[1] | takahiroさんからのコメント(2002年10月14日 02時47分14秒 ) | パスワード |
○頼盛一族の居住地について
頼盛:六波羅第<池殿>
:八条烏丸第
:御池烏丸第
保盛:一条京極第
光盛:梅小路東洞院第
以上五第は文献等で比較的よく散見しますが、また、頼盛一族は以下に記し
ますように、「北白川」の地とも一定の関係を有していました。
<平頼盛一族と北白河院陳子の関係>
平忠盛┳清盛
┃
┣家盛
┃
┣経盛
┃
┣教盛 ┏頼清━保清
┃ ┃
┣頼盛┳保盛┻保教(北白河院陳子兄・藤原保家猶子)
┃ ┃
┗忠度┣為盛━家保━家衡(鬼丸家祖二代・北白川鬼丸邸宅)
┃
┣仲盛━盛重
┃
┣知重┏教性
┃ ┃
┣光盛╋女子(北白河院御所・安嘉門院宣旨局)
┃ ┃
┣保業┣女子(北白河院御所・安嘉門院左衛門督局)
┃ ┃
┣静遍┗女子(北白河院御所・安嘉門院内侍局)
┃
┣隆辨 (北白川邸宅)
┃
┗女子 ┏保家
‖ ┃
‖━┫
‖ ┃
藤原通基━基家 ┗北白河院陳子┏安嘉門院(北白河院御所)
(持明院家) ‖ ┃
‖━━━┫
‖ ┃
┏後高倉院 ┗後堀川天皇
┃
高倉天皇━╋安徳天皇
┃
┗後鳥羽天皇
[2] | takahiroさんからのコメント(2002年10月14日 03時05分08秒 ) | パスワード |
平頼盛娘は藤原(持明院)基家の室となり、藤原保家(1167〜1210)
藤原<北白河院>陳子(1173〜1238)を産んでおり、この姻戚関係
から、頼盛一族と北白川との関係は始まっていると思われます。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月14日 03時20分02秒 ) | パスワード |
京都に於ける北白川という場所(方角)
そして
亡き皇太后の女官が北白川家のご出身ですから
(北白川家の女性が今の天皇のお妃候補だったと聞いています)
皇室にとって重要な家だったという事が分かりますから
楽しみに拝見させて頂きますね。
[4] | takahiroさんからのコメント(2002年10月14日 06時04分38秒 ) | パスワード |
○北白河院御所の<場所>の特定
「山州名跡志」は後二条天皇御陵付近をもって北白河殿跡にあてているが、
北白河殿は後高倉院の妃北白河院陳子の御所として造立され、妃の薨去後
はその御子の安嘉門院邦子に受けつがれ、その位置は北白川久保田町北方
と推測される[杉山信三説]。
『京都大学構内遺跡調査研究年報』(昭和五十一年度)よりの纏め。
また、現在北白川仕伏町に祀られている北白川天神宮は、文明年間、足利
義政により現在地へ移転されるまでは、上記北白川院御所の近辺、同じく
現北白川久保田町(宮之前)に存在したと伝えられる。
平安京に都が奠められると、京に移り住んだ貴族たちにとって東山山麓は
山荘を営むに恰好の地であった。近江坂本に通ずる重要な街道に接してい
た久保田の森(現北白川久保田町宮前)もこうした山荘の一つだったと思
われる。『北白川天神宮 <氏子の歴史>』より。
○以上より、当時、現北白川久保田町には、北白河院御所を初めとする邸宅
街が形成されていたものと思われる。
(また当時北白川は、大きくは愛宕郡上粟田郷に属し、下鴨神社の御神領
であり、北白川西辺には下鴨社神職の社家「泉の館」が存在した。)
[5] | 川口 信さんからのコメント(2002年10月14日 07時28分52秒 ) | パスワード |
北白川宮家が出て参りましたので一言。
当川口家は祖父、父と二代に亘り、仕え私も宮邸内で生まれ、そこで育ちました。現在その地は新高輪プリンスホテルとなり、生まれた場所は飛天の間の地下になってしまいました。
北白川については他の人より強い思い入れがあります。
修学院離宮によく仕事で行くことがありましましたが「北白川」は車でよく通りました。
>亡き皇太后の女官が北白川家のご出身ですから
(北白川家の女性が今の天皇のお妃候補だったと聞いています)皇室にとって重要な家だったという事が分かりますから。
昭和33年にお后候補の本命中の本命だった北白川肇子様が選に漏れた時、亡き父が大変がっかりしたのを今でも覚えております。(原因は現天皇家とは血の繋がりが強すぎる為だったと理解していますが)
