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 投稿番号:101319 投稿日:2013年09月01日 17時37分08秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について

コメントの種類 :その他  パスワード

私の祖母は球磨郡あさぎり町の平川家から嫁いできました。祖父は士官学校を卒業した軍人で、中国で負傷した際、東京の陸軍病院まで船で運ばれ治療を受けたそうです。その際、祖母はわざわざ球磨の地より東京に呼ばれ、滞在中、華族の方々より、親しくしていただき、寂しいでしょうと、様々な場所に案内されたという事でした。この話は、祖母が亡くなる前に、私に初めて話してくれた事です。その時は良く理解出来ませんでしたが、後に平川の伯父の処に歴史学者が訪れ、伯父は平川の系譜について説明を受けたそうです。祖母の兄弟おじおばは親族に何も教えてはくれませんでした。平川家(良峯家)についてこの頃私もやっと理解出来るようになってきたところです。。ただ、相良氏は藤原冬嗣公の子孫であり、同じ百済永継の血を継ぐ方だとわかった時は複雑な気持ちになりました。ちなみに地元ではなぜか祖母の実家平川の家を「みなみ」と呼んでいます。子供の頃からとても不思議です。

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[1]白石さんからのコメント(2013年09月04日 20時37分10秒 ) パスワード

こんばんわ
コメントを読ませていただき、ああ 古い頃の記憶を持っておられるお家があった と 勝手に親しい想いを抱いております。
わたしも あさぎり町には少し ゆかりがあり、地域が違うけど 平川家 は 親戚にあります。
あさぎり町には 善正寺 が ありますが、もしかして、お墓はそこにありませんでしょうか?
娘が7歳の時 稚児まいりをそこで しました。

うちの平川家は 元士族でした。
おたずねその2ですが、尾方 五藤 など 親戚にございませんでしょうか?

おたずね3 山田の方に ご親戚はございませんでしょうか?

良峯氏はわが国の文化を国風文化に変えた人ですね。歴史に出てきますね。
ひとつ 私的に あたらしい 情報なのが、相良氏が 冬嗣の子孫というところです。学者先生がおっしゃったのだと思いますが、本などでみると 相良氏は南家武智麻呂の子孫になっているのです。どちらにしても 藤原ですけどね。

おたずね4ですが、田中というお家がご親戚にございませんでしょうか?
ぶしつけに いろいろ お尋ねして申し訳なく思いますが、我が家のことをしらべていて、丁度このコメントを見つけたので、思い切って書いてみました。

[2]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月05日 00時11分46秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

姓氏類別大観【百済氏/和氏】をご参照ください。
藤原冬嗣も良峰安世も百済永継の孫ということがわかります。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03013f.htm
 
相良氏は藤原南家で源氏方、源義家と姻戚関係。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022f.htm
平家滅亡により人吉庄は良峰氏より相良氏へ地頭交代。
相良氏は、初め南朝方だが後に北朝方へ転じる。
[3]白石さんからのコメント(2013年09月05日 22時23分16秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑様 こんばんわ ご教示ありがとうございます。
2>藤原冬嗣も良峰安世も百済永継の孫ということがわかります。
そうですね そして 真夏は冬嗣のきょうだいで、真夏の子孫が親鸞上人ですね。
善正寺も親鸞上人の宗派です。
深田には良峯師高の墓があったと 確か 球磨郡誌にあり、荒田の言葉がある。
そして、山田葉木に平河の霊社があったと伝える。

葉木の佳字が萩で、葉木は足利に関した本で、(本の名を忘れたけど)葉木と書いてありました。

私的には 南朝北朝 上相良氏(上球磨・南朝方)下相良氏(人吉・北朝)
南北朝の戦いの時、山田の地が戦場に選ばれた。

同じ苗字でも 二手に分かれて戦ったとも思え、このあたりで、ぐちゃぐちゃになったのではないか?と思うのです。

本当は昔のつながりを持っていたのに、それがくずれたと・・・

平川が良峯氏だということは ほかの事からも そうだと思います。
うちのほうも もとは 良峯氏所領でした。後、相良氏所領。

そして、うちのほうで、平川という集落に 願成寺二世の首塚(地蔵堂)があり、願成寺は人吉相良氏の祖である長頼の創建。

良峯氏から相良氏へ所領が移る過程でも 古いつながりが 切れた と言うこともあろうかと思いますが、
私は 郡部に古い頃の記憶が残っているのではないか?と思っています。
[4]子孫よりさんからのコメント(2013年09月07日 12時05分50秒 ) パスワード

ご丁寧なコメント本当にありがとうございます。私は子供の頃両親が離婚して父の仕事の関係でしばらく祖母に育てられていましたが今は県外に住んでいる為に詳しい所はわかりませんが、尾方さんという親戚はあります。別の親戚の家の近くには平家の景清姫のお墓もあります。
祖母の実家平川家も士族でした。祖父は早くに亡くなっていますが、戦前祖父には戸籍を調べた陸軍の方から祖母の平川家の事を聞かされたと、これも亡くなる前の祖母から聞きました。ちなみに祖父(私)は京都で陰陽師を行っていた宮司の末裔です。もっと、祖母に話を聞いておけば良かったと今になって後悔しています。
所で今、私が不思議に思っているのは、何故球磨の地を百済の地を引く良峯家と相良家が治める事になったのか?という事です。球磨郡には百済木川もあります。時代は遡りますが別のサイトで狗奴国=球磨国という内容を見た事もあります。平家も球磨の地に救いを求めた。今、離れているからこそか球磨の地には何か秘密が、おっしゃる通りの古い頃の記憶が隠されているのではと感じています。
[5]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月07日 14時53分15秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

子孫よりさんへ
 
球磨の地を治めた芦北国造系図の日羅で疑問は氷塊するでしょう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01235.htm  
 
現代日本で百済は苗字にも地名にも存在して一般的にはクダラと読まれるが、それは日本発祥の地名久多良木に由来するからである。
 肥後国葦北郡久多良木(現:熊本県八代郡坂本村久多良木)は、上古の火葦北国の本拠地と推定される。
 村内には百済来地蔵堂があり、大伴金村が百済に派遣した達率日羅(葦北国造阿利斯登の子)が送ったとものとされる地蔵菩薩が安置されている。 葦北国造は孝霊天皇の孫三井根子命に始まる皇別の氏族である。
 日羅は百済王に重用されたが、敏達天皇は日羅を召喚して任那回復策を上奏させたが百済使に謀殺されている。
 その後、百済日羅の妻子らは河内の百済帰化族居住地の石川百済村の移住したとの記録がある。
 河内百済氏の血を引く良峯氏が地頭になるのは地縁があるからなのです。
 平家没官領となった人吉庄も新補地頭相良氏と良峯氏は、しばらくの間並立したと考えるのが順当です。
 隣国薩隅日守護島津氏も下向して実効支配できたのは島津三代目からです。
[6]子孫よりさんからのコメント(2013年09月07日 16時58分11秒 ) パスワード

ご回答本当にありがとうございました。
不思議に思っていた事がやっと理解できました。言葉に出来ないくらいに感謝しています。ありがとうございます。
実家の隣町に多良木という所がありますが、やはり関係しているのでしょう。
子供の頃、平川家の当主である伯父(祖母の兄)が、私をとてもかわいがってくれていて、いつも「私が大人になっていろいろ分かる時がくるかも知れないし、そうでないかも知れないけど、いつも、ご先祖様が見守って下さるからね。時代は変わった。何があっても驕ってはいけない。慎ましく正直に生きて行きなさい。」と言ってくれてました。厳格な伯父でしたが今はとても感謝しています。平川の曾祖父・曾祖母の命日は私の二人の子供の其々の誕生日です。息子は小さい頃は人前に出るのが苦手でしたが、学校をやめてやりたい事があると家を飛び出し、今は大衆演劇の劇団に入り役者となって、舞踊・お芝居と、とても生き生き頑張っています。この子もご先祖様の血を多分強くひいているのかと感じているこの頃です。
[7]笹井さんからのコメント(2013年09月07日 23時59分38秒 ) パスワード

4尾方さんという親戚はあります。別の親戚の家の近くには平家の景清姫のお墓もあります。

うちの白石と姻戚関係の尾方は 免田で先代は町長をしていました。
尾方姓はうちの集落のほうにもあり、九州にはたくさんありますが、

私の家があった川向には 「平家城跡」があり、尾方姓の家があり、
そこから 平川に おばあさんの時代の頃 嫁入ってきました。

その頃の当主は私の記憶に 家の奥で、私たち子供が遊んでいるのを見たり、木で自動車のかたちをしたものを作ってくれ それで 遊んだりしていました。

大きくなって 平川のおばに そのことを話したら
平川は元士族で じいさんは いつも 裃を着けて 奥に座ってたけど もうそんなことを知っている人はだれもいない と 話してくれました。

[8]白石さんからのコメント(2013年09月08日 00時08分20秒 ) パスワード

4 祖父(私)は京都で陰陽師を行っていた宮司の末裔
思いつくのは 安陪晴明ですが、もしかして 
高田さん とか 田中さんとか でしょうか?

つい 平川の近くにいた家を想像しますが、 うちの方の 高田も 地域の長をしていました。
[9]白石さんからのコメント(2013年09月08日 00時43分31秒 ) パスワード

うちの親戚に 坂本があります。
5で 八代の坂本が芦北だったと 知り、えっと ビックリ 驚き 何だかうれしさ です。

坂本は 足利15代将軍の末苗が 坂本と なっていました。
(足利将軍家の子孫はいますか? - Yahoo!知恵袋 )

うちの場合 どの時代でも あっちにもいれば こっちにもいるので、ごちゃごちゃになっていくのですが、(足利も出れば 南朝もでる。源氏にも出れば平家・平氏にも出るで)

良峯氏は 劉姓と 本で見たことがあります。
漢王室も劉姓。もしくは 王室の母方の姓。大陸からわが国に来る時、途中
百済とからんだのではないか ? と 私は思っているのですが・・・

百済氏=坂上氏=東漢氏=倭漢氏

 
[10]子孫よりさんからのコメント(2013年09月08日 07時23分21秒 ) パスワード

コメントありがとうございます。
先にも申し上げましたが、球磨郡には子供の頃しかいなかったので遠い親戚関係は詳しくわかりませんが、数年前の湯前町長は祖母のいとこです。ほか、旧熊本工業大学で教鞭をとっていた平川先生も祖母のいとこです。球磨郡の中の様々な士族のお家と婚姻によって姻戚関係にあるのは祖母から聞いて知っています。たしか、別の親戚の叔母は尾方家から嫁いでこられていてその尾方さんは免田町長だったと・・このサイトで白石様とお知り合いになれた事に強い縁を感じています。宮司だった私の先祖は良峯氏または相良氏が球磨の地に来られた時に一緒に来られたという事で元は京都ですが、球磨に来られる前は八代方面、多分氷川か宮原滞在を経由して来られたのではと聞いています。
良峯の祖は良岑安世公(父・桓武天皇 母・百済永継)という事は存じていますが、漢王室(劉姓)との関係は知りませんでした。
[11]子孫よりさんからのコメント(2013年09月08日 11時07分32秒 ) パスワード

追加訂正します
父に聞いた所、宮司の血は私の先祖に嫁いで来られた方の血筋で氷川か宮原(八代方面)の神社だったそうです。私の先祖はどうも相良氏と一緒に来られたようです。私の姓は宮原です。祖父は、旧岡原の宮原城の麓で生まれました。祖母の家系はわかってきましたが祖父の家系が今一つ良く分かりません。祖父は陸軍時代、祖母と結婚した際に軍の方から、「奥方とは世が世なれば結婚など出来なかった。」と言われたそうで、負傷が原因で若くて亡くなりましたが、今となれば、その時とてもつらい思いをしたのだろうと思います。だから多分一生懸命に頑張って将校になり、実家には私は良く存じませんが「このえふみまろ」(祖母がいつも言っていたお名前で子供だったので漢字がわかりません)という方に親しくして頂いて今でも、その方から頂いた直筆の掛け軸や手紙などがあります。平川家も宮原家も大切な私のご先祖様です。宮原家について詳しくご存じありませんか?よろしくお願いいたします。
[12]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月08日 14時50分35秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>漢王室(劉姓)との関係は知りませんでした。
 
王曼の次男王莽により前漢政権は簒奪され西暦9年新が誕生するが西暦23年劉秀(光武帝)により敗死、後漢が始まる。
 滅亡後、流浪した新の王氏一族は朝鮮半島楽浪郡経由で馬韓(後の百済)を経て来朝帰化したものと考える。
 有名な王仁は、王莽の末裔と思われる。
 軽島豊明朝(応神天皇)に百済王が博士王仁を貢ぎ、王仁は河内の文首の祖となり、後磐余稚桜朝(仁徳天皇)の時に 斎蔵に内蔵の蔵部を定め、出納を百済博士王仁にさせたとする。
 河内と言えば百済氏と劉姓文氏と関係は深い。
 下記文氏系図を参照のこと。
 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03022.htm
[13]子孫よりさんからのコメント(2013年09月08日 16時00分45秒 ) パスワード

ご回答ありがとうございました。
百済氏と劉姓文氏との関係は深かったのですね。まったく理解していませんでした。日本の苗字七千傑様のお陰で、様々な事がわかってきました。本当にありがとうございます。
俗話かもしれませんが、以前テレビで漢民族線という腕のしわの事を言っていて、私の腕にもその線がくっきりあり、娘にも、父にもありました。仕事場の人の腕をそっと見ましたが無かったので、当時は祖母の家系を良く理解していなかったので、古代中国から渡ってきた民族の血が流れているのかな?という感じでした。ただ、九州在の人は比較的に漢民族線がある人が多いとも。くだらない話で申し訳ありません。
[14]子孫よりさんからのコメント(2013年09月08日 16時42分57秒 ) パスワード

追記
実家の父とはあまり宮原家については話す事がなかった(祖父が早く無くなったので、平川の曾祖父・曾祖母が父と伯父の教育をしてくれたそうです)のですが、このサイトの話を電話でしていて父より宮原家の話を聞く事が出来ました。宮原の先祖は相良氏と共に球磨に来た時は橘という姓だったそうです。旧岡原村の山城、宮原城に居城していたと。そこまでは分かりました。昔、実家のある場所は宮原村だったそうですが、宮原の名前を取っていたようです。
それにしても、亡くなった祖母はその話はまったくしてくれませんでした。祖母の実家の平川家の話もほとんどしてくれていないので、祖母の考えは、昔は昔、今を大事に生きなさいと言う人だったので仕方ないかと思います。ただ、橘氏とはどの様な家系だったのか、大変興味がわいてきました。
[15]白石さんからのコメント(2013年09月08日 20時56分39秒 ) パスワード

13漢民族線という腕のしわ
どのようなしわなのでしょうか?興味があります。

橘氏
日本の苗字7000傑様のほうが ずんと お詳しいと思いますが、
私の父の家紋は 橘紋です。白石も坂本も 尾方も そうです。(今までのお話に出た)
平川は 桐紋ですが、
川向の尾方から嫁入ってきたおばあさん その 尾方の同級生の女子が 尾方は桐紋と言っています。

橘薩摩氏は相良氏と仲がよく どこへでも一緒に行き、球磨へも一緒に来たと 大田亮氏の姓系辞典にありました。

後 どちらも 八男を残して 
橘薩摩氏(渋江)は 長崎へ
相良氏本系は 八代へ

我が家(父の生家)は 相良氏本家がつかっていた「山井」という家と親戚で、
他に 丸目(相良氏) 五藤(橘にこの名が見える)など姻戚関係を持ち、平川もおばあさんの子供世代に父の生家から入り婿し、その関係か 五藤と親戚関係。

橘氏などと 言わなくなった世代ですが、私の家があった 下の家のおじさん(故人)は
あんたの おとっさん の 出は ただんもんじゃ なかったっじゃで
と 言っていて、
他の親戚の叔父は
わしらは 殿さん いうとったったいな と 言っていました。

我が家そのものは 直系などではありませんが、不思議に 昔のつながりが そのまま 歴史になって出てくるので、わかる限りと思って しらべております。
[16]白石さんからのコメント(2013年09月08日 21時09分21秒 ) パスワード


父の生家は 本来は もっと 古いのではないか? と思っております。
橘氏という 頃より もっと・・・歴史の曙の頃にはあったと思っております。

尾方姓は
霧島神宮を勧請して建てた 「市房神宮」の 宮司。前にお手紙をいただきました。
人吉青井阿蘇神社(国宝)は 熊本の阿蘇神社を 尾方氏が800年代 平城天皇の時 勧請したもの。
五木に向かう 川筋には 「阿蘇神社」が あり、五木の阿蘇神社神主も 尾方氏。先生でした。

と、天孫系にゆかりし、山幸から神武天皇二郎子孫 にゆかりする 神社に関与しています。

[17]白石さんからのコメント(2013年09月08日 22時05分18秒 ) パスワード

11「このえふみまろ」
近衛文麿
ほんとは あやまろ だったけど、あやまるに通ずるので、ふみまろにかえられたと本で見ました。

細川護煕氏の母方の祖父は 近衛文麿。

この人の扁額があるお寺に行ったことがあるのだけど、お寺の名を忘れました。
確か 京都の観光案内で 大覚寺などと一緒に 3つほど 回ったなかのひとつなのだけど

案内してくれたお寺の方が
橘紋は 藤原の紋です と いっておられました。

近衛家と前田家と 姻戚関係があり、

伊東博文が 両腕にしようと 近衛をドイツへ
西園寺をフランスへ留学させたら
近衛は カチカチの 保守派に
西園寺は ばりばりの 社会主義になって帰ってきた
とも 本でみました。

近衛は留学へ行く船の中で
清が列強におかされているのを旗で見て、胸を痛められたと・・・


[18]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月08日 22時19分01秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>平川もおばあさんの子供世代に父の生家から入り婿し、その関係か 五藤と親戚関係。
 
五藤氏は藤原姓を称しているが、元々は橘姓。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201.htm#001
 
>古代中国から渡ってきた民族の血が流れているのかな?
 
