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 投稿番号:100381 投稿日:2002年10月08日 06時24分35秒  パスワード
 お名前:服部 明子
大弼景家って誰?:忠清の弟+北勢48家

コメントの種類 :人物  パスワード

教えて頂きました:


平凡社刊「太陽」1971年2月号p69
五味康祐「葵の風」
知盛の入水の場面で共に入水した郎党に「大弼景家」
なる武者が出てきます。
平家の本文にはなかった名だと思います。

この人は誰?

[1]川口 信さんからのコメント(2002年10月08日 09時04分35秒 ) パスワード
  

 大弼とは弾正台の次官の位で従四位下で守より上位である。案ずるに平家物語には飛騨守景家という名がよく登場しますが、この人でしょうか?
 
http://hishiki77.infoseek.livedoor.com/2-2shushi/seimei/ito-motonobu.htm

 ◎藤原藤成━━━村雄━━━○秀郷━━(七代略)━━━┓
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┗○基景━━━伊藤基信━━━景綱━━┳忠清━━━平景清
                    ┣景家
                     ┗大日坊 
上総介忠清(伊藤五)の息男。平氏の侍大将。叔父大日坊を殺したため悪七兵衛と呼ばれた。寿永2年(治承7、1183)平維盛・知盛に従い源義仲・行家と戦い、のち一門と共に西走して各地に転戦、平家滅亡の後建久6年(1195)源頼朝に降ったが、断食して亡くなった。平家によく従ったため平と称される。
 
      
[2]川口 信さんからのコメント(2002年10月08日 09時08分18秒 ) パスワード
  

線がズレてしまいましたね。景家と大日坊の部分は忠清の下になります。すみません。
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年10月08日 09時46分09秒 ) パスワード
  

>大弼とは弾正台の次官の位で従四位下で守より上位である。

でしたら忠清の弟で合いますね。
ありがとうございました。

でも、この人は倶利伽羅峠で息子達が死んでしまったのを嘆き、
その余り死んでしまった、と言われていますよね。

景家の息子、が入水したのは分かっていますから
景家の<息子>というのが欠けているのでしょうね。

ありがとうございました。
[4]服部 明子さんからのコメント(2002年10月08日 10時00分08秒 ) パスワード
  

伊藤氏の説明がありましたので、こちらに転載:


伊藤 基景
平将門の乱に平貞盛と協力して功のあった藤原秀郷(俵藤太)の七代の子孫。
伊勢の守となって当国に居住した。


伊藤 基信
基景の息男。員弁郡志知村(桑名市)に居住して平正盛(12世紀初頭)の郎従となった。
平景清居住という南浦館は曽祖父伊藤基信の館の訛伝か。


伊藤 景綱
基信の息男。伊勢守、白子古市の住人。伊藤武者という。
上総介忠清(伊藤五)、飛騨守景家(伊藤六)の父で平悪七兵衛の祖父。
伊勢三郎義盛の川島領を横領した。


平 景清(〜1196)、悪七兵衛
上総介忠清(伊藤五)の息男。平氏の侍大将。
叔父大日坊を殺したため悪七兵衛と呼ばれた。 寿永2年(治承7、1183)平維盛・知盛に従い源義仲・行家と戦い、
のち一門と共に西走して各地に転戦、
平家滅亡の後建久6年(1195)源頼朝に降ったが、断食して亡くなった。
平家によく従ったため平と称される。
志知の南浦館(桑名市)や丹生川久下の景清屋敷など各地にその伝承地は多い。
南浦館は曽祖父伊藤基信の居館であった。
[5]服部 明子さんからのコメント(2002年10月08日 10時19分20秒 ) パスワード
  

伊藤 實房、兵部少輔(〜1523)
先祖は伊藤武者景綱、悪七兵衛景清の後裔という。
永正10年(1513)の春、関東より来たり東城を開く。
もと伊東と称すが、春日神社の氏人等他姓を容れるをよしとしなかったため、
東を藤と改め、藤原氏となる。景清の冑・直垂の片袖を伝来していた。
大永3年(1523)9月25日卒。
「名所図会」に大永3年(1523)9月23日卒。常光院殿という。


