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 投稿番号:100281 投稿日:2002年04月19日 22時58分18秒  パスワード
 お名前:川口さまの代理
柘植氏研究HPのURLご紹介:平姓・源姓他

コメントの種類 :人物  パスワード

http://www.hi-ho.ne.jp/tsuge/link1.htm

川口さまより教えて頂きましたので新たにスレッドを立てました。

[1]つげとしさんからのコメント(2003年02月05日 06時52分28秒 ) パスワード
  

はじめまして 発投稿です

川口さま HPご紹介ありがとうございます
明子さまをはじめ勝手に親しみを感じながら
半年ほど前より読ませていただいています

さて、上記のページに動きがあります(速報です)
柘植姓のネットワーク作りをはじめていますよ

http://www.hi-ho.ne.jp/tsuge/link4.htm
(ちなみに私はNo3です)

これから、このネットワークを通じて
いろいろなおはなしをきかせていただけたらなあ、と
思っています

ページをみると、お名前に、なんか
「宗」とか「清」とかいう字が良く出てくるように
感じてしまいます 考えすぎ?か

気がつくと、私の甥っ子(幼稚園児)もなぜかしら、
今の世にはやらないだろう「清」という
字のはいったを名前をもらっています




[2]川口 信さんからのコメント(2003年02月05日 08時19分33秒 ) パスワード
  

 つげとしさん 初めまして。

 HPをご紹介してから十ヶ月ばかり経ち、柘植姓の方からの初コメントです。おおいに柘植姓についてご紹介などお願いします。

 柘植姓は平氏系が著名で平姓以外はないとばかり思っておりまして、勉強不足でした。特に清和源氏山田流の柘植姓については知識が私には皆無です。もう一度HPの方を読み直ししてみますが、その他お判りのことがありましたら是非ご紹介ください。

 柘植姓のネットワーク作りの大いなる発展をお祈りいたします。
[3]服部 明子さんからのコメント(2003年02月05日 09時47分42秒 ) パスワード
  

柘植さま

初めまして
書き込みをありがとうございます。


柘植姓もいろいろあるのですねぇ
柘植氏=伊賀御出身と思っておりましたが
認識を新たに致しました。

もしや清和源氏流山田系柘植氏とは
ひょっとすると
頼朝を助けた「宗清」の子孫が転出して
伊賀の大山田村を忘れないようにと称していらっしゃるのでは?と
しつこく考えますが。


名古屋あたりですと「柘植」2文字ではなく「柘」だけのツゲさんもいらっしゃるようで
いろいろバリエーションがあるのだなと感心しております。


たくさんの方よりお名乗りがございますと良ろしうございますね。
[4]服部 明子さんからのコメント(2003年02月05日 09時52分32秒 ) パスワード
  

という訳で認識を新たにしまして「平姓・源姓」とタイトルを変更してみました。
[5]さちこさんからのコメント(2003年02月05日 13時06分30秒 ) パスワード
  

柘植さんはじめまして。

柘植さんは全国に約3800人いらっしゃるそうです。
江戸時代の人口は多い時で2700万位だそうですので、
今の約四分の一と大雑把に計算すると江戸時代には柘植さんは900人位ですね。
以前はもっと少なかったでしょうから、
多分柘植家のルーツは一つだろうと思ってます。
源平の戦いの後は各地に分かれてしまったかもしれませんが。

きっと昔は北伊賀で、
柘植さんの御先祖様とうちの先祖は仲良く暮らしてたと思います。

鳴海に柘植さんが多いのですね。
鳴海には有松絞りの服部家があります。
たぶん伊賀の服部家です。
なにかご縁があるのでしょう。

柘植さんの近くに服部家はありますか?
家紋が横モッコと浄土真宗というのが少し気になります。

NHK名古屋で柘植恵水さんという女性アナウンサーがいます。
可愛い感じの美人です。
そのうち全国版にも登場するかもしれません。

これからもよろしくお願いします。
[6]つげとしさんからのコメント(2003年02月05日 23時41分12秒 ) パスワード
  

ちょっと調べてみました。

愛知県西三河地区の服部さんと柘植さん
(鳴海は尾張のため調査対象外です)
         2001年10のデータより

電話の登録数  1万件あたりの数
    柘植   服部  柘植  服部
岡崎 49 186 6 24
刈谷 146 66 52 24
安城 25 84 7 24
豊田 88 156 12 21
西尾 17 49 7 20
知立 19 35 14 25
碧南 3 52 2 33
高浜 12 17 14 19
三好町 57 35 59 36
一色町 1 66 1 97

柘植さんは西三河地区に1300名ほどと推定されます
(電話1件あたり3人いると仮定して計算)
西三河には全国の3分の1の柘植さんが住んでいらっしゃいます

柘植さんは圧倒的に刈谷が多いようです
全国の柘植さんの1割以上、と推定されます

1万件あたりの件数でみますと

柘植さんのみ比率が高いのは
 刈谷市とそのとなりの知立市、高浜市です

服部さんのみ比率が高いのは
 一色町とそのとなりの碧南市です

三好町では服部さんと柘植さんがともに比率が高くなっています
これは特徴的です。やはりなにかあり、かも しれません。
ちなみに三好(みよし)町は西加茂(かも)郡です。
[7]つげとしさんからのコメント(2003年02月06日 00時18分23秒 ) パスワード
  

先の投稿で数字が左に寄ってしまって読みにくくなってしまいました。
投稿ボックス内ではちゃんと見えていたんですが・・・
対応策がわかりませんのでご勘弁を

さて、
>NHK名古屋で柘植恵水さんという女性アナウンサーがいます。
>可愛い感じの美人です。

「同じ柘植だから親戚じゃないの。紹介してくれないかな」と聞いてくる
とんでもない奴らもいましたが、柘植恵水さんとは面識はありません。
柘植恵水さんについては、以下のページに簡単な自己紹介がでていますね。

  http://www.nhk.or.jp/nagoya/nhk/ana/tsuge.html
  名古屋で生まれ育ちました。(実家は三好町です)

わざわざご自分で実家を三好町とご紹介されているということから、
自らの出について、なにかの思い入れでもおもちなのでしょうか・・・と
勝手に想像してしまいます。


[8]さちこさんからのコメント(2003年02月06日 20時33分37秒 ) パスワード
  

柘植さん。
詳しくありがとうございました。

私は柘植姓は美濃あたりが一番多いのかと思ってました。
愛知にも多いとは思ってましたが、
西三河こんなにも多いとは思いませんでした。

昔うちが住んでいた、
弥富、長島近辺には柘植さんは古くからの家ではないと思うので、
柘植家とは戦国時代に離れてしまったのかと思ってました。

でも西三河でちゃんと共存してたのですね。
少し嬉しくなりました。
弥富あたりとも近くですし。

うちは江戸時代は木曽岬にいたのですが、
先日木曽岬の江戸時代の地図を見て驚きました。
服部半蔵の子孫が桑名城で家老をしていて、
代々桑名松平家に仕えていたのです。

木曽岬と近いけれど当事はもう付き合いはないだろうと思ってました。
でもその頃は長島があまり干拓されてなくて、
桑名城とうちのあった所は川を隔てて向い側、
少し桑名城が上のほうになりますがほぼお隣同士だったのです。
距離としては2、3キロといったところ。

ここは江戸時代の後半に干拓されたのですが、
桑名松平家にも尾張徳川家にも属せぬ幕府直轄の天領でした。
そこに上服部という地名(或いは土地の所有者)
があるのですがここがうちだと思います。

半蔵家とはどんな付き合いをしていたのか色々考えてしまいます(笑)

各地に分かれた伊賀の服部家が色々あると思いますが、
このあたりから尾張、三河が伊賀の服部家密度が全国で一番高いでしょうね。
柘植さんもこのあたりに多いのでしたら、
伊賀民族の大移動があったのでしょうか?

なぜ柘植家がこのあたりに多いのかご存知のことがありましたら教えてください。
な〜んかよ〜。伊賀は昔名古屋弁だったような気がしてきたがね。


[9]つげとしさんからのコメント(2003年02月07日 23時55分20秒 ) パスワード
  

柘植には都美恵神社があります。とても古いらしいです。

了解されているんで、都美恵神社を紹介しているページのリンクを
載せておきます。

http://www.genbu.net/data/iga/tumie_title.htm
そこに「都美恵(つみえ)は柘植の古語」、とあります。

伊賀は 昔 みゃ〜みゃ〜 と名古屋弁だったもんで
つみえ → つみぇ〜 → つぐぇ〜 → つげ と
なったんでしょうか
室町あたりから以降は みゃ〜みゃ〜 を卒業して
 びょうびょう となまっていたのかもしれません。

・・・で、都美恵神社によると、どうも出雲と関わりが深いようですね。
今度は柘植と出雲について少し探してみようかと思います。



 
[10]さちこさんからのコメント(2003年02月08日 13時07分06秒 ) パスワード
  

つげさん

伊賀で、
びょぉ〜びょぉ〜びょぉ〜〜
と鳴いていたのは犬でございますよ。

伊賀は名古屋弁ですから、
正しくはびゃあ〜びゃあ〜、だったかも。
能のスピードは室町時代は今の三倍の速さだったらしいので、
当事は、びゃう びゃう びゃう で、
BOW WOWに近いかも。
伊賀は昔は公用語が英語だったのです。(笑)

つげさんもやはり古代史が気になりますか。
柘植家と服部家の栄光は古代にあったのでしょうか。

奈良県に都祁(つげ)という所があるのですが、
私は多分、都祁=柘植 ではないかと思うのです。
名阪国道を大阪方面にむかうと、
まず柘植インターがありそして伊賀上野、
次に都祁インターになります。
母の実家が大阪なのでよく車で通ったのですが、
漢字の読めない子供の頃よく混乱してました。

なんで行きはツゲが上野の前にあったのに、
帰りにも何故上野の前にツゲがあるのだ?
きっと忍者にばかされたんだ!