元々倭族とは中国雲南省の水稲農耕民で、黄河流域で黍などの畑作農耕民である漢族・苗族とは異なる。
現代人は古事記撰録者太安万呂による迷彩工作と魏志倭人伝の邪馬台国のヨタ話ですっかり騙されているが、天孫降臨とは四世紀の倭族の民族大移動である。
興味があれば、下記仮説を参照されることにより少しは疑問が氷解されるだろう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/hypothesis.htm
[19]子孫よりさんからのコメント(2013年09月08日 22時48分00秒 ) パスワード

コメントありがとうございます。
漢民族線とはうでの裏がわ、曲げた時に出来る線ではなく、その曲げた時に出来る線より7〜8p上または下に出来る線で、腕を曲げていない時にもはっきりと線が出ています。漢民族しか出ない線だそうです。あるのが当たり前と思っていたのでテレビで見たときはえっ!無い人がいるの?とビックリしました。
私も、この頃、球磨の地にはなにかとてつもない秘密が隠されているのではと感じています。伊都国・狗奴国といった時代の・・
私は今北九州に住んでいて、これまで、自分自身の先祖について、周りの人に話す事は絶対になかったのですが、こちらのサイトを知り、白石様・日本の苗字七千傑様にいろいろ伺う事が出来て本当に感謝致しています。
変な質問と思われるかも知れませんが、白石様の御親戚の尾方様は不思議な感をお持ちではありませんか?私は子供の頃から先に起こる事が何故かわかります。福岡西方沖地震の時は、地震の3カ月くらい前に椅子に犬を抱いて座っていたところ、頭の中に「大きく揺れる大きな地震がおこる」と声ともつかない響きのようなものが聞こえて、愛犬は、毛を逆立てて、ブルブル震えていました。家族や周りの人に言っても、福岡は硬い地盤の上にあるから絶対に大きな地震はないと笑われて、聞いてくれませんでした。それから、地震の1カ月くらい前からは頭痛がとてもひどくなり、静電気がひどくて、触る電化製品がすぐに壊れて、周りから気持ち悪がられていました。私、どうなっているのだろうと思っていたら「もうすぐくる」と又例の声(響き)が聞こえて、それを周りに言ったら、仕事が忙しくて疲れているのだろうと聞いてくれませんでした。メンタルの病院に行ったらなども言われて・・その2日後に地震発生。それからは、仕事場で「余震は今日ある?」と聞かれるようになって、1ヶ月後の最大余震は前と似たような感じになり、大きい余震があると思うと言ったので皆、気をつけていたようで「覚悟していたからあわてずにすんだ」と言った人もいました。地震後半年くらいは地震以外にもいろいろわかるようになってしまい、あまりにも怖くなって、自分で封印しようと心がけていきました。今は出来るだけ落ち着いて自分と向き合うように心がけ、穏やかに過ごす事が出来るようになりました。北九州は宇佐・耶馬渓・国東・豊前などの土地や山口(青海島など)に近く、頻繁に出かけては気持ちを落ち着かせています。なぜかこれらの土地は私にとても合うのです。長々と変な話を申し訳ありませんでした。皆様でしたらお話出来そうな気持になったので・・すいません。
[20]白石さんからのコメント(2013年09月09日 20時08分41秒 ) パスワード

今日はさわやかな一日でした。おかげさまでこの年でも働かせてくださるところがあり、身体のためにと働いています。そのせいか 不整脈・心前間動脈瘤?他おそろしい病名をいくつも病院から頂いていたのが、心電図異常なしになりました。
予知能力・予知夢
私の場合は 自分の身の回りのことで わかるようです。
この仕事につく前 声をかけてくれた人の話にのって今の仕事に就きましたが、 
その晩 の 夢で、知っている道を歩いていると、誰か猫の目のような人が 私を じっと見ながら 仕事をしています。なぜか 私は 自分の後ろから来る人を 見てみると 現在 の 職場で先輩づらをして 私を困らせている人が まるで 石川五右衛門のような顔をして歩いてくるのです。ぞっとして 目がさめましたが、

やはり 
その人は 今 時間一杯働かず 早くから仕事を切り上げて 帰る支度をし、早く帰っても時間をきちんと申告しないで いわゆる 給料ちょろまかしを しています。

又 息子が生まれた時、父方の祖母と早くになくなった弟が夢に出て、
「おめでとうがいいたくて」と 言ったのです。

私が 最初に仕事に合格する前にも 金色の仏様が 夢に現れました。

そういうことで 何かしようとしていることをやめる ではなく、心構えとしていれば いやなこと 困難なことにぶつかっても 乗り越えて来れました。

子孫様のように 大きなことは わかりませんが・・・
[21]子孫よりさんからのコメント(2013年09月09日 22時53分10秒 ) パスワード

本当に今日はこちらもとても気持ち良い天気でした。
昼休みに、仕事場の近くの公園に行ったら、沢山の鳩を2歳くらいのかわいい女の子が「おいでおいで」と追いかけていて、一緒にいた同僚と、こういう光景は心が休まるねと、やさしい気持ちになる事ができました。
白石様がおっしゃったように、心構えを持っていれば、困難はのり越えられる!すごく大事な事ですね。ありがとうございます。
所で、先月、山口県長門の青海島に行った時に、海上アルプスと呼ばれる海岸線の絶景を見ました。初めて見た光景なのにとても懐かしく、やっとこの景色を見る事ができたという感情があふれて何故か涙が出てきて、一緒に行った友人が、そんなに感動したの?!とびっくりしていました。観光ガイドのリーフレットがあったので、頂いて呼んだところ、皇居に青海島の風景をモデルにした東山魁夷作の壁画があると記載されていたので、さっそくネットで見ると皇居宮殿波の間の大壁画の写真とともに、建築資材に熊本県の市房杉が使用されていると!その他皇居宮殿では様々な場所で市房杉が使用されている事がわかりました。最初は壁画を見るためにネットのページを見たのに、まさかそこに市房杉という言葉が出てくるとは思いませんでした。球磨の地の市房杉は皇居の建築資材となるような銘木なのだとあらためて感動しました。
またまた、このサイトの主旨とは異なる内容で申し訳ありませんでした。
[22]白石さんからのコメント(2013年09月10日 02時30分26秒 ) パスワード

漢民族線
自分の腕を見てみましたが、あるような ないような(^^)
おばあさんになって 太っていた名残のしわがあって・・・

市房の杉は 初めて知りました。
原木は結構育った大きなものだったのだろうと 思っています。

父の生家のおじが その山の上の家で 
「ここからは 市房がみゆっと」
と 教えてくれました。

市房は 戦時 出兵する人が 神社の床下の砂を 袋につめて お守りにしてもって行ったそうです。
又 結婚する2人が お参りに行っていたそうで、私の姉夫婦も 行ったと言っていました。

きょうだいでも 私の頃は 大阪に来ていて もう そのことは しませんでしたが、上のきょうだいのころまでは 市房は 特別な心の よりどころ だったようです。

故郷では この頃 木が安かもんで・・・ と 山のことがなおざりになって、私の家でも 皆 土地を離れて 頼りの男きょうだいが脳梗塞や心筋梗塞でたおれて、 手入れもおろそかになってしまいましたが、

地域の同級生となんとかしなければと 言っています。

ひのきも 父が植えてくれていたけど、手入れをしなければ ただの雑木になるのだと 同級生が言っていました。

それ以上に 山崩れの心配があります。

昔の人は すぐすぐ 木を売って というようなことをせず、誰のためでもなく黙々と手入れをして 命を終えていたのだろうと 思います。

記紀の記述云々の 説なども あるようですが、
スサノオが半島から木種を持ち帰り、子供たちと全国に植えて歩いた とか 言うような記述は
今かかれたものでなく 古くにある記述なので やはり 本当なのだろうと思います。



 

[23]白石さんからのコメント(2013年09月10日 03時20分43秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑様
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/hypothesis.htm
開いてみましたが、一度には頭に入りずらく(年をとると) ゆっくり読ませていただきます。

辰などの言葉や馬韓は 過去に 他のところ(地域)へむけて 書いた時 出てきましたので、わかりやすいです。まだ はじめのほうしか 読めていません



    

[24]子孫よりさんからのコメント(2013年09月10日 09時26分55秒 ) パスワード

本日は後日の土曜日出勤の代休で休みが取れました。
日本の苗字七千傑様が読まれたら、また、このような事をとお笑いになるかも知れませんが、今日は、私が住んできた其々の土地についてお話します。
生まれは宮崎県の新富町新田(父が航空自衛官だった為)、その後球磨の祖母に預けられて育ち、また、父の赴任先久留米に転居。そこは高良内町と言い高良大社のすぐ近くでした。結婚して北九州に住んだのですが、久留米の父の元に帰っていた長女の出産の時に心臓の具合が悪くなり、急きょ転院。水天宮の近くの大学病院で出産しました。出産の時に何故か白い服を着た人達が産室の中にあふれる位にいて、後で看護師さんに何故、沢山の人がいたのか聞いた所、「そんなに沢山人はいなかった」と言われ、夢でも見たのかと言われました。その後、長男の出産まではもっと不思議な事がありました。
まだ、月のものが遅れているわけでもない時期に、当時住んでいた黒崎(八幡西区)の岡田神社の前を買い物帰りに歩いていたら、「子供が宿っている」と声が聞こえて、周りを見渡しても普通に町のけん騒だけで、疲れているんだと心に言い聞かせ少し歩いたところ産婦人科(八幡西区八千代町)が目にとまりまたまた「入りなさい」と声が。嘘でしょうと思いながら、やっぱり気になり、笑われると思いながら病院に入り検査をしたところ妊娠が分かりました。病院の先生も「こんなに早い時期に自覚して来られる方は珍しい」とびっくりしていました。(自覚していたわけではないのですが)所がその数日後、珍しく大雪が降り、ゴミを出しに出た所で滑って、腰と肩のあたりを強打。妊娠がわかっていたので病院に行くと、肋骨が折れていて、子供も危ないと急きょ入院。もし、妊娠が分かっていなければ、痛みに強い方なので、数日は家で我慢していたかもしれないと思うとゾッとしました。出産の時は、陣痛が長くなり帝王切開になったのですが、この時も白い服を着た人が沢山いるようで、局所麻酔だったので先生に聞いた所「近くの方が応援に来ている」と言われて、難産だからかな?と思いながら無事出産。後で看護師さんに聞いたら「誰も来ていませんよ!」と。先生に聞いたと伝えたら、手術中、私は何もそのような事は言っていない。陣痛が長かったから幻想でもあったかな?と笑われました。
二人の子供の母にはなりましたが、夫婦関係はうまくいかず離婚。元の嫁ぎ先は亡くなった元夫の祖母さんから「家はもともと菊池一族の家系で山崎家。おじいさんが山崎からここに養子に来られた」と聞いた事があります。離婚した先なのでどうなのか?とは思いながらも調べた事はありません。
そして今は小倉の妙見神社の麓(これも又偶然)に住んでいます。以前、知り合いに笑われる覚悟で話したら、「良く分からないけど、多分、あなたは其々の土地の神様に守って頂けたのではないかな。科学では割り切れない事も多分あると思うよ。」と言ってくれました。
コンピューターの学校の講師を経て、システムエンジニアとなり、何故か今は国の公務に関わる仕事に就いているので、本当は、もっと現実的に科学で証明出来れば良いのになと、いつも考えています。(無理かな)
[25]子孫よりさんからのコメント(2013年09月10日 16時25分08秒 ) パスワード

追記
今、住んでいる所の周囲には黒原・熊本と言った地域があり、故郷・球磨の黒原山を思い出して、買い物をしたり、散歩をしたりと過ごしています。
[26]白石さんからのコメント(2013年09月10日 18時23分22秒 ) パスワード

今日も頑張って仕事してきました。ふうーッ。

24元の嫁ぎ先は亡くなった元夫の祖母さんから「家はもともと菊池一族の家系で山崎家

菊池の侍帳に 高岡・坂本・平川・白石の固まりがあることが国史辞典にあります。他に 尾方・高田牧宰などの言葉もあります。

しらべて書いてあるので、これらの 苗字には何かあるのだろうとは思っています。故郷にいた頃なら出かけていってしらべたとは思うのですが、だんだんパワーが落ちました。

菊池氏は後 相良氏の家老。

山崎という苗字は 私の恩師も山崎です。
そして 姉の母の(腹違いなのです)実家の戸籍にもこの苗字は姻戚としてあります。

菊池は豪族だったとか 藤原道隆の子孫とか いわれているようですが、道隆に関与している「宗子」という人が、池禅尼で、平頼盛の母で、この宗子に関与して「陳子」というひとがいて、皇室にゆかりしている と 記憶していますが。


[27]白石さんからのコメント(2013年09月10日 19時15分08秒 ) パスワード

百済永継の母方の祖先
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-k-mimatsu-kudara.html 三松系図
百済氏は桓武天皇だけでなく 嵯峨天皇・仁明天皇などにも宮人を入れている。

三松系図の左上三角のぽっちりを押せば 
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-k-fuyo-kudara.html 百済扶余系図
下のほうにスライドして19嶋君・武寧王母・嬴高軌女子
※嶋君 
 大阪高槻赤大路の鴨神社。大山積神・いざなぎ・いざなみ・鴨の御祖を祀る。武寧王をしまきみというと神社案内に書いてある。大山積神は古事記・日本書記に娘を天孫皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の后に出した と 書いてある。

※今 山ノ神・鴨を記憶する。皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊と山の神の女子の間の子が山幸。

嬴高軌女子のところをクリック
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-taka-takaoka.html嬴 姓高丘系図
少し右へ寄せて下へスライド百済蓋鹵王妃・眞華姫の子が武寧王

下へ下へスライドすると
和史が出て、桓武天皇ご生母・高野新笠などもいる。

30和朝臣 若狭彦神社が出て、クリック
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-kasa-wakasa01.html その先は天皇家系図

はるか昔のことは それこそ 百家争鳴。
私はてがかりに これらの系図も利用しています。

若狭彦神社には 「白石大明神」の言葉があり、
白石が磐井を名のった と 大田亮氏辞典にあり、(古いときの辞典で昔の字で書いてあった)、九州の磐井は 「君姓」で、
武列天皇にいたり子がなく、丹波から王を迎えた。その 前あたりの天皇の時
磐井の反乱が起きた。磐井は新羅に通じていたという。

市房神宮は若狭彦神社と同じ祭神がおります。山幸(神武天皇祖父)・豊玉姫。

以上はたかおか・白石の言葉にかかわる話でした。
福岡の博物館の館長は 白石さん と 大分前にお聞きしました。

福岡の漢委奴国王?の金印が出た 志賀島の神社の神主の苗字は 坂本。

「佐田文書」というのがあり、その中に 「橘薩摩氏」は 肥後の守護職だったと書いてあるそうです。







[28]白石さんからのコメント(2013年09月10日 19時53分27秒 ) パスワード

少しながかったですが、百済には 秦人の血も入っています。

漢王室
初代劉邦の母は 温。父は 太皇と書かれる。
投稿番号:101241 投稿日:2011年06月27日 22時23分11秒  
 お名前:いちご
白石 平賀 竹内
44に簡単に 
劉邦の父 蓋太上皇父。・・・蓋馬韓の言葉がある。百済はこの属国

43女王卑弥呼・・・晋書 四夷伝

ごく簡単に 漢王室始祖劉邦出自・卑弥呼(公孫氏)が書いてある。
又 にほんの苗字7000傑様は
神武天皇は慕容氏。としている。




[29]白石さんからのコメント(2013年09月10日 21時02分20秒 ) パスワード

宮原
私の同級生に宮原から学生時代に黒田に変わった人がいました。多分 親の離婚で母方の姓に変わった?

黒田を日本の苗字7000傑で見たら 橘氏でした。

[30]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月10日 21時06分38秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>少しながかったですが、百済には 秦人の血も入っています。
 
馬韓・辰韓・弁韓は連合王国だから、秦人(辰韓)の血は入っているのは当然でしょう。
秦始皇帝の孫の胡苑より竺達君まで代々辰韓王で、西暦356年辰韓滅亡、新羅建国。
竺達君が神武天皇(西暦361年の辛酉年即位)の時代と考えるのが妥当。
弓月君の代から日本帰化。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03001.htm
[31]子孫よりさんからのコメント(2013年09月10日 22時38分03秒 ) パスワード

皆様、ご教示ありがとうございます。
百済氏に関して、まったく無知識であったので非常に勉強になりました。
今日、昼に書き込んだように、小倉の私のマンションの近くに全国妙見総本宮の足立妙見宮があり、和気清麻呂公に由来する場所である事は理解していましたが、もう少し調べてみようと思い立ちネットで公式ページを見ました。
そこに、「853年、藤原良房(804〜872)が、虚空蔵、釈迦、薬師、阿弥陀の仏像四体を妙見宮へ寄進した。その他、大日不休息の仏像二体が、現在隣接する薬師堂にある。」と記載されており、藤原良房公とはどの様な人物なのか調べてみると藤原北家 藤原冬嗣公二男との事。すなわち、百済永継の孫に当たる方。こんなまじかにまさか!と驚きました。妙見宮には正月の初詣以外に、垂れ桜が有名でこの春は2回も見に行きましたし、今の自分にはとても近い身近な神社なので、何も考えずに横を普通に散歩したりお参りしたりして来たのです。早速、妙見宮に歩いて行き、参拝を行い、何年も住んでいるのに初めて薬師堂にお参りしました。
ただ祖母方平川家(良峯家・百済家)だけではなく、宮原家の先祖は八代の宮原妙見神社と密接な関わりがあったようで、妙見信仰をキーワードに祖父方と祖母方がつながりました。とても不思議でなりません。故郷の黒原山と小倉の黒原。これも何か繋がるのかなとも考えました。妙見信仰は、北斗七星と北極星を神と仰ぐ星辰信仰というくらいしか分かりませんが、あさぎり町岡原の宮原実家の親戚には黒原山近くに星原家もあり、やはり星がキーワードです。私の体に流れる様々な先祖の血が、いろいろな事を私に伝えようとしているのかと・感じています。
[32]白石さんからのコメント(2013年09月11日 03時18分48秒 ) パスワード

実家の隣町・多良木 数年前の湯前町長・旧熊本工業大学で教鞭をとっていた平川先生は祖母のいとこ     
別の親戚の叔母は尾方家(免田町長)
私の祖母は球磨郡あさぎり町の平川家   |
                    |−父・母ー子孫様(北九州在住)
宮原の先祖は相良氏と共に球磨に来た時は橘|       女性
という姓だったそうです。        |      ||
旧岡原村の山城、宮原城に居城していた  |    元夫・山崎(菊池一族)                    |     
祖父・京都で陰陽師を行っていた宮司の子孫|
(宮司の血は私の先祖に嫁いで来られた方の血筋で氷川か宮原(八代方面)の神社)

子孫様のことを 系図ふうに してみました。

多良木には橘薩摩氏がいて、相良氏を支配していた。

19尾方様は不思議な感をお持ちではありませんか?
自分のことを話してしまいましたね。尾方家そのものとはつきあいはありませんでした。私の長兄の嫁で、兄とは13歳年が違い 圧倒されていたという感じです。かわりに 兄嫁の容姿をいいますと、色白・漫画で可愛い・美しいという女性を描くときのように 適度にあごがとがり 顔の長さも適度。目は少し垂れ目?きになるほどではなく美人で愛嬌がある顔です。お世辞・欲目でなくそうです。

妙見様
氷川の妙見様も細川候の手厚い保護があったとのこと
八代神社の妙見祭りには「亀蛇」がいます。この 紋について
妙見宮に参拝した三斎(忠興)は、細川家の家紋(「九曜」と「二引両」)が、妙見宮の神紋と同じであることを「不思議の因縁」と感じ入り、祭礼の復興に力を入れました。

http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/ar/article_view.phtml?id=36525
亀蛇の愛嬌のある顔が好きです。



