【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
 投稿番号:100464 投稿日:2003年02月24日 12時22分37秒  パスワード
 お名前:YURI
はじめまして
キーワード:市杵嶋姫神 厳島神社に参拝したことで・・・
コメントの種類 :その他  パスワード

つい先ほど 平家で検索しこちらのサイトに流れ着いたものです。
とても興奮して 息を切らせていくつかのスレッドを読ませていただいたのですがこれから時間をかけて落ち着いて拝見させていただきたいと思います。

今まで私は自分がかつて平家の女性であった過去の記憶が強く残っていると感じていたのですが 特にそれについて歴史的に調べたりすることはありませんでした。
平家物語も最初の数行しか知らなかったのです。
(しかしこの始まりの数行を読んだり聞いたりすると ある特別な愛惜の念に胸が一杯になるのが常でした)

しかし 偶然にも2月22日(一昨日)広島の宮島に行く機会があり厳島神社に参拝したところ
過去の記憶が甦り なんともいえない気持になってしまったのです。
まさに私が過去の記憶に感じていたそのままの建物がそこにあったのです。いままで海上に立つ社の事は知りませんでした。
宮島と言えば 赤い鳥居しか知らなかったのです。鳥肌が立つような喜びを感じました。
昨晩横浜に帰って来たのですが 今朝平家について気になって気になってサイト検索した次第です。
私に残っているのは 時間がただただゆっくりと流れている平和な時の記憶のみです。
水の上に小船を浮かべ 貴族たちはこの世の美しさを謳歌していました。
そのときのことをHPに記載したのがこちらです。

****************************
平安時代。平家の女性。
渡り廊下でつながれた屋敷の周りは巨大な池になっていて そこに舟を浮かべて日がな一日遊んで暮らす。
(庭全体が池になっている屋敷を 歴史の教科書や平家物語などで見たことがないのたけれど 絶対そうだった)
貝合わせやまりで遊ぶ日々。
内側を金で塗った貝合わせをどこかで見たとき 切ない程の懐かしさとともに蘇った記憶です。
池の水に映る桜などの木々や 水面に浮かぶ花びら 少しにごって見える水の色など。
時間がゆっくり流れていてとても幸せな日々でした。
(その日暮らし、どんなに遊んでも罪悪感を感じない性格、時間の観念のなさなど この時と今回は似ているのでは・・)
*****************************

私はこの水と言うのはてっきり大きな池だと思っていたのです。厳島神社は神社ですので こんな風に遊んでいたことは考えられないのでしょうか?
それともほかにこのような屋敷が存在していたのでしょうか?
私は歴史に疎いため常識的なことも何も分かりませんので 
とんちんかんなことをお聞きしておりましたらどうぞお許しください。
(こんなに長く書いてはいけなかったのでしょうか?不適切でしたら削除なさってください)

[1]takahiroさんからのコメント(2003年02月25日 18時02分45秒 ) パスワード
  

厳島神社は現在に残るかつての平家栄華の象徴であると私も感じます。

平家の総氏神、厳島社については今後、当時の平家一門との関係等を詳細
に調べていきたいと考えています。

また何か判れば投稿します。

以下のURLに、源通親筆『高倉院厳島御幸記』の紹介があります。

http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/genbun-michichika-itukushima.htm

〔内容〕
 治承四年(1180)二月二十一日、東宮言仁親王(安徳天皇)に譲位した高倉院(新院)が、三月十九日京都を出発し、陸路と海路とによって安芸国宮島の厳島神社に参詣、四月九日帰京するまでの旅の模様を、随行した近臣の視点から記した紀行文。前年七月末平重盛が没してのち、清盛と後白河法皇との関係は極度に悪化し、十一月清盛は福原から軍兵を率いて上京、法皇の近臣を解任し、法皇を鳥羽殿に幽閉した。そして年改まるや、外孫に当たる言仁親王の践祚を強行したのである。このような清盛の独裁的な姿勢に比叡山延暦寺(北嶺)の僧兵などが反発し、不穏な動向を見せるさなかに、高倉院の厳島御幸は行われた。新院には清盛の信仰篤い厳島社に参詣することによって、清盛の心を和らげ、父法皇を苦境から救いたいという心願が籠められていたと想像される。当時の都人にとっては心細くもあり、新鮮でもあったと思われる船旅がもたらす感興とともに、このような緊迫した時代の状況をも窺わせる叙述がそこここに見え隠れしていて、単なる紀行文としてのみ読み過ごせないものを含んでいる。一応、旅が終ってのちまもなく記されたと考えられるが、あるいは後年若干書き改められた部分があるかもしれない。覚一本系『平家物語』巻四「厳嶋御幸」は本書を利用して物語っている。

〔作者〕
 新院の近臣としてこの旅に随行した源通親。通親は村上源氏、内大臣雅通の一男。母は典薬助藤原行兼女で美福門院の女房であった女性。久安五年(1149)の誕生で、治承四年には三十二歳、正四位下で参議兼左近衛権中将中宮権亮、新院別当に補されている。のちに内大臣右大将になり、土御門内大臣と号した。建仁二年(1202)十月二十一日、五十四歳で没した。

〔諸本〕
 底本は東京国立博物館蔵(梅沢記念館旧蔵)「土御門内大臣日記」。この本は伝称筆者を阿仏とする鎌倉中期頃の写本一帖。本書と『高倉院升遐記』を合綴する。金沢文庫旧蔵本で、榊原家に蔵せられたこともある。重要文化財。校合本は勉誠社文庫『源通親日記』所収因幡堂蔵北村季吟書写本(因本と略称)並びに『群書類従』巻第三二九所収板本(群本と略称)。
[2]YURIさんからのコメント(2003年02月25日 19時23分23秒 ) パスワード
  

takahiroさま レスありがとうございます。

昨日高校時代の古典の教科書「平家物語」を母が出してきてくれたので読んでみました。
平家の栄華から衰退まではわずか20年間の出来事だったのですね。
あまりにも凝縮された そしてはかないことでした。

