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 投稿番号:101338 投稿日:2013年12月30日 00時17分40秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について7

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様、今年、初めてこちらのサイトを利用させて頂き、様々なご教示を伺う事が出来ました。
本当にありがとうございます。

皆様のお陰で、宮原の先祖も判明致しました。<m(__)m>
実は、情報をファイルにして明日の帰省で父にプレゼントしようと用意致しました。

祖母の平川は、一進一退状態ですが、でも、先祖を調べながら、歴史を知る事がいかに重要な事なのか、この歳になって、初めて理解できるようになれました。
皆様のご教示のおかげです。
重ねがさね、ありがとうございます。

どうぞ、来年もご教示の程よろしくお願い致します。

★ついにスレッドが7になりました。(^・^)<m(__)m>

平川家について6
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/101337_90.html




[1]子孫よりさんからのコメント(2013年12月30日 10時07分38秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
昨日、お伝えしました、球磨の久米に関する記述についてですが・・

実は、先日googleブックで見つけた書籍
「列島縦断地名逍遥 著者: 谷川健一」の中に球磨の久米・山部に関する記述があり、ぜひ、皆様にご紹介をと思っていたのですが、書籍のコピーは出来ないので、どうしたものかと、関連したサイトを探していたのですが、やっと見つけました。

山への旅(シリーズ)山部の系譜−日下部、山部、海部、隼人の民と健緒組(火君祖)
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage8.htm
ぜひ、このサイトの記述を読まれて下さい<m(__)m>
私のコメントだけでは言わんとする事が中々皆様に伝わらないかも(*_*)

山部の系譜   谷川健一著『古代学への招待』2010年より

ピックアップをします<m(__)m>
    
太田亮は『姓氏家系大辞典』の「山部」の項目に次のように述べている。「〔山部〕は太古以来の大民族、否氏族と云ふよりは寧ろ種族と云ふ方、穏当ならんか。されど此の部は早く散乱して、諸豪族私有の民となりて、その名の下に隠れしもの多く、なほ品部として残りし山部も、早く統一を失ひ、加ふるに桓武天皇の御名を避け奉りて、其の称呼中絶せしかば、これを研究する事甚だ難し」

 山部の源流は海部と匹敵するほど古いものである。それなのに、山部の名が中世以来消滅した原因の一つは、桓武天皇が山部皇子を名乗っていたことから、その名を侵すことを避けたためである、という。ともあれ海部の地名が今日まで残っているのに対して、山部の地名が海部の地名ほど見当たらないところから、山部が海部に比べて注意を払われていないのは紛れもない。
φ(..)メモメモ 桓武天皇の御名を避けていたと言う事ですね。

古事記』では、応神天皇の条に「海部、山部、山守部、伊勢部を定め賜ひき」とある。

『日本書紀』にも応神天皇五年の条に「諸国に令して、海人及び山守部を定む」とある。つまり応神天皇の時代に海部と山部は初めてヤマト政権の傘下に組み入れられ、組織されたのであるが、それ以前は独立の集団であった。
φ(..)メモメモ 独立した集団・・国?

山部は太古以来の大民族であり、さきの指摘のごとく、氏族というよりはむしろ種族と呼んだほうが適切な存在であった。たとえば縄文時代の大遺跡である上野原遺跡(鹿児島県霧島市)から、深さ二メートルにも達する猪のおとし穴が百基近くも発見されている。これは紀元前四千年も昔の話であるから、それを弥生時代や古代にむすびつけるのは困難であるとしても、そこが大隈国府の中心であり、大隈隼人の根拠地であったことは、一応念頭に置いておいてもよいであろう。とすればこれらの地域は狗奴国とも無縁ではなかったと思われる。
φ(..)メモメモ 紀元前四千年も昔の話えええ〜っ!!そして狗奴国が登場しました。!

。『日本書紀』によると、景行帝は巡狩の途次、肥の国の熊県に立ち寄っている。熊県は『和名抄』の肥後国球磨郡である。そこに熊津彦という兄弟がいて、兄は天皇に従ったが、弟は出頭しなかったので殺したとある。それから海路で葦北の小島にとどまって食事をしたが、そのとき山部阿珂古を召してつめたい水を奉らせた。そこが水嶋であると云う。水島は球磨川の河口にあり、今は八代市に含まれ陸つづきとなっている。

φ(..)メモメモ熊津彦は伝説ではなく実在していました。日本の苗字七千傑様のサイトを拝見していて「松野氏」の系譜の中に記載がありました。

この話に出てくる山部阿弭古はおそらく球磨川上流の球磨地方と関係があった人物と思われる。これは山部が九州の山岳地帯にいたことのたしかな例である。この山人集団について、喜田貞吉は「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」と述べているが、久米部は南九州の、肥人であって、『魂志倭人伝』の狗奴国の地域がこの久米部の本拠であろう。ここから太古の山人集団の存在が浮び上がる。太田亮はこれに同調して、「久米族の山部連は山部の総領的伴造」であると云う。太田亮は南九州の山岳地帯に住んでいた久米部は、山部の総領的な管理者だったとするのである。
φ(..)メモメモ・・??!えっ!
「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」
『魂志倭人伝』の狗奴国の地域がこの久米部の本拠
太田亮は南九州の山岳地帯に住んでいた久米部は、山部の総領的な管理者だったとするのである。とは・・ありゃ〜〜〜っ!!

久米族の変遷のあとを辿ってみると、『和名抄』に肥後国球磨郡久米郷がある。多良木町やあさぎり町須恵に含まれる地域である。球磨郡久米郷は久米部と関係がある。鹿児島県の薩摩半島にある南さつま市の上加世田遺跡から奈良時代の土師器椀が出土しているが、それに「久米」という墨書のあるものが混じっていた(『加世田市史』)。これはその地方に久米族のいた動かぬ証拠である。そこは南さつま市の北隣にある金峰町阿多から数キロしか離れていない。阿多は知る通り阿多隼人の本拠である。こうして久米族が阿多隼人と同じ地域に居住し、両者が密接な関係をもっていたことはまちがいない。

φ(..)メモメモ やっぱり、以前は多良木町やあさぎり町須恵に含まれる地域までを球磨郡久米郷と呼んでいたのですね。!!

ところで、久米族の本拠については諸説がある。土橋寛の「大和東南の山間部」(『古代歌謡論』)あるいは上田正昭の「大和高市郡より宇陀をへて伊勢地方」(「戦闘歌舞の伝流」)という大和を中心とした近畿説である。これらは久米部の近畿地方における活動の拠点であるにしても、久米族の源流とは云い難い。つまり久米族はそもそも肥人や隼人に近い関係をもつ南九州の異族であった。
φ(..)メモメモ・・・??!久米族の源流?
久米族はそもそも肥人や隼人に近い関係をもつ南九州の異族!!

『魂志倭人伝』に見える「狗奴国」も前述のように「球磨国」のことであろう。KumaとKunaのm音とn音は互いに交換可能であるので、同じ地域とみてよい。ここで狗奴国と表記されているのは明らかに中国人の倭国に対する賎称であって、しかもことさらに狗の字を選んでつけたのは、隼人が犬祖伝説を信奉する卑しい民であることを強調したためと思われる。つまり隼人の先祖の狗奴国は犬の子孫だと蔑視したのである。

(;一_一)犬の子孫だと蔑視(-_-)/~~~ピシー!ピシー!球磨の人は誰も「ワンワン!」とは言いません!!
というか・・そもそも「くなこく」ではなくて「くまこく」だったのですね!!

伊予の久米部
さきに播磨国に派遣された官吏の伊予来目部小楯が二王子を発見したということを述べたが、彼は伊予の出身で久米部であり、しかも山部連の先祖ということになっている。これはどうしたことか。久米部の居住地のなかで九州にもっとも近いのは伊予国久米郡である。そこは『和名抄』に記載された古代伊予国十四郡の一つで、松山平野の東部に位置している。『国造本紀』に「久味国造ノ軽島豊明朝(応神朝)神魂尊十三世孫伊予主命定賜国造」とあるから、伊予主命は伊予久米部の先祖であろうと『地名辞書』は云っている。久味(クミ)、クマ、クメはたがいに通音である。・・・
φ(..)メモメモ おや!(ニマっ(-.-)伊予が出てきましたよ!)

井上光貞氏は前掲の『日本国家の起源』の中で、ソツ彦について、次のように解訳をしています。「襲津彦とは、襲の男の意味ではなかろうか。襲とは、熊襲の襲の意味に考えられるから、文字通り解すれば、葛城のソツ彦は、熊襲(襲)の出身者で葛城に土着したものか、大和の葛城の出身で熊襲の征定にも武勲を輝かしたものかであろう」。
φ(..)メモメモ 熊襲も出てきましたね・・襲津彦。この前熊津彦と間違えて調べていました。(おっちょこちょいです)

最後に・・・サイト最初の地図に戻って
久米部
肥後国球磨郡久米郷(和名抄) / 久米(上加世田遺跡、土師器椀墨書)/久米郷 筑前国志摩郡 / 久(多)米駅 豊前国

『和名抄』(『和名類聚抄』)「久米」の地名は各地に分布している。
(a)久米郷 大和国 高市郡 (b)久米郷 伊勢国 員弁郡  (c)久米郷 常陸国 久慈郡 (d)久米郷 伯耆国 久米郡 (e)久米郡 美作国 (f)久米郷 美作国 久米郡
(g)久米郷 周防国 都濃郡 (h)久米郡 伊与国 (i)久米郷 伊与国 喜多郡

今年最後にこの地域名を見て、うわ〜ぅ!!と
私が平河を調べていて、気になると言った地名がズラリ!!
何だか、すこし見えて来たような気がします。

とても長くなってしまいました。すいません<m(__)m>

では、久米部の故郷、球磨郡久米郷に帰ってきま〜す。(^O^)/














[2]白石さんからのコメント(2014年01月01日 22時23分34秒 ) パスワード

あけましておめでとうございます。
久しぶりにゆっくりできる正月です。

埼玉苗字辞典やま条に安曇 山本などとの接点が書いてありますね。

高原台地は飛行場があったところですね。
今は昔の記憶など探しようがないようですが、
敗戦の色濃くなったとき、時の皇太子を五家荘の山の中や宇都宮の山の中に隠そうとする動きがありましたが、五家荘は現在八代ですね。

深水集落は皇室領。
深水 田代などはもと阿蘇氏家臣で後相良氏に仕えるようになった。
私は前にこの深水 田代から 深水・深見・渤海 北魏が出たことがありますが、あさぎり町才園古墳からは 中国南北朝のものが出ているのですね。

古代のことはなかなか全容をつかむことはむつかしいし、だからこそロマンを掻き立てられるのですね。今年も頑張ってご先祖様の足跡探しに頑張りましょう。
[3]白石さんからのコメント(2014年01月02日 02時03分42秒 ) パスワード

少し関係ない話ですが
★荒覇吐神と加茂岩倉遺跡
東日流外三郡誌と関係あった「和田家文書」には 伊達家(白石がでた)家臣支倉常長の本名は 山口余市と書いていて そういう 本名がわかることが この本の 正しいことだといわれ、
和田家は 熊野にあって天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の子孫。。

ネットより
古田氏は 1996年に島根県で発見された加茂岩倉遺跡と関連して、和田家文書に言及している。

「荒神谷と加茂岩倉遺跡は・・・第一期 第二期・・・神武の大和東征以来 壊された銅鐸が近畿で多数出土している。・・・両方の遺物から×印がでた。これで一般的には両遺跡がイコールで結ばれる論調になったが、×のつけ方が違う。・・・・・・・・・
「東日流外三郡誌大要の中に、”荒覇吐神一統史”があり、第一期と第二期の違いを説明している。これは、和田家文書のひとつで加茂岩倉より ずっと前に世に出ている。・・・

「荒覇吐神一統史」の内容は次のとおり。
「出雲神社に祀られる玄武の神、亀甲といひかの神は 荒覇吐国主三神にして古来より祀られるも、世襲において川神とてのこりぬ。出雲荒神谷神社は 大物主の神をまつりしところなるも、廃社となりにしは 開花天皇の代なり。

討物を神に献じるを禁ぜしより無用と相成りぬ。

倭領に荒覇吐神にて一統されにしは少かに30年なりという。
神器ことごとく土中に埋め、神をも改めたる多し。
孝元天皇をして荒覇吐神 布せにしも、開化天皇をしてこれを改めきは、奥州に大根子王を建宮せるによれるものなりという。

開化天皇の武具を好みて神器をし、銅なる神器を土に埋めたり。神をば天地やおろずかみとして荒覇吐神を廃したりという。

孝元天皇8代は欠史8代の一人で、この方の頃統治者の筋が変わった何かが起きたことを暗示している。

[4]白石さんからのコメント(2014年01月02日 03時17分42秒 ) パスワード

今はこのサイトは閉じているようですが、過去にコピーした抜粋です。
ネット 鹿野和彦 その昔、富田城の建つ山は火の道だった より

 島根県能義郡広瀬町の中心地、広瀬があり、その東側を山裾に沿って流れる飯梨川の東岸の小高い丘陵から南東側の屹立した月山の頂上にかけて富田城は築かれている。・・・富田城は毛利氏と争った 尼子氏の居城として知られる。しかし、城主はたびたび変わっている。・・・古文書で確認できるのは 出雲隠岐守護として1185年に入城した佐々木氏である。この後 塩治氏 佐々木氏  京極氏とかわった。・・・「月山富田城」妹尾豊三郎
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※尼子氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家
※塩治氏は宇多源氏佐々木氏の流れ
※京極氏は宇多源氏佐々木氏
※山名氏は清和源氏義重流・大江氏・藤原為憲流・有道氏/児玉党・桓武平氏貞衡流・山県氏から多田氏そして頼光流へ・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
家康と高岡
高岡は富田進士か?と姓系辞典にあり、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宇多天皇の后の一人、菅原道真女子 菅原衍子。・・・家康祖先の一人 唐橋はこの衍子の兄弟の筋。
家康は 菅原朝臣ともいった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★ 佐々木三郎(源秀義)の子孫 京極氏。
  これは 雲州尼子氏になり ★子孫新宮党 又 山中という家もある。
  つまり 塩治氏 佐々木氏 京極氏 などは同じ筋の家。
  又 乃木も子孫。

古代からその地の豪族で沙沙貴神社を氏神とした沙沙貴山君の子孫と同化していったといわれる。
保元の乱では天皇方の源義朝に属し勝利。しかし、平治の乱でも義朝に属し敗北。
伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へ落ち延びる。
途中相模の国の渋谷重国に引き止められその庇護を受ける。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
○ 沙沙木神社の境内には 乃木大将の石碑がある。

乃木家は 佐々木高綱の子供 光綱が叔父 佐々木義清の娘婿となって あとをついだ後裔。

祖先が乃義を領して 能義(乃木)を称した。

義清は 父 秀義が渋谷重国の娘を娶って生ませた子。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
月山はかつて勝日山といわれていたらしい。現在の勝日山の山ろくにある富田八幡宮はかって月山にあったが 築城に当たって移された。
富田と言う城の名はおそらく 富田八幡宮の荘園であったこの地の名にちなむ。

この下に 塩谷川がある。丘陵の北東側は新宮の谷で尼子氏を支えた新宮党の家臣団がここに居を構えていた・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
@青海神社
 越後平野をみはるかす加茂山に鎮座する青海神社は、古くから「加茂のお明神様」といわれた。
青海首一族が祖神「椎根津彦命」と「大国主命」をまつった。

桓武天皇の平安遷都にあたり、京都の「賀茂別雷神社」「賀茂御祖神社」の神領となり、御分霊を当地に祭り、「加茂大明神」ともうしあげている。

慶長以前、上杉氏の崇敬厚く、又 新発田藩主「溝口氏」に至って、社領の寄進、本殿などの造営をし・・・県社に指定され県知事が参列された。
※この溝口に関して私は清和源氏の筋がかぶっているように思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
@ 富田 月山城を守った人に 又 山名氏が いた。

A 山名氏は 清和源氏 新田氏の子孫。新田氏の子孫は 世良田・得川が 
  おり 徳川家康は 近衛に教えてもらい この系図を 持っていたのだった。
八幡太郎義家の子 義国は 足利庄にいた。この子孫 新田義貞 この系統から 山名 里見 得川氏が 出る。
            
義国は 次男 義康にすべてをゆずり、義康は 北条泰時の娘と結婚して 
関東武士の 中心になる。この 系統が 足利高氏(尊氏)
           
足利の枝分かれが 細川。(摂津にもいて熊本にもいる)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
関東平野 山名八幡宮
 後醍醐天皇の孫、君長(ただなが)親王が山名城に滞在の折、城主、世良田政義の娘が親王の子を懐妊し、当社に安産を祈願されたところ無事に男子が誕生、良王(よしゆき)君と名づけたという。
 以来、当社を安産と子育ての神としてたたえられるようになったとの伝承がある。うしろに八幡宮を控えて、南東に関東平野が開けるこの山名の地の歴史は先史時代にまでさかのぼることができ、ふるくから人々の暮らしがいとなまれてきました。
社伝によればこの八幡宮は源氏の一族新田氏の祖 義重の子、義範が山名城にあって安元年中(1175〜77)に豊前の国(大分県)の宇佐八幡宮を勧請して社殿を造営し武神として崇敬したのをはじめとしている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
平川からでる新宮
平川と溝口は我が家ではすぐそばに住んでいる。
免田にいた溝口のおばさんがうちの白石によくしてくれていて、後溝口は一家で五木に住み、洪水で一家全滅。
白石は伊達に関与している。伊達遠祖魚名は平川に関与している。
新宮は和歌山にあり、和歌山には天照国照彦天火明櫛玉饒速日命子孫・尾張氏もいた。尾張の開拓者・大荒田は平川に関与。とぐるぐるまわりだす。
神武から始まる天皇は欠史8代とはいうが、結局後の世代にもつながってくる。
人がそっくり入れ替わったのではなく、資料が引き上げられ、他の人にすりかわったように見えるだけではないか?
これは先に 改名したのだ という コメントもあったけど、そうではないのか?と 思います。

ながくなりましたが、前に山口の方に行くとわからなくなる と書きましたが、丁度山口・出雲などに話が来たので書きました。うちの方で高岡から平川へ婿養子がはいったけど、やはり古に由来するものがあったのではないか?と思っています。
 









[5]白石さんからのコメント(2014年01月02日 22時43分33秒 ) パスワード

雑学

児玉党(称村上源氏つまり佐田に関与)と丹羽(つまり良峯・平川に関与)
日本の苗字7000傑http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217a.htm#002 良峯姓丹羽氏
の系図を見ると日下部姓朝倉氏の子孫と児玉党(称村上源氏)の子孫が?でつながり丹羽の系図へ。
子孫が二本松丹羽家
 
私が前から二本松を書いていたのも 何だかこのつながりが自分ではわからないけど、高岡を介して佐田とつながっていっている(それがはるか古代のこととしても)のを感じていたからだと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-sa-04.html
【富田氏系図】
富田四郎左衛門師泰
||ーーーーーーーーーーー貞泰→その子と孫二代★新宮を名乗る。
高岡八郎宗泰女
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-sa-08.html
出雲但馬高岡系譜(宇多源氏出雲佐々木流)では
高岡八郎左衛門尉 隠岐守護代 
||ーーーーーーーーーー宗泰 −−−養子・富田肥後守義泰五男宗義
母葛西伯耆守清親女
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まったく上との関係はありませんが 浅倉 橘 の言葉から斉明天皇の朝倉橘広庭宮について
http://www.geocities.jp/kakitutei_pickup/asakura/tachibana1.html
斉明女帝の朝倉橘広庭宮

http://homepage1.nifty.com/kisetunokaze/s_history/s_history9.html
西条歴史発掘 〜橘新宮神社〜 - nifty
橘新宮神社社家の口伝によると、高橋家の遠祖は公卿神像の中の1人であると伝えている。


[6]白石さんからのコメント(2014年01月03日 06時08分22秒 ) パスワード

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=534786296568274&id=168504263196481
Comments - Facebook
このページの中に八角形の言葉があります。トン族の八角形の鼓楼。関係ないみたいで何か気になります。

それは 大国主が金指しに関与していたことともつながり、火譲りの話で、実際は国譲りではなく大国主(大物主)の方が実の権力を持っていたという話。

フツ主は平川から出てきた人だが、陶に大国主の子孫の大田田根子がいた。
フツ主とオオタタネコと系図的につながっているものはないか知れないけど、伝説の世界では討った方も討たれた方も同族。

社名陶荒田の由来は祭神★高魂命五世の孫★剣根命の後に★「荒田直」という人が出られ、祖神の奉斎につとめられたによって、地名の陶と人名の荒田とをとって「陶荒田」と名付けられたのであります。以来当社は陶器郷の氏神として朝野の崇敬厚く、且つ陶器の生産に携わる業者の守神として又衣食住(生活の神様)の守護神として崇拝を受け尊敬されて連綿として祭祀を続けております。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
と遠祖高魂命であり、女子萬幡栲幡千々姫命(栲幡千千姫の別名は「萬幡豊秋津師比売)は天忍穂耳尊の皇后。其の子が皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊。また天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。

天萬栲幡千幡比賣命:玄松子の祭神記
www.genbu.net › [祭神記]‎
古事記』には万幡豊秋津師比売命とあり、高木神の娘で、天忍穂耳命の妻となり、天火明命、日子番能邇邇芸命を生む。

斉明天皇は天智天皇・天武天皇の母であり、歴史は女性でつながるように私には見える筋は
歴史的に後世敵だ味方だ と して あれはつながりとは違う という考えでわけていくとご先祖様がわからなくなる と 思います。

はるか昔は女系
なので しらべていくと 系が消えて違う人が顔を出してくる。
我々はいざなぎ・いざなみと子供の頃祖先を覚えてきているが、そして万民の象徴として天皇家があると思って育ったが、

阿多羅しい古事記というブログで(伊勢神宮の荒木田家の人が書いている。現在神宮には別の方が祭主としておられる)
天皇家が始祖を高御魂巣日神に変えておられることを書いておられ、母系にとればご先祖様が何百人も出来るではないか?と書いておられたが
父がいて母がいて子孫の自分がいるのだからどちらをとろうが余りかまわないのではなかろうか?と私的には思います。

上の文で剣根命がでましたが、剣根命は、賀茂氏の祖であるとされます。



[7]白石さんからのコメント(2014年01月03日 06時12分20秒 ) パスワード

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=534786296568274&id=168504263196481
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このページの中に八角形の言葉があります。トン族の八角形の鼓楼。関係ないみたいで何か気になります。

それは 大国主が金指しに関与していたことともつながり、火譲りの話で、実際は国譲りではなく大国主(大物主)の方が実の権力を持っていたという話。

フツ主は平川から出てきた人だが、陶に大国主の子孫の大田田根子がいた。
フツ主とオオタタネコと系図的につながっているものはないか知れないけど、伝説の世界では討った方も討たれた方も同族。

社名陶荒田の由来は祭神★高魂命五世の孫★剣根命の後に★「荒田直」という人が出られ、祖神の奉斎につとめられたによって、地名の陶と人名の荒田とをとって「陶荒田」と名付けられたのであります。以来当社は陶器郷の氏神として朝野の崇敬厚く、且つ陶器の生産に携わる業者の守神として又衣食住(生活の神様)の守護神として崇拝を受け尊敬されて連綿として祭祀を続けております。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
と遠祖高魂命であり、女子萬幡栲幡千々姫命(栲幡千千姫の別名は「萬幡豊秋津師比売)は天忍穂耳尊の皇后。其の子が皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊。また天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。

天萬栲幡千幡比賣命:玄松子の祭神記
www.genbu.net › [祭神記]‎
古事記』には万幡豊秋津師比売命とあり、高木神の娘で、天忍穂耳命の妻となり、天火明命、日子番能邇邇芸命を生む。

斉明天皇は天智天皇・天武天皇の母であり、歴史は女性でつながるように私には見える筋は
歴史的に後世敵だ味方だ と して あれはつながりとは違う という考えでわけていくとご先祖様がわからなくなる と 思います。

はるか昔は女系
なので しらべていくと 系が消えて違う人が顔を出してくる。
我々はいざなぎ・いざなみと子供の頃祖先を覚えてきているが、そして万民の象徴として天皇家があると思って育ったが、

阿多羅しい古事記というブログで(伊勢神宮の荒木田家の人が書いている。現在神宮には別の方が祭主としておられる)
天皇家が始祖を高御魂巣日神に変えておられることを書いておられ、母系にとればご先祖様が何百人も出来るではないか?と書いておられたが
父がいて母がいて子孫の自分がいるのだからどちらをとろうが余りかまわないのではなかろうか?と私的には思います。

上の文で剣根命がでましたが、剣根命は、賀茂氏の祖であるとされます。



[8]白石さんからのコメント(2014年01月03日 23時19分59秒 ) パスワード

5にある高橋より
http://ehime-jinjacyo.jp/?p=7291
愛媛県西条市洲之内甲773の★橘新宮神社・・・伊勢神宮外宮同体
主祭神 豊受大神
    瓊々杵尊(ににぎのみこと)
    天太玉命・・・忌部氏の祖

神主★高橋刑部太夫義定同高橋近江介義道

大来皇女 斉明天皇の頃生まれた人
おおくのひめみこ
大来皇女は、飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇女。大伯皇女とも書く。母は天智天皇皇女の大田皇女で、同母弟に大津皇子がいる。伊勢斎宮。 ウィキペディア
生年月日: 西暦661年2月12日
生まれ: 日本
死没: 西暦702年

大来皇女 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/大来皇女‎
大来皇女(おおくのひめみこ、斉明天皇7年1月8日(661年2月12日) - 大宝元年12月27日(702年1月29日))は、飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇女。大伯皇女とも書く。母は天智天皇皇女の大田皇女(持統天皇の同母姉にあたる)で、同母弟に大津皇子がいる

飛鳥時代の斎王。天武天皇と妃大田皇女の皇女。大来とも書く。百済救援の西征途上,大伯海(岡山県)で誕生。大伯海(おおくのうみ)は和名抄にいう備前国邑久郡(おくぐん)の前にひろがる海である。
[9]白石さんからのコメント(2014年01月03日 23時51分40秒 ) パスワード