[33]子孫よりさんからのコメント(2013年09月11日 21時20分29秒 ) パスワード

今日は、夏に戻ったかのような暑い日でした。
白石様、日本の苗字七千傑様、夏バテにはご注意下さい。白石様のご先祖様は磐井氏に繋がっていらっしゃるのですね。驚きました。たしか、久留米の高良内町の磐井氏の古墳があったと思います。ご縁ですね。
八代妙見宮のページ拝見しました。勇壮なお祭りなのですね。私の実家には神棚・仏壇の他に、仏像があり子供の頃から、其々にお参りして学校に行くのが普通(あたりまえ)だったのですが、大人になって、嫁ぎ先の実家などでは仏像の間がなく、何でかな??都会だから?と不思議に思ったりしていたのですが、やっと妙見信仰であった事がわかりました。本当に何も知らずに40歳後半になり年だけとってきた事がとてもお恥ずかしいです。宮原家の先祖は、宮原町の宮原三宮のある場所に居城していて、橘から宮原と名前が変わったようです。その後、薩摩藩との戦いに敗れて、球磨の岡原村(あさぎり町)の黒原山の山城に居城(宮原城)したそうです。そして・・宮原の直系として父が家を継いでおり、跡取りは私なのです。こちらのサイトを拝見して皆様に色々ご教示を受け父にも詳しく話を聞く事が出来て、家を継ぐという事を真剣に考えるようになりました。この年まで地元を離れ好き勝手に生きてきて、その事を深く考える事があまりなかったのです。子供二人は元夫が長男だったので、名前は旧姓のままにしています。このままだと、宮原は私で終わってしまうと考えたら、先祖に申し訳がたたないと思うようになりました。
日本の苗字七千傑様は膨大な家系をお調べになって、その御苦労は図り知れません。そして、白石様をはじめ其々の家の方々はその家系を永久に継ぐ事を大事にされて今に至っている。大変な事ですよね。「名前が終わっても血は繋がっていくからいいんじゃないの」などと考えていた私はとんでもない事をしようとしていました。皆様のおかげで目が覚めました。ありがとうございます。
[34]白石さんからのコメント(2013年09月12日 05時57分46秒 ) パスワード

33久留米の高良内町の磐井氏の古墳
白石は又若い頃見た小さな辞典に、漢王室霊帝の外戚を通っているようにかいてあったのですが、他にそれらしいことを書いてあるものを見ておりません。

実母王氏。最澄(三津首)のご先祖は、献帝で、やはり実母王氏。
又周王室の外戚にも王氏はいるようです。

12王莽のこと
この人のご先祖が 秦の頃 中国で最高の文化水準を誇った「斉」に関与しているようだ。

斉の人がわが国に来ていることは 伊勢神宮荒木田家の人があかしている。
現在この人の家は神宮を出ているそうで、現在の斎宮は 池田氏(昭和天皇の皇女)。

姓系辞典では
肥後の白石は士族で清和源氏。菊池に仕え菊池が相良に負けた後、相良に仕えた。

白石は 坂上刈田丸に関与し、藤原氏。

など いろいろ あるようですが、
うちは 祖父が本家長男であったのに、早くに両親をなくし、叔父夫婦に育てられ、後 家を出て、別に一家を構えた。農高に勤めていました。教授ではなかったようですが・・・

本家があったほうのお寺には 明治の頃 村の役場が置かれた。人吉永国寺の流れで、この寺は相良家中。

まわりの話はお互いに結びつきあうようなのですが、いかんせん あちらもこちらも 私にすれば 交流がないところなので、それ以上は すすみませんでした。

市房神宮のご祭神と 若狭彦神社のご祭神が同じで、白石大明神があることから、磐井が君姓であることも 受け入れることが出来、

山門の方の神社 幣立神宮の神楽などに関与する 白石地域
なども 受け入れることが出来ました。
幣立神宮http://www.ajkj.jp/ajkj/kumamoto/soyo/kanko/heitatejingu/heitatejingu.html
太古から八大龍王が鎮まる所とされ、北辰妙見【ほくしんみょうけん】(天御中主大神と同一)の大神が祀られている聖地である。

このサイトの別のコメントに 高良玉垂大社の宮司のお家という方が書いておられ こちらも 天御中主命に関与しておられたような・・・
ごめんなさい。少し 詳しく このあたりのコメントを読み返し て みます。

宇佐のほうの方だったような・・・
磐井は 宇佐のほうまで来て なくなったようですが、その 勢力範囲図を見たことがありますが、(市販の本で)九州上部を ほぼ おおっていました。


 





[35]白石さんからのコメント(2013年09月12日 18時51分52秒 ) パスワード

33私の実家には神棚・仏壇の他に、仏像があり子供の頃から、其々にお参りして学校に行くのが普通(あたりまえ)だったのですが、大人になって、嫁ぎ先の実家などでは仏像の間がなく、何でかな??都会だから?と不思議に思ったりしていたのですが、やっと妙見信仰であった事がわかりました。

神棚とお仏壇は私の故郷にもあり、床の間に「天照皇大神」(多分この字)の掛け軸がかかっていました。
そのほかに 私が不思議に思っていたのが
故郷の家は建て直しをする前は 7部屋くらいありました。戦後父が山に登るために買ったのですが、もともとは 「黒肥地」という家のものだったそうです。この名の集落は郡部にあります。相良氏が上球磨に下向する時 この 集落にあずけられたそうです。

その部屋の一つ 仏間につかっていたところに 半畳くらいの板の床があり、真ん中が高く 仏様をおけば お寺のようだ と 子供心に 思っていました。
たんすなどを置けば 高すぎて役に立たず、納戸は別にありましたので・・・
勿論 敗戦で 財産なんか 何もなくなり うちには小さな 仏様しかありませんでしたが・・・

辞典で 和歌山の方の高岡の家に「影向の間」というのがあり、天野宗主の家に似たり とあり、お寺の内仏の間というのに似たり とありました。
天野   このたび 陛下の心臓の手術をされたお医者様が天野氏だったと思います。

なんだか 似ていると思いました。

自分の仏様はあります。小さな 5センチほどのお大師様です。
この仏様を祀るのは 昔からのやり方ではなく、私の命を助けてくださった仏様というので、母の実家の裏のお堂に祀ってあったのを、どうかなってはいけない と 父が故郷にもって行ったそうです。かなりの間 夜は まだまだ 電気を黒い布で覆っていたころでしたから・・・戦争が終わったといっても まだまだ信じられなかったのでしょう。

仏教辞典に 鎌倉時代に 宇都宮信房という 真言宗の僧がいた とありました。
もしかしたら 母方は昔は 真言宗だったかもしれないと思いますが、先祖の位牌を整理したのを見ると うちは真宗です。

[36]白石さんからのコメント(2013年09月12日 19時10分29秒 ) パスワード

[逆賊磐井は国父磐井だ]という本を 若い頃読んだことがあります。

薬師如来の足の裏に 阿弥陀のしるしがある
だったか? 

とに角http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1213888382 を見ると
熊野の場合、スサノオ、イザナギ、イザナミはそれぞれ阿弥陀如来、薬師如来、千手観音と同一視(?)されました。
とあり、白石がとおった道筋が やはり 天孫系である ということを 受け入れることが出来ました。

スサノオは アマテラスの 夫とも 受け取れることが 記紀に書いてありますね。
[37]白石さんからのコメント(2013年09月12日 19時43分31秒 ) パスワード

良峯安世の父方の系 天智天皇ー施基皇子ー光仁天皇ー桓武天皇ー良峯安世

続日本紀の「道君首名」の系譜
道氏一族について

熊本・「高橋東神社天社宮 由緒書きに★道君首名は★大彦命★の後胤と書かれている。」
大彦命 10代嵩神(すじん)天皇時代の武人。
嵩神天皇の命により、北陸の乱を鎮める。

大彦命を祖とする氏族は★道氏,★阿部臣,膳(かしわで)臣,★阿閇(あへ)臣,★狭狭城山君,筑紫国造,★伊賀臣 「新撰姓氏録」

天智天皇と道君一族の越道君伊勢羅都売(こしのみちのきみいらつめ)の間に生まれた「志貴皇子」が光仁天皇の父であり、『続日本紀』編纂期の天皇と血縁にあったことも影響していると考えられる。


施基皇子(志貴皇子)と紀朝臣橡姫(側室)との間に出来た第六子が白壁王(709-781)。
白壁王は49代天皇で漢風諡号は光仁天皇
↑日本の苗字7000傑紀氏 
紀音人―国益―諸人―橡姫
               ||―――光仁天皇(白壁王)ー桓武天皇
     天智天皇―施貴皇子
[38]子孫よりさんからのコメント(2013年09月12日 22時04分14秒 ) パスワード

白石様ご教示ありがとうございます。
白石様も、ご先祖の通ってこられた道筋・系譜を理解されていたのですね。
2000年来の時を経て、このような形でお知り合いになれたのは不思議な何かのご縁ですね。
所で、私の右足の裏、中央より指にむかって2センチほどのところには、直径5mmほどの比較的大きなほくろがあります。子供の頃からこのほくろが嫌で、大人になってからは足の裏のほくろはガンだとか要らぬ噂話を聞いて、とても怖く感じていました。でも、未だにそのような症状はないので、ただのほくろだったようです。薬師如来様のあしの裏にしるし?があるとのお話を伺って、今日からは、ありがたいほくろと思い、体に出来たお守りと信じて大事に?(笑)します。
[39]白石さんからのコメント(2013年09月13日 01時20分38秒 ) パスワード

あります。あります。私のは 大きくはないのですが、子供の頃は足に比較してはっきりわかっていました。娘の一人にもあります。

私は 玉の輿にのる印だ などと いわれて、すっかり信じ込んでいましたが、
いまだに 働いています(笑)。でも 身体を動かしているのはすきで、それにお金がついてくるのもすきで、おかげで 周りの人に比べて 何だか 心に張りがあるような気が・・・
お金じゃないよ と 言われそうですが、女は男次第でもあり、自分のお金を持つと大丈夫 生きていけると 頑なな心でなく 思います。

娘が看護師になって がんになるんだって などというので、
ならないよ。手術なんか したら だめよ と 言いましたが、どうなったのだか・・・娘自体が 40代に突入していますから。前のように 一から十まで相談はしてこないので・・・

それにつけても 年金制度 の ことを考えます。正社員を離れた女の年金のなんと心もとないことか  と。

子孫様 現在 国の仕事につき、多分正社員でおられるはず。出来るだけ頑張って ください。老後 ありがたい と 思うと思います。

確か 給料の金額で 年金額も変わるのですね。

年金制度がくずれる という ことなども 言われているようですが、国がダメな前に 民間がくずれるので、

又 やはり 仕事をしていると いきいきと 暮らせると思います。



[40]白石さんからのコメント(2013年09月13日 01時29分24秒 ) パスワード

35の半畳くらいの板の床は
それが 3つあり 真ん中のところの板の床が 一段高く 
です。なので、結構 大きかったのです。

その部屋は 10畳以上はありました。他の部屋も一部屋一部屋が広かったのですが、田舎のたたみは 一枚の大きさが広かったのですね。
納戸に物をしまっていたので、部屋にはほとんど物がなく 一部屋は もっと 広く大きく感じていました。
[41]白石さんからのコメント(2013年09月13日 02時30分03秒 ) パスワード

http://www.kumamoto-shinsei.jp/shrine-map/modules/gnavi/index.php?lid=171
(多良木)黒肥地神宮
神武天皇をまつっています。

おもしろいですね。神宮 神社は 規模などでいうと わかれるようですが、あちらでは あれも これも 地域では神宮と言っています。

小さくても 格が高いと 神宮なのか? と 思います。相良氏の崇敬が厚かったようです。

14旧岡原村の宮原城
岡原には高岡に関与して親戚があります。上村とすぐ近くです。免田・深田もほんの近くで、上村の墓に行くのに 深田経由のバスで行った時は 深田農協あたりでおりて、歩いていっておりました。

白石の祖父母の家があった 免田からも 歩いて行っていました。

ちなみに 宮原女子の 顔立ちをいいますと
ほほ骨は余り目立たず 全体に すんなり という ものでした。
卵型ではなく もう少し 面長。
ここで、 他のスレッドで  
投稿番号:101213 投稿日:2011年02月07日 19時41分28秒
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101213.html  
 お名前:姫野修一
祖父母と探した大分県大在の墓
があり、姫野姓から 姫島出身の姫野女子の顔立ちとそっくりだったと思い出しました。当時 未婚の女性だから 姫野の家の人だと思っています。

橘姓の宮原と平家総大将をつとめた という 姫野。その 苗字と同じ姫野女子の顔立ちが 瓜二つのように 同じというのも 不思議のことでありそうで、当たり前とも思えることです。

[42]白石さんからのコメント(2013年09月13日 20時54分16秒 ) パスワード

3平川の地蔵堂
人吉新聞| 特集 現在は表示されません。
https://hitoyoshi-press.com/feature/index.php?kiji_key=1333‎
この地蔵堂は、かつての「常福寺」跡で「薬師如来」を本尊とする「真言宗」の寺院だった。人吉市の「願成寺」の隠居寺として草創され、天文13年(1554)に「二世智心和尚」は一族の暴徒に病床を襲われて殺され、財宝もことごとく奪われた。その霊を鎮めるために地蔵菩薩 ・・・

人吉願成寺(相良氏歴代を祀る)
天福元年( 1233)、相良氏初代・長頼の創建。 開山は遠江国「常福寺」(静岡県)からともなった弘秀上 人(こうしゅうしょうにん)。

願成寺は真言宗大覚寺派とのことです。
http://blogs.yahoo.co.jp/kensuzu214/archive/2010/04/03
http://reijo.orochi.org/1/kyushu88/009-50.php
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
常福寺という言葉では
長野県旧長谷村常福寺にある宗良親王尊像・・・という表題が出ます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
https://hitoyoshi-press.com/feature/index.php?kiji_key=1333‎で出る「芳野旅館」さんがご実家だったという方のコメントも頂いていましたが、現在目を悪くされているそうで、途切れています。

おじい様が天草出身・おばあ様が蓑田さんとか須恵氏。ごめんなさい。こちらも読み直してみます。蓑田さんは 私の故郷の子供たちの歴史探訪の案内をしてくれた人の苗字がそうで、八代市の市史の編纂をされた方も蓑田さんです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
40
半畳くらいの板の床×3つ
横の二つはたたみより一メートルくらい高く
真ん中はそれよりさらに70センチくらい高かった。
人様にわかるように書くのは難しいですね。



[43]白石さんからのコメント(2013年09月13日 23時52分25秒 ) パスワード

弘秀上人・智心和尚の本名・本姓はなんでしょうね?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宮原は橘
橘神道に関して
「梅宮大社」があり、
本殿祭神・酒解神(大山祗神)−酒解子神(木花咲夜姫命)
相殿祭神・橘清友公ー橘嘉智子(檀林皇后)嵯峨天皇ー仁明天皇

嵯峨天皇は桓武天皇の皇子ですね。
皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の皇后が木花咲夜姫命で 2人の間の子が山幸。

梅宮大社由緒
http://www.umenomiya.or.jp/engi.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
梅宮大社の鎮座の地は
鎮座の地は山城国「相楽郡」井出庄

つまり 今の「綴喜郡」井出町付近
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


[44]子孫よりさんからのコメント(2013年09月14日 00時20分19秒 ) パスワード

宮原家というか父は、よく昔からハーフ(トルコや中東系)に間違われるような顔立ちです。
ちなみに、今、役者をしている息子は一時髪を金髪に近い色に染めていて(普段はカツラをかぶって舞台に出ているので)東京で食事をしようとカフェに行ったら、イングリッシュメニューを出されたと笑っていました。
娘は目はハーフっぽいのですが、全体的には何故か韓流ドラマや中国(香港映画)に出てくる女優みたいな顔立ちとよく言われます(日本の女優で無い所がまたまた不思議です・笑)。平川の家を縁にした親戚は皆ハーフ(先ほど述べた中東やトルコなど)みたいな顔ですね。全員の特徴はとにかく鼻が高い。身長も高いです。ちなみに、父の弟の子供たち(いとこ)は全員185センチ以上。長男は190センチ以上あります。祖母も大正4年生まれだというのにたしか、160センチくらいはありました。かく言う私は完全に離婚した母の鼻を継いでおり、まん丸の鼻です。ただ、目と口は父とそっくりといわれます。身長も母譲りで、小さいです。家を継ぐ身で完全に今までの系統を変えてしまいました。(笑)役者の息子の役者名をメールで白石様に送りますので、ネットで宮原家・平川家の合作の顔をご覧ください。ありがたい事に劇団のファンの方が沢山写真をアップして頂けているので。息子の顔は私の父の若い頃に似ています。舞踊の稽古を一生懸命がんばって、やっと今、沢山のファンの方に応援して頂けるようになりました。飄々と生きてきた私よりはよっぽど努力したと思います。今だから言えますが、学校に行かなくなって、部屋に閉じこもったりした時はどうすればいいのか・・と。息子も、先々の色々な事がわかってしまう力のような物を引き継いでいるようで、子供の頃から彼なりに悩んでいたのは知っていました。そして、急にやりたい事があると家を出て。約2年間、どこにいるのか分からない状態で・。娘には劇団に入ったと伝えてきたそうですが、劇団名がわからず。必死でネットを利用して探している時、偶然見かけたサイトを手掛かりに何かに導かれるように、ページを開いていったら、息子の写真を発見。まさかと思い舞台を見に行ったらそこで舞踊を踊っていました。送り出しの時、いっちょまえにファンと握手をしていたのでまぎれて行ったら、「えーっ!!何で分かった!!??」と。彼は親の力と平川・宮原の先祖の力を見くびっていたようです。その時はもっと、芸を積んで、ある程度認められるようになるまでは連絡しないでおこうと自分で誓っていたようです。その後は静かに見守っています。
親戚一同から、芸事がうまかった先祖様がいたのかね〜??と言われていましたが、ウィキペディアで良峯安世公は、「歌舞・音曲など多くの伎芸も身に付けていたとされ、天長2年(825年)の嵯峨上皇の40歳を祝う宴では、中納言という高官ながら冷然院正殿の南階から降りて舞を踊ったという」との文を読みなるほどいらっしゃったと・・・親戚も納得していました。笑
顔の話に戻ります。以前、豊前の神楽を拝見したのですが、髪は金髪や赤い色で、顔はまるでハーフ。その時は「あれっ?どこかで見たような顔」と思ったのですが、私の感は時折、不思議な縁を導きだすので、ちょっと気になります。  本日も脱線してしまい申し訳ありませんでした。
[45]白石さんからのコメント(2013年09月14日 14時42分49秒 ) パスワード

こんにちわ
昨晩から横浜の娘が帰ってきており、外出したのでパソコンいじりをしています。娘がいるとやはり華やかになりますね。

メールの受信をみたのですが、スマホから一件きているのは表示されましたが、私のアドレスでは受信できない。受信に時間がかかってエラーとなりました。

先日からディスクの残量が少なくなりましたと画面にうるさく出てきていたので、なんらかのマシーントラブルか?と思います。

イケメンでしょうね?背が高いとのことで、近頃の人の顔立ちをイメージしています。

我が家に振り返ると 宮原(橘)から 私にも 橘の血が入っているか?と思います。
私は 学生の頃 地域の健康優良児に選ばれました。つまり、背が高いほう(そのころにすれば)160センチあります。