わたしは帰ってきてから気が付いたのですが 厳神社には平清盛がお祀りされている社もあるのですね。

これからこちらのサイトでで少しづついろいろなことを知ってゆきたいと思っていますので
どうぞよろしくお願いします。


[3]takahiroさんからのコメント(2003年02月25日 23時49分43秒 ) パスワード
  

◇厳島神社には末社として、平清盛公を祭神とした「清盛神社」があります。

 こちらに美しい画像とともに厳島神社境内が紹介されています。

 http://ucgi.genbu.net/cgi-bin/mapindex.cgi?index=3&target=place

◇京都にも清盛公ゆかりの厳島神社が京都御苑内にあります。

 拾翠亭の九条池に面した、規模は小さいですが非常に古雅な神社です。

 http://homepage3.nifty.com/kyotosanpo/sanpomiti/gosyo/gosyotop.html


冒頭に記されています文章、再度拝見しましたが、平家一門の邸宅に「池」で
有名なのは、平頼盛邸六波羅「池殿」があります。

現在の東山区六波羅池殿町に当り、六波羅蜜寺に隣接しています。

言仁親王(安徳天皇)もこの六波羅池殿邸を御産所として誕生されています。

『さる程に、十一月十二日の寅の刻より、中宮御産の氣ましますとて、京中
 六波羅ひしめきあえり。御産所は六波羅池殿にありければ、法皇も御幸な
 る。』(平家物語 巻三「御産の巻きの事」より)
[4]YURIさんからのコメント(2003年02月26日 02時40分18秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年02月26日 02時42分22秒
[5]YURIさんからのコメント(2003年02月26日 02時47分03秒 ) パスワード
  

↑すみません。タイプミスを消したかっただけなのですが・・・。
もういちど同じことを書きます。

takahiroさま
これこそわたしの知りたかった情報です!
ありがとうございます。
しかし、焼けてしまって今はそのお屋敷は残っていないのですね。
けれどもそのお寺にゆけば 当時の様子を描いた絵などが残っているかもしれません。
桜の頃に行ってみようと思います。
京都の厳神社もとても美しいところですね。
本当にありがとうございます。

[6]takahiroさんからのコメント(2003年02月26日 04時05分50秒 ) パスワード
  

 六波羅蜜寺にて、頼盛邸池殿邸宅についての参考となる史料と巡り合え
 たならいいですね。

 (六波羅蜜寺蔵の木像「平清盛像」は何度見ましてもその端麗な気品に
  圧倒されます。拝覧されることをお薦めします。)

◇池殿邸の主、平頼盛について。

 http://www16.u-page.so-net.ne.jp/yb4/heike/yorimori.htm

 より。

「今は兵衛佐にたすけられんずるにこそ」
 -平頼盛(たいらのよりもり)-

 天承元年、清盛の異母弟として生まれます。母は藤原宗兼の女、宗子(池の禅尼)。六波羅の池殿に住んでいたため池の大納言とも言われました。この頼盛の母の家は中関白道隆を祖とし、摂政関白をつとめ、かつては一世を風靡した家柄です。今は落ちぶれたとはいえども摂関家であり、忠盛も一目も二目も置いていたようです。清盛は、なんとなく頼盛の母やその実家が妙に煙たく感じていました。
 平治の乱ののち、頼盛の母は、自分に実家に蹴鞠を習いに来ていた頼朝の命乞いにやってきます。
 清盛は一門の中で妙に浮き上がった存在になっている頼盛一家がどうも気にかかっていたようです。表立って反対することはなくとも、何に付け消極的で、清盛が摂関家や公家と対立するようになってくると、ますます頼盛はしぶしぶ、といった感じでした。母の影響を強く受けていたのでしょう。清盛は池の禅尼の申し出を受け入れることにしました。もし、この時点で清盛が助命しなかったら…。私は何度もそのことについて思いをめぐらしたものでした。
 さて、頼盛はこの母の身分ゆえに、兄弟の中でも出世が早かったようです。そのせいでしょうか、頼盛は清盛と同一歩調をとるのをいさぎよしとしなかったところもありました。最も清盛に衝撃を与えたのは、頼盛の妻の父親、俊寛が鹿ケ谷の陰謀の立役者だったことです。俊寛らの計画を頼盛が知らなかったはずはありません。この一門に近いところからの反逆により、一門の中に大きなひびが入ったのです。
 さらに頼朝が挙兵するにいたって、ますます一門の中に「頼盛頼むにたらず」と、頼盛を疎外するような空気が満ちてきました。

 一門の都落ちの際、頼盛は池殿に火をつけて出てきました。しかし鳥羽殿の南の門に馬をとめて「忘れたことがある」と言って、赤印を切り捨て、その三百騎で都へ取って返しました。頼朝は、いつも頼盛に好意を示して「あなたを決してなおざりには思いません。ひたすら命を助けてくださった禅尼殿のようにお慕いしているのです。八幡大菩薩も御照罰ください」と、何度も誓書を持って申した上、「けっして池殿の侍に弓引くな」と情けをかけていました。
 頼盛はもはや頼朝を頼るほかありませんでした。たとえ一門とともに都落ちしたとしても、疎外された頼盛一家にいるべき場所は見当たらなかったでしょう。
 「一門の平家は運がつき、もう都を落ちてしまった。これからは兵衛佐に助けられるであろう」と言って、都へ戻ったと言う噂です。
 平家の滅亡後一家は頼朝の温情を受け、妻の死後の広大な八条院領を管理、平家ではこの一家だけが栄えました。しかし、頼盛の憂いは深く、思い悩んだ頼盛は出家し、名を重蓮と改めました。文治二年、五十五歳でこの世を去っています。