そこで北白川の地名について調べたことがありますがtakahiroさまがおっしゃる北白川鬼丸という場所がどこにあるのか分かりません。京都は昔からの地名が残されている所なのに、家名にしたくらいですのでそれ相当に地だったのと思いますが、郵便番号、京都市区分地図にも記載がなく気になって仕方がないのですがご教示くださればムヤムヤが無くなるのですが宜しくお願い申し上げます。
北白川天神宮
http://www.h3.dion.ne.jp/~y- hirota/wakachuu/tenjingu/tenjingu_seiichi.html
北白川地名の語源の資料にもと・・・
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hg88756/name.html
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月14日 08時45分17秒 ) | パスワード |
川口さまと北白川家が繋がりましたか。
なかなか興味深いですね。
takahiroさまの今後の書き込みに期待しましょう。
[7] | takahiroさんからのコメント(2002年10月14日 11時18分18秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2003年04月15日 19時24分37秒
[8] | 川口 信さんからのコメント(2002年10月14日 11時35分26秒 ) | パスワード |
早速のご教示有難うございます。なかなかの勉強のご様子、敬服いたします。見習いたいものです。今後もこのスレッドの展開に注視して行きたく思います。宜しくご展開のほどを。
[9] | takahiroさんからのコメント(2002年10月14日 12時10分44秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2003年04月11日 23時03分40秒
[10] | takahiroさんからのコメント(2002年10月14日 12時33分12秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2002年10月14日 13時33分09秒
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月14日 12時35分04秒 ) | パスワード |
比叡山は京都の北東にあって(鬼門の方角)朝廷を守護する為に延暦寺が置かれた
と聞いています。
鬼丸家が屋敷を鬼丸館と称したのは、やはり同じような意味合いからだった、とも思います。
北白川に土地を拝領し、家を守る為、館の名をなんと名付けようとした時、
いろいろ考えた末、鬼丸と名付けたのであろうと推測します。
館の名が姓に変化したのだと思います。
[12] | takahiroさんからのコメント(2002年10月14日 13時32分33秒 ) | パスワード |
川口信様
「平家物語りを熱く語る」上での川口様の博学、および論理的な記述に
は常に敬服しております。
一度、直接メールをお送りさせて頂きます。
今後とも御教唆、よろしくお願いします。
[10]は内容が少し個人的すぎましたので、削除させて頂きます。
[13] | takahiroさんからのコメント(2002年10月16日 11時37分16秒 ) | パスワード |
北白河院陳子と平頼盛との関連事項
○陳子の父、藤原(持明院)基家は、上西門院の乳母子であり、上西門院の
母は待賢門院であった。この待賢門院に頼盛の父忠盛は別当としてかつて
仕えていた。また頼盛の母、藤原宗子の父宗兼は、待賢門院の祗候者であ
った。(待賢門院は上西門院とともに後白河天皇の母でもある。)以上の
関係から、藤原(持明院)基家と頼盛女子の婚姻は為されたのではないか
と推測される。
○陳子の母、平頼盛女子は、治承三年(1179年)皇子守貞の乳母に採用
される。皇子守貞は平氏壇の浦滅亡から生還し、上西門院の養子となり、
文治五年(1189年)親王の宣下を蒙る。親王は建久四年(1193年
)十五歳の時、乳父母藤原基家夫妻の子である陳子を室に迎える。守貞親