子供たちは 息子183センチ 姉娘165センチ 妹163センチと 高いほうではないか?と思います。

大学病院で主任看護師をしている姉娘は 化粧品がいらない と 喜ぶような 肌質です。
韓流 そうですね。私も 好きで良く見ます。チャングムの役をした女優さんの顔を見たとき、エーッと思いました。娘の写真を取り出し 見比べると やはり女優さんのようなわけにいかない 華やかさが足りないな とは 思いますが、
イメージ 雰囲気 少し顔立ちが 似ていると 思います。

あごは 娘のほうが もう少し 細く、眉毛は モナリザのように 目に近いです。
他のスレッドに書きましたが、以前 トルコに旅行した時 子供たちが寄ってきて 「日本人か?」と聞くので、イエスというと オリジナルか?と重ねて聞くので イエス というと 「きれい!!」と 言ってくれたと 喜んでいました。

息子にこの話をすると 女優さんたちは整形をしているんだ と ばっさりでしたが・・・

私自身の経験では 娘の頃 そりゃあ おしゃれをしますから
梅田で電車の中で 外国の人が スペイン人か ? と 聞いてきました。

今この年で 鏡を見て スペインの人ねえ と 自分の顔をつくづく見ましたが、私も はなぺちゃ どちらかというと 顔は 四角に近いのです。
縄文系の顔だと 納得していましたが・・・

性格が陽気で なぜか 目立つのよと 言われていて、昔 会社の社報に 「よく載せてもらってるなあ」と 言われていたので、もう少しやせたら 顔も変わるかも!!と 頑張っているところです。






[46]白石さんからのコメント(2013年09月14日 15時15分17秒 ) パスワード

平安京が置かれる前の都・長岡に近い善峯寺
眺望抜群のすがすがしい気持ちになれるところです。

遍照(俗姓・良峯氏)

投稿番号:101291 投稿日:2012年08月27日 02時39分47秒
 お名前:高岡
教えてください より
人物
頼盛流・平川景家についてご存知のかたはいらっしゃいませんか?
京都・良峯寺について考えてみると
頼盛系の平川から出ていた周りの話に「平資盛」がいるが、
@京都・良峯寺に「平資盛」が都を落ちる前権礼門院右京大夫に逢いにやってくる。右京大夫は病気の母の看病のため宮仕えを退き、母の死後は西山(善峯寺)の兄のもとに身を寄せます。

遍照(俗姓・良峯氏)
A良峯寺と花山天皇
天台宗 元慶寺の始まりは、

清和天皇の第一皇子、貞明親王(陽成天皇)の誕生の翌年、
貞観十一年(869)僧正「遍照」の発願により親王の母藤原高子(多治比氏・十市が関与する。十市 と 中原同族 つまり 佐田に関与する)が創建した花山寺を、元慶元年(877)に陽成天皇によって定額寺に列せられて年号寺、元慶寺と改めました。


僧正「遍照」の俗名は「良峯宗貞」、
父は桓武天皇の皇子大納言安世(良峯氏)であり、仁明天皇とは従兄弟になり寵愛を受けていた。

この寺は、寛和二年(986)に女御祇子(ぎし)の死に悲しむ花山天皇を、
藤原兼家らが出家を促して退位させた所でもあります。後 兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた。別称 「花山寺」と呼ばれる。

良峯寺
寺は、長元2年(1029年)、源算(俗姓・★大中臣氏)が創建。「『往生要集』」
長元7年(1034年)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。

さらに八年後には、東山の★「鷲尾寺」の本尊であった千手観音像(安居院仁弘法師作)を当寺に移 して本尊とするようにとの後朱雀天皇の綸旨があり、千手堂を建てて像を安置しています。鷲尾には又 中原の言葉がある。

鎌倉時代初期には慈円(九条兼実兄弟)が住したことがあり、後鳥羽上皇直筆の寺額を賜り寺号を善峯寺と改めた。本尊は千手千眼観世音菩薩。善峰観音宗(天台宗系単立)。

善峰寺の北隣にある三鈷寺は、「百人一首」と大変関係が深いのです。
藤原定家に 百人一首の元になったとされる 小倉山荘色紙和歌を依頼した人物が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)で、彼が当寺の堂宇
(観念三昧院華台廟)を建立して自らの供養石塔も残しているのです。

三鈷寺の由来 
往生院三鈷寺は元天台宗、真言宗、律宗、浄土宗兼学の勅願所であったが、現在は比叡山延暦寺末寺。
本尊・仏眼明妃坐像画幅、宇都宮蓮生事物とされる抱止阿弥陀如来。
 
善峰寺と同様、源算上人が長元年間(1028〜1037)当地に小庵を建立し、阿弥陀像一躯を本尊として北尾往生院と称したのが始まりとされる。一説に承保元年(1074)頃とも謂われる。
 
その後、観性法橋、慈鎮和尚(大僧正慈円)と継がれ、建保元年(1213)法然上人門下、証空善慧国師(西山上人)が引き継いで不断如法念仏道場として、背後の山の姿が仏器の三鈷に似ている事から、
三鈷寺と改称されたという。

良峯朝臣・平河・荒田・毛野氏は崇神天皇の長子である豊城入彦命の子孫を称する。豊城入彦の孫の彦狭嶋王が東山道15国の都督となったこと、その孫の荒田別、巫別が百済に派遣されたこと、上毛野田道が蝦夷を征討したことなどが『日本書紀』に見えるが伝説と見られている。


[47]子孫よりさんからのコメント(2013年09月14日 15時58分04秒 ) パスワード

ご教示ありがとうございます。
白石様のお陰で、本当に勉強になります。
もうお解かりとは思いますが、私は、歴史に関しまして全くうとく、感で探っていく方でしたので、こちらのサイトで、いろいろご教示頂いて、内容がちゃんと読める(理解出来る)ようになって参りました。
先祖もやっと理解し始めたか(笑)と喜んでくれていると思います。
(父はその点、歴史書を読むのが好きで、今年の誕生日に「何か美味しいものを食べて」とほんの少しのお小遣いを送ったところ「欲しかった本を買ったよ。ありがとう」との言葉。食べ物より本の人です。)
所で、白石様もまたご家族も背が高いとの事でビックリしました。
お顔立ちも、察するにハーフのような彫りの深い綺麗なかたと推測しました。
白石様の先祖様と私の先祖は必ず接点があると信じていましたが、現在に至っての容姿まで似ているとは驚きです。
両家とも、日本の創世記に繋がっているのが解ったわけですから、もしかしたら、百済・漢という以外にもっと先の国・・。以前、イスラエルの失われた10氏族話を聞いた事があるのですが、まさか・まさかと・・また要らぬ感が働き始めたかもしれません。(笑)
お詫び・ 昨日はメールに子供たちの写真を添付したので重たかったのだと思います。すいませんでした。今日、あらためて文書のみを送りますのでご確認をよろしくお願いいたします。
[48]白石さんからのコメント(2013年09月14日 23時04分46秒 ) パスワード

見ました(^O^)/

イスラエル ー。ー ピノキオやカラスのようではないような・・・

http://profile.ameba.jp/jke/ むしろ こっちの まるこちゃんの顔を ほんのちょびっと 面長にすると 似てくるような気がするのですけど・・・

市川海老蔵さんとか を 肉を もう少し そぎおとしてやるとか 。
でも すごい イケメンですね。

さっきまで コメントを長く書いていたら 何かの拍子に 飛んでいってしまいました。



[49]子孫よりさんからのコメント(2013年09月15日 00時30分29秒 ) パスワード

すごいイケメンなんかじゃありません。<m(__)m>
ただ、市川海老蔵さんのコメントはありかも。今まで息子では言われた事はないのですが、私の弟(筋ジストロフィーという病気で子供のから入院しています。)は、顔は海老蔵さんにそっくり!です。(自他とも認めています)
なので、やはり息子の顔は、伯父さんにも似たという事ですね
ところで、アメーバーピグの千田様はどなたなのでしょうか?
白石様のお知り合いですか?

[50]白石さんからのコメント(2013年09月15日 08時35分15秒 ) パスワード

全く存じ上げません。ネットにお顔を公開していらっしゃるので、かいてみました。

http://ameblo.jp/jke/day-20110720.html
日本国最古三輪明神神宮寺 三輪山平等寺 次男
本物の春日です。だそうです。
うまれは 北上だそうです。
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いろいろな本などを見ると 三輪には大国主・事代主・大物主がおられ、少名彦命がかくされている ということになっているようですが、

私思いますに 少ない事例ですが、他のことから どうも 事代主に 関与している家から 藤原に代わっていくように思います。
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三輪ということばから ネットの表題を拾うと
04.十一面観音|聖林寺について|聖林寺

大御輪寺は奈良時代の中頃、大神々社の最も古い神宮寺として設けられ、「十一面観音」 はその本尊として祀られてきたという。明治になると神仏分離・廃仏毀釈の嵐が 吹き荒れるが、既に幕末はその前触れがあったのであろう。十一面観音はじめの三体の 仏像は ・・・
www.shorinji-temple.jp/about/about04.html

十一面観音

概要-歴史的由来-日本での信仰-像容

大神神社の元神宮寺の三輪山平等寺伝来)京都・観音寺像(国宝)、奈良・「薬師寺(※本尊薬師如来)像( 重文)」などがある。東大寺二月堂の本尊も十一面観音であるが、古来厳重な秘仏である ため、その像容は明らかでない。同寺の年中行事である「お水取り」は、十一面観音に ・・・

観音は 熊野の本地説で いざなみ だった。
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白洲正子は 11面観音巡礼 の 本の中で
藤原鎌足のきょうだいは「太洛稽氏」で、アマテラスを名乗った。
稽 主勲  その子 是純を 稽 文会といい、天照大神 春日と称したという。
・・・・・・・・11面観音巡礼 白洲正子 新潮社 ¥2400−p35
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※千田氏はネットの中で 本物の春日ですと いっている。
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アマテラス 高御魂巣日神の天は 一度 スサノオに破られている。と 記紀によれば 読み取れる。

又 神魂尊の 系とおもえる いざなみ は いざなぎと戦い うから はなれむ という ことに なっている。

神魂尊が 「き姓」であることは 知られているという。

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橘氏の母方の系は 神魂尊に行き着くので、書いてみましたが・・・
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他のスレッドにも書きましたが、
http://ameblo.jp/jke/page-29.html
神武天皇と藤原鎌足公の菩提所としての妙楽寺

藤原鎌足公の陵墓は、多武峰の頂、御破裂山です。三木押忍辺家に匿われていた中大兄皇子を天智天皇として押し上げた我が国唯一の大織冠内大臣藤原鎌足公。

現在日本国では天智系歴代天皇の位牌を弘法大師空海上人開基月輪大師開山の京都泉涌寺で御祀りしています。
天武系統を外してある(天武系天皇持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳。九人の位牌が無い。天智天皇からいきなり九代光仁天皇となっている。

南都と京都北部

天智天皇以前の天皇の位牌は無い)とのことで、南都に対して別けて考えている模様です。古事記日本書紀よりサヌノミコト神武天皇を初代と定義してきた日本国南都において、春日興福寺と談山妙楽寺で神武天皇の位牌を巡って中世に争っていました。神武天皇の位牌は、笠村竹林寺より談山妙楽寺へ遷されました。興福寺はこの腹いせに笠山の仏塔を焼いていきました。神武天皇の位牌は談山妙楽寺で幕末まで護持されてきましたが明治初年の廃仏毀釈によって妙楽寺は絶えました。

その後、明治天皇により明治23年西暦1890年4月2日に官幣大社として橿原神宮が創建され、神武天皇が御祀りされています。橿原神宮と言えば、戦前はここに祈りを捧げて帝国の兵隊が出征していたことからも判るように、明治政府そのものの中心的神社でした。敗戦後には伊勢神宮へと権威が移りました。現代、寺院として神武天皇を祀る南都の寺が絶えてしまったことには深く悲しみを覚えます。今拙僧は戸籍上の鎌足公の長子藤原定慧上人(孝徳天皇子息)に始まるこの妙楽寺の歴代住職の位牌を御祀りしています。

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藤原氏遠祖・津速魂命と神魂尊はきょうだい と される。
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伊勢神宮の五部神道書 では、伊勢神宮外宮豊受大神の本体が天之御中主神であるということで、「渡会氏」が 外宮の優位性を言っているという事ですが、 .... 外宮は渡会氏。遠祖を「神魂尊」としている 。「神魂尊」の遠祖は天御中主尊とされている。
 







[51]白石さんからのコメント(2013年09月15日 09時17分41秒 ) パスワード

他の方から教えていただきました。
http://www.youtube.com/watch?v=4PybWxLb2kI こだいのこと

武内宿禰からは 林や 田中が 出てくる。ので 興味を持っているのですが、
もうひとつは (鞍作)止利仏師・・・司馬達等の孫で、鞍部(くらつくり)多須奈の子
http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/hidanotakumi.htm
飛騨の匠 では 止利は鼻はカラス天狗のようにまがってとんがり、赤毛でぎょろ目、まるで鳥のような子どもだった という。しのぶ と言う母がそうだったのか? 

武内宿禰の子孫に 鞍部がないので、つながりがわからないけど 林臣=鞍作=蘇我氏 で なんらかの つながりがあるのだろうと思うし、
坂上氏祖・阿智使主がつれてきた 7姓の漢人に鞍作はいる。

蘇我氏はローマ人だった http://www.youtube.com/watch?v=ZxjnP35n9zM というものも 興味がありました。

天狗の正体は古代イスラエル人だったhttp://www.youtube.com/watch?v=cmTS9dy3rV4  
とか
日本のルーツはイスラエル http://www.youtube.com/watch?v=V8gyWIbttdc とか平清盛は平家ではなかったhttp://www.youtube.com/watch?v=hzjZrKemXso
も おもしろかったです。

[52]白石さんからのコメント(2013年09月15日 09時28分47秒 ) パスワード

韓流で「広開大土王」を見ていますが、後燕の皇帝の度アップの場面では 思わず後ずさりして、座りなおしてしまいます。

俳優さんの顔でしょうが・・・

そういう顔立ちの人もいる ということで、そこまで 迫力ある顔の人はうちにはいない。

いや 夫が 何となく そういうイメージ。破壊力のある顔・・・
そう思って ちらちらと 眺めても ただの 好々爺にしか 見えないけど・・・

義母ににているのですが、目は大きく 二重。
そして、どうしてか 子供たちの 顔立ちのよいところは 
近所の人は ご主人に似ている というのです。

私の 不思議です。
[53]子孫よりさんからのコメント(2013年09月15日 21時20分23秒 ) パスワード

ご教示ありがとうございました。
ムービーはまだ拝見していませんが後ほどゆっくり見させて頂きます。

ところで、今日、やはり、私と白石様は何かのご縁が必ずあり、今でもその結びつきを何かが(マタマタって言わないで下さいね)強く理解させようといしているのではという出来事がありました。

今日は、天気も良かったので朝からドライブに出かけました。なぜか私は福岡県の豊前地方や大分県院内などで採れた野菜を食べると感とパワーが出るような気がして、暇があれば同地区の様々な道の駅に朝採れ野菜を買いに行くのですが・
今日は、野菜を買った後に時間があったので急に求菩提山まで行ってみようかと思い立ちました。以前、道に迷って偶然通った道で神楽祭が行われていて、例のハーフのような面をつけた舞を見た場所です。
国道から求菩提山行きの道に入りしばらくたった時、木々に覆われた何かすごいパワーを放った場所を発見。神社だったので寄ってみた所、「嘯吹(うそ・ぶき)八幡神社」という神社でした。神社の名前の「嘯吹」について嘯吹は口をすぼめていぶきすることにより、罪やけがれを吐き出し、心身を清浄に保つという意味があり、この伝承が社名の由来となっている…との事でした。
創建は852年という古い神社で、現在地に遷座したのは1189(文治5)年といわれ、祭神は応神天皇と、その父の仲哀天皇、母の神功皇后、武内宿禰、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と・・武内宿禰??!!
そして、氏子の方の名前が刻まれた塔があり、中に白石という名前がずらり!
不思議な気持ちでまた、車を走らせると信号で止まりそこが「白石」という地名でした。ええっ!!以前、求菩提山には筑紫の君磐井とその子孫が移り住んだかもしれないという伝説があると聞いた事が・・!!白石様とお知り合いになっていなければあまり考えなかったと思う伝説を思い出して、びっくりしました。
それから求菩提山の登山道近くまで行き、折り返して帰り道、今度は小さな立て看板で「岩洞窟」の文字が。なぜか絶対に行かなければという気持ちになり、運転をしている一緒に行った人の顔をちらっと見ると「行きたいんやろ(笑)」と車を止めてくれました。そこから小さなあぜ道のような所を歩いて行くと例の声ともつかない不思議な響きが強くなって(またまたってこれまた言わないで下さいね)少し止まって深呼吸。「大丈夫?行ける」との声で大丈夫!と歩き始めて、ついに到着。二人とも一斉に「あっ!!わー!!」と思わず声が出ました。そこは、耶馬渓と同じような溶岩石の大きな洞窟でなんと洞窟の天井?に薬師如来様が石を削って描かれていました。とてもはっきりとわかり、雲の上に薬師如来様が乗られていて、表情がとても素敵でした。一緒に行った人も「ここはすごい!」と。二人でパワーに圧倒されていました。
我に返ってふと、自分の横を見ると沢山の石仏様があり、その中でとても心をひかれる一体の石仏様に手を合わせ帰りました。豊前はやはりすごいね!と話ながら帰り途、千手観音の看板を見つけ立ち寄りお参りして来ました。

家に帰り、今日、寄った様々な場所をネットで見ていて、これまたビックリ。
私が手を合わせた石像は「妙見菩薩石像」と。祖父方・祖母方それぞれが妙見信仰に関係していた家系に生まれながら無知すぎる自分が悲しいです。この子はもう!と先祖の声が聞こえてきます。求菩提山について「この霊山は、北辰・妙見信仰を秘めていた」との言葉があり、「知らなかった!!(*_*)」とまたまた落ち込みました。 無知もここまで行くと究極です。(*_*)
ただ、無知ながら、いえ無知だから、何かに導かれて教えを受けているのかなとも思います。 また、長くなってしまいました。すいません。
[54]白石さんからのコメント(2013年09月16日 00時09分44秒 ) パスワード

白石
幕末 福岡の豪商・白石正一郎(前に読んだ本は題名を控えていなかったのでごめんなさい。結構大きな辞書的な本でした。福岡とありましたが、ウィキでこの人の事は紹介されています。長門の人ということです。※平賀源内も白石なのだそうです。)

上とのつながりは 知りませんが、
母の戸籍に 戦時・戦後無断で戸籍を入れた人がいて、母の女きょうだいの一人は親子関係不存続 の 訴えを起こし、勝訴しています。
母は 父の故郷に行き、もう 戦後の困窮をきわめて、私も 3歳の頃 山口に連れて行ってもらったきりでした。
なので、裁判も出来ず 母は 怒り心頭のまま 旅立ちました。裁判は相手方が住んでいるところで行われるのでしょう?

