱の祖父「佐々木秀義」の妻は「渋谷重国」の娘です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%A7%80%E7%BE%A9
妻 源為義の娘、渋谷重国の娘

平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝に属し、義朝の長男である義平に従い戦うが、義朝方は敗れ、伯母の夫である秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受け娘を娶り五男の義清をもうけ、20年を渋谷荘に送った。
治承4年(1180年)に源頼朝が伊豆国で平氏打倒の兵を挙げる際、平家の家人大庭景親から頼朝討伐の密事を聞き、子の定綱を使いに出して頼朝に危急を知らせる。定綱、経高、盛綱、高綱を頼朝挙兵に従わせ、その功により本領を安堵され、佐々木荘へと戻る。

(..)こちらにも、先祖「橘公業」とご縁のある鎌倉氏「大庭氏」ですね・・
そう言えば・・大庭景親の子供が「豊田景俊」でした・・「豊田氏」・・

さらに他の「平川姓」は合志氏の後裔にも・・
合志氏と言えば・・球磨永里城城主でもありました・・
肥後・永里城
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/nagasato-jyo/
築城年代は定かではない。南北朝時代から存在し地頭藤原秀高(合志九郎)が在城したという。

永里は旧岡原村と旧上村の境にあります。岡本の隣です。
遡ると・・平河義高の家臣「柏木氏」は永里の地頭でありました・・

何だか・・系は違っても「平川氏」は何かの「縁」で繋がっているような気がしてきました・・

昨晩から考えていたのですが・・
かなり、以前、平河の調査で日本の苗字七千傑様より頂いたご教示の中に
豊前・薩摩・遠江は繋がっているのでは?というお言葉がありましたが・・さらに秋田。
繋がっているが明確なのは宮原の先祖「橘薩摩」と言われた「橘公業」の系でした・・

「平河師高」そして「平河義高」の名跡を継いだ「一族」いえ「全てに関係する」集団?グループ?があったのでは・・?(素人的な言葉でしかお伝え出来なくてすみません(..))

でも・・この頃の調査で解った事は、本当に「偶然」?なのでしょうか・・

では・・






[77]子孫よりさんからのコメント(2015年04月28日 09時12分11秒 ) パスワード

追記
先程までの調査とは関係ないのですが・・

実は、家の敷地内に家庭菜園(すこく立派!です。)を椎葉のあじ(86歳・すごいでしょう超パワフルです)が造ってくれました。
そういう事もあって椎葉のおじと沢山話をする機会がふえまして、私が今まで知らなかった事を色々教えてもらっています(^・^)

親戚関係についてですが、以前コメントしたように、おじは
「宮原家・平川家・深水家・椎葉家」は強い絆で結ばれた”一族”タイ(^・^)」と言っています。
その強い絆をより強固としている二重三重の縁戚関係としている「パイプ」?となる「親戚」を色々教えてもらっているのですが・・

上村在・犬童家宗家(本家)からは、明治初頭に我ら一族?へ嫁いで来られた方がいらっしゃいました。
その他、知ってはいたのですが、詳しい内容を聞いたのが今回初めての縁戚関係が・・実は鹿児島の「島津家」と「我ら一族?」は解っているだけでも、幕末に縁戚関係でありました・・
詳しい内容を知らなかったので、今までコメントしていませんでした。(ごめんなさい(..))いつか、必ずきちんとコメントいたします。(..)

その他、現在にも至る強い絆の「パイプ」となっている「我ら一族?」の縁戚関係ですが、岡原以外の地域も多く、今までコメントしていた縁戚関係も含めて
「永田家」「田原家」「久我家」「高田家」「淵田家」「畠山家」「桑原家」「蓑毛家」・・等・・全て士族間の繋がりだそうです。

何でも、昭和初期の正月は、球磨郡中のそれぞれの親戚が何十人も集まって、「深水家」「平川家」「椎葉家」「宮原家」をグルグル廻って、それはそれは大変な賑わいだった(^・^)とおじが話していました。
おじは子供心にとても楽しかったと言っています(^・^)
「どこやここやから、色々”ひっぱって”こられたもんだけんね〜」と
「ひっぱって」とは「血縁」をという意味のようで・・
私が笑っていると、おじは「お前にもひっぱってこられとるとバイ!」と・・
なるほど・・(-.-)