◇「平家物語を熱く語る」内、平頼盛に関連するスレッド

http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100371_33.html
(謝罪文:「池大納言殿京に戻りし真相」) 

http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100367_69.html
(平頼盛次男・平為盛覚書き+頼盛流末裔)

http://hikoshima.com/bbs/heike/100389.html
(平頼盛一族と北白河院陳子の関係)

*上記スレッドにおいては、池殿邸について深く言及している箇所は
 未だありませんが、御参考になればと思い紹介します。
[7]YURIさんからのコメント(2003年02月26日 12時03分24秒 ) パスワード
  

>一門の都落ちの際、頼盛は池殿に火をつけて出てきました。

美しいときを過ごした屋敷に火をつけるときの気持ちはいかばかりだったでしょうか?
それすらも美しくはかなく感じられてしまいます。

>もし、この時点で清盛が助命しなかったら…。私は何度もそのことについて思いをめぐらしたものでした。

わたしは平家物語をきちんと読んだこともなく 頼盛のことも今回はじめて知ったくらいですから
ここで語る資格はないと思うので あくまで空想ですが・・・
頼盛が都にとって返したのは 母君のなさったことが間違いではなかったのかどうか
確かめたかったのではないでしょうか?
池の禅尼が頼朝の延命を願い出たのは慈悲の心によるものですが
それがあだになったわけですよね?
都落ちの際にその心が頼朝の心に届いているのかどうか確かめたかったのではないかと
ふと・・そんな風に思いました。
(よく知りもしないですみません・・・)




[8]takahiroさんからのコメント(2003年02月26日 20時25分33秒 ) パスワード
  

YURIさま

>頼盛が都にとって返したのは 母君のなさったことが
>間違いではなかったのかどうか 確かめたかったのではないでしょうか?
>池の禅尼が頼朝の延命を願い出たのは慈悲の心によるものですが
>それがあだになったわけですよね?

貴重な御意見ありがとうございます。

上記の御意見、「頼盛にとっての池禅尼という母の存在について」、私自身の意
見も、もう少し時間を頂いてから、投稿していきます。

どうぞ今後とも池殿邸について、頼盛について、平家について、御意見聞かせて
頂ければ嬉しく思います。
[9]川口 信さんからのコメント(2003年02月26日 21時31分15秒 ) パスワード
  

 YURI様 初めまして。

 [1]のコメントを読ませて頂きました時、一番最初に思ったのは清盛邸の西八条邸でした。なにかYURI様のイメージそっくりな風景が想像されました。


 西八条邸とは違いますがそのような寝殿造りの画像があります。

 http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj2001/40144/shinndenn1.JPG

 上記画像は三条邸ですが清盛邸はもっと広大であったと言われております。画面をクリックすれば拡大されます。

 平家の優雅な時代の思い出が広がります。

[10]YURIさんからのコメント(2003年02月26日 22時46分09秒 ) パスワード
  

川口 信さま はじめまして。
どうもありがとうございます!

そうだったのですね!
やはり小舟を浮かべて遊べるような広いお池がお庭にあるようなお屋敷が実在していたのですね!
暗く見える水の色やその上に浮かんでいる桜の花びらや木の葉などのイメージから
やはり海ではないような気がしておりました。
けれどもそのお池というのは屋敷を半ば囲むようにとっても大きいのです。
ありえないかもしれないと思い わたしの空想に過ぎないのかもしれないなどと思っておりました。

今残っていたならどんなに素晴らしいことでしょう。
なにより平家の人たちの美に対する感受性は特別なものだったと思います。

毎日過去ログを夢中になって読ませていただいております。
なにやら分からない感情がわたしをつき動かしているようです。

どうぞよろしくお願いいたします。




夢中になって西八条邸を検索してみました。
もう残っていないのですから写真があるはずもないのでした。。。
今までそのようなお屋敷をみたことがなかったのも
全て焼き払われてしまったからなのですね。
本当に露のように消えてしまったのだなという気がします。
[11]YURIさんからのコメント(2003年02月26日 23時08分17秒 ) パスワード
  

takahiroさま

わたしは頼盛という人は母君に似て争いを好まない優しい方だったような気がするのです。
ですから 母君のしたことは間違いではなかったと思いたかったのではないかと思ったのです。

[12]takahiroさんからのコメント(2003年02月27日 01時55分31秒 ) パスワード
  

[9][10];
確かに当時の貴族の邸宅でしたら頼盛池殿邸に限らず雅びな池の庭園を備えて
いたのでしょうね。
宗家邸宅西八条邸の方が関連をもった女性の数も多かったかも知れないですね。

[3]にて紹介しました京都御苑内厳島神社へ本日参拝して参りました。
(氏神社として御札も頂いてきました。)
URLにても説明がありますが、この地は旧九条家邸に当ります。
何度参拝しましても、その風雅な佇まいに心が静まります。

頼盛邸に関わらず、「池の庭園」について思い出されたならお教え下さい。
[13]服部 明子さんからのコメント(2003年02月27日 06時31分37秒 ) パスワード
  