おもしろいネットを見ました。
つきあわせて合致しているところを記憶すれば良いと思いコピーしました。
少し長くなりますが
『阿蘇山を神奈備』とした人々 - Synapse
www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage11.html‎
★高橋氏』から派生した一族に★『大伴氏』があって『道の臣』ともされたが、
※つまり大伴氏は高御魂巣日神の子孫なので 高橋もこの神の系にいる。

本来の『みち・道・路』の『君』は『高橋氏』として伝え .... 部(くさかべ)吉見氏、山部氏』と共に、阿蘇山上の社である天宮社の祝に★『笠朝臣』があり、重要神事には天宮祝は常に座の中央に

※笠は贏姓 高丘系図1に
秦恵文王子孫の女子が百済蓋鹵王妃になり、子孫和氏。その子孫若狭彦神社にあり、この系図にあるぽっちりをおせば 人皇6代がでる。

つまり 今読んでいるネットは 私が前から言いたかった神武天皇はいた
を書いている。

そして
日本は倭の別種なり と 旧唐書に書かれているというが、私にはこういう問題は自分で論ずることは出来ないのだけど、
子孫様のお身内のお顔が鼻高のこと、前にかいた 日高国を故郷に持つ丸子ちゃんのお顔も鼻高で同祖に上がるのだろうと想像できること
から 
出雲向家の方が言っておられた3000年くらい前には日本にいた というお話とつき合わせて
鼻高族 と 鼻無族(インドは鼻無つまり付け根のところの小鼻がない と 昔本で読んだことがあります。間違っていたらごめんなさい)
の合体があったと 私的には思っています。

余国造・科野国造・道奧の石城国造・常道の仲国造・長狹国造・伊勢の船木直・尾張の丹波臣・嶋田臣等の祖なり』(記 167頁) ... 更に不思議なことは、『神八井耳命』の『弟・第2代★綏靖(すいぜい)天皇(葛城高岡(丘)の宮という)』を祭神とする神社は、全国の6割方★「熊本県」にある、ことである。

本文に入ると
≪往古より★『皆血脈ヲ以テ相續ス』(神道大系 神社編五○ 182頁)と云われる「阿蘇神社の社家」に、★『阿蘇氏、草部(くさかべ)吉見氏、山部氏』と共に、阿蘇山上の社である天宮社の祝に★『笠朝臣』があり、重要神事には天宮祝は常に座の中央に着座することになっていた≫(古事記に笠沙が載ったわけ 268頁)というもの。

本文を読み進んでいると次の言葉が出てきた。久米氏。
『次世代的な舞台』を『阿蘇』に設定するなら、そこには『久米氏』の陰が感じられるのである。

「顕宗天皇」兄弟は「雄略天皇」を恐れて逃げ回っていたが、

兄弟を助けて守り抜いたのが『舎人・日下部連使主と吾田彦』の親子
※このとき、おばたちが天皇を天皇にした という。女性の地位が高かったわけである。

で、雄略帝の死後、

 『伊与来目部小楯』が「国守」として赴任した「播磨」で、『吾田(あた)彦』が守り抜いていた『顕宗天皇』を発見して「天皇位に就かせた」のであった。

 『顕宗天皇』はそれに報いて★『来目部の小楯』を★『山部連』に任じた、と載せてある。

・・・
『阿蘇』には『阿多族(笠・うけ・有木、高橋、吉見氏)』が、

 『伊予』には(和名抄・阿多郡『葛例郷』」の『鹿籠の山』が)『天降りした香山』の伝説があり、『久米』の地名もある。「記紀のかたり」に従えば、これらの人々は

 ★『日向の神武天皇系』の「族人」で、『神代の先祖』は正しく★『阿多隼人族』とせざるを得ない。
※神武天皇は母を海神の女子・玉依毘売としている。

 このように『久米氏』の陰を『九州南半』に確認して、⇔(本道へ)、ツマリ『宇陀の久米氏』に戻りたいのであるが、この★『神八井耳命の系譜』は★『隼人史』に深くかかわるので、『⇔(本道へ)』戻るのは来月号に引き延ばし、『阿蘇系図』関係を探ることにする。

≪阿多の高橋氏が住んでいたところに、北九州の遺跡と内容的に変わるところがないという弥生時代の幕開けを告げる高橋貝塚遺跡があった。『二次にわたる調査で、弥生文化の三要素である「稲作」「鉄」「機織り」が確認された高橋貝塚は、いちやく全国にその名を知られた』(かごしま考古新地図 74頁)のであるが、出土した弥生初期の「四片の鉄器」は、熊本県斉藤山貝塚遺跡出土の「鉄斧」とともに、わが国最古の鉄器とされる。

※私が神武天皇はいた と いう 考えで平家物語のサイトで是までのお話をしてきた ことを うまくかきあらわしている と 思うものが 書いてありました。
神武天皇がいないと神八井耳命はいないわけで、

★『日子八井命』を祭神とするもう「一社」が、『奈良県御所市蛇穴(さらき)』鎮座の『野口神社』になるのであるが、この神社を紹介するネット上の情報が、”実に”興味深いのである。

 なんと鎮座地『蛇穴(さらき)』、そこが『新来=サラキ★(今来)の意とされる』ともあり、その「奇祭」ともある『蛇綱引』の綱は「十五夜綱引き」の「綱」に似て、更に『汁掛祭』なる「わかめ汁」をかける行事もあったという。それなど、門司「隼人明神のめかり神事」を思わせるが、

 実際、この一帯、★『蛇穴(さらき)』の東5キロほどに『薩摩』という地名があり、その中間、少し北に『神武天皇社(この地図を 2.5Km に縮小すると『蛇穴、薩摩』が見えます。100m に拡大すれば『神武天皇社』が見えます)』と、神武天皇が東征の時に日向に残してきた「妻・吾平媛を祭神」とする『ホンダワラ社』が鎮座する。

 つまり、この地の『野口神社』には、近くの「ホンダワラ社』の存在と共に、『寄藻川・めかり神社(隼人明神社)』の「におい」がするのである。

 述べてきたように、この地域一帯は広く、★『武内宿禰一族・熊襲勢』が『神功皇后と応神天皇』を押したてて「王権奪取」を果たし、住地とした場所とモーソーする。

※安曇には百済日羅の系と竹内安曇がいた。
[10]416さんからのコメント(2014年01月04日 00時36分09秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年01月06日 17時14分08秒
[11]子孫よりさんからのコメント(2014年01月04日 01時53分07秒 ) パスワード

皆様、あけましておめでとうございます。
本年も、どうぞ、よろしくお願い致します。<m(__)m>(*^。^*)

そして、帰ってまいりました。(^O^)/
帰郷により、様々な事が解りました。
(というか・・去年の帰郷まで、あまりにも無知であった為気が付いていなかったというのが本当ですが(@_@。)

沢山、ご報告したい事があるのですが、新幹線の混乱により、今、クタクタで・・

でも、今後の調査に関係してくるであろうとても重要な事を最初にお伝えしたいと思います。
それは、私の故郷 現在 熊本県球磨郡あさぎり町岡原北(宮原)は
古来より、久米郷宮原と呼ばれていた と言う事です。
そして、それは橘薩摩の先祖が領を治める前よりで、先祖は土地の名を取って「宮原」と名乗った事がわかりました。

というか!!実は、すでに、我が「宮原家」に関して父の友人で郷土歴史研究家の「宮广(みやま)」様が調査を行っておられ、なんと「求麻郷土研究会」発行の「郷土」第31号にて特集が組まれていたのです。
それも、平成18年にです!!父は実は知っていたのです!!
調査前と調査後、書籍発行時と宮广(みやま)様は父とお話されていました。
何で、父が知らないふりをしていたのか!
それは、父が子供の頃に立ち聞きしたある話が原因でした。
この事は、明日、しっかりコメントします。そして、本の内容もお伝えします<m(__)m>

ちなみに、先祖が築城した「宮原城」の復元図をネットにアップしましたのでよろしければ皆様、ご覧ください。<m(__)m>
(後ほどブログのご紹介をします)

そして、祖母が毎年、私に「家に貼りなさい」と渡してくれていたお札に関してですが・・・
実は、大晦日の大掃除の時に、未だに貼ってあるお札に関して父が、「ばあちゃんがどうやってこのお札を頂いていたのかよくわからん。これまたお札を貼ったままにも出来んし・・。」というので、私が、あらためてお札をよく見ると、何とそれは「高野山 遍昭寺」のお札でした!!
そうです。良峯宗貞(遍昭)。
私が、悪いのです。祖母が毎年お札を私に渡してくれた時に「ばあちゃん。このお寺様は?」と一言聞いていれば。
当時の私は、祖母の私に対する愛情を、しっかりと理解する事なく、ただ、言葉だけで「ありがとう」と言ってしまっていた・・・
しばらくは言葉が出ませんでした。

そして・・
実は、平川の曾祖父についても全く知らなかった事がありました。
曾祖父は、平川の家は伯父(祖母の兄)に任せて、幼い子供を育てている祖母を不憫に思い一緒に住んでいたそうです。
曾祖母は夕方になると、平川より、ゆっくりと歩いて宮原に来て、毎晩二人で泊まっていたそうです。
曾祖父は村の助役をしていた為、当時の岡原役場には宮原の家から通っていたとの事です。
そして、脳卒中で倒れたのも宮原で。
全く知りませんでした。
毎晩、当時の村長や球磨の他の町村の役人が宮原に来て平川の曾祖父と今後の球磨について、どうあるべきかと焼酎を飲みながら議論していたと伯父から聞きました。
曾祖父は村の助役ではありましたが、村長選挙に出ると決めた時に、とある人物が来られて「平川さんが出られると必ず当選するのは解っていますが、どうしても、自分は立候補したい。お考えください」と、頭を下げられ、祖父は「よし!解った」とその人の言葉をのんだと言う事も聞きました。

その話を聞いて私は、あっ!と気付いたのです。
実は、平川の曾祖父が、自分への手紙や必要資料を宮原に置いていた事を。
祖母の部屋から、昭和27年の衆議院選挙時に、平川の曾祖父が熊本県南部の選挙運営委員会副会長を、国より指名された時の書類が出て来ていました。
そして、あらためて、他の書類を見た所・・・

ついに見つけました。
多分、曾祖父へあてた手紙?とうか(文・ふみ?)を。
その方は曾祖父(多分ですが)の事を何とか上様と呼ばれています。書かれている内容はよく解らないのですが、何かのお礼状のようなもので、「外家一同」とか「何とか申候」とか、「度奉願ヒ候上」 とか、書かれていて、とにかく難しすぎて読めません。まるで、武士の手紙?のような。
筆で書かれていて、紙も、和紙です。
そして、手紙の最後に何故か「平川」ではなく
「葦原様」と書いてあるのです。
個人名と外家一同とあり、最後に左一番上に 「葦原様」 です。
何で、平川が葦原と呼ばれているのか??
どう見ても、名前じゃなくて、その方々より平川が「葦原様」と呼称で呼ばれているような感じでした。
ネットで見て頂きたいのですが、何せ個人情報なのでアップは出来ないかなと。

という事で、長くなりましたが、明日、きっちりとまとめて、コメントします。<m(__)m>

ネットに写真をアップしましたのでご覧ください
http://ameblo.jp/hirom0211/

追記、白石様、沢山のご教示ありがとうございます。
今から、じっくり読ませて頂きますね(^・^)







[12]子孫よりさんからのコメント(2014年01月04日 02時37分48秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年01月09日 07時36分33秒
[13]416さんからのコメント(2014年01月04日 06時48分07秒 ) パスワード

このサイトを見つけたのは偶然です。
正直、弟Aちゃんのことを聞けたのはうれしかった。
ずっと気になっていたから

これ以上書き込むと、オカルト板みたいになるから
これからはROMってようとおもいます。


[14]子孫よりさんからのコメント(2014年01月04日 08時26分11秒 ) パスワード

416様、「53・・・」
見て下さい。(^・^)
[15]子孫よりさんからのコメント(2014年01月04日 22時52分39秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
昨日、お話した宮原についてをご説明します。

郷土 31号 求麻郷土研究会より

宮原氏は、鎌倉時代の永仁7年(1299年)に求摩郡久米郷東方下分宮原に入部した橘薩摩左馬大夫であり「公」を通字としている。
久米郷宮原を名字の地とした郡内有力国人である。
久米郷宮原とは、現あさぎり町岡原北。前岡原村大字宮原、旧宮原村の事である。(〜P4より)
宮原の地名を取って、宮原氏となり、代々この宮原を領有した。(P11より)

★ ウィキペディア 橘公業のページで
嘉禎2年(1236年)に、本領であった伊予国宇和郡[1]を西園寺公経に譲り、替地として
肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられ、子孫は肥前国を中心に広がることとなり、かつて所領とした小鹿島の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。

上記の肥後国球磨郡久米郷が今のあさぎり町宮原がある一帯だったわけです。

宮原家系図 橘公業より
橘公業 → 橘公員 → 橘公綱 → 宮原公資 → 公忠 → 公久 → 公重 → 公家 → 
頼眞 → 頼重 → 公久 → 公時 → 公遠 → 公智 → 公恩 → 公年 → 公命 → 
公鋭 → 公継・・・とあり

永正14年(1517年)相良藩 宮原治部太輔公忠を求摩年行(重臣)の中に見出す事が出来る。
宮原治部太輔公忠(宮原筑前守・八代四奉行の内の一人)はその後八代に向かい、彼の主要な舞台は八代に移る。

戦国南肥後国人名辞典より 
http://takatoshi24.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

宮原公忠【みやはらきみただ(15??〜15??)】

相良家臣。宮原城主。官途は筑前守。通称左衛門尉。球磨郡老者で八代郡四奉行のひとり。
氷川の宮原城について
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/miyanohara-jyo/

http://www.hikawacyou.hinokuni-net.jp/imgkiji/pub/detail.aspx?c_id=75&id=45&pg=2

宮原三神宮(みやのはらさんじんぐう、みやはらさんじんぐう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8E%9F%E4%B8%89%E7%A5%9E%E5%AE%AE

★平重盛公に繋がっていました。ちょっとビックリしました。

その後慶長年間、宮原公久の時に人吉に帰還。

第9代「公遠、寛永3年(1626年)12月相続」を見ると「宮原公遠」が「宮原十兵衛」と考えられていたがその後の調査により「宮原十兵衛」は7代公久と判明。

「宮原十兵衛」とは平成14年3月に人吉市波床町中尾の墓調査で発見された、宮原城の最後の城主名。
球磨郡あさぎり町岡原北宮原城址麓に墓碑郡がありその中の一つに碑銘同一のものが見られ宮原城主の供養塔である事が平成16年5月に確認された。(ここに、祖父のお墓がありました。かなり、山深く進んで行く場所なので、その後歴代の当主も含めお寺の納骨堂に変わっています)
「宮原十兵衛」は犬童十兵衛ともあり、宮原の父や、伯父には、時代によっては跡取りがいなかったり、その他、様々な事情で宮原は縁戚関係から養子をもらったと聞いたので、何かあるのかな?と。
(これは、はっきりと調べないと解りません。)
実は、この部分が(養子が複数いらっしゃった事)父が、「宮原家」について知っていたのに知らないふりをしていた原因なのです。
宮原には窪田家からも養子が入っています。姻戚関係だったようです。
でも父は「窪田との関係はもっと調べんば。宮原と血がつながっとれば良かけど。」と言っています。
以前、当時の家継とは血を残すではなく家督を残す事、名を重んじたと。だから、養子縁組は沢山の家で行われていたと伺いました。
宮原の父は、心がものすごく真っ直ぐなのです。そして、清らか(子供が言うのもなんですが)。だから、血をとても大事にするのだと思います。
そして、こうも言います「血が繋がっていないのに、誰々が先祖と言えば、その先祖の方々が怒りなるとよ。」と。
とても、難しい問題だけど、そういう宮原の父の頑固さも大好きです。

★岡原の宮原城について
平時の山城は見張りの兵士たちが交代で昼夜問わず警戒にあたり、異変が生じた時は直ちに城下の住民に知らせるようにシステム化されていたのであろう。
城主は城近くの居館に住み、以下の武士たちは城下周辺に居を構え、農事に従事し、食糧生産などに携わっていたのであろう。

宮原公忠以降、何代かが八代におられた間、久米郷宮原の宮原城は宮原家一門と相良家一門が城を守り寛永年間まで領有。
一方、江戸幕府による「一国一条令」が元和元年(1615年)全国に発令されたが地方の山城はそれほど徹底されなかった。
しかし、寛永15年(1638年)の天草島原の乱に二度目の破城令ががあり、この寛永の破城令により人吉本城を残し他は全て廃城となったのであろう。
前出の「宮原十兵衛」(犬童十兵衛)がここ、宮原城の最後の城主であったと思われる。
その後、一部は人吉城下に集住し相良家の諸役人として明治維新まで仕え、在郷に残った武士たちの一部は藩士にそして、一部は郷士となり郷村の行政にあたり、鎌倉時代より承った宮原の土地は守られ続けたのでありました。

と言う事です。ちなみに、祖父の生家宮原家は江戸時代末期に庄屋に変わり、肥後国球磨郡久米郷宮原の土地を守り続けたという事です。

所で、宮原の先祖についてご説明したにも関わらず、私が、本当に興味を持ったというか、とても気になる記述があったのです。それは
★平時の山城は見張りの兵士たちが交代で昼夜問わず警戒にあたり、異変が生じた時は直ちに城下の住民に知らせるようにシステム化されていたのであろう。
城主は城近くの居館に住み、以下の武士たちは城下周辺に居を構え、農事に従事し、食糧生産などに携わっていたのであろう。

ここなのです。
直感ですが、宮原城があったあの場所には、何か秘密があるのでは?と。
普通、城主は住みますよね。だけど、住んでいない。復元図を見て頂けましたでしょうか?山全体に城が広がっています。
宮原城の城主の役割は、何だか「城のある山を守る」事だったのではないのかなと。
もっともっと古代においてあの山には重要な何かがあったのでは?と。
飛躍しすぎかもしれないけど、球磨国の何かがあった場所?なんて事まで考えてしまいました。<m(__)m>

所で、昨日お話した平川は「葦原様」と呼ばれていた件ですが・・
ネットで探しても「葦原家」という記述がないのです。
いったい、何だったのかな?と。
この事についてはもう少し探してみます。

大変、長くなりましてすいませんでした。
では<m(__)m>





[16]白石さんからのコメント(2014年01月05日 06時55分41秒 ) パスワード

子孫様おはようございます。
このスレッドも賑やかになってきましたね。皆様あけましておめでとうございます。
はじめ416様のことを弟様か?と思っていましたが、違いました。
子孫様近い関係の方が筋ジスであることは、胸のどこかにつねに重いしこりがあることだと思います。
自分がそうでないのにわかっているみたいに書くといやでしょうけど、
父が晩年病院で寝たきりになった時、お寺様とお話しすることがあり、その時お寺様から
見舞いに行ったら、そのとき、「日の長かあ」と言いなさったとですよ  と聞かされました。

小学生の子供2人を連れて夏休み一杯と春休み一杯を看護に行ったのですが、私の精一杯でした。家の建て替えにかかった直後の事で、ローンを組んではもはやどうにもならず、サラリーマンの生活であっちとこっちで二重生活も出来ず、

元気なうちは親も 子が来てくれ来てくれと言っても山から出ようとはせず、そうなってから私も親をこちらにつれてこようか?と兄弟たちに打診しても 長兄はすでに年金生活でまだ全額受け取る年ではなく、皆から一万円ずつ出してもらって私が面倒を見るというと
「年金も16万ばい おれも心筋梗塞したっばい どぎゃんすっとじゃろか」との返事。
すぐ上の兄も「自信のなかったいな。いつまで生きるかじゃっで」という返事。そしてこのあと 豊田の不振で あのとき押し切らなくてよかった と あとで思ったことでした。兄も脳梗塞で倒れて・・・・いつしか自分も年金生活になって・・・主人は「おれは優雅な生活をするんだ」と 仕事はせずに絵を描き、犬の散歩に時間を費やしています。^^

そして 子供が中学から高校へ上がるころ、先生から
「お宅は公立へは行けないようになっています」と言われたときの驚き。
学年上位を走っていたので、まさか?と思いました。

いろいろあって 親も逝ってしまって・・・
兄から「ぎりぎりのことはするな。出きるか出来ないか?で判断しろ」と言われ、
あの頃母がお世話になっていた施設の院長先生から
ヘルパーさんを紹介され つけたら 母は 
あんまり ようなかもんな と さっさと断って
私が 結婚しているのに 家の建て替えのために仕事をして収入を得ているのに 子供がこれから大事な年だというのに
全てを捨てて 自分の看護に故郷に帰ってくることを願っていたものでした。

よっぽど 離婚して子供をつれて帰ろうか?とまで思いましたが、そんなに簡単にアニメのように生活を変えることなどできず
学校を出て就職する時点で 一生を見据えて 親元を離れるか 都会にでるか など しっかり考えなければならないのだ と 思います。
しかしながら
女は三里以上よそへ嫁入るな と 昔言われていたけど それも 今世代で出来ることではなく
結局 少しでも親の介護に走れたことを慰めにしなければならないだろうと思っています。
日の長かあ と父が言ったということ
弟様のお見舞いに走っておられる子孫様のこと 偉いと思います。ひとことでも多く話してあげてくださいね。そのひと時を 弟様は待ちわびておられることと思います。
そして できる限り仕事はてばなさない様に。自分に収入があることが先々どんなにおんなにとって心強いことか・・・夫に向かって自分も働いているとえらそうに言うのではなくて 本当に心が穏やかでいられます。

母方の家を婿入りして継いでくれた人からお年賀をいただきました。
お母様が98歳になられたということでした。この人達にも佐田の血が流れています。母は 何故だか 血にこだわっていて 自分のほうが父母ともいとこどおしだから自分のほうが佐田の血が濃い 自分の一族では自分が大事にされたのだ と 言っておりました。母の父は(戸籍ではこういう関係はわからないのです)佐田じゃないじゃない と 私がいったことがありますが、そちらにも佐田がからまっていて そぎゃんとこからまわりまわっては 佐田の女子と結婚しとっとじゃっで と いう返事でした。

>養子が複数いらっしゃった事
その養子の方たちにも 祖先に宮原の女子が嫁入っていて 宮原の血があるから婿養子に ・・・ということかも知れませんね。名跡をつぐだけ ではなく やはり血のつながりのある人に ・・・ということではないか?と思います。女のつながりは 武士の時代になると男系になってしまってわかりづらいけど、その時その時の人達にはあそことあそこはつながっとっとですもん ということで認識されていたのではなかろうか?と思います。





 

 
[17]子孫よりさんからのコメント(2014年01月05日 11時55分17秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。
白石様、コメントありがとうございます。

御両親の介護。本当にお疲れさまでした。
遠く離れていた娘様の献身的な介護を受けて、きっと天国のお父様お母様はとても感謝されていらっしゃると思います。

私も、今回の帰省で、父もだいぶお爺さんになったなと痛感しました。
(これを聞いたら父からしかられるかも)
いつも、凛として、子供の口から言うのもなんですが、「かっこいいお父さん」というイメージがずっと子供の頃からあったのですが、年月は確実に流れています。
かく言う私も、「お前も、おばさんになったな〜」と親戚や伯父から言われて歳を取るのは父だけではないとつくづく思いました(@_@。

でも、本当に空気が綺麗でした。
近くには黒原山そして、遠くにはほんのり雪化粧をした市房山がそびえていて
町にあふれる「心の故郷」という言葉がぴったり当てはまっていました。
夜は満天の星空。都会に住んでいると星は数える位にしか見えませんが、
よく使う「星の数ほど」と言った表現は、あの星空を見てやっと理解出来る言葉だなと思いました。
子供の頃は、この大自然のありがたみは、解らなかったですね〜

白石様のコメントにありました「女は三里以上よそへ嫁入るな」。
同じようなニュアンスの言葉を祖母も言っていましたね。
「もっと近くに嫁いでくれていたらね」とも。
私の心には、家を継ぐという感覚は家を出た時から殆ど無かったので、そこからが間違いの始まりだったと思います。
故郷を離れて、色々辛い経験もしてきましたが、これも自分を高める一つの修行?だったのかな?と。
もちろん、祖母にはなんの孝行も出来なかった事を重々反省しています。
ただ、つらい経験は、心の痛みが理解できるようになったと言う事でもあり、
以前よりも、人様や、先祖に対する感謝の気持ちは持てるようになってこれたかなと。(でも全然まだまだダメですね(ー_ー)!!)
実家に帰っていた数日は、朝起きてすぐに顔を洗い、神棚に手を合わせ、仏壇に向かい先祖に感謝の言葉を伝え、観音様にお参りをしてと、それだけで、心が凛となり、一日を過ごせたのですが、こちら(小倉)に帰って、マンションの部屋の扉を開けたなり、空気がドヨ〜ンとしていました。
これは、私の日常生活の表れだと思います。
実家の空気は、本当に凛としていたのですが、こうも違うかと、とても反省しました。
でも、この気持ちも、いつもの日常生活がはじまれば、又、今までのダラダラした私に戻ってしまうのかもしれませんが・・
(ー_ー)!!いや、どこに居ても、心は凛としていきたい。
これを、今年の目標にします!!
(ホントかな??〜との声がどこからか聞こえて来たような)
雑談になりましたが、あらためて
皆様、今年もどうかご教示のほどよろしくお願い致します。<m(__)m>




[18]白石さんからのコメント(2014年01月05日 20時30分31秒 ) パスワード

こんばんは
いよいよ明日から仕事始めです。初夢を見ずじまいか?と思っていたら今日になって仕事がらみのなにやらおかしな夢を見ました。いつものごとく私に降りかかってくる予知夢です。でもこれもいつものごとく あらかじめわかって心構えが出来ていれば対策も立てられるというものです。

緒方
免田に緒方○美という人がいて、会社勤めの頃の同期の人ですが、この人と島根県出身の田中○○子という人と 顔の輪郭から眉・目・まつげ・肌の色質・声音何から何までそっくりでした。
このことを思い出しましたが、熊本から来ていた在間と言う人はもう少しほほの辺りが豊かで、京人形のような顔立ちの人で、集合写真を撮るときこの人に照準が当たっているねと写真を見た人がいっていました。
有○田・有○というひとも宮崎出身ですが黒目・黒髪でまつげが長く寮祭などで歌うとさかんに拍手をもらっていました。
この系統は黒目・直毛の黒髪・色白の肌質きめが細かいのが特徴でしたが、
大阪出身の杉原さんは卵型の顔立ちで、目は一重か奥二重、髪は少し赤みを帯びていたけどこちらも京人形のような人でした。
此部という人も 人目を引く顔でやはり少し茶色の髪で、そばかすがありましたが、人の眼を引く顔でした。
美人ぞろいという印象でしたが、一団でいるとやはり圧倒されていました。

緒方と田中 熊本と島根 球磨の彩物神楽と出雲 出雲の神の国譲り だけど 本当は祝詞にある 大国主が力を持っていたという話 向家の方の 奈良時代頃までは歴史上重要な地位にあった という話 何だか人の移動 歴史をおりながらも血筋は争えずみたいな身体の特長に遺伝を持っているというのがよくわかるものでした。 
[19]白石さんからのコメント(2014年01月05日 20時55分03秒 ) パスワード

葦原様
何とまあめずらしい苗字ですね。
7000傑様ご存知ではないでしょうか?
私のまわりで聞いたことはございませんね。

ただ
うちの高岡のあったところは字が萩。うちの一族で高岡といわず萩といえば高岡でした。勿論ほかに3軒(^^すくないでしょ!!)あるけどそしてその中の高田という家は親世代が村長をしていたけど、永田はうちと違う集落にある(平川)の高岡と遠い親戚だそうです。こちらの高岡はまた親世代が村長でした。

つまり 家の苗字をよばず 地名を呼んでいた訳です。

こういうことは 姑の方でも(大阪・京都)樺井といわず 田辺が 田辺が といっていました。樺井神社があり 京都綴喜の方にもともとの出所があったようです。
藤原鎌足の子(天智天皇の子)の不比等という名前は、壬申の乱の後、天智天皇系の皇子ということで田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家にしばらくかくまわれていた[3]ことと関連すると思われる。(ウィキより)
とあってこちらも地名を呼んでいた訳です。

葦原
天照大御神の命もちて、「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳の知らす国ぞ」とは天照大神の有名な神勅ですね。
もしもこういう時代のことを ひきずってきていたら?夢はふくらみますね。 

[20]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年01月05日 22時25分04秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

白石さん へ
 
葦原は17277位だから、特に稀少姓でも無い。
全国に分散しているが、肥後は天草と葦北郡田浦町に存する。
駿河、摂津、紀伊、因幡、甲斐にも葦原地名あり。
葦原中津国か葦原、葦北の地名から生じたのだろう。
[21]子孫よりさんからのコメント(2014年01月05日 22時26分15秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様ご教示ありがとうございます。
私も「葦原氏」で検索したのですが、出てきませんでした。

地名?足原は小倉にありますけど、字が違いますね。
葦って川に生えている草ですか?
川の名前かな?