都祁山口神社、
鴨山口神社、
山口神社などがあって、
いずれも大山祇神を祀ってます。
これは賀茂氏がらみです。
美濃加茂、愛知の加茂郡、
柘植さんの多い所と重なっているのは偶然ではない かも?
賀茂氏は出雲と関係があるみたいですし。

山口神社

http://www.e-net.or.jp/user/nanma/annai/xyamagut.htm

祭神は、大山祗命で、まつられた年代は明らかではありませんが、
神武天皇の皇子、神八井耳命の子孫、都祁値(つげのあたい)が、
つげ国造として小山戸に住み、
つげの国の鎮守、都祁氏の氏神としてまつったのが起源だろうと言われています。
現在の社殿は、明治12年に造営されたものです。また、拝殿は1687年に建造されたものです。

神八井耳についても気になるのです。
ヤイなんとかと読むのですが、
ハチィ=ハティ=ハトリ、かな?と。
時間がなくなったのでまた詳しく書きます。

[11]さちこさんからのコメント(2003年02月09日 16時13分04秒 ) パスワード
  

昨日から長島に行ってました。
服部家のいとこ会です。

長島に泊まったのは初めてです。
長島なら当然ホテル花水木!
ではなくて一泊二食9000円の年金保養施設。
服部家はやっぱりね(笑)

服部家の歴史について説明しようかと思ったのですが、
雰囲気が白けてしまいそうなのでやめました。

で一人で電話帳で遊んでました。

長島 人口約15000人
   柘植さん 推定 38人 一万人あたり 25人
   服部さん    340人       226人(!)

こりゃ凄い服部家密度です。
織田信長に皆殺しされた筈なんだけど。
長島にも柘植さんいらっしゃたのですね。
きっとうちと運命をともにした柘植さんですね。

木曽岬に柘植さんはいませんでした。

木曽岬 人口7200人
    服部さん 推定 102人 一万人あたり 141人

桑名は人口の割に服部家は少なかったです。
柘植さんは2、3件。
他の北勢地区は柘植は殆どなく、
服部は全国よりは多いもののそれほどでもないと言う感じでした。

四日市で一万人のうち80人、約2400人位ですが、
このあたりだと伊賀の服部家かどうか不明です。
[12]服部 明子さんからのコメント(2003年02月09日 17時47分12秒 ) パスワード
  

服部家は今でも長島あたりじゃ勢力張ってる?
でもなんか絶滅の危機の方向じゃないですか?
[13]川口 信さんからのコメント(2003年02月09日 18時17分53秒 ) パスワード
  

 みゃあ〜みゃあ どこから聞こえて来るのかと思ったらここでしたか。

 数十年前になりますが栄の広小路のカメラ屋さんの奥さんが生粋の名古屋弁でとても懐かしく思い出されます。これも川口家が尾張出身だからDNAに残されていて血が騒ぐのでしょうか。

 幕臣の柘植姓は全て左三つ巴紋です。[5]の横モッコなら堀田系で何も心配ありません。竪モッコ紋でしたらさちこさんのだぃ〜嫌いな織田系ですが。

 幕臣の服部家は二十数家ありますが家紋も様々ですが平氏、未勘源氏、藤原氏系でもバラエティーがありますが何故か「矢」を使用しております。多分元が同じかと思います。 
「十六桁車内横矢筈」「同横矢筈二」紋などを使用している家もありますが柘植姓との婚姻関係はあまり無いみたいですね。

[14]さちこさんからのコメント(2003年02月09日 22時17分30秒 ) パスワード
  

川口様

嫌い嫌いは好きのうちで実は我が家は信長様、大好きなのです。
何故かよく判りませんが。

子供の頃、信長、秀吉、家康。
三人のうちで誰が好きかとたずねられたら迷わず、

信長!

といってました。不思議ですが(笑)

いとこきゃ〜(いとこ会)のあと長島の輪中博物館いきました。

一向一揆の悲惨な話はまたにして、
(映画など面白いでした)
このあたりの服部家を研究すると日本の経済学というか観念が判る。
色んな事があったので江戸時代には見えにくいです。

でも幕末まで服部家=伊賀の一族ネットワークをすててないかも。
一例ですが、
奥の細道、松尾芭蕉の旅を共にした、
弟子の曽良。

信州の人ですが、
叔父が長島の寺の住職だったそうです。
その関係で芭蕉の門人になったそうです。

奥の細道の旅を大垣に終え、
芭蕉は長島で三泊し、
その後たびたび、長島を訪れたそうです。

記録としては残ってないですが、
服部家とも交流があったと思うのです。

芭蕉が江戸で庵を持ってたのが江戸の深川。
関の服部家がお菓子で、深川屋。

以前書いた、
鰻の養殖の服部家が江戸の深川。

http://www.unagi-oowada.com/unchiku/unchiku5.html


初の計画的な鰻の養殖は服部倉治郎によって明治12年東京市深川区千田新田(現東京都江東区千田)に於いて行われました。

服部家は代々続く長州藩御用の「鮒五」と言う川魚問屋で、
その時代としては
かなり裕福な町民であったと思われます。
千田新田は享保年間に開発を始めた埋立地で、
深川十万坪とも言われる広大な土地でありました。
服部家はこの中に田畑と池を所有する地主でもあったと思われます。

江戸末期より深川周辺では町民・下級武士による金魚の養殖が盛んに行われており、
服部家も金魚・鯉・鮒の養殖を行っていました。

弥富が金魚の養殖が盛んなのも無縁ではないと思うのです。
うちの弥富の親戚は自慢して言います。

「弥富金魚はよ〜、スペースシャトルにのって宇宙にいった凄いだろ。」

ワシ、曰く。
「何のため?」

「そりゃ〜宇宙酔いの研究のためだがね」

ワシ曰く。
「弥富の金魚は宇宙酔いの研究をしてるのか?そりゃすごい!」

お粗末!


そして調べたら、
江戸時代の後半干拓されたうちの木曽岬の土地、
津島の堀田家が開拓したとなってました。

柘植様、
わけわからん話になりましたが、
柘植さんが平熱に来てくださり急に過去がみえてきたみたいです。
オカルトがかってるとはいいたくないですが、
何か不思議なものがあります。

神八井耳についてはまた書きます。

明子さん長島はすごいわ!
温泉でお肌すべすべ。
一向宗徒の血と涙が温泉にしみ込んでいるのでしょうか?
[15]服部 明子さんからのコメント(2003年02月10日 02時45分14秒 ) パスワード
  

だけどなんで我が家の敵の信長が好きなの?
偉大なる敵を祝福するという寛大な心?
ふぅ〜ん・・・


川口さま
服部家はだいたいが矢紋ですか。
やっぱり家長を記念してるのかしら?
ちょっと安心です。
[16]つげとしさんからのコメント(2003年02月10日 07時10分55秒 ) パスワード
  

一昨日は、長久手の古戦場あとから三好町の民俗資料館に行って来ました。
長久手の古戦場は、愛知万博の会場のすぐ近くです。

昨日は、奈良の国立博物館の国宝展の最終日に出かけて、
空海が本当にひらがなを使っているんだなって、直筆をみてきました。
達筆なんで、幼稚園児みたいにひらがな部分しか読めなかったですが。

法隆寺にも寄って、いろいろ感じてもきました。
どうも聖徳太子は、仏教を道具に使ってはいるのだけれど、
民族、部族とか宗教とかをこえた、そして軍事力や政治力でもない、
なにか文化というか、何か別のものが「国」なのだと
思っていたに違いない、と感じてきました。
そして、平氏といい、伊賀といい、よく似たところを感じます。
このあたりは、また別の機会に。

帰りに奈良の都祁(つげ)村と梅を期待して月ヶ瀬村をドライブ。
都祁村探訪は道が狭く、歩いて回る時間が無く今回は断念。
梅はさすがに早すぎて、梅祭りののぼりだけが色鮮やかでした。
近いウチにもう一度行こうと思います。
伊賀の柘植は今回はパス。
三河の地から日帰りで奈良というのは結構大変です。

奈良への往復に、昨年やっと三重川越まで通じた伊勢湾岸自動車を使いました。
三河の地から川越まで30分あまり。驚異的に近くなりました。
 帰り道に気づいたのですが、弥富のあたりは、自動車道なのに
 街路灯のポールが立っていません。足下に照明があります。
 弥富野鳥園の野鳥に配慮したためと聞いています。

あらためて地図を見直しています。
海の上を走っているとはいえ、とにかく近いですね。

長久手町、三好町、日進市、東郷町、豊明市 これは名古屋に隣接した
尾張と三河の境目の町々です。長久手の古戦場跡から桶狭間の古戦場跡を
むすんだ一帯です。このあたりに根付いていたのでしょう。
そしてこの広がりを西につなげていくと、大府市、東海市
弥富町、木曽岬町、長島町、川越町 伊勢湾岸自動車道になります。
このあたりにも分布していておかしくない感じです。

三好から東にのばすと、すぐに松平郷です。今は豊田市ですが
徳川はここからでた松平ですね。
服部、柘植が多いように見えます。

市町村でくくらずに、地図の上に服部、柘植の分布が描けると
また、何かが見えてくるのかも知れません。
夏休みの自由研究にでもしようかしらん。

話はかわって
刈谷の柘植には、浄土真宗だけでなく御岳信仰もあるそうです。
三好町には御嶽山があります。
よそさまの宗教のことなのでよく聞いてから書きます。
〜忍者かオカルトか〜 って短絡はできませんが・・・
これもいつか書きます。

それではそろそろお仕事でございます。
いろんなものを現地現物で確認でいると楽しいのですが
現役で時間がとれません。ぼちぼちと書き込んでいきます。

[17]服部 明子さんからのコメント(2003年02月10日 08時34分29秒 ) パスワード
  

つげとしさま

>そして、平氏といい、伊賀といい、よく似たところを感じます。
>このあたりは、また別の機会に。

是非是非!