YURIさん

初めまして。

いいですねぇ
前世の記憶が優雅な日々で。
私のは戦争の時ばかりです。

戦争に男達が出て行くシーン
戦場の雄叫び
刀の打ち合う音
そんなのばっかり。

御近所の元華族の方達は
前世の記憶は12単衣なんておっしゃるのですけど。


また別な記憶が蘇ったりしましたら是非書き込んでくださいね。
この「平熱」はオカルトかかったサイトなので
いろいろ過去の記憶を手繰り寄せるのに役立つかもです。
[14]YURIさんからのコメント(2003年02月27日 09時17分14秒 ) パスワード
  

服部 明子さま はじめまして。
御挨拶が遅れましたが どうぞよろしくお願いいたします。

このような素晴らしいサイトにご縁がありましたこと 本当に嬉しいです。
みなさま素晴らしく博学で 平家に深いご縁のある方ばかりでいらっしゃるのですね。
宮島に行ったことで興奮状態となり思わず書き込みしてしまいましたが
わたしの非常識な書き込みを暖かく受け入れてくださって みなさまありがとうございます。
わたしは今まで本当に何も知らなかったんだなぁと思いました。
ただあるのは 時間が切り取られたような美しい日々の屋敷の記憶のみなのですが
けれどもその記憶は 思い出しただけでふわっとしあわせな気持ちになり 
まるで今そこにいるかのようにいきいきとしているのです。

明子さまは過古世においては武将でいらしたのでしょうか?
風雅な平家の人たちにとって戦というのはとりわけ辛いものであったことでしょう。

こちらに集われるみなさまの書き込みを拝見していると
栄華の証は残っていなくとも 平家の遺伝子というようなものがみなさまの中に脈々と生き続けているのを感じます。

わたしもこれからこちらのサイトで少しずつお勉強させていただきたいと思いますので
どうぞよろしくお願いいたします。



[15]服部 明子さんからのコメント(2003年02月27日 11時03分38秒 ) パスワード
  

YURIさん

>平家の遺伝子というようなものがみなさまの中に脈々と生き続けているのを感じます。

その通りなのです。
ここに引き寄せられるという事自体がDNAが引き寄せるのだと思います。
日本語で書けば「血が騒ぐ」という事ですね。

名字で「平」姓などのいかにも「平家」の末裔の方は簡単でしょうが
俗姓を名乗っていらっしゃる方は御自分の中に平家の血が流れている事や
前世の記憶がはっきりしないから
何かの機会に突然訳の分からない感覚に襲われて
私は誰?
と過去の自分を知りたくなります。


私の場合は10世紀の中頃上総国の国分寺の右の方に住んでたような気がします。
田んぼの仕事をさせられるのが嫌で
そういう家業でない人と結婚してこの家を出て行ってやる!
という感じがあって
ところが平将門一味に村を荒らされる
そんな感じがあります。(恐怖)

次は平家の時代で
私は伊賀の山の中に住んでて父は平田家継だったような感触があります。(悲しみ)

あとは
もう少し後の時代の伊賀の感触。(絶望)

その後は戦国時代だと思います。
関が原の戦いで輿に乗って協定の人質になる女性と一緒に出掛けるところ。(高慢)


そういう時代を一緒に過ごした人というのは
現世で出会うと何らかの形で(あら?)と気が付きます。

YURIさんにはいらっしゃらないですか?
すっごく気になる人。

私は1980年代の終わりから1990年代の終わりにかけての10年
凄い心の旅路を経験しました。
今はパワーが落ちて「もう終わった」と思っています。
そして吹っ切れました。

YURIさんが一生懸命御先祖さまの事を調べたら
御先祖さまがいろいろな情報を送ってくれます。
信じられないような不思議なことが次々と起きてきます。


御先祖さまを大切になさいますと助けてくれますから
前世の御自分が誰だったか早く分かると良いですね。
[16]YURIさんからのコメント(2003年02月28日 17時59分12秒 ) パスワード
  

服部 明子さま
こんばんは。

過去世で一緒だったと思われる人には何人か会っています。
絶対に知っていると感じるので 実際にどこかであったことがあるのかと思ったり
はじめてあったときに別の姿に感じられたりしたこともありました。不思議です。

実は平家の時代に一緒だったんだろうな〜と思う方にもお会いしたことがあるのですが
「どこかでお会いしたような気がします」と言ったら
わたしが口説いていると勘違いされそうになったことがあるので(笑)慎重になりました〜。
ただ知っているというだけの感情しかこのときはありませんでしたが。

>御先祖さまを大切になさいますと助けてくれますから
>前世の御自分が誰だったか早く分かると良いですね。

はい、ありがとうございます。
平家に関してこんなに関心があることが きっと今のわたしに必要な気付きをもたらしてくれるのだと思います。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。




[17]服部 明子さんからのコメント(2003年02月28日 20時32分47秒 ) パスワード
  

YURIさん

やはり同じですね。
人は生まれて来る時に「忘我の川を渡る」から
過去の記憶を失くしてしまう
と言われていますが時々思い出してしまいますよね。

姿は20世紀(21世紀)の服装なのに
その人の向こうに昔の影形を見てしまいますよね。

私の場合は若い時は向こうがこちらに言い寄って?来ていました。
それで気味悪くて肘鉄食らわせたりの過剰反応!をしていました。
だって出会って2日目に「父親に会って!」なんて男の子に言われて困りました。
そういう人が片手以上両手未満いました。

今はもう全て向こうの正体が明らかに出来て納得していますのよ。


中には子供の時からずっと気になってた人がいてとうとう大人になってから告白したら
(最近!)
同じ時間に同じ事を考え同じ事を悩み
お互いお月さまに向かってお互いに話し掛け合ってたというのが分かりました。
子供の時はお互い大嫌い同士でしたのよ。(理由はずっと下の方に記してあります)