謎です。
父にも見せたのですが、「そういう名前の親戚はおらんね(ー_ー)!!」
との返事。
新年早々に「これは!!先祖からのお年玉?!」と最初は喜んだのですが・・
うううん(?_?) 何だか、意味がわかりません(@_@。
検索した時、古代の国の名前が出てきましたが、でも、この手紙(文)は古くても、明治とか大正時代の物だと思うので・・・

もう少し探してみます。<m(__)m>
[22]子孫よりさんからのコメント(2014年01月05日 23時02分20秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
駿河、摂津、紀伊、因幡、甲斐の地名。

もしかしたら、その土地のいずれかに平川が関係しているのでしょうか?
外家とは、親戚?
差出人の個人名の姓は、宮原の親戚に1軒あるとは父が言っていたのですが
ここまであらたまった手紙(ふみ)をもらう事は無いだろうとも言っていました。(何度も言いますが、何時代??というような・・)
文(ふみ)の写真を取っているので、読み返しても、中々意味が解らず。
ただ、前回のコメントより少し読めた所を追加すると
恩ワスレ申サズ候問(?)恐入・・・
ニュアンス的には「めちゃくちゃお久しぶりです。」のような・・(すいません)
本当に、もっと勉強しておけば良かったです(@_@。

でも、普通は「平川様」ですよね?もしかしたら宮原宛て?
どちらにしても、「葦原様」とは現代において親戚からは誰も呼ばないです。
うううん?やっぱり謎です。
これからも調査してみます。<m(__)m>


[23]白石さんからのコメント(2014年01月06日 23時58分48秒 ) パスワード

こんばんは
7000傑様あけましておめでとうございます。
ご教示ありがとうございます。

葦原って現代では芦原と書くのかしら?と思って検索してみました。
芦原氏のルーツ

芦原さん - 名字検索No.1/名字由来net|日本人の名字98%以上を掲載!!


【解説】
現静岡県である駿河が起源(ルーツ)である、大豊原氏子孫。ほか坂上氏などにもみられる。 「原」は野に対して平らな広いところを表す。

大豊原氏

日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 桓武平氏良将流【1】

平高望三男良将ー将平ー大葦原氏・大豊原氏・後平氏・黒田氏
ここであとがとぎれていますが、

駿河は豊? で 検索をかけると
豊積神社 が 出ました。

豊積神社

豊積神社由来
 延喜式神名帳に「★駿河国廬原郡豊積社」とあり、ここの地を町屋原と称するは、古代において物々交換の市場が営まれたところで社伝によれば第四十代天武天皇の白鳳年間ここに五穀の神「★豊受姫」を祀る豊積神社が創建されたと伝えている。
 平安時代に入り★木花開耶姫を祀る浅間信仰が広く流布され、延暦10年(791)神主の夢想神託により木花開耶姫を祭神とし、豊受姫は稲荷社として境内社に遷宮された。
 延暦16年、坂上田村麿が東征の途上、豊積神社に戦勝を祈願し、その帰路戦捷報告に立寄ったのが旧正月一日とあって、ここに戦勝祝賀の宴が盛大に催され、大太鼓をくり出し三日二晩夜を徹して町内をねり歩いた、これが今に伝えられるお太鼓祭りの起源とされている。
昭和57年12月
由比町教育委員会
由比町文化財保護審議会

[24]子孫よりさんからのコメント(2014年01月07日 09時04分48秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございます。

ご教示を拝見して「葦原様」と書かれた事については、やはり、通称だったのかな?と思いました。

あさぎりの宮原も平川も、古来の地名では、肥後国求摩郡久米郷に住んでいた訳ですから、「葦原様」とはその土地に何か関係しているのかな?とも思うのです。
日本の苗字七千傑様にご教示頂いてご紹介して頂いた
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/hypothesis.htm
こちらの3−4世紀の日本列島の図。
豊葦原国において、求摩郡久米郷には、何か重要な役割があったのかもしれません。
年末に私が書いた(コメント1)の内容も何か関係あるのかも?と。
(偶然見つけた記述だったのですが、何でしょうか、ずっとずっと気になっていて、いつか、皆様にご紹介をと思っていたのですが、まさか、自分の故郷が古代において、球磨郡(求摩郡)久米郷宮原と呼ばれていたとは、夢にも思わなかったので)
もし、よろしければ、皆様コメント1を再度読んで頂けませんでしょうか。

球磨国(狗奴国)・豊葦原国・山部・久米
これがキーワードのような気がします。

平川だ宮原だ、といった事ではなくてその「土地」に何かあるのかも知れません。

でも、あまりにも古代からの事になって、はっきり言いますと
「チンプンカンプン」でございます。<m(__)m>



[25]子孫よりさんからのコメント(2014年01月08日 07時08分27秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
昨日は、宇佐神宮に行ってきました。
ここ数年は、必ず、年明けにはお参りに行っています。
去年1年、無事に過ごせたことへの感謝の気持ちをお伝えしてきました。

神聖な空気に包まれて、凛とした気持ちにさせて頂きました。

所で、豊前・上毛町を通る時、道すがら、大河ドラマに関係するノボリが沢山
出ていて「上毛衆」という言葉がありました。
沢山の武将のノボリも出ていたのですが、何せ、皆様ご存じの通り、私は
歴史が全く理解出来ていないので・・・
でも、上毛町といえば、以前ウィキで相良長頼の記述を見た時に
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E9%A0%BC

その後宝治3年(1249年)3月27日、豊前国上毛郡成恒庄の地頭に任じられている。建長6年、人吉庄にて死去し、後を嫡子の相良頼親が継いだ。
と記述されていましたので、とても、興味がありました。

では、気持ちをあらたに、仕事に行ってきます。(^O^)/


[28]白石さんからのコメント(2014年01月09日 03時46分40秒 ) パスワード

こんばんは
宮原から前に千手の局(父本田氏)・・・篤姫の話がありましたが、

宮の原系図というのがあるのをネットで見て読んでいました。
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%AE%AE%E4%B9%8B%E5%8E%9F%E7%B3%BB%E5%9B%B3&ie=utf-8&oe=utf-8&aq=t&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&client=firefox-a&channel=fflb
宮之原系図で検索

畠山氏 (平姓) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/畠山氏_(平姓)‎
次男・重秀の子孫は藤田氏を称し、戦国時代に後北条氏の家臣に見える秩父氏はその末裔と言う。末子・重慶の子孫は浄法寺氏を称し、奥州の大族として活躍した。系図には重忠の遺児として、重俊・円耀・重政の名が見え、それぞれ宮之原、大窪、井田氏の祖 .
※藤田地区というのが私の故郷の川上にあるなあと思い、

http://www1.kcn.ne.jp/~haruyama/1119.txt
伊地知 季随(いぢち すえみち、生年不詳 - 観応2年(1351年))は、南北朝 ...
www1.kcn.ne.jp/~haruyama/1119.txt‎
宮之原系図」は重忠の子の重季後裔説)もあるが、重忠の兄・太郎重光の後とする所伝もある。こちらもその歴代が明確に伝わらず、その裏付史料がないので、「太郎重光」なる者がかりに実在していたとしても、その系譜の確認ができない。おそらく畠山氏など ...

季安の実父は鹿児島藩士の★伊勢貞休。後に同じ鹿児島藩士の伊地知季伴の末期養子となる。実父はかつて★島津家久の筆頭家老であった伊勢貞昌の末裔家に婿養子となった人物で、父の実家・★本田家は鹿児島藩の記録奉行を輩出していた家系であった。

伊地知季安(1782-1867)は幕末期、薩摩藩の記録奉行だった
※伊勢や家久や本田など関係する言葉が良く出てくるなあと思います。

そして 歴史は南北朝の頃になるけど伊地知城で検索したら
越前の新田義貞考(下): ~歴史研究学習資料~ - Google ブック検索結果
books.google.co.jp/books?id=bq1EAgAAQBAJ
福井・新田塚郷土歴史研究会 - 2013 - ‎History
... 雪巣城が落城し、脱出した★畑時能も★伊地知城(勝山市北郷町)で戦死し、越前は北朝方に制圧された。ただ、今考えて見ると、★新田義貞は関東出身で、何時かの再起を思いながら、結局は越前の地で果てていった悲運の武将であった。 しかし「太平記」に描かれ ...

このページには 新田義貞・弟脇屋義助・畑時能などの言葉が見られる。

上州新田一族をあけると
新田系図 脇屋義助
検索結果1-2 / 2
13 ページ
新田氏の発祥新田^足利の分流十四世紀の中葉、日本の国をまっ二つに分けて戦われた南北朝内乱は、見方によっては、新田氏と足利氏との戦いであった。新田義貞,脇屋義助兄弟に対するは、足利尊氏,直義兄弟である。 ... を遠く離れた陸奥において後三年の死闘を戦って 〔藤姓足利氏略系図〕足利 I 13 第一部荘園の領主の時代く新田氏の発祥〉
66 ページ
奥富敬之 これだと、脇屋義助は、父氏光の死後の実子ということになってしまう。家御相続なり。楱名満行宫大権現の化身なりと。脇屋義助、後に出生なり云々」遊ばさる
となり。義重公より七代の孫なり。★里見由良を御改め、★新田小太郎義貞と御名乗り、新田
...
※脇屋義助には佐田も関与しており、里見氏 由良の言葉など 気になるところです。そして 島津は佐多。
[29]子孫よりさんからのコメント(2014年01月09日 07時04分55秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございました。

伊勢。
実は、球磨に帰った時に気付いたのですが、(というか、今まで忘れていました)旧岡原村の地名で伊勢本と言う所があります。
そして、旧岡原村には「伊勢」と言う姓の方が何軒かありまして・・
戦後、宮原の家に集まり、平川の曾祖父と、今後の球磨について毎夜のごとく語り合っていらっしゃった(焼酎を飲みながら)メンバーのお一人が「伊勢」さんです。
白石様のご教示にあった伊勢氏とこちらの伊勢さんとの関係は解りませんが、
皆さん、其々が、先祖代々引き継いで来た地の戦後の混乱期をどう乗り越えていけば良いのか談義されていたのかな〜?!と思う所です。

所で、正月には現在の平川の当主である伯父と会う機会がなかったのですが(今、人吉に住んでいます)、その他の平川繋がりの親戚とは家でいろいろ話す事が出来ました。
その時に聞いた事を、一つ一つ、頭の中で整理してまとめている所です。

あの・・・一番最初の(ナンバー1とでもいいましょうか)「平川家について」のスレッドで白石様からご質問のあった「○○の緒方家は御存じないですか?」のお答を。(あまり、固有名詞はだせないので<m(__)m>)
すいません<m(__)m>完全に忘れていました。
実は、平川の伯父(祖母の兄)の奥さん、私は、「みなみのばあちゃん」と呼んでいた叔母は、「緒方家」から嫁いで来られていました。
現在の緒方の当主は人吉の青井阿蘇神社の宮司でした。(もう退官されなのかな?)代々、の家系です。
ちなみに、私は知らなかったのですが、現代の宮司のお仕事は、神官学校を卒業後、色々な神社を転属されるとの事です。(詳しくは解らないので今度よく調べます)平川繋がりの親戚には他にも緒方家から嫁いで来られている方がいらっしゃいます。
「そんな事も忘れたのか!!」と皆から叱られましたトホホ(@_@。<m(__)m>
それと、白石様がお調べだったお寺様(固有名詞は控えます<m(__)m>)とも、親戚関係では無いのですが、現代において驚くべき繋がりがあって(これも、祖母から聞いていたのですが、完全に忘れていました。すいません)2代の方のお話は親戚経由で確認しますね。

と言う事で沢山の事を忘れていました。どうも、すいませんでした。<m(__)m>

所で、宮原の祖父が全てを親戚に託し、祖母と大陸に渡ったお話は以前からさせて頂いたと思うのですが、実は、もう一人、大陸に渡っていた人が・・
それは・・なんと・・平川の伯父(祖母の兄)みなみのじいちゃんだったのです。\(◎o◎)/!
全く知りませんでした。
宮原の後継ぎの祖父とと平川の次代当主となる伯父は、その当時、何を考え何をしようとしていたのか。今では謎でございます。<m(__)m>
(今頃、天国で二人が「アッハッハッあてて見ろ!!」と笑っているような気がします)

そして、最後に。
親戚は、やはりこう言うのです。
「うちは、平家だった!!」

ううん(?_?)まだまだ、私の謎解きはこれからも続きそうです。



[30]子孫よりさんからのコメント(2014年01月09日 17時08分34秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、白石様、お手紙を送っております。
お手数ですが、ご確認をよろしくお願い致します。
[31]白石さんからのコメント(2014年01月09日 21時25分19秒 ) パスワード

こんばんは
お手紙まだ届いておりません。

青井阿蘇神社関係の緒方さん
余りどこそこの緒方さん・尾方さんとは知らないのですが、
私が子供の頃 とらおさん ときいていた人がいて、大きくなってから尾方さん(故人)に尋ねたところ、返事がなかったのですが、

もっと後になって 中学の校長先生の中に名前がありました。
青井阿蘇神社の氏子代表についてもおりました。
それ以上は知りませんが、父や親戚の人達が とらおさん とらおさん と名前を言っていました。

川筋は前にも書いたと思うのですが、阿蘇神社などあり、平家城跡などあり、尾方姓は他にも校長先生や神主をかねた先生やらで、

川上の緒方(平清経の話に通じていくらしい)。
球磨郡誌にも 尾方は平氏とぞ 信じがたしともあるけど 本人たちは何らかの記憶を持っていたと思います。

平川の子(故人)が四浦平家城の言葉を知っていて、家に集まった時言っていました。この城のことは余り人は知らないはずで、

城郭史に
明治期に日本全国から城の図面をださせたが、関東大震災で内閣文庫も焼け、史料も焼けたが、熊本県は複写をつくっていたので この 城のことがわかった。熊本大学にその複写がある と 書いてありました。

私が 子供の頃親戚が集まった時も この城の名前をいっていたので、
平家 平川 は 何らかのつながりがあったかも とは思います。

そして
川筋は 良峯師高所領で 川下の深水あたりは 皇室領
となっています。

ところで
話が変わって私個人の事で 先日の夢見のはなし。
今日 よその自治会会長だという人が来て、くだんの五右衛門が警察に捕まって云々としゃべっていきました。私の職場も被害にあっていたら黙っていないで被害届を出したがいい というのですが、

京都の方で市民税だったか 何かを滞納して市民権を剥奪されて 他の市に住んで今のところに借家住まいをしている。お酒を飲んで中毒になって 何かと言えば組織をちらつかせて嫌がらせをしている 近くのスーパーでは大声でわめいてお客さんの迷惑なので 出入り禁止になっている いろいろ
はては その母親も悪で いろいろ と

私にとっては はじめてみる人で 確かに五右衛門は迷惑で私もいやだなあ こわいなあ と思うのですが
その人のことも 初めて見る人なら その人が信用できるか?からはじめなければならず

これは あの 夢見は本当だったのだ と改めて思ったことでした。
慎重に対処しなければ・・・

[32]子孫よりさんからのコメント(2014年01月09日 22時02分27秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、コメントありがとうございます。
お手紙まだ、届いていませんか?
17:00過ぎに送ったのですが・・・
もしかしたら、残念ですがデータが重いのかもしれません。
データ無しで再度送らせて頂きます。<m(__)m>

[33]白石さんからのコメント(2014年01月10日 21時36分31秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 届いていました。^^
今 お返事を送ったところです。

何と デスクトップに表示されているのが アウトルック とか 電子メールとか三種類くらいあって みな 違っていて 入ってなく
ヤフーのホーム?の所の 新着メール というのを開けてみたらありました。

家の周りに 4箇所もポストがある状態になっていたのです。
どうして こうなったのでしょうね。
田中さんのこと
離れているし 今はもう お付き合いがないし いいか?と思ってこちらに書きますが、メールで書き忘れたのです。
昔寮生活をしていた時知り合った人達です。島根出身で 島根に帰りました。そのあとは 存じません。

でも 世間は狭い とか 縁は異なものとか いいますが、まわりまわって つながっていくものがあるかもしれませんね。

おがた と さだ は 同族の間柄で さだ と たなかは 埼玉苗字辞典で さだにつき 田中のそせんか?とある部分があります。

そして 私の故郷の萩の集落の一軒は 田中です。
昔何様だったというしらべ方でなく 他の家も含めて これらが はぎという言葉でひとくくり という ところが 大事なのだと思います。
[34]子孫よりさんからのコメント(2014年01月10日 23時22分33秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様コメントありがとうございます。

集落でひとくくり。
そうか・・そう言う事ですね!

同族ですね。だから、同じ集落に住んでいる。
そして、その場所に住むと言う事は地縁があるから。

とても、すっきりしてきました。

でも、現代は、何も由来を知らずに、その土地に住んでいる事が殆どですよね。
かく言う私も、自分の故郷が遠い昔に何と呼ばれていたのか知らなかった訳ですし。
「縁は異なもの」本当にそうですね。
現代人がそう感じるのですから、昔の人は、もっとそれを強烈に感じ取っていたのかもしれませんね。

では(^・^)
[35]白石さんからのコメント(2014年01月10日 23時38分28秒 ) パスワード

またメールしました。
^^ 田中に関して父母の仲人にたってくれた人がいて、その人の子供が実家が田中でした。
[36]子孫よりさんからのコメント(2014年01月11日 10時01分01秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

先日、故郷の地名に、伊勢元(伊勢本)と言う地名があるとお伝えしましたが、良く考えて見ると、旧岡原村には他に熊野という地名もあります。
後、岡麓・宮麓・永岡・斉堂(ときどう)他は・・思い出してみます。
伊勢元と熊野の境界あたりに、天子神社があります。
景行天皇の熊襲平定に関係する神社と聞いていますが、球磨には「天子」とつく地名や名所が沢山ありました。

帰省中には五木にも行ってきました。
観光用の看板には「平家の落人伝説の地」と書かれていました。
球磨に戻っても同様の看板をよく見かけて・・ふと???と
どうして、この土地に平家・平氏の方々は来られたのかな?と。
確かに、平 頼盛が所領されていたから?八条院領があったから?
相良村四浦(ヨウラ)には平家城跡が残っています。
???何方がこの城にいらっしゃったのかな?
この四浦(ヨウラ)地区はとても標高の高い場所で、海からは程遠く・・
何故、浦(ウラ)なのか、これも不思議でした。
日本全国に、平家の落人伝説が残っていますが、そこに住んでいる方々も
もしかしたら、私のように、どうして、ここに来られたの?と疑問を持っている人もいらっしゃるのかしら?と考えました。

所で、ネットで色々なキーワードをもとに検索していた所偶然、大陸時代の祖父の写った写真が見つかりました。

ただ、中心に御写りの方があまりにもおそれおおい御方でいらっしゃいますので、ブログにはアップしますが、出来れば、本日中に今日のブログは削除するつもりです。

ちなみに、祖父は後方でメガネをピカッと光らせて写っております。<m(__)m>
家に残っている祖父の写真と同じような難しい表情ですが、じつはメガネをはずすと、孫の私もドキドキするような男前でございます。(ばあちゃんから叱られる)では<m(__)m>

http://ameblo.jp/hirom0211/

[37]子孫よりさんからのコメント(2014年01月11日 15時30分09秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

祖母の実家、平川家の調査が全く進んで行かない中、今日は、日本の苗字七千傑様の良峯氏の姓氏類別大観をじっと見つめていました。
(先日ごど様より、穴があくほど見ていたら、何かが見えて来るとのお話もありました。)
すると、気が付いた事が
「高」と言う字がとても多いです。
特に、「原高成」以降の名前には「高」の付いた方が沢山いらっしゃいます。
そこで、ふと、「良峯依高」からの系譜を見ると依高・盛高・遠高・師高・高実・・「高」が付いています。
そして、「師高」以降が「師」に変わるのです。「師」は、その後結構長く、良峯姓平河の名には付いているのです。
何故、今まで、気が付かなかったのかな?と考えた時に、私が「師高」以降の古文書などばかりを見ていたからだと思いました。
二宮大宮司家との繋がりがないか?もっとこれからは調査していきます。

姓や名前と言えば・・・ふと思ったのですが
宮原の近い親戚も・平川の近い親戚も「星」が付く家があります。
宮原の親戚は「星原」で平川の親戚には「赤星」
球磨の夜空に星が沢山出て綺麗だから?(ー_ー)!! すいません。
赤星の叔母には子供の頃、とっても可愛がって頂きました。
平川の曾祖母のお葬式の時に、何故か、宮崎から私は父と二人で帰って来たそうで、赤星の叔母が私の子守をして下さっていて、父がしばらく出かけている間に、「パパが僕を置いて行った!!僕を捨てて行った!!」と、火が付いたように泣き叫んだそうです。
(曾祖母が亡くなった日から考えると1歳9カ月くらいです)
父が帰って来て泣き止んだそうですが・・・
その時、父は、親戚一同に「何で、女の子なのに『ボク』と言わせているのか!」とそれはそれは叱られたそうです。(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
ただ、父は今でも「ボク」って言わせたかった(^v^)と言います。
何の教育方針だろう(ー_ー)!!と。
私は普段、人とたわいもない会話をしている時も、言葉使いに関して「ううん?何か変!」と言われる事があるのですが(@_@。、この頃の教育に問題があったのではと感じる今日この頃であります。
では <m(__)m>

[38]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年01月11日 20時27分42秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>そして、「師高」以降が「師」に変わるのです。「師」は、その後結構長く、良峯姓平河の名には付いているのです。
 
群書類従良峯系図などから、建前上は宗貞(遍昭)の子が玄理とされています。
しかし歴史の時間軸を冷静に考えることも重要です。
多臣族の丹羽臣の賜姓は天平勝宝元年(749)辺り。
良峯姓の賜姓は延暦21年(801)、玄理の椋橋改姓は寛平2年(890)以降、
季光の復良峯姓が正暦以降(990〜)。
 
即ち玄理が宗貞(遍昭)の子というのは附会に過ぎず、多臣族の丹羽氏の後裔である恐らく躬依の子玄理が寛平年間に椋橋姓を賜姓、季光の時に良峯姓に改姓が真実、依高も後裔。
躬依の依と依高と一致するのは何か暗示していませんか?
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222a.htm
玄理以降は尾張丹羽郡大領で前野氏や坪内氏に繋がるわけです。
支流の家が肥後球磨の平河氏で、多氏族や芦北国造(日羅など)と地縁のある場所へ良峯姓を称して鎌倉期に尾張から地頭として赴任したと考えるのが順当でしょう。
[39]子孫よりさんからのコメント(2014年01月11日 22時49分25秒 ) パスワード

皆様、こんばんは。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

多氏。
日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観を拝見しました。
同族の阿蘇国造家から阿蘇大宮司家へ進んで見た所、今日、コメントした「赤星」に繋がっていたので、本当に驚きました。

「躬依の依と依高と一致するのは何か暗示していませんか?」
「依」という字が付く名前は今までの調査の中で、あまり見当たらなかったように記憶しています。

「多氏族や芦北国造(日羅など)と地縁のある場所へ」
この、お話を伺って、なんでしょうか、胸の中がすっきりとした感じです。

以前のスレッド「平川家について続5」でコメントさせて頂いた事なのですが

相良氏入国前の球磨
http://kuma.atukan.com/rekisi/bangai/zengo.htm

この中で「康平6年(1058)、平河三郎帥澄が求磨郡(球磨郡)臼麻荘を領しているという記録もあります。このあたりが球磨で最古の支配情勢の記録でしょうか。このほか久寿元年(1154)、平河氏が深田村に万福寺を建立しています。」
とありました。