王は陳子との御子茂仁親王が承久三年(1221年)後堀川天皇に即位す
ると、太上天皇の位を賜り、後高倉院と称せられる。翌承久四年陳子は准
三后を賜り、出家、女院(北白河院)となる。翌年後高倉院は崩御され、
北白川に葬られる。
○陳子の兄、藤原保家は、頼盛長男保盛の子保教を猶子と為している。(後
保教は承久の乱におき京方に与し、石清水八幡宮内にて自刃す。)
平家西走前、養和元年(1181年)七月二日、当時「加賀守」であった
藤原保家と、「紀伊守」であった平為盛(頼盛次男)の間で、補任国の名
替が行われている。当時紀伊国の知行国主であった頼盛の推挙による、一
族間での名替と推測される。
○頼盛の子、光盛の娘三人は、それぞれ宣旨局、左衛門督局、内侍局として
陳子の娘安嘉門院へ北白川御所にて務めている。
○藤原基家は寿永二年の源義仲の入京時、頼盛の女婿として、義仲からの迫
害を怖れ、一時鎌倉へ亡命している。
○池大納言家領とも関連の深い八条院領は、八条院から養女春華門院、後鳥
羽上皇、後高倉院と移り、さらに北白河院陳子、安嘉門院へと受継がれて
いる。
[14] | takahiroさんからのコメント(2002年10月16日 11時59分00秒 ) | パスワード |
[13]追記
○平家一門小松家、平資盛は別名を「持明院三位中将」と称されるが、そ
れは、藤原(持明院)基家の娘を正室にもち、基家の持明院第に居住し
ていたためと言われる。(しかしこの資盛の正室は、北白河院陳子とは
異母の基家の子である。)
[15] | takahiroさんからのコメント(2002年10月16日 19時39分38秒 ) | パスワード |
北白川の地誌における記載。
『平安時代に入って都がこの京都へ遷るとともに、当然の事ながら、朝廷に
仕える貴族たちもあいこぞって京に移り住むこととなった。白川の里は都
に近く、これらの人たちの別荘地として格好の土地であった。ここに家邸
を構え、菩提寺を創建し、墓地を営んだ事は必然の勢いであった。
その寺は、西方寺(旧北白川御殿東方)、東明寺(小倉町付近?)、月光
清寺(瓜生山麓?)吉田寺(追分町東付近)などと呼ばれていたが、正確
な位置については何もわかっていない。北白川古地図にみられる「字正法
寺」、その西隣接地「がらん堂」(何れも後二条天皇陵北辺)の地名も寺
院の存在を暗示するものがある。
そうした氏族の菩提寺の1つに、平安朝初期、当初白川喜多院とよばれて
いた寂楽寺という寺があった。今は消滅して正確な位置はわからないが、
文献によると、村上源氏の菩提寺であり、それ以前は中納言平維仲とその
一統の菩提寺であったという。』
上記地誌には巻末に参考文献として、角田文衛氏の村上源氏の菩提所につ
いての論文(財団法人古代学協会刊『古代文化論功』昭和44年所収)、
が挙げられていたので、見ると、当論文においては、村上源氏祖具平親王
以降、村上源氏一族は、鎌倉期に至るまで、北白川の地を一族の別荘地な
らびに菩提所に使用していた事が、綿密に考証されている。
つまり、ここにおいて、藤原基家の係累ではなく、頼盛の後室、源寛雅の
娘から繋がる村上源氏の係累からも、頼盛一族と北白川の関係は浮かび上
がる。また、
『寂楽寺は、その後、法勝寺の末寺となり、鎌倉時代末に至って廃絶した
ようである。各地に所在した寺領が高野山その他に吸収されたのに対して、
敷地の一部は早くも「承久の乱」の後、北白河院(後堀川天皇の生母・藤
原陳子)の所有に帰した。寛喜二年(1230年)八月二十一日、北白河
院の陳子は、新造の北白河殿に移徒されたが、その際、女院は、鷹司末路
を東行し、「天満宮の前」を過ぎ、北白河殿に着御している。』
つまり、頼盛娘の嫁ぎ先、藤原基家一族と、頼盛の後室、村上源氏(源寛
雅)一族の、頼盛を接点とする北白川における繋がりを見る事ができる。
(上記抜粋中「天満宮の前」とあるのは、北白川天神宮を指す。)
*
頼盛と村上源氏の関係は、『頼盛末裔』に関する他スレッドにおいて、す
でに取上げていたので、再びの「北白川」を通しての村上源氏との出会は
少し驚きでした。村上源氏にとっても、北白川の地は、始祖具平親王以来、
所縁深い地であったようです。
[16] | takahiroさんからのコメント(2002年10月16日 23時37分40秒 ) | パスワード |