聖徳太子があの時代に「和を以て貴しとなす」を憲法第1条に持って来たというのが
凄いです。

改憲賛成!
是非日本国憲法の第1条に「戦争放棄」をうたって欲しいです。
理想的には。
(現実的にはまた違うのですけど)


猿投にも南朝方だった服部家のホンヤ・クラスの家があったそうで
伊賀関係者が残ってるのかな?なんて思っています。
[18]さちこさんからのコメント(2003年02月10日 21時58分14秒 ) パスワード
  

柘植さん。
色々と行かれたのですね。
フットワークが軽い。さすが伊賀人。

伊勢湾岸道路、私も通りました。けっこうお気に入りです。
夜景もきれいです。
長島サービスエリアも今は空いていてゆっくりできますし。
出来たばかりの時には伊賀越えの醤油や味噌も売店で売ってたのですよ。
でも前回行った時は例の不祥事のせいかありませんでした。

ホントに三重から三河が近くなりました。
最短距離になってます。
でも昔は多分このルートがつかわれていたと思います。
と言うのも昔は橋がなかったから船で行き来してましたから。
昔の東海道は熱田から桑名まで七里の渡しという船でした。

ハクロ川という木曽岬の前の川が航路になっていて、
船の行き交う交通の要所だったみたいです。
木曽岬から、多度、津島、大垣へむかう船もあったらしいです。

関の服部さん、鳴海の服部さんどれも東海道の要所になりますし。
ほかを探すと色々でてくるかも?
東海道の旅人を利用して、
鳴海の服部さんが関の服部さんへ連絡をとってたとか、
江戸の服部さんからの手紙をうちであずっかて、
津島に送るとかしてたかも?
はっとりネットが江戸時代に張巡らされてたりして。

そいいえば弥富の服部家ホンヤさんの古文書に、
よろず覚書というのがあります。
これが江戸でおこった出来事とか各地の色々な事が書かれているらしい。
江戸の地震の記録など幕府のものより詳しかったらしい。

地主とはいえなぜ尾張の農民が江戸の事をと不思議がられるそうです。

御岳信仰ですか!
これは木曽岬でもさかんです。
父も若い頃は信仰してるわけではないのですがよく行ったそうです。
「ざ〜んげ、ざんげ、ざっこんしょうらい」
というのですね(笑)

三重の白子でも盛んだったと言ってました。
白子といえば家康が伊賀越えの時、
ここから船に乗り三河へ渡ったという説がありますが。
(長太ノ浦、四日市という説もあり)
多分どちらにしても最短距離を考えると、
知多に着いて、刈谷あたりを通って岡崎に向ったとおもわれますが。
詳しくは判りません。

伊勢は信長と対立してましたが、
代表する戦国大名というのがなく
伊勢の住民自体が信長と対立していたというか、
北畠氏がいることはいたのですが、
他の地とちがい戦国大名と戦って破れば、
そのままその大名の領地がとれるというのと少し違った戦いのように思えます。

伊賀も同じですが。

マンガ三重の歴史では、
「おのれ〜信長、伊勢平氏の底力みせてやるは〜」
なんて場面がありました。

四日市に、
いかるが町というところがあるのですが、
昔は伊賀留我と書いて、イカルガと読んだそうです。
壬申の乱、天武天皇と関係があるみたいですが。

http://www2.justnet.ne.jp/~ystsuji/ikaruga.html

斑鳩にも服部町がありますが、
斑鳩と飛鳥の真中にも服部神社があります。

多氏、楽戸秦氏と服部家の接点が残ってる所です。

都祁氏の祖の神八井耳命は多氏の祖でもあり、
神武天皇の長男で皇位を継ぐことになってたのです。

しかし腹違いの弟が謀反をおこすということで、
殺すように言われたのですが殺せず。
実の弟が殺しました。

それで自分は皇位を継ぐにはふさわしくないと、
皇位を弟に譲り、
祭祀を司ることにしたそうです。

それで多氏、都祁氏などが最初の祭祀族であるとされてるのです。

ある説によるとこの頃は天皇の兄が皇位をつがず、
弟がつぐ場合が多く兄が祭祀族で、
実は兄ではなくて姉でははないかということですが。

これが卑弥呼や、天照と関係しているのかどうか判りませんが。

多氏は古事記、日本書紀などにかかわっている一族で、
平安時代は雅楽の家でした。
今も宮内庁の雅楽師の多さんがいます。

で、忍者の祖とされてるのに、
天武天皇の時の「多胡弥」
または「御色多由也」などというのがありますが、
多氏が忍者に関ってま〜す。という暗号ですね。(笑)
雅楽の楽譜を、
不順な動機で雅楽を始めた人が
「まるで忍者の暗号だと」いってました。
江戸時代の前までは本当に暗号だったそうです。

他の家に代々伝わる曲を盗まれないようにだそうです。

篳篥のケン、竜笛のジョー!
ひとよんで・・・雅楽忍者隊!

というのががあったかも?
[19]つげとしさんからのコメント(2003年02月10日 22時44分39秒 ) パスワード
  

さちこさん。
私には消化不良になりそうな濃〜いお話!!
結構 好きです。ゆっくり咀嚼させていただきますね。

博物館、科学館はかなり好きです。

「輪中の郷」は狙っていたんですが、まだおじゃましていません。
芭蕉の声が聞けるそうですね。

長島と芭蕉の関係は良く知らなかったので、なんでここで芭蕉なの?
って思っていましたが少しわかりました。

輪中の郷では「のりすき」の体験もできると聞いています。
体験大好きなんで、ぜひ近いうちに出かけようと思います。

今年の初めには、「県立斎宮歴史博物館」と「いつきのみや歴史体験館」に
行って来ました。歴史体験館では十二単を体験試着してきました。
(私が着たわけではありませんョ。着てみたいな、と少しは思いましたが)
斎宮歴史博物館は県立で立派なものでした。
3面の大画面映像の展示が合ったのですが、平安の人が出てきて
「ひゃぽひゃぽ のん しょらしょら」みたいな発音でしゃべるんです。
結構、真剣につくっているんだなぁ、と感動したことを覚えています。

ところで、輪中の郷の芭蕉さんは、名古屋弁しゃべってませんでした?

[20]服部 明子さんからのコメント(2003年02月10日 23時04分27秒 ) パスワード
  

あら?
さちこさんはホンヤさんと尾張藩と将軍家との関係をご存知無かったのかしら?

尾張藩6代目宗春公が上さまと喧嘩して負けてチッキョさせられた時
上使の席にホンヤさんの御先祖さまが同席して
宗春公を首にしてホンヤさん宅で行儀見習いさせたのを7代目にしたのです。
[21]服部 明子さんからのコメント(2003年02月10日 23時10分37秒 ) パスワード
  

ちょっと余談になりますが
苗字はここに書くのをはばかられますが

我が家の父など尾張藩の家老のXX家の事を
「XXんとこ」
と呼び捨てにします。


私は馬の骨の服部なので恐れ多くて XX家には 申し訳無いので伏せ字にしました。
[22]さちこさんからのコメント(2003年02月11日 20時51分14秒 ) パスワード
  

松尾芭蕉は標準語でした。
やはり全国を旅した人なので名古屋弁は恥ずかしいのでしょう(笑)

長島の海苔組合(?)の組合長が大橋さんです。
一向一揆についた大橋さんもいたのかもしれません。

ホンヤさんの所が御養育した宗勝公。
そのことでお尋ねしたら詳しくは判らないそうですが、
「尾張藩に柘植というのがいて随分骨折ってくれたらしい。」
とのことでした。

ホンヤさんの所から尾張藩主がでたのも当然凄い事ですが、
この時代になっても柘植家が服部家のために良くしてくれた事、
柘植さんに世話になったと代々語り継がれてることいい話だと思います。

柘植さんこれからも服部家のために骨折ってください。

偶然なのかもしれませんが、
この宗勝公の時代に宝暦の治水工事というのがありました。

長島にしても弥富にしても、美濃がもそうですが、
水害による被害に悩まされてきました。

そこで幕府は薩摩藩に地水工事を命じました。
これが大変な工事だったらしいです。
費用は勿論薩摩藩がもちました。

工事が難航し犠牲者も沢山でたらしいです。
工事後費用がかかりすぎた事を理由に自害した人もいます。
このことは江戸時代には公にされず。
幕府に遠慮して供養もあまりできなっかたそうです。

でも住民たちは薩摩義士の感謝の気持ちを幕末まで語り継いできました。
明治になってやっと慰霊碑をつくり、
今でも毎年慰霊祭をやってます。


ほんとは幕府に抗議して自害したんだと言う人が多いです。

関心のある方はこちらをどうぞ。


http://www.mirai.ne.jp/~tuyoshi/matome.html

宗勝公は高須家の方ですが高須藩は長島のすぐ上です。
この関係で工事が行われたのではという話もありますが、
長島や、木曽岬の服部家も随分恩恵をうけたのでやはりご縁を感じます。

斎宮も気になるのすよ。
斎宮制度?があったのが、
天武天皇の時代から後醍醐天皇の時代までらしいですが、
服部家の縁がある天皇の時代に始まり終わってるのです。

京から甲賀、伊賀を通りましたが帰り道に、
一志ー川口ー名張ー都祁ー??
に宿泊したとか記憶があまりないですが、

川口?都祁(都介)?ひっかかりました。
また機会があれば調べます。

名張合併に反対が過半数でした。やっぱり。
長島も条件次第で合併撤回と言い出しました。

木曽岬と長島、伊賀市の飛び地にすればいいのに。(笑)
[23]つげとしさんからのコメント(2003年02月13日 07時06分33秒 ) パスワード
  

初投稿 のつもりで 発投稿 と書いてしまっていることに
今頃気づいて赤面です。さすがに 服投稿 とは間違えませんでしたが。

柘植姓ネットワーク(http://www.hi-ho.ne.jp/tsuge/link4.htm )に
久留米藩ゆかりの方がおみえになりました。う〜ん。久留米はいつか行かなくてはならないところと思っています。

杉原千畝さんの「人道の道」のある八百津も関係が深いのですねぇ。
そして、恵那、ここはどうも柘植のベース基地のひとつんに感じます。
HPの検索では、恵那でお仕事をされている方が見つかったりしますが、
よく見ると、住所が蛭川(平流川)村だったりします。
蛭川村は恵那市の北に隣接しています。