「平河義高は相良氏が人吉に来られる18年前から球磨に来られた。
ここで登場する平河(良峯)義高は、元々球磨にいた平河が分かれて何処かに行かれてそして、子孫となる義高が帰って来られたという事・・」

この時は、憶測で書かせて頂いたのですが、平河三郎帥澄は同族であり、師高がその平河の姓を継いだと考える事もできる訳ですね。

胸のつかえがどっと取れました。
今後は、検証していくと考えながら、進めていこうと思います。
<m(__)m>





[40]子孫よりさんからのコメント(2014年01月12日 07時58分53秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

視点を変えて検証を行う。こう考えながら、今までの「平川家に付いて」をあらためて読み返していると、やはり、自分の調査に抜けがあった事に気が付きました。

まず、「平川家について5」のスレッド68で白石様からご教示頂いた熊本県球磨郡あさぎり町の広報の記述ですが(深田村万福寺について)
今回、発見された墨書銘には、木造毘沙門天立像を、いつ、だれが、何の目的で作ったのかが判明しました。その内容は、「当郷の領主の藤原家永が、藤原氏の災いをなくし、命を延ばし、福寿を増長することを目的とし、勧進にあたった僧は源与で、仏師は僧の経助で、この地にて成就し、多治治助ならびに藤原氏の一家の平安を願って久寿三年(1156年)四月二日に安置した」ということが書かれています。久寿3年の年は保元元年にあたり、あの源平モノの大河ドラマなどではよく耳にする「保元の乱」という事件がおこった年です。「藤原家永」という人は、先ほど述べた『図田帳』の「藤原家基」の一族に強い関わりがあると思われます。
 さらに、仏師名と勧進僧名や平安時代前期に皇室と関わりがある「多治氏」の名前もあることから、球磨郡の平安時代をさらに問題提起をしています。

球磨の平安時代に関係していた「藤原家基」の一族そして多治治助「多治氏」

私は、この内容からコメント69で「良峯驚取(北家魚名の子)」の名前を見つけた訳です。
でも、ずっと胸の中につかえていた???。
これが、昨日の日本の苗字七千傑様より「しかし歴史の時間軸を冷静に考えることも重要です。」と伺って、自分の胸の中につかえていたものがようやく理解できました。すなわち、歴史の時間軸が合っていないと言う事だったのです。
藤原驚取(良峯驚取)は宝亀2年(771年)従五位下・伊勢員外介に叙任されるとありますから、昨日伺った「良峯姓の賜姓は延暦21年(801)」とは合わない訳です。
なぜ、藤原驚取が良峯姓を名乗ったのかは、後日検証するとして、私が、気になっていたのにスルーしていた事がひとつあって・・・
それが、多治治助「多治氏」でした。

日本の苗字七千傑様の「多治氏」姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01211.htm
【丹治氏/為奈氏】
宣化天皇の曾孫、多治比彦王の後裔で、河内国丹比郡を本拠とする。
旧説では武蔵七党の丹党は丹治氏の後裔とされているが、実は紀国造家族の大丹生氏後裔である。
また宣化天皇御名代部の桧前舎人裔説も存在する。
摂津国河辺郡為奈郷より起こる火焔皇子の後裔猪名公は、天武13年(684)為奈真人姓を賜姓される。
★武蔵七党の丹党は丹治氏の後裔とされているが、実は紀国造家族の大丹生氏後裔である。とありましたので早速、日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観《紀国造家》を見ました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01209b.htm#003
一番下に記述されていた掲載姓氏の所に
※上記の他【島田氏】【福田氏】【森本氏】が紀伊国造族。
とあるのですが・・・
実は、平川の近い親戚に「福田家」があり、曾祖父の妹が「福田家」に跡取りが無かった為に養女に入っていまして、この方はなんと、平川の伯父(祖母の兄)が戦時中大陸に渡る際に一緒に大陸に渡っているのです。
そして、福田の叔母は韓国に土地を購入して住んでいたと。
その後、終戦となり、球磨に帰ってきたと言う事です。
この話は正月に父や親戚に聞いたばかりです。
なんでしょうかこれは??

「多氏」と「多治氏」の繋がりは、私には全く解りませんし、関係は無いのかもしれませんが・・・
以前は、平安後期と鎌倉時代の内容でぐるぐる繋がっていたのですが、もっと古い時代の話しと現代がぐるぐる繋がっているようで。
それと、もう一つ「多治氏」についてですが
良峯安世の妻は丹治氏(多治比氏)で良岑清風(820-863)を産んでいます。

もしかしたら、球磨郡には、ずっとずっと古い時代の土地に関係する一族が集まっているのでしょうか??謎です。

と言う事は?あれっ?宮原は?
宮原氏は、鎌倉時代の永仁7年(1299年)に求摩郡久米郷東方下分宮原に入部した橘薩摩左馬大夫であり「公」を通字としている。
と言う事ですから・・・?宮原も、この時代のずっとずっと以前に、この土地に関係していたのでしょうか?

あっ!!忘れていました。そうでした。
橘薩摩は・・・・???
良峯という姓は=良峯安世と考えるだけではなく、「よしみね」という言葉にはもっと深い意味があるのでは?と勝手に推測してしまった今朝の調査でした。
(?_?) <m(__)m>





 


[41]子孫よりさんからのコメント(2014年01月12日 14時30分52秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。
休日の昼のひと時を、どんより曇ったそらに少しだけ青空を見つけて、のんびり、眺めています。
(言いかえると、何もすること無くぼ〜っとしている私です)

球磨から帰って来てまだ、10日も経たないのに、何故か故郷が恋しいですね。
今まではこんな風に考える事あまり無かったのですが、ううん?年齢のせい?
いや、(ー_ー)!!見た目だけでも若くあろうと日々心がけているのですから・・
久しぶりに帰ったのでもしかしたら、先祖のDNAが「球磨に帰りたいよ〜」と言っているのかも知れません。
(球磨を知らない人が聞いたら、「何言っているのだろ?」と言う感じですよね。すいません)
所で、ぼ〜っとしていて思い出したのですが、「球磨川」には別の名称がありました。
帰省の高速バスに乗っていて観光用PVを見ていたら、その名称がテロップに流れていたのですが、覚えていなくて(@_@。
そこで、探して見つけました(^O^)/昨日からご紹介していたサイトに記述されていました。
http://kuma.atukan.com/rekisi/kodai/kodai.htm

記述の後半に 球磨を求麻と書く説の一つがあり

「球磨は昔、[求麻]と書いている時期がありました。これは昔、八代の者が川から麻の葉が流れてきたので、上流に行くと人が麻を作っていた。そして麻を求めに人がやって来るようになったので、この地を[求麻(クマ)]→球磨と呼ぶようになったからだといわれてます。

 
「藤原定隆の和歌に、この言い伝えを詠ったものがあります。

“夏来れば 流るる麻の木綿葉川
        誰水上に禊しつらむ

木綿葉川(ゆうばがわ)は人吉から下流の球磨川の別名。または夕葉川とも呼ばれたそうです」

球磨川は別名  木綿葉川(ゆうばがわ)・夕葉川
風情がありますね〜。イメージがとても綺麗です。
熊襲・球磨国!! こう聞くと、男の人がずっと戦ってきたゾ〜!<(`^´)>
というイメージですが、木綿葉川(ゆうばがわ)と聞けば、穏やかな気持ちになります。(^・^)

あれっ??藤原定隆の和歌?
藤原定隆 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%97%a4%e5%8e%9f%e5%ae%9a%e9%9a%86

おやおや??何故この方は 木綿葉川(ゆうばがわ)「球磨川」の事を知っているのかな?まるで、川を見たかのような、うたですよね。?

兄弟が
藤原隆能(ふじわら の たかよし、生没年不詳)は、平安時代後期の絵師。藤原北家魚名流。左衛門佐藤原清綱または権中納言藤原清隆の子。正五位下・主殿頭、絵所預。絵所一流の祖。
あれっ?また魚名流です。
でも、藤原定隆は、藤原北家良門流。藤原隆能は魚名流。??母方が違うのかな?

と言う事で今後の調査には「木綿葉川(ゆうばがわ)・夕葉川」も検索のキーワードに入れて見ます。(*^。^*)
では。


 
[42]子孫よりさんからのコメント(2014年01月12日 15時15分22秒 ) パスワード

追記
球磨川は九万川又は九萬川とも呼ばれるそうです。

木綿葉川・夕葉川・九萬川・九万川で万葉集をまず探して見ます(*^。^*)
(^・^)うえの1行は同じ言葉ばかり出て来て、まるで言葉遊びのようです
[43]白石さんからのコメント(2014年01月12日 20時52分09秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年01月12日 20時53分13秒
[44]白石さんからのコメント(2014年01月12日 20時54分19秒 ) パスワード

40平川の近い親戚に「福田家」があり、曾祖父の妹が「福田家」に跡取りが無かった為に養女に入っていまして、この方はなんと、平川の伯父(祖母の兄)が戦時中大陸に渡る際に一緒に大陸に渡っているのです。

うちの白石の祖父は福田家の人です。なので うちの白石は木上から来ているといわれます。子孫様のところの福田家が木上かどうかは知りませんが・・・

正月休みをずらして娘が帰ってきました。2から3日しかいなかったので、少し物足りませんでした。そして、何事もなかったかのようにひょうひょうと帰っていきました。私も若い頃ああやって 帰省しては母が名残を惜しむのを じゃまたね と さっさとバスに乗り込んだのだなあ と 思い出していました。
朝10時頃大阪を発って夜行列車で翌日ひる頃家につき、なので家にいるのは2から3日だったのですが、そして 人吉に行くにも一日係りで正月はバスは満席。入り口からぶら下がった人もいて、町にも出かけず 家でぶらぶらの正月でしたが、大阪へ帰るときは 集落の人皆が見送りで 高岡のおばも山から下りてきて「もうあえんかも知れんなあ」と涙ぐみながら それを 夏冬と繰り返して何十年でした。なつかしい思い出です。帰省のたびにボーナスが吹っ飛ぶほどの隣近所へのおみやげで しばらくしたらもう帰るのをやめようかな?とおもいながらやっぱり 帰っていました。

[45]子孫よりさんからのコメント(2014年01月13日 00時37分29秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、コメントありがとうございます。
お嬢様とのひと時を楽しまれたのですね。きっと、帰られるときは、お嬢様も寂しい気持ちでいっぱいだったと思います。
寂しい顔を見せたら、かえって心配されるのではないかと気を使われていたのでは。 私も、この歳になっても、実家から帰る時は、とても寂しい思いになります。
私は同じ九州に住んでいるので、行こうと思えば今では新幹線で八代まで1時間10分ほど。そこから高速バスで40分程ですから、とても便利になりました。(車を運転して帰っていた時は、遠いな〜と思っていましたが)
白石様は、当時、1日がかりでの帰省だったのですから、本当に、球磨は遠く感じられたでしょう。
今年は、時間が取れたら出来るだけ球磨に帰ろうと思います。

所で、福田家ですが、叔母は私が子供の頃に亡くなっていて、遊びに行った記憶は殆どないのです。(いつものように忘れてる可能性は大ですが(@_@。)
多分、免田?すいません(*_*)やっぱり父に聞いてみます<m(__)m>

[46]子孫よりさんからのコメント(2014年01月13日 10時23分49秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

今朝は、昨日に引き続き、今までの調査に見落としがなかったか、確認していたのですが・・
一つ、気になる事がありました。

「平川家について5」のスレッド66に書いた
「良峯依高の長男は誰??と。
古文書・文献では盛高は二男とあります。???では長男は何処にいったのかな?と。 またまた、名前が違うのでしょうか?」

そうでした。
「良峯依高」からの系譜は実際は依高→○○・盛高・遠高・師高・高実
となるはずなのです。
本当に、長男○○は誰??でしょう。
調べていませんでした。反省します。(>_<)
[47]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年01月13日 13時39分52秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「良峯依高」からの系譜は実際は依高→○○・盛高・遠高・師高・高実
 
依高の子は、深田太郎盛高、山田次郎遠高、平河三郎師高、横瀬次郎高実の4人。
次郎が2人居るのは疑問符、また他に子が居る可能性も無きしもあらずだが夭折したか異母兄弟が居た可能性もある。
[48]子孫よりさんからのコメント(2014年01月13日 21時47分33秒 ) パスワード

皆様、こんばんは。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
深田太郎盛高。太郎ですよね。やっぱり長男と言う事ですね。
私は、何を見ていたのかな?と。すいませんでした。

でも、今まで気が付きませんでした。本当ですね、次男が二人?!です。
何故なのでしょうか?
横瀬次郎高実だけは「高」の字が最初についています。(関係ないのでしょうか)
でも、他の4人の名前と比べて何か違和感があるのですが・・(気のせいかな?)
「実」という字がとても気になります。
平河が所領に関係して幕府に訴訟を起こしていた相手は大井実春。
「実」?周辺に「実」の付く人物をもう一度確認してみたいと思います。
(あまり関係ないのかもしれませんが、こうなれば、いろいろ気になり始めたので・・)

所で、今日は、下関市の彦島に行ってきました。(^O^)/
彦島大橋を渡ってすぐにあった展望台で、海を眺めました。(今日は、何故だか朝から、大陸に繋がった海がとても見たくなったのです。)
そして、彦島八幡宮に伺いました。
お参りをすませて、ペトログラフの石を見に行くと、以前とは違い、ペトログラフの説明書きが立ててあり、とても解りやすかったです。
巨石であるのに、海中を移動していたというとても不思議な記述がありました。\(◎o◎)/!

あの・・お参りに伺ったお陰かもしれません。実は、平川家文書を元にした調査に、ひとつひらめいた事が・・・

変貌する須恵村: 社会文化変化の基礎的研究 - 79 ページに
良峯安則の人物像に関して「右近衛大将検非違使別当を経て・・・天長五年、大納言になる)を始祖とする良峯四郎安則」という言葉があり、「天長五年、大納言になる」は良峯安世であると思うのですが、その記述よりも気になるのが
「右近衛大将検非違使別当を経て・」ここなのです。
右近衛大将であり検非違使別当であったのは誰なのか?今から調べてみたいと思います。(^・^)
では、がんばります(^O^)/

[49]子孫よりさんからのコメント(2014年01月14日 00時35分57秒 ) パスワード

皆様、私、とても重要な事を見落としていたようです。

替地とは・・・・・・・!
替地(かえち)は土地の交換である。ウィキより

何で何でなんできがつかなかったのでしょうか!!

宮原の先祖である橘公業は ウィキより
嘉禎2年(1236年)に、本領であった伊予国宇和郡[1]を西園寺公経に譲り、替地として肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられ、子孫は肥前国を中心に広がることとなり、かつて所領とした小鹿島の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。

すなわち橘公業は西園寺公経と本領であった伊予国宇和と肥後国球磨郡久米郷宮原を替地していた。!!

祖母の実家平川家はその肥後国球磨郡久米郷宮原にあります。
祖父の生家宮原家のすぐ近く。
そして、西園寺公経の西園寺家と平河家文書にあった右近衛大将検非違使別当であった人物は繋がりました。
右近衛大将検非違使別当であった人物とは藤原 忠平(ふじわら の ただひら)
西園寺公経は藤原忠平の裔です。

ウィキの記述では
大納言以上の議政官で兼帯したのは、藤原忠平が911年(延喜11年)に大納言に転任するが、検非違使別当をそのまま兼帯した例のみで他の例は無く、五位以下から兼帯した例も無い。
とあり右近衛大将であり検非違使別当であったのは藤原忠平。

そして
私が、スレッド40でご紹介したあさぎり町広報の記述に
「藤原家永」という人は、先ほど述べた『図田帳』の「藤原家基」の一族に強い関わりがあると思われます。 と有りました。
この藤原家基とは近衛家基。
そして近衛家基は・・・やはり藤原忠平の裔です。

西園寺公経と藤原家基(近衛家基)は同じ祖(藤原忠平)であると言う事です。

この流れのいずれかが、良峰姓原氏に繋がりがないかをこれから調査していきます。<m(__)m>




[50]子孫よりさんからのコメント(2014年01月14日 06時27分22秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
調査の続きを・・

西園寺公経について。
 平頼盛の曾孫である。父:藤原実宗、母:持明院基家女
 持明院基の 妻:平頼盛の娘 です。(人吉は平頼盛が所領していました。)
 妻:一条全子(?-1227) - 一条能保女
   この方が産んだ子供は
   女子:西園寺掄子[3](1192-1252) - 九条道家正室、九条教実・
   二条良実・藤原頼経・一条実経母、従一位准三后
   男子:西園寺実氏(1194-1269) 女子(?-1227)[4]
 (ここで 一条家 九条家 二条家 と関係してきました)
 妻:僧範雅の女 男子:一条実有[5](1203[6]-1260) - 清水谷家

 妻:平親宗の女 男子:洞院実雄(1219-1273) - 洞院家

 妻:白拍子某(もと平親清妾) 男子:四辻実藤(1227-1298) - 四辻家(室町家)男子:西園寺実材(1229-1267)女子:西園寺成子(大納言二位局) - 後深草天皇妃
 
生母不明
 男子:実意 男子:実助 男子:尊恵 男子:道融(1224-1281)男子:実顕
男子:行安 男子:慈助 男子:実勝[7] 女子:三条実親室(?-1235)
女子:西園寺嘉子 - 九条教実室、従三位
女子:西園寺公子(大納言三位局) - 後嵯峨天皇妃
★女子:三条実親室・・・平川家について5 コメント70をご覧ください

平川家について5 コメント70より
藤原公行・・・三条 公行(さんじょう きんゆき)は、平安時代末期の公卿。三条実行の次男。  ここで三条家に繋がったわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%B6
下の歴代当主の中に 三条公茂 名前があります。
では、古文書の内容に戻ります。
この三条公茂さんの事を 鎌倉遺文では
伊勢少掾藤井松永内竪頭目良峯充村 <中宮大夫藤原朝臣>となっています。
良峯充村・・・三条公茂・・・中宮大夫藤原朝臣・・・(同一人物)
と言う事です。

と書きました。
★三条実親は上記の三条公茂の曾祖父です。
そして、三条公茂は良峯姓を名乗っていた・・・・。

今から仕事に行かなければいけません。
この続きは夜、調査します。<m(__)m>




[52]子孫よりさんからのコメント(2014年01月14日 21時36分28秒 ) パスワード

皆様、こんばんは。
朝は、どうもなかったのですが、夜になり、西園寺家の事を調べようとすると
何故か、身体に不思議な震えが来て、あまり、体調がよくないのです。(薬で落ち着いているはずの心臓がなぜかドキドキとなって?!)
どうも、これは、宮原(橘)の先祖の拒絶反応か?と思い。(マタマタ(ー_ー)!!の声が聞こえたような。でも、本当です(*_*))
歴史が全く解っていなかったのですが、調べてみて、初めて理解できました。

橘(宮原)は替地を不満に感じていたようですね。(自分の故郷なので、先祖の気持ちを考えると、とても複雑です(*_*))
★えええええ〜っ!!知らなかったの!っと言わないで下さい。これが、私でございます。(*_*)(@_@。

と言う事で、球磨に関係が深かった、藤原忠平のもう一人の子孫「藤原家基(近衛家基)」についても調べて行こうと思います。
どこかに、平河(平川)・そして良峰姓原氏に関係する手掛かりがあればとても嬉しいのですが。
では、一旦、失礼いたします。<m(__)m>
[53]白石さんからのコメント(2014年01月16日 22時55分10秒 ) パスワード

★伊勢少掾★藤井松永内竪頭目良峯充村 <中宮大夫藤原朝臣>となっています。
良峯充村・・・三条公茂・・・中宮大夫藤原朝臣・・・(同一人物)

藤井
ここで書かれている藤井が関係しているかどうか?ですが、
藤井は宮中に入ると 葛井にかわると 以前テレビで見たことがあります。

平城天皇第一皇子・阿保親王は在原業平の父。阿保親王の子孫は鎌倉時代尾張熱田神宮に養子に入り、再び出て愛甲郡などを経て 毛利に養子に入った。

熱田神宮には他にも 鎌倉時代 藤原から婿養子が入り この筋から源頼朝が出る。

藤井は船氏の一員で、王辰邇などが系にいる。
王辰邇の祖先が 魏の司空・王氏。

王氏は他にも漢王室外戚・周の外戚など 広がりを持っている。
[54]子孫よりさんからのコメント(2014年01月17日 07時53分49秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございました。

藤井松永内竪頭目良峯充村

このとても長い?名前にはご教示頂いた様々な意味が込められているのですね。

当時の人の名前は、その人物がどのような流れから生まれきたという、自己証明?のようなもの?でしょうか。
そう言えば、同一人物であっても、男系の姓で記述されている事もあれば、母方の姓で記述されている事もありますね。

ちょっと、スランプ気味だったのですが、視点を変える事も出来るようになった訳ですから、今晩は、調査をもうひと頑張りしようと思っています。

<m(__)m>
[55]白石さんからのコメント(2014年01月17日 23時19分30秒 ) パスワード

北山本山寺

※山本は前から出ていた熊本の山本郡にも言葉が通じないか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大阪府高槻市にある碑。
北山本山寺は、神峯山寺の奥の院として知られている。
神峯山寺は大阪府高槻市原にあり、日本で初めて毘沙門天が安置された。

※原が出る。
※そして毘沙門天とのつながり
※勝福寺を草創したのは「須恵氏」http://www.asagiri-town.net/q/aview/48/634.html あさぎり町広報
※藤原家基(須恵小太郎)
※「藤原家永」という人は、先ほど述べた『図田帳』の「藤原家基」の一族に強い関わりがあると思われます。
※久米は須恵
※久米の子孫の女子と藤原の間の子が鎌足
※久米と山部赤人
※次にある開成皇子により 桓武天皇へ 役の行者より賀茂氏と同族

開山の祖は、役小角(役行者)、中興の祖は、開成皇子。

697年、役小角が葛城山(金剛山・葛城山)で修行をしていた。
ある日、北方の山から黄金の光が見えたので、神峯山寺に移動した。
そこで天童(金比羅飯綱大権現)と出会い、天童の霊木で四体の毘沙門天が刻まれた。
残りの三体のうち、一体はかつて神峯山寺奥之院「霊雲院」であった北山本山寺に、一体は京都市左京区の鞍馬寺に、一体は奈良県生駒郡平群町の信貴山に安置されたと伝わる。


アクセス
大阪府高槻市天神町付近
鉄道
    JR西日本東海道本線 高槻駅
    阪急電車京都線 高槻市駅

----------------------
開成皇子を検索
超不思議!?開成皇子墓の位置1
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-90120.htm

「神功皇后陵と箸墓の結び付き」を眺めていると、仁徳天皇陵後円部中心の真北に開成皇子墓という表記があったので、「開成皇子」を検索してみて驚きました。

父は光仁天皇で、桓武天皇の庶兄でありながら、正史である続日本紀には全く現れず、後世に編まれた僧侶の伝記の中に記されているだけだというのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
光仁天皇は、天智天皇の孫。志貴皇子の第6王子。名は白壁。称徳天皇没後、藤原永手・百川らに擁立されて即位。春日宮天皇とは、光仁天皇が父の志貴皇子を追尊した称号です。

※施基皇子の系が現天皇家へつながる。

ところで、箸墓の真北に位置する崇道天皇陵とは、藤原種継暗殺事件に巻き込まれ、無実を訴えて絶食し憤死した、桓武天皇の実弟、早良親王を後に追尊して改葬したところです。

すると、山辺郡にある神野山は、「山辺」によって桓武天皇の名「山部」を示唆し、「神野」によって、桓武天皇の第2皇子である嵯峨天皇の名「神野(かみの)」を示唆することになります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まず、「古事記」には、綏靖天皇と多氏の始祖=神八井耳命の母親が、暗殺計画の存在を知らせるために、畝傍山に吹く風を詠んだ歌を我が子に送ったという説話が載っています。

なお、神八井耳命と綏靖天皇を祭る多神社には、三輪山を頂点とする正三角形を意識させる要素があるのに対し、太安万侶の墓は、下図↓の直角三角形を意識させる位置にあります。
そこで、開成皇子墓に対して位置関係が目立つものを探すと、左図のように、巳の方向に斉明天皇陵がありました。

※斉明天皇
宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)

※草原から来た天皇3
阿多部王は高貴王と号し、初めて来日して準大臣になり、茅渟王の娘と結婚して坂上、大蔵、蔵内の三子をなしたという。 『大蔵系図』の傍系の『秋月系図』には、高貴王は大臣に任じられ、妻は斉明天皇だったとある。 『書紀』に斉明の最初の夫とある「高向王」とは高貴王のことではないか ...

※平川家について(続4) - 日子の島TOP
www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101330_99.html‎
2013/10/28 - 投稿 98 件 - ‎4 人の編集者
養母讃岐守高向公輔女。従二位 ...... 椋橋という言葉から ネット 丹羽の2姓より良岑安世から宗貞、玄理と続き、玄理の項には 姓を椋橋と改め尾張国丹羽郡の郡司なり 玄松子の記憶椋橋神社(打ち込む時は むく はし で でます。) くらはしじ ...