これまでの論旨に、もう一つ重要なつながりを見つけました。
<村上源氏>
村上天皇━具平親王━師房┳顕房━雅実
┃
┗俊房━師隆━女子(藤原基家母)
○つまり、藤原基家は、藤原通基と村上源氏源師隆女子の子である。
○よって、北白河院陳子は、母方頼盛の係累を通してのみ村上源氏と関係を
有していたのではなく、父方基家の係累を通しても関係を有していた。
また、
○陳子、「北白河院」の女院号を賜る。貞応元年(1222年)。
○崩御した後高倉院を、北白川の地に葬送。翌貞応二年。
○陳子、北白河殿を新造。寛喜二年(1230年)。
と、北白川と陳子の関係は上記であるが、おそらく「北白河院」の女院号を
賜る以前から、父方基家一族、母方頼盛一族の村上源氏との係累から、北白
川との関係は、深かったと思われる。何らかの所縁を北白川に持ったので、
「北白河院」の女院号を選定されたものと思われる。
*
紆余曲折してきましたが、以上より、平頼盛一族と北白河院陳子の関係は、
北白川の地を通しても、ある程度の所縁のあったものであると、考える事が
できると思われます。
今回は、村上源氏が北白川との所縁が深かった事、ならびに藤原基家の母方
の出が村上源氏であった事、以上二点が新たな発見でした。
また以上より、平頼盛の子為盛の系譜が北白川に邸宅を有していたという可
能性も(伝承が伝える)、あながち牽強付会ではないと、思われます。
引き続き、『平頼盛一族と北白河院陳子の関係』を考察していきます。
[17] | takahiroさんからのコメント(2002年10月17日 09時12分00秒 ) | パスワード |
[補記]
<村上源氏と平頼盛、藤原基家の関係>
◎村上天皇━具平親王━師房━顕房┳雅実
┃
┗寛俊━寛雅┳俊寛
┃
┗女子(平頼盛後室)
○村上源氏寛雅の娘が平頼盛の後室になっており、光盛を生んでいる。
○光盛の娘三人は、それぞれ宣旨局、左衛門督局、内侍局として陳子の娘安
嘉門院へ、北白川御所にて務めている。
なお、以下は一試論ですが、記してみます。
<鬼丸太刀由来について>
◇北白河院陳子は、後高倉院の正室であるが、この後高倉院の同母弟に後鳥
羽上皇がいる。
◇この後鳥羽上皇の御鍛冶番に粟田口国綱という人物がおり、彼の制作した
「鬼丸太刀」は現在御物として皇室に所蔵されている。
「鬼丸太刀」:後鳥羽上皇の御番鍛治、粟田口国綱の作で、北条氏から新
田義貞、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の手を
経て、明治天皇に献上され、現在に至るという、天下五剣
の一刀。
◇この「鬼丸太刀」について、頼盛末裔「北白川鬼丸」に居住したことによ
り称したという「鬼丸」姓の一系譜には、次のような、やや一般に流布さ
れているのとは異なるバージョンの「由縁」が伝えられている。
『幼少のころ、私の父はよく就寝のころになると、面白い話をしてねむりに
誘いこんでくれました。昔、後鳥羽上皇のころ、上皇は毎夜、深更になる
と、宮城の西の空から暗雲が漂って来て、それが宮中の上に来ると、今迄
おやすみの上皇が、急に胸を圧えられ、もがき苦しんで目ざめられること
でした。それは恐い鬼が夢の中に現れ、お痛めすることでした。それが、
1回や2回ではなく、永く続くので、そこで枕元に一振りの刀を置いて、
御やすみになりました。いつもの通り鬼が現れると、この刀はひとりで鞘
を離れて一刀のもとにこの鬼の脳天を割ったそうです。それからは上皇は
よく御眠りになりました。そして、この刀はいつの間にか、鬼割から鬼丸
と云われる様になり、宮中に今も名刀として現存します。』
おそらく、「鬼丸太刀」にお詳しい人でしたら、気付かれていると思います
が、この鬼丸家に伝わる伝説の、「後鳥羽上皇」を「北条時政」に、「宮中
」を「鎌倉」に入替えれば、それが、一般に『太平記』を元に流布されてい
いる、「鬼丸太刀」の由来記になります。
ここからは完全な試論ですが、
◇「鬼丸太刀」は元々は、後鳥羽上皇の御鍛冶番に粟田口国綱が、後鳥羽上
皇の為に作ったのではないか。そして暫くは宮中に蔵されていたのではな
いか。それが、承久の乱を機会に、鎌倉の北条氏の手に渡ったのではない
か。その上で、その由来記が、『太平記』等に記されているように、主人