ところで その 人の 親戚関係が 父の田舎の親戚関係・地域に住んでいる家の名と 同じなのです。中には 
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101214_11.html
関東州大連市壹岐町に住んだ人もいます。
投稿番号:101214 投稿日:2011年02月08日 01時59分44秒  
お名前:さくら
邪馬壹国
手書きで書かれた戸籍なので、タイプのように字がない ということなく、この字でよいと思うのですが、「やまたい国」は 最初は 上のように書かれていたのだと 本で読んだことがあります。

そして、壱岐は 福岡と思いがちですが、長崎で、松浦などもあり、神社紹介のうすい冊子には 壱岐から宇佐まで まっすぐの 道がある と 書いてありました。

母方(山口)には 真木 姓の 人も 婿養子に入っています。
[55]白石さんからのコメント(2013年09月16日 00時38分30秒 ) パスワード

求菩提山
ウィキでは 白石のことばは出てこず やはり 足を運んで 得た収穫は大きいものですね。
ありがたいと思います。

神社の近くに行くと 急に あたりの気配が変わり、普通の場所ではないと 強く感じますね。

子孫様は 強い霊感の持ち主だと 思います。
現在すんでいるところの 近くに 菅原道真公の側室が 安産の神様になったという神社がありますが、

先ごろ すぐそばに マンションが建ち なんだか がっかり の 気分です。

駅前再開発の波に乗って 土地の所有者が 売り払ってしまうようですが、昔からの家の名が 書き物だけに なってしまうと、ここらあたりは 戦後の乱開発で住所と現地の食い違い、(今はもう 書類整備され 大丈夫。自分の持ち物になっているのですが、結局 もとの持ち主は 少し離れた場所におり、昔のことはわからなくなっています。)

近くに代官の墓もあったのですが、今は倒されています。子孫がどこかに行ったのでしょうね。

そういう状態の世の中で
白石だらけの 名があるというのが 残っているというのが うれしいですね。

私の故郷の 白石の本家がある ところの 川下に、これまた 白石が多い地域があります。皇室領だったところです。うちとは 別のお寺に入っているそうです。
相良氏は 平家没官領の隙間に入り込んだ形。
[56]子孫よりさんからのコメント(2013年09月16日 07時13分15秒 ) パスワード

偶然、行った場所に白井家のお名前を見つけたので、思わず書き込んだのですが、喜んでいただけてとてもうれしいです。(^○^)
私は、白石様のように歴史を深く勉強されて理解し紐解くといった事は出来ませんが、ただ、お話を聞いて「あっ?これはもしか!!」と何か感とかインスピレーションが湧いてしまうという事は多々あります。
霊感というのがどういうものなのか良くわかりませんが、祖母との思いでの一つにこのような事がありました。
小学校の頃、吐いたり・微熱が続いたりととても体調が悪くなる事があり、祖母が心配して病院に何度も行ったのですが一向によくなりません。いつも一人で寝ていたのですが、怖い夢(内容は覚えていません)ばかり見るので、祖母と一緒に寝るようになりました。すると、朝起きたら、祖母から私がうなされて寝言を言っていたと・・。そして、やさしく「優しい気持ちに何かが頼ってきたね」と言うのです。「外で、何かにお手手を合わせてお祈りしてないね?」と。よく考えると、遠足に行った時、道脇に古いお地蔵さんがあり、お供えがなかったので、道草しながら摘んだ白つめ草の花とキャラメルを添えて子供ながら、手を合わせた事を思い出しました。それを言うと、祖母は「わかった。本当に優しい気持ちでしたんやね。でもね、怖いかもしれんけど良く聞きなさい。どこでも、手を合わせて良いわけじゃないとよ。悲しいけど、そうするとあなたに(私の名を呼んで)頼ってくる物(物?者?)もある。外で何か変だなと思う場所があったら、『私に来たらいかん!!』と強く思いなさい。怖がらんで良いと。絶対にご先祖様が守ってくれるけん。たぶん(私の名)は、大きくなると、その場所が良い場所なのかそうじゃない所か解るようになるけんね。」と言いました。
それから、鹿児島の川内か何処かから、良く家に来られていた(祖母の知り合いの方)お寺かお宮のおばあちゃん(子供なので良く解っていませんでしたがとても由緒ある所とは聞いていました)が来られて何をしてもらったのかそこがまったく記憶にないのですが、(お祈りされたような?何か飲んだような?頭になにか付けられたような?むむっ??思い出せない)それから、とても元気になりました。
その方とは祖母は、亡くなるまでとても親しくしていました。毎年、お札を頂いて(私の家族の名前入り)、祖母が送ってくれるので部屋に張らせて頂いて。(あ〜何て書いてあったか解らない〜)(離婚して家を出た時にお札を置いてきた〜なんと罰当たりな!)よく祖母からは、(私の名)は今年は白星だとか来年は黒星だから気をつけなさいとか言われていたのですが意味がわからず・・  うん?
星?星!!あっ!!ここまで記憶をたどって思い出を書いてきて・・あ〜っ!!星だっ!!
そうだったんだ!キーワードは星!の星。
天国の祖母や、全ての先祖が多分トホホっと。跡取り娘は現代において、先祖代々の「感」だけを引き継いで、知識がまったく無い事に嘆いているかもしれません。 はい。これからちゃんと勉強します。
また、ながながとすいません。白石様、これからもご教示どうかよろしくお願い致します。
[57]白石さんからのコメント(2013年09月16日 21時44分11秒 ) パスワード

56白井家の名前 ですか?
53では 白石とあったのですが・・・
白井と白石は辞典では通じていると書いてあります。

宮崎へ行くほうに 江戸時代 白石門という 百姓ばかりの 門 があったそうです。

もうひとつ 米良門もあり、相良氏の参勤交代の 鹿児島方面大口越えの 代わりの道筋でした。難儀をきわめたそうです。

江戸時代に球磨川の大石を相良氏のおじの林正盛という人が、球磨川の大石を取り除いてから、八代のほうへ抜ける道が開けたが、それまでは 上球磨の相良氏領を抜けていくので、上相良氏と下相良氏との緊張があるときは、大変だったそうです。

米良
菊池が負けた後、菊池は 米良と名を変え(すんだところを私は知らず。その村で大名並みの待遇を受けたそうです。)

又 湯前あたりは 昔 「美美津の縣」と 言っていたそうです。
宮崎あたりから 湯前あたりまで のびていたようですが、神武天皇は 美々津の縣から 船に乗られたそうです。

湯前の美々津かどうかは 知りませんが・・・

道端のお地蔵様や名も知れぬお墓
余り手を合わせてはいけない、ついてくるから とは 私も子供の頃言われました。
7歳くらいまでは 人間とも 神ともつかないものですね。ふわふわと魂が定まらず。
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http://blog.goo.ne.jp/nagomian753/e/812f8d193de2101cd8b992d7431ee8fe
黒星 厄 中国の九星気学からきているそうですね。私もはじめて知りました。高嶋の暦にあるみたい と 思っていましたが。

平時子も 星祭をしたそうです。

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話が全く違うのですが
http://enjoy-history.boso.net/book.php?strID_Book=0016&strID_Page=018&strID_Section=01
補陀洛山千手院那古寺{ふだらくさんせんじゅいんなごじ}観音様。
弘治3年(1557年)に薦野神五 郎多々良平時盛という人物が那古寺の鐘を修復した記録があるが、鎌倉御家人であった多々良氏の子孫と考えられる。

こものじんごろう と 読むみたいです。
多々良氏から 亀蛇からでる 大内氏。
大内氏からは 源氏が でるようだけど、
平姓を 名のっています。
前に調べたときに 時子に至る系に 山口が関与していました。

今 平川 宮原とは 関係が薄いので、別の機会にしらべようと思います。
山口は坂上一族の系に 大蔵 岩門 木原 山口があり、菊池が豊田を名乗り、大内氏が一子相伝で 豊田を名のる という関係があります。

うちの 山口は 白石と 姻戚関係。姉婿は 山口です。
ごめんなさい。いろいろと 苗字を出して、混乱しますね。

うちの白石の家があったところは(祖父が明治の頃買い求めた)「木原」という字名でした。

白石も平賀。山口も平賀。ふたつとも繋がる部分は 漢王室で、
多々良とあるとき 又 分かれて 他他粒氏は 清王室の中に関与している。

大内氏は 百済の 王室の人。百済系図を持つ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー






[58]子孫よりさんからのコメント(2013年09月16日 22時20分03秒 ) パスワード

大変すいません。
”白石家”の名前です。入力変換ミスです。おっちょこちょいで申し訳ありませんでした。
[59]白石さんからのコメント(2013年09月17日 20時31分11秒 ) パスワード

http://www.shokokai.or.jp/43/4351110000/ 五木村商工会
に 宮原の地名が出てきます。私は五木へは余り行ったことがないのですが、宮原は五木内ではないような・・・八代か熊本よりか・・・

同級生だった宮原(黒田)さんは 反対に 五木からもう少し 人吉方面に下った 野原というところの分校から 通っていました。

http://www.geocities.jp/itsuki_mura/kaisetsu.html#%E3%82%84%E8%A1%8C
+ 薬師さま(やくしさま) +
五木村にはお堂が多く、お堂には薬師如来が祀られていることも多い。
***現在鋭意制作中**

だそうです。
人吉から八代に抜ける山岳ルートが 昔 川辺川筋にありました。
相良村 五木は その ルートにあります。

五木の方に 古く人が住み 時代と共に 下におりてきた という 解釈がなされているようです。八坂神社など 五木にある。

ダムと私的五木考vol.9

現在の相良村中心部である川辺川中下流部とは、地理的 にも歴史的にも少し異なった背景があります。野原・藤田地区には、五木村と同じく、各 集落ごとに薬師堂や地蔵堂があります。

※川辺川中下流部・・・四浦と五木はもとはひとつで、阿蘇氏支配の頃わけられた。この地域の人達は 郡部の人と通婚している。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/Template:%E5%AE%AE%E5%8E%9F%E6%B0%8F%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB
単純に宮原氏と打ち込むと上がでました。源家の宮原です。義照は上杉。

「名族大内氏の興亡」だったと思うけど、その本に 上杉の戒名に 高岳 が 入っており、上の足利の前にも 上杉があります。

子孫様の 宮原は 橘で 私の父方と 同じ紋。
父は白石へ夫婦養子。高岡 白石共に 同じ 橘紋。

南北朝期 どこもここも 真っ二つに別れて 戦った。なにやら あやしげに からまるものがあるようです。

福岡のたたらの浜というところは 足利尊氏が 走ってきて、勢いを盛り返し京へ馳せかえった場所で、人吉相良氏と同族の相良氏が 大内氏の家臣としています。

多々良の浜は 又 山口県佐波郡(防府市)にもあり、ここは 母の実家のあるところ。大内氏(多々良氏)はここから上陸した。

ここは 昔、ヤマトタケルが九州へ向けて船出したところ。

そこには 垂仁天皇の皇子が住んでおり、その 飛び地が 摂津にもあり
大阪茨木市の「牟礼神社」が その あと。

ヤマトタケルは 平河(良峯師高)の 墓にある 言葉・荒田に関与している。

ヤマトタケルは 宝塚・中山寺(西国観音霊場本山・中山一位局が明治天皇を無事出産されたことにより明治天皇勅願所)とも 関係している。

http://kobe.travel.coocan.jp/takarazuka/daihisui.htm
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3+%28%E5%AE%9D%E5%A1%9A%E5%B8%82%29_%E7%99%BD%E9%B3%A5%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3+%28%E5%AE%9D%E5%A1%9A%E5%B8%82%29%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81
記紀によれば仲哀天皇は 日本武尊と垂仁天皇の娘両道入姫命 の子。皇后は神功皇后,ー仲哀天皇ー応神天皇
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西国33箇所観音霊場
46中興の祖・花山天皇は良峯氏が関与する元慶寺で落飾した。
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[60]子孫よりさんからのコメント(2013年09月17日 23時43分37秒 ) パスワード

ご教示ありがとうございます。
びっくりした事があります。宮原は足利にも関係していると聞いた記憶があるような。どんな関係かは解らないのですが、白石様のお話を伺ってとても驚きました。多分、何処かで宮原家同士の婚姻関係が結ばれたか何かではないのかなとは思っていますが、戦っていたわけですから、う〜んよく解りません。
その当時から戦前まで、様々な家々と婚姻関係が結ばれているのはたしかだと思います。ちなみに、祖母の母(私の曾祖母)は深水家から嫁いできました。深水家は藤原家だとは祖母から聞いた事があります。私が3歳くらいの時に亡くなったのですが、私に、古くから伝わる高価な着物を解いて手まりを作ってくれたと言うのは聞いています。父から聞いたのですが父が子供の頃、曾祖母・曾祖父は女手一人で子供を育てる事になった祖母を心配して毎日泊まりに来てくれていたそうで、ご飯を食べる時ニコニコして「はい。たもれ」と言っていたそうです。
ところが父は、いつもはとても優しかった曾祖母から一度とても怒られた事があるそうです。子供の頃怖がりだった父が、外のトイレに行く時に曾祖母についてきてもらった所、庭の木の下にあったワラか何かが暗闇で人に見えてしまい「わ〜!!」っと曾祖母に抱きついてしまったそうです。すると曾祖母は「何を怖がっておるか!本来ならば太刀を持って市房の山に入り、七晩(多分そうだったと思います)一人で過ごさねばならぬ年であるのに。それでも我がいえの男子か!!」と怒られたそうです。父はいつもとても優しい曾祖母が言葉使いも変わり、怒った事にびっくりしてそれ以降は、外が怖くても平気な顔をしていたそうです。(強靭な父・・・様々な武道の有段者の子供の頃の話ですが怖がりだったと聞いて、ニンマリした私でした)
でも、平川家・宮原家は男子には超スパルタだった事が伺えます。(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
深水家(藤原?)より嫁いできた平川の曾祖母と宮原家には湯前の新堀家(何流?)から曾祖母が嫁いで来ています。深水の伯父に嫁いで来た叔母は五木の尾方(緒方だったかな?)家でその尾方(緒方)は青井阿蘇神社に関係していて、別の親戚(平川由来の父の従兄)にはあさぎりの尾方家から叔母が嫁いで来られていて・・・・。
解っているだけでも、色々な家々との婚姻関係があるのですから、これが800年・1000年といった単位になるととてつもない状態になるのは確かですよね。
[61]白石さんからのコメント(2013年09月18日 13時58分45秒 ) パスワード

60戦っていたわけですから、う〜んよく解りません。
ここなのですね。うちも そうです。どっちからも 出てきて。でも ころり ころり と あっちにつき こっちにつき は していなかったような。
相良氏が入ってきてからは 何百年も歴史がたっているので、子孫の家との姻戚関係もあるし、というか もとから つながり つながり していたような節も
・・・
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深水家は 私の 地域にもあります。
深水という 集落が川下にあって、白石が 多くあり、うちとは違う寺を持っている。所右衛門という人の名がみえます。

川の上流 野原の手前あたりにも 深水という 集落がありました。
同級生の苗字にも 深水があります。

子供の頃は やれ 源氏だ平家だなどと 言っていなかったので、その 深水家が何だったかは わかりません。本人も 若くして亡くなりました。

深水氏で検索をかけると
深水長智(ふかみ ながとも、天文元年(1532年) − 天正18年8月21日(1590年9月19日))は相良氏の家臣。深水宗方(三河入道)とも。祖は相良氏4代・相良長氏の孫である長陸。父は深水頼金、子は深水摂津介。養子は深水頼蔵。

長智は天正18年(1590年)に病没。法名は「権大僧都法印宗方」。墓は深水長命寺(現:相良三十三観音16番札所 深水観音)にあり、現在は歯の神として信仰されている。

深水長命寺と深水の集落が出てきます。

http://www.hitoyoshi-hikari.com/rensai_kannon/vol16/16.html で深水観音を読んで、

天瑞和尚を知り、天瑞和尚で検索。
http://www.asagiri-town.net/q/list/52.html?pg=2 であさぎり町役場の表題のところ
5をクリックすると
宮原観音堂 深水家文書などの 文字が見えます。
深水・・・もと 吉賀江姓。というので、日本の苗字7000傑でみたけど、ルーツがでませんでした。???です。
2チャンネルでは 長智子孫ではないかも?というけど、そのお家が藤原といっておられるのだから、相良氏子孫なのだと思います。

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深水家文書 2008年10月07日
元、深水家は吉賀江姓。天正9年(1581)島津氏の北上により水俣城は落城。その時、城代犬童美作に従って上村に来住し、以来郷士として続いてきた家柄。中世文書9点を所蔵。その中には、相良家第18代頼房(義陽)から久木野での働きで傷を被ったことの見舞状...