※桓武以前に 天皇家と漢王室子孫と合流
漢王室子孫高貴王
||・・・・・・・・・・・・・・・・・・大蔵・坂上・蔵内
斉明天皇


しかも、斉明天皇は、開成皇子の父光仁天皇の曾祖母で、
その陵の丑の方向に、光仁天皇陵があるのです。

さらに、斉明天皇陵に対して寅の方向にある山部赤人の墓からは、開成皇子の庶弟にあたる桓武天皇の名「山部」を意識せざるを得ないのではないでしょうか。

この山部赤人墓は、小治田安万侶墓とセットになって、
「太安万侶の墓の位置」をクローズアップしています。

ところが、太安万侶墓は、開成皇子墓から見ると辰の方向に位置します。これは、若草山にある、鶯塚古墳と太安万侶墓の位置関係と同じような形になっています。

なお、鶯塚古墳と太安万侶墓の位置関係が分かったのは、10世紀末に成立した枕草子の
19段に、「みささぎはうぐいすのみささぎ」とあるので、チェックしてみたからです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

良峯姓原氏
???
上の中から 斉明天皇をはさんで 何か出てこないかしら ?と 思って書きました。余りお役に立てなくて・・・
[56]子孫よりさんからのコメント(2014年01月18日 01時25分31秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
今まで、色々な情報を見ていました。
実は先日、故郷の球磨郡久米郷宮原の替地について気づいて、本当に何故か、なぜか、いつもワサワサワサと働いていた感がピタ〜ッと止まってしまい、何を見ても、どの名前をみても、なにもピーンっと来なくなってしまっていました。
でも、それだけ、今まで、感に頼っていたと言う事に気が付き(遅い(ー_ー)!!)、やっぱりこれじゃダメだ!と。
冷静に分析・調査を行わなければいけない事をあらためて実感したのです。

折角、今まで、沢山の情報が出て来た訳ですから、その中でも、ちゃんと文献に記述されている事を中心にしっかりと分析する事にしました。

そこで、まず着手したのは何度か取り上げたこの情報です。
平河観覚書状 嘉歴2年5月10日 成富名の手紙状3通内
そこには良峯(平河)阿夜の書状も含まれてます。

まず、平河観覚とは
平河宮内左衛門入道観覚 
この人物が実は極楽寺重時 → 北条重時(北条義時の息(3男)。母は比企姫前。)
そして北条重時の甥が 平河又三郎師里。

北条重時の甥と言う事は、重時の兄弟の子供が平河又三郎師里と言う事です。
私は、この部分を全く調査していなかったのです。(<m(__)m>反省しています)
そこで、今後はあり得るパターン?を想定していきたいと思います。

まず、重時の兄弟は ウィキより
泰時、朝時、重時、有時、政村、実泰、竹殿、一条実雅室、他(この他と言う所が問題なのですが・・)

では早速 姓が異なるすなわち「妹」から分析。

想定@ 妹・・・一条実雅室  ウィキの記述で分析していきます。<m(__)m>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E9%9B%85
一条 実雅(いちじょう さねまさ、建久7年(1196年) - 安貞2年4月1日(1228年5月6日))は、鎌倉時代初期の公卿。一条能保の子。従三位・参議。伊予宰相中将と号す。 ★伊予が出てきました。
続けます。
★系譜 父:一条能保 母:家女房(藤原有恒の娘)妻:北条義時の娘 
★ 子 生母不明 男子:一条実顕(北条重時の甥となります)φ(..)メモメモ
姉婿である西園寺公経の猶子となる。建保7年(1219年)、鎌倉幕府将軍源実朝の右大臣就任の鶴岡八幡宮参詣に随従してその暗殺を目にする事になる。その後、姉の孫にあたる九条頼経が次の将軍に決まったためにそのまま鎌倉に滞在してその補佐を行うこととなる。貞応元年(1221年)には参議に任じられ、執権北条義時の娘を妻に迎えた。ところが、元仁元年(1224年)、妻の母である伊賀の方とその兄伊賀光宗が義時の後継者と目されていた北条泰時を倒そうとした伊賀氏の変が起こり、実雅を頼経に代わる新将軍に立てようとしていたことが発覚、妻と離別させられた上で越前国に流刑となった[1]。4年後、配流先で変死を遂げたとされる[2]。
★ 姉婿である西園寺公経の猶子となる。・・・西園寺公経に繋がっていました。

そして、父:一条能保とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E8%83%BD%E4%BF%9D
一条 能保(いちじょう よしやす)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家中御門流、藤原通重の長男。一条二位入道[1]と号す。
父方の祖母は後白河法皇の同母姉・上西門院の乳母・一条で、能保は後白河法皇や上西門院に近い立場にあった。また、母は当時の宮中で勢力を保っていた閑院流の流れを汲む徳大寺公能の娘であった
★母は徳大寺公能の娘 後ほど調べますφ(..)メモメモ
3歳で父が死没[2]し、以後は祖母に育てられ、後にその一条室町邸を譲り受けた
★祖母は 母方・・藤原 顕隆(ふじわら の あきたか)の娘
     父方・・大蔵卿源師隆(みなもと の もろたか)の娘
一条能保について、続けますφ(..)メモメモ
妻:坊門姫(源義朝の娘) - 頼朝の同母姉妹
妻:家女房(藤原有恒の娘、のち西園寺公経娘の乳母となる) ★この方が一条実雅の母です。西園寺公経娘の乳母・・またまた繋がっていますね。φ(..)メモメモ

一応この想定@はここまでとします。

では続けて想定A
北条重時 妹 竹殿(たけどの)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%AE%BF
竹殿(たけどの、生没年未詳)は、鎌倉時代前期の女性。北条氏の一門。鎌倉幕府の2代執権、北条義時の娘。母は正室の姫の前。同母兄に朝時、重時。 子に顕親、顕雲など。 ★顕親・顕雲 が重時の甥にあたる訳ですねφ(..)メモメモ
続けます(゜-゜)
はじめは大江親広の側室であったが、のちに離別して京都の土御門定通に再嫁してその側室となる。『葉黄記』(宝治元年6月3日条)によれば遅くとも貞応元年(1222年)までには定通に嫁している。
★ あれっ??大江親広の側室・・大江氏です。
では大江親広について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E8%A6%AA%E5%BA%83
大江 親広(おおえ の ちかひろ、生年不詳 - 仁治2年12月15日(1242年1月17日))は鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉幕府政所初代別当大江広元の長男。母は多田仁綱の娘。妻は北条義時の娘竹殿。
★なににぃ〜〜〜!大江広元の長男!\(◎o◎)/!
どうなっているのでしょうか??!
北条重時の甥という検証を行っていくと、何故か?西園寺公経にも大江広元にも繋がってしまいました。
西園寺公経は球磨郡久米郷宮原(上球磨)を所領していて大江広元は下球磨・人吉の預所となっていました。

今まで、調べていた事は全て、鎌倉や京都などでの話と思っていたのに、やはり最後は球磨に繋がるとは?

球磨の平河に関係しているのはどちら??
こうなると、まるで、球磨に二つの流れの平河があってもおかしくないような気がしてきました。
でも、そもそも、平河家とはいったい??
次男が二人いる事も謎だし・・・???
早く、尾張の良峯に繋がる系譜が出て来ないかな〜!!と本当に願うばかりです。
頑張って調べます(^・^)(?_?)★まだまだ想定は続くのでありました。<m(__)m>









[57]子孫よりさんからのコメント(2014年01月18日 01時35分26秒 ) パスワード

白石様、ご教示ありがとうございます。
私が、調べようにも中々解らなかった部分をご丁寧に教えて頂いて本当にありがとうございます。

ちょっとスランプぎみでしたが、復活致しました。(^O^)/

ご教示を、じっくり読ませて頂きますね(*^。^*)

私も、自分なりに、冷静な分析をしたつもりなのですが(マダマダですね(ー_ー)!!)どうか、内容をご覧ください。

でも、やっぱりグルグルグル(@_@)です。
では(^・^)
[58]白石さんからのコメント(2014年01月18日 23時05分48秒 ) パスワード

 こんばんは
 風がきついです。明日は寒くなるみたい。ぶるぶる。
一条能保や西園寺公経あたりから 公経の子孫と 両院並立のもとになった清盛子孫の女子のこと

             四条隆衡娘・鷲尾貞子
              ||ーーーーーーーー姞子
平頼盛曾孫・西園寺公経ー子・西園寺実氏(常磐井相国)
  ||
源頼朝の妹の夫一条能保の娘全子を妻とし

★西園寺公経
西園寺 公経(さいおんじ きんつね、正字体:西園寺公經)は、
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。西園寺家の実質的な祖とされている。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮★姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である。また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。

西園寺公経
父母 父:藤原実宗、母:★持明院基家女
妻 一条全子(一条能保女)、僧範雅の娘、平親宗の娘、舞女某
子 掄子、実氏、実材、公子、成子、嘉子、一条実有、洞院実雄、四辻実藤、実意、実助、尊恵、道融、実顕、行安、慈助、実勝、女子(三条実親室)

西園寺実氏
女の姞子(大宮院)が後嵯峨天皇の中宮となり、後の後深草・亀山両天皇を産んだ。また、大宮院の妹の公子も後深草天皇に入内して皇后となっている。

西園寺 姞子(さいおんじ きつし、嘉禄元年(1225年) - 正応5年9月9日(1292年10月20日))は、
後嵯峨天皇の中宮で後に皇太后。西園寺実氏の長女で、母は四条隆衡の娘・四条貞子(北山准后)。後深草・亀山両天皇の生母、女院。院号は大宮院(おおみやいん)。法名は遍智覚(へんちかく)。

四条 隆衡(しじょう たかひら、藤原 隆衡(ふじわら の たかひら)、承安2年(1172年) - 建長6年12月18日(1255年1月27日))は、
鎌倉時代の公卿。★藤原北家魚名流、大納言藤原隆房の長男。元名は長雅。正二位・権大納言。善勝寺長者(四条家当主)。鷲尾大納言といわれる。
[59]白石さんからのコメント(2014年01月18日 23時21分48秒 ) パスワード

表題にある
平頼盛一族と北白河院陳子の関係
は興味深いですね。

ここのおうちなのか どうかは知りませんが、
伯家白河本 先代旧事本紀があるそうです。

[60]子孫よりさんからのコメント(2014年01月19日 02時26分47秒 ) パスワード

皆様、、今晩は。
土曜日出勤で、ちょっと疲れがたまって、のんびり(実はウトウト)してしまったらこの時間です。

白石様、ご教示ありがとうございます。
西園寺公経は当時(鎌倉時代)において、様々な事に対して関係性が高いと言う事ですね。
所で・・あの(@_@。勉強不足ですいません。「両院並立」とは何でしょう?(*_*)
ネットで調べたのですが出てこなくて。ガッコウで習ったような微かな記憶が・・(*_*) すいません。いつでも結構ですのでご教示頂けますか。よろしくお願い致します。

明日、「重時の甥」の謎を解く想定?を続けるとして、今日は、球磨における時間軸を考えたいと思います。

橘公業(宮原の祖)は嘉禎2年(1236年)に、本領であった伊予国宇和郡を西園寺公経に譲り、替地の一つが肥後国球磨郡久米郷であった。
そして永仁7年(1299年)に橘薩摩左馬大夫が求摩郡久米郷東方下分宮原に入部した。

と言う事で1236年〜1299年の間、約60年間はどうなっていたのかな?とそこが疑問です。

球磨での平河に関しては
@康平6年(1058)、平河三郎帥澄が求磨郡(球磨郡)臼麻荘を領しているという記録あり
A1198年相良氏が人吉に下向。その約18年前に平河義高は岩城に居城。
 すなわち1180年頃と推測できます。
と言う事は1058年〜1180年の間も、一族は球磨を領していたのではないでしょうか?
この間には「平河」という名が出て来ない。言い換えると、本来「平河三郎帥澄」には別の名前(姓)があり、上記@の記録の際は偶然「平河三郎帥澄」となっていた。
須恵小太郎(藤原李隆)合志次郎(藤原友永)久米三郎(藤原真宗)の例もありますし・・・。 ??? 太郎・次郎・三郎・・あれっ?
久しぶりに、何かがワサワサワサと・・!
この3名は兄弟ではありませんでした。あれっ?!
それに、確か、年代も違っていたはずです。太郎・次郎・三郎・・・
「久米三郎(藤原真宗)」「平河三郎帥澄」「平河三郎師高」「平河又三郎師里」・・・三郎・さぶろう・さぶろう?
三郎がいっぱい(*^。^*)ではなくて(ー_ー)!! 三郎が付いた人物はこの一族の当主であったりして。(マサカマサカですが)
以前、平河についてはそのような記述が確かにありました。
でも、「久米三郎」は?藤原真宗は何故「三郎」なのでしょうか?
単に三男という意味では無いような気がしてきました。

明日は(もう、今日か)この辺りも含めて調べてみたいと思います。
では(^・^)


 



[61]白石さんからのコメント(2014年01月19日 06時54分58秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E3%81%8D%E3%81%A4%E5%AD%90
後嵯峨天皇が姞子所生の後深草天皇に譲位して上皇となったのを受けて、宝治2年(1246年)6月に院号宣下を受けて「大宮院」の称号を与えられた。

後嵯峨上皇(後に法皇)とは夫婦仲が良く6名の子女に恵まれたが、文永9年(1272年)に夫に先立たれたのを機に出家した。法皇の遺産はその遺詔によって彼女と円助法親王(後嵯峨院の庶長子)が処分することとなり、彼女や子女に遺産が分配されることになったが、遺詔の中に鳥羽離宮や六勝寺を次の治天の君に与えるとだけ書かれて具体的な選任は鎌倉幕府に一任されていた。困惑した幕府は姞子に後嵯峨院の真意について質すこととした。これに対して姞子は亀山上皇を推挙する意向であると回答し、幕府はそれに従って亀山上皇に次の治天の君を要請した。姞子は当時の後宇多天皇が亀山上皇の実子であり、父親の亀山上皇が治天の君として院政を行う事が妥当とする趣旨による回答であったが、治天の君が皇位継承における決定権を有したために結果的に亀山上皇の子孫が皇位を継承する可能性が確実となり、これに亀山上皇の兄である後深草上皇が反発して円助法親王と亀山上皇の策動を疑い、鎌倉幕府に対して自分の子への皇位継承を要望した。この事態に困惑した幕府は後深草上皇の子・熈仁親王(後の伏見天皇)を皇太子に立てて、皇位の両統迭立のきっかけとなった。

こうした周囲の混乱を横目に2代の天皇の国母となった姞子は、実家である西園寺家の支援もあり内外の崇敬を得た。『増鏡』には弘安8年(1285年)に彼女が開いた母・貞子(准后)の九十賀(90歳の祝賀)の盛大な様子が描かれている。

正応5年(1292年)に68歳で崩じ、粟田山陵(京都市左京区)に葬られた他、聖徳太子の墓所がある★叡福寺(大阪府太子町)内に分骨されて宝篋印塔(分骨塔)が建てられた。

聖徳太子
出生地は★橘寺、またはその付近とされる。橘寺はタヂマモリが垂仁天皇の御世に常世の国から持ち帰った橘の実の種を植えた場所といわれる。

聖徳太子と浄土真宗
a.wikipedia.org/wiki/聖徳太子
「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」とする考えもあり、親鸞が、太子信仰を有していたことは著名で、親鸞を観音の化身としたことが、既に妻・恵信尼の書状によって知られる。
[62]子孫よりさんからのコメント(2014年01月19日 08時59分03秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示とても、解り易かったです。本当にありがとうございます。\(~o~)/

そして・・・・
読ませて頂いて、心の中にあったグズグズとした嫌なわだかまりがすぱーっ!!と取れました。
何度も言わせて頂きます。
本当にありがとうございます。<m(__)m>(^・^)

それから、めちゃくちゃ大事な事を思い出しました。
実は、実家には橘の木があったのです。

祖父と祖母について、以前からお話しているように、一人息子であった祖父は自分の生家(江戸時代末期に宮原村の庄屋に変わった)の全てを祖父の姉(実際には「いとこ」にあたります)に託して大陸に渡りました。その後終戦となり、岡原村宮原に帰って来たのですが、祖父は生家はそのまま姉に託して、宮原所有の別の土地に家を建てたのです。(そこが、ネットにアップした実家です)
そして、祖父はその土地に橘の木を植えました。
種?(木の苗?)が中々手に入らずに、何でも、大分か山口の知りあいに分けて貰ったと聞きました。
しかし、祖父は、その実を見る事もなくすぐに亡くなりました。
私は、子供の頃、その木の事を「じいちゃんの美味しくないミカン」と呼んでいました。(じいちゃん、ごめんなさい)
祖母が「食べても美味しくない」と言うのを聞かずに、毎年食べては(かじって)、「ばあちゃん、今年も美味しく無かったヨ(@_@。」と。
私としては、祖母から、その木の由来を聞いていたので、「きっといつかはこのミカンが美味しくなって天国のじいちゃんが喜んでくれる」と思っていたのです。(@_@。
でも、その木は今はありません。
そもそも、その木(橘)は今家が建っている所より30メートルか40メートル先の家の敷地内の端っこ(写真では家しか写していませんでした)にあったのですが、その木以外に栗の木やカキの木・スモモの木・ドングリが成る木・そして杉の木まであって(他に何の木があったか憶えていません)全ての木がめちゃくちゃ大きくなっていて、敷地内が暗くなるからと20年近く前に親戚の伯父さんが切られたのです。(多分、父には手入れできないからだと思います)
帰省した時に、「じいちゃんの木」が切られた事に気が付き、とても悲しかったのですが、その当時、私は嫁いでいたので、実家の事は何もしていないし、(いいえ何も考えていなかったと言うのが正解だったと思います)皆が決めた事に勝手な事は言えないな〜と。
木の名前は子供の頃に「たちばな」と祖母から聞いていたのですが、本当に今までピンときていませんでした。何せあの木は私にとっては「じいちゃんのミカン」だったもので。
でも、今は橘の木は絶滅危惧種なのですね。(先ほど調べて本当にびっくりしました)
白石様のご教示で私が木の事を思い出したので祖父は天国で喜んでいると思います(^・^)

雑談に変わってすいませんでした。

しかし!!
橘氏と西園寺家には何かがありそうですね!( 一一)???!

そして・・
聖徳太子(厩戸皇子または厩戸王の後世の呼称)
うまやどというお名前は様々な伝説が含まれているようですね。
妻が橘大郎女(たちばな の おおいらつめ)・父は尾張皇子(敏達天皇の皇子)で推古天皇の孫にあたる。子に白髪部王、手嶋女王

あの・・・
カミングアウトします(@_@)
私、どうも、先祖は「宮原」(当たり前か(ー_ー)!!)とここまでしかイメージが湧かなかったのですが・・
よく考えたら「橘」なのですよね。(何を今さらと言う声が・・)
はっきり言いますと、橘公業・橘公長より先の「橘の先祖」の事、殆ど調べていません!!<m(__)m>(*_*)(えええええ〜っと言う声も聞こえたような(*_*))

今日、白石様のご教示で「橘の木」の事を思い出して、あらためて「あ〜宮原は橘だった!!」としっかり自覚しました。

宮原と祖母の実家「平川」の繋がりは、球磨を飛び越えて、もっともっと先に何かあるかも知れません。
それが、肥後国球磨久米郷宮原で、ご近所さんでいる事に繋がるのかもという、未だ解りませんが、不思議な感がワサワサワサと湧いてきました。






[63]子孫よりさんからのコメント(2014年01月19日 09時27分31秒 ) パスワード

追記します。
(全国の同じ宮原のDNAをもつ皆様が私がボケたと心配されてはいけないので)
敏達天皇から難波皇子 → 諸兄 → 広相 →(橘氏嫡流)→公業 →公員 → そこから宮原
は、解っているのですよ((ー_ー)!!そこまでボケてはいません)
日本の苗字七千傑様の 橘氏 姓氏類別大観もちゃんと見ています。(見てるだけと言われたらそうですが(@_@。)

でも、そこまでの其々の人物を全く調べていなかったのです。<m(__)m>(*_*)
よそ様の事は今まで一生懸命に調べていたのに、実際に自分に関わってくる先祖の事を(あ〜父が養子に入った「窪田氏」と宮原の関係を調べるまで軽々しく先祖様と言ってはならん(>_<)と怒るかな?)調べていないのです。

父には後で「ごめんなさい」をするとして、しっかり調べようと思いました。
φ(..)メモメモ


[64]子孫よりさんからのコメント(2014年01月19日 17時20分18秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。

あの・・・(-_-)
歴史を理解していない私が先祖を調べようとするとこんなにトンチンカンな事になってしまうのだと痛感いたしました(*_*)
橘氏と西園寺家との関係性は?って、実は、最初?が一緒なのですね(@_@。
ホント、歴史にお詳しい皆様は私のコメントをみて「?????」となっていらっしゃった事が想像できます。
日本の苗字七千傑様の 橘氏 姓氏類別大観をじ〜っと見た後にフト「あっそう言えば久米三郎(藤原真宗)。この方は何処にいらっしゃるのかな〜」と急に雑念が出て(オイオイ調べているのは橘だろ?って言わないで下さいね)

同じく日本の苗字七千傑様の 藤原氏総括 姓氏類別大観のページに進んだ所
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
おやっ?これは?と  (藤原氏閨閥図(1))  (藤原氏閨閥図(2))  (藤原氏閨閥図(3))  このリンクがめちゃくちゃ気になり早速(藤原氏閨閥図(1))  をクリックすると・・・ ガ〜〜〜〜ン!あれっ!

藤原不比等・橘三千代・美奴王・橘諸兄がせっ!線で!繋がっている!!(本当に知らなかったのです(*_*))
こっこれは!と早速ウィキで橘諸兄を検索
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%AB%B8%E5%85%84

橘諸兄 系譜
祖父:栗隈王 - 壬申の乱当時の筑紫率(大宰帥の前身)
父:美努王
母:県犬養橘三千代(橘三千代)
弟:橘佐為(佐為王)
妹:牟漏女王 - 藤原房前の妻 ★藤原北家の祖\(◎o◎)/!
異父妹:光明皇后 - 藤原不比等の娘。聖武天皇皇后 
 ★ええっ!異父妹とは藤原不比等と橘三千代の間に出来た娘と言う事〜!後ほど調べます。
妻:藤原多比能 - 藤原不比等の娘
嫡子:橘奈良麻呂 ★橘奈良麻呂からみて藤原不比等は外祖父なのですね\(◎o◎)/!

たぶん、このコメントを見て下さっている方々は私にアキレテいらっしゃると思います。イヤそう思われても仕方ありません(*_*)
全然わかっていませんでした。(@_@。
とおい遠い先祖様(ここは宮原に養子に来られた「窪田氏」と「宮原」の血縁を調べなければはっきり言えませんが<m(__)m>・・父の影響です)は、きっと「トホホ」とお嘆きかと思います。(@_@。
落ち込んでばかりはいられないので先に進めますφ(..)メモメモ

橘三千代と藤原不比等の関係は?
橘三千代 ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%8C%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E4%B8%89%E5%8D%83%E4%BB%A3
県犬養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ、天智天皇4年(665年)? - 天平5年1月11日(733年2月4日))は、奈良時代前期の女官。橘三千代ともいう。
『新撰姓氏録』『尊卑分脈』によれば父は県犬養東人とされるが、東人の事跡は不明で母も不詳。出生年月日も不明であるが、出仕時期から天智4年(665年)出生の可能性が考えられている。県犬養氏は屯倉を守護する伴造氏族のひとつで、壬申の乱では県犬養大侶が大海人皇子(天武天皇)に近侍し、天武天皇13年(684年)に宿禰姓を賜った中堅氏族。
★県犬養氏は屯倉を守護する伴造氏族のひとつ。
続けます(^・^)
はじめ敏達天皇系皇親である美努王[1]に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生む。
天武天皇13年(684年)に第一子葛城王を出生しているが、軽皇子(後の文武天皇)は天武天皇12年に出生しており、元明天皇と三千代の主従関係から、三千代は軽皇子の乳母を務めていたと考えられている[2]。
\(◎o◎)/!あっ!!
時期は不詳であるが美努王とは離別し、藤原不比等の後妻となり、光明子・多比能を生んだ(多比能の母に関しては異説あり)。不比等は持統天皇3年(689年)段階で直広肆・判事の職にあった少壮官僚で、持統天皇10年(696年)には高市の死去に伴い不比等は政権中枢に参画した。文武天皇元年(697年)8月には不比等の娘宮子が即位直後の文武天皇夫人となり、藤原朝臣姓が不比等とその子孫に限定され藤原氏=不比等家が成立する。こうした文武天皇即位に伴う不比等の栄達の背景には、阿閉皇女の信頼を受けた三千代の存在があったと考えられている(義江 2009)。
★藤原不比等の後妻・・びっくりしました。\(◎o◎)/!
★不比等の栄達の背景には、阿閉皇女の信頼を受けた三千代の存在があったと考えられている。とは・・ すごい女性です(*^。^*)
★橘三千代と百済永継は何だか似ていますね。離別して、双方の家が繫栄したのですから。ありゃ?私も離婚したのでそこだけ似ています(^・^)・・(コラっ!<(`^´)>という声が聞こえたような)
まだまだ続きます<m(__)m>
葛城王の上奏文によれば、癸未(25日)の御宴において三千代は元明から天武天皇の代から仕えていることを称されて杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を賜り、橘氏の実質上の祖となった。県犬養一族のなかで橘姓への改姓は三千代のみであるが、三千代は改姓後も県犬養一族に属し続けている。また、藤原宮跡からは大宝元年の年記を持つ「道代」木簡と大宝三年の年記を持つ木簡群に含まれる「三千代」木簡が出土しており、橘姓への改姓と同時に名も道代から三千代に改名したと考えられている(義江 2009)。なお、同年5月には前夫の美努王が死去している。
★三千代は改姓後も県犬養一族に属し続けている。 一族への絆が深かったのですねφ(..)メモメモ
養老4年(720年)には夫の不比等が死去し、『続日本紀』に拠れば翌養老5年には正三位に叙せられ、宮人としての最高位に叙せられている。同じ年元明天皇の危篤に際し出家。733年(天平5年)1月11日に薨去。死後の同年12月28日に従一位、760年(天平宝字4年)8月7日に正一位と大夫人の称号を贈られた。
\(^o^)/やっと理解できました。
でも、県犬養一族はまだ調べていないので、後ほど勉強します。

ところで・・
藤原不比等の父藤原鎌足以前はどうなっているのかな?と。
早速、日本の苗字七千傑様の中臣氏を見ようとしたのですが、ワサワサワサと例の感が騒ぎ出して、中臣氏の祖から見て見ようと思いました。
あの・・ワサワサの声に「クメクメ」と聞こえるのでやっぱり久米氏を見て見ます。((ー_ー)!!マタマタと言わないで下さいね。今日はワサワサがとても強いのです(*_*))

あああああああっ!!!\(◎o◎)/!
日本の苗字七千傑様 久米氏/波多門部氏/山部氏 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
真ん中辺りに・・鎌足の文字が。
久米!山部!中臣鎌足! そうだったんだ!
去年の年末に見つけた情報「コメント1」とグルリ〜ンと繋がりました。