公が、後鳥羽上皇から北条氏に、移りかわったのではないか。
あるいは、鬼丸家譜では、日向国下向(播磨国を経て)の直接の原因を、北
条時政の迫害と記していますので、逆に、自家と同名の太刀を語る際に、北
条氏の名を嫌い、後鳥羽上皇に入替えたのでしょうか。
以上は全くの推論です。
[18] | takahiroさんからのコメント(2002年10月17日 13時01分47秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2002年10月17日 16時13分17秒
[19] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月17日 13時10分11秒 ) | パスワード |
「禰寝家」
禰寝家は大隅の小松家(平維盛の孫)の家系というのをどこかで見ました。
最近は「根占」と簡単に書くそうですね。
[20] | takahiroさんからのコメント(2002年10月17日 14時05分13秒 ) | パスワード |
服部明子様御指摘の通りです。
◎『桓武平氏にして維盛の子高清、字六代律師妙覚、その子清重、称清重
者用清盛之清、興重盛之重也云々、建仁三年七月三家将軍頼家卿補彼
院(禰寝南俣院)地頭職之旨、賜袖判下文俟、云々、於茲改平氏称建
部氏者也』
と、「平氏禰寝家系図」には、あります。
『大日本史料』にて紹介されています。
[21] | takahiroさんからのコメント(2002年10月17日 16時12分13秒 ) | パスワード |
[18]のコメントにおき、誤記がありましたので、後に改めて再掲します。
([19]において服部様より頂いているコメントは、「鬼丸神社」を氏の神社
とされている、禰寝家に対するコメントです。分脈が判りにくくなり、申
し訳ありません。)
[22] | takahiroさんからのコメント(2002年10月17日 19時30分31秒 ) | パスワード |
[15]における「北白川と村上源氏」に関する正確な論文名は以下です。
<村上源氏の塋域>:角田文衛著
浜田耕作先生追憶「古代文化論攷」所収
財団法人古代学協会刊 京都・昭和四十四年
漸く「塋」の字を出せましたので、ここに正確に再掲します。
[23] | takahiroさんからのコメント(2002年10月20日 01時20分31秒 ) | パスワード |
<村上源氏>
村上天皇━具平親王━師房┳顕房━雅実
┃
┗俊房━師隆━女子(藤原基家母)
[16]の上記記載、「俊房」を「師忠」へ訂正。
村上天皇━具平親王━師房┳顕房━雅実
┃
┗師忠━師隆━女子(藤原基家母)
上記が正確な藤原基家の母につながる系図でした。
またこの「師忠」は、藤原基家流の祖、藤原頼宗(藤原道長二男)の娘を母と
して生まれており、藤原基家一族と村上源氏のつながりは、村上源氏初期の頃
からのものである事が判りました。
村上源氏と北白川の関係は、始祖具平親王以来のものであるので、「北白河院
」という女院号を賜った陳子の家系である藤原基家流もまた、村上源氏とのつ
ながりにより、その北白川との関係は、古くからのものであった事も、ここに
示唆し得ると思われます。
また、藤原基家の母である、源師隆女子は、待賢門院の官女を務めており、上
西門院の乳母でもありました。
ここで同じく、頼盛父忠盛が待賢門院別当であった事、また頼盛母藤原宗子の
父宗兼が待賢門院祗候者であった事が、つながります。
つまり、北白川に所縁の深い(邸宅、菩提寺を所有する)村上源氏と数代にわ
たる婚姻関係をもつ藤原基家と、頼盛女子の婚姻により、頼盛一族は、確固とした北白川との所縁をもったと考えてよいと思われます。
(範囲を北白川でなく、「白河」までひろげるなら、平忠盛が造進した得長寿
院、清盛が造進した白河北殿の千躰阿弥陀堂が、既に「白河」の地には存在
し、平家との所縁は存在した。)
*
<参考>
◇藤原基家(1132〜1214)
◇平 頼盛(1131〜1186)
○藤原保家(1167〜1210)
○藤原陳子(1173〜1238) 以上二名、基家、頼盛女子の子
上記より、基家と頼盛女子の婚姻は、1165年頃と思われる。
頼盛女子の生年は1150年頃と思われるので、頼盛は最初の室(保盛、為盛らの母)を、自身10代の頃にすでに娶っていたものと思われる。