今の父は10世紀中頃に父だった人です。家族を1番に考え穏やかで黙々と働く人。
そういう普通の生活がつまらなかったようです。本当は安定してて良かったのに。今だから言えるけれど。
そんな親からどうしてこんな怠け者の娘が生まれたのか実に不思議なのですが。

確かに今も10世紀の中頃の自分がいます。楽をしたい。苦労は嫌。シンデレラ願望。


でも平家時代の父は今の父じゃないようですよ。
父本人が否定してるんですもの。自分は伊賀には関係無いって。否定されてこちらは困りました。

当時の父は平田家継という人なんですが
文字で見るだけで滂沱の涙状態になります。
この平田の父に死なれて生活に困ったのかもしれません。
もう少しで憧れの君である平知盛さまと結婚できる予定だったのに負けてしまって結婚話は消えるし。
でも現実の男の子は上記の一緒に月に見ていた人なんですよ。


この人が知盛さまの次男を伊賀に連れて来て育てる自分がいる。
私は子供を生まない女のようですよ。
過去に生んだという記憶や感触が無いのです。


そして関が原。
上記のお月さまを一緒に見た男の子を見下す自分がいる。
現在のわたくしの子供時代は彼を見下している感じだったそうです。今さら言われても困りますが。


私は4回生きて死んで、これが5回目の生?かしら。
最近3回は死に損ないましたから
今度死ぬのが本当に私の永遠の死だと思っています。

なんだか今回はスッキリして死を迎えられるような気がします。
もう生まれ変わって来ないような。

<15>に書いた「そして吹っ切れました。」という意味になります。
上記の男の子に「もう吹っ切れた」と言いましたら「なんで吹っ切れるんだ!」と怒鳴られましたが。

自分が生まれて来た意味が分かりましたもの。
これだけ「平田家継」「平田家継」と<平熱>に書きまくれば
わたくしの平家時代の父も「以って瞑すべし」やっと成仏してくれる事でしょう。
皇竹さまも時々名前を載せてくださってますし。


(母方の自分の過去の事もありますがこちらはそんなに拘らない自分なのですのよ)


藤原景俊君と800年ぶりに思いが通じ合ったのでもう十分でしょう。
景俊君はまだまだ戦い続ける人のようですが。
「平家の怨み忘れたわけではあるまいな」
なんでしょうね。

平田の父娘はやっと21世紀で星になって永遠に瞬き続けるようです。
もう二度と忘我の川を渡ってこの世に来る事は無いようです。


だって私の夫は「自分は昔蟹だったんだよ」なんて言い
厳島神社が大好きで
そして私があんなに憧れてやまなかった楽な生活を与えてくれたのですから。
この夫が私の平家の過去を解明する機会を与えてくれたのですし。
夫と出会わなかったら私はまたまた生まれ変わって心の旅路を続ける事になったでしょう。


YURIさんも御自分の過去が分かると良いですね。
どこの姫君だったのでしょうね?
[18]takahiroさんからのコメント(2003年03月02日 19時48分50秒 ) パスワード
  

厳島神社の建築様式について、下記URLに、以下の記載がありました。 

http://www.hiroshima-cdas.or.jp/miyajima/jinja/sinden/sinden.htm

「仁安3(1168)年、平清盛によって造営された社殿は厳島にある本宮(内宮)が本殿以下37棟、対岸の地御前にある外宮が本殿以下19棟を数え、全て完成するまでに数年が費やされたといわれます。
 寝殿造り(平安時代貴族の邸宅建築、現在の京都御所がその一例)の建築様式を巧みに取り入れ、自由奔放な変化に富んだうちにもこれらをうまく調和させて一つの美を創造した点は、日本に残された最も優秀な建築物と言えます。
 本殿は繊細かつ華麗な切妻両流造りで、正面には緑青塗りの引き違いの菱形の格子戸がはめられ、高雅な気品を漂わせています。現在の社殿の、建築様式は清盛造営時の平安の風格をよく再現しており、特徴ある優美な曲線が随所に見られます。」

実は本日、六波羅蜜寺へ、六波羅頼盛邸池殿に関する史料について問合せに伺いま
したところ、残念ながらそうした史料は残存していないとのお答えでした。

現池殿町東に隣接する洛東小学校の敷地に「平氏邸宅跡」の石碑のみが建立されて
いるとの事、確かに校庭の外からも石碑の存在は確認できました。

そこで何とか平安時代当時の池殿邸について、その佇まいを偲べないかと考えてい
ましたところ、上記「厳島神社の建築様式」に関する文章と出会いました。

つまり、厳島神社の建築様式には、当時の平安期貴族の建築様式である「寝殿造り」
の面影が偲ばれるとのこと、逆に捉えるなら、現在に伝わる厳島神社の建築様式は、
当時の清盛西八条邸、また頼盛池殿邸の面影を宿しているのではないかとの推測に
思い当りました。

西八条邸、池殿邸ともに、「池」を審美的に取入れた邸宅であったとの事、池に浮
かぶ寝殿造りの邸宅を日々目にしていた清盛により、「海上の社殿」という斬新な
厳島神社の建築プランは立案されたとも推測できると思われます。

厳島神社は、まさにかつての平家の栄華を偲ぶに相応しい社であると、あらためて
感じました。
[19]服部 明子さんからのコメント(2003年03月02日 23時28分09秒 ) パスワード
  

源氏が入って来た時に略奪され尽くし、破壊され尽くし、焼かれ尽くし、
したのでしょうね。

戦さのならいとはいえ惜しいのですが
厳島神社に残っているという事で感謝します。

中国の文献などが日本に残っていて当地では失われてしまっている
というお話を聞いたことがありますが
日本でも平家の本拠地では消え離れた所で存続出来た
という事でしょうか。
[20]takahiroさんからのコメント(2003年03月03日 00時38分47秒 ) パスワード
  