久米・山部 → 藤原鎌足 → 藤原不比等(娘)と橘諸兄 → 橘氏 →宮原(肥後国球磨久米郷宮原 所領)

何も縁が無かった訳ではなくやはり「地縁」だったのですね。
無理やり関係の無い所に替地にあったのか?と思っていたので、とても嬉しくなりました。

他にもいろいろ気が付いた事がありますが、とても長くなったので、しばし休憩します。
では(^・^)








[65]子孫よりさんからのコメント(2014年01月19日 23時46分27秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

日本の苗字七千傑様の 藤原氏総括 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
(藤原氏閨閥図(1))  (藤原氏閨閥図(2))  (藤原氏閨閥図(3))

じっくり、見ていたのですが、特に(藤原氏閨閥図(2)(藤原氏閨閥図(3))では、この頃調べていた所が、系図になっていて、本当に解り易かったです。
錚々たる方々で、皇室との繋がりがとても多い事もわかりました。
なぜ、このような方々が球磨に関係しているのか、昨日まではあまり、理解出来なかったのですが、とても、大事な事を忘れていました。
球磨荘は王家領・球磨御領でした。


実は、今朝から、猫のさぶろうが体調を崩して、とても苦しそうです。
呼吸も荒く、朝からみるみる調子が悪くなっています。
病院からもらっていた猫の風邪薬を飲ませようにも、何も食べようとしないので。(*_*) 水は飲んでいます。
人間のように喋れたらいいのですが、もちろんそれも出来ない訳で、私は見守るだけです(*_*)
兄弟猫のまろは心配して側についています。
元気な時は、あまえすぎ!と知らん顔をするときもありますが、病気をすると
心配で心配で。
早く良くなるように心から祈っています。
では。


  
[66]子孫よりさんからのコメント(2014年01月20日 06時39分38秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

猫のサブロウの状態が悪くなり、朝4時過ぎに、病院に連れて行きました。
病院には電話をかけたのですが、もちろん留守番電話で、神にすがるつもりで、直接連れて行った所、先生が起きて下さり、入院となりました。

先生は、「他の患者の診察があり、先ほど寝たばかりでした」とおっしゃっていましたが、本当に、親切にサブロウを診て下さいました。
かなり、肺の調子が悪く心臓も弱っているとの事で、酸素室に入って、点滴を受け始めています。

最初はインターフォンを押しても返事が無く、車の中で苦しそうに「ヒィー」と時折泣くサブロウを抱きながら、「お願いです、この子を助けて下さい」と必死に祈った所、病院の明かりが付いて先生が出て来られ、先生のお顔を見た瞬間に、私は涙が溢れて止まりませんでした。

まだまだ、予断できない状態ですが、必死に頑張っているサブロウを励まして、今、家に帰って来た所です。

私の腕に抱かれて、病院に行く時のサブロウは必死に生きようとしていました。

サブロウだって、この世に突然現れた訳ではなく、ずっとずっと何千年もかけて引き継いで来た命です。
命は本当に大切なかけがえのないものです。
人間であれ、動物であれ、命の大切さをしっかりと理解して、「過去から今に命を引き継いで生きている」という感謝の気持ちを持ち続けたいと思います。

今朝は、先祖の調査は中断しました。
雑談になりすいませんでした。
[67]子孫よりさんからのコメント(2014年01月20日 10時04分07秒 ) パスワード

サブロウが亡くなりました。
病院で、酸素治療と点滴を受けて、呼吸も穏やかになり、安定してきて持ち直すかと思われたそうですが、その後静かに息を引き取ったそうです。

サブロウは元々野良猫ちゃんの子供で、私がベランダに置いていたクッションの上で生まれていました。
どうしようかと思ったのですが、ママ猫が一生懸命子育てをしているのを見て、かわいそうになり、ご飯をあげたりしていたのです。
だいぶ大きくなると、私にとても甘えて来て、殆ど家で遊ぶ様になっていました。
私も、どんどん情が湧いて来て、でも、元々野良猫のママに育てられていたので、昼間はママ猫が外で遊ばせていたのです。
でも、私が、自転車で帰ってくると、嬉しそうに、音で解るのか、遠くまで迎えに来てくれていました。
だから、とてもとても、大事な家族になっていました。
やんちゃな「まろ」と違って、サブロウはとてもおとなしく、静かな子でした。
でも、とてもおりこさんで、この頃は飛行機ぶ〜んと言って私がサブロウの胸のあたりを持って飛行機のようにして動き回ると、下ろしたらすぐに「アッアッ」と可愛い声でもう一度と催促して、どうかするとかなりの時間その遊びの繰り返しでした。
先日テレビでタッチをする猫さんがいて、サブロウにタッチと言うと、覚えて、立ちあがっり、ほめると「アッァツ」と喜んでいました。


サブロウが亡くなった原因は、殺鼠剤を食べた事によるとの事でした。
土曜日に、私は仕事だったのですが、いつものようにママ猫と外で遊んでいました。
帰って来てからも、元気があったのですが、昨日の朝、ちょっと様子がおかしいな?と思っていた所、ドンドン状態が悪くなって、でも、風邪の症状に似ているので、薬を飲ませて悪かったら今日、病院に連れていこうと思っていました。
でも、朝方には呼吸がすごく苦しそうで、すぐに病院に連れて行き先生に起きて頂き、入院となったのです。

まさか、殺鼠剤を食べていたとは夢にも思いませんでした。
何処にそのような物があったのか見当もつきません。
この辺りは野良ネコちゃんが沢山いるので、快く思っていなかった人ももしかしたら居たのかもしれません。

でも、私が、家に置いた状態で仕事に行っていたらこんな事にはならなかったのです。
悲しくて悲しくて、涙が止まりません。

今から、病院にサブロウを迎えに行きます。
多分サブロウの顔を見たら、コメントは出来なくなると思い、今、サブロウの追悼を込めてこの、コメントを書かせて頂きました。
[68]白石さんからのコメント(2014年01月20日 22時09分07秒 ) パスワード

こんばんは
さぶろう ちゃん は かわいそうなことでしたね。
言葉にはいえず くるしかっただろうと 思うばかりです。

我が家の飼い犬(もう大分前に16歳で亡くなりましたが、)も前の家の人に独入りの餌をもらって 苦しがった時がありました。

私は何も知らず その人に 餌をもらっているのを見て「有難うございます」と 言ったのですよ。後で知って悔しくて悔しくて・・・でも犬は持ち直して
後々 その人は 一人暮らしだったから、病気で一週間以上も起き上がれなかった時も まわりはだれも気づかなくて ずいぶん 苦しんだようです。すぐ田舎の親戚につれていかれました。

殺鼠剤を置いた人もきっと天罰が下っていると思います。
ノラちゃんも奨励は出来ないけど、でも必死で生きようとしているのですものね。命は大事ですよね。
[69]子孫よりさんからのコメント(2014年01月21日 06時15分43秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、コメントありがとうございました。

昨日、サブロウは家で、娘とM田さんと最後のお別れをした後、動物霊園に連れて行き御弔いをして頂き、合同のお墓に入る手筈も行って無事に安置する事ができました。

あまりにも、悲しくて、涙が止まらず、体調も悪くなっていたのですが、娘が「そんなに、泣いて、お母さんの体調まで崩れたら、サブロウが悲しむよ」と言ってくれて、「そうよね。」と。
サブロウが安心して天国で幸せに過ごせるように、しっかりしなきゃいけませんね。

野良猫ちゃんは、全て人間の責任ですよね。
こんな事が続かないように、ママ猫ちゃんの避妊施術を受けます。
北九州市は全国に先駆けて、尊い命を守る為に、野良猫の避妊手術を遂行しています。
市の助成もあるので、今後はいろいろ市に相談していこうと思います。

今日は、仕事です。

頑張ってきますね。
[70]白石さんからのコメント(2014年01月21日 22時09分15秒 ) パスワード

雑談
こんばんは
葦原様 葦神社なんてあるかしら?と検索してみましたら
http://www.genbu.net/data/iga/asi_title.htm
玄松子の記憶

葦神社
あしじんじゃ
[三重旅行] 三重県伊賀市上阿波2665

御祭神
大國主神 事代主神 市杵嶋姫命 田心姫神 湍津姫命
天日方命 奇日方命 天手力男命 少名毘古那命 布都御魂神 神功皇后


社伝によると、
孝霊天皇3年、当地の東5Kmにある伊勢伊賀境の
黒岩峯(655m)に顕現し、三船明神と相殿となっていたが、
垂仁天皇33年、鮫ヶ原三女垣内に遷座し、粟皇神淡護明神と称した。

その後、神功皇后三韓征伐の後、高良命が勅命により、宮を三所に分け、
大國主神・事代主神を芦谷へ祀り、葦神社とし、
天日方命・奇日方命を別府へ祀り、別府宮とし、
市杵嶋姫命・田心姫神・湍津姫命を三女垣内に祀り、粟皇神とした。

承平7年(937)に大地震により、三社とも破損、
後、天暦3年(949)、現社地に三所を合祀し、
葦神社七王子淡護大明神と称した。
天和年中、葦神社八王子淡護大明神となり、
宝暦年中、三所の旧号を合わせて、葦神社粟皇神別府宮。
明治になって、葦神社と改称した。


明治三十八年、白鳥神社など六社を合祀し、
明治四十一年、五社八幡神社など三社を合祀して
祭神も多彩なのだ。
※高良命や白鳥神社など 前にも出た言葉ですね。


栃木県宇都宮市田野町の星宮神社・八坂神社 - kyonsight
kyonsight.com/jt/miyawest/tano.html‎
旧地名:宇都宮市・田野町字★星宮主祭神:磐裂神・根裂神天文年間1532-55の創立。 城山中学校の西にある老人ホーム宮の里の西側奥の山腹 ... 下野神社沿革誌』5巻36丁 明治三十五年1902 河内郡城山村大字田野鎭座 村社星宮神社 祭神 磐裂命 根裂命

「磐」に関連した英語例文の一覧(4ページ目) - Weblio英語例文検索
ejje.weblio.jp › 英和辞典・和英辞典 › 磐の意味・解説‎
三輪山の祭祀遺跡としては、辺津磐座、中津磐座、奥津磐座などの巨石群、大神神社拝殿裏の禁足地遺跡、山ノ神遺跡、狭井神社 ... 日本書紀同段の第七の一書では、磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神で・・・

※ と 経津主神の系がわかる。


[71]子孫よりさんからのコメント(2014年01月22日 00時36分07秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、ご教示ありがとうございます。
「葦原様」と呼ばれた事について、私は殆ど未だ手つかずで、お調べ頂いてありがとうございます。

葦神社・・・・・経津主神に繋がるのですね。
私も経津主神について調べて見ようと思います。
経津主神 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B4%A5%E4%B8%BB%E7%A5%9E
経津主神(ふつぬしのかみ)は日本神話に登場する神である。『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。 別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)。『出雲国風土記』では布都怒志命として登場する。
★。『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。・・?何故でしょう?
続けますφ(..)メモメモ
経津主神は武甕槌神と関係が深いとされ、両神は対で扱われることが多い。有名な例としては、経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮とが、利根川を挟んで相対するように位置することがあげられる。
★経津主神は武甕槌神と関係が深いとされ、両神は対で扱われることが多い。
神様のお名前は全く理解していないのですが後ほど武甕槌神を調べたいと思います。

続けますφ(..)メモメモ
また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地だったため、両社の祭神を勧請したものである。また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。
★中臣氏(藤原氏)φ(..)メモメモ

経津主神の正体や神話の中で果たした役割については諸説がある。神名の「フツ」は刀剣で物が断ち切られる様を表し、刀剣の威力を神格化した神とする説のほか、「フツ」は「フツフツ」と沸き上がり「フルイ起す」フツであるとする説や[1]。、神武東征で武甕槌神が神武天皇に与えた布都御魂(ふつのみたま)[2]の剣を神格化したとする説がある。なお、『先代旧事本紀』では経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。『古事記』では、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとし、建御雷之男神が中心となって葦原中国平定を行うなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるかのように記載している。
★建御雷之男神が中心となって葦原中国平定を行うなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるかのように記載している。
葦原中国平定! φ(..)メモメモ

布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫だったとされることから、経津主神も本来は物部氏の祭神だったが、後に擡頭する中臣氏の祭神である建御雷神にその神格が奪われたと考えられている。
★先日調べた内容で 中臣氏・山部氏より中臣鎌足に繋がっていました。
と言う事は・・・?!

どんどん興味が湧いてきました。

武甕槌神 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%83%85%E3%83%81
タケミカヅチ(タケミカヅチオ)は、日本神話に登場する神。雷神、かつ剣の神とされる[2]。後述するように相撲の元祖ともされる神である。

『古事記』では建御雷之男神・建御雷神、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。単に建雷命と書かれることもある[2]。別名 建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ)[3]。

また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる[4]。鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている。
★相撲の元祖ともされる神である。
(忘れているのですが、熊本には相撲の神様に関係する何か(ごめんなさい忘れています(*_*))があったような微かな記憶が・・・

葦原中国平定
「出雲の国譲り」の段においては伊都之尾羽張(イツノオハバリ)の子と記述されるが[6]、前述どおり伊都之尾羽張は天之尾羽張の別名である。アマテラスは、タケミカヅチかその父イツノオハバリを下界の平定に派遣したいと所望したが、建御雷が天鳥船(アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる[6]。出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ったタケミカヅチは、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。大国主は、国を朝廷に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神(タケミナカタ)(諏訪の[4]諏訪神社上社の祭神[6])は、建御雷に力比べをもちかけ、手づかみの試合で一捻りにされて恐懼して遁走し、国譲りがなった[2]。このときの建御名方神との戦いは相撲の起源とされている[7]。
★相撲の起源。φ(..)メモメモ

『日本書紀』では葦原中国平定の段で下界に降される二柱は、武甕槌とフツヌシである。(ちなみに、この武甕槌は鹿島神社の主神、フツヌシは香取神社の主神となっている)
★武甕槌とフツヌシ・・・葦原中国平定

神武東征
さらに後世の神武東征においては、建御雷の剣が、熊野で手こずっていた神武天皇を助けている。

\(◎o◎)/!あっあの!!次の記述が・・かなり気になります!
名前の「ミカヅチ」はイカヅチ雷に接頭語「ミ」をつけた「ミ・イカヅチ」の縮まったものであり、雷神は剣の神でもある。また、別名のフツ神は本来は別の神で、『日本書紀』では葦原中国平定でタケミカヅチとともに降ったのは経津主神であると記されている。経津主神は香取神宮で祀られている神である。

元々は常陸の多氏(おおのうじ)が信仰していた鹿島の土着神(国つ神)で[13]、海上交通の神として信仰されていた[13] 。さらに、祭祀を司る中臣氏が鹿島を含む常総地方の出で、古くから鹿島神ことタケミカヅチを信奉していたことから、平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。大和岩雄の考察によれば、もともと「大忌」つまり神事のうえで上位であるはずの多氏の祭神であったのだが、もとは「小忌」であった中臣氏にとってかわられ、氏神ごと乗っ取られてしまったのだという(『神社と古代王権祭祀』)[13]。

\(◎o◎)/! ちょっと待って下さい。
★元々は常陸の多氏(おおのうじ)が信仰していた鹿島の土着神(国つ神)で[13]、海上交通の神として信仰されていた。
多氏(おおのうじ)が出てきました。
★フツ神・・・葦原中国平定・・・・多氏(おおのうじ)・・・中臣氏
★もともと「大忌」つまり神事のうえで上位であるはずの多氏の祭神であったのだが、もとは「小忌」であった中臣氏にとってかわられ、氏神ごと乗っ取られてしまったのだという

*祖母の平川家は遠い遠い古代の次代に多氏(おおのうじ)に繋がり
*宮原は遠い遠い昔に中臣氏に繋がっている
其々の家が旧地名球磨荘久米郷宮原にあるわけですね。

でも、そう言う事であれば、日本全国、同じように繋がる方は数えきれないくらい(何千・何万と)いらっしゃる訳ですから・・・
「葦原様」って呼ばれますかね????
ただ、何となく葦原中国に繋がっている何かがあるとは感じました。

でも、とても勉強になりました。
長くなりましてすいませんでした。<m(__)m>(^・^)

[72]白石さんからのコメント(2014年01月24日 22時21分12秒 ) パスワード

★もともと「大忌」つまり神事のうえで上位であるはずの多氏の祭神であったのだが、もとは「小忌」であった中臣氏にとってかわられ、氏神ごと乗っ取られてしまったのだという

このあたりの話が 歴史で 古代の記憶が失われ 神武即位の時期がずれてきているのではないのか?と 私は思うのです。

竹大葦神社
  大葦神社の前の道路は古峯神社へ続く参道
古峯神社(栃木県鹿沼市)http://kaguraden.blog11.fc2.com/blog-entry-39.html
  天狗の神社 ヤマトタケル

http://komainu.net/kanuma3.htm
■Data:大葦神社(栃木県鹿沼市下大久保):
入り口の江戸狛犬: ο建立年月・不明。ο奉納・北条氏女伊奈?。ο石工・石福?。
奥の江戸狛犬: ο建立年月・不明。
ο撮影年月日・02年10月25日。

三峯神社
由来はともかく花山院家とのつながりがある。

葦 峯と なにやら 葦原様とからまるものがあるのかも・・・

陶荒田神社
www.geocities.jp/engisiki/izumi/bun/iz050111-01.html‎
【延喜式神名帳】陶荒田神社 二座 鍬 和泉国 大鳥郡鎮座 (合祀)火雷神社 【現社名】陶荒田神社 【住所】大阪府堺市中区上之1215番地 北緯34度30分37秒,東経135度31分20秒 【祭神】高御産靈大神 剣根命 (配祀)八重事代主命 菅原道真 『神社要録』一座 ..

陶荒田神社 大阪府堺市中区上之1215. 鳥居. 交通. 泉北高速泉ヶ丘 北東1.5km mapfan. 祭神 高魂命、劔根命、八重事代主命、菅原道真公 摂社 山田神社「活玉依姫命」 戎殿「八重事代主命」 弁天社「市杵嶋姫命」 太田神社「太田々弥古命」 玉の緒神社「 ...

荒田神社と葦 峯との関係は直結はむずかしいけど、大田田根子 大物主 神宮寺(原の大納言の若皇子の血の足跡 の話を本で見たことがあるのですが) 原
 
[73]子孫よりさんからのコメント(2014年01月26日 05時52分24秒 ) パスワード

皆様、おはようござます。
白石様、ご教示ありがとうございました。
中々、コメント出来ずにすいませんでした。

実は、猫のマロが22日から入院しています。
一進一退を繰り返し、一旦は回復傾向にあったのですが、24日に急に下血を伴った発作が起きてしまい、一度は、かなり危険な状態にあったのですが、病院からの電話の時に先生にお願いしてマロに「マロちゃん。がんばって!マロちゃんママよ!マロちゃん元気になろうね!」と声をかけた所、マロは返事をしてくれました。その後、マロは一生懸命に生きようと頑張り、昨日、会いに行った時は、私の顔を見てパッと表情が変わり、「ボク、元気になる!」と言ったように、一生懸命小さな声をあげていました。
私も「マロ、ママはね、マロが元気になってくれないと困るの。だって、ママがお祖母ちゃんになるまで、いつもマロと一緒に遊んでいたいから。だから、早く元気になってね!」と声をかけました。

先生がおっしゃるには、電話で私が声をかける前から、先生が話をしているのは私と解っていたようで、電話の方を見ていたとの事で、受話器を近づけると、しっかりと返事をしていたそうです。
その時の、マロの表情と昨日の私と会った時のマロの反応、喜びを見て、先生は「私、この子の強い心を信じたいと思います。」とおっしゃって下さいました。「マロちゃんママ(私)からパワーをもらったね」とマロに声をかけて下さいました。
病院の帰り道、先生の言葉を思い出し「マロにパワーを与えていると言ってもらった私が精神的にも体力的にも弱ってはいけない!強く!強くあらなければ。」と思い、殆ど食べれなかった食事もしっかりと食べました。
マロは頑張っています。
元気に家に帰ってきます。!
そして、私が、おしゃべりのうるさいおばあさんになるまで、いつも、一緒に遊んでくれるのです。
フレ!フレ!マロ!

ですから、お休みしていた先祖の調査もしっかりと再開します。
では、皆様、今後ともよろしくお願い致します。<m(__)m>(^・^)




[74]子孫よりさんからのコメント(2014年01月26日 06時23分13秒 ) パスワード

追記

この1週間で、色々な事があり、私も考えました。

そして、あらためて命についても真剣に向き合って考えたのです。

父も、正月に帰った時に随分お爺さんになってきていました。(父に叱られるかな?(^・^))
そして、父の側にいて親孝行がしたい!と強く思っています。

マロも田舎でしたら、のんびりとマロ爺さんになるまで過ごせると思います。

と言う事で
実家に帰る決心がつきました。(^・^)
今までは、後数年したら・・と心に甘えがあったのですが、今は「帰る!」と
決めました。

仕事の引き継ぎ等もあるので、すぐとはいきませんが、球磨に帰ります。
祖母も祖父もそして先祖も、それを願っていたと思うのです。
何せ、頼りないですが、私は宮原の後継ぎですから(^・^)
(後継ぎだからと言って何をするわけでもないのですが(^・^))

先祖の調査は続行します。(^O^)/
それが、何故か私の使命のような気がしているからです。
では、決意もあらたに、今後とも皆様、よろしくお願い致します<m(__)m>(^・^)
[75]子孫よりさんからのコメント(2014年01月26日 09時12分07秒 ) パスワード

皆様、早速ですが、私が、今まで、全く勉強していなかった事が、ある記述をきっかけに解りました。
(日本の苗字七千傑様がお聞きになったら、え〜今頃!?とおっしゃるかも(*_*))

ウィキの記述 このページの 日本における氏名制度の変遷をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E5%88%A5%E5%A7%93

日本の近代以前の氏名の実態[編集]
飛鳥時代 - 平安時代初中期 :
氏姓制度と古代戸籍 「氏」(うぢ)・「氏名」(うじな)と「姓」(かばね)があった。「藤原」が氏であり「朝臣」が姓である。大宝2年(702年)美濃国加毛郡半布里戸籍、同年豊前国仲津郡丁里戸籍、養老5年(721年)下総国葛飾郡大嶋郷戸籍、延喜2年(902年)阿波国板野郡田上郷戸籍等には夫婦同氏と別氏が見られるが、寛弘元年(1004年)讃岐国入野郷戸籍・同年国郡未詳戸籍では19夫婦の全てが同氏となっている。日本には「同姓不婚」の習慣はなく、養老令の戸令にも改姓規定がないため、この同氏は同族婚とする見方がある。なお同氏の増えた理由は不明[32]。
この時期、女性名には「刀自売(とじめ)」「二子」「定子」「犬子」などの型があった[33]。但し嵯峨天皇期(809-823年)には下の名前の唐風化が行われ、「童名(わらわな)」(つまり幼名)と「諱(いみな)=実名(じつみょう)」(つまり成人名)の区別、男性の実名に「嘉字」(縁起のよい字)と「系字」が導入された。系字とは同一世代の男性に同じ一字を共有するもので、「正良」「秀良」「業良」のようなものである。これは父系親族組織内の世代序列を示すもので、「輩字」ともいう。女性の実名は「2音節の嘉字+子」が内親王に導入された[34]。これら実名は9世紀から10世紀にかけて貴族、武家、庶民にまで広まっていった。
★系字、「輩字」ともいう。同一世代の男性に同じ一字を共有するものφ(..)メモメモ

平安後期 - 中世前期 :
氏姓に加え名字が発生 系字は横(同一世代)の共有字であったが、11-12世紀頃に縦(父-子)の「通字(とおりじ)」へと変化した。これは「家」の形成に伴い、家系を示すものとされる[35]。例えば桓武平氏の本流ではみな「盛」を通字として持っている。但し藤原摂関家で「忠実-忠通-基実-基通」のように「実」「通」を交互に継承した例も見られる[36]。
★例えば桓武平氏の本流ではみな「盛」を通字として持っている。
 深田太郎盛高、山田次郎遠高、平河三郎師高、横瀬次郎高実
 「系字」? 盛高・遠高・師高・高実・・高 ?でも高実・高の位置が違うしそれに「実」がついています。?偶然?でも、この方は何故か次郎です?
 「通字」? 盛高・遠高・師高・高実 長男が「盛高」・・盛 あれっ!?
 そして、平河三郎師高の子供が 平河師貞 永池師忠 
 「系字」・・「師」 ★この系字が(でも「通字」でもあり?)しばらく続くのですね。

続けます。φ(..)メモメモ
氏・姓もまた引き続き用いられるが、「氏姓」はいつしか「姓」(セイ)と呼ばれるようになった。一方で名田の名が「名字」となった。「源」は氏であり「足利」が名字である(足利左馬頭源朝臣直義)。氏姓は公的な名であり名字は私的な名である。また氏姓は夫婦別氏姓であり名字は夫婦同名字である[37]。但し「北条」の子がそのまま「北条」を名乗るわけではなかった[38]。鎌倉時代までは貴族・武士・庶民とも氏(姓)の使用の方が一般的であり、夫婦別氏であった[39]。下の名前は、「頼朝」のような実名・諱のほか、「犬次郎」のような仮名(けみょう)・字(あざな)・通称を持ち、同一人物が社会関係に応じて両者を使い分けた[40]。女性名は「刀自売」型から「鶴女」型へ移り、13世紀に比率が高まる。「二子」型は13世紀までは半分以上を占めるがやがて減少する。また「紀氏女」型が11世紀後半に現れた[33]。男性名は「源次」のように氏(姓)を含む字、「和泉大夫」「左衛門」のように国名や役職名を用いる字、「犬次郎」のような童名の字、「西念」のような法名、その他「孫太郎」のような字などがあった
★実名・諱・仮名(けみょう)・字(あざな)・通称・・・これが私が混乱する所ですね。
\(◎o◎)/!ちょっと待って下さい!?
また「紀氏女」型が11世紀後半に現れた[33]。男性名は「源次」のように氏(姓)を含む字、・・・
あっ! 地頭良峯師高子息字平紀平次不知実名・・平河師貞
以前も何度か何?と思っていた事がようやく解りました。
字(あざな)が平(たいら)で氏(姓)を含む字が平次。(紀も付いていますが・・)
と言う事は・・・やはり 平(たいら)ですよね。
そう言えば、肥後平河家文書にはこのような記述もありました。
@肥後国御家人 平河三郎良貞・同四郎師時当国(甲脱力)球磨・・・・・