島根県にもお仕事でページを開いてみえる柘植さんがみつかっています。
愛知県の刈谷の由来伝説では、元慶元年(877)に出雲より一族を連れ移住した狩谷出雲守の名によると言われています。出雲の神主の柘植さんが刈谷小垣江の柘植の部落にみえて、そこでお亡くなりになり、柘植神社となられた跡があるそうです。

1542に刈谷から松平に嫁いだ於大の方が竹千代(徳川家康)を生んでいます。

古代、漢字の記録の無い頃から 部族か集団を指していた ツ とか ゲ とかいう音をつかった呼び方があって、地名として引き継がれ、そして伊賀の地で人の名前となり、そして江戸幕府といっしょにさらに東に広がっていった全体像がぼやっとみえてきたような気がします。


久留米からは次の2つのことを思い起こします。

ひとつは久留米藩のとなりの同じく外様の鍋島藩の「葉隠れ」です。
儒教に対峙している部分がお気に入りです。老子、道教のエッセンスが好きです。

もう一つは語呂合わせですが久留米から留をとれば久米です。
聖徳太子の弟来目皇子(くめのおうじ)とか久米仙人とかがすぐに思い起こされます。
岡山の久米町では、「祟神天皇の10年四道将軍が派遣されたとき、出雲種族に対する備えとして当時物部とともに軍事、警察、司法を束ねる部民である久米部をこの地に封じて、その警備にあたらせたことに由来」とされています。
また同じく、岡山の久米南町では「川柳の町として、また、法然上人(ほうねんしょうにん)ゆかりの誕生寺でも有名な久米南町」と紹介されています。
・・・法然と言えば浄土宗 う〜ん。然 の字は好きです。自然(ぜん)も好きですが天然(ねん)ていうのも好きです。

そうそう、伊賀では、柘植川が服部川に合流、久米川も合流して木津川につながっていますね。上野市の南部、久米川には久米という地域、地名も地図でみつかります。ここにもいつか行って空気を感じてこなくては・・・

 私事ですが、私の家内は久米姓でして・・・敵対したり、緊張関係があったり、役割を分担したり、主導権を争ったりしたり・・・そしてまあ基本的にはなかよくやっていく、という昔の姿を再現しているのかもしれません。

追伸 秦 ものづくり、実学のイメージ、アンチ儒学的で 「実」力を大事にし、主流になるのは少し苦手で、徳川幕府の特性の大事な一部分、三河地方のものづくりを大切にした産業発展の重要要素として、あくまでも少し隠れたところで「目には見えない文化の遺伝子DNA」の形で今現在も勢力を広げようとしている・・・秦氏テーマに街づくり・・・動乱の世になると潜伏している秦氏が表にでるようになるって聞いていますヨ。でも復活を素直に喜んでしまいます
(時間がある時に一気に書くんで量ばかりあってバラバラですいません)



[24]さちこさんからのコメント(2003年02月13日 23時12分27秒 ) パスワード
  

葉隠れ。
私もかじっただけですけど好きです。

嘉村さんのおかげです。

主観ですがこの価値観、
伊賀と無縁ではないと思うのです。

うそつけ〜、忍者がと思われそうですが、
つきとめてやる!
と思ってます。

久米は以外でした。
柘植家のことは以外に広く分布してるのがよくわかりました。
確かに柘植家と服部家の分布を調べると面白いかもしれません。
[25]つげとしさんからのコメント(2003年02月19日 07時08分33秒 ) パスワード
  

小垣江の名の由来について

刈谷市小垣江,ここには,柘植さんの密集地帯です。
むこう三軒両隣だけでなく、裏三軒も柘植さん状態です。

もともとは、ヨサミ(これは古い名称ですね)と呼ばれていて、例えば中学は小垣江中学ではなく、依佐美中学です。小垣江とはいつ頃、どういういわれで生まれた名前なのか知りません。もしかしたら、小垣江は柘植と一緒に来たのかも知れません。

小垣江という名前の過去についてはよく知りませんが、声に出して言ってみると独特の優雅な響きがあるように感じます。反面、結構発音しにくい名前で自然に発生した呼び方とは思えません。私なんか小さい頃(今でもか?)「おがけ〜」ときたなく呼んでいたものです。

親父さまから聞いたおもしろい話があります。
小垣江の尋常小学校の校章は、カモメが磯にいて、後ろに波がたっていて、その波でカモメの尾が隠された図柄だったそうだ。(現物の図柄はまだ見ていません)
これは「尾が消え(オガキエ)」によるものだとか。もともとは「尾が見え」ておったのだがそうだ・・・(ホントかな?)

はてはて、小垣江はもとは「尾が見え(オガミエ)」で、「拝江」だったりするのでしょうか。伊賀の霊山の北側は「拝野」と呼ばれており、これを偲びつつも世間から隠した名前なのかもしれない、などと想像しています。
[26]さちこさんからのコメント(2003年03月03日 21時41分12秒 ) パスワード
  

奥様の旧姓が久米さん。
伊賀だけでなく岡山にもありますね。

また岡山です。
ルーツは出雲かもしれないです。

飛鳥、奈良時代の岡山についてです。

http://www.kibiji.ne.jp/2000/izumi/oitati05.htm

岡山にも呉はとりの話があります。

http://ww31.tiki.ne.jp/~kurese-sho/tiiki/siseki.html

応神天皇期に,この呉から帰化した呉服部(くれはたおりべ)に因んで,
現在の尾崎・服部地域を「呉服部(くれはとり)」と呼んだ。
後に,小田川北の尾崎は「妹」と合併して「呉妹」となる。
「妹」は,小田川の「瀬」に由来する。
なお,「妹」は「女偏に夫」の字が書かれ意味がある。
また,尾崎の黒宮の「黒」は「呉」のことである

太古・縄文・弥生・古墳時代
蓮池の銅鐸
黒宮大塚古墳
呉妹の古墳


蓮池は伊賀にもある地名で、
観阿弥の叔父が蓮池になってます。
上野市服部町には尾崎というところがあります。

黒宮家
これは弥富、佐屋町近辺しか元はない姓で、
全国の黒宮家はこの辺りがルーツになるみたいです。
ただ唯一この岡山の黒宮が。

黒宮家が津島祭の市江車を源平の乱ののち始めたそうです。
その後服部家に変わりましたが。

この辺りの一向一揆大将だったという服部家の記録があるそうです。

偶然の一致とは思えませんね。

柘植さん、ノーベル賞を受賞した田中耕一さんと雰囲気が似てるなと思いました。
お嬢さんもなかなの発明家です。
例のことぜひ公表してください。
[27]ひろたかさんからのコメント(2003年04月11日 09時10分12秒 ) パスワード
  

はじめまして、私も柘植です♪
生まれは東京です
祖先は群馬の前橋藩の江戸家老をしていたらしいです、
ほかは調査中です;
[28]つげとしさんからのコメント(2003年04月15日 06時50分25秒 ) パスワード
  

ひろたかさん はじめまして!!
書き込みありがとうございます。

お仲間が増えてうれしいです。

全国に柘植さんは3000名ほどだということです。

一人の柘植さんがいれば、親戚関係などで30名ほど
の柘植さんを知っているでしょうから、
それでもう3000名の1%です。

10名の柘植さんがいれば、もしかしたら、300名の
柘植さんを知っていることになるかも知れません。
そうしたら3000名の1割の300名です。

結構狭いように感じます。
ご先祖さまつながりもおもしろいですが、
今の時代の「柘植」をキーにネットの横つながりが
できていくのもおもしろいと思っています。

またの書き込みを楽しみにしています。
[29]さちこさんからのコメント(2003年04月15日 22時26分39秒 ) パスワード
  

ひろたか様。
はじめまして。
また家紋とか詳しいこと教えてください。

柘植家はいいですね。少なくて(笑)
服部家は全国で約13万人です。
推測、約四分の一が愛知、三重に集中しているものと考えてるのですが。
岐阜も多いですよね。

謎の東海三県。
三重県は地形的には近畿地方なのに、
何故か東海地方にもなっていて。
どちらが正しいのか住んでいても判りません。
赤味噌も東海三県ですね。

伊賀は今は白味噌を使うことが多いそうですが、
昔は赤味噌だったそうです。

NHK名古屋夕方のニュース。ホットイブニング。
四月から柘植恵水アナウンサーが担当という事でしたが、
最初二週間は都合によりお休みということでした。

やっと昨日から登場したのですが、
二日目の今日いきなり伊賀の忍者イベントの話題で、
上野市からの中継がありました。
レポートするキャスターも忍者装束で。
ゴールデンウィークまで町中忍者で一杯だそうです。
忍者装束も無料で借りれるそうで、

柘植アナ「誰でも借りる事ができるのですか?」
キャスター「はい、勿論。柘植さんも忍者になれますよ〜。」

装束借りなくても柘植家は。。思わず笑ってしまいました。
伊賀との関係はご存知なんでしょうか?
柘植アナの実家三好町は柘植家、服部家ともに多いとのことでしたが、
三好町の柘植家と服部家は親戚なんでしょうか?

三好町といえばあの名古屋刑務所。
ここで仲良く柘植家と服部家が・・・なんてことはないですね。
[30]ひろたかさんからのコメント(2003年04月21日 14時49分25秒 ) パスワード
  

久しぶりです^^
うちの家紋は五三の桐です、普通の桐ではなく、葉のしわ??がないやつです
結構珍しいみたいです^^
また、祖母の家に行き、仏壇にある位牌とかを見たら、
私の柘植家の祖先は初代柘植は正徳二年に無くなったそうです
だいたい1700年くらいですかね?