[62]子孫よりさんからのコメント(2013年09月18日 23時53分13秒 ) パスワード

いつも、親切なご教示ありがとうございます。
私も、何かお返しの知識を・・と毎回思うのですが、何も知らずにほんとうにお恥ずかしいです。すいません<m(__)m>
白石様のお陰で、祖母や親戚からの言葉伝いに聞いていた事が、明確な文章となって理解させて頂けて本当に感謝致しております。
白石様は歴史に大変造詣が深い方ですが、どのように勉強されたのでしょうか。やはり、本を沢山お読みなのでしょうね。
前に書き込みましたように、私は、今まで、ほとんど歴史に興味をもつ事がなかったのですが、ここ数年は、故郷の球磨や福岡県・大分県などの古代の歴史にとても興味をもち、邪馬台国ではなく何故か狗奴国の存在に心が引かれていました。狗奴国=球磨国との説も見た事がありますが、自分の先祖といった時代ではなくもっと以前、2000年以上前の時代の”作られていない真実”をもしタイムマシンがあったら絶対に見に行きたいです。
かなり脱線してしまいまして、すいません。
[63]白石さんからのコメント(2013年09月19日 04時13分29秒 ) パスワード

おはようございます。電話のように 音は出ないからと思って書き込んでいます。

年行くと 朝が早くなり、しかし、昔世代のように 3時4時には もう 玄関の掃除をすませ 朝の準備をすることもなくなり、逆にごそごそすると 夫の 不機嫌な声が飛ぶ始末です。

私の知識も 一時期から あまり 積み重ねられることなく、古文書も読めず、先人が調べられたことを 集めているというだけで、
家の繋がり、地域の歴史などから 書かれている本などと 照らし合わせ、しらべると 子孫様との お話のように、 あ やっぱり こことは 二重三重につながりながら 歴史を降りてきている ということが わかる という 位です。

相良氏のように 記録があればと 思いますが、相良家も 一子相伝で、お城を継いだのは 一人で、その他大勢の子孫たちの家は 相良氏族として 辞典にあるほかは 現在も続いている家の人の親戚つながりで、

あそこは あそこから きとんなっとじゃもん ということから 子孫とわかるというようなものです。

若い頃は 本しかなかったから どの本を読めばよいか それすらわからず 雲をつかむようでしたが、現在はネットがあるので楽になりました。

ただ ネットでは 出てこないことも やはり 地域の役場とか 古い家の伝えとか には あると思います。

又 人様が解釈してくださった 家の立場とは違う 
地域では 肌でしかわからない 立場というものを その地域にいなければわからない 
寄り合いなどでは 自然と 上座に座っていたとかいうこと
親戚は 皆 それ相当の 釣り合いを持って いたこと 
とか 
現在のように 子供たちが都会に出て、断絶した記憶なども その土地に行けば本人には わかると思います。
[64]白石さんからのコメント(2013年09月19日 05時07分58秒 ) パスワード

私には 不思議があります。

最初のコメントで
相良氏が冬嗣の子孫と 教えてもらっておられるということ

南家武智麻呂の子孫とされているのに です。
このことについて

少ない事例ですが

高丘家(ここは杏葉紋)が 明治の頃
尾張熱田神宮の社家として 続いている 千秋家という家との姻戚関係にあります。山口という家もあります。
※大田亮氏は
神宮大宮司が南朝総帥としてたち、男山に戦い 後 遥として行方知れず と書き、
神宮社家の人達は 多くが名を変えられ その 実態はわからない と 書いています。

※神宮には 藤原南家から婿養子が入り、その間に 頼朝 が生まれ、ために武内大宮司は神宮を出て 八剣神社を創建した。 

一度のつながりのようですが
千秋家が 頼朝をだした家です。
2相良氏は義家と姻戚関係。

高丘家は 神宮に問い合わせた時 家系があり
係りの人が 北家閑院流 と 読み上げ
下がってきて 
あれっ 南家 ・・・と いわれました。

養子が入ったようです。

辞典には この 南家と 発表されています。

公卿辞典では 
江戸時代 廃れてしまった 閑院家をおこさん と 橋本から養子が入った とあります。

日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 藤原氏公季流【1】

師輔の十男公季にはじまり、閑院家流とも呼ばれる。 京都二条に南西洞院の西方一町 の藤原冬嗣の家を閑院殿と呼ばれ、公季が伝領した由来に拠る。 閑院実季の妹茂子が 後三条天皇の女御となり白河天皇を生み、公実の妹苡子は堀河天皇妃となり鳥羽 ・・・
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29に漢王室劉邦出自につき これまで あつめたことを簡単に 書きましたが、

清盛は 白河天皇と賀茂氏の間の子で、平忠盛の子とされている。

※高丘は 他の四家と 漢王室坂上一族と 国史辞典にあります。
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北家だった家が 南家にこちらも変わっています。
良峯氏にも 何か あるのではないか?と 思うのです。
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2相良氏ははじめ南朝。後 北朝方。
上相良氏は南朝方。人吉相良氏は北朝方。

上球磨の方は 護長親王に味方した勢力がいた。
狭い地域で 同じ苗字で あっちとこっちに別れて戦ってかもしれない。が、
橘氏は後 楠正成がいるように 南朝に出てくる。

勿論 北朝に味方した家もあるかもしれない。
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※本では 中国の人が最も誇りにする 漢王室さえ漢民族ではないと書いてありました。









[65]子孫よりさんからのコメント(2013年09月19日 06時50分44秒 ) パスワード

おはようございます。(^○^)
実は、私も早起きです。4:30に起きます。(いや、どうしても、いやいや仕方なく早起きです)
何故、藤原冬嗣公と繋がるかと言われて私も「相良の先祖が養子にこられた」としか聞いていないので、いつもの感をたよりに探ってみました。
キーとなる人物は相良家の祖となった藤原周頼公です。
この方の父が藤原道隆公その父が藤原兼家公でここからは→でいきます。
藤原兼家→藤原師輔→藤原忠平→藤原基経(ここで最大のポイントこの方は藤原良房公の養子にこられて実の父は・・・・)→藤原長良公です!!この方が藤原冬嗣公の長男!!やったー!!!(^^)!
朝からウィキを使って父と名前の付く方をクリックして行ったらたどりつきました。なぜ、藤原周頼公をキーの人物だと思ったかといいますと
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sagara_k.html
の相良家の説明を読んでいた時に何気に出てきた
「藤原為憲の後裔にあたる周頼が遠江国榛原郡相良庄に住み、相良氏を称するようになったことに始まるという。」という文章の中でクローズアップされている藤原為憲の名前より、”周頼”という名前がとても気になって、藤原周頼で検索して探っていったらったどりつきました。
感だけで探ったので、ええっ!!大丈夫??と思われるかもしれませんが、なぜかこうなりました。
間違っているかも(*_*)でも・・朝から不思議です。
[66]白石さんからのコメント(2013年09月19日 15時33分48秒 ) パスワード

すごい!!(拍手)
私なぞ なぜかしら? なぜかしら?と思いつつ ゆきすぎていました。

道隆は 菊池氏の祖先とも 言われる人ですね。

そして 宗子(池禅尼)も子孫にいる人。宗子の子供が平頼盛で、平清盛の異母弟ですね。

[67]白石さんからのコメント(2013年09月19日 15時48分05秒 ) パスワード

私の故郷と 岡原
父は 私が子供の頃 岡原へ行くのに、北岳神社という神社の下辺りにあった古道をとおって

朝出かけて 夜8時頃 帰ってきていました。

北岳神社の下の昔の道
昔は 今のバス道でなく、この 道を通っていたそうです。かなり 上の道です。

すれば 
父の生家が 山の上にあるけど、昔は その位置が普通だったわけです。

岡原のそばに 上村があって、
家の葬式には 岡原の親戚が 来ていました。私も 用事で家まで行きましたが、歩いていけるところでした。

上村 免田は 隣で、免田駅には 歩いて5分でした。

つまり
岡原あたりと 私の故郷は 昔でも 歩いて 一日で 往復できるところだったわけで、 どちらかが 子孫の関係の家があっても 

昔なら 行ったり来たりしていただろう ことですね。
[68]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月19日 19時00分28秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>公卿辞典では江戸時代 廃れてしまった閑院家をおこさんと橋本から養子が入ったとあります。
 
誤り。
藤原南家の嫡流とも言える巨勢麿流高倉家が天文15年断絶、その後何度か再興されるが、江戸期に閑院流四辻家から養子が入り薮家と改称、以降薮、中園、高丘の三家が明治まで到るが南家なのに血系から属閑院家と呼ばれる。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02023a.htm

>※高丘は他の四家と漢王室坂上一族と国史辞典にあります。
 
誤り。高丘氏は秦の恵文王の裔。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03001f.htm

[69]白石さんからのコメント(2013年09月19日 21時35分46秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑様 こんばんは 今日は見事な十五夜ですね。
68属閑院家
そうですね。高丘は 閑院家の属とは辞典にも書いてあります。

私がみた 公卿辞典には 確か 高丘のところに 64のように書いてあったと記憶しています。もう一度 本を読み返さなければ・・・図書館の本が 他の図書館に移されたようで、なかなか 気軽に出かけられなくなりましたが・・・
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秦の子孫
国史辞典のほうは 坂上一族と書いてありました。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03001f.htm
高陵君参につながるのですね。
ネットに公開されている嬴姓高丘系図ものぞいているのですが、それから 百済ともつながっているのが わかりました。





   







[70]子孫よりさんからのコメント(2013年09月19日 23時57分54秒 ) パスワード

皆様、今晩は。本当に見事な十五夜ですね。
せっかくなので部屋の明かりを消して、月明かりだけで過ごしています。
私が子供の頃、祖母は十五夜には白玉団子を皿に高く盛って縁側に置き(盛り方にも何かあったような??忘れましたが、「私もやりたい」と手伝っていたら、その盛り方はダメと・・祖母がやり直していました。)ススキを活けて、何故かそこに蝋燭が立ててあったような・・。何かしきたりがあったようなのですが、やっぱり忘れています。(*_*)
昔の人は、季節の移り変わりに其々の神様・仏様に感謝の意を表していたのですね。
本題に戻ります。<m(__)m>
相良家は藤原冬嗣公と繋がっているのか??という事で単なる感だけで探っただけで、間違っているかもしれません。
「すごい」なんて事はありません。沢山の文献を読み、時間をかけ、一つ一つ検証して来られた皆様がたの努力と研究があって、今、インターネットを利用して私のように何も解らない者でも、系譜という目に見えるタイムマシーンを利用させて頂き、こちらのサイトでご教示うける事ができているわけですから。 本当にありがとうございます。
ところで、白石様がおっしゃるように球磨の地(実家でも)では「どこどこ家から嫁いで来られた」という言葉をよく聞きますね。
狭い地域の中で、都に繋がる様々な家々があって、百済にも通じ・・日本国内でもこのような場所は、かなり貴重な地域ではないのでしょうか?
それに相良家は700年間も続いてきたわけですよね。保護されてきた、日本国内のまるで別の小国家・または、日本という国をギュギュッと圧縮したような場所・?   う〜ん??何かおかしい?何か変だ? またまたいつもの感が騒ぎだしました。
以前のコメントで日本の苗字七千傑様より”四世紀の倭族の民族大移動”という言葉を頂きましたが、移動する前の拠点となる場所はどこだったのでしょうか?その拠点において、球磨という地は何かの役割があったのでは・・?
あさぎり町の才園古墳では今でも金色に輝く”リュウ金獣帯鏡”が発見されていますよね。海に近いわけでもなく、都会でもなく。というか山また山を通り抜けてやっとたどり着ける場所。そこに何故?その当時の最新の物が・・
だって、2000年以上前においてすでに海外では、高度な文明が発達していたわけですから、日本だけ取り残されている事はないハズですよね。
またまた脱線しました。すいません。これは、多分、私の生まれた日がさせる好奇心だと思います。初期の国家の形成に興味を持ってきた私の誕生日は
2月11日・・そう建国記念日です(^O^)/

[71]白石さんからのコメント(2013年09月20日 07時24分37秒 ) パスワード

70山また山を通り抜けてやっとたどり着ける場所
縄文時代は人吉盆地は淡水湖だったそうです。

明治の頃(?) 五家荘から人吉の線路の枕木にする木を いかだ流しで 流したそうです。

歩くと大変でも 川を利用すると できるんですね。
今は 六通というところに 以前からダムがあり、いかだ流しはムリですが・・・
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つまり
現在 隔絶した場所 と 思っているところ
たとえば 湯前も 美々津の縣 だった ということで 神武天皇が船出したとされる宮崎の美々津と同じくらいの高さなのかもしれない。

なども 昔の 等高線などで みると 案外 小船で あちこち 行け、現在のように 大量の人が わあっと 押し寄せ、上空から 殺戮するような時代ではなく、 知れた人間が 敵対しているような時代は 陸に上がると ちょっと たどり着きにくいところにすんだのではないでしょうか?

そう思いながら またまた ああ 昔の等高線など 調べたことがなかったなあ
と 思う私です。先人がかかれたものを 読み漁ったばかりで・・・
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つながり
子供の頃は 「あそこから きないて ここと あそこは じゃから つながって
ばってん あそこは 同じ苗字で字も同じばってんが ちいっと 筋の違うとですもん」

などと いわゆる 親戚付き合いの心得みたいなものを 親戚の人が話してくれていました。
母など 山口から来ていて、父の方の細かなことは 知らなかったので・・・

今では もう 誰も 知らない と思っていましたが、
同級会で 実に詳しく話してくれた人がいました。

そして 尾方につながっとじゃっもん と その人は 宮田姓なので 
私には ああ それは そうだろう と 納得いく話でした。

うちの 地域のつながりは 私も いろいろ ためして ほぐしてみましたが、高岡から ほぐれていきます。
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[72]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月20日 12時11分24秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>国史辞典のほうは 坂上一族と書いてありました。
 
国史事典の早とちりでしょう。
新撰姓氏録は諸蕃の細別として、漢、百済、高麗、新羅、任那に分類。
この漢は漢土のことであり、漢王朝を指しているわけではありません。
高丘氏は漢帰化族に分類されますから、さすがに秦氏は間違えなかったが、高丘氏は確認不十分で劉姓(後漢)坂上氏族と誤認したのでしょう。
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03.htm
 
>”四世紀の倭族の民族大移動”という言葉を頂きましたが、移動する前の拠点となる場所はどこだったのでしょうか?
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/fq&a.htm
上記URLの「高天原は実在して東遷した」の地図を参照して下さい。
二つの流れがあるものと思われます。
一つは半島の馬韓(高天原)から海上ルートで笠沙岬経由高千穂峰経由日向、後は神武東征ルート。
二つ目は半島の新羅牛頭山−奥津宮−高良大社−高千穂峰が直線上に並んでいる。 (その直線上に球磨があるじゃないですか?)
この陸上ルートに白木(新羅)の地名が圧倒的に多いことがわかる。
高千穂峰で馬韓軍と辰韓軍が合流ということでしょう。
あくまでも仮説なのだが?
[73]白石さんからのコメント(2013年09月20日 19時53分05秒 ) パスワード

質問
本で 清和源氏(佐竹氏族までくっついてた?)の白石が藤原に入ると高倉になる。
と 過去に見たのですが、どの人物がそうなのでしょうか?

もし その関係があるなら うちは 白石 高岡は 姻戚関係が、 少ない事例だけど複数代あり

高丘 高岡は つうじていると 姓系辞典にあり

高丘姓が 秦のとき

藤原の高丘。 高倉からとか 三条西 三条 四辻などから 高丘へ養子に入っていると公卿辞典にありました。この本は じょろじょろ 書き連ねてあって 読み取りがややこしかったですが・・・
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前に調べた 嬴姓 高丘系図と他の情報から
秦始皇帝・・・・・・・・島津氏・皇淳皇后・藤原南家・武智麿の母蘇我氏は秦            人(武智麿子孫は相良氏)(相良氏はまた 冬嗣で良            峯とつながる)
高陵君・・・・・・・・・・女子の子孫・百済武寧王。その子孫・若狭彦神社。            市房神宮と祭神同じ。
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百済は高句麗と同祖。奈良時代渤海の使者の「うすぼつ」が、国書を携えてきた。それには日本とうすぼつの国の王の祖先は本枝(兄弟)だとしており、国書にしてくるくらいだから確信があったのだろう。

高句麗の遺民・高歓が建てたのが渤海。渤海の読みが 深見。深水につうずるか?
この高歓や女真が関与してくるのが 北魏・北斉
北魏の服の着方は 右手の方の打ち合わせが 上。つまり 自分から見て左前。
スサノオなどの 絵なども そう。
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贏姓 高丘系図1で若狭彦神社の言葉も関与する            
和氏乙継の女子・高野新笠は桓武天皇生母。桓武平氏の大本。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

百済王善光クリックすると百済王姓・三松系図が出る。一番右側の百済永継女子が桓武天皇の皇子・良峯安世と藤原北家はじまりの真夏・冬嗣を生む。(腹違いらしい)

球磨郡では百済永継子孫・良峯師高は「平河」。他にも天皇家・藤原家に嫁いだ人は結構いる。冬嗣の孫・明子は「清和天皇」を生む。清和源氏の祖。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つまり 冬嗣をたどりたどれば 高丘にいきつき 清和源氏・桓武平氏も母方・父方(天皇の血を分けている)同じ筋で、根は同じ。

贏姓 高丘系図1
または
【贏姓 高丘氏系図】. 【始祖】高陵君参 【世系】高丘氏は、もと贏姓にして、秦王室第26代 恵文王の苗裔なり。 【歴史】秦第28代昭襄王の弟「参」が、高陵に封ぜられ「高陵君」と 称す。 よつて子孫を「高陵氏」と云ふ。 秦の末期、項梁東阿に起こり西北に定陶に至り・・・

の 文字で 検索をかけてください。
自分で打ち込んだ文字では出ないようです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー






[74]白石さんからのコメント(2013年09月20日 21時17分45秒 ) パスワード

秦の祖先は 「殷」
ーーーーーーーーーーーー
殷の紂王のおじ・箕子。箕子朝鮮の言葉を 父のひざに抱かれていた頃聞きました。
祖先伝承かどうかはわからないけど、いわゆる 三つ子の魂百までもの 類です。

紂王の兄(?)が 微子啓。周武によって 「宋」に 封じられた。
宋に雀あり。・・・これが 雀氏のことか ?





[75]子孫よりさんからのコメント(2013年09月21日 00時04分13秒 ) パスワード

皆様、本日もご教示本当にありがとうございます。
日本の苗字七千傑様、地図を拝見しました。球磨の地は直線上にありました。
高千穂峰を頂点として大陸の線を底辺として二つのルートの線を三角形の辺として見た場合の角の部分に非常に近い。馬韓軍と辰韓軍の多数の人々いや民族が高千穂峰の頂上にて合流したとは到底考えられません。という事は海上ルート・陸上ルートはすでに八代・芦北・球磨のいずれかの地点ですでに合流していたのでは?そして、合流民族の中から、今風に言うとリーダーとなる方が選出され、高千穂峰にて、この地においての王を名乗られた。飛躍しすぎでしょうか?その王は、天文学や地学等に優れていて、未だ未開であった地において、鉱山などの発掘をはじめ(銀山とか金山とか銅とか)・・

あっ!また例の感がウズウズと・・・ ここからは、感です。話半分で聞いて下さい。 初めてこの国で暮らし始めて、最初に経験するビックリ!!は?と考えた場合。日本と言えば地震国ですよね。大陸ではあまり経験する事がない地震を体験して驚いた!!・・そこで地震が発生する仕組みも、今のように正確ではないけれど何かの力を使って理解され・・あっそうか、活断層のある場所を理解すれば良いのか(^・^) そして、大事なのは火山。九州は日本の中でも特に火山が集中していて危険!ただし、火山のある所、貴重な鉱石もあるのでは?!
(この前、阿蘇山に行って来ましたが火口では阿蘇山で採れた鉱石が沢山売られていました。私はトルマリンを買いました。 脱線しました<m(__)m>)
その他は・・洪水?大きな川がある場所は度々洪水が発生して・・
2000年程前に発生した地震を調べたら何か解るかもしれません。??
春分・秋分の日の出日没線や夏至の日の出線まで理解されていた方々なのですからこれらの事はすぐに対応されていたのでは?
ただし、王の力はそれだけではなかった・・・かも?
現代人の殆どが失ってしまった第六感。当時の人には残っている人が多かったのでは?その中でも特に王となった方はそれが強かった。・・・かも?
人間を”生物”と考えたら当たり前の事なのですが。例えば、国の研究機関が認めている地震前の動物(猫や犬ほかカラスなど)の異常行動。草花でもそういった物があると聞きますが、人間だけそれが無いとは絶対におかしいです。
あって当然です。(以前もコメントしましたが私にはチョットだけ残っていたのかな?ここまで書いて冷静に分析する事が出来ました。)人間は文明を築きあげたのですから、他の動物よりももっと強い能力(地震だけではなく、他の何か)があってもおかしくないと思います。例えばテレパシーとか・・他には・人間は磁気をもっているので、自然界の磁気と一体化出来る能力とか。占術にも優れていて・・(だんだん飛躍しすぎてきました)
そういう能力が強い方は”神”となる事が可能かと・・・・
どうも、すいません。私の感は今日、次々と言葉を生みだしてしまいました。
感でモノを言うな!!と皆様に叱られてしまいますね。