という事で、今や、とても楽しみとなった大好きな椎葉のおじとの会話でございました。(^・^)
では(^・^)
[78]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年04月28日 23時04分00秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>でも・・この頃の調査で解った事は、本当に「偶然」?なのでしょうか・・
 
偶然は偶然でなく、太古からの秘められた奔流だと思いますよ。
苗字の分布傾向については、下記を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm
 
江戸期は大名の転封、参勤交代を除き移動は限られたもの。
従ってポイントは、平安、鎌倉、室町時代に移動は多く地名遷移も有った。
離れた地域の同一地名は、同族居住の可能性が高い。
 
平川に限れば、
遠江国 城東郡 平川村 下総国 香取郡 平川  下総国 千葉郡 平川  
山城国 久世郡 平川庄 下野国 都賀郡 平川村 紀伊国 日高郡 平川村
薩摩国 伊佐郡 平川村 薩摩国 谿山郡 平川村 上野国 利根郡 平川村
肥後国 合志郡 平川村 備中国 川上郡 平川村など
の関係を徹底的に調査することでしょう。
藤原南家絡みでは、遠江国城東郡が筆頭でしょう。
                
偶然の幸運も待っているだけでは到来しませんよ。
[79]子孫よりさんからのコメント(2015年04月29日 22時44分30秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

ご教示頂いた、「平川」の地名をしっかりと調べます。

「偶然は偶然でなく、太古からの秘められた奔流だと思いますよ。」
「偶然の幸運も待っているだけでは到来しませんよ。」

このお言葉をしっかりと胸に刻んでいきます(^・^)

「藤原南家絡みでは、遠江国城東郡が筆頭でしょう。」
城東郡「平川村」に関しては「黒田氏」「畔田氏」の記述を複数みつけました。
今後、情報を整理していきます。

所が・・
「下総国 千葉郡 平川 」に関してなのですが・・すごく気になる情報にたどり着きました・・
「下総国 千葉郡 平川」を所領していたのは「国分氏」。
平川を名乗っています。
複数の記述があったのですが特に詳しく書かれていたのが
平川館 http://homepage3.nifty.com/yogokun/hirakawati.htm
 伝承では千葉氏家臣平川氏の居館であったという。平川五郎胤次は鎌倉時代の人物であるから、かなり古い時代に造営された館ということになるが、現状の遺構がその頃のものだとは思えない。 

「平川五郎胤次」・鎌倉時代・国分氏・・調べた所おそらくこの方では無いかと・・
国分胤光の子「胤次」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%86%E8%83%A4%E5%85%89
父は国分胤重、母は中村宗長の女。弟に胤嗣、定光がいて、姉妹2人はそれぞれ武石朝胤と小泉秀国の妻になった。自らは留守家広の女を娶って、3男2女を儲けた。息子が国分重胤、信光、胤次で、娘はそれぞれ葛西清房と郷六忠政の妻になった。

※母は中村宗長の女・・中村宗長・・??!!

国分胤重 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%86%E8%83%A4%E9%87%8D
国分胤重(こくぶんたねしげ)は、日本の鎌倉時代の武士で、御家人である。『吾妻鏡』建長2年(1251年)1月20日条に、征夷大将軍藤原頼嗣が二所に参詣したという記事があり、従った御家人を記す。その後陣の随兵12騎の中に、国分二郎胤重の名がある。これが胤重について唯一確実なことである。
陸奥国の国分氏系図にある国分胤重[編集]
江戸時代に仙台藩の佐久間義和が編纂した陸奥国の国分氏の系図では、胤重は国分氏第3世の当主とされる[1]。陸奥国の国分氏は南北朝時代から戦国時代末まで宮城郡南部を領したことが確かだが、系図によれば鎌倉時代に国分氏の祖国分胤通が同郡の国分荘を領したのがはじまりだとされる。
その系図によれば胤重の父は国分胤茂、母は平直常の女、弟に茂晴があり、姉妹が2人いてそれぞれ武石泰胤と武藤頼国の妻になった。中村宗長の女を娶って子が5人あり、男子が3人で国分胤光、胤嗣、定光、女子が2人で武石朝胤と小泉秀国に嫁いだ。胤重は次郎と名乗り、官位は従五位下、修理亮。建保6年(1218年)に陸奥の国分に生まれ、文永11年(1274年)2月9日に年57で死んだ。建長3年(1251年)正月に、征夷大将軍藤原頼嗣が二所に参詣したとき、随兵の一人になった。また、5年(1253年)正月に将軍宗尊親王の近侍になったという。
※妻:中村宗長の娘
※姉妹:武藤頼国の妻