私も祖先を調べるのが好きで、寺に行き過去帳を見せてもらったり、
戒名を調べました
うちは、日蓮宗で、故人はだいたい、居士がついてました

[31]つげとしさんからのコメント(2003年04月21日 23時06分29秒 ) パスワード
  

葉のしわのない五三の桐ですか。しわのない、というところが
うまくイメージできません。

柘植氏の家紋は江戸幕臣の系統として「左三つ巴」がありますね。
岡崎のさくらまつりのときに家康行列がありました。
近くなので見に行きました。そのときの鉄砲隊がこの紋の
のぼりを使っていたような気がします。ちょっと不確か。

桐紋は織田氏流柘植氏にみられる、と手元の覚えにあります。
残念ですが出典は不明です。

柘植氏には、左三つ巴、左二つ巴、丸い右二つ巴、右三つ巴、
左一つ巴、丸に五三の桐、織田木瓜、丸に横木瓜、横木瓜、
丸に橘、三つ柏、丸に抱き柏、下り藤、丸に九枚笹、
三つ扇、抱き茗荷、丸に剣片喰、丸に三階菱、丸に桔梗、
剣片喰、五三の桐、丸に違い鷹の羽、丸に雪持ち根笹
などがあるそうです。いろいろあるんですね。

[32]ひろたかさんからのコメント(2003年04月22日 08時35分11秒 ) パスワード
  

つげとしさん、さっそくの返事ありがとうございます(^ー^)
私の家の家紋ですが、五三の桐ですが、その桐の葉っぱが普通、中にしわ(養分が通る道??)がありますよね^^;
その筋が無く、つるつる何ですよ、私も家紋の辞書を購入して調べたんですが、珍しいみたいですw
また、先祖は前橋藩の松平家に仕えていたらしくて、前橋の墓があります(永寿寺)←この寺は松平家の当主が幼少時学問するところらしいです
また、その前の先祖は群馬県の沼田にもお墓が有ります

現在、私たちは東京に住んでいます 柘植が付く親戚はうちしかいません;;
父が男一人、祖父が八人兄弟の男一人、曾祖父が次男ですが長男が早世、その
ため、柘植を名乗るのがうちしかいないのです・・・
[33]ひろたかさんからのコメント(2003年05月06日 18時58分42秒 ) パスワード
  

最近どなたも来ないですな(T_T)シクシク
[34]さちこさんからのコメント(2003年06月08日 23時05分07秒 ) パスワード
  

今日用事があって長島にいきました。

ふと見ると柘植家発見!
近くに、お寺があったので、
家紋とか興味があったのでお寺のお墓にいきました。
たぶん柘植家のお墓あるだろうと思って。
でも残念ながらここにはなくて。。
少し暇があったので、
柘植家のお墓や〜い。と、近所お寺や墓探しました。

うろうろしてるうちに、
とうとう願証寺へ。(長島一向一揆で信長と対立してた寺です)
おぉ〜!これが願証寺!
田舎にしては立派な寺ぞよ〜。(長禅寺とはえらいちがい)

ありました!
柘植家の墓が。
立派なお墓でした(涙)

長島で電話帳にのってる柘植家は11件ほどだったかな?
ここには一基だけでした。
これだけで、この柘植家が信長と対立していたと判断してはいけませんが、
服部家とともに信長と対立していた可能性は高いと思うのです。

柘植家といえば天正伊賀の乱で、
滝川一益の先人を勤めた柘植三郎佐衛門保重。(保というのが気になる)
天正伊賀の乱では、
私の知るところ服部家、柘植家が不在というか
信長から伊賀を守っていたのは、
百地家、藤林家。
柘植、服部両家は、信長や家康に仕え難を逃れたイメージが強い。


でも実は対織田信長の最前線にいたのでは?
ここでは悲しいほどの人が信長により焼かれ虐殺されました。
当然一方的な戦いだった訳ではない。
信長にも事情があったと思う。
でも同じ日本人同士が残虐な殺し合いしたこと、
くさい物に蓋をするかの如く、
地元でも教えたがらない、語らない(笑)

今になってボツボツと地元史というか語られつつあるような。
過去になったからいいんじゃないのそんな感じかな。
日本人の知恵というかそんなのを感じます。
だから日本の歴史は難しい、
勝った方も負けた方も沈黙をまもるから。

でっ!重大発表!
この柘植家の家紋!

じゃ〜ん!(心して聞くように)

丸に抱き茗荷!!!

さらに驚くべき事に越智家の墓もありました。
何というか判らないですが、あの「三」の家紋です。
何故伊予の越智氏がと思いますが、
服部家と水軍、村上家の関係を考えるとやはりなといいう感想です。

丸に抱き茗荷、ミツウロコの平野家がありました。
平野家は現在の長島の町長です。多い苗字です。

大橋家は見つけられなかったですが、
木曽岬の大橋家が曹洞宗関係ですのでそちらを探してみます。

願証寺に服部家の墓はありませんでした。
他の寺や墓では、
丸に並び矢、丸に違い矢がありました。

な〜んか。お墓めぐり癖になりそう(笑)
帰りに温泉に行ってのんびりしてきました。
日帰りの温泉施設が沢山あるのです。
バカ高い某温泉と違って安くいい温泉に入れます。(500円で)
少し疲れたので足のマッサージをしてもらいました。

悪い所だらけで痛いの何の(涙)
でも中国人のマッサージ技術はは世界一だと思う。
[35]さんからのコメント(2003年06月10日 15時17分38秒 ) パスワード
  

願証寺に、「丸に抱き茗荷」の柘植家のお墓ですか。。。

やっぱり秦氏関連というか、摩多羅神信仰に基づいて家紋を決めたのでしょうか?
そういえばだいぶん前に見たのですが、
確か姓氏家系大辞典の「秦」姓の項に、抱き茗荷紋の秦氏が載っていたように記憶しています。

備中又は備後の服部氏のこと、なかなか情報が掴み辛くて調査が進まないのですが、
これは気になります。
[36]川口 信さんからのコメント(2003年06月11日 09時27分50秒 ) パスワード
  

 さちこさん、お寺探訪ごくろうさまです。良いですね、愛知県全体が歴史の中心にあるみたいで、

 三役揃い踏みですね。茗荷紋の服部家、同柘植家、同大橋家。モット解明が進めば嬉しいのですが、現実はなかなか。平姓で茗荷紋を使用している家々は結構多いみたいですね。

 >丸に抱き茗荷、ミツウロコの平野家がありました。

 平野家は津島七苗字党の一員ですね。また横井家と関係にあった平野家は北條高時から始まっており、三つ鱗紋はうなずけますね。だが何故茗荷紋を。

 隈さんも色々と大変とは思いますが、どうぞ頑張ってお過ごしを下さい。
 おかげさまで、大橋家の方も大分進み、大洲藩の家老を務めた大橋家(東京在住)の方と数ヶ月前にご対面してきました。

 
[37]お知らせさんからのコメント(2003年06月11日 09時43分29秒 ) パスワード
  

(川口信さまの御自身のURL紹介アドレス、最近ずっと
 http://wwww.aa.alpha-net.ne.jp/shin341
 と、「w」がひとつ多くついており、まっすぐに飛べなくなっています、
 気付きましたので。) 
[38]川口 信さんからのコメント(2003年06月11日 10時47分06秒 ) パスワード
  

 お知らせさん、有難う御座います。
 すみませんお知らせ頂くまで、気がつきませんでした。

 平姓で茗荷紋使用家
 長崎家、柴崎家、真野家、宮内家、福島家、中根家、川口家など。

 平姓だか確認していないが茗荷紋を使用している家。

 平田家、坂川家、大浜家
 石川県にて茗荷紋使用家
 青木、有井、石井、石川、石原、泉、板倉、伊藤、稲垣、宇都宮、稲松、磐田、植えすぎ、臼杵、宇都、浦田、大窪、大沢、大谷、大家、大文字、岡崎、岡田、小野、小畑、笠井、勝田、加藤、河合、北村、北峰、木下、窪田、蔵本、久保田、小池、小倉、越野、境、紺野、坂井、坂上、佐垣、佐野、沢辺、島崎、島田、清水、示村、杉本、鈴木、関戸、妹尾、相馬、竹内、田島、田中、谷口、辻岡、都築、手島、寺井、寺西、中川、中沢、中村、永森、南部、ニ木、奈良原、西村、西野、長谷川、沼田、能田、花本、林、東川、平井、平岡、房本、藤井、藤沢、藤原、古田、堀、堀口、前島、松井、松本、松村、三国、道角、宮、宮川、邑井、村山、向、森、本屋、森川、矢田、元村、山村、山本、横沢、由岡、吉川、吉田、吉村、和田、渡辺。など柘植家は見あたらなかったです。なかには平姓でありそうな苗字もあります。
[39]さちこさんからのコメント(2003年06月11日 20時47分46秒 ) パスワード
  

>愛知県全体が歴史の中心にあるみたいで

源氏は納豆を食べていたから平家に勝てたという説の話題がありましたが、
それに似たのに、
徳川家康は赤味噌を飲んでたから天下をとれたとか、
愛知県は赤味噌だから信長、秀吉、家康の三英傑が出たという話があります。

でも確かにあのあたりは昔から・・・。
熱田神宮の草薙の剣も武力の象徴みたいだし、
天武天皇は尾張氏、海部氏、大海氏このあたりの豪族と親密であったらしい。
大海皇子というのもこの関係からと考えられます。
乳母が尾張の海部氏です。
天武天皇が吉野から東国へ向ったときいただけでて、
近江側では逃げる者が続出したそうです。
恐かったのでしょうねよほど。

今でも私名古屋弁こわいです。(笑)
河内弁はさほど気になりませんが。
私は伊勢弁です。

木曽岬の村の名前の由来が面白いので紹介します。

明治4年廃藩置県の際、
総代会で村名を木曽川の岬にあるから木曽岬、
または島であるから木曽島との両論が出たが決議で木曽島となった。
その後当時の戸長、大橋六兵衛独断で木曽岬と改めた。

代表、柴田義信ら六名は決議を無視したと大いに怒り、
大橋戸長宅に乗り込んだ。
不当追求談判中に大橋戸長は非を悟り裏より常在院へ逃げ込み、
和尚立会いのうえ陳謝しておさまった。
その時柴田義信は短刀を持ち、
大橋戸長をたたき殺すと憤怒した。
和尚その他の人が仲裁に入り無事円満におさまる。
こうして木曽岬村の名が生まれたという。

ということです。
大橋家に乗り込んだ6人のなかには服部もうちの親戚の名もないです。
大橋派だったのでしょうきっと(笑)

たかが村の名で。。。物騒なと思いますが、
これ以外にも歴史の転換期だけに色々な確執があったのだと思います。

メモしてこなっかたので忘れましたが、
長島では抱き茗荷紋が多いです。
たまたま訪れた所がそうだっただけかも知れませんが。
抱き茗荷の石原がありますね。(笑)
また調査してきます。

岡山と木曽岬、弥富の意外な共通点。言葉がありました。

標準語  大根を炊いておいて。
岡山   でぇこ   てー てー て
木曽岬  でゃーこん たー たー て

標準語  炊いておいた
岡山   てー てー た
木曽岬  たー たー た

日本語じゃないですね(ヘブライ語?)