[76]白石さんからのコメント(2013年09月21日 00時28分39秒 ) パスワード

こんなサイトがありました。
才園古墳http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51568075.html
この鏡は「中国南朝」の諸国豪族へ下賜した鏡で、日田市ダンワラ古墳の朱龍紋鉄鏡に匹敵する豪族が九州南部にいたことを証明。
南朝は、「百済」とのえにしが非常に深く、人吉から宮崎南部あたりまでの氏族が、百済を通じて、あるいは直接、長江河口の南朝と交流したあかしと考えてさしつかえない。
森浩一はこれを熊襲と南朝の交流と見ている。
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まだ 頭がまとまっていませんが 51に出る鞍作
鞍作鳥 とは - コトバンク - Kotobankhttp://kotobank.jp/word/%E9%9E%8D%E4%BD%9C%E9%B3%A5

法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘には「司馬鞍首止利」と記される。6世紀初めに★中国 南朝の梁から帰化した司馬達等★の孫で,多須奈の子とされるが,その出自は4世紀ごろ 帰化した司馬一族の「鞍作村主」であるとも,百済の「今来才伎」につながるともいわれる 。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
又 中国南朝は蕭氏 北朝は北魏・北斉などの言葉が見え(大百科事典だったか?)  
蘭陵蕭氏・・・この氏のことかどうか は わからないけど

佐田という言葉から 向 蕭 の言葉が 出たことがある。
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佐田 佐多 は 通ずるといい
佐多は 島津。
73秦始皇帝・・・・・・・・島津氏・皇淳皇后・藤原南家・武智麿の母蘇我氏は秦 
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http://www.asagiri-town.net/q/list/52.html?pg=4
坂本家の鰐口
鳴物の祭器。内山八幡宮(鹿児島神宮)に懸けられていたもので、直径16.5cm、厚さ4cmの青銅製。損傷がひどく、き裂がある。「奉懸鰐口之事、南小河大明神御寶前千時天文四季乙未八月吉日願主宇治朝臣惟氏敬白」と陰刻。宇城市の小川阿蘇神社に奉納され、後・・・

金印が出た志賀島の神主・坂本
北岳神社(坂本大明神)・・・近江日枝社の末社
ここの神社にある ひひの話。私の故郷の古老(故人)は 晴山を 鳴き村と呼んでいた と 言っていました。
先に書いた 目を悪くされたおじいさん世代は 天草出身。おばあさんが 須恵とか丸目とか 出自。
この方が 鳴き村は 深田だった と 調べてくださいました。

坂本は 父の義兄弟。姉(腹違い)の 母の実家の姻戚関係にも坂本はあります。
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佐田は 宇都宮宗円のひ孫に出るといい、毛野氏にも関与しているように思える。

「坂本」の名字の由来
出羽国東根城主の坂本氏は清和源氏斯波氏の一族の天童氏の支流。 武蔵国葛飾 郡猿ヶ俣村(坂本朝臣は上野国碓氷郡坂本郷をルーツとし、崇神天皇の皇子の豊城 入彦命(とよきいりひこのみこと)の後裔の上毛野氏の出。
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http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-27.html 毛野氏考(上毛野氏・下毛野氏 附:宇都宮氏)
彦狭島 田辺史 大荒田別などの言葉が見える。 

西文氏 - 辞書すべて - goo辞書

田辺氏(田辺史)は百済系渡来氏族で、西文氏のもと.
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http://aoyamaroman.fc2web.com/sub579.html
天風の彩王 藤原不比等」上・下 黒岩重吾
史(ふひと)11才、山科田辺史大隈(たなべのふひとおおすみ)に養育される
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 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01205.htm
彦佐島の裔は 笠氏 吉備氏
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贏姓 高丘系図1の百済蓋鹵王をクリック
ずっと下に 和氏がおり、若狭彦神社がいる。
若狭彦神社をクリック
吉備や 鴨 や 笠の言葉が見える。
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大荒田別
荒田は 良峯師高の墓に言葉がある。

尾張熱田神宮の子供を産んで、稲100束だったか1束だったか 頂いたとある。初め こんなくらいのご褒美?と思っていたけど、

田にまけば翌年よくよく年と 天文学的に米がとれる様になる。
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ヤマトタケルの系に 吉備氏の血が入る。
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何だか まとまらなくなってきましたが、もう少し 整理してみたい と 思います。





 
[77]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月21日 01時46分36秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>高千穂峰にて、この地においての王を名乗られた。飛躍しすぎでしょうか?
 
瓊瓊杵尊は既に馬韓王で、必要はないからです。
瓊瓊杵尊の高千穂峰降臨が西暦290年頃、民族大移動とされる神武東征開始が 西暦350年頃と推定されますから、60年近くもかかっています。
高千穂峰降臨は、単に日向に橋頭堡を構築しただけなのです。

当時の国内移動は山岳ルートが主流だが、物資輸送ルートは海上。
重たい物資を担いで陸路を行くわけがありません。
神武東征がほとんど海上ルートからも証明されています。
熊国には以前から辰韓系移民が多く、支援が受けられる陸路が適していただけでしょう。
曽国は馬韓系移民が多く薩摩半島を迂回するわけです。
だから馬韓王である瓊瓊杵尊は、笠沙岬で木花開耶姫に求婚したのですよ。
この曽国との政略結婚が無ければ、天孫降臨は失敗に終わったことでしょう。
[78]子孫よりさんからのコメント(2013年09月21日 08時05分34秒 ) パスワード

ご教示ありがとうございます。
感による想像が膨らみ過ぎました。史実を理解した上での想像でなければいけませんね。すいません。

熊国には以前から辰韓系移民が多く・曽国は馬韓系移民が多くという事は・・
紀元前より、発達した文明がここにはあったという事ですね。
子供の頃に学校で習った、縄文人・弥生人の生活・・・縄で編んだ土器を使用したり、木の実を食べたり、やっと稲作が開始されたりと・・・これっておかしくないでしょうか?この教育により、私自身「隣国の中国や朝鮮半島ではすでに高度な文明が発達していたのに、日本ではまだ縄で編んだ土器を作っていた。古代ローマ帝国では・・!!エジプトでは・・!!メソポタミアでは・・!バビロニアでは・・!あ〜きりがない。・・でも日本では(*_*)・・・(>_<)」と思い込んでいました。多分、大半の現代日本人(今の教育は解りませんが)がいまだにそう思っているかもしれません。(私だけかな?(*_*))
本日より、私の”感”に悪影響を及ぼす?「日本だけ取り残されていた・・」という考えは宇宙の彼方に捨て去ります。
とっても、うれしくなってきました。日本にはちゃんと文明が発達していたのですね。ううん??この考えもよくないかも!我が先祖は多分、現代の日本領土の中でどうのというより、もっと広い視野で世界を見る事を望んでいるような気がします。そうすれば、隣国同士の現代における争い事は・・
だって、皆、何千年も昔から繋がっているのですから。
それは、きれいごとで出来ないのかな?(*_*)
人間って悲しいですね。
でも・・天孫降臨にて現代の日本を作り上げて(統一)下さった神様
心から感謝致します。その事実がなかったら日本という国はもしかしたら、現在、存在していなかったかも知れない。
私の中で何かが変わった気がします。今、朝日がとても綺麗です。

と・・ここで終わるつもりだったのですが、マタマタ変な感がウズウズと!!
日本の苗字七千傑様。子供のような質問ですいませんがお答え下さい。
熊国・曽国は通称”熊襲”ですか?もしそうであれば・・
合流した民族はその地に留まった人も多くあると思うのですが、ううん??
なぜ、熊襲征伐といった出来事は行われたのでしょうか?
私の故郷の岡原には天子神社があります。景行天皇に関連する神社という事は知っています。という事は熊襲征伐は真実?!
そして、もう一つのご質問です。
多良木町には久米という地名があります。久米氏が居城していた場所です。
ううん??久米氏!!なぜ久米氏がここに?
ちなみに久米は私の実家があるあさぎり町(解らなくなるので慣れ親しんだ旧名でいきます)岡原村の宮原地域(これまたもっと旧名では宮原村)のすぐ隣です。ネットで見た所、久米城と宮原城はお隣どうし。ご近所さんです。
(<m(__)m>ごめんなさい。脱線しました)
久米氏がなぜここにいらっしゃったのか教えて頂けますか?


[79]子孫よりさんからのコメント(2013年09月21日 16時18分12秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様のご教示の中にあった、「韓王である瓊瓊杵尊は、笠沙岬で木花開耶姫に求婚」というお話の木花開耶姫様が気になって、ウィキの情報を見ました。(今さら、何やってんのか!!って皆様言わないで下さいね。どんどん興味が湧いてきて、今までご教示頂いたお話に、頭がついて行かなかった部分があったのですが、今は、唯一得意とするコンピューター言語を理解しはじめた頃のようにスルスルと頭に入りはじめました。(^○^))
読んでいて、あまりにむごい内容だったので・・ううん〜となっていた時、木花開耶姫の陵墓「女狭穂塚」の場所を見て「あれれっれ〜?」と。西都原古墳!!ここは!
以前、書き込んだと思いますが、私の父が航空自衛官で、新田原基地に所属していた時に私は新富町で生まれて、幼稚園は西都市。妻という地名も記憶しています。そして、幼稚園の遠足でいつも行っていたのが西都原古墳!はにわさんが沢山いる所(^○^)としか覚えていなかったのですが、なんと!すごい場所だったのですね<m(__)m>小学校2年生までいた所なので、何度も行った記憶が。びっくりしました。
そして、ウィキを読みすすめていると、福岡県糸島の細石神社・・うん?何と読むのかな?サザレイシ→さざれいし?どこかで聞いたような・・?!
あっ!!日本国国歌!!君が代です。「さざれ〜い〜し〜の〜」の細石?!
まさか〜?ううん・イヤイヤ偶然でしょう。また、変な感がウズウズし始めたので、この辺に致します。<m(__)m>

[80]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月21日 20時45分07秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>熊国・曽国は通称”熊襲”ですか?もしそうであれば・・
 
熊国の領域は、肥前/肥後で中心地は球磨。
曽国の領域は、薩隅日で中心地は大隅曽於。
両国を総称して熊曽(熊襲)、熊襲征伐の詳細は記紀の景行紀を参照して下さい。
久米氏は天孫降臨随従の天津久米命の裔、球磨にも居るが尾張/阿波に多い。
 
右記URLで疑問氷解。 www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#024
大三島神社や出雲大社の・紋はバビロニア起源。
天孫/天神系も地祇系もバビロニアからの移民。
地祇系は航海術に長けたバビロニア人が海路で列島に来たので国津神というわけ。
倭族だけでなく、フランスの学者ラクペリーが漢王朝もバビロニア起源説を唱える。
地祇系の宗像水軍、伊予(大三島)水軍が呼応しなければ、神武東征も瀬戸内航行で難渋したことでしょう。
平家も伊予水軍が源氏に付いたので、壇ノ浦で滅亡した。
[81]子孫よりさんからのコメント(2013年09月21日 22時26分55秒 ) パスワード

私の子供のような質問に、丁寧なご教示を頂きまして、本当にありがとうございます。
熊国の中心はやはり球磨だったのですね。
久米氏は、”合流した民族はその地に留まった人も多くあると思うのですが”という疑問の答えだったという事ですね。
景行紀は未だ参照させて頂いておりません。後で、ゆっくり見させて頂きます<m(__)m>
ところで・・バビロニア起源のお話は本当にびっくりしました。
なぜならば、丁度1年ほど前、古代シュメール語の書かれたペトログラフの存在を知り、それが、北九州や下関にあると聞いて、ぜひ見たい!と思い、出かけていたのです!
最初に行ったのが下関の彦島八幡宮。丁度お祭りの日で、うろ覚えですが、宇佐神宮より神様をお迎えになるとかだったと思います。私もその2週間前に宇佐神宮に行ったばかりで「何かの縁だな〜」と思った事を記憶しています。
本題のペトログラフは、「これがペトログラフです!!」といった案内も何もなく、普通に神社境内にありました。(近くにいた人に聞いて解ったくらいです。その人から「お祭りに来たのではなく石を見に来たの?おたく、面白いね〜」と言われました。(*_*) 大きな石が何個もあって何かよく解らないけど記号のような絵のようなものが刻まれていました。内容は、古いものは紀元前2000年くらいの物があると周りにいた人に聞いてびっくりしました。(+_+)ちなみにその石はなぜか??宇佐の渓谷の石という事が科学的分析で解っているとの事で、えっ??どういう事だろう!!と。宇宙人か?と一緒に行ってくれた人と??となりながら帰りました。
それから、ペトログラフが気になって仕方なくなり、その翌週は門司の淡島神社に行きました。ここにも、同じくペトログラフがあって、やはりかなり古い紀元前の物だと聞きました。ここでも????  それから1年後・・・
気になって仕方なかった、古代バビロニア・シュメールに関わる話が、このような形で、謎が解けるなんて。本当にありがとうございます。
本日、古代日本に対しての私の誤った知識は宇宙の彼方に飛んでいったので、この一年間の疑問がすんなり解けました。
余談ですが、先日、白石様と顔立ちの話題をさせて頂いたのですが、この疑問も解けるような予感がしています。
[82]白石さんからのコメント(2013年09月22日 01時49分00秒 ) パスワード

こんばんわ
盛り上がっていますね^O^/

日本の苗字7000傑様のお答えは 整理されていて すっきり 頭に入りますね。

私はカタカナ系のことは 少し 苦手なので、
話題から少し はずれるかも 知れませんが
父の家があった同じ山の 字はちがうけど

市房神宮のお鏡を預かっている家があります。
以前 宮司の尾方氏が 球磨あたりの 姓を書いてくださいましたが、その姓は余り多くありませんでした。

又 郡誌では 神宮には 相良長福も 在住したとのことで、その集落には 長福に関与する名の家もあり、これまた あちらにもいれば こちらにもいる 形で はっきりしていません。

父の生家とも 姻戚関係があります。おもしろいことに 川向の 福島という家ともその家は姻戚関係になります。私世代の人たちなのですが、福島という家があったということ。木下も川向にあり、父の義兄弟です。丸目は相良氏族でこれも父の生家の姻戚関係にあります。
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久米
お大師様の熊野。球磨の寺があったあたりが 久米邑といったところだそうです。

お大師様は幼名・佐伯真魚 佐伯氏は大伴氏と同族といい
平家の本拠地のあった 屋島に隣り合った? 讃岐国多度郡屏風浦というところでうまれたそうです。(説はいろいろあるようですが・・・)
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私の故郷の 一番上の お鏡を持つ集落の下に 小野と言う集落があり
宮田 松本 村山などの家があります。これらの苗字は 伊勢神宮の社家にあると 前に ブログで見ました。

そこに 観音堂がある。
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小野と言う地名は
京都隋心院がある ところあたりを 小野といい 小野小町がいたという。

隋心殷に空海の 先が書いてあり 大田亮氏辞典には 景行天皇の名も書いてあった。

又 小野と言う言葉には 小野好古がおり 
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武家家伝_渋江氏

渋江氏の伝えによれば、藤原純友を討ったのは橘好古となっている。しかし、当時の 記録などから藤原純友追討のために派遣されたのは小野好古であり、橘好古では なかった。
と 橘とあやしげに からまる 話があります。
渋江は橘薩摩氏 東北にいたことを表すために 文書を 渋江文書とした。
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空海は15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅で ある阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。

ウィキより
伊予国の橘氏や越智氏の祖とされる藤原為世(浮穴四郎)は伊予親王の子であり、嵯峨天皇が勅して皇子に準じられ、藤原の姓を受けた、という説がある。
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[83]白石さんからのコメント(2013年09月22日 02時31分25秒 ) パスワード

57http://enjoy-history.boso.net/book.php?strID_Book=0016&strID_Page=018&strID_Section=01
真言宗のお寺 鎌倉時代に 補陀洛信仰が起こり、 海に漕ぎ出す風習があったそうだけど、
お蚕様 を 祀った ともいう。ネットで検索したけど、出ませんでした。
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補陀洛山はインドにある と いう。玄奘が書いているということだけど・・・
蚕・・・高御魂巣日神の女子は栲幡千千姫命で、皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の命(天孫・高御魂巣日神のまごであることから皇孫ともいうと本で見ました。)のお母様。

織物に関する名がついている。

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[84]白石さんからのコメント(2013年09月22日 02時35分13秒 ) パスワード

82お大師様の熊野。球磨の寺があったあたりが 久米邑といったところだそうです。

球磨の寺 まちがい
高野山
[85]子孫よりさんからのコメント(2013年09月22日 06時26分41秒 ) パスワード

おはようございます。
ご教示ありがとうございます。
おっしゃる通り、球磨の地には都に通じる方々があちらにもあり、こちらにもありと、やはり、すごい土地柄ですよね(^○^)
日本の苗字七千傑様より”久米氏は天孫降臨随従の天津久米命の裔”との言葉を頂いたのですが、という事は、全国の久米氏の中の日本国内でのルーツとなるのは球磨の久米氏という事になるのですかね?そういう事であれば むむっ!<m(__)m>
ところで!!白石様のお話に出てきた伊予国の越智氏はもしかしたら日本の苗字七千傑様より昨日お話のあった伊予(大三島)水軍の越智氏ですか??
今、鳥肌がっ立つくらい!めちゃくちゃ驚いています!!。
実は・・・
元夫は菊池一族の家系とはお話しましたが、元夫の母方の亡くなった祖母は大三島の越智家から嫁いでこられていました\(◎o◎)/!。家を継ぐ立場だったので、元夫のお母さんは本来、生まれてすぐに大三島の越智に養子に入る予定だったのが、元夫の義祖父がかわいくて出せなかったと聞いています。(元夫の○○というのが面倒くさいです。(*_*))
結婚後、父にその話をした所、複雑な表情をして「越智の人か〜」と。多分、壇ノ浦の戦いの後、かなりの平家の方々が、頼って逃げて来られていた(以前もお話しましたが、親戚の家には平景清公の姫が来られていたので)からムムッ(-.-)という感じだったのだと・・
でも義祖母に私はとても可愛がって頂けました。長男を出産する時も病院にずっと付き添って下さいましたし、もう亡くなりましたが本当に感謝しています。父も、本当にありがたいと言って感謝していました。
家は菊池家と言われた元夫の祖母は結婚する前に亡くなりましたが、ナント熊本の玉名(長州?)の”宮原家”から嫁がれていて\(◎o◎)/!、初めて会った時「わあ〜何と岡原の宮原家ね。え〜っ!」と驚かれていました。
元夫は北九州出身で偶然久留米で知りあり、恋愛結婚だったのですが・・・
こうやって考えたら、ここでも、「あっちも・こっちも」でやはり不思議ですね(*_*)。この現代において!ですから・・・(結局うまくいかなかったのですが、向こうの両親・親戚の方々には本当にかわいがって頂きました。心から感謝しています。・・(*_*))
人の縁とは本当に不思議なものです。このサイトで白石様とお知り合いになれたのも、やはり不思議な縁だと思います。


[86]白石さんからのコメント(2013年09月22日 10時02分34秒 ) パスワード

おはようございます。
なんと なんと!!