国分氏は千葉常胤の5男国分胤通を祖とする・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%86%E8%83%A4%E9%80%9A
国分 胤通(こくぶ たねみち、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。千葉常胤の5男。母は秩父重弘の娘。通称・五郎左衛門尉。胤道と記す文献もある。下総国分氏の祖。
経歴[編集]
下総国葛飾郡国分郷(現在の千葉県市川市国分)に居住していたことから、「国分」を称したが、後に香取郡矢作郷(香取市本矢作)に拠点を移している。

さらに・・国分氏 (陸奥国)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%86%E6%B0%8F_ (%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%9B%BD)
陸奥国の国分氏(こくぶんうじ、こくぶんし)は、南北朝時代から戦国時代の末まで、陸奥国分寺付近から宮城郡南部に勢力を張った武士の一族である。戦国時代末に伊達氏から当主として国分盛重を迎えて伊達氏に臣従したが、1596年に伊達政宗の不興を買って滅んだ。
江戸時代の系図によれば国分胤通が鎌倉時代に宮城郡国分荘を領したのが初めだが、長沼氏の僧が婿に入って創始したとの伝えもあり、正確なところは不明である。南北朝時代に現れる国分氏は藤原姓で、国分寺郷を領し、戦国時代には近隣の土豪を従えて宮城郡南部から名取郡まで勢力を伸ばした。居城としては千代城(仙台城の前身)、小泉城(若林城の前身または近接地)、松森城が伝えられる。北で留守氏と対抗し、南で伊達氏に面して和戦があった。戦国時代の終わりに伊達氏から当主として国分盛重を迎えて伊達氏に従属したが、家臣には盛重に反抗する者があった。1596年に政宗は盛重を追放し、国分の家臣団を伊達家の直属にした。盛重は佐竹氏に身を寄せ、子孫は秋田久保田藩の家臣として続いた。

(-.-)・・
※平川を名乗った「国分氏」。
※母は「中村氏」である「国分胤光」・・中村氏・・橘公長流・・?
※「国分氏」は千葉常胤の5男国分胤通を祖とする・・千葉常胤に擁護された源頼隆の子息「頼定」の妻は橘公業の娘
※子孫は秋田久保田藩の家臣として続いた・・

「下総国 千葉郡 平川」を調べて出てきた情報でした・・
では(..)・・
[80]子孫よりさんからのコメント(2015年04月30日 18時46分46秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

昨晩のコメントを見直していましたら・・見落としていました(..)

国分 胤通
下総国葛飾郡国分郷(現在の千葉県市川市国分)に居住していたことから、「国分」を称したが、後に香取郡矢作郷(香取市本矢作)に拠点を移している。

「香取郡」って書いてありました・・
下総国 香取郡 平川  下総国 千葉郡 平川  ・・何だか繋がっているような・・??
千葉一族 
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku81.htm

平川
国分一族。下総国八幡庄の国分寺東部平川(市川市内)に住んで平川を称した。のち谷中郷北方(市川市)へ移ったが、現在も市川周辺に平川氏は多い。この一族で小金大谷口城主・高城氏の家臣となった平川氏がいて、その子孫に小田原落城時に大谷口城で高城胤辰の留守を預った家老・平川若狭守がいる。平川若狭守は相馬郡増尾城主をつとめたともいわれる。

千葉県柏市増尾城
http://www.geocities.jp/tsukayan0112/joukan-tiba/masuo-jou-2009/masuo-jou-2009.html
小金城主高城氏の支城
手賀沼へと注ぐ大津川沿いに所在する中世城郭のひとつで、台地の南北が谷津により隔てられた比高差15mほどの台地東端部に所在しています。
「東葛飾郡誌」では相馬胤村の子である師胤が亡母の遺領を継承してこの地に居城した後、戦国時代には小金城を本拠とする高城氏の家臣である平川若狭守が居城したと伝わるとされていますが、現在残されている城跡はその形状などの特徴から戦国時代のものと考えられ、高城氏の支城として存在していたもの見ることが妥当な模様です。(「改訂版 図説房総の城郭」より、その大意を引用)