伊藤 實倫、豊左衛門(〜1625)
實房の長男。東城主。3000石にて秀吉に仕える。文禄高麗陣に武功あり。
後信雄に属す。
慶長五年(1600)氏家行広開城のとき使者となる。
「名所図会」に関が原一乱のとき、桑名城は石田方なるゆえ、
長島城より福島山岡等小野山に在陣して、
桑名城主速やかに開城あるべき胸使者を持って申し送れり、
そのとき實倫と伊藤兵左衛門長好がその命に応じて終に桑名城主
氏家氏は香取村に立ち退き後若州に移ったという。
桑名城主本田忠勝の御覧に伝来の景清の冑・直垂の片袖を供す。
寛永2年(1625)卒。


伊藤 某、彦作(〜1582)
實倫の弟。信長に仕え本能寺にて討死。墳墓本能寺にあり。


伊藤 實直、豊左衛門
實倫の長男。
信長に仕え、後本田美濃守に仕える。
大阪陣の後は實倫の後を継ぎ、旧家をもって諸役を免ぜられる。
「名所図会」にこの人の代のとき火災のため景清の冑をうしなうという。


伊藤 某、
實倫の三男。
法盛寺住持となる。


伊藤 實元、武左衛門
實倫の四男。


伊藤 實次、
實元の子。
元和3年(1617)武士以外の帯刀禁止となったため、家の由緒軍役をつとむべき志を奏上。
このため貞享元年(1684)帯刀御免、以来地侍として代々小網町に相続。
子孫は明治維新のとき士族に列す。



伊藤 重晴、四郎
松ヶ島城主。
伊藤は鈴鹿郡工藤の一族という。
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年10月08日 10時26分54秒 ) パスワード
  

この伊藤氏を読んでた時に「赤堀氏」も勢州48家として出ていました。
赤堀氏も南朝方として後醍醐天皇に仕えたのですが
やっと繋がりました。

赤堀氏も「平家の一門」だったのですよ!


田原・俵・赤堀・羽津・浜田氏
家紋は三頭左巴、幟標は庵内八十方。
藤原秀郷の孫足利孫太郎忠綱が治承の役に宇治川先陣の功により上野国赤堀荘を賜わる。
その子孫景信のとき伊勢栗原に築城滝氏に仕え赤堀を称す。
子息を羽津と浜田に置き、赤堀三家と称された。

四日市市史(旧)赤堀三家系図 他        足利又太郎  田原肥前守    赤堀
城主・田
原孫太郎
○藤原武蔵守秀郷──千常─(十代)─忠綱───景綱─(八代)─景信──┐
   ┌──────────────────────────────┘
   │羽津右衛門大夫  大膳亮    上総介     肥前守    因幡守    

京亮
   ├──盛宗─┬─宗久───宗善───宗慶───宗昌───近宗(国虎)
   │       └─中野城主俵藤太郎
   │赤堀民部介     冶部少輔   肥前守
   ├──景宗───具氏───景冶
   │浜田美作守    紀伊守    近江守 
   └──忠秀───藤綱───元綱───重綱 


赤堀三家略戦史

応永年代(1394〜1428)田原藤太郎藤原秀郷の子孫田原孫太郎景信が上野国赤堀郷より伊勢国栗原に来住。赤堀と称し、長男右衛門大夫盛宗を羽津に、三男美作守忠秀を浜田に配置した。

永禄二年(1559)、塩浜合戦。工藤の長野勢が塩浜に上陸、浜田・赤堀と合戦。両家は長野勢を撃墜。

永禄三年(1560)、茂福合戦。関氏の北征に先んじて羽津勢は挙兵し、神戸与力の茂福城にせまる。茂福城には富田の南部氏、萱生の春日部氏、柿の沼木氏が篭城。羽津勢には関氏の白子・鹿伏兎勢が加わった。さらに神戸勢は船で富田・富田浜に上陸、茂福勢を助けて、垂坂山麓の幣我野に戦い、ついに羽津・関勢が敗走。

某年、赤堀・浜田合戦、茂福氏の赤堀合力に北畠氏が感状を残す(三国地誌)。

元亀二年(1571)、茂福落城。茂福城主盈豊は織田信長の臣滝川一益のため長島城に誘殺され、さらに茂福城は攻め立てられ落城。山口氏が一益の目代として置かれた。

元亀三年(1572)、羽津開城。羽津城主近宗は茂福城目代山口氏の饗応に毒殺され、羽津城はすかさず山口氏に攻められ家臣はやむなく開城。滝川新左衛門を城主とした。

天正元年(1573)、阿倉川合戦、浜田家の軍は大挙して阿倉川城近くに城主舘氏と戦い威勢を示した。

天正三年(1575)、浜田合戦、滝川一益は神戸友盛の滅亡後北勢に進攻、浜田城を囲む。城主元綱は戦死、息重綱は夜陰に乗じて美濃へ敗走。
(旧四日市市史)