A八代相伝開発之地也  而会祖父平河三郎師高右大大将(源頼朝)家御時、文治三・・・・

B六日<付文治三年>奉書案者、平河三郎師高謀反勝他人之由、有其・・・・

C球磨御領、可早任御教書、被安堵平河三郎(良貞)身事、右去六月十六日御教・・・・・

D日<付文治五年>奉御判在者、平河次郎師貞為勤京大番、所令上洛・・・

E膳大夫(大江広元)、永吉三百五十町、地頭良峯師高子息平河平二(師貞)、西村百五十・・・・


F三百五十町、地頭良峯師高子息平河平二(師貞)、西村百五十町、須恵小太・・・・・・・

G二年永吉検済目録帳等者、地頭良峯師良云々、<取詮>如同所進元・・・・・・

H住当所畢、不及尋例於他所者也、依実春朝臣之押領、良貞乍帯御下

名前をピックアップします。
平河次郎師貞 平河三郎良貞 平河四郎師時

続けたいのですが、マロの病院から今連絡が入ったので、病院に行ってきます。<m(__)m>




続けますφ(..)メモメモ



[76]子孫よりさんからのコメント(2014年01月26日 12時22分35秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。
先ほど病院から帰ってきました。
マロは起き上がる事も出来なくなっていましたが、私に気づき、それまで、
焦点があっていなかったのに私の顔をしっかりと見つめていました。
「マロちゃん。元気になったら、いっぱいママと遊ぼうね。ママはマロちゃんがだ〜い好きだよ。」と言うと、モゴモゴ口を動かしていました。

先生は、「こんなに強い子は殆ど見た事がありません。本当にこの子は強い子です。」
と言って下さいました。
そして、「今まで、白血球が殆ど0に近い状態で回復した子が2匹います。その子達のようになれたら良いですね。マロちゃん頑張っていますから」
とおっしゃって下さいました。

私も、マロを応援しながら自分を奮い立たせています。
車の中にDVDを忘れて来たので、大好きなsuperflyのWildflower という曲を、youtubeで何度も再生させて、「わたしの心よ強く強くなれ!」と。

朝のコメントの続きは、今はちょっと書けません。すいません。

あの、皆様に押しつけがましいのですが、お願いがあります。
この言葉を声に出して読んで頂けませんでしょうか。
よろしくお願い致します。<m(__)m>

「マロは元気になる!。」

ありがとうございました。<m(__)m>


[77]子孫よりさんからのコメント(2014年01月26日 13時09分13秒 ) パスワード

先祖には関係ないのですが、マロの赤ちゃんの時の写真を
ブログにアップしました。

応援して下さった皆様ありがとうございます。

ぜひ、マロの顔を見て頂ければな〜と(親バカですね)

では
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11758155470.html



[78]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年01月26日 14時54分51秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>例えば桓武平氏の本流ではみな「盛」を通字として持っている。
 
通字は時代により変遷していくものなので注意のこと。
父子が通字化したのは平安末期(男系伝領移行期)からで、それまでは兄弟が通字。
異母兄弟の場合、通字を適用しないことが多い。
藤原北家では冬嗣の子からで長良を筆頭に全て良が付く。
桓武平氏では高望の子からで全て良が付く。(長男国香は良望から改名)
何故良が付くかは、母方の祖父が藤原良方だからです。
男系伝領以降も烏帽子親や主君の一字賜名により通字化の例も有り。
例えば植村新六郎栄政が徳川家康より家の字を拝領して家存に改名、以降子孫は家を通字とする。
[79]子孫よりさんからのコメント(2014年01月26日 16時06分59秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
通字の次代の変化には十分気をつけて調査します。

コメント本当にありがとうございます。
私は、今、マロへの応援でコメント出来ませんが、でも、マロが元気になったら、きっと、ご教示頂いた内容をひとつひとつ確認しながら、慎重に調査いたします。

ずっと、superflyのWildflower を聞きながら、心から、マロの回復を祈っています。
私は弱い人間ですから何もできませんし、すぐくじけます。でも曲の中にある
歌詞 「同じ涙を流すのなら、喜びの涙を」こう信じて。
[80]子孫よりさんからのコメント(2014年01月26日 19時34分59秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

マロが亡くなりました。
マロは一生懸命頑張りましたが、力尽きてしまいました。
サブロウが亡くなった時に私が、沢山泣いたので、マロは側で心配していましたから、私を泣かせてはいけないと、頑張ってくれたのだと思います。
マロは強い男の子だったね、本当によく頑張ったね。お疲れさまでした。
と声をかけてあげました。

ずっと5日間病院にいたので、今晩は一緒にいて、供養させて頂きます。

今朝から、コメントをご覧の皆様には暖かいご声援を頂き、本当にありがとうございました。

皆様の、心からのご声援はしっかりとマロに伝わっていました。
これから、マロは天国でサブロウと仲良く遊びます。
マロがしっかりと天国に向かい成仏するように、マロお疲れさまでしたと、今は心から祈っています。

私が、しっかりしないと、マロが心配してはいけないので、強い心を持っていきたいと思います。

では、失礼いたします。

[81]子孫よりさんからのコメント(2014年01月28日 06時00分17秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨日、マロを動物霊園にてしっかりと見送ってきました。
サブロウとマロは一緒に供養されています。

昨日の小倉の空は雲一つない青空で、私は、マロとサブロウが本当に天国に昇天したのだなと思いながら空を見上げていました。

これからは、あの子達が心配しないように安らかに天国で仲良く遊べるように、私もクヨクヨせずに強い気持ちを持って、しっかりとした心ですごそうと思っています。
台地に根をはり、強い風や激しい雨にも負けないWildflowerのような人になりたいなと願っています。✾❁

先祖の調査の為のスレッドなのに、私個人的な事ばかりコメントしてすいませんでした。 <m(__)m>



[82]子孫よりさんからのコメント(2014年01月28日 08時53分16秒 ) パスワード

あの・・皆様
私は、一つ、とても気になる事を皆様にお伝えしていませんでした。
夢の話です。
この夢は、サブロウが亡くなる前日のそれも昼間に見ました。
その時は、サブロウも風邪かな?くらいの症状でした。
ですから、色々な事が重なって私の頭が変になってこのような夢を見た訳ではありません。

実はその夢を含めてその2日前から夢の中で同じ事を「皆に伝えなさい」と言われていました。
ですから計3回「皆に伝えなさい」と言われているのです。

とても気になったので、娘・M田さん・従兄には伝えましたが、考えて見ると皆と言う事は、自分の周囲の人という意味では無いのじゃないのかな?と。
ものすごく悩んだのですが、マタマタ(ー_ー)!!と思われる方は読んで頂かなくても大丈夫です。先にお伝えしておきますが、私は特別に何かの宗教を信仰している訳でも何でもありません。
でも、伝えなさいと言われた事を伝えなかった事による後悔の方が苦しいのではと思い決心しました。

次のコメントでその言葉をお伝えします。<m(__)m>
[83]子孫よりさんからのコメント(2014年01月28日 09時05分51秒 ) パスワード

夢の言葉は
「もうすぐ、王(大王)様がお目ざめになります。」
です。皆に伝えなさいと言われました。

先ほど書いたコメントでお話した夢は、今でも全て話せる程しっかり覚えています。
従兄にはその後とても気になったので、「聞きたい?」と確認した上で文章にしてメールしました。

やはり、夢の内容も皆様にお伝えした方が良いのかな?と思い。
自分勝手ですが、書かせて頂きます。
何度も言いますが、読んでみたいと思われた方だけ次の夢の話を読まれて下さい。
夢の中では、全ての色・音が解りました。
ここまで、リアルな夢は多分生まれて初めてだと思います。
次のコメントで従兄に送ったメールの内容をそのまま転記します。

嫌な気分になられた方は、大変申し訳ありません。
[84]子孫よりさんからのコメント(2014年01月28日 09時58分57秒 ) パスワード

夢の話をします。

目の前に白い四角の小さな紙(薄いプラスティックの様なもの)が沢山枝に結ばれている不思議な飾りが現れました。
その飾りが風もないのに「サワサワサワ」と揺れて・・
ふと見ると、道にその飾りがいっぱいあって、私はそれぞれの飾りが揺れている方向に(順々に揺れていきました)進んでいきました。
すると、突然大きな門があって、その前に居た門番のような人たちは私を見て深々と頭を下げて、丁寧に中に案内してくれました。

家(かどうかはわかりませんが)の中に入ると、執事のような人(でも、着ているのは洋服とも着物ともつかない物で)が私を中に案内してくました。
すると、そこに、何だろう?木で出来たとても大きな開き戸(引き戸?)のある部屋があり、その戸には金の飾りがついていました。
その戸を開けて良いですか?と執事のような人に聞くと「あなたがそうしたいのであれば開けて下さい。」と言われ、私はその戸をス〜ッと開けたのです。
すると、暗闇に外の明かりがサーッとさし込めて中が見えてきました。
30畳以上はある部屋で、両脇にそれぞれ部屋の端から端までの幅の大きな仏壇?のようなものがあり、その仏壇?の周りには大きなピンクの蓮の花や緑のハスの葉そしてあれは緑色のハスの実でしょうか?が沢山飾ってありました。
でも良く見るとその飾りはドロドロした溶けかけのロウのようになっていて、決して美しくは無く、最初は本当に恐怖を感じる光景でした。
そこで、私は薄暗い中で執事?のような人に「もっと空気を入れて良いですか?外の光を入れて良いですか?」と聞くと「どうぞ」と言われたので、その部屋の他の戸も開けたのです。
すると、光がパ〜ッと差し込んで、みるみる溶けかけのロウのようであった飾りの花々は蘇り、そして、どろっとした感じであった両脇の仏壇?のようなものが金色に輝き始めました。
そして、案内をしていた執事のような人が右側・左側の仏壇?を其々指してご先祖様ですと言われたのです。(其々の家の名前を言われました)
そしてその部屋の先に同じような大きな引き戸があって「この部屋は何ですか?」とその人に聞くと、「おばあさまにお会いなりたいですか?」と聞かれたので「会いたいです。」と答えると、ではその戸を開けて下さいと言われて、私はその戸を開けました。
すると、なんて言うのでしょうか、言葉に出来ないような光景があったのです。
次に出た部屋は高さが学校の体育館サイズで広さも同じくらい、そして、部屋全体の壁が赤の下地(まるで絹のような)に緑の模様そして金色と銀色の飾りが(刺繍のような模様)が全体に施されていて、天井も同じように装飾されていて、部屋に入った途端、その中の雰囲気に圧倒されました。
すると、執事のような人が「おばあさまですよ」と言われて、廊下(のような場所)のあたりを見ると、まだ30代〜40代くらいの祖母が真っ白の絹のような着物で金と銀の刺繍が施されている白無垢の様な着物を着て沢山のお付きの人に囲まれて歩いているのです。
周りの人から祖母は何故か?「姫様」と呼ばれていました。そして、私が「ばあちゃん!!」と声をかけたのですが、祖母は私の声が聞こえないようで気づいてくれませんでした。すると案内をしてくれていた人が、私に「王にお会いになれます。」と言われて、半強制的な感じで別の場所に連れて行かれました。
そして、「王にお会いになる前に身体を清めていただかなくてはいけません。」と言われて「ゆどの?(多分こう言われたと思います)」と呼ばれる部屋に案内されて白い着物の様なものを渡され、「これを着てお身体を清めて下さい」と。私は着替えて「ゆどの?」に行くと、水道のような不思議な形の物があり、そこから流れている水を汲んで、頭から何度もかぶりました。すぐに着替えて出ようとすると、となりの「ゆどの」からザブ〜ザブ〜と水の音が聞こえて、さっきまで誰もいなかったのにな?
と横を恐る恐る通ると、部屋中銀色をした「ゆどの」から男の人が白い着物の様なものを着て出てきて、「来ておったか!」と嬉しそうに話しかけてこられたのです。
私は、何だかその方にお会いするのは初めてではないような気がしていたのですが、案内人の執事のような人がとてもあわてて「こんな所で、王にお会いしては!」と私をたしなめるように言うと、「ゆどの」から出てきたその方は執事をやさしくしかるように「何を言うか、われの可愛い可愛い子孫であるぞ。よいよい」とニコニコして言われたのです。
私がぽか〜んとしていると、執事のような人は、こちらへと別の部屋に案内してくれました。
その部屋にはテーブルの様なものがあってそこに3人の人が座っていました。
すると、それぞれの人が自分の名前そして住んでいる場所を言われました。私も同じ事を言って、そして、「あなた方は生きている人ですか?」と聞くと3人とも「自分達は生きています」と答えました。
(はっきりと名前と住んでいる場所を言われたのに何故かここだけがしっかりとは覚えていないのです?)
そして、3人とも、何かに呼ばれてここに来たと言われました。
その人達が今住んでいる場所は、はっきりではないのですが、一人は尾張地方。もう一人は出雲地方そしてもう一人が伊勢または伊予(いが付く場所だったと思います)と自分の住んでいる場所を説明していました。(でも、この部分はさっきも書きましたが、はっきり覚えていないのです)

そして、私達に向かい、案内人の執事の様な人から
「いいですか、皆に伝えて下さい。王(大王)様がもうすぐお目ざめになりますと。」
「王(大王)様がもうすぐお目ざめになりますよ」と何度も私達に言われるのです。
私は「わかりました。でも、お目ざめになるとどうなるのですか?どこでお目ざめになるのですか?」と聞くと
執事の様な人は、笑ったような表情をしてす〜っと消えました。
そして、気が付くと、何故か私は建物の外にいました。
あれっ?と、もう一度祖母に会いたい一心で建物を捜しましたが何処にもありません。
でも、突然ワープしたようなその場所は、緑の木々に囲まれた二基の古墳の前でした。
古墳には地下に入るような入口があったのですが、どうにもその扉を開ける事は出来ませんでした。
あきらめて、ふと足元を見ると、周囲に石畳がありその石畳を降りて行くと柵があり、柵の外は自動車の通る現代の道路でした。
歩道を歩いている人に、柵の中から「この古墳の先に祖母の家があるのです。どうやったら行けますか?」と聞くと「その先は古墳しかないし、ましてや家などありません。それに何故あなたその中に居るの?そこは一般の人は絶対に入ってはいけない立ち入り禁止の場所ですよ!。」と言われました。
私が「でも、私、古墳の横の家から出て来たのです。」と言うと、「一般の人が見れる古墳はその信号の先にある、横穴式の古墳だけです。そこは公園になっているから、古墳がみたいのであればそこに行きなさい」と叱られました。
祖母の事を思うと寂しくなり涙が出てきた所で、目が覚めました。

不思議な夢でした。それも、しっかりと今でも内容を覚えてるのです。そして、色もはっきりと。
生まれて初めてです。ここまでリアルな夢は。内容を覚えている事は頻繁にあるけれど、この夢では色が全て付いていて、特に金色・銀色・赤・緑・そして白は鮮明です。
自分達は生きていると言った3人の方がとても気になります。あの人たちは誰なのか?
最大の謎は「大王様がお目ざめになります」です。
どう言う意味でしょう。
先のコメントでお話したように、この言葉は3回目です。その夢を見た二日前からそれぞれの夜で内容は違うけど夢をみてそして必ず言われた言葉が
「大王さまがお目ざめになります。皆に伝えて下さい。」だったのです。
でも、私が「ゆどの」と呼ばれる部屋でお会いした男性は「王」と呼ばれていて「大王」様とは呼ばれていませんでした。

そして、私が出てきた2基の古墳。ここが何処だったのか、実在するのか調べたいと思います。(マタマタ(ー_ー)!!と思われた方すいません。<m(__)m>)
石畳があり木々に囲まれた2基の古墳。そして、高い柵が周囲に張り巡らされていて、立入禁止。その先は道路。信号がすぐ前にあり、その先は横穴式の古墳がある。
この場所を見つけたいと思っています。

決して、色々な事があり、心が壊れている訳ではありません。
あまりにもリアルな夢であるし・・
そして、やっぱり、皆様には本当の事をカミングアウトします。
気持ち悪いと思われるかも知れませんが・・
実は、私、日本だけではなく、世界中で起こる様々な出来事が、何故かずっと事前に解るのです。
昨年起こった幾つかの出来事は、夢に出て来てほぼ全てあたりました。
ずっと苦しかったけど、今では、家族とM田さん、親戚の一部の人が聞いてくれます。

でも、今回の夢は「皆に伝えなさい」なので・・
もしかしたら、何か、古墳のような貴重なもの、もしかしたら古代の遺跡のような物が発見されるのかな?と。そうであれば嬉しいのですが。
良い事であれば良いな(^・^)と願っています。

夢にお付き合い頂き、本当にすいませんでした。<m(__)m>

あの、それから、私の事を気持ち悪いと思われたら仕方ありませんね。(@_@。

[85]子孫よりさんからのコメント(2014年01月28日 13時51分26秒 ) パスワード

皆様へ、夢のコメントは「変な夢を見る人だな〜」って事で気にされないで下さいね。

何だか、午前中は、書かないといけないとキーボードを叩く指が無意識に進むくらいの感じだったのですが。
こんな事書いても、自分の自己満足にしか過ぎませんので、不愉快に思われた方は申し訳ありませんでした。

ただ、色々な事を人に言えずに悩みながら、すでに半世紀近く生きてきたので
もうそろそろ、何も考えずに、素直な心で、言葉を誰かに伝えたくなったのです。
皆様、気にしないで下さい。
そういう、年頃となった?おばさんの(自分以外の人からこう呼ばれたらめちゃくちゃ怒っちゃうのですが)独り言だと聞き流して下さいね。

これからも、しっかりと歴史の勉強は続けていこうと思っています。
どうぞ、よろしくお願い致します。<m(__)m>


[86]白石さんからのコメント(2014年01月28日 22時22分45秒 ) パスワード

こんばんは
ずいぶん リアルな夢でしたね。
私の場合 古墳は古墳ですが 荒れて 草原のところに 大きな石の入り口があって 古墳だなあ と わかる程度の ものを 夢に見たことがあります。

母やおばに話すと 顔を見合わせて 母方の家の墓は お寺の納骨堂にあり、地下にあるので それだろうか?私が3歳の頃連れて行ったことがある とそちらに落ち着きました。

私は 草原の中にあった と 夢に見たのに と思いながら 人に話しても そうなるのだ と 思っていました。

でも 
遠い 昔の人のDNAを 受け継いでいたら、その人が見た記憶が呼び覚まされるかも知れませんよね。

良かったですね。お爺様の顔など 見れて・・・^^
私は 自分が見た古墳の中を入っていって もし ビックリする状態になっていたらどうしよう 入る前に目が覚めてよかった

などと 思っていて
そのあと 父母が逝ってしまって 父母も夢に出てきて こちらは 大きな家に池があって そこに はすの花がきれいに咲いていて 父母が池のほとりにすわってなにやらにこにこはなしていて

ああ 父母も成仏したのだ と 夢の中で得心していました。

ご先祖様とつながる瞬間ですね。
[87]子孫よりさんからのコメント(2014年01月29日 05時34分52秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、コメントありがとうございました。

白石様は草原が夢に出て来られたのですね。私も草原の夢、じつはよく見ますよ(^・^)

でも、今回書いた夢については、本当にリアル過ぎて、全ての感情がよみがえってくるのですよ。
普段は、誰にも言わないのですが、「皆に伝えなさい」という言葉がずっと引っかかって、かなり悩んだのですが、コメントに書きました。
「皆に伝えなさい」と言われたのは初めてだったもので・・・

先に起こる出来事がある程度解る事については、多分、動物の本能が強く残っているのかも知れませんね。(私自身が、あまり進化していない人なのかも(@_@。(^・^))
悩んでも仕方ないので自分を客観的に分析するようにしていこうと思いました。
心(人生)の転換期にさしかかった・・・ある人からそう言われて、何となくですが、気持ちが落ち着きました。
マロとサブロウが私に、そういう風に考えるようにきっかけを作ってくれたのかもしれません。

もうすぐ、節分。旧正月ですね。本当の意味で気持ちを切り替える時期に来ているのかなと感じています。



[88]白石さんからのコメント(2014年01月31日 01時00分34秒 ) パスワード

知り人と話しをしていたら 自分の妻は 竹田というのだ という人がいて
左側は竹のそのままだけど、右側は の が たてにまっすぐなのだ というのです。そして 昔は 皇室とゆかり だ などといって、自分が辞典で見たら 確かに偉い人にこの字が使われている 

と いっていました。
家で ネット検索したら 字の変換は出来ませんでしたけど、
偉い人
と思って 見続けていましたら

ひょんなことに
以下のブログが 出てきました。ヤマトタケルなど 前から出てきている言葉で、峯の言葉は 良峯 など 峯にことばつながりするなあ と 思い、書いてみました。

系図上のつながりは 確かめていませんが、関氏 松浦氏 ヤマトタケル 平忠度 持明院 など出てきて 

花山院 ヤマトタケル 北白河家 などの 線にかさなるものが あるように思います。

ばらばらにでてくるけど 妻になった人の縁などもあるのでしょう。

伊勢峯城
www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/mine.htm‎
峯城は、安楽川と八島川の合流点に向けて丘陵が半島状に突き出した先端部に築かれている。 縄張り図 ... 峯城は、貞治6年に亀山城主関盛政の五男政実が川崎の地を分地され築城した。 政実は、峯氏を称し、以後10代に渡って峯城を居城とした。 戦国時代 ...

松浦氏支流峯氏

三峯神社〜埼玉県秩父市
ヤマトタケル

峯守氏で打ち込むと
平忠度 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/平忠度‎
天養元年(1144年)伊勢平氏の棟梁である平忠盛の六男として生まれる。 ... 治承4年(1180年)正四位下・薩摩守。 ... 良峯氏系図」(『続群書類従』巻第174所収)

持明院家ー園家
峯守氏
[89]子孫よりさんからのコメント(2014年01月31日 07時03分28秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございました。

気持ちも落ち着いてきたので、ソロソロ先祖の調査を再開しようとは思っていても、中々、新しい発想も出て来ないで、ここ数日、今まで、こちらのスレッドで、自分がコメントした内容や、皆様からのご教示を最初から繰り返し読んでいるだけでした。
ですから、白石様のご教示を拝見して、「私が、ぼーっとしている間にも、白石様は、私の先祖に関して様々な角度から、調べて下さっていたのだな。」という思いがこみ上げてきました。
本当にありがとうございます。
背中をひと押しして頂けました。

峯・・私も、この峯という文字に大事な意味があるような気がします。
そうですね、中々文献などに解していないような、「暗号」のような意味が。

平忠度‎
正月に、ウィキに載っていたこの方のお顔の絵を、父、伯父、親戚に見せてた所、皆「ウォ〜!」と、うなるような声で驚いていました。
それだけ、父と伯父にそっくりなのです。
本人達は「あっ!・・・ウォ〜・・」と。
一番驚いていたのは、当の父と伯父だと思います。
でも、二人とも何も言わずに「そうか・・」と感慨深げでした。
顔については、もしかしたら、良峯系原氏の顔なのかなとも思います。

多氏の祖となるこちらの御方のお顔と、平忠度‎公のお顔を見て下さい。とても似ていらっしゃいますから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

平忠度‎ ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%BA%A6

月岡芳年画の絵は伯父そっくりで小林清親画の絵は父にそっくりです。

月岡芳年が描かれている絵だから、偶然似ているのかな?とも思ったのですが、小林清親画の絵まで、似ているという事は・・・

そしてもうひと方、平忠度‎を描かれている菊池 容斎。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%AE%B9%E6%96%8E
父は菊池家から養子に来た人であったが、系図によると南朝遺臣の菊池武時の後裔であるという。15歳の時に早世した兄に代わって河原家を嗣いでいたが、28歳の時に父の生家が断絶し、量平はこの名家が廃されるのを惜しみ、妹に婿養子を迎えて河原家を嗣がせたのち38歳で致仕し、菊池武長の後を継いで菊池家を再興した。菊池武保と名乗るのはそれからである。「容斎」という号は、厳格さのあまり他人を容赦しない自分の性質を戒めるためにつけたという。

文政8年(1825年)から『前賢故実』の著作に取りかかり、天保7年(1836年)に完成させた。これは10巻より成り、神武天皇の時代から、後亀山朝にいたる日本史を代表する500人を選び、画の上にそれぞれ小伝を加えるか、または詩歌を掲げたものである。
★『前賢故実』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E8%B3%A2%E6%95%85%E5%AE%9F

この著は容斎の歴史趣味と尊皇愛国の精神を遺憾なく伝えた代表作である。明治元年(1868年)9月に刊行。明治天皇が東京に遷るときにあたって推薦する人があり、右大臣・三条実美と左中将・東久世通禧の働きによって天皇の目に留まり、容斎は天皇より「日本画師」の号を賜られた。一説によると刊行前に孝明天皇に献上され、天皇を動かして和気清麻呂に神号を追贈させるきっかけとなったという。明治7年(1874年)「土佐日記絵巻」2巻を描く。明治10年(1877年)の内国勧業博覧会に出品し、最高の竜紋褒賞を授与された。

大変な調査の上で『前賢故実』の作成に取り組まれていたのですね。
私は、菊池 容斎が何かを知っていらして、その事に基づいて膨大な調査をされたのではないのかな?と思ってしまいました。

あの・・急に思い出したのですが、以前、こちらのスレッドにも書いたと思うのですが、夢の中で「画家(絵師?)を調べなさい」と言われた記憶がよみがえりました。(完全に忘れていました。<m(__)m>(*_*))

夢の言葉は、その時は一つの点でも、後になると線で繋がっているのかもしれません。(夢というだけではなく、点と線の繋がりは、先日従兄から聞いた言葉だったのですが、今、はっきりと、そう感じました。)

さあ、今から仕事です。
白石様、私の調査のきっかけを作って頂いてありがとうございました。(^・^)





[90]白石さんからのコメント(2014年01月31日 21時15分25秒 ) パスワード

こんばんは
断片的ですが
菊池武時

河原家

菊池武長

菊池武保

林就長 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/林就長‎
氏族, 菊池氏→林氏(本姓:藤原氏). 父母, 父:菊池武長 母:不詳. 兄弟, 林足早、林元尚. 妻, 不明. 子, 林元善、女(入江元親室). 林 就長(はやし なりなが)は、戦国時代の武将。安芸国の戦国大名毛利氏家臣。備後国松岡城(現広島県世羅郡世羅町日向)主。

林志摩守元善 - Archive.is - webpage capture
archive.is/z8LKe‎
2013/08/27 - 毛利家臣・林元善の祖父は、もと菊池武長と云い、17歳の時、元善の父・就長が生まれた。 菊池氏と云えば、天正15年の肥後・隈部氏の一揆に加勢した菊池武国の子が武長というらしいが、 年代が全く食い違う。 経緯はよくわからないが、 林 ...