○守貞親王・後高倉院(1179〜1223)
また藤原陳子は、21歳の時(1193年)、当時15歳の守貞親王(後の後
高倉院)と婚姻し以下の皇子女をもうけている。
[北白河院陳子、所生の皇子女]
◎尊性法親王:天台座主、四天王寺別当<1194〜1239>
◎利子内親王:四条天皇准母、皇后宮、式乾門院、斎宮<1197〜1251>
◎能子内親王:<1200〜1245>
◎道深法親王:仁和寺御室<1206〜1249>
◎邦子内親王:後堀川天皇准母、皇后宮、安嘉門院<1209〜1283>
◎茂仁 :後堀川天皇<1212〜1234>
◎本子内親王:<?〜1229>
◎有子内親王:<?〜?>
[24] | takahiroさんからのコメント(2002年10月20日 11時04分43秒 ) | パスワード |
[15]において挙げた、北白川地誌からの抜粋。
『そうした氏族の菩提寺の1つに、平安朝初期、当初白川喜多院とよばれて
いた寂楽寺という寺があった。今は消滅して正確な位置はわからないが、
文献によると、村上源氏の菩提寺であり、それ以前は中納言平維仲とその
一統の菩提寺であったという。』
上記「中納言平維仲」については、角田文衛筆『村上源氏の塋域』には、以
下の記載がある。(角田氏は、村上源氏の塋域に隣接して、寂楽寺が存在し
たとしている。)
『北白川の寂楽寺と平維仲との関係については、既に述べるところがあった。
(寂楽寺とは平維仲一統の菩提寺であった事。)尤も維仲が建立したのは、
白川寺の喜多院であった。恐らく白川寺は、もとは平維仲の曾祖父の中納
言・平維範の山荘であったのであろう。』
ここにおいて、平維仲、平維範とは、堂上平家に連なる人物であり、特に平
維範は、高棟王嫡男であり、後の平時忠、平時子らの直系の祖にあたる人物
である。
つまり、堂上平家の菩提寺もまた北白川に営まれ、また、山荘も営まれてい
た事が判り、ここからも平家と北白川の関係が浮び上がる。
そもそも私は、平家一門、平頼盛の子息、為盛の系譜が北白川に邸宅を有し
ていたとの伝承に出会い、頼盛一族と北白川との関係を調べ始めた。
平家と北白川との取合せは、当初あまりに唐突に思われたが、頼盛娘(藤原
基家室・為盛同母姉妹)が北白河院陳子の母である事を知った事から、藤原
基家流と村上源氏の同族関係、また村上源氏と北白川の強い結びつきを知り、
さらに今回、高棟王流堂上平氏もまた北白川とは浅からぬ所縁を有していた
事を知った次第である。
また、平頼盛の兄、平経盛も村上源氏のから正室を娶っており、
◎村上天皇━具平親王━師房━顕房┳雅実
┃
┣寛俊━寛雅┳俊寛
┃ ┃
┃ ┗女子(平頼盛後室)
┃
┗信雅━女子(平経盛室)
平忠盛流平家一門もまた、村上源氏、高棟王流平氏(北白川との深い所縁を
有す)との関係から、忠盛の曾孫くらいの世代になると、北白川に邸宅を有
す一族が出ても、不自然ではないと思うに至っている。
今後はさらに具体的に、平頼盛子息、為盛の系譜の北白川邸宅につき、考察
してゆきたい。
またそれは、北白河院御所を考察する事でもあるので、引き続き、『平頼盛
一族と北白河院陳子の関係』全般についても、考察してゆきたい。
[25] | takahiroさんからのコメント(2002年10月20日 18時39分46秒 ) | パスワード |
[北白河院藤原陳子に関する論文紹介]
「北白河院藤原陳子消息について」(藤本孝一)
『古代文化』三四、一一、一九八二年
「北白河院藤原陳子とその周辺─明恵に関する新史料─」(湯之上隆)
『日本歴史』四八三、一九八八年
上記二論文の内容からも、当スレッドに関わる部分は、言及できればと
考えています。
(未だ流し読みをしたのみですが、北白河院藤原陳子の明恵上人への帰
依については初見の事柄でした。明恵上人も平家一門とはゆかり浅か
らぬ人物ですので、今後この面からも考察を進めます。)
[26] | takahiroさんからのコメント(2002年10月21日 14時10分46秒 ) | パスワード |
上記藤本孝一氏論文より抜粋。
『陳子が殿(御所)をこの北白川の地に建てられたのは、「此地者仙院御相伝
也」であるとともに、後高倉院の菩提を弔うためであった。』