不思議な(そうなるのは当たり前なのかもしれませんが、私も 前から きっとわかる と思いながら、わからないところは もやもや しながら日を送ってきたので、どきどきしています。)

越智氏 菊池 平景清の言葉が目を引き、もしかしたら 私の知りたい 平景家(平川に関与してくるが、後の調べがついていない)と 景の字が同じ。
に 通じてくるかもしれない と 思い、ウィキで見ると 
平景清
http://hikoshima.com/bbs/heike/100154.html 伊勢平氏の名門藤原姓伊藤党(古市氏)

外宮度会氏の妙見堂跡 古市の伊藤党 
藤原秀郷の子孫、平 清盛の同士、平家一門の軍事部門を担当した
伊勢の名家・伊藤氏
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
伊藤氏は伊東氏に通じていて、
相良氏は 伊藤(伊東)の子孫という。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
と このスレッドの 1だけしか まだ 読んでいないのですが、渡会氏 妙見堂 と 興味を引く言葉が 出てきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
東北に飛ぶ鳥落とす勢いだった秀郷のお顔は 平将門のお顔と同じく 天狗のお顔のように 鼻が高い面?を 以前ネットで見ました。
[87]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月22日 15時43分55秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>全国の久米氏の中の日本国内でのルーツとなるのは球磨の久米氏という事になるのですかね?
 
愛媛県久米地方が本流で久味国造となる。
後裔には有名な山部赤人がいます。
八甕命の裔は来目姓を称して後に尾張姓に改称、更に来目姓に復姓、現在はこの後裔の尾張の久米氏が圧倒的に多い。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02129.htm
 
>伊予国の越智氏はもしかしたら伊予(大三島)水軍の越智氏ですか??
 
越智氏は公式には孝霊帝裔(あるいは物部姓、紀姓等)と称し、三島大祝家までもが越智氏を称しているが、大三島にまつられている大山祇命の末裔であることは間違いないでしょう。
白石氏は伊予に集中して多い姓で、所用で大三島の隣の伯方島を訪問したが実に白石氏が多いことが印象的でした。
清和源氏頼清流に白石氏や村上氏が有り、上字紋の村上氏が信濃から伊予へ移動は巷説でいわれているヨタ話では無いと思われます。
中でも来島村上氏は折敷に三文字紋を使用。おそらく村上氏や白石氏も大山祇命裔でしょう。
もちろん信濃村上一族とは深い姻戚関係が有ったことは事実でしょう。
源頼義の四男親清は三島四郎として河野親経の養子となり、孫の通信は北条時政の女を妻としており、河野水軍が源氏方に付いた背景が理解されます。
[88]白石さんからのコメント(2013年09月22日 20時11分37秒 ) パスワード

話が三島に行っているのに 申し訳ないですが
あさぎり町に 坂本家の鰐口. 鳴物の祭器があった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その中の
宇治朝臣惟氏
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hoashi1.htm
豊後★清原氏★の系譜 - ucom.ne.jp

それによると、文明四年(1472)四月二八日付けの棟札銘には、「大檀那阿蘇大宮司 ★宇治★惟忠、大願主宇治朝臣惟歳、政所大神兼義−北里氏」とあって、中世の★玖珠郡★は 阿蘇大宮司の勢力圏にあったことが知られる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
前に阿蘇家家臣・深水・田代 後 相良氏家老が出ましたが、
今回は 坂本に関与していて、葦北国造・日羅の話のあたりも (八代線)坂本でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
玖珠郡の玖珠町・九重町には 
相良村初神・阿蘇神社境内社の白鳥神社つながりの白鳥神社がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ヤマトタケルは 白鳥にゆかりしていて、祭神は もともとは ヤマトタケルだったようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ともあれ 
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hoashi1.htm
真ん中あたりまでスライドさせると
「従五位下行下総守 清原真人長秋之墓」の言葉が見える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
清原真人は 中原真人から出る。
藤堂高虎の系は天武天皇後裔。
公卿類別譜
公卿類別譜→僧呂・皇別→皇別の一番下第9類中原朝臣
「天武天皇1品舎人親王曾孫長谷裔」
従四位 藤堂高潔・・・・ 伊勢 津藩 外様
(準譜代) 大広間 三十二万三千九百五十石
従五位 藤堂高義 ・・・・ 伊勢 久居藩 外様 柳間 五万三千石

藤堂高虎で検索
伊予国今治藩主。後に伊勢国津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
藤堂 高潔(とうどう たかきよ)は、伊勢津藩の第12代であり最後の藩主。藤堂家宗家12代。



日本書紀舎人親王(中原)
・舎人親王は天武の皇子。弘宗王 姓を 中原真人と賜う。
・左京の人 中原真人 正基に 姓を 清原真人と賜う。その先は 「舎人親王の末」
・舎人親王の末から藤堂氏へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以前顔の話をしましたが、私 本当は 藤堂姓の人が うりふたつだったと思います。一般人なので 写真などありませんが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 



[89]白石さんからのコメント(2013年09月22日 20時24分16秒 ) パスワード

もう少し下へスライドさせると

中世の肥後の大族に清原正高の後裔と称する★笠氏★、のちに★葉室氏★がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
公卿類別譜にある葉室氏との関係は私は不明ですが
藤原 宣孝
藤原北家高藤流、権中納言・藤原為輔の子。紫式部の夫。

藤原 光頼
藤原北家勧修寺流の出身で、権中納言藤原顕頼の長男。正二位・権大納言。葉室大納言入道、桂大納言と称す。葉室光頼とも呼ばれる。

葉室宗頼
藤原光頼の四男

建久七年の政変で兼実は失脚するが、政治の主導権を握った土御門通親は宗頼の実務能力を高く評価して厚遇し
・・・宗頼と通親は個人的にも提携を強め、宗頼は通親の義妹・卿局を妻に迎え、通親の嫡子・通光を婿とした。

工藤周頼 工藤維頼の子
      工藤光頼 工藤周頼の養子
       相良頼寛 工藤光頼の子
寂蓮で検索
俗名は藤原定長

藤原定長で検索
勧修寺流藤原氏の出で,兄の吉田経房,藤原光長

飫肥藩・岡田藩伊東家の家譜によれば、 武智麻呂十四代久須美四郎大夫入道寂蓮家継嫡男祐家の末流とあるが、 尊卑分脈では、家次の子祐家は、実者久津見入道寂蓮子となっている。

藤原定長 とは - コトバンク
kotobank.jp/word/藤原定長‎
朝日日本歴史人物事典 藤原定長の用語解説 - 平安末・鎌倉初期の公卿。藤原光房と藤原為忠の娘の子。受領歴任後,蔵人,検非違使,弁官の三事兼帯。さらに蔵人頭を経て,文治5(1189)年参議に至る。勧修寺流藤原氏の出で,兄の吉田経房,藤原光長
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笠氏は山幸に関与する筋からでていて、和氏など又百済王族など 天皇家と姻戚関係を持ち、

公卿のほうでは 
相良氏などにも 関係してくる。
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[90]白石さんからのコメント(2013年09月22日 20時27分52秒 ) パスワード

前にはなした まるこ ちゃん は 天武天皇系の天皇が 消されている と 書いておられました。まるこ ちゃん は この 系につながっている?

とすれば 藤堂姓と 顔が 良く似ているのは 当たり前?
[91]白石さんからのコメント(2013年09月22日 20時45分23秒 ) パスワード

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hoashi1.htm
多少の推測を巡らせれば、肥後南部の葦北国造は★吉備一族★の出自という系譜を持っていたが、実のところ、阿蘇国造一族の★山部氏★の出自であることが景行紀から窺われ、こうした事情から山部氏の最有力者が葦北国造の系譜自称を踏まえて、「笠朝臣」と称したのではないかとみられる。山部氏の系譜もはっきりしないが、阿蘇祖神の健磐竜命の妃・阿蘇都媛命の兄弟の新彦命(草部吉見神の子)の後裔といい、阿蘇氏の祖・速瓶玉命が小国出身の妻神・雨宮媛命との間に生んだ高橋神・火宮神ともいわれる。
 天宮社は阿蘇山上(噴火口)にあって、『阿蘇家伝』の表記にもあるようにほ★「雨宮=天宮」★でもあり、要は水神の罔象女神すなわち宗像三女神に因む神社であった。その子孫神の高橋神・火宮神の二柱は、小国郷を開拓した神として小国町★宮原★の宮原両神社(旧県社)で母神の雨宮大明神とともに祀られる。宮原の東方近隣には、葉室氏が拠った上田村が位置する。火宮神とは火を起こす鍛冶の神とみられる。また、玖珠郡の旧町田駅付近の小倉神社は阿蘇の神を祀り、★高橋★という地名も同郡に見える。
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吉備と笠は 嬴姓高丘系図から 笠氏をたどり、7000傑より吉備から笠へ
で つながるのではないか? と 思います。
山部も 少し前の7000傑様のご教示より 山ノ神系。鴨氏にも関与する山の神。武寧王にも関与する。
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雨宮神社は相良村にも在り、相良長毎の崇敬が厚かった。京都貴船神社と同体。
玉依姫の言葉は 神武天皇のお母様。
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小国町にも 宮原があるのですね。
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高橋は 球磨郡の酒蔵にもありますが、うちの高橋は父の生家の女子と結婚しています。長野から来ています。

苗字だけなら 相良氏と姻戚関係があります。
まことに 縁というものは 深いものがあるようで、見合いと聞いていますが、なんとまあ ・・・ と 感じ入っています。
[92]子孫よりさんからのコメント(2013年09月22日 21時25分29秒 ) パスワード

今晩は、皆様、ご教示本当にありがとうございます。
今日は、熊本県の合志市の病院にいる弟に会って来ました。渋滞もありバスで往復7時間以上かかって、会えた時間は1時間半ほど。でも、とても喜んでくれました。前にもお話しましたが、弟は筋ジストロフィーという病気で、小学校1年生の頃から入院しています。本当であれば、弟が宮原家を継ぐはずだったのですが・・・。弟がもし元気だったら、どんな風に家の事を考えていくのかな〜とふと病室で思いました。歴史が大好きな弟ですから、きっと、自分で文献などを読んで、もっと早くから、宮原家や平川家の事を調べながら、親戚と共に家を後世に繋ぐ道筋を作っていったのだろうな〜と。
弟に皆様からご教示を受けた話・そしてその内容を伝えたらとても喜んでくれました。(20歳の時に気管切開をしたので声は出せません)でも、よく見たら、涙がすーっとこぼれてきたので、「自分が元気だったら」と・・言葉には出ませんでしたが、弟の気持ちは十分わかりました。
白石様・日本の苗字七千傑様。私は、皆様にとっては何でこんな事も知らないの?といった質問もするかもしれません。皆様にとっては気持ち悪い・この人変なんじゃないの?と思われるような生まれ持っての不思議な”感”の話をする事もあると思いますが<m(__)m>どうぞ、これからもご教示どうぞよろしくお願いいたします。弟の楽しみが(生きる喜びが)出来て、私も、もっと先祖の事を知りたいと思いました。
雑談に終わりすいませんでした。
[93]子孫よりさんからのコメント(2013年09月22日 22時46分52秒 ) パスワード

先ほどは、脱線した話ですいませんでした。
さっ!!ここから本題です。<m(__)m>
白石様、私の何気ないコメントに、白石様の謎をとくヒントがあった?のであれば、とても嬉しいです。(^○^) 偶然って不思議ですね。
ところで。木花開耶姫の父上が大山祇命ですよね。大山祇命の末裔が越智氏・村上氏・白石氏。そして、”越智氏は公式には孝霊帝裔(あるいは物部姓、紀姓等)と称し” うん??孝霊天皇!
私の「どうして、球磨に良峯家・相良家が・・」の質問に対して日本の苗字七千傑様より、”葦北国造は孝霊天皇の孫三井根子命に始まる皇別の氏族である。”とのお答えが・・  あーっ!!繋がりました。
元夫の母方の祖母(ここからは義祖母でいきます)の越智家と私は、いにしえの頃の繋がりがあったのですね。
義祖母にはとても大事にしてもらい、本当の孫のように可愛がってもらいました。でも、私は何か出来ていたのかな〜(*_*)
平川の伯父(当主・私はみなみのじぃ〜ちゃまと呼んでいました)から、「必ずご先祖様が守ってくれるからね。いつでも(私の名前)のそばにご先祖様がいらっしゃるからね」と言われた事は、もしかしたら、どこかで必ず繋がりのある方と出会い、助け合う事が出来る!という意味も含まれるのかなと思いました。
そして、白石様!!
わたし、広大な光景が大好きで、月に1回は必ず九重山(高原)に行くのです!でもでもそのコースが・・
高速は使わずに、中津市まで国道を使い、そこから、耶馬渓経由で玖珠町を通り!、わいた温泉に立ち寄り、北里地区を通り!小国経由で。そして、宮原地区も通り!なんと同じ名前という事もあり神社に立ち寄った事も・・そして九重高原へ\(◎o◎)/!この経路をどれだけ通った事か\(◎o◎)/!
あの〜!!阿蘇山火口に行ったお話しましたよね。今月の6日の事ですが・・
火口見物をしてそのまま阿蘇神社に参拝しました。そして、先ほどのルートで帰って来ました。\(◎o◎)/!(興奮してしまいましたが、地図がないと言っている意味解りませんよね(*_*)) でも・・・どうしよう! なぜ、私はこのような偶然に遭遇するのでしょうか?!





[94]白石さんからのコメント(2013年09月22日 23時05分48秒 ) パスワード

こんばんは
パッチワークをしていたのですが、目が疲れて パソコンを開けてみたらコメントが入っていて、うれしかったです。

弟様のこと ご心痛でしょうね。IPSのように 画期的な治療法がないものか?と思います。

前にテレビで見たのですが、パソコンに腕にくくりつけたペン?だったと思うけど それで キーボードを 押すと 文字が出る。

それで 絵を描いている人が いました。

それか 
瞬きでおはなしする とか。

弟様も 子孫様のご面会を心待ちにしておられることと思います。
どうぞ 心の励ましを おあげに。なってください。
肉親の顔をみられるのは 本当にうれしいことだと思います。
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[95]白石さんからのコメント(2013年09月22日 23時17分42秒 ) パスワード

方向音痴や出かける機会がなく、頭に描ききれませんが、
もしかして まっすぐ とか?
[96]子孫よりさんからのコメント(2013年09月22日 23時23分22秒 ) パスワード

追記
7月に同じコースで黒川温泉によっての帰り道の話です。
いつもは運転しないのですが、その日は一緒に行った人が疲れているようだったので、途中広い路肩で交代して運転を開始。(この間30秒ほど経過したかな)その間2台ほど車が通過したのを見ました。しばらく走っていると追い立てるように走る車があって(最高速度50キロで走っていたのですが)路肩に寄って先に行かせて、これで2台の車が通過。(ここで20秒ほど時間が過ぎたと思います)
そして、ちょうど北里地区を走っていると急に前の車が止まって・・
すさまじい事故でした。私を追い立てた車は横転していて・・その前の2台も大変な状態で。道は通れる状態ではなかったので、しばらく止まっていましたが、幸い車の損傷に対して、乗っていた人達は怪我はなかったようでした。(むい打ちとか怖いですけど)でも、足が震えました。もし、運転を代わっていなかったら、追い立てる車に道を譲らなかったらと思うと・・
今、考えたら、あの時何かに守って頂けたのかな?と思いました。
[97]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月22日 23時24分25秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>実のところ、阿蘇国造一族の★山部氏★の出自であることが景行紀から窺われ、こうした事情から山部氏の最有力者が葦北国造の系譜自称を踏まえて、「笠朝臣」と称したのではないかとみられる。
 
話が混乱しているヨタ話の典型ですよ。
山部氏は天津久米命の裔で、笠朝臣など称していませんよ。
葦北国造とも関係なし。葦北国造の後裔も笠朝臣を称していません。
他に豊後長野氏(清原姓)の末裔は笠氏や小笠原氏を称している。
山部連を賜姓された小楯は播磨国司で阿蘇には存在しない。
孫の那爾毛古比売は中央政界の中臣可多能祐の妻、子は中臣御食子、国子で御食子の子は有名な中臣鎌足。
後裔の赤人の時に宿祢に改賜姓。
 
尤も葦北国造の裔竹崎氏を太田亮博士が阿蘇氏支流と決めつけているから、そのような妄説が出るのでしょう。
まあ、職業部の山部は沢山有るが家系は不明。
 
[98]子孫よりさんからのコメント(2013年09月22日 23時45分44秒 ) パスワード

道はまっすぐじゃありません。
多分、北九州から行くのであれば普通は通らないと思います。(途中から別府経由の高速道路がありますので)
国道を使うと、中津からまっすぐ行くと宇佐。その先が別府です。
私は、中津から日田に向かう道(県道)に曲がり、山を越えて、耶馬渓方向に向かい、これまた山を越えて玖珠町へ・・・。う〜ん
解り辛いですよね<m(__)m>

弟もパソコンで絵を描いていました。
パソコンを使う前は、口に筆をくわえて描いていました。個展を開いた事もあります。(^○^)
今はくわえる力がなくなりましたのでもう出来ません。
声は出ませんが、唇を読む事ができます。ただ、私がおっちょこちょいなので
いつも違う意味に解釈してしまい「姉ちゃん。ちがうちがう(ToT)/~~~」とよく言われます。
(唇を読むのは困難ですが、なぜかこの”ちがうちがう”は私にはよく解ります。(^・^))
[99]白石さんからのコメント(2013年09月23日 00時10分30秒 ) パスワード

相良村初神の白鳥神社http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-sekiryoo.html#anchor1539168
白鳥神社をクリック
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/DenHero.html#%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97
安陪則任は白鳥八郎と称するとともに「苅田郡白鳥之住 国人祀其神号白鳥明神」と傍証されている。
※東北安陪郡磐井郷があった。安部には 安陪事代主のことばもある。又安陪高田媛の言葉もある。
※苅田郡の苅田は 坂上田村麻呂の父・苅田麻呂という言葉があり、苅田氏から白石へとも
※藤原鎌足公子孫とも
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九重町の白鳥神社の案内板には 浅井の 文字が見え、宇佐八幡の神職になったと。
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高橋氏の祖は景行天皇に仕えた「膳臣;かしわでのおみ」である。海人である。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208.htm
安陪 磐井 大彦命 そして 祖先がきょうだいから分かれて出るのが、武内宿禰。
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ヤマトタケルは平川にも関与(良峯の荒田の言葉から)
ヤマトタケルは白鳥神社の祭神だった。
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またまた 埒もない羅列で すみません。
あとさきになったけど、玖珠の坂本(宇治)と同じ地域にある 平川・白石に関与することを 書いてみました。


[100]管理者 aさんからのコメント(2013年09月23日 05時59分30秒 ) パスワード

スレッドが重くなりました。
新しくスレッドを立ててください。


このスレッドは閉めます。
[103]管理者 aさんからのコメント(2013年09月23日 10時01分12秒 ) パスワード

続きは
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101324_3.html
へどうぞ。
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