※相馬胤村の子である師胤が亡母の遺領を継承・・「相馬師胤」
※戦国時代には小金城を本拠とする高城氏の家臣である平川若狭守が居城

そうか・・ううんっ!!?「師胤」・・「もろたね」・・「師種」
わ〜偶然ですが「同じ読み」です(^・^)・・(-.-)・・(?_?)

日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良将流】姓氏類別大観を拝見しました。
おんやっ(?_?)こちらにも「黒田氏」が・・

マタマタ黒田氏です(?_?)・・
と言うか・・実はご教示頂いていた「遠江国 城東郡 平川村」以外にも・・
「上野国 利根郡 平川村」・・こちらの調査にも「黒田氏」の記述が・・
上野国 利根郡 平川村は、旧利根町平川 - 群馬県沼田市にある地名。

ここで・・\(◎o◎)/!「沼田市」!!ええっ??以前「八瀬」という地名が気になって調べました。
こちらのスレッド、コメント27をご覧ください・・(..)

何だかな〜(?_?)と思いながら、もう一度「沼田藩」をウィキで見たのですが・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BC%E7%94%B0%E8%97%A9
歴代藩主
真田家 → 真田家 → 黒田家 となっています。

黒田家[編集]
3万石 譜代
直邦(なおくに) 従四位下 豊前守、侍従
直純(なおずみ) 従五位下 大和守

幕末の領地[編集]
上野国
群馬郡のうち - 5村
利根郡のうち - 50村

河内国
若江郡のうち - 5村(うち2村は堺県に編入)
志紀郡のうち - 5村

美作国
勝北郡のうち - 6村
英田郡のうち - 51村
勝南郡のうち - 3村

黒田家・・去年の大河ドラマ・・当時、小倉に住んでいながら・・ぎゃ〜っ!見ていませんでした・・(..)

でも、私は、「黒」という色が気になります・・「黒」は久米氏のカラー?・・「黒田家」とは関係ありませんね・・きっと・・(素人の無知識です。すみません)

黒田家と言えば・・
一つだけ気になる事がありました・・(きっと無関係だと思いますが)

家の近くの庚申塔に黒田家と関わりのある方と同姓同名の方が・・
「高田新兵衛」という方です。
小倉に住んでいる時にバスに乗っていて、小倉駅近くのお寺の風景を見ていたら偶然目に止まった場所に「黒田藩主 高田新兵衛」の文字がありまして・・

あれっ?何だか同姓同名の方の名が庚申塔にあったな〜と。
以前、お伝えしたようにこの庚申塔には「有馬氏」の方の名が数名ありました。
単なる偶然かとは思うのですが・・しかし・・当時、我が故郷には「銀山」もあった事だし・・・?????
桓武平氏良将流 相馬氏・・黒田氏・・偶然かな?「高田氏」・・
頭の中を何故か文字がグルグル廻っています(?_?)

新しいスレッド「平川家について23」で調査続行いたします。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101441.html

沢山のご教示本当にありがとうございます。
今後とも、どうぞ、よろしくお願い致します。

[81]白石さんからのコメント(2015年04月30日 18時56分34秒 ) パスワード

こんばんは
>76さらに他の「平川姓」は合志氏の後裔にも・・
合志氏と言えば・・球磨永里城城主でもありました・・
肥後・永里城
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/nagasato-jyo/
築城年代は定かではない。南北朝時代から存在し地頭藤原秀高(合志九郎)が在城したという。

太田亮氏によれば 相良系図に載る 「合志九郎」ですね。

園田氏は相良氏で検索をかけてみましたら
禅林寺跡 田迎手永惣庄屋田迎氏墓所(熊本市南区) - 歴史さるく旅日記
というブログで
2015年2月22日 - 田迎氏(本姓園田氏)は鎌倉時代より代々人吉一帯を治めた相良氏の流れを汲む家で 、田迎に住し田迎姓を名乗ったのだと思われます。禅林寺を開基した次郎左ェ門尉頼元 は禅林寺のほか田迎神社も建立し、田迎手永の惣庄屋として代々・・・と 近世でも教鞭を取り 地域の為に尽くしておられるとのこと。