◎「此地者仙院御相伝也」:『伏見宮御記録』利48[『諸院宮御移徒部類記』
寛喜二年八月二十一日条]
○つまり、上記では、陳子が御所を北白川の地に建立したのは、そこが後高倉
院の御相伝地であった事からと伝えている。
○後高倉院の御相伝地とは、[八条院─春華門院(後鳥羽皇女)─後鳥羽上皇
─後高倉院]と伝領されてきた八条院領の事である。
○即ち、八条院は北白川の地にも、院領地を有しておられ、その地が、後高倉
院を通し、陳子に受継がれ、北白川院御所が建立されたと理解してもよいと
思われる。
○ここにおいても、平頼盛と八条院の関係から(頼盛後妻が八条院女房である
事、頼盛家は八条院領の領家であった事)、頼盛と北白川の関係を見る事が
できる。
○また、頼盛ニ男為盛の末裔が北白川の地から最終的に下向した先が、平家滅
亡後も、頼盛に安堵された日向国国富荘(平頼盛領・八条院領)であった事
からも、平家政権滅亡後も、八条院領と頼盛末裔との関係は、続いていたも
のとも思われる。
[27] | takahiroさんからのコメント(2002年10月21日 15時31分10秒 ) | パスワード |
◎頼盛末裔に関するスレッドにおいても紹介しましたが、下記論文は、
「頼盛一家」についての精緻な考証が為されていますので、当スレッド
においても再掲しておきます。
「平家物語と平頼盛一家」
東京大学国語国文学界編集『国語と国文学』
1971年9月号(多賀宗隼著)
[28] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月21日 21時01分01秒 ) | パスワード |
>北白河院藤原陳子の明恵上人への帰依については初見の事柄でした。
>明恵上人も平家一門とはゆかり浅からぬ人物です
はい。
明恵上人は源平合戦後、後家になった平家の女性達の身の振り方に力を貸した
と言われていますが、その経済的援助者またはその協力者が棟子さんだったかも、ですね。
[29] | takahiroさんからのコメント(2002年10月22日 01時00分45秒 ) | パスワード |
おそらく御指摘の通りで、北白河院藤原陳子は当時、膨大な八条院領を相続
しており(正確には娘の安嘉門院が相続)、その富貴は他に並ぶものがなか
ったようです。
また平家に由縁の深い女性としては、建礼門院徳子の明恵上人への帰依が有
名です。
明恵上人の父は、平重盛の家人、平重国であり、母は同じく平家の家人、湯
浅家の藤原宗重の五女であったとの事です。
[30] | takahiroさんからのコメント(2002年10月22日 01時43分23秒 ) | パスワード |
また脩明門院の明恵上人への帰依も有名でした。
脩明門院(藤原重子)とは、藤原範季と平教盛娘(教子)との子です。
後鳥羽天皇の妃となり、順徳天皇を生み国母となっています。
[31] | takahiroさんからのコメント(2002年10月22日 11時12分52秒 ) | パスワード |
また上記、脩明門院(平教盛娘の子)の実の兄、藤原範茂は、平知盛の娘を
娶り、一男一女を成しています。
そしてこの一女は、順徳天皇の子、忠成王の室となっています。
平家一門の血は、清盛、頼盛のみでなく、教盛、知盛を通しても、女系末裔
を通し、皇室に受継がれている事がわかります。
[32] | takahiroさんからのコメント(2002年10月22日 11時15分00秒 ) | パスワード |
明恵上人母方の家系をもう少し詳細に記します。
○藤原師重─宗良─宗重─女子(明恵上人高弁母)
(藤原師重とは、藤原氏北家秀郷流末流に連なり、紀伊国を本拠とする。)
[33] | takahiroさんからのコメント(2002年10月23日 16時05分29秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2002年10月24日 00時10分10秒
[34] | takahiroさんからのコメント(2002年10月23日 16時29分30秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2002年10月24日 00時11分51秒
[35] | takahiroさんからのコメント(2002年10月23日 19時41分47秒 ) | パスワード |