 

足利 忠綱、又太郎
田原

上野国住人、桑名志に忠広に作る

赤堀 某、下野守

上野国住人。伊勢国勾御園の元地頭職。(四日市市史所引観応三年(1532)四月五日「足利義詮袖判御教書」)

赤堀 勝謂、三郎左衛門入道

上野国住人。文和二年(1353)七月十三日、上野国赤堀郷・貢馬村、伊勢国野辺御厨地頭職を安堵。(四日市市史所引早稲田大学赤堀文書)

赤堀 直綱、民部少輔

応永三年(1396)十一月、久我家石榑領の代官職を請け負う。(四日市市史所引久家家文書)。

田原 景信、孫太郎

上野国住人、応永年間(1394〜1428)、伊勢国栗原に築城、赤堀と称す。(旧四日市市史)

赤堀 某、三郎左衛門尉

応永十八年(1411)九月十日、伊勢守護土岐康政の被官として智積御厨の沙汰し付けを命ぜられる。(四日市市史所引醍醐寺文書)

赤堀 某、孫次郎

応永廿年四月十三日、室町幕府より前年十一月廿七日の安堵に引き続き、伊勢国玉垣・野辺代官職・守忠名・栗原・小山新厨・宇賀他を安堵。(四日市市氏所引国会図書館足利時代文書)

赤堀 某、兵庫入道

応永廿五年(1418)十二月廿五日、伊勢守護土岐持頼の被官として智積御厨の沙汰し付けを命ぜられる。(四日市市史所引口宣綸旨院宣御教書案)

羽津 盛宗、右衛門大夫

田原孫太郎景信の長男、羽津に築城(旧四日市市史)

羽津 某、左京大夫、右衛門大夫

藤原秀郷の後、また田原又太郎忠広(ママ)の後裔という。文明二年(1470)、下野(ママ)赤堀荘より来住、多芸に使え羽津を称す。二弟を浜田・栗原に文居。命日某年六月十四日(諸士禄)

羽津 盛宗、景宗、右衛門大夫

田原孫太郎景信の長男、羽津に築城(旧四日市市史)

俵 秀宗、肥前守

俵武蔵守藤原秀郷の後。文明二年(1470)、下野(ママ)赤堀庄より来住

羽津 宗久、大膳亮

盛宗嫡子、羽津城主2代目(桑名志、旧四日市市史)、某年10月21日没(諸士録)

羽津 宗善、上総介

盛久嫡子、羽津城主3代目(桑名志、旧四日市市史)、某年12月2日没、禅宗に帰す(諸士録)

羽津 宗慶、肥前守

盛善嫡子、羽津城主4代目(桑名志、旧四日市市史)、某年10月15日没(諸士録)

羽津 宗昌、因幡守

盛慶嫡子、羽津城主5代目(桑名志、旧四日市市史)、某年4月1日没(諸士録)

羽津 近宗、国虎、右京亮、右京大夫

宗昌嫡子、羽津城6代目。元亀三年(1572)六月晦日、茂福城主山口次郎四郎に饗応を受け毒殺され羽津氏滅ぶ。(桑名志、旧四日市市史)、

赤堀 某、孫次郎

文明元年(1469)十一月十三日、野美名横領のため、幕府が伊勢国守護土岐政康に赤堀兵庫助の違乱停止を命ぜられる。 (四日市市史所引氏経記)

赤堀浜田 親綱、 

文明元年(1469)?十二月七日、野美名上文を高羽江方に納入。(四日市市史所引氏経記)

赤堀浜田 某、

文明十三年(1481)十月二日、内宮一禰宜荒木田氏経より抑留中の船の返付を求められる。(四日市市史所引氏経記)

赤堀羽津 元秀、肥前守

文明十四年(1482)二月三十日、神宮が羽津氏らに祓を贈り、新警護停止を求める。(四日市市史所引氏経記)