[40]さんからのコメント(2003年06月17日 14時17分24秒 ) パスワード
  

川口さん

励ましのお言葉、本当にありがとうございます。

お陰様で、息子ももうすぐ2才になります。
正直、昨年の今頃は息子がこの日を生きて迎えられるとは思ってなかったです。
でも平熱の皆さんが励まして下さって、本当に救われましたよ。

沈んでいた私の気持ちが浮き上がるのと同時に、息子がミルクを飲み始めましたから。
お医者さんも「どうしてミルクを飲み始めたのか。。。奇跡としか言い様がない」と言っておられました。

親の気持ちって、伝わるのかなぁ。ほんとに不思議です。
とにかく、皆さんに感謝です。m(__)m


さちこさん

> 今でも私名古屋弁こわいです。(笑)

そうですかぁ、私はやっぱり河内の言葉の方がコワい(笑)

私は昔、名古屋で働いていた時はかなり伝染ってました。
「みゃーみゃー」まではいかないけど、イントネーションとか、訛ってた。
今でも興奮してしゃべると「〜なんだわネ」とか「〜なんだってぇ」とか語尾に付けるので、主人が馬鹿にします。

岡山の方言って、案外名古屋弁(じゃなくて伊勢弁?)に近いんですねぇ。
そういえば初めて生の名古屋弁を聞いた時、
「中国地方の訛りは発音にしまりがないって思ってたけど、名古屋弁と比べたらいい勝負だ」
って安心したような記憶が。。。
[41]川口 信さんからのコメント(2003年06月17日 14時25分57秒 ) パスワード
  

隈さん、息子さんの事本当に良かったですね。

 読んでいて涙が出てきました。
(年のせいか、この頃何事についても感動しますがこれは別ものです)
 
 隈さんや平熱の皆様の思いや願いが天に届いたのかもしれません。

 娘さん、息子さん大事にしてあげてください。

 抱き茗荷の服部家も登場し、重ね重ね良いことが続きそうです。
[42]宗清禮吉さんからのコメント(2003年08月07日 16時43分07秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年08月07日 16時57分12秒
[43]宗清禮吉さんからのコメント(2003年08月08日 12時38分14秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2006年07月13日 01時39分56秒
[44]さちこさんからのコメント(2003年08月08日 22時08分30秒 ) パスワード
  

宗清様へ。
ようこそおいでくださいました。

四日市には宗清姓はありませんが、
宗の字のつく家は電話帳に六件ありました。

宗像 八田町(=羽津)
宗像 生桑

宗藤 別名(=羽津)
宗藤 平町

宗村 平町
宗村 あかつき台(髪伸びの井戸の学校があるところ)

生桑を除いて、私の言っていた平田家と分布が同じです。
宗村家というのは、
例の髪伸びの井戸の学校の理事長です。
平田紡績の女工さんの学校が前身で。

土地カンがなければ判らないかも知れませんが。。

http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.1.26.724&el=136.37.3.609&la=1&sc=4&RD.x=9&RD.y=8


三日平氏の乱にかかわる、
富田と羽津が近いことがわかると思います。

左斜めの矢印に行くと、
千代田郷(春日部、平田、長谷川が集中してる)にいきます。

北伊勢四十八家。
平熱でも話題になったことがあります。

今、台風がきていてお盆前でということで、
日曜日にでもまた、

これからも、
よろしくお願いします。




[45]川口 信さんからのコメント(2003年08月08日 23時15分16秒 ) パスワード
  

さちこさん 有難う御座います。

 宗清さん 初めまして。

 過去スレで思い出しました。

 http://hikoshima.com/bbs/heike/100381.html
 他スレ:大弼景家って誰?:忠清の弟+北勢48家


 田原・俵・赤堀・羽津・浜田氏
家紋は三頭左巴、幟標は庵内八十方。
藤原秀郷の孫足利孫太郎忠綱が治承の役に宇治川先陣の功により上野国赤堀荘を賜わる。
その子孫景信のとき伊勢栗原に築城滝氏に仕え赤堀を称す。
子息を羽津と浜田に置き、赤堀三家と称された。
 
 http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100163_60.html
 他スレ:平宗清:大橋:観世:杉原:百地:藤堂:名張:黒田荘

 このスレには以前「宗清隆也様」が投稿しておりますが。

 

[46]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年08月09日 08時45分25秒 ) パスワード
  

赤堀氏ってモロ南朝方ですから伊勢だろう平家だろうとは想像してましたが
藤原秀郷の孫足利孫太郎忠綱
の子孫でしたか。


これは新しくスレッド立てたいです。
川口さま
その内、頂いてしまいますね。
[47]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年08月09日 08時46分40秒 ) パスワード
  

<藤原秀郷の孫足利孫太郎忠綱>

藤原秀郷の子孫足利太郎忠綱
ですよね。
[48]宗清さんからのコメント(2003年08月11日 21時07分09秒 ) パスワード
  

さちこさん、川口 信さん、ギャンブラーさん、
いろいろな情報ありがとうございました。
おかげで、長年の疑問が少しずつ解けつつあります。

ところで、わが家の弓の所有者であった、羽津 半兵衛 さんは、羽津家の何代目になるのでしょうか。もし分かったら教えてください。

さちこさん、四日市市内の宗のつく姓をいろいろ探してくださってありがとう。
やはり、四日市市内には宗清の苗字は無いのですね。

それでは、また。
                       周南市 宗清
[49]さちこさんからのコメント(2003年08月11日 22時29分35秒 ) パスワード
  

宗清さん。

あまりお力になれなくてごめんなさい。

戦国時代の北勢は、
後(のち)に語られた歴史のない所、
断片的な記録は残ってますが、
年代も合わないことが多く???です。

本当に激しい戦の時は記録さえ残せなかったと思います。

四日市には宗清姓はないけれど、
宗のつく字の姓は、
羽津や富田に多いです。
平家に関係するところに、多いですよ。

きっと、偶然ではないです。


羽津には服部も多いですよ!
羽津城は赤堀氏が城主となってますが。。

赤堀氏は浜田城主でもあったのですよね。
浜田小学校は我が母校です。
近所の鵜森神社が浜田城跡とはきいてたけど。。。
ほんとに、もうオカルトです(笑)

羽津=幡豆、羽豆、波豆、羽津。

字は違えどハズと読むのは同じ、何れも水軍の拠点だったそうです。
遣隋使に○○清?清の字が。。
そんなのを記憶してます。

水軍と平家、そんな繋がりを思います。

[50]田中愛造さんからのコメント(2003年08月12日 00時57分59秒 ) パスワード
  

(姓氏家系辞典・第三巻)
宗清ムネキヨ・三河の名族にして、二葉松等に『設楽郡夏目村古屋舗は宗清惣兵衛』と見ゆ。と、あります。三河国を探して下さい。
[51]さちこさんからのコメント(2003年08月13日 10時34分48秒 ) パスワード
  

こんなのがありました。

http://homepage1.nifty.com/muneuchi/essay/onnen.htm

「宗清家は代々の庄屋で、当地で昔から名字帯刀が許された唯一の家柄である。明治になり、誰にも名字が許されるようになったとき、近隣に〈宗清〉を名乗りたがる者がたくさんいたが、それを認めなかったので、有力な家のいくつかが〈宗内〉を名乗るに至った。」

これは徳山市近くの夜市のお話しですが、
四日市の、宗像は違うかもしれませんが、
宗村、宗藤はもしかしたら、
これとよく似た事が?






[52]宗清さんからのコメント(2003年08月19日 23時03分45秒 ) パスワード
  

さちこさん、たいへん詳しい情報をありがとうございました。
四日市市の羽津のあたりの様子が良く分かりました。「宗」はやはり平家に関連する可能性が高いのですね。

それと、No.51のコメントは実はわが家のご先祖のことでした。現在周南市夜市ですが4月までは(合併前)徳山市夜市でありました。引用された記事は、宗内さんという方が書かれたのですが、現在東京都で大学教授をされていますが、ご先祖は明治30年ごろ、当地を一家で去られ、106年ぶりに当地のご先祖のお墓参りに来られる予定です(8月26日)。
宗内さんのお墓も、江戸時代から宗内の苗字を彫り込んであるので、由緒あるお宅と思われます。

田中愛造さん、貴重な情報有難うございました。三河に宗清惣兵衛という人が住んでいたようですが、この人が何者かが分かりません。でも平家と何か関連があるような気がします。
                            周南市夜市 宗清
[53]箱柳永田さんからのコメント(2003年12月21日 00時28分04秒 ) パスワード
  

つげとしさん  今日は
hpの中に、いつごろ、どういういきさつで、どの系統から小垣江の集落が始まったのか、このあたりの情報を求めています。の答えになるか判りませんが
 そのあたりは、私どもの仕事だと思われます。
慶安二年1649松平定政が猿渡川流域の高須新田を開発しています、定政の室は永井尚政の娘ですので、永田一族と高須一族が主体で開発が行われたと思います、次の稲垣氏も熱心で小垣江にー永田ー、小垣江永田の地名が残っています。
 知立に住んでいるのであれば分ると思います。知立本陣永田の家に記録か何かあるかもしれません。今はお医者さんです
[54]つげとしさんからのコメント(2003年12月22日 23時46分29秒 ) パスワード
  

箱柳永田さん こんにちは
書き込みありがとうございます。

永田医院はわかります。尋ねていっていいのかしらん?