相良は菊池でもありましたね。

私の同級生に園田さんがいまして おじさんが 永里で 11人の子だくさんの上 早くに 親を亡くした 同級生の園田さんを 女子大まで出してあげたということで 永里氏は郵便局長をしていました。

島津
前に 恒松(言葉つながりだけど 私の故郷の有力者に恒松があり そこの集落に市房神宮の御鏡を預かる家があった。その御鏡を預かる家とうちの高岡女子と姻戚関係)

恒松から出る話に 相良氏と姻戚関係の子孫で 徳川に嫁いだ 天璋院篤姫がいました。

 
[82]白石さんからのコメント(2015年04月30日 19時58分48秒 ) パスワード

島津
この頃 岩崎さんという 一つ下の人と 知り合いになったということを先日書きました。

中村という家から ぐるぐる 地域中がつながっていた。

天才的といわれる 島津亜矢ちゃん
この人の 母方の方に 島津があります。

亜矢ちゃんのお顔は 荒木より。
そして
堀川につながっていて
堀川さんの顔は どちらかというと 面長です。
しいて言えば 小泉氏に似ている。

前に同級生の荒木さんに 亜矢ちゃんのお母さんと自分の親がいとこ と 聞いていたので 今度 つながりを 教えてもらいました。

そして
前に お話した 歌手のさだ まさしさん。

彼らは サダ で 言葉つながりを していて 
どちらも 音楽に才がある。 又は 芸術的分野の才がある。

貴族の子弟は いろいろ 芸術的分野で 伸びているように思います。

さて 私はというと どうも 身についたことはなく あれーっと 思うのですが 
腹違いの姉(母方になりまつの血を受けているという)や 
あねといとこになる 姉婿の妹 つまり 私とも 戸籍上はいとこになる 山口の血を受けている人などは

実に手先が器用で パッチワークの作品を写真で送ってくれましたが 見事なものでした。そして 編み物・この頃は ステンドグラスに挑戦しているとのことで 今度 作品を送ってくれるそうです。

そういえば 母の妹・相川のおば (故人)も 手先が器用で ビーズでつくった着物の紐や 財布を私もいただいたり  晩年は 藤のつるで 籠をつくったり 生活の中で手作りの物に囲まれ 生活を楽しんでいたと お寺様から聞き
相川の嫁も 保育園の先生をしながら お茶やお花の先生の資格を取り
編み物も 上手にしていて 私の子供が生まれたとき おくるみ を つくってくれたり スーツをあんでくれたり・・・・

世の中 既製品であふれて 安く買え 働いている方が 家の収入もあって 良い生活ができる 咋今 豊かさの 感覚がちがうのだろうと 思います。
もちろん みんな サラリーマンの夫を持ち 又 自分も正社員で働いた人もいて それ相応に 定年後の生活をしていますが ・・・ 
[83]白石さんからのコメント(2015年04月30日 20時35分06秒 ) パスワード

>「高田新兵衛」という方です。
小倉に住んでいる時にバスに乗っていて、小倉駅近くのお寺の風景を見ていたら偶然目に止まった場所に「黒田藩主 高田新兵衛」の文字がありまして・・

投稿番号:101215 投稿日:2011年02月09日 10時02分09秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを

国立公文書館
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード
http://www.archives.go.jp/

ここも活用なさってください。

で教えていただいたとき 葛城 高田川 高田村 を書いているのですが・・・

故郷にも 萩に 高田家があって 村長の家でした。


前に 高田ぎゅうゆう という人を 太田亮氏の辞典で見たことがあり
検索したら
ときわい ぎょうゆう 真宗高田派の僧、仏教学者。専修寺二十二世。東京生。近衛忠房の三男。常磐井尭熙の養子。シュトラスブルク大でM・ミュラーに師事、梵文字を研究して博士号を取得。帰国後、京都帝大教授、のち高田派管長に就任。帝国東洋学会の創設者。編著に『梵語辞典』。昭和26年(1951)寂、78才。

近衛の出なのですね。



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