服部明子様

 [19]→ その通りであると思います。

 ただまた、事象(平家)の記憶とは、単に外に形(厳島神社)、史料とし
 てのみ現在に存続しているのではなく、一人一人の「遺伝子の記憶」を通
 しても存続しているのではないかと、「平家物語を熱く語る」の皆様の投
 稿を拝見し、思うに至っています。
[21]takahiroさんからのコメント(2003年03月03日 00時40分49秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年03月03日 00時41分35秒
[22]takahiroさんからのコメント(2003年03月03日 00時42分48秒 ) パスワード
  

二重投稿になりましたので、[21]削除しました。
[23]YURIさんからのコメント(2003年03月03日 20時31分11秒 ) パスワード
  

服部 明子さま

こんばんは。
書き込みを拝見して ため息が出そうになりました。
10年間凄い心の旅路を経験を体験なさったとおしゃっていましたが
過去を巡ってぐるっと輪が完結なさったのですね。

800年(!)ぶりに思いが通じ合うと言うのもすごいロマンを感じます〜。

過去において 自分が誰であったのか 実在した人物を特定できたら
それはそれは特別な感情があるのではないかと想像します。
わたしはまだ一度もそういう経験はないのです。
それは想像しただけで とってもワクワクすることでもありますし 
いろんなパズルがカチッとはまるように 自分の理解を深めてくれることでもあるのでしょうね。。。

では明子様にとっては今回が最後の生となられるのですか?
その後で魂がどこにゆくのか・・・とても興味があります。








[24]YURIさんからのコメント(2003年03月03日 20時37分46秒 ) パスワード
  

takahiroさま

こんばんは。
六波羅蜜寺に史料は残っていなかったのですね。残念です。
今は小学校の校庭なのですか・・・何だか夢のあと・・・という感じですね。
けれども京都に行ったなら なんらかの記憶が甦ってくるかもしれませんね。
場所には かつて存在したエネルギーも残っていると思いますから。。。

それにしても全てが焼け払われてしまったなんて。
本当に残念です。
[25]服部 明子さんからのコメント(2003年03月04日 02時25分12秒 ) パスワード
  

YURIさん

私は母から母方の事(源氏方+南朝方だったこと)は聞いていましたが
父からは何も聞いていませんでした。漫画の忍者で伊賀を知ってるだけで自分には関係ないと思ってました。

でも具体的になったのは結婚してからです。
それもアメリカ人の夫から「自分は昔、蟹だった」なんて言われて
初めは、この人、頭おかしいんじゃないの?でした。
それに、軟弱な平家なんて止めておきなさいよ、でした。

でも夫と結婚してからアメリカにある本屋さんで母方関連の本が向こうから目に入って来て
母方のことが分かりました。
これ以来母方に関するいろいろな情報や機会が向こうから私を目掛けて矢のように降って来ました。
アメリカで見る日本からのニュースでも母方関連のテレビ番組が次々と放送されました。

夫は厳島神社が好きで日本に里帰りする度に何度でも厳島神社に通いたがりました。
夫は「赤間神宮にも連れて行って欲しい」と言いましたが
実現するのに随分年数がかかりました。
私の準備が出来てなかったということでしょう。平家は軟弱だから性に合わないと思ってましたから。


でも1993年にとうとう赤間神宮に行く事になってそれで「爆発」した感じですね。
この年の私のオカルト・パワーは最高潮でした。母方についても父方についても。
この年、母方が吹っ切れました。
この年以後、父方の平家にのめり込みました。

1999年に平熱の管理人さんに赤間神宮につれて行って頂いて
藤原景俊君に話し掛けたのです:もうすぐ伊賀に行くから必ず伊賀で会おうねって。
その後凄いオカルト体験をしました。
(藤原景俊君が800年の約束を守って伊賀で待っていたのです
前日の夜中には光となって来て「待ってるよ」と言いに来ました
当日は赤い橋の袂で待ってましたね。「早く約束の場所においで」と)


でももう終わりました。
99.99%終わった感じです。
今は平家に対する思いが封印されつつあるって感じですね。
吹っ切れた、という事でしょう。

いろいろオカルト体験した事が「忘我の川」の向こうに去りつつあります。


日本にいた時、私の周りに集まった男の子達は、
アメリカで「御縁があった」という事はハッキリしましたが
日本にいた時に彼らとの関係をハッキリさせる機会はありませんでした。
不思議です。


彼らの内の1人は南朝方当時のお仲間で
この人と結婚してたら私は服部家ホンヤさんと同じ格の家に嫁ぐことが出来てたのだな
と思います。
今思うと惜しいことをしましたが当時は言い寄られて迷惑してました。(何なの?この子!)って。


私が1050年前から望んでた楽な生活をさせてくれる相手でしたのにねえ〜
この男の子は私の夢を、長年のシンデレラ願望の夢を叶えてくれる人だったのに。
向こうから熱心に言い寄ってきてくれてましたからチャンスはありましたのにねえ〜。

でも私には旧家に嫁ぐような育ちは身についてませんでしたから。
ここでも矢張り1050年前に父だった人と現在の父が一致します。
そういう相手との縁組は父が望んでいなかったということです。