知立には、在原業平のかきつばたで有名な八つ橋を逢妻男川が
流れています。猿渡川は、この逢妻男川のすぐ近くを流れて
高須を通って、小垣江で海に注いでいます。

猿渡川流域は小垣江から北側の高須へ、17世紀に開発が進められたのですね。
小垣江から南の方へは、犬ケ坪が開墾されたそうですね。
「柘植」は、小垣江の中組、下組と犬ケ坪の3カ所に分布していますが、
もとは中組、下組だけだったように聞いています。
(もっと内陸の方は、さらに後ほど明治用水が通ってから大きく開けたわけで、
 水が足りない地域も多く、野原が広がっていたのでしょうね)

小垣江のあたりは、今ではもうわかりませんが、少し前までは
あちらこちらに貝塚があって、貝がらがいっぱいでたそうです。
大昔から住みやすいところだったのでしょうか。
まずは、小集団で住みやすい猿渡川の河口あたりに「柘植」の
ご先祖様が居着いたのだろうと想像しています。
1500年代の後半ころではないのかな、と思っています。

何かの都合で移動してきたのだろうとおもうのですが、
なにか記録でも出てくるといいな、と思っています。

話は変わりますが、「箱柳」というのは、何か意味でもあるのでしょうか。
岡崎の、伊賀川流域に「箱柳」というところがあったとおもうのですが、
関係あるのでしょうか?

小垣江の柘植と伊賀の柘植が、何かでつながりがつかめられたら
おもしろいのにな、と思っているのです。

またいろいろ情報があったらお願いします。



[55]箱柳永田さんからのコメント(2003年12月23日 01時30分06秒 ) パスワード
  

つげとしさん   こんにちは 永田正明です
 箱柳は私の住んでるとこです。分家以降ずっと、400年以上住んでいます。
江戸時代は、長田本家にしたがって西尾、豊田、刈谷、知立等、転居しながら開発しまくっています。尾張以東で、川や町名、字に長田、永田があればかなりの確率で、西三河であれば、間違いなく開発をしたと思います。
知立が長男で本業を(開発記録は長田か知立永田あると思います)、我家は次男で墓守(一族の碇)をしています。
知立の永田は、事情を話せば、大丈夫と思います。
[56]柘植猛さんからのコメント(2004年08月28日 16時48分33秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年08月28日 16時56分22秒
[57]宗清さんからのコメント(2005年08月26日 23時17分26秒 ) パスワード

初めまして。通りすがりの宗清です。
たまたま発見したので一言。
父親に平宗清が先祖にあたり、柘植姓と元は同じらしいと聞かされております。
ひょっとしたら柘植さんは遠い親戚かも知れませんね。
スレ汚しスミマセンでした。
[58]さちこさんからのコメント(2005年08月28日 22時44分05秒 ) パスワード

宗清さん。

>スレ汚しスミマセンでした。

等とおっしゃらず、
またコメントお願いします。

親や親族が何気なく伝えてきた事というのは真実が多いかも。

二年前に私が書いたコメントがまた上がってきて恥ずかしいものもありますが、

でも、現在の自分との考えとは一貫して通じるものがあるとも感じます。

また、全国の柘植さんからお返事あるといいですね。
[59]箱柳永田さんからのコメント(2005年12月06日 18時35分57秒 ) パスワード

さちこさん 隈さん つげとしさん
 丸に抱き茗荷の柘植さんの墓を碧南で見つけました。
  驚いてはいけません(私は非常に驚きました) 
   なんと  天台宗 宝珠寺     
 ここは長田の墓ばかりで、周りを見る理由がなかったのです(私どもは長田の寺と認識しています) 碧南には三件しか柘植はないと思っていましたし、寺が密集している大浜地区で、なんたる偶然(縁をたどれば当然の出来事になる)。 しばらく手掛かりになりそうな物を探しましたが
 あいにく周りに一人もいない、住職も不在(寒くて我慢できなくなったので)何の収穫もなく帰りました。 ひょっとしたら、つげとしさんの身内かも? そんなに都合良く、縁はたぐり寄せられん。甘くない、甘くない。
 次回は住職がいて、柘植さんがいそうな日に行きます。  
[61]たつやさんからのコメント(2009年05月28日 01時22分48秒 ) パスワード

私は長島に住む柘植です。
私は6代目なのですが、北に本家がありますがかなり代が続いているそうです。
この本家の人が柘植家について調査されたところによると、信長の長島一向一揆の後、徳川家康が伊賀から柘植家(忍び)をこの地に配置し不穏な動きを見地するためにおいていったと聞いています。刈谷市小垣江にも柘植が多く同じ背景であると聞いています。
[62]さんからのコメント(2009年05月29日 10時08分23秒 ) パスワード

たつやさん、どうも初めまして。

こちらにたま〜にひょっこりお邪魔してる(笑)、隈です。

長島や刈谷に、家康より「見張り」として派遣された柘植家がある、
というお話、とても興味深いです。
今まで、長島在住といえば即一向宗門徒、というイメージでしたから。

もし差し支えなければ、お家の家紋をお教え頂けますか?
上のコメントに、長島や碧南に「丸に抱き茗荷の柘植さんのお墓」があると書かれていて、
それらのお家との関連も気になります。

因みに私の母方の先祖は服部姓で、家紋が丸に抱き茗荷です。
もっとも、戦国時代には備後国品治郡服部村(現広島県福山市)に住んでいたということで、
伊賀と直接繋がりがあるわけではなさそうですが。
[63]さちこさんからのコメント(2009年05月29日 16時33分43秒 ) パスワード

たつやさん、初めまして。
隈さんこんにちわ。

私は現在は四日市に住んでますが木曽岬の服部です。
木曽岬は江戸時代からの干拓地で菩提寺も長島にあったので、
元は長島だったと思います。

長島の服部家は伊賀がルーツだと思われます。
一向一揆の時伊賀、甲賀から援軍が来たそうですので、
長島の柘植家は信長退治のため伊賀から来たのかと思ってました。
願証寺に柘植家の墓があってし。
この墓が丸に抱き茗荷です。

長島の柘植家はルーツは同じなのでしょうか?
そう何軒かはなかったと思いますが。
[64]さんからのコメント(2009年06月02日 11時59分15秒 ) パスワード

さちこさん こんばんは、どうもご無沙汰してます。

家康が見張りとして服部家や柘植家を配置する、というのはあり得るような気がします。
高槻藩に服部氏と柘植氏がいたのも、畿内を「見張る」ためだったかも知れません。

話が逸れますが、5月29日の読売新聞文化欄の「古今をちこち」というコラムに、
江戸時代岡山藩に仕えた忍者たちの「履歴書」についての記載があり、なかなか興味深く読みました。

やはりみな元々は伊賀出身。
銃に強いので、関ヶ原合戦や大阪の陣で狙撃兵として活躍したとか、
江戸初期はキリシタンや博打の捜査に使われたものの、
世の中が平和になるにつれ、次第に藩主の身辺警護や火の用心、宗門帳=戸籍の非常持ち出し係となっていったとか。

明治2年に忍者廃止令を申し渡され、米5表を加増されて、普通の武士になったそうです。
[65]たつやさんからのコメント(2009年12月16日 00時35分59秒 ) パスワード

隅さん ご連絡が遅くなりまして申し訳ありません。

長島の柘植です。
わたしの家紋は 丸に抱き茗荷 です。
柘植といえば、丸に抱き茗荷 と思っていました。
長島に昔(江戸時代)から住んでいる 柘植 の家紋は 丸に抱き茗荷 です。

私の門徒寺は 信行寺(浄土真宗大谷派です)このお寺は、江戸時代に深行寺(長島町殿名)からの分家寺です。長島町は 大谷派のお寺が殆どで、浄土真宗本願寺派のお寺は2軒ほどです。
[66]さんからのコメント(2009年12月22日 10時32分42秒 ) パスワード

たつやさん、貴重などうも情報ありがとうございます。

やはり、「丸に抱き茗荷」なのですね。

確か以前、さちこさんから聞いたお話と思うのですが、
長島近辺に「丸に抱き茗荷」の服部家がおられるという話で、
その服部家は『うちとは違う』と彼女のお父様から聞いた、とか。

という事はもしかしたらその服部家も、たつやさんのお家(柘植家)と同様、
徳川家から派遣された伊賀の忍びの子孫だったのかも知れないですね。
[67]アカコッコさんからのコメント(2009年12月22日 16時23分20秒 ) パスワード

 皆様 ご無沙汰です。元気に過ごしております。

三田用水跡を探る会の方に所属しております。「http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51443487.html#comments

 三田用水は昭和30年代までその痕跡があり、現実に見た事がある人の年齢の限界時期で、また再開発で町が変貌して、今聞いて、見ておかないと思い、
そちらにめり込んでおります。

  
その関係で江戸時代の古道などを歩き回っております。

 で先週は品川御殿山に吉川英治の旧宅があり、そこで「新平家物語」を執筆し、完成させたことで、見学に行き絵に描きたくなるような趣のある西洋館でした。

 投稿にはロムしておりますが、他レスの味岡姓・長さんなど調べたことがありますが出歩いているので、タイミングを失っております。

 長さんについては知り合いに「長信連」を名乗る人と年賀状のやり取りもあり、お会いしたこともあります。


[68]柘植 信秀さんからのコメント(2011年04月11日 08時11分19秒 ) パスワード

興味深く読ませていただいております
最近の投稿はないのですか
[69]mintgreenさんからのコメント(2011年05月10日 18時16分00秒 ) パスワード

はじめまして!

自分の旧姓を検索して遊んでいて

ここにたどり着きました。

私の父は長島出身の柘植で

家紋は抱き茗荷(丸なし)です。

今は亡き父も自分のルーツを調べていました。

わたしの先祖はどの系統なのかもっと詳しく知りたいです!
[70]さちこさんからのコメント(2011年05月13日 22時30分51秒 ) パスワード

mintgreenさん。

はじめまして。

私の姓は服部です。

父は木曽岬の生まれで、
木曽岬は干拓地なので元は長島だったと思います。

長島の一向一揆の願証寺で抱き茗荷の家紋の柘植家の墓がありました。

丸があったかどうかは少し前のことなので記憶がないですが、
長島にはよく行くのでまた確認します。


明子さん、隈さん。

お元気ですか?