浜田 某

明応六年(1947)、内宮一禰宜荒木田守朝から内宮別宮滝原宮御供田の供米納入を求められる。(四日市市史所引守朝引付)

赤堀 某、牧月斎

天文十三(年(1544)十一月、連歌師宗牧を栗原の城に迎えて連歌会を興行。(東国紀行)

浜田 光義、出羽守

天文十三年(1544)十一月晦日、連歌師宗牧を迎えて歓待。(東国紀行)

浜田 某、孫太郎

浜田光義の息、天文十二年(1543)ころ元服。天文十三年十一月晦日、連歌師宗牧を迎えて歓待。(東国紀行)

浜田 元綱、近江守(〜1575)

浜田城主。天正三年(1575)、浜田合戦、滝川一益は神戸友盛の滅亡後北勢に進攻、浜田城を囲む。城主元綱は戦死、息重綱は夜陰に乗じて美濃へ敗走。
(旧四日市市史)
天正三年(1575)6月、浜田合戦にて自殺。墓碑は鈴鹿郡山本村字本郷垣内に在り。(伊勢名勝志)

浜田 重綱、

浜田城主。元綱の子。天正三年(1575)、浜田合戦、滝川一益は神戸友盛の滅亡後北勢に進攻、浜田城を囲む。城主元綱は戦死、息重綱は夜陰に乗じて美濃へ敗走。
その後織田信雄に属したが、天正12年、秀吉との戦いで、美濃加賀野井城で戦死。
浜田家四代の霊は北町建福寺に安置。
(旧四日市市史)
[7]服部 明子さんからのコメント(2002年10月08日 10時37分37秒 ) パスワード
  

日本の歴史とは私が思ってた以上に血で繋がっていたのを思い知りました。


私が1番オカルトかかっていた1997年、
ひょんな事からある本の中に南朝忠臣の5名家・7名字・11名Xというのを知り、
後で読もうとしたところその頁がみつからないのです。

この時、藤原・赤堀・長野・平野・服部等の名を記憶しましたが
赤堀は三重県に地名があるので「地縁」だと思っていましたが
川口さまの協力を今日頂いて赤堀氏の先祖が足利又太郎忠綱であった事を知りました。

足利又太郎忠綱は後世の源氏・足利尊氏とは関係無く
足利又太郎忠綱の先祖は藤原秀郷であります。

まさに平 将門を殺した平 貞盛の盟友・藤原秀郷であります。


平家で同じ一門、
南朝方で同じく行動を共にしていたのです。

昔の武士達は利害関係だけでなく信義でも結ばれていたのだと感慨深いものがありますので
上記のように全文掲載させて頂きました。
[8]服部 明子さんからのコメント(2002年10月08日 11時55分03秒 ) パスワード
  

川口さま


なんと!なんと!

数年来のネット友のご先祖さまが城持ちだったと聞いていまして
当時はいろいろ調べましたが分かりませんでした。

ところが!ところが!

上記「勢州48家」にちゃんとお名前が出てました。


この方のお母さまの方が源氏方伊勢長島の合戦で長島に坊官としていらっしゃってたので
絶対!
お父さまが平家でも繋がると思ってたのです。

(もの凄く乱暴な発想ですが)


物理的にではありますが景家公で繋がっていきました
不思議だけどオカルト・パワーまだ残ってたみたい。
[9]服部 明子さんからのコメント(2002年10月08日 11時58分38秒 ) パスワード
  

上記のメール友達が



平凡社刊「太陽」1971年2月号p69
五味康祐「葵の風」
知盛の入水の場面で共に入水した郎党に「大弼景家」
なる武者が出てきます。
平家の本文にはなかった名だと思います。


この情報を教えて下さったのですよ。
そして、この方はご自分のご先祖さまの城がどこにあったのか分かったのです。


ホントに不思議な御縁でございましょう?!
平家はやっぱりオカルトかかってるのですねえ・・・


「滅びし平家の怨み、忘れたわけではあるまいな」(景清)
[10]服部 明子さんからのコメント(2002年10月08日 12時09分28秒 ) パスワード
  

「大弼景家」

う〜ん・・・

別スレで伊藤さんのレポートを手伝ってますが
あそこまで協力するのは平家の一門の伊藤さんだからでしょうね。

だから

「大弼景家」公が存在を主張したのかしら?
ひょっとして別スレの伊藤さんは景家公のご子孫かも。

と、言う事は、800年前の私の恋人の血を分けた一族の子孫なのかしら?
[11]そりちゃんさんからのコメント(2002年10月08日 17時21分31秒 ) パスワード
  

>と、言う事は、800年前の私の恋人の血を分けた一族の子孫なのかしら?