伊藤博文公の系図
【越智宿禰姓 拝志(林)氏(伊藤氏)系図】
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-ochi-itou.html
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-ochi-kouno.html

うちの方で 平川のおば が 集落の林の家のことを「屋敷」といっていました。敷地が大きいだけでないものが 感じられていました。その平川に婿養子に入る高岡。嫁に来る尾方。

又 林は 相良氏のおじ の 関係。

伊藤博文公は 近衛と西園寺を自分の両腕にしようと ドイツ・フランスへ留学させたら 近衛はこちこちの保守派になって帰ってきて、西園寺はばりばりの社会主義になってかえってきた と 本で見たことがあります。

上の中で 菊池武長に関わるあたりから毛利に関わっていくあたり

菊池武光は豊田を名乗り、大内氏は一子相伝で豊田を名のる。大内氏と毛利氏・尾大友氏は昔母方つながりで 中原氏。

多氏と中原氏は同族。
仲津臣 以前 この氏族の仲間が 9ほどあったのに書から消えている云々とかいたことがあったとき、7000傑さまから 別は和気なり のお言葉をいただいたことがあります。

菊池は池禅尼に関わって又 北白川陳子 という人に関わってくるものがあったように思っています。

この頃 仕事上で 身辺の変化があり、家の中もざわついてきて(息子の就職のこと)頭がついていけなくて バラバラの話になりごめんなさい。


 
[91]子孫よりさんからのコメント(2014年02月01日 12時55分35秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。
白石様、ご教示ありがとうございました。
お仕事やお家の事で色々お考えになっていらっしゃる時に、本当にすいません。
「仲津臣 以前 この氏族の仲間が 9ほどあったのに書から消えている云々とかいたことがあったとき、7000傑さまから 別は和気なり のお言葉をいただいたことがあります」
実は、私、先日、こちらのコメントが気になり読みながら「調べなきゃ」と思っていた所でした。
菊池 容斎は500人の方に対して、綿密に関係のある地までおもむいて調査をされたと他の記述で読みました。
それが、使命と感じていらしたのかもしれませんね。

所で、今日は、先日も一度お話したように、「記録が残っているものを中心に再度見直しをする」これを目標にして、情報を見ていました。
(名前の通字については同時に調べて行こうと思っています)

平河家文書の断片ですが
御母七郎荒田寺別営依高、御子有智山寺姓立之吏仁平元群十月十八日卯時桂立三年久さ万年移ル、(文字化けしているので読めるように修正してみました)

御母七郎荒田寺別当依高、御子有智山寺姓立(建立?)之吏仁平元年十月十八日(1151年10月18日)卯時桂立(建立?)三年久さ万年移ル
そして、別の文献には★平河氏は相良氏入国前中球磨に威「久寿元年(1154年)移ル、師高建立也」とありました。

そして上記の
御母七郎荒田寺別当依高、御子有智山寺姓立(建立?)之吏仁平元年十月十八日卯時桂立(建立?)三年(?)久寿元年(1154年)移ル、
に関して、様々な本、資料で解説されているのですが、著者や筆者の「私考としては」という注釈が付いた上で、多数が★平河師高が(球磨の)有智山寺を仁平元年十月十八日卯時に建立したと言う事ではないか?となっています。

が!何でしょうか、私の「私考」は(いつもの感が)モヤモヤとするのです。
何故か!と言いますと、今まで、見て来た平河家文書の中で日付がしっかりと記録されていた時には良い話は無い(ー_ー)!!では無くて(先祖様すいません<m(__)m>(*_*))、必ず「あれれ?!」という歴史上の出来事が必ずくっ付いて?いたからなのです。
ううん?!あやしい(-_-) この記述には日付どころか時間まで入っています。(ますますあやしい(-_-))
お寺の建立にはやはり3年はかかるものでしょうか?
と言う事は、完成したから平河師高はここに移ったと言う事になりますね?
ううん(-_-)。あっ♪私なりに区切っちゃいましょう(^・^)
御母七郎荒田寺別当依高、御子有智山寺姓立(建立?)之吏、仁平元年十月十八日卯時・・・、桂立(建立?)三年(?)久寿元年(1154年)移ル、

さて、私考(いつもの感ですが)で調査開始です!
まず、御母七郎荒田寺別当依高 は今まで調べても全然わからなかたので後に回して・・(^・^)・<m(__)m>
御子有智山寺姓立(建立?)之吏
有智山寺とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%88%E9%96%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE
まず、有智山に関連して
竈門神社(かまどじんじゃ)は、福岡県太宰府市にある神社。式内社(名神大社)。旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。別称を「宝満宮」「竈門宮」とも[1]。
下にスクロールしていくと、「奈良時代から平安時代」の記述があります。
社殿に関しては、長治2年(1105年)の焼亡の記事に始まり、御占・遷宮の記事を経て、久寿2年(1155年)に再度焼亡とそれに伴う訴えの記事が見える[1]。社司は、天元2年(979年)の段階では大宮司が一山の貫主を担っていたが、11世紀末頃には神仏一体となっており、大山寺別当が当社含め一山を取り仕切っていたと見られている。長治2年(1105年)には、当社神宮寺の大山寺の別当職を巡り、延暦寺と石清水八幡宮が争いを見せている[1]。
★大山寺の別当職を巡り、延暦寺と石清水八幡宮が争いを見せている
あれっ?石清水八幡宮ですね。(神社に関しては未だ勉強不足です(*_*))

では、その大山寺
画面を下にさらにスクロールすると「神宮寺」についてが記述されています。
当社には、かつて神宮寺として大山寺(だいせんじ)があった[2]。宗派は天台宗。
当寺は、西国の天台宗寺院を代表する存在であった[1]。寺名は、竈門山寺(かまどさんじ)・内山寺(うちやまじ)・有智山寺(うちやまじ)とも記される[2]。ただし、これらが同一の寺を指すかは確実ではない[1]。
★有智山寺(うちやまじ) このお寺ですねφ(..)メモメモ

神宮寺に関する史料では、延暦22年(803年)[原 1]の記事が最古である[2]。下宮にある礎石群から、8世紀後半にはかなりの規模を誇っていたと見られている[2]。史料によると、その延暦22年(803年)には最澄が入唐の折に竈門山寺において、入唐4船のため薬師仏4躯を彫ったという[4]。また承和14年(847年)には唐から帰国した円仁が神前で読誦し、仁寿2年(852年)には円珍が読誦している[1]。承平3年(933年)には、沙弥証覚によって延暦寺の「六所宝塔」のうちの1つが建てられた[1]。

当寺は平安時代中期、文治4年(1188年)までには竈門神社と一体となり、宮寺として活動していた[1][2]。その後、大山寺は平安時代後期の11世紀末には一時石清水八幡宮の末寺となったが、12世紀初頭に比叡山延暦寺の末寺となった[2]。このため、当寺の訴えは中央の京都にも及んでいる[1]。竈門宮に正一位が授けられた嘉承元年(1106年)頃には数多くの僧坊を擁し、竈門神とともに最盛期をなした[4]。平安末期の『梁塵秘抄』では、筑紫の霊験所の1つとして「竈門の本山」と歌われている[1]。

★大山寺は平安時代後期の11世紀末には一時石清水八幡宮の末寺となったが、12世紀初頭に比叡山延暦寺の末寺となった
あれっ?11世紀末とは1000年代後半?でっ12世紀初頭とは1100年代?あれっ?
良くは解らないのですが、じゃあ平河師高の時代はどちらが別当となっていたのでしょうか?(@_@)
球磨に有智山に関連したお寺を建立したと言う事は・・??

と言う事でまだまだ調査不足ですが、何でしょうか(-_-)比叡山延暦寺と石清水八幡宮の争いが見え隠れしていますね。( 一一)??

では続けて
仁平元年十月十八日卯時・・・の調査ですが(別に何を調査しても・・とりあえず気になるので調査します<m(__)m>)

長くなったので次のコメントで<m(__)m>





[92]子孫よりさんからのコメント(2014年02月01日 14時35分15秒 ) パスワード

では、調査を続けます。

仁平元年十月十八日卯時 について調査します<m(__)m>

あの・・・
この日付で検索したら偶然とは思うのですが、出てきました(*_*)
http://homepage2.nifty.com/H-Suga/tkk22.html

『本朝世紀』仁平元年(一一五一)十月十八日条
天晴、丑の剋、小六条皇居焼亡す[放火と云々]。即ち六条烏丸御所[院御領]に行幸。
十月十八日、再び放火とみられる火災により、近衞天皇には小六条殿から院御領の六条烏丸殿(註3).をへて関白忠通の近衛第に中宮呈子とともに住まわれ、皇后多子とは別居されたままであった。関白忠通邸に中宮と同居あそばされた近衞天皇と大炊御門殿の皇后多子は疎遠になるのはやむを得なかった。これが関白忠通の狙いでもあった。

★近衞天皇と大炊御門殿の皇后多子は疎遠になる・・とても切ない気持ちになってきました。

この事件の前にも火事が発生していたのですね。
『本朝世紀』仁平元年(一一五一)六月六日条に、
今夜丑の剋、四条皇居焼亡。[放火と云々。関白直廬より起こると云々。]明日祇園御輿迎へに依り、暁に臨み美福門院八条御所に臨幸すべきの由、先日仰せ下され了んぬ。仍りて諸司諸衛去夕より参籠。漸く出御せんと欲するの間、火災忽ち起る。仍りて便(すなは)ち八条殿に行幸と云々。賢所同じく八条殿に渡し奉る。中宮関白御宿所[四条烏丸]に渡御、其の後八条殿に行啓。皇后宮大炊御門御所に渡御。
「丑の剋」(午前一時〜三時)。
六月六日、里内裏四条東洞院殿が関白忠通の直廬より出火した放火と見られる火事により焼亡すると、天皇は八条殿(美福門院第)へ、中宮呈子は一旦関白宿所(四条烏丸)に移られ、改めて八条殿に行啓。皇后多子は大炊御門殿へうつられた。七月五日、天皇と中宮呈子は小六条殿(註2).へ移られた。この日左大臣頼長は、石清水八幡宮の神前において墨字大般若経を書写供養し、多子立后時の願を果した。

あっ!
★石清水八幡宮の神前において墨字大般若経を書写供養し、多子立后時の願を果した。
先ほどの有智山寺(うちやまじ)のコメントに石清水八幡宮が出たばかりなのに・・・

上記の火災と仁平元年(一一五一)十月十八日の火災で近衞天皇と大炊御門殿の皇后多子は疎遠になる・・ ものすごく切ないです。

藤原多子
http://www.geocities.jp/japanischekonigsfamilien/japan/76-kogo.html

父 徳大寺公能・・・あれっ?このお名前は?あれ!!!\(◎o◎)/!
コメント56で、出ていました!

コメント56略します
北条重時の甥と言う事は、重時の兄弟の子供が平河又三郎師里と言う事です。
重時の兄弟は
泰時、朝時、重時、有時、政村、実泰、竹殿、一条実雅室、他
想定@ 妹・・・一条実雅室
一条 実雅(いちじょう さねまさ)
★系譜 父:一条能保 母:家女房(藤原有恒の娘)妻:北条義時の娘 
★ 子 生母不明 男子:一条実顕(北条重時の甥となります)姉婿である西園寺公経の猶子となる。
そして、父:一条能保
一条 能保(いちじょう よしやす)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家中御門流、藤原通重の長男。一条二位入道[1]と号す。
父方の祖母は後白河法皇の同母姉・上西門院の乳母・一条で、能保は後白河法皇や上西門院に近い立場にあった。また、母は当時の宮中で勢力を保っていた閑院流の流れを汲む徳大寺公能の娘であった
★母は徳大寺公能の娘

絶対に偶然と思いますが、でも・・繋がってしまいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%85%AC%E8%83%BD
徳大寺 公能(とくだいじ きんよし、永久3年(1115年) - 永暦2年8月11日(1161年9月2日))は平安時代後期の公卿。父は徳大寺実能、母は藤原顕隆の女。

越中守・右近衛少将・左近衛中将・蔵人を経て、保延3年(1137年)に崇徳天皇の蔵人頭、翌年には参議となる。閑院流全盛の時代で権中納言・中納言・右衛門督・検非違使別当を歴任するが、崇徳天皇退位と待賢門院出家の影響を受けて昇進は停滞する。後白河天皇が践祚すると娘の忻子は中宮となり、後白河帝在位中の保元元年(1156年)に右近衛大将、保元2年(1157年)に権大納言と急速に昇進する。

二条天皇の要請による藤原多子の再入内に対しては、『平家物語』では積極的、『今鏡』では困惑と、態度に違いがある。永暦元年(1160年)7月に正二位右大臣となるが、翌年8月に現職のまま47歳で薨去した。

多芸多才で管弦・歌・朗詠等に優れ、歌に関しては義兄の藤原俊成や、かつての家人・西行と交渉が深い。『詞花和歌集』以下、勅撰集に32首が入集する。
★閑院流全盛の時代で権中納言・中納言・右衛門督・検非違使別当を歴任する
この方も検非違使別当ですね。φ(..)メモメモ

でもでもでも(*^。^*)きっと偶然です。仁平元年十月十八日卯時には多分やっぱりお寺の建立があったのです(*^。^*)きっときっと・・・?いや(ー_ー)!!きっと。

だって、線では繋がっても大事な点が全く見つからないのですから(@_@。

そういえば・・・
別の記述で日付が記録されていたのは・・
所進遠景同年十二月 状案者、下球磨御領 、可早任御教書、被安堵平河三郎(良貞)身事、右去六月十六日御教・・・・・

あの時は・・天野遠景から・・・
いやいや(ー_ー)!!同じ一条でも、あの事件は甲斐一条氏ですから。

それにしても、先ほどのコメントに続けて調査中に石清水八幡宮の記述が何度もありました。

「石清水八幡宮略史.崇敬(参拝)」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/iwashimizu-ryakushi-sanpai.htm
近衛天皇は仁平元年より始めて毎歳行幸あらせらるゝことに定められたり。その他一代に数度の行幸ありしこと敢て珍らしからず。

藤原多子の近衛天皇に対する愛の深さがとてもよく解る記述がありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%A4%9A%E5%AD%90

永暦元年(1160年)正月、二条天皇の強い要請により多子は再び天皇の後宮に入った(『帝王編年記』によれば正月26日)。21歳であった。皇后であった女性がのちに別の天皇と再縁したのは、史上多子只一人である。(皇后となる前に別の天皇の妃であったのは、伊香色謎命がいる。)多子は二条天皇の寵愛深かったが、この再入内は多子の望みではなく近衛天皇が崩御したとき出家しなかったことを嘆き、「思ひきやうき身ながらにめぐりきて おなじ雲井の月を見むとは(憂き身の上ながら、また再び宮中に戻ってきて昔ながらの月を眺めようとは…)」と歌を詠んだ(『平家物語』)
ただ多子が入内したのは、平治の乱が終結した直後という異常な状況下であり、二条の後見である美福門院や側近の藤原経宗・藤原惟方がこの件に関与しなかったとは考えにくいことから、父・後白河に対する牽制(自分が鳥羽・近衛両帝の後継者)を目的とした政略結婚とする見方もある。

当時の女性は自分の意志を尊重される事も出来ずに・・本当に切ない気持でいっぱいになりました。(@_@。
















[93]子孫よりさんからのコメント(2014年02月02日 16時20分28秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。

昨晩は、昼間とは打って変わって、こちら(小倉)は突然の豪雨でした。
ベランダに干していた厚手の物を取り込みながら、何故か急に、平河義高と相良長頼の戦いはいつ?だったのか?と考えました。
実は、今まで、一切調べていなかったのです。
というか、色々な古文書・文献・相良家に関する文書さえ、全く出て来なかったので、おかしいな?とは思っていました。

そこで、googleブックにて、戦いが行われた地名「血敷原」と入力して調べると、正式な文献はやはり全く出なかったのですが、木上村に伝わる話を取り上げている記述があり、そこに書かれていたのが「寛喜」という年号だったのです。
寛喜(かんぎ、かんき)は、日本の元号の一つ。安貞の後、貞永の前。1229年から1231年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。(ウィキより)
1229年から1231年の間。
そこで?と。私は今までもっと以前に起こっていた事と思っていたのですが・・。どうも、調査を行う上の時間の流れを自分自身の頭の中であらためなければいけないような気がしました。
そして、一つ??と気になっていた事を思い出したのです。
正月に従兄と山田大王神社にお参りに行った際、由来が書かれていてそこに祀られている方の名前が「平河次郎藤高」
荒田大王神社にもお参りに行ったのですがそこに祀られている方が「平河右衛門義高」
そして、平河右衛門義高は記述によれば相良氏が球磨に下向される18年前から球磨の木上岩城に居城していた。と言う事は年代で言うと、1180年頃です。
平河義高の祖父良峯安則は菊池経頼を頼り下向。その後肥後国山本庄に居住し、そして、球磨郡木上岩城に居城。
でも!!。昨日、コメントしたように、
御母七郎荒田寺別当依高、御子有智山寺姓立(建立?)之吏仁平元年十月十八日(1151年10月18日)卯時桂立(建立?)三年久さ万年移ル
そして、別の文献には★平河氏は相良氏入国前中球磨に威「久寿元年(1154年)移ル、師高建立也」とあり、平河師高は1154年にすでに球磨で有智山寺を建立していたのです。?!

やはり、平河氏に関しての時間軸が二つある気がしてなりません。
ここまでを整理すると
良峯依高・・平河師高(1154年球磨の記述に名前あり)・・・良峯安則・平河右衛門義高(1180年?)岩城居城・・・寛喜年間(1229年〜1231年の間に)「平河次郎藤高・平河右衛門義高 相良氏と戦う」 となります。
それに「藤高」という名前ですが、今まで、私なりに色々な名前は目にしてきましたが、姓に「藤」がつく人は沢山いらしても名前に「藤」がつく方は殆ど見た事がないのですが・・勉強不足かな?(@_@)

折角、年号も解ったので、東大の古記録フルテキストデータベースで検索したのですが、この事件についての文書・文献は見当たりませんでした・・??
寛喜年間に記録されている内容でちょっと気になったのは
寛喜3年4月6日
四位侍従公綱(藤原)朝臣・刑部大輔義高朝臣等入滅、 民経記
この記述ですが刑部大輔義高朝臣はその他、猪隈関白記には藤原義高となっています。でも、関係は無いでしょうし・・(@_@。
実は以前、いずれかの古文書で(多分相良家文書かな?)で平河義高が母の菩提を弔う為に「愛染・・?」という仏像?を人吉の寺に奉納したと記述されていたのですが、その時は今以上に深く読みとる事が出来なかったので「愛染」という言葉を検索して、それきりです。気にはなったのですがスルーしてしまいました。(@_@)
その記述を今回一緒に、探したのですが、見つける事が出来ませんでした。(@_@)

ただ、???ばかりではありません。
気が付いた事もあります。寛喜は1229年〜1231年。
関係ないかもしれないのですが、橘公業と西園寺公経の替地は1236年。
すなわち、「血敷原の戦い」の比較的近い後だったと言う事です。
そして、その後「平河(平川)氏」と「相良氏」との間には揉め事は一切発生していない。

と言う事でここまでは???の連続でしたが、実は、今朝、二宮大宮司家について調べていた時にとても、気になる記述を見つけました。
尾張における二宮大宮司家と熱田大宮司家の関係が良く解らなかったので印刷して一生懸命読んだのですが、未だ???の部分も沢山あります。(歴史に関する理解力に乏しいのです)
でも、同時に日本の苗字七千傑様の《藤原姓熱田大宮司家》姓氏類別大観を見ていたら、「あれっ?」と。
今お話した事は、鉄のカーテンが少し薄くなったかな?と思う内容なのですが、コメントはしっかりまとめて後ほどさせて頂きます。<m(__)m>









[94]管理者 aさんからのコメント(2014年02月02日 22時45分41秒 ) パスワード

90を超えました。
キリの良いところで新しいスレッドを立ててください。

99になりましたら予告無しにスレッドを締めさせていただきます。
[95]子孫よりさんからのコメント(2014年02月02日 23時59分10秒 ) パスワード

皆様、こんばんは。
昼の続きをと思ったのですが・・

あの・・・コメント93で東大古記録フルテキストデータベースで見つけた民経記の記述にどうしても心が引っかかって・・
一応調べてみようかなっと思い立ったのですが・・・それが・・何故か・・
とにかく、お伝えします<m(__)m>

寛喜3年4月6日
四位侍従公綱(藤原)朝臣・刑部大輔義高朝臣等入滅、 民経記

記録では「疾病と聞いている?」(云々)となっていたのですが、でも二人の名前が同時に記録されていて、なおかつ「等入滅」とは、まるで、同じ所で、何人も疾病で同時に入滅した?というような書き方が逆に変だな?と思ったのです。(気のせいだとは思ったのですが・・)

そこで、まず四位侍従公綱(藤原)朝臣とはどなた?と思い調べました。
藤原公綱とは・・
徳大寺公能の息 徳大寺実定(とくだいじ さねさだ)の子でした!!
徳大寺実定 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%AE%9A

徳大寺 実定(とくだいじ さねさだ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。右大臣・徳大寺公能の長男。官位は正二位・左大臣。後徳大寺左大臣(ごとくだいじの さだいじん)として知られる

父母  父:徳大寺公能、母:藤原豪子(藤原俊忠女)
兄弟    藤原忻子、徳大寺実定、藤原多子、藤原実家 ほか
★昨日コメントした藤原多子は妹なのですね。
妻:藤原顕長の娘 男子:徳大寺公綱 - 少将・・★この方です!
妻:藤原師長の娘[2] 男子:徳大寺公守(1162-1186) - 正四位下右中将
妻:上西門院女房備後 三男:徳大寺公継(1175-1227) - 従一位左大臣
生母不詳 男子:道雲 - 仁和寺僧都 男子:徳大寺公広 - 侍従 男子:公厳
女子:良全の母 養子:公方 - 実は公源の子

「義高」というキーワードをもとに情報を探しただけなのに、偶然とはいえ・・何で繋がってしまうのだろう??(自分でも不思議で仕方ないのですが・・)

じゃあこちらの方は?ここからは、いつもの行き当たりばったりです。すいません<m(__)m>
刑部大輔義高朝臣(藤原義高)・・*べつの記述では菅原義高という人もあるのですが、同一人物かどうかは?解らないのです。ただ、同時期の方であるのは確かです。

では・・・(^・^)
・・・あの・・・・嘘でしょう・・!えっ!
刑部大輔義高 をキーワードで検索したのですが・・
http://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e8%8f%85%e5%8e%9f%e6%b0%8f%ef%bc%88%e9%ab%98%e8%a6%96%e7%b3%bb%ef%bc%89

記述をまとめます

菅原義高 生没年:1159-1232 
父 :大学頭 菅原在茂・・文章生 文章博士 大学頭 正四位下
母 :(父:刑部卿 藤原家基)★母は藤原家基(近衛家基)の娘
祖父:豊前権守 菅原是基・・従五位下 豊前権守 少内記
子 : 高能  義慶

偶然?でしょうか これは偶然なのでしょうか?
四位侍従公綱朝臣(徳大寺公綱)・・徳大寺公能の孫
刑部大輔義高朝臣(菅原義高)・・近衛家基の孫
全てが、今まで調べて来た事に繋がっています。でも偶然?でしょうか?

皆様、もう一度こちらを読まれて下さい<m(__)m>

熊本県球磨郡あさぎり町の広報の記述(深田村万福寺について)

今回、発見された墨書銘には、木造毘沙門天立像を、いつ、だれが、何の目的で作ったのかが判明しました。その内容は、「当郷の領主の藤原家永が、藤原氏の災いをなくし、命を延ばし、福寿を増長することを目的とし、勧進にあたった僧は源与で、仏師は僧の経助で、この地にて成就し、多治治助ならびに藤原氏の一家の平安を願って久寿三年(1156年)四月二日に安置した」ということが書かれています。久寿3年の年は保元元年にあたり、あの源平モノの大河ドラマなどではよく耳にする「保元の乱」という事件がおこった年です。「藤原家永」という人は、先ほど述べた『図田帳』の「藤原家基」の一族に強い関わりがあると思われます。
 さらに、仏師名と勧進僧名や平安時代前期に皇室と関わりがある「多治氏」の名前もあることから、球磨郡の平安時代をさらに問題提起をしています。

球磨の平安時代に関係していた「藤原家基」の一族そして多治治助「多治氏」

菅原義高 この方は上記の藤原家基(近衛家基)の孫だったのですね。

今晩はここまでで 失礼いたします<m(__)m>





[96]子孫よりさんからのコメント(2014年02月03日 05時31分37秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
昨晩のコメント訂正があります。
刑部大輔義高朝臣(菅原義高)の生没年:不明〜1231年(寛喜3年の記録による)です。
昨晩のコメントは兄弟の菅原在高 生没年:1159-1232  でした。
すいません。<m(__)m>


[97]子孫よりさんからのコメント(2014年02月03日 06時01分54秒 ) パスワード

皆様、こちらのスレッド平川家について7もすでに97となりました。
今回も、様々なご教示を頂きましてありがとうございました。
新しくスレッドを立てました。

平川家について8
http://hikoshima.com/bbs/heike/101343.html

今後とも、どうぞよろしくお願い致します。<m(__)m>(^・^)

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