<中関白道隆家(頼盛母方家系)と高階家について>
○藤原宗子(頼盛母)の実家は、その祖を、中関白藤原道隆に遡るが、この道隆の
正室が、高階成忠の娘、高階貴子である。(その後の高階家は、中関白道隆家と、
家の盛衰をともにしている。)
○藤原道隆(正室・高階貴子)━隆家━良頼━良基━隆宗━宗兼━宗子(頼盛母)
○上記より、頼盛の母方の実家は、高階家とは旧知の間柄である事がわかる。
○この高階家が預所を務める、日向国国富荘八条院領へ、頼盛子息である為盛、仲
盛の末裔が下向したことは、下向後も或る程度の生活の保障が為されていたよう
に思われる。
◎藤原宗兼┳宗子(平頼盛母)
┃
┗女子
‖━━秦経━経仲━経雅━邦経━秦継
高階秦重
○また上記、高階経雅の母は、脩明門院の姉妹であり、経雅は後鳥羽上皇の近臣と
して活動している。(脩明門院:後鳥羽上皇妃、順徳天皇母)
○高階経雅は、承久の乱に連座してしまうが、暫くの蟄居の後、再び藤原道家(
北白河院陳子の近臣)の家司として活動を始めている。
○おそらく平為盛、仲盛の子孫は、京都から下向した後も暫くは、高階家(八条院
領預所)を通して、八条院領本家・北白河院陳子、安嘉門院(頼盛娘を通しての
親族)とも、通じていた可能性もあると思われる。(為盛、仲盛末裔とも、鎌倉・
室町期を通し、百官名を名乗っている。)
[36] | takahiroさんからのコメント(2002年10月23日 23時45分49秒 ) | パスワード |
○上記、高階貴子(藤原道隆室)の父、高階成忠の弟、敏忠の六代孫が秦経。
○高階敏忠(成忠弟)━業遠━成経━秦仲━重仲━秦重━秦経
[37] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月24日 00時00分04秒 ) | パスワード |
平重盛の母が高階基章の娘ですから、みんな親戚ですね。
[38] | takahiroさんからのコメント(2002年10月24日 00時08分11秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2005年01月29日 11時41分28秒
[39] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月24日 00時13分36秒 ) | パスワード |
◇高階秦経とは、後白河法皇の側近であり、また彼は、平家一門都落ち後の
頼盛一族に対する、法皇と頼朝の間の取り次ぎ(世話役)を為していた人
物である。
また系図にもあるように母は藤原宗兼の娘ですから池の禅尼はおばに当たります。
この人は後白河法皇に愛され
高階栄子とどちらが?という重臣ぶりだったそうです。
ただ高階秦経は源平合戦の後に義経を擁護して法皇に取り入った為頼朝の怒りを買い
解任され伊豆に配流が決まったり大変な半生を経験しています。
高階栄子は九条兼実を失脚させたりとなかなかの悪女ぶりを発揮。
[40] | takahiroさんからのコメント(2002年10月24日 01時01分50秒 ) | パスワード |
>平重盛の母が高階基章の娘ですから、みんな親戚ですね。
服部様の仰る通りで、頼盛に限らず、当時の平家一門の京都公家社会への
婚姻関係の浸透は、非常に複雑で深いものです。
>高階秦経:この人は後白河法皇に愛され高階栄子とどちらが?
という重臣ぶりだったそうです。
秦経とは、後白河『法皇第一の近臣』(玉葉)であり、その寵愛ぶりは、
男性では並ぶものがなかったようですね。
栄子は、頼朝の娘、大姫の後鳥羽天皇への入内運動の際、頼朝を右往左往
させたようで、この時ばかりは頼朝も、初志を貫けなかったようです。
この栄子の夫、平業房(治承三年の清盛によるクーデターの際、誅死す)
が建立した「浄土寺」も、北白川南端に存在しました。
[41] | takahiroさんからのコメント(2002年10月24日 19時24分31秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2005年01月29日 11時40分51秒
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