きゃ〜、服部さん、ステキですね!
ご無沙汰しております、そりちゃんです。

いま、「伊藤氏」についていろいろ調べていたので、
このスレッド、勉強になりました。

うちの「反田姓」は元は「大槻姓」で
その前は「いとう」であり、
元々は藤原氏であったと、今は確信しています。
ですが、伊藤か伊東かはまだよくわかりません。

どちらかというと、「伊藤」かな、と思うのですが。

う〜ん、でも「平熱」のオカルトパワーは健在ですね!
[12]服部 明子さんからのコメント(2002年10月09日 01時11分27秒 ) パスワード
  

「大弼景家」を教えて下さった方が川口さまに感謝なさっていらっしゃいます。



そりちゃんさん
伊藤も伊東も同じく元は藤原秀郷の子孫ですから
伊豆に残ったイトウか伊勢に下ったイトウの違いですね。
両者とも平家とジッコンだったので
伊豆か伊勢かハッキリ分かるといいですね。
[13]服部 明子さんからのコメント(2002年10月09日 01時14分41秒 ) パスワード
  

上記の方からの続きのお話:


さて、大弼景家についてですが、
米沢本を底本とする筑摩書房の平家物語では、弾正大弼仲国となっていました。
五味康祐が何を典拠にしたのか分かりませんが、
景家が倶利伽羅峠(の合戦のこと)で死亡していたとすれば、
壇ノ浦入水の部分は創作ということになりますね。
尊卑分脉で仲国を引いてみたのですが景家につながる者はいませんでした。
姓が分かればすぐにでも特定できるのでしょうが。



ワタクシのレス:
弾正大弼仲国は小督捜しに横笛を吹いた人ですね。
姓は源氏。
[14]西条さんからのコメント(2009年08月17日 00時03分20秒 ) パスワード

拝見しておりまして、少し興味があったので。
姓は赤堀と申しまして、先祖は伊予西条藩に仕えていました。
昔、松平の殿様が西条藩に入った際に一緒に付いて行ったと聞いています。
この松平の殿様は紀州からと思われますが、とすると私の祖先は和歌山が起源
となるのでしょうか?
家紋は記憶が定かではありませんが確か三つ巴だったと思います。

このスレッドのお話と関連はないと思いますが、すみません。。
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年08月17日 00時59分00秒 ) パスワード

西条さん

全く分かりませんが

赤堀姓・和歌山でしたら  平家〜南朝方  こういう線を感じます。
赤堀さんは三重県で南朝方で、という記録がどこかにあったのですが行方不明になっています。


>私の祖先は和歌山が起源となるのでしょうか?

和歌山の前のことが分かると良いですね。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年08月17日 01時09分55秒 ) パスワード

愛媛県の歴史でしたら西条市の教育委員会の歴史編纂課から資料を頂いたら良いですよ。

愛媛県は各市ものすごく研究整理なさっていて助かりますよ。


それから松山市の湊町の「坊ちゃん書房」の佐伯さんから
どういう本を読んだら良いかアドバイスを頂いたり
本を取り寄せて貰ったら良いですよ。

本の奥付から、いろいろな本が出ていることが分かりますから
思ったより早くいろいろ分かるかも知れません。
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年08月17日 01時21分09秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/akabori.html

やっぱり赤堀氏は伊勢国ですね。
家紋も合ってますね。


やっぱり平家系でしょうね。
本姓藤原氏・俗姓足利家(これは源氏系の尊氏とは違うということですからお間違いのないようにね)


平家→南朝方→ここで徳川家との御縁ができたのかもですね→和歌山→伊予西条かな?


この線でいろいろ資料を集めてください。
上記URLでもいろいろな参考資料が出てますから。
[18]西条さんからのコメント(2009年08月17日 20時36分35秒 ) パスワード

ギャンブラーさん

色々ありがとうございます。
大変参考になります。
ある時から何となく自らのルーツを知る事に興味が湧き、
今回でもっと近づけそうな気がします。
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