右手以上両手未満の男の子達の素性について書けば
私はプリンス・チャーミング(白馬に乗った王子さま)がいっぱいいました。


日本にいた時は外国に目が向いていて
アメリカ人と結婚した途端に日本に目が向くなんて
これも不思議です。

私の一生はアメリカ人の夫と結婚する運命だったと思います。
外から見る方が客観的に?自分の過去生を整理出来た!のでしょう。


結局は私の大部分は伊賀の人間そのものだったという事になります。
だからでしょうね服部という姓を今でもアメリカでも司法的に合法使用してますから。


生まれて来る時に「忘我の川」をちゃんと渡って過去の記憶を無くした人は
現世でも過去のことは忘れているのでしょうね。
でも思いを持って「忘我の川」を渡った人は
過去生での経験を何かの機会に思い出すのでしょうね。


YURIさんはいいですね。
良い思い出のようですから。
[26]YURIさんからのコメント(2003年03月04日 12時02分19秒 ) パスワード
  

服部 明子さま

お返事ありがとうございます。
またまた ため息です。
なんというか濃い体験をなさったのですね〜。

そしてやはりアメリカ人のご主人は平家と関係が深いお方なのでしょうね?
それほどまでに厳神社に思い入れがおありになったということは。
赤間神社というところもはじめて知りましたので要チェック!ですね。

わたしの場合 平家の女性以外の過去生では苦しんだものもたくさんあったようです。
思い出すたびに そのときに自分に与えてしまった条件付けを癒してきたように思います。
ですから今 平家の時の過去生にとっても惹かれるのも
何か思い出すべきことがあると感じています。

では赤間神社について調べてきます(笑)



[27]服部 明子さんからのコメント(2003年03月04日 14時21分47秒 ) パスワード
  

YURIさん

退行催眠療法で有名なブライアン・ワイス博士のワーク・ショップに
日本人女性が3人、私費参加して
総数80人の集団前世退行催眠を受けたそうです。

個人の場合は2時間ほどかかるのに集団では35分で済んだそうです。

3人の内、今回うまく催眠にかかって前世を見た人は前回は「かからなきゃいけない」と思って失敗。
今回は成功したそうです。

彼女は前世は男性で、催眠で、妻だった人の死のベッドにいたそうで泣き崩れる前世の自分を見
その後、自分の死の様子を見たそうです。

彼女の前世の「彼」は
妻を失った悲しみから解放される安堵と死んだら妻と会える喜びの中で死を待っていたそうで
前世の彼女(彼)は妻の死後、周囲の人に心を閉ざし孤独な最期を遂げたのだそうです。

他の2人は会場で本当に眠った人のいびきで集中できなくて失敗。
成功した人はワイス博士の覚醒の合図まで全く会場のいびきの音に気が付かなかったそうです。

またトランス状態が深いほど時間が短く感じるそうで彼女は10分ほどに感じたそうです。


この成功した女性が言うには
「前世の経験から今の自分が学ばなくてはいけない事が必ずあるらしいと思った」と。


私にはこういうのは必要ないけど
今でも不思議なのは
私が最初の死の淵にいた時に私を闇の世界に引きずり込もうとしたのが
いわゆる西洋の死神なのです。

真っ暗闇の中で真っ黒の衣装を着た人でしたが
もしどんな感じだったか述べよと言われたら西洋の死神でした。

暗くていやあ〜な世界でした。
行きたくなかったし
友人が「行っちゃだめ!」と引き止めてくれたから行かなかったです。
私は必死の力を振り絞ってこの世に戻って来たという事になります。
当然この友人はその場にいたわけじゃないです。


でも私は日本人だから日本人の死神は普通だったら黒子姿じゃないのかな?とか
当時はギリシャ神話の影響を受けてたから先入観からは「運命の3姉妹」に糸を切られるとか
そういう死だったら納得行ったのですが西洋の死神が出て来たというのが私には不思議です。


「行っちゃだめ!」と声をかけてくれたのは
学生時代以来の友人の女の子で、
上記に書いた服部家と同格の男の子の一族の女の子になります。

彼女とも不思議な縁で結ばれていて
やっぱり先祖がらみで疎遠になることはないのだろうと思います。


日本人ってやっぱり何らかの形で繋がっているのだと思います。
調べたらみんな先祖が知り合いだったとかになるんじゃないかしら。


命を助けてくれたのが彼女だということで彼女とは南朝方時代の縁の強さを感じています。

そもそもは彼女が私に興味があって寄って来たので
向こうは私に何かを感じていたのかも知れません。

彼女と話し合ったら興味深い事が出てくるのかも知れませんが
私はもう「吹っ切れた」というので良いと思うので訊かないでおきます。
[28]YURIさんからのコメント(2003年03月05日 08時48分54秒 ) パスワード
  

服部 明子さま

おはようございます。
!!!
死神って本当ににいるんですか!?
かなりショックです。。。
わたしは幽霊とかも見たことないので 怖いです〜。
「行っちゃだめ」のひとことで我にかえり振り切ることができたのでしょうね。
魂レベルで縁のある人たち いわゆるソウルグループというのは
見えないレベルで繋がっていて
お互いにサポートしあっているものなのですね。
[29]服部 明子さんからのコメント(2003年03月05日 11時59分38秒 ) パスワード
  

YURIさん

私はこれまで実にいろいろな体験をしましたから
もっと凄い経験や怖い思いをしていますが

上記の死神のことは「行っちゃだめ」の一言で
死ななくて済んだので友人には感謝です。

友情というのを噛み締めます。
私もそういう存在でありたいと願います。


先祖達が涙や血や命を共有してたから、やはり現世でも支え合うのかも知れません。


でも思いに強弱のあるのがまだ理解出来ません。
・月の人とのような両思い(へんな表現ですが、同程度の思い合い)の場合
・向こうからこちらへの熱心な思いの場合(こちらは迷惑と思ってる)
・逆に私はせっせと好意を感じてるのに向こうはそうではない場合(向こうには迷惑な思い)
こういう思いの違いの差の理由は分かりません。