平熱は時々見てますがご無沙汰してました。
色々あって少し体調を崩したりしてました。
なんとなくいきなりですが、
書き込んでしまいました。

服部家関係はなるべく読むようにしてますが、
永らく書き込む元気なかったです。。


私信みたいで意味のわからない方ごめんなさい。

でも服部家はくるな〜。
秦氏もくるな〜。


ネットの秦氏から逃げようとしても、
現実の秦氏から逃れられないと言うか。。。
服部家からも(笑)

そんな状態です。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月14日 00時20分01秒 ) パスワード

さちこさん

お久です。
ぺこり


体調を崩していらっしゃいましたか。
大変でしたね。
では、お仕事の方も大変なことになっていたのでしょうね。

ストレス解消のためにどんどん書き込んでください。


我が家は昨年11月に夫が「脳梗塞疑惑」と言われ
もう半年なのに、まだ結論が出ない、状態で


今年の3月4月は日曜まで忙しく、金曜は太陽が出ている間、12時間
走り回ってました。車の運転が出来ないとこういうことか、という原始的な暮らしをしていました。


その上に、1番にお願い事をするためには向こうの9時に電話をかけたかったので
時差の都合で
夜中の3時にカナダやニューヨークに電話をかけなきゃいけない事態にもなってて


5月になって、やっと日曜だけは予定がない「みたい」な段階に   ?   なって来ました。



8月いっぱい、こんな生活が決まっています。

なんせ夫の一族が「今できる事は5年後だっていいじゃないか」というグズなので
その尻拭いをワタシがすることになり
昨日も締め切りギリギリの書類作りを弁護士事務所に行って次の段階の事務所に持って行って
多分「セーフかな?」という話をして来ました。

    昨日の書類の相手はカナダなので、「アメリカとは違うんだあ〜」と叫んで来たところです。


ホントに御先祖さまのことを感謝していないと、良くないようです。
ホットケ様にしていると、向こうもソッポを向いているように思います。


さちこさんもうまく発散なさってください。
[72]さちこさんからのコメント(2011年05月14日 21時57分06秒 ) パスワード

空の青海のあをさん

久し振りなのに覚えていて下さり、
ありがとうございました。
早速のコメント嬉しかったです。

懐かしく同窓会で友達に会ったみたいです。


初めて平熱にお邪魔して10年位になるのではないかと思います。

歴史系でこんなに永く続いてるサイトも珍しいと思います。
こらは平家の怨霊か(笑)
空の青海のあをさんの、お人柄かも知れません。


最近記憶力も鈍くなってますが、
またお言葉に甘えて遊びにきますね♪
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月15日 01時18分34秒 ) パスワード

さちこさん


>初めて平熱にお邪魔して10年位になるのではないかと思います。

もう、そんなになりますか。


>平家の怨霊か(笑)

やっぱり平家のオカルト・パワーかも、ですね。


>最近記憶力も鈍くなってます

ワタクシなんぞは学習前の子供のような注意力の無さです。


ホンヤさんとこが源氏だということはさちこさんから知りましたが
最近どこかのサイトで
いずよし親王だったか、よしたかのきみの時代だったかに源氏になった
というのを見ました。

それで、さちこさん、どうなさっていらっしゃるのかしら?と思っていました。


お仕事の責任が両肩にかかって大変な日々なのかな?とか。



また書き込んでください。
ストレス解消には1番ですから。




[74]姫沙羅さんからのコメント(2011年05月16日 14時46分51秒 ) パスワード

さちこさん、どうもお久しぶりです!
隈、改め「姫沙羅」です。

最近、HMを変えました。「隈」だと、どうも男だと思われやすいので(笑)。

時々、どうされているか気になってはいたのですが、
こちらから差し出がましくご連絡していいものか、迷っていました。

体調が優れないとのこと、いろいろ大変なのかな・・・と思いますが、
たまにはここで気晴らししましょう(笑)。

確かにここはいつ来ても、パワーがありますよね。


先日あをさんには他のスレッドでお話ししましたが、うちの先祖・服部家の
追跡調査も、
相変わらず憶測が多いものの、多少は進みました。

うちが直接伊賀とは関係する証拠は出ないし、
家紋の抱き茗荷も、戦国時代に仕えた家から頂いた可能性大です。
ただ、忍びの知り合いは多そうですけど。
もしかすると、遠くの親戚との連絡も、伊賀者に頼んでた・・・かも。

それでも、平家の末裔や南朝遺臣の人々に縁が深いのは本当だと思います。
いまだにバシバシ繋がりますから(笑)。

新しい秦氏情報は・・・トンデモ過ぎるので、ここでは割愛(笑)。
でも、彼らの信仰が中東〜中央アジアの影響を受けてることは間違いないと思ってますけど。
[75]さちこさんからのコメント(2011年05月16日 23時03分05秒 ) パスワード

姫沙羅さん。

お久し振りす。

コメントありがとうございます。
嬉しかったです。

御心配おかけしましたが今は元気です。


私もトンデモが必ずしもトンデモではなくて、
常識の歴史感の方が何というか、、
事実を埋もれさせているような気もします。


空の青海のあをさんさんから、
ストレス解消にとお墨付きを頂きましたので、
またボチボチとやりますか?(笑)



[76]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月17日 01時35分12秒 ) パスワード

姫沙羅さん

お久です。


>新しい秦氏情報は・・・トンデモ過ぎるので、ここでは割愛(笑)。

そういうのが面白いのですよ。


さちこさんも
「常識の歴史感の方が何というか、、事実を埋もれさせているような気もします」
とおっしゃってるように
権力者の前に整理された歴史なんてホントつまらないです。


姫沙羅さんもさちこさんもストレス解消なさってください。
そして元気になりましょう。
[77]姫沙羅さんからのコメント(2011年05月17日 13時05分00秒 ) パスワード

あをさん

>姫沙羅さんもさちこさんもストレス解消なさってください。
>そして元気になりましょう。

ありがとうございます。

>そういうのが面白いのですよ。

そう言って頂けると嬉しいです。


さちこさん、それではボチボチいきますか?

まあ、あんまり過激な事を書くと、最近は何処からともなく
攻撃をしかけてくる人もいるそうなので、控えめに(笑)。


ここのところ、日本のみならず世界中で天災が頻発して、
2012年には世界が滅びる〜なんて騒がれたりしてますが、
世界は滅びなくても、これからの数年で世界が激変するのは確実だと思います。

以前、秦熱で「時代が動く時、秦氏も動き始める。」と言われた方がおられました。・・・今、その意味が解ったような気がしてます。

秦氏って、トンデモ界ではどうかすると、
フリーメイソンに関わって陰謀巡らしてるとか言われたりするけど、
本当は平和主義者なのでは、と思います。

かつては私財を投げ打って、京都に理想郷を築いた人々ですから。
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月17日 15時23分46秒 ) パスワード

姫沙羅さん

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101237.html
こちらに限定スレッドを立てましたので、
続きをどうぞ。
[80]アカココッコさんからのコメント(2011年05月18日 18時45分52秒 ) パスワード

あおさん、さちこさん、姫沙羅さん三役の揃い踏みですね。
同窓会に出遅れ、アッチは参加出来ない、残念!

>おお、「たまねこさん」ですか。なつかしい!
去年9月頃の頂いたメールでは
『常時30匹近くいた猫も、現在、高齢猫10匹となり、手が空いた分、
海外旅行や趣味、スポーツ、ボランティア活動もできるようになりました。最近の楽しみは能鑑賞です。』
とあり「元気でお過ごしのようです。
皆様は昔を懐かしがる年齢でもないでしょうが、私は医療費が1割負担になり、やっと後期高齢者の仲間入りです(笑)。

[81]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月19日 02時30分30秒 ) パスワード

アカココッコさん

お久です。


向こうでさちこさんが「アカココッコさんは紳士だった」とおっしゃってました。
ふふふ

「たまねこさん」の近況をありがとうございます。
お元気そうで何よりでございます。


医療費負担が1割なんて、その部分は助かりますね。
最近若い知り合いが入院しまして、支払いが数十万円だったと聞いたような。
ベッドは大部屋にしたから無料だった、と言ってました。

   そうそう高齢者の車椅子患者の介護用のタクシーは片道で計3850円だったと聞きました。
   500円がお手伝い費用だったような。


日本の医療制度が長続きしますように。
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月19日 04時06分12秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101238_2.html

早速こちらに新たにスレッドを立てさせて頂きました。
ニッコリ
[83]山根の子さんからのコメント(2015年08月27日 06時38分08秒 ) パスワード

こんにちは。初めましてコメントさせていただきます。

私は茨城県出身の柘植です。地元に三十軒位「柘植」家があります。本家は元禄時代位から、代々庄屋だったそうです。本家の墓碑銘は、元禄から始まっています。家紋は全て五三の桐です。地区の墓地も、本家を中心に、一区画全て「柘植」家です。(三十軒の内の十軒程度は、柘植に使えていた家臣が、柘植本家から柘植姓を名乗ることを許された一族とのことで、同じ柘植姓ですが、本家との血縁関係は無く、墓地の区画も別です。)

茨城県でも、柘植姓は他にはほとんど見当たりません。県内の大部分の柘植氏はこの一族だと思われます。(私の知る限りでもこの地区から東京へ出た者もおりますので、もし今も柘植姓を名乗っていたら、東京の柘植さんの中にも、ほんの数件、茨城県出身者がいる可能性があります。)

現在石岡市となっていますが、以前は新治郡恋瀬村と言っていました。どなたか、ここの柘植氏が何処から来たか、お心当たりありませんか?綱吉の時代に、茨城に200石の領地を頂いた柘植氏があるようですが、そこからでしょうか?しかし、家紋が異なるようです。

ちなみに、茨城県の名前の「茨城(いばらき)」は、旧石岡市(新石岡市でも同様)の茨城(ばらき)地区の名前が元となっています。

お心当たりの方、情報をお願い致します。
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