それにしても「死神」が自分が思ってた姿と全く違ったというのが不思議です。
自分が思い描いてた姿だったら先入観があったからと理解出来るのですが
(私は人の死とは生命の糸をハサミで切られる事だと思ってたので)
おいでおいでされたというのが納得いかないです。

祖父の家の隣の人が溺れた時に
祖父母が必死に名前を呼んで命が助かったという話を聞いたことがありますが
他にも元同僚が矢張り同じようにみなで名前を呼んで溺れた人を戻したと聞いたことがあります。

人が生死の境にいるというのは
一生懸命「行くな」と言う人と「こっちへおいで」と誘う
2つの存在の力関係の真ん中に立たされている
事と思います。

シューベルトの「魔王」の歌詞を知った時
私の経験した生死の境の状況にそっくりだと思いました。

死んで欲しくないと願ってくれる人がいる(いた)と分かったというのは
生きる力になると分かりました。
ただ何故彼女だったのかというのは今だに分かりませんが。
でも私も誰かの命を引き止める力になれるのじゃないかというのを思います。


>魂レベルで縁のある人たち いわゆるソウルグループというのは
>見えないレベルで繋がっていて
>お互いにサポートしあっているものなのですね。

のようですね。
[30]たまねこさんからのコメント(2003年03月05日 21時58分19秒 ) パスワード
  

初めまして、YURIさん。

私の母の実家が広島にありますので、帰省する度に、
宮島を訪れたものです。ここは、私たちにとって"外せない"場所、
切っても切れない因縁や腐れ縁!を感じる場所でもあります。

私もYURIさん同様、この『平熱』に引き寄せられるようにして、
やって来た者の一人ですが、お蔭様で、この一年間、過去世の自分
を振り返ることができました。今は、過去世のトラウマやPTSDに
悩まされることもなくなり、吹っ切れています。

YURIさんも、これから自分が何をすべきか、何処へ導かれていくのか、
だんだんわかってくると思いますよ。

『生まれ変わり』について研究しているヴァージニア大学のイアン・
スティーブンス博士によれば、「出生する子供の多くは前世の記憶を
持っていて、1歳半から4歳位で語り始め、10歳頃になると、新しい
生活と記憶が浸透して、前世の記憶が薄れていく」とのことです。
非業の死を遂げたとか、心残りがある場合は、過去世の記憶も鮮明
になるのではないかと…。

ところで、みなさんは、歴史上の人物で、誰が一番、気になりますか?
「どうも気になって仕方がない」と思う人物に近いところに、"自分"
がいた…ということもあるそうですよ。
私はなぜか、鑑真です(笑)。同じ船にでも乗っていたのかしら?

『平家物語』の登場人物では、斎藤別当実盛、源頼政、木曾義仲御一行
に共感を覚えるのですが、未だに気に掛かって仕方がないのが、経正。
舟遊びをしながら、オヤジギャグ満載の歌を交し合う?姿が浮かんで
くるのです。それに、なぜかいつの時代にも、琵琶湖の辺りに、
大切な"忘れ物"をしたような気がしてならないのです。
とんでもない"物"でなければ良いのですが(笑)。
[31]YURIさんからのコメント(2003年03月06日 20時56分22秒 ) パスワード
  

服部 明子さま

こんばんは。
赤間神社のサイトにゆき まったく私好みの神社だわ・・と惚れ惚れしていたら
平家の七盛塚の石碑を見て突然号泣してしまいました。
やはり何かあるようです。
数百年過ぎても今だに受け入れることができずにいるご縁のある方がいらっしゃるのかもしれません。

なにかコーリングのように感じるのです。
ですので 京都、福岡、山
口と心惹かれるままに訪ねてみようと思っています。
どなたなのかは分からなくとも 家継さまのように星にお帰りになるのをお手伝いできたらと思っております。
できるのかどうか どのようにしたらよいのか
まだ分からないのですけれども。



[32]YURIさんからのコメント(2003年03月06日 21時06分32秒 ) パスワード
  

たまねこさま はじめまして。

どうぞよろしくお願いしたします。
 
本当に何も知らずに宮島を訪ねたことで 
何かスイッチが入ったような気がいたします。
どうにも気になって仕方がないのです。

たまねこ様のおっしゃるように
これから自分が何をすべきか、何処へ導かれていくのか、
きっと流れに身を任せていれば 分かってくるような気がしています。

最初は貝合わせを見たときに甦ってきたのですが
ふとしたきっかけで 必要なことに導かれてゆくのでしょうか。

なにかご先祖の御魂をおなぐさめしなくては。というような気持ちが湧き起こってくるのです。

たまねこさまの「琵琶湖」忘れ物は何なのでしょうね。
まだこれから開く扉なのですね。



[33]服部 明子さんからのコメント(2003年03月07日 00時19分06秒 ) パスワード
  

YURIさん

赤間神宮は凄いパワーの所ですよ。
1993年
私には赤間神宮パワーが爆発しました。

出来るなら朝早く観光客の来ない前にいらっしゃる事をお勧めします。

1999年だったかしら
あの時は観光客と同じ時間帯だったので精神統一が出来ませんでした。


是非是非赤間神宮にいらっしゃってくださいね。
[34]YURIさんからのコメント(2003年03月08日 07時51分12秒 ) パスワード
  

服部明子さま

どうもありがとうございます。

桜の咲くころに京都を 藤の花の咲く頃に福岡を訪ねる予定です。
福岡の流れで赤間神社に行けるかな・・・と今相談中です。

朝早く観光客の来ない前に・・ですね!
はい、そうします。
七盛塚に参ることを考えるととってもドキドキしてきます。




 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.20 